自由意志について

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1両立主義者:03/07/22 12:15
客観内意識体内意識には自由意志が存在せず、決定的であるが、
主観内意識には自由意志が存在し、非決定的である。
2両立主義者:03/07/22 12:20
自由意志も存在者であり、存在する場を持つ。
場を見た時に、存在していなければ存在しない。
していれば存在する。
3両立主義者:03/07/22 12:24
「存在者と場」の関係をみることが重要である。
4ネオ・クラムボン:03/07/22 12:27
立てた時間が悪かったね
へこまない へこまない
5考える名無しさん:03/07/22 12:27
>>1
論理的には矛盾があるが、メタレベルでは納得できる。
6両立主義者:03/07/22 12:29
【在る無いの考え方について】
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1058676101/l50
ここも見ておくように。
7考える名無しさん:03/07/22 18:38
自由意志は宗教的な側面からの議論もある。
8ウパ:03/07/27 12:14
>>7
どういう議論ですか?
9考える名無しさん:03/07/27 12:17
人間に自由意志はない。
10考える名無しさん:03/07/27 12:34
>>9
そう言い切るのは簡単だけど、なんでそう言えるの?
11考える名無しさん:03/07/27 13:58
カントも一種の両立論者かな。
責任の帰属という観点から実践的自由を論じている。

自由は可能ではないが、自由が可能であったのでなくてはならない。
ひとに責任を問うとき、過去の行為が自由になされたと見なされる
ことによって、過去になされた行為の原因が理性的存在であると
見なされ得るひと(人格)に帰せられる。
(カント『純理』第2部第2章第9節3あたりのいい加減なまとめ)

中島義道の『時間論』第四章「過去と自由」のほうがわかりやすいか。
「責任能力」を人格に帰する限りにおいて、行為主体は
「自由であった(選択をすることが可能であった)」
「かのように」みなされる。

自然の観点からすれば自由ではないにもかかわらず、
行為主体が、ある行為を「為すべきsollen」ではなくて
他の行為をなすべきだということを知っていたとされるならば
「自由であった」みなすこと(実践的自由)。

こんないい加減な書き込みを読むより、自由意志を論じるなら
自分でカントあるいは中島を読んでみることをお勧め。
12考える名無しさん:03/07/27 14:02
そんな古くさいカントを引き合いに出すよりも、物理学はまだ気づいていない
けれども「自由意志」は生物学的な根拠を持つとしたら?
13考える名無しさん:03/07/27 14:27
>>12
「自由意志」が、生物学的な根拠を持つという仮定は、
脳や神経系が身体に信号を送ってコントロールしていて、
脳から他の身体へという流れに原因結果の関係を見て
脳は身体に対して自由であり、その意味で自由意志はあるとするとか
そういうこと?
でもこれじゃ、物理学がまだ気付いていないということにはならないし、
こんなことを12さんは言いたいのではないですよね。すいません。
14考える名無しさん:03/07/27 14:31
>>13
システム論的に見る、と言った方がいいかな。一般に細胞は、細胞外部とは因果関係の
ない活動を内部で行っていると。つまり細胞が一種の閉鎖系だとすると、その活動は
外部からでは予測できない。
15考える名無しさん:03/07/27 14:35
>> 13
客観的事実は置いといて主観的事実を捉えれば?
16考える名無しさん:03/07/27 14:37
どうしてもわからんのだが、「自由意志」と「決定されている」ということと、
どうして矛盾するんだ。
「自由意志」って一種のエネルギーみたいなもんではないのか。
「その自由意志が原因で起きた結果」については責任を負わされて
当然ではないか。
17考える名無しさん:03/07/27 14:41
自分自身に対して自由なのではなくて、
他人は自分から独立したものとみなされ、
自由に行為しているとみなすほかないということか。
予測不可能だからといって直ちに自由だとはいえないけど。
18考える名無しさん:03/07/27 14:51
>>17
偶然と意志は別だよね
19考える名無しさん:03/07/27 14:55
>>17
>>14は細胞を例に挙げたが、同じことが当然、脳神経系を持つ多細胞生物にも
当てはまる。そして、その多細胞生物の脳神経系はまさに外部とは因果関係の
ない活動を自覚的に行えるようになっていると考える。
20考える名無しさん
>>17
自分自身に対して自由、という意味が分からない。自由意志は自分自身を自由に
動かせるが、自分自身は自由意志から自由なのではない。