もちろん俺のことだ。
2 :
考える名無しさん:03/06/07 02:00
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(日] |ミミミ >⌒ ∋Y| | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
L ヽミ | ≦≧ ト|/ < ほっほっほっほっほっ いい歳こいて 何を言っているのです
\ \ミ| / わたくし以外にいるはずもないでしょう
|д°) ボクダヨ!
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(日] |ミミミ >⌒ ∋Y| | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
L ヽミ | ≦≧ ト|/ < ほっほっほっほっほっ ついでにどうぞ 1 さん
\ \ミ| /
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ついに人類の理想時代の扉は開いた。
それもこれもすべて俺が人知れず努力してきたおかげである。
しかし俺は謙虚な人間なので、どういう努力をしたかは言わない。
一般ピープルどもはとにかく俺を崇めればいいのだ。
といっても俺は有名になりたいわけでも独裁者になりたいわけでもない。
それだと「謙虚な人間」ということにはならない。
おまえらは心の中で俺のことを崇めていればいいのだ。
人間の状態は変わらない。
変わったと思っても一定時間が経過するとゼロ状態に戻ってしまうのだ。
近代は液体の時代だったが、最近ふたたび世界は固体に戻った
さいきん世界が安定したのはアメリカの独裁体制が成立したおかげである。
やはり超越レベルに何かが君臨しないと人間の意味世界は安定しないのだ。
べつに今のアメリカが世界に平和をもたらす理想的権力だと言っているのではない。
今のアメリカ程度の権力が君臨して世界に紛争の絶えない状態が理想的なのである。
ネオコンというのは転向左翼なんだってな。浅田彰が田中康夫との対談で言ってた。
トロツキストが寝返って右翼版の世界革命を実行しているらしい。
古代メソポタミアの都市文明は忽然と出現した。
そして現在のハイテク文明も何千年も先の人間から見れば忽然と出現したように見えるだろう。
「宗教改革」という言葉がある。これは後からそう呼ばれるようになったもので、
当事者にとって、それはヨハネ黙示録に予言された世界最終戦争だったのだ。
すなわちカトリック教会はサタンで、ルターは再臨のキリストだったのだ。
たまたまカトリックもルター派も絶滅しなかったので、「改革」という名前になっただけのことだ。
これと似たような話に「個人崇拝」という言葉がある。例えば、スターリンは個人崇拝された、という。
しかしこれも客観的に眺める立場からの言葉であり、崇拝した当人にとってスターリンは神だったのだ。
街を歩いてると親子の会話がいやでも耳に入ってくるものだが、
今時の幼児〜小学校低学年にとっても会話に出てくるキャラクターは俺が子供だったころの
キャラクターなのには驚く。今日はハイジとかクララという名前を聞いたし、仮面ライダーや
ウルトラマンもよく耳に入ってくる。鬼太郎やサリーちゃん、アッコちゃんなんかも定番だろう。
1960〜70年代は神話の時代になったとつくづく思う。
まあ1920〜30年代に流行った文学や童謡がその後ずーっと定番になったという前例はあるが。
しかし人間の忘却能力というのは大したもので、2ちゃん文化と言うとき、その前の
パソコン通信文化のことはスパッと忘れている。2ちゃんの新しさはせいぜい5%くらい
のものだと思うが、人々は全く新しい文化が出現したと感じてくれている。
ていうか90年代後半、人々は認識モードを改めて、たとえ0.1%でも新しい要素があれば、
それを新文化と見なすということにしたのかもしれない。これぞ進歩が終わった後の人間の
生き方だ。なぜならこの変化には創造的要素が加わる必要がない。0.1%それまでの文化形式に
含まれていた要素を失うことも新しい事態と解釈してくれるからだ。
モーニング娘やB'zはこのやり方で無尽蔵にヒットを飛ばせるだろう。
これで今後1000年間、人類は安定的に生きていけることになった。
>9
>近代は液体の時代だったが、最近ふたたび世界は固体に戻った
ていうかむしろ進歩の時代は先端部分だけが未確定で、確定するや否やどんどん固体化
していたのが、進歩が終わるとすべてが流動化してきたというべきかもしれん。
ここ2〜3か月でかなり人間の意識の状態は変わったと思うが、その変化は止まるどころか
ますます加速しているようでもある。となるとあと2〜3か月後には今の状態からは想像できないほど
似ても似つかない状態になっているかもしれない。それは、ものすごくいい状態かもしれないが、
ものすごく悪い状態かもしれん。俺的にはどっちでもいいけどな。
【今年の8月31日までに人類は滅亡する】
とりあえず、こうしとこう。まあ「進化」という可能性もあるが、それも一種の滅亡ということで。
ちなみに「滅亡した」とはテレビや新聞といった主要メディアが公然と滅亡を認める状態と定義する。
なんか今年になって、テツ&トモ、綾小路きみまろ、はなわ、森山直太朗、光永亮太とか
わけのわからないのがたくさんブレイクしてるじゃん。あれって今の世界の終わりが近いから
最後に思い切りバカ騒ぎしとこうという意味じゃないかと思うんだよね。
「週刊ダイヤモンド」と「週刊東洋経済」が最新号で共に社会人のうつ病について
示し合わせたかのように特集組んでたな。またうつ病、増えたのかな。
集団自殺や通り魔も多いし、やっぱおかしくなってるのかな。
今の時代、世界を終わらせてくれる人が救世主だな。いや、滅世主か。
しかし世界の終わりが近いと信じることができれば精神的にはラクになれるんだよね。
中国の経済成長は世界の終わりが近いしるしだ
「白装束集団」で大騒ぎしたのは世界の終わりの感覚を白装束に投影したからだ
東北地方で地震があったのは世界の終わりが近いしるしだ
東浩紀スレが廃墟になったのは世界の終わりが近いしるしだ
ヤンキースの松井がホームランを打てないのは世界の終わりが近いしるしだ
気象衛星ひまわりがお役御免になったのは、太陽の運行の終わりを象徴し、世界の終わりが近いしるしだ
今や女は子供を1.33人しか生まない。しかしこの1.33という数字も世間のしがらみで、
たいして生みたくないのに生んでるのが相当数含まれていると思われる。
たぶん本当に子供がほしくて生んだのはせいぜい4分の3だろう。
となると今後、出生率は1までは確実に下がる。
そして1を切るともう社会全体が人口を持続させようという気力がなくなって、
そういうムードがますます出生率を下げる悪循環で加速度的に人類は滅亡するのだ。
安楽死が合法化されたら自殺薬を病院で飲むことになるんだろうなあ。
まさか一般の薬局で市販するわけにもいかないだろうから。
そうすると酒かなんかに混ぜて簡単に人が殺せるからなあ。
そして自殺のための病院は都道府県に一つずつくらい指定することになるんだろうなあ。
どこか田舎の老人病院とか精神病院みたいな病院がな。
「社会を暗くする運動」というのがあってもいいんじゃないか。
うわべだけ明るくして内心で絶望するより、タテマエはもう世界は絶望的だということにして、
しかし内心ではけっこう幸せというほうがいいと思う。
というわけで、みんなで一日も早い世界の終わりを願いましょう。
>8
>人間の状態は変わらない。
>変わったと思っても一定時間が経過するとゼロ状態に戻ってしまうのだ。
進歩の時代が終わって、世界は変わらないことになった。
しかし生命体としての人間は成長もすれば世代交代もする。
つまり「ゼロ状態」といっても何も力がかかってないわけじゃない。
生命を維持するための環境変化に対する反応は続けないといけないわけで、
これが基本的力として意識に作用し、世界の意味は確保されることになる。
しかし最近の日本の右傾化はすごい。
テレビのニュースで万景峰号にトラックを積むのがけしからんとか言ってる。
この調子だともう北朝鮮にはお金は一円も送れなくなるな。
今まで野放し状態に比べれば仏様が鬼になったみたいだ。
万景峰号が出航を見合わせたことで右派はますます図に乗るだろう。
もう北はもたんな。
あと2〜3か月で世界は終わるというより、
あと2〜3か月後に日本の政治体制は一変しているというのが現実的予言かもしれんな。
1933年2〜4月のナチスによるドイツの保守革命のようなことになるかも。
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83
88年までは社会全体が同じ意識を共有していた。
しかし89年からはサル(=●)と人間(=☆)が分化した。
今までずーっと人間は絶滅したと思われていたが、近いうち再び姿を現すだろう。
なんか最近、何もかも不毛な感じがしてきた。
2ちゃんのスレッドも読む気しない。
これは世界の終わりが近いしるしか。
もう哲学板無意味
映画「マトリックス」は1960年代生まれの実感を表現している。
すなわちこの現実世界がすべてシミュレーションに思える感覚だ。
あらゆる文化はすでに死滅しており、我々は生命の絶滅したはるか未来から
現在を回想している。そしてこの超客観的意識はテレビ視聴が形成したものだ。
だから世界のリアリティを取り戻すのは簡単だ。
テレビのプラグを抜けばよい。俺はいま抜いた。
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_____★●●●●●●●●●●●●●●※←03(救世主降臨)
____★88_90_92_94_96_98_0001/_\_____
___★87_89_91_93_95_97_99_/02__\____
>32
「88年までは社会全体が同じ意識を共有していた」
つまり昭和(実質88年まで)の精神は一体だったということだな。
今日は一日まったくテレビを見なかった。
すると、なんだか「テレビの世界」というのがこの現実世界とは別な次元に浮いてるような気がしてきた。
と同時に古代中国や古代ローマが今と全然ちがわないような感じもした。
アイドルは完全に伝統的職業になった(例:松浦亜弥、モーニング娘)。
俺は今までテレビの世界に自己同一化してきたが、おかげであらゆる対象は意味を失った。
なぜならテレビの世界における主体は無限遠の地点から対象を認識するので、あらゆる対象への
距離は同一(無限だから)となり対象間の差異はなくなり意味は成立しなくなるのだ。
しかし、意味がなくなるのはわかっていたが、俺は世界の意味を徹底的になくさねばならないと
思い、その努力を20年以上続けてきたのだが、最近もうそんなこと続ける意味が感じられなくなった。
で、実際見るのやめたらテレビが浮いてきたのには少々おどろいたというわけだ。
しかしこのままテレビをやめて現実世界に戻ってしまうのも癪だなあ。
俺は今までまったく人間扱いされてこなかったから、できれば今のまま死にたいんだよね。
ノーベル賞100個分にも相当する俺の業績を誰にも教えることのない状態のままでな。
4月末くらい前の時点では「ぴったんこカンカン」や「見ればナットク」のような
70〜80年代の番組のレプリカがあまりにも普通に見れるので、このまま世界は安定するのかと
思っていたが、6月に入ってテレビ自体を見限る事態へと激変した。ということはあと2か月も
経つと、人間自体を見限る事態となっているかもしれない。ゆえに、
【今年の8月31日までに人類は滅亡する】
>>16 >>近代は液体の時代だったが、最近ふたたび世界は固体に戻った
>
>ていうかむしろ進歩の時代は先端部分だけが未確定で、確定するや否やどんどん固体化
>していたのが、進歩が終わるとすべてが流動化してきたというべきかもしれん。
いや、やはり実感としては近代が液体で、何も変わらない伝統社会が固体だ。
近代は先端部分だけが流動化しているのではなく、過去も含めすべてが流動的なのだ。
>39
>古代中国や古代ローマが今と全然ちがわないような感じもした
もちろんこれは錯覚で、古代の中国やローマは20世紀と比べればゆるやかながら
進歩はしていたので、進歩の止まった今の目から眺めるような世界とはちがう。
物理学に静止質量という概念がある。
進歩の時代において同時代体験として経験した文化と、それが一種の古典として
安定的に流通する状態として味わう文化では同じ文化(例:ビートルズ)でも
その主観的経験には雲泥の差がある。これを運動中の質量と静止質量の比喩で
とらえるのも無意味ではあるまい。
それでは伝統社会におけるレプリカ文化(例:松浦亜弥)は一定の時間が経過したあとでは
どのように想起されるのだろうか。これは多分オリジナルとレプリカの区別がつかないという形に
なるだろう。つまり100年後には松田聖子も松浦亜弥もいっしょくたになるということだ。
なぜかというと、それが伝統社会の定義だからだ。
こういうと、いや我々はモーツァルトやベートーベンと20世紀におけるそれらの
レプリカははっきり区別していると言われるかもしれないが、それこそが進歩の時代の
精神の成せるわざなのだ。まあモツやベトのネームバリューは今後も残るだろうが、
これからは18〜19世紀風のクラシック音楽(のレプリカ)も大量に製作されるように
なるだろう。
しかしそのように安定した伝統社会が出現するためにはなんといっても
人口が維持されていなければならない。今のような出生率1.3みたいな数値では
そのうち社会も文化意識も崩壊する。
安定的伝統社会の成立には、
1.適当な生命の危険
2.適当な貧困
3.適当な性的飢餓
が必要条件だろう
そしていま進行しているのが「適当な生命の危険」の捏造である。
いや、中国人の泥棒や強盗は本当に危険だと言われるかもしれないが、
彼らが横行できるのは今までの狂った戦後民主主義のおかげであり、
ある意味われわれのほうから犯罪者を呼び寄せたものとも言える。
そして現在進行中なのは言うまでもなく、北朝鮮との全面的対決だ。
これは日本人が自分から好んで危険を増大させているとしか思えない。
今までがあまりにも安全だったので、そろそろ日本人は平和に飽きたのだ。
べつにほっといても北朝鮮がそんなに脅威なわけはないのだ。
そして危険の捏造が軌道に乗ると、その次は貧乏を、
さらにその次は性道徳の引き締めを叫び出すだろう。
イラクで大量破壊兵器が見つからないという批判をそらすため、
もうすぐアメリカは何らかの口実を見つけて北朝鮮を叩くだろう。
今後もし徴兵制を復活させるようなことがあるなら、
その時は安楽死法もいっしょに通してほしい。
あるいは国民年金や健康保険の負担を高める時でもよい。
国民に厳しい生活を強いる時は「いやなら死ね」と言うために
安楽死できる状態にしておくのは必要不可欠だ。
安楽死法にはつけてほしい条件がある。
それは個人が指定した病院以外では死ねないようにしておくというものだ。
例えば俺が死にたくなったとして、近所のどの病院でも死ねたらすぐ死ぬかもしれないが、
俺としてはもう少しハードルがあってほしい。
できれば遠い場所にある病院を指定して、そこまで行かないと死ねないようにしたい。
そうすればある程度、覚悟が決まってからでないと旅立てないし、
そこに着くまでに気が変わるかもしれない。俺なら北海道希望かな。
大地震は人心が動揺した時に起きます。
安政地震は黒船直後、関東大震災は第一次大戦後の改造ブームの大変動期、
第二次大戦後の混乱期には大地震も頻発しましたし、阪神大震災はポストモダンが
限界に達した時でした。そして今、注目すべきは北朝鮮への超強硬姿勢です。
これは日本の社会体制が劇的な転回を遂げている証拠であり、大地震が起きても
おかしくない条件は満たされたといってもいいでしょう。
全人口の1%は楽に死ねたら死ぬとしよう。
自殺が合法化されたらこの1%の人は死ぬ。
しかしそれで自殺志願者がいなくなるとは限らない。
今度は残りの99%の1%(つまり最初からは0.99%)が死にたくなるかもしれない。
これを繰り返せば人類は確実に滅亡する。
だから安楽死は許されないのだろうか。
となると死にたいけど死なないで苦しみながらも生きている人間には特別手当が支給されるべきだ
ていうか、今みたいにうつ病がどんどん増えたり、生きていたくもないのに無理矢理
生かされているような老人が多いと社会全体の生きる意欲が減退するという効果も
あるかもしれないので、死にたい人というのは存在自体が悪なのかもしれない。
そうだとすれば死にたい人を排除することで社会の活力は増大し、出生率も上がるので、
やはり特別手当なんか支は給せず、どんどん追い込むべきかもしれない。
いまや日本は、対北朝鮮・準戦時体制です
×やはり特別手当なんか支は給せず
○やはり特別手当なんかは支給せず
フランスではカルトのことをセクトと呼ぶ。なぜか。
それはフランスでカルトと言えばデカルトのことだからだ。
「どうして人を殺してはいけないのですか?」
この問いは「どうしてモノを盗んではいけないの?」という質問に置き換えればわかりやすい。
本来モノは誰のものでもない。だから他人の「所有」物も強引に取り上げて誰からの
文句もはねつければそれは自分のものになる。自然とは本来そうしたものだ。
同様に人を殺しても誰の文句もはねつける自信があればべつに殺してもよい。
戦争とはそうしたものだ。
【あらゆる過去の出来事はきのうの出来事である】
これは伝統社会における過去認識のモードである。
あるいは、人間は年齢を重ねるにつれ過去を最近と感じるようになるという法則を表してもいる。
逆説的ではあるが20歳にとっての10年前より、40歳にとっての30年前のほうが近く感じられるのだ。
これを文明レベルに置き換えれば、進歩を卒業した新しい伝統社会に住む人間はあらゆる過去を
きのうのように感じるという法則が導けるのだ。
しかしおニャン子クラブの活動期間が2年半で、モーニング娘がもう5年半になるというのは
信じられない話だ。俺は「夕焼けニャンニャン」は10年にも感じられたが、それに比べれば
モーニング娘はまだデビューして1年にもならないような気がする。
「どうして人を殺してはいけないか」という問いに、殺していけない理由は何もない、
とする考え方がある。法とモラルを切り離す法実証主義という思想だ。
やはりこの考え方はおかしい。どうして人間からモラルだけ除外することができるのか。
「人間」という言葉には、その拠って来たる「モラル」も含まれている。
なぜなら「人間」とは何もないところからいきなり出現したものではなく、
何十億年にもわたる進化のたまものであり、その進化の過程である種の行動規範に
従ったものが人間へと進化することができたわけだから、人間と言うときはその進化の
過程で蓄積された行動規範を含むのは当然なのだ。そして生命の基本的行動規範に
「同一種族内で殺し合いはしない」というのがある。この原則のおかげで人間は人間になれた
わけだから、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いには、
それが進化の過程で身に付いた本能だからと答えるのが最も妥当だと思う。
というわけで、「人間」と「モラル」を分離することはできない。
ただしそれとは別に「どうして人を殺してはいけないの?」という問いで俺が感じるのは
「いかなる場合でも暴力はよくない」とする戦後民主主義への批判だ。
正義の暴力は認めないと秩序は守れない。つまりこれは憲法9条批判なのだ。
つまり法実証主義は戦後民主主義に利用されている。
国家権力なんかなくても人間は平和で豊かな生活を送れるはずだ、
というのは人間性が根本的に変化でもしなければ実現しないが、それには
いや、人間性などというのはいくらでも公理的に操作できるんだ、
と法実証主義をもとに反論してくる。だから今、法実証主義は批判されねばならない。
中世の哲学者は近代の科学者をレベルが低いと笑うだろう。
なんだ、おまえらは物質の存在を無条件に認めているのか、と。
同様に20世紀的人間から見ると、
21世紀的人間は快楽のみにしか興味のないサルにしか見えないだろう。
「がんがれ」「まんどくせー」「おながいします」
これらの2ちゃん表現に共通するのは口をほとんど動かさないで発音できるということだ。
例えば街なかを歩きながら独りで歌を歌う時、歌詞を口を動かさないで発音できる音に変えるのと
いっしょだ。「マジンガーZ」なら「そらにそいえるくろがねのしろー スーカーロオット
ナジンガーゼットー」にすればひとから見られても歌っているようには見えない。
「がんがれ」はそのパターンだが、あとの2つも「め」→「ま」、「ね」→「な」と
え行をあ行に変えている。これもできるだけ余計なエネルギーを使うまいとする意志の表れで、
2ちゃんの独り言文化性を証明している。
結局「女」という意味は無条件に受け入れねばならない世界の公理ということだな
若者の理数系離れは当然だ。社会の進歩がなくなったのに必死こいて科学を研究しても
むなしいだけだ。それと、言い尽くされたことではあるが数学や自然科学の世界に
どっぷり浸かると専門バカになって人間的魅力がなくなってしまうのだ。
やはりカネと女のことしか考えないオヤジの世界観は正しかった。
71 :
考える名無しさん:03/06/25 02:42
マルクスは歴史の原動力は生産力の増大だと言ったが、意識の進化にも似たようなことがある。
それは「意識進化の要因は情報量(=知識)の増大である」というものだ。
俺は今まで意識の進化としては、哲学や科学の発生みたいな思考方法の変化しか認めなかったが、
その方法(=パラダイム)の中で知識を拡大していくのも進化だと最近考えを改めた。
そして、その知識の拡大がある臨界点を超えると次元の飛躍が起きるのだ。
そして1977年に起きた意識のメタ化はその次元飛躍だった。
しかしその後1997年には意識は再び収縮に転じたので、結局1980年代が意識進化の
頂点だったと言えるだろう。
□△○回◎◇
▽▽▽☆▽▽
______
______
歩歩香歩歩歩
角金玉銀桂飛
「情報量の増大」とともに「意識の客観化」もどんどん進行していく。
しかし客観化を極限的に追求すると、自分が生命であることまで否定することになり、
その時点であらゆる意味は崩壊する。
だから哲学とは意味が崩壊するぎりぎり手前までいかに肉薄できるかを究めようとするものだ。
□△○回◎◇
▽▽▽☆▽▽
______
_歩____
歩_香歩歩歩
角金玉銀桂飛
世界の根源を探究する哲学者はあらゆる前提を拒否しなければならない、
とは言うものの「世界の根源を探究する」という行為そのものの中にすでに
名誉欲や権力欲が含まれているわけで、それは世界や他者の存在や、自分が
それらを認識していることが前提となっている。
しかし、それらの前提を認めた上でなお究極的に普遍的であろうとするなら
「私はあらゆる可能世界の存在者である」ということになるだろう。
□△○回◎◇
▽▽▽☆_▽
____▽_
_歩____
歩_香歩歩歩
角金玉銀桂飛
>「私はあらゆる可能世界の存在者である」ということになるだろう
これはどういうことかというと、私を私以外のものから区別するのが世界の存在や
それを認識することが可能な理由であり、他者に認められたいという欲望の原因なので、
思い切ってそこを否定することで最も普遍的な立場に立とうとするものだ。
すなわち、あらゆる他者(現実世界だけでなく可能世界でのも)は自分自身であると
すれば世界の存在や認識はすべて幻だということになり、無条件の設定は一切なくなるのだ。
□△○回◎馬
▽▽▽☆_▽
____▽_
_歩____
歩_香歩歩歩
角金玉銀桂飛 [角]
□△○回◎馬
▽▽▽☆_▽
____▽_
_歩____
歩_香歩歩歩
_金玉銀桂飛 [角]
□△○回_◎ [◇]
▽▽▽☆_▽
____▽_
_歩____
歩_香歩歩歩
_金玉銀桂飛 [角]
□△○回_◎ [◇]
▽▽▽☆_▽
____▽_
_歩_桂__
歩_香歩歩歩
_金玉銀_飛 [角]
□△○回_◎ [◇]
_▽▽☆_▽
▽___▽_
_歩_桂__
歩_香歩歩歩
_金玉銀_飛 [角]
□△○回_◎ [◇]
_▽▽☆_▽
▽___▽_
_歩_桂_歩
歩_香歩歩_
_金玉銀_飛 [角]
桂馬跳ねたのはよくなかったかな
□△○回_◎ [◇]
_▽▽☆_▽
____▽_
▽歩_桂_歩
歩_香歩歩_
_金玉銀_飛 [角]
まあてきとうに
□△○回_◎ [◇]
_▽▽☆_▽
____▽_
歩歩_桂_歩
__香歩歩_
_金玉銀_飛 [角歩]
_△○回_◎ [◇歩]
_▽▽☆_▽
____▽_
□歩_桂_歩
__香歩歩_
_金玉銀_飛 [角歩]
_△○回_◎ [◇歩]
_▽▽☆_▽
____▽_
□歩_桂_歩
_角香歩歩_
_金玉銀_飛 [歩]
飛車か金かどちらか取られる
_△○回_◎ [◇]
_▽▽☆_▽
___▽▽_
□歩_桂_歩
_角香歩歩_
_金玉銀_飛 [歩]
_△○回_◎ [◇]
_▽▽☆_▽
___▽▽_
角歩_桂_歩
__香歩歩_
_金玉銀_飛 [飛歩]
飛車をもらう
_△○回_◎ [◇△]
_▽▽☆_▽
____▽_
角歩_▽_歩
__香歩歩_
_金玉銀_飛 [飛歩]
_△○回_◎ [◇△]
_▽▽☆_▽
____▽_
角歩_歩_歩
__香_歩_
_金玉銀_飛 [飛歩歩]
ところで世界が瞬間ごとに分岐しつづけて無限の並行宇宙があるとしよう。
その並行宇宙のなかには自分が大成功して何もかも思いどおりという世界もあるはずだ。
そういう世界が本当に存在するなら当然俺はそういう世界に住みたい。
しかし実際には俺はこの歴史世界でとんでもない目に遭ってきた。
俺個人がこんな歴史を選択するはずはない。
ということは、この世界の主体は俺ではないという証拠だ。
現行の歴史世界は結局、世界を統括する全体意志の都合で選択されたものらしい。
_△○回_◎ [◇△▽]
_▽▽__▽
____▽_
角歩_☆_歩
__香_歩_
_金玉銀_飛 [飛歩歩]
_△○回_◎ [◇△▽]
_▽▽__▽
____▽_
角歩_☆_歩
__香歩歩_
_金玉銀_飛 [飛歩]
_△○回_◎ [◇△▽▽]
_▽▽__▽
____▽_
角歩___歩
__香★歩_
_金玉銀_飛 [飛歩]
★は香車の成り駒
_△○回_◎ [◇△▽▽]
_▽▽__▽
____▽_
角歩___歩
__香銀歩_
_金玉__飛 [飛香歩]
_△○回_◎ [◇▽▽]
_▽▽__▽
___△▽_
角歩___歩
__香銀歩_
_金玉__飛 [飛香歩]
けっこう面白いなあ。これ。
_△○回_◎ [◇▽▽]
_▽杏__▽
___△▽_
角歩___歩
___銀歩_
_金玉__飛 [飛香歩歩]
「杏」は成り香
_△_回_◎ [◇☆▽▽]
_▽○__▽
___△▽_
角歩___歩
___銀歩_
_金玉__飛 [飛香歩歩]
_△_回_◎ [◇☆▽▽]
_▽○__▽
___△▽_
角歩_銀_歩
____歩_
_金玉__飛 [飛香歩歩]
銀上がる
_△_回_◎ [◇▽▽]
_▽○__▽
☆__△▽_
角歩_銀_歩
____歩_
_金玉__飛 [飛香歩歩]
_△_回_◎ [◇▽▽]
_▽○__▽
☆__銀▽_
角歩___歩
____歩_
_金玉__飛 [飛桂香歩歩]
おっと見損じか。桂を取ったら銀で取り返せないぞ。
_△_回_◎ [◇◇▽▽]
_▽○__▽
___銀▽_
☆歩___歩
____歩_
_金玉__飛 [飛桂香歩歩]
_△_回_◎ [◇◇▽▽]
_▽○飛_▽
___銀▽_
☆歩___歩
____歩_
_金玉__飛 [桂香歩歩]
詰んだか?
_△__回◎ [◇◇▽▽]
_▽○飛_▽
___銀▽_
☆歩___歩
____歩_
_金玉__飛 [桂香歩歩]
_△__回◎ [◇◇▽▽]
_▽○飛香▽
___銀▽_
☆歩___歩
____歩_
_金玉__飛 [桂歩歩]
終わったな
_△__回_ [◇◇☆▽▽]
_▽○飛◎▽
___銀▽_
☆歩___歩
____歩_
_金玉__飛 [桂歩歩]
一応最後まで
_△__回_ [◇◇☆▽▽]
_▽○_龍▽
___銀▽_
☆歩___歩
____歩_
_金玉__飛 [金桂歩歩]
先手2二龍までで先手の勝ち
身体も言語も自己ではない。感覚経験のみが自己である。
自分は主体的に考えてるつもりでも、ほとんどは外的条件同士
(自然環境&社会環境 ⇔ 身体&言語)が勝手に反応してるだけだろう。
そして、それは「ほとんど」ではなく「完全に」なのかもしれない。
(つまり自己は幻)
世界は芝居。
そう考えれば社会も歴史も経済も技術も言語も物質も生命も全部受け入れられそうな気がしてきた。
>>17 >【今年の8月31日までに人類は滅亡する】
これ当たるかも。最近俺は何もかも終わったと痛感するようになった。
ベッカム、ハリー・ポッター、早大レイプ事件、オールスター不正投票・・・すべて無意味。
やはり阪神が快進撃する年、世界は終わるらしい。
1985年は8月12日の日航機墜落が決定的だったので、今年も8月12日は要注意だ。
112 :
考える名無しさん:03/07/06 02:38
エヴァンゲリオンに第三新東京市という言葉が出てくるが、これはある意味正しい。
第一東京市=旧東京15区
第二東京市=東京23区
第三東京市=首都圏一都七県
このように俺は考えているわけだが、ここで「東京市」を定義する必要がある。
俺の考える東京市の定義は「旧江戸市街から発展した街で、市街地が連続している
区域を包み込む範囲」というものだ。ただしここで「包み込む」と言っているのが
キーポイントで、中心市街地とは違って周縁地域は完全に家で埋まっていなくてもよい。
さて、こう定義すると、どうして1932年に旧東京市15区が大東京35区に拡大しなければ
ならなかったかが説明できる。それは旧市域全体が街で埋まったからである、と。
実際、大震災後東京は旧市域外に一気に拡大したことが知られている。俺に言わせれば
関東大震災とは東京が旧市域(=大江戸の範囲)の枠組みを突破する時に起きた一種の
儀式のようなものだ。昭和初期のモダン文化の革命は都市の拡大過程でもあったのだ。
そしてもはや東京23区内が家で埋まってからも久しいが、東京が23区の範囲を超えたのを
象徴するのが1968年の文化革命だと思う。1968年、東京は確かに23区の境界を突破した。
しかしここで成立とた第三東京市には明確な境界はなく、その後ずるずると拡大していき、
21世紀の現在は関東地方に山梨県を加えた範囲を「東京市」と言っていいと思う。
その場合の中心市街地とは横浜〜立川〜大宮〜千葉を結ぶラインと考えて間違いなかろう。
最近興味深い事件があっていろいろニュース系の板を覗いているのだが、
いつのまにか「ニュース速報+」が圧倒的存在になってるなあ。
少し前はまだ「ニュース速報」と勢力拮抗してたと思ってたのだが。
俺はかつて第二次大戦以後の歴史しか読む気がしなかった。
しかし1920〜30年代が高度な大衆社会だったと知ってから戦前の歴史も
好んで読むようになった。
その後、江戸時代の大衆文化もけっこうなものと思うようになり、
江戸時代にも意味を感じるようになった。
しかし室町時代以前はまだ無理だ。南北朝時代に日本文化の原型ができたという話もあるが、
どうも足利尊氏の戦乱も、応仁の乱も、人気抜群の織田信長にしても、広域暴力団同士の
抗争にしか見えないんだよな。
しかし、それを言うなら江戸時代から戦後の歴史にしても
暴力団の抗争以上のものではなく、意味なんて本当は何もないんだろうな。
しかし本能寺の変からは俄然おもしろくなる
理性)(意味 → 理性と意味は反比例する[ただし )( は反比例を表す記号]
理性 )( 意味
ナポレオンとヒトラー、リンカーンとケネディのように偶然とは思えないほど似通った
運命を辿る人がいるが、この現象はたぶん一般の有名でない人の間にもあるはずだ。
そこで、一時話題となった「アガスティアの葉」のように何万という実際にあった人生のパターンの
データベースを作れば、誰でも自分が辿った人生と同じパターンを発見できるのではないか。
しかしそうなると自分の未来の運命までわかることになって、誰も見たがらないかもしれないが。
孫悟空がどれほど遠くまで逃げてもお釈迦さまの手のひらの上という寓話は、
どんなに意識の客観化を極めて世界の外に出たと思っても、
結局は世界の中から出れていないと言う意味だろう。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
ていうかブッシュ大統領こそ真の救世主である。
アメリカの圧倒的な力はすべてのおしゃべりを無効化すると同時に
現在の閉塞状況を一気に突破してくれるのだ。
あらゆる歴史はリセットされ、まっさらな状態から人間は再スタートするのだ。
これ以上の宇宙的救済があるだろうか。
しかしアメリカがすべての借金を棒引きにしろと言ってきても最大限の抵抗はする。
吉野家のコピペとは何か。
それは、ある文章の形式を残したまま内容を全然べつの対象に置き換える作業のことだ。
つまり、われわれは人生の中で多様な体験をしていると思っているが、
それは実はごく少数の構造に還元されるものかもしれないのだ。
例えば「吉野家」の場合は、
1.どこかで他人が月並みな行為をしている
2.それは通のやり方ではないとツッコミを入れる
という構造に還元されるが、それではあらゆる文が還元されるような普遍的構造は何かというと、
1.何か出来事がある
2.それについて自分はこう思う
となるだろうが、ここから出発してあらゆる文は網羅できるだろうか。
>1.何か出来事がある
>2.それについて自分はこう思う
しかしこんな文は単なる感想であって科学的とは言えない。科学的文とは、
1.A→Bという現象はPという原理で説明できる
2.この原理Pを現象Cに適用すると未知現象Dを導くことができる
というものだからだ。こういう形式のコピペが流行ったのが近代科学の歴史だと言える。
一般に男は女よりエライと思っている。
男と女は将棋と数学の関係のようなものだろう。
しかし、単に経済のシステムに従って仕事をしているだけの男が、
単に子供を作るという仕事に専念しているだけの女よりエライと言えるだろうか。
自分の行為の自覚がないという意味では同じ穴の狢である。
真にエライと言えるのは、人間意識の根源までさかのぼってあらゆる行動の意味を
自覚している人間だけだ。
言い換えれば、男の意識は女よりメタ的である。しかしたいていの男には、そのメタ意識の
自覚はない。それではメタ意識を自覚する意識はメタメタ意識なのかというと、それも違う。
現象と認識は全然次元の違う話なのだ。1977年以降、人間の意識は十分にメタ化している。
しかしそれに関する理解(=言葉による自覚)は不十分である。
いま必要なのは「意識のメタ化」を正確に表現する言説である。
2ちゃんねるに対する弾圧が強まっている。
最高裁でひろゆきに有罪を下した裁判官は
2ちゃんの総力を結集して
次の総選挙で罷免しなければならない。
「マイブーム」という言葉があるが、俺は最近「マイブレイクスルー」という言葉を発明した。
それは、なにかのジャンルに対する興味が湧くキッカケを与える対象のことで、
例えば俺は最近NHK教育TVの化学講座で「カルボン酸とエステル」の回を見て、
初めて化学が面白そうだと思ったのだが、この場合の「カルボン酸とエステル」という
対象が俺に化学というジャンルに興味を湧かせてくれたマイブレイクスルーだった。
そのほかにも俺は戦前の歴史にまったく興味がなかったのだが、四方田犬彦という人が
「20世紀で面白いのは1920年代後半から1930年代前半と1960年代後半だ」と書いているのを
見て、1930年前後の時代への興味が掻き立てられたし、まったく読む気がしなかった
江戸時代の歴史も文化文政時代の大衆文化から入っていくことができた。
このように、何かのジャンルに入っていくにはキッカケが必要だと思うのだが、
今の教育はこのキッカケをできるだけ生徒に与えないようにしている節がある。
ていうか、文化的自覚のある教師なんてほとんどいないのだ。自分がどうやって
あるジャンルに入っていったかなんて忘れているから興味の回路が未形成な生徒に
知識を与えてテストすればいいと単純に思ってしまうのだ。
しかし学問とは知識ではなく「世界」なのだ。あるジャンルの興味回路が形成されると
いうことは、そのジャンルの世界に参入することであり、その参入こと教育の目標でなければ
ならない。しかし90%以上の人間は知的世界を拒否する。それがあまりにも理性的で
その世界しハマると快楽を失うと思うからだ。だからそんな90%の人間に教育なんて
ほどこす必要はない。大学なんて日本中に5つもあれば十分なのだ。
あとはすべて資格を取るための専門学校でいい。
アメリカによる歴史のリセットは確かに重要な仕事ではあるが、
最終的にアメリカが世界から信頼されるかどうかはわからない。
現にイラクではゲリラ攻撃に悩まされている。
ことによると日本が世界の盟主に祭り上げられることになるかも。
しかし今年が激動の年になることは前からわかってた。
なぜなら今年は逆回転して1996年に対応する年だからだ。
そしてその1996年というのは1960年代の若者文化の台頭と似たような変化が
一気に起きた年だった(例:アムラー、援助交際、10月あたりの意識の大収縮)。
そして今も「意識の大収縮」に似た「歴史のリセット」が起きている。
この動きは来年本格化し、1995年のオウム事件のような大騒ぎになるだろう。
福田和也が書いたアメリカ帝国論(「諸君」6〜8月号)には感銘を受けた
「エンタクシー」で柄谷行人がインタビューで
「アメリカの帝国支配は長続きしない」と発言してたのにも。
>この動きは来年本格化し、1995年のオウム事件のような大騒ぎになるだろう。
これは北朝鮮だな。来年はいよいよ北朝鮮が崩壊するだろう。
>>121 >アメリカの圧倒的な力はすべてのおしゃべりを無効化すると同時に
>現在の閉塞状況を一気に突破してくれるのだ。
「すべてのおしゃべり」っていうか、主としてサヨクの妄想が一掃されつつあるな。
来年は北朝鮮といっしょに朝日新聞もあぼーんかな。
しかし実はサヨクも俺も進歩主義という点ではいっしょで、俺の「何もかも拒否する病」も
来年には治るかもしれん。実際いま物質や言語を受け入れかけている。
あとは何か特定の対象がマイブレイクスルーとして働いてくれればいいのだが。
今年4〜5月、白装束集団で大騒ぎしたのは戦後民主主義の葬式だったのかもしれん
134 :
考える名無しさん:03/07/21 19:48
予言しよう。2ちゃんねるは来年で終わる。
なぜなら来年2004年は1995年(=インターネット元年)の逆回転だからだ。
来年は北朝鮮と日本の戦後民主主義体制も崩壊する。
その後、2008〜2012年に最後の崩壊が起きて今の文明は事実上終わりを迎えるのだ。
135 :
考える名無しさん:03/07/23 21:35
そうか、とうとう始まるのか、戦争が。
俺のところにも赤紙がくるのかな。
MMRよ永遠に
脱力革命始まる
138 :
考える名無しさん:03/07/31 02:41
出生率1.33という急激な少子化が進行している。
しかしテレビなどのメディアでは「少子化を恐れるな」という意見が圧倒的である。
俺はそういう意見を言うやつは全員死刑にするべきだと思っている。
少子化を恐れなくていいわけないではないか。放置すれば日本民族滅亡だ。
そもそもこの「少子化を恐れるな」という意見は戦後民主主義という妄想的思想に由来している。
それは国家権力などの制約を悪魔と見なし、あらゆる制約のない状態が人間社会の理想状態だという
考え方だが、これは明らかに狂った思想である。何の権力もない状態というのはすなわち無政府状態
のことだが、これでは暴力のみが支配する世界になってしまい、理想社会とはほど遠い。
さらに彼らは結婚制度を否定し、自由恋愛のみが純粋な男女関係だと主張する。
しかし、この自由恋愛主義が少子化をもたらした張本人なのだ。なぜか。
一般に女性は十代後半から二十代前半にかけて爆発的な魅力を発散するが、
この時この女性本人が一番好きな男と関係を持つことを望めば簡単に肉体関係を得ることができる。
なぜなら男はこの世代の女はたいてい魅力的に映るので据え膳を拒むことはない。
しかし、そういう男はたいてい多くの女と同様な関係を結ぶので、彼と関係しても子供を産む
ところまでいくケース(=結婚)に至るケースはごくまれである。しかし自由恋愛主義においては
最も好きな異性の子以外は産むべきではないという原理が働いて、この女は他の男と結婚する気には
ならないし、この男も結婚せずにできるだけ多くの女と関係を持とうとするからなかなか子供は
できない。その間、多くの「もてない男」はパートナーを獲得できずに苦しむことになる。
結局「自由恋愛」というのは自由に遊び回る環境と能力に恵まれたごく一部の人間にとって
都合のいい考え方であり、はっきり言えば水商売とマスコミ業界だけに通用するイデオロギーで
あって一般社会全体がそれでやっていけるような思想ではない。
結婚制度や、結婚まで純潔を守るという考え方は今こそ復権しなければならない。
139 :
考える名無しさん:03/07/31 02:48
>>138 もし今、食料輸入を止められたら、日本民族は滅亡だ。
泡食って田畑作っても、とてもこの国土では1億2500万人分の食料
自給などできない。
ただ人数を増やせば良いと言う発想こそ亡国論だ!!
140 :
考える名無しさん:03/07/31 03:49
少子化と戦うには日本国民が一致団結するのが望ましい。
@若い男女がペアになって団結するのが望ましい
A毎晩団結するのが望ましい
Bゴムはしないのが望ましい
団結しろよ!
最近感動したこと。三浦展氏の流行世代15年周期説。
>139
食糧自給率がどうのというのは話のすり替えだ。
問題は今の自由恋愛や若年性交の野放し状態で、性の分配がうまくいっているかどうかだ。
はっきり言って今の「自由恋愛」体制を謳歌できるのは道徳的欠陥人間のみであり、まともな
人間はなんの約束もなしに女とつきあうことに後ろめたさを感じ、身動きができなくなるのだ。
さてそこで俺は「恋愛登録制」(準結婚ともいう)を提唱しているのだが、その話はまた今度。
マーケッターの三浦展氏の世代論。
団塊世代=1948年生まれ中心、新人類世代=1963年生まれ中心、につづいて
1978年生まれ中心を「真団塊ジュニア」と定義して、90年代以降の文化現象
(例えば1993年からのJリーグブームや女子高生ブーム)を見事に説明。
浜崎あゆみ(1978年生まれ)は「真団塊ジュニア」の代表として活躍している。
144 :
考える名無しさん:03/08/09 22:34
【恋愛のルール】
1.別れる時の手切れ金は常に男が女に払う。
男がわざと女に嫌われるようにふるまって「女から逃げていったんだ」という
言い訳は許さない。なお、女は手切れ金目的で男とつきあってもよい。
2.手切れ金は一年未満100万円、二年未満200万円、以下一年につき100万増額とする。
なお、交際中一万円以上の物品をプレゼントした場合はその総額の半分を
手切れ金から差し引くことができる。
3.恋愛関係にある人間は常に恋愛登録証を携行していなければならない。
登録証なしに二人連れで街を歩いていると恋愛警察につかまり罰せられる。
4.ヤミ交際で子供ができた場合の責任はすべて男の側にあり、その場合男は結婚するか
それを拒むなら懲役の実刑となる。
どうだ。上出来だろ?
これで働いていない男は女とつきあえなくなるので、大学生は激減するだろう。
どうせ大学の勉強が役に立つやつなんかほとんどいないんだから、それより女と
つきあうために働いたほうがよっぽど社会的にも有益だ。高校にも行かなくなるかもな。
145 :
考える名無しさん:03/08/09 22:35
救世主に大も小もねーぞ
>145
スレタイは単なる目くらましだから気にするな。
あと俺が考えた恋愛のルールには「初対面から一ヵ月以内はH禁止」というのもある。
出会ってすぐHしたら売春と区別できなくなるからだ。
これらの恋愛法が採用されれば社会は見違えるほどよくなるだろう。
また、公的に採用されなくても個々人が俺の恋愛ルールを採用してつきあう女に提示してもよい。
宮台真司と宮崎哲弥が対談で、男についてはSEXの一極集中がすごいと言っている。
ではどうしてこの片寄った状況を是正しようとは思わないのか。
それは彼ら自身がそのごく一部の快楽集中者だからだろう。
こういう低級なやつらがリーダーづらしてふるまってるから状況は改善されないのだ。
148 :
考える名無しさん:03/08/10 20:25
スマソ、なんかパソコンの調子が悪くて
ageないと自分の最新の書き込みも読めないので
ageさせてもらう。
149 :
考える名無しさん:03/08/10 20:32
+だから恋愛にルールなんてないって
存在と認識の関係が逆転してきた
151 :
考える名無しさん:03/09/08 11:50
1977年の文化変容は60年代生まれと70年代生まれには正反対に作用した。
77年の文化変容とは世界をメタレペルから見下ろすような意識の成立のことだが、
60年代生まれの意識はメタレベル(=テレビの意識)に閉じ込められたのに対して、
70年代生まれはテレビ文化を下らないものとして相対化した。
だから70年代生まれは無邪気に活字文化に没入できるのだ。
火曜日と木曜日は「藤井隆の笑っていいとも」にすればいいのに
NTTドコモはひきこもり支援基金を設立するべきだな。
最も偉大なひきこもりである俺様のアイデアで何千億円も儲けたんだからな。
その支援基金を設立すれば俺個人は一円ももらわなくていい。
154 :
考える名無しさん:03/09/21 17:12
インターネットは文字も画像も音声も扱えるからマルチメディアだというが、
その前のテレビも写真・レコード・映画・ラジオなどの特性をすべて兼ね備えた
マルチメディアだったわけだし、そもそも言語・文字・活字もマルチメディアだった。
つまりある時代の精神はその時代を支配するマルチメディアの性質によって決まるわけだが、
インターネットは文字や活字同様ストックの文化なので現代人の精神は安定した。
しかしテレビはフローの文化であり、この時代の進歩の加速度と相俟ってテレビ世代の精神は
極限レペルまで超越化し、ついには普遍的意識(=死の領域)にまで達した。
このレベルから見ると現在の文化状況はすべて無意味に思える。そういう人間がひきこもる。
しかし実際には世界は終わることなく持続しているわけで、世界は無意味だと思う感覚は特殊な
異常状態だと判断されねばならない。しかし、その困難な状態でしか発見できないことがあったのも
事実であり、それをすべてキチガイ扱いするやつは皆殺しだ。
155 :
考える名無しさん:03/09/26 11:13
ひきこもりというのは要するに神経回路の発達障害だ。
乳幼児期に体を動かさずテレビばかり見ていると物質の存在を実感する回路が形成されない。
しかし世界を客観的に眺める理性だけはある程度発達するので10歳あたりで妙に禁欲的になり
その道徳的潔癖性が第二次性徴と呼ばれる感情的発達を阻害してしまうのだ。
156 :
Sandalphon:03/09/26 11:36
俺なんかにあっさり乗っ取られるようなスレは、それこそ成仏すればいいのさ。
勿論、俺がいる限りは成仏させてはやらんがね。
はっきり言って、俺は哲学の知識も才能もゼロだよ。本当に哲学的な議論が巻き起
こったら、尻尾を巻いて逃げ出すだろうね。だって馬鹿の癖にもっともらしい発言
をするなんて、恥ずかしいじゃないか。でもね、俺は俺なりに、社会と人間について
真剣に考えてもいるのだ。哲学的ではないかも知れぬが、少なくとも駄弁ではない
と自負している。俺の議論だって、哲学板において全くの無価値という訳ではない
だろう。しかしこれを換言すれば、私の存在の無価値が暴露されてしまえば、私は
ここから退散せざるを得なくなるに違いない。そしてこの、私の理念的不正義の暴露
こそ、他ならぬ君達の役目だよ。立ち上がれ、哲学徒よ!
リュディアで作られた世界初の鋳造貨幣が港町ミレトスで大量流通することで哲学は
発生したわけだが、それ以前にも銀という普遍的交換手段はあった。
しかしそれはあくまで民間貨幣であり物質としての銀の価値から離れるものではなかった。
しかし国家による鋳造貨幣は貨幣の価値を国家が保証することで価値が物質から分離する。
このことが精神の自律を生み、哲学や文学のビッグバンが起こることとなったのだ。
159 :
考える名無しさん:03/10/03 12:03
ほらほら十勝沖でM8の地震が起きただろ。1994年にも同じような地震は起きている。
来年が1995年のような年になる前兆だな。あとシュワ氏が加州知事に当選したら95年の
青島・ノック現象の再来のようでますます危ない。
【人類の進化=テクノロジーの進化】
であって社会制度や思想、意識の状態などは関係ない。
この定義によってニューエイジ思想(人類意識の進化論)
の呪縛から脱出することができる。
小此木啓吾の死はモラトリアム時代の終わりを意味する
「歴史の終わり」の哲学者コジェーブは歴史が終わった1968年に死んだ
歴史の60年周期説に従えば、2005年は1945年のようになる。
自由恋愛は犯罪行為とされ、数多くの有名人がレイプ魔として糾弾されるだろう。
|いまの世の中、性体験が早いほど人間的にも早熟で
|すぐれたことだという考えがまかり通っているようだが、まちがいだ。
|なぜなら人間が人間であるのは欲望とか世界のあり方をそのまま受け入れることなく、
|いったん否定して世界がなぜそうなっているかを認識するところにあるから。
|性交するだけなら動物は生後一年以内にやり始める。
|性交が早い=性的早熟とは、すなわちDQNということだ。
「売春は世界で一番古い職業だ」という言い方があるが、
正確に言うと「女」と「貨幣」が一挙に成立し、
「経済」というものが成立すると同時に、
人間にとって「意味」というものが初めて立ち上がったのだ。
アルカイダが東京の心臓部を破壊すると言っている。
オウムにとって「東京の心臓部」とは霞ヶ関のことだったが、
今回は渋谷のスクランブル交差点かもしれない。
現実に絶望すると人の脳には「近いうち世界はまったく新しいものに生まれ変わる」
という革命幻想を抱く機能があるらしい。
理性というのは現実否定的な働くので、常に理性的にものを考える人間は世界全体を
否定的に見るようになり、それと同時にまもなく今とは違うまったく新しい理想世界が
出現するという革命幻想を抱くようになる。20世紀最大の災厄である共産主義は
このような心理メカニズムによって発生し猛威を振るった。
そしてサヨクは今だに何らかの革命を夢見ているらしく、監視カメラや住基ネットに
わけもなく反対している。それがどう有害であるか彼らは説明できない。当たり前だ。
犯罪を助長して社会が混乱すれば革命が起きると信じてるなんてとても言えないから。
しかもその革命の内容自体、彼らはまったく具体的に描けないのだ。
しかし彼らはこう言うだろう。今まで誰も想像もしたことのないことが起きるから革命なのだ、と。
しかしそんな革命なんか歴史上かつて一度たりとも起こったためしはないのだ。
絶対王政を倒して民主政体に変えたのが歴史上もっとも成功した政治変革だと思うが、
もちろん彼らの言う「革命」はこんな生ぬるいものなんかじゃない。彼らの言う革命とは
人間の精神形態を根本から変革するものなのだ。そんなこと起きるわけがない。
そのようなありえない革命が起きると予感するのは人間の脳特有の錯覚なのだ。
「もう何もかも終わった」「すべてはパロディでしかない」
というテレビ世代の感覚も革命幻想を呼び覚ます。
そして新しい世界を出現させるためにはこの世界をいったん終わらせねばならない、
という感覚をみんなが持つようになるとこれはかなり危険である。
俺にはブッシュの戦争もそれに反発するテロもテレビが人間に植え付けた
終末感覚(「もう何もかも終わった」)のなせるわざに思えてならない。
この破壊はその錯覚性に気付かなければ永遠に続くだろう。なぜならそれは、世界を
徹底的に破壊すればいつか完璧な理想世界が出現するはずだという狂信によるものだから。
パラサイトシングル増加の原因はわかり切っている。婚前Hの容認だ。
ふつう結婚という形で女を経済的に庇護することが女とHしていい理由なのだが、
経済抜きで誰とでもHしていいなら誰も結婚なんかするわけない。
さらによくないのはその自由化でHのタブーが薄れ、欲望自体が成立しなくなることで、
これが多分「ひきこもり」の原因だ。自由恋愛こそ諸悪の根源である。
自由恋愛というのは一種の普遍主義だ。
それは「恋愛に金銭などという不純なものを持ち込むな」というものだ。
しかし実は恋愛と金銭は共進化したのであって、金銭を否定すると恋愛も成立しなくなるのだ。
カントも言ったではないか。愚かな鳥は「空気がなければもっと速く飛べるのに」と思う、と。
□△○回◎◇ → □△○回◎◇
▽▽▽☆▽▽ → ▽▽▽▽▽▽
______ → ______
______ → ______
歩歩香歩歩歩 → 歩歩歩歩歩歩
角金玉銀桂飛 → 角金玉銀桂飛
玉頭の香車は歩に変える。ただし持ち駒の歩は以下のような駒として使えることとする。
歩1枚=1マス前進できる駒(歩)。後手は(▽)。
歩2枚=1〜2マス前進できる駒(日)。後手は(:)。
歩3枚=1〜3マス前進できる駒(品)。後手は(∵)。
歩4枚=1〜4マス前進できる駒(田)。後手は(::)。
歩5枚=1〜5マス前進できる駒(香)。後手は(☆)。
ただし、歩2〜5枚の成り駒は(杏)(★)とし、すべて金の動きとする。
歩2枚の後手=(・・)
歩4枚の後手=(::)
ミニ将棋は香車をやめて歩に変える(だけ)というシンプルな結論になりました
ところでこの2ちゃんのページを早送りする時マウスを押しっぱなしにする領域は、
その上に矢印が乗ったら赤かなんかに変色してほしいなあ。
そうすればいちいち乗ってるかどうか確認しなくても早送りできる。
いまヒトラーの「わが闘争」読んでるのだが、1924年の時点ですでに現在の問題は
出揃っていたのだな。ただし今の社会ほうがはるかに腐っているとは思うが。
特に自由恋愛。
「わが闘争」上巻読了。ヒトラーには思想的奥行きがない。
こいつはトントン拍子で成功して物事を深く考えた形跡がない。
リベラル打倒運動と反ユダヤ主義がドイツでたまたまマッチしたからナチは成功しただけだ。
ユダヤ人を排斥するだけでは問題の根本的解決にはならない。
やはりヒトラーを低能扱いするのは正解だったな。もう下巻読む気しない。
ユダヤ陰謀論では中国の共産化が説明できない
179 :
考える名無しさん:03/12/11 05:40
まだまだ。
180 :
考える名無しさん:03/12/11 05:46
ヒットラー万歳ー
181 :
考える名無しさん:03/12/11 05:57
>>168 >人間の精神形態を根本から変革するものなのだ。そんなこと起きるわけがない。
>そのようなありえない革命が起きると予感するのは人間の脳特有の錯覚なのだ。
起きる可能性はある。現代における危機は、かつての民主主義に謳われたような
自由と責任、これが大きく揺らいでいることにある。科学、技術の発展で
我々はこれが幻想ではないかと思うようになった。しかし、
時代の人間観は、これから大きく変わっていく。それは、遺伝子などの未来技術によって―
あるいは、ハード(革命)から、ソフト(革新)かもしれない。
脳の錯覚、言い方がまずい、少なくとも次の時代へ、突き動かしてきたものがある
自衛隊派遣決定とともに、ここ1〜2日で集団レイプ禁止法、少年凶悪犯実名報道、
電話加入権の紙クズ化、裁判官6名解任などの社会変革の動きが一気に噴出してきた。
こういう動きがこれからますます昂進して来年は1995年のような大変動の年になるのだ。
95年のようなテロや災害も起きるに違いない。来年何も変化しないようならもうダメだろう。
俺の予想だと今後日本はアメリカと中国の中間に立って世界政治のバランス装置として
そこそこの政治力と尊敬を獲得するようになると思うし、それを目指すべきだ。
1993年の日本新党のようなもんやな。弱小政党なのに政権を獲得した。
そしてそのとき世界総統として君臨するのがこの俺様というわけだ。
>>181 俺の言う「ありえない革命」というのは、これまで信じられてきたことが実は間違いでした
というレベルのものではなく、人間が物質的存在を卒業して精神的存在へ進化するとか、
あるいはその「精神的存在」をも越えて、今の我々では想像もできないような形態へ進化する
などというような妄想的ニューエイジ思想のことなのだが、これには俺もさんざん苦労させられた。
「どうして認識を超越した世界がないと言い切れるのか」なんて設問自体がそもそも矛盾してる。
しかし、それでは「その設問がどうして矛盾してると言えるのか」などと考え始めるとキリがなくなるのだ。
しかしそんな俺も今では「なんであんな意味のないことを延々と考えてたんだろう」と思えるようになった。
どうして人間(の文化)は動物化したのか。
それは「人間」であることのハードルがどんどん高くなって、
これ以上「人間的」であろうとすると必然的に「非人間的」になってしまうという
逆説的状況に達したからだ。
近代において人間的=進歩的という意味だが、
1980年以降、テレビによってメタ化した意識の状態でなおも進歩的であろうとすると、
人間的感情を犠牲にしなければならなくなる。
その、あらゆる人間的感情をそぎ落とした状態で、徹底的に形式的真理を追求するのが
ポストモダンにおける人間の条件なのだが、この努力を持続させた人間は極めて少ない。
ていうか俺以外に誰かいるのか?
進歩的態度とは「あれは終わった、これも終わった」という作業を続けることだが、
最終的には「何か言うこと」自体がもう終わったと感じられるようになる。
世界の死、または世界没落体験だ。しかし、この世界が終わったという感覚はあくまでも
主観的なものであり、客観的に世界が終わってるわけではない。あらゆる文化が終わった
という感覚はけっこう強烈なもので、自分が卒業した文化は幼稚園のお遊戯にしか見えなくなる。
政治もビジネスも音楽も数学も恋愛も、あるいは何か言うこと自体もすべてお遊戯でしかないと
なると自分が再びそこに戻ることなど考えられなくなる。いい大人が再び幼稚園に入るなんて
考えられないように。しかしそれは、実際に戻ってしまえばけっこう安楽な世界なのだ。
俺もそろそろ進歩の努力は放棄してラクな世界に戻ろうかと思いはじめている。
>>183 少し勘違いしてた。よく読まずに書き込みしてた。ご免よ
漏れの言いたいことは、
>>161に近い。
で、気になった事を。その設問について
世界全体とは何か?つまり、関係のある範囲はどこまでか?という捉え方は
一般に、全体として捉えることの重視と理解されている。しかし、
そんな広い視野を誰がもてるのだろうか。重要なのは、その本質、
あらゆる事象が相互依存、すべての物事が関係し合って生まれていることにある、と思う。
認識や理解を超越している=関係がない範囲外、と宣言した後に、その有無を問うのは矛盾する。
また、難解なものに感じられるかもしれないが、設問(問うこと)自体が矛盾してると言うのは、
哲学(西洋の考え方からすれば)では、語り得ないことには沈黙しなければならない、という風に
目で見たことよりも、頭で考えたことを大切にするから。いくら目で見ても、言葉で説明できれば
見たことにならない
そう思うようになったのは、世界に、ここではシステム(体制や社会)として、
なじんだ(大人になる、受け入れた)からかもしれないね
ある新聞によれば今年最大のヒット商品は「阪神」でも「六本木ヒルズ」でもなく「昭和」だそうだ。
以前「EXテレビ」という番組が1993年最大の流行を「Jリーグ」ではなく「女子高生」としたのを
思い出した。実際その後、社会風俗をリードをして時代を変えたのはJリーグより「コギャル」と
呼ばれた女子高生だった。それと同様たぶん「昭和」ブームは今後ますます昂進すると思う。
テレビ地上波のゴールデンで昔のアニメとか歌番組をそのまま放送するくらいは行きそう。
それだけでなく、社会道徳や生活様式(ケータイを使わないとか)も昭和に帰ろうとする動きが
出てくるだろう。というわけで、この昭和ブームの展開に少々期待していたりするのだった。
>>186 >世界全体とは何か?つまり、関係のある範囲はどこまでか?という捉え方は
>一般に、全体として捉えることの重視と理解されている。しかし、
>そんな広い視野を誰がもてるのだろうか。
そう言われれば「認識を超越した世界」を求める気持ちというのは言い換えると、
「この世界全体を(世界の外から)完全に把握」したいということかもしれない。
いや、認識の超越というのはそれよりもっと凄いことなんだと反論したくもなるが、
そもそも現実世界全体の把握もできないで、それ以上の超越を求めるのは僭越だ。
大体「認識の超越」などというわけのわからないことは考えようがないが、
世界全体の把握は可能か?という設問なら考えられるからこっちで置き換えたほうがよい。
しかしそれは不可能である。
なぜなら世界全体を把握するということは、世界の始まりから終わりまでの全歴史を
シミュレートして把握しなければならないが、たとえば明日の自分の行動を前もって
把握することはできない。明日自分はあれをすると思っても、それをしなければそれまでだからだ。
自分の未来の行動は確定的に記述できない。これだけで世界全体の把握が不可能であることがわかる。
この考え方で、ゲーム(たとえば囲碁)と現実世界の違いも証明できる。
完全情報ゲームである囲碁の最善手順は発見が難しいだけですでに存在しているし、
もし神様が答えを教えてくれれば人間はそれを認識できる。
しかし現実世界の歴史はその世界の中に自分が含まれるという理由で、
完全にシミュレートすることはできない。前述の予言破りが可能だからだ。
このことを俺はやっと今日はじめて理解した。実は今まで二十数年間「この現実世界と
囲碁はどっちが実在の世界なのか」を考え続けてきたのだった。何ともおそまつな話だ。
しかしこれはけっこう錯覚しやすいのだ。実際プロの碁打ちは現実世界と囲碁宇宙の
リアリティが逆転しているように思う。彼らは囲碁以外の出来事は異次元の、自分には
関係ないことと感じているのだ。俺は中学時代、囲碁にハマったからこの感覚はよくわかる。
ある女流の囲碁棋士が将棋指しと対談してその世界の違いにびっくりしたという話がある。
将棋指しは現実の政治経済や歴史も将棋と同じ世界に属することとして同列に語るのだが、
それが碁打ちには信じられない。碁打ちには囲碁以外の世界は存在してないし、
語ってもいけないのだ。将棋は現実の戦争に模して人間が作ったゲームだが、
囲碁は唯一の基本ルール(公理)から演繹して人間が予想もしなかった世界が構成されるので
現実とは独立した世界という感じがするので囲碁は「神が作ったゲーム」とも言われる。
そしてその現実世界から隔絶したゲームばかりやっていると、人間が囲碁をやっているのか
囲碁宇宙の存在者が「人間である」という妄想を抱いているのか区別できなくなるのだ。
しかし囲碁のゲームでいくら石が殺されても自分の意識はなくならないが、
現実の自分の身体に危害が加えられて殺されれば意識もなくなる。
これをもってゲームは現実の身体を持ったほうの自分が観念的に作りだした虚構である
ということが証明できる。
しかし観念的虚構である数学が根源的法則として物質を支配しているという現象もあるが、
数学は対戦ゲームではないので自分がその中に住んでいるという感覚はないでしょう。
まあ数学というイデアの世界に没頭すると現実世界から乖離するという話はよく聞くけど、それは
現実を抽象した世界だから無関係ではない。それに対し囲碁宇宙は現実とは無関係な別世界なのだ。
最近は時間が経つのが速いと言われる。それは社会の進歩がなくなったからだ。
新しい経験がなくなると時間が経つのは速くなる。だから子供の時間は長いのに大人の時間は短い。
最近の人間の年齢は七掛け(例:今の50歳は昔の35歳)と言うが、これは社会の進歩が
大人になってからも新しい経験を持続させたからであり、やがて20歳は昔のように十分大人に
見えてくるだろう(ていうか、性の低年齢化という形でもう表れてる)。
自由恋愛と伝統的結婚制度はどちらがすぐれているだろうか。
結婚制度とはすべての男が自分にとってそこそこのレベルの女を一人確保できるシステムだが、
自由恋愛はごく一部の男が身近にいる女を独占して大多数の男は女にあぶれるシステムだ。
どう見ても結婚制度のほうがすぐれている。しかしどうして自由恋愛体制が続いているかというと、
多くの男が自分もやがて周囲の女を独占できるはずだと妄想しているからだ。
しかしこれはほとんど達成されない。なぜならごく一部の男が多くの女を独占するという
形態自体は変わらないので、必然的にそれを達成できるのはごく一部の男に限られるからだ。
これはたとえば現金一万円と百万円が当たる確立100分の1のくじをもらうならどっちがいいか
という話と同じである。ふつうは現金のほうを選ぶと思うが、くじのほうを選んでいるのが
今の自由恋愛社会なのである。
ちなみに結婚制度においては「処女」が絶対的価値となる。
「処女を奪う」とは一種の刷り込み現象で、女は最初の男を一生特別な人間と思う。
男としても、そう思ってもらえるから処女を奪うことに魅力を感じるのだ。
ではどうしてそういう刷り込み現象が成立したのかというと、それは女を均等に分配させる
結婚というシステムを安定させるためだ。
自由恋愛の社会では「処女の価値なんか何でもない」という言説が流布される。
(しかし本当はそう言ってる男が実は最も処女に興奮しているのだ。処女の価値を
否定するのは実は最もおいしい処女をタダでいただく口実なのだ。これは大犯罪である)
しかし処女に価値がなく、結婚前に女が誰彼かまわずHしてたらどうして女を均等に分配
できるだろうか。分配にはキッカケが必要で、最も魅力的な女から順に片づいていってこそ
そのシステムは稼働するのだ。結婚してはじめて自分の好みの女とHしていいというルールが
あって初めて女の均等な分配は成立するのだ。まさに処女とは人類最高の発明である。
火事場の馬鹿力という言葉があるが、この現象を一般化すると「非常事態においては
意識のモードが切り替わる」と表現できるだろう。
たとえば11月ですごく寒い日があると、もっと寒くなる2月は大丈夫だろうかと心配になるが、
いざ2月になればけっこう普通に生活できたりする。身体のモードが変わるからだ。
実は今日すげえ寒くて外出するのがすごくイヤだったのだが、出てみればなんともない。
意識が一種の非常事態モードに変わったからだろう。
そして、実は人間の通常の意識状態自体も「人間モード」という名の
一種の非常事態モードなのではないかと思ったのだった。
親父が前立腺ガンだってよ。まいったなあ。
196 :
考える名無しさん:03/12/21 00:28
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「認識を超越するのは可能か」という問いは
「物質を超越するのは可能か」と言い換えたほうがわかりやすいと思った。
結局俺は自分が物質的存在であることが受け入れられないのだな。
自分が世界を超越した存在でなきゃイヤなんだよね。病気だ。
しかし病気ではあるが「世界を超越した存在」というのは実はキリスト教における
「神」というのがそういうものなんだな。ソロビヨフという哲学者がそう言ってた。
じゃあ俺は神になりたかったんだ。病名がわかってチト楽になった。
おう、嵐か。今なら歓迎だぞ。早く200まで行きたいとこだから。
「わが闘争」下巻は思ったとおり退屈だった(あと30ページほど残っているけど)。
といってもミュンヘンのサーカス場の集会で大乱闘になったとこと、
コブルクというよその街に初めて遠征するところあたりは少しワクワクした。
それと「ユダヤ人の影響力はアジアには及ばない」というのはヒトラー本人も書いてた。
京都の小学校乱入事件はいい事件だ。
4年前の岡村浩昌の事件も非常にいい事件だったがあれを彷彿とさせる。
この岡村クンの壮挙がキッカケでひきこもりが世間の注目を浴びるようになったわけで、
来年も似たような展開になってくれればいいなあ。
なぜならこの俺こそ日本一のひきこもりだからだ。
ポルポトは貨幣も文字も廃止した。これはもはや単なる共産主義ではない。
70年代の出来事だけに、より過激なニューエイジ妄想が入っている。
もっとも俺の歴史反復理論は存在を超越しているし、
合理的理解を越えているという意味では(通常の)認識を超越しているとも言える。
ちなみに柄谷行人が彼の60年周期の歴史反復説で「主要な世界商品の交代」と言い出したのは
明らかに俺の理論の「支配的メディアの交代」というアイデアを盗用したものである。
まあしかし仮に「認識を超越した世界」というのがどこかにあるとして、
俺の意識が次元上昇することでその世界へ移行できたとしよう。
そのときこの現実世界の俺は肉体的に死ぬか正気を失って通常の意識はない状態だろう。
そして俺を知っているやつはみんな「あのバカとうとうあっちの世界へ行きやがった」
とでも噂するにちがいない。つまり俺だけがこの世界を超越しても無意味だ。
これはほかにも自己変革を売り物にする宗教なんかにも言えることだろう。
1997年3月のカルト宗教「天国の門」集団自殺事件なんかがまさにそうだ。
彼ら自身は死ぬことで理想世界に旅立ったつもりらしいが、
仮にそれが本当であっても現世に生きる我々から見ればただの集団自殺でしかない。
つまり「認識を超越した世界」へ行こうとすることは死後の世界へ行くことと同値だ。
俺は言葉で考え、言葉で答えを出している。
その答えの中には自分だけでなく社会の役に立つものもある。それだけだ。
たとえば人間の感覚体験は言葉を超越しているとも言えるが、
それだけでは社会的広がりがない。言語化できて初めて社会的意味がある。
ゆえに社会的に勝負したいなら言葉を磨くしかない。
202のつづきだが、それではその「認識を超越した世界」にすべての他者を道連れにして
移行すればいいではないかと言われるかもしれないが、これはありえない。
なぜなら他者が存在したらもう「認識を超越した世界」とは言えないからだ。
認識とは他者を認識することであり、言語でさえ他者だというのに本当の他者である
他人までいたら到底「認識を超越した」とは言えない。
↑381というのは別スレでの書き込みの消し忘れです
三浦展氏の流行先導世代15年周期説は以下のメカニズムによる。
>ちなみに1948、63、78年生まれは人生の過程で似たような体験をしている。それは、
>
>___________1948生__1963生__1978生
>【0〜6歳】 激動時代 1948〜54 63〜69 78〜84
>【6〜15歳】 安定時代 1954〜63 69〜78 84〜93
>【15〜21歳】 激動時代 1963〜69 78〜84 93〜99
>
>このようなものだが、つまり個体成長の激動期と社会の激動期がシンクロしているのだ。
>それにより、その中間の世代よりいっそう強く時代の刻印を受けることとなったのだ。
中国地方の瀬戸内側が「山陽」(さんよう)なんだから
四国地方の瀬戸内側は「四陽」(よんよう)にすればよい。
自由恋愛が成立するには社会の階層が単一である必要があるが、
今や日本は一億総中流から二極分化へ向かっているので、
自由恋愛という思想は排斥される運命にあるのだ。
「山陽」とは中国地方の陽の当たる南側ほうなので、
「四陽」は高知県の別名ということにする。
2004年になった。2000年代に入って5年目だ。
5年目といえば四捨五入すれば2010年だ。
丸5年ではないからその理屈はおかしいのだが、気分としてはそうなのだ。
2010年と言えば2000年代二桁だ。
2000年代二桁と言えば2010年も2099年も二桁だ。
つまりもう2100年になったようなものだ。もう世界は終わらない。
囲碁はゲームではない。視覚の訓練だ。
囲碁は記号ではない。意味するものがそのまま意味されるものだから。
人間の顔のようなものだ。
美人の顔は美人を意味するとは言えない。
美人の顔という対象が美人そのものだから。
言語は記号ではない。視覚の訓練だ。人間の顔のようなものだ。
しかし文字は記号だ。
俺は最近、数学者、物理学者、情報科学者、(数理)経済学者、(数理)生物学者を
全部ひっくるめて「数学者」と呼ぶことに抵抗がなくなり非常にスッキリした。
「数学者」という言葉には「哲学者」に似たニュアンスがある。
つまり自分は何の専門家でもないが、あらゆることに口出しする超越的存在といった意味だ。
それにはある種の尊敬の念も含まれている。
哲学とは一種の将棋である
├──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┤
│__│__│__│__│__│__│__│__│__│
├──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┤
│企業│株式│流通│数学│媒体│都市│恋愛│文学│記号│
├──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┤
│__│貨幣│__│__│__│__│__│言語│__│
├──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┤
│哲学│経済│戦争│宗教│王権│歴史│意味│科学│自由│
└──┴──┴──┴──┴──┴──┴──┴──┴──┘
まあこんなふうに概念をつなげて配置していくという意味では詰将棋のほうが近いかな
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□数学□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□\□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□\□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□株式──企業□□科学□□軍事□□技術□□□□□□□□□□
□□□□□□□□\□□□\□|□□/□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□\□□□\|□/□□□□□□□□□□□□□
□□為替──貨幣──経済──権力──宗教──芸術──音楽□□
□□□□□□□□□/□□□/|□\□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□/□□□/□|□□\□□□□□□□□□□□□
□□□□□□都市□□娯楽□□大衆□□哲学──歴史──文学□□
□□□□□□□□□/□|□□□□□□□\□□□□□□□□□□
□□□□□□□□/□□|□□□□□□□□\□□□□□□□□□
□□□□□□博打□□恋愛□□□□□□□□□言語──記号□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
いや詰将棋じゃない。異なる配置同士で論争して優れた配置のほうが勝つ。
そういう意味でやはり言語ゲームも対戦型ゲームだ。
(しかし論争にはタイミングや感情、多数派工作などもからんでくるから
純粋な言説ゲームとは言えないかもしれないが)
コカコーラ社えらい!
ジョージアのCMに出てる女性タレントの顔が印刷してある期間限定缶で、
俺はきのう別々の自販機で買ったら2回ともサトエリだった。
そして今日別の自販機で3回目に買ったら米倉が出た。
しかし4回目、5回目はまた別々の自販機でサトエリと米倉だったので、
もう矢田が出るまで同じ自販機で買い続けようと決意して買ったら1本目サトエリ、
2本目米倉のあと3本目に矢田が出るではないか。
つまりこの自販機には3人の缶が順番に入れてあるのだ、たぶん。
そういう入れ方をしたコカコーラ社、えらい!
ニューエイジ幻想というのは結局は権力願望じゃないかな。
何もかもが透明になった世界というのは自分の存在や力が目に見えない形で
世界の隅々まで浸透した状態のことではあるまいか。
だから左翼をはじめ大人はみんな権力を欲しがるわけだな。
権力は人間の全能感を満たす根本的かつ究極の欲望なわけだ。
俺もそういう現実的なことを目指すべきかな。
人間がかかるインフルエンザは鳥インフルエンザがうつったものらしい。
そういえば人間も鳥も踊りが好きだ。
そのうち人間も恐竜から進化しましたって言い出すんじゃないか?
バードウォッチングが好きな奴がいるのもあやしい
【都市のスプロール化】
都市の中心部の周りの平坦な土地に同じような住宅街がどこまでも続くことで、
その街が把握できなくなること。また、把握できない地域を一部でも持つことで、
その都市全体の把握も不可能になる心的現象。
福岡市南部の住宅街はもはや把握不可能な感じ(区分地図で見ただけだが)。
なんだ、誰が出てくるかわからない缶コーヒーはコンビニでも売るのか
【高度な認識は高度に無意味】
何か新しい発見をするためには何もない無の状態から考えなければならないが、
心をいつもそういう状態にしていると世界が無意味で空虚なものになる。
しかし空虚になるのは究極の認識に到達するための試練だという合理化をすることで
悪循環が始まって苦行は極限的なものになる。
どんなに多くの画期的発見をしても、自分が本当にやりたいことはこんなことじゃない
と思うようになる。ではどんな状態になればいいのかと言えば意味のある状態になりたい。
意味のある状態とは自然的感情を否定しない状態のことだ。つまり「究極の認識」というのを
求めるから意味がなくなるわけで、自分で自分の首を絞めながら苦しい苦しいと言っている
ようなものだ。これが今の思想状況ではないか。
究極の真理は言語で表現されてはならない。
なぜなら言語とは世界の一部を切り取ったものであり、
宇宙全体を隈なく照らし出す真理たりえないから。
まあ言葉で表現できない究極の真理なんか悟ったら、
わけのわからない宗教家になるのがオチなので、
そんなものは獲得しないほうがいいとも言える。
倉木麻衣は熊嫌い
物理学と経済学は専門家にまかす
究極の悟りは精神世界方面の人にまかす
ヘルムート・ニュートン事故死。田村淳交通事故。小出義雄80万円盗難。
犯罪者どもに天罰が下りつつあるな。
台北に500メートルの超高層ビルができた。
世界一の超高層ビルができる時、世界経済は危機に落ち入るというジンクスがある。
エンパイアステートビル(1931)NY → 世界恐慌
世界貿易センター(1972)NY → ドルショック
シアーズタワー(1974)シカゴ → 石油ショック
ペトロナスタワー(1998)クアラルンプール → アジア通貨危機
そして今、台北の環球金融中心ビルの完成と共に、
アメリカドル暴落や中国バブル崩壊の危機が迫っているのだ。
どうも究極の認識なんかないらしい。
それは世界の終わりやアセンションと同種の、
単に自己の境遇を合理化する手段であり実際に実現することのない錯覚なのだ。
お釈迦さんが悟りを開いたというのも怪しい話で、実際は後世の作り話だろう。
第一、誰かがすでに究極の認識を達成していたとすればこの世界はこれ以上はない
と言うほどのユートピアになってないとおかしいが、実際は全然ちがう。
また、ジャイナ教の開祖マハヴィーラも悟りを開いたというが、どうして究極の真理を
悟った人間が異なる教えを展開するのか。
また現代で自称悟りを開いた人間というのはサイババにしてもラジネーシにしても
うさんくさい奴ばかりであり、とうてい尊敬することはできないタイプの人間だ。
また、オウムの麻原にしても禅にしても常識を越えるといいつつ実際は反道徳的な
ことをしているだけで、どうも人間の脳は良識に反することをすると快感を覚える
ようにできているらしい。共産主義や反体制にハマるというのも同じことだろう。
以上のことにより、究極の認識もしくは宗教的悟りというものは単に人間の脳の
(反社会的思考や行為による)錯覚であり全く価値のないものであると断定する。
よってキリスト教やイスラム教、仏教などの宗教はすべて解散させねばならない。
なんか最近テレビのバラエティ番組が単なるバカの悪ふざけに見えてきた。
これまでは悪ふざけであってもまだ多少は意味が残ってたと思うが、
最近はそれもなくなった。アイドルも単なるガキ向けの文化になった気がする。
(モー娘のなっち卒業はそういう時代の変わり目かも)
青色ダイオードの対価200億円か。
じゃあ俺のi-modeに対する貢献は10億円を下らないな。
1960〜70年代のように社会全体が進歩すると人間はその延長として
21世紀にはものすごい未来がやってくるような幻影を感じるようになる。
それと同様に、あらゆる意味や快楽を拒否して「究極の真理」を追求し続けると人間は、
それまでの世界がすべて否定されたまったく新しい世界が出現するような幻影を感じるようになる。
しかしそれらは共に物質的基盤を欠いた観念論であって決して実現することはない。
例えば俺が究極の真理を悟ったら世界は一瞬にして別な状態へ移行しなければならないが、
世界が理由もなく別な状態へ移るわけがない。それを物質的基盤がないと言うのだ。
いや、例えば最初に誰かが理想概念(=文字)を獲得することによって人間精神は意味というものを
獲得し、世界は一瞬にして別の状態へ移行したと言われるかもしれないが、
それにはちゅんと「理想概念の獲得」という物質的基盤がある。
それに対し俺の言う「究極の認識」は言葉で表現されてはならないものだということがちがう。
いや、理想概念だって最初からそういう名前がついていたわけではなく、それは言葉では
表現できないものだったと言われるかもしれないが、結局は「理想概念」という名前を獲得できた
以上それは部分的真理にすぎないのであって究極の真理ではない。
【10行目】
×ちゅんと
○ちゃんと
どうして部分的真理ではいけないかというと、その部分の外にまだ別の真理が発見される
可能性があるからだ。俺が見いだす究極の真理はもうそれ以上はないというものでなければならない。
しかし実はこれはおかしな話で、それ以上新しい発見が何もない状態というのはありえない。
世界が存続している以上、毎日いたる所でいろんな人が新しい発見をしているだろう。
となると俺の言う究極の認識というのは宇宙の全歴史のデータベースにアクセスした状態のこと
かもしれない。そこへは瞬間的にアクセスできた感覚は得られるが持続的につながって
何かの情報を取り出せるわけではない。しかしそこへアクセスする能力は確保しているので、
必要な時には必要なアイデアをそこから取り出すことができる。
世の中には天才というのがいて、彼はその時代の重要な発見をほとんど一人で成し遂げてしまう。
それが可能なのは彼が宇宙全史のデータベースから未来の発見を取り出しているからではないか。
つまり俺が今の時代の重要な発見をほとんど一人で成し遂げたのはこういうわけなのだ。
まあ俺も宇宙と一体化したということなら15〜16年前に経験してるんだよね。
結局あれが究極の認識だったのかもしれんな。
しかしそれですべて終わりというわけではなく、その宇宙全史のデータベースと
その時々の社会状況を突き合わせて必要なアイデアを言語化するのはまた大変な作業なのだった。
しかし究極の認識というのがそういうものならもう死ぬほど苦しい努力を続ける必要はないな。
今までは究極の認識に達すればそれだけで世界が一瞬にして変わると思ってたわけだから。
しかしそう考えると今まで25年以上死ぬほど苦しい生活を強要されたことに
腹が立ってくる。極めて重大な発見をいくつも達成したにもかかわらず、
俺はいつもキチガイ扱いされてきた。今まではそれは究極の認識に至るための試練だと
解釈して我慢してきたが、そんなものないとわかった以上我慢する必要もなくなった。
コノヤロー、お前らみんな死んでしまえ。
もし今から一か月以内に大災害があったら俺の呪いだからな。
てゆーかまあ究極の認識を獲得して世界の頂点に立とうとするほうが悪いとも言える
まあ俺は究極の認識が幻想でも無駄にならない努力しかしてないから全く損害はないのだ
「歴史の縮小反復理論」と「自由恋愛禁止法」が俺の二大業績かな
あとは普遍将棋とかプリクラ新聞とか戦後民主主義カルト論というのもある
もともと大して頭いいわけでもない俺としてはこれだけでも大満足だな
うちの親父は今年いっぱいもつかな
さすがに実生活が危機になると夢想にふけってられなくなるもんだな
イラクで自衛隊10人以上死ぬ → 武士道精神で頑張れという意味で渡辺謙にアカデミー賞
ニュースステーションや噂の真相が終わって今年の3月/4月は時代の変わり目っぽいなあ
今年が1995年のような自然災害+対規模テロによって大騒ぎになるとすれば、
自然災害は鳥インフルエンザの大ブレイクかもしれないなあ。
1918年のスペイン風邪の時は日本だけで40万人死んだそうだ。
大証社長、東証社長、池田行彦元外相が続けて死んでるのも怪しいぞ。
実は俺自身も去年12月に咳が止まらなくなって往生したからもうかなり蔓延してたりして。
>>134 >予言しよう。2ちゃんねるは来年で終わる。
>
>なぜなら来年2004年は1995年(=インターネット元年)の逆回転だからだ。
この予言、当たるのかな?
NHKニュース7のお天気コーナーはもっと若くてかわいい女の子にしろ
今年から来年にかけて、人類の意識は進歩モードから定常モードへ大きく切り替わるだろう。
ちょうど20年前がそうだったように。
男女関係のルール新提案
★日本の男女は20歳までに特定の相手と「結婚」する
★その目的は一人の男が複数の処女を奪うことを防ぐことだ
★男が女と別れる時は一回Hしただけでも100万円払い、一年ごとに100万円加算とする
★女が新しい男といっしょになりたい時は何も払わなくていい
(なぜならその新しい男が手切れ金を負担して女に渡したと解釈できるから)
★女は新しい男といっしょになるわけでもないのに単独で別れて
手切れ金のみもらうことはできない
さて、このルールだと男は何歳で「結婚」(=初H)するべきか。
仮に男女とも16歳から「結婚」できるとしよう。
男が16歳のとき、この女しかいないと思える相手と出会えたらすぐに「結婚」すればいい。
しかし、まあ今まわりにいる女で「結婚」するとしたらこいつかな、という程度の時は
もうすこしいい女が見つかるまで待ったほうがいいかもしれない。
適当な相手と「結婚」してしまうと、もっといい女が現れていっしょになりたい場合、
最初の女に手切れ金を払わねばならなくなるから。
256 :
考える名無しさん:04/02/05 01:26
1948年生まれは共産主義(新左翼運動)にハマって、1963年生まれはニューエイジにハマる。
これはなぜかというと、人間は生涯最初の変革体験に一生支配されるからだ。
1948年生まれが自明の前提とするのは彼らがものごころがついた(6歳)1954年ごろの
文化だが、彼らにとって1960年代後半の文化革命は生涯最初の変革体験であり、
それは共産主義という幻想を生んだ。
それに対し1963年生まれがものごころついた1969年にはすでに文化革命はほぼ達成
されており、それは自明の前提となる。そして63年生まれが最初に体験する文化革命は
1977〜85年あたりの意識のメタ化革命であり、これはニューエイジ幻想を生んだ。
さて、それでは1978年生まれはどうなのかというと、この世代には変革体験がない。
だから彼らは80年代文化を自明の前提とし、それ以上なにも進歩しようとはしないのだ。
(例:浜崎あゆみ)。もちろん80年代半ば以降に生まれたモーニング娘(のメンバー)に
変革体験はなく、彼女たちの文化は非常に安定している反面、変革への意志はまったくない。
なお、1948年生まれの文化は1961年生まれまで続いている。
61年生まれの斉藤環氏が「1962年生まれ以降は急激に小説が読めなくなる」と言うのは
この断絶を示す。
>>207の世代論も参照。
それでは例えば1971年生まれはどうかというと、彼らがものごころつく1977年に
メタ化革命が始まるのでそれはかなり自明性を持つが、1980年、1982年、1985年にも
かなりの展開があったので、ある程度の変革体験だったとは言えよう。
1963年生まれは60年代の空気をけっこう覚えているので1980年前後の変革は非常に
落差の大きいものとなったが、71年生まれは60年代の空気を知らないぶんそれは
穏やかな変化と感じられたことだろう。この穏やかさが71年生まれと58年あたりに生まれた
おたく第一世代との親近性を生む。彼らは共に左翼性を持ち、小説も読めたりする。
63年生まれのようにそれらを一気に否定して突き抜けることはないのだ。
1968年に象徴される若者文化(恋愛マンセー)が実際に実現してみればDQNの文化だった
1965〜70年の社会的変化が1980年代の変革へ至ったのは、
1905〜10年の社会的変化が1920年代の変革へ至ったのとパラレルだろう。
(60年周期説)
ノストラダムスの「空から恐怖の大王が降ってくる」というのは
鳥インフルエンザのことだったのかもしれんな。
5億人死ぬかもしれないってさ。
中国人の男は日本人の女と結婚するのが理想だという。
中国女と比べて従順でかわいらしいからだ。
しかし日本の女の従順さというのは日本の男の優しさに対応したものであって、
中国の男と暮らしていると、やがて日本の女も中国女みたいになってしまうのだ。
その証拠に中国残留日本人孤児なんて完全に中国人化してる。
モーニング娘にとって今は江戸時代だろう
だから江戸時代の芝居をやっていた
日本人は千年前(紫式部や清少納言の時代)と少しも変わってない。
だから千年後も今と少しも変わらないだろう。
だから究極の認識なんか探究しても意味はない
よって、あらゆる快楽や栄達を拒否する生活を続けても仕方ない
そうは言っても、かりに今200億円手に入っても生活態度は急には変わらないだろうな
268 :
考える名無しさん:04/02/09 14:15
1961年生まれ 斉藤環 島田雅彦 いとうせいこう 石橋貴明
1962年生まれ 木梨憲武 椹木野衣 村上隆 宮崎勤 上祐史浩 佐藤宣行
1963年生まれ 松本人志 浜田雅功 河合奈保子 唐沢寿明 福沢朗 勝村政信
1964年生まれ 仲俣暁生 山形浩生 田中裕司 内村光良
1965年生まれ 太田光 南原清隆 奥田民生
以上の表からわかること
1961年生まれ 基本的にはまだ活字文化の人である
1962年生まれ 活字からテレビへの移行期
1963年生まれ テレビ文化の加速度極大
1964年生まれ テレビ文化が安定し始める
1965年生まれ テレビ文化安定
よって1963年生まれが最もイカレている。
だから63年生まれが就職する86年には新人類(=理解不能な人間という意味)
という言葉が社会問題になった。
実はテレビり視聴率歴代ランキングでは63年が上位を占めていて、この年にテレビの
加速度が頂点に達したことがわかる。
また、この年最大のヒット曲「こんにちは赤ちゃん」(梓みちよ)もこの年生まれの人間が
何か特別であることを暗示しているようだ。
さらにこの年6月には「上を向いて歩こう」もアメリカで一位になっている・・・
×実はテレビり視聴率
○実はテレビの視聴率
爆笑問題の田中裕二は1965年(1月)生まれでした
1962年生まれ 宮崎哲弥
1963年生まれ 板尾創路
あ、それと、おたく第一世代には1958年生まれが多いように、
ミュージシャンには尾崎豊(奥田民生も)をはじめとして1965年生まれが多いのは有名な話。
1962年生まれ 宅八郎
1964年生まれ 切通理作
最近、若手の論客がネット上の日記を通して盛んに議論する動きが出てきたが、
これはファシズムの予兆だ。
そういう高速な場では議論が一つの方向にダーッと流れてしまいやすいから。
共産主義国では共産主義に興味のない人でも共産党員になりたがる。
それが富と権力を獲得するための手段だからだ。
日本では学問に興味がない人も大学に行く。大卒がエリートになるための資格だからだ。
しかしエリートの資格として通用する大学はごく一部だ。
だから二流以下の大学の学生はただ遊ぶためだけに大学に行く。
こういう無意味なシステムも社会をおかしくさせている一因だろう。
(ちなみに日本では就職直前の学校では学生は勉強せず遊ぶ。
だから高卒で社会に出る商業高校や工業高校では高校生の段階で遊ぶ)
1970年生まれってどうなの?
将棋の羽生(他にも羽生と同世代で強いA級棋士多数)、テニスの伊達、
ボクシングの辰吉、コメディアンの岡村、中山美穂らアイドル多数、、、
かなりイケとりませんか?
>>276 70年生まれですか。私は77年に重大な変化があったと思っているので(宮台もこの年を重視)
その年を何歳で経験したかで性格が異なってきます。
人はものごころがつく6歳の年の状況を自明の前提として生きるというのが私の説なので、
62年生まれはちょうどものごころがつく年に68年の革命的変化を経験したことになる。
この経験が精神的不安定さを生み、宮崎勤や佐藤宣行(少女監禁)の犯罪を生んだと考えられる。
しかし63年生まれがものごころついたのは68年革命を通過した69年なので、68年の革命文化は
自明の前提となる。これと似たような関係が70年と71年生まれにもある。
71年生まれがものごころつく年にちょうど77年のメタ化革命は起きたので、71年生まれの
精神は少し不安定なものとなるが、それゆえに真剣にものを考えるので多くのもの書きを
輩出した(音楽ではGLAYのタクロー)。それに比べて70年生まれは77年当時7歳なので、
革命の直撃からは若干ズレており、71年生まれに比べて精神は安定している、というのが
私の見立てです。70年生まれの「羽生世代」棋士なんかその象徴じゃないかなあ。
それに対し72年生まれは今度は77年革命を自明の前提として生きることになる。
SMAPの中居と木村とか、マラソンの高橋(Qちゃん)など72年生まれの働きも著しい。
メタ化革命ってなんですか?
77年ってどんな重要なことがあったかな?
おいみんな(って誰だよ)、ちょっとこれを見てくれ。
【1971年生まれ】
有田哲平 つぶやきシロー ユースケ・サンタマリア 裕木奈江 北浦共笑 工藤夕貴
田中直樹(ココリコ) 米良美一 本田理沙 木佐彩子 柘植恵水 町亜聖 仁藤優子
吉本多香美 藤原紀香 原田里香 岡崎朋美 立花理佐 千秋 佐倉しおり 牧瀬里穂
五嶋みどり 細川ふみえ 桜井智 中島史恵 中原果南 坂本昌行(V6) 萩原聖人
川原亜矢子 純名里沙 山王丸和恵 安野モヨコ 中島朋子 越智静香 松本紀保
松嶋尚美(オセロ) はな ウィノナ・ライダー つみきみほ 光浦靖子 高田万由子
丸川珠代 山崎まさよし TAKUYA(ジュディマリ) 松岡充 筒井道隆 久松史奈
羽鳥慎一 田中律子 矢部浩之 進藤晶子 東野純直 倉田真由美 遠藤章造 中島知子
酒井法子 郷田真隆
見よ。精神的不安定のオンパレードだ(よく言えばアーティスティック)。
う〜ん、これほどとは思わなかった。驚きだ。
77年のメタ化革命とはそれ以前より一段高いレベルから世界を見下ろすようになった意識モードの革命。
例えば文芸批評のタームは80年前後の数年で一変したと言われるが、それは基本的には77年に起きた
意識のメタ化の結果にすぎない。(例:「作者の真意」を問わない表層分析的テクスト論)
それ以前は例えば音楽に感動するのはその対象(例えば恋愛)に人を感動させる要素が内在しているのだ、
と思われていたが、そうではなく音楽が感動自体を捏造しているのだということになった。
あるいは人が笑ったり泣いたりするのもそう。意味は人間の内部にしかない。
また、この時から教師や医師などに対する尊敬の念は消えた。どうせウラではみんな
エッチなことしてるんだろ、というのがミエミエになったからだ。
あるいは人間のふるまいがすべて演技でしかないと感じられるようにもなった。
人間の感情はしょせん記号の組み合わせであり、たかだか有限の変化しか持たない。
自分の未来も有限の選択肢の中にしかない。すべてはパターン化され、何かをまじめに
やるのは「ダサい」。それまでのような本質的に新鮮な体験というのはなくなり、
疑似的に「ナウい」文化を捏造するしかなくなる。という変化が77年に起きた。
これが80年にマンザイブーム(と虚構としてのアイドルブーム)という形で爆発し、
そして85年にすべては終わった。というふうに私は理解している。
【1970年生まれ】
上田晋也(くりぃむしちゅー) 宮迫博之 桜井和寿 河村隆一 西川貴教 キャイ〜ン
城島茂 諸星和巳 パックン セイン・カミュ 雨宮塔子 永作博美 浜家有文子
工藤静香 渡辺満里奈 西村知美 畠田理恵 相田翔子 宮藤官九郎 先崎学 藤井猛
森内俊之 丸山忠久
やはり70年生まれは安定している。
【1972年生まれ】
藤井隆 品川祐 ロンブー亮 中川礼二 久保純子 青山祐子 魚住りえ 菊間千乃
杉浦広子 家森幸子 広重玲子 稲森いずみ 高岡早紀 松雪泰子 宮村優子 古内東子
緒川たまき 常盤貴子 大東めぐみ 信田美帆 奥野史子 西田ひかる 梅宮アンナ
飯島愛 中居正広 木村拓哉 室井佑月 UA ユキ(ジュデイマリ) 熊川哲也
高橋尚子 新庄剛志 よゐこ 土田晃之 中村獅童 真木蔵人 JIRO(グレイ)
KEIKO(グローブ) IZAM ゴリ チューヤン 平井堅 武田真治 貴乃花
藤木直人 関口知宏 屋敷伸之
やはり72年生まれも安定している。71年生まれの精神的不安定は突出している。
ひのえうまの1966年はどうよ?
71年生まれと言えば東浩紀はどうなんだ?
あれは不安定なのか?
東浩紀も不安定っぽい。「批評空間」の座談会では柄谷行人が手を焼いていた。
感情の起伏が激しい人なんでしょうね。しかしよく言えば批判精神旺盛。
最近のネットでの対応は幼児的という評判だが、でもそれは必ずしも悪いことではない。
冷静な大人から創造的仕事は生まれそうもないから。
>>283 【1966年生まれ】
大槻ケンヂ 坂本ちゃん 今田耕司 吉井和哉 深沢邦之(Take2) トータス松本
スガシカオ パパイヤ鈴木 田島貴男 宮本浩次 宮沢和史 永瀬正敏 デビット伊東
斉藤和義 冨樫義博 毛利名人 森下卓 見栄晴 長嶋一茂 ブーニン マイク・タイソン
石黒賢 植草克秀 東山紀之 薬丸裕英 宍戸開 山根康弘 高島政伸 升田尚宏
広瀬香美 森口瑶子 江角マキコ 武内直子 小泉今日子 斉藤由貴 鈴木保奈美
吉川十和子 RIKACO 豊田順子 小笠原保子 益子直美 有森裕子 小谷実可子
安田成美 財前直見 三田寛子 川上麻衣子 大沢逸美 松本明子 田代尚子 森尾由美
大坪千夏 中村あゆみ 石川秀美 早見優 永井真理子 伊藤かずえ 勝恵子 国生さゆり
高井麻巳子
66年生まれは80年代文化にばっちりハマっている。迷いがない。
6歳が72年、14歳が80年だから安定感が非常にいい。
72年は68年の、80年は77年の革命がそれぞれ一段落した年だから。
287 :
考える名無しさん:04/02/10 23:31
若手論客がネット上の日記で議論するようになったのは
メール中毒がとうとう文化人の議論にまで及んだということかな。
常に誰かとつながっていないと不安になって一日に何十回もメールのやり取りを
するようになるのがメール中毒だが、若手文化人も思いついたことはすぐネットに
発表して誰かに即答してもらわないと不安になってきたんだろう。
あるいは時代が重大な曲がり角に来たので印刷メディアで議論していたのでは
間に合わないという意味もあるかもしれない。
しかし1963年生まれには見事にもの書きがいないな。
いても京極夏彦みたいなブッ飛んだやつだ。
世界はステレオグラムのようなものだ。
本当は平面なのに人間が勝手に立体だと解釈してる。
1970年代に想像してたのとはかなり違うものの、超高層ビルやマンションが立ち並んで
都市環境はかなり21世紀的になってきた。未来に来たなあと思う。
しかし大体70年代以降しか知らない俺ですら未来に来たと思うんだから、
昭和30年代にものごころがさいてた世代にとってはもっととんでもない未来なんだろうな。
昭和30年代にものごころがついてた
95年のオウム事件で狂ったようにオウムを非難したのはこの
昭和30年代に既にものごころがついてた世代だ。
高度成長によって日本は奇跡的と感じられるほどの豊かな社会を実現した。
それなのにその豊かな社会をテロで破壊するとは何事だ!というふうに。
しかしオウム世代にとって高度成長で実現した豊かな社会は自明の前提にすぎない。
豊かな社会が実現してしまったおかげでオウム世代は精神的に空虚になってしまったのだ。
物質的豊かさは実現した。となると次は精神的豊かさ=究極の真理を目指すしかない。
しかしオウムは間違っていた。
確かに麻原について修行すればそれなりの幸福感を味わえるのかもしれないが、
そんなことをしようと思う人間は社会のごく一部だ。
オウム信者はオウムで「解脱」した人間が次から次へと人々を解脱にみちびき、
解脱者はネズミ算式に増大すると考えていたようだが、
実際には麻原以外にひとを「解脱」にみちびく能力を持った人間はいなかった。
この点、弟子が次々と独立して新しい教団を作っていった大本教とは対照的だ。
まあ結局は俺の反自由恋愛主義が近代社会のゴールなるだろう。
オウム非難に狂った人間は戦後民主主義(=あらゆる権力に反対)の信奉者で、
反自由恋愛思想の持ち主もオウム同様に狂ったように非難するかもしれない。
あるいはどうしても無視できなくなるまでは徹底的に黙殺するだろう。
文学界における若手女流作家(特に今回の芥川賞)の扱いは、
将棋界における若手女流棋士の扱いそっくりだ。
むさ苦しいオッサンしかいない社会の主流から隔絶された伝統芸の世界に
ピチピチギャルが来てくれてありがとう、という感じ。
>>286 1966年生まれにはAV男優が多い。
沢木、島袋、平本一穂。
あとチョコボールとほかにも何人かいたような気がするが。
これは世代論的に説明がつくのだろうか。
しかしオウムの人類解脱計画は間違いだったが、
地下鉄サリン事件自体はたいへんな救済だったな。
あれで社会に充満してたポストモダン幻想が一気に吹き飛んだわけだから。
90年代前半なんて流行歌をチェックする気も起きないほど時代は死んでいたのに、
90年代後半以降は70〜80年代の焼き直しの感は否めないものの、
それなりにヒット曲というものが成立するようになった。
特に安定したのは96年11月あたりからで、これは一種の奇跡ではないかと思った。
しかし、そういうレトロ的意味回路は都市環境やネット環境の発達のおかげで
一時的に社会が進歩しているように見えたおかげだったかもしれない。
去年は昭和レトロがヒット商品になったが、実は90年代後半以降は疑似的な昭和時代
ではなかったか。そして、それが去年ブームとして自覚されるようになったのは
そういう時代の終わりが迫ってきてるからではあるまいか。
もし近い将来なんらかの経済危機が来て、生活環境の進化が止まるようなら
疑似的昭和という意味の回路も全面的に崩壊するのかもしれない。
>>302 ああ、それはまさに66年生まれがアダルトビデオという80年代文化に
ばっちりハマっている証拠ですよ(^_-)
都市やネット環境の発達が止まりそうになってきたから
戦争というスペクタクルが必要になったとも言える。
NHKで紅白歌合戦の再放送を見た。
なんだかどこかの2時間ドラマの中でB級タレントを寄せ集めて作った
架空の紅白歌合戦を見ているようだった。
【B級世界】
あらゆる現象に、かつて(特に1984年まで)のような手応えが感じられず、
B級タレントが過去を模倣して架空の世界として演じているようにしか見えなくなった
文化状態。また、その世界。特に1995年以降の「疑似的昭和」の賞味期限が切れてきた
最近この傾向は顕著。
とくに aiko はすごかった。
自分が信じてない文化で人を騙す詐欺師ぶりはすごい。第二の山根康弘だ。
倉木麻衣や愛内里菜、氷川清くらいイノセントだと聴いてて嫌味はない。
疑似的昭和の賞味期限が切れてきたのは、インターネットがその本領を
発揮し出したということかもしれない。
かつて1985年に意味の大崩壊が起きたのはテレビの本領が発揮されたことによる。
すなわちテレビは世界を二次元平面に閉じこめることで、
人間の意識を世界の外に追い出し、すべての意味(=生命)を奪ったのだが、
インターネットというマルチメディアはそれをさらにスケールアップして実行している。
つまりテレビはオンエアされる画像と音声だけだったが、インターネットは画像や音声に
文字も含めた広範な情報がデータベース化されることで世界をよりトータルに平板化するのだ。
(テレビは外在的に意味を殺すが、インターネットは内在的に世界を平板化する)。
特に人間の意味意識の拠り所である文字文化が平板化することの影響は計り知れない。
これにより有史以来の意味意識は崩壊し、世界は完全にB級化するのだ。
やはり今年は何か重大なことが起きそうだ
インターネットの本領が一気に人類に襲いかかる。
世界は平板化し、人間は精神的に崩壊してしまうのだ。
インフルエンザウィルスが人類に襲いかかる前に。
戦争やテロというスペクタクルも精神の崩壊を防げないだろう。
(↑ノストラダムスの四行詩風)
もっともテレビによる超立体化の毒が
インターネットの平板化作用で
ほどよく中和されるかもしれない
怪獣とは何か。それは、なんらかの恐怖の対象を実体化させたものだ。
ゴジラが核兵器の恐怖を実体化させたものであったように。
また、妖怪の「ヌリカベ」は夜、道に迷った時、心に感じる不安
(見えない壁に囲まれているよう)を形象化したものという。
しかし、このような観念対象の実体化は実は怪獣や妖怪に限った話ではない。
例えば音楽を聴いて何らかの意味が強調される時、その音楽は意味を実体化させたと言える。
そして実は言語認識すべてがこのような実体化によるものであって、その作用以前に「意味」はない。
世界には本来、特定の形(例:地形、人間という生命形態)や特定の時点(例:現在)などと
いうものはなく、それは記号の実体化作用によって人間がそう思ってるだけなのだ。
【1968年生まれ】
つんく 阿部和重 瀬名秀明 紀里谷和明 佐藤賢一 金城一紀 福井正敏 上遠野浩平
松岡圭祐 あずまきよひこ 小沢健二 野茂英雄 小川直也 原田雅彦 葉加瀬太郎
山本圭壱 名倉潤 山崎邦正
柳美里 森口博子 井森美幸 杉本彩 飯島直子 武川智美 笛吹雅子 橋本志穂 濱田マリ
この年に生まれた人は、80年代文化をある程度余裕を持って客観的に見てますね。
だから作家が多かったり、つんくのように80年代のようなアイドル文化を再生できたりする。
この年あたりからは、80年代というより「90年代の人」という感じがする(例:野茂英雄)。
第一次メタ化(1977)あれは意味がない、と言うことには意味がある
第二次メタ化(1985)あれは意味がない、と言うことにも意味がない
「あれは意味がない、それも意味がない」と言うのは
「しかしこれだけには意味がある」と言いたいからなのだが、
その「これ」がなくなってしまえば「あれもそれも意味がない」と
世界を否定する意味がなくなるので、逆に意味は回復するかもしれない。
「これ」とは思想的先端のことなのだが、はたして今まだ思想的先端ってあるのかなあ。
80年代アイドルは1965〜67年の3年間に生まれている。
68年生まれとなるとちょっとズレて井森美幸や森口博子のようなバラドルになってしまう。
これも68年生まれが80年代文化からズレ始める証明だ。
【B級世界】=【ファンタジー世界】
68年生まれから活字文化への回帰が始まるのだが、
70年生まれまではまだ進歩の観念が持続している。
(例:夢のような未来としての21世紀像)
しかし72年生まれ以降は基本的に江戸時代の住人で
進歩(あるいは進化)のための努力は一切しない。
その変わり目の71年生まれはちょうど「未来」の感覚が壊れつつある世代で、
自分がこの先どうなるのか不安になってけっこうものを考える。
1962年生まれ以降は急激に小説が読めなくなると言う話があるが、
「読めなくなる」というのは非常に失礼な言い方であって、実際は
小説という形式が単なるパロディとしか思えないので読む気がしないだけだ。
しかし68年生まれにはもうこのパロディ感覚はない。だから平気で小説が書ける。
しかし今どき小説なんか書いて何の価値があるというのか。
それでは批評はどうかというと、俺は71年生まれが書いた批評を読んでも
人間がサルの形態模写をしているようにしか思えない。
いやまあ中には面白い指摘もあったりするんだが、それはジャンル全体として無価値だ。
歌舞伎や落語の新鋭として頑張ってます、という以上の意味はない。
だいたい1988年あたりからこういうベタなことをする人間が表面に出てきたわけだが、
そろそろ本当の歴史の先端が浮上してきてもいいころだな。
88年のソウル五輪で鈴木大地がバサロ泳法で金メダルを獲ったのはそういう意味だな。
小説という文化のルールはもう固まっている。
ルールが固まった文化は先端としての価値はない。
アイドルという文化のルールも固まっている(例:松浦亜弥)
しかしゲームとインターネットをひっくるめて「コミュニケーション志向メディア」
と呼んだ東氏の「批評」には チョト 感動したぞ。
批評の世界でよく使われる「メタ意識」という言葉の意味は実はオカルト的なものだ
ユング心理学に集合無意識という言葉があるが、通常それは民族あるいは人類全体の経験の
データベース的なものという意味で使われている。
しかし人類の集合的意識は過去のデータベースとしてだけではなく、
今現在も我々をコントロールしている集合的意志としても機能しているのだ。
そしてその集合意志にアクセスした状態を「メタ意識」と呼んでいるのだ
これは一種の変性意識状態で、個体にとって有意味であったことも、
このメタ意識の状態では無意味に感じられる。
実は単細胞生物から多細胞生物に進化した時もこのようなことがあった
単細胞生物が多数集合した群体という生活形態が一つの単位としてふるまううちに
多細胞生物は誕生したわけだが、この時その体を構成する個々の細胞の意識は死滅し、
メタレベルの多細胞生物としての意識がその生命体を支配するようになった。
これと同様にメタ意識状態とは個体レベルの意識が死滅し、
人類全体レベルの意識がその人間の意味感覚を支配した状態のことだ。
人間はメタ意識に支配されるとなにもかも無意味に感じられるようになる。
しかし、たまに意識のメタ性を実感することで、自分が生きてることは正しいと思う。
人類の意識は調和のとれたメタ的状態へ進化する必要があると思う。
そういう変化が今年中に起きることを期待したい。
実はメタ化の触媒はテレビだ。
今回、小児科医会はテレビの危険性を警告したが、
実は人間や社会が崩壊する寸前のギリギリの状態まで
テレビによって人間の意識をメタ意識へ押し上げ続けておかねばならなかった。
しかし意識がメタ化する目星がついたので、今回の警告が解禁になったのだと思う。
だとすると人類意識の進化は近いはずだ。
まあ進化なんてないよな。あえて言えば、たまにすべてが無価値に感じられるような
精神状態になるのが進化といえば進化だ。その状態では自分自身は非常に高度な存在に思える。
しかしそれ以上の状態に突き抜けることはない。まあたまに新しい発見ができれば十分だろう。
終わりなきB級世界を生きろ。
しかし1970年代ってそんなにA級な時代だったかなあ。
70年代の子供が仮面ライダーに夢中になるのも、
80年代の子供がファミコンに夢中になるのといっしょではないのか。
そもそも仮面ライダー自体がウルトラマンの二番煎じだし、猪木と馬場は力道山の二番煎じだ。
それでは1960年代こそA級時代だったのか。
かりにそうだったとしても1985年生まれの人間(例:モー娘のメンバー)が普通に生活
できている以上、1985年で世界は終わったと考えるのはやはり間違いとしか言いようがない。
人間も動物である以上、どんな時代環境にも適応する能力があるのだ。
ていうか昔が超越的時代だったというより、
自分自身が超越化したから世界がつまらなくなったというのが真相かもしれんな。
テレビは人間に幼児的万能感を与えると言われるが、まさに俺がその重症患者なのかな。
しかし単なる病気では俺の成し遂げた数々の発見が説明できないだろう。
それがすべて妄想でないことはプリクラ新聞が他者から絶賛されたことで証明できる。
「あらゆる意味や価値が崩壊した世界」というのはすでに1860年代の若者が
感じていたことだそうだ。(ツルゲーネフの小説より)
しかし1980年代の喪失感はスケールがちがうだろう。
19世紀の喪失感はまだ観念レベルのもので、大量のひきこもりを生みはしなかった。
もう昭和時代の感覚はきれいさっぱり忘れるべきだよな。
ていうか最近95〜96年のヒット曲がナツメロになってきた。
>>338 >それでは1960年代こそA級時代だったのか
正確に言うと60年代に夢見られた理想的未来としての「21世紀」がA級時代(A級世界)
★2004年、将棋界に超大型新人がデビューした。
その名は「銀行破」(ぎんこう・やぶ)。
将棋ファンは彼のことを親しみを込めて「銀行破たん」と呼んだ。
★こんばんわ。ギン・コウハです。銀行破タンと呼んでね。
■碁盤はもともと太陽の位置を記録する道具で太陽は白い石で表した。
しかしある日、皆既日食が起き、その日の太陽だけは黒い石で表すことにした。
古代中国の人は皆既日食を太陽が死んだ状態と解釈した。
その思想と、古代の条里制の都市において兵士が周囲を塞がれて死ぬことの連想も加わって、
ある日ある天文観測官が白石に四方を囲まれた黒石が死ぬゲームを考えた。
この時点ではまだ白石は黒石に囲まれても死なない非対称なゲームだった。
やがて複数の石がつながった形でも周囲を全部囲まれたら死ぬこととか、
「眼」が2つあれば死なないことなども発見され、少しずつ「囲碁」というゲームができていった。
1965年生まれ さくらももこ 尾崎豊 太田光
65年生まれは平気で物語を語ることができる。
根源的探究を最初から放棄しているとしか思えない。
1980年にデビューした近藤真彦が1964年生まれなのは必然だった。
63年生まれはあらゆる文化形式を拒否するからアイドルにはなれないし、
65年生まれはこの年まだ15歳だからアイドルになるには若すぎる。
(65年生まれが大挙してデビューするのは82年)
ナンシー関が1962年生まれなのも必然だった。
61年生まれではまだテレビ感覚は身についておらず、
63年生まれだとテレビ以外を完全に拒否するから文章が書けない。
以上のことから大救世主は1963年生まれであることが証明される
あまりマジに受け取るなよ
もし近い将来、人類の意識に革命的変化が起きて、
それは特定の人物が惹き起こしたものであることが誰の目にも明らかな時、
その人物は「救世主」と呼ばれるだろう、という一般論だからな。あくまで。
その意識の革命的変化というのは例えば自由恋愛は禁止すべきだ、
という道徳レベルの転換じゃ全然ダメなんだな。
もっと劇的に、今まで誰も想像しなかったような能力を獲得するくらいでないと。
今年はアセンション元年になるはずなんだがなあ
しかし麻原の一審判決がもうすぎ出るのも
今年が1995年の逆回転の年だからだろう。
歴史の逆回転おそるべし。
東京で大地震でも起きねえかなあ。
今回の芥川賞は活字世代が、
「ほら、こんなに若い人が芥川賞を獲った。文学はまだ終わってない」
と言いたいがための授賞だな。
何もかも受け入れない。
自分が何もかも受け入れてない、ということも受け入れない。
さっき偶然ちらっと覗いた掲示板にはスレッドタイトルに特殊なマークを入れることで
強制age(sageと入れても下がらない)にできるシステムになってて面白いと思った。
柄谷行人は「70年代以降の日本の現実しか知らない人間に何がわかるか」と言った。
しかし俺は、68年以前にものごころついてた人間に何がわかるか、と言いたい。
しかし俺も、85年以降の現実しか知らない人間に何がわかるか、みたいなことは考えてた。
ていうか85年で世界は終わったと思ってたし、そもそも俺より5つ以上年下の人間は
存在してないと思ってた。存在する意味がない。そういう意味では柄谷氏よりもっと極端だ。
しかし東浩紀氏の「おたくから遠く離れて」という文章を読むと、
どうやらこの人は80年代に中学高校時代を送ったらしいことがわかる。
俺は80年に世間との接触を断ったので、80年代に普通に学生生活を送った人間が
この世に実在するということが信じられないのだ。
さらに先日「金スマ」という番組でTBSの安住紳一郎アナの高校時代のビデオを
見てびっくりした。それは安住アナが応援団のリーダーとして体を動かしポーズを
決めて応援している画像だったのだが、仮に高校2年として1990年ということに
なるわけだが、1990年に高校生活というものが成立していたのか!と驚いた。
しかも体育祭で応援なんて。そんなのはとっくに死んだ文化ではなかったのか。
それと、1985年生まれのモーニング娘のメンバー(石川、吉澤、藤本)もふつうにしゃべるわけだし、
さすがに最近「世界はすでに終わっている」というのは無理がある気がしてきた。
しかし世界が終わってないとなると、もう今までのような極限的生活はできなくなる。
これは俺にとって極めて重大な態度変更なのだ。
極限的生活と言えばかっこいいが、単に缶コーヒー飲むだけなんだよね
コーヒー飲まないとまったく何もやる気しないのなんでだろ〜
まったくやる気しない状態から缶コーヒー5分の1程度飲んだだけで
それなりに生活できる状態になるのなんでだろ〜
一日に缶コーヒー1本くらいでちょうどいいのに3本も4本も飲まないと
気がすまないのなんでだろ〜
一日に缶コーヒー3本も4本も飲むと頭が危ない状態になって
ビールで沈静化させないといけないのなんでだろ〜
コーヒーの興奮をビールで冷ますと眠れなくなるのなんでだろ〜
眠れなかった翌日何もかも面白くなくなるのなんでだろ〜
何もかも面白くないからまたコーヒーをガバガバ飲んで
頭が興奮しすぎて脳内出血起こしそうになってまたビールで沈静化させて
眠れなくなって何もかも面白くなくなるという悪循環に嵌まるのなんでだろ〜
そんな生活ぜんぜん極限的でもなんでもないと言われそうだ
しかし重要なのはあらゆる興味を受け入れないという精神的態度のほうであって、
コーヒーを飲むことで頭が冴え渡り、意識を常に客観的状態に追い込むことによって
世界の外からものを考えることができるのだ。
よく文芸評論家は「今の若いやつは小説が読めない」とバカにするが、
どうして「小説を読む」などということが許されるのか。それは単なる娯楽ではないか。
小説を読んで面白いと感じるようではダメだ。
そんな平凡な状態では平凡なことしか思いつかない。
女の子を見てかわいいと思ってはならない。
その状態はすでに意識が磁化されている。
常にあらゆる文化から自由な状態でなければならない。
そしてあらゆる興味がなくなってくると、何もしてなくても精神的苦痛になってくる
と同時に時間が経つのがきわめて遅くなり、たった5分が耐えられなくなる
本は読めないテレビは見れない音楽も聴けないからそのへんを歩き回るしかない
しかし歩くのも2時間が限界だ
図書館へ行って雑誌を読むことは出来る。それも一時間くらいが限界。
そういう意味で「夕焼けニャンニャン」は助かった。あれは何とか見れる。
俺は荻窪から新宿まで100回は歩いたね
その次に住んだ十条から池袋までもな
84〜89年の話だ
俺は環七は葛西から平和島まで全部歩いている
環八も羽田空港から高島平まで(一部「笹目通り」という)全部歩いた
ていうか23区内の主要な道路は大体歩いてるよ。それしか時間をつぶす手段がなかった。
俺は「東京23区歩き王」かもしれんな
あとは首都圏の電車路線ぜんぶ乗るとか。ほかにすることがないから仕方ない。
どうだ、苦しそうだろう
俺に言わせれば、自分の部屋にひきこもることができる人間は幸せだ。
俺もできれば外出したくなかった。しんどいから。
しかし出ないで部屋にいるともっと苦しかった。
なにしろマンガすら読めない。
さらに悪いことに俺は自分が何もできないことを正当化した
コーヒーを飲みだしたのは90年代になってからだが、80年代も似たような形で苦行していた
そんな「苦行」をしても何も成果がなければそのうちやめるのだろうが、
例えば俺が歴史の縮小反復法則を発見したのは88年だ。
そのほかにも個人的発見は山ほどある
だから俺は「苦行」がやめられなくなった
宇宙の最終真理に到達するまでやめられないと思った
しかし実は何か別のことで世間に認められればやめるんじゃないかと思ってた
しかし最近そうは思わなくなった。
俺はたとえどんなに世間から賞賛されても「苦行」はやめないだろう。
ところがそう思い始めたとたん、極限的努力を続けることがバカバカしくなってきた。
これはパラドックスだ。
今日も3本目の缶コーヒー飲みながら「ああ、もう一生極限の苦行つづければいいじゃん」と思った
今までは、これでもう飲むのはやめよう、考えるのはやめようと誓うくり返しだったのだが・・・
どうも世界も終わってないようだし、B級世界がこの先延々とつづくらしい。
そういう判断も加わって最近生活態度に変化の兆しが見られるのだった。
差別問題で自殺した天理の校長、可哀想にな。
部落解放同盟に突き上げられたんだろうな。
【1ワオ】
ワオとは女の子のかわいさを表す単位である。南沙織のかわいさを1ワオとする。
島谷ひとみはいい勝負だから1ワオ。
モー娘の石川、吉澤、藤本は2ワオ。
きのう駅近くの飲み屋街を通ったら、昭和のテーマパークを歩いてるみたいだった。
現実なのに架空の街のような、シミュラークル化した世界。
ああもうコーヒーやめたやめた。もう何も新しい発見しなくていい。
集英社新書の「ルポ・まる子世代」という本によれば、まる子世代とは64〜69年生まれだそうだ。
この定義は正しい。62年生まれと64年生まれは共に究極のテレビ人間の63年生まれに隣接して
いるが、64年生まれには62年生まれのような緊張感はない。峠を越して安心したのだろう。
それは例えばナンシー関(62年生)と吉本ばなな(64年生)のちがいである。
南沙織と森高千里は「1ワオ」
1961年以前生まれはバカだ。
1964年以降生まれもバカだ。
1962年生まれもバカだが、少しはましなバカだ。
俺の発明した「プリクラ新聞」は何が画期的だったかというと、
人間関係をこれ以上はないという構成要素まで分解したことだ。
それ以降、男女関係はすべて応用問題にすぎなくなった。
この業績は科学史で言えば、記号代数と解析幾何学の確立に相当するものだ。
NTTドコモのi-modeはこの原理的装置をちょっと改良しただけだ。
だから俺は100億円受け取る権利がある。
ちなみに俺の発明した「普遍将棋」も将棋の(駒の)機能を極限まで分解したものだ。
NTTドコモの企画会議の出席者、小山薫堂氏(64年生まれ)は
i−modeの開発はプリクラ新聞がきっかけだったことを証言せよ。
>>321の
<テレビ>2歳までは控えめにと提言 小児科医会
という提言を毎日新聞は「教育の森」というページの「記者ノート」というコラムで触れた。
論理的に定式化できてない単なるおしゃべりを業績とは呼べない。
アインシュタインの相対性理論の論文はたったの2ページだが、
それは歴史に残る偉大な業績である。何の業績もなく、単なるおしゃべりしか
できないやつらがでかいツラをしてるのは本当に腹が立つ。
一次元の碁というアイデアがあるが、まともなゲームになったためしがない。しかし、
黒●■
白○□
このように黒白それぞれ2種類の石を持つようにして
+●■++ → +●+●+
というふうに黒同士でも■は●に挟まれたら死ぬというルールにすれば、
多少はゲームらしいゲームになるかもしれない。
+
これは双方着手禁止
++ → +● → ○+
同型反復禁止
+++ → +●+
先手圧勝
++++ → ++●+ → +○●+ → ●+●+
先手圧勝
+++++ → ++●++
先手圧勝
++++++ → +++●++ → +○+●++ → +○+●+●
セキの形ではあるが石が一つ多い黒の勝ち(中国ルール採用)
+++++++ → +++●+++ → +++●+○+ → +●+●+○+
やはりまともなゲームにはならんか
→ 白パス +●●●+○+
++++++++ → ++++●+++ → ++○+●+++
→ ++○+●+●+ → ○+○+●+●+ → ○+○+●●●+
++++●++++
++++●+○++
++●+●+○++
++●+●+○+○
●+●+●+○+○
●+●●●+○+○
しかし6手目で白パスが認められなかったら
●+●+●+○○○ こう打つしかないが
●+●+●●+++ こう取られて
●+●+●●+○+ 白はなんとか一つ残っただけとなり
●+●●●●+○+ 結果は、黒5対白1
++●+●+○+□ 白は4手目で□を打っておけばよい。すると、
●+●+●+○+□
●+●+●+○○+
●+●●●+○○+ 黒4対白2となってパスありの結果に等しい
++●+●+○□+ ちなみに白4(□)をここに打つのはまずい
++●+●●+□+ こんなふうに○が取られるから
東浩紀氏の奥さんが64年生まれというのは面白い。
東氏にとって年下の女は動物だから魅力を感じないのだろう。
だから年上で東氏と同じテレビ化以降の世代で最も「人間的」な64年生まれを選んだ、と。
しかし俺に言わせれば64年生まれから人間は動物化しているのだが、
東氏にとっては64〜71年生まれが人間なのだろう。アホか。
人間と呼べるのは進歩のための極限的努力を続ける者だけだ。
ふつうに結婚する人間がどうして極限的努力をしてると言えるんだ。
1963年生まれというのはブラックホールのような存在なのだ。
>>413 原理的装置といえばチューリングマシンのほうがいいかな
しかしもういくらあらゆる文化を拒否して根源的探究を続けても意味ないんだろうなあ
アセンションなんて錯覚だよなあ
動物的欲望を充たすのを目的に生きるしかないんだろうなあ
10年後も今と変わらない世の中が続いてるんだろうなあ
そもそも2004年の世界が実在してるということが信じられん
もしかしたら動物化を受け入れるのがアセンションなのかもしれん
そうなると「どうして動物化受け入れてもいいのか」について考えんといけんな
いや「どうして動物化を受け入れてもいいのか」を考えるのを放棄するのが動物化なのだった
そうでもないか。行動レベルの動物化と思考レベルの動物化はちがう。
行動レベルの動物化だけ解禁すればよい
「どうして行動レベルの動物化を受け入れてもいいのか」などと考えてはならない
それが今日の結論だな
>>429 ++●+●+○+□ 「白は4手目で□を打っておけばよい」とは言うが
++●+●+○●+ すぐ取るとどうなる
+○●+●+○●+ 白コウ立て
+○●+●●+●+ 黒取る
+○+○●●+●+ 白取る 黒パス
+○+○++○●+ 白取る
+○+○+●+●+ 黒取り返す、となるのかな
まあ大して面白い話ではなかった
ミニスカートは悪魔の力である
♪あ〜くまのち〜から〜 ミ〜ニ〜着〜けた〜
♪ルール無用の悪党に〜 正義のパンチをぶ〜ちかませっ
パンチは反則だ
昔「とんねるずのみなさんのおかげ」に「ハイ&ロー」というコーナーがあった
サイコロを2個ふって7以上ならハイ、6以下ならローというものだ
しかしサイコロを2個ふって合計が1ということはない。
明らかにハイが有利である。
昔、松井が5打席連続四球を食って問題になったことがある
しかし例えば3つめの四球からは臨時代走が一塁に出るようにすればよい
1200年代は100メートルを越すゴシック大聖堂がヨーロッパの各地に建てられた。
1920年代のニューヨークの摩天楼の建設ラッシュはその反復なのだ。
梅棹忠夫の文明の生態史観はすばらしい仕事だ
世界には3つの地域がある。
インド・アラブ=第一地域
中国・ロシア=第二地域
日本・ヨーロッパ=第三地域
とすると、共産化したのは第二地域、文明化がなかなか進まないのが第一地域である。
第一地域は紀元前3200年ころから文明化した超古代文明地域で、そのピークは紀元前1600年。
第二地域は古典古代に栄えた文明(ロシア=ローマの末裔)で、そのピークは紀元200年。
第三地域は近代文明が栄えた地域で、そのピークは西暦2000年。
と、1800年周期で考えることができる。
まあ古代バビロニアが最も栄えたのは紀元前1700年あたりかもしれんが。
でもそれを言うなら古典古代のピークは紀元100年、近代文明のピークは1900年かもしれんぞ。
ドイツや日本は近代化が遅れた国だったから、国家主導の重化学工業化に成功したという話がある。
ドイツの歴史学者オットー・ヒンツェの説だ。
しかしその考え方は古典古代文明(地域)と近代文明(地域)の関係についても言えるだろう。
すなわち、中国やロシアのような古典古代文明地域は伝統のしがらみで、
スムーズに近代化できなかったというものだ。
言うなれば共産主義とは古代の大帝国のイデオロギーの再版なのだ。
(中国=儒教、ロシア=キリスト教)
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これは「ウラムの珊瑚」のルールを少し変えてみたものだ。
最後、きれいに決まったのには俺も驚いた。
ケータイで、お段を文字入力するとき5回押すのは面倒だから、
「あ」を押しっ放しにすると「お」で止まるようにすればよい。
「仮面ライダー」カードの106番(新カード)ユニコルノスが出た時はうれしかったなあ
♪トム・スネッドン イズ ア コールドマン
♪地球を駆け巡る つめた〜いニュース
ニーチェが事実上死んだ1889年、ヒトラーは生まれた。
ハイデッガーもウィトゲンシュタインもこの年生まれている。
それでは1963年に誰か死んだかと言えば、いいやつがいた。
ケネディ、力道山、小津安次郎というのもいるが、なんと言っても岡本天明だ。
岡本天明とは出口王仁三郎の弟子で「日月神示」の著者だ。
「日月神示」の予言によれば人間はやがて半霊半物質の状態へ進化するはずなんだがなあ
1977年にメタ化革命は起きたわけだが、前年にその前触れはあった。なぞなぞブームだ。
「王選手に向かうとき飲めばよいクスリは何でしょう」「太田胃酸(王退散)」
「さわると怒られる車は?」「サバンナ」
そういうナンセンスなぞなぞが意味を脱臼させ、
メタレベルから世界を見下ろす視線を育んだといえる。
また、1980年のマンザイブームにも前触れがあった。
1978〜79年のインベーダーゲームの爆発的ブームだ。
インベーダーゲームは日本人の脳をマッサージして、
新しい価値観(感覚)を受け入れる下地を整えたのだ。
このようにブームとブームの関係を考えることも重要である。
昭和の碁聖、呉清源氏(存命中)は、囲碁は勝負事(ゲーム)というより、
一種の自然現象であると言っている。
実は俺は80年代は囲碁のことばかり考えていた
どうして数学や音楽、文学は文化と言われるのに囲碁は娯楽なのか
そのちがいは科学的方法の有無にあるという結論に達した
そして、あらゆる文化の根本にある恋愛というものは明らかに同じことの繰り返しであり娯楽である
となると、その恋愛というものをつついているだけの文学なんかは文化と呼ぶのはおかしい
あるいは行き当たりばったりで曲を作っているだけの音楽というのも文化じゃない
世の中けっこういい加減なものだ
御三家と新御三家の面白い関係
西城秀樹
郷ひろみ
輝
彦
つまり橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦のうち西郷輝彦的なものを受け継いだのが新御三家なわけだ
そして郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹、のうち郷ひろみ的なものを受け継いだのが「たのきんトリオ」だ
(郷ひろみ=たのきん=ジャニーズ事務所)
三人組というのはたいてい内向的、普通、外向的(ちょっと太め、お笑い系)となる。
例えばキャンディーズのミキ、ラン、スー。
中三トリオなら百恵、淳子、昌子。
少年隊ならニシキ、ヒガシ、ウエクサ。
たのきんだと野村、近藤、田原。
(第二期)プッチモニなら吉澤、後藤、保田。
(第一期)ドリームなら松室、長谷部、橘。
だから何?という話ではあるが。
ということはピンクレディーのような二人組の場合はまん中の普通が抜けて、
内向的+外向的(ちょっと太め)になるのかも。
ケイ(内)とミー(外)は当たってる。
東京は外へ向かう街だが、大阪は内に向かう街である
大阪は環状線の内側を把握すれば大阪を把握したことになるが、
東京は銀座・浅草も渋谷の中心街も新宿新都心も山手線の外側だし、
池袋も練馬や埼玉など外向きの街だ。あと、自由が丘や下北沢、吉祥寺、二子玉川という
副々都心もあるし、いずれは立川も文化的中心の一つになるだろう。
どうしてネコはかわいいのか。
それはかつてネコ科の猛獣はサル類の天敵で、よく食われていたのだが、
人類が道具を獲得してからすっかり小さくなって人間に服従するようになったからだ。
木曽義仲=織田信長(最初に入京)
源義経=豊臣秀吉(天下統一)
源頼朝=徳川家康(最後に笑う男)
雲間から太陽光線が放射状に広がる光景はよくあるが、あれは実は平行光線である
日本テレビのサブリミナル映像が問題になったが、
Asahiの「モーニングショットコーヒー」に問題はないのか。
あれがヒットしたのはモーニング娘のデビュー曲「モーニングコーヒー」の
♪モーニングコーヒー飲もうよ〜、という歌詞が無意識的に作用したからだろう。
太陽と月の見かけの大きさがいっしょというのは絶対におかしい。
(日本列島が世界の大陸を縮小した形をしているのと同じくらい)
この現象には科学的合理主義が否定してきた世界の本当の姿が隠されている。
最近スポーツ界の記事でやたら「救世主」という言葉を目にする。
あれは本当の救世主が出現するのを期待する意識のだ表れだろう。
麻原は1997年の時点で2003年にアメリカが世界に戦争を仕掛けるむのを予言してたらしい。
AERAに書いてあった。なかなかやるじゃん、麻原。
しかしオウムなんて単なるお笑いじゃん。
マジでオウムを非難しているメディアはアホだ。
麻原なんか公開処刑すればいいんだよ。
お笑いとしての公開処刑。それが人類の歴史では普通なんだよ。
そういうアホな体制を破壊しようとしたオウムは正しかった。
オウムよりメディアのほうが百倍狂っている。
鳥インフルエンザが変異したら日本人が何十万も死ぬのは明らかなのに、
BSEの事例がちょっと出ただけのアメリカ牛の輸入を全面禁止するのはおかしい。
BSEなんてイギリスでもたった十数人死んでるだけじゃん。
そんなの危険のうちに入らないよ。どうせ部落関係の圧力だろう。イヤな世の中だ。
俺は部落を非難する落書きをして留置場に三泊したこともある。
まあ目立つ所で堂々と落書きしてあえて捕まえさせてやったんだがな。
俺は渋谷でプリクラ新聞を配っていた時、警察に呼ばれて「どこからカネもらってるの」
と、まるでヤクザの手先みたいな扱いをされた。
なに言ってんだバカ野郎、俺は300万円自腹を切って世の中を変えるための努力をしてるんだ。
もう俺は警察官10人殺す権利がある。
そのプリクラ新聞の関係でTBSの番組に出ることになった時、
番組製作会社のエラそうなやつは「そんなことして大きなお世話だとは思わないのか」
と言いやがった。アホか。出会いのチャンスは多ければ多いほどいいのだ。
ただ、それに反比例して道徳水準も上げなければならないのだが、NTTドコモは
道徳そっちのけで出会いサイトだけで大儲けしやがった。これは大犯罪だ。
俺のブリクラ新聞は本来、自由恋愛禁止法とセットなのだ。
俺がプリクラ新聞を伝授してやったジミーはそのおかげでフォーカスや別冊宝島にも出たし、
テレビにもたくさん出た。俺が伝授したということは一言も言わずに。
しかし、メディア関係者は俺が最初に配ってたのは知ってたはずだ。
どうして俺はいつも存在しないことにされるんだ。俺は徹底的に迫害されている。
そういう世間を俺は絶対に許さない。
まあこんなこと書いても誰も読んでないかもしれないが、証拠を残すことに意味があるのだ。
俺もホントは宅間みたいに包丁でそこらを歩いてるやつらを手当たり次第殺したいんだがなあ。
何人殺そうが俺は無罪だ。
これまでさんざん俺を迫害してきた世間のほうが悪い。
しかし十人やそこら殺しても仕方ないなあ。俺は全人類を殺さないと気が済まない。
まず中国人を全員殺すだろ。次に朝鮮人。その次はアメリカ人。次がロシア人で、
最後が日本人だ。アフリカ人やインド人はサルみたいなもんだからどうでもいい。
テレビが与える情報量は人間の脳の容量を越えている。
その情報量が一定の値を越えた時点で世界はパロディになる。
ボードリヤールの言う「歴史のパロディ的段階」だ。
それは1977年に起きた。それ以降の歴史に意味はない。もう人間は死ぬしかない。
うつ状態とは生きる意味を失った状態のことだが、
意味を失ってこそ意味を意識するのであり、
普通に興味や意欲のある人は意味なんか意識しない。
つまり無意味な状態こそ有意味であり、有意味な状態こそ無意味なのだ。
無意味な意識状態は全然「無」なんかじゃなく、それは大苦痛だ。
無意味な状態は平穏(涅槃・アタラクシア)とはほど遠い。
これはちょうど気温が25度くらいなら人体にとって快適だが、
マイナス273度だと大苦痛なのといっしょだろう。
意味とは虹のようなものだ。
その本体をつかもうと追えば追うほど逃げてゆく。
【民放テレビを潰すため、ドコモ、トヨタ、セブンイレブン(業界CM一位)不買運動】
まず業界一位の企業に不買運動をかけ、その企業がテレビCMをやめたら業界二位を不買する
恋愛感情とは生殖システムと言語という環境が生んだアフォーダンス・クオリアである
インターネットやケータイといった情報環境の高度化が
アフォーダンスとしての意識状態の革命(アセンション)を生み出すだろう。
まちがいない。
汐留の超高層ピル群のおかげで、東京の都心は本来の場所に戻った。
新宿や渋谷はもう中心とは言えない。
1964年には「みゆき族」が話題となり銀座が時代風俗の最先端だったわけだが、
1967年の「フーテン族」によって新宿が最先端の地位を奪った。
1978年には「タケノコ族」によって原宿が、また1980年代には西武の宣伝戦略などで、
1993年には「コギャル」によって渋谷が時代の最先端となる。
しかし2003年の六本木ヒルズに続いて今月、日本テレビも本格的に汐留に引っ越して、
文化の中心は明らかに南下した。四冠王の一角を奪取したフジテレビもゆりかもめですぐそこだ。
これは俺には1970〜2000年の異常な三十年が過ぎて世界が正常化しつつあるしるしに思える。
★【もっともゆるやかな恋愛ルール】
★
★ルール1=男女は誰とでも自由につきあって(Hして)自由に別れられる(手切れ金一切不要)
★ルール2=ただし、いま誰とつきあっているかは登録しなければならない(誰でも確認できる)
★
★このルールにより女は自分がまじめにつきあおうと思われているか単なる遊びかがわかる。
★いや「いま登録している女とは別れるから俺とつきあってくれ」といって女をだます男が
★出てくると言われるかもしれないが、もしいま登録している女とこれ以上つきあう気が
★ないならすぐにでも登録抹消すればいいだけだから、これは簡単にウソとわかる。
まあ最も単純なルールといえばHしたら常にその場でカネを払うというのもあるがな
「未来喪失」という言葉がある。「あの輝かしい未来はどこへ行ったんだ」という話だ。
しかしホントは我々が失ったのは未来ではない。未来を夢見させるような現在の状態(=進歩)だ。
SFは未来ではなくその時代をデフォルメして描いているだけだというのは常識だが、
「未来が失われた」という時、まだ未来は実体化されている。これは認識を改めねばならない。
524 :
考える名無しさん:04/03/14 15:01
店の中に入ってきた客に「いらっしゃいませ」と言うのはおかしい。
「いらっしゃいませ」とは「いらっしゃいます」の命令形であり、
くだけた言い方をすれば「来い」ということだ。
つまりこれは、通りを歩いている人に対して「店の中に入って来い」と
呼びかけているのであり、いったん店の中に入った人に対しては、
「いらっしゃいまし」と言うのが正しい。
525 :
☆キキ+キ゚Д゚♪ ◆ooOooooopo :04/03/14 15:03
ジャーマン!
>525
あ・・・・こんなところにも 出没している。
HPをみてガッカリ
もう少しわかっているやつかと思っていたが、
矛盾だらけの自信過剰おこちゃまと気づいてしまいました。
あと 現在の最大の弱点 英語は少しお勉強した方がいいよ。
できない振りをしているだけなら問題ないが
いたちがいスマン
【6年周期】
1986年=岡田有希子自殺(文化状況全体も死に体へ)
1992年=尾崎豊死亡(本格的不況)
1998年=hide死亡(自殺者激増)
2004年=だれか大物の死と大きな社会変動はあるか?
ちなみに1980年、1974年、1968年も大きな変動の年だった。
★ところで俺は21世紀は西暦2000年から始まったと思っている。
20世紀=1900〜1999年、19世紀=1800〜1899年というわけだ。
【【【 そして紀元前1年は紀元0年でもあることとする 】】】
これで紀元1世紀もしっかり百年あることになる。
紀元前については大昔だから今まで通りでいいだろ。
(例えば紀元前5世紀=BC401〜500)
紀元前1年はダブると考えてもいいし(紀元前1世紀=BC1〜100)、
ダブらないことにしてもいい(紀元前1世紀=BC2〜100)。
大昔のことはいい加減でいいのだ。
・ハマス指導者殺害
・パキスタン、アルカイダ幹部捕獲で激戦
・世界中で反米デモ(スペインのテロをきっかけに)
・台湾混乱&韓国混乱
これは何の予兆なんだろう
530 :
考える名無しさん:04/03/22 22:09
1970年代後半から80年代前半にかけて人間の意識は大きく変容した。
これは高度成長がもたらした環境変化(特にテレビ)が人間意識の変化に及んだものだが、
90年代の情報環境の変化(特にケータイ)の影響もそろそろ意識に及ぶころではあるまいか。
531 :
考える名無しさん:04/03/22 22:12
70年だから80年代にかけての大きな変容って、どういうこと?
532 :
考える名無しさん:04/03/22 22:45
意識のメタ化=神の視点=テレビ視線の内面化
たとえば1978年には恐ろしいホラー映画も82年には笑いの対象となった。
これはテレビという二次元メディアが現実の三次元世界の実質を持たない
形式のみの世界を意識の内部に作り出したことが原因ではないかと最近は思う。
つまり恐怖という実質を失った主体には何かに怖がっている人や場面がギャグに
見えるのだ。1980年のマンザイブームがそういう認識態度を確立した。
柄谷行人らが形式批評を確立するのもこの80年前後だ。
その結果「ウラが見える」とか「先が読める」といった透明な意識の状態が出現
(80年代半ば)したわけだが、これもテレビという(二次元)形式メディアが
物事の実質(=内容)を消去した効果と考えられる。
533 :
考える名無しさん:04/03/22 23:03
いとうせいこう氏は
(虚構/現実)/現実
という図式を13年前に提出しているが、神の視点(いとう氏の用語では「衛星の視線」)
という精神状態を作り出したのも実はテレビという物質の効果にすぎないんだよね。
これが80年代にはわからなかった。
柄谷行人も80年代前半は観念一本で行けるとこまで行こうと頑張ったが、
85年以降は一転して物質(=他者)の効果を受け入れるに至る。
日本人が外国文化を無抵抗に受け入れるのも、かつてはひらがなとカタカナの
使い分けによるとしていたのが後には歴史的に日本は一時も侵略されたことが
ないからだ、と現実的なことを言い出した。
まあ観念一本で宇宙のすべてを説明するなんてもともと無理なんだな。
と言いつつ俺はいまだに現実が受け入れられない・・・・・トホホ
「紀元前1年は紀元0年でもあることとする」というのは
午前1時を25時というのと同じでさほど不自然ではない。
紀元前1年を正式に紀元0年にしてあとはズラせばいいと思うかもしれないが、
そうすると紀元前2年を紀元前0年にせねばならず、0年が二つできておかしいのだ。
それでは紀元前でも紀元後でもない純粋0年というのを作ればいいのかもしれないが、
そこまでやる必要ないだろ。紀元前の出来事の年数ズラさないといけないし。
紀元3年
紀元2年
紀元1年
紀元前1年→紀元0年
紀元前2年→紀元前0年
紀元前3年→紀元前1年
紀元前4年→紀元前2年
紀元前5年→紀元前3年
今後、この右側のほうを正式な年号とする
(これで紀元前も0〜99年が世紀の[正規の]くくりになる)
【現行】 【改正】
紀元3年
紀元2年
紀元1年
紀元前1年→紀元0年
紀元前2年→紀元前1年
紀元前3年→紀元前2年
紀元前4年→紀元前3年
紀元1世紀=紀元0〜99年
紀元前1世紀=紀元前1〜100年
★やはりこれが一番いい。紀元をまたぐ年数が単純計算でよくなるし。
538 :
考える名無しさん:04/03/24 01:49
>>529 >・ハマス指導者殺害
支持率低下気味だったシャロンのバクチ。
>・パキスタン、アルカイダ幹部捕獲で激戦
前からやってるじゃん。アルカイダは多くのイスラム諸国の現政権にとっても危険な存在。
539 :
考える名無しさん:04/03/24 01:56
>・世界中で反米デモ(スペインのテロをきっかけに)
元々ブッシュには面従腹背だったのが、大規模テロが現実味を帯びてきたので、こりゃたまらんとなっただけ。スペインの政変は、たまたまその機運に野党が乗れただけ。
>・台湾混乱&韓国混乱
台湾のはパフォーマンス合戦、韓国のは党利党略の泥仕合にしか見えん。
つまり「政治」じゃないかにゃ、全部。
まあとはいえ、パレスチナと台湾のは、今後の成り行き次第でまずい方向に行くかもね。
>>538 パキスタンの作戦でザワヒリ氏はつかまらなかったらしい。
まあそれはそれとして俺としてはここらで世界情勢がドドドーッと盛り上がらないかなー、
と期待してるんだよね。宮台がアジア主義とか言い出したのも中国が台頭してきたからだし
(日本も韓国も中国が最大の貿易相手国)、アメリカは巨額の赤字のせいでドル防衛のため
イラク戦争を起こさざるをえなかったと東京kittyさんが言ってた。
で、今回のイスラエルによるヤシン殺害も追い詰められたアメリカの同意の上でなされた
可能性が高い。世界的なケータイ・ブームも一段落してきた今、情報革命の熱気が
冷めない内に意識革命へつなげてほしいんだな。人間の意識にはまだまだ予想もしなかった
ような変化を起こすポテンシャルを秘めていると思うし、そういう予感もある。
このままで終わりってことはないだろ。
SFは死んだ。ロックも死んだ。
それらは進歩の時代の未来幻想にすぎなかった。
進歩が終わった今、それらは単なる幼稚な文化に見える。
ていうか60年代の大人はSFもロックも単なる幼稚な悪ふざけだと言ってた
(例えばアドルノ)わけだが、それは正しかった。
そしてこの幼稚な戦後文化を代表する国がアメリカである以上、
アメリカは没落せざるをえないだろう。
その後、日本的スノビズムが勝利するかどうかはわからない。
SFマガジンで永瀬唯氏がクラークの進化論はルサンチマンだと言ってた。
確かに人類の意識が一つの超意識に統合されるという話は安易すぎる。
とはいえ「幼年期の終わり」というのはある意味正しかった。
そういうSFを信じてた時代(20世紀後半)が卒業すべき幼年期だったのだ。
20世紀後半の現代文化は錯覚だった。
しかしそういう意味では近代500年や文明5000年の文化もすべて錯覚なのだ。
人間はあらゆる文化を錯覚とわかった上で楽しむという文化意識へ移行するのだ。
「シラケつつノる」(浅田彰)という80年代の夢よもう一度。
紀元3年
紀元2年
紀元1年
紀元0年
紀元前2年
紀元前3年
紀元前4年
紀元前1世紀=紀元前2〜100年
★まあ当面はこうかな。紀元前1年なんかいらない。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
★ただ今をもって西暦は廃止、今年は新暦5123年とする★
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
なんか最近、時間が延びてきたような気がする。
あるいは、ほんのささいなことにえらい感激するようになった。
急激な進歩の時代は細かいことに感激してる場合じゃなかったと思うが、
大きな進歩が終わったあとはゆるやかな進歩のモードになって
小さなことにも感激するようになるのかもしれない。
例えば東海道新幹線はわずか5年(1959〜64)で作っているが、
先日部分開業した九州新幹線が全面開通するのはまだ10年以上先だ。
あるいは佐藤政権までの左右対立はせっぱ詰まった緊迫感があったが、
70年代以降のそれ(例:朝日vs文春)は間延びした左右対立ゲームが
30年以上も続いている。
1959年 新幹線着工
1964年 東海道新幹線(5年)
1975年 山陽新幹線(11年)
1982年 東北・上越新幹線(7年)
1997年 長野新幹線(15年)
2002年 東北新幹線・八戸延伸(5年)
★まあ90年代以降は高速道路の建設がハイペースだったわけだが
「すべては虚構だ」という感覚こそ虚構だ。
それは虚構(芝居とかコント)を見ている時に惹起される感覚にすぎない。
映画や音楽の世界が実在しないのといっしょで、
すべてが虚構だなんて神でなければ言えない。
その証拠に他人の気持ちはコントロールできない。
「すべては虚構だ」という相対主義ではどうにもならない現実がある
と言ったのがソクラテスでありマルクスだった。
1.素朴な現実主義(一般人レベル)
↓
2.「すべては虚構だ」主義(ちょっと知的なレベル)
↓
3.科学的現実主義(ソクラテス・マルクスのレベル)
★人間の認識発達は以上の3段階をたどる
ところで昨年の養老猛司ブームは「すべての認識は脳の作用にすぎない」
という考え方の社会的受け入れだと思う。
例えば近年、女の子の幻想的価値が暴騰しているのは、
若くまじめな男が恋愛から疎外されることで観念の中の「女の子」が理想化されたからだ。
モーニング娘の人気もそれが原因だろう。
そういう文化的唯物論はポストモダン思想への有効なカウンターパンチでもあろう。
レベル1…現実主義
レベル2…虚構主義
レベル3…新現実主義
例えば近年の日本の保守化はレベル1と3が結託したものである
反オウム・ヒステリーはレベル1の爆発
┏┓|┏┓|┏┓|┏┓|┏┓
┃┃|┃┃|┃┃|┠┨|┃┃
┃┃|┃┃|┠┨|┃┃|┃┃ ← 新現実
┃┃|┠┨|┃┃|┃┃|┃┃
┗┛|┝┥|┝┥|┝┥|┗┛
┌┐|||||||└┘|////
||||||└┘|////|//// ←観念(この一番左は観念が
|||└┘|////|////|//// 現実から完全に浮き上がった図)
|||////|////|////|////
└┘|////|////|////|////
┏┓|┏┓|┏┓|┏┓|┏┓
┃┃|┃┃|┃┃|┃┃|┃┃
┃┃|┃┃|┃┃|┃┃|┃┃ ← 現実
┃┃|┃┃|┃┃|┃┃|┃┃
┗┛|┗┛|┗┛|┗┛|┗┛
このように世界認識を深めることで新しい現実を獲得しなければならない
////|////|////|////|┌┐
////|////|////|////||| ← 観念が現実から遊離した状態
////|////|////|┌┐|||
////|////|┌┐||||||
////|┌┐|||||||└┘
┏┓|┝┥|┝┥|┝┥|┏┓
┃┃|┃┃|┃┃|┠┨|┃┃
┃┃|┃┃|┠┨|┃┃|┃┃ ← 現実
┃┃|┠┨|┃┃|┃┃|┃┃
┗┛|┗┛|┗┛|┗┛|┗┛
↑ ↑
動 理
物 性
状 発
態 生
もうガラスがパリンと割れて世界が一変するような精神革命は起きない。
そういう革命なら1988年にすでに起きている(少なくとも俺については)。
意識の重心が全体意識に移動した結果、個体としての興味・快楽はほとんどなくなった。
その代わり全体意識の発するメッセージは受信しやすくなったので、
時代が要請する新発見は簡単にできるようになった。
一度、個体意識が破れてしまえば、もうその次に破る壁なんかない。
今まで次なる壁を破ろう破ろうと努力してきたが、無駄なことであった。
1927年、1968年、1977年、1985年、1996年など、それまでの緊張状態が
一気に破裂するような変化はこれまでいくらでも起きている。
「おたく」という言葉には社会的不適応者(または一般的コミュニケーション不能者)
という意味が込められている。「マニア」という言葉にそういうニュアンスはない。
これは明るく楽しいテレビ文化が肥大してそれ以外のネクラな知的趣味が社会的に
抑圧されるようになって発生した現象である(おたく差別)。
哲学、歴史、文学、コンピュータ、数学などはすべてオタクのすることだ。
しかし、そういう知的探究なしで生きていけるのもある種うらやましい。
彼らは新しいことを発見するため自己を徹底的に痛めつけることはない。
まあ明るく楽しい文化の代表みたいな音楽も作るほうは大変だがな
(しかし「音楽おたく」という言葉はあまり聞かない)
>意識の重心が全体意識に移動した結果、個体としての興味・快楽はほとんどなくなった。
まあ高次元意識に達した人間の性欲がほとんどなくなるのは宿命だから仕方ないな。
ニュートンしかりヒトラーしかり宮沢賢治しかりだ。
その代わり自分は超越的存在だという優越感に浸れるからまあ我慢するとしよう。
現実の光景がコンピュータグラフィックのように感じる経験は誰にでもあると思うが、
(超近代的なビルが並んだ町並みとか、建物や地下鉄などの未来的な内部空間とか)
あれはテレビでCG映像を見慣れたことで形成された感覚だ。
J・G・バラードのSFに、すべてのSFが歴史り遺物にすぎなくなる未来を描いたSFがある。
まさに今がそうだな。そういう状態を30年以上前に予言したバラードはエラい。
俺にとって共産主義はものごころついた時から歴史の遺物だったが、
SFもそうなるとは思わなかった。
【訂正】一行目「歴史り遺物」→「歴史の遺物」
SFのイデオロギーとは科学の進歩がどんどん加速していくと、どこかの時点で臨界点を突破して、
人間や社会はまったく別な状態へ進化するというものだと思うが、これは幻想だった。
人間も社会も基本的には何も変わらない。
変わるとすれば、都市景観や電子機器が多少変わるくらいのものだ。
まあそうは言っても俺は最近こういう21世紀も悪くないなという気がしてきた。
都市景観は未来的だし、ケータイやインターネットもよくできたなと思う。
2012年に世界が終わるということはないだろう。
>その代わり自分は超越的存在だという優越感に浸れるからまあ我慢するとしよう。
こういう幼児的全能感がSF的妄想なわけだが・・・
最近、借家の敷金とか大学の納付金とか年金制度とか病院の善し悪しとか、
今まで手をつけてこなかった問題が次々と浮上してるな。
この傾向が加速すれば一気に世の中全体を作り替えようという革命まで行きつくかも。
観念と物質はどう違うかというと、
自分の思い通りにならないのが物質だという答えがあるが、
思い通りにならないのを含めて観念だと言ってはいけないのだろうか。
そう考えれば、物質というのは実はなく、すべては観念の世界だと言えるのだが。
久米が古館に変わったのは、牛丼が豚丼に変わったのに似てる
古館はプロレス実況の口調でイラク人と占領軍衝突のニュースを読んでるな。
すばらしい。これは一種の革命だ。
「戦争は娯楽、世界は虚構」という最もラジカルな思想が報道の中心に登場した。
俺は今日「モッズ」という言葉が思い出せなかったが「〜ず」まではわかっていた。
それで「あず」「いず」「うず」と順番に心の中で発声して「もず」まで来た時「あ、モッズだ」
と思い出せた。これは誰でも経験あるだろう。
しかし次に俺は思った。苦労せず言葉を思い出す時も実は脳内ではこういう検索作業が
行われているのではないかと。つまり意識とは特定のキーワードをボキャブラリーの
中から拾い上げる時に成立するものではないか。まあこの問題についてはおいおい考えていこう。
A├─────┼─────┼━━━━━┤
→ → → →
B├─────┼━━━━━┼─────┤
「ドライバーは常に、となりの車線を走る車のほうが自分の車線より速いと感じる」
のには合理的根拠があるということを最近はじめて知った。
つまり車は常に一定の速度で走っているわけではなく、ガラガラの時は早く、
混んでいる時はノロノロと走る。
さて、ある区間の3分の1はノロノロ、残りはスムーズに走るとしよう。
話を簡単にするためスムーズ区間は1時間、ノロノロ区間は2時間で通過することにする。
A車線もB車線も全区間を通過するのに4時間かかるのはいっしょだが、
自分がノロノロで隣接車線のほうが速いと感じるのは2時間だが、
自分のほうが隣接車線より速いと感じるのは1時間だ。(残り1時間は同じ速度)
よってどちらの車線であろうと相手のほうが速いと感じる時間のほうが長い。
だからとなりの車線のほうが速いと思って何回も車線変更していると事故のもとなのだ。
反捕鯨運動は「クジラが可哀想だから捕るな」という運動ではない。
クジラを殺すのは可哀想で、どうして牛はいいのかという反論に彼らは答えられない。
それではどうして彼らは理屈の通らない運動をやめないかというと、
彼らの本心は「日本人を抹殺せよ」というものだからだ。
この本音があるから彼らを理屈で説得することは絶対にできない。
これは反ユダヤ主義に近いもので、我々は十分警戒しなければならない。
囲碁 将棋
ゲーム空間 19×19 9×9
コマの初期配置 なし 規定あり
コマの動かし方 なし 規定あり
コマの取り方 囲んで取る 重ねて取る
575 :
考える名無しさん:04/04/29 00:00
「囲碁」の分類(基本ルール=囲まれた石は取られる)
無眼碁=着手禁止点なし
一眼碁=着手禁止点あり(例外なし)
二眼碁=着手禁止点あり(例外あり)
さて、それでは基本ルールも除去するとどうなるか。
「囲碁」は消滅し、単なる道具としての碁盤と碁石だけが残る。
この次元において囲碁も五目並べもライフゲームも解析幾何学も碁盤アートも等価である。
「読む」という字は言葉をうると書く。
つまり昔、文字を朗読してお金をもらってた人がいたんだろう。
そうなると「読売」という言葉は意味がダブってる。
単に「読新聞」にすればよい。
彗星が一度に3つもやってきたのは大救世主が現れるしるしです
「すぐれている」とは何か。
囲碁将棋で誰にも負けない人間はすぐれている。
戦争でどの国にも負けない国はすぐれている。
商売で誰よりも儲けた人間はすぐれている。
誰も解けなかった数学の問題を解決した人間はすぐれている。
誰も想像しなかった数学の問題を発見した人間はもっとすぐれている。
誰も解けなかった社会の問題を解決した人間はすぐれている。
誰も想像しなかった社会の問題を発見した人間は誰よりもすぐれている。
>その証拠に他人の気持ちはコントロールできない。
大救世主だか、誰だか知らんが、自分の気持ちはコントロール出来るのか?
その文章は確か「世界は俺一人の幻想ではない。その証拠に・・・」という文脈だったと思う。
だから自分の意志でコントロールできないもの(他人の気持ち)を一つ挙げれば
それで証明になるのだ。
しかしその「世界をコントロールしようという意志」自体はたして本当に自分の気持ちで
コントロールできていると言えるのか?と問いたいのだろうけど、独我論の前提は
「世界のすべては私一人の意志による」というものだから、この問いに意味はない。
囲碁で誰にも負けない人間は最もすぐれている。戦争でどの国にも負けない国も最もすぐれている。
これは客観的に判定できる。それではどういう哲学者が最もすぐれていると言えるのか。
俺はこの客観的基準がわからずに今まで悩んできたが、今日からは
「最も多くの人からナンバーワンと評価された哲学者が最もすぐれている」で行くことに決めた。
これだと、その哲学が本当にすぐれているかどうかはわからない。
しかし、そんな絶対的判定基準なんかどこにもないのだ。
だから相対的にどれだけ多くの賛同者を得られたか、というゲームに参加するしかない。
たとえ自分が一番だと思いつつ誰にも認められなかったとしても。
【三眼碁】相手の石全体がアタリになる時は着手禁止点でも打てる
というのも考えたが、
下図のように全体がアタリになってもいないまま目のつまった石が残るのはブサイク。
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さいきん社会全体の精神状態が不安定になっている。
かつての安定状態がサイコロのような立方体とすると、
今は細長い直方体が不安定に立っているような状態だ。
やがてこのモノリスは安定状態を取り戻すためバタンと倒れるだろう。
1、2,3という自然数には実体性(手ごたえ)があるが、
虚数単位「i」というのはわけがわからない。
「電荷」には実体性があるが、「色荷」となるといきなり抽象的になる。
酸素や鉄もたまたま安定的だった元素をそう呼んでいるだけで、
本当は原子番号で表される抽象的な何かだ。
そして本当は自己や世界も抽象的な何かを言葉で飼い慣らしているだけだ。
哲学的態度とはその言葉による日常的認識を普遍的次元に引きずり降ろすことだが、
そういう態度でずーっと生活していると、世界の意味も哲学的態度を続ける意味もなくなる。
だから世界の根源を探究しようとすると、この自己言及的困難と戦わねばならない。
とはいえ多分これは一種の病気で、これで十分ということは永遠にないだろう。
だから哲学者の精神は最終的に破綻するしかないのだ。
コンビニに入って目当ての商品がないと、
とりあえず募金箱に十円入れて店を出るの俺だけ?