このスレに来てくれる人は、その時点のネタ提供者の土俵に、とりあえず乗ろうとしてみて、
乗れたら乗って、乗れなければ質問する、という態度が共通していて、対話しやすいです。
得難いことです。
すでにコテで呼びかけられているので、2スレからコテにいたしました。
みなさんこれからもよろしくお願いします。
とりあえず、このままのコテを維持します。☆でもいいんだけどね。
>微塵
スレ立て乙です。
実は前スレの終わりに何度も何度も書きかけたんだけど、結局うまくかけずにそのままになって
しまった。気になっていることがあって、頭がこっちへ向かいない。しばらくまともなレスは
つけられそうもないなぁ……。
>>5 うまく書けないレスこそ、後になって生きてくるものです。
>>6 なるほど、そういうものなのかもしれないでつね。
ところで、「日経サイエンス」の京感覚の説明はわかりやすくてよかった。しかし、そういう
メカニズムがあることによって、微塵のような内的世界の見え方があるということと、
それがどんな意味を持つのかということは、全然別のことだな。改めて感じますた。たまたまのことが、重大な意味を持つということ、これでつ。
祝!新スレ★
新スレなんで応援の為に一応書きこさせていただきます〜♪
でもこのスレは私にはちょい敷居が高いですYO
最近gooで共感覚をサーチしたよ。調べて何となく分る頃には
違う問題に言ってるというワナ(涙
でもせっかく新スレになったので、ネタ提供者の土俵に乗れそうな時は
遊びにきますね♪
ここ数日、色んな感覚鈍くて正直ちと参ってます
触覚(共感覚?)と無意識世界はまた違う世界の物に感じるんですがこれは実際には同じ事なのかな??
500位まで言って( ゚д゚)ポカーンと暇な時が急にできたらボソッと誰か教えてくらさい。
大三元さん、リアルもおすすめなんですね。読んでみます。
微塵さん、存在感強いのでいつ登場するかいつも楽しみです1としての貫禄がウラヤマシイです
新スレおめでとうです!
ガテンコさん、キャラ好きです。特にココ書いた時→ ガテンコ÷ガテンコ
これの答が知りたいトコですね。
417さん、何時の間にか長い付き合いになりましたね、これからもよろしく〜♪
最初の頃を思い出す、シミジミ。
テレシコワさん、前スレの980のレス好きです、バカボンド、面白いよボソッ
ではでは、おじゃまさま。ピュ−→走り去った音
ダッシュカキコ。
ナイスタイトル〜〜めでたいめでたい
え〜コテもどそうかなあ。前スレで大三元さんのこと間違えちゃった。
>>月読
>ガテンコさん、キャラ好きです。特にココ書いた時→ ガテンコ÷ガテンコ
>これの答が知りたいトコですね。
・・・・・・・・・・・・それは俺だ。(答えは1に決まってるダロ!)
「かたち」というのは、それ自身動的なものだよね。前にも言ったけれども、
僕たちは
形というと、目に見える形、手に触れる形をパッと考える。でも、目に見えない形、触れる
こともできない形というのもあるよね。概念にも言葉にも「かたち」はあるし、感情にも
クオリアにも形はある。前にフラクタルは「かたち」全般にあるのかと聞いたことがある
けれども、たとえば波形は、目に見えるものと見えないものがある。音の波は本来見えな
いものだ。音でも、一たん三角関数に変換して図示して、やっと見える形にして扱えるわけで、
このみえない「かたち」、触れられない「かたち」とは何かということが、一つのテーマ
だろう。クオリアって多分これなんだよね。見えないダイナミックな形なのだ。クオリアが
「波形」かどうかはわからないけれども、例えば、音を「波形」として理解できるという
ことは、クオリアも「波形」のような「かたち」なのだと考えればいい。(何を言ってる
のか、自分でもよくわからない)
(*≧∇≦*)ぶぁっはっはっ!!(某板から拾ってきました)
>・・・・・・・・・・・・それは俺だ。(答えは1に決まってるダロ!)
(*≧∇≦*)ぶぁっはっはっ!!
「テレシコワさん」と呼びかけられると自分で笑ってしまうので、「かもめ」にします。
さいしょはロシア語でかもめを意味する「チャイカ」などを考えたのですが、相談相手と話
しているうち、「わたしはかもめ」(ヤーチャイカ)という言葉を地球に送った女性宇宙飛行
士の名前は? となり、即決定した次第です。
哲学板では「わたしはかもめ」と言った人物で、他のスレではその「かもめ」だなんて、いい
じゃんいいじゃん、と。名乗った順が逆だったらもっとよかった。「かもめ」が先ですから。
でも、哲学板で「テレシコワ」の方がいいのです。
それはなぜかというと…
「わたしはかもめ」の出どころであるチェーホフの小説が好きだし、池澤夏樹の短編小説
『ヤーチャイカ』も好き。そして、『ヤーチャイカ』の方は、内容はロシア人がでてきて「スパイ」
というのがキーになっている。スパイというのは現実の世界から離れた立場にある者で、
池澤夏樹は好き(だった)道具に違いなく、地球を外から眺めたテレシコワから発せられた
言葉が小説のタイトルになっているのもその絡みだと思います。
だからこのコテ自体というより、これを選んだことが気に入ってました。
でも、ここで説明できたからもういいです。
月ちゃん、くじけるなよー(ないだろうけど) 笑い提供、毎度ありっ
417をわたしは「よいな」と読んでいます。
>>13 「雑談モード」
僕が「かもめ」から連想するのは、中島みゆきとか、研なおことか、もう一人だれだっけ、
「♪かもめが飛んだ〜」の渡辺真智子。ちょっとテレシコワは遠い連想ですね。ああ、懐かしい。
中島みゆきを聞いて泣いた時代もあったねと、テヘ・・・。ちょっと古いでつね。
スタートダッシュというのを盾にして、好き勝手書いてしまいました。
スタートであることを考慮した
>>11を読んで、反省…
「何を言ってるのか、自分でもよくわからない」、そこまでして・・・
(おだいじに!レスはゆっくりで! 「なんか変」、よい兆しのような気がします。いいなあ。)
微塵兄貴>新スレおめ〜〜(^o^) 言葉によって開けてくる世界って、面白そうだなーーー☆ ちょくちょく寄らせてもらうよ♪ ともあれ、本日は仕事でグタ〜〜リして居るので寝ます。。。。 また明日!!!
>>15 ワタナベマチコの歌、わたしも浮かびます…。しかもサビの部分でなく、しょっぱな、
いきなり高く始まる部分。イヤ〜
>>17 おやすみなさーい!
さて、前スレのカキコへのレスは前スレがあるかぎり前スレに書き込むのがよいの
かな? いずれにしても、明朝以降にレスするつもりです。
>>18 >さて、前スレのカキコへのレスは前スレがあるかぎり前スレに書き込むのがよいの
>かな?
展望のある話題ならどうぞこちらへ。
軽い返答ならあちらへ、という感じでしょうか。
>>月読さん
可愛いっ!ムギュ!!!
直接は初めましてですね。
私、お墓でキャンプできちゃうくらい無神経なので、心の機微がなかなか分からず、
月読さんのスレに書き込みすることができずにいます。でもヒントいっぱいもらっています。
ありがとう。いつか何かお返しできるといいのだけれど。
>>かもめさん
なーるーほーどー。宇宙好きな私と致しましては、「テレシコワさん」すごくいいのですが、
説明聞いたので、地球を俯瞰するかもめのイメージになって、もっといいです。
過去のレスを汲み取ってなかったり、自分の考えをまとめたくてかなり乱暴だったりの私の
書き込みに対して、誠実なレスを返していただいて、感謝しています。
↑もちろん微塵さん始め他の方々にも。
>>Akselloakさん
私は怠惰なオフローダーです。町を抜けるのが面倒くさくて、山に行けない昨今。
>>7 私もそう思いました。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
微塵兄貴、新スレおめでとうやんす(^o^)丿
影ながら、マスター応援してます。w
隙間をみつけることが出来ましたら、なにげにするりと
入り込むかもしれませんw
ウズウズ…
=≡= ∧_∧ I'm ready.......
/ \ (・∀・ )/
〆 ⊂ つ∈≡∋
|| γ ⌒ヽヽコノ ||
|| .| |:::|∪〓 ||
./|\人 _.ノノ _||_. /|\
シーン
=≡= ∧_∧
/ (・∀・ ) <微塵兄がんばれ・・
〆 ┌ | | .∈≡∋
|| γ ⌒ヽヽコノ ||
|| .| |:::|∪〓 ||
./|\人 _.ノノ _||_. /|\
>微塵
えらく下に来てしまいますたね。sage進行でよろしいのでつか?
>マスター
遠慮なく入り込んでくださっていいような気がしまつ。
展望があるかどうかは定かではないけれど、「軽い返答」ではないので消去法でこっち
にレスします。「軽くはないけど浅いぞ」と思われたらそれとなく指摘してださい…
大三元さん
>>984 >相対的な測り方とは、二者を天秤にかけることです。天秤自体は絶対です。
天秤も一つの道具ですよね。相対化されずに残る道具、それが言語だと思うのです。
「言語が絶対だ」となると、どうもこう、マズイ感じですが…
>相対化から陥るニヒリズムにはオイラ自身結構苦しみました。
何度か、「相対化の罠」ということを書かれていた理由の一つはここにあるのだと理解しました。
抜けられた、と断言されることは、はまりきって見えなくなっている人の希望になると思います。
>>986 実在論と観念論のどちらも正しい、とする際、「内在的には実在論、超越論的には観念論」という
言い方がされることがあります。内側にいる分には実在論の立場だけど、一度メタレベルの位置
に立ったら観念論、ということのようですけど、ここにも「外」という想定があって、わたしは拒否し
たいところです。(986でそのように書かれているということではありません。思い出したのです)
アフォーダンスについて語られる際、で「内部観測」という語がでてくるけれど、そこではこの「外」
についてはどういう態度がとられているのだろう…。
417さん 前スレ
>>989 >多様な価値の中の一つになったわけで、その分軽くはなるけど、なくなるわけではないよね。
そうですね。別スレの月読の様子を思い出しました。向きはぎゃくですが。
かつてその価値をほぼ絶対的に否定し無視していた方面について、それなりの存在価値を認
めるようになったけれど、もちろん依然として彼女の主観においては低い価値であり、扱うのが
困難である…という様子です。
>この個々の価値の客観性を僕は絶対性だと思っているんでつ。
絶対的なもと客観的なものは、この辺りの文脈では一致するととらえていいですか?
また質問しちゃった… すぐに答えてもらえなくても、本を読むときのように、そうだと仮定して
417さんを読んでいき、随時修正していきます。
判断しかねるのでとりあえずサゲで。
ガテンコさんは、月読スレ(他)へ、マスターや月ちゃんはこのスレへ、参加促進運動
実施中。
昨日、衝動的に最寄のブックオフまでチャリンコを飛ばし、マンガを仕入れてきました。
目当てのものはなかったけれど、まあまあの収穫。マンガ喫茶行きたえ!
詳細(?)は、軽いレスとして、前すれにちょこっと書こうと思います。
相対化のニヒリズムは相対化を相対化したら抜けられました。
>>24 主観性の客観性が絶対性だというのは、主観性を現象と見ていることになります。
その背後にある本質を客観性だと考えています。そして、その客観性が現れてい
るものが
「絶対性」だということになるんでしょうか。
つまり、もともと主観と対立するものとしての客観性は「仮の姿」あるいはフィクション
だという言い方を前にしましたけれども、そのような客観性は一度主観性の中に取り込まれ
てしまうわけです。そして、その主観性それ自体を客観性として見るということ
になりまつね。
ああ、ややこしい。これは、こんな抽象的な話ではなくて、もっと具体的に
話さないと
理解できませんね。申しわけありません。
ワケ ワカ ラン♪
∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
( ・∀・) ( ・∀・) ( ・∀・)
⊂ ⊂ ) ( U つ ⊂__へ つ
< < < ) ) ) (_)|
(_(_) (__)_) 彡(__
ごめん、あえて一般ピープルの発言、スルーして!w
27に続く
でも、本当のところ、これを具体的に展開できたらすごいことでつ。もしかしたら、僕がここで
微塵やみんなと出会えたことで、それができるようになるかもしれない。いや、ひょっとしたら、
できるんじゃないかと少し思い始めている。それは、なかなか怖いことでつ。
少しずつ歩みを進めて、ぎちっと現実をつかめるときが来るかもしれない。
余り他人に言ったことはないし、もちろんここでも言いませんが、この僕の思考はある現実的な
目標を持っています。それを達成できたらすごいんだけどね。
抽象論や観念論に見えてしまうことは十分覚悟していますが、ここで考えているのは、もろ現実
そのものです。そのことをきちんと言えるようになれば、それだけでも半ば目標を達成した
ようなものなんだけど、まだ……。焦らずにじっくりいきます。
>>29 楽しみですね。わたしにとって2ちゃんは物語です。その中で、考え中さんは主役級の人物の
うちの一人ですね。
もちろん、これからまた誰が存在感を増してくるか、はたまた新人さんが躍り出てくるかわから
ない、乞うご期待!という声がいま聞こえました。
昼に書き込みをした後、現代思想のアフォーダンス特集の号の中の一論文を読んで、いろいろ
活性化しました。哲学や言語との関係という観点から書かれたものでわかりやすく、もっとはや
く読んどけばよかった!な。
大三元さん
木村紺、少女マンガ出身というのはおそらく勘違いです、すみません。で、古本にはなかったで
す。読みたいなあ。・・・アフタヌーンといえば、黒田硫黄が大好きなんです。
>>30 その論文は、「アフーォダンス」(青土社刊)に含まれてますか。含まれていたら、
読んでるわけでつが、含まれていないなら、ぜひ読みたい。古本屋で見つけないとだめかな?
これがわかるのは微塵でしょうか? 微塵ターン、教えてくださーい。
あ、それから29で言ってる現実的な目標というのは、ベクトルは逆ですが、
多分微塵がときどき触れる「奇跡」と同じことだと、僕は感じています。
僕のシステム志向は、そもそもコンピューターシステムの設計とか、システム分析、
システム工学とかいったところから始まっているというところもあって、
システム化という発想がどこかで好きなんです。そういうつながりがあります。
それと「武蔵野東学園」って知ってますか? 自閉症児の統合教育をやっている学校です。これを一つのシステム化の試みと理解しています。
意味不明な言葉沢山。
おいらもうちっと学生の時勉強しときゃ良かったかなあーwww(因みに通常日本語迄怪しいおいらだいwww)
>>20 ガテンコさん
お初です。
レス有難う!!
元来オフマシンは街中用の物ですし、おいら達みてえな峠マニアは、それを解っていながらムザムザ大切なバイクの寿命を縮めている様なもんです。。。。。。何かスレ違い発言スマソ…>ALL☆
>>31 吉岡洋という美学の人の書いたものです。わたしはおもしろかったけど、短いし、入門的なもの
ですよ… そうそう、それ読んで、『生態学的視覚論』を読みたいっと思いました。でもなー訳に
問題アリなんですよね。ムムム。
酒を飲んでなくても、夜中に書いた文って朝読むと多少気恥ずかしいものがあります。少し反省…
もっとちゃんと、ちゃんと読んで、推敲して、それから「書き込む」ボタンをクリックすべき
ですね。前よりは多少慎重になってはきてるんだけど、まだまだドジです。
>>31 いなくてスマソ
いま本が見つからんけど、「アフォーダンス」には載ってなかったと思う。
主観・客観・共感というキーワードを経巡っていると、いつも思い出されてくるお話があるので、
以前書いた文章をコピペしてみます。ネタ元は樫村晴香。
赤ん坊にとって母親の声は、特別な「魔法的」とさえ言える力を持っている。
すでに胎児の頃から母親の声は、他のあらゆる音のなかから選択的に認知され、赤ん
坊はその音に格段の注意を払う(無念ながら父親の声はそういう特別扱いは受けてい
ないらしい)。
赤ん坊は四ヶ月ごろから、じぶんの発声が母親から鸚鵡返しにもどってくると、高い
確率で同種音を返す、という行動をとる。このとき赤ん坊は、発声の背面像と正面像
(出す音と返る音)を照合しており、母言語獲得の先行段階として音韻構造の整備を
おこなっている。この状況において、規範はあくまで母親の側にあり(母親の再度の
鸚鵡返しが「正答」を示唆する)、赤ん坊は「じぶんの脳に母親の脳を重ね書きしている」
と言ってもよいし、もっと強く、赤ん坊は「母親の脳を使って考えている」と言ってもよい。
この母と子のあいだに形成される音韻ループが、鏡像段階に先立つ鏡像段階とも言う
べき、重要な発達局面であることは想像に難くない。赤ん坊は鏡に対面するとき以上に、
能動的−受動的−探索的であろうから。
>>36を考え中さんの
>>27に重ねるという発想がなかったです。27に「共感」まで読み込むことが
できてなかった。広がりました。
ところで、みなさんが頭のスミで知っておいてもらえるとありがたいことなんですが、わたしは
非言語的なものの実在を認めることがほとんどできず、これは一種のドグマなようで、どうに
かしたいと思ってます。そういう実在ではじめて受け入れられると思えたのは、「別世界とは
別の角度の外界」だけです。
吉岡洋によると、ギブソンは言語のことを無視していたそうですが、「意味」を扱いつつ言語を
考慮しないなんて、どういうことだかさっぱりわからない、というのが正直な気持ちです。だか
らこそ、ちゃんと読みたいと思ったわけですが。
>>36>>37 僕の発達心理学の知識はかなり前のものにとどまっているという話は以前にしましたが、
共鳴動作を以前に紹介したことがあるように、共感とは時系列的には胎児―乳幼児と母親の関係
にまで遡るものであることは間違いないでしょう。だから、客観・主観といった概念がそこに
根ざしているものであることは疑い得ません。ですが、僕はにまだその領域について十分な知識が
ないので、とりあえずおいてあります。ギブソン的な視点で乳幼児と環境との共感的、言語的
な相互作用を見てみることは、新しい発見をもたらすかもしれません。そういう
ことをやって
いる学者っていないの? そこを埋めるのが、ラカンというのは何か嫌! 読んだことないけど
、近づきたくない感じ……。「ヤバイリョウイキナノカモ…」
例えば赤ん坊の頃から冷たい言葉を浴びせられ
おまえなど産まなきゃよかった等と罵られて
育った子供はどうなるのでしょう?
心理学ではよく寂しい思いをしている子供は
指しゃぶりが治らないと聞いたことがあります
それは母親に対してなんらかの信号を出していたと
いうことなんでしょうか?このように育った人間は
母親から共鳴を受けているものなのでしょうか?
なんか変な質問ですね。すいません
>>39 心理学一般、ほとんど知識ない、のでわかりませんが、言葉がわからない時点でも、
伝わるものはかならずあるはずと思います。
自分で書いた
>>37について。実在ではないけれど、運動や身体感覚は非言語的で
すね。当然です。なんだか見えなくなってました。恥ずかしい。
で、アフォーダンスは知覚についての理論なので、言語を考慮外にするのはアリな
のでしょう、と、とりあえず納得しました。そこから、今度は言語との関わりを考えて
いく、ということでやっていきたいと思います。
>>39 なかなか難しいな〜。うまく答える自信は全然ありません。でも、結論だけいうと、共感は必ず
あるということだけは言えると思います。
共感自体は、意図とは無関係に成立していると思いますので、そう言っていいと思います。
人と人の関係は言葉だけではないので、言葉で言っていることと普段の関係は必ずしも同じでは
ありませんし、コミュニケーションのあり方一つをとっても、すごく多様、多彩です。それと、
親の吐く無神経な言葉が子供を傷つけるとかいうのは、直接同じというわけではないと思います。
子供のころどんな親子関係だったかというのは、もっといろいろな状況がわからないと、専門家
でもなかなか判断が難しいことだろうと推察します。
マスターXYZさんの質問をはぐらかすような答えしかできないようで、ちょっと残念ですが、
これくらいのことしか言えないです。スマソ
とりあえず・・・
>>10 ワロタ。
しかし、・・・あの時の「流れ」に乗っかっていた「当事者」には、すんなり理解できても、
端から見てるだけでは分からなかったりする・・・こういう出来事が、
「視点」というものを改めて意識させてくれます。
あの時、あの場だけで共有していた「遊び感覚」みたいなものがあったと思います。
>>11 「波」というのは俺の中でとてもとても重要な「カタチ」です。
>>24 オイラは一つの視点ですべてを説明しようと試みるのを諦めました。
多分、原理的に無理だと思うから。それによって、
視点の移動に「軽さ」を与えてやることが出来たと思います。
オイラの場合「絶対」の前には「何に対して」が入ります。
「何」が変われば「視点」が変わります。場当たり的かもしれません。
「何に対して」とか「何の為に」という「目的」を踏まえておくのは大事だと思います。
「考えること」自体が目的にならないように・・・。
『あれ?私、学校で教わってきたこと、当然に本当のことだと思ってきたけど、
当然に本当と思える確固とした根拠があったっけ?』
と、突然に世界がほどけた気がした、という前スレ993の体験から私が得たのは、
相対化の視点ではないのです。
“客観的な正しさと、主観的な正しさの間には、飛躍がある。”ということです。
(私が客観的にという場合は、特定ではない一般の他者との間で共通理解がなされていると
信じられるルールに基づいてなされた判断を意味しています。最も単純な例が数学の公理系。
アフォーダンスもクオリアも私にとっては、主観的なものです。他者が自分と同じように
感じているかどうかはかなり疑わしい。脳が似通っているから似通ったものだろう、とか、
ある刺激に対して、同じ反応を返すから似通ったものだろうと推測されるだけです。)
「信じるたる理由が無くても人は信じ得る。」ということです。
私はこの視点を得て、すごく開放されました。
「正しいことは正しい」なんて言ってくる世の中の規範全てに従う必要なんてないんだ、
やっぱり好きなように生きさせてもらう。と。
たぶん、考え中さんは客観と主観の飛躍の間に、先天的あるいは後天的に人が共通して
もち得るある種のルールを探しているのではないかと思いますが、どうでしょう?
私はそれは存在しないと思っています。似通った脳、似通った成長過程から似通ったルールが
作りあげられているのだと。似通った条件を与えることによって、ある程度テロリスト国家も、
福祉国家も作り上げることが可能かも。ただ、人間は複雑な有機体だから計画通りには
なかなか。
>>43 >たぶん、考え中さんは客観と主観の飛躍の間に、先天的あるいは後天的に人が共通して
>もち得るある種のルールを探しているのではないかと思いますが、どうでしょう?
これは、多分違います。これをうまく表現できればいいのですが、なかなか難しいですね。
端的に言ってしまえば、ルールの破壊です。つくるのではなくて、なくしてしまえというのが
一つの目的です。それをシステム化しようということです。
ルールは人によってつくられると普通考えられていますが、僕は人はルールによって
つくられるとと考えています。ルールが先にあって、僕たちはそれに身を寄り添わせて
生きているのです。このルールは、もちろん必然的でもあり、理由もあり、立派な大義もある
でしょう。しかし、本当のところは人はそのルールが何であるかを知らない。そのような意味
でのルールを壊してしまうことが、戦略的な目的です。そのルールがどこからきたのかを知る
ことが、僕のやっている作業の当面の目標です。壊すというのが、ちょっと過激過ぎるとしたら
まあ、ゆるめるとか、ずらすとか、はぐらかすとか、何でもいいんですけど、とにかく訳の
わからないルールにがんじがらめにされているのを何とかしたい、これが根本的な動機です。
ルールとあえて言っていますが、実はルールなどという見えるものではなくて、見えない
体系があると思っています。コードと言ってもいいし、構造といってもいいし、とにかく
我々が感覚ごとそこで再生産されいてるシステム?があると思っています。それを見出し
それに拘束されている自分をそこから引き剥がしてしまうこと? そんなことが、現実的に
できることでしょうか。これを個人の問題としてではなく対処できるシステムがほしい、
これです。
続き
言葉としては過激ですが、実は言葉から連想されるようなものではなくて、具体的には、
人と人の出会いを妨げているシステムに対するカウンターシステム的な考え方です。
このカウンターシステムは、システムの内部にシステムと対立しない形で導入できるものです。
それによって実現できるものは何かというと、個々人が背負っている「内面」の暗黙のルール、
コード、システム、構造からの解放です。一言で言えばそんなシステムが僕の夢です。
続き
「個」からの解放といってもいいかもしれない。関係への自覚的参与の開始と言い換えても
いいかもしれない。とにかく、現代の我々が縛られている観念の最も大きなものは「個」です。
頭がまたフラフラでつ。寝まつ。
よく考えて、きちんと推敲して書くなんて言いながら、また逆のことをやっています。だめだね〜。
細かいレスを連続して書き込んでしまって申しわけないっす>微塵
お休みなさい(風呂入って寝る)
>>26 >相対化のニヒリズムは相対化を相対化したら抜けられました。
もうちょっと詳しくお願いします。
>>39 マスターXYZさん
初めまして。喫茶店のマスターですよね。私はどう逆立ちしても詩は書けません。
何気に私と考え中さんと月読さんは似ているなあと思います。
で、母親から受けとる負の共鳴について、生物の授業で“母親から隔離されて餌だけ与えられて
育ったチンパンジーは、他のチンパンジーと適切な関係を築けない、自分の毛をむしってしまう
など、極度に情緒不安定である”と習いました。
実際、人間でも6歳まで食事を与えられるだけで抱かれることもなかった子どもは、視覚さえ
ちゃんと発達しなかったという例が報告されています。(ソース不明で申し訳ない。)
おまえなど生まなければよかったと罵る母親が、人並みに赤ちゃんを抱き上げるか、微笑みかけるか
といった要素も入ってくるかと思いますが、赤ちゃんの情緒の発達には影響大でしょうね。
指しゃぶりが母親へのメッセージかどうかは参考になることは探し出せませんでしたが、
私の父親は爪を噛む癖をもっており、他者に対する甘えが期待はずれな処遇を受けた時に
頻繁に見受けられる気がします。
もっとも、この父に対する観察は、祖母が父をうまく甘えさせてやらなかったために、彼が他者と
上手く関係を結ぶことが困難(例えば、社会的関係でとらえないと、相手と上手く距離をとれない)
だったから、私に対する対応を間違えて、私もしなくていい苦労をしたという私怨(思い込み)から
生まれたものかもしれませんが。
風呂に入っている間にまた考えたので、すこしだけ追加します。
「個」からの解放は、個への解放であるということです。スマソ、マジに寝ます。
>>39 母親は現在のその人にとってどういう存在なのか。
それが浮かんできません。判断できません。
>>48 >>相対化のニヒリズムは相対化を相対化したら抜けられました。
>もうちょっと詳しくお願いします。
私の場合は、相対化のニヒリズムは、暗黙裡の「相対化の絶対化」から来ていたからです。
単純な話ですみませんw
おはようございます。
上のシステム化の話はおいておきますネ。これは、僕のいろいろな体験からきている一つの
方向なのですが、一番理解されにくい部分でもあると思っているので、ガテンコさんの言う
>先天的あるいは後天的に人が共通してもち得るある種のルール
についてもう少し考えてみます。
絶対性はルールではないと僕は理解しています。もちろん人と人が共同で何かをやるときには
ルールは必然的にできると思いますし、その意味でのルールは必要でもあるでしょう。しかし
その意味でのルールは、関係の中で形成されていくと思われます。それ以外に何かルールのよう
なものを想定してませんし、そういうものを探しているのでもありません。
僕が主観―客観という流れの中で何を見出そうとしているのかということですが、そこでは
主観性の中に取り込まれた「客観」は、既にあった客観性という外見をはぎ取とられ、主観性の
一部分に過ぎないものに変化しています。逆に主観性は以前の「客観」と対立する「主観」では
なく、拡張された概念に変化しています。この主観性は、「客観」であった世界を自分の内部
として取り込んだ主観性ですから、その限りでは世界そのものです。内部の世界ということに
なるでしょうか。このように見られた主観性は、実は前スレで取り上げたゲシュタルトの総体
そのものかもしれません。その主観性の形式下にある世界は、多数ある世界の一つであるという
のが、これまでの流れのなかで僕の考え方の落ち着いた先でした。
では、この多世界とは何でしょう。これまでの話で僕たちは世界に何かをつけ加えたわけでも、
逆に取り去ったわけでもありませんから、それこそが現実の世界そのものにほかなりません。
もともと客観的な単一の世界と、それからは切り離された主観ということから始まったものが
多世界という新しい視点で見られるようになったということですから、ルールの理解はさらに
難しくなったように思えます。
(中途半端なところですが、ここで一旦終わります。続きは改めて)
お昼でつ。続きを考えますた。
主観性を対象として見ることによって、一体新たに何が見えてくるのか。つまり、このことが
当面の課題なんです。
僕の世界は、実は他者の世界と同一のものではない。人それぞれが固有の世界を持っている
のだから、現実とは、このような多数の世界が出会う場所だということになります。
ガテンコさんは、
>アフォーダンスもクオリアも私にとっては、主観的なものです。他者が自分と同じように
>感じているかどうかはかなり疑わしい。脳が似通っているから似通ったものだろう、とか、
>ある刺激に対して、同じ反応を返すから似通ったものだろうと推測されるだけです。)
と言っています。この限りで、僕の考えとガテンコさんの考えは、そう遠く隔たっているとは
思いません。違いは、この認識にあるのではなくて、この先に何を見ているかということだと
思います。
言い換えればこういうことです。僕たちは、世界に取り込まれて人間になるのだと。しかし、
その取り込まれは、完全なものではないどころか、実は逆に新しい一つの世界を構成することに
なるのです。ただ、僕たちはまだ幼児的な自己中心的な見方や、逆にそれを否定することよって
生じた「客観的」な見方にとらわれていて、自己の世界の自律性と独立性を知らないのだと。
知らなくても、最初からそうなのだというのが結論です。この自己の世界の自律性と独立性を他
者との葛藤を通じて形成することによって、僕たちは本当の意味での自分を客観的に見る――
自己を対象として理解することができるのではないか。こうして、僕たちは初めて絶対的な自己
認識を得ることができると思います。この場合、絶対は自己−他者関係を自分の内部に対象と
して持っている自己です。もはや単なる主観性としての自己ではなくて、世界を内部に有してい
るが故に絶対的な自己です。その意味はまた改めて……。
いっぱい書きついでに。ちょっと前後関係がつながっていないところがありますが、許してくだ
さい。全体としてはとりあえず一貫していると思いますが、文節ごとにはうまく意味がつながって
いないように思えるところも、ありますね。申しわけありません。
考え中に永井均を、とても薦めたくなってまいりました。
>>54 説明してください。何で読ませたいのですか。これまで全く未知の人なので、
少しどんなことをしている人なのか、微塵の言葉で聞かせてほしいです。本当に
全然知らない。見事に何の先入観もありません。
すまねーあげ
語りようのない「奇跡」について、いかに言葉によって語らしめるか?
という問いについて、ひとつの答えを示した人だから。
言語がなぜか呼び寄せてしまう言語の外部、という偶然に頼るのではなく、意図して
呼び寄せてみせた人。
驚異。
>>54 なんで私には薦めてくれないのですか?「わからん」て言って、切り捨てそうだから?
謙虚になろうと思っても、一朝一夕ではどもなりませんね。
でも、手持ちの駒は出し尽くしてしまったので、ここからはほのみえるものを頼りに、
手探りでいくしかありません。いわば、ようやくスタート地点にたどり着いたような。
前スレの最後の方、かもめさんと考え中さんのやり取りをみて、哲学の本質は進む方向を
見定めてゆくことかもしれないな、それって経路と関係あるのかな、などとぼんやり思っています。
>>58 そういう人なんですか。わかりますた。
で、例えばどんな本を読めばいいんでつか。とりあえず、この本のここを読んでみろとか言って
もらえると、きょう、あすにでも実行できるかもしれません。何しろ1冊も目にしたことがない
もので、よろしくおながいしまつ。
みんな、こんにちわ。お返事ありがとうございます。
某スレのようにお返事を長々書くわけいかないんで、返事がかいてあるヤッタゾー
と思った事だけ伝えさせてください。でもガテンコ÷ガテンコ=微塵だったなんて
思わずパソコン相手にニヤリwとしましたYO!
マスターいっつもお世話になってるから役に立ちたいけど
指しゃぶりの事はよくわかりません。
おおよそですが、1歳から2歳の間に母親との信頼を持てないと
周囲に対する不信感が強くなるというのは授業で習いました。
たいしたアドバイス出来ずにごめんね。
>何気に私と考え中さんと月読さんは似ているなあと思います。
ガテンコさん、似ているなんて言われて光栄です。
考え中さん嫌がらんでね。
たまには端っこだけ、話に混じろうと思ったけど、落ちます。
時間切れだ!ではでは
>>月読さん
愛い奴!ムギュッ!!!
救われるよ〜。ぐすん、すん。
>>61 嫌がる? んなわけはありません。詩が書けなくても、人間十分生きていけますよ、ハイ。
何も問題ないっす。似た者同士っつーことで、よろしく。
このスレにも普通に参加してください。歓迎しまつ。適当にまぜっ返しちゃってください。
>>59 >なんで私には薦めてくれないのですか?「わからん」て言って、切り捨てそうだから?
永井を読んでくれる人には誰にでも読んでもらいたいと思うのですが、慎重になります。
乱暴な表現になりますが、図式的に言ってみます。
哲板の永井スレは必ず荒れます。それはもう悲しいくらい。
つまりシンパとアンチに非常に分極化しやすい哲学者です。
そしてわかってるシンパとわかってないシンパ、わかってるアンチとわかってないアンチの
四つにわかれます。
永井について語るときの問題は、自分や議論の相手が、よっつのどれに属するのか言表上
は不分明になりやすいことです。
言葉の上ではどちらとも取れるような言い方でしか言えないから。
賛同者が敵だったり、反対者が味方だったり、シンパが荒らし同然だったり。
とにかく(悲劇的喜劇的に)議論を混乱させやすい存在です>永井
「読んでみよう」という人を止めるつもりはありません。でも自分から薦めるときは、よほど思
い切ったときです。「ええい!ままよ」つって、薦めるわけです。
考え中とは今までたくさんたくさん話し合ってきて、永井のことも話題じたいはしばしば出てき
ていましたが、今回、ついに、初めて、清水の舞台から飛び降りながら薦めたのでした。
思わぬ長文になっちゃった・・・・・・w
>>64 数時間前に永井スレを眺めた。本当にぐっちゃぐちゃだね。微塵らしき人が孤軍奮闘してるのが
何やら微笑ましい感じですた。ちょっと探してみるけど、お薦めの本は何かありまつか。
>>60 一冊ということであれば、『転校生とブラックジャック』(岩波)が好きな私です。
あるいは『<魂>に対する態度』 『<私>の存在の比類なさ』(勁草書房)。
でも『<子ども>のための哲学』(講談社現代新書)が、入手しやすさから言っても、「入門」
にはいいでしょうか。
産業図書の哲学教科書シリーズの『倫理とはなにか』あたりから入ったりするとどうなん
やろ?と、古い読者としては思ってみたり。
>>64 そういうことでしたか。
ありがとうございました。
>>59 手持ちの駒なんかなくても全然OKっすよ。僕も、とっくに尽きてます。ときどき過去の遺産を
掘り起こして来たりしますが、基本的には今考えていることをそのまま書いてます。過去から
持ち越した資産なんか、全部がらくたになってもいいんです。大事なのは、今の自分がどう感じ
どう受けとめ、そしてどう考えるかでしょうから。気楽にいきましょう。頭をぐらぐらさせたり
しながら、考えていけばいいと思います。
>>66 とりあえず、明日にでも(暇があれば)図書館をのぞいてきます。近所には
哲学コーナーの
ある本屋はありませんから、買うとしたらまたAmazon(最早常連になってまつ)かな。
サンクス ですた。
考え中さん
今日書かかれたもの、かなりするすると入ってくるのですけど、どうしてですか?
と聞いてみたくなる。
わたしは本を読むとき、重要!あるある!なるほど!等の箇所には線を引きますが、今日の
カキコは線がたくさんです。
システム化の話については、根本的な動機というのにかなり近く感じました。けれどわたしは、
「なんとかできない」とすぐにあきらめていた時期がつづいてました(これは、「言語がすべてド
グマ」ゆえです) なので、カウンターシステム的という考えを持つこと自体、なんて前向きなの
だろうと好感的驚きを持ちました。 支持!
>>51-
>>52は同感がたくさんです。えー、考え中さんにこんなに同感したのははじめてです。
(しかし同感できるとどうしてこんなに嬉しいものか)
>>64 そんななんですね〜 見たくないな。大学の先生も永井均に対して微妙な反応だったなあ。
わたしは、いつかでよいので、野矢茂樹の『哲学航海日誌』も考え中さんは楽しく読んで
いただけるのではないかと感じました。野矢茂樹スレも荒れるのかな。永井ほどではないで
しょう。
(聞かれてないけど、わたしも『転校生とブラックジャック』がとくに好きだー 『翔太と猫のイン
サイトの夏休み』ナカニシヤ書店も。どちらも対話形式なんですよ!)
ガテンコさんも考え中さんも、何か面白い本があったら、よかったら教えてください〜
といっても、今は緊急に読みたい本が3冊順番待ち状態であり、のろのろくどくど読むので、
読むのは半年先になりますがw
>>70 僕は今は自宅でSOHOみたいなことをやっていますが、昔はあっちこっちで働いてますた。
そういうところで、自分なりにいろいろな「実験」的な対人関係や組織的な試みをやったことが
あるんです。一過性のものだったけど、やっている間はとても楽しかった。永続性がないという
のが最大の欠点だけど、そこで何度かおもしろい経験をしてきました。そういうのが僕の
考え方のベースにあります。カウンターシステムというのは、その辺から考えられた願望的な
志向です。かつてそういう実験をしていたときも、僕は個としてやっていました。何らかの
団体や組織に属さず、個人的な志向としてそういうことを試みてきたのです。その後、通勤に
疲れてSOHO路線になりましたが、今にして思えば、それがよかったのかどうかわかりませんw
とりあえず実験はしてみて、それなりにうまくいったという経験はありますので、それが
僕の支えになってきたのかもしれません。(ほとんど忘れますが)
会社でもつくるかなぁ……。
働いてみたいな、その会社でw
かもめの挙げている「猫のインサイト」は評判がよいようです。
>>70 野矢は荒れません。レスが付きませんw
>考え中
考え中の言う「客観性」と「絶対性」というのがいまいちつかめないのですが、
例えば、俺の「よくわからない」と言う意見は「考え中」にとっては「客観」ですか?
それとも別ですか?
後、「絶対性」は「普遍性」とか「一般性」に置き換えられますか?
なんか、あまり頭が働かない・・・。
>ガテンコさん
つかぬ事を伺いますが、ガテンコさんは♂?♀?
???
>かもめさん
黒田硫黄はツボではないですが、なかなかいい味だしてるなーて感じです。
>>73 大三元さん
あのね、あまり概念にこだわらない方がいいと思います。僕がこういう哲学的な概念をいじり
回しているときは、実は本来あるべき言葉が見つからないときに、チョロっとヘーゲルから
借りてきたりして間に合わせているだけという面があるんです。本当は、もっとふつーの言葉で
語れるようになればいいんですが、それができないのが僕の今の限界です。申し訳ありません。
て、それだけじゃ余りにも内容がないと思ったので、
>俺の「よくわからない」と言う意見は「考え中」にとっては「客観」ですか?
絶対との関連で見られたときは僕の言葉も含めて、それら全体が客観性です。そして、
そのように見ている自身と客観との統一が絶対性ですね。チャンチャン。
実は、まだこの辺は自分の中でも未整理です。多少レトリックで逃げているかもしれません。
僕がいうことではありませんが、ガテンコさんは女の方だと思います。違ったら失礼!
俺は素直に女性だと思っていましたが・・・・・・
まぁ、性別なんてどーでもいぃ問題だ・・・・・とは思いませんw
新スレに移るあたりから女性だと思い始めました>ガテンコさん
さいしょ男性だと思っていたのは、「このスレには男性だらけ」「ガテン系は男性」と
いった短絡的な思い込みからでありやした。前にも同じことやったなあ…
>>74 理解したいけれどできないと概念の定義をしかと掴みたくなるのも、専門用語を使う
のも、自分は悪いこととは感じずやっちゃってます。ある程度は必要だし有用だろう
けど、ちょっと反省してみたり。
>>73 黒田硫黄の性別が気になるわたしですw 男だろうと思ってたら、女性の外見をした
写真を見たんです。「男性だとよく思われるのよね」といったコメント付きの。あれは
読者をからかっているのか?
>>71 わたしも働いてみたいな、その会社で(ほとんど本気)
野矢スレ行ってみようかな!(まあまあ本気)
おはようございまつ
>>かもめさん
>同感がたくさんです。えー、考え中さんにこんなに同感したのははじめてです。
ありがとうございます。こんなふうに人から言ってもらったの、はじめてですw
正直うれしいでつ。
でも、これからどう変化するのか、自分でも全くわかりませんが、よろしくおながいしまつ。
それから、お薦めするような本は余りないです。「エレガントな宇宙」ぐらいですか、最近自分
で買っておもしろかったのは。昔の本でしたら何冊かありますが、今売ってるだろうか。
T.G.R.バウアーの「乳児期」、「乳児の世界」(ミネルヴァ)。この辺のご紹介だけでお茶を
濁させてください。あまり勉強してないのがバレバレでつねw 大体忘れてまつ。
>>56 本当に本の紹介だったんですね。ついていたレスが「ハレンチ学園……」とかだったので
リンクをよく見ませんでした。申し訳ないでつ。ありがとうございました。
ときどき「先行エウレカ」みたいなことをします。
状況のなかに手持ちの「かたち」が組み込まれていって、大きな「かたち」になり、あるとき
欠けていた決定的なパーツが訪れてパズルが完成し、「エウレカ!」と叫ぶ。
ときには、決定的なパーツ自体が一瞬にして他のパーツを自分のまわりに組み上げてしま
うこともありますね。
そんな過程を先取りするのですが、大きな「かたち」を作って、細部を磨き上げながら全体
像がわかるくらいいじくり回していく。ここから「エウレカ」に到るとすれば、最終的に落ち着き
そうな「完成予想図」を描いていくわけです。
「鳥だ、それは確か」「猛禽ぽいけど、ワシタカ類?隼って線もありだな」「とりあえず鷹でキメ
てみるか」「なんか美しくはばたかないなー」比喩的には、こういう感じで進めていきます。
うまく「かたち」が鮮明になると、欠落部分が空洞となってあらわれてきます。
たいていは、空洞の数が多過ぎてお話になりません。
でもときには、大きなひとつの空洞が、いかにも「決定的感」を漂わせてあらわれます。
その空洞を「かたち」の内側から丹念に触れていくと、発想の内実は存在しないものの、
空洞の外形だけ、表面のかたちだけはわかってきます。このとき、幸運なら、いわば発想
のルックスが内実を喚び寄せて「エウレカ」が訪れますが、そんな安易な展開の「エウレカ」
は、だいたいやり尽くしてしまっていて、最近はあまりおめにかかれません。
とりあえず、このスレを取り巻く状況を「先行エウレカ」していくと、「かたち」の一画に見事な
空洞が形成されていて、その大きな「かたち」のそばに考え中がいて、空洞を指差しながら
「ここです!このへんが足りないんだ!」と、みんなに訴えているのが見えるような気がしま
す。
ぼくは、「あぁ、とにかくこの人はなんか<正しい>んだなぁ」などと、説得力のある根拠はなに
もない感慨に浸りつつ、考え中の内側から見た空洞の風景に同化できれば、ぼくから見た
空洞ももっと鮮明になるにちがいない、そんなふうに思ったりしています。
>>80-82 ありがとうございます。これというのも、前スレで1さんや皆さんと出会えたことで、
自分なりに少しは頭が整理できたおかげだと思いっています。感謝しておりまつ。
>考え中の内側から見た空洞の風景に同化できれば、ぼくから見た
>空洞ももっと鮮明になるにちがいない、そんなふうに思ったりしています。
そうなんだろうなと、僕も感じます。
これまでの経過を僕なりに考えてみて、主観―客観―絶対と言い切ったところで、僕としての
全体像は枠としてはできていると感じています。でも、この主観―客観―絶対の
内実は、今の
ところまだ連想ゲーム的なところにとどまっていて、これを埋める作業ができないでいます。
でも、手さぐり状態ながら、少しずつ前進しているような気はするんだよね。ガテンコさんや
かもめさん、大三元さん、微塵さんとのやりとりが、僕を刺激してくれていることは間違い
ありません。思っても見なかったことを書いたりしています。今までのやり方を継続しながら
もう少し僕の考えを具体化できればなと思っています。
かもめさん、惜しい。
ガテン系の女です。来週からまた現場が始まるので、夜更かし癖を直さなきゃ。
ほんとは穴掘りが好きなのだけど、最近は測量のお手伝いをしています。
あと、「なるほどな」が口癖の合点コです。
ここまでの人生最大の合点は、高校生の時みんなで授業ぬけて映画観に行くことになった際の、
親友の「嘘つくのめんどくさいからやめとく。」の言葉です。
なるほど。嘘つくのは面倒くさい。
以来、自分のやりたいことをする為に嘘つくのをやめて、主張をするようになりましたとさ。
>>75 あー、やっと
>>44あたりからの社長の考えが腑に落ちました。
「客観」とか「絶対」とかの言葉はただでさえ抽象的な上、自分が特にこだわって考えてきた
自分なりの「カタチ」がすでに固まっているので、そっちにひっぱられやすいのですよ。
社長の言う「絶対性」は俺的には「恒常性」が近いのかな。
カウンターシステムというのは、まさに相対化ですね。アンチテーゼと同じ。
前スレで出てきた「闇教育」という語が浮かんでくる。
これは、「闇の世界のエリートを育てる非合法な地下教育組織(虎の穴みたいな)」
・・・のことなんかでは全然なくて、
「臭い物に蓋をしないで見せる」ということですよね。
養老孟司がよく、「死体を隠すな」と言ってますね。今の人は「死」と言う物に
身近に触れる機会が少ないから、逆に命の大切さが実感できないみたいな。
あるいは、今の時代は環境が衛生的になりすぎて、逆に抵抗力が落ちてしまっているとか。
今の教育の「カタチ」に完璧にかけている物があります。
とりあえずその欠けたカタチの1ピースについては確信があります。
>>84 合点ですw。なるほどな。
>>84 嘘をつかないとかいうことじゃないんだけど、やっぱ高校時代の話で、遅刻しそうになると
みんな走るじゃないか。ある日、走ってて突然「馬鹿みてー」と思って走るのやめたんだ。
それから、僕のマイペース人生は始まりました。
といっても、いつも遅刻してたとかいうことじゃないよ。わけもわからずに、周囲に合わせて
る(見えないルールにひきずられている)自分に気がついたという意味(後付け)。
ガテン系の女性とははじめてお話ししました。よろしく。なんかカコイイと思ってしまうのは
まずいのかな?
これも前からぼんやり考えていたことなんだけど、端的に言えば僕たちはこどもだということ。
本当の大人になるということは実はとても難しいことで、歴史上1人も大人になった奴なんか
いないのかもしれないとまで思う。結局僕たちは、本当の意味での自律性を獲得していない。
それはだれかのせいじゃない。ヒトという種が自分を学ぶのにそれだけの時間を要するという
ことじゃないのか。それには、何千年も何万年もかかるということ。
本当の意味で人類が大人になるには、まだまだ時間がかかるのかもしれない。だれも一気に
大人になれない。それは人類全体の話だから。
とにかく僕たちはこどもなのだ。甘ったれで、傷つきやすくて、自分も他人も信じられなくて、
1人で生きるのが怖くて、何かに頼らないと生きていけない。その何かは、別に人でなくても
いい。観念であっても、集団であっても、国であっても、民族であっても、趣味であっても……。
そういう自分を否定するのではなくて、そこから巣立つこと、それが大人になるということ
なんだろうと思う。そういう大人になることが、絶対的な自己を持つということかもしれない。
これも一つの視点です。これで何もかも説明できるとは思っていないけれども、ヒトが人になる
ということと、人が大人になるということ、歴史はこの2段階のプロセスだと見ることは
できるかもしれないと思う、自然の過程として。
これ、「幼年期の終わり」だ。でも、言っていることは違うよ。わかってもらえるだろうか。
>>77 >黒田硫黄の性別が気になるわたしですw
どこかのスレでも話題になってたな。読んで受ける印象はオヤジっぽいですが・・・。
マガジンで連載していた「シュート」大島司を読んでいて、「この作者はもしかして
サッカーやった事ないんじゃないかな?」という印象を受けたのでした。
「やった事のある人ならではの共感」みたいなのを感じなかったので。
この作品が賞を受賞したときに作者が女性だと知って、なんか納得しました。
(この人は、コミックスの中では自分の事を男として描いていました。)
なんか作品全体が、サッカーに対する「憧れ」の視点で描かれているなーみたいな。
この作品は大ヒットしたのですが、これによって私の視野は広がったのでした。
「あー、サッカー知らなくてもサッカー漫画描けるんだ」と。
むしろ知らないからこそ、細かいことにとらわれない自由な発想が出来て、
広い人に支持されたのだと。
案外、知識に詳しい人が描くと、細かいとこに拘りすぎて一部のマニアにしか
うけない・・・という事がありがちです。
「専門知識に拘っていると視野が狭くなるなー」と学びましたとさ。
88の「幼年期の終わり」はA.C.クラークのSFの古典でつ。説明不足でスマソ
考え中さん
>>78 できるだけついていきたい所存です。見えなくなりそうになったら、またグッドでもない質問をし
てしまうかもしれませんが、そのときはばさばさとさばいてください。
紹介していただいた本、やっぱり聞いたことがない本なので聞いてよかったです。メモりました。
> とにかく僕たちはこどもなのだ。甘ったれで、傷つきやすくて、自分も他人も信じられなくて、
> 1人で生きるのが怖くて、何かに頼らないと生きていけない。
なぜそうなのか、は説明できないとしても、どのようにしてそうなのか、を見ることはできると思
いました。それを知ることで、「大人」になるとはどういうことかがさらによくわかると。
ところで、「ヒトという種が自分を学ぶのにそれだけの時間を要する」 こういう考えは新鮮でし
た。というのは、経験的なことを考慮にいれる習慣がなく、時間の長短は関係ないと切り捨て
てしまうからです。時間をかけてどうにかなることがらではない、今可能でなかったらどの時点
でも不可能だ、という。(もちろん個人的な話だったら別ですけど、「人」一般の話だから)
でも、概念や信念は、環境や状況から中立ではまったくなく、合わせて変化するものなのでし
たね。そうか…。また当たり前のことを確認してしまいました。
ガテンコさん
>>84 「嘘つくのめんどくさいからやめとく。」 わあいいな、と思ったけど、それは、「嘘つくのめんどく
さいから(嘘つくのを)やめとく」と読んだんです。(映画行くのを)ではなくて。
「主張するようになりました」とあるのでこれでいいということにして、頂戴いたします。
「なるほどな」も、自分には無いものを受け入れる感じで、いい言葉だなって、いま気づきました。
大三元さん
>>89 > 読んで受ける印象はオヤジっぽいですが・・・。
筆書きの雄々しい線、といった画のことにとどまらず、男性の印象です。
> 「専門知識に拘っていると視野が狭くなるなー」と学びましたとさ。
わたしにはそんな度量はありませんでした(笑)。バスケやってたけど、明らかにやってない人
が描いたものには耐えられなかった。憧れが強かったらよかったのだろうけど、バスケの場合
ロクなのなかった、スラムダンクが出るまで。井上雄彦はバスケやってて知識ありありですが、
狭くないのでしょうね、あれだけ人気でたってことは。
黒田硫黄は男、が定説です。
定説を、知ってたんだ…。やっぱり。(やっぱり知っていた/やっぱり定説は「男」だ)
あっ、いま、言葉が有機性を失う状態がやってきました。「やっぱり」という言葉が。
繰り返し使うとそうなりますね。
変だぞこれ。盆踊りのかけ声のようにしか見えなくなってきました。
>>85 >「臭い物に蓋をしないで見せる」ということですよね。
「闇教育」についてですが、
僕がここで言っているのは、アリス・ミラーという人が「魂の殺人」という本の中で紹介した
ドイツにおける教育観の一つで、一種の虐待教育と見ることができる、親に従順な子どもを
育てるための方法のことです。このことから出発して、ミラーさんは教育(しつけ等)一般を
否定してしまうのですが、そのことの是非はおいて、事実として人類が持ってきた教育観の一つ
としてこういうものがあったということは知っておいていいと思います。ぐぐっても幾つか
引っかかりますので、ぜひ参照してみてください。
大三元さんの言っているのは何か別のもののようですが、出典など紹介していただけると
ありがたいです。
>>85 それから、「社長」っていうのやめない。最初、だれのことだかわからなかったよ。
なんか、イメージわりいし、でもって、社長じゃないしw
対人関係の一つの視点
場を維持する際に留意すべき点は、相互作用を場の維持の可能な範囲内で許容し保障すること。
ここに場を維持するものの個性が介入する余地はあるが、その場合には、場の相互作用を必要
以上にコントロールしようとしないことが重要だと思われる。コントロール的介入は、集団の
自発的相互作用にあらかじめ方向性を与えてしまうこととなり、大抵は集団内に不要な対立の
要素を持ち込むこととなり、相互作用の自発的な展開を阻害することになる。
自発的相互作用の保障によって、集団の自己組織化プロセスを促進することができる。この経験
は人を変える。これを適切に行うことで、例えば学校でなら、子供たちの自主性が最大限に発揮
され、子どもたちは自ら行動を律することを学習する。このような場は、自然発生的にはかなり
多数存在する。しかし、一過性である。それは単に指導者の個性の問題とか偶然の産物と理解
されているからだ。この考え方は、A.ミラーの「反教育」に対する可能な対応のうちの一つだと
思われる。この場合、場を維持するものは、可能な限り大人でなければならない。この大人の
意味は、一般的な意味ではない。
とても初歩的なアイデアですが、一般に集団を維持して何か作業をする場合の一つの原則かなと
思っているので、書きました。これは一般的な社会システムと親和性が高いように思えます。
>>95 私が勝手に解釈してしまった様です。出典とかは思い当たりません。
闇教育、ぐぐってみましたが、かなり極端な考えみたいですね。
でも、背景を考えるとその極端さも推し量れます。
かつて、私が自分の父親の存在を全否定していたことを思い出します。ですが、父親
の存在なくして自分の存在は在り得ない。「よその家に生まれたら・・・」等と考えて
しまいますが、有り得ない。人間は有り得ないことでも考えてしまう。
あるいは、「戦後」という時代が「戦前」「戦中」の日本を全否定してしまった事とか。
日本は「悪い国」だったと。これはアメリカの洗脳でもありますが。しかし、過去という
前提をなくして現在は成り立たない。日本は歴史の断絶で大きなモノを失いました。
私が幸運だったと思うのは、祖父母と同居してた事。父がどういう育ち方をしたのかが
ある程度分かった。さらにウチは田舎の結構歴史の古い家なので、曾祖父母、さらに前の
ご先祖様の話なんかも聞かされた。自分が時間の流れの中に存在しているという感覚が、
無意識の中に育っていた事。
過去を消し去ろうとする今も、その過去なくしては有り得ない。
この辺も、過去と現在の関係を一度相対化した後に絶対化です。
>>96 葉巻「プカぁ〜」みたいなw。失礼しやした。
>>87 言っていること分かります。
あくまで、「進化」というモノを前提に置いた話ですが・・・。
「個体発生は系統発生を繰り返す」という考え方。
胎児は受精卵という単細胞生物から始まって、進化の過程をトレースする。
(「ネコザメ」にそっくりな時期があるからほ乳類の祖先はネコザメらしいです。)
この考え方に「程度問題」を持ち込む。
程度問題で考えれば「種」などという境界はなくなる。サルとヒトの間に断絶はない。
人類の歴史は、生物の進化の歴史の微分でしかない。今この瞬間も進化は続いている。
我々は進化の最前列にいる。サルという過程なくしてヒトが在り得ないように、
様々な歴史の積み重ねなくして今の我々は在り得ない。
そして、個体発生はこれをトレースする。トレースは胎児の間だけではない。
今現在も続いている。チンパンジーの知能は4歳児並と言われる。逆に言えば、4歳児までで、
知能的には、チンパンジーの時代までしかトレースできていないということ。
そこから現代までの知能の進化の過程(歴史)をトレースしないと、個人としての「現代人」
となって、最前列に立つことが出来ない。
この、トレースの過程を省いてしまうと、「幼形成熟」になってしまう。先祖帰り。
合理化の時代の今は教育も社会も、「過程」をどんどん省いていきますね。
インスタントさだけを求めて。
進化を前提にするなら、過程を省く事は合理的ではない。
でも、程度問題で考えると、進化とは変化の度合いにしか過ぎないのだけれど・・・。
考え中さんの言うような「真の大人」は「現実」では有り得ないと思います
>>98 A.ミラーさんの主張の部分をどう受けとめるかは別の話ですが、「闇教育」自体は歴史的事実と
考えられますので、よろしければ「魂の殺人」を読んでみてください。人類史にはこういう部分
も確実にあったのだという認識にはなると思います。
明治維新から第二次大戦までの歴史をきちんと掘り返すのも、大事な作業なんでしょうね。
歴史をめぐる議論には、とても難しい面があって、僕は安易に口を開けません。人の数だけ世界
があるとすれば、人の数だけ歴史があるんです。それを、どれが正しい歴史観だなどと安易に
言えるはずもありません。戦前の日本の歴史については、「戦後民主主義的歴史観」も、
それを否定するように出てきた最近流行りの歴史観も、糞くらえです。どちらちしても、安易な
歴史観です。明治維新後の日本が取った世界への対応を、レーニンの「帝国主義論」的な観点で
裁くのもアフォだけど、逆に世界史―アジア史的観点を抜いて日本を云々するのも馬鹿げたこと
だと思います。韓国や中国と一戦交えて、今度こそ亡国の道を歩みたいのなら別ですが、そうで
なければ、戦前の日本人の世界観をまじめに反省することが必要なのはは間違いないと
思います。全否定ではなくてネ。
>>100 「真の大人」は難しいというか、現実的な話ではありません。簡単に言えば遠い未来の人間像
ぐらいに考えればいいと思います。それと、98で言っている「大人」は全然別の話です。これは、
単に場を維持するということを理解している人という意味で、担い手としては子どもでも
構わないと思います。
絶対というのは、出発点に過ぎないと考えるといいみたいだ。
大人になるのも、もちろん出発点だ。僕らは、なかなか出発点にたどり着けないで青息吐息の
ガキというわけだ。
絶対的な観点を獲得したからといって、現実が変わるわけではないというのは、
当然のことで、
そこから現実の問題を解決するという巨大な山が待っている。絶対もなかなかしんどそう。
103 :
考える名無しさん:03/07/19 22:24
ちょっと周辺的な話を続けてますが、一連の話であることは確かです。問題の核心がどこにあるの
かということをはっきりさせるためにも、もうちょっと迂遠な話を続けるかもしれません。
核心の話に比べると、とてもゆるくてぬるい感じがするかもしれませんが、これらのことを
本当に統合していくためには、核心の問題を解決しなければならないと僕は感じてきました。
周辺の問題は、実際それほど難しくありません。例えばカウンターシステムの話も、既に触れた
ように、実践的にはいくらでも例があります。意図的にそういうものをつくり出そうとした実験
のようなものも、世界中で行われたと思っています。しかし、現実には永続性はないのです。
これらの動きががある一つの潜在的な流れであることは、僕にとってははっきりした事実です。
しかし、これらの動きが潜在的なものにとどまったきた理由があると僕は思っています。それを
解決する鍵が、一つには観念の自然性ということだ思っています。これをどう伝えたらいいのか、
うまく言えません。
この場合の自然は、普通に言う自然科学的な自然ではありません。もちろん、機械タンの言う
自然でもありません。自ら変化し発展する「生きた」自然とでも言えばいいのか、これが前
スレで1さんにぶつけた「自然」概念であることは、もうおわかりいただけると思うんですが。
またageてしまいますた。せっかく大分さがったのに。申し訳ないでつ。
>>98 訂正。
>闇教育、ぐぐってみましたが、かなり極端な考えみたいですね。
→闇教育、ぐぐってみましたが、Aミラーの「反教育」は、かなり極端な考えみたいですね。
ですね。「闇教育」自体は何となく想像つきます。西洋の「罰」は神の代行ですよね。
映画かなんかで、子供に鞭打ちするシーンを見たことがある。
個人的に「躾」は必要だと思います。特に幼少期は。やり方と程度は問題ですが。
>>100 「『戦前の歴史観を全否定した』という戦後の歴史観」を全否定する罠に落ちている一部の人
がいますね。
ただ、日本という国、日本人という民族に所属することを大事に思う「立場」に立つなら、
主観的な歴史観というのは大事だと思います。「日本人」のアイデンティティだから。
もちろん客観的な歴史観も大事です。
>>101 私が
>>99で「現実」と言ったのは遠い未来まで含めた「物理世界」の現実です。
人間が、今まで進歩してきたのと同じようにこれからも進歩し続けられるというのは、
妄想でしかないと思います。右肩上がりの成長と同じで。
>>105 ううん、難しい話になってきました。教育と歴史については、もっと先になって話した方が話が
いい話題だと思いますので、ここで一たんおきます。
進歩についてですが、
>人間が、今まで進歩してきたのと同じようにこれからも進歩し続けられるというのは、
>妄想でしかない
という気持ちはわかります。もちろん、僕も今までのような資本主義の発展がいつまでも続くと
は思っていませんし、また技術の進歩についてもひょっとしたらどこかに限界があるかもしれま
せん。
ただ、大人になるということを、こういう進歩と同じ意味で理解してもらうと、少し困ります。
その意味では、進歩とはちょっと違った概念です。だから、わざわざ「大人」という言葉を
使っています。もし進歩ということであれば、人間は何万年もかけて進歩してきたわけで、
とっくに大人になっていていいわけです。でもなっていない。例えば、前近代社会の人間と、
現代の人間を比べてどっちが大人かということにほとんど意味がないということはわかっても
らえるでしょうか。現代人の方が大人だとは決して言えないと思います。ですから、これは進歩
的な歴史観の問題とは違います。そのことを踏まえた上で、僕はヒトが人になる段階と人が大人
になる段階とにわけるという考え方を示しました。これはこの間、漸進的に進歩してきたと
言いたいわけではないのです。この間、人類は右往左往しながら自分を学習してきたのです。
それが本当に進歩であったのかというと、そうでもないだろうと僕は思います。その上で、人間に
ついて、あえて大人になるという言い方を採用しています。ご理解いただけますでしょうか?
考え中さん、
遅いですけどやっと言ってる意味の一部が理解できてきました。
カウンターシステム素敵です!←遅っ!
考え中さんが社長になったら働きたいですね。本当。
カウンターシステム、闇教育。個々には分るのに考え中さんが言わんとしている事がまだ見えません(泣
置いてかれるよ〜
精進せねば、暇な時読み直して応援します。頑張れ〜。考え中さんの見ようとしている何かに夢を感じまね。
ガテンコたん
>愛い奴!ムギュッ!!!
グェッ←ビックリした声
>救われるよ〜。ぐすん、すん
嬉しいっっ!やっぱりガテンコたんのキャラ好きです〜♪
微塵たん
先行エウレカの話、触覚より私の無意識探索の時とちょい似てます。
特にココ
>いわば発想
>のルックスが内実を喚び寄せて「エウレカ」が訪れますが、そんな安易な展開の「エウレカ」
>は、だいたいやり尽くしてしまっていて、最近はあまりおめにかかれません。
でもこれ安易なのか・・・と思い少し落ち込みグスンでした。
大三元さん
>マガジンで連載していた「シュート」大島司を読んでいて、「この作者はもしかして
>サッカーやった事ないんじゃないかな?」という印象を受けたのでした。
>「やった事のある人ならではの共感」みたいなのを感じなかったので
兄さん鋭いYO!最近漫画ごぶさただったけど
兄さんから漫画の読みかたおそわりました。
かもめたん
知識がいっぱいあって、生き生き話すかもめたんが眩しいYO!
あー、早くメンドイ事終わらせて2ちゃんに浸りたい。
たとえ話ではないんだけれども、人間を理解するのに2種類の方法があります。時間軸に沿って
成ったものとして見る見方と、現時点においてそこに存在している総体として見る見方とです。
例えば精神分析が前者だとすれば、現存在分析は後者の見方ということになるのでしょうか。
これを水平的な見方と垂直的な見方と僕は呼んでいました。
両者とも成層構造として見るという意味では同じなのですが、前者は時間軸に沿って過去を水
平に眺めるわけです。それに対して、後者は全体を垂直に眺める、現在の総体として現れる全体を
垂直の構造として見る……、伝わらないかな、これでは。うまい言葉がないかなぁ。
イパーイ書きすぎですかね。ちょっと考えるかな。
「能のなかの幽霊」少しずつ読み進んでます。何かヒントがありそう。
>>月読さん
また来てくれましたね。サンキュウでつ。
難しい話もだんだんふえていきそうなきょうこのごろ、焦らずにマターリと。
そのうち、きっともっとわかりやすく書けるようになると思う。そのための訓練も
兼ねて、ここでみんなと対話しているんだと思ってます。どんどん質問とかして
ください。
>>月読
>>107 >でもこれ安易なのか・・・と思い少し落ち込みグスンでした。
行為が安易なんじゃなくて、「比較的たどりつきやすいエウレカ」ってこと。
微塵たん、
私にとってそんなに簡単なやり方では無いという意味です。
微塵たんの説明はわかりやすかったです、でも私の説明へたでスマソ
昨日の夜、心の社会を読みました。
もう少しリアルが落ち着いてからと思ったんですけど
ここ数日がんばった自分へのご褒美に読んでみました。
かなり目から鱗です!!!!夢中になって読みました。
ただ、はまりそうで怖いですね(汗
脳の中の幽霊も本当は読みたいです。
正直ウズウズします。
紹介ありがとうございました。
考えチューたん
やさしい言葉ありがとう、時々遊びに来るぞ〜
質問しに来るぞ〜そう言ってくれたんで
お言葉に甘えて・・・・・・・
>時間軸に沿って
>成ったものとして見る見方と、現時点においてそこに存在している総体として見る見方とです。
???弁証法的な見方と形而上学的な見方という意味???
という安易な見方しかできないんですけど(汗
そんなんじゃないよね?ごめん
話乗りたいから教えてくらさい。
「大人になる」と「進歩」について
信念を形成する際のものの見方(認識の形式)は一定で、外界の観察・研究や発見等の経験
的なことによって変化するのは、その形式にある不定項の中身だけ、という考えは間違いで、
経験的な事柄の変化は、認識の形式を構成している概念の意味まで変える。
かつて真だった命題が偽であることが明らかになり、信念体系に修正が入ると、その修正は
わずかであれ全体に及ぶ。変化を絶対に免れる固定した「意味」などありえない。
…という全体論の考えがあります。厳密さが足りませんが。
「概念や信念は、環境、状況によって変わる」と前に書いたのは、こういうことでした。信念内容
だけでなく、概念の意味まで変わる。(でもこれを徹底する相対主義はまた間違いですが)
これは、ある程度はクーンの「バラダイム」理論と同じなようで、それによると、「進歩」という
考えは成立しないものとなるようです。
でもそれは、科学一般の話で、もちろん、
>>87の「大人」とはどういうものかを明確に定義でき
なくてもつかめていて、それを目的にするのだと決めてしまえば、そこでの「進歩」という概念
はまったく有効だと思います。
「大人になる進歩」の場合は、現実の環境の変化に対応することでみずからも変化する比較
的受動的なものではなく、また、現時点での現実に能動的に関わって上手く対処できる方法
を身につけることでもない(
>>102)。むしろ概念とそれに伴う信念の変化それ自体を、力技で
行うことのようにとらえてます。
かといって、経験的な部分を捨てるのではないのですね。(それなら時間の長短は、理論上
は無関係となり、「今不可能ならどの時点でも不可能」またはいつかできるなら今できるはず、
となってしまいます) やはりなんらかの「経験」によってでないと、変化はありえない。
その力技、そしてそれを可能にする経験的なものとは、どういうものなのかは、具体的なひとつ
ふたつ程度をかろうじてわかっている、という感じですが。いや、それもわかってないかも。
>>112 > かなり目から鱗です!!!!夢中になって読みました。
> ただ、はまりそうで怖いですね(汗
そうなんだ、そうなんだね。わたしはさいきん読み返したところで、おもしろいけれど、
エクスクラメーションマークは二つです。
自分がすごい発見だ! と思ってたことが、当然のようにさらりと書いてあることが多くて、
ちょっとシャクなのかもしれません(笑) 重要なことが圧縮してあって、章こどに一冊相当
の内容があるようで、何なんだこの本は、と思います。
わたしも水平と垂直の区別を、よくつかうというか、考えるときの基本の道具として使います。
でも考え中さんのとは違うっぽいです。
垂直は、現在を、過去との関係でとらえ、同時に、未来へつながるものとしてとらえること、
と受け取りました。ちなみに、これでいいならわたしも同じです。
他方、水平は、まだ伝わりませんでした。まだ、ですから。
わたしの水平書いていいですか? ・・・・ありがとうございます。
水平では、ここをあそことの関係でとらえます。自分と他人の関係を見るということです。
垂直における過去に相当するのが、同定された他人、そして自分もその他人によって同定され
ている。これが現在に当たります。
未来に相当するのが、絶対に未知で不定なものとして在る他人。それに語りかける自分(現在)。
基本的に自分の感覚だけでいっている言葉だけなので、水平、垂直に関しては改めて別の機会に
通じる言葉として提議したいと思います。こういう中途半端な言葉でしか表現できない事柄が
僕のばやいはイパーイあるんでつ。せっかく考えてくださった月さん、かもめさんには申し訳ない
ことをしますた。マジにもっと勉強しないとダメです。m(_ _)mペコリ。
116 :
考える名無しさん:03/07/20 23:06
つまり、言語的にも他者とコミュニケーションをするためには、必要な水準とでもいうべきものが
あって、その水準に至っていない「内言」みたいなものなんでつね。これをコミュニケーション
可能なレベルに持っていくことと、自分の考えを再構成することは別のことではなくて、ほぼ同一
の事柄だということのようです。ぼやっと考えていること、思いついたアイデアといった話を
きちんと形にするのは本当に難しいということを改めて思っています。この辺を建て直すのは
容易な作業ではないとは思いますが、これは諦めないで続けたいと思います。
というわけで、よろしくおながいしまつ。
>>116 明確化以前のものを、他人と共有できるような明確なものにする仕方って、そのものやそれ
の持ち主によって、いろいろあるんだな、と思いました。・・・
こちらも、模索中とわっかっていながらの質問なので、回答はいいんですよ!
今までも何度か、同じことしてますね、わたし。
質問されること自体すでに困る! という場合は、そう言っていただけるとありがたいです〜
わたしの方も、できるだけ、質問ではない形での反応をしようかと思います。できるだけ。
>>106 >ただ、大人になるということを、こういう進歩と同じ意味で理解してもらうと、少し困ります。
うん。そういう意味では理解しません。・・・というか、まだ理解していません。
「大人」を俺なりに解釈すると・・・システムの成長が止まった状態、システムの完成形。理想形。
だから、むしろ進歩しなくなること。システムの変化が安定を保っている状態。平衡状態。
というところで、「恒常性」という語が浮かんできます。
これは、右往左往のバランスが取れている状態。
もう一歩踏み込めば、「右往左往すること」と「しないこと」の間の右往左往のバランス。
システムとカウンターシステムのバランスとも言えるかも。
あくまで「理想形」であって「現実」とは別の次元だと思います。
でも二つの次元は無関係ではない。
>>114を読んで、
「ああ、そう言えば『垂直』と『水平』って感覚は自分にとっては結構『絶対的』だな」
とあらためて思いました。
それでもって、「空間」と「時間」の関係は相対的なので、どちらが垂直で水平かは
入れ替わります。
僕には、霊能力めいたものはないのだが、世の中にはいろいろなものが見えるたりする人もいる。
かつてそういう能力のある人たちとお付き合いもしたことがあるのだが、これらの能力の一つと
言っていいのかどうか、「幽体離脱」というものがあるという。意識が体から離れてどこかへ
飛んで行くというのだ。また、瞑想の名手は瞑想中に地球を離脱して宇宙をさまよったりも
するらしい。
僕は、これらの体験について、頭から否定するということができないタイプだ。「プラズマ」
だとかいう説明で自分を納得させることができないのだ。そこで、これらのことについては、
お話を伺いつつ、判断停止するという形で宙づりにしておくという対応をずっとしてきた。
しかし、それって一体何なんだという疑問がいつも残る(当たり前)。
このいろいろ話をしているなかで、これらの存在性格が少しわかってきた気がするのだ。ミクロ
コスモスという言葉は昔から知っている言葉だったが、要はこれではないかということだ。
これならわかりやすい。
先の言葉のかたち試論で、僕は言語ゲシュタルトと、それに結びついている言語化された
ゲシュタルトのシステム、さらにその背後にある言語化されていないゲシュタルトのシステム
というものを「析出」した。僕の頭のなかでは、これはまだ「言語―意味」システムという
イメージであって、これらが僕たちの感覚―行為世界とどう結びつくのかがうまく理解でき
なかった。
(続き)
しかし、一方ではヘーゲル的な自己分析を介して、世界は単なる客観ではなくて、絶対的な相
のもとでは、人間一人一人が1個の世界なのだということに行きついた。
このことの意味は、実はまだそれほど明白ではないのだが、とりあえず言えることは、我々が
生きているこの世界そのものが、先のゲシュタルトシステムであるということだ。それと独立
して世界があるわけではない。というよりも、そういうものとしてしか世界は
存在しない
ということだ。これが理解しにくいのは、まだ僕たちが「主観―客観」図式で
世界を眺めがち
だからだ。アォーダンスの世界が理解しにくいのと理屈は同じだと思う。
ここまでは、ある程度わかってきたと思っているのですが、この先にまだまだ難問があるよう
です。それについては、今度さらによく考えていきたいと思います。
>>115、116
コミュニケーションに、水準は必ずしも求められるモノではないと思います。
この板は求める人バカーリですが、このスレはそうでもないんじゃない?
確かに同水準だと「楽」ではありますが・・・。
水準を上げるためにこそ、コミュニケーションは必要だと思います。
>せっかく考えてくださった月さん、かもめさんには申し訳ないことをしますた。
考えることはその人の問題だし、考えたことは無駄ではないと思う。
水準とか気にし始めるとあまり建設的ではなくなると思うよ。「建設済み」になって。
月さん、かもめさんがそれぞれ考えたことは、それぞれの「建設」になっていると思うし、
俺にとっても建設になっています。
>>122 そう言ってもらえるとありがたいですが、話題を振っておいて、レスを返せないとういのが
ちょっと情けなくて……。でも、がんばりまつ。
>>120 >僕は、これらの体験について、頭から否定するということができないタイプだ。「プラズマ」
>だとかいう説明で自分を納得させることができないのだ。そこで、これらのことについては、
>お話を伺いつつ、判断停止するという形で宙づりにしておくという対応をずっとしてきた。
>しかし、それって一体何なんだという疑問がいつも残る(当たり前)。
とてもいい対応の仕方だと思います。判断の材料がないものを無理に判断する必要などないし、
疑問がつきる事などないと思います。
いくら説明をつけても、自分でそういう体験をしない限り、本当の理解は出来ないと思う。
オイラは「気」という物を体験してみて、かなり考え方変わりました。
気功治療みたいなものを受けたのですが、それ以前にも気(という現象)の存在を
否定はしていなかったのですが、自分で体験してみて強烈なインパクトがあった。
周りの人にその体験を話しても信じてもらえなかった(藁)。
他者、言葉、他者、言葉、と呪文のようにつぶやいているのですが、ニュートリノ君の
発光は観測できませんなあ。
まあ、夏もこれから始まるし、秋も来るし、冬も来るし、しばらくつぶやき続けます。
ところで、考え中さん
考え中さんの中では、「不条理」はどんなポジションを占めていますか?
あと、
>>86>なんかカコイイと思ってしまうのはまずいのかな?
まずくはないです、嬉しいですが、現実には「コキタナイ」ですよ。
かもめさん
嘘をつくのは面倒くさいから、やりたかった事自体をやめよう。と、やめられる
ことは、最初から嘘ついてまでやる必要がなかったんでしょうね。
やりたいことをやりたいと主張すると、反対者を説得し得ても、ごり押しで決行しても、
決断に責任をもつ自覚が生まれますよね。その自覚はより大きな自由を自らにもたらす
と思うと、やはり反対者がいないことは不幸なのかな。
>あっ、いま、言葉が有機性を失う状態がやってきました。
「なるほどな」もよくそうなります。「なるほどな」って自分で言った直後に、「何に
ついてなるほどだったんだか」と考えることもしばしば。
嘘もそうですね。ずっと嘘をついていると、口癖のように嘘を言うようになってしまう。
その意味でも、親友には大感謝。
(当時の彼女の意図が映画に行くのをやめるだったとしても。)←こうもとれること
気が付きませんでした。言葉の正確なやりとりは難しいけど、ある意味都合がいいですね。
>>120>>124 とある必要性から、地球外の生命体の乗り物としての U.F.O.の存在を信じたい
(U.F.O.地球に来てると思う。という立場に立ちたい)のですが、脳が頑強に拒むの
です。やっぱり見るしかないのでしょうか。もう3年程、空を見上げています。
大三元さん
>>119 > 「空間」と「時間」の関係は相対的なので、どちらが垂直で水平かは 入れ替わります。
わたしが114で書いた「水平/垂直」は「空間/時間」にそのまま置き換えられて、後者の方を
いつもは使ってます。「空間」が自他関係というとピンとこないような気がしますが、一人で考
えるときに使うだけなんで、いいんです。
「入れ替わる」というのは、どういうことですか? 興味津々! わたしが114に書いた具合に、
時間的なことを空間的にも言い換えられる、ということでしょうか、違うような気がしてます。
時空間形式に共通するもには、「関係」の他に「ルール」があります。この二つは独立ではない
ですが。
とりたてて明示的に定めたものではなく、現象から抽出されるようなルールは、すでに起こった
こと(過去)が自ずから示しているもので、それによって未来の内容がある程度約束されたり期
待されたりする。例外をつねに伴いながら、修正を繰り返しながら。
これは時間形式に則ってますが、それの空間形式に相当するもは、言葉の定義・意味体系
です。
それから、こういう図式的な見方の弊害について、何かありましたら、ぜひぜひお願いします!
もちろん、すべてをこの図式で解釈しているわけではないです。できないものもあるし(たとえ
ば言語獲得過程、人間の言語特有の「意味」の生成過程について書かれたものとか)、重要
なことはたいてい、はじめから、両側面から語られているし。
考え中さん >>120-
>>121 > とりあえず言えることは、我々が生きているこの世界そのものが、先のゲシュタルトシステム
> であるということだ。
> それと独立して世界があるわけではない。というよりも、そういうものとしてしか世界は 存在
> しない ということだ。
二つの発想が、結びついたんですね。とてもいいと思いました。
わたしも、直接聞いた話は信じてしまう質ですが、幽体離脱についてはほとんど読み聞きした
ことないので、この引用部分にある「世界」と「ミクロコスモス」とをつなげるならば、それについ
ては何ともわかりません。足踏み状態です。
なにしろ、考え中さんがまだまだはっきりしてないようなのに、わたしが納得したらアヤシイで
すよね。というわけで、ひきつづき、考え中さんのこれからを追っていきます。
あっガテンコさん!
よく読んでからレスします。今は、そうか、言っていいなら、「かっこいー」、とだけ。
>>124 大三元さん
気功ですか。あれもとてもおもしろそうです。基本的に現代科学で説明のつかなそうなことには興味
あります。深くは突っ込みませんが。
ガテンコさん
>>125 不条理というのは、その人の世界そのものが背負っている一種の歪なのではないかと思います。
特定の人に特定の不条理が繰り返し現れるというパターンは、そうとしか考えられないですね。
一般論としていえば、不条理は我々の世界の構造のある側面だろうと推測します。
ついでにUFOですが、これも現れ方が余りにも多様で、僕は一時いろいろ文献を読んだ上で
探求を諦めてしまった記憶があります。これも多世界論でなら説明がつきますw
>>127 かもめさん
一応断言してしまったので、そのように少しずつ頭のなかが整理されていくと思います。難しい
ような、楽しいような、頭がクラクラするような世界観ですが、一面では多世界論は僕のなかで
ずっと温めてきた「仮説」でもあったので、すっきりしたという面もあります。ですが、これで
対人関係を議論し始めると、いろいろ難しいことがあります。そういった面も、やがては話せる
ようになるのかもしれないですね。
過去と現在
僕が水平と垂直という言葉で考えていたのは、できる限りきちんと簡単に言い直すとこういう
ことです。
僕たちが例えば自分を、あるいは他者を理解しようとするときに、その人の背負っているもの
という考え方をします。背負っているものは2種類あります。一つは、過去。今一つは現在です。
精神分的的な考え方では、この人が背負っている過去を問題にします。そして、それが人の人生
をコントロールし続けると考えます。今一つの考え方は、その人が今直面している現実、あるい
は課題ということです。実際には、この2つは別々にではなくて、その人の現在の環境に対する
反応という形で一緒に現れています。僕が水平と言ったのは前者です。垂直と言ったのは後者
です。
どちらもある意味必要な視点なのですが、僕たちが人とかかわる際に難しいのは、人の反応は
必ずこの両者の結合した形で現れるので、それに巻き込まれると、自分もその見方の影響下に入
ってしまうということです。多世界ではありますが、それぞれ影響し合っているのです。この
ときに、上述の2の視点を理解することはとても大切だと思います。この意味は、徐々に
明らかにできたらと思っています。
考え中さん、遅れましたが、質問に対する丁重なお答えありがとうです。
私にとっても考えるきっかけとなりました。
>お話を伺いつつ、判断停止するという形で宙づりにしておくという対応をずっとしてきた。
>しかし、それって一体何なんだという疑問がいつも残る(当たり前)。
この考え方とても好きです。
でも心は、答という看板を見つけて安心したくなってしまう。はぁぁー。
答を見つけると、心の何処かが安定するのです。
だから求めてしまう。答を急いで出して安心するこの安易な癖を治したいんですけどね。
かもめさん
>自分がすごい発見だ! と思ってたことが、当然のようにさらりと書いてあることが多くて、
>ちょっとシャクなのかもしれません(笑) 重要なことが圧縮してあって、章こどに一冊相当
>の内容があるようで、何なんだこの本は、と思います。
私的にはさらりと書いてある事がやけに爽快です。
ちなみに1Pからじゃなくて興味あるところから拾い読みしてます。
以前から時々してましたが、一気に読んだらやけに大興奮してました!
ツモのみさん
体験は一見にしかずで気を体験してみたいな〜
知人が気功教室に入ってて、飛ばされるのはとても気分がいい事だと言ってました。
気って何なのでしょうね。
ガテンコさん
>やりたいことをやりたいと主張すると、反対者を説得し得ても、ごり押しで決行しても、
>決断に責任をもつ自覚が生まれますよね。その自覚はより大きな自由を自らにもたらす
>と思うと、やはり反対者がいないことは不幸なのかな。
苦難があった方が自分の選んだ道だという実感はつよいですよね。
深い実感を得たい時に、自分の選択で自覚を強められればいいんですけどね。
簡単な事ではないですよね。
反対者は邪魔なようで邪魔じゃないという見方もできますね。・
勉強になりました。ありがとう♪
ガテンコさん
>>125 映画に行くのを止める、だとしたら、かなり気だるい親友さんになりますね(笑)
知り合いの中には無気力な人もいて、やりたいことをすぐ「いいや」と引っ込めるのをよく見て
ました。
> やりたいことをやりたいと主張すると、反対者を説得し得ても、ごり押しで決行しても、
> 決断に責任をもつ自覚が生まれますよね。その自覚はより大きな自由を自らにもたらす
> と思うと、やはり反対者がいないことは不幸なのかな。
自由とは、自己決定できる、ということでしょうか。その自覚をもたらす反対者というのは、
「他者」の主要な一面ですね。 極端な話になるけれど、他人(のようなもの)がいなければ、
自分で何かを決めるという機会はない、と思います。無気力な人には、他者の存在が薄いで
す。
えー、聞かれてませんが、わたしは不条理を前にするとわくわくします。でも、けっして扱いは
得意ではないです。だからただ見てるだけです。対処しなければならない日常生活の中で
遭遇すると、困惑します。
考え中さん
>>131 のんびり待つつもりだったのに、思いがけず早くいただきました。ありがとうございます。
> それに巻き込まれると、自分もその見方の影響下に入ってしまうということです。多世界では
> ありますが、それぞれ影響し合っているのです。
価値を与えてみるとして、影響それじたいはむしろ肯定的にとらえられるものだと思います。
ただ、関わる際に、うまくかみ合って動いていくために、その2つの見方は効果的であるという
ことだと理解しました。
月読ちゃん
>>132 大興奮するんだろうなー、と思ってました。よかったね〜
>>132 よくわからないものという名前の引き出しを一つつくって、わからもいものは全部そこに放り込み
ます。今わからなくてもいいものもあるし、永遠にわからなくてもいいものもありますが、そんな
区別は抜きにして、とにかくわからもいものというラベルを貼って置いておきましょう。
もしかしたら、いつかわかる日がくるかもしれない……
>>134 ちょっとフライング気味に書いてしまいましたが、かもめさんの引用した部分は、実はこれから
考える部分です。少しずつ考えます。
>>126 >とある必要性から、地球外の生命体の乗り物としての U.F.O.の存在を信じたい
ワロタ。「どんな必要性だよ!」と思わずツッコミw。
>やっぱり見るしかないのでしょうか
やっぱり呼ぶしかないでしょう。チャネリング?
UFO見ただけじゃ、ただの未確認飛行物体なので、やっぱ中の人見ないと。
さらわれないように注意!!
でも、最近になって思うのは「信じる」というのは理屈じゃないということ。
必要性だけで信じられるモンでもないと思う。あと程度の問題もあるね。
印刷された紙っぺらを「お金」と信じられるのも、単に皆が信じてるから。
信用がなくなったらただの紙くず。
「重力」なんて「目に見えない力」をたいていの人は信じているけど、
理屈を説明できる人なんて極わずかでしょ。オイラできません。
俺は小さい頃から重力や磁力の「見えない力」が不思議でしょーがなかったな。
磁石は大好きだった。今でも不思議。信じてるけど。
B'zの「ミエナイチカラ」という歌も好き。B'z好き。関係ないけど。
UFOは子供の頃は信じてたけど、今はあまり信じてないなあ。
そういえば昔、友人が「ツチノコ」見たって言ってたなー。。。
そういえば小学校の班登校の時、「球電」を見たっけ。。。プラズマ。
>>127 俺の場合「水平/垂直」の感覚は地面と自分の体が基準。「左右/上下」。
「対称/非対称」、「可逆、不可逆」の感覚です。
>「空間」が自他関係というとピンとこないような気がしますが
空間把握の感覚は、自他の関係把握の感覚そのものと言ってもいいのではないでしょうか。
俺の場合は「関係」を考えるときは、頭の中に空間を構築します。たぶん右脳で。
それで、自から他を見たとき、空間が垂直になって、時間が水平になる(あくまでも感覚)。
この場合の「時間」は、自他の関係の中にあります。
例えば、自分が「赤ちゃん(他)」を見たときに、赤ちゃんを「自分の未来」と「自分の過去」の
二通りに見ることが出来ます。「鶏と卵」と同じですが。鶏から見て、卵は未来なのか過去なのか、です。
自から見た他のなかで過去と未来の関係は対称性があります。認識の話ですが。
自分と他の関係の時間のズレが、関係の距離のズレになります。これも二通りの認識。
マクロになるほど分かりやすいかも。夜空に見える現在の「星」は最低でも二年前の星だったり。
つーことは、むこうの星の時間はこっちよりも進んでいたり、みたいな。
旧石器遺跡捏造事件。歴史の教科書に載った「過去」は「神の手さん」によって
作られたものでした。認識の中の時間は「可逆」だと思います。
あった事をなかった事にも、その逆も出来る。時間は難しい。。。
139 :
考える名無しさん:03/07/22 00:41
過去・現在
生きている人を理解するという視点の二重性という話なんですね、結局僕が言いたかったのは。
それは、ひるがえって自分を理解するということでもあります。自分を過去から来た、過去の
お荷物を背負っているために、現実のなかであれこれ苦労している存在と考えるべきなのか、
それとも、現実の重い課題を背負って、その解決方法がわからなくて困惑している存在なのか、
そのどちらなのかということなんです。
人は落ち込むときに、自分は無価値だとか、結局おれって何の役にも立たない人間なんだなと
思ったりするのですが、これには明らかに2つの面があると思います。つまり、どうやら過去の
ある時点の自己認識をフラッシュバックしている面と、現実に立ち向かう困難に己の無力を思い
知っているという面とです。この2つが必ずセットで僕たちを訪れるということかな。どうも、
まだちゃんと見えていない感じがします。宿題でつね。スマソ
↑
コテ忘れ。ageちまった。どうも、毎日やってまつね。これは上の空状態が継続しているみたい
でつ。申しわけないでつ。
とりあえず、ゲシュタルトのシステムが世界だと言い切ってしまった。当然このゲシュタルトは
アフォーダンスのことである。
さて、感覚世界の総体を脳内に格納することはできないから、この世界の一部を脳内に格納して
感覚世界と活動的に相互作用するときには、この蓄積されたシステムを参照しながら行うことに
なる。この脳内に蓄積されたシステムが、もう一つの外界としての世界である。これと感覚世界
とは、同じものではない。機械タン風に言えば、蓄積された活動のパターンが「志向的
クオリア」ということになるのだろうか。これを何と呼ぶのか。まさにこのスレのタイトル
として微塵が別の角度の外界と呼んだもの、another surroundingとでもいうべきもの、これが
とりあえずは課題だということだ。で、これの在りようをみていくことが次のステップだろう。
難しげだけど、これだろう。
この蓄積されたシステム――これはとても変な言い方で誤解されやすいと思う。何かいい呼び方
はないものかと思うが――の編成、あるいは分節、分岐のあり方が次の問題なのだが、これは、
要するにニューロンの発火・抑制の結合パターンだよね。それが、潜在的パターンとして脳内に
「蓄積?」されているわけだ。コンピュータの場合は、これは記号の組み合わせなのだが、脳の
場合はそうではないだろう。この潜在的な脳の活動パターンの全体を何と呼ぶ? 記憶じゃないし、
データベースというのもピンとこない。ここまで来ると、ゲシュタルトでもアフォーダンスで
もないよね。何だろ。
そして、次にはこのパターンこそが広義の言語なのだという微塵説の検証へと向かわなければい
けない。これに対して、狭義の言語とは、我々が普通言語として知っているものだ。しかし、
微塵の見方によれば、この言語の背景にある言葉・概念の形とその連関・結合こそが「本来的な
言語」であるとするわけだ。まだ分析が不十分なような気がするが、とりあえずこんなところ?
「まだまだだね」という感じがするが、どうよ。
でも、こういうふうに一気に言語へ展開するのは、一つの方法ではあろうけれども、いまいち
行動との関連が鮮明でない。その意味では、行動と言語の関係というのも問題だろう。一気に言語
へいく前に、ちょっと行動と言語という面について考える必要がありそうな。
考えながら
書いてるから、紆余曲折は避けられないかな。わかりにくくて申し訳ない。
連続レスになってます。少しずつ考えてるもんで、ご容赦願いまつ。
亀のごとき歩みで、なかなか前へ進みませんね。しかし、ここで行動との結びつきがある程度
見えたら、展望が開けないかな? 仕事が忙しいので、朝・昼に考えることができないのは、
ちょっときついかもしれない。でも、もうちょっとで少し暇になるから、そうしたらガーッと
前進できるかもしれない。夜はやっぱり頭が疲れてる。きょうはもう寝まつ。お休みなさい。
>>月読
遅レスになりましたが、『心の社会』刺激的だったようで、うれしいです。
適当に拾い読みしていくのが望ましい読み方ですね、あの本は。
ミンスキーは人工知能学者で、「心とおなじものを作ろう」とするスタンスだから、
「誰でもあたりまえにできること」こそ難しいということが、肉感的に伝わってきますね。
おはよう(^−^)
卒論のレジメ終わらせようと思ったけど、今日も駄目だったYO!
最近道徳の事で頭がいっぱいだよ〜
微塵さん
ミンスキーさんの言葉は素直に吸収できるので助かっています。
そして分りやすいです。
私にとってインパクトが強かったのは、
>私達の信じている意思の自由をすくう為には、第3の道があると思い込むしかない
という、自由は無いという事をサラリと書いているとこですね。
書いてある事事態の事ではなくて、私がそのとおりだとサラリと思えた事に驚いています。
この本から色々貰えそうな予感がします。紹介サンクス★
あとサブリミナルマインドを読めば少しは成長した自分に会えるのではないかと楽しみにしています。
考え中さん
よくわからない物への対処の仕方、ありがとうございます。
そうですね、いつか答が見つかるかも知れません。
自分でヒントを見つけるかもしれません。取り合えず
焦る位ならたんすにしまっときます。ぱたんっ
大三元さん
>B'z好き。関係ないけど。
ノーマルだけど、もう一度キスしたかったは好きでした。
あとは題名よく分からない。ボソッ
>磁石は大好きだった。今でも不思議。信じてるけど
昔狂ったように砂場で砂鉄作りませんでしたか?
あとSNを反対にして跳ね返す力で遊んだり・・・・・・
砂鉄は、一瞬にして目の前で砂が変化する事が本当に楽しかった。
あと球電て何ですか?ツチノコは確か少し大きいナメクジみたいなちょっと可愛いヤツの事ですよね?
かもめさん
>大興奮するんだろうなー、と思ってました。よかったね〜
よかったですー
大三元さん
>>138 ありがとうございます。
> それで、自から他を見たとき、空間が垂直になって、時間が水平になる(あくまでも感覚)。
わかりました。これならわたしも同じだと思います。ちなみにわたしはそこは感覚じゃないです。
「感覚」の意味が違ってると思いますが、体を横たえて空中に浮かないと、そうなりません(笑)
> 自から見た他のなかで過去と未来の関係は対称性があります。認識の話ですが。
わたしの場合は、過去は起こったこと、未来はまだ起こらないこと、という定義があるので、変
換不可なんです。(この未来は、考え中さんの「現在」とかなり近い面があります。)
それは主観的なもので…広げても、「地球上のヒトの主観」が限界です。ですから、「いまだ見
えない2年前の光」は、未来に属します。
とかいって、じつは、マクロで考えたのはいまが始めてです〜 だから、あ、主観的だったんだ、
と、ほぼはじめてはっきりと気づいきました。
他人に話してみると、いいですねっ 大三元さんは、思いよらなかった例を出してこられるから、
刺激になります。
外界とそれとは別の角度の外界の関係、これがさいきんの、もっとも胸が高鳴る謎の一つです。
前に、知覚は言語的ではないからアフォーダンス理論において言語が考慮外になるのも無理
はない、と書きましたが、そこでの「言語的ではない」というのは、知覚が働いている場において
は具体的な言葉は何も浮かんでいない、ということにすぎません。
知覚が知覚として可能となることと、言語を身に付けることは、互いに相手を不可欠とする密接
な相関関係にある、ということは、やはりはずせないことだと考えます。それらは互いを自らの
成立条件としていて、その上で、個々の場面でなら単独に働くことが可能である、と。
(わたしが「言語がすべて」というときは、この意味での言語なんですが、それをドグマだと感じ
あたかも言語が枷であるかのように言うときには、狭義の言語のことを言っているのだとと気づ
きました)
ところで、別の外界のセンスデータである「かたち」や「経路」を知覚する、というときの知覚は、
とうぜん上に書いた知覚とは別の知覚です。別の角度の知覚。それは、言語と相関関係にあ
るのではなく、言語を、直接その対象とする!
・・・これは、あやうい言い方になりますが、ともに矢印をなしていた二つのうちの一つが、別の
角度の矢印でもありその先に残りの一つがある、というように思えます。
あるいは、通常の言語と知覚の形成以前に、外界への接触があり、それはすぐに、上に書い
た知覚と言語の相関関係の中に吸収されていき見えなくなる。けれどその接触があまりに
早く明確に行われていて、いまや「別の」外界への接触として残っている、と。
と、こんな具合に考えています。まだまだあやふやですが。ただ、別の外界は外界に、どんな
面でも先んずる、という印象があるのはたしかです。
ですから、
>>141にある、
> 感覚世界の総体を脳内に格納することはできないから、この世界の一部を脳内に格納して[…]
、(略)この脳内に蓄積されたシステムが、もう一つの外界としての世界である。
という部分で、つまずきました。どうしても、まず感覚世界が先にある、というように読めてしまう
ためです。それは誤読でしょうか。それともそもそも、前後関係に拘りすぎでしょうか…。
前スレで、僕なりの言語論を述べましだか、それを換骨奪胎しなければならないようです。
言語の対象性のあり方は、人の対象との関係――アフォーダンスのあり方によって基礎づけ
られているように思います。かもめさんが前に言っていたように、あるいは
>>150でも言って
おられますが、言語―前言語の関係というのは、アフォーダンスを広義の言語と考えれば
矛盾しません。というか、言語とはアフォーダンスの「間―世界」的な「共―世界」化という
機能を持っていると考えればいいわけです。言語は、本来的に間―世界的対象です。(いきなり
「間―世界」とか「共―世界」と言ってますが、陰で書いてるもののなかで思いついたので、
早速使っています)。
感覚世界は言語世界に先行するわけではありません。相互作用を通じて我々はアフォーダンス
としての世界を知覚するのですが、その知覚自体が言語の内部的な基礎です。(微塵流に言えば
広義の言語)そして、その様々なアフォーダンスは、間―世界的にもたらされる言語を通じて
分節する。だから、言語は最初から2つの側面を持っています。間―世界的な面と、
アフォーダンスとしての内―世界的な分節―編成という面です。これは、矛盾し得ます。
もうちょっと詰める必要がありますが、かもめさんに対する回答半ばというところでしょうか。
それと、言語も一たん対象として成立すれば、言語のアフォーダンスもそこに成立している
と考えられます。そして、そのアフォーダンスにも二面性があるということになりますね。
まだ考察途上ですので、不明確なところがあれば、質問してください。
>>150の、上3分の2部分は、理解の内容ではありません。「こういうことになりそうだけど、そ
れがどういうことなのかほとんどわからん」といった感じでありまする。
>>136 多世界、という発想は、取り扱いが難しいですね。
考え中さんの「多世界」をわたしは、一つの世界の内での、異なる場所でのさまざまな世界の
現れ方、と捉えているのですが…
きっぱりと間違いである以外は、スルーしてください。少しずつ考えている、ところに失礼しましたっ
>>152 一応きっぱりと間違いであると言い切っておきます。でも、実はそんなに単純じゃないかなとも
思います。そこは、これから少しずつでも明らかになればいいなとw
>>152 陰で書かずともよいではないか…と言ってみたくなります(笑)
「間−世界」の「間」とは、多世界間の「間」、それらが影響しあうことを可能にするのが「共−世界化」、
「内−世界」とは、
>>121に書かれた、「ゲシュタルトシステム」としての世界が、主−客図式では捉え
られないことを強調した言い方、というふうに受け取りましたが、これはどのくらい近いでしょうか。
>>153 そうですか。現れ方、というのがマズイかな。現象という意味ではないのですが、そういう言い方になっ
てしまうのは、複数の主観にとっての実在がそれぞれある、という理解はしたくないという気持ちがある
からです。
落ちます。
>>154 前半については、ほぼそのとおりだと思います。まだ思いついたばかりの話で、細部はこれからw
後半については、そもそも単一の世界ということがどの程度言えるのかということが、僕自身
よくわからないんです。現れている世界以外には世界は存在しないという「建前」から
出発していますから、再度それを転倒させる展開を間―世界的に導けるのかな? 今は不明
としておきます。なんせ、まだ現在進行形ですから……。
話されていないことを話すことができないならば、言葉はまったく説得性を持ち得ない。
ぼくは、「法則の一般性」についての体験が欲しい。「この世界についてのあらゆること」ではなく
「世界と呼び得るあらゆること」についての体験が。
私は「世界に書き込まれていないこと」を読みたい。
そんなことを"読む"と言うのはおかしいだろうか?
私はこう思う。おそらく「世界」から出てゆくのは、言葉から出てゆくよりずっと簡単なはずだ。
言い換えれば、「世界」から出てしまっても、そこにはきっと言葉が待っている。
なぜなら「世界」は言葉の上に築かれるのだから。
言葉は世界の一般性である。
世界と言葉は先験的である。
そして「世界(母国)」と「言葉(母国語)」は後天的である。
まだ思い出がみっつしかなかった頃、私達の心はみっつの思い出で
うずめられていたのだろうか?それともみっつの星しかない宇宙の
ように、がらんとしていたのだろうか。
数年前、かもめに出したメールの断片を見つけたのでコピペしてしまいました。>156
こんなことを話しかけていた前後に、「ルルス盤」と「非不可能性」というキーワードに言寄せて
水平やら垂直やら、「角度」についていろいろ言い募った記憶がある。
自分のあの話を聞きたい今日この頃(情けなーw)
>>152 ついでですが、陰で書いているというのは、どうも考えながらここに直接書くのは分量的にも
また内容的にもきついので、考えをまとめるために別に書いているという意味です。
別に隠れてコソコソ(w)やっているということではありません。
>>157 ルルス盤って何ですか。初めて耳にします。
>>158 んでわルルス盤の説明があるところをコピペするるるw 分割になるる
そう言えば「考えの息を止める」ことを、繰り返し繰り返しやっていたな。
学校の行き帰りなんかに、何事かぶつぶつと呟きながら歩いている子ども微塵。なにを言ってる
のかというと、ただひたすら無意味な言葉を羅列しているのだ。
こんなふうに。
「更衣室の天気予報の歩行は吹き溜まる場合の手紙色、かつ南南西。今日から頭痛くなること
になった棒高跳ぶモモンガ(メス)の田舎暮らしは認めます。たとえば職員室より発車して難しい
お弁当(オス)に誘われたからこそすっぱいんですの。だけどピンクに雨天中止をかさねて流れる
鏡台だからこそ移動祝祭日は系統樹しませんね。しませんか?モモンガだけに」
こういうのを自然な口調と速さで言い続けるのはかなり高速で頭を回転させる必要がある。一定
時間続けていると、思考はきりきり活動しているのに、まとまった意味が供給されないので、超短
期記憶がじわじわと空白になってゆく。これをおそらく脳は「なんか非常事態かも!」と認識する
のだろう。普段は休眠している心の領域が緊急待機のステータスに入るのが分る。頭のなかは
「空っぽ」で溢れそうな感じ、「しーん」という音が響き渡るみたいだ。じきに「息が続かない」状態に
なって、意味のある思考にもどってしまうんだけど。
どういうつもりでこんなことしていたんだろう?でもかなり執拗にやっていたっけ。きっと必要なこと
だったんだろう。
「ルルス盤」を知っているだろうか?
ライムンドゥス・ルルスは13世紀スペインの宮廷で詩才と美貌で数知れぬ浮名を流した無類の
遊蕩児である。ルルスはある時、「そんなんありかよ」と言いたくなる回心体験を経て、神に身を
捧げる決意をする。この「体験」についてはものの本を読んでもらうとして、この後ルルスはアラ
ビア語、コーラン、イスラム哲学を学び、イスラム教徒をキリスト教に改宗させるために北アフリ
カへ命がけの旅に出る。
このルルスの製作した「ルルス盤」は宇宙のあらゆる真理を導き出すことができるという彼の「結
合術」を装置化したものである。いくつかの同心円盤が重なり、それぞれの円盤上には善、永遠、
差異、欲望といった概念の記号と、いつ、如何にして、〜かどうか、といった論理操作の記号が配
され、円盤を所定の操作法に従って回転させることで、真なる命題を思考によらず生成する、とい
う触れ込みである。
このいかにも知的好奇心をそそるプレゼンテーションは、当時のサラセン人の知識階級の歓心を
買ったことだろう。
ルルスはこの「真理機械」の操作を習得するためには、繰り返し練習することでその原理を"暗記"
しなければならないと強調した。
ルルスの意図は明白だ。ルルスは「反復による布教」をもくろんだのである。
「考えの息を止める」話を思い出したとき、「ルルス盤」を連想した。
ぼくは多分、心の中の「ルルス盤」が"所定の配列"になったときにはけっして読まず、"所定外の
配列"つまり読めないときだけあえて読む、ということを反復していたのだと思う。
言ってみれば「反復」に対する「対抗反復」。
長文スマソでした。
>>微塵タン
ありがとうございますた。
う〜む、こういうものに行き当たるというのも、やはり志向性なんでしょうね。
ルルス盤は、とても変です。いかがわしげな、楽しそうな……
>>159>>160 子どものころから、そういうことにかなり集中していたんですね。ひるがえって我が身を思えば
特にそういうことはなかったな。単なる悪ガキでしたなー。
>>月読
>気って何なのでしょうね
何なのでしょうね。とりあえず赤外線が出てるのは科学的事実と言っていいと思いますが、
それだけでは説明つかないと思います。壁とか通過しちゃうみたいだし。
このスレでは、これ以上は突っ込みません。
>昔狂ったように砂場で砂鉄作りませんでしたか?
>あとSNを反対にして跳ね返す力で遊んだり・・・・・・
仲間だっ!!ギュッッ!!
>あと球電て何ですか?
>ツチノコは確か少し大きいナメクジみたいなちょっと可愛いヤツの事ですよね?
ツチノコはぶっとくて、短いヘビ?みたいな奴らしい?ジャンプするとか、鳴くとか・・・。
可愛いかどうかは見たことないので・・・。
すこし大きいナメクジ?なら見たことある。羊羹ぐらいの奴。何だろあれ?
球電は文字通り電気の球。雷雨の日にバスケットボールぐらい?のが、
「パリパリパリ、ジュウーッッ!!」って、数メートル?先で、ほんの2,3秒?
こっち来なくてよかった。
言語というのは、第一義的には「間―世界」的に発生するのだろうか、それとも「共―世界」的
にだろうか。胎内→乳児期における母親との関係をどう理解するかということと深い関係が
あるし、「共感」の問題はまさにここに発生するよね。直観的には「共―世界」的に発生すると
言いたい気がする。
母親の声と乳児の自分の声とのやりとりは、自己内反響としてあるのだろう。そこでは、もちろん
母親の声と自分の声は、一方は自己の行為の結果としてではないとしても、喚起される「意味」
は、自己内反響として「同一」だと考えてよいのだろう。
母親の声が聞こえるとして、それが自己内である感覚を引き起こす。その声に反響して自ら声を
発することで、同じ感覚を自己内に引き起こすと考えると、言語はまずもって外から来る音
である。その音が「共鳴」的に自己内に引き起こす感覚と、それに呼応する自身の発する音声との
響き合う関係が、言語の基底的な姿だと考えてよいのかもしれない。それゆえ、言語のベース
には自他の区別はなく、相互共鳴的な呼応関係、響き合う関係があると考えることができそうだ。
この限りでは、言語はそもそも「共―世界」的に成立すると理解してよいのかもしれない。
この辺は、もう少し事実に則して考えたほうがいいようだ。しかし、この言語理解が正解に近いと
すると、多世界は、「共―世界」を根底に持つといことが言えそうだ。しかし、これは
ロマンチックに過ぎるような気がする。どうかな?
乳児における「共―世界」性をどう理解するか。
これは単なる見果てぬ夢なんだろうか。
あるいはフロイトたちの言う乳児期口唇性欲に由来する自己充足的万能感という錯覚の世界
なんだろうか。
あるいは、こういったものたちは、総じて単なる幻想に過ぎないのだろうか。
われわれは最初から「多世界」の檻の中に虜囚として生まれるのだろうか。
>>149 「時間」というのは、哲学でも科学でもかなりの難問だと思います。
自分の「時間の感覚(イメージ)」を言葉にするのはなかなか難しいのですが・・・。
>わたしの場合は、過去は起こったこと、未来はまだ起こらないこと、という定義があるので
客観世界ではそうなのだと思いますが、我々が認識できるのは現在だけですよね。多分。
実際に認識出来るのは、現在にある「過去の痕跡」と「未来の兆し」。
1億年前の恐竜の骨も、今現在ある骨。もうなくなってしまって認識できない骨(過去)も
いっぱい、むしろ圧倒的に多いわけで。
進化論にしても、歴史にしても残ったものだけで考えがちで、
圧倒的に多いであろう、残ってないものは見落としがちだと思います。
「写真」なんかは、圧倒的に失ってしまう過去の中から、わずかでも未来に遺す為の「現在」
(のわかりやすい一例)だと思います。
「先」という言葉がありますが、過去の意味でも未来の意味でも使いますよね。
そして、位置関係でも。
「先人」と言った時、先に歩いている過去の人ですが、自分が先人の遺してくれた
「道」(痕跡)を辿るとき、先人は自分が「これから」歩くべき(未知の)道の先にいる、
未来にいると考えられると思います。先をすでに知っている。
・・・と、自分の場合こんな感じの位置関係的、時間感覚かな。
それぞれの時間は、空間の中に、ズレながら重なって存在している感じ。
>>159 >「更衣室の天気予報の歩行は吹き溜まる場合の手紙色、・・・
それって、無心に粘土をこね回すとか、積み木をひたすら気の向くままに積むとか
と同じだと思うのですが。
粘土にこね回し方はないし、積み木にも積み方はない。毎回違うカタチになる。
微塵の右脳が、「言葉」が毎回同じカタチで積まれるのに納得できなかったのじゃないか?
「てきとう」という言葉がとても面白いと思う。「適当」は左脳的で、「テキトー」は右脳的。
右脳のテキトーは、左脳にとって「不適当」だったりする。
最近、「国語力調査で、慣用句の意味が本来と逆転している」というニュースがあったが、
脳のどちらで処理するかでまったく逆になってしまう事があるのだろうと思う。
>>168 なにと同じかと言えば
粘土を気の向くままに積むとか、無心に積み木をひたすらこね回すとかと同じ。
粘土に積み方はないし、積み木にもこね回し方はない。
考え中さん
>>165 全体的として同意です。ロマンチックにすぎるなんてことはないと思います。
ただ、「間−世界的的に発生」とはどういうことなのかがまだわかりません。それぞれ個別に
発生、ということですか?
>>151の
> 相互作用を通じて我々はアフォーダンスとしての世界を知覚するのですが、その知覚自体が
> 言語の内部的な基礎です。(微塵流に言えば 広義の言語そして、その様々なアフォーダンス
> は、間―世界的にもたらされる言語を通じて分節する。
の「広義の言語」の発生が、「間−世界的的」なのでしょうか。そうかな、と思ったんですが。
すると、どちらが先かはわからなくなります。
こういうことを書きながら、つねに「多世界」のことを気にしなければならないのですが、昨日、
やはり個々の実在でもいいような気になってきました。いやまだまだはっきりしませんが。
大三元さん
>>167 時間は難問で、魅力的ですね。わたしはふだん、その難問性にとらわれないように、自分で
定義をつけて扱いやすくしているのだと思います。自分の中で。
その分、魅力の方を落としてしまっているかな、と。
認識という語を使って定義すると、過去は認識されるものすべてで、未来はいまだ認識されない
もの(について考えられていること―-期待とか課題など―)となります。
ですから、客観的時間(時計やカレンダー上の時間)の過去に「未来」がたくさんあるということ
になりますね。はい、またこれも、今考えました。
でも、大三元さんが書かれたように、過去認識も未来への考えもすべて現在動いている「認識」
の内容なんですね。
その「認識」において、未来(と他人)はそこに飛び込む暗闇で、過去(と把握されてる自他関係)
はとは、つねに書き換えなければならないものなわけです。
> それぞれの時間は、空間の中に、ズレながら重なって存在している感じ。
ぼんやりと、わかりました。これからも折にふれて書いていただければ、ありがたいです。
わたしは、
>>168を読んで、
「言葉は粘土や積み木よりもとてもはるかに、扱う法が定められているから、それらを、ルール
に従わずに扱うことは「同じ」でも、そこにはとてもはるかな程度の差がある」
というようなレスをつけようとしてました。
でも、
>>169を読んで、あっと言葉を失いました。すぐに回復してけっきょく書いてますが。
>>171 僕が思うに、169のような微塵の文章は、それ自体が単なる「言葉の遊び」に見えてしまうという
弱点があると思える。それはもちろん微塵のような言語世界を持っている人が希有であることを
意味しているだけだが、微塵もときどきそれを自覚しているようにも見える。
僕には僕の言語世界があり、それもまた非常に誤解されやすいしろものだという自覚は大いに
ありますw
>>かもめさん
>さて、感覚世界の総体を脳内に格納することはできないから、この世界の一部を脳内に格納
>して感覚世界と活動的に相互作用するときには、この蓄積されたシステムを参照しながら行う
>ことになる。この脳内に蓄積されたシステムが、もう一つの外界としての世界である。これと
感覚世界とは、同じものではない。
これは、
>>141のなかに書いたことだが、この言い方に対して
>>150で
>という部分で、つまずきました。どうしても、まず感覚世界が先にある、というように読めて
>しまうためです。それは誤読でしょうか。それともそもそも、前後関係に拘りすぎでしょうか…。
ここでは感覚世界≠言語世界という含意はないつもりだったのだが、言語と感覚世界の関係に
まだ触れていない以上、そのように読まれても仕方がないのだろう。そこで、感覚―アフォー
ダンス―言語の関係を少し見ていこう。まず、言語=アフォーダンスのような広義の言語観は
前提しない。そうすると、感覚世界の分節は、知覚される時点でゲシュタルト―アフォーダンス
―言語(G-A-W)的に分節しているということは、前にも述べたと思う。この「G-A-W」的に
分節している感覚世界は既に「意味」に満ちているとも言える。既知であれ、未知であれ、
感覚世界は生まれたばかりの乳児にとってさえも、既に意味的に充実していると言えるのかも
しれない。
(続く)
(続き)
感覚世界は、そもそも生のデータとしては知覚されない。というか、生のデータという
とらえ方自身が誤りだろう。我々が知覚する時点で、もともと脳が極めて多重に処理した
データであって、この中から生のデータを「逆算」的に割り出すことは可能かもしれないが、
以前に微塵が指摘したように、そのようなデータは「ノイズ」の固まりではないかとも想像
される。
「G-A-W」分節は、個々の知覚過程にとっては前提であると同時に、知覚そのものの成立基盤
そのものだと考えてよい。以上のような前提で「感覚世界の全体を脳に格納することは不可能」
と言っているのだと思ってもらえるとありがたいです。
考え中さん
前スレなんですが、
>>972 > 微塵の言う2つのリアリティ(実在)を、僕も認めています。この二重のリアリティのうち、
> 我々が普通に知り得るのは、実は内的なリアリティの方なんです。外的なリアリティは、
> 実は複雑すぎて脳では処理切れない。それゆえ、脳はむき出しの普遍性たる世界をリアルに
> 把握することはできない。だから、我々のリアリティは実は二重性であって、しかも、この内的
> リアリティ自体も全然単純じゃない。
この、2つの実在の区別は、基本的には今も変わっていないですよね?
それを忘れてました。この部分と合わせて読むと、
>>141も、解ります。その上で、分かりません。
前スレを読んだときから、じつは、分からなかったのです。
わたしが、角度の異なる二つの外界について書けることは、
>>150で書きました。それでいくと、
前スレも、
>>173と
>>174で書かれていることもすべて、通常の外界についてのことなんです。
さらに、それとは別の外界の実在がある、と受け取っているのです。
ですからそれをユニークな実在論、と書いたこともあったし、受け取った上で、でもそれがどうい
うことかわからない、とも書いたのです。ひじょうに「オカっぽい」、と思ってます。
…けっこう自信、ありません(笑)
そこで、「多世界」ですが、それは2つの実在のうち、別の角度の外界の方だと思うのですが、
その外界の受け取り方が違っていたと気づいたので、多世界はやっぱり単一世界の多様な
現れ、としたいです。またすぐに撤回するかもしれません、そのときはご容赦ください。
>>169の文章、わたしは「うわっ」ときて、読むと鼓動が早まり、わくわくします。すでにあるもの
を読むだけでそうなのだから、生み出していくというのはいったいどういう事態だ、と驚きなの
です。(そこには感情もあって、とてもよるべない、不安な気が起こります)
このことと、
>>44にある「ルール」が、わたしにとってほぼ「言語」に置き換えられるということは、
密接に関係してますね。
子どものことろの微塵さんによる、「反復」に対する「対抗反復」(!)という試み、これと、共通
するものを、考え中さんによる、>>44-
>>46の中に読みました。
>>159,160の「考えの息を止め」て「対抗反復」する件ですが、
ああいう言葉を紡いでゆくことじたいが狙いなのではなく、ある言葉の後に続こうとする言葉
から身を逸らしながら、通常の言表に遅れない速度で「自然な発話の流れの質感」は捉え
続けてゆくこと、それを意識していました。
つまり意味を除去しながら、なお「つながっていく」力を、ぬるぬるして捉え難いそれを、つか
もうとしていたのです。
その質感はごく私的なもので、あの実例からは逆算されないと思いましたので、念の為申し
上げてみました。
私達の言葉は、慣習による複雑な流路に筋道を宿命づけられています。流路を流れている
限り、話者はたんなる水としての言葉には気づきません。
私は「考えの息を止め」ながら、岸に登りたい、溢れたい、流路以外を流れたいと思っていた
のです。
>>177 かもめさんのレスを読んで考えていると、ピンと来ますた。真の実在とは不変項じゃない?
しかし、不変項自体は脳生理学的には知覚の対象ではない(ように見える)。前に大三元さん
が言っていたように、それはイデアそのもののようです。まさにプラトン様のおっしゃる
とおり? 僕はいきなり観念論者になったのでしょうか。
また難しいことになってきました。これは自然科学の問題でしょうか?
アフォーダンスの核心問題に帰ってきてしまいました。
これは、現象学の問題なのかな? 僕は現象学はきちんと勉強したことがない。初期フッサールも
「読めない」本の代表みたいなもん。ただ、「幾何学の起原」の記述だけは妙に頭に残っていて、
この間も触れました。やっぱ全部つながっているんだなという感じがフツフツとしてきまつ。どうよ。
飯を食っていて、飯とは無関係に思い出したが、ここで言う不変項は数学的な対象の原型では
あっても、数学的な意味での「理想的な三角形」や「理想的な幾何学図形」ではない。むしろ、
ハナイカの擬態に見られるように、不変項のほうは直接的な具体性を有しているように見える。
言語を介することによって、我々の「知覚の対象」たる不変更は、人間的・言語的・抽象的な
形式を受容しているのかもしれない。それこそが「人間的自然」のあり方かもしれない。
結局グルグル回っているだけという感じもしてきました。
マジに時間をかけてじっくり考えないと、答えは出ませんかね?
それとも、半歩でも前へ進めているのか?
わからん……
とりあえず数年はかけて熟成して然るべきことだとは思っているけれども……
ほとんど無駄なレスを次々と書いているような気がしてきた。
申しわけないでつ。
「哲学的議論て興味ない人が見聞きすると
とても退屈なものなんですね」
なんて一般人が哲学者にむかって発言すると
みなさんはどうおもわれ、どう意見しますか?
水平―垂直という言い方に戻れば、この見えない実在へのアプローチは常に相対的かつ歴史的では
あるけれども、歴史の時間軸に沿う水平の推移≒進歩とは別の垂直な営みと考えることができる。
先の大人と子どもということも、この垂直な軸に沿った営為と見ることもできる。信仰も、また
この見えない実在への希求が真の動因かもしれない。こうなると、観念論と呼ばれる思想たちも、
真の実在への真摯なアプローチであったと理解できるのかもしれない。まさにプラトニズム!!
>>184 まったくそのとおりとおもわれ。
食いつけない人はとても食えない食べ物こそ、じつは最高にうまいのとおなじです。
誰かが楽しんでいるものが退屈なのは、楽しむ能力がないということで、そういうとき、
そんな自分が無念です。
興味ない人が見聞きしてもおもしろいものは、たんにそのときまで出会う機会がなかっただけ
のことだし。
>>177 >ところで、別の外界のセンスデータである「かたち」や「経路」を知覚する、というときの知覚は、
>とうぜん上に書いた知覚とは別の知覚です。別の角度の知覚。それは、言語と相関関係にあ
>るのではなく、言語を、直接その対象とする!
この言語は、広義の(微塵的に理解した)言語のことだと考えれば、GAW世界そのものではない
のですか? あるは、さらに別の対象があるのでしょうか。その辺は、僕にはまだわかりません。
前(狭義の)言語的な世界のあり方への一つの示唆として「自閉症だった私へ」という本が
あります。これは、ある自閉症の女性が大人になってから書いた本で、極めて魅力的な本ですが、
その人の子ども時代の記憶として、とても風変わりな感性世界が描かれていたと思います。
そこに描かれているような独自の世界、つまり、前言語的なアフォーダンスをも言語として
考えて、その世界が、「間―世界的」に言語化された世界とは別の、つながってはいるが顕在的
ではない、another worldについて語っておられるのでしょうか。それは、微塵の語る
「あちら」の世界とでも言うべきもののこと? ファンタスティックなお話ですが、僕の考えの
直接的な射程内にはとりあえず入っていないと思います。
しかし、これは全くの非理論的―個人的な想いですが、つながっていると思っています。多世界と
いう言い方をするのは、当然にその含みもあると思っています。
ニュアンスが違っていれば、また指摘してください。
とつぜん、一週間ほど家を空けることになりました。不幸があったわけではありません。むしろ
幸いな感じです。でもとつぜんなので、準備に追われ、朝早く出るのでもう寝なくてはならず、
落ち着かない気持ちで無闇に焦ってます、なんだか。
>>187 > この言語は、広義の(微塵的に理解した)言語のことだと考えれば、GAW世界そのものではない
> のですか?
そういうことになると思うのです。
わたしにとっては言語はどこまでも形式で道具でしたから、それが「対象」である、という微塵
が書いていたのには、びっくりでした。
>>184 そうだよなーと思い、「そうなんですよね」と言います。その場でその発言者の表情を見ていた
ら、場合によってはもっと何か言うかもしれないし、言わないかもしれません。
>>188 あ、たぶん、質問の意図を理解していない答え方になってますね。「そういうことになると思う
のです」って。すみません。
「GAW世界そのもの」において、言語は機能ではないのですか? 世界そのものが言語では
なくて。
「GAW世界で働く言語を知覚の対象とする、ということになると思うのです」と書くべきでした。
そして、たぶん、と付け加えたかったです。
>>188>>189 概念を拡張し過ぎて、僕自身若干混乱しているのかもしれません。
最初のA=B+Cのところからもう一度整理し直して、かもめさんが帰ってくるころにはすっきりした
姿で「オカエリナサイ」を言えるようになっていたいですネ。それとも旅先からもアクセスできるかな?
>かもめさん
旅先からも読めるけど、レスできないということのようでつね。了解でつ。
感覚世界・言語世界・非言語世界、これらの言葉を無自覚に安易に拡張し過ぎているようですね。
もともとあったはずの区別が見えなくなっている気がする。そこで、今一度整理してみることに
しました。オフラインでやるので、ちょっとお待ちください。また何か新しいことが見つかると
うれしいのですが……。
考え中さんは考え中で、かもめさんは外出中ですか。
私はU.F.O.のことを考え続けています。
意外にも、解決に向かって進行中。(見てないし、さらわれてないけど)
ヒントは
>>138 >>旧石器遺跡捏造事件。歴史の教科書に載った「過去」は「神の手さん」に
よって作られたものでした。
にありました。
元「神の手さん」がまだ「神の手」さんだった時に、かなり距離のある2つの遺跡から
別々に出土した石器を作る為の石片がピッタリくっついたという記事を新聞で読みました。
その時、すっごくリアルに旧石器人の移動がイメージされて、非常に感動しました。
しかし、それも捏造だった訳で、よく考えてみると、どちらの石片も彼によって発掘され、
くっつけてみたのも彼って、都合のよすぎる話だなあと。
つまり、疑ってかかれば都合のよすぎる話。信じてかかればすごい話。
量子コンピューターが実現しそうなことを考えると、どんな未知のテクノロジーも
それは物理的に不可能だなんて言えない様な気がするし。
接触の確率のことも、宇宙が始まって以来、私が他のいつでもどこでもない、今ここに
いるんだから、どこかの誰かが乗ったU.F.O.が今ここに来ている事もあるかもしれ
ない。(来ていないかも知れない。)
U.F.O.を実際に見ることは全道に3000頭のヒグマに出会うよりたぶん難しいと思うので、
(そして大三元さんの指摘どおり中の人も見なければならないとなると、宝くじ当てるほうが
簡単かもしれない。更に、実際見ても、自分の脳を疑ってしまうかもしれない。)
自分の脳を書き換えることにしました。
>>169 はうっ!!
鮮やかな返し技、一本取られましたです・・・グボッ!(吐血)・・・ぱたっ。
?!!・・・受け身取り損ねて、頭打っちゃいました。イイ気持ち。
>>184 別に哲学に限った事ではないと思う。
「自分たちだけに分かる話をしたい」という心理があると思う。
「レベルの低い話はしたくない」・・・みたいな。「マニア心」みたいな。
それを自覚できてないと閉鎖的、排他的になりがち?
>>192 ガテンコさん
雑談はしますよ。G-A-Wについては考え直し中というだけのことです。
UFOについては、結構思い切りがいいですね。僕は数年かかって、迷路に陥ってやめました。
迷路をさまよっているときは何が何だかさっぱりわからなくなって、ある日突然やめてしまった
のですが、やめて正解だったと思っています。気持ちはすっきりはしませんが、迷路の中で
振り回されている感じで、あまりいい感じではなかったです。だから、やめてよかったと
思ってます。宙づり状態の一つです。大三元さんのいうところの気、超能力、霊界、その他
宙づりのものはイパーイあります。時々視線は向けますが、目下は足元の問題で手一杯って
いうところ。神秘体験というのはあまりないんだけれども、そんなことあり得ないとは全然
思いません。そういうものを頭から否定してかかる人の心理って何なんだろうとか思います。
信じるという心の状態というのも、何なんだろうと思っていることの一つです。それも宙づり
の一つです。
それを探求できるだけの根拠が自分にできたら、また探求し始めるかもしれませんが、今のところ
その見込みはありません。せめてクオリアについて何かわかったらいいんだけど……。
>微塵
おたずねします。かもめさんの日記にたどり着けないのですが、微塵の日記から出発して、検索す
るところで、「カモメ」とか「かもめ」とかやっても引っかかりません。何かよきヒントを
ください。よろしくおながいしまつ。
>>196 俺のページの一番下の「記憶の増大」をクリックして、トップページに行き、「サイトマップ」を
クリックすれば、目次に行けます。
「かもめ」は文字表記がちがいます。
>>ガテンコさん
遺跡捏造の話がヒントになってよかったです。この話はそもそも、UFOの話が出る前に、
ガテンコさんに対してのレスに書こうとしたのですが、なんかタイミングがしっくりこなかったので、
保留にしておいたのでした。イイ判断だったかも。
かもめさんの一連のレスと僕のレスを読み直してみて、少し整理してみたいと思います。
まず、前スレの「試論」から始まったわけですが、ここでは、1さんの見ている「かたち」という
のが、そもそも何なのかということを問題にしました。そして、何とかそれが言語化されたゲシュ
タルトのシステムではないかということでした。
その後僕は、このシステムそのもののあり方について検討する方向には進まず、これがどのように
アフォーダンスと結びつき、我々の生きている現実世界と結びついているのかというこということ
について、しばらく理解できない状態が続きました。
そこで、ちょっと遠回りする形で主観―客観―絶対についての概念的な考察を行いながら、僕たち
の世界のあり方について、整理してみました。その結果として、絶対的な視点からは、我々の世界
そのものがゲシュタルト―アフォーダンス―言語分節であるというところに行きついたわけです。
この段階で、かもめさんから問題が出ました。このGAW分節としての世界は、もう一つの実在世界
と違うのではないか。単一の実在世界の現れとしての現実と、別の角度の現実という2つの?現実
というとらえ方をすれば、僕が言っているGAW分節とは、単一の実在している世界の現れそのもの
なのではないかということでした。
この段階で僕も少し混乱しました。そこで整理してみようと考えてオフラインで作業を始めたので
すが、一向に進みません。ぐるぐる回ってしまうのです。そこでもう一度流れをたどってみると、
最初に見出した言語ゲシュタルトシステムとは、言語的に分節した脳―感覚システムにおいて、
取りあえず言語と結びついているニューロンの発火―抑制のパターンであるということでした。(続く)
(続き)
ところで、このニューロンの発火―抑制のパターン以外にクオリアがないとすれば、言うまでも
なく、我々にとっての世界とは、このゲシュルタルトシステムそのものであるということでした。
ここで、僕はGAW分節という一元的な理解をすることにしたのでした。
ここで、もう一度当初の言語ゲシュタルトシステム(−言語)としてとらえられた、「かたち」に
戻りますが、この「かたち」は、GAW分節そのものに、そのまま引き継がれています。ですから、
僕は当初言っていたことに何も新しいことをつけ加えていないわけで、当初言語―ゲシュタルト
システムと言っていた対象そのものを、GAW分節と言い換えたに過ぎないわけです。
ここまでで、何かおかしなところはありますか?
ここで問題があるとすれば、このGAW分節そのものを世界そのものと言い切ったために、かもめ
さんから、「多世界」解釈について疑問が出されたということでした。確かに、概念的には言語
ゲシュタルトシステムからGAW分節と言い換えた時点で、内容的には大幅に拡張しているように
見えるので、当初の「試論」でのゲシュタルトシステムと表現していた時点と、一見大きく内容が
変わっているように見えるので、どこかで理解に齟齬が発生している可能性があります。ですが、
僕の考え方は変わっていないので、もう少し詰めていけば話は通じるように思えます。
以上、結局単にプロセスを再確認しただけのことでしたが、途中で概念の改変を行っていない
ので、これでいいのではないかと改めて思いますた。
実在としての不変項については、単なる思いつきなので、ホリュウです。どう考えてもうまく説明が
つかないので、そっちは突っ込まれても答えられません。
物にはみんな名前がある。
なんでだ?
物は名付けられるような性質をもっているのか?
名付けられるような性質というのはアフォーダンスか?
人は物を名付けるような性質をもっているのか?
名付ける人と名付けられるものとの関係だけに限れば、私が名付けてもよいなあ。
いや、名付ける人と名付けられるものとの関係だけに限れば、名付ける必要はないか。
名付けられるもの同士の関係を示す必要から名付けるのか?
示す。誰に?私に?他者に?
私に示す。世界を把握することは、生き延びることにつながる。
他者に示す。世界を共通理解することもまた生き延びることにつながる。
しかし、それは結果?
もっと別に、効用とは別に、言葉は育った?または最初からあった?
「初めに言葉があった」というのが正解なんでしょうね。
>>36 の微塵のレスにもあったけれども、まず言葉は多分「共に」という形で個体を訪れる。
その段階では、「名前」ではなくて、そういった区分以前の言語の萌芽的なぼんやりした何か
なんだろうね。そこでは、音声自体がアフォーダンスなのだと思う。だから、言語は効用から
発したものではないと思う。多分動物の鳴き声も言語の祖型だろうから、「機能」は後から
分化したと思えばいいような感じ。
「共に」という事態は、言い換えれば「模倣」の能力の訪れであり、それを言い表すタームが
「ミーム」ということになりましょうか。
人間ほど容易に自在に模倣をこなす生物はいません。
「模倣」(習うこと)の達成は、テクストレベルの言語の作用よりも、「かたち」の形成に負って
いると思います。
>>206 模倣というのは、自分の方に特定がパターンに支配されておらず、不定形、あるいは多形的な
パターンに対応できるということなんだよね。乳児は、音韻的にはすばらしい能力を持っていて、
日本語なら日本語に「同化」する前には、どんな言語学者も舌を巻くほどさまざまな発音を披露
するそうです。これに限らず、ヒトという種は「幼形化」することで、不定形―多形化し、
「ミーム」による「かたち」の獲得という「進化」のコースを選択したということなんだろうね。
↑
ちょっと日本語が変ですが、意味は通じるよねw
ミーム、怖ろしいミーム!
大嫌いなサザンやユーミンの歌を何故口ずさんでしまうのでしょう。
個体の言語獲得体験は模倣から始まる。
まねっこの発声が、発声以上の意味を持ち出すのは、経験からでしょうか、
それとも、もともと自分の中にあったものが発声という手段を得て発現するのでしょうか?
>>209 僕は
>>165で次のように書きました。
>以下引用
母親の声と乳児の自分の声とのやりとりは、自己内反響としてあるのだろう。そこでは、もちろん
母親の声と自分の声は、一方は自己の行為の結果としてではないとしても、喚起される「意味」
は、自己内反響として「同一」だと考えてよいのだろう。
母親の声が聞こえるとして、それが自己内である感覚を引き起こす。その声に反響して自ら声を
発することで、同じ感覚を自己内に引き起こすと考えると、言語はまずもって外から来る音
である。その音が「共鳴」的に自己内に引き起こす感覚と、それに呼応する自身の発する音声との
響き合う関係が、言語の基底的な姿だと考えてよいのかもしれない。それゆえ、言語のベース
には自他の区別はなく、相互共鳴的な呼応関係、響き合う関係があると考えることができそうだ。
>引用終わり
このような「共感的」な声がすべてなのではありません。
>>207でも言いましたように、乳幼児
は「鸚鵡返し」以外にもいろいろな声を発しています。それは自発的な発声です。そして、
その自発的な発生は、外部からもたらされる「共感」的な意味とは別にさまざまな感覚を乳幼児に
もたらしているわけです。この時点で既に音もさまざまなアフォーダンスを示しています。
ですから、音声は最初から多重的な意味も持っています。もちろん共感的な音声は乳幼児に
とっては死活問題にかかわる重要な意味を持ってはいますが、それ以外の音声も、さまざまな
感覚を子供にもらたしているでしょう。それらは常に多重の意味を持っており、
後の言語的発達に
とっての多重的なベースとなっているのではないかと思われ……。
考え中さん、
その過程は、外界からの刺激を読み解く運動として、五感全ての説明に応用できて、言語の獲得に
特有であるとは思えないのですが。
「初めに言葉ありき」・・・と。
この場合の「言葉」を俺的に解釈すると、「分ける性質とつなげる性質」かな。
入力としての言葉は、世界(他)を分けて(切り取って)自分に取り込む(つなげる)こと。
「ワカル」と「ワケル」って語源同じじゃないかな?たぶん。
出力としてはその逆、自分を切り取って、世界に還すこと。
言葉の発生を遡って行くと、とりあえずは「呼吸」に行き着くと思う。
「顔(表情筋や咀嚼筋や耳)」や「舌」「肺」などの器官の系統発生がすべて「軟骨魚類」の「鰓」に
由来するらしい事からもうかがえる。
赤ん坊が生まれてきて初めてする「呼吸」と「産声」は同じ行為じゃないかな。
胎児の時は、母体とへその緒で物理的につながっている訳で、呼吸もそれを通しているわけで、
果たして胎児と母体は別のシステムと考えていいのだろうか?
「入力」と「出力」って分けて考えがちだけど、入力は常に出力になっていて、
出力は常に入力になっている。生物にとって、物理的に入力と出力が存在しない時間などない。
作用、反作用と同じでどちらかだけというのは有り得ない。
そもそも、外と内をどこで区切るのか?
自分の「胃袋」や「腸」の中の空間は外?内?体内にいる細菌は?
・・・とか考え出すと「オートポイエーシス論」に行くのかな・・・と思って今勉強中。
「分ける性質とつなげる性質」って遺伝子にすでにあるんだよな。
自分の半分を切り捨てて、他の半分を受け入れる。
「理解」というのは常に「誤解」とセットなのだと思う。
>>211 >外界からの刺激を読み解く運動として、五感全ての説明に応用できて、
これは、自発的に発する多様な音声のことを指しておっしゃっているのでしょうか。これが
「外界からの刺激を読み解く運動」だというのは、どのような意味でしょうか。
よくわかりません。
この辺は、ちょっと難しい問題だと思います。僕も、正直言ってまだよくわかっていません。
間世界的言語を考えれば、もちろんその由来は他の個体ということになります。それに対して、
乳幼児期の前言語的な「音遊び」は、他者が発する音の模倣への準備ともとれなくはありません
が、それだけではないと思います。共鳴―模倣の方向から始まる言語と、音遊びに始まる自発的な
「言語?」は、いずれ言語に吸収されていくのですが、言語の意味の多重性というのは、多義性とは
違う意味があると思います。言葉が喚起する個体的な「意味?」とでも言うべきものがあって、
この方向は、例えば「音楽」へと結びつくような側面を持っていたり、言葉遊びへ発展する側面を
持っていたり、いろいろな可能性をも準備しているような気がします。しかし、この辺は、僕には
よくわからない領域でもありますので、もう少しいろいろ聞いていただけると、先へ進めるかも
しれません。
>>212 産声については、そのとおりかもしれませんね。その声にどんな意味が込められているのかは、
想像するしかないけど、人がこの世に生まれてきたということを最初に世に告げる言葉とも、
言葉の始まりとも解釈できますね。「天上天下唯我独尊」と叫んでいるのかも!?
また、呼吸に遡れるというのも発生的・進化論的にはそのとおりではないかと思います。
いつものことながら、進化というのは実に驚異ですね。進化論そのものについては、実は大して
勉強していないので、いろいろな「神秘的」な進化の姿にであう度に、素朴に驚いてしまう。
出産時を「誕生」と定義するのは、他人たちで、本人の心は胎内ですでに作動しているでしょう
から、出産は「はじめてのおでかけ」ですよね。とはいえ、この場合「ただいま」をいう機会はない
ので、母胎からの「引退」と言ったほうがいいかな。すると産声は「リストラの嘆き」か。
>>215 天上天下唯我独尊というのはいかにも能天気ですが、リストラの嘆きもいかにも微塵らしい。
本当のところはわかりませんが、生まれるまでのプロセスに個体差が激しくあるわけですから、
ここでも極めて多様な感慨を持つだろうという想像はできますね。本当かどうかは確認しようが
ありませんが、胎児期や出産時の記憶を持つ人というのもいるらしく、そういうものを幾度か目に
したこともあります。ぐぐっても幾つか当たるようです。
>私が聞いたのは、陣痛の弱かったお母さんから生まれた子供は、出産時の記憶を長く記憶
>してるそうです。なんとかっていうホルモンが、胎盤を通じて赤ちゃんに行くのですが、
>陣痛が弱いと、そのホルモンの分泌が少ないんだそうです。で、そのホルモンって言うのが
>記憶に関係しているそうで。4、5歳くらいでも、生まれてきた時のことを話す子供達って
>いうのは、分娩時に陣痛が弱かったそうです。
これと対立する見解ですが、
>朝日新聞 2001年9月23日。家庭欄に『おぼえているよ、ママのおなかの中で泳いだ
>こと』と題して、ある産婦人科医の調査結果が紹介されました。
>さて、この中で注目されるのが、
>「母親が『難産だった』と答えた7人の子は全員、記憶があり」
>という部分です。
これは、今ぐぐったらぶつかった一節ですが、これらもどこまで本当なのかは不明ですが、
この辺はまだまだ未知の領域と考えていいんでしょうね。ふーむ……。
てなことで、お茶を濁しますたw
>>213 >外界からの刺激を読み解く運動として、五感全ての説明に応用できて、
私にとっては自明すぎて、言葉でどう説明していいのか現在四苦八苦中です。
もうしばらくお待ちください。
逆に私には共鳴とか共感が実は今ひとつピンときておらず「自己内に同様な反応が形作られる」
と言い換えて理解していますが、これだと決定的な誤解を招きますか?
>>217 >「自己内に同様な反応が形作られる」
とりあえずそれでいいんじゃないかと思います。現時点でわかっていることはそんなに多くない
と思っています。僕が言っていることも、どこまで厳密に立証されたことかということについては
それほど確信があるわけではありません。ですから、具体的には話が進むなかで少しずつ違い
なんかが明らかになっていけばいいのではないですか。ぽくの場合、結構思い込みで突き進んで
いるところもあるようで、それもまた明らかになればいいと思っていますから。
少し思うところを書きます。(ちびっと長くなるぞよ)
前にも言ったけれども、長い間言語それ自身について僕は考えて来なかった。興味はあるし、
何度か考え始めたこともあったんだけど、すぐに行き詰まってしまって、それ以上続かなかった。
我々の感覚の分節自体が、言語の上に成り立っているという構造は直感的にはわかるのだ
けれども、具体的にそれをどう考えてよいのか手がかりがなかったと言うべきか。その意味
では、前スレとこのスレで、僕は間違いなく一歩前へ進んだ。GAWなどという略語で表して
いるけれども、これは僕にとっては大きな手がかりとなるような気がする。取りあえず、感覚、
言語、行動という、これまではあまりうまく統一的に取り扱えなかった対象を、一体のものとして
理解するための入り口には到達したと思える。しかし、前にも言ったけれども、僕はまだ入り口に
到達したばかりだ。
僕は今まで行動一元論とでも表現できるような立場でものを考えてきた。行動=運動=自然という
図式で表現できるような考え方だ。だが、この場合の自然というのは、僕の立場のなかでは、
「物理学的」な自然ではなくて、「生きられている自然」という意味での自然だった。この場合の
「生きている」自然というのは僕ら自身のことだ。
対象として僕たちは自然を知っている。それは近代科学というものが発見した「知識」として
知られているものだ。しかし、これはあくまで自然を外側から「客観」的に見たものであって、
それとは別に僕たちは同時に自然を内側から知っているとずっと感じていた。この内側から
見られた自然とは、今の言葉で端的に言えばクオリアのことだ。
(続く)
(
>>219から)
ただ、この見方には大きな弱点があった。それが言語だったのだ。言語を「自然」として
位置づけられなければ、それに基づいて成立している文化や歴史といったものを、外側から
見た過程―構造としてしか理解できない。
この言語が、どのようにして「自然」であり、どのように我々の全感覚―全思考―全行動の中に
位置づけられるのかという問題が解決できなければ、結局はそこを「外側から見た自然」について
の知識で埋め合わせるしかない。これが僕の思考の今までの問題点だったのだ。
前にも書いたけれども、僕はごく最近になって、観念自体が自然なのだという単純なことに思い
至った。この場合の自然は、物理学的な意味での自然ではなくて、内的な意味における自然で
ある。それゆえ、どのような観念も自然過程であって、もちろん言語もそうなのである。そういう
自然=人間の内的編成について語ろうとすれば、言語それ自身が自然として理解されなければなら
ないということは当然のことだ。
微塵が提示した言葉、概念の「かたち」というのは、この自然としての言語、観念について僕が
逢着しつつあったある場所をちょうど指し示していたということだと思う。感覚が自然である
というのはまだ言葉としてもとっつきやすい。しかし、言語が、観念が自然であるとは何か。
このことを僕はこれから言葉にしなければならないのだと思う。これは、自然という概念そのもの
の変容を伴うような気がする。そして、人間観、社会観、歴史観の総体の変容をも意味するように
思える。(アフォーダンスとか不変項について僕が感じる不満も、この辺に由来
するのかも……)
(続く)
(
>>220から)
この作業は、これから着手することなので、いつできるとか、何とかなるとかいうめどはまだ
全然立っていない。そこで、とりあえず当面はこの生きられている自然としての人間という観点
から、GAW分節のあり方について少しずつ具体的に考えていきたいと思う。この作業を続ける
のに、2chがふさわしい場所なのかどうかは、まだよくわからない。例えば長い文章を書いたと
しても、それをここに分割して書き込むのは面倒だ。
自前のhpを持つことは簡単だが、(ていうか、持ってる。使ってないけどw)それをうまく
生かせるかどうかもよくわからない。当面は、2chでの話を続けながら、幾分か見通しがよく
なってきたらhpと併用するという形をとるのがいいのかもしれない。
というわけで、これからどうなるかよくわからないけれども、これまで同様少しずつ進めたら
いいなと思っておりまつ。まだうまく伝わってはいないと思うけれども、とにかくそんな
ところでつ。よろしく。
考え中さん
私は、自分はすごく複雑な要素の絡まりあった有機体であって、その要素を単独で取り出して
吟味することや、そこから遡って自分を分析することはあまり意味のない事だと思っています。
これは行動=運動=自然とほぼ同義ですね。
自分には進化上獲得した形質と文化的に獲得した形質が混在しており、進化上獲得した形質の
中にも生得的に組み込まれていたものと、生後成長しながら獲得したものがある。
自分で自分の中を覗き込んでみても、これ進化的とかこれ文化的とか分からない、分けられない。
これは自然=人間の内的編成とほぼ同義ですか?
え〜と、
>>211 で言いたかったことは、
>>210 の言語獲得体験の萌芽は、行動=運動(そして
経験をフィードバック=学習)=自然の中に含まれるのではないかということです。
例えば乳幼児は大人のようには空間を脳内で再構築できていないらしい。
生後間もない赤ちゃんにとって視覚のクオリアは光の洪水にすぎないけれど、ものの見方
(例えば目の筋肉の調整の仕方とか、視差の情報をどのように処理したらいいのかとか)
を経験から獲得していく。
視覚、触覚、聴覚からもたらされる情報を統合して空間的に認識することも、更にその空間
の中で身体の筋肉を適切に制御することも、世界と関わることからもたらされる刺激(情報)
に反応してみることによって上手い反応が経験的に模索され、可能になる。
これらのことと母親の発声を模倣することに決定的な違いがあるとすれば、母子間のコミュ
ニケーションでしょうが、それが言葉のカタチの獲得に関わると言われれば、それは私には
現時点では分からないことですね。
言葉への入り口が何処にあるのかすごく知りたいのです。
不条理とすごく仲良しで、概念という概念を風景に還元してしまいたい私としましては。
溢れる光、焼かれる皮膚、肺を満たす熱い空気、流れる焼けた砂、心の中の原風景、
故郷だとも思い、辿りつくべき目的地のようにも思われる意味という意味が滅却された
砂漠。言葉の水流は何処にあるのか、地下?或いは別の角度の世界?
長!申し訳ないです。
>>222 とても一度に答えられそうもないので、答えやすそうなところから答えてみたいと思います。
まず、言葉はどこから来るのか、言葉への入り口はどこにあるのかについて考えてみます。
>これらのことと母親の発声を模倣することに決定的な違いがあるとすれば、母子間のコミュ
>ニケーションでしょうが、それが言葉のカタチの獲得に関わると言われれば、……
まず、言語は外からやってくるということを一つは前提としなければなりません。乳幼児の
自発的音声がそのまま言葉になるわけではありません。母子間のコミュニケーションは言語の
前提ではあるでしょうが、それも言語そのものではありません。言葉は、乳幼児にとっては、まず
耳に届くさまざまな音の中の一つの形態です。しかし、その音は幼児にとって最も重要な対象
である「人間」が発する音声であるわけで、その模倣は最初はもちろん言葉ではないでしょう。
しかし、自分が発する音声が周囲の人間の発する音声と重要な関わりがあることは、乳幼児は
かなり早い段階で理解するものと考えられます。この初期の乳幼児期におけるコミュニケーション
の積み重ねの中で、アフォーダンスとしての世界は徐々に分節を繰り返しながら、乳幼児の
行動―世界を形成していくわけです。
言葉は、この過程のどこかで決定的に発生するわけですが、その由来はまたしても身体的
コミュニケーションにあると考えられます。このプロセスで決定的な役割を果たすのは、
さまざまな「物」を介したやりとりだと考えられ、例えば物の受け渡しといったやりとりが
言葉のやりとりの前提だと、発達心理学的には考えられているようです。また、ものの名前の
前提は指差しだと言われているようです。指差しは志向性の共有だと思われます。つまり、
言語の成立の前提には、あらゆるところにアフォーダンスとしての世界の中での志向性の
やりとり、交換、共有といったコミュニケーションが成立しているということがあるわけです。
そして、この志向性の対象に名前があることを乳幼児はいつの段階かで知ります。
(続く)
(
>>223から)
この段階での言葉の「かたち」というのは何でしょうか。それは、志向性そのものです。そして、
その志向性の内容とは、アフォーダンスそのものです。アフォーダンスは、活動の対象性以外の
ものではありませんから、第一義的に言葉はアフォーダンスとしての志向性の共有だということに
なります。しかし、この共有をロマンチックにとらえてはいけないでしょう。乳幼児が初期的に
獲得する言語は、周囲の人間のアフォーダンスに同化するという形で始まるわけではなくて、逆に
乳幼児のアフォーダンスを周囲の人間が共有するという形で始まるのです。まず最初に大人が
子供の言語世界に入り込み共有することから、言語世界は始まります。ここの微妙なやりとりは、
乳幼児を育てる親の楽しみでもあります。
原初的なコミュニケーションの世界は、外から来た言語を乳幼児が自分の中に形成されてきた
アフォーダンスの学習による分節と結びつけるという初期的段階と、次にそれを周囲の人間が
察知し共有するという段階を経ます。「ブーブ」が車であるというのは、初期のそのような
微妙なやりとりの中で、その後徐々に明確な形へと変化していくのだと考えることができます。
このようにして、乳幼児期から身体感覚的コミュニケーションを基礎として形成され始めた
分節は、さまざまな行動を通じたやりとりと共有の中で、言語という形へと入っていくのだと
思います。……とりあえず、ここまでかな。うまくガテンコさんの問題意識と重なればいいなと
思いつつ、難しいですね。第一弾ですた。
それにしても
>不条理とすごく仲良しで、概念という概念を風景に還元してしまいたい私としましては。
>溢れる光、焼かれる皮膚、肺を満たす熱い空気、流れる焼けた砂、心の中の原風景、
>故郷だとも思い、辿りつくべき目的地のようにも思われる意味という意味が滅却された
>砂漠。
というのは、なかなかすごい世界ですね。僕の中にはそういう「原風景」みたいなものは
なさそうです。僕はむしろ逆ですね。世界が透明になることを希求していると言っても
いいと思います。透明というのは、何も見えなくなることではないですよ。我々が世界を
ありのままに見ることを妨げている何かをクリアすることかな。ありのままに見えたら、その後
どうするのかというのは、それとは全然別の問題ですが……。
考え中さん
ていねいな答えをありがとうございました!!
しばらくくり返し考えてみます。
考え中さんはお子さんがいらっしゃっるんですよね。
子供ができて、心情的にそれまでとがらりと変わったこと、何かありますか?
考え中さん、私もありのまま見たいぞ〜
乳幼児の言語についての説明私でも何とか分りやすかったです
ガテンコさんに書かれた物ですが、ありがとう
アフォーダンスとかまだよく掴みきれませんが、発達心理の視点から
乳幼児の世界を洗いなおしてみようと今模索中です。
>逆 乳幼児のアフォーダンスを周囲の人間が共有するという形で始まるのです。
ここの書き方凄く分かりやすかった。映像としてダイレクトに伝わった気がします。
あと考え中さんのお子さんに対する愛も感じたよ。ほのぼの
そんなパパがほしかったなぁ〜
ガテンコさんの世界は中々刺激的ですね!
時々ガテンコさんの言う事は私には難しくて分らない時もありますが
物事の見方が明解な方だな、と思っています。
これからの発言も期待しています。時々これから混じる事があったらどうか相手にしてやって下さい。
>>226 >子供ができて、心情的にそれまでとがらりと変わったこと、何かありますか?
これは難しい質問ですが、根本的にはそうでもないような気がする。子どもが小さいうちは、
本当に楽しかったです。一つわかったことは、育児は親も育てるということですね。子どもから
学ぶということもありますが、子育てを通じて自分に気づくということもいろいろあったような
気がします。(大昔のことなので、忘れてます)
>>227 僕について、いいお父さんなイメージが固定化するのは嫌なので、少し言っておきますが、僕は
決していい父親ではありませんでした。大体がほとんどアル中で、毎晩泥酔していて、時々大声で
怒鳴り散らして、今思えば、子どもたちを傷つけていたなと思います。そのせいで、子どもたち
はつらい青春時代を送ることになったかもしれません。
30代になってすぐ肝臓にきちゃったし、その後胃潰瘍もあって、最近は余り大酒は飲まなく
なりましたが、大体理屈っぽくて、短気で、ろくなやつじゃないんだよ。一応そんなやつだと
いうことは頭の片隅に置いといてください。いろいろあるよ、人間だもん……。酒好きっていう
のもあるけど、飲まずにはいられなかったということも、事実あって……。あ、愚痴に走りそう。
やめやめ……。
よくわかるー! という書き込みにとびついてレスです。
あとから、もっと前の書き込みに反応してしもうかもかもですが。
考え中さん >>219-
>>221 HPと平行、おおいに賛成であります。
行動一元論、これですね。
狭義の言語は、主観−客観対立をどうしても呼んでしまうものだから、その一元論とは相容れ
ないように思われます。だから、
> この言語が、どのようにして「自然」であり、どのように我々の全感覚―全思考―全行動の
> 中に位置づけられるのかという問題
これは、わたしにとっても主要な問題です!
あと、愚痴もたまにはいいですねー。個人的な事柄は、思考を辿るさいに参考になることも、
ありますからねw
ガテンコさん
>>222 言葉への入り口、それは、「ものには名前というものがある」と知るとき、でしょうか。
風景も、それが記憶として残っているのは、言葉のおかげであり、気づいたときにはすでに、
入り口を背にしていますよね。
入り口、それは決定的な瞬間なのか、それとも…。
くらくらしますが、それについて考えることをやめたくないと強く思ってます。
かもめさん
おかえりなさ〜い。
逆かも。記憶があるから言葉もあるのかも。とも思いますが。
考え中さん
体験してみないと絶対にわかんないこともあるのだろうなと思いつつ聞いてみました。
親業も右往左往の延長ということですか。子も人なら親も人…か…。
月読さん
来て来て。わかんないこと聞いて聞いて。よかったらだけど、そして上手く答えられない
かもしれないけれど。
学生の時の先輩によく「新聞も読んでないようなおっちゃんにでも分かるように話せるように
ならなければ駄目だよ。」とよく言われたけれど、相変わらず駄目だな。
人にわかってもらうよりも、自分の中での納得を求めてしまっています。
その先輩は、今、山口県の下松市で市の職員として地域の活性化に燃え、プライベートでも
劇団を主宰して演じることを通じて少年院の子らに体当たりで接しているのです。
誰も切り捨てないすごい人。でも忙しすぎて必然的に家族も巻き込んじゃっているらしいです。
ガテンコさん
記憶の記述と記憶そのものは別ですが、記憶そのものも、言葉なくてはありえない、と考えて
ます。
これとつながることとして、
>>222についてですが、人間的な知覚の成立から言語は切り離せ
ない、つまり、「ものの見方を経験から獲得」することと、「母親の発声を模倣すること」ひいて
は言語を獲得することは、内的な相関関係にあり、独立した二つのことではない、と考えてい
ます。
ガテンコさんと共有できる気持ちとして書くわけではないですが、わたしにとって言葉は、没頭
して溶け込んでいるところに現れて、「我にかえらせる」ものでした。だから嫌いでした。
言語といえば第一に、自省作用のあるもので、そこから逃れようとしても叶わず、諦めてました。
ガテンコさんは、前スレにはじめて現れたさい、世界観として、
「頭の中に押し込められていて、世界に直接触れることはできない。」
と書かれてますよね。その後の書き込みを読んでいると、この世界観とそぐわない気がする
のは、わたしの受け取り方がおかしいせいに違いない。そこでおたずねします。
何によって、あるいはどのようにして、世界に直接触れることを妨げられているのですか?
考え中さん
このスレッドになってから、わたしが考え中さんにけっこうはっきりと「疑問!」を投げかけたの
は、別の角度の実在についてと、多世界にまつわる部分についてでした。
多世界については、それがはじめて語られた
>>51を今読み返すかぎりでは、賛同なのです。
>>201 > ここで、もう一度当初の言語ゲシュタルトシステム(−言語)としてとらえられた、「かたち」に
> 戻りますが、この「かたち」は、GAW分節そのものに、そのまま引き継がれています。
・・・このことをよそに置いてました。わたしの理解は、拡張後から深まっているので。
おっしゃるとおり、拡張(に見えるもの)にポイントがあるようです。まさに内容が変わっていると
見ているのです。システムの形式はそのままに、対象が「かたち」から世界となった、と。
この移行はちょうど、「別の角度の実在」から、わたしたちが共有している実在への移行でも
ある。と、戸惑いつつも、わたしの考えでは、こうなります。
そして、後者の実在については、それが多数ある、とすることを避けて、ひとつの世界における
現われとしての多世界、という考えをとったわけです。
えーっと、「おかえりなさい」って、じっさいいわれてみると、とっても嬉しくじんとくるものだと
知りました。
考え中さん、ガテンコさん、ありがとう〜
>>233 そこがポイントなんです、間違いなく。僕もそこでするっと移行してしまったような気がして、
ちょっと振り返ってみたのですが、論理的には問題ないと思う。そうすると、多分論理の問題と
いうよりは、その言葉の意味しているものの取り方の違いということだろうと、今は思って
います。そこで、できることとしては、まず最初のゲシュタルトシステムと拡張されたGAW分節
をそれぞれ検討することから一歩一歩進めてみましょうか。きょうはもう寝るので、明日以降少し
検討してみましょう。何か別のことがわかるかもしれません。
お昼のメモ(思いつきを書きます)
活性化―発火しているニューロンと、そうでないニューロンの関係。発火しているのは一部。
全部が一度に発火することは不可能。それゆえ、世界のほとんどは潜在的にのみ存在する。
この潜在的な世界について少し考えてみる必要があるだろう。ゲシュタルトシステムは可能的・
潜在的なニューラルネットワークと考えられる。この可能的・潜在的なネットワークと顕在的外界
とは、直接同じものではない。この前者を指して微塵はもう一つの外界と呼んでいるのだろうか。
瞑想やその他の方法で飛び回れる宇宙とは、このようにして存在する潜在的な宇宙なのだろう。
この潜在的な外界の実在性は、顕在している外界とどんな関係にあるのか。顕在している外界は、
その都度多世界的な流動性に晒されていると考えてよい。多世界の一つである個々の世界は修正
され得る。そして、共有的に妥当する(うぇーっ!こなれない言葉だねぇ)世界にアジャスタブル
な個体世界を形成することが、言語の大きな役割の一つなのだろう。整理する必要がありますが、
こんなことかもしれない。こういう位置づけの中で、再度不変項について考える必要があるよう
でつ。(難しいです)
かもめさん
例えば、私は結構な乱視です。このことだけでも世界に直接触れることが妨げられているなあと。
裸眼で花火をみると、2重3重に見えてすごくゴージャスです。でも、ぼやけてない花火が
見たいと思ってメガネをかけると、思っていたよりシンプルでさびしい花火なのです。
記憶に関しても、自分の実感からです。私は、たぶん、言葉のタグを貼ることが極端に少ない
のです。その代わり目次になるのはシーンです。
例えば、道しるべになるものなど、通いなれた道でも自分が立ち寄ったことのある店とか以外は
挙げられてもほとんど分からないのですが、実際にはちゃんと分かるのです。
あともう一点。もし記憶がなかったら自分は現在の自分だけですよね。
そうすると、「そうすると」とか「したがって」とか「しかし」とか「ところが」とか
生まれようがない気がするのですが。
補足です。
別スレで詩徒さんが心のフィルターのことを書いておられましたが、それです。
クオリアという本当に基本的な刺激受容にさえ、志向性による再構築を感じます。
見たいとこだけ見ていますって感じ。
思考にいたってはそれはもう、フィルターどころかバリケードみたい。
>>236 >もし記憶がなかったら自分は現在の自分だけですよね。
意図的な想起を行うためには、一般概念のバックアップが必要でしょう。
意図的に言葉を使おうとすれば、記憶のバックアップが必要でしょう。
自意識以前の、感覚印象のフラッシュバックのような意図せざる想起は、言語獲得以前
にもあり得ます。
ただし、感覚印象を記号化して保存することじたい、言語的(あるいは原語的w)な作用
だと思います。
と言いうか、刺激→クオリアのような変換も、遺伝子→表現形という変換も、「翻訳」という
概念でくくってみれば、対話のツール以外の側面での言語の暗躍がほの見えたりしない
でしょうか?
なんでもかんでも言語に背負わせてしまおうというのではなく、そもそも言語じたいが自
然の作用素のひとつであり、人間にあっての重大な局面の変化は、言語を対象として知
覚し、抽象的な器官として使用できるようになった、ということだと思うのです。
お昼の思いつきも含めて、おおむねいい方向に向かっているような感じ。
まだ、これからどうなるかはわからないけど、精神分析的でない視点で、
人を理解するための方向性がおぼろげに見えてきたかも……。
でも、まだまだです。課題は山のようにあるのでつ。現実はいつも重いっす。
ガテンコさん
>>236と
>>237、ここには、主体−対象の二元論が前提としてあると読めました。
知覚する主体とされる対象、私と世界の分立、という構図が。
狭義の言語の一つの側面は、この構図とともにあります。主体が対象を捉える際の道具とな
るもの。認識の対象につけられたタグ。便利だけれども、「バリケード」にも感じられます。
これに対して、考え中さんが書かれた行動一元論では、言語を、それ自体が「自然」であるよ
うなものとしてとらえようと、しているところです。
>>238 > 人間にあっての重大な局面の変化は、言語を対象として知 覚し、抽象的な器官として使用
> できるようになった、ということだと思うのです。
キター!! ・・・って、こういうときに使うものかと。きました。重要ヒントが。そうでもないのかな。
>>239 > 精神分析的でない視点で、
これは、以前「ラカンは嫌だ」 というようなことを書かれていたことと通じてますか?
わたしにとっては、ラカンも読みたい読んどけ自分!な一つなんですが。新宮一成による新書
を読んだだけ。
樫村晴香も、友だちの作家に読めと薦めていたしなっていうヘンな理由もあり。
すみません雑談でした。これから進めていくために、ラカンを読もうという提案ではありません、
よー
>>240 ラカンについてはあまりよく知らないので、あまり語りたくはないのですが、アサダアキラの本
なんかで知ったのが悪かったのかな。どうにもいけません。
精神分析的な考え方を自分に適用すると、どんどん自分が惨めに見えてくるのがとても嫌です。
もちろん、僕の考え方が間違っているだけの可能性もありますから、それで全部切り捨てている
わけではないし、僕の考え方もかなりの影響を受けていることは事実だと思いますが、それでも
基本的には、あれとは違った人の理解を持ちたいと、心底思います。
>>240 その通りです。対象−知覚する主体、の二元構造で世界をとらえています。
そして、言葉は狭義の意味での言葉しか実感できていません。
ただ、
>>238 が「原語=記憶=シーン(五感含む)」だったら、私が実感している記憶
そのものです。これは、まさに知覚の対象なので、これが言語だと言われれば、「広義の
言語」のことを言ってるのかなあ。でも私の中では言語ではありません。
更に困難な翻訳を経て、言語に到達します。(しかもいつでも不充分な)
リアルな会話の中では到底無理なので、かなり無口です。
「抽象画」と「写実画(具象画)」というのがあるが、俺は、抽象画というのが理解できなかった。
「意味がワカラナイ・・・。」
訳の分からない絵に数億円、数十億円の値が付くのが納得いかなかった。
写実画の場合、上手い下手の基準が分かる。一つの基準として、「本物そっくり」というのがある。
絵に限らず、「リアルさ」というのは、私にとって世界を測る重要な基準でした。
しかし、抽象画の場合、何を基準に評価するのか?
子供の描いた「訳の分からない絵」と有名な画家の描いたそれと、何が違うのか?
数十億円の評価をする人は訳が分かっているのか?ネームバリューに踊らされているだけではないのか?
有名画家の描いた「落書き」と「まるで落書きのような作品」に区別はつくのか?
つーか、ピカソやゴッホって、実際どこが上手いの?・・・みたいな。
大人になるにつれ、金銭的な価値やネームバリューは「それはそれ」として分けて考えられるようになり、
それとは別に、「抽象画」の価値も自分なりに理解できるようになった。ピカソも。
>>238で
人間にあっての重大な局面の変化は、言語を対象として知
覚し、抽象的な器官として使用できるようになった、ということだと思うのです。
とありますが、同じ様な「重大な局面の変化」がピカソにもあったのだと思います。
そして、ピカソは相変わらずリアルな「写実画」を描き続けたのだと思う。
この「重大な局面の変化」は芸術に限らず、あらゆる分野に現れている人間の
「深化」のカタチだと思う。
ピカソはやっぱスゴイと思う
考え中さん
>>235 メモ、思いつき、とあったので問いを控えてましたが、書いてみます。
世界のほとんどは潜在的に存在する、というのはもっともだと思いました。ただそれと顕在世界
との関係は、そのまま一つの世界の潜在/顕在の違いしかないと考えてます。
>>233でわたしは、「ひとつの世界における現われとしての多世界」と書いたのですが、これ意味
不明ですね、「現れ」の前に「さまざまな」とでも入れなければ。
で、その「現れ」を言い換えると、ここでの「顕在」となるわけです。
異なる考えでも、そっぽを向かず、かつ、同じになることだけを目的とせずに、対話していきた
いと思ってます。これは、
>>242のガテンコさんに対しても、です。
なんて、こんな態度きっと当たり前なんでしょうけどね。青くさいこと書いちゃいました。
当たり前だけど、大切だなと。
>>241 「精神分析的な考え方」についての態度、了承しました。
ちなみにわたし浅田彰好きです、っても、逃走論も構造と力も読んでないけど〜♪
「ニューロン」という語を見るだけでたじろぐ科学音痴なわたしなので、『心が脳を感じるとき』と
いう茂木健一郎の本を開いてみました。
すると、「ダヴィッドソン」という名前が! これは内容からしても、あの「デイヴィドソン」のこと
か? 言語哲学者として馴染み深いというか、ここ2年ばかりマイブームな人なのだった。
つながりがあって嬉しかった。
DAVIDSONだから「ダ〜」もありか。
古い本を読むと、フッサールが「フッセル」だったり、キルケゴールが、忘れたけど名古屋弁!
な表記だったりしたことを、思い出した。
かもめさん
え〜!?
>>242 は、かなり近いところまで来たなあと思って書いてたのに、
ひょっとしてとんだ見当違いをしている、私。
>>243 写実画が「名詞言語」なら、抽象画のあるものは、「経路言語」ということになりましょうか…
なんだか小声な気持ちでカキコ。
>>245 ぎゃっ いや、すみませんっ 「ただ〜」以降で、近づいているのですね、で、そっちの方が、
重要なんですね。
わたしの考えですよ。「原語=記憶=シーン(五感含む)」の最初のイコールは、微妙です。
その文脈では、「原語」は機能なんで、知覚の対象というより、知覚とともに働くというか、知覚
に含まれているものだ、と思います。
あくまで、知覚と独立にあるのではなく、それと対立するようなものではなく。
>>244 まず、人のニューラルネットワークたる「世界」は人の数だけあるわけで、単一であることは
できませんね。そして、僕たちがこのネットワークの内部を探索するということはできます。それは
さまざまな方法があるでしょう。このニューラルネットワーク内を探索するというプロセスも
前述の潜在―顕在という対比の中で見ることができます。つまり、我々が月を思えば月にまつわる
ニューラルネットワークが、すなわちゲシュタルトシステムが活性化し、顕在化するわけです。
この顕在化と、我々が現実に月を見るときの顕在化とは違うものです。この前者のことを、機械
タン風(茂木風)に言えば志向性クオリアということになるんでしょうね。そして、この後者――
感覚クオリアはもちろんセンスデータそのものではないわけで、感覚クオリアとしての知覚は、
志向性クオリアと感覚器官からやってくるインパルス群の相互作用としてしか理解できない。
このように考えると、この志向性クオリアというしろものが大層厄介なものであることは容易に
理解できます。単一の世界のさまざまな現れとして理解できるようなものなのかどうか、非常に
難しげな気がします。どうでしょう? 単一の世界というのは、仮説ですか? 公理でしょうか?
それとも、素朴な実在という意味でしょうか? この辺、僕もよくわかっていません。大体不変項
の問題がまだわかっていないので、この辺は??????でつね。僕の言っている多世界論も、それほど
明確なわけではありませんから、あまり結論を急ぐことはないと思います。
不変項ということで言えば、我々の身体そのものが不変項ですね。そして、この身体から拡大した「感覚圏」も不変項となるのだろうか? 意味不明でしょうか?
>>248 考え中さんの書いていることについて、わたしが解っていなかったことが明らかになりました。
以下は、たぶん考え中さんと矛盾しないと思っているのですが…。もしかしたら、なーんだ、と
思われるかもしれません。
わたしが書いた「一つの世界」というのは、全体を一気に捉えられるようなものではないです。
全体をまとめて知覚することができないのはもちろん、全体の内容を一度に想像したり考える
こともできません。ここでしているような語りの立場で、形式としてのそれに言及するのでない
かぎり、まるごと捉えるようなものではないのです。
個にとっての世界はつねに、現れの世界であり、この意味では多世界しかありえません。
ではなぜあえて一つというのか。それは、多世界間に言葉がありルールが成り立っているから
です。この「一つ」を否定すると、多世界はバラバラであり、それ以前にそもそも成立しません。
多世界は、閉じられ自律した世界ではないのだから。
だから、一と多といっても、独立した多が集まって一を成しているのではなく、一の内部として
の、一に織り込まれている多なわけです。
そして、言語・ルールと書きましたが、それが固定的なものでないというのは、付け加えるまで
もないですね。固定的だとすると、「外部」が想定可能になりますが、そうではない、と。
いってしまえば、「多世界」というときは、認識論的であり、「一つの世界」というときは、存在論
的なのです。
(現在の流れでは、です。存在論的に多世界、というのを、いつでも否定するつもりはないです。)
言語・ルールが固定的ではない、という点をもっと強調したくなりました。
一つの世界に単一のルールがあるのではない、と。
自分が持っている言語やルールとは別のルールに、たえずわたしたちは出遭います。
一つの世界はのっぺりしたものではありません。異なるもの、他者がつねに現れる、でこぼこ
したものです。
この、動的な言語・ルールという一つの世界は、多世界が成り立つ前提なのです。
>>249 すみません…「不変項」、はじめにでてきたときから、よくわかってません。もう少し、調べたり
読み直したりしてみます。前スレなんですね。
まだうちわでの定義がはっきりしてないです>不変項
座標系における軸にあたるもの。
動的な系が時間性を伴って認知処理されるとき、基準になる不変の軸、あるいは地。
ぐらいに受け止めておけば、通じるでしょうか。
>>250-
>>251で、「言語・ルール」の部分を、「言語」一語に置き換えたいです。同じことだし、
絞った方が混乱すくないし。
あと、「一つの世界は全体として捉えられない」、とくだくだ書いている部分は、端的に、
「一つの世界の全体が一気に現れることはない」と書けばよかったです。
>>252 ありがとうございました。
昨夜前スレの関連部分を読んだのですが、252がなければ、考え中さんに質問しまくっていた
ところでした。そしていまや、
>>249は意味不明でないです。
感覚の形式、感覚内容の変化の規則性が不変項である、というのは、おかしいですか?
機械タン風=茂木風、だったんですか? ふむふむ。そのスレ読んでないもので。
>>253 志向性クオリアと感覚クオリアの区分は、僕は機械タンから知りました。
その後茂木さんのHPにもその概念が提示されていることを知りました。
(機械タンもその後読みにいったようです)多分、元ネタはアメリカにあるんだと思いますが、
それは今もってよく知りません。
不変項については、僕にとっても今もってよくわかっていないものです。ただ、素朴に言えば、
僕たちは平面としての外界は見ていないし、事物の見えは距離や視角や動きによって変化する
ことはよく知っているし、それらの変化を通じて何か変わらないものがあるということも当然
知っているわけです。この不変な何かは、経験的な「知」なのかな。それとも、感覚の恒常性と
いったことなんだろうか。あるいは知覚の構造とでもいうべき何かなのだろうか。それも言語と
通底でもしているのだろうか。その基礎は、僕たち自身の身体にあるんだろうか。
地面に立っている僕たち? 僕の勉強(考え)不足かもしれません。わっかりませーん。
不変項自体も相対的、アフォーダンスなんだから、当たり前か。地面と、それに対して垂直に
立っている身体。上下・前後・左右。
ギブソンさん、いい加減な理解でスマソ。許してくださいよ。ちゃんと読みますから。
多世界ということについては、僕はまだはなはだ中途半端な理解しか持っていません。経験的には、
びっくりするような多世界的経験も少しはあるんですが、これも明確に位置づけできません。僕たち
が見ている、生きている世界とは何かというのは、はっきり言ってわからないし、ときたま
見せる深淵に蛮勇をふるって突っ込んでいく勇気はないですね。元アル中の妄想に過ぎないと
言われればそれまでだし、怪異な相貌を垣間見せる世界にちょっかいを出すだけの元気はあまり
ありません。微塵や月さんは、その点偉いっ!! 僕は怖くていつも恐る恐る見てただけですが、
(て言っても、微塵や月さんのとぜ〜んぜん違うタイプの経験ですけど)コントロールできなく
なるという不安はどう克服しますか、未知の世界に対して>微塵
>>254 不変項について、わたしもほぼ同じ理解をしております。
> 感覚の恒常性といったことなんだろうか。あるいは知覚の構造とでもいうべき何かなのだろう
> か。それも言語と通底でもしているのだろうか。その基礎は、僕たち自身の身体にあるんだろ
> うか。〔略〕
> 不変項自体も相対的、アフォーダンスなんだから、当たり前か。
>>255 ここに書かれているような多世界には、わたしは、自分の言葉では、一度も触れたことがあり
ません。このスレッドでは、です。
前にも書きましたが、たとえば250などで書いているのもすべて、通常の外界、実在についてな
のです。ですから、考え中さんが多世界と書くときに想定されているものを、わたしはまだまだ
理解していないわけです。
250で、考え中さんと矛盾していないと思う、と書いたことを、変更するつもりはないのですが。
考え中なら、ヴァン・ヴォクトの『非A』シリーズ読んだことあるかな・・・
俺はあれのモチーフになってるコージブスキーの一般意味論、かなり影響を受けましたw
同一視されるものはすべて同一化されたもので、世界には先験的に同一なるものはなにもない、
という考え方。トンデモ臭ふんぷんですけど・・・
おなじものを観察することはできないし、あなじことを考えることもできない。
ここでは、内面の問題だけに話を限りますが、
「猫」という一般名詞でさえ言及されるたびに背景にあるメモリは変更されて、かすかながらも別の
意味を負ってゆく。おなじ「猫」という呼び名を二度唱えることはできない。
「自由」について考えるたび、いいえむしろ考えていないときにさえ、意味はかまいあい、たがいの
内容に言及しあって、内部を変更してゆきます。
ただ、この点で径路は特別です。論理定項である「である(肯定)」「でない(否定)」さえ、内部に言及
されて、ときには決定的に意味が変更されうるなかで、きわだって径路的な径路言語は変更されま
せん。
つまり、内部に言及されて、使用されるごとに意味がずれてゆくということがありません。
「あるいは」「たとえば」「しかし」「ただし」「ならば」といった言葉たちは、習熟して使い勝手がかわった
り、周囲に漂う他の概念の変更によって、親しみだとか座り具合だとかは変わりますが、内部に言及
されることはありません。皆無とは言いませんが、他の言葉たちに較べて、径路的言語の内部は閉鎖
されていると言ってよい状態です。
以前、径路は思考のインフラと表現したことがありますが、このへんの感触を指しています。
径路は思考空間を移動してゆくときの不変項、という感じです。
不変でなかったら、めっちゃ困りますよねw
不変項の不変性にも程度問題があって、たとえば助詞は、径路的言語以上に閉じられいていて、内部
への言及を許しませんが、助詞の機能は、人間的な言語の問題よりはるかに起源が古いもので、知性
以前から生命のなかに働いている不変項だからでしょう。
とは言っても、「の」→「所有」、「に」→「目的」みたいに変換して思考をすすめて行くと「俺のあなたに」み
たいな言い回しに抵抗を感じてきたりするとか、まわりくどい道はあるわけですが・・・
さっきちょっと出てきた肯定辞・否定辞(である・でない)も、かなりの古典ですね。発生の順序から言え
ば。これは不変性はちょっと落ちますが、哲学的に考えたりしない人にとっては、強固な不変項かもしれ
ません。
(しまった・・・みずからJaneで読みにくい改行をやっちまったわい・・・独り言)
上述の文脈でいうと、哲学というのは、「不変項の不変性を低減する試み」と定義できるように
思います。自分にとっては。
そんな試みをしてると、相対主義などは有名無実化してしまいますね。
動機は相対化でも、なにかと絶対にばっかりぶち当たってしまうので。
と言いつつも、せめて概念上で相対化できないと、実践的な相対化なんかできませんけど。
>>247 ひとまず、ほっ。
でも、きっと頑なな感じを抱かせてしまっているのですね。
このスレだから汲んでくれるのではないかという甘えもありました。反省、反省。
前に書いたU.F.O.のことの時みたいに、便宜的に自分の方を書き換えることは
みんなの考えがかなり分かるようになってきた気がする今では、そんなに困難な事では
ありません。けれども、U.F.O.の件では相手と同じ見地に立つこと自体が意味のあること
だったのに対して、このスレでは自分の引っかかっている箇所をとりあえず明確にして、
そこにもしほころびが見つかったなら潜りこんでゆこうと思っているので、安易に自分を
書き換えることはしません。そしてそれが許される場だと思っています。ので安心して下さい。
(念の為、↑「ほころび」は自分の世界観のほころびね。)
>>238 >刺激→クオリアのような変換も、遺伝子→表現形という変換も、「翻訳」という概念で
くくってみれば、対話のツール以外の側面での言語の暗躍がほの見えたりしないでしょうか?
前から思っていたのは、「思考が脳のひな型か、脳が思考のひな型か」ということです。
たぶん入り混じっていてどちらとも言えないと投げ出す時に、人は複雑な1個の有機体である
と使っています。
不変項についても同様、進化の過程上獲得したDNAやそれに基づいて構築される不変項と
文化的、経験的に獲得したいざという時には可変でもある不変項が入り混じっているのでは
ないでしょうか。
そして後者は人間において顕著で、時にはその不変性を継続させる為に見かけ上前者の
不変項を否定するような行動すらとらせる事もある。
前者は自己意識と理性、後者は身体と本能ではないかと。無理矢理分けちゃえば。
私は自己意識と理性を軽んじる不変項を持っているので、
>>261のように簡単に
「自分の方を書き換える」とか言うのですな。「楽」信者なので。
さっき出先から帰ってきますた。お酒も飲んだし、酔っぱらってはいないけどつかれているので、
レスがイパーイあるので、圧倒されていまつ。そういうわけで、きょうはレスを一つ一つ返せない
ので、ちょっとずつ。
>かもめさん
多世界論は一つの論理的帰結ではありますが、僕のは正直内容がありません。もし内容ができる
としても、これからの話です。ですから、現時点でそこに焦点を絞って議論する意味はない
でしょう。むしろ、GAW分節の内実について、不変項を含めて話を進めることの方が有意義で
楽しいのではないかと思います。僕が考えている多世界というのは、全くトンデモの世界まで含む
大風呂敷でもありますが、そんなものを俎上に乗せるつもりは毛頭ありません。てゆうか、
当面の射程は、その意味ではとてもつつましいものです。
>微塵
非Aの世界って、ナルAとかいうやつだよね。読んだ気がするんだけど、多分高校時代に読んだ
ので、内容は覚えてない。SFを乱読してた時期なので、個々の作品のことはあまり覚えていない
のが残念。
>「猫」という一般名詞でさえ言及されるたびに背景にあるメモリは変更されて、かすかながら
>も別の意味を負ってゆく。おなじ「猫」という呼び名を二度唱えることはできない。
これはわかります。別途言語ゲシュタルトの内実ということを考えてみると、あっと言う間に
実体的な言語観は消し飛んでしまいます。何も実質的なものはない。同一性というのも一過性の
重なりに過ぎないとすら思えてしまいます。でも、この辺はまだ手を着けていない領域なので、
微塵の所説に耳を傾けさせてもらいまつ。
不変項というのは、結局ギブソンさんもうまくハンドリングできなかったというのが本当のところ
でしょうか? その辺、僕はまだよくわかっていません。僕が一貫してジリジリした感じを
持っているのは、不変項というタームそのものなのかもしれないということは、invariants
という言葉を知ったときから続いているので、この辺についていずれ主題的に考えることを
迫られることになるだろうと思います。言語のなかの不変項という発想は、もちろん僕にはあり
ませんでした。いつもながら、そういうのがポンと出てくると、先は長いとつくづく感じます。
>ガテンコさん
「思考が脳のひな型か、脳が思考のひな型か」というのは、多分循環してしまって答えが出ない
設問だろうと推測します。脳は脳で、思考は思考で独立に詰めていく以外にないでしょう。そして
多分その両者が出会う地点がどこかにあるのだという希望的観測を持っています。
最近の脳科学の到達点は、科学と哲学が初歩的な対話が交わせる程度にまでは、精細になってきた
ような感じなのでしょうか。あくまで感じに過ぎませんが。
とりあえず、ここまで。
>>262 の不変項に関する部分、もう一度考え直すのでできましたら無かったことに。
大三元さん
抽象画にまつわる謎をひとつ解いていただきたいのですが。
生物の授業で、絵を描くチンパンジーのことを教わりました。
ヒトの描く抽象画に遜色ないものを描くのです。しかも、一旦筆を置いた作品には
一切加筆しない。それがまた話題をよんで、個展は大盛況、評価はかなり高かったらしいです。
彼は絵を描くのが大好きで、自ら好んで絵筆をとっていたそうです。
そして美学の授業で、名画をX線などで調べて作成工程を分析すると、最初描き出した
ものを全て塗りこめて一から描き直したり、カンバス上に試行錯誤の跡があったりと、
描かれる以前に作者の中に明確なイメージは無かったとみられるものが多々あることを
教わりました。
チンパンジーの中に美のイメージはあるのでしょうか?それを表現したいという衝動から
彼は絵を描いていたのでしょうか?どう思います?
宇宙空間は無重力なので上下がないということはよく聞く話です。では、我々が宇宙空間に
飛翔した暁には、アフォーダンスはどうなっちゃうんでしょうか。基準が消滅するのでしょうか。
不変項はどこへ行ってしまうんでしょうか。そのとき、身体はどのような基準に生まれ変わるの
でしょうか。ふと思った疑問です。日本の宇宙飛行士が、魚(メダカ?)をスペースシャトルに
持ち込んで実験しましたよね。結果は全く知りませんが、こういうことも問題になるのかな?
ニュータイプの魚がうまれるのでしょうかw
>>263 > 現時点でそこに焦点を絞って議論する意味はないでしょう。
そうですか、がくっ(笑)
このレス読む前にすでに多世界について考えてしまったことがあるので、書かせてください〜
スルーってことで。
考え中さんの「多世界」についての部分を読んで、自分の書いてきたのには、一言でいえば
架空の世界の居場所がないといまさら気づきました。五感に現れる現実世界のみだったと。
たとえそれがナンセンスな世界でも、やはり言語あっての世界なので、架空世界も「一つの世
界」で現れるものであるはずです。それは言い換えれば、現実世界に対する可能世界ですね。
ここで可能世界論に突っ込むとハマるのでやめておいて、ここではわたしの素朴な印象で扱う
と、可能性としての世界はにまず、五感に現れる現実世界とは違って悟性によって在らしめられ
るものがあります。また、あたかも現実のようだが客観的な現実ではない、感覚的実感のある
現れというものもあります。
ここで、客観的と書いたのはいうまでもなく、内部的な意味でのことです。現実世界は客観的
で他人と共通了解されているものですが、架空の世界は、それ自体では個人のものに留まっ
てます。
それを実在とみなすかどうか、という問題には、あっさり、架空の実在である、ということですま
せます。
さて、「別の角度の実在」ですが、これは依然として、まだ考慮外に置かれたままです。それは
架空の実在でもないわけです。
上に書いた、可能世界をも含んだ、言語によってある動的な世界(これを一方的にGAW世界の
一部と重ねてしまってます…)にはまだ、「別の角度の実在」を内的に関係づけられていません。
ガテンコさん
>>261 その甘えなら、ぜんぜんかまわないと思います。
わたしは、行動一元論が正しいぞ、なんて書きたくないし、それを臭わせたくもなかったので、
ガテンコさんのレスに助けられたくらいなんですが、それでもたじろぐ自分がいたので、いかん
と思い、そっぽを向かず容易に立場変更せず、みたいなことをあらためて自分に言い聞かせる
つもりで書きました〜
微塵さん
>>260 肯定辞・否定辞も、わたしにとっては絶対的だ〜 とへこみそうになったけれど、いやそうでも
ないかも、と気を取り直しました。
微塵さんのおかげで、これでも「不変項の不変性」、たくさん減りました。でもまだまだたくさん
ある。
>>266 昨夜同じこと思ってました!(寝ちゃったけど) ちょっとぐぐって見たけど、わからなかった・・・
あと、つながらないかもしれないけれど、左右という方向にとても関心があります。
上下より相対性がずっと高いのは、身体が水平に移動するようにできているからですよね。
だから、身体にとっての水平と垂直は、非対称な関係なんですね。
前に、別スレでガテンコさんと微塵さんのやりとりを読んだときにも思ったけど。
上下感覚に、左右感覚以上の絶対性を感じない人もいるけど、わたしはそうではないです。
(ここにも低減できる不変性が…)
左右の区別というのがとても苦手。子どもの頃なかなか体得できなかったし、「右!」と指示さ
れても、ワンテンポ置かなければ判断できないことがよくあるし、判断しても間違えるし。
自分が鳥だったら、方向語を使うのがとんでもなく苦手だったと思う。
>>268 考え中さん、と入れるの忘れてしまった。まあ、独り言ぽいので、いいかもしれませんが。
HN、自分鳥じゃん!といまつっこみました。
あまりの暑苦しさに、昨夜ほとんど寝られませんでした。おかげで、きょうも頭がボーッと
しています。なので、夜にならないと頭が動かない感じ。
>かもめさん
多世界については、議論で詰めていくのはまだちょっと材料がなさすぎかなと思っています。でも
それとは別に話をすること自体は問題ありません。ただ、詰めるのは難しいなと感じている
わけです。残りは、また後で……。
>>268 >肯定辞・否定辞も、わたしにとっては絶対的だ〜 とへこみそうになったけれど、いやそうでも
>ないかも、と気を取り直しました。
「である」「でない」とか「がある」「がない」の不変性を低減できるがゆえ、人間は認識論や存在
論をやるわけです。
動物たちはどうして哲学しないのか?という問いの答えでもありますね。これは。
そして人間が、たんに生きてゆくことさえ不安だったりするのはなぜか?という問いの答えでも
あります。
径路言語の不変性を低減できれば、つまり径路言語の内部の程度問題に言及できれば、切り
口によってはあたらしい哲学のジャンルが生まれるでしょう。
たとえば、「絶対的たとえば」から「非たとえばの極限」までの推移を、実践的に想うことができ
かつ習熟するまで使いこなす時間と余裕があれば。
無重力下の不定項については、自分の身体軸を基準として、全周壁面を床というよりとりあえず
の足場と見るような、あたらしいアフォーダンスから再構成されるようです。
重力下のアフォーダンスとの葛藤が低減してゆくごとに、ふわふわ浮いてる道具のあつかいなど
も習熟していく。
われわれ一般人にもわかりやすいたとえをすると、船で長旅をして、地上に降り立つと、足許がぐ
らぐらするでしょう?船上の(別種の)慣性状況に沿った不変項が、動かない地上では周囲の動
揺というアフォーダンスとなって、浮かび上がるわけです。
けっこう私達の体内には、適切な状況に出会わないために一生使用されないような不変項のセッ
トが、いろいろ死蔵されているのかもしれません。
>>272 >けっこう私達の体内には、適切な状況に出会わないために一生使用されないような不変項の
セットが、いろいろ死蔵されているのかもしれません。
またこれですか。前スレからこの変奏を幾つ聞いたでしょう。結局進化とは何かということに
対する一つの回答が、この多様な適応、対応、進化等々の内に含まれている? おもしろ杉!!
それにしても、遺伝子ってお茶目。
>>255 >コントロールできなく なるという不安はどう克服しますか、未知の世界に対して>微塵
(名指しなのに答え忘れてたーごみん!)
場数を踏むことによってです。
習熟すれば危険は冒険になり、冒険はルーティンワークになります。
地図を作り、学んだことを書き込んでいると、結局俺はこういうことが好きなんだw と思います。
実際に不安にとりつかれると、不安のクオリアを観察します。チャンスだから。
「ふだんの心がけもへったくれもないな・・・この不快感。意識があることを恨みに思うもんね。許
してください、ここから出してください、みたいな。死んだ方がましだと、俺に思わせることには成
功している」などなど。
>>246 >写実画が「名詞言語」なら、抽象画のあるものは、「経路言語」ということになりましょうか…
うーん・・・。難しいですね。抽象画は「経路」により自覚的だと思いますが、その物ではないと思います。
西洋美術史で言えば、描く(ミル)対象が「物」→「目に入る光」→「脳に写った景色」と変化していきます。
自が描き写さんとする対象(他)がだんだんと自の内部に浸食してくる、あるいは拡張されてくる。
「他」を見る角度が変わっていると言ってもいいと思います。
自分の脳が見ているモノをさらに脳の別の部分が観察して写実しているのがピカソのような「抽象画」だと思います。
抽象画といってもピカソの場合は写実画から「変化」しています。すでに幼少の時から写実を極めてしまっていて、
時代と共にどんどん変わっていく。自分の脳をよく観察してその変化を常に自覚していたと思います。
これは、微塵が、言葉のかたちや手触りを言葉で描写しているのと同じだと思う。
読み手にとっては抽象的な表現に思えるが、本人は可能な限り見えるモノを正確に写実しているのでは?
西洋の写実画には、空間だけで時間が存在しません。これは、還元主義的なものの見方と、密接に関わっていると
思います。ある決まった一点から一定の角度でみた三次元空間を二次元に置き換えるだけで、
世界を観ていると思いこんでいた。
ピカソはある時期から三次元を描くのをやめて四次元を描こうと試みています。
空間と結びついた「時間の感覚」は「経路の感覚」の感覚と近いと俺的には思う。
抽象画と言っても子供が描いたような天然のそれは、また意味するモノが変わってくるよね。
夜になっても、今夜も暑いっ!!
パソコンも熱いっ!!
パソコンの前が、また暑いっ!!
汗が止まらない。
>>274 場数を踏む……。でしょうね。フーム、危ないなぁ。帰ってこれない可能性についても、
前にどこかで言ってましたよね。このリスク……。言ってもしようがないですよね。
愚痴です、愚痴。
>>265 チンパンジーの知能は4歳児並と言われますから、かたちに対する意識もその程度
じゃないかな。喜怒哀楽の感情を表情に出すこともそれを読みとることも出来るらしい。
「美意識」まではいかないけど、好ましい形と好ましくない形、
気持ちいい形とそうでない形のこだわりはきちんとあると思う。自覚しているどうかは
わからん。チンパンジーどころか、形の好ましさの意識は多くのほ乳類や鳥類、
それ以外の動物にもあると思う。クジャクの羽はシンメトリー(左右対称)なほど持てるらしい。
クジャクに限らずシンメトリーが好まれる動物はかなり多いみたい。人間もそう。
自然界における左右の話もかなり奥が深くて面白そう。
ウグイスとかカナリアって、本当に歌を忘れるらしい。季節の初めには去年の歌を忘れてしまっていて
へたくそらしい。鳴いているうちに段々と上手くなってくるらしい。自分より上手い鳥のまねもすると
思われる、地方によってかなり方言があるらしい。
鳥が鳴いて自分のなわばりを主張するのと、人間が歌って自分の存在を主張するのと
「変わんねーな、程度の差だな」とか思う。人間は多様な習性を持っていて個体差も大きい
生き物だなとか思う。
画家が描く前に「明確なイメージ」を持っているかについては難しいと思う。
あるともないとも言えると思う。
試行錯誤したり、一からやり直したりするのは、自分のイメージと明確に違ってしまったから
とも言える。イメージというのは形が定まって変化しないものではなくて、
常に変化しながらも、同一性を保っているものだと思う。
脳のどのくらいの深さのイメージを拾うかでも、難しさが変わると思う。
>>275 いちいち頷き同意を表明した上で・・・
写実画は、「画面の隅々まで、同一の現在」という不変項を設定して、その上に構築された
最もわかりやすい抽象画と言えると思います。これは、あたり前のようでいて、かなり絶妙
な発想の転換です。視線が移動する余裕があれば、必然的に時間が経過しますから。
いま我々が記憶を容易に「止め絵」のように思い浮かべられるのは、写実画という御手本が
あるからでしょう。
三次元から四次元に進むのはすごいけど、そこにはすでに道があっった。いわばもどり道が。
むかしむかし、四次元を三次元に還元して写実画が試みられたときはまだ道がなかったで
しょうから、写実ってもんのすごいなーという気がするわたくしです。
>ピカソはある時期から三次元を描くのをやめて四次元を描こうと試みています。
以前ロビーで考え中と士郎正宗の話しましたが、ピカソを通過して写実にもどってきたのが
士郎正宗ですね。彼はある意味(でだけ)ピカソを超えている。
大三元さん
>>275 おそるおそる書いたことに反応が!
「経路言語」だけではぜんぜん言葉足らずですね。読んで、前半部分については、まさにこう
いうことを書きたかったけれど、思い切りも技もなかったのだ、と思いました。(ズルイ?)
> これは、微塵が、言葉のかたちや手触りを言葉で描写しているのと同じだと思う。
> 読み手にとっては抽象的な表現に思えるが、本人は可能な限り見えるモノを正確に写実して
> いるのでは?
わたしもそう思います。「かたち」や「経路」は、五感に現れる対象のことであって、五感から離れ
たところにある空想物ではないですね。
後半を読むと、抽象画の程度のうちには、経路そのものが含まれるものもあってもいいのかな
・・・と思ったりしたけれど、
>>278を読んで、いちばんはじめの画期的な抽象画は、写実画だっ
た!と知りました。
何らかの対象を映す、ということ自体が抽象ということで、すると、他のものの写しでない絵、
何かについてのものではなくて何かそのもの、という絵のみが抽象画ではないということにな
るでしょうか。そのような絵は、現実には、もっとも抽象度の高い絵として扱われるでしょうが。
「具体的普遍」「剥き出しの普遍」という語が浮かびます。
微塵さん
>>271 程度問題に言及できるのは、内実のあるもので、その内実の形式は絶対ですね、だから、
一段高いところから、その形式を内実のあるものとして捉えられればいいのだけれど、経路言
語が固有名であるような微塵さんと違い、わたしにはその内実を感じるなんて遠い遠い。
「たとえば」も「あるいは」も形式の最たるもので、びくともしません・・・。なんとか、「実践的に想
うこと」というスタートラインに立ちたいけれど、「である」「がある」を揺るがせることでまずはいっ
ぱいいっぱい。
> 径路言語の不変性を低減できれば、つまり径路言語の内部の程度問題に言及できれば、
> 切り 口によってはあたらしい哲学のジャンルが生まれるでしょう。
ほんとにそう思います。前スレとこのスレで書かれていることはきわめてユニークでオリジナル
なのではないかと。読書量の高が知れているので、断言できないですが。
いずれは、もっと公にできる機会を望んでます。みんなでやりましょう。ダメ?
大三元さん
>>277 > それ以外の動物にもあると思う。クジャクの羽はシンメトリー(左右対称)なほど持てるらしい。
> クジャクに限らずシンメトリーが好まれる動物はかなり多いみたい。人間もそう。
自分が左右の区別が苦手なのは、シンメトリーのせいなのでした。上下対象、という様態を
した生き物って、少なくないですか? 上下は左右と違って、交換不可度が高いから。
最後に、考え中さん。
夏休みってことで、暑さに身を委ねても・・・嫌、ですか。
わたしも、浅く長い眠りでぼんやりです。暑いことじたいは嫌いではないけれど。
考えるときは、頭の上にアイスノン。
エアコン解禁で仕事を始めますた。でも、諸事情あってそう涼しくはならない。
都営住宅の馬鹿ッ!
夏はいつも大変なんだよ。暑さに弱くてぐだぐだになる。でも昨夜少しギブソンさんを読んだ。
まだまともなレスはつけれらませんが、今日、明日のうちには少しは……。
>>かもめしゃん
暑いのが嫌いっていうのは、要するに汗かきなんです。それで、だんだん苦しくなってくる。
太ってるわけではないんだけど、とにかく少し暑いとイパーイ汗が出て、体中がベタベタして
気持ち悪いし、おまけに何か息苦しくなってくる。それがすごくいやでつ。そうなると、
もう頭なんか動きましぇ〜ん。
夕立が来たので、多少楽になるだろうか。エアコンを切って窓をあけますた。
雷がバリバリ言っています。
雨が音を立てて激しく降っています。これで涼しくなればうれしいのだが……。
某都営住宅の3Fより、愛を込めて。
>>271 「であったりなかったり」という言い回しは結構好き。
「量子」のような、粒子とも波とも言えるような、形があるともないと言えるような、
ある空間を占有しているような、していないような・・・そんな要素が心の中にイパーイ
漂っているような。
「である」と言い切った瞬間には、もうカタチを失ってしまうような。
西洋人にはあまり理解されないかも。
>径路言語の不変性を低減できれば、つまり径路言語の内部の程度問題に言及できれば、
>切り 口によってはあたらしい哲学のジャンルが生まれるでしょう。
これには、多分四次元を越えないとダメなんじゃないかな?
あるいは五感を越える?
高岡英男はそういう世界に行っているようにも思えます。わからんけど。
普通の人には無理っぽい?
>かもめさん
形態が上下が対称となると(つーか上も下もない)かなり下等な生物になると思いますが、
どこが上下なのかはっきりしない生物は海の生物には多いかも。地上より重力の影響が少ないから。
あと、コウモリ。あいつらの上下の感覚はぶら下がっているときと飛んでいるとき、
どっちが基準なのでしょう?ぶら下がっている時間の方が長いとは思いますが。
左右が非対称の生物もマイナーだけどいますね。
シオマネキとか、あとヒラメ。
ヒラメは謎だ。稚魚の時は普通の魚なのに。成長とともに感覚も捻れていくのだろうか?
上下左右の感覚を問い直すのに、
「何故、鏡は左右は逆になるのに上下は逆にならないか?」
を考えてみるのは面白いと思う。
考え中さん
夕立で、一瞬、涼みましたかね。かわりに湿度が高くなるから、ジレンマ。
暑さに弱いお体なんですね。冬にはしゃきーん、かな。
わたしは冬には暗くなる。ちょっとだけ。
大三元さん
>>284 > 「何故、鏡は左右は逆になるのに上下は逆にならないか?」
これ! たしか森博嗣がこのことについて書いていて、興味ぶかく読んだのだけど、ピンと
こなかった。自分は左右に関してかなりやばい、と思いました。
今から考えながら、寝苦しい布団に入ってみようと思います。
おもしろい話がいろいろ進行していますね。ちょっと食いつけないのが残念ですが、そのうち
何か言えるかもしれませんので、それまでは楽しみに読ませてもらいます。
>かもめさん
夕立の成果はおおありですた。その後一度もエアコンをつけずに過ごせています。シャワーを
浴びてさっぱりして、扇風機の風だけで快いひとときを過ごしています。これはありがたい。
いろいろ課題はありますが、まだどこから手を着けていいかわからないような状態で、言語世界に
ついては、微塵が前に言っていたことでも続けてもらえるとハッピーかもしれない。どうだろ。
きょうはもう寝まつ。気持ちよく寝られると思いまつ。では、おやすみなさい。
毎日同じことばかり書いててもしようがないから、きょうは頭のことは書きません。
とは言え、ほかにかくこともないので、一つだけ……
精神分析が嫌いだということを何度か言いましたが、ではそれにかわる人間観とは何かという
ことについて少しだけ。
ヒトが人になるプロセスの始原に「共感」を置くことが、僕の精神分析に対する抵抗でした。
人であるということは、「共感」によって人になったということですから、その「共感」が
きわめて多様であっても、根源的には一つだと思っていたのです。しかし、この一つには定形が
ないということが、今僕の中で引っかかっていることです。また例の変奏が聞こえてきそう
ですが、多種多様多形な共感は根源的には一つであるということは、本当に言えるのか。
人とは何かという問題と絡む難しいことだなと、ちょっとへこみながら思っています。
おやすみなさい。
鏡に映ったものが、左右逆である、ということ自体が、じつはよくわからないところがあります。
鏡の中の世界を現実世界と思ってみると、右にあるホクロが左にあるわけですから、そりゃ逆
です。
でも、鏡に映ったものは鏡に映ったものなんだから、現実世界と思って見るのはおかしくない
か?・・・ということを、わたしは言いたいのでしょうか。よくわかりません。
上下の逆でなさと同じように、左右は逆でない、ということをいいたいのではないですよ。
上下は、鏡に映るものを現実として見ても逆でないですからね。左右は逆になるのに。
問いは、どうしてそうなのか、ということですね、考えると、混乱して、寝てしまうのです。
情けない。
というわけで、眠くなりました。
おっと、考え中さん♪
>>287 わたしは考え中さんが、「共感」を基とする、他への関わり方(関わらないことも含む)のさまざ
まな形態について、考察してきたのだと捉えています。そして、その基としての「共感」は一つ
の型しかないと思っていたのですが、そうではないかもしれない、ということでしょうか。
「共感」については、ゆっくりと考えていきたいでしょうから、すぐのご返答を期待してません。
まして、この暑さでは。
人の生をどう受けとめるかということについて、それを独立した課題として考えたりすることは
基本的にはありませんでした。いかに生きるべきかといった意味での哲学は、あまり僕には縁が
なかったと思っています。というか、多分根源的な意味では「人の生」に意味などないとどこかで
思っていた気がします。僕が「自然」というときには、そういう根源的な無意味さについての思い
があったし、今もあるのかもしれません。
ただ、僕がそういう中でも感じていたのは、「哲学」的な意味などなくても人は生きるし、そこに
具体的な意味はいつもあるということでした。ですから、ぼくが「共感」ということを考えて
いるときは、どこまでも具体的な共感なのです。抽象的概念としての共感ではなくて、生きていく
上で人が必要とし、それによって人が生きられる関係としての「共感」なのです。ですから
共感は一つの抽象概念ではありますが、そこに僕が見ていたのは、いつでも具体的な形なのです。
これをうまく伝えるのは難しい。多分、無自覚・無意識の次元に共感がある。それは、人間の
あらゆる行動・感覚・言語を成立させている関係それ自体なのだと思っていたのです。この次元の
共感は、例えば乳幼児の共鳴動作といったものと同じく生得的なものであって、だからこそヒトは
人になり得るのだと思っていたのです。これを外すと、ヒトは人には必然的にはならないという
ことになると思っています。
これは換言すれば、ヒトが人になることが、なぜきわめて簡単に見えるかということの理由だと
思うのです。この次元の共感は、それ自体としては誰も意識していない。それこそ自然に成立して
しまっているからこそ意識できない。しかし、それは空気のように必要なものであって、それを
感じられなくなると、人は「人としての生」を見失ったりするのかもしれないと。
僕がこれを書いているのは、この次元の共感について少し見失いかけているからなのだろうか。
よくわからない。
ちょっと自分でも何がいいたいのかわからない文章ですが、まあ、こういうのもありかと。
鏡像は、上下左右ではなく、奥行きが逆なのでは。
動物には前後がありますね。内臓は左右対称ではありませんね。
上下は重力(引力)の影響下では、位置エネルギーが生じるので不可逆かと。
逆に言うと、位置エネルギーの大小が上下の軸を生み出したのかと。
水の中では浮力がやや重力を打ち消すので、上下を見失いやすいです。
擬似無重力空間みたいです。光が届かなかったら、迷子になるだろうな。
今、思い出したこと、視界の無い雪山では下山するつもりで上って行ってしまうことが
あるようです。ちゅうことは、人間はやはり経験上の風景で上下を確定するというのが有力かもです。
>>289 考え中さん
とてもわかりやすいです。前スレでがんばって読んでいたときの理解はおおむ
ねただしかったな、と自分で思いました。
ときおり過去形になっているのが気になりますが、そういう状況なんですね。
そういうのもおおいにありですね。
えー、わたしのはわかりにくい独り言系カキコになりそうです。
鏡はタテヨコの二次元で、前後左右上下の三次元のうち、上下方向はタテ方向と
一致し、そのままに保たれる。
残った前後左右という二次元を、鏡のヨコ方向という一次元におさめられなけ
ればならない。
ところで、前後左右関係は、どれか一つを定めれば残りの三つは自動的に定ま
る関係にある。
鏡を基点として、前後方向を鏡の向こうとこちらで一致させると左右が逆にな
り、左右方向を一致させると前後関係が逆になる。
一次元に還元される二次元のうち、どちらかは方向が逆になる。
でもなんで?
・・・小学校の理科で、月の動きを学んだ際、一本の線上に、東西南北のうち
の三方角が書き込まれている図がありました。かなーりわけわからんかった
ので、忘れられないのですが、それを連想してます今。
ガテンコさん
>>290 > 鏡像は、上下左右ではなく、奥行きが逆なのでは。
というのは、今に書いた、左右を一致させると前後が逆、というのと同じこと
でしょうか。ちがうっぽい・・・
> 上下は重力(引力)の影響下では、位置エネルギーが生じるので不可逆かと。
そうですね、今日思ったのは、「「地面」があって、そこに引力によってくっ
ついている」という観念が、上下の不可逆性のことだ、ということです。
不可逆性とは、客観性といってもいいかもしれない。
「下山するつもり」が主観で、「上って行ってしまう」が客観。
こういう、主客のズレというものが、前後左右にはないですね。もちろん、
特定の場内で、絶対的な前後左右の取り決めがなされている場合は、別です
が。
仮に、壁に立つことができて、真横に直立不動したまま鏡に映るとします。
このとき、身体を基準とする左右と重力を基準とする上下は一致していますが、左右しか
逆転しません。身体を基準としたときの上下は、ふつうに直立したときの左右と一致して
いますが、こっちの上下も逆転しません。
その話はおいといて、ふつうに直立して鏡を見るとき、仮に奥行きが逆転しているのだと
すると、当然鏡の中の自己像は、こちらを振り返った体勢になるはずです。左右が逆転
していない像です。
でもほんとうにそう見えたとしたら、今より奇妙です。
なにせこちらが左手の人差し指で鏡をつん、とつつくと、鏡像の左手はこちらが触れた場所
とは離れた対称の位置を差すことになるからです。
などと言って油を注いでみる。
>>293 上下が逆転していない、左右が逆転していると思うのがそもそもの誤りだと思うのです。
頭は頭と対応しているし、足は足と対応している。
左手は左手と対応しているし、右手は右手と対応している。
でも、鏡を0平面とした時に、+の位置にあったものは、それに対応した−の位置に
いっている。というわけ。
鏡像だけを問題にするなら、左右だけが反転しているという解釈が可能ならば、
上下だけが反転しているという解釈も可能ですよ。やってみて。
だからむしろ問題は、何故ヒトが左右が逆だと思うのかだと思います。
>>294 ガテンコさんの解釈に賛成です。ややこしいことは起きていない。ではなぜ左右逆だと思うのか。
これは、例えば1枚のネガから裏表の写真を焼いた場合に、当然左右逆の写真ができるのと同じ
現象だと思います。これをどう解釈するかというのと同じことですよね。
あー、なんだー。
>>268 (左右の方が)>上下より相対性がずっと高いのは、身体が水平に移動するようにできているからですよね。
ってことですねつまり。鏡像を現実と照らし合わせる時、自然に水平に移動させているんだ。
例えば、ヒトが移動の手段として前方転回、又は後方転回を採用していて、ふと倒立の形で立ち止まることが
あるような世界では、鏡像を立て移動させて現実と照らし、あ、上下逆って思うかも。
>>292 確かにそういえると思います。前後左右はどれか1個決まれば残り3個も決まる。
左右が逆だということは前後逆だとも言える。
でも、かもめさんのおっしゃるとおり、鏡はタテヨコの2次元だから、タテヨコは
同じ立場、奥ゆき軸はそれに垂直ですから、同じように扱っていいものかどうか。
いい例を思いつきました。床に置いた鏡に乗ってみたらどうなる〜?
>>295 あ、いい表現ですねー。
俺は逆転してるって実感ないです。
三次元の厚みのない表皮を剥いで裏から見ている状態ですよね>鏡像
表皮の成分は光子。
鏡像の向こうに奥行きがないって知ってるのに、奥行きのアフォーダンスがあるから、
軸を鏡の中の自分の像に持ってゆくとき反転させてしまう。振り返っていると想定して。
ほんとうは剥がれていった皮の後姿なのに。
>>296 床に置いた鏡に立つと、自分の股が振り返ってるように見えますねw
余談ですが、
瞳孔から入ってくる光だけで奥行きの整除された前景を構成するとき、脳がかなり情報を
加工していると思うのです。
でも、そのとき脳が利用しているアフォーダンスはカメラなどという単純な道具でも容易に
捉えられ、単純に焼き付けた写真が実像のように見える。これが不思議でたまりません。
生物でもないくせに>カメラ
識字と視覚
これは、部落解放同盟が行っている識字運動の報告の中で読んだか聞いた話なんですが、被差別
部落の人たちの中には、子どものときに学校へ行けずに文字の読み書きを習っていない人達が
います。もうかなりの高齢の方たちが多いのですが、その方たちに対する識字運動というのを、
解放同盟が行っているのです。その報告の中で、非常に意味深い話を覚えています。
識字運動の結果として字が読めるようになった女性の話ですが、字が読めるようになって、それ
まで気がつかなかった(見えなかった)ものが見えるようになったというのです。その一例
として挙げられていたのは、こういうものでした。下から木を見ると木の葉の裏側が見えますが、
そこに上にある木の葉の影が写って、微妙なコントラストが非常に美しく見えるのですが、
それに全く気づいていなかったというのです。字を覚えた結果そういうものが見えるようになった
と、その女性が語ったそうです。もちろん、これもちゃんと写真に写ります。
これについては、これ以上詳しい報告はなかったと思いますが、言語・文字・感覚がつながって
いるということの一例として、すごく興味をひかれました。
これも含めて僕も同じような経験を別の形で、ある時期まとめてすることになりました。僕の場合
は文字が読めるようになったからではないので、それとは別の何かきっかけがあったことに
なりますが、それはとても説明しづらいものなので、単に「感覚の統合」という言葉で表現して
おきたいと思います。
これに類したことで、地面に落ちた木の影を見ていると、ときどきハッとするほど美しい影に
出会うことがあります。それは風があるときで、しかも地面に見える影が地面に近い葉と遠い葉の
影が入り交じっていることが条件です。気がつかれた方はありますか。
これをうまく言葉で表現するのは難しいのですが、わかっていることだけ言うと、遠い木の葉の
影は、ぼけます。しかも、木漏れ日は木の葉の形ではなく、太陽の形に丸い光としてその下の木の
葉に当たりますから、当然地面に近い木の葉の影は、この丸い光を遮ります。このクリアな木の葉
の影と、ぼけた木の葉の影、そして丸い光が木の葉に遮られ、しかもこの木漏れ日の光は、木が
揺れることによって、きわめて短時間に現れては消えることになるので、何種類もの影が瞬間的に
移ろう姿が地面に映し出されるわけです。いつも影を見ているわけではないので、しょっちゅう
気がつくわけではありませんが、ときどきあまりの美しさに茫然となってしまうことがあります。
>>294 >>295 そうかー、
>>288で、おそるおそる
「鏡に映ったものが、左右逆である、ということ自体が、じつはよくわからな
いところがある」と書いたけど、もっと強く主張してよかったのかもしれない。
ただ、「何故、鏡は左右は逆になるのに上下は逆にならないか?」という問い
ははじめから、「〜と人は思うのか」という問いなのだと思ってます。
この「思う」を実感ととると、実感していない人もいますが、その方も、一般
にそう思われているらしい、という認識は持っていますね。
ではなぜ、人はそう思うのか、なんですが、考え中さんと微塵さんが答えてく
れてますね。ありがたや。
「剥がれていった皮の後姿」は、正面の姿と左右反対になるのは当たり前。
・・・うーん、わからない、当然なのが。どうしてだろう?
「何故、鏡は左右は逆になるのに上下は逆にならないか?」という問いのわか
らなさは、これなんです。
わたし、自分が困った奴になってるぞという気がぶんぶんします。
どうかイラだたないでください〜。
一人で考えますので、ちょっとほっといてもよいです。
ガテンコさんっ
> 鏡像だけを問題にするなら、左右だけが反転しているという解釈が可能ならば、
> 上下だけが反転しているという解釈も可能ですよ。やってみて。
できないよっ
> 床に置いた鏡に乗ってみたらどうなる〜?
うん、これ考えました。
鏡と向き合うとき、人は自動的に、「自分の鏡像の、顎に対する額の位置を
上とする」としていると思うのです。地面(床)に寝そべりその横に鏡を立て
ている場合はそうではなく、地面を下としますが。
そこで、床に鏡を置いてその上に立つ、というのが魅力的な例外に思えたので、
考えてみましたが、その鏡を覗き込んだら、やはりそこに上下の設定があり、
したがって前後左右決まります。例外ではないと。
(ん? こう書くことでガテンコさんに何がいいたいのか…)
続き。
>>296でした。
「(奥行きと左右方向を)同じように扱つかえるのか」には、YESです。
扱えるけれど、<293で微塵さんが書いているように、「奇妙」です。
というか、
>>290 > 鏡像は、上下左右ではなく、奥行きが逆なのでは。
というのは、同じように扱っているのだととったのだけど、違うのですね〜(泣)
微塵さん
>>293の前半
主観と客観という書き方をしましたが、それより微塵さんの、「身体を基準」
と「重力を基準」という書き方の方がいいですね。
壁に直立できるとして、その際、身体基準の左右は逆になるが、それと一致す
る、重力を基準した場合の上下方向は逆転しない。
また、周りに重力を基準とする物が映っているとするとそれは左右逆になって
いるが、その左右方向と一致する、身体基準の上下は逆にならない。
ということでしょうか。
これは、大きいヒントなような気がします。
メモ
言葉は、ある水準の知覚を標準化する?
あるいは、言葉は単にラベルといったものではなくて、言葉という対象性において、
ゲシュタルト―アフォーダンスを組織化する。(自動的に?)このプロセスは図と地の関係
そのものを制御する? あるいは、顕在的なものと潜在的なもの、そして排除されるものの
関係を「支配」する? 言語の脳内における役割は、もっと即物的に、生理学的に、僕の予想を
超えているかも。世界の図と地への「分割」は、それ自身排除? 抑圧? あるいは解放?
言葉は、感覚のコーディネーター? あるいはインテグレーター? オーガナイザー?
これって、0記号とかに逝く方向かな?
うーん、考え中さんが書き込まれる前から、書き始めていたわけだから、途中
席を何度かはずしたとはいえ、一時間半近くも書いていたのかわたし。ショック
ほっといてもよいです、と書いてから、ながーくレス書いてますね。
でも、ほんとにいいです。ガテンコさん以外はw
考え中さん。ちょっと涼しいですよね、東京も。そのおかげの書き込みでしょ
うか。
> それはとても説明しづらいものなので、単に「感覚の統合」という言葉で表現
> しておきたいと思います。
いつか、お聞きしたいですが、いつか、で。
>>302 メモ、とても同意です。
ときにはゆるく、世界を言語と言い換えてしまうけれど、たしかにそれは一つ
のものなのだけれど、別の側面なので、同じものとして扱うのはまずいと思っ
てます。
知覚と外界における言語を、それ自体実体あるようなものとして扱うことは
避けなければならないと思っているのです。
そういう言語観なので、別の角度においては言語が知覚の対象である、という
のは、かなりかなり新鮮なのでした。
>>303 かもめタン
そうです。間違いなく頭が多少とも動くようになりますた。しかし、まだどこか不全感がある。
>いつか、お聞きしたいですが、いつか、で。
これね、説明しがたい部分があるというのは、このプロセスが全然理論的なことではなくて、実に
経験的・直感的・デムパ的であるということなんでつ。ほとんどオカルトかもしれない。だから
説明すること自体が難しい。しかも、きわめて個人的な経験なので、生のままでは恥ずかしくて
人に言えないようなことも含まれています。この過程全体が説明できるような理論的な枠組でも
できれば、それこそ「客観的」に語れるようになるかもしれませんが、当面全然無理そうでつ。
類似した話はあまり聞いたことがないので、例えばそれが一つの手法であるとしても、一種カルト
的な形でしか広めることができないようなとても変なものです。それゆえ、期待せぬがよろしい。
それともカルト教団でもつくりますかw
ついでに、これらの経験に関して言えば、僕自身が僕に何が起きたのかを理解していないという
こと、これが決定的です。よくわかっていない。だから、そもそも人に説明できるわけもない。
これに答えられる人は、多分オカルト系の人ぐらいだろうと踏んでいます。それくらい飛んでる
話です。ゆめゆめ合理的な話など期待しないでください。
ついでですが、オカルトの世界にも変な達人はいるんです。そういう人としばらくお付き合いも
して、いろいろ教わったのですが、結局世界観という面ではすり合わせができなかっただす。
おかげで、僕のオカルト知識はとても中途半端で、これまた人に伝えることのできるほどの内容は
ありません。最初から志向はオカルトではありませんでしたから、これはこれでいいんですけど。
けれども……。では、おやすみなさい。
>>305-
>>306 そうですね、具体的な内容は説明できないことなのでしょう。
ただ、そこに言語が深く関わっていたのではないか、ということであれば、
その関わり方がどのようなものであるのかを、これから聞かせてもらえること
もある、かもしれない、と期待してしまいます。
いや、もうすでに、間接的には、聞かせてもらっているのだと思ってます。
ところで、その体験は、
>>255などで書かれていた「多世界的体験」「未知の
世界」と関係あることですか? そのものだと受け取ったのですが。
微塵さん
>>297 鏡像と写真とは、奥行きの有無で異なりますか?
この質問は、「逆転している実感がない」というのを、鏡像を「剥がれていっ
た皮の後姿」として見ているということととらえ、さらにそれは、鏡像に奥行
きを感じていない、ということと受け取ったために浮かびました。
最後の「さらに」以降が間違っているような気がします。
>>299 >「剥がれていった皮の後姿」は、正面の姿と左右反対になるのは当たり前。
>・・・うーん、わからない、当然なのが。どうしてだろう?
考え中の
>>295のとおりネガになるから。つまり皮の裏から見た状態。
>>307 >鏡像と写真とは、奥行きの有無で異なりますか?
鏡像は奥行きのアフォーダンスがあります(奥行きはないです。裏に回ればわかります)。
それは両眼視差が成立しているから。鏡を見て左右の眼をかわりばんこに閉じてください。
写真は視差の効果がありません。
考え中はどんなことを考えているのだろう。
陽電子を過去方向に動く電子と捉え、
電子と陽電子の対消滅を電子の過去への転針、対生成を陽電子の未来への転針と解釈して
宇宙にあるすべての電子と陽電子は、一個の電子が時間を超えて動き回る、その軌跡である
という説がありますが、
それを魂に援用して、すべての生命は一個の魂の無限の転生だという転生観があります。
あるいはデヴィッド・ドイッチュ流の多世界解釈では、個々の世界間の同一性の程度問題を規定
する決定的な要因に情報を持ってくる、かなりファンタスティックな世界観です。
多世界を一望にする視点があれば、ひとりの人間は、生命のない星系より壮大な構造物になる。
このへんよりももっと電波なのかな?
>>308 > 考え中の
>>295のとおりネガになるから。つまり皮の裏から見た状態。
裏になると左右逆になるのはなぜなのか、上下は逆でないのに。
これが、「わからない」のです。
左右が逆にならないように裏返すと、上下が逆になりますね。
ここにあるのはわたしの理解不足で、謎ではないのでしょう。よく考えます。
>>308 後半にレスし忘れました。よくわかりました!
>>307 かもめさん
>ところで、その体験は、
>>255などで書かれていた「多世界的体験」「未知の
>世界」と関係あることですか? そのものだと受け取ったのですが。
おっしゃるとおり、そのものです。これがきわめて説明しがたいということだとご理解下されば
ありがたいです。説明できるようになれば、おもしろいんですが……。
>>308 >微塵
多世界ということでは、僕は何かの方向を目指しているというわけではありません。でも、その
ドイッチュの考え方はおもしろそうですね。多世界的な領域の経験的な部分についてはこれを
理論的に理解しようと努めたことはほとんどありません。むしろ流されていたとしか言えないん
です。指針も何もない状態でフラフラしていたということです。それに関しては今も同じで、よく
わからない状態で宙づりになっています。
変な言い方をすれば、僕にとって多世界論は長い間理論的にはついでのことだったのです。
それ自体を主題的に俎上に乗せる日が来るとは思っていませんでした。ですから、理論的な面と
経験的な面が同じ土俵にあるという状態ではありません。むしろ、乖離しているというのが本当の
ところかもしれません。しかし、それを境に経験した感覚的な変化は、今も感覚の多様性や
流動性を理解する上でのヒントとして生きています。
>>310 自分でない人と対面していれば、その相手にとっての左右が自分と逆なのは自然です。
その人の視点に立つとすれば、軸が反転するからです。
自分自身がもうひとりいて、現実にそいつと対面する場合にも同様です。
ところが、鏡のなかの自分は実はこちらを振り返っていない(つまり裏=光の背面像)のに、
現実の自分と対面しているように誤解する。つまり、こちらを向き直っていない自己像を、向
き直っていると解釈するので左右が矛盾するのです。
左右だけが逆に感じるのは、向き直る(奥行きを向こうに持ってゆく)という余計な操作を脳が
加えているせいです。(つまり奥行きがあるという解釈。でも、その奥行きは踏み込んでゆこう
とすると額をぶつけることまでは捨象できない。あぶないからw)
脳がそうするのは、そのほうが鏡を使いやすいからでしょう。あるいは鏡像を平面ととらえる
とするとふだんの奥行き知覚までも阻害するからでしょう。だからこそ私達は「逆!?」と気にす
る余地もできる。
鏡像には奥行きがあると思っているのに、鏡には奥行きがないと思ってる私達。これは考えて
みるとヘンですw
上下については、網膜像は転倒しているので脳内で再転倒していますが、そこにとまどいは
ありません。とまどいを残さないほうが実用的だから。
言ってみれば私達は、鏡はこの世界にあり、鏡像は別の世界に属すると思っているのです。
自分の顔を自分で直接見ることはできないわけで、鏡を見る目的は自分の顔を確認
する為だと思われ。多くの人が毎日鏡を見て自分の顔を見慣れていると思うが、
もし鏡を見たことがなかったら、自分の写真を見ても「この人誰?」となると思われ。
鏡で見慣れた自分の顔のイメージだが、それはどう鏡を覗こうとも左右が逆なわけで、
他人が見ている(他人に見られている)自分の顔とは似て非なる物。
自分の写真を見たときに何か違和感を感じるのはこの為かと思われ。(免許証の写真ヒドイ)
自分の顔を客観的に見る事はできないのに、普段何気に見れてるつもりでいる。
「自分のことは自分が一番分かっている」つもりでいる事と、実際のギャップ。
他人に観察されることによって初めてこの世界に存在する「自分(の部分)」。
私的にはこの感覚は結構重要だと思うのですが、どうよ?
>かもめさん
鏡自体の性質と、人間の認識の性質を分けて考えるといいかも。
鏡は物理的にあるモノを逆にします。それは、光のベクトルの内、鏡面と垂直(仮にZ軸)の成分。
鏡面上に、直行するX軸Y軸をとっても、その方向の光のベクトル成分は変化しない。
これが鏡自体の反射の性質。図に描くと分かりやすい。
これを、人間がどう認識するか。前後が逆と取るか、左右が逆ととるか。
「逆になった」からには「逆になる前」が有るわけで、それをどう比較するかですね。
鏡像を黒く塗りつぶしてシルエットで考えれば、左右は逆にならないですね。
オモタけど、利き腕とか心臓の位置とか何か非対称な身体感覚がないと、
左右の区別ってできないかも。「お箸を持つ方」とかって覚えた。
左右が逆ということ。
昔アメリカ西部にビリー・ザ・キッドというギャングがいました。数々の殺人等の犯罪で指名
手配され、新聞に取材されて記事にもなり、写真も載りました。この写真では、銃を左側の腰に
吊るしていて、ビリーは左利きのギャングとして有名になりました。
ところが、後年この写真はネガを裏返しにして焼いた写真であり、間違って左利きとされていた
ことがわかりました。それは、写真を詳しく見た人が、「ボタンの位置が逆」ということに気が
ついたのだという説があります。こうして、ビリーは右利きのギャングであったということが
知られるようになりますた。映画「ヤングガン」はそんなビリー・ザ・キッドを描いた作品
ですが、この写真のエピソードもしっかり挿入されていますた。
さて、ネガを裏側から見るとなぜ左右だけが反転するのでしょうか。これに答えることが
できれば、鏡の問題は解決しそうです。裏返すというのは、紙をその平面上(ないし
その延長面上?)にある軸を中心に180度回転させることに相当します。この場合軸に対して
垂直方向の位置関係は逆転しますが、軸と平行な方向は変化しません。このことが、左右が逆転
することの意味ではないでしょうか。失礼しますた。
>>316 「お箸を持つ方」についてですが、これは非常に普通の覚え方のように思いますが、これで都合の
悪い人たちがいます。それは左利きを矯正されて右利きになった人です。(僕の妻がそうなんです
が)完全に右利きになってしまった人はそうでもないのかもしれませんが、部分的に左利きが
残っている人だと、混乱するようです。特に子どものころにこれで混乱した人は、長じても
左右をパッと理解できないことがあるようです。
うーん、ビリー・ザ・キッドのことを思い出して書いている内に、大三元さんに先を越されてた
のかな? (てゆーか、大三元さんのレスの意味がしっかり理解できていない。情けないぞ>オレ)
>>313、314
そうですよね。鏡の表面で反射される光を捉えているはずなのに、鏡の表面を見ている
のではなく、光が反射された地点の延長線上にあたかも実体があるかのように見えます
よね。そしてちゃんと、自分が見ている(見かけの)距離以外のものはピントがぼける。
いったい何処を見ているのでしょうか。へんなの。
>>300 鏡を覗くときは、顔が鏡面と平行になる…確かに!
鏡の上に乗る自分と、その鏡像を想像して書いていたので思いもよらないことでした。
>>310 裏焼きの写真を手にとった時、天地が逆だったらとりあえず上下反転させてからじっくり
眺めてるうちに、「あれ、なんか変。ああ、左右が逆じゃん」と思いそう。
やはり、上下の不可逆性のほうが左右のより経験的にきわだっているからかなあ。
天橋立の股覗きって、空に橋が架かっているように見えるっていうけれど、実際やってみると
そう見る為にはかなり恣意的な脳内加工が必要です。
頭が、自分が逆さまになっていることの認識や経験から、見かけ上反転しているはずの上下を
勝手に修正してしまうのですね、きっと。「絶対空が上、海が下!」みたいな。
ガテンコさん
ひどく亀レスですが……
>>222 >自分で自分の中を覗き込んでみても、これ進化的とかこれ文化的とか分からない、分けられない。
>これは自然=人間の内的編成とほぼ同義ですか?
まず進化的と文化的と分けることは無意味ではないと思います。それは、自然の階層性ということ
からそう言えると思います。しかし、僕たちが自分をのぞき込んだときには、そのような区別は
難しいですね。その意味では、ガテンコさんのいう通りだと思います。そして、そのような
「内的」な経験の総体を自然過程と理解したいということなので、おっしゃる範囲内ではほぼ同義
と考えていいんじゃないかなと思いまつ。ニュアンスの違いは感じるのですが、とりあえず……。
微塵さんにも先を越されている…。ああ…。
考え中さん
私も地面におちるきらきら、大好きです。飽きないですよね。
あと、空中を舞う羽虫の群れも同じ感覚で好き。(これは同意を得られないかもですね。)
大三元さん
声もそうですよね。みんなが聞いている私の声を、直に聞いてみたいのに。
左巻きと右巻きがよく分かりません。全く別の名称をつけて欲しかったです。
あと、対称的な構造の分子を右手系、左手系というのもやめて欲しい。
どこかに左右好きがいるのか?
ああ、そしてまた考え中さんが…。
「亀レス」ってアキレスと亀みたい。
アキレスは決して亀を追い越せないのであった。何故なら、追いついた瞬間に両者は融合して
「亀レス」と化してしまうから。っていうパラドックス。
>>322 空中を舞う羽虫の群れ――パッと「ナウシカ」の羽虫の大群を思い出してしまうおれって……。
Grotee!
本物も見たいけど、水族館でときどき見る密集して一定方向に泳ぐイワシの群れ。圧倒的な
美しさ。あれもきらきらして見飽きないでつ。大洗の水族館でビデオに録った記憶があります。
>>323 追いついた瞬間に両者は融合して「亀レス」と化してしまう……w
一瞬トラバターを連想してしまいますた。
しかし「亀レス」とはどんな姿をしているのだろう。
みなさんは「ゾケサ」をご存じですか。
これも姿形が想像できない類のものですが。
「何故、鏡は左右は逆になるのに上下は逆にならないか?」
鏡のタテヨコは、映されるものの上下左右に一致する。残る前後は一元化されるが、奥行きを
見て取る視覚によって生かされる。
鏡像は、正面の像を平面に焼き付けたものを裏返したときに見える姿をしている。したがって、
上下か左右のいずれかが、反対になる。
――これを解からせてもらったことで、問いが切りつめられました。
ここで、裏返す際の軸が、タテの棒なら左右が、ヨコの棒なら上下が逆になる。
鏡像では、軸はタテ方向である。これは何故か。なぜヨコ軸によって裏返ってはいないのか。
――これが切りつめられた問いです。
横軸でないのは、身体が重力に支配され、その動きは縦軸としての水平移動、自転、軸上の
上下移動に、ほぼ限られていることの、自然な結果である。
――ほんとかな。
ところで、もちろん、身体を地面に横たえているときでも、軸はタテ方向である。
鏡に正面から向き合う体勢で寝ている場合、鏡像と、身体の左右どちらが上を向いているかは
一致しており、身体の上下(頭と足)が鏡の面の左右どちらに向いているかは、逆転している。
これに対して、壁に直立できたとすると、そのとき軸は、重力とは垂直の方向である。つまり鏡
像は、通常ではヨコとされる軸を中心に裏返されている。これは、「壁に立っている」という認識
によって、上方向の基準が、通常の重力ではなく身体に置かれているためである。
――これは、
>>293へのレスでした。
以上、今日考えたことでした。これを書く前に、朝以来はじめてここに来てみたら、13のカキコ
・・・喜びつつ、これを書きこむことに限っていえば、がーん。
読まずにとりあえず載せちゃいます。
>>313 うわあ、いきなり、「軸」という言葉の使い方が違うようですね。違うのですよろしくお願いします
>丁寧に読んでくれる方
> 左右だけが逆に感じるのは、向き直る(奥行きを向こうに持ってゆく)という余計な操作を脳
> が加えているせいです。(つまり奥行きがあるという解釈。
そうですね、奥行きがあることを前提として書きました。
> 鏡像には奥行きがあると思っているのに、鏡には奥行きがないと思ってる私達。これは考え
> てみるとヘンですw
そういえばヘンですね。「あぶないから」って。自分で知っているより何倍も、賢いんですね自分
は。
>>316 > 他人に観察されることによって初めてこの世界に存在する「自分(の部分)」。
> 私的にはこの感覚は結構重要だと思うのですが、どうよ?
わたし的には結構重要どころか、基本です。
「お箸を持つ方が右」。わたしは右利きのくせに、こう教えられてもダメだった。そう言われると、
どちらの手で箸を持っているのかがわからなくなるのだった。
左右の定義としては、東西南北などが使われますが、自分の中での左右の定義は、これ以上
溯れない直示定義で、示す対象は個物ではなく、方向。「右はこっち」という定義。
身体はそれ自体で方向を持っている。身体は環境の中に置かれた点ではなく、それじたい
環境である、ということを思いました。
>>317 忌野清志郎も、オーティス・レディングの写真を見て、それが裏返し焼きの写真だとは知らず、
真似をして左手でマイクを持つようになっていたそうです。書かずにおれない余談。
鏡像左右逆についての考え中さんが書かれていることは、わたしのちょうどぼやけているとこ
ろについてで、簡潔にクリアなので、ちょうど反転しているようで不思議な感じでした。
他の方からの、寄り道や副産物もかなり楽しかったけれど。
>>327 かもめさん
すべて
>>290のガテンコさんのレスのおかげです。あれがなければ、僕は鏡像の問題については
沈黙の予定でした。こういう問題に沈黙してしまうのかというも、僕の考え方の特徴の一つで、
簡単に言えば、感覚が「違う」と言っているように感じます。「違う」というほどはっきりして
いるわけではないのですが、その問題の前でパッと立ち止まってしまう感じ……。考えることが
そこで停止して、そのかわりに胸?に妙なわだかまりがうっすらとわき出てきます。読めない本
と似たような現象かも。でも、ガテンコさんのレスでパッと視界がクリアになりますた。
ありがとう>ガテンコさん
ふと気になって「どうして僕たちは3次元世界に住んでいるの?」スレを見てきますた。
そうすると、そこには、前「共感覚」スレ成立に至る経緯がありますた。微塵が結構慎重に自分の
経験を披露しつつ、それにぴか〜などが絡みつつ、前スレ成立へと展開しているのですた。
こうやって、このスレは成立したのかという感慨がありますた。
でもそれはおいといて、ここで次元の観念とアフォーダンスの関係について、例えば水中人
だったら、どういう次元を導出するのかといった話題はどうかと。「アビス」という映画に水棲人
である宇宙人が登場します。彼らはどんな空間観念を持つのだろうかといったぼんやりした話でも
いいのですが。SFっぽいですが、不変項を考えるにも役立つ遊びになるかなと思って……。
もちろん水棲人に限りません。あまり羽ばたき過ぎても、思考が追いつきませんので、限度はある
でしょうが。
>>329 「3次元」スレ・・・・なつかしい。
だんだん控えめになりながら(w)ちゃんと経験に根差したことを表現していたのですが、
やっぱりなかなか通じなかったなぁ・・・・
すっかり荒れてしまいましたが、あのスレも・・・
>>328 おもしろいですね。わたしはガテンコさんのレスが、火に油第一弾でした。考え中さんのは、
水だった。どちらもいい意味で受け取ってください、そういうつもりで書いてますので。
>>329 貴重な情報ありがたや! 今見てきました! 通りすがりカキコが、ここまで大きくなったわけ
ですね、はー。
SFは、思考のかっこうの道具となり刺激となるので、「っぽい」の歓迎です。
いまのところ、すっかり聞く態勢w
映画「アビス」おもしろいですか? 小説の方は、絶版みたいですね。
>>331 「アビス」のノヴェライズはすばらしいですよ。
オースン・スコット・カードは取替えのきかない作品を書きますが、これもそうです。
カードの他の作品にはない魅力があります。
古本屋で見かけたら迷わずゲトしてください。
地面に写る木の葉の影も、実は地面という「反射率の低い鏡」に写る鏡像だったり。
我々に見えるすべての物の表面は(反射率の程度が違うだけの)「鏡」であると見ると、
「印象派」的な見方ができるかも。
南半球の国の世界地図って、南極が上になってたりして。南半球人から見た日本は、
九州が上で北海道が下。南半球人と北半球人の「世界の形」のイメージは上下が逆。
我々の乗っている地面の1万2千キロ真下に、逆さまに人間がへばりついてるのって不思議だ。
世界地図の表現方法は面白い。「メルカトル図法」とか「モルワイデ図法」とか。
球体の表面を平面に無理に押し込める「ピカソ的」な事を、結構昔からやっていた。
>>322 >声もそうですよね。みんなが聞いている私の声を、直に聞いてみたいのに。
あー、そうでつね。「骨伝導」てのがあるから。
録音した自分の声を聞くと、「ホントはもっといい声なのに」と思う。
内から聞く自分の声を聴かせたい、アンド内から聞く他人の声を聴いてみたい。
>>327 >わたし的には結構重要どころか、基本です。
オイラにとっては基本ではまったくなくて、重要さに気付いたのも二十代になってから。
小学生の時に「我思う故に我在り」という言葉を知ってから、この言葉の持つ「魔力」に
永い間囚われ続けたのでした。
「我在る故に我思う」、「我思われる故に我在る」という視点は(自覚できるほどには)
なかなか育たなかった。
「人間は自分さえよければいいが基本」と思っておりました。
そう実感しつつ育った。利己主義、個人主義が基本って人は多いと思う。
そう実感してしまいやすい今の世の中だと思う。
>>331 「アビス」は、地味ですがいい映画ですた。好きな映画の一つです。デカい水槽を使って撮影した
という水中シーンはなかなかの見ものでつ。sfx的にもいいし、ストーリーもなかなかじっくり
した話でつ。
>>328、331
相手を言いふせる議論じゃなくて、対話、こんなに面白くて有効だなんて、ここに来るまで
知らなかったです。ばりばりみんなからヒントをもらっています。お礼言い出したらきりが
無いくらい。
「アビス」初聞きです。探してみよっと。
水棲人、水深どれくらいのところに棲息するのでしょうか。
うる星やつらの半魚人が出てきて邪魔しますが、頑張ります。
今日付の日記は、考え中の299と、それに対するみんなのレスに触発されたものです。
書いた側としては、なんだかわくわくしつつ書きました。
いろいろとよい種を植え付けてもらって、ありがたく思います。
>>298 これに近い談話を、私も聞いたことがあります。
おばあちゃんでしたが、字を覚えてから、景色の見え方が変わり、理解できなかった子や
孫の気持ちが前より理解できるようになったと話していました。
字が読めるようになると、風物や人物も「読める」ようになるのかな?
考えてみると、幼いころは大人たちが感激する「よい景色」の、どこがよいのか理解できず、
観光っておおむね退屈なものでしたが、字を覚えるごとに、景色の美しさがわかるようにな
っていった気がします。
>>336 僕にとっても、信じられないほど刺激的で、かつフレンドリーな場として、2chにこんな場がある
ということだけでも、ほとんど奇跡的でつよね。ひとしく皆さんに感謝。特にミジンには多謝。
「アビス」に出てくる水棲人は、映画の中では詳しくは描写されませんが、一種のクラゲのような
存在が進化した生物として想定されているのでしょうか。水をきわめて自由に扱います。映画に
出てくる宇宙人さんとしては、とてもSF的に優れたアイデアのような気がしますた。ナメクジ進化
型よりは、ビューティホーでつ。彼らは、水環境では深さは無関係に活動できるようですた。
>>337 日記、読みますた。ちょっと照れくさかったですが、読んでみてライアル・ワトソンの「スーパー
ネイチャー」を思い出しますた。その本の中で、雲に意識があるといった記述があったように
記憶しています。この本は、結構好きです。
299の即物的な描写を「詩的」と言われたのは全くの予想外でしたが、(つまり僕自身は詩的だ
とは思っていないっつーことですが)僕自身の感覚にそのような変化が起きたことは、詩的なこと
かもしれません。木や草、木の葉や花たちの姿の美しさに感動することができるようになって、
生きる喜びが増えたのは確かですから。
言葉及び文字の機能について、こう考えてくると、唯物論だの唯名論だのといった議論がむなしく
なってくるほど豊かな内容がほの見えてきたような気がしますね。ちょっと予想外の展開になって
きた面も含めて、これから先どうなるんだろうと……。
>>339 >雲に意識があるといった記述があったように 記憶しています。
俺はメルヘンチックな安易な擬人化は嫌いなんですけど、あの日記に事寄せて言えば
たとえば海水と俺は、存在の形式が違い過ぎて「共感」はできないけれど、
おなじ自然に属する部分では「共鳴」はできると思うのです。
そして「共感」を経た「共鳴」と、「共感」を前提としない「共鳴」は、かなり次元のちがう
接触の仕方だと思います。
と、言いつつ
現状の語彙では、安易な擬人化と大差ない表現しかできないのですが・・・・
おはようございます
>>340 言ってることはとてもよく理解できます。ワトソンさんは「共感」といった話はしていなかったと
思いますが、自己組織化する系を一種の生と見るという視点だったと思います。そういう見方も
あるのかと思って、記憶に残っていますた。僕個人のことを言えば、そういった共感は、ほとんど
ありましぇん。一度だけ、庭に咲いていた朝顔にご挨拶されたような覚えがありますw えらく前
のことで、そのときは結構びっくりしました。そのときの朝顔の動作は、とてもかわいくて、少し
色っぽくて、記憶から消えません。でも、原理的に言って不可能に思えます。アニメーションに
出てくる擬人化された花のイメージに近い動きですた。幻を見たとは思ってませんが、あれは
何だったんだろうと、時々思い出しては考えまつ。色っぽい花のアフォーダンス???
上に絡んだお話で、嵐を追いかける人、雷を追いかける人、竜巻を追いかける人といった人たちが
いるようです。「ツイスター」という映画は、そういう人たちを描いた映画だったですが、
そういう人たちは、もちろん科学的な情報を駆使してアプローチするのですが、それとは別に
「自然が呼んでる」(別の意味になりますか)状態になりやすいのかなと思ったりもします。
年中そのことばかり考えているわけですから、そんなことが起きそうな……。ニャハ
>>334 > 「人間は自分さえよければいいが基本」と思っておりました。
どうやら、月ちゃんスレに書かれていていた「自分を作ることも、取り戻すことも自分だけでは
出来ません」 に近いようですね、
>>316の
> 他人に観察されることによって初めてこの世界に存在する「自分(の部分)」
は。
わたしはその「観察される」に力点を置いてました。自分のふだんの問題意識に近寄せすぎた
かもです。そして、それが「基本」でも、言葉にできたのは、青年以降ですよー
>>339 > 言葉及び文字の機能について、こう考えてくると、唯物論だの唯名論だのといった議論がむ
> なしくなってくるほど豊かな内容がほの見えてきたような気がしますね。
ほんとですね! あるいは、唯物論も唯名論も内実を変えて有効になるかもしれない、同じこ
とを別の面から言っているだけ、というような。
> ちょっと予想外の展開になって きた面も含めて、これから先どうなるんだろうと……。
微塵さんが書いていたように、本人と名前がしっくりします。
考え中さんは月ちゃんや詩都さんや、大三元さんにも、現れた当初とかたちがかわった、とい
われてましたね。
わたしにとってもそうなんです。メガネの秀才タイプからおもしろい人、ってのではないし、大三
元さんが書いていたような変化ともたぶん違うのですが。
というか、いまだ定まらず、ですね。それをいったらみなそうですけど、定まらず度高し。
水であることを忘れっぱなしの心として、うらやましいです。
>>340 > そして「共感」を経た「共鳴」と、「共感」を前提としない「共鳴」は、かなり次元のちがう
> 接触の仕方だと思います。
後者の共鳴において、言葉はどこにどのようにあるのかな・・・
水の心で他人と接したいのだけれど、まず理解に努めようとしてしまう。この理解は共鳴と離
れたところにある。
理解とは、表面的な部分での言葉を整合的にまとめること。固体にしていくこと。
そこには、相手に対する先入観も利用される。こうして、理解するときには自分も固体になって
いる。
けれど、だからといって、水であろう、共鳴しようとして固体を拒否すれば、かえって固くなる。
水が、固体の中に水が閉じ込められているかもしれないし、固体自体、水分を含んでいるかも
しれない。固体あっての水、なのかもしれない。
言葉と共鳴が排他的であるばかりではないように。
そうそう、考え中さんの書いていることの理解に努めるわたしでも、
>>344に書いた変化は、理解
内容の変化、つまりかっちりと説明できるような変化では、ないのでした。
>>345 正確な理解が別の理解を阻害することもあります。
心はまっさらで偏向のない空白ではありません。楽な環境や好きな季節もあります。動きやすい
温度も。
秋が好きな人が、「まだかなぁ、秋・・」と思うより「もうすぐ秋だ!」と思うほうがましであるように。
「もうすぐ秋だと思わなくちゃ」と思うより「まだかなぁ秋」とのべーっと思っているほうがましである
ように。
暗示は意味の慣性重力とも言えます。
「あなたは水だよ」となんとなく語りかけることが、心を水にする方法です。
ゆっくりと動く認識の固体。ほとんど動かない理解の地形を、水のように理解から別の理解へ
流れ沁み込み弾けて散り躍る水。水であること、水である部分に同一性を置く。
それはひとえに楽だから。
水であろうとして
共鳴するために固体を、拒否するのではなく、無視する。あるいは捨象する。または透明にする。
便宜的に。
様々な便宜をはかれること。それが自由ということです。
楽にさせておくこと、それが透明にする方法です。
固体は流れないことが楽だから、じっとさせておきます。地質学的にゆっくりと自然に変化して
もらいます。
そのあいだ水である自分は、いろいろな地形にかたどられながら流れているばかりです。
水はもともとだいぶん楽でやわらかくて速くて、かなり透明なので、固体にくらべて眼にとまりに
くいのですけれど。
誰かにとっては固体が楽で透き通ることができるなら、心が固体でもよいと思います。
もとより便宜的に、心を風と言ってもなんの問題もないわけですが、私には水が楽です。
常温のなかで固体にも気体にもなれるところに共鳴するから。
ちょうどよい「手応え」と、「手応えのなさ」を兼ね備えているから。
>>344 かもめさん
確かにおっしゃるとおりかもしれないです。僕の考え方は決められた形に落ち着いたことがない。
そして今はそもそも定まった形すらない。自分が何を目指しているかすら、はっきりしない。
何てこったい。
こんないい加減でいいのでしょうか。
思い返せば、僕はいつもそうだったと思う。若いときから、一定の思想に何年間もかじりついて
いたことなんてことがない。どんどん変わっていく。変わろうとしているわけではなくて、自然に
変わってしまう。それをいいとか悪いとか思ったことはなかったけど、これはひょっとしたら
生き続ける限りいつまでも続く性癖なのかもしれないでつね。
ただ、一貫しているものはないことはなくて、この間少しずつ書いていることには、20代のころ
から考え続けてきた原則みたいなものも大分含まれています。そうだね。それを少しずつまとめて
みるのもいいかもしれない。それを今の自分の言葉で表現するということをやってみても……。
あ、それを今ここで少しずつやっているのか。
>>346 水になるといえば、やはりこれでつか? 微塵のいうところと大分違いますが、共通する部分も
感じます。
>「水は形なき全体をよく現している。どんな形のいれものを満たす事ができるか、
>水自体に形はない。形がない故に、水はあらゆる所に浸透する。」(ブルース・リー)
僕が考えている自己像は、アメーバみたいなもの、あるいは、あの見事な擬態をやってのげる
イカやタコみたいな存在かもしれません。そんなことを思ったことはあります。つまり、定形を
持たないことというのは、前から自分に対するイメージとして持っているような気がしますね。
手塚的な意味でのメタモルフォーゼに対する憧れみたいなものは、子どものときからあります。
手塚的なエロティシズムには、どんな思想家からよりも結構影響を受けているかもしれません。
ついでに、
共鳴を自然のより基層的なレベルで理解するというのは、とてもわかりやすいです。僕にとって
は、例えば僕たちが基本的に共鳴という原理を全自然とともに持っていることとか、そのことを
ふとした折に自然の中で感じるといったことです。でも、それを実感することは僕にとって奇跡に
近いことだし、ましてそれを言葉にするのは、とても難しい。ですから、僕はそういう表現は
滅多にしません。でも、とても大事なことだと思っています。
微塵さん
>>346 とてもありがたいレスです。たくさんヒントや方法があってあわあわです、よく噛み締めたい。
考え中さん
>>347 その変化は、「固い」の逆であるばかりで、節操がないとかそういう否定的な意味はないので、
よいと思うのです。このスレを活性化している大きな要因の一つだと思ってます。
それに、「あ、それをここで少しずつやっているのか」、これもあるし。
>>348 ブルース・リーのアフォリズムは私も好きです。
たとえばこれ。
「変化に変化で対応することは、不変であるに等しい」
おはようございます。昨夜リロードせずに書き込んだためスルーしてしまったカキコへ
考え中さん
>>348 このブルース・リーの言葉を読むと、気体よりも液体、風よりも水といいたくなりますね、心の
ことを。
ブルース・リーって、観たことない、格闘は嫌いじゃないから、偉大な人として仰がれているの
をよく目にしますが。深いこと言っていたんですね。
> 手塚的なエロティシズム
といえばわたしはメルモちゃんなのでした。
>>349 > 僕にとっては、例えば僕たちが基本的に共鳴という原理を全自然とともに持っていることとか、そのことを
> ふとした折に自然の中で感じるといったことです。
実感できなくても、その原理の存在、信じたいです。
>>352 引き込み→共鳴という現象が自然界に広く存在することは知られています。僕の共鳴→共感という
考え方もそれを下敷きにしたものです。
この引き込みや共鳴は、複雑系である脳を理解するためにも必要な原理であるようです。この辺は
まだまだこれから研究されることだと思いますが、いろいろおもしろいことが隠されているような
気がする分野だと思って、期待しているところです。
脳と言語―文字
こういう研究分野があるのかどうか知りませんが、上述の文字―知覚の関係は、言語―文字の
対象としての知覚が、脳内のある領域の活性化と相関性があるということは、間違いなく示唆して
いるように思えます。そして、またしてもですが、進化論的にはまず脳があり、そこには言語野が
前もって存在したのです。そして人が言語→文字を対象としたとき、脳のある領域が活性化され、
人は「自然の美」に目覚めたのです。これは逆ではない。人間が美に目覚めたから脳が発達した
のではなくて、その逆。コノハムシ?だっけ、あれと同じ。前もって遺伝子によって構造が与え
られており、人はずっと後になってその構造を利用し始める? では、この言語―文字の機能とは
何? 僕たちはまだ本当は何も知らないのかもしれない。コノハムシの姿、形が未来の擬態を予定
したものでないとしたら、また言語―文字も予定外の獲得物なのだろうか。進化って何?
しかし、そういう進化論的な話とは別に、言語―文字がヒトの脳の機能を発揮させるのだとしたら
それは、どのようなシステムなのだろう。共感覚の話とか、言語の起原の話とか、全部つながって
きそうなお燗? どうなのよ。この辺、微塵の得意分野かな?
昨夜のことですか、トミーノのハゲがテレビに出演し、ニュータイプについて語った。そこで彼は、
「人や事物のありのままの姿を理解できる、それがニュータイプです」と述べた。彼はこれまで
ニュータイプについてあまり多くを語らなかったし、むしろニュータイプという概念について
否定的なニュアンスで語ることが多かったのだが、今回はいきなり核心に触れ、そしてその肯定的
な展開の可能性について語った。ガンダム世界が広がったことの一つの鍵は、間違いなくこの概念
にあったのだが、彼自身、それを肯定的に語るのに25年の歳月を要したのだ。実に明快だが、中身
がない。それはそうだ。彼は哲学者ではないのだから。かれは直感的に未来の人間の姿をそう見た
のである。これは、僕の透明願望も同じことだから、僕はあのハゲの仲間なのだ。
こんにちは。前スレと現行スレ大体読んできました。
微塵さんの感覚に興味があります。どんなふうなのか知りたいです。
流れに、関係のない、質問をしますが・・・
・コーヒーやお酒など脳に影響を与える物質のために共感覚が変化することが
ありますか。あるとしたらどんな変化ですか。
・外国語の形は、意味が同じ日本語の形と重なりますか。
(それとも、意味が同じ言葉なんて、ないのかな?)
母語にない文法を、形はどう処理しますか。
(たとえば、私はいまだに冠詞がうまくつかえません)
・形が言葉を知る前にあったなら、その形は、生成文法みたいに、
人類に共通するものなのでしょうか。五感間の共感覚は一人一人異なっている
ようですが。
もしよければ考えを聞かせてください。
354にちょっと補足
「脳の中の幽霊」(半分読みますたが、そこで図書館の期限が来て返してしまいますた。買おうか、
続けて借りようか迷っているうちに時が過ぎていきます)の記述や、日経サイエンスの共感覚の
話などとからめて眺めると、言語の問題はまだまだ奥が深いという感じがして、ちょっと気が遠く
なりそう。少し視点を変えて考えないといけないのかもしれないと……。しかし、正直言って
言語問題に切り込んでいく手がかりがまだあまりないのでつ。僕の知識が乏しいということも
大いに関係していますが……。
>>355 ほおお!
「人や事物のありのままの姿を理解できる」 どういうことなのか、もっと詳しく話してくれたら
いいのにと思うけれど、これが精一杯なのでしょうか。
中身を勝手に自分で満たして、わたしも仲間!と強く思ってしまいます。
他スレですが、月ちゃんも「ありのまま」ってよく書いてますね、わたしはあれに同感ですが。
>>356 名無しさん、はじめまして!
さいきんここに常駐させてもらってる、かもめです。よろしくお願いします。 嬉しいです!
微塵さんは、他のスレのカキコによると、明日まで留守なのだそうです。(←考え中さんにも)
興味深い質問ですね〜 わたしの推測書いてみよう。 論理的根拠ほとんど無しってことで。
クイズに挑戦するような気分で。
その1・お酒などによって、共感覚の変化度は増す。
その2 ・意味がぴったり同じ言葉はないので、かたちは重ならない。
その3・母語でなくても、少しでも馴染んでいれば、ゆるやかなかたちを持つこともある。
その4・共通する。けれど、通常の外界の事物のように、言葉で共通了解できないものなので、
察知してるかできてないかの差が決定的。
>>358 もうちょっと正確に表現すると
他者や事物を誤解なくありのままに理解することができるようになった人類をニュータイプと
呼ぶということだったと思います。つまり、ありのままに理解できないような状態に置かれている
人類は、(富野流には)重力に引かれている人々だということなんですね。これ、ちょうど
>>329の話の流れとつながってますね。ガンダムシリーズの中では、地表にいる人々は「重力に
引かれて、自分を見失っている人々」ということになるのかな。もうちょっと複雑な話かと思い
ますが、とにかく重力から解放されることによって、人々の認識力は拡大するというのが一つの
SF的アイデアです。
では、重力の呪縛から解き放たれた人々は、どのような自己―世界認識を持つ
ことになるの
でしょうか。アフォーダンスの視点から見ても、これはおもしろそうな問題では
あります。
宇宙空間の無重力に子どものときから親しんで育った人間は、地上の人たちと異なった自己―世界
認識を持つに違いありません。それが富野の言うような「ニュータイプ」になるとは思えませんが、
しかし明確に異なった世界観を獲得するような気がします。この異なった
アフォーダンスのあり方が、人間をどう変えるかというのは、想像力を刺激する問題ではあるよう
に思います。
これと、富野のニュータイプ論とは直接には同じではありませんので別々に考えてみる必要はある
んでしょうね。昔「宇宙からの帰還」という立花隆の本がありましたが、これも一つのヒントは
提示していると思います。
宇宙空間からリアルに地球を見るという体験は、宇宙―地球関係についての全く新しい
アフォーダンスには違いありませんから、そのこと自体も人間の考え方に影響を与えないはずは
ないと思います。
「ありのまま」って何だろう、と立ち止まってしまうところもあります。
ここでの「ありのまま」は、すでにそうであることではなくて、今はまだ、あるいは「重力」に身を
任せたままでいるかぎりは、感じられないものですね。
「隠されたほんとう」という発想に、自分がそういう発想をしがちなためにいっそう、抵抗があった
のですが、今は場合によっては受け入れられます。
ここでの「ありのまま」についてもそうだし、自分で隠してしまっているものを、もとに戻す、とい
う場合も。
重力から解き放たれたところでの感覚。認識。
無重力を実際に体験できなくても、重力の支配下にあるままで、思いを巡らせ考えることがで
きるという、この可能性が好きです。そしてその可能性が、実感につながるという可能性が。
あることに気づかないくらい自明な不変項を顕在化させることは、どのくらいまでできるのだ
ろう。
>>361 あまのままというのは、実は難しい概念ですね。立ち止まってしまうのも当然だと思います。
「隠された」ものとしての「ありのまま」を指しているという考え方もあるけれども、富野は実は
違ったニュアンスでも語っていました。それについては、また後で書きます。
トミーノがテレビで言っていたのは、結局ありのままに人とや事物を理解できないのは、自分の側に
好みなどの原因がある。例えば、仕事をしていても若い人に対してすぐに怒ってしまうという
のは、そういうことだという言い方をしていました。これは、もちろんアニメの話から離れて、
現実の我々のあり方について述べている部分です。ここでは、もちろん重力に引かれた云々の話は
出てきません。そして、その意味では少しずつ変わっていくしかないのだというのが結論でした。
その限りでは、ごく平凡な話に終わったわけです。哲学的な言い方ではないので、ごく
つまらない話に聞こえてしまいますが、このような言い方もしていました。もし、誤解なく
ありのままに物事を理解できれば、正しく事態の推移を予見することも可能なのだと。これが
トミーノの言いたいことの核心のようでした。あいまいな記憶で語っているので、きちんと伝えられて
いないかと思いますが、おおむねこんなところでしょうか。
>>363 丁寧な説明、ありがとうございました。つまらなくないけどなあ。
わたしは「重力」を喩えとして使うことがあります。たとえば「好み」も、特定の見方に引っ張る力
ということで、喩えられます。
安易な比喩は、押さえておいたほうがよいけれど、ちょっとだけ。
思考に制約をかける重力があり、自由な発想を妨げる不変項があり、それらから解かれれば、
心は、無重力にある身体のように、今とは違った動きをするに違いない。
>>356 ・コーヒーやお酒など脳に影響を与える物質のために共感覚が変化することが
ありますか。あるとしたらどんな変化ですか。
お酒について・・・・
「かたち」はふだんは背景的に動いていて、そのときはまさにたんなる共感覚です。
前景化するときは意識的に集中するときか、「かたち」じたいにインパクトがあったときです。
そういう場合は、「静謐な上の空」になる必要があります。
酔っているときには内面がうるさ過ぎて「かたち」は目立たなくなるから、知的な対話をしたい
相手と会うときに呑むのは気が進みません。
みんなと呑んで騒ぐのは大好きですが、一人ではまったく呑みません。
向精神薬の作用などで、忘れかけていた「触感」がよみがえることはあります。そういうときは
周囲の景色も瞬時に違って見えます。
そんなふうに「触れて」以来、薬みたいに効くようになったマンションがあって、詩想を得たいとき、
夜間に見に行きます(夜間でないと効きません)。そのマンションの視覚刺激は、周囲から突出
して凹凸と細部が強調されて見えます。「かたち」の触感が強く連動するからです。
なんの意味があるか、という指定なく、ものすごく意味のあるものを見ている気がします。つまり
「なに」とは言えない興味深い単語を読んでいる感じです。
あ、付け加えますと、そのマンションを「読む」ときは、自転車で通り過ぎながら眺めることも必要
条件です。なので、何度も行ったり来たりします。
ご参考になりますでしょうか?ならないでしょうねw
ひとつ答えるのに長々とやってしまった・・・・・
だんだんと、他の質問にも答えたいと思います。かもめの代行解答、非常に興味深く読みましたw
なぜ急にこんなに下がってますか?
山崎くんがまたスレ順転倒したからです。
山崎君って、だれでつか?
てか、そもそも何者???
>>356 >・外国語の形は、意味が同じ日本語の形と重なりますか。
>(それとも、意味が同じ言葉なんて、ないのかな?)
単語はたいていはふさわしい文脈がちがいますから重なりません。
文章になると、だいぶ重なってきます。
>母語にない文法を、形はどう処理しますか。
>(たとえば、私はいまだに冠詞がうまくつかえません)
ぼくは母語と比較になるほど使える外国語はないし、異質な文法は習得しようとする意欲が
ないのですw
ただ、あー語尾に-iaを付けると大きめの地名の「かたち」になるのだなぁ、みたいなことは子供
のころからよく抽出していたようです。
アレキサンダー、アレクサンドロス、アレッサンドロ、アレクシス、アレキサンドラ、レキサンドラ、
イスカンダル、アレックス、サンドラ、アレキサンドリア、イスカンダリアみたいな平行変化を捕捉
するときなどは「かたち」は役立ちます。
>>368 よく知りませんけど、どうしてアク禁にならないのでしょうね。
人物は特定されているようですが。
>>356 >・形が言葉を知る前にあったなら、その形は、生成文法みたいに、
>人類に共通するものなのでしょうか。五感間の共感覚は一人一人異なっている
>ようですが。
径路の機能は人類に共通していると思います。
つまり「かたち」を変化させていくための筋道は可塑性がほとんどない。
「かたち」じたいは非常に状況依存的で可塑的なものです。けれど径路に従って変えるほか
ないので、「かたち」は自由には変えられません。そこがイメージとちがうところです。
また、径路に沿って変化するがゆえ、自分のなかである概念がどのように推移してきたか、
その履歴を追う行為を容易にしてくれます。
ぼくは、昔自分がどのように考えていたか、友人たちよりよく憶えている、という印象を持ってい
ます。 たとえば知人の印象が第一印象からどのように変化してきて、それぞれの変化のきっ
かけはどのようなことだったか、よく保存されています。
そのせいで「おまえは、以前はこう言ってたくせにー」という指摘をやらかしがちです。
いずれにせよ基本は径路です。径路なしでは「かたち」は機能しません。
>>369の末尾近くでで「平行変化」と表現したところは、「水平方向の変化」と書くべきでした。
微塵さん、おかえりなさいませ。
>>365 > 酔っているときには内面がうるさ過ぎて「かたち」は目立たなくなるから、・・・〔略〕
わたしはしょっちゅう内面がうるさいです。
内面をうるさくして、心が騒ぎ意図だらけのときにも、その場ではないことについて集中してそう
なっているときには、近くにいる人には「上の空」と言われますね。
ぜんぜん静謐でない上の空。
(微塵さんからはじめて「上の空」という言葉を聞いたのは、数年前…。月ちゃんスレで見つけ、
そういうことか…としみじみしたものでした)
わたしのの上の空は、集中していることはまた他の現実なので、角度がまったく違います。
だからかたちなんていっこうに現れません。
マンションのお話、よいですね。自転車こぎながら、というのもポイントかと。
自転車こぎは、刺激になります。
>>371 かたちよりも、径路の方が、より実感に近いような気がするのは、気のせいなのか…
けれど、径路によって運ばれていくもの=かたちの実感なしに、径路だけ実感してるというの
はおかしいから、やっぱり気のせいかな。
>359 かもめさん
はじめまして〜。レスが遅くなってすみません。
予想はけっこう当っていたようですね。
私は「言葉は変化する」から「かたち」は人類に共通しないと思ってました。
いま、最初のころを読み返してきたのですが、「アプリオリな概念」に抵抗を
覚える人もけっこういるみたいで、私もそのクチでした。。
こういう人がもう一人いたら比較できておもしろいのに〜。
「共通する、しない」といっても、
・「かたち」がどういうかたちで感じられるか、
言葉に対応しない「概念」と「触覚」の結びつき
→比べてみないと分からないけど恣意的?
・どういう「かたち」があるのか、「かたち」の分れ方
→「経路」は共通 「かたち」は可塑的
・「かたち」をどう切り分けて言葉と対応するか?
言葉と「概念」の結びつき
→人により違う
などがあるわけですけど・・・
微塵さん、丁寧に答えてくれてありがとです。
「マンションを読む」!? すごーくおもしろいです。
普遍言語の夢が見れそうです。。
おっと 356=374=375です
うーぬ。なんだかまだピンとこないので
もうちょっと考えてみてから、またレスにし来ます
>373 でも私も、経路のがわかりやすいです。なにか考えてる時の
「で、で、で、こうなる」という感じかなぁと。「かたち」となると
ぜんぜん類推できないっす・・・
>>364 かもめさん
テレビでは実際はもうちょっとおもしろいことを言っていたと思うんですが、覚えていることを
言葉にするとこんなもんになりました。
僕たちは、とにかくありのままに世界=自分を見るということができない。ものすごくベーシック
なレベルからバイアスがかかっていて、それを自覚できない。僕が一つ大きなヒントだと思って
いるのは催眠術。人をコントロールする技術のように思われていますが、あれには重要な役割が
あるように思えて仕方がありません。しかし、その実体はわかりません。催眠術も、そういえば
言葉が重要な役割を果たしますね。
言語については、ちょっと思考が止まっています。なぜか前へ進めません。仕方がないので、
しばらく放置します。また、何かヒントでもあれば前へ進み出せるかもしれませんが、手持ちの
材料では、どうもだめみたいです。(ていうか、材料がないんだよね、最初から)
ちょっと引き返して、分岐点を探すのもいいかもしれません。前スレを最初から少し読み直して
見たんですが、幾つかの視点が置き去りにされているような気もしますし、ちょっと考えて
みまつ。疑問や批判は歓迎します。そこから、また動き出すということもあるかもしれないし…。
初出356の名無しさんが来てくれたのをきっかけに、わたしも前スレを読み返してました。
前スレの
>>302 > 言語獲得が完了する前に、その過程を創造的に先行してしまって、
> 生成文法が比較的ナマのまま、触覚イメージと結び付いて残存した。
> という仮説はどうよ?
これ、微塵さんが、「それって採用したい気がします」と書かれてることもあって、印象に残こっ
ているんです。
>>374 「アプリオリな概念」ということで、どのようなことが意味されているのかにズレがあるかもしれ
ませんが、わたしもかつて抵抗ありました。
生成文法に対してもです。といっても、読んだうえで抵抗したのではなく、言語の生得説と聞
いた時点で、興味を失ってました。
ただ、言語を習得できる素地のようなものが人間独自のものとしてあるということは否定でき
ないし、上に書いたような事情もあって、手元にある、チョムスキーの、ごくごくごく短い解説を
読んでみると、納得できます。そこから孫引き。
「人間は、その末端的な器官に帰着させたり、一般的な知性に関連づけたりすることのできな
いような、一つの種に特有な能力、独自な知的組織化のタイプを有しており、この能力は、我
々が言語使用における『創造的側面』という名で言及しうるようなもののうちに、あらわになっ
ている」〔チョムスキー『デカルト派の言語学』〕
これなら、ぜんぜん抵抗ないわけです。
(というか、以前なぜ抵抗感あったのか、忘れてしまった・・・それはそれでまずい)
これは、言語の起源に関わってくるので、考え中さんの
>>354に関係しますね。
ただ、そこで考え中さんが書かれているのは、知覚の対象としての言語ですね。
なので、
> 前もって遺伝子によって構造が与えられており、人はずっと後になってその構造を利用し
> 始める?
という部分の「構造」は、生成文法ではなく、生成文法がその起源であるところの、知覚を構成
し知覚とともに働く言語、それを知覚する際に働く脳の構造のことだと考えました。
ややこしくてすみません。
>>375 また、予想。代行じゃないですよー
> ・「かたち」がどういうかたちで感じられるか、
> 言葉に対応しない「概念」と「触覚」の結びつき
これについては、共通は不可能だと考えました。
> ・どういう「かたち」があるのか、「かたち」の分れ方
> ・「かたち」をどう切り分けて言葉と対応するか?
> 言葉と「概念」の結びつき
この二つは切り離せず、そしてこれらは人々間で共通すると思います。
固定的でないというかたちの性質上、ぴったり一致することはありえないけれど、他人と言葉
が通じ合う、という程度には共通するということです。言語というものが成り立っていることを
保証する程度には共通である、と。
このように考えるもとには、言葉とかたち、あるいは言葉と概念は独立したものではない、とい
う認識があります。
普遍言語の夢は見れたでしょうか・・・
どんな夢なのだろう・・・
>>354 わたしは、視覚や触覚で読まれる文字や、音として聞かれる言葉について、それがどのように
知覚されているのかなど、まともに考えたことがほとんどありませんでした。
言語習得についてはおおいに関心がありますが、その習得とは、言葉を読めることではなく、
自分で言葉を能動的に使えること、つまり他人に向かって話せたり書けたりすること――これ
は考えることと一つのことですが――の方に力点があったのでした。
もちろん、読めなければ理解できず、理解なしの考えや語りを否定しないとはいっても、その
ような言語だけを考察するつもりはないので、「読み」つまり文字を知覚することについても考
えなければならないと思いました。
外界に存在する一つの対象としての「言語(文字)」の知覚は、同じ外界の他の対象の知覚と
は別の角度ですね。
それはまた、別の角度の外界の知覚とは違うけれども、いずれも言語が知覚の直接の対象
である、という点では共通しています。
何度も書いてますが、言語が近くの対象である、ということが重要であると思っているので、
よく考えてみたいと思います。
>>380 「視覚や触覚で読まれる文字や、音として聞かれる言葉」
これらは区別するべきだと、あとで思いました。
言葉に関係する知覚における、聴覚とそれ以外。
上を書いたときには、「読む」に言葉を聞くことも含めていたのですが。
視覚や触覚を使っての文字の読み書きができなくても、言葉を使える人がたくさんいますね。
わたしが言語について考えているときにはたいてい、その「文字の読み書き」ができる人と
できない人の差を考慮外にしていたのでした。
単なる覚え書程度の話です……。
難しいです。言語や文字と脳の機能ということを考え始めると、やはり循環に陥ります。しかし、
例えば識字が世界の見えを更新するとすれば、言葉ははるかにそうであるに違いないと思えます。
ここでこんなことを言い出してもしようがないかもしれないけれども、言葉、あるいは文字と知覚
の問題を、僕はイメージとしてはかなり個別的に考えていたんです。ネコとか花とか。しかし、
これらの言葉を成立させている脳の「機能」が、同時に言葉・文字によって「解発」されると
すると、これらは単語のレベルにおいて、あるいは短文のレベルにおいて理解されるようなこと
では全くなくて、システムとしての言語あるいは文字という考え方を強く要請しているような気が
します。しかし、これは何? これこそが微塵の言う別の角度としての世界でつか。?
そこで何が起きているのか。それは今のところ僕の想像を超えています。だが、GAWシステム
というものが、認知のあり方と根底的につながっている、あるいはもしかして「同一」である
とすると、これらのとらえ方は、ここまで僕が考えてきたものとはますます異質なものとして展開
することになるのではないかと思います。本当に理解が難しいです。
ていうか、脳の機能の理解そのものを一からやり直さねばならないでつか?
前スレ
>>627で若干触れた言語観においても、言語が労働―協働の前提であるようにも見えなくも
ないのです。というか、そのことにはかなり前から気づいていたのですが、「脳」の幼型進化が
「言語」を可能とするベースを提供し、そして「言語」が脳の機能を「解発」するという順序が
もし本当だとすれば、この言語―意識というのは、人間の全活動を可能としている前提であって、
決して結果ではないということになります。
かくして、この言語―意識系をシステムとしてとらえることを抜きにして、脳の機能など何も
語り得ないという話になりませんか? 「意識とは意識された存在である」というのはマルクスの
言葉だったと思いますが、とんでもないですね。意識こそが存在であると言わねばならなくなる
かもしれません。やっぱり難しい。
>>383 うーん。
今、月読がそういう段階にあるように、俺も自分と他者を包括した世界観を組み上げるまで、
世界はなにがなにやらわけわからん場所でしたな。脳の機能も含めて。
難しかったー。
なんでもかんでも一からやらないと駄目みたいな。そういうところがあります。
物心ついてから五里霧中の期間が長くてしんどかった・・・・
いまだに適応不全です。この世界には。
こういうこと書くたび、へんなの、と自分で思うのですが、たいていは世界に馴染んだ気分でい
る自分に、あーあ、と思います。
>>382 > 例えば識字が世界の見えを更新するとすれば、言葉ははるかにそうであるに違いないと思えます。
そうですね。識字が「更新」なら、言語はそもそも可能にする、のではないかと。
> GAWシステムというものが、認知のあり方と根底的につながっている、あるいはもしかして「同
> 一」であるとすると、これらのとらえ方は、ここまで僕が考えてきたものとはますます異質なも
> のとして展開 することになるのではないかと思います。
「ここまで僕が考えてきたもの」というのは、上の「イメージとしてはかなり個別に考えていた」
ことのことですか?このスレ上で考えてきたことではないですよね。
>>383 「脳の機能」といえば、茂木の本の中でダメだと思ったのは、言語について書かれていたところ
でした。『心の社会』はいいのですが。いいどころか、表現が端的で、自分が考えてきたことが
徒労に感じた・・・
その上で、「別の角度の外界」はまだまだまだわからない。
「言語―意識というのは、人間の全活動を可能としている前提であって、決して結果ではない」
とありますが、「全」にちょっとだけ留保を置きたい気がしつつ、そのとおりだと考えてます。
そして、考え中さんも、こういうことを、すでに何度か書かれていると思っていたのですが…
もちろん、同じことを言い方を変えて書くのは歓迎ですが、そうではなくて、瓦礫を前にして途
方にくれている感があるので、そんなことはないのではないかと、思ったのです。
瓦礫っていうのは言葉が悪いかな。解体したもの。
でも、考え中さんのそんな感じに対してわたしが「はてな?」なのは、わたしの考えの狭さだと
も思うので、どこがどのように「本当に難しい」のか、もうちょっと書いていただけると、ありがた
いです。
ぜんぜん別なこと書かれても、もちろん歓迎です。
途方にくれているというのは、間違いなく本当のことです。言語をどう取り扱っていいものか、
糸口が見つからない。言語を取り巻く状況は見えてきたと言ってもいいでしょう。それに関しては
おおむねいいんじゃないかなと思っているのですが、いざ言語そのものへと歩みを進めようとする
と、そこで見えない壁みたいなものにぶつかる?
>考え中さんも、こういうことを、すでに何度か書かれていると思っていたのですが…
うーん、ちょっと違うんですね。G-A-W分節ということを言っていたときには、まだこの3つの
要素は同格だと見ていた節があります。しかし、言語レイヤーが脳の機能を解発するとすれば、
その位置関係はすっかり変わってしまいます。言語の位置を確定しなければ、GもWも位置づか
ないということになります。微塵の考え方に一歩近づいたのかもしれませんが……。
実は今ちょっと別のことに気を取られていて、こっちのことに集中できない状態です。あと数日は
そのことにかかりっきりです。今日午後は、日曜大工をしていますた。手に豆をこしらえながら、
結構大物をつくりました。そんなこんなで、ちょっと本当に上の空というわけで、ピント外れな
ことを書いたりしています。今少し落ち着くまで時間がかかると思います。お許しを……。
>>375 >「共通する、しない」といっても、
>・「かたち」がどういうかたちで感じられるか、
> 言葉に対応しない「概念」と「触覚」の結びつき
> →比べてみないと分からないけど恣意的?
そこにあるものを触れるのですから、私にとっては恣意的ではありません。
>・どういう「かたち」があるのか、「かたち」の分れ方
> →「経路」は共通 「かたち」は可塑的
>・「かたち」をどう切り分けて言葉と対応するか?
> 言葉と「概念」の結びつき
> →人により違う
このへん説明しにくいんですが、たとえば「顔とその表情」というカテゴリが私にしか
わからない私的なクオリアだとします。
この例では可能な表情筋の動きが「径路」です。そして表情が「かたち」です。
わたしからみて、明白に「愛情」を表現している「顔」を脳内で見ているとき、それがど
うして「愛情」を表すのか、顔というものを知らない人に説明するのは困難です。
その「愛情」の表情に触れて、たとえば「憐れみ」の表情に変換するとして、その手順
は試行錯誤を経るとしても、単純で容易です。しかしやはり、「顔」からなにをどう切り
分けて「憐れみ」と対応させたか、説明するのはとても難しい。
でも、説明する努力は続けたい。
よいたとえ話を探し続けたいと思います。
とりあえず、「かたち」のもたらすメッセージは、顔があらわす表情に似ています。どん
なふうに伝わってくるか、という部分で。
顔と表情いうものは、間主観的に通用する、「かたち」の応用である。
そう明言してもいいかも知れません。
いろいろなことを些細な変化で表現するが、変化には規範があり、規範に沿って動かす
ことで、着実な推移と意味示す。
掟破りにいじることは、危険であるが、稀に斬新な意味を表現する。
これは「顔」と「かたち」に共通する属性です。
例として挙げるのは躊躇いを感じますが、奇形児の写真集などを見ていると、眼を逸らし
たいような、同時に魅入られてしまいような奇妙な情状に囚われてしまうことがあります。
私達は顔を見れば、たとえ無表情だろうと、その背後に感情を想定します。
奇形児をみるとき私達は、「不可能な表情」が示す「不可能な感情」を想定しておののくの
ではないでしょうか?
「かたち」を携えて径路を外れて行こうと試みるとき。
あるいは、名前のない径路に踏み込もうとするときの戦慄は、このことに少し似ています。
>>387 母子のコミュニケーションについて書かれてる部分などから、考え中さんは「言語レイヤーが
脳の機能を解発する」とすでにしているのかと思っていたところがありました。
でもおっしゃるとおり、
> G-A-W分節ということを言っていたときには、まだこの3つの要素は同格だと見ていた節が
> あります。
というのがありましたね。
これは、
>>233などで書いた、わたしがひっかかるポイントとちょうど重なる部分だと思います。
それは、
>>201の、「当初言語―ゲシュタルトシステムと言っていた対象そのものを、GAW分節
と言い換えた」という、「拡張」なんですよね。言い換えれば、「かたち」から世界への拡張。
わたしはそれを、「「別の角度の実在」から、わたしたちが共有している実在への移行」ではな
いかと考えました。
「かたち」は、表層を捨象された言語そのものであり、かたや、世界は、ゲシュタルトシステム
として、アフォーダスンスとしてあるが、言語そのものではない。言語は世界において、形式と
してあるばかりで、対象ではない。
しかし、形式としてある、といっただけではかなり曖昧である。アフォーダンスとしての世界に
おいて言語はどのように動いているのか、それを考えていきたい。…
これは、「自然」と言語の関係を考えていくことにもなるでしょう。
その中の随所で、「かたち」との関係も見えてくることを期待したいです。
>>390 説明しにくいことを説明するということがどういうことか、それ自体また説明が難しいのにも関わ
らず、伝わるものがありました。
>>389 とてもわかりやすいたとえ話です!
>>388 ピント外れでなんかないし、ゆっくりでぜんぜん構いません。
「大物」って何だろう。わたし外出もしてないし家のことも何もしてないわー
頭の中は、ちょっとだけばたばたしてます。考えることたくさんあります。
きょうは、朝からインターネットどころか、パソコンにもほとんど触れないで、家の中で、掃除、
移動、片づけ等々で、やっと今一段落(何時だよ!)。ああ本当に疲れた。しかも、問題がある。
明日もまだ続きがあります。こんな大仕事は久しぶり。大掃除でもここまでやらないのに、
何という労働! 胃まで痛くなってきた。あ゙〜。
明日の夜には本当にけりがついているだろうか。うーむ。
昨日から続いた作業も、一応大体完了しますた。まだ少し頭がそっちへ行っていますが、少し
落ち着いてきたかなと。せっかくの休みを2日間もつぶして、くたびれた〜。
>>391>>392 かもめさん。もう少し待って下さい。まだ余り考えてなくて、頭に少し余裕ができたら、また
考えて書きます。
ええですよ〜
わたしはといえば、前スレの、よく読んでいなかった、「クオリア」で考え中さんがちょいさまよっ
ているあたり、ガテンコさん登場の直前直後あたり、よく読んでなかったんで、読み返して、
アフォーダンスと志向的クオリアについて、(今さら)ぐぐったりして考えてます。もちろん、それ
らと言語との関係を考えるため、です。
本を手に入れて読むべきか…
とりあえず肉体労働は終わって、きょうは普通の仕事に戻りました。体の疲れも、明日にはきっと
もとに戻るでしょうし、そうすればまた考えられると思います。僕自身、もう少し課題をはっきり
させて、前へ進みたいとは思っているんですが、何しろ言語だから……。
一時的に言語の勉強をいろいろしてみるしかないかなとも思っています。何しろ頭の中にネタが
とても少ないので……。何かいい本でもあったら紹介してくれろ>皆タン
抽象の意味
かもめさん
>>391 まず、G-A-Wと一括して考えているときには、「言葉の意味」というものを捨象していることは
明らかでしょうね。つまり、最初に「試論」で抽出したものを僕は「意味」とは考えていなかった
のです。これはわざとやっています。つまり言葉の「意味」という「何か」について言及するのを
意図的に避けているし、そうすることでG-A-WあるいはG-A-Lを一つながりのシステムとして理解
できると考えていたのです。言葉の意味をAから切り離して、G-Wとすると、今度はこのG-WとAの
関係がえらく難しくなるという予感があるんです。しかし、避けて通っている場合ではないという
ことなんでしょう。そこで、G-A-Wシステムという場合と、G-Wシステムと考えた場合のシステムの
差異について考えてみましょうか。相対的な自律性を言語システムが有していることは明らかだと
思えますから、これが、活動―運動としての世界とどのような関係があるのかを少しつっついて
みることにしませんか。
これは、志向性クオリアと感覚クオリアの差異と相対的自律性という問題に等しいと思われます。
そして、この相対的自律性を可能にしているのが、まさに言語システムそのものなんでしょう。
このことの意味は実は深刻なことだろうと予想します。唯物論者であった僕が踏み込まなかった、
あるいは踏み込めなかった領域でもあると思います。でも、これってものすごく面倒な世界になる
んでないかい? うまく扱える自信は全くありませんよ。
それから、それから
>「かたち」は、表層を捨象された言語そのものであり、かたや、世界は、ゲシュタルトシステム
>として、アフォーダスンスとしてあるが、言語そのものではない。言語は世界>において、形式と
してあるばかりで、対象ではない。
というところも、僕の理解と微妙に異なっています。特に「表象を捨象された言語そのもの」と
いうところは、そうなのかなぁと少し思います。少なくとも、僕が最初に「試論」で見た
ゲシュタルトシステムは、そのような抽象は含んでいなかったように思うのですが、如何?
でも、この表象を「捨象」していくプロセスは、実はヘーゲルの論理学でおなじみの抽象スタイル
なんです。純粋の観念をカテゴリーとして抽出するプロセスのことなんですが、しかし、これと
ゲシュタルトシステムはイコールではないんです。その辺、微妙な視差があるようにも思えます。
この辺、まだ課題としてあるようでつ。もう少し詰めてみる必要がありそうでつね。
>>398 すみません!!! かなりマズイことをしてしまいました。
「表象」→「表層」です。
書いたものを読み返してなかった… 引用されてはじめて気がつきました。
申し訳ないです!(涙) あきれてものもいえなく、なりませんように。
>>397 「言葉の意味」について、
>>391で触れたつもりはないので、考え中さんがどのようなものを
想定されているかが、まだよくわかりません。
意味=指示対象ですか? それとも、そもそも何もまだ想定していない、言葉の意味とは何か
が問題なのだから、というところでしょうか。
意味、といえば、アフォーダンスも意味ですね。というか、アフォーダンス理論においては、
「意味」について語る際にでてきがちな主客の対立という構図をなくして、意味とは対象が
提供する行為の可能性である、と定義されているのですよね?
椅子の意味とは何か、という問いは、行為者が椅子で何ができるか、に等しいのだ、と。
すると、言葉の意味はどうなる? つまり、言葉のアフォーダンスとは? これを考えていました。
ここで、大文字の「言語」と個々の言葉(書かれた文、おしゃべり、しぐさ・・・)を区別することが
必要だと思います。
続き
言葉のアフォーダンスについては、またあらためて書きたいですが、これらは、
> G-A-Wシステムという場合と、G-Wシステムと考えた場合のシステムの差異
>>397 について考えることとつながりませんか?
ここの「G-Wシステム」とは、「言葉の意味」を捨象していないものですよね?(違うかな?)
それと、そこにアフォーダンスとを組み合わせたG-A-Wシステムとの関係とは、
アフォーダンスという概念をつかって、言葉の意味について考えることによって見えてくるの
ではないかと。
>>397 > これは、志向性クオリアと感覚クオリアの差異と相対的自律性という問題に等しいと思われ
> ます。
相対的自律性とは、それぞれが自律的でありながら、関係しあっている、ということでしょうか。
「等しい」というのがいま一つつかめないので、ぎゃくにきっと、上に書いたこともつかめられな
いだろうと思いますが、ちっともめげずに、がんばります(笑)
もちろん、関係があるとは思います。
思ったことを独り言的に書きます。反論などではないですが、もちろんオカシイと思われたら、
指摘おねがいします。
まず、感覚クオリアはけっして、言葉の意味ではないということ。「赤」の意味は赤のクオリア
ではない。
言語は志向的クオリアに関わってくる。志向的クオリアと一体になった形で、また、その向かう
先にあるものとして。
あと、前スレ読み返して、流れとはズレるけれど、考え中さんに伝えたいこと。
>>878、「ゲシュタルト」以外は(ココが肝心なのに?)、よくわかりました。
やっぱり、すでに
> 人間の世界の分節・分凝の仕方は、言語的にあらかじめ規定されている(アプリオリ?)よう
> に見えるということがあって、 それが人間の特質のような気もします。
こういうこと書かれてますよね?
「イデー」とは、不変項と言い換えてもいいのでしょうか。
>>873も、いわんとしていることにほぼ同意できました。
>>399 かもめさん
「すみません」のはこっちの方です。コピペした引用文はちゃんと「表層」になってました。申しわけ
ないです。僕の読み間違いです。m(_ _)m
ざっと見ると、いろいろなことを思いつき的に書いてきたことで、まだ言葉・概念が未整理である
ことが明らかです。これらを整理することも含めて、もう少しやることはありそうです。
あとは、少し考えてから書きますので、夜になると思います。よろしく。
まず、誤読の問題から入ります。
僕の読み間違いから問題が拡散してしまったようですが、ここには重要な問題も含まれている
ようです。以前からかもめさんが指摘している問題であり、僕がうまく扱えていないかもと
思っているところです。
表層を表象と読み違えたことから、言語から表象を除くと残るのは「意味」と僕は理解しました。
しかし、僕は意味について考えたくなかったので、これまで「意味」という言葉は使っていない。
G-A-W分析をリアル世界そのものと考え、「形試論」で述べたゲシュタルトシステムとはズレると
考えているかもめさんの意図を僕なりに酌むと、このゲシュタルトシステムは「意味」の世界に
なるように思える。そのことをかもめさんが指摘したと受けとった。
概略、以上のような経過で398の誤読は生じました。
しかし、かもめさんが一貫して気にしておられるところが、僕にはまだうまく理解できていないと
いうことがあってこの誤解は生じました。「試論」レベルでのゲシュタルトシステムと、その後
G-A-W分節へと拡張した理解とでは、「別の外界」についての理解がずれている? ということ
ですか。その辺のかもめさんの理解をもう少し詳しく展開してもらえると、「試論」レベルまで
立ち戻って概念の再整理ができる可能性があります。いかがでしょうか。
>>405 > 「別の外界」についての理解がずれている?
前スレの1さんの、「外界とは別の角度の『素朴実在論』」という表現があります。
>>628 >>967 「別の外界」とは、この『素朴実在論』の実在ですよね。
では、「外界とは〜」の「外界」として何を想定しているか、ということをみれば、「ずれ」がわかり
やすくなると思います。
わたしは、それを、ごく日常で接する外界だととらえています。五感としての知覚の対象です。
そして、そのアフォーダンスが、
>>51や
>>52以降で書かれている世界、G-A-W分節としての
世界だと受け取っているのです。
つまり上の「外界」は、行動一元論における「客観」です。
ポイントは、この外界とそれが示すアフォーダンスは、それぞれ別の角度の外界であるのでは
なく、いわば同じ角度上にある、ということです。
ここが考え中さんとは違うのだと思います。
考え中さんにとっての「外界」はきっと、主客という二項対立がある認識論における、「客観的
な対象」なのではないでしょうか。
>>141の「感覚世界」という語がでてきますが、知覚とは独立にあると想定されたときの、それ
のことです。行動一元論からすると、誤った想定であるもの。
> 感覚世界は、そもそも生のデータとしては知覚されない。というか、生のデータという
> とらえ方自身が誤りだろう。
>>174 この外界と、それが分節されて脳に格納されたシステムが、別の角度の関係にある、という
ことなのだと受け取ってます。
ややこしいですが、少しは詳しくなったでしょうか。
長文になってしまった… 刻み忘れました。
なので、
>>233でも触れたように、
> 「試論」レベルでのゲシュタルトシステムと、その後G-A-W分節へと拡張
という拡張を、わたしは連続したものととらえていないわけです。
ここが、「自分の理解に引き付けていた」という点です… スミマセン
連続していないといっても、システムとして共通の性格があるので、その意味でつながって
います。そしてこの共通性は、偶然ではないとも考えています。
以上のような「ずれ」があるからといって、ぜんぜん違う方向を向いていたのではなくて、
G-A-W分節としての世界というときに、見ているものは同一なのだと考えてます。
ただ、それと別の角度の関係にあるとして考えているものに、違いがあるわけです。
わたしの場合は、「かたち」がそのセンスデータであるところの「外界」、同じことですが、
それが示すアフォーダンスが微塵さんの実感としての言語であるところの「実在」、
これが、別の角度にあるものです。
また独り言的に。随時改変予定。
スレタイの「別の角度の外界」において、言語はアフォードされたものである。
言語がアフォーダンスそのものである。
いっぽう、「外界」においては、言語はアフォーダンスという動きを可能にするものであり、
また表層としては、アフォードする当のものでもある。
>>406以下
>この外界と、それが分節されて脳に格納されたシステムが、別の角度の関係に
>ある、という
>ことなのだと受け取ってます。
まさに、そこがよくわからないところですし、微塵のいうところの「素朴実在論」の理解し
にくいところでもあります。この辺は、前に微塵が言っていた「言葉」についての考えを展開して
もらえるといいのだけれども……。
単一の客観的な世界という「虚構」を排するとすれば、残るのは個々人の主観的な世界だけに
なります。そして、個々人の主観的な世界こそが、実は主―客への分化も含めた全世界の実在的
基礎であるといことになります。しかるに、人における主観世界そのものは、あらかじめ言語的に
顕在化するような地平にのみ存在し得るとすれば、非言語的な世界の実在は、そもそもナンセンス
でありますから、感覚世界というものは、人にあっては事実的に存在しないということになり
ませんか? その代わりに、間-世界的に妥当する言語システムによって裏打ちされた知覚世界が
感覚世界の位置を占めると。
何だか言い回しを難しくしただけのような気がしてきました。
>「かたち」がそのセンスデータであるところの「外界」
という、そこのところが、「かたち」としては僕には見えていないわけで、それをいわば論理的
抽象として述べたのが「試論」における言語ゲシュタルトシステムから、言語そのものを取り
除いたシステムという理解でした。この辺をぐるぐる回っているだけで、別の角度の実在という
意味が今一つピンときていないんです。論理的には対象であるということは言えても、それは対象
としては存在していない。しかし、僕にとって実在する世界は、言語の地平に存在する。
この実在する世界を見る「別の角度」が「言語のかたち」なのだということは、とりあえず了解
できるけれども、僕にはそこから先へは進む方法がないように見えます。(T-T)
>>410 わたしが勝手に受け取っていたけれど、「よくわからないところ」なんですね、失礼しました。
「単一の〜」以下は、とても同意です。よくわかります。
…もしかして、流れからしてわたしがそこに同意するのはおかしい、ですか?
そこに書かれていることに異議を唱えたつもりはまったくないのですが、そうとられたとしたら
わたしの言葉不足ということになります…
>>411 わたしも、前にも書いたとおり、「別の実在」については自分の言葉で積極的に何かを述べた
ことはないんです。微塵さんの言葉をそのまま使ってばかりいます。
ですから、その内実に触れることはしてないしできないのですが、自分で語れる方の実在(そ
れはたとえばG-A-W世界と呼んだりするもの)について考察することで、それとの関係が見え
てくることを期待している、といったところです。
前スレの690でいきなり核心くさいことを話しはじめてしまい、用語も概念も枕話も不足していて
手に余っております。そういうわけで、少し枕話をさせてください。
名詞言語が視界のなかの対象の輪郭を鮮明にし、同時に先入見によって容量を節約し、それ
によって遠近法のはたらきを活性化した、ということは言えると思います。
自分の動きににつれて動く、世界の奥行きと推移を捉えるとき、輪郭線の行き交う様が多様な
動きを整序して伝えてくれます。
ぼくは自転車で走っているとき、いちばん頭がはたらくのですが、それは自転車の巡航速度で
眺める風景の推移感が、思考の推移感と近似したテンポだからです。
視線を正面に向けているとき、推移感は最小になり、視線を斜めに動かすほど推移感が増し
真横の近景を眺めるとき最大になります。
いずれにしても近景はもっとも速く動き、中景はそれに順じ、遠景は遅く動きます。
首を振る度合いにしたがって、近景中景遠景の行き交い方のちがいは微妙に変化し、絶妙な
かまいあいを見せてくれます。視線を動かすことによって風景を演奏している気分です。
移動しながら意図的に見回す。この感じが、「かたち」を動かすときの、たくさんのものが連動
しながらばらばらに動く、奥行きのある万華鏡みたいな感触と連動するのです。
径路言語はつまり、名詞言語が輪郭付けた概念の風景のなかに、自転車に乗って移動しなが
ら首を振る方法として走りこんで来たのだと思うのです。
きょうは寝不足(昨夜の睡眠時間が短かった)のため、頭絶不調。あす以降何か書けると思う。
とりあえず、きょうはおやすみなさい。
おはようございます。少しゆっくり眠れたので、頭は回復基調にあります。
かもめさんの言わんとすることは了解しますた。
つまり、僕にとって見えない何かを少しでも見えるようにするための努力が必要だということ。
そこに扉を開かない限り、堂々巡りになる以外にないということ。この課題を見据えることに
しましょう。
さて、「かたち」についてですが、この形が実は何を見ているのかということを考えてみます。
普通に書かれた文章を読んでいても形が風景のように流れていくということを考えても、それが
僕たちが文章を読んだときに感じていることと同じものを「かたち」として見ている、感じている
ということだと思います。
>もしも釈迦が二十世紀初頭に生きていたら「相対性理論」を発想しただろう、と思います。
>色即是空と相対論の着想は「かたちから発する径路の角度」がそっくりです。
これは前スレ
>>798からの引用です。これは、例えば色即是空という概念? の即時的な形ですか。
あるいは色即是空という考え方をいろいろな角度から見た結果トータルに言えることですか。
この際、色即是空についての理解はどの程度「間主観的」な妥当性を有しているのでしょうか。
この概念のかたちの実在性は、どのように「間主観的」妥当性を得ることができるのでしょうか。
少しでも手がかりを得るために、この辺から考えてみましょうか。
あるいは、歴史的に新たな径路が発見されて、概念の革命が起こった実例を、微塵的な観点から
幾つか挙げてもらえると、話が進むかもしれません。
概念の形というとき、そもそも概念とは何かという問題と僕たちは出会います。これについても、
少し考えてみましょう。区別と同一? 本質と現象? これらが概念の「かたち」を見る際に、どんな
意味があるのかといったことかな。また少し考えてみます。
ちょっといろいろ書き過ぎましたか。一つ一つでいいですから、ゆっくり考えていきましょう。
>>415 わたしは読んで筋道たてて理解する、という進み方ばかりで、だから実感の方は留守になっ
て空虚なんです。(だから道徳の話は苦手だよ、書いたあとがくっとくる…←ボソってやつ)
まずはその、実感という側面から、でしょうか。
> 普通に書かれた文章を読んでいても形が風景のように流れていくということを考えても、それが
> 僕たちが文章を読んだときに感じていることと同じものを「かたち」として見ている、感じている
> ということだと思います。
「文章を読んだときに感じていること」って、大半は書かれているものの理解という働きなんだ
けど、すみの方何か別のものが出てくることがあります。読んでいる内容と明らかな関連は
ないような、閃きでもない何か。「何か」と書くと神秘的になってしまいますが、そうでもなくて、
かといって「思いつき」といえるようなつかみやすいものではない。じっさい、たいてい逃げられ
る。というか、メイン理解のために、押しやることもある…いかん。
あと、自転車漕ぎのときにも、論理的でない発想がでてきたりします。
個人的には、このあたりが「かたち」に触れることへつながることかなあと思ってます。
つづきですが、上のように書いたからといって、かたちが出てくるのを、非論理的思考の場に
かぎりたいわけではまったくないです。
> あるいは色即是空という考え方をいろいろな角度から見た結果トータルに言えることですか。
色即是空というのは、この場合、概念というより、そのまんまですが「着想」で、動的なものとし
て捉えられていて、その動きの結果として概念が形成され、出発にあった「かたち」とは別の
「かたち」が得られている、のかな、と思いました。
「かたちから発する径路の角度」がそっくり、だと、たどりついたそれぞれの概念のかたちも、
(つまり色即是空と相対論のかたちも) そっくりになるのかなあ、などを思いました。
> この概念のかたちの実在性は、どのように「間主観的」妥当性を得ることができるのでしょうか。
これはたとえばこのスレッド上の対話にかかっていることでもありますね…
先日、部屋の窓から空と風を眺めていた時のこと。
突然、「かもしれない」が宙に見えたのです。
文字で見えたのではないから、宙に見えたというよりは、「かもしれない」が自分の中に
満ちて、それが視覚で捉えている空の上に重なったっていうのかなあ。
しばらくわけが分からず、『いったい今の「かもしれない」って何?何事?』と考えた末に
思い当たったのが、「雨かもしれない」の「かもしれない」でした。
晴れてはいたけれど、雲と風が怪しかったので「雨かもしれない」が発動された模様。
ここまでは、錯覚かもしれない、思い込みかもしれないと思っているのですが、この体験を
ひねくり回して、ちょっと経路に近付けたかもと思うので、それを書きますね。
怪しい風と雲(現在)→かもしれない→雨(未来)
「かもしれない」は未だ実在しない(別の外界で実在する?)未来への経路。
「かもしれない」は過去にも遡る。現在の観測から、既に実在しない過去を類推する経路。
現在観測されるものが「原因」、過去が類推される「結果」としてあらわれてくるのは
面白いな。原因は常に結果に時間的に先んずると思っていたけれど、可逆なのかも。
あと、現在の観測を現在の知識で分析すれば、現在の結果に到達して、どこに行くこともなく
処理できる。この時、「かもしれない」は現在の自分の中で完結する結び言葉。
私はこっちのやり方が普通でした。
>>415 >この感じが、「かたち」を動かすときの、たくさんのものが連動
>しながらばらばらに動く、奥行きのある万華鏡みたいな感触と連動するのです。
この感覚はちょっとうらやましいです。てゆうか、僕の何かのイメージの中にこれとそっくりな
ものがある。言語にかかわるものではないし、またどこかの映画で見たようなイメージのような
気もします。自由にこれが扱えれば、とてもビューテホーで壮大なイメージでつね。本当にイイ。
概念が関係であるということは、赤という言葉ですら、実は非赤やその他の概念を前提として、
それとの関係を自らの内部に(否定性として)保持するということからも明らかだと思います。
概念のかたちはこの関係性をどのように表現しますか。概念のかたちは、むしろこの関係そのもの
を表現しているのでしょうか。もちろん、この形はニューロンの発火パターンではありますが、
そのパターンからは、概念のかたちは導出できないものと推察します。
また、概念の形式的な規定性は、かたちの中でどのような役割を果たしますか?
>>418 おもしろいのでつっこんでいいですか?
ガテンコさんの「普通」でない仕方で「かもしれない」が発動したから、満ち満ちて、視覚の対象
になったのかなあ、と思ったんだけど、ガテンコさん本人は、そういう風に考えたというわけで
はないのかな?
> 原因は常に結果に時間的に先んずると思っていたけれど、可逆なのかも。
この場合、結果は原因に対して「未知なもの」ということで、未来はたいてい未知なけど、過去
にもいまだ未知なものがたくさんあるから、時間の前後と因果関係の向きは一致しないので
すね。
かもめさん
言語というものには、実体的な対象性がありません。言語自体はつかみようがないものです。感覚
的な対象としての言語は、特定の形態の音声であったり、インクの染みであったりしますが、それ
自体をどうひねり回しても、それは言語そのものというわけにはいかない。どうにも食えない
代物です。その意味では、マルクスが商品について言った物神的性格は、むしろ言語そのものの
性格と言った方がいいくらいのものです。まだうまく言えませんが、言語そのものを対象とする
ことは、実は微塵の言うかたちは、そのよき実例なのです。これ以上のことはまだ言えませんが。
しかし、実は言語には形式的な側面があって、これを「かたち」と考えることはできます。
>>419 にも触れましたが、これが一つのきっかけになるかどうかは不明ですが、概念のかたちそのものに
ついて何かを語り得る基盤を求めたいという気がしてきました。この点を突き詰めてみると、また
ヘーゲルに帰っていくのかもしれませんが、このあたりになってくると、もはや2chでは重過ぎる
気がしてきます。でも、この課題は間違いなくある方向を指し示していると思いますので、諦め
ないで前に進みたいと思います。まだ、これといったアイデアがあるわけではないので、今は
ここまで……。
>>421 とっても同意しまくりです。
> 言語というものには、実体的な対象性がありません。
これをわたしは、言語は形式であって知覚の対象にはならない、と書いていたのですが、
かなりわかりにくいですね。
なにしろ、考え中さんは、
>>419で、言語の差異的な側面を「形式的」と呼んでいるのだし。
もちろん、正反対のものに同じ語を充てているということではないし、これらは無関係でもない
のでしょうけれど。
別の角度においては、言語が対象であり実体的なんですね。
あと、マルクス読んだことないのですが、その周辺には触れることがあって、それでつくづく
思うのは、言葉と貨幣がよく似た部分があるということでした。
商品の「物神的性格」ってよくわからないけれど、もともとの実質が捨象されて、交換価値として、
他との関係としてのみあるということかな…(このへんは自分で調べてみます)
ちなみにヘーゲルも呼んだことないし、批判されているのを読むばかりでした。
>>419 > 概念のかたちはこの関係性をどのように表現しますか?
そうですね、「かたち」を、個々ばらばらにあるようなイメージとしてとらえると、言語の関係性と
いう側面が抜けてしまいますね!
関係性の表現として、
>>389の「顔の表情」という喩え話は、どうですか?
名無しさんの、
「どういう「かたち」があるのか、「かたち」の分れ方」と
「「かたち」をどう切り分けて言葉と対応するか?」
という問いに答えられた箇所ですが。
ここにも、間主観性へ向かおうとする態度が、あります。
>>415 「かたち」がそっくり、とは言わず、「かたちから発する径路の角度」がそっくり、と表現したのは、
>>417でかもめが言っているように「着想」部分への着目です。
「あ!」と言って、見慣れた「かたち」からあたらしい「かたち」に開通するときの発想の角度が
そっくり、ということです。通行するときの感触がそっくりなのです。
ということは「相対論」的発想や「色即是空」的発想を、別の課題に応用するときには、おなじ
ような操作をしてしまう、ということです。
>>418 「なにが」より先に「かもしれない」が立ち上がってくるその感じは、絶妙な表現だと思います。
私ならば、「なにが」が待っていない状況で「あるいは」を歩き出すときの仕方でしょうか。
「径路」はふつう出発点が立ち上げるか、到達点が呼ぶように発動するわけですが、「出発点」
らしくない場所から出発したり、「到達点」が呼んでないのに動いてみたり、果ては「出発点」らし
くない場所から手応えのない「到達点」を目差してみたりすると、ときに見知らぬ場所に出ます。
たとえば、今まわりを見回して、「トレジャーストーン」という雑誌の47号の紫色の背表紙が目に
入りました。
ここで特にインスパイアされるものがなくても「なるほどそういうわけか、だから紫なんだ」とか言
って出発してみる、みたいな。
>>419 たとえば、見慣れない他人の部屋で踏み台を探す羽目になったとします。
私は踏み台のアフォーダンスを求めてうろつきます。
「この収納缶は安定性と強度は充分だけど低過ぎ」とか「この棚は使えるけど、中のものを
取り出して移動する手間がなぁ・・」とか「この本の山はずるっとずらすと良さそうだが、本を
足蹴にするのは持ち主の気に染まないだろな・・・」とかいろいろ考えます。
ちょうど、ある部署に配置する部下の適材適所性の程度問題を考える感じですね。
踏み台という概念の規定性は次元が少ないので、適材の程度問題もかなり明確です。
缶は高さが10pほど足りないだけだからテーブルとの併用という応用が第一候補、みたい
にはっきりしてます。
このとき私は、踏み台という概念のさまざまな規定性を、踏み台候補に定規のように当てながら、
判断を下しています。対象の踏み台アフォーダンスを多様な条件で査定します。たいがい一瞬
踏み台という概念の「かたち」が回りながら、幾種類かの目盛で対象をちゃっちゃと測定してゆく
感じです。
むろんこんな単純な状況では、「かたち」を動かすときの、たくさんのものが連動 しながらばら
ばらに動く、奥行きのある万華鏡みたいな感触を、意識的に使ったりはしませんけれど。
426の作業にもう少し比喩を加えてみると、測定というのはもう少し動的で、「かたち」と「かたち」
をパズルピースのように合わせて、たがいが変形しながらしっくり行くまで押し付けてみて、変形
の度合いが小さいほど的確、みたいな。
つまり、理想の踏み台概念と現実の踏み台物体の、交渉と譲り合い、かな。
>>422>>423 マルクスやヘーゲルを批判するのは、実に簡単です。正しく理解するのは、特に
ヘーゲルは
激しく難しいですね。必要性を感じなければ、読む必要はないと思います。ただ、僕はそれを
いつも基準として考えてきたので、ついつい言及してしまいます。あまり気にしないでください。
ぜひ読んでほしいというところがあれば、そのときはそう言いますが、今のところそんなことは
ありませんので。僕はマルクス以前にヘーゲルをかじっていて、その考え方に常に影響されてきた
ということは前にも言ったと思いますが、これは多分生涯変わらないと思います。
それから、顔の喩えについて言えば、いろいろな意味で示唆的だと思いますた。かたちが他者に
対してあることを通じて自分に対してあるということを思いますた。言語もまたそうであること
は、言うまでもないと思います。
概念のかたち、そして径路ということについては、まだ取り組むだけの力がこちらにないと考える
べきだろうと、気弱になったりもしています。しかし、これは長いスパンで考えないといけないと
さんざん言ってきたことですから、ここで焦ってもしようがないですね。何も見えてこないので、
ときどき焦っているような自分に気づきます。もう少し落ち着かなければいけません。(ニャハ)
顔の表情については、自分には見えなくても人は使えるようになっていきます。
鏡を見て練習する必要はない。
「かたち」が見えるという状況は、鏡のない世界で鏡を持っていることに似ているかもしれま
せん。
>>429 その比喩は、すごーく的確な感じ。そうなんだよね。だからこそ、何とか重なる問題領域があれば
と思っているんだけれども、なかなか見つからないんです。何かうまい題材はないでしょうか。
我ながら、どうにも歯がゆい状態が持続していて……。
>>420 かもめさん、まさにそういう風に考えています!
私の解釈。
もともと方程式やグラフに親和性の高かったので、考え方の方向として時間、空間も
いったん式やグラフに「客観的に」顕現させていました。
つまり、形式にのっとって対象を認識しやすいように変型していて、経路を辿って自ら
対象から対象へと歩みだすという感覚は思いもよりませんでした。
自分のやりなれた発想法は、歩くのと同様いちいち意識されませんよね。
変化があったからこそ、意識がびっくりして大きく取り上げたのだと思います。
まず、鏡像の話の辺りから、思考実験の面白さに気づき始めました。
こんな場合はどう見える?ってやってみていたのがきっと新たなニューラル・ネットワーク
を作るウォーミングアップになったのかもしれません。
その後の考え中さんの“海の中の生物だったらどんな軸をもつか考えてみては”という提案
に触発されて、しばらく海の中を漂っていてみたのですが、何かを考えるのにそんな
やり方も初めてで、すごく面白かったです。で、これまで使ってなかった部分が活性化され
てきたのかなあと。
その時主に、海水の層による光の屈折率の違いを海中生物はどう視覚的に克服できるかを
実験していたので、「かもしれない」も視覚に重なったのかしら。
関係ないけど、大気の層でも屈折率が異なって、蜃気楼とか顕著な場合は気づくけれど、
日常生活には支障ない程度ということで補正はされていないのでしょうね。
補正するとしたら、離れた場所の気圧や気温をどうやって察知するか…。
>>425 ちょっとわかってきた気がしています。
通常の外界からの刺激が少ない時、自分の中に刺激を紡ぎ出す永久機関があったらいいのに
と以前から思っていましたが、こんな風にヒントがやってくるとは!
>>431 とっても参考になる話です。
> もともと方程式やグラフに親和性の高かったので、考え方の方向として時間、空間も
> いったん式やグラフに「客観的に」顕現させていました。
> つまり、形式にのっとって対象を認識しやすいように変型していて、経路を辿って自ら
> 対象から対象へと歩みだすという感覚は思いもよりませんでした。
無時間的なものに還元していたんですね。接続詞や副詞は、動的な経路のようにではなくて、
構造を示すものとしてあったのでしょうね。
…って自分もそうじゃん! とわれに返りました。
方程式やグラフじゃないけど、「形式にのっとって対象を認識しやすいように変型」、これ、む
ちゃくちゃ、自分の思考方法です。
こうやって意識してるのに、変わらないって、どうすりゃいいのよ?
いや、どうすればいいのかも、わかってるような気がします…
泳げない人が、「力を抜いて!」といわれてそれを理解していても、できないことってありますね。
あれと似てます。鏡像のときもなあ、ガテンコさんのようにはならなかったっす…
>方程式やグラフに親和性の高かったので、
副詞の誤りはなー、やっぱりなー、誤りとしか思えないです。その場でしょぼんとするだけ。
>>432 最大のヒントはやはり、
>>293 :微塵 :03/08/08 01:18
仮に、壁に立つことができて、真横に直立不動したまま鏡に映るとします。でした。
もっと前の別スレの、高いところから見下ろした場合と、視線を地表高まで落とした場合は似たような
効果が得られる、の中にも同じ感触のヒントがあって、その時既にかもめさんは気付いていたかもしれ
ませんね。
私はその時、外に出て実際に実験する方向に向かってしまったので、ヒントを見落としてしまいました。
視点の変換で今の私にとって一番簡潔な例えは、グラフの“0点”が外部にある基準点だったのが、
自分の足元が仮設0点になって、どちらの地平に向かっても踏み出せる可能性があるのだよという
ことを体感的に理解しかけてきた途上、というものです。
または、分析から創造への発展途上。
>>418や
>>433みたいな内面からの表現は、刺激的だなぁ。
さっそく創作に応用して「空耳」に反映させてもらってますw
>>433 わたしもさいきん、そのしょぼんの頻度が高まってます。
外にでて実際に実験する、に、おお!なりました。
これがポイントじゃないのかなとも思います。
わたしには具体性の欠如がはなはだしいからなあ・・・ブツブツ
0点の話も示唆的です。今はもぐもぐしてます。自分の理解にひきつけることなく、受け入れた
い。
しかし、なぜこれほどまでに手がかりがないのだろう。言語がどのように世界を編成するのかと
いうことについては、これまではどのように扱われてきたのだろうか。そういうものを読んだ記憶
もないのだが、それは僕が本をあまりたくさんは読んでいないということも関係しているので、
そんな本がないとは言い切れない。誰か知らない? 人跡未踏ということはあり得ないと踏んで
いますが、それにしてもどうなんでしょう?
久しぶりに書いてみようかな。しばらく2ちゃんの方に気が向かなかった(向けなかった)ので。
あまり、義務化したり依存したりしないように、気の向くままにというスタンスです。
「別の角度ではない外界」からすると、話し言葉としての「実在」は、声帯や空気や鼓膜の「特定の振動」、
書き言葉としての実在は紙に定着した顔料だったり、モニターの発光だったり、網膜に写ったそれらの
「特定の像」だったりするのだろうけど、果たして言葉の実在はそれだけか?みたいな。
「声」はただ聴覚を刺激するだけの信号で、「文字」は視覚を刺激するだけの信号?
人間の五感はたえず刺激を受けていて、それぞれが単独で働くということはないだろうけど、
(例えば「視覚に入力された信号」が、同時に入力された他の器官からの信号と無関係でいられる
ことはなく、常に有機的に結びついている)
それとは別に、例えば「文字」に「視覚信号」以外の実在はないのだろうか?
日本語に「言霊」という語があるが、例えばこれは実在する物なの?
一昔前の自分だったら「んなもん、あるわけねーだろ」といっていたかもしれないが、
今はかなり「どうやら、ありそう?」な感じ。
前スレの始めの方でも微塵に対する反応が分かれてましたね。
(当時の1さんの丁寧なレスには私は感心しますた。私なら無視するようなカキコにも
丁寧に答えていた。)
さて、テレビで見た情報(アンビリバボか200X)なのでどこまで信頼できるか
わかりませぬが、一つ思い出した事と前置きしておいて。。。
水が凍るとき、条件がいいときれいな六角形の「結晶」ができるそうな。
水質が変わるとこの結晶の形もそれに応じて変わるそうな。あまり水質が悪いと
結晶もできない。いい水だと(どこどこの天然水みたいな)美しい形になる。
ここからなのだが、ペットボトルの水に音楽を数分間聴かせてから凍らせると、
聴かせる音楽によって結晶の形が変わるそうな。さらに、マジックで文字を書いた紙を
ペットボトルに張り付けておくと、文字の違いによっても形が変わってしまうそうな。
それが、人間にとって心地のいい音楽や文字だと美しい結晶になって、逆に心地悪い物だと
形が崩れてしまうらしい。(「ヒトラー」という文字を張っていた)
単なる視覚信号、聴覚信号以外の何かが、水の「結晶のカタチ」として現れている?
水は聴いたり見たりしている?「情報水」なんて呼ばれる物もあるみたいですが。
物理世界もまだまだ奥が深そうだよね。
使い込まれた道具や人形に魂が宿るなんてのも、物理的な現象として何かあるのかな
と思ったりします。サイコメトリーとか。
プリンを食っていて思ったのですが・・・、この食いモンの名前はどう考えても
「プディング」じゃなくて「プリン」だ。プリン以外に有り得ようか・・・。
「プリン」という語感のクオリアと、プリンの視覚的、食感(味覚+触覚)的クオリアが
自分の中であまりにも一致するので感心してしまった。
プリンをスプーンですくおうとするとき、あの表面がプルプルと震える時のクオリアに
心がときめいてしまうのは何故?(やっぱり1/f揺らぎかな?)
プリンのクオリアを米人や英人に言わせると「Pudding」になるのかしら?
「濁音はねーだろ」と思ってしまうが。それとも動詞が語源なのかな?
ところで「プッチン」を発明した人はエライですね。
>>438 「言語信号」自体が単なるインクのしみや音声「以外」のあるいは「以上」のものとして与えられる
というのは明白な事実ですよね。そして、そのゲシュタルト自体がアフォーダンスを有することは
間違いないと思います。それは、言葉のかたちとしてのゲシュタルト―アフォーダンスとは違う
ものだと思います。そして、それは間違いなく言葉のかたちと相互作用していると思います。
それが言霊と何かつながっているかと言われれば、わからないとしか言えませんが。
>>大三元
たまに、顔出してくれないと役者が足りませんw
>(当時の1さんの丁寧なレスには私は感心しますた。私なら無視するようなカキコにも
>丁寧に答えていた。)
当時の1さん=今の微塵さんはどうなのだろう?w
言語のどういう側面を「言霊」と定義するか?という問題はひとまずおいても
「言語の意志と欲望」という切り口ではスーザン・ブラックモアの『ミームマシーンとしての私』が
断然肉感的でした。
>>436 >言語がどのように世界を編成するのかと いうことについては、これまではどのように扱われて
>きたのだろうか。
「言語がどのように世界を編成するのか」については、いかに語り得ないか、
ということを語ってくれたのがウィトゲンシュタインです。
あっ大三元さん♪本当におひさしぶりです!!!
思わず書き込みしちゃいました。私も
>>438のテレビ番組見てましたよ。
>水質が変わるとこの結晶の形もそれに応じて変わるそうな。あまり水質が悪いと
>結晶もできない。いい水だと(どこどこの天然水みたいな)美しい形になる
ここまではフムフムと聞いていた。
>それが、人間にとって心地のいい音楽や文字だと美しい結晶になって、逆に心地悪い物だと
>形が崩れてしまうらしい。(「ヒトラー」という文字を張っていた)
これは人間から見た視点ではないか、本当かな・・・水がヒトラーという文字その物を心地悪いと思うわけはない!!
だとしたら、人間の思いが物に変化を起させるのかなぁ・・・・・とか考えていた気がする。
でも面白い番組でした。
プディングって中にパンが入ってたら納得しませんか?
パンプディングならプティングでもOKだな。
微塵さん
転校生とブラックジャックを買ってきたぞ〜
あとウィトゲンシュタイン入門図書館で借りてきた。ワクワク
でも永井さんの本は読むのに時間が掛かる。
ガテンコさんへ
ガテンコさんの「かもしれないの思考の動きを読んでいると
こっちまでワクワクします。想像力を湧きたてる詩を読んでいるような気持ちになるんです。
>>443 ゆっくりしか読めないのだな。あれらは。
月読にだったら、かもめも薦めていた
『翔太と猫のイン サイトの夏休み』ナカニシヤ書店
を薦めます。
あと、オースン・スコット・カードの『エンダーのゲーム』(ハヤカワ文庫SF)を。
遠い遠いところから届いてくる手紙のような本だよ。
>>441 >当時の1さん=今の微塵さんはどうなのだろう?w
夜のマンションの前をちゃりんこでうろうろしている姿を想像すると、
その怪しさにやはり感心してしまいましゅ。勉強になりますた。
最近はあまり夜は出歩かないのですが、たまーに散歩に出かけると、
昼間見慣れた街並みや風景が、全く違う表情をしていて新鮮でつ。
道路に車が走っていないというのがイイ。
子供の頃は夜は真っ暗だったけど、最近はこの辺も明るくなったな。
空にのびるレーザー光線がとても目障り(パチンコ屋?)。
この間夜の歩道を歩いていたら、おびただしい数のミミズが・・・。
いつも思うのだがミミズには自殺癖がある?集団自殺?
何故わざわざひからびに出てくる?
「ミームマッスィーーンとしての私」読んでみたいけど、当分先になりそう。
>>442 おお!何やらさわやかな高原の空気が!!
しかし、私のバヤイ「高原」という字には「ナイジェリア戦、2ゴール!!」といった
関係ないアフォーダンスがくっついているみたいです。
>だとしたら、人間の思いが物に変化を起させるのかなぁ・・・・・とか考えていた気がする。
植物にもやさしく話しかけてあげると良く育つとか言うよね。音楽聴かせたり。
「人間の思い」も物理現象(それだけではないかも知れないけど)だし自然の一部だと考えると、
割とすんなり受け入れられます。「水のカタチ」が変わったように、人間の内の「何かのカタチ」
が変わった状態が「心地いい」「心地悪い」なのだと思う。言葉より先だと思う。
>パンプディングならプティングでもOKだな。
ぬぬう。そんな小洒落た食いもんのクオリアはオラの脳内にはないでつ。
プディングって元々どこの国のお菓子だろ?フランス語っぽく読むとなんかしっくりくるな。
>>446 プディングってたしか、もともとは詰め物一般の名前だったみたいですよ。ソーセージとか。
…今ぐぐってきました。
「(途中から)日本に入ってきて「プリン」と言い換えた人は素晴らしいですね。
形からして“プリン!”ですから。・・・と思ったら、一説には、食品会社がプリンの素を発売する
ときに、その形状からつけた商品名ではないかとする説もあるのだそうです。
ちなみに“pudding”の本来の意味は、でん粉ベースのものを袋か型にいれ、ゆでる、蒸す、
焼く、冷やすなどして固められた食べ物を指す言葉です。だからお菓子だけでなく、いろいろ
なプディングがあるのです。古くは腸詰めの一種などもプディングとされました。(略)
ヨーロッパが船団を組んで世界中をまわった時代に、船に残った余りものに卵などを加え、
布巾で包んで煮たのがプディングの始まりだといわれています。」
前半もなかなか無関係でないので、ちょっと長いけどコピペしました。国は不明。
哲学板に、…失礼しましたっ
というか、むしろ後半が無関係ですね。
すみません。他スレにたくさん書き込んで、深夜に一人ナチュラルハイになってるようです。
いい訳になりません、ほんとに失礼しました。
浮世から離れているうちに、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』が岩波文庫になっている
ではないか!? 野矢訳で。知らなかったよーん。こんど、見てこよー。
>>447,448
75へぇ。
わざわざググっていただいてありがとうございます。(自分でぐぐればいのに面倒くさがりな俺)
やはり「pudding」はあのお菓子のクオリアを指しているわけではないのですね。
>日本に入ってきて「プリン」と言い換えた人は素晴らしいですね。
禿同。表彰モンだ。
>というか、むしろ後半が無関係ですね
いや、無関係じゃないですよ。「pudding」と「プリン」はつながっているのだから。
大航海時代に生まれた「食べ物」と「それを表す言葉」が、長い時間と空間の距離を移動して
似て非なる物として私たちの前にあるわけですな。
「プリン」という言葉の持つ「響き」から伸びている物をずるずると辿って、大航海時代に思いを馳せる
「脳の作業」をパソコンの前だけで出来てしまうなんて、便利な世の中になったモンだ。
>>440 私の
>>446の
>「水のカタチ」が変わったように、人間の内の「何かのカタチ」
>が変わった状態が「心地いい」「心地悪い」なのだと思う。言葉より先だと思う
は、同じ事を言っているのかな?
G−Aシステムが先にあって言葉はそのシステムからの派生の気がする。
俺的には、「最初の言葉」は形容詞的だと思う。
親から派生した子システムの「言葉」がどんどんとその領域を拡張していって、
親と子の支配関係が逆転していく(様に見える)のだと思う。
>>微塵
質問ですが、微塵に見える「言葉のかたち」は、同じ言葉を聞いたときと見たとき、
視覚入力と聴覚入力では変わらないのですよね?
微塵の脳に「言葉のかたち野」があるとして、もし視覚と聴覚でかたちが変わるなら
視覚や聴覚の信号がダイレクトに「かたち野」に行ってるのだろうけど、
変わらないとすると、
一度言語野を通して「言葉の信号」に変換した物を「かたち野」に送っているか
(常識的にはこちらだと思うが)、
それとも、
「声」や「文字」の中から通常の視覚信号や聴覚信号ではない「何かの信号」を
「通常の目や耳ではない感覚器」で読みとって直接「かたち野」に送っているのか、
(ESPカードの透視などはこちらだと思うが、ちょっとトンデモ)
だと思うのだが(勝手に思うだけ)、本人はどちらだと思う?前者かな?
微塵はかたちに「手触り」を感じると言っていたけれど、視覚的な「文字(文章)」を、
目を使わずに触覚で(手触りだけでも)読みとるなんて事はできる?チャレンジしてみたことある?
答え急がなくてもいいよ。
>>451 気持ちのいい音、気持ちのいい見た目の形というのはあります。これは、言葉の意味とは無関係に
ありますね。全然知らない読めない字でもカコイイと思うことはあるし、テレビでふと耳にした
アフリカの言葉が何かそそるてなこともあります。ですから、これは言葉が言葉として持って
いる作用とは別に厳然としてあります。もちろん、それは言葉以前にあると言ってもいいように
思えます。G-Aシステムが言語より先にあるとは言えると思いますが、ヒトのG-Aシステムは、
言語化することによって初めて解発されるある領域を存在として(いい言い回しではありません
が、ちょっと適当な言葉が見つからないのでこういっておきます)前提しており、それによって
人になると考えられるわけで、そのメカニズムが見当がつかないと途方にくれている次第でつ。
言語が極めて厄介な代物だということは、前スレから十分予感できたことですが、議論の流れ
から全く右も左も皆目わからんという状態に陥っています。「自閉症」は、多分重要な手がかりを
提示しているという予感はあるんですが、とりあえずまだ五里霧中でんねん。あきまへんわ。
ついでに思いつきですが、カコイイ言葉ということについて、少し。
同じ英語でも、イギリスとアメリカでは言語についての感覚が違うように感じることがあります。
アメリカ人は、かっこよく聞こえるということをとても重視していると感じられるのです。そこが
イギリス人と違っているように思えるのです。そして、それはハリウッドの影響ではないかと思う
こともあります。耳に聞こえる音声としてのかっこよさ。言い回しとかではなく、それ以前の・・・
微塵たん
>『翔太と猫のイン サイトの夏休み』ナカニシヤ書店 を薦めます。
アマゾンによると
>中学生の翔太が物知りな飼い猫インサイトに、「いまが夢じゃないって証拠はあるか」、「自分がいまここに存在していることに意味はあるか」などを
>尋ねながら、哲学が開く思考の世界に触れる。中学生・高校生向きの哲学の本。
中高生向きって書いてあるからなんだか簡単そうだけど永井さんの本だから簡単だとは思えない・・・
ゆっくり読んでみます♪
>あと、オースン・スコット・カードの『エンダーのゲーム』(ハヤカワ文庫SF)を。
>遠い遠いところから届いてくる手紙のような本だよ。
↑遠いところからの手紙なんて聞くとソワソワする♪
ツモのみさん
>「人間の思い」も物理現象(それだけではないかも知れないけど)だし自然の一部だと考えると、
>割とすんなり受け入れられます
人間も自然の一部だという事をすぐに忘れてしまいます。人間が自然とは切り離されたところに居ると考えるのは
自然を操っているイメージがあるからです。
でも人間は自然の一部だという考え方が好きです。
踏み絵のアフォーダンスってどんなだろう。
では、おやす眠。
↑唐突な書き込みで、レスの流れを留めてしまったかしら。
月ちゃんスレで進行中の平等について考えていて、未だ日本人の中で、「平等」という共通項
が根付いていないのではないかと思いました。
でも、戦後教育のもと成長した人々は、「人間元来どんな社会に生きようと、不公平を内包して
しまうのは避けられない」と口に出すことは地雷を踏むに等しい。
結果、平等について考えつくす機会もないまま、はずみで踏み絵を踏んでしまわないことだけに
注意を払っている気がするのです。
>>457 戦後の日本にとって、民主主義・自由・平等というのは、何の実質もない空疎な観念に終始したと
思います。それは、まんざら日本人がバカだったからとばかりは言えない。間違いなく冷戦構造に
組み込まれてしまったことがその最も大きな原因だと思う。この流れから自由であった国も民族も
人もいないのだから、それをもって日本人はだめだとは言い難いが、重要な問題に直面することを
50年以上も先送りしてしまったことは間違いないところです。このままいけば100年ほど先送り
してしまうことにもなりかねないですね。そうなると、しっぺ返しがきつそうです。
>>453 >気持ちのいい音、気持ちのいい見た目の形というのはあります。これは、言葉の意味とは無関係に
>ありますね。
横の関係で見れば無関係に見えるかも知れませんが、縦の関係で見れば、
「かたちの心地よさ、悪さ」が複雑化したものが「意味」ではないのかなと、私は思います。
コトバ自体はヒトだけの物だとは思いません。犬だって簡単な言葉なら意味を解する。
イルカや鯨は会話をしているとも言われます。
人間の言葉が特別化したのは文字の発明だと思う。
文字は時間を(ある程度)克服できる言葉だと思う。後、この時点で視覚と聴覚が
言葉で結びついたのかな。安全(ゆっくりと考える時間)の獲得も大きいと思う。
>>454 確かにそれはあるかも。裁判物の映画なんかを見ると、弁護士がいかにかっこよくしゃべるか
で判決が決まるみたいな。大統領も内容よりもいかに格好よくしゃべるか。
音のかっこよさは、黒人が一番かも。リズムが違う。
>>459 >「かたちの心地よさ、悪さ」が複雑化したものが「意味」ではないのかなと、私は思います。
言語の発生というプロセスを見ると、そう言えるかもしれないと思います。前にここで紹介して
もらった「日経サイエンス」の記事も、少し違うけれども、似たニュアンスのことが書かれて
いました。そして、それはあながち間違いでもないだろうという気はしています。
音楽や言葉が水の性質を変えてしまうのだとしたら、人間の体内の60〜70%と言われる水
に対して、それはどう振る舞うのだろうか?
それは「意識」に無関係だろうか?
脳の見る夢は、単なる複雑な「機械」の見る夢とはちょっと質が違うのかなとも思う。
>>457 「踏み絵」は踏む為、踏ませる為にあるんだよね。踏まない為ではなくて。
>>456 >>457 ガテンコさん、きっかけ毎度どうもです。
気の利いたレスできないかなと考えていたわけでw でもだめだったーん
「踏み絵」という名前もおかしいな、と思ったのです。
その名前がついている絵は、もともと「踏む」というアフォーダンスをもって
ない。「踏むことで宗教を冒涜できる」という「意味」なら潜在的にもっている。
その意味や、「踏む」アフォーダンスが無いということを、宗教弾圧のために
顕わにし、利用する制度が、「踏み絵」と呼ばれる、というならならわかる。
ある聖画が踏み絵制度に有効であるためには、その絵の、上に書いた「意味」や
アフォーダンスが保たれていなければならない。
だから、踏み絵と呼ばれる絵が踏む前から「踏み絵」であるのは、おかしいな。
というわけでした。
でも、もちろんこんな名前のつき方の例は他にもたくさんあるだろう。
わたしはここでケチをつけたいのではなくて、そういうのもあるなー、
ふんふん、っていう気持ちです。
>>462 ぬり絵もぬる前からぬり絵だが、「ぬる」アフォーダンスがあるというより
「これはぬってもいい」という許可がありますね。
首吊り用の輪縄には「死ぬ」アフォーダンスがあります。
絞首刑用の輪縄には「死ぬ」アフォーダンスがなく「殺す」アフォーダンスがある?
>>452 これは答えが難しいなぁ。
前スレの11と95に書いたように、この概念にこのかたち!というように一対一で対応するわけ
ではありません。
前スレのタイトルに「共感覚」と入れたのは、つまりは一般に言う「イメージ」とはちがう、という
ことを表したかったわけです。
表情の比喩で言えば、ある言葉が使用された状況と文脈が顔にあたり、顔じたいはいつも
ちがいますが、笑顔(ある表情=ある言葉)であることはいっしょ、と言えばいいでしょうか。
顔が言語野の表象であり、表情とその推移が言語野の活動の表象です。
というわけで、混乱を承知で言えば、視覚入力と聴覚入力、視覚と視覚、聴覚と聴覚、どの
組み合わせでも、おなじ言葉が発せられたときの「かたち」は、おなじと言えばおなじ、ちがう
と言えばちがいます。
アフォーダンス論に引き寄せて言えば、むしろ信号(たとえば「雪」とか「自由」とかの文字や
音声)が不変項であり、同一の信号が引き起こす表情はおおむね同一、いつもちがうのは顔
じたい、ということです。
そして、ある表情がどのような顔にあらわれたか、と言う経験が、表情じたいのアフォーダンス
を、次第に変更してゆくのです。
>>452つづき
これを「心の指で動かす万華鏡」の比喩で言い換えれば、万華鏡に封じられた色とりどりの
素材が顔です。通常は信号(言語を使うこと)が万華鏡をまわし、素材の配列を不随意に変
えていくわけです。ここが共感覚的な部分です。
そして、この万華鏡に集中すれば、ふつうの言語思考によらず、随意にまわせます。随意と
いっても、言語が取り得る角度でだけですが。現実の万華鏡は、さっき見たすてきなかたち
に戻ることはできませんが、脳内の万華鏡は戻せます。
万華鏡の模様を担う素材は、状況と文脈によって変わっていきます。これが、上述の「いつも
ちがうのは顔」ということの言い換えです。
想起される顔の種類と、とらせ得る表情のヴァリエーションが、私の思考の幅です。
>微塵はかたちに「手触り」を感じると言っていたけれど、視覚的な「文字(文章)」を、
>目を使わずに触覚で(手触りだけでも)読みとるなんて事はできる?チャレンジしてみたこと
>ある?
残念ながらできませんw
誰かの抱いている思考を、触覚的に(つまり自分の思考のように)感じることはあります。
昔の友人に、特に似通ってるわけでもないのに、そいつがが何を言い出そうとしているのか、
妙にわかっちゃう人がいました。
「腹へったなー。焼き鳥どんぶり食いに行こうかな、って言おうとしただろ今!」とか、よく言い
当てて楽しんでいましたw
>>464、465
丁寧なレス感謝。
結局、「言語思考」が見れる、触れるってことなのかな。
オイラの場合(普通?)言語思考している時は、頭の中で一人で(もしくは複数で)しゃべっている。
要するに聴覚言語思考(微塵も普通はそう?)、言語思考が聴ける。
それが視覚や触覚にまで拡張しているだけ?
説明を聞くと、聴覚の言語思考を視覚に喩えただけのようにも聞こえる。
脳の中の、普通の人が言葉に割り当てない場所でも、(あるいは割り当てられているけど未使用?)
言葉を覚えてしまったのかな。見たり触れたりする場所も「言語野」ではあるのかな。
微塵の脳の中で、言葉の浸食している領域は普通の人より広いだろうね。
当然、「言葉」という概念も、普通の人のそれより大きい物だろうな。
脳の進化の一つの方向性なのかな?
「言葉」自体は、まるで生き物のように、他を侵略して生息範囲を広げていく性質がありそう。
ちなみにオイラ言語思考していない時は(イメージ思考)、頭の中で、
「んー・・・・・・んむむ?・・・ぐっ・・・・・・!!!!!!」
とか言ってる。「みゅいーん!!」とか。
>>466 ニュータイプ?
>>138で、
>夜空に見える現在の「星」は最低でも二年前の星だったり
と書きましたが、記憶違い。
一番近い恒星でも、4.3光年だそうです。
前スレで、F1が時速400キロと書いたけどこれも勘違い。
300キロオーバーだね。
時々勘違いしたり、知ったかしたりして、テキトーな事言うみたいなので
各自注意されたし。
以前、羊羹大のナメクジを見たと書いたが、ヤマナメクジ、ダイセンヤマナメクジ
この二種は、15センチ以上になるらしい。
俺が見たのは多分、後者。山の中で。
野生動物板で教わった。
とてつもなく美しいもの、しょにょ2
これは以前実際に見てたまげたんだけど、それは西の空に見えた雲でした。夕方だったと思う。
雲自体が赤く染まっていたと思います。しかも、ただの雲ではなくて雷雲です。この雷雲は、下に
雷を落とすのではなくて、雲の中で光っているのです。大きな丸い雲の中のあっちこっちが光って
いるんです。そして、その光が雲の表面を内部から照らすのです。ランダムに場所を変え、雲の
表面からの距離も変えながら光りますから、それは何とも表現しようのない美しさですた。その後
一度だけテレビで同じような雲を見たことがありますが、実際に見たのはそれ一度きりです。もう
一度じっくり見てみたい。できたらビデオに撮っておきたい。それほどすごい、何とも想像を
絶する光景でした。報告終わり。
>>461 >「踏み絵」は踏む為、踏ませる為にあるんだよね。踏まない為ではなくて。
確かにそうでした!完全に自分のなかで変型させていた。びっくり!!
というのは、元々の「踏み絵」は支配者が被支配者をふるいにかけるためのものであった。
でも、現代(の日本)にはその構造は無い(ことになっている)。
昔は、権力によって踏まされるものを“踏まない”選択がもっとも“能動的”な選択だった。
現代では、踏むことを強要されはしない。でも、踏むか踏まないかで、厳然とした区分が
依然生まれる。みんなそれを知っているから、できたら「ことなかれな選択」をしたい。
「ことなかれな選択」=「社会に適合した正しい選択」とも思われていた。
「踏め」と言う人がいないときには“踏まない”選択がより“消極的”な選択だと
考え、気付かないうちに自分の中で逆転が起こっていたのですね。
↑のレスを書き込んだあと、
>>462を読んだら、最初に読んだ時より「おおお!そういうことか!」となりました。
そして更に
>>463「おおお!そういうことか!」
考え中さんの
>>458が
私が最初に書き込んだ時の感じに一番近いです。
「踏み絵」は言葉のブラックホールみたいで、捻じ曲がりながらひとつに凝縮されたものが
様々に違う言葉を放射していて、私の中ではカタチに一番近い言葉みたい。
そしてまた、カタチが変わりました。
しばらくは、いろんなものを、踏んだり、踏まなかったり、何故、踏むのか、
踏めないのか、意識的に試してみるのだ。
>しばらくは、いろんなものを、踏んだり、踏まなかったり、何故、踏むのか、
>踏めないのか、意識的に試してみるのだ。
俺は、本を踏むなまたぐなという教育を受けたせいか、書物を物神化しています。
たとえくだらない雑誌でも、読み皺付けて読んでる人を見ると苦痛を感じます。
と言いつつ、本をまたいだり踏んだりするのは平気w
もちろん大切に踏みますけど。
乱暴に踏むのはもちろん駄目です。
ディズニーの『美女と野獣』で、本好きのヒロインに恋する男が本を取り上げて水溜りの中で
踏み付けるシーンは激怒w 続くシーンで、ヒロインが男に怒りを表明するものの、かわいそう
な本を心配しいたわってあげる仕草がないからまた激怒w
>>471-
>>472 わたしはいまだにバスケットボールを足で蹴ったりするのは、他人がそうしているのを見るの
もダメです。
いまだにっていうのは、バスケをやっていたのは大昔、ということです。
じゃあもしサッカーやってたらボールを手で扱うことに抵抗あったかというと、たぶんそんなこ
とはないのだろう。
あるとしても、プレイヤーとしての習慣のためであって、「バスケットボールを足で」というときに
感じる禁忌感のようなものは、そこにはないような気がする。
うーん、すごく安易な例だw タブーの話にもっていきたくはないぞー
>>470 他スレで、落雷の遠くからの眺めは「貴重だ」と書き込んだ後に読んだのですが、あれどころ
じゃなかったんですね!
いままで「雷」は、ひたすらそこから逃げたい離れたいものだった・・・
近くの雷と遠くの雷は、またアフォーダンスが違いますね。
>>474 雷のアフォーダンス……そういう考え方をしませんでした。雷は時々目にしますが、遠目には
いつもとてもきれいだなと思って見ています。嵐のベランダに立ったりしたこともありますが、
至近距離で落雷を見たことはありません。あの音や光は恐ろしいものではあるけれども、他方では
自然のすごさを身近で感じられる一種のイベントという感じかな? その意味では鑑賞の対象でも
ありますね。
そういえば、先日のあの強烈な落雷のあった日、結構一生懸命ニュースを見ていたんですが、あの
美しさを伝えられた映像にはお目にかかれませんでした。
連想したのは、「プライベートライアン」という映画の中の夜間の行軍中に、遠くで光っていた
爆発です。とてもよく似た感じがしました。その流れで、バグダッドの夜間爆撃の中継映像も思い
出しました。どんどん不謹慎な方向に流れそうですから、ここまでとします。
今朝の毎日新聞。
生後2〜5日の赤ちゃんに、母国語と、逆回しの音声を聞かせると、
母国語の時は脳が活発に反応するらしい。すでに言葉とそうでない物を聴き分けている。
それが、胎内での学習に依るのか、先天的なのかはまだ不明とのこと。
外国語を聞かせてみたとは書いてなかった。
なんか片手落ちな気がする。
一度も聞いたことのない外国語でも、逆回しより反応するなら、
先天的って事になるだろうな。
>>476 逆まわしというのは聞いてもわかるけど、とても不自然な音になります。それだけで、だめーな
感じがするんですが、ちがうかな〜。赤ちゃんだからこそ、その辺にの違いには敏感だったりする
ような気もしますが。もちろん単なる想像ですが。
「和声」と「旋律」に反応するというからなぁ>赤ちゃん
外国語でも母国語の逆回しよりは反応するんじゃないかな。
胎内にいるときから「母親の声」は認知しているから、すでに生まれる前から「母国語体験」を
しているし、先天性・後天性判定の実験条件整えるの難しい・・・・・。
(人間に関する科学は双生児によって進んでるよねw)
おさない頃、俺はおふとんと友達で、いつも会話しながらじゃれ合ったりケンカしたりしてた。
それで夜更かししてて、離れた部屋にいた母親にかなり厳しく叱られたことがあった。
夜更かししたことを叱ってるにしては、イライラした調子があって、叱られている内容と不整合な
強度を感じてとまどった記憶がある。
今なら「言葉ってすごく耳についてイライラする」ことが理解できるけど、おさない頃の自分はそ
れをあまり実感していなかった。
たぶん母国語が安定するまでは、言語の音声刺激の不快さは抑制されているんだろうと思う。
言語に対して開かれている、というのかな?
>>477 >逆まわしというのは聞いてもわかるけど、とても不自然な音になります。
その「不自然さ」が学習に依る物か、持って生まれた物かということだね。
出てきた時点ではすでに持っていることが客観的に(脳の血流量で)検証されたみたい。
先天的な物だと俺は思うけど。実験難しいよね。
聴覚障害者の夫婦の間に生まれた赤ちゃんを調べてみるとか・・・。
胎内で赤ちゃんが聴いている音というのは我々が想像する以上に大きいのではないかと思う。
視覚情報は全く無いし、嗅覚、味覚、触覚もほとんど刺激が無いと思う。ブラックルーム?
聴覚刺激だけを、全身全霊を持って聴いていると思う。「鼓動のリズム」と「言葉のカタチ」を。
中学生の時、週一回のクラブの時間を空き教室でサボっていたときがあった。
学年主任の怖い先生が来たので、教室の隅のカーテンの裏に隠れた。足だけ出てる。
詳しいシチュエーションは省くけど、先生が1メートル以内まで接近してきたとき、
自分の心臓の音はこんなにも大きく聞こえるものなのかと思ったっす。教室中に響き渡るような。
足だけ隠れずに出てるから。結局、ばれずにやり過ごせたけど。
マンガみたいなシチュエーションだったな。
オイラが隠れているその前で、見つかった奴の説教始めるんだものw。
>>480 先天的か学習かというとこについては、にわかに断じ得ないところがあります。一応胎内学習は
確実に経ていると考えられるので、学習によると推察しますが……。保留かな。
視覚刺激の不足(障害)より、聴覚刺激の不足(障害)のほうが
知的発達の阻害要因として、影響力が著しく大きいようです。
>>375 ちるるんのこういう意味不明な発言が好きだ。
>>377 女の子、かわいいね。
スペイン語のテレビの方はじつはたまーにのぞくだけなんだけど、
そこで女の子が、「次行こう」ってとこで、「ネクスト!」と元気に言っていた。がーん
誤爆…かなり誤爆…とってもすみません。
こっちに書きこみしようとして中断してました。
「青春でんでけでけでけ」を見てました。高校時代のことが懐かしく思い出されました。僕もバンド
を少しやってましたし、いろいろなことに夢中になっていた時分を思い起こして、何だか少し気持が
変わったかな。ここしばらくの自分の状態はちょっと意味不明で、まだ復調したとも言えず、また
いろいろ書けるようになるかどうか予想がつきませんが、ぼんやりといろいろ考えてはいます。
かもめさんの誤爆はちょっとおもしろかったです。
昨夜は失礼しました。おもしろかったといってもらえてほっとしたりして。
聴覚と視覚の言語との関係って、強さが等しくないし、対称的ではないですね。
>>467 > オイラの場合(普通?)言語思考している時は、頭の中で一人で(もしくは複数で)しゃべっている。
> 要するに聴覚言語思考(微塵も普通はそう?)、言語思考が聴ける。
わたしもそうだし、大多数はそうだと思ってます。聴覚は言語の働きにちょくせつ関わると考え
てます。
聴覚的でない場合を考えてみるに、視覚だとして、文字が浮かんでいるということではないで
すね。文字なしに言語活動は成り立つので。
文字習得以降は、言語思考に文字の現れが不可欠、という意見もあるのだろうか。
あきらかには言語が浮かんでいない思考では、空間的な構造で考えますが、これは視覚的
ですね
(しかしやはりこれも「かたち」や「経路」による思考とは違います。比較的恒常性があって、
変化があるとしても緩やかだし、そもそも必ずしも立体的ではないから)
続き
この構造は、言語の使用に慣れた者にしかありえないものだと思います。
そしてその慣れにおいてはやはり聴覚が、第一の役割をはたしています。
他に、言語思考でない思考では…
> ちなみにオイラ言語思考していない時は(イメージ思考)、頭の中で、
> 「んー・・・・・・んむむ?・・・ぐっ・・・・・・!!!!!!」
> とか言ってる。「みゅいーん!!」とか。
これは明らかに聴覚ですねw このときは音だけですか? 視覚的なものがあるとして、
形でなく色とか? >もちろん大三元さん
何だかとりとめないですが、いちばんいいたいのは以下です。
言語の働き、つまり語りにおいてメインに働く感覚は聴覚で、語られる方の外界は、視覚や
触覚などの対象である。ということが、明らかに例外を含みつつ、おおざっぱには言える。
これに対して、別の外界において視覚と触覚の対象であるのは、言語なのでした。
では、そこに音はありますか? あるとしたらどのように? >微塵さん
>では、そこに音はありますか? あるとしたらどのように?
さあ、難しい質問がやってまいりました。
「かたち」について視覚や聴覚や触覚などの一般的な知覚を援用して表現するのは便宜上
のことです。
「かたちを見る」とか「触れる」とか言わないとしたら、どうアクセスするのか言いようがないし。
「かたち」とインタラクションするときの原生的な感覚を言い表してみます。
まず自分を、表面と内部の境界がない液状の生命体と考えてください。皮膚も膜もないスラ
イムみたいな。
液状の身体は水の中を流れる水のように流動していて、たまさか生まれる濃淡の差異が一
時的な界面を形成します。おなじ界面を挟んで、両方の側が「触れる側」であり「触れられる
側」です。
触覚の中を流れる触覚、と言えば実感があるでしょうか?
様々なやわらかさの「皮膚」がおたがいを擦り合い、感じ合いながら、ねじれたり広がったり
岐れたり包まれたりしながら、結ばれたり解けたりしている。
触れるものどうしが触れ合いながら知覚で満たされた空間を流動していて、そのとき際立って
鋭敏になっている界面部位の立体像がコントラストを強調するように立ち上がり、表面として
「見える」。
その表面に対して、志向的に「濃く」して、摩擦力を高めた心の指で、触れて動かす。
こういう感じです。
うまく伝わっているかどうか不安ですが、「かたち」そのものの属性として音を感じることは
あまりありません。荘厳なひびきを連想したりすることはありますが。
「かたち」はとてもとても静かです。激しく流動しているときも、静かです。
だから、自分の心が静まり返っていないと、うまく扱えません。
>>488 「便宜上」であって、通常の外界での視覚触覚と同じではない、と知ってるつ
もりでも、頭の中に保存して再度想像しようとすると、それはわたしにできる
想像なので「一般的な知覚」の対象のようなものになってしまいがちだったと
自覚しました。
そんな想像では空間には真空部分があるのです。つまり「かたち」を空間内に
浮遊する柔らかい固体、のようなものとしていつのまにか想定していたと知っ
たわけです。
>>489 > うまく伝わっているかどうか不安ですが、
それをいうならこちらもこれで伝わってることになるのか不安ですが、ある感覚
を表現したものとしてそれ自体優れた文章だと思います。
読んで想ってみると、他ではなかなか味わう機会の少ない感じになれます。
もちろん、これが「かたち」とのインタラクションでありその「かたち」が言語で
あることまでは、感じられないけれど・・・
489で直接答えられている「音」の質問は、487を最後の方まで書いてとつぜん思い
ついたのでしたが、訊いてみてよかったです。
かもめのレスを読んであらためて思いましたが、ぼくは音楽も「触覚的な海を流れる海流の
絡み合い・触れ合い」として聴いていますね。
あるいは「おなじ未来に向かって飛ぶ風の群れ」みたいな。
だから歌詞の比重はとても低いです。というか歌詞の意味の比重は低いです。
(もちろん歌詞の意味に心動かされることもたくさんありますが)
>そんな想像では空間には真空部分があるのです。つまり「かたち」を空間内に
>浮遊する柔らかい固体、のようなものとしていつのまにか想定していたと知っ
>たわけです。
それは不本意な捉えられ方ではありません。
コントラストを強めて、志向的に働きかけようとするときは、そういう「見え」であると言ってよい
です。
音楽のたとえで言えば、聴覚を絞ってベースだけに集中しようとするときみたいな。
周囲もぜんぶ音楽だけど、特定のパート以外は背景に退けて、ベースラインだけを模様として
立ち上げるときのような。
音楽の話をしているうちに、言葉を使うことの背後に「かたち」があることのたとえ話を思い付き
ました。
たとえばハードロックなら、ヴォーカル、エレギ、アコギ、ベース、ドラム、キーボードのパートが
あるとして、「どの音がどの楽器の音色であり、どのような仕草がその音を奏でるのか」を知らな
いときと知っているときは、解像度がちがいますね。
手わざ性の連想がパートの立ち上がり(聴き取り)を支援して曲に奥行きをもたらします。
演奏者それぞれと聴取者のリアルタイムが足並みをそろえて、チャンスオペレーションとしての
おもしろさを際立たせてくれる。
映画で言えば、最近のCGによる演出と、昔ながらのミニチュアやマペットの特撮では出来上が
りの精緻さでは較べ物にならない。
ぼくはCGは人並み以上に好きですが、旧き良き特撮に較べて、どことなく漂う平板なつまらなさ
は、リアルタイムの手わざに同期する娯しみを欠いているからだと思います。
演者の時間を欠いた特撮、と言えばいいかな。
そういうわけで、オールマペットの『ダーククリスタル』が、いまだに大好きなわたくしです。
あ、そうそう『のばらの村のものがたり』という人形劇も最高☆ あの仕草カワイ杉!
「かたち」は言葉の仕草であり手わざです。
リアルタイムの、ライヴパフォーマンス付きで見る言葉、みたいな。
あ、接続詞を送り損なった。
精緻なのはCGのほうで、その魅力を認めた上でなお、旧き良き特撮の魅力を語ろうとしたの
でした。
>>487 >これは明らかに聴覚ですねw このときは音だけですか? 視覚的なものがあるとして、
>形でなく色とか?
視覚映像的な思考をします。動画的かな。カメラで撮っている感じ。図的に考えるときもある。
その時に、言葉を黙らせて単純な擬音的な声にして集中する。
体を動かすときに「よいしょっ」と言ったり、バランスをとる時に「おっとっと」と
言ったりするみたいに、頭の中の映像を動かすにも何か言ってるみたい。
河口洋一郎という人のCG映像には、思考がかなり影響されました。
>>488から受けたイメージに近いな。
>>492 「ダーククリスタル」好き。
レイ・ハリーハウゼン物、大好き。「シンドバッド」三部作とか、「アルゴ探検隊」とか。
そしてなにより、リスペクト「円谷英二」。
>>494 つい最近、初めて「ハワイ・マレー沖海戦」をケーブルtvで見ますた。あの時代につくられたもの
だと考えると、ものすごい作品です。でも、日本の特撮は一刻も早く円谷先生の呪縛から解放され
なければと、僕は真剣に思うのです。「パールハーバー」を見習ってはいけませんが。
>>492 このような感覚について書かれたものを読むと、「かたち」について概念的に把握することの
手助けにもなると思うんです。
>>493 「送り損なった」という言い方が、ならではですね。
>>494 ふむふむ。「イメージ思考」と書かれていたのは、そのまま受け取ってよかったんですね。
大三元さんはこの思考のとき、目的があって考えてますか?
何かを理解しようとして考えてますか? と言い換えてもいいですが。
>492や
>>494 >>494を読んで、やたらぐぐってしまったw
とりあえず『ダーククリスタル』を借りてきて・・・っと。
個人の観賞用のCG映像ソフトって、CD屋さんに売ってるものなんでしょうか。
ゲームやらないせいか、ぜんぜん知らない…
原田大三郎くらいは知ってて観賞用に手に入れたいと思っても、よくわからなくて。
ネットで観れたら、それにこしたことはないのですが。
河口洋一郎という人のHPの動画は観れなかった、ちえ。
「ダーククリスタル」が印象に残っているのは、世界観もあるけど、
何より「ロボトロニクス」という当時のふれ込み。マペットの中身はロボットらしいのです。
シュワちゃんみたいに。
ローテクの中の隠れたハイテクに当時ドキドキした。羊の皮をかぶった電気羊?
「タイタニック」を見たとき、氷の海の中で白い息を吐いてガチガチ震えてるシーンを見て、
「演技とはいえ役者も大変だ」とオモタら、白い息はCGだったのを後から知った。
なんかくやしかったけど、感心しました。上手い手品だね。
でもおかげで最近は
「どーせこれもCGだろ」みたいなw。
逆にハイテクに隠れたローテクにドキドキしたり。
「ハワイ・マレー沖海戦」。あれは燃える。戦意高揚するわ。
あれは「特撮映画」じゃなくて「実写映画」のアフォーダンスなんだよね。
特撮なんて誰も知らない時代。GHQですら実写と勘違いしたらしい。
この辺の話題は俺的にヤバイ。歯止めが利かなくなる(笑
円谷の呪縛か・・・確かにw
>>496 >大三元さんはこの思考のとき、目的があって考えてますか?
>何かを理解しようとして考えてますか? と言い換えてもいいですが。
概念や思考の「カタチ」を捉えるため。「観」をつくるため。
この作業がうまくいかないと、本当に「理解した、腑に落ちた」という気にならん。
この時の「視点」や「視野」が自分の思考の限界だね、やっぱり。
「視点」の意識は特に強いな。
>>497 >個人の観賞用のCG映像ソフトって、CD屋さんに売ってるものなんでしょうか。
どうだろ?あまりよく置いてある物ではないと思うけど。俺も知らん。
河口のHP、動画みれないねー。解説文が面白かった。
http://www.race.u-tokyo.ac.jp/~yoichiro/etc/etc.html
CGによる精緻な映像が、なぜ薄っぺらく感じられるのかというのは、多分動的な不変項と関係
していると思います。この不変項を再現するには、多分今よりもずっと難しい(あるいは、
今とは別の)計算を必要とするのだと思います。僕たちの視角は、それを知覚しているのではない
かと思うのですが。
>>498 「ロボトロニクス」→「メカトロニクス」(汗
>>500 単純に情報量の問題と思われ。現実世界では光源は無数。
すべての物体は「鏡」であってお互いを写しあっている。
酸素分子一つでさえも。
それから比べたらCGの中の光はスカスカ。
>>501 それもありかもしれません。ただ、動きということを考えると……。いや、あくまで推測なので、
断言することはできませんね。以前「スターシップトルーパー」を見ていて、何か感じたんです。
動きがなめらかすぎるというのもあるかも。
もっともCGも日進月歩だろうから、最近のはどうか、これからどうなるのかはわかりませんが。
>>499 お答えありがとうございました。
「グロースモデル」、おもしろいですね。
『ダーククリスタル』、近所のレンタル屋のSF・ファンタジーの棚になくて、いちおう見てみた
子供向けの棚にもなくて、とっても愛想のよくない店員さんに、「人形劇ってどこにあります
か?」とおそるおそる尋ねたら、「にんぎょうげきはおいてませえん」とだるーそうに即答さ
れました。タイトルで訊けばよかったか。…買おうかな。
CGについてのお話、おもしろいです。
何だか急に一番下の方に来ていますが、問題ありませんか?
ageときますね。
>>503 「ダーククリスタル」は、あるとすればファンタジーの棚だと思います。
買うとすれば、いまはDVDしかないんじゃないかな。
「ダーククリスタル」のジム・ヘンソンと宮崎駿は合作したことがあったよね。
イヴェント用の短編で。
うろおぼえじゃが・・・
上がりましたね。どうもでした、心配性でスマソ。
わたしの使ってる2ちゃんビューアだと、スレの位置がわからないんです。
なのでいつも忘れて気楽に書き込みしてます。
>>505 4900円也。うーん。近々買おうw
合作見てみたい。アニメなのか実写なのか?
DVDで思い出したけど、ビデオテープからDVDにコピーしようとデッキ同士をつないだとき、
たまたま、ビデオテーププレイヤーのチャンネルをDVDからの入力チャンネルに合わせていた。
つまり、テープ→DVD→テープという閉じた系になっていた。
何も再生していないのに、「きゅうーん」という不快な音がして、チェンネル表示などのみの
青い画面が、ゆっくりと溶けていくような映像になって、怖かった…
循環してるっと思うととても不健康な感じがして、不快でありました。
>>507 「気楽に書き込みしてます、なんだかすまない気持ちがしつつ」
と書きたかった。そういう気持ちで書いてたので、その気持ちじたいをかきそびれました。
>>502 CGの「リアルさ」、「なーんか薄っぺら感」ですが、
CGの独自性はコンピューターによる「シミュレート」にあるわけで、それがなければ基本的に
手描き、手作りと変わりませんね?
光のシミュレーション、形、動きのシミュレーションがあると思いますが、
形(モデリング)や動きが完璧でなくても、仮に光の計算が完璧だとしたら、「本物」には見えるはずです。
本物の「人間」は無理でも、本物の「人形」には見せられるはずです。
例えば簡単な「球体」でも、光の計算が完璧なら(人間の目をごまかせる程度なら)、
本物(実写)に見えるはずですが、今のレベルではなかなか厳しいと思います。
光の計算は理論的にはもう出来上がってると思いますが、計算の量が全然足りない。間接光源の量です。
動きや、特に形の理論はまだまだこれからですね。河口の「グロースモデル」もその一つですが。
動きや形はまだまだ手作りによる所が大きいので、「リアルさ」は作り手のセンスの問題が大きいと思います。
それはCG固有の問題ではなく、アニメや実写にも言えることですね。「殺陣」とか。
3D格闘ゲームの動きは、実際の人間の動きを取り込んだ後、すべて修正するそうです。そのままではショボいらしい。
宮崎駿も、ある武術家の動きを見て、「そのままではアニメにならない」みたいなことを言ったらしい。
「〜らしさ」の問題は難しいですね。一流のアーティストはそれを体得している。歌舞伎の女形とか。
「スタシトパ」の虫の場合、そもそも架空の生き物だから、当然架空の動きだよなぁ。
受け手のセンスもあるなぁ。思い込みとか。初めからCGだと思ってると無意識にあら探しするし。
「ハワイ。マレー沖海戦」も当時の人にとっては「本物」だったわけだし。
>>509 ふむふむ、光の問題に関してはそうかもしれないでつね。まあ、自分で簡単な形のレンダリングを
やっても、ちょっと複雑なものになるとえらく時間がかかります。これが動画であれば、解像度も
高く、しかも当然その枚数分だけ時間がかかるわけで、気が遠くなるような作業ですね。決まった
時間の中で完成させなければならなず、しかも、予算も人手も有限とあれば、一定のところで妥協
することは不可避ですから、そういうことも関係しているでしょうね。
それから、「スタシトパ」で感じたのは宇宙船の関連です。虫は別。むしろ、虫たちは違和感が
少なく(架空の虫だから?)感じたでつ。
>>510 「スタシトパ」の宇宙船はなんとミニチュアだよ
CGの中にあるとかえって違和感があったのかな・・・・
>>511 あのデカいのがですか? 真っ二つに折れたりするやつ?
もしそうだとしたら、dvdでもう一度よく見てみます。
映画館で見たときにではなくて、テレビで見て感じたことなので、
自分でもどこがというのは、よくわからないのですが。何となく不自然さを
感じたわけで……。フーム
>>512 むろんCGとの合成なのだが、
「ミニチュアの宇宙船を撮りたかったんだよう・・誰もわかってくれないけど」
っていうバーホーベンのコメントが紹介されていたょ
ただ、バーホーベンは客を煙に巻くのが好きだからな・・・・・
「原作は撮影の途中で読んだ」とか・・・・
んだから嘘だったりしてw
>>513 嘘かまことか、とにかくDVDを借りてみてみます。いつ借りに行けるか、ちょっとわかりません
けど……
あのごちゃごちゃしたのがミニチュアだったというのは、ちょっと信じにくいですが、とにかく
確認してみまつ。(見てもわからないかもしれませんが)
サラウンド再生に、すごく違和感を感じて気色悪いので、オーディオマニアのところで映画
鑑賞会をする時も、わがままいって背後のスピーカーは使わせません。
(微塵さんは別スレで好きだと書いていましたね。)
振り返っても、音源のないところから音が聞こえるのが変な感じなのかなと思っていたけれど、
そうではなくて、
>>509、の音版としての違和感なのかなぁ。
現実には、音を反射しやすいもの、吸収するもの、聞き取れない音を出しているもの、
いろいろあるから。
現実で自分が指向性をもっていない音が、クローズアップされる違和感もあるかも。
>>467、
>>487 映画の字幕に違和感をあまり感じないのは、視覚から取り込まれた文字情報を聴覚に
置き換えることがたやすいゆえでしょうか?
>>515 うちも、5.1chにしていません。2chステレオです。
映画館でも、あまりサラウンドに感心したことないんですね。でも、
一度は5.1ぐらいやってみたいと思うんですが、そんな金があったら
2chのグレードを上げたいとか思ってしまうかも……。
半端なオーディオ好きなもんで。
ついでの話。
中途半端なオーディオ好きと上に書きましたが
本当にいいオーディオって、あまり聞いたことがありません。大昔に自分ちでしばらくとても
いい音で鳴っていた時期もあったんですが、それ以降一度も満足する音がでた試しがありません。
そのために、オーディオへの資金注入優先度が低くなってしまい、今でも結構古いアンプを
使っていたり、スピーカーに至っては、つい最近まで30年近く前のものを使っていたりしました。
音を決めるのは、入り口と出口だと思っているのですが、大抵入り口がだめです。当たりません。
CDは音が悪いと思い込んでいたのですが、音のいいCDプレイヤーというのもあるようで、そんな
ものが欲しいと思うんですが、何を買っていいのやら。そんなわけで、今でも不満だらけの装置
で聞いてます。関係ない話でした……。
ハリウッドの映画では、CGだけでなく手描きの「描き割り」もよくつかってますね。
ちょー細密に描かれた奴。見てても全然気がつかない。人の目を騙すだけの情報量がある。
確か「ダイハード2」?のエンディングの空港のシーンがそうだと思った。
地味だけに気付かない。
映画ではさも当たり前のようにBGMが鳴っているのに、違和感を覚えないのも
不思議といえば不思議。むしろBGMが全くない映画の方が違和感あるだろう。
そのほうが現実的ではあるはずなのに。
BGMのない「ロッキー」とか有り得ない。
「ニューシネマパラダイス」も曲が来るなぁ。
曲が変わってしまうだけで全然別の映画になってしまうでしょうね、きっと。
視覚が直接光だとしたら、聴覚がそれに対して間接光のように働いているかな。
519 :
考える名無しさん:03/09/25 23:46
2chとか言うからここのことだと思って読んでしまったじゃないですか。
どう責任とってくれますか?
あげてしもた。スビバセン。
>>519 座布団2枚上げて
>>518 書き割り、マットペインティングですね。あれもすごい。恐ろしいところでマットを使いますね。
メイキングを見て、時々びっくりします。え、あれ絵なの!? てなもんで。
>>515 > 映画の字幕に違和感をあまり感じないのは、視覚から取り込まれた文字情報を聴覚に
> 置き換えることがたやすいゆえでしょうか?
文字の知覚、というのは、このスレによって立ち上がった興味ある領域なんですが、まだがっ
ちり向き合ってない・・・。
なぜ映画の字幕に違和感を感じないのかは、慣れたからだと思います。
通常の言語の働きと第一に関わるのは聴覚だといっても、文字を読む際に「文字情報を聴覚
に置き換える」ことは必須ではないです。
「言語の働きと第一に関わるのは聴覚」と前に書いたのは、以下のようなことです。
言語習得にとって聴覚は必要不可欠ではないけれど、言葉を聞き取れる程度に聴覚が働く
者は、言語習得の過度期では聴覚で言葉を得ていく。
その後文字を習得しても、文字は言語使用のごく一部で、それ無しのダイアローグ、モノロー
グにおいて言葉は、「聞こえる−語られる」ものとしてある。
(続き)
しかしまた、聴覚的言語も一部である。(487では「メイン」と書いたけど、あれは語りにおいてっ
てことで… 苦しいか)
それ以外の言語として、まず文字があり、記号がある。
さらに、頭の中にある「方程式やグラフ」などの、思考の構造というか、論理的な処理をするもの
も言語の一種だと思う(←曖昧…)
そして、微塵さんの「かたち」。
あと、大三元さんの
>>494には、「言葉を黙らせて」とあるけれど、それは聴覚対象の言語なん
で、やっぱりそこにあるものも言語だと考えてます。
なんだかいろんな言語がありますが、聴覚的でなければないほど、世界の一部というか、世界の像、
あるいは世界の形式、さらには世界そのもの、そういうものとしての言語なんです。
>>519 むふふ。わたしだけじゃなかった。
>>521 わはは。
>>518 > 曲が変わってしまうだけで全然別の映画になってしまうでしょうね、きっと。
重要ですね、音楽。
良い効果のもたくさんあるけど、台無しにする、という思いの方が先にわきます。
北野武の『3-4x 10月』はたしか音楽ない。だからじゃないけど、かなり好きです。
ちょっと告白しますが、今、言語について何も考えられなくなっています。勉強不足ということも
間違いなくあるんだけど、それ以上に何か別の要因があるみたい。頭のなかがどうなってんだか、
全く困ってしまった。そんなもんだから、しばらく言語関係については発言できないかも……。
「脳のなかの幽霊」、結局アマゾンに注文しますた。まだ半分ぐらいしか読んでないから。
>>517 俺はチャリに乗ってポータブルMDプレイヤー
という状況でしか音楽を聴かないようになってしまったので発言権ないと思いますがw
ポータブルMDプレイヤーの音の良さには驚きますた。
ウオークマンの頃とは比較にならない。
回路が短かいという好条件が生かされるようになったのでしょう。
(ヘッドフォンは少し高い目のに買い換えてますが)
>>522 慣れですか。実は、私も半分「慣れかも」とも思いながら、もしかしたら違う答えが
返ってくるかもと思って書いてみたのでした。
微塵さんに質問。
1.文字、話し言葉以外のどんな媒体に言葉をのせてみたいですか?なんでもありで、ちゃんと
ほかの人に伝わるとして。
2.口述筆記が自然に自由にできるようになったら、使います?
>>527 味気ない返答、と思いながら書いてました。何か、それ以上のことがいえたらいいのだけど…
話がずれていくけど、まつわることとして思ったのは、さいきんすっかり当たり前のようになって
いる、バラエティ番組などでのテロップ表示のことです。
音声を文字表示するとインパクトが強まるってことですが、この逆には、同じ効果はない。
書かれてる文や語に打たれたとき、その強さは、音読しても増大しないです、わたしの場合。
黙って繰り返し読むばかりだし、他人にそれを伝えたい場合でも、読んで聞かせるよりも、
見せて読ませる…。
同一の文を聴くのと読むのとの差は、どんなものだろう。
同一の文を読む際にも、さまざまな状況によってその読みが変わる、そのような違い以上の
ものは、ないような気がする。
>>527 「慣れ」というより、映像と字幕では競合しない脳の機能を使うからではないでしょうか?
並行処理が楽な組み合わせなのだと思います。
たとえば、頭の中で整数をカウントしながら、周囲にある本のタイトルを暗誦することは楽に
できます。やってみると変な感じがしますけどw
カウントを速くしてゆくと、競合しはじめます。
>>527 1.なんでもありと言われると、空想はどこまでも広がってしまいますが、ふだんから考えている
のは触覚媒体です。
肩をもんであげたり、痛むおなかをさすってあげるときは手や指先で話しかけています。
そういう気分を援用して、指先で相手のからだのあちこちをリズミカルに叩くことで話してみた
いです。そのときは互いのからだがキーボードです。黙って表情だけを示したいときには掌を
当てたり撫ぜたりします。
その世の中ではみんなが可塑的な人肌の感触の物質を持っています。こね回してある立体を
作り、かたちを固定します。これが言わば彫刻文として、メモや短いメッセージに使われます。
余談ですが、ヘレン・ケラーは散歩しながらいつも指先を細やかに動かしていたそうです。
彼女は掌に文字を綴り合うことによって対話したので、指先で独り言をつぶやいていたわけです。
2.使います
529を書いてて、「かたち」の比喩を思いつきました。役立たずな表現かもしれないけどw
「書道のしぐさで彫り続けられる彫刻」
『書と「共通感覚」』という書道批評の本があって、たいへんめずらしい本です。
倫理学のジャンルに倫理学と銘打ったたんなる道徳の本が多いのに似て、書道という分野も
筆法としての理論はたくさんありますが「書道」の理論はあまり見当たらないので。
この本に、臨書の際の御手本は写真で拡大したものを使うのではなく、できるなら真筆を、
さもなくばせめて原寸で、という意味のことが書かれています。
書道という芸術は、作品が作者から独立しない。筆跡があらわす時間の経過と、ほの見える
筆者の肉体の仕草も、「作品」の要素だからである。
ということだそうです。
「へぇ〜♪」と言いながら読みました。
あ、ちょっと補足したほうがいいかな。
手本が原寸でないと好もしくないのは、浮かび上がってくる肉体が(原寸で)見る者の肉体に
重なってこないからです。
>>529 >「慣れ」というより…
あ、本当だ。映像と字幕は、頭の中で響く場所が別みたい。カウントとタイトル読むのも
意外に混ざらないものですね。頭が自然にこなせる処理なので、変!って思わないのかぁ。
この説は、かなりしっくりきました。
>>529〜532
なるほど〜。
逆に、自分の言葉・文字観に「たぐると人にたどり着く」感じが無かったことに気付きました。
触覚媒体、いいですね。嬉しい言葉をなぞるのは、楽しいだろうな。
>>529〜532
↑いや、もっと何かあるのだけどまだよくわからなくて、とりとめもないことを書いてしまいました。
>>533 触覚対話ができるようになったら、口ではロマンチックに語りかけながら、
指で思いっ切りえっちなことを言ってみたりしたいです。
人呼んでサラウンド口説き☆
>>535 >指で思いっ切りえっちなことを言ってみたりしたいです
触覚媒体、想像しちまったじゃねーかよ ・・・
しかも
>>533の>・・・をなぞるのは、楽しいだろうな。 とかに絡めて
「ココこんな話じゃないよね明らかに。」 でもでも
行き着く先は究極思考、的成長過程をドキドキしつついつも見てます。
皆深いよなぁって感じです。
思考レベル僕から見て(も)少しハードルが高いのでROMってばかりで情けないですが
でも、どうしてもっ
>>535に突っ込み入れたくてついつい・・・ダッシュ!
>>494>>495 間があいちゃったが「ダーククリスタル」同志ハケーンw
異世界ファンタジーの原型的イメージ連発。
当時は「やっと王道ファンタジーらしい"絵”を視覚化してくれた!」つーことで狂喜しておりま
した。
円谷英二の職人業はすてきでしたよね。
「ハワイ・マレー沖海戦」は、軍艦の空撮のアングルで、プールだと航跡のスケール感が出な
いので、糊を薄く敷いて、その上でミニチュアを滑らせて撮影したとか。
飛行機は吊り糸が見えないように、逆さに吊って下から撮ったり。
米公開時は特撮と信じてもらえなかったという逸話がありますな。
ウルトラQやウルトラマンのアブストラクトな渦がぐるぐるっと回ってタイトルが浮かび出るオー
プニングも、糊の上に字を書いて、糊のなかでプロペラふたつ回してぐちょぐちょにしたフィルム
を逆回ししている。
>>529 > 「慣れ」というより…
>>533 > この説は、かなりしっくりきました。
わたしも。
>>530 「書道のしぐさで彫り続けられる彫刻」 役立ちます。
>>531 これは興味津々。書き文字鑑賞家としては!
>>536 どうもw
その想像、今度は指と口ぎゃくで、いってみよう♪
あ、そうそう『ティンカー・クリークのほとりで』の「見ること」の章の後半部に視覚障害者たちの
開眼体験のいきいきした報告があって、とっても詩的で刺激的です。
しかしガテンコも人が悪いw というかおもしろい人だ。
>>539 >その想像、今度は指と口ぎゃくで、いってみよう♪
かもめちゃん、最高。
>>540 そのくだり、もっとも印象に残っているところです。
人が悪い?w ティンカー・クリークのこと?
それとも某スレのこと?なら、スレ違いですよ〜。w
追記
ティンカー・クリーク、久しぶりにひっぱり出してきてびっくり。
以前読んだ時よりもたくさんのことが書いてあるではないか。
>>541 「なかから光ってる木」って印象深い。常人にはできない表現。
健常な空間知覚ではまちがってるもんね。
>ティンカー・クリークのこと? それとも某スレのこと?
両方の意味でw
>>537 sfxが好きなので、メーキングビデオとかを見るのも好きなんですが、アメリカと日本のその世界
の違いについて、しばしば考えてしまいます。日本(あるいは東宝)の特撮が円谷さんで止まって
しまったのはどういうことなのかということが、一つ大きな問題としてあると思います。そして、
一部を除けば、今も変わっていません。きっと経済(予算)絡みの問題もあるでしょうが、それだけ
ではないと思えます。個人個人を見れば、日本のオタクたちの嗜好や志向は、アメリカのそれに
劣らないどころか、むしろ長い目で見れば世界をリードしてきた面もあると思うんですが、映画を
つくるシステムということになると、日本の特撮の世界は本当に閉じた世界のような気がします。
伝統はあるんだけど、それが逆に足かせになっているような気がするんですね。何でしょうか、
これは。て、単なる愚痴ですが。
美しいものシリーズ。
海の浅瀬で、日の当たっている水面を見ると、海面で屈折した光が水底に光の模様を描き出す。
海面が揺れているから、水底の光も変化する。水面のきらめきと水底のうごめく光の網が交錯して、
ちょっとめまいを起こしそうな感覚が襲ってくる。
スキューバとかやる人はよく見る光景だと思うけど、海面の波紋が水中の魚の表面をスクリーンに
して、波の形を映す。でも、僕はスキューバなんかやらないので、現実に目にできるのはこういう
もの。それにしても、潜れる人かうらやましい。水と光の極上のパフォーマンスを直に見られる。
時々テレビでそういうのを見ては、ため息ついてます。
ちょっと違うけど、よくある表面に細かくひびの入った陶器があるでしょう。これに日が当たって
反射すると、その反射した光がテーブルの上に、これまた何とも言えない絵柄を描きます。その光
を何とか人工的に再現できないかなと思ったことがありました。間接照明にぴったりだと思って。
懐中電灯などでやってみたが、これは今いちだった。実現可能だと思うんだけどなぁ。
オートポイエーシス――システム理論の第三世代?
2冊ほど本を買ってみましたが、なかなか読めません、てゆうか、読んでも頭に入ってきません。
何だかな〜。これは何なんでしょう。おもしろそうではあるんだけど、そこから前へ進めない。
ネット上で見られるテキストを読んでも、書いている人自身、わかっているのかどうかがよく
わからない。これは何か変ですね。アフォーダンスよりも変!
>>547 同感されてもな〜w
まだ本腰を入れて読んだわけではないので、とりあえずの感想にすぎないんだけど、これ本当に
理解可能なんだろうか。ねえ。
それと「脳のなかの幽霊」は届くのが今月末だって。在庫がなくて取り寄せに1カ月。
どういう……
店頭在庫、ということは版元にも在庫なしっていうこと? もう新本は手に入らなくなるわけだ。
まだ半月も先だ、早く読みたいのに。ブーブー。
取次か営業に頼んで回収してもらうのな。
つーことは、じき品切れかー。あの名著が。
>>545 ウォーターライトだっけかな。
ライトの上部に水を入れるドームが付いててね、それが微妙に揺れるの。
すると天井に水の紋様が踊って、水面下で寝てる気分。
これも美しいです。
>552
それ、テレビでは見たことがあります。かなりいいですね。自宅にも欲しいかも。
美しいものは「美しいもの」という名前を頂くまでは、なんだったんだろう。
やっぱり、「怖ろしいもの」「気持ち悪いもの」「美しくはないけれど心地いいもの」
などとは違うものなのでしょうか。
オートポイエーシス、初めて聞いた。何だろう。最近考えすぎて、地に足がつかなく
なってきたので、均衡を保つ為に、ぐぐることもやめておく。続報は歓迎。
寄生解けたっ!
>>545 >水面のきらめきと水底のうごめく光の網が交錯して、
>ちょっとめまいを起こしそうな感覚が襲ってくる
八割方同意。水底に写るのもイイですが、魚の表面に写るのもイイですが、が、
個人的には女体の表面に写るのが一番イイと思いまつ。てへっ。
>その光を何とか人工的に再現できないかなと思ったことがありました
「ガレ」のランプシェードなんかにそういうの有りそう。ダチョウの卵なんか加工してみたら
面白そう。細かく割った殻を張り合わせるとか。割るなら別に鶏のでもいいか。
CGの話をした時に、間接光、環境光の話はもう少し突っ込んでみようかなと思ったのですが、
規制にくじかれてしもた。が、あらためてぼつぼつと。
三分間証明写真を撮るときに膝の上に白いハンカチを敷くと、それがレフ板の役割をして、
顔が明るくすっきりと撮れるそうです(ところで膝の上ってのは実際には腿の上だね)。
ハンカチが一枚加わるだけで、撮影室内の景色がその反射光に影響されます。
逆に言えば、ハンカチがない状態でも、そこにある例えばズボンなりスカートの生地の
反射光が、顔の印象にも影響を与えているということです。気付きにくいだけで。
目に見えるすべての物体は、お互いを幾重にも写し合った合わせ鏡なわけですね。
どのくらい写すのか程度の違いはありますが。
この辺は俺の世界観にとって重要です。
今オモタのは、オイラの世界の中で「光」は言語的に振る舞うなあと。
オイラが視覚的な思考をするときは、「光」的言語思考なのかにゃぁと思った。
今まで気付かなかった、見えなかった間接光が見えるようになった時というのは、
何やら興奮する瞬間です。解像度が上がったとき。
>>546 同感ですw
>>考え中
どこかのスレで「ウインドトーカーズ」という映画を俺が紹介したって言ってたけど、
そんな覚えないよ。俺その映画観てないし。誰かと勘違い?
>>ガテンコ
何やら決意なさったようで。かんばれ。
草葉の陰から応援してます。
>>554 「美しいもの」は、名付けられるまでは何でもないもの。おそろしいもの、気持ち悪いもの、
美しくはないけれども心地よいもの、みんなそう。そのように気づく前には、そんなものは存在し
なかった。
ポール・マッカートニーの古いアルバムに「wild life」というのがあります。このLPの
ジャケットを初め見たときには、何だかごちゃごちゃした変な写真だとしか思っていなかった。
ところが、あるときその写真の意味が初めてわかったんです。それは、美しい森の中の川辺で
撮った写真で、ごちゃごちゃしていたのは、森の木の葉たちでした。近景のものがぼやけていて、
ピンとが合ったところは、はっきり見えるというもので、木立の中の遠近感がそれで表現されて
いたわけです。
これとは別に、例えば港に船が停泊しているときに、船体に水面の波紋の照り返しが映ります。
これも「美しいもの」に入るものなんですが、
>>555の大三元の発言にあるみたいに、ある時まで
気づかなかった。
かように、「美しいもの」は、それとして名付けられる前は、何でもなかったのです。美しさも
醜さも、すべて僕たちのあり方そのものであるようです。
>>556 「ウィンドトーカーズ」については、僕の勘違いで間違いないでしょう。多分、ポコたんへの
返答だったと思います。スマソ。
>>555 間接光については、見える、見えないというのが確実にあるような気がします。これが、しかも
言葉とも関連している。何だか恐ろしいことです。人の感覚って何なんだろ。
人の感覚が多様で個人差が激しいということは知られていることだと思いますが、これをまじめに
比較研究した人はいるのかな。あまりにも相対的かつ多様なので、研究対象には向いていないの
だろうか。どないでっしゃろ。
ルノアールの「陽を浴びる裸婦」という画がありますが、
裸体の表面に写る木漏れ日の描写が、当時は「死人の肌のようだ」と評されたそうです。
この話を知ったときに、自分ではとても腑に落ちた感がありました。
「あー、始めから見える物ではないんだ」と。
印象派以前と以後では、画家達に見える景色は劇的に変わってます。
それまでは見えなかった物が見えるようになっている。
それ以前の西洋画には、「固有色」という決まりがあったそうです。
リンゴは「リンゴ色」の絵の具で描くと。それこそ「死体の肌色」なんてのもあったらしい。
ルネサンス時代は絵画は薄暗い工房で、固有色の絵の具をゴリゴリ擂りながら描く物だった。
速乾性のチューブ入り油絵の具が発明されて、外で陽の下で色が塗れるようになったからこそ、
「見えるように」なったらしい。テクノロジーともリンクしてるのね、当然だけど。
アフリカのどこかの部族?には色を表す言葉が三つしかないらしい。
彼らにとって世界はどう見えるのだろう?
関係ないけど、最近のエレベーターで「開」「閉」のボタンが、
[<│>]、[>│<]
となっているのが、うまく認識できません。どちらを押せばいいのか迷ってしまう。
慣れの問題だろうけど。
>>558 多様性もあるけど、主観的な感覚の違いの程度を客観的に表す方法が無いと思ふ。
クオリアを解明しないとw。
でも、人の感覚がパラメータ化されたりするようになったらなんかヤダ。
マトリックス実現の為には必要かな?
>>559 程度問題ではなくて、はっきり見える、見えないという差異が検出できるのではないかと思うんです。程度問題であれば、全部グレーゾーンということで、問題はないんだけど。
僕が一つ明確に不思議だと思っているのは、写真や映画における光の表現です。印刷技術や
写真技術の進歩に帰着するのかもしれないけれども、これと感覚の変化とを関連づけてフォロー
するような研究というのもあり得るかな? 写真や映画はまぶしい光をいつから表現できるように
なったのか。あるいは、単に僕がそれを知覚できるようになっただけなのか。素朴な疑問です。
ルノアールにおける光の表現も、見える、見えないは明確に関係しているように思います。
エレベーターの話で、2、3日前に僕の女房が同じことを言ってました。僕もときどき、ふっと
わからなくなることがあります。
>>560 見える,見えないはもちろん明確にあるだろうけど、確認の方法は自己申告に頼らざるをえない。
一昔前に流行ったステレオグラムでも見える人、見えない人いるし、極端な話、幽霊とか。
見える人と見えない人の違いを生み出す要因はなんなのか。
ステレオグラムって、目をある焦点で固定し続けると、ある瞬間から急に見えてくるよね。
絵自体が変わるわけではないのに、ある時間見続けると脳が気付く。
オイラは幽霊が見えないけど、もしかしたら「まだ見えない」だけかも?
脳が(?)「幽霊」を見る原因がなんであれ、なにかのきっかけで「見える」時が来るかもね。
文化による見えの違いってのは何気に大きいですね。
イチローや松井の向こうでの似顔絵を見ると。。。濃い。
>写真や映画における光の表現です。
頭に思い浮かんだのは光の国から来た彼のスペシウム光線です。
>>561 見える、見えないについては、「脳のなかの幽霊」にしばしば登場する様々な実験法がとても参考に
なるような気がします。どこかのスレで微塵が「死角」ということを言っていたと思いますが、
これも同じような問題かもしれませんね。人間には共通の死角が存在しているのかもしれない。
誰にも見えていないから、問題にすらならない。しかし、それは確実に存在しており、僕たちを
支配している。そりゃ、言語かい? わからない。
昔々浅田彰?の本を読んでいて、ラカンの話が出てきて、虚焦点だか、何とかゼロといったか、
そういう見えない、語り得ない何とかというのがあったのを覚えている。僕は、その発想を即座に
自分のなかでしりぞけた記憶がある。それについて、「否定神学」という考え方を最近知った。
これらは、とにかく見えない、知り得ないものがあるということをめぐる思考の話だと思う。
僕のなかにもこれと同じような視点は、ラカンなどとは別に確実にあって、それをめぐって
ウロウロしているというが、現状なのかもしれない。
「脳のなかの幽霊」の半側無視の症例はインパクトあった。
ありあわせの知覚で安定した内的世界観を築こうとする、ある意味正常な反応が
すさまじいアクロバティックな世界像を形成してしまう。
逆らえない実感の力はつくづくすごいと思った。
これも「見えない死角」の様相のひとつですね。
見えているが、見えていない、そんなことがいっぱいあるような気がする。何か大事なものが、
見えていながら見えていない。僕たちは、そんな状態で毎日を過ごしているような……。
まれにそれが見えることがある。それは強い印象を与えるが、時がたつと忘れてしまう。それが
すごく大事な、大切なことだということはわかっているのに、中身は思い出せない。そんなことが
たーくさんあるような気がする。(内容がなくて申しわけない)
書き留めておかなくても忘れられないアイディアや感動って、そこそこのものだと思うのです。
しょせんは自分ごときに理解できる発想だから。
最高のアイディアは、書き留めておかないと忘れてしまうような、かすかなものの中にある。
もしかすると、一生に一度しか思いつかないような、頼りない発想の中に。
アイデアを書き留めておくというのも、習慣化しないといざというときに役に立ちませんね。
もともとそういうことはほとんどしたことがなくて、ほぼ忘却の彼方です。
半側無視って、世界の半分が頭から消えてしまって、本人は気付かないんだよね。
本人にとっては半分の世界が正常なんでしょ。なんか脳ってスゴイよな。かなわねー。
結局わ脳に見える物しか見えないのか・・・。
世界中の人間がその症状になったとしたら、この世界は・・・。
イルカのエコーロケーションって、位置だけでなく、細かい形まで解るらしいね。
それは目で見た形ともリンクしてるらしい。イルカはどんな世界を見てるんだろ?
自分に見える物が全てではないと思えると、少し謙虚になれるかな。不安にもなるけど。
「脳のなかの幽霊」が届きますた。これからまた少しずつ読みます。
結構刺激的な本であるので、楽しみつつ読みたいと思います。
考え中さん。「目的の破棄」についてです。
質問する前置きとして、前スレの書き込みのコピペです。
微塵さんの書き込みと、それへの考え中さんのレスの前半。
525 名前:1 投稿日:03/05/31 19:39
417さんが内面の動機周辺を語ってくれたので、私もそのへんを。
私が「断裂」や「瞬間」を重要視する動機は明白です。
今しも死のうとする自分や、今しも死のうとする誰かを、説得するための思想だから。
現在が絶望であっても、常に次の一瞬には希望があり得るということ。
一瞬の余命があれば、人生は生き続ける価値がある、という主張の根拠だからです。
だから、私の思想は実用上のバイアスがかかっていて不純ですね。
526 名前:417 投稿日:03/05/31 19:48
それ、リアルでとてもよくわかる。思想って、そういう時に役立たないで
何の意味があるんだよっていう気持ちも、僕の中にはあります。
目的を持って考える、ということは、その考えにバイアスがかかるということです。
目的の破棄とは、これを破棄しようとすることですか? それならわたしも同じです。
ここでは、できるだけ、微塵さんの「目的」に当たるものから離れて、一般的に考えたいの
ですが。
昨晩、チャットをして、わたしが「目的を共有していないと考えの共同作業というものは難しい」
というような発言をしました。
それに対する考え中さんのレスは、「目的は目的の破棄です、なんてね」で、わたしは、
「それなら同じだ」と返しました。
自分のことになってしまいますが。
わたしが人と話をしたり、本を読んだりして、大きな隔たりを感じるのは、そこにある考えが、
「世のため人のために役立つ」ためのものである場合です。
けれどわたしも、強い動機があって考えます。
でも、同じ思想を共有してもらおうとはしません。
他人にわかってもらおうと努めるけれど、まずは違いを明らかにするためにそうする、
とちょっと極端ですが、いえます。
自分の考えが、自分のためだけでなく他人のためにもなるとは思ってはいるけれど、
実際の他人は自分とは違うから、もし人のためになったならそれは幸運だったということ
にすぎません。
幸運のために、他人に言葉を投げかける、広い海に釣り糸を垂らすというイメージを
持ってます。
なんだかこう書いてると、自分の考えがとても個性的であるように思い込んでるみたいですが、
そんなことは、けっしてないのだけど… 少なくとも内容は、ありふれてます。
「隔たり」があっても、話はつづけられます。←念のため
とっても上手く書けていないので、悪あがきします。
取り払うバイアスをなすような目的というのは、
全体に比較的即効性のある、実用的・具体的な思想であろうとすること、です。
考え中さんは、さいきん他スレで、
「それでは何も解決しないと思う。解決しなくてもいい ということなのかなぁ?」
と書かれてました。解決しようとすることは、そのような「目的」を保持すること、
と、ここではみなしてます。
もちろん、何らかの目的はありますね。破棄しつづけていたら、何も残らない行為に終始します。
それはそれでいいけれど、チャットでの話は、何かを成そうという試みのように受け取りました。
>>570で引用されている別スレ525のレスにおいて、ぼくが表明していることは、
「動機はすべて不純であり、思想の機能とは、ひとつのものと定義されているもの(たとえば
個人、たとえば社会集団、たとえば種、たとえば世界像)のなかに矛盾や葛藤があるとき、
それを調停するものだ」という<思想>です。
調停しようとする理由は、自分あるいは誰かの判断に対する判断力を保持するためです。
判断に対する判断力を保持しようとする理由は、判断の根拠をできるだけ視界に入れておく
ためです。
根拠を視界に入れておこうとする理由は、まるで無根拠であるかのように強制的(擬先験的)
に作用する心理的な力を(個人としての、種としての)経験に差し戻すためです。
差し戻す理由は、自由であるために、です。
自由を選択する根拠は、このレベルにおいては選択することに意義があるのは自由のみだ
からです。
そしてここから「仮に自由を不純としてみた場合」の、如上と同様の過程が繰り返されます。
このはたらきに際限はないので、これは日常的な態度として表出します。
道徳は本能に擬態します。
擬態を可能にしてくれるのは言語のもたらした恣意性です。
擬態が本質であるようにはたらくことができるのは、
心理的な力動を命名すること(持続的な約束として定義すること)ができることによってです。
ここで「命名」と呼ぶのは、改名を抑圧するような名付けのことです。
成熟してから後は、名付け・判断・定義はすべて暫定的(擬態的)なものです。
しかし幼少期の定義=擬態は解除が困難です。相対的に受容するに足る余裕がないなかで
定義されるからです。
言葉が教えてくれることは、「すべてが擬態である」ということです。
このことによって、言葉を信頼する人もいれば
このことによって、言葉に不審をいだく人もいます。
それはおそらく自由の定義(擬態)のちがいによるものだと思います。
たとえば半側無視の人が独特の世界像を仕立て上げる様相は
幼少期の隠喩だと思います。
>>559>>560>>561 見える、見えないの観点で印象的だったのは、川田順造のアフリカの無文字社会のフィールド
ワークです。
その部族では太鼓叩きが神聖な職務で、歴史は音楽として伝承されているのです外部の者が
聴いても、なにがなんだかわからない。
じつは、太鼓の音色が代々の王の口調や態度のモノマネになっていて、長大な王統史を形成
しているわけです。
生前の記憶が残っている先代の王あたりだと、太鼓の音から「ああ、先王がよみがえった
ようじゃ・・・・・」などと思う。
一般に無文字社会の成員は、音韻に非常に鋭敏で記憶力がよく、聞いた話を細部まで憶えて
います。
カタコトで日本語をいくつか教えると、たちまち正確な発音を会得する。
十数年ぶりにおなじ集落を訪れると、「コンニチハ!」と、ふつーに呼びかけられて驚くw
文字のない社会では、時間や空間の彼方に思いを馳せるとき、あるいは神話的な想像力が作動
するときは、祝祭や口承のなかで、つまり開かれた場で、集団のなかで行われます。
それが文字が生み出された後には、記すときと読むとき、独りで彼方に想いを馳せる時間が定着
する。
文字が、個を尖鋭化するはたらきに一役買っていいるのではないか?という仮説は刺激的でした。
歴史は音楽として伝承されているのです
↓
歴史は音楽として伝承されているのですが
無文字社会に生まれた子供を、早い時期から文字のある環境で成長させれば、問題なく文字
使用を会得します。(学齢期にさしかかってから初めて文字を習得した場合には、どうしても本
を読んで学習するより講義による学習のほうが効率がいいようですが)
無文字社会のほとんどはおそらく、歴史上一度も、文化的に文字を使用する機会がなかった
でしょう。
しかしそれでも脳は待っている。一度も出会ったことのない文字に、いつか出会うことを想定し
ていたかのように。
個人が文字を会得することが、あまりにも容易であること。
そして、それなのにある社会が、文字を生み出さぬまま時を重ねることもできるということ。
これはどちらも驚異だと思います。
>>570-573 「ズバッとお聞きします」が結構長くなりましたね。これに答えるのは、僕の頭のなかにある
「目的」という概念について、いろいろ考えてきたことを言わなければならないのだと思いますが、
今ちょっとさらっと言えません。ですので、少し答えは待ってください。チャットでその場で
パッと思ったことを書いたので、どこまで責任が持てるのかと問われれば、ちょっと難しい
ところもありますが、少し考えまつ。
>>580 すみません…
こういうわけなんで、あの場で聞けなくなってしまったんでした。
「ズバッと」と書いた時点では、
「何か考えるならそれは、社会的に無用であってはならないと考えますか?」
というようなことを尋ねようとしていたのですが、これではあまりにも言葉が足らなくて。
責任を問いただしたりしませんし、正面からの返答でなくてもいいし、のんびりでよいです。
>>574 >>570に引用した前スレ525中の「実用上のバイアス」は、思想において破棄の対象には
なりえない類のバイアスだと確認しました。
例として例外的なものを引用するという、混乱を招くようなことをしたのは、
その書き込みがとても印象深く残っていたからというのと、その内容がよいので、
この機会に便乗して、もう一度人の目につきやすい場に置きたい、という思いが
湧いたためなのでした。
おかげで、またとっておきのことが読めたので、よかったです。
とくにここ。
> 根拠を視界に入れておこうとする理由は、まるで無根拠であるかのように強制的(擬先験的)
> に作用する心理的な力を(個人としての、種としての)経験に差し戻すためです。
> 差し戻す理由は、自由であるために、です。
チャットでどういう展開になったのか、わしらには分からんぞーw
おはようございま〜す。(久しぶりのパターンですね)
>>583 チャットで話したことって、たしか僕の理想は、個人でではなくコラボレーションによる思想的な
作業だと思っていること、できればオンラインでチームを組んで理論的なことでできればいいなと
か言って、かもめさんが目的が一致すれば可能だとか言って、僕が「目的は目的の廃棄です。
なんてね。」と言ったのです。チャットですから、ふっと思ったことを書いたんですが、長い間
そうなればいいなと思ってきたことでもあるので、パッと書いてしまいました。
そして、落ちる間際に「ではズバッとお聞きします」と言われて、でも結局そのときは、かもめ
さんはズバッと聞かなくて、かわりに570-573になったわけです。
こんなものでしょうか、合ってますか? 何か欠落や勘違いがあれば、よろしく。>かもめさん
>>583 >>571の後半に書いたつもりですが、そこにある「考えの共同作業」というのは、考え中さんの
一つの理想で、考え中さん自身、はっきりとしたものを想定しているわけではないです。よね?
一人で考えて何かまとまったものを書き上げるのではなく、他人とのコラボレーションの中で
考えていきたい、と言われたのでした。
わたしはまず、それなら2ちゃんはいい場所だ、と言って、その後、
>>571に書いたやりとりをし、
さらに、「目的の破棄」ということで考えていることがどのようにどれくらい違うのか確かめようと、
「ズバリ聞きます」といったはいいが、チャットでは言えず、ココに持ち越させていただいたのでした。
>>584 いいですよね、それで。よかった、コラボレーションについて本人の説明があって。
長く2人で話をしていたわけではないんですよねー。3人になったり4人になったり。
最後は、わたしが落ちるといいながら居つづけて考え中さんを引きとめた(笑) スミマセン
>>574−
>>579 とても面白いです。「……幽霊」の中には、神経学的なさまざまな仮説のようなものも述べられて
いて、その中には印象的なものもあるんですが、微塵の取り上げ方はさすがというか、大いに参考
になります。僕はまだ途中ですのでこれだけにしますが、まだまだかかりそう……。(ハァ…
川田さんの本って、たしか買ったような、読んでいないような……。
おはようございます。引き続きまだ話せることはないのですが、幾つかの概念について、これまで
の枠組が壊れてきたようです。これはこれでいいようなので、引き続き忙しい仕事にかまけつつ、
時のたつのをまちたいと思うでつ。
おはようございます。
半側無視のあたりを読んでいますが、なかなか読み進めません。難しいわけではないんだけど、
何となく引っ掛かり続ける。
同時に、オートポイエーシスも少しずつ読んでいるんですが、こちらはなかなか理解できない。
「入力も出力もない」というのは、とても面白いと思っているんですが、とにかく抽象的なので、
何を言っているのかがわからない。コマッツ!
>>579 日本で育って、「文字」って人間にとって当たり前に思ってしまいがちだけど、
考えてみれば未だに文字のない文化もあるし、文字のある文化圏においても、
日本のような文盲率の低い国は、むしろ少数派なのかな。
「かな」の発明は文字の敷居を低くしてくれたとは思いまつ。
未だに文字のない文化があるって事は、数千年の間、進歩していない文化が
あるって事ですね。我々が歴史を語る時に陥りがちなのが、当たり前のように
進歩(進化)してきたし、これからも進歩するという意識だと思います。
微生物から人間に進化してきたという、あまりにも細い道だけしか見てない。
三十数億年の間まったく変わろうとしなかったバクテリアもいるし、
変わり続けようとした(させられた)バクテリア(我々)もいた。
いずれにしても生き残って現在まで続いているというだけで、
圧倒的に少数派で、奇跡的だと思いまつ。
我々がいる細い道がいつ切れて、多数派の方に回ってしまったとしても
何の不思議もない。
オイラ的には、変わり続けてきた者の子孫だから、これからも変わっていくこと
にはやぶさかではないです。
>>572 >幸運のために、他人に言葉を投げかける、広い海に釣り糸を垂らすというイメージを
>持ってます。
「釣り」ですか(笑)。
・・・などと、糸を垂らしたりしてみる。
>>575 > 言葉が教えてくれることは、「すべてが擬態である」ということです。
> このことによって、言葉を信頼する人もいれば
> このことによって、言葉に不審をいだく人もいます。
> それはおそらく自由の定義(擬態)のちがいによるものだと思います。
不審を抱く人は、擬態ではないもの、擬態される当のものをどこかで想定して
いるのではないか。それらが言葉によって隠蔽されていると考えるがゆえに、
言葉に不審を抱く。
そのような不審をはっきりと持たない人は、それだけですでに言葉を「信頼」
しているということになるけれど、さらに積極的な信頼がある。
それは、言葉が「幼少期の擬態の解除」にも耐えうるという信頼、解除以降も
言葉は言葉で在り続けるという信頼であり、このような信頼は、それを持って
いる人にとっての自由の可能性を支えている。
>>577 > 文字が、個を尖鋭化するはたらきに一役買っていいるのではないか?という仮説は刺激的でした。
刺激されました。
思考にとっては声としての言葉が第一で、文字は二次的なものとみなしていたけど、
自分の内に言葉が声としてのみあるような思考も、文字を読み書きすることを覚えた
からこそのものなのであった。
>>591 実際の釣り経験は無に等しいから、気軽に喩えとして使うことができるわけなんでした。
異常であるよりは正常でありたいとは思わないけれど、正常であるよりは超正常でありたい
と思う。
たとえば半側無視の人が大多数を占める社会では半側を無視しない人は異常であろう。
けれども、たとえ自分が多数派であっても、実感や納得を離れて考えることができれば、半側
を無視しない世界観のほうが、より節約的で妥当だということは検証可能だと思う。
先験的に半側無視の世界観を与えられながら、半側のことを考慮に入れる。そういう生き方を
超正常と呼びたいのだ。
実感や納得は、容量を節約するし記憶を検索する便利なタグではあるが、実感があることや納
得がいくことは、思うほど的確さとは関わりがない。
あ、そうそうチャットの展開、補足ありがとうございました>か×2
>>594 これを読ませて、あなたは、自分を社会不適応な変人だとしてへこむのでなく、
超正常として積極的でいてよ、といいたい人がいる… たとえば月読ちゃん。
最後の二行はとても嬉しい、心強い。
「タグ」無しにいちいち意識的に考慮するということは、それを忘れることもよくあるということだけど、
めげずに何度も繰り返していけば、経験的「タグ」のようなものを作ることができるのかもしれない。
音声言語と表記文字の違いに注目するのがマイブーム(って死言かい?)度が高まって
しまった。
そこで微塵さんに質問なんですが、文字を習得していったときの記憶で何か残っているものが
あったら、教えてください。
すでにある言葉を与えられる段階の中で、文字特有の何かがあったら。
残念なことにわたしには、文字を覚えていったときの記憶がない。つまり文字習得の前後の
違いを知らない。文字という制度を知ったときに感じたことは消えている。
(いうまでもないけれど、言葉を覚えていったときの記憶もない。
記憶が可能なのは言語習得以降、なんてことはないというのになあ…)
訂正。
>>597「死言」→「死語」
>>577 > 文字が、個を尖鋭化するはたらきに一役買っていいるのではないか?
卑近すぎる連想で、話がずれるのですが、余談的に。
内省的になりたいならば思うことを書いてみるといい、ということを思い出しました。
個の意識が強い人は、読んだり書いたりする傾向が強いと思ってるのだけれど、これは
偏見なのかな?
もちろん、そういう人の思考が「考えを書き記しそれを読むことでまた考えていく」というものだ、
ということを言っているのではないです。
そのように文字表記を必要とするのは、ただその思考が、単線を走る遅い電車のようなもの
だからなのでしょう。わたしの思考もたいていそうですが。
>文字を習得していったときの記憶で何か残っているものがあったら、教えてください。
よくぞ訊いてくれました!っていうくらいありますw
みじかくまとまるかなぁ・・・・・・w
憶えたてのころはね、ひらがなの形と読みの組み合わせが納得できなくて苦しんだんだw
記憶にある限りでは、「れ」と「ね」の形が似ているのはエレガントだと思った。
でもたとえば、「め」と「ぬ」が似ているのはどうにも必然性に欠ける感じがするわけ。
あー、どうして字形と発音の組み合わせを、こんな適当にできるわけ!って怒ってたw
で、五十音積木をオリジナルな配列にして納得のいく五十音を作ろうとするんだけど、いつも
完成目前であちらを立てればこちらが立たず状態になって挫折するのw
オリジナルのひらがな作りにも挑戦してみるんだけど、子供の緩いパターン認識だと、うまく
文字らしさの条件を抽出できなくて、出来栄えに満足いかない。
この頃の不整合感、とても不便なので、今ではもう実感ないけれども。
オリジナルひらがなの原稿(w)残ってて、我ながらセンスねぇの。なにせまだ、書き順も知らず
既存のひらがなだって、手書きだと「む」や「し」や「も」を裏返しに書いたり、「あ」の下の部分を
円にしちゃったりしていた頃だしなぁw あ、「さ」の上の部分をまっすぐ十字形にして、そいで下
の部分をお椀みたいにして左右対称に書いたりもしてたな。
力量を超えた試みだったよ>オリジナルひらがな
あ、思い出した☆「ひらがな」と「カタカナ」の呼び名も響き的に逆でないとヤだったw
「かたかな」と「ヒラガナ」であるべき!って確信してた。なんやろねw
だって「(実際の)カタカナ」の方が形的に平滑で要素が少なくて「ヒラガナ」って感じするんだも
ーん!
あ、実感がよみがえってキタ!
「カタカナ」には平たい線があるでしょ?「ひらがな」はむにゅ〜っとしてるでしょ?
だから「カタカナ」のほうが「ヒラガナ」じゃないと納得いかなかったのだ!ww
このほうがガキらしい表現だ。満足。
別の話。
子供の頃、自分の手になる工作の出来栄えが、見本のように洗練されてなくて悔しかったこと
ないですか?
それとおなじ感覚で、活字へのあこがれがあった。活字カクイイ!でもおなじ文字を手書きで書く
とカクイクない。悩んだ。どうして活字のように書けないのか?
ちいさい頃『こども百科』という巻数ものの幼稚な百科事典が愛読書だった。
その『どうぶつ(活字は明朝です)』の巻を見ているときおさない俺の心に天啓が走った!
本の後ろのほうに「おかあさんへ」というタイトルの紙質のちがう読めない(いらない)ページが
あったので、そこに「どうぶつ」と書いてみた。
やったのだ!カクイイ。線の書き出しをキクッと曲げて書き出すとよいのだ。こども心には大発見!
であった。
本を閉じて表紙の活字を見て、開いて「おかあさんへ」の手書き文字を見て、うーんそっくり☆
と満悦していた。しかし何回か行き来するうちに「あれ?」っと思った。表紙の活字は四文字で、
俺の書いた字は三文字なのだ。落ち着いて読む。どちらもふつーに読める。おなじなのにちが
う・・・。なぜだ!
俺は????????となった。
この問題は未解決のまま、俺は忘却した。
小学三年のとき、「あ、なつかしいな」と何気なく手に取った『どうぶつ』の巻を開いた俺は、忘れ
ていた謎が一気に解ける快感を覚えた。そこには鉛筆で「どぶつ」と書かれていた。
奇しくも小学校の同級生が、学校の鑑賞会で見た『狼少年ケン』のタイトルを、『おかみしょうげけ』
と表記して、みんなが笑うと「へんでねーべ!、『おーかみしょうげんけん』だべ!」と言い張った出
来事の直後だった。
また別の話。
かなを憶えさせられるときは、近所の友達と二人で競わされました。
母が大きく書いた文字を、おなじに書かされるのです。
そんでね、母が、二人の出来栄えがおなじくらいのときは、友達の方を褒めるという科学的でない
態度がとても不満でした。
だってうまく書けたかどうか正確なデータが取れないんだもの。
(もしかして俺、すっげーくだらないこと書いてるかもw スマソ・・・)
私達の世代は、すでに街にも家にも文字情報があふれていて、物心がつくときにはすでに
言葉は身に付いてしまっています。
むかしむかしのように物心がついた後に、はじめて文字に出会う、という経験はできません
でした。
ただ、「文字の異境」に出会う、ということはあって、602に書いた『こども百科』は住み慣れた
町内みたいなものでしたが、「おかあさんへ」のページは日常を侵犯する「異文化」でした。
『ちきゅうのすがた』の巻にも『のりもの』の巻にもそれは付いていて、紙質も筆者の態度も字
面から受ける印象も、そのページを境にいきなりちがっていて、そもそも漢字ばっかりで読め
ない。
これはいまでも鮮明な印象で、子供なりに複雑な感情だったのですが、ぼろぼろになるくらい
知り尽くした本のなかに、ぼくを撥ねつける一章があることが非常に不快でした。その気持ち
を反芻して吟味したくない種類の不快です。
現在の語彙で言うなれば「おかあさんへ」は、読めなくておもしろくないことによって野蛮であり、
子供をカヤの外に置くことによって差別的だったのです。
いっぱんに子供は、差別されることに異様に敏感だと思います。自己の定義に関わるからでし
ょう。
ぼくにとって「おかあさんへ」のページは、「内部にある外部」「内なる異者」の原型として、ぼく
を定義しています。大仰に聞こえようとも、実際そう。
どれもとても面白い! 期待以上でありました。
ありがとうございました。
微塵さん以外にも、記憶がある人がいたら、聞きたいです。
>>600 「ひらがなの形と読みの組み合わせ」にかぎらず、子どものころは何でも鵜呑みにしていた。
納得いかないという思いや違和感のようなひっかかりは、あったけど忘れているだけ、という
ことはないと思う。だから単になかったのだろう。
鵜呑みにする段階が必要とはいえ、程度の差があって、わたしはきっと鵜呑み度が高かった
のだろうなあ。
それが自分の根っこにある、この世界への馴染み具合につながっているとはいえ、もう少し
醒めるのが早かったらなあ・・・。
読みの習得については、あまり思い出さないなあ。
ラーメンのどんぶりの縁の中国語?が文字なのか模様なのかなにやら不思議で、
食べてる間、なんか目が吸い付けられた。読めないけど。
書きの習得では、「け」が自分の名前に含まれていますが、よく左右逆に書いてた。
「そ」はなんか左右にぶれすぎで、どちらから始まってどちらで終わるのか分からなかった。
書くという動作的に一番苦労した覚えがあるのは「8」。
斜めに寝ちゃって、きれいに直立しないんだよ。変に捻れちゃったり。
文字通り8の字運動というのを理解できないと書けない代物だね。
これが書けるようになった時はちょっとした征服感。
点対称というのは高度な認識だと思う。
漢字については未だに読みも書きも習得中ですよね。つーか、PCに慣れると
むしろ忘れる一方だったり。
煮ちゃんに鳴れると皿に井居下限に夏的足り。
読めるのに書けないというのは結構不思議だったり。
読むと書くでは必要な認識の強度が違いますね。
「書ける」は「読める」以上に文字がよくミエテイル。
俺は描くのは好きだけど、書くのは嫌いな子でした。
工作は大好きだった。リスペクト「ノッポさん」。マジで。
友達の話ですが、左利きの彼女は、小学校3年生まで鏡文字しか書けなかったそうです。
先生や親に直されるし、自分でもなんかおかしな字だとわかっても、いざ書くと絶対に
字が裏返ってしまっていたって。ある日何気に両手に鉛筆をもって、同時に字を書いてみたら、
初めて右手で書いた字が鏡文字ではない普通の字で、それ以来、字を書く時は右手になった
そうです。その経験は自分に自身をすごくつけたと言っています。
今でも左手で書くと鏡文字になってしまい、英文を鏡文字の筆記体でスラスラ書く妙技を
見せてくれます。
自分のことは何も覚えていませんが、「さ」と「ち」の向きは今でも迷うことがあります。
文字・・・・そういえば昔、
「ぷちぷちちっちゃなまち」というおもちゃがあったんですけれど
私には「ぷちぷちやなまち」にしか読めなかったな〜
「ちっち」の部分をなぜか認識できなかったんだよね
何度読み返しても姉と自分の読み方が違うのが印象的だったな
大きくなってから姉の言うとうりに読めた時ビックリした
あとね妹が沢山の棒を書いてそれを文字だと言ってた
ちゃんと「え」を書いてと指定すると毎回同じ文字書くんだよね
子どもが文字を覚える前に見える物なのかな・・・
>>606 >漢字については未だに読みも書きも習得中ですよね。つーか、PCに慣れると
>むしろ忘れる一方だったり。
今や後退していくばかりです。突然授業中に小論文書けとか言われても
無理ですw
話変わるけど子どもの時の絵の書き方ってまったく意味不明だった
例えば人の顔を書くのはどうしてペンで〇を書いて中に・を2つ書くと
目に例えられるのか?もっと別の方法だって沢山あるだろうに。
なぜその書き方をみんなが規則のようにやっているのか?が全然理解出来なかった。
みんなその規則いつ憶えたの?なんで知ってるの?っていう感じ・・・・・・何か怖かったよ
あれって子どもの誰かが大人の書き方模倣して子どもに広がるのかなぁ・・・・
>>609 >子どもの時の絵の書き方
とてもよくわかる。
俺、ガキのころそのへんすごく関心を持って、注意深く観察しておりました。
幼稚園のおえかきの時間に、手法の伝播や変遷の過程などをw
ずっとロムっておりましたが、入れそうな話題がきた!
文字の習得過程。
はじめて「ひらがな」を覚えたときのことが印象的です。
何かうにょうにょした線にパターンがあって
それによって意味が伝えられるらしい、ということが衝撃的でした。
よく分からないながらも。
何でこの音(オン)がこの文字に乗るんだろう…ということも不思議だった。
五十音の並びも何故こういう風に決まってるんだろう。
もっと別の並びでもいいのに…
と壁に貼ってある表を眺めて辿りながら不思議に思っていました。
はじめは親が「これは良し、これは駄目」と言う基準が理解できなかった。
私、ちゃんと同じように書いているつもりなのに。
今考えるとかたちの認識が甘かったのかもしれない。
で、一回「これは上手!」と褒められたものを全く同じようにトレースすれば
次からも「良し」とされることを理解してからは
もう馬鹿みたいに繰り返しました。同じように、同じように…。
小学校に入って漢字を覚えたときもそう。
過剰なまでに書き順を気にする子供だった。
その書き順で書かなきゃ文字を書いちゃいけないと、一種脅迫的なまでに思っていた。
覚える漢字の量が増えていくと、「文字って便利!」と思うようになっていたけど
はじめてアルファベットを覚えたときも
ひらがなと同じような衝撃をもう一度受けました。
え、英語ってひらがなとカタカナと漢字みたいな区別ないの?
全部このアルファベットだけで意味表せるの?
なんで Iが「わたし」なわけ?
Iって一文字なのに「アイ」って二音が当てられるのは何故?
でもそう考えてみると漢字も文字によっては二音も三音も一字で当てられているし
そう考えるとひらがなとカタカナのほうがおかしい?
こんな風に、英語の勉強時には英語以外のことでかなーり悩みました。
絵の描き方についても興味あります。
こういうの他人に聞く機会ってなかなかないから面白い!
それぞれおもしろいですねえ。
>>606 > ラーメンのどんぶりの縁の中国語?が文字なのか模様なのかなにやら不思議で、
> 食べてる間、なんか目が吸い付けられた。
模様が文字に見えるというのは、それを記号として、何かの象として見るということですが、
アルファベット柄のように文字が言葉として書かれていない場合もありますね。
でもそれと解るのはすでに知っている言語にかぎるし、表意文字として捉えた場合は、たとえ
無意味な配置で描かれていても「目が吸い付けられ」だろうなあ。
>>607 わたしも左手で書くときは鏡文字になるけど、それは、まず右手で書けている上で逆の手だと
文字も逆になるのかと、漠然と思ってたけど、ガテンコちゃんの友達さんの例を聞くと、
そもそも平仮名は右効きの人が筆記しやすいようにできているのか!?と思いました。
>>609 鵜呑みにしない段階があったんだね。
文字について尋ねてるけど、それは「子どものころにあった既存の規則に対する違和感」の
一例だから、絵の書き方の話に繋がるのにはなるほど、でした。
他にもありそうだから、また聞かせてね。(他の人も)
>>611 >>612 空穂ちゃん、そういう衝撃や不思議の記憶があるのって、すなおに羨ましい!です。
> こんな風に、英語の勉強時には英語以外のことでかなーり悩みました。
本人にしてみりゃ、苦労してたいへんだっただろうけど…
こんばんわ
相変わらずなので、まだ何も書けません。仕事も忙しくて。
ゆっくりしたいよ〜。
おえかきの話。
俺がガキの時代はみんなぼーーっとしてたから、幼稚園のおえかきの時間、鼻を縦線で描く
のが主流だった状況に、先っちょを曲げて「し」の字に描く技法が登場したときは、そんな単純
なことに 「新しい!」とインパクトを受けたものだw
右に曲げるべきか、左に曲げるべきか、そもそもそのちがいに意味があるのか、意味がない
ならどちらに曲げるかをなにが決めるのか、考え込んだりしていた。
世の中には、まったく等価であるか、または有意なちがいを検出できないことによって、理性
では決定できない選択肢が無数にあるけれども、それをクリアするための(感情に代表され
、「気分」で総称される)脳内偶然のシステムが、理性にとっての死角を作り出している気が
します。
ブクオフで「脳の中の幽霊」1000円、
「心の社会」1050円でゲトしました。
脳の中の幽霊読み始めましたけど、読みやすいし面白い。
本文の内容とあまり関係ないけど、「海馬」ってタツノオトシゴに形が似てる
から、そのまんまの名前なのね、と今更気付いた。
心の社会はとりあえず後回し。字の多さに少し萎え。
マタリと読んでいこう。
後、しばらく前に永井均の「子供のための哲学」も
ゲトして読んでみまちた。感想聞きたいでしゅか?
>>617 安すぎ! どうなってんだいったい!>『心の社会』
聞きたいでしゅよ>感想
考え中さん
おつかれさま!お忙しいようですね
微塵さん
>右に曲げるべきか、左に曲げるべきか、そもそもそのちがいに意味があるのか、意味がない
>ならどちらに曲げるかをなにが決めるのか、考え込んだりしていた。
これ、凄く分る。その当時思い出すとやけに悲しかったりする、はぁ
意味不明で大混乱だったな・・・・
意味無くたっていいじゃない、と言ってくれる人欲しかったよ
もしくは気付きたかった
↑、ごめん、空いてる・・・消せてなかった・・・・・ 大事なスレに・・・・
大三元さん
心の社会がその値段なんて・・安い!!!!
私はオークションで買ったのだけど何だか悲しい程ボロボロだったな・・(泣
>ゲトして読んでみまちた。感想聞きたいでしゅか?
聞きたいでしゅよ 2人目
特に「子どもの〜」の大三元さんの感想聞いてみたい
勿論他のもw 違う見方が見えるようになるかもしれない
微塵さん
>理性にとっての死角を作り出している気が します。
これって、おえかきに疑問を持つのは死角を持たなかった為という事かな?
感情は幻だという考えやけに強いトコあります。
特に強いのは嫌悪感 だから美醜も信じなかった
信じていないのに生きてく為に化粧する 嫌な感じ。
・・・・・全然違う事だったら笑って流してね、読解力が変なトコあるんで
>>619 言ってくれる人はいなかったなぁ。俺にも。
意味には「わかる意味」と「わからない意味」があって、
「わからない意味」は無意味ではなくて未意味なんだな。
「わからない意味」のほうがおもしろい。そう思っていた。
>>622 ああ、そうか!「わからない意味」だ!
今、ちょっと世界が更新されちゃったかも。
「〜のための」という意識は大事だと思います。
自分としてはこれは、視点を定める、立ち位置を決めるということです。
あるいは、色眼鏡を自覚する事と言ってもいいかな。
当然、死角が生まれるであろうことも、考慮に入ります。
「〜のための哲学」という提案には共感できる。
「〜のため」の数だけ哲学があっていい。
「<子ども>のための哲学」、うんうん、いい事言うね。あって然るべきだね。
「<ぼく>のための哲学(永井的独我論?)」、
ワカル所もあるけど、基本的には「コイツ変なヤツ、変なガキ(笑)」。
・・・あれ、これでお終いなのかな?
残念。「<きみとぼく>のための哲学」についても語って欲しかった。
「所有」という事についてかな。「知の所有」。
なにか高尚なモノとして「哲学」を独占しがちな玄人さん達から、
永井タンは子供達の元に取り返してくれてるのねん。(メジャー志向)
なのに一方では、「永井タンの哲学」は永井タンだけのモノだって言ってるの。(マイナー志向)
微塵タンが永井にはアンチがつきやすいって言ってたけど、この辺なのかなって思った
(一冊しか読んでないのにアレですが)。
(おそらく本人達は自覚なしに)哲学の取りっこ、「所有権争い」をしてるのかな。
彼は「きみとぼくの哲学」についてまったく語ってない訳ではないのだけれど。
「反論は有り難い」と言ってるし。
ただ、この視点についてはこの本ではあまり自覚的じゃないと思った。
色眼鏡を二つ重ねてみて見える物もあるよね。
考え中タンの言っていたコラボレーションってのもそういう事かな?
ちなみにこの本の中で一番俺の琴線に触れたのは、裏表紙の顔写真。
「コ、コイツはあなどれねぇ」と思いましたw
>>623 書くときにも、できるならそういうものが書きたいんだ。
「ここに意味がある」ものより、「どこかに意味があるもの」
意味が分からなくても、意味が「ある」ことだけははっきり伝わってくるもの。
そういうものを、読むのも好きなんだけど、
書いてくれる作家はあまり多くない。
>>622 >「わからない意味」は無意味ではなくて未意味なんだな。
未意味、それならしっくりくる。うんうん
何だか恥ずかしいけど、がてんこたんの
>>623読むまで
ここまで実感持って「分る」と言えなかった。知識として頭には入ったんだけどね
飲み込めてなかった
>>624、
>永井タンは子供達の元に取り返してくれてるのねん。(メジャー志向)
哲学を語るというより、一緒に哲学をしていくって感じだよね
私はここに凄く好感持てた。永井たんの話し方はそれに加えやさしい感じがした。
>「コ、コイツはあなどれねぇ」と思いましたw
うーーん詳しく聞きたいトコですね♪ただ者ではないオーラが出てるのかしら
考えに方向がないので、何にどう答えていいのかわかりません。書き始めても全然まとまらない。
しようがないので、感覚にかまける生活を続けます。というわけで、ではないんだけど、ちょっと
お出かけします。一泊のみで、伊豆方面へフィルムを少し多めに持って。天気が心配だったんだ。
ではでは……。
>>624 > 微塵タンが永井にはアンチがつきやすいって言ってたけど、この辺なのかなって思った
漠然とですが、一つの社会的で不変的な思想をまず持っていて、それを
補完するように考える人がアンチなのかなーと思ってました。
そういう人から見たら、閉じてるし。
でも、そんな単純じゃないらしい。
「哲学」の定義に反発する人もいるのかもしれないですね。
そういう人は、「思想」では嫌なのだろうか。「哲学」も欲しいのだろうか。
| 冫、)ジー
あのー、ずっと気になってることがあるんですけど
ここで疑問なげかけても、よかですか?
なんで男性には一人称の呼び方が複数あるんでしょうかね?
男は「僕」「俺」「私」「オイラw」等ありますが
女性は基本的に「私」ひとつですみますよね
ぶっちゃけるとバイト先やなんかで自分よりあきらかに
年上のオバちゃんや上司には「僕」を嫌々ながら使います・・・
(10年後だったら「私」を使うかもw)
でも年下や同年代には「俺」を使いますね
やっぱ今までの人生で使用回数は「俺」がダントツなんで
今のところ「俺」が自分にとって自然ですね
状況によって使い分けるのがめんどくさいですね、正直w
でも最近気がついたんですが、一派スレ等では「オイラ」を使うと
どんな話題や雰囲気にも使えてすごい楽ですw
でも「オイラ」はリアルではめったに使えませんねw
えー、なにが知りたいのかといいますと
一人称の呼び方が作られた歴史というか理由みたいなものを知りたいんです
なぜ男は複数の一人称を使い分けなければならないのか?
その辺や皆さんの一人称についての意見も聞きたいので
よろしくメカドック♪
>>629 追加w 「わし」、「わい」、「オラ」
とすると今のところ思いつくのは・・・
「僕」「俺」「私」「オイラ」「わし」「わい」「オラ」の7種類かな?一般的に?w
ついでに、蛇足的補足w
あと男って、親や兄弟の呼び方も変えていかなきゃならないよね・・・
小学生くらいは、「お父さん」「お母さん」「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」だったのが
思春期を迎えたあたりから「親父」や「兄貴」ってよびたくなってくるw
(なんか恥ずかしくなってくる?世の中の風潮?)
ぶっちゃけオイラの悩みの一つに
男27歳で両親をなんて呼んだらいいのかと悩んでいたりする・・・w
切り替えが結構むずかしい!w
嫁さんの親は「お父さん」「お母さん」で
自分の親は「オヤジ」「母さん」てのが今の主流なんかな?
あー、男ってなんでこんなくだらんことで選択をせまられるんだろう!ヽ(`Д´)ノw
オイラ的にニホンゴの嫌いな部分ですね・・・でもちょっと好きかもw
>>622 「未意味」っていい表現だなぁ。未発掘のアフォーダンスだね。
「生きる意味」なんてまだまだ思いっきり未意味だなぁ・・・。
自分で掘り起こせってこった。神様はいじわるな隠し方してたりすんだよな。
>>626 >うーーん詳しく聞きたいトコですね
詳しくといわれてもなぁ。。。。
思わずツッコミ入れちゃわない?
「このヲッサンはなんでこんな夢見る少年のようなポーズで、めるへんちっくな表情して写ってんだ」
・・・って。「哲学教授」らしくない写真というか、「非常識」というか。シュール。
例えば、
選挙ポスターで小泉タンがあんな顔して写ってたら、
「コイツはあなどれねぇ」って思わない?
あれが素なのか作りなのか、いずれにしても侮れないと思ったでしゅ。
>>629 なんでだろ?
拙者も疑問に思った事はあるけど、調べてない。
気分で自然に使い分けるときもあるし、時々悩むこともある。
「わい」と「おら」は「わし」「おれ」の訛りだろうね。
いなかの人は、女でも「おれ」とか「おら」とか言ったりするな。
言語版で訊いてみたら?
>>633 あ、大三元さん♪さっそくレスありがとさんくす♪
そういや、長野の実家のばあちゃんがオレっていってた!w
そっかー「言語板」ってのがあるのか・・・どもです・・・
やっぱスレ違いみたいだったようですね・・・気にしないでスルーよろ |)彡サッツ
>>628 永井自体がアンチ「哲学」的かもね。「学」としての哲学に対して。
>「哲学」も欲しいのだろうか
哲学が知を愛することだとしたら、愛するモノを独占したいというのは
自然な感情ではあると思う。
最近この板でも、設定変更の議論があって、
「お子様を閉め出せ」って主張もけっこうあったみたいですね。
気持ちは分かりますが(つーか立場的には閉め出される側ですが)、
「一体何様よ?」とも思います。「何の(誰の)ための知よ?」と思う。
>>634 スレ違いって訳でもないと思うよ。
>>629-
>>631 理由や歴史より、呼び方の違いによる変化の方に関心は向くのだった。
表記法まで含めれば、女性用にもけっこう一人称の種類があるとはいえ、
男性用ほどではないですね。
使い分けが面倒かもしれないけど、それによって自己意識や話したり書いたり
するものの内容も変ってくることを考えると、選択肢があるのはいいことでは
ないかと思ったです。
家族の呼び方の場合は、関係が変ってきますね。そこで、関係の変化と
呼び方の変更はどちらが先かというと、いずれもありでしょうが。
> でも最近気がついたんですが、一派スレ等では「オイラ」を使うと
> どんな話題や雰囲気にも使えてすごい楽ですw
こんなこと、思いもしなかった。
「わたし」を自然に使える女性で、ラクだったんだ。
>>635 (ワクワク)にウケた〜
>「お子様を閉め出せ」って主張もけっこうあったみたいですね。
そうなんですか。どこで「お子様」かどうか判断するのだろう。
哲学板にふさわしいかどうかなんて、学歴はいうまでもなく、読んだ本や
知識量でも判断できないからなあ。
哲学研究板、ならともかく。
ふさわしさの客観的な基準を設けようとしても、まず、その基準をどうするか
で意見が錯綜するから、ほぼ無理でしょうね。
って、じっさいどうなってるのかたしかめないまま書いてますが。
>>624 >>628 -637
けちゃは「考えること」にすごくむいていると思う。
前提が何もないのがすごくいい。
私も含めて多くの人は、なんとなく、考えを持って行きたい先から、なかなか逃れられない。
(ああ、そうか、経路がちょっとしか、しかも「わかる意味」のものしかなかったんだ。)
だから、「考える」っていっても、結局もう道筋をつけてしまったところの拡幅工事をして
いるようなものなのね。
「<きみとぼく>のための哲学」は記述可能なのでしょうか?
>>58 :微塵 :03/07/17 15:57
>語りようのない「奇跡」について、いかに言葉によって語らしめるか?
>という問いについて、ひとつの答えを示した人だから。
>言語がなぜか呼び寄せてしまう言語の外部、という偶然に頼るのではなく、意図して
>呼び寄せてみせた人。
>驚異。
というほどの人だから、書こうと思ったときには可能なのかなあ。
前スレにお邪魔しだした頃って、自分はもう、ほぼ世界の秘密まで到達していて、もうほとんど
新しい展開に出会えることなんてないだろうと思っていました。でも、ちょっと見自分と似ている
考え中さんが考え続けているので、自分もこの壁がつきあたりって思ってたその先を、ポーズだけ
でも考える姿勢をとってみようかなんて、やじ馬気分から始まった試みだったのに、この半年の
自分の世界の変わりようといったら、世界どこまで広がるつもりだ、まったくって感じです。
哲学か。学というからには、共通に認識できる「わかる意味」でつづられることが必要だよね。
私も「子供のための哲学」ちょっと前に読みました。(そしたら前にも読んだことがあった。)
なんだろう。微塵の解説もあったから、今ではそれが「わからない意味」を丁寧に「わかる意味」
にして、しかもできるだけわかりやすい言葉を選んで書かれた本だということがわかる。
でも、読み飛ばしてしまっていたな。私は。(この本に限らず読み飛ばすのだけれども。)
帰ってきました。とてもいい小旅行ですた。イパーイ写真を撮ったので、上がってくるのが楽しみです。
……と、何かスゴーク盛り上がってますね。考え中は相変わらず考え中です。ただ、とにかく
方向が定まらず拡散している感じで、収束する気配がない。したがって、何かまとまったことが
言えないんです。でも、少しずつは前に進んでいるような気がしますので、かけにようになったら
書きます。
ごめん、どうしても付け加えたくなった蛇足的補足を言います
男性を呼ぶとき、同姓間でも異性間でも
「○○さん」て呼ぶときと「○○君」て呼ぶときがあるよね
そこも実社会で案外選択を迫られることがあるんじゃないかな?
以上ただの疑問でしたw
>>637 >ふさわしさの客観的な基準を設けようとしても、まず、その基準をどうするか
>で意見が錯綜するから、ほぼ無理でしょうね。
>って、じっさいどうなってるのかたしかめないまま書いてますが。
まるで見てきたかのように、そんな経過を辿ったみたいですw
ちなみに「2ちゃんの『哲学』」を客観的に判断するのは、運営側です。
2ちゃんの神はひろゆきです。
住人はそれぞれの主観で神々を説得するだけですね。迷える子羊ですだ。
この板の性格上、神を殺してしまっている人たちもいるみたいですけど。
「哲学に関係ないクソスレが立ちすぎる」という訴えだった様ですが、
運営側は現状で問題なしと判断したようです。
>>638 >「<きみとぼく>のための哲学」は記述可能なのでしょうか?
この問いは、「きみとぼくはわかりあえるのか?」に繋がってくると思います。
それを考える前にまず、
「<ぼく>のための哲学」は記述可能なのか?
<ぼく>はどこからどこまでなのだろう?
という問いが浮かんできます。
「ぼくの哲学」が記述できるとして、
それを「きみ」が読めるとしたら、それは「『ぼくだけ』の哲学」と言えるだろうか?
それがしは、「きみとぼく」を「ぼくたち」に変換できる認識の許容度、精度
があれば、「できると思える」と思います。難易度は上がるけど。
できないのだとしたらそれはきっと、「未だできない」でしょう。
「有る」と「無し」の絶対空間に「未」という時間が割り込んでくる。
ニュートン的世界からアインシュタイン的世界へのシフトだと思う。
これがただの変化ではなくて進歩だと信じたい。
>>641 けちゃっぷ君。さん。ちゃん。殿・・・つーか、おい、けちゃっぷ(呼び捨て)。
相手の呼び方や自分の呼び方で相手との距離感、構え方が変わってくると思います。
敬語使うかタメ口かとか。
「おいら」ってのはなんか構えの力みを抜いてくれるよね。
呼び方に悩むって事は、相手との関係のあり方を意識するってことだね。
いろいろ試しつつ身につけていくしか。
「心底納得できるまで疑問を手放さない」
これが哲学のコツらしいですよ。
>そこも実社会で案外選択を迫られることがあるんじゃないかな?
「よいではないか、○○君」
「そんな、○○さんったら、いけませんわ」
選択を迫られるって、こんな感じッスか?
>「<きみとぼく>のための哲学」は記述可能なのでしょうか?
『転校生とブラックジャック』あたりが、その辺に突入していると思います。
音沙汰のないスレ主からちょろっとレスでしたw
>>628 永井にアンチがつきやすいのは、「解り切ったおなじことを、手を変え品を変え、なんにでも
結び付けて飯食ってる」ように見えるからかなぁ。
「解り切ってるように見える」のは確かだから。
>>638 >もう道筋をつけてしまったところの拡幅工事をして いるようなものなのね。
この言い回しよいなぁw
人間には、少なくとも現状では絶対「わからない」ことがいろいろあります。
でも、それがどんなふうにわからないのか、その「わからなさ」については考えることが
できます。
「わからなさ」についての知見が蓄積すると、「わからないこと」どうしの関係が掴めてき
ます。
わからないままで、わかってきます。
どこに着くか知らないが、道だけはあり、歩くことができる。そんな感じで。
そしていつか、名前も知らない街(のような場所)に到着するのです。
名前も知らない街(のような場所)では暮らし方さえわかりませんが、その場所の「子ども」と
して、あらためて心細く適応していくのです。
そのうち勝手がわかって居ついてしまえば、「まだ理解していないこと」についても、考えられ
るようになったりして、おもしろくなってきます。
>>629 調べてみたわけではないので、あくまでも推論の域を出ませんが。
まず、男性には一人称の使い分けが求められ、女性はほぼ「私」で済ませることができる点に
着目してみます。
629であげられている、けちゃっぷ。(ドキドキ)さんの個人的な使い分け例をみると、「職場」
という社会が特別な舞台になっているようですね。(ネット上の例は別に考えるとします。)
歴史の中で、女性は長い間、社会の中で個人としての立場を占めることが無いまま過ごしてきた
ように思います。ほとんどの女性は一貫して「家人としての女」の役割を果たすことに専念して
いたので一人称を使い分ける必要が生まれなかったのでしょう。
現在は、女性も多くの人が家のみならず、社会でも暮らしているわけですが、元々、家でも立場
としては男性から一段下であった女性の一人称は、誰に対してもそのまま使えるので、相手に
よって換える必要がないのかもしれません。
(語弊があるかもしれませんが)女性は元々へりくだってる?と考えると、どうしたって、
謙譲語、尊敬語といった敬語に思い至ります。
外国語にはあまり敬語の使い分けがないので、日本語は難しいとはよく言われますよね。
一人称の使い分けも外国語にはあまりないみたい。二人称の使い分けはよく目にするけれども。
とすると、あたり前なんだけれど、やはり歴史を遡ってみないとちゃんと答えられないみたい。
>>630 以降の疑問については、また別に考える必要があると思われ、またいつか。
あと、>詩板336。
「なんだとぉ〜!?かかってこいや、オラァ!!」
>>645 ありがとうございます。
それ、最寄り図書館には無かったな。またいずれそのうち。
(一冊読んだだけで、ああ、黙っておくべきだったかもしれない。でも、聞くはいっときの恥さ。)
>>646 うーん、彼の書いてることを思想史辞典の項目のようにまとめてしまうと、そういう反応が
でてくるのかもしれない。
しかし、「解り切ったこと」と受け取る人が多いとするとかなり意外。
>>649 なるほど〜!!
どおりで女性のわたしは一人称を使う際の不便を知らなかったわけだ。
>>651 ズコッ!
かもめちゃ〜ん、つっこみいれてくれろ!!
見えるものと見えないもの
これは、このスレの一つのテーマだと思っています。そして、不可視のものを可視化するという
ことも言葉が切り開く近くの地平なのだということも、また既にここで語られたことです。
写真や映画が、そのような人の感覚を写す鏡の一種であるということも、そこから導かれると
思います。「ブラックレイン」という映画がありました。この映画で映し出される大阪の夜景は
我々が知っている大阪の町とは違った街に見えますた。このように、人の感覚は多様で、しかも
互いに影響し合うということがあります。この言葉―知覚連合とでも言うべき世界について、僕は
もっとよく知りたいと思います。
普遍性ということについて、ヘーゲル的な考え方とは別に、作家の司馬遼太郎は、感覚同士の
出会いによって洗練された味覚が普遍性を獲得するということをどこかで述べていたと思います。
同じように、味覚以外の知覚もそのように相互に影響し合い、普遍的な感覚を育てているの
でしょうか。普遍性ということを、目的論的な視点からではなく、史的な人の営みの成果として
見る視点は、一つの理解の仕方ではあると思います。
総じて感覚の世界はまだ未踏の領域が多く、謎解きの楽しみも、そこにイパーイ転がっていると
思えます。それは楽しいことではないかと……。
問題提起というわけではなく、フィルムに写る世界についていろいろ考えながら、ふと思った
ことですた。
人称の問題で前に面白いなと感じたのは、
軍隊式や体育会系で、よく一人称を「自分」と言いますよね。
一方で、
特に関西系の人が「自分」を二人称で使いますよね。
「おんどれ(己)」、「てめえ(手前)」「われ(我)」とかも。
同じ言葉が一人称的にも二人称的にも使われるのが、
「阿吽」とか「つーかー」とか日本的なメンタリティーの表れかなとオモタ。
二者の関係の境界のI、Myさ。
名前忘れた。
>>605 >納得いかないという思いや違和感のようなひっかかりは、あったけど忘れているだけ、という
>ことはないと思う。だから単になかったのだろう。
日本語が言語として普遍文法にとても近いというわけでもないし、この世界が感覚にとって、
あつらえたような典型的な世界というわけでもないから、「違和」がなかったということは不可能
に近いと思う。
ずれる仕方は無限にあって、アジャストする仕方はひとつだから。
そういうわけで、思い出す限りにおいて違和がなかった幼少期は、また別の意味で貴重な体験
談になるのではないかな?
あるべきところにドキュメントがない、というドキュメント。
デジカメで二枚の写真を撮るとする。
同じ「ある物」について一枚は、A:ピントのあった「輪郭のくっきりした写真」。
もう一枚は、B:ピンぼけの「輪郭がぼんやりした写真」。ピント以外は同じ。
この二枚の写真の解像度を落としていく。ある程度解像度が荒くなってくると、
二枚の写真の区別がつかなくなる(例えば2百万画素→2百画素とか)。これをCとする。
つまり、A,Bの解像度の「くっきり」「ぼんやり」の違いは、Cの解像度の眼には
区別がつかない。ミエナクナル。
逆に、Cから「A,B」のレベルへ解像度が上がった時、多くの人は、「C→A」だけを
「ミエルヨウニナッタ」と考えているのではないか。「C→B」、「ぼんやり」見えるようになったら
多くの人は、むしろ「ミエナクナッタ」と考えるのではないか?
細かく、どこまでも細かく「くっきりと」「分けていく」ことが「ミエル」ことだ。
これが要素還元主義というやつだと思う。私たちが教え込まれてきた学問の土台だと思う。
この考えが、「私」と「世界」をくっきりと分けて、「現在」と「未来」をくっきりと分けて、
個人主義、刹那主義に行き着くのが今の現状だと思う。
「C→B」のもう一つの「ミエル」。「ぼんやりと」「繋げる」が見えるようになると、
「カタチの輪郭」が動き始める。程度問題の始まり。「C→A、B」という枝のカタチが出来る。
まだ、「くっきり」と「ぼんやり」がくっきり分かれている。これをぼんやりさせる。
「程度問題」の程度問題の始まり・・・。AとBが互いを浸食し始める。
そして、それがさらにCへ・・・。どんどん動き出すよ。
「理性」が「くっきり」系で、「感性」が「ぼんやり」系なのかなとか、ぼんやりと思う。
「論理」は、くっきりと説明するための作法だね。
「ミル」は「見る」→「視る」→「観る」と進化していくという話を聞いたとき、
なるほどと思った。それとは別に、「ミル」の最終形は「看る」だという話を聞いたときには
感嘆した。
「脳のなかの幽霊」半分ぐらい読んだ。
インド人もびっくりの面白さ。
改めて「鏡」の不思議さ。
脳のなかの「体の地図」が動的で、常にせめぎ合っているであろうという推測。
わしの直観にヒット。
ところで、「脳のなかの幽霊」という訳題は、
人によってはオカルト系の内容を想像させて上手くないかなとオモタ。
「ファントム」と「幽霊」ではニュアンスが変わると思う。
>「論理」は、くっきりと説明するための作法だね。
「論理」は、くっきりと説明するためのぼんやりとした作法だね。
の方がベターかな。右脳さんと左脳さんの相談の結果。
境界の不確定性とでも言おうか。
「時間」と「空間」は多くの人が共有できる感覚だろうけど、
これをくっきりと分けて(というよりくっきりとしか分けられなくて)
さらに時間を「原因」と「結果」に分けて、「過程」がごっそりと抜け落ちて
いる現状。「過程の抜け落ちた『結果』」が幼系成熟(幼系進化)だと思う。
系統発生をトレースしきれなかった個体発生。
「我々は初めから、進んだこの時代に生まれてきた」
という時間の輪郭の捉え方が、解像度が低い。
この空間に生まれてきて、過去をなぞることで初めて今に追いつく。
「無知なる者」と「知る者」を上下関係の認識からその先へ拡張できるか。
「結果を知る」知、の結果としての(かつ、前提としての)「過程を知らせる」知。
その辺の輪郭を捉えたい。
>>656 そうですね。わたしはまたもや切り捨てをやっていました。
憶えていないということにしょんぼりするばかりなのだけれど、
「貴重な体験」と積極的にとらえることも、できる、かもしれない。
>>657 感性には、ぼんやりを「ぼんやりなのだ」と認識することができないから、
ぼんやりを、ぼんやりのまま、クリアにみることのできる超理性みたいなもの
があるといいなあ。
(「みる」と平仮名にしたのは、逃げです、はい)
しかし、なんかめちゃくちゃなこと言ってるよわたし…
あ、わたしが「あるといいなあ」と書いたのは、これでしたね。
>「C→B」のもう一つの「ミエル」。
>>657
>>660 陳腐な精神分析的表現になってしまうけれど
違和に対する違和
違和に対する罪悪感
もしくは違和に対する劣等感
このどれかがあって記憶を抑圧したのではないかな。
人の心について軽々しくとやかく言うものではないと思うが、かもめらしく思える。
>>660 ちょー理性ですか。超イイ感じ。
解像度が上がる前の段階でも理性も感性もあるだろうけど、
解像度が上がれば以前のそれは超えられるかな。観測器自体が新型になる。
>しかし、なんかめちゃくちゃなこと言ってるよわたし…
この部分がきっと、かもめちゃんの左脳の右脳に対するツッコミと思われ。
感性の、「根拠なしっ(キッパリ)」って部分も結構大切だと思う。直感やね。
>>615 オイラの子供の頃は、多くの特に女の子が、正面顔の鼻を「く」の字に描いていた
のが、激しい違和感として記憶に残っている。左右非対称なのが違和感だった。
正面の鼻は難しいね。
何故なら、目や口は肌の色と明確に異なっているから、顔との境界線がくっきりしているけれど、
鼻は肌色だから顔との境がない。微妙な明暗のぼんやりとした輪郭を捉えなければならない。
鼻を線で描くというのは、かなり強引な抽象化だね。けっこう大きな壁かも。
抽象化を受け入れるのは、人によっては抵抗があると思う。
>>662 自分には何もないよ乏しいよと思ってるけど、何も無いと思ってたところに何かがあった、
と知るのは新鮮です。
見た目は依然として変わりないのだけれど、そこは空虚な空間ではないのだな。
> あるべきところにドキュメントがない、というドキュメント。
>>656 ドキュメントの削除は「削除した」という形跡ごと消し去ったので、はじめからドキュメントが無い
のかと思ってた。でもそうではなかった。
>>663 「根拠なしっ(キッパリ)」ってそれこそ重要というか支えというか、なんというか・・・大切ですねw
感性って理由はないけど原因はしこたまあるから、理性の声でそう聞こえたら、
正真正銘の「根拠なし」でもうバンザイだ。 ってわけわからん。とツッコミ
精神?の尺度???
時間と空間は感覚(表彰)の尺度である。では、精神にはどのような尺度が
あるのか。正直いってよくわからないのだが、以前言っていた水平・垂直という
言葉に託したものは、実はこれかもしれない。時間と空間は、もちろん僕たちを
ギリギリ縛っていると考えていい。しかし、精神は、あるいは思考は、その束縛を
逃れたがっている。時間や空間による媒介を、それ自体に即して無化することは
僕たちはできないけれども、思考は時間を、空間を乗り越える。そのように
見られたときに、時間・空間とは何だろう。うーん、ちょっと違うな。僕たちを
縛っている時間・空間というのは、本当の時間・空間でもないな。むむ・・・
これは、ほとんど単なる思いつきでつ。具体的な内容は、少し考えてから、かな。
自己違和というのは、実は僕の「形骸」(「死んだ犬」)の中心概念でした。
微塵の「自己違和」というのを読んですぐに書いたのが下。
>2003年12月4日14時5分
違和と言えば
根本的には自己違和ということがあると思う。乳幼児期、あるいは胎児期にでも
この自己違和を経験すると人はどうなるのだろうか。精神分析の対象外である
と考えられるこの自己違和は、多分エディプスコンプレックスなどよりも深刻な
問題だろうと思う。鬱も統合失調も自己違和の形式だと僕は考えてきた。
この自己違和を違和する形式が、人格なのだと……。自己防衛システムとしての
「自我」(サリバン)は、この違和に対して形成されるのだと。
しかし、この考え方はその後宙づりとなって放置されている。
>引用終わり
この違和によって「非自己化」された「自己の一部(サブシステム)」は、裏から
知覚できない形で人を突き動かす動因となる。これが、僕が考えた精神分析への
一つの回答として「魂の殺人」に見たものでした。この表象できない自己違和が
「偽自己」として現れる。そして、親はこの子供の偽自己と格闘することになると
いうのがアイデアの一段階。もうちょっとこの辺ごちゃごちゃしてるんだけど、
668 :
考える名無しさん:03/12/20 23:45
>>4 具体的な理由を示さず、単に「味がまずい」といったような場合
には名誉毀損ではなく、侮辱罪にあたるのではないかと思います。
その場合、その料理が本当にまずいかどうかは問題になりません。
批評をするときはできる限り具体的に、どこがどういう風にまず
いのかを示した方が良いです。
具体的な批評であれば、名誉毀損罪の問題となります。
この場合、真実性の証明の対象は、まずいかどうかということよ
りは具体的な理由の方に重点が置かれることになると思います。
グルメ板は知りませんが、2ちゃんねるには、明らかに犯罪にあ
たるような書き込みが多くあります。
2ちゃんねると同じ感覚で他のホームページに書いたり、メール
を送ったりすると酷い目にあうでしょう。
掲示板による名誉毀損・業務妨害のボーダー
http://school.2ch.net/test/read.cgi/shikaku/1011772484/l50
だれもおまえらのプロフィールなんて聞いちゃいねえんだよ!!!
俺様のかしこーーーーいお話だけ聞いてな。
きょう、マンガを売りにブックオフへ行った。大きな紙袋3つも持っていって、
結局1000円を切った。そんなものだとは思っていても、情けないだす。
お金を受け取ってから、ちょっと待てよと思って思想とかを見に行った。
いろいろな本があった。金子訳の「精神現象学」のふるーいのがあったり、
欲しいものはなかったけど、いろいろあった。と思ったら、「心の社会」があった!
いくらだ!? 3000円。 あまり安くないけど、買っとけ。というわけで、
「心の社会」ゲット。ボチボチ読みます。
他スレ「ヘーゲルの『精神現象学』を読む」で、こんなものを見つけました。
140 名前: marginal 投稿日: 03/12/20 23:48
ヘーゲルなんてたいしたことないよーーー
ぼくのほうがかしこいもんねーーー
消えろ僕チャン
これは間違いなくmarginalさんの偽物なんですが、「ーーー」の
使い方とか、「かしこい」とかの使い方が
>>669と似てるかな。
>>667 「死んだ犬」でつか。デッドドッグとか言うと何気にカコ良さげ?
前スレのあるレスで使われるはずだったのに、リロードの際に氏んでしまった
HNが今生き返ってみたり。
別スレで言っていた「自分を裁く」ってのも自己違和でつか?
「非自己化された自己」ってのは同時に「自己化された非自己」でもあると思う。
例えば胃袋の中にある食べ物は非自己なのか?どこから自己になるのか?
細かい分子に分解されて腸壁から吸収された時点?水は?毒は?
胃袋の中に感じる違和は、自己への違和?非自己への違和?
情報でも同じ事だと思う。非自己をどう取り込むか。どこに壁を設けるか。
その壁の設け方、境界の引き方が肝だと思うのねん。
幼い頃に無意識のうちに「顔」と「鼻」の間に引いた境界。
その引き方にも上手い下手があったり、用途があったり。
それを後から生まれた「意識」が、その痕跡(記憶)を追いかけて、やりかたを覚える。
意識は後追いでつね。消化が遅い。だから凭れる。
ソルマック?キャベジン?パンシロン?
>>672 >結局1000円を切った。そんなものだとは思っていても、情けないだす。
このクオリアすんごくよく分かるw
分かってても情けないんだよな。
>>674 自己・非自己という問題は、もうちょっと根深い可能性があるかも。
自他の境界をシステム自身が決定するという話がオートポイエーシスの
中にありますが、そんな話です。もともと人の認知システムには自他の
区分は先験的にはないのだと思います。それが、長ずるに従って徐々に、
そしてあるとき決定的に区分が形成されます。この自他区分の問題は
本当は今まであまり真剣に考えてこなかった。幼児期における家族は
自己の一部であるかもしれない。自己は、状況に応じてその境界を変更
する。あるいは、我々か自己と考えているものは、誰かがが言ったように
単なる近代の幻想に過ぎないかもしれない。この辺のところは、考えれば
考えるほど難しいことなのかもしれない。共感の問題も、そういう深みに
根差しているかもしれない。
しれないばっかり。
この辺はあまりきちんと考えていなかったところなので、これもこれから
の課題です。ハァ……。課題ばかり多くて、頭カイーわ。
ところで、古本屋さんは、いつからあんな安い値段で買うようになった?
前はもっと高かったよね。最近本を古本屋さんに売ってないので、よく
わからないのですが、例えばヘーゲル全集の1冊ン千円模する本は
いくらぐらいで買ってくれるのかな?
ちょっとした中間報告みたいなもの
僕が微塵のスレを見つけて始めてレスをつけたのが7月、それから半年が過ぎました。その間
いろいろなことを書いてきたし、話し合ってもきたけど、あるときパタっと書けなくなりました。その
理由は一つではないと思うけど、直接的には考えが行き詰まったことだと思います。例の言語と
知覚の関係ということが引き金です。僕の頭の中では、どうしても言語と知覚の関係が、コノハ
ムシの擬態と木の葉の関係に思えてしまって、理解できなくなってしまったんですね。もともと
言語を意思伝達の道具とは考えてこなかったけど、どこかやはり機能的に言語を見ている
ところがあって、機能は目的と結びついているわけで、ここにも「目的」が顔をのぞかせて
います。そのことにうっすらと気がついて、自己嫌悪に陥ったのだろうか。生命や感覚を
「目的」を排除して理解するということは、原理的にはそうでなくてはならないと思っていても、
なかなかそのようには自分の思考が向かない。むしろ、どこかに「目的」が潜んでいて、常に
背後から思考を突き動かしているというところがあるようにも思えます。
アートとテクニックの関係というのがあります。アートそのものは歴史を超えて普遍的だが、
テクニックは歴史とともに発展し、没落する。この不思議は何度も何度も思い起こすのだが、
これは例の歴史を見る水平の軸と垂直の軸ということと関係がありそうです。つまり、僕たちは
時間軸の中で「生かされている」以上、その軸の中で意志を持つ。しかし、他方ではこの時間
軸とは無関係な、普遍的な何かをもまた僕たちは生きている。この二重性について、今、明確に
しなければならないような気がしてきました。(続く)
上に言う「目的」は、この歴史を水平に時間軸に沿って見る見方のことであって、例えば、
ヘーゲルやマルクスの体系が、歴史と構造を一体的に理解し、その中に歴史の「目的」を
編み込んだように、僕は「前史」をまだどこか水平に見ていたのだと思うのです。多分、
コノハムシは、この最後の「目的」をきちんと破壊してくれたのかもしれません。このように
歴史の二重性を自覚的にきちんと押さえた上で、もう一度「前史」について考え直してみる
のが正しいのでしょう。こういう考え方は、実は決してなじみのないものではなくて、
水平―垂直の話もそうであるように、実はずっとこねくり回してきた問題ではあるのです。
ただ、僕の一連のシステマティックな思考のあり方と、そのこととがうまく結びついていな
かった。だから、水平―垂直の問題も、一つのサブテーマに過ぎなかったわけです。ですが、
これはサブテーマなどではあり得ませんね。人間の存在様式の根幹をなす問題なのだと
思い始めています。考え始めたばかりなので、これ以上は何も言えませんが、大体以上の
ようなことを、今ぼんやりと思っています。今後展開できるとすれば、年明けでしょうね。
また来年もよろしく!
なぜか、読んでもいないのに「重力と恩寵」を思い出した。
「意志」や「意図」、あるいは「目的」といった「軸」的な概念とその機能は、ダイナミズムを
「一挙性」で捉えるための方便でしょう。
必要充分なデータが得られることは稀であり、完璧な判断は不能ですから、私達はあら
ゆる「ふるまうもの」についての予測可能性を高めるために、時間軸に沿った「物事のふ
るまいの一般論」が必要になります。とりあえずリアルタイムに持ち上がってくる問題に
その都度答えを出し続けていくために。
因果関係というものはそのためのツールです。
私達のローカルな世界観では、過去と未来が等価でなく、とくに未来は「一挙性」の相の
もとに眺められませんから、過去とのメタファーによって未来の「未知性」を軽減し、現在
を挟んで、過去と未来のあいだに橋を架けようとする。
未来も含んだ時間の次元を「一挙性の相」のもとに眺める視点から観察すれば、私達の
問題は「未来に鈍感で、現在にもっとも敏感な生物の抱える問題」というように、認知上の
問題に還元できる気もします。視覚のたとえ話で言えば、中心視野が「現在」、周辺視野
が「過去」、夜目で見るのが「未来」というように。
穏当な物理学的世界像では、等方的であっていいはずの時間。
それが内的体験では方角による質的な差異が生まれるのはなぜでしょう?
「未来」を暗くしている「闇(光の不足)」とは何でしょう?
この辺は、わかるような気がしても、世界観の系のなかの個別世界観のふるまいをダイナ
ミックに表現する(認知させる)用語系を制作しないと語れないような感じです。
>>676>>677 「目的」的な見方のままだと、言語の起源がどうしても気になるのではないでしょうか。
そのままで考えると、ちょっとわけがわからなくなります。
言語哲学の意味論の中にも、そこが上手く説明できないという問題を抱えているものもある
ようだし。
目的を想定することと理由を求めたがることは一緒ですよね。
その誘惑に抗って、「なぜ」「なんのために」ではなく「どのように」という質問形式で行きたいと
よく思うのですが。
たぶん、まだまだ世界は「なぜ」を納得させる答えとして説明されている。しかしそれでは汲み
きれない現象がある。
それらをとにかく、記述するように受け入れることからはじめることが必要なんだと思います。
「重力と恩寵」ついでに、
「重力に縛られた人々」というトミーノのニュータイプにまつわる話も思い出した。
重力から解放されると、人はまた形態変化を遂げるに違いない。グレーみたいな
ものになるのかも……こわいですね。
>>680 起源論の有用性というのは、いったん気の利いた起源論が創れれば、そこから演繹的に
いろんな物語(仮説)を編んでゆけるところではないでしょうか。
少ない要素から、より複雑な進化した様相までを、系列的に描くという方法は人間の知性
の形式になじみますから。
「図表にすると一目瞭然!」とか「グラフにすると変化のパターンが抽出しやすいよ!」みた
いな意味での、有用な方便だと思います。
解体してから納得を目差すよりは、納得してから解体するほうが、脳への動機付けの面で
も効率的であるように思えます。
「なぜ」の答えは、一般に「どのように」の答えより容量が少なく、そのわりに応用が利く(ア
ナロジーにはまりやすい)ので、一挙に視野が広がった気がして快感がありますし。
>>675 肉体に備わった様々なシステムも、「責任」「担当」「権限」といった次元で、境界の画定が
必須でしょうから、自己・非自己問題には先験的な要因も大きく働いているのではないで
しょうか。
社会的自己に関しては、文化・制度によるかたどりが強く作用するので、かなり可塑的な
セッティングになっているとは思いますが、これにも「縄張り観念」に代表される動物的な
力動が前提として働いているでしょう。
人間の特質(および可能性)は、自己・非自己の境界画定の自由度よりもむしろ、自己か
ら非自己にいたるグラデーションの細密化と、その推移の非線形化にあるように思えます。
>>667 自己に違和を感じることさえできるという、システムの「ゆるさ」が、自由という観念の所持を
可能にしている、という気も。
自由と不自由は対概念ではないというか、不自由の減少が自由であるのではなく、自由の
減少が不自由であるわけではない、みたいなw
いや、うーん、定義次第ではまさに対概念なんだけど、「不自由の対概念ではない自由」とい
うものが、明白に存在していると感じます。
とはいえ、これを「絶対概念としての自由」と言ってみたりすると、また「ハズしてる」感がありま
すねえ・・・・・・・。
「絶対概念としての、しかし程度問題のある自由」?あははー、矛盾してるし・・・・w
>>679 これも「図式的」思考の産物ですが、未来と他者は互いがぴったりと相当する関係です。
そこに働きかけることは暗闇へ一歩踏み出すことであり、少しでもその暗闇の、
> 予測可能性を高めるために、
すでに手にしている物事から一般論を導きだすというところが。
踏み出せることができてさえいるのならば、暗闇は見えなければ見えないほどよい、と思ってました。
予測することは、他人や先の自分や、ひいては現在に対しても、いってみれば失礼だと。
>>679を読んで思ったのは、それを失礼というのは「内的体験者」としての礼儀なんだということです。
それとはまた違った視点、別の「用語系」で、
> 「未来」を暗くしている「闇(光の不足)」とは何でしょう?
に答えるのは、有意義ですね。
答えることができても暗闇が明るくなることはなく、むしろいっそう暗くなるような気がします。
685を読んで、684末尾の書き換えを思いつきました。
「絶対概念ではあるが、程度問題がある自由。付言すれば、個体の内的体験からは程度
問題が抽出できない自由。つまり、各自の私的言語内でのみ、各自の様相で絶対概念で
ある自由。言い換えれば、用語は共通しているが普遍的でない自由」
私達は母言語の文法を超越論的に獲得します。
日常用語としての、(習うための)文法は、前者の文法の「像」でさえありません。
言ってみれば、後者は前者の分析ではなく、メタファーです。つまり、トートロジーではなく、
アナロジー。しかしそれは使える。
ある種の「語りえぬもの」について、なにがしか語りえてしまうのは、クオリア間のアナロジー
が成立するからでしょう。
それは表層の分析が、うまくすると深層の機能面でのアナロジーとして働くことがある、その
土台かもしれません。ジョークに意図しない効力が備わったりするような。理論が現実に応
用できるような。
してみると、動物が一般に「語らない」のは、「なにについての」を離れてクオリア自体に言及
することができないせいかな?そもそも「疑いえない」ように付着するのがクオリアの機能で
すからね。
人間の特質が、宿命から(たまに)離脱してみせること、つまり(いろんな意味の)自由だとす
れば、言語が人間にもたらした機能とは、ひと口に言って相対化の力でしょう。
物心つくことのクオリアが相対性理論のクオリアに似ているのは、この伝だと思います。
人類が最初に物心ついたとき、着想されたのは、数学のない相対性理論かもしれません。
不確定性原理は、第二の物心、という気もします。
不確定性原理と不完全性定理は、おなじか、かなり近接したクオリアの応用と感じます。
俺は相対性理論も不確定性原理も不完全性定理も、アナロジーとしてしかわかんないけどw
ある特定の時点、それ以前、それ以後の系列を時間だとして、
それを時空連続体のよっつめの次元として扱うとき、
「現在」は、時間とは次元がちがう出来事でしょう。
おなじように、「現在」を前提として措定される「過去」と「未来」も、実は時間ではない。時間
は流れませんから。
この現在過去未来を、時間を捨象した(あるいは時間と分離した)相で見晴らすための叙法
を捜しているのですが、見通しはあるものの、語るとなるとさすがに遠大です。
しかし、生命や意識の問題を考えるときに、避けては通れない壁だと思います。
>>689 なかなかおもしろいです。時間・空間というのは、アプリオリな形式だというのが哲学の
常識のようですが、(そう納得したことはないんですが)微塵説の方が断然おもしろい。
この辺も少し考えていきたいです。僕の考えは、実はちょっと前に少し触れた「幾何学の
起源」の前後に考えていたことあたりで止まっていますが、じわっと前に進みたいと思い
ます。
いわゆる霊能者と称する人たちと話して、彼らには時間や空間の構造が違って見えるんだ
ということがわかったことがあります。そのときには、そういう視点もあるんだということで
納得した記憶があります。また、ほぼ完璧と思えるテレパシーの持ち主にも出会ったことが
あって、全部考えを読まれたことがあります。これには震えましたが、これもまたそういう
知覚のあり方があるのだと思っています。そういう人たちが、自分の「能力」をどう理解して
いるかということとは別に、何か意味があるのだと思ってきました。
上の2つの節は、必ずしも同じことを言っているわけではなくて、単なる連想です。人の知覚
のあり方は、我々の常識の範囲をはるかに超えているのだという一例ではないかと思った
わけです。脱線、失礼しました。
>>680 かもめちん
これはわかりやすいですね。僕の考えていることの一面は、確かにそういうことの
ようです。起源と目的というのは、ヨーロッパ的な思考法の原理をなしているようです。
そして、僕たちがヨーロッパの学問を勉強することによって、そのヨーロッパ的原理
主義におかされているということもあるかもしれません。というかおかされているのだ
と思います。
でも、現実の生活感覚の中では、そういう原理とは相いれない場面に出会うことも
ままありますし、そのときは感覚を優先してしまうことも全然珍しくありません。むしろ、
個人的な体験としては、そのような相いれない体験の積み重ねが、今の僕の考え方
のベースとしてあるような気がします。
昔、僕は気のおけない仲間たちと「革命とは何か」について語り合ったことがあります。
そのときの結論は、「今、この関係が革命そのものだ」ということでした。ただし、これは
別段真剣に議論していたわけではなくて、お酒を飲みながら、楽しい語らいを楽しんで
いたんです。そのときに、僕たちが行き着いたのが、そういういい加減な結論だったん
です。そこには、もちろん目的も原理もありません。その場がそうなのだということでした。
これも、まああまり大した話ではありませんが、そういうことはいろいろな場面で経験
してます。ちっとも学問的な話ではありませんが。
>>690 テレパシーの持ち主、会いたいなー。
「心を読まれたい!」と、いつも思っていたから。
頭のなかではくっきりしてるけど、言語化できないでいることを一心に考えてみたり、
内容に関わらず、微妙な角度の径路に意識を集中しているとき、
それを「読んだ」ひとが、なんて言うか、とても興味があります。
>>692 僕は人の紹介でその人に会ったのですが、一度きりでした。僕もその人と関係を持ちたいとは
思いませんでしたし、向こうも僕に興味を持たなかったようで、そのとき我が家を訪ねて来て、
少しお話しして、それでおしまいです。僕にとって、とてつもない経験の一つですが。
微塵のような思考に出会ったとき、その人のテレパシーがどのように働くのか。それは想像も
つかない、謎が謎を呼ぶ世界ですね。
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いしますです、だす、どす。
この間の一連の僕のレスのきっかけになったのは、実はガテンコの文章だったりする。12月
12日の日記及びその前後のsmile bbsでのガテンコのレスを読んで、突然パッと前が開けた
ような、これまで漠然としていたものがあるまとまって姿を取り始めたような、そんな気がした
のだ。そして、少し興奮した。しかし、これについては実はまだ明確な思想と言えるほどの形は
とっていない。12月12日の僕のレス「精神?の尺度」というメモみたいなものは、その辺の
興奮が書かせたものだと言ってよい。その後も、この方向で少しずつ考えて、その結果が
12月18日の「中間報告みたいなもの」になった。この2つのあまり内容のない文章は、多分
同じことを言っている。そして、これからも同じことをぐるぐる回りながら言い続けることになる
だろうという悪寒。
さて、この前後にメモみたいなものを書き散らかしている。そのうち、それでもある程度まとも
かなと思えたものをレスとしてupしたのだが、思考は実は過去から現在へ、そして未来へと
グルグル回転し続けている。その中に一貫した何かを感じ取りつつあるからなのだ。この何か
は、「構造」と言ってもいいし「パターン」と言ってもいいし、「ゲシュタルト」と言ってもいい何か
なのだが、どの言葉もしっくりこない。それは、最近の微塵の言葉を一部借用すれば、関係の
ダイナミズムみたいなことなのだ。そして、それは時間軸の上で起きていることではないのだ。
ある意味では、卵がかえる前段で熟していくように、関係がダイナミックに熟していく、そんな
感覚と言えばいいか。これは、多分様々な関係と過程を通じて、世界が経験しつつある「成熟」
の一種なのだろうと感じる。これは、時間軸の中で起きていることではない。個別の経験として
は、いかなる時代のだれもが経験していることに過ぎないから、歴史的に発展してきたもの
ではない。それは、人が人であることに氾通的な事象であって、だからこそ古代人も現代人も、
同じように考え、同じような答えを出してきた。
(前レスより続く)
この熟すことに時間軸とは別に軸を仮定するとすれば、それが前から言っている垂直の軸
なのだ。そして、歴史を垂直に読み取ることができれば、僕たちはそこに熟しつつある何かを
見ることができるのではないかというのが、当面の僕の作業仮説だ。
ここでの垂直とは、空間的なものを意味していない。むしろ時間と観念されるものが折り
畳まれて重畳的な関係として現れるものだと。(何を言っているのかわからなくなってきた。
「言葉が足りない。じゃんじゃん持って来い」てなもんですね。勘弁してちょ)この辺の成り立ちを
読み解くことができれば、一歩前進かな?
まあ、12月中は忙しくて、あまりゆっくり考えるひまもなかったから、大掃除がやっと
終わって、気持ちが一段落して少し落ち着いて、これだけ書きますた。これが、
実際にはどんな形に結実していくのか、まだ自分でもよーくわかりません。本当に
わかりません。でも、何かフラクタル的に同じ形をしているような気がするんだよ。
こういうの、トポロジーとか言うんだっけ? よく知らないんだけどね。昔、これを
金太郎飴と呼んでいたことを思い出しますた。どこを切っても切り口は同じ形だという
意味です、もちろん。
「中間報告みたいなもの」は、12月18日ではなくて、28日ですね。失礼しまったぁ。
>>694>>695 ちょっと話はちがうのだけれど、時間軸に属することの中にも、ひと筋縄でいかないこと
があると思う。
欲しいもの、と問われて「お金」と答えること。
どこが好き?、と問われて「ルックス」と答えること。
これは二十世紀中葉では「すごくはしたない」ことだったが、この辺にまつわるミームは
八十年代に急激に変化して、ふつーのことになった。
「体罰」のミームも、足並みをそろえるように変化した。「時と場合によっては必要」から
「ほとんど全面的に悪」へと。
この種のミームのダイナミズムは、個人の内面で推移するのではない。公的な言語の
内面で推移する。そして公的な言語の内面で連動する。
誰のものでもないがゆえに、個々人における「差し障り」は過小評価されてしまうような、
間主観的なコンプレックス、トラウマ、習癖が存在すると思う。これが、社会問題を考え
るときに、「わかるんだけど理解できない」と言いたくなってしまう「割り切れなさ」の主要
な源泉であろう(異文化に対する割り切れなさは別として)。
これらは、私的な内省ではリアルタイムで捕捉できないし、捕捉するためには公的な言
語の内面に感情移入するか、絶えず意識的にメディアを観測していなければならない。
しかしなあ、共同体って、投薬もカウンセリングもできないから、おかしくなっても治療で
けへん。
文明が星系間スケールぐらいになったら、「共同体を患者とする精神医療」という分野が
成立するかもなあ、などと考えるのであったw