>>390 どうして出口がないの?
曖昧でのんべんだらりとした世界を
人間が理解しやすいメリハリのある世界として再構築していく作業をも含めたダイナミックなものが言語だと思う
曖昧なものをそのままの状態で理解するには人間の脳の情報処理能力では限界がある
言葉は人間が生きていくうえで必要とされるものだけを大まかに捉える道具の役割を果たしている
かといって、人間は言語化されていないものまったく理解できないわけじゃない
芸術や身体の運動に関わる部分は言葉では表現できない領域だ
そして、それらの言葉の外側の部分にこそ価値があることを人間は知っている
俳句は言葉の中に言葉の外側を表現しているし、音楽や絵画はもちろん言葉の外側にある
プロスポーツ選手の華麗なプレーは言葉で伝えれば誰にでもできるというわけではない
それは言葉には還元できない身体だけが理解している世界が存在している証だ
自転車は、言葉で説明しても乗ることが出来ない
自転車に乗って実際にペダルを踏んでみないことには絶対に理解できないコツがある
言葉の外側に無限に広がる理解不能の世界の一端に触れるとき
人間は崇高な感動や喜びを感じる
プラトン的になってしまうがそういう連想を排除して読んでもらえるならこう言い換えてもいい
「人間は言葉の外側のありのままの曖昧な世界に触れた時、無上の喜びを感じる」
もちろん↑この文章自体は言葉の内側
393 :
考える名無しさん:04/07/01 20:12
ありのままの曖昧さは無常の不安定さを言語にあたえる。
394 :
考える名無しさん:04/07/01 22:01
美は多分言語の外にあるね。
美は、超越論的シニフィアンに回収されます。
396 :
考える名無しさん:04/07/01 22:36
「回収」ってのは、詭弁の匂いがするな。
たとえば、ある女性の美しさに惹かれたとします。
それは確定記述の束に還元できません。
で、「女神」というシニフィアンに回収しまう。
人は言語化できない余剰を嫌います。
なんとか理解しようとします。
しかし確定記述に還元することには限界があります。
そのために、名付けることによって、
余剰を回収し、わかったつもりになるのですね。
哲学=言語化
言語化=わかったつもり(「回収した」ことにする)
つまり、哲学=わかったつもり
と、どうしても哲学否定にいっちゃうな。
>>391-392さんは、とてもいいことを言ってると思います。
特に「 もちろん↑この文章自体は言葉の内側」と断っている点が。
わかったつもりというけれど、つもりじゃなくて、本当にわかるというのはどういうことを言うの?
言葉の外側をわかることはできない
言葉の外側の一端に触れることしか出来ない
て言うか、本当にわかるということなんてできるのか?認識はわかるということなのか?
>>402 >認識はわかるということなのか?
そういうつまらないことは考えなくていい
言葉上の細かいことを考えすぎると言葉の牢獄の中で迷宮にはまる
いわゆる哲学とはいかにも真理を探っているように見えて
実は言葉がどういう仕組みになっているかを突き詰めているだけ
言葉はコミュケーション手段であるということです
わかるとはコミュニケーション可能になるということです
哲学は世界をわかったつもりになるというより
誰かの声を聞く、誰かに話し、
共主観的世界を構築するということではないでしょうか
なるほど。そうなのかもね〜
>>404 >共主観的世界を構築するということではないでしょうか
間主観、もしくは共同主観ではないのか?
主観は二つ同時に存在することは出来ない。
だとしたら、真理を探究する行為ってのはどんななんだろう?ってアンチノミーか
横から。
どうも間主観、共同主観に持ってかれるのは抵抗があるなあ。
なんか「お互いわかりあえてる」みたいな、いかにも日本的な情緒主義に持ってかれそうな感じがすんだよね。
主観は二つ同時に存在することは出来ない、は、たぶんその通りだろうけど、そのことと個が抱える孤独感みたいなのをくっつけてはいけない、と思う。
これは406さんに言ってるんじゃなく、自分の問題としてそう考えてる。
なるほど。そうなのかもね〜
410 :
考える名無しさん:04/07/02 21:53
この世の中に暗黙知なんかいっぱいあるよ。
言語化できない物は無に等しい。
って、そんな訳無いじゃないですか。
言葉が無い時代はこの世は無だったんですか?
あらゆる言語化されたものを全てかき集めて見ると「無」に等しい
言語と言葉って違うんじゃ?
>>404 言葉はコミュニケーションの手段である以上に思考の手段であるということが重要
言葉によって人間は具体的なことを考えることが出来る
わかるとは、考えることが出来る、認識できる、思い描くことが出来るということです
哲学は、言葉の内側から、本来の言語化される以前の曖昧な世界と言葉との関係を突き詰めていくような作業であって
突き詰めた先には、浮き彫りにされた言葉の構造がグロテスクに横たわっているだけなのだ