127 :
ひと言だけ言わして!:03/11/08 03:25
早口言葉でつか?
128 :
考える名無しさん:03/11/08 03:27
いとも冴えないということか
129 :
わかりやすく句読点をつける/127:03/11/08 03:49
さえさえも冴えな、ささえも冴えな、いとも冴えな、
いといとも冴えな、いと。
130 :
考える名無しさん:03/11/09 23:25
窃ニ按ズルニ古今ノ識者モ智徳ノ弁ヲ知ラザルニ非ザレドモ唯コノ誤解ノ弊害ヲ恐
レテ云ハザルコトナラン歟然リト雖ドモ知テ之ヲ云ハザレバ際限アル可ラズ何事ニ
テモ道理ニサヘ叶フコトナレバ十人ハ十人悉皆誤解スルモノニ非ズ或ハ遇マ十ニ二
三ノ誤解アルモ尚云ハザルニ優レリ二三ノ誤解ヲ憚リテ七八ノ智見ヲ塞グノ理ナシ
畢竟世人ノ誤解ヲ恐レテ云フ可キ議論ヲモ隠サントシ或ハ其議論ヲ装フテ曖昧ノ際
ニ人ヲ導ントシ所謂坐ヲ見テ法ヲ説クノ策ヲ運ラスハ同類ノ生々ヲ蔑視スルノ挙動
ト云フ可シ世人愚ナリト雖ドモ黒白ハ弁ズルモノナリ同類ノ人間ニ甚シキ智愚ハア
ル可ラズ然ルニ我心ヲ以テ人ノ愚ヲ察シ其誤解ヲ臆度シテ事ノ真面目ヲ告ゲザルハ
敬愛ノ道ヲ失スルニ非ズヤ君子ノ為ス可ラザルコトナリ苟モ我ニ是トスル所ノモノ
アラバ丸出シニ之ヲ述テ隠スコトナク其可否ノ判断ハ他ニ任シテ可ナリ是即チ余輩
ガ敢テ弁ヲ好テ智徳ノ差別ヲ論ズル由縁ナリ
福澤諭吉『文明論之概略』第六章「智徳ノ弁」
「西洋事情」もカキコしろよ
脱衣入浴
脱亜入欧、だろっ !
134 :
考える名無しさん:03/11/09 23:45
>>88 これも形式論の域を出ていない。一般に、個人の活動力には限界がある。
或る一面に力を注げば別の或る面を疎かにせざるを得ないのが人の性であって、
「善の助長」に力を注げば「悪の根絶」は疎かになるし、逆もまた同断である。
「問題なく両立する」という主張は、事実を離れた決め付けに過ぎない。
以上は個人レベルでの話である。一部の人々が「善の助長」を、また別の一団が
「悪の根絶」を旨として努力する、という構図も考えられるべきだろう。
>>113 君の論理構造に従うと、次のような主張が導かれる。一人の人を殺した者がいわく、
「つーか、俺のどこが世界に悪影響をもたらしたわけ? 麻原の方が(以下省略)」
これは”常識的に考えて”明らかにおかしいだろう。はてさて。
135 :
考える名無しさん:03/11/09 23:46
諸君、下らない話でスレを消費したもうな。
何方か次回までに
>>130の現代語訳を宜しく。
136 :
考える名無しさん:03/11/09 23:49
レス番を間違えたよ。
>>134は
>>93宛て。
>「自治活動」「良スレバックアップ」と「嵐の改革」は、問題なく両立する。
>良きを助長し悪しきを根絶すればこそ、展望が開かれるのではあるまいか。
これのことだね。
137 :
考える名無しさん:03/11/15 03:54
何事にても道理にさへ叶ふことなれば、十人は十人悉皆誤解するものにあらず。
或いはたまたま十に二、三の誤解あるも尚言わざるに優れり。二、三の誤解を
憚りて七、八の智見を塞ぐの理なし。畢竟世人の誤解を恐れて言うべき議論
をも隠さんとし、或るいはその議論を装ふて曖昧の際に人を導んとし、所謂
坐を見て法を説くの策をめぐらすは、同類の生々を蔑視するの挙動と言うべし。
世人愚なりといえども黒白は弁ずるものなり。同類の人間に甚だしき智愚は
あるべからず。しかるに我心をもって人の愚を察し、その誤解を臆度して
事の真面目を告げざるは、敬愛の道を失するにあらずや。君子の為すべから
ざることなり。いやしくも我に是とする所のものあらば丸出しにこれを述べて
隠すことなく、その可否の判断は他に任して可なり。
138 :
考える名無しさん:03/11/15 04:02
素晴らしい言葉を見つけたので、皆さんにも報告しようと思います。
肉体的な快楽は感覚的な体験であって、純粋な視覚や、美味しい果実が
舌を満たすあの純粋な味覚と異なるものではありません。それは私達に
与えられる大きな無限な経験であり、世界知であり、すべての知の充溢
であり、光輝であります。そして私達がそれを味わうことが悪いのでは
ありません。悪いのは、ほとんどすべての人々がこの経験を誤用し濫用
するところにあり、それを人生に倦んだ場合の刺激とし、頂点への集中
としないで、単なる気晴らしにするところにあります。
一人の創造者の思想の中には、幾千の忘れられた恋の夜が蘇り、高貴と
卓越とをもってそれを満たします。また一方、夜中に一つになり、揺り
上げる快楽の中に絡み合う者達は、言い難い歓喜を歌うためにいつか
立ち現れてくる未来の詩人の歌のために、甘美さと深さと力とを集めて、
真面目な仕事をしているわけです。そうして未来を呼び寄せるのです。
たとえそれが迷いであり、彼らは盲目的に包容し合うのであっても、
未来はやはり来るのです。
139 :
考える名無しさん:03/11/15 04:10
そこでは時間で量るいうことは成り立ちません。年月は何の意味をも
持ちません。そして十年も無に等しいのです。およそ芸術家である事は、
計量したり数えたりしないということです。その樹液の流れを無理に
追い立てることなく、春の嵐の中に悠々と立って、その後に夏が来るか
どうかなどという危惧を抱くことのない樹木のように成長すること。
結局夏は来るのです。しかし夏は、永遠が何の憂えもなく、静かに
広々と眼前に横たわっているかのように待つ辛抱強い者にのみ来る
のです。私はこれを日毎に学んでいます、苦痛の下に学んでいます、
そしてそれに感謝しています。忍耐こそすべてです。
ライナー・マリア・リルケ
140 :
考える名無しさん:03/11/15 04:12
さあて、詰らない話はこれくらいにして、次回は哲学の話をするからね。
142 :
考える名無しさん:03/11/15 10:51
ああ、137は少し俺にとっては勇気づけられる言葉だ。
でも、なかなか難しいぜ。それは。
沈黙は金、雄弁は銀だからな。
143 :
Sandalphon:03/11/21 18:02
純粋な哲学議論は別途スレを立てて行うことに致しまして、
ここでは似非哲学というか、人生論というか、そういった
対話を行います。差し当たり、無軌道な議論に陥ることを
避けるために、テキスト読解という形式を採用します。
第一回の課題図書
福田恆存『人間・この劇的なるもの』
キーワードは、人間、劇、生活、生、死、宿命、自由、
行動、現実、理念、個人、全体、信頼、儀式、など。
大学入試の現代国語の問題におけるように、筆者の主張を
正確に把握することを当面の目的とします。
第一回の出題は、来月の中旬頃に私が行う予定ですから、
参加の意思ある人は、それまでによく読んでおいて下さい。
反響がなかった場合は私がひとりで解説します。
144 :
Sandalphon:03/11/21 18:04
なお、福田恆存の人となりについては、栗原君から追って解説があります。
145 :
考える名無しさん:03/11/21 19:33
おい、サンダル!
いや、チンポ太郎!
おまえはマジレスはつまんねーんだから
もっと男芸者のようにネタで踊れ!
以上。。。
希望を言えば「似非哲学というか、人生論」でなく、「純粋な哲学議論」をやってくれ。
まず実力を見せてくれないと、今のままでは君があやしい人にしか見えない。
147 :
Kurihara:03/11/21 20:13
平野謙がどこかで、小林秀雄が「文學界」を始めたとき人民戦線を
考えていたのでないかと述べていた。人民戦線と呼ぶべきかどうか
は別として、小林秀雄が左翼崩壊後に左翼擁護の立場にまわったこ
とは確実である。そのことは彼が「文學界」同人に中野重治や林達
夫を強く誘ったことからも、また彼の「私小説論」や「芸術と実生活」
といった評論からも明らかである。また、「戸坂潤氏へ」というエッ
セイには、そのことが端的に書かれている。彼は戸坂潤らが作った
「唯物論研究会」に入っていたのである。小林を「伝統主義者、復古
主義者、日本主義者」と断罪する戸坂の批評に対して、彼はこう述べ
る。《屁理屈は抜きにして、それより僕は唯物論研究会のメンバーで
あるから、さつさと除名したがよかろう》。
「僕は自ら進んで唯物論研究会に入会したのではない、再三勧誘を
受けて加入を承諾したのである。その時僕の名前でも利用の価値が
あるならどういふ風にでも利用して欲しいと岡邦雄氏に明言した。
それを、小林秀雄が現代文化を毒する危険人物である位の事はとう
の昔から承知してゐたなぞといふような事をいはれては馬鹿々々し
くつて腹も立たぬ。(「報知新聞」1937年1月28日・『小林秀雄全集』
第4巻所収)
148 :
Kurihara:03/11/21 20:15
戸坂潤が小林秀雄を攻撃したのは、小林が彼に好意的だったから
である。孤立した者が最も理解してくれる者に八つ当たりすると
いう感じがある。小林は「腹も立たぬ」と言うが、こうしたこと
が続くたびに熱意を失ったことは疑いがない。以後、小林が「無
常といふ事」のような地点に向かうのは、たんに情勢のせいでは
ない。私は、戸坂潤は優秀な哲学者だったが、同時に愚かな実践
家だったと思わざるをえない。ところが、こうした事柄はほとん
ど忘れられている。左翼は小林を否定するし、保守派は小林がそ
のようにふるまったことを見たくもないからである。
今更に思うのは、小林秀雄がもっていた「平衡感覚」である。
むろん、それはいわゆるバランス感覚というようなものではない。
「僕の名前でも利用の価値があるならどういふ風にでも利用して
欲しい」と言うのは、この時点では相当な覚悟を要したはずなの
だ。私がここで「平衡感覚」という言葉を使いたくなったのは、
福田恆存の『平衡感覚』(1947年刊)という本を読んだためである。
149 :
Kurihara:03/11/21 20:17
たとえば、「批評精神」と題するエッセイで、福田はクリティカル
という語には、批評的=批判的というほかに、臨界的という意味が
あることを強調する。たとえば、臨界角度とは、それ以上傾斜すれ
ば物がすべり落ちてしまうような角度のことである。そして、彼は
こう言っている。
「批評精神とは――もつともすぐれた批評精神とは――おなじ平面
上の他のいかなる個体にもさきだつて、はやくも鋭敏に危機の到来
を予知する精神のことであること、いふまでもない。それは公約数
的な臨界角度を持たずに、水平面との一度、一分、一秒の斜角をも
鋭敏にかぎつける精神でなければならぬ。のみならず、それは文字
どほり平地に波乱をさへおこしかねない。もちろん、かれもまた安
定と平穏とを愛するであらう。いや、なんぴとにもましてもつとも
安定と平穏とを愛するがゆゑに、現実のあらゆる安定と平穏とを拒
否するのだ。」(1949年・『福田恆存全集』第2巻所収)
「平衡感覚」とは、平衡を保とうとすることであるよりも先ず、平衡
が壊れる危機的=臨界点を察知する感覚のことである。しかし、この
ような言い方だけでは、福田恆存の臨界的=批評性がどのようなも
のかはわからない。実際、戦後の福田に批評が「平地に波乱をおこす」
ものであったことは確かであるが、それすらも福田恆存の「平衡感覚」
の本領を示すものではない。
150 :
Kurihara:03/11/21 20:22
久野収によれば、福田恆存は自由主義者というよりも、むしろニュー・
ディール系左派であったようである。戦後の福田はそのことを一切語ら
なかった。『全集』の「覚書」でも、それに触れていない。ただ、平野
謙に情報局の後任として勧められたとき断わったことや、戦後に彼の最
初の本『作家の態度』が林達夫の称揚によって出版されたことが書かれ
ているのを見れば、戦争中の福田恆存の姿勢をある程度推測することが
できる。
戦後に戦争責任を追及する左翼に対して、彼はつぎのように書いている。
「戦争中、時流に乗じて国民を戦争にかりたてた作家たちのゐたことは
事実であり、かれらに対してぼくたちは憎悪と軽蔑をもつて酬いた。が、
すくなくともぼくに関するかぎり、この憎悪と軽蔑とをたゞちに戦争責任
といふやうなことばにすりかへようとはおもはぬ。その狂態がいかに常規
を逸してゐようとも、またじゞつ、敗戦の責任を負ふべきものであつたに
せよ、ぼくがかれらを軽蔑するのは、かれらが戦争、ないしは敗戦に責任
があつたからではなく、文学者として無資格だつたからにほかならない。
こゝに節操といふことが問題になる。もし今度の戦争において節操とい
はれるものが存在しえたとするならば、それはいつたいどのやうな面に見
られるのであらうか――ぼくはそこのところをあへて問ひたゞしたいので
ある。文学者の戦争責任を糾弾するものが多かれ少なかれこの節操を保持
してきたひとたちであり、その実績を背景としてものをいつてゐる。が、
ぼくはそれら一切を信じない。かれらの表明する節操にうしろぐらいもの
があるといふのではない。すでにいつたやうに、ぼくはうしろぐらさを余
儀なかつたものとして認めてゐる。たゞ不愉快なのはかれらの論理である。
かれらも自分たちの卑劣と無力をみとめ、それを厳しい自己批判の方向に
好転せしめ、さうすることによつて民主主義革命に参与する資格をかちえ
るものとしてゐる。かれらといはゆる戦犯作家との差異はその自己批判の
有無によつて決せられるといふのであらうか。ぼくはさうした論理に、な
によりも反撥を感じる。」(「文学と戦争責任」)
151 :
Kurihara:03/11/21 20:24
いうまでもなく、福田恆存は自らの抵抗や節操について語りえた
はずである。だが、そうはしなかった。というよりもむしろ、彼
のなかに「うしろぐらさ」がなかったがゆえに、他人を攻撃する
ことができなかったというべきであろう。逆に、彼は根っからの
保守反動という非難を浴び、しかもそれに対して一切弁明しなか
ったのである。しかし、この福田恆存のエッセイによって、自己
弁護する保守派がいたとしたら、それほど滑稽なこともない。
戦後左翼(戦後急に左翼になった者)や戦後民主主義者(戦後
急に民主主義者になった者)の出現において、福田は別の臨界=
危機点を見いだした。それは戦争中に支配的であったものと本質
的にちがわない。事実、「自己批判」しただけで、根は同じ人た
ちなのである。しかし、福田恆存はべつに「反共」として語った
のではない。
「ぼくはコムミュニズムを信ずるが、その文化活動を信じない。と
いふよりは、その文化主義的傾向を断ちきったコムミュニズムしか
信じられないのである。日本共産党は民主主義文学理論家と手を切
るにしくはない。さういつたからとて、プロレタリア革命の陣営を
画策するなどと、まさか被害妄想もそこまでひどくはなからう。」
(「白く塗りたる墓」1948年・『全集』第2巻所収))
たとえば、今読んでみると、どきっとするような表現がある。
152 :
Kurihara:03/11/21 20:27
1960年代に共産党が文学者の多くを除名したとき、福田恆存は
「日本共産党礼讃」という論文を書いた。その時、私はこのレ
トリックにあまり冴えがないと感じた覚えがある。というのも、
党の最高指導者が文芸批評家だったからだ。しかし、今思えば、
彼はそれより20年前から同じことを言っていたわけである。
私が福田恆存を最初に読んだ時、自分と政治的立場が違うに
もかかわらず、何の違和感も覚えなかった。
たとえば、私はひとが福田の「平和論への疑問」になぜ反撥して
いるのかわからなかった。それは平和運動に対する反対論ではな
いし、福田の言うことに完全に同意しながらでも平和運動は可能
なのである。福田恆存が死んで悼むのはたぶん保守派ばかりであ
ろう。しかし、彼がもっていたような臨界的=批評的精神はそこ
にはないということができる。
153 :
Kurihara:03/11/21 20:29
以上、福田恆存のひととなりの解説でした。
154 :
考える名無しさん:03/11/21 20:30
相変わらず凄いね〜 >くりちゃん
どうもご苦労様でした。
ではここからは俺のフラッシュのコレクションを披露するとしましょう。
ちょっと待っててもらいましょうか。
157 :
考える名無しさん:03/11/21 20:36
ふけた顔をしたチビ!
158 :
Kurihara:03/11/21 20:36
コピペ編集する際、一つミスがありました。
>>151の「たとえば、今読んでみると、
どきっとするような表現がある。」という文章は、「しかし、福田恆存は
べつに「反共」として語ったのではない。」に続く文章でした。
159 :
考える名無しさん:03/11/21 20:36
相変わらず絶妙だね〜 >ぴか9
160 :
考える名無しさん:03/11/21 20:38
で、チンポタロウと福田恆存には共通点はあるのかい? >Kurihara
161 :
Kurihara:03/11/21 20:41
>相変わらず凄いね〜 >くりちゃん
事前にサンダルさんとはメールで打ち合わせをしていたので、
福田論のイントロを既に用意していたんです。それをコピペ
したわけですね。サンダルさんは以上に挙げたイントロにすぎない
福田論を遥かに凌駕する本格的福田論を展開してくれると既に
約束してくれているので、期待していて下さい。哲学板最高の知性
であるサンダルさんの驚異的な実力が今度明らかにされるのです。
162 :
考える名無しさん:03/11/21 20:44
>>28 よくわかんないんだけど
エロい絵なのかなあ?
163 :
考える名無しさん:03/11/21 20:44
相方が戻ってきて俄然生き生きしてない? >くりちゃん
159→.∵・(Д´(○=(
165 :
考える名無しさん:03/11/21 22:16
サンダルって童貞なんだろうか。
166 :
考える名無しさん:03/11/21 22:59
自演すんじゃねーよ
もやし
自演?Kuriharaがサンダル?
そんなの嫌だ!!
┌──────────────────────────┐
│ 〓 犯 行 声 明 文. 〓 │
│ │
│ 我々、2ちゃんねる糞スレッド追放戦線は、幾度となく
>>1に .│
│ よる糞スレッド乱立、ジサクジエンに対し、スレッドの移動、削除 │
│ を再三要求してきたが、
>>1による横暴は止むどころか、 │
│ 悪化の一途を辿るのみである。. │
│ よって、我々は糞スレッド追放主義に基づく荒らしにより、. │
│
>>1を徹底攻撃し、糞スレッド保護主義に対し徹底抗戦する │
│ことをここに宣言し、攻撃を加えるものである。. |
│ (≦三)│
│ 2ちゃんねる糞スレッド追放戦線 (#゚Д゚)│
│ ▼ │
└──────────────────────────┘
>>146 ごもっともです。下記のスレにおける
今後の活動を参考にして下さい。
>>161 僕は福田恆存論を草するとは言っていませんよ。
『人間・この劇的なるもの』に見られる興味深い
論点をよく吟味してみたい、と言っているだけです。
このスレは破棄します。まず言っておくと、殆どの人はもう察しているでしょうが
私は太郎ではありません。なるほど、このスレの初めの方のやり取りは
太郎の一面の物真似としてそれなりに成功しているのかも知れませんが、
その後の歯切れの悪い弁論を見れば、これはもう明白ではないでしょうか。
で、なぜ放棄するのかということについて。私があえて「福田恆存を論じる」
と宣言した理由は、自分を強いるためです。この本を読んでみて、近来の
自分の問題意識に重なるところが大いにあり、感心させられたわけですが、
しかしいざ自力でその先(あるいは根本)を考えてみようとしても容易に進まない。
ああ、これではいけない、自分の頭で考えなければ……と、一種の焦燥感に
駆られ、挙句の果てに、逃げ道を断つために、あのような公言をするに到りました。
が、判らないものはやはり判りません。自分なりに反省してみた結果、
どうも問題は、思考力のなさとか、知的怠惰とか、そういうものではなく、
もっと別のところにあるのではないか、と思われてきました。
よって放棄する次第です。
>>170 そのスレ見ると、むしろポールっぽい。
別の板でも活動しているらしいけど、どの板ですか?
大体において、ネット上の議論を己に強いるなど、馬鹿げているのかも知れない。
読書から得るものがあったなら、それを現実との関わりのなかで生かし、吟味し、
そうやって磨いて行けばいいのだから。逆に言えば、ネット上で意義ある議論を
行い得る者とは、現実において――曖昧な表現だが――誠実に生きている者に
他ならないのではないか。当然といえば当然のことであるが。
>>173 そんなことも言いましたが、公表するほどのものではない。
一種の誇大妄想の産物みたいなものなんです。
こういう性格は、本当に昔から直っていないなァ。
ヒュームスレは、少なくとも現時点では、
純粋哲学スレとしては比較的低級な方でしょう。
露骨に言えば、ただの英文和訳です。
ショーペンハウアーに言わせれば
「他人に考えて貰っている」のだ。
とはいえ、あちらはほどほどに続けます。
いずれ表明すべき己の意見も出てくるかも知れません。
では。