>>629 調べてみたわけではないので、あくまでも推論の域を出ませんが。
まず、男性には一人称の使い分けが求められ、女性はほぼ「私」で済ませることができる点に
着目してみます。
629であげられている、けちゃっぷ。(ドキドキ)さんの個人的な使い分け例をみると、「職場」
という社会が特別な舞台になっているようですね。(ネット上の例は別に考えるとします。)
歴史の中で、女性は長い間、社会の中で個人としての立場を占めることが無いまま過ごしてきた
ように思います。ほとんどの女性は一貫して「家人としての女」の役割を果たすことに専念して
いたので一人称を使い分ける必要が生まれなかったのでしょう。
現在は、女性も多くの人が家のみならず、社会でも暮らしているわけですが、元々、家でも立場
としては男性から一段下であった女性の一人称は、誰に対してもそのまま使えるので、相手に
よって換える必要がないのかもしれません。
(語弊があるかもしれませんが)女性は元々へりくだってる?と考えると、どうしたって、
謙譲語、尊敬語といった敬語に思い至ります。
外国語にはあまり敬語の使い分けがないので、日本語は難しいとはよく言われますよね。
一人称の使い分けも外国語にはあまりないみたい。二人称の使い分けはよく目にするけれども。
とすると、あたり前なんだけれど、やはり歴史を遡ってみないとちゃんと答えられないみたい。
>>630 以降の疑問については、また別に考える必要があると思われ、またいつか。
あと、>詩板336。
「なんだとぉ〜!?かかってこいや、オラァ!!」
>>645 ありがとうございます。
それ、最寄り図書館には無かったな。またいずれそのうち。
(一冊読んだだけで、ああ、黙っておくべきだったかもしれない。でも、聞くはいっときの恥さ。)
>>646 うーん、彼の書いてることを思想史辞典の項目のようにまとめてしまうと、そういう反応が
でてくるのかもしれない。
しかし、「解り切ったこと」と受け取る人が多いとするとかなり意外。
>>649 なるほど〜!!
どおりで女性のわたしは一人称を使う際の不便を知らなかったわけだ。
>>651 ズコッ!
かもめちゃ〜ん、つっこみいれてくれろ!!
見えるものと見えないもの
これは、このスレの一つのテーマだと思っています。そして、不可視のものを可視化するという
ことも言葉が切り開く近くの地平なのだということも、また既にここで語られたことです。
写真や映画が、そのような人の感覚を写す鏡の一種であるということも、そこから導かれると
思います。「ブラックレイン」という映画がありました。この映画で映し出される大阪の夜景は
我々が知っている大阪の町とは違った街に見えますた。このように、人の感覚は多様で、しかも
互いに影響し合うということがあります。この言葉―知覚連合とでも言うべき世界について、僕は
もっとよく知りたいと思います。
普遍性ということについて、ヘーゲル的な考え方とは別に、作家の司馬遼太郎は、感覚同士の
出会いによって洗練された味覚が普遍性を獲得するということをどこかで述べていたと思います。
同じように、味覚以外の知覚もそのように相互に影響し合い、普遍的な感覚を育てているの
でしょうか。普遍性ということを、目的論的な視点からではなく、史的な人の営みの成果として
見る視点は、一つの理解の仕方ではあると思います。
総じて感覚の世界はまだ未踏の領域が多く、謎解きの楽しみも、そこにイパーイ転がっていると
思えます。それは楽しいことではないかと……。
問題提起というわけではなく、フィルムに写る世界についていろいろ考えながら、ふと思った
ことですた。
人称の問題で前に面白いなと感じたのは、
軍隊式や体育会系で、よく一人称を「自分」と言いますよね。
一方で、
特に関西系の人が「自分」を二人称で使いますよね。
「おんどれ(己)」、「てめえ(手前)」「われ(我)」とかも。
同じ言葉が一人称的にも二人称的にも使われるのが、
「阿吽」とか「つーかー」とか日本的なメンタリティーの表れかなとオモタ。
二者の関係の境界のI、Myさ。
名前忘れた。
>>605 >納得いかないという思いや違和感のようなひっかかりは、あったけど忘れているだけ、という
>ことはないと思う。だから単になかったのだろう。
日本語が言語として普遍文法にとても近いというわけでもないし、この世界が感覚にとって、
あつらえたような典型的な世界というわけでもないから、「違和」がなかったということは不可能
に近いと思う。
ずれる仕方は無限にあって、アジャストする仕方はひとつだから。
そういうわけで、思い出す限りにおいて違和がなかった幼少期は、また別の意味で貴重な体験
談になるのではないかな?
あるべきところにドキュメントがない、というドキュメント。
デジカメで二枚の写真を撮るとする。
同じ「ある物」について一枚は、A:ピントのあった「輪郭のくっきりした写真」。
もう一枚は、B:ピンぼけの「輪郭がぼんやりした写真」。ピント以外は同じ。
この二枚の写真の解像度を落としていく。ある程度解像度が荒くなってくると、
二枚の写真の区別がつかなくなる(例えば2百万画素→2百画素とか)。これをCとする。
つまり、A,Bの解像度の「くっきり」「ぼんやり」の違いは、Cの解像度の眼には
区別がつかない。ミエナクナル。
逆に、Cから「A,B」のレベルへ解像度が上がった時、多くの人は、「C→A」だけを
「ミエルヨウニナッタ」と考えているのではないか。「C→B」、「ぼんやり」見えるようになったら
多くの人は、むしろ「ミエナクナッタ」と考えるのではないか?
細かく、どこまでも細かく「くっきりと」「分けていく」ことが「ミエル」ことだ。
これが要素還元主義というやつだと思う。私たちが教え込まれてきた学問の土台だと思う。
この考えが、「私」と「世界」をくっきりと分けて、「現在」と「未来」をくっきりと分けて、
個人主義、刹那主義に行き着くのが今の現状だと思う。
「C→B」のもう一つの「ミエル」。「ぼんやりと」「繋げる」が見えるようになると、
「カタチの輪郭」が動き始める。程度問題の始まり。「C→A、B」という枝のカタチが出来る。
まだ、「くっきり」と「ぼんやり」がくっきり分かれている。これをぼんやりさせる。
「程度問題」の程度問題の始まり・・・。AとBが互いを浸食し始める。
そして、それがさらにCへ・・・。どんどん動き出すよ。
「理性」が「くっきり」系で、「感性」が「ぼんやり」系なのかなとか、ぼんやりと思う。
「論理」は、くっきりと説明するための作法だね。
「ミル」は「見る」→「視る」→「観る」と進化していくという話を聞いたとき、
なるほどと思った。それとは別に、「ミル」の最終形は「看る」だという話を聞いたときには
感嘆した。
「脳のなかの幽霊」半分ぐらい読んだ。
インド人もびっくりの面白さ。
改めて「鏡」の不思議さ。
脳のなかの「体の地図」が動的で、常にせめぎ合っているであろうという推測。
わしの直観にヒット。
ところで、「脳のなかの幽霊」という訳題は、
人によってはオカルト系の内容を想像させて上手くないかなとオモタ。
「ファントム」と「幽霊」ではニュアンスが変わると思う。
>「論理」は、くっきりと説明するための作法だね。
「論理」は、くっきりと説明するためのぼんやりとした作法だね。
の方がベターかな。右脳さんと左脳さんの相談の結果。
境界の不確定性とでも言おうか。
「時間」と「空間」は多くの人が共有できる感覚だろうけど、
これをくっきりと分けて(というよりくっきりとしか分けられなくて)
さらに時間を「原因」と「結果」に分けて、「過程」がごっそりと抜け落ちて
いる現状。「過程の抜け落ちた『結果』」が幼系成熟(幼系進化)だと思う。
系統発生をトレースしきれなかった個体発生。
「我々は初めから、進んだこの時代に生まれてきた」
という時間の輪郭の捉え方が、解像度が低い。
この空間に生まれてきて、過去をなぞることで初めて今に追いつく。
「無知なる者」と「知る者」を上下関係の認識からその先へ拡張できるか。
「結果を知る」知、の結果としての(かつ、前提としての)「過程を知らせる」知。
その辺の輪郭を捉えたい。
>>656 そうですね。わたしはまたもや切り捨てをやっていました。
憶えていないということにしょんぼりするばかりなのだけれど、
「貴重な体験」と積極的にとらえることも、できる、かもしれない。
>>657 感性には、ぼんやりを「ぼんやりなのだ」と認識することができないから、
ぼんやりを、ぼんやりのまま、クリアにみることのできる超理性みたいなもの
があるといいなあ。
(「みる」と平仮名にしたのは、逃げです、はい)
しかし、なんかめちゃくちゃなこと言ってるよわたし…
あ、わたしが「あるといいなあ」と書いたのは、これでしたね。
>「C→B」のもう一つの「ミエル」。
>>657
>>660 陳腐な精神分析的表現になってしまうけれど
違和に対する違和
違和に対する罪悪感
もしくは違和に対する劣等感
このどれかがあって記憶を抑圧したのではないかな。
人の心について軽々しくとやかく言うものではないと思うが、かもめらしく思える。
>>660 ちょー理性ですか。超イイ感じ。
解像度が上がる前の段階でも理性も感性もあるだろうけど、
解像度が上がれば以前のそれは超えられるかな。観測器自体が新型になる。
>しかし、なんかめちゃくちゃなこと言ってるよわたし…
この部分がきっと、かもめちゃんの左脳の右脳に対するツッコミと思われ。
感性の、「根拠なしっ(キッパリ)」って部分も結構大切だと思う。直感やね。
>>615 オイラの子供の頃は、多くの特に女の子が、正面顔の鼻を「く」の字に描いていた
のが、激しい違和感として記憶に残っている。左右非対称なのが違和感だった。
正面の鼻は難しいね。
何故なら、目や口は肌の色と明確に異なっているから、顔との境界線がくっきりしているけれど、
鼻は肌色だから顔との境がない。微妙な明暗のぼんやりとした輪郭を捉えなければならない。
鼻を線で描くというのは、かなり強引な抽象化だね。けっこう大きな壁かも。
抽象化を受け入れるのは、人によっては抵抗があると思う。
>>662 自分には何もないよ乏しいよと思ってるけど、何も無いと思ってたところに何かがあった、
と知るのは新鮮です。
見た目は依然として変わりないのだけれど、そこは空虚な空間ではないのだな。
> あるべきところにドキュメントがない、というドキュメント。
>>656 ドキュメントの削除は「削除した」という形跡ごと消し去ったので、はじめからドキュメントが無い
のかと思ってた。でもそうではなかった。
>>663 「根拠なしっ(キッパリ)」ってそれこそ重要というか支えというか、なんというか・・・大切ですねw
感性って理由はないけど原因はしこたまあるから、理性の声でそう聞こえたら、
正真正銘の「根拠なし」でもうバンザイだ。 ってわけわからん。とツッコミ
精神?の尺度???
時間と空間は感覚(表彰)の尺度である。では、精神にはどのような尺度が
あるのか。正直いってよくわからないのだが、以前言っていた水平・垂直という
言葉に託したものは、実はこれかもしれない。時間と空間は、もちろん僕たちを
ギリギリ縛っていると考えていい。しかし、精神は、あるいは思考は、その束縛を
逃れたがっている。時間や空間による媒介を、それ自体に即して無化することは
僕たちはできないけれども、思考は時間を、空間を乗り越える。そのように
見られたときに、時間・空間とは何だろう。うーん、ちょっと違うな。僕たちを
縛っている時間・空間というのは、本当の時間・空間でもないな。むむ・・・
これは、ほとんど単なる思いつきでつ。具体的な内容は、少し考えてから、かな。
自己違和というのは、実は僕の「形骸」(「死んだ犬」)の中心概念でした。
微塵の「自己違和」というのを読んですぐに書いたのが下。
>2003年12月4日14時5分
違和と言えば
根本的には自己違和ということがあると思う。乳幼児期、あるいは胎児期にでも
この自己違和を経験すると人はどうなるのだろうか。精神分析の対象外である
と考えられるこの自己違和は、多分エディプスコンプレックスなどよりも深刻な
問題だろうと思う。鬱も統合失調も自己違和の形式だと僕は考えてきた。
この自己違和を違和する形式が、人格なのだと……。自己防衛システムとしての
「自我」(サリバン)は、この違和に対して形成されるのだと。
しかし、この考え方はその後宙づりとなって放置されている。
>引用終わり
この違和によって「非自己化」された「自己の一部(サブシステム)」は、裏から
知覚できない形で人を突き動かす動因となる。これが、僕が考えた精神分析への
一つの回答として「魂の殺人」に見たものでした。この表象できない自己違和が
「偽自己」として現れる。そして、親はこの子供の偽自己と格闘することになると
いうのがアイデアの一段階。もうちょっとこの辺ごちゃごちゃしてるんだけど、
668 :
考える名無しさん:03/12/20 23:45
>>4 具体的な理由を示さず、単に「味がまずい」といったような場合
には名誉毀損ではなく、侮辱罪にあたるのではないかと思います。
その場合、その料理が本当にまずいかどうかは問題になりません。
批評をするときはできる限り具体的に、どこがどういう風にまず
いのかを示した方が良いです。
具体的な批評であれば、名誉毀損罪の問題となります。
この場合、真実性の証明の対象は、まずいかどうかということよ
りは具体的な理由の方に重点が置かれることになると思います。
グルメ板は知りませんが、2ちゃんねるには、明らかに犯罪にあ
たるような書き込みが多くあります。
2ちゃんねると同じ感覚で他のホームページに書いたり、メール
を送ったりすると酷い目にあうでしょう。
掲示板による名誉毀損・業務妨害のボーダー
http://school.2ch.net/test/read.cgi/shikaku/1011772484/l50
だれもおまえらのプロフィールなんて聞いちゃいねえんだよ!!!
俺様のかしこーーーーいお話だけ聞いてな。
きょう、マンガを売りにブックオフへ行った。大きな紙袋3つも持っていって、
結局1000円を切った。そんなものだとは思っていても、情けないだす。
お金を受け取ってから、ちょっと待てよと思って思想とかを見に行った。
いろいろな本があった。金子訳の「精神現象学」のふるーいのがあったり、
欲しいものはなかったけど、いろいろあった。と思ったら、「心の社会」があった!
いくらだ!? 3000円。 あまり安くないけど、買っとけ。というわけで、
「心の社会」ゲット。ボチボチ読みます。
他スレ「ヘーゲルの『精神現象学』を読む」で、こんなものを見つけました。
140 名前: marginal 投稿日: 03/12/20 23:48
ヘーゲルなんてたいしたことないよーーー
ぼくのほうがかしこいもんねーーー
消えろ僕チャン
これは間違いなくmarginalさんの偽物なんですが、「ーーー」の
使い方とか、「かしこい」とかの使い方が
>>669と似てるかな。
>>667 「死んだ犬」でつか。デッドドッグとか言うと何気にカコ良さげ?
前スレのあるレスで使われるはずだったのに、リロードの際に氏んでしまった
HNが今生き返ってみたり。
別スレで言っていた「自分を裁く」ってのも自己違和でつか?
「非自己化された自己」ってのは同時に「自己化された非自己」でもあると思う。
例えば胃袋の中にある食べ物は非自己なのか?どこから自己になるのか?
細かい分子に分解されて腸壁から吸収された時点?水は?毒は?
胃袋の中に感じる違和は、自己への違和?非自己への違和?
情報でも同じ事だと思う。非自己をどう取り込むか。どこに壁を設けるか。
その壁の設け方、境界の引き方が肝だと思うのねん。
幼い頃に無意識のうちに「顔」と「鼻」の間に引いた境界。
その引き方にも上手い下手があったり、用途があったり。
それを後から生まれた「意識」が、その痕跡(記憶)を追いかけて、やりかたを覚える。
意識は後追いでつね。消化が遅い。だから凭れる。
ソルマック?キャベジン?パンシロン?
>>672 >結局1000円を切った。そんなものだとは思っていても、情けないだす。
このクオリアすんごくよく分かるw
分かってても情けないんだよな。
>>674 自己・非自己という問題は、もうちょっと根深い可能性があるかも。
自他の境界をシステム自身が決定するという話がオートポイエーシスの
中にありますが、そんな話です。もともと人の認知システムには自他の
区分は先験的にはないのだと思います。それが、長ずるに従って徐々に、
そしてあるとき決定的に区分が形成されます。この自他区分の問題は
本当は今まであまり真剣に考えてこなかった。幼児期における家族は
自己の一部であるかもしれない。自己は、状況に応じてその境界を変更
する。あるいは、我々か自己と考えているものは、誰かがが言ったように
単なる近代の幻想に過ぎないかもしれない。この辺のところは、考えれば
考えるほど難しいことなのかもしれない。共感の問題も、そういう深みに
根差しているかもしれない。
しれないばっかり。
この辺はあまりきちんと考えていなかったところなので、これもこれから
の課題です。ハァ……。課題ばかり多くて、頭カイーわ。
ところで、古本屋さんは、いつからあんな安い値段で買うようになった?
前はもっと高かったよね。最近本を古本屋さんに売ってないので、よく
わからないのですが、例えばヘーゲル全集の1冊ン千円模する本は
いくらぐらいで買ってくれるのかな?
ちょっとした中間報告みたいなもの
僕が微塵のスレを見つけて始めてレスをつけたのが7月、それから半年が過ぎました。その間
いろいろなことを書いてきたし、話し合ってもきたけど、あるときパタっと書けなくなりました。その
理由は一つではないと思うけど、直接的には考えが行き詰まったことだと思います。例の言語と
知覚の関係ということが引き金です。僕の頭の中では、どうしても言語と知覚の関係が、コノハ
ムシの擬態と木の葉の関係に思えてしまって、理解できなくなってしまったんですね。もともと
言語を意思伝達の道具とは考えてこなかったけど、どこかやはり機能的に言語を見ている
ところがあって、機能は目的と結びついているわけで、ここにも「目的」が顔をのぞかせて
います。そのことにうっすらと気がついて、自己嫌悪に陥ったのだろうか。生命や感覚を
「目的」を排除して理解するということは、原理的にはそうでなくてはならないと思っていても、
なかなかそのようには自分の思考が向かない。むしろ、どこかに「目的」が潜んでいて、常に
背後から思考を突き動かしているというところがあるようにも思えます。
アートとテクニックの関係というのがあります。アートそのものは歴史を超えて普遍的だが、
テクニックは歴史とともに発展し、没落する。この不思議は何度も何度も思い起こすのだが、
これは例の歴史を見る水平の軸と垂直の軸ということと関係がありそうです。つまり、僕たちは
時間軸の中で「生かされている」以上、その軸の中で意志を持つ。しかし、他方ではこの時間
軸とは無関係な、普遍的な何かをもまた僕たちは生きている。この二重性について、今、明確に
しなければならないような気がしてきました。(続く)
上に言う「目的」は、この歴史を水平に時間軸に沿って見る見方のことであって、例えば、
ヘーゲルやマルクスの体系が、歴史と構造を一体的に理解し、その中に歴史の「目的」を
編み込んだように、僕は「前史」をまだどこか水平に見ていたのだと思うのです。多分、
コノハムシは、この最後の「目的」をきちんと破壊してくれたのかもしれません。このように
歴史の二重性を自覚的にきちんと押さえた上で、もう一度「前史」について考え直してみる
のが正しいのでしょう。こういう考え方は、実は決してなじみのないものではなくて、
水平―垂直の話もそうであるように、実はずっとこねくり回してきた問題ではあるのです。
ただ、僕の一連のシステマティックな思考のあり方と、そのこととがうまく結びついていな
かった。だから、水平―垂直の問題も、一つのサブテーマに過ぎなかったわけです。ですが、
これはサブテーマなどではあり得ませんね。人間の存在様式の根幹をなす問題なのだと
思い始めています。考え始めたばかりなので、これ以上は何も言えませんが、大体以上の
ようなことを、今ぼんやりと思っています。今後展開できるとすれば、年明けでしょうね。
また来年もよろしく!
なぜか、読んでもいないのに「重力と恩寵」を思い出した。
「意志」や「意図」、あるいは「目的」といった「軸」的な概念とその機能は、ダイナミズムを
「一挙性」で捉えるための方便でしょう。
必要充分なデータが得られることは稀であり、完璧な判断は不能ですから、私達はあら
ゆる「ふるまうもの」についての予測可能性を高めるために、時間軸に沿った「物事のふ
るまいの一般論」が必要になります。とりあえずリアルタイムに持ち上がってくる問題に
その都度答えを出し続けていくために。
因果関係というものはそのためのツールです。
私達のローカルな世界観では、過去と未来が等価でなく、とくに未来は「一挙性」の相の
もとに眺められませんから、過去とのメタファーによって未来の「未知性」を軽減し、現在
を挟んで、過去と未来のあいだに橋を架けようとする。
未来も含んだ時間の次元を「一挙性の相」のもとに眺める視点から観察すれば、私達の
問題は「未来に鈍感で、現在にもっとも敏感な生物の抱える問題」というように、認知上の
問題に還元できる気もします。視覚のたとえ話で言えば、中心視野が「現在」、周辺視野
が「過去」、夜目で見るのが「未来」というように。
穏当な物理学的世界像では、等方的であっていいはずの時間。
それが内的体験では方角による質的な差異が生まれるのはなぜでしょう?
「未来」を暗くしている「闇(光の不足)」とは何でしょう?
この辺は、わかるような気がしても、世界観の系のなかの個別世界観のふるまいをダイナ
ミックに表現する(認知させる)用語系を制作しないと語れないような感じです。
>>676>>677 「目的」的な見方のままだと、言語の起源がどうしても気になるのではないでしょうか。
そのままで考えると、ちょっとわけがわからなくなります。
言語哲学の意味論の中にも、そこが上手く説明できないという問題を抱えているものもある
ようだし。
目的を想定することと理由を求めたがることは一緒ですよね。
その誘惑に抗って、「なぜ」「なんのために」ではなく「どのように」という質問形式で行きたいと
よく思うのですが。
たぶん、まだまだ世界は「なぜ」を納得させる答えとして説明されている。しかしそれでは汲み
きれない現象がある。
それらをとにかく、記述するように受け入れることからはじめることが必要なんだと思います。
「重力と恩寵」ついでに、
「重力に縛られた人々」というトミーノのニュータイプにまつわる話も思い出した。
重力から解放されると、人はまた形態変化を遂げるに違いない。グレーみたいな
ものになるのかも……こわいですね。
>>680 起源論の有用性というのは、いったん気の利いた起源論が創れれば、そこから演繹的に
いろんな物語(仮説)を編んでゆけるところではないでしょうか。
少ない要素から、より複雑な進化した様相までを、系列的に描くという方法は人間の知性
の形式になじみますから。
「図表にすると一目瞭然!」とか「グラフにすると変化のパターンが抽出しやすいよ!」みた
いな意味での、有用な方便だと思います。
解体してから納得を目差すよりは、納得してから解体するほうが、脳への動機付けの面で
も効率的であるように思えます。
「なぜ」の答えは、一般に「どのように」の答えより容量が少なく、そのわりに応用が利く(ア
ナロジーにはまりやすい)ので、一挙に視野が広がった気がして快感がありますし。
>>675 肉体に備わった様々なシステムも、「責任」「担当」「権限」といった次元で、境界の画定が
必須でしょうから、自己・非自己問題には先験的な要因も大きく働いているのではないで
しょうか。
社会的自己に関しては、文化・制度によるかたどりが強く作用するので、かなり可塑的な
セッティングになっているとは思いますが、これにも「縄張り観念」に代表される動物的な
力動が前提として働いているでしょう。
人間の特質(および可能性)は、自己・非自己の境界画定の自由度よりもむしろ、自己か
ら非自己にいたるグラデーションの細密化と、その推移の非線形化にあるように思えます。
>>667 自己に違和を感じることさえできるという、システムの「ゆるさ」が、自由という観念の所持を
可能にしている、という気も。
自由と不自由は対概念ではないというか、不自由の減少が自由であるのではなく、自由の
減少が不自由であるわけではない、みたいなw
いや、うーん、定義次第ではまさに対概念なんだけど、「不自由の対概念ではない自由」とい
うものが、明白に存在していると感じます。
とはいえ、これを「絶対概念としての自由」と言ってみたりすると、また「ハズしてる」感がありま
すねえ・・・・・・・。
「絶対概念としての、しかし程度問題のある自由」?あははー、矛盾してるし・・・・w
>>679 これも「図式的」思考の産物ですが、未来と他者は互いがぴったりと相当する関係です。
そこに働きかけることは暗闇へ一歩踏み出すことであり、少しでもその暗闇の、
> 予測可能性を高めるために、
すでに手にしている物事から一般論を導きだすというところが。
踏み出せることができてさえいるのならば、暗闇は見えなければ見えないほどよい、と思ってました。
予測することは、他人や先の自分や、ひいては現在に対しても、いってみれば失礼だと。
>>679を読んで思ったのは、それを失礼というのは「内的体験者」としての礼儀なんだということです。
それとはまた違った視点、別の「用語系」で、
> 「未来」を暗くしている「闇(光の不足)」とは何でしょう?
に答えるのは、有意義ですね。
答えることができても暗闇が明るくなることはなく、むしろいっそう暗くなるような気がします。
685を読んで、684末尾の書き換えを思いつきました。
「絶対概念ではあるが、程度問題がある自由。付言すれば、個体の内的体験からは程度
問題が抽出できない自由。つまり、各自の私的言語内でのみ、各自の様相で絶対概念で
ある自由。言い換えれば、用語は共通しているが普遍的でない自由」
私達は母言語の文法を超越論的に獲得します。
日常用語としての、(習うための)文法は、前者の文法の「像」でさえありません。
言ってみれば、後者は前者の分析ではなく、メタファーです。つまり、トートロジーではなく、
アナロジー。しかしそれは使える。
ある種の「語りえぬもの」について、なにがしか語りえてしまうのは、クオリア間のアナロジー
が成立するからでしょう。
それは表層の分析が、うまくすると深層の機能面でのアナロジーとして働くことがある、その
土台かもしれません。ジョークに意図しない効力が備わったりするような。理論が現実に応
用できるような。
してみると、動物が一般に「語らない」のは、「なにについての」を離れてクオリア自体に言及
することができないせいかな?そもそも「疑いえない」ように付着するのがクオリアの機能で
すからね。
人間の特質が、宿命から(たまに)離脱してみせること、つまり(いろんな意味の)自由だとす
れば、言語が人間にもたらした機能とは、ひと口に言って相対化の力でしょう。
物心つくことのクオリアが相対性理論のクオリアに似ているのは、この伝だと思います。
人類が最初に物心ついたとき、着想されたのは、数学のない相対性理論かもしれません。
不確定性原理は、第二の物心、という気もします。
不確定性原理と不完全性定理は、おなじか、かなり近接したクオリアの応用と感じます。
俺は相対性理論も不確定性原理も不完全性定理も、アナロジーとしてしかわかんないけどw
ある特定の時点、それ以前、それ以後の系列を時間だとして、
それを時空連続体のよっつめの次元として扱うとき、
「現在」は、時間とは次元がちがう出来事でしょう。
おなじように、「現在」を前提として措定される「過去」と「未来」も、実は時間ではない。時間
は流れませんから。
この現在過去未来を、時間を捨象した(あるいは時間と分離した)相で見晴らすための叙法
を捜しているのですが、見通しはあるものの、語るとなるとさすがに遠大です。
しかし、生命や意識の問題を考えるときに、避けては通れない壁だと思います。
>>689 なかなかおもしろいです。時間・空間というのは、アプリオリな形式だというのが哲学の
常識のようですが、(そう納得したことはないんですが)微塵説の方が断然おもしろい。
この辺も少し考えていきたいです。僕の考えは、実はちょっと前に少し触れた「幾何学の
起源」の前後に考えていたことあたりで止まっていますが、じわっと前に進みたいと思い
ます。
いわゆる霊能者と称する人たちと話して、彼らには時間や空間の構造が違って見えるんだ
ということがわかったことがあります。そのときには、そういう視点もあるんだということで
納得した記憶があります。また、ほぼ完璧と思えるテレパシーの持ち主にも出会ったことが
あって、全部考えを読まれたことがあります。これには震えましたが、これもまたそういう
知覚のあり方があるのだと思っています。そういう人たちが、自分の「能力」をどう理解して
いるかということとは別に、何か意味があるのだと思ってきました。
上の2つの節は、必ずしも同じことを言っているわけではなくて、単なる連想です。人の知覚
のあり方は、我々の常識の範囲をはるかに超えているのだという一例ではないかと思った
わけです。脱線、失礼しました。
>>680 かもめちん
これはわかりやすいですね。僕の考えていることの一面は、確かにそういうことの
ようです。起源と目的というのは、ヨーロッパ的な思考法の原理をなしているようです。
そして、僕たちがヨーロッパの学問を勉強することによって、そのヨーロッパ的原理
主義におかされているということもあるかもしれません。というかおかされているのだ
と思います。
でも、現実の生活感覚の中では、そういう原理とは相いれない場面に出会うことも
ままありますし、そのときは感覚を優先してしまうことも全然珍しくありません。むしろ、
個人的な体験としては、そのような相いれない体験の積み重ねが、今の僕の考え方
のベースとしてあるような気がします。
昔、僕は気のおけない仲間たちと「革命とは何か」について語り合ったことがあります。
そのときの結論は、「今、この関係が革命そのものだ」ということでした。ただし、これは
別段真剣に議論していたわけではなくて、お酒を飲みながら、楽しい語らいを楽しんで
いたんです。そのときに、僕たちが行き着いたのが、そういういい加減な結論だったん
です。そこには、もちろん目的も原理もありません。その場がそうなのだということでした。
これも、まああまり大した話ではありませんが、そういうことはいろいろな場面で経験
してます。ちっとも学問的な話ではありませんが。
>>690 テレパシーの持ち主、会いたいなー。
「心を読まれたい!」と、いつも思っていたから。
頭のなかではくっきりしてるけど、言語化できないでいることを一心に考えてみたり、
内容に関わらず、微妙な角度の径路に意識を集中しているとき、
それを「読んだ」ひとが、なんて言うか、とても興味があります。
>>692 僕は人の紹介でその人に会ったのですが、一度きりでした。僕もその人と関係を持ちたいとは
思いませんでしたし、向こうも僕に興味を持たなかったようで、そのとき我が家を訪ねて来て、
少しお話しして、それでおしまいです。僕にとって、とてつもない経験の一つですが。
微塵のような思考に出会ったとき、その人のテレパシーがどのように働くのか。それは想像も
つかない、謎が謎を呼ぶ世界ですね。
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いしますです、だす、どす。
この間の一連の僕のレスのきっかけになったのは、実はガテンコの文章だったりする。12月
12日の日記及びその前後のsmile bbsでのガテンコのレスを読んで、突然パッと前が開けた
ような、これまで漠然としていたものがあるまとまって姿を取り始めたような、そんな気がした
のだ。そして、少し興奮した。しかし、これについては実はまだ明確な思想と言えるほどの形は
とっていない。12月12日の僕のレス「精神?の尺度」というメモみたいなものは、その辺の
興奮が書かせたものだと言ってよい。その後も、この方向で少しずつ考えて、その結果が
12月18日の「中間報告みたいなもの」になった。この2つのあまり内容のない文章は、多分
同じことを言っている。そして、これからも同じことをぐるぐる回りながら言い続けることになる
だろうという悪寒。
さて、この前後にメモみたいなものを書き散らかしている。そのうち、それでもある程度まとも
かなと思えたものをレスとしてupしたのだが、思考は実は過去から現在へ、そして未来へと
グルグル回転し続けている。その中に一貫した何かを感じ取りつつあるからなのだ。この何か
は、「構造」と言ってもいいし「パターン」と言ってもいいし、「ゲシュタルト」と言ってもいい何か
なのだが、どの言葉もしっくりこない。それは、最近の微塵の言葉を一部借用すれば、関係の
ダイナミズムみたいなことなのだ。そして、それは時間軸の上で起きていることではないのだ。
ある意味では、卵がかえる前段で熟していくように、関係がダイナミックに熟していく、そんな
感覚と言えばいいか。これは、多分様々な関係と過程を通じて、世界が経験しつつある「成熟」
の一種なのだろうと感じる。これは、時間軸の中で起きていることではない。個別の経験として
は、いかなる時代のだれもが経験していることに過ぎないから、歴史的に発展してきたもの
ではない。それは、人が人であることに氾通的な事象であって、だからこそ古代人も現代人も、
同じように考え、同じような答えを出してきた。
(前レスより続く)
この熟すことに時間軸とは別に軸を仮定するとすれば、それが前から言っている垂直の軸
なのだ。そして、歴史を垂直に読み取ることができれば、僕たちはそこに熟しつつある何かを
見ることができるのではないかというのが、当面の僕の作業仮説だ。
ここでの垂直とは、空間的なものを意味していない。むしろ時間と観念されるものが折り
畳まれて重畳的な関係として現れるものだと。(何を言っているのかわからなくなってきた。
「言葉が足りない。じゃんじゃん持って来い」てなもんですね。勘弁してちょ)この辺の成り立ちを
読み解くことができれば、一歩前進かな?
まあ、12月中は忙しくて、あまりゆっくり考えるひまもなかったから、大掃除がやっと
終わって、気持ちが一段落して少し落ち着いて、これだけ書きますた。これが、
実際にはどんな形に結実していくのか、まだ自分でもよーくわかりません。本当に
わかりません。でも、何かフラクタル的に同じ形をしているような気がするんだよ。
こういうの、トポロジーとか言うんだっけ? よく知らないんだけどね。昔、これを
金太郎飴と呼んでいたことを思い出しますた。どこを切っても切り口は同じ形だという
意味です、もちろん。
「中間報告みたいなもの」は、12月18日ではなくて、28日ですね。失礼しまったぁ。
>>694>>695 ちょっと話はちがうのだけれど、時間軸に属することの中にも、ひと筋縄でいかないこと
があると思う。
欲しいもの、と問われて「お金」と答えること。
どこが好き?、と問われて「ルックス」と答えること。
これは二十世紀中葉では「すごくはしたない」ことだったが、この辺にまつわるミームは
八十年代に急激に変化して、ふつーのことになった。
「体罰」のミームも、足並みをそろえるように変化した。「時と場合によっては必要」から
「ほとんど全面的に悪」へと。
この種のミームのダイナミズムは、個人の内面で推移するのではない。公的な言語の
内面で推移する。そして公的な言語の内面で連動する。
誰のものでもないがゆえに、個々人における「差し障り」は過小評価されてしまうような、
間主観的なコンプレックス、トラウマ、習癖が存在すると思う。これが、社会問題を考え
るときに、「わかるんだけど理解できない」と言いたくなってしまう「割り切れなさ」の主要
な源泉であろう(異文化に対する割り切れなさは別として)。
これらは、私的な内省ではリアルタイムで捕捉できないし、捕捉するためには公的な言
語の内面に感情移入するか、絶えず意識的にメディアを観測していなければならない。
しかしなあ、共同体って、投薬もカウンセリングもできないから、おかしくなっても治療で
けへん。
文明が星系間スケールぐらいになったら、「共同体を患者とする精神医療」という分野が
成立するかもなあ、などと考えるのであったw