>
>>61関係性・形式性を第一次的と考えているのです。
最近の流行用語だが<関係の一次性>つまり「最初に関係ありき」とは
それ自体、形容矛盾でしょう。
「本質は媒介的に定立された概念としての概念である。その諸規定は本質
においては相関的であるにすぎず、まだ端的に自己のうちに反省した
ものとして存在していない。」(ヘーゲル『小論理学』第二部本質論)
関係性とは媒介的本質の謂いであり、一次性とは直接的実在の謂いです。
>
>>66イメージの総体が私であって、それとは別に私の実体があるわけでは
>ないの。
日常語でも、イメージとは<像>であり、何らかのオリジナル(原物)
を必要とする。実体を写す像は実像、実体と違う像は虚像と言いますね。
例:「知性ある大学生」という虚像の実体(正体)は<レイプ魔>だった。
>
>>69実体と主体はどう違いますか?
認識論的に言えば、<知られたもの>と<知るもの>の違いですね。
>>79 だからヘーゲル的有機体もカント的超越論的個人も
直接的実在や本質の定立であって、こうした普遍的実体という前提そのものを
否定するのが構造主義なのです。
「構造とは要素と要素間の関係からなる全体であって、この一連の変形過程を
つうじて不変の特性を保持する。」(レヴィ=ストロース)
つまり本質と錯覚されたものは変形しうる要素にすぎず、逆に要素の変形に
かかわらず不変の特性を保つ直接的実在こそが構造としての関係性なのです。
お分かりかな?
>>80(_さん)
>ヘーゲル的有機体もカント的超越論的個人
「ヘーゲル的有機体」?「超越論的個人」→「超越論的自我」では?
>こうした普遍的実体という前提そのものを否定するのが構造主義
>不変の特性を保つ直接的実在こそが構造としての関係性
とは、まさに普遍的実体(現代的にはシステム)の謂いでしょう?
<構造>という概念は、何らかのシステム(機能ー構造複合体)について
言われる概念であり、もともとは建築学や解剖学からきたもの。
例1:当社の免震システムは鉛層とゴム層とから成るLRB構造を取る
ことにより、ビル構造を不変に保つ高い免震機能を実現している。
例2:有機体は細胞を最小要素(単位)とする一つのシステム(個体)
であり、多細胞生物において器官構造を形成し、細胞間の諸関係
(相互作用)により、固有の生体機能を実現している。
レヴィ・ストロースの親族構造においては、諸個人が要素であり、その
機能は一定の親族システムの再生産でしょう。マテリアルである個人が
実在しない親族関係は<木のない森>のようなもの、とは唯物論の主張。
今度は分析哲学系の例を挙げよう。
カントに始まりロールズの正義論に継承されている超越論的主体を
サンデルらのコミュニタリアンが「負荷なき自我」と呼んで批判した。
逆に彼らは、ヘーゲルの絶対精神であれマルクスの唯物論であれ
なんらかの実体の内在的矛盾による自己発展という弁証法を
現前の形而上学と呼んで斥ける。
じっさい唯物論者であるはずのマルクスさえ、
「人間とは社会的諸関係のアンサンブルである」といって、
物質主体のホーリズムも人間主体のアトミズムもともに否定し
関係の第一次性を承認していたのは常識でしょう。
関係は「なぜ」存在することになるのですか?
>>82(_さん)
>唯物論者であるはずのマルクス
マルクスはれっきとした唯物論者です。別スレ参照。
>「人間とは社会的諸関係のアンサンブルである」
当該発言は、<人間なるもの>(現代的に言えば人間性)を個人の本質
として立てたフォイエルバッハを批判したものですが、別に
>関係の第一次性を承認
したものではない。まず現実的な諸個人が存在し、彼(女)等の取り結
ぶ社会的な諸関係こそが諸個人の何たるか(<人間なるもの>)を規定
する、という人間の社会性(抽象的に言えば関係の必然性)を指摘して
いるのです。
>>83 >関係は「なぜ」存在することになるのですか?
本来、関係のないものどうしが関係する理由(根拠)は、関係を離れて
は、それらの存立が無くなるからです。また、関係の関係性にも段階が
あります。
まず、機械的関係とは、諸要素(部分)が相互に外的であり、関係を離
れても諸部分は独立に存立できるという、外的な関係性です。
次に、化学的関係とは、たとえば酸+塩基→塩のように、諸要素が互い
に関係すると、それ自体が自己反発を起こすような、半ー内的な関係性。
そして、有機的関係とは、全体が部分の存立性(根拠)をなすような、
内的な関係性です。その自己関係性を或るものとして立てた場合、
<心>と呼ばれますね。
そして最後に、諸個人が社会的関係を取結ぶのは、個人は単独では生き
ていけないという単純な理由からであり、その社会的実体性が自由な諸
主体の根拠(存立性)をなすわけです。
86 :
考える名無しさん:03/07/01 22:19
たとえば言語がシニフィアン(意味)とシノフィエ(音韻)の両項を離れて存在しえず
たとえば商品が相対的価値形態(財)と等価形態(貨幣)の両項以前にあり得ず
たとえば顔が目・耳・鼻・口という要素間の関係としてしかありえず
たとえば家族が夫と妻という役割連関以前にありえず、
たとえば人間が身体と意識のかかわりとしてしかありえないからです。
あらかじめ普遍的で自存的な存在などありえないからです。
あっすいません。「関係の第一次性」という議論をよく聞くので(廣松氏とか)、
単純に、第一次的な「関係」はなぜ有り得るのか、と思っただけです。
「関係と関係項は相互規定的であるが、関係項は関係抜きでも存在し得るから
どちらかというとそっちの方が一次的」というのが常識っぽいと思うのですが、
これは間違いでしょうか。
例えば人間Aと人間Bはそれだけでも存在し得るけれども、「夫婦」とか「友人」
という関係を事後的に結ぶこともできる、とか…。
「親子」「友人」という「属性」というか「概念」についてなら、関係の一次性
ということも言えると思えるのですが…。
例えば、「顔」と呼ばれている物体は、別に目耳鼻口が欠けていても存在
しえますが、「顔」という概念はそれらの関係としてしかあり得ない、といいますか。
ただ、この議論は余り「唯物論」的でないような気がするのですが。
私はレーニン的な「物質」がまずあって、精神や概念はそこから派生したもの、
というのが「唯物論」だという感じで受け取っていたもので。
バカな書き込みで申し訳ありません。
>>86(横レスかな?)
>言語がシニフィアン(意味)とシノフィエ(音韻)の両項を離れて存在しえず
ソシュールならシニフィアン=音韻、シニフィエ=心像ないし概念では?
言語が自立存在をもたないのは、それが対象の記号(代理物)だから。
>商品が相対的価値形態(財)と等価形態(貨幣)の両項以前にあり得ず
商品は財と貨幣の関係ではなく、交換関係の中で財(有用物)が商品と
なり、一般的等価物である貨幣に相対するわけです。つまり、商品とは
相対的価値形態自体です。また、貨幣とは諸商品の中から析出してきた
一般的等価物(一般的等価形態の自立化=モノ化)ですから、貨幣以前
に商品があり、商品以前に財があったわけです。
>顔が目・耳・鼻・口という要素間の関係としてしかありえず
<顔>は外面性から言えば、一つのゲシュタルト(形態)でしょう。
一般に形態(form)とは内的諸関係(内容)の現われであり、未だ関係
(相関)として定立されてはいないような関係です。また、内実性から
言えば、顔は諸器官の有機的な統一(頭部)として客観的な存在です。
(
>>87で言われるように)のっぺらぼうでも、一種の顔でしょう。
>>86(つづき)
>家族が夫と妻という役割連関以前にありえず、
自然的な家族と制度(役割)としての家族は区別すべきでしょう。
ちょうどジェンダー(制度としての性)が生物学的な性と異なるように。
>人間が身体と意識のかかわりとしてしかありえないからです。
人間は単なる関係(他への反照)ではなく、自己関係です。
>あらかじめ普遍的で自存的な存在などありえないからです。
それは正しいが、まさに、あらかじめ“関係という一次的な存在”など
ありえないのです。夫と妻の前に夫婦関係は存在しないのであり、それ
は歴史的唯物論(あるいは質料主義)の主張です。たとえば、
「諸個人はいつでも自分自身からーとはいっても、もちろん、彼らに与
えられた歴史的諸条件・諸関係の枠内での自己からであって、イデオ
ローグたちの意味での「純粋な」個人からではないがー出発した。」
(『ドイツ・イデオロギー』[56](廣松渉編訳、岩波文庫p.175)
「黒人は黒人である。一定の諸関係のもとで、はじめて彼は奴隷となる。」
(『賃労働と資本』三)
>>87(83さん)(これまた横レス?)
>「関係の第一次性」という議論をよく聞くので(廣松氏とか)
多分、廣松氏自身もその言葉をよく理解していなかったのではないかな。
<関係の一次性>とは関係の直接性(始めに関係ありき)の主張ですが、
関係(相関)とは定立された媒介性ですから、それは直接性の否定です。
それはあるものと他のものとの中間(媒介)ですから、始めでもなく、
二次的な他者性を指しているのです。
>これは間違いでしょうか。
正しいでしょう。関係とは他者との相互媒介(規定、作用)ですから、
既にそれぞれ(質料的部分)が実在しなくてはならないわけです。
>レーニン的な「物質」
とは面白い表現ですね。観念論に対する唯物論の定義は、精神に対する
自然の先在性あるいは本源性を説く立場、と表現できるでしょう。
精神は森羅万象に及ぶ関係性(コミュニケーション)ですが、何らかの
肉体に宿るものです。物質(自然の質料)は単なる内的な実体ではなく、
活動つまり<自ら働くもの>です。それが「レーニン的な物質」かと。
>>87(83さん)(つづき)
>この議論は余り「唯物論」的でないような
概念とは何でしょう。それはまず、一つの観念的なものであり、表象を
質料にした実在の論理的な再構成と言えます。たとえば、上に出てくる
<家族>という概念を例にとって説明しましょう。
家族(family)の実在は多くの男女と親子にありますね。男・女あるいは
親・子とは諸個人の属性であり、人間個体の生物学的な被規定性に基づく
人間の区別−<区別>とは最も抽象的な反照規定(関係規定)−です。
一対の男女の性的・人格的結合が一つの家族を形成し、そこから子供が
誕生して、一つの親子関係が生まれる。思考主体がその事態を“後から”
反省することから、総体としての<家族>という概念が成立する。
観念論者(概念論者、関係論者)は、まず家族関係があり、それが男女
および親子という要素を成立させると言うが、実在的な事態は逆であり、
それは、観念を実在に先行させる観念論とその逆の唯物論との対立です。
>>87(83さん)(つづき2)
さて、家族の例がでたついでに、ウィトゲンシュタインの<家族的類似>
概念を例にとり、観念論と唯物論の違いをさらに説明しましょう。彼は、
「家族の構成員の間に見られるさまざまな類似性、たとえば体つき、顔つき、
目の色、歩きかた、気質、等々もおなじように重なり合い、交差し合って
いる」(『哲学探究』第66節)
として、家族成員間には部分的な共通性はあっても、全成員共通の特性
はなく、それ故、家族(及び言語ゲーム)には本質と呼べるような実体性
はないと主張します。まさに言語論的な本質廃棄の主張ですが、分析的
思考特有の表面性が現われていると言えるでしょう。
実際、家族的類似という概念は、言語のゲーム性(無規則性)と家族の
無根拠性を結びつけるために導入されているが、無論家族成員間の類似
には明確な客観的根拠があります。
>>87(83さん)(つづき3)
家族とは、上にも述べたように、一対の男女から始まる。両者の遺伝子
型はさしあたり相互に独立だが、両者から生まれた子供は一定の確率的
な分布で、両親の遺伝子型を受け継ぐ。遺伝子型と形質型との間には、
その発現の過程での環境との相互作用による一定の変容があるが、因果
関係がある。そこから、複数の子供(兄弟姉妹)間の類似性が出てくる
わけです。また、同一の生活様式は<似たもの夫婦>を生み出すでしょう。
言語とて同様であり、ある民族の言語は一定の生産様式(マルクス&
エンゲルス)の下で営まれる協働の必要性から、使用法の同一性を維持
しなくてはならない。ウィトゲンシュタインは、労働の場での言語を
「原始的言語」と呼ぶが、自然は言語ゲーム(観念遊戯)を許すほど、
偶然的なものではないわけです。
確かに家族内の親和的言語と労働における指示的言語は性格を異にする
が、労働がゲームより“原始的”であるわけでもないでしょう。
94 :
考える名無しさん:03/07/06 08:39
ネジ山が潰れてるよ
>>87(83さん)(つづき4)
『哲学探究』には面白い話がいろいろ出てくるようで、さらに・・・。
「私が誰かを買い物にやる。彼に「赤いリンゴ五つ」という記号の書いて
ある紙片を渡す。・・・商人は「リンゴ」と記された箱を開け、次いで
目録の中から「赤い」という語を探し出して、それに対応している色見本
を見つける。それから彼は基数の系列―それを彼は諳んじていると仮定
する―を「五」という語まで口に出し、それぞれの数を口に出すたびに
サンプルの色をしたリンゴを一つずつ箱から取り出す。―このように、
あるいはこれと似た仕方で、人は言語を繰るのである。」(第1節)
確かに、商人にとっては<赤いリンゴ>は商品見本でしかないから、
原物と記号双方の意味には関心がないが、それが<五>であることには
大いに関心がある。量とは、それ自体無概念的な概念(ヘーゲル)だが、
実在の量は常に<単位>(質と量の直接的統一)をもち、単価ーそれが
何を意味するのかは経済学者にも分からないーは商人の生死を左右する。
上記は<価格>という商品語(マルクス)が支配する世界の言語ゲーム
(マネーゲーム)の厳格な規則(価値法則)を暗示していますね。
ウィトゲンシュタインは「語の意味とはその使用である」と言って、
まず<言葉に内在する意味>といった唯心論的な実体性を否定した。
その極端な形は、
>>96で引用した例で言えば、図像「リ・ン・ゴ」と、
「赤・い」をインデックス記号とする<色見本(標本)>とを使用して、
赤いリンゴを取り出した“勘定高い”商人のように、機械的で無意味な
記号計算(プログラム=原始言語)である。
次に彼は、言語行為のゲーム性(無根拠性)という観点から、<予め定ま
った規則>の存在を否定した。すると、用法そして意味とは、規範では
なく事実であり、文法・論理よりは修辞として、記述され、解釈され、
理解されるべきものとなる。それは多くのゲーム(例:命名、指示、疑問)
として働きかけられ、応答される精神的交流の試みである。
しかし、精神的交流の基礎には物質的交通があり、伝達される物質(質料)
の形相化が伝達内容としての意味を規定する。内容が伝わるためには形は
変化する必要があり、形が伝わるためには内容は変化する必要がある。
例:ウィトゲンシュタインは「○○」と言って、□□を行った。
唯識が正しい
OFWってどいう意味?
100 :
考える名無しさん:03/07/10 12:19
すいません、スレとは関係ないのですが
唯物論と唯心論を漏れのようなアフォでも理解できるように書かれてる本って
ないでしょうか?検索エンジンで探してみても理解できません。
>アフォでも理解できるように書かれてる本
さあ、わかりませんな。
102 :
考える名無しさん:03/07/10 12:43
103 :
考える名無しさん:03/07/10 12:52
>>100 全く何にも知らない人だったら、とりあえず
「唯心論とは、この世界が実は『マトリックス』みたいになっているとする説なんだ」
と思っておけばいい。
要するに「世界は神の夢なんだ」とする教義。
『ソフィーの世界』は、西洋思想史の中に一貫するモチーフとして唯心論をとりあげ、
西洋思想史を浅く通観しているので、初心者向きだと思う。
104 :
考える名無しさん:03/07/10 13:00
>
>>98唯識が正しい
仏教ですか。宗教とは一般に<超越性の意識>であり、その点から仏教
は無神論的であっても、天上的(彼岸的)であることに変わりはない。
「天上の批判は地上の批判にとって変わられなければならない。」
(マルクス)が唯物論です。
確かに、意識と言語との結びつきは、深層心理(無意識)的な層にまで
及ぶでしょうが、心なる(認識を含む)主体的な活動は有機体の物質的・
身体的活動と、個体間の相互作用(社会性)とに支えられたものである
ことを“識”ることが、絶対的超越(逝ってよし)を免れる方途かと。
>
>>99OFWってどいう意味?
それは一つの<名>(ハンドル)であり、Old-Fashioned-Wellという英
単語(連語)の頭文字を集めたものです。
<名>とは対象の識別のために導入された記号であり、それ自体に意味
はない。また<匿名>(名無し)掲示板の中で、<固有名>を使用する
ことは、発現主体ではなく思想の固有性・一貫性を示すために必要かと。
107 :
考える名無しさん:03/07/11 06:45
> それは一つの<名>(ハンドル)であり、Old-Fashioned-Wellという英
> 単語(連語)の頭文字を集めたものです。
そうだったのか!
OFW氏って、思想関係の職業に就いてるわけ?それとも趣味で勉強してるわけ?
答えられたらで良いんだけど。
108 :
ふにゃぽん:03/07/11 09:43
OFWさん、おひさいぶりです。
早速ですが、今日もひとつご教授いただけますか?
このスレじゃややスレ違いになるというのなら、こちら↓
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1046489087/l50 にレスを下さっても結構です。
まず、階級、分業の廃棄のためには、高度な分業に裏打ちされた、高いな生産力が
必要なわけですが、その高い生産力を維持、発展させて行くには、やはり高度な「専門技能」
=「ほぼ一生を、その専門技能の習得、および発展に費やさねばならないくらいの膨大な教育、研鑚」
が必要になるわけで、結果として、「分業の廃棄」が非常に困難になるように思われるのですが、
ここはいかがでしょうか?
109 :
ソクラ カス:03/07/11 17:45
アウフヘーベンです
110 :
ソクラ カス:03/07/11 18:19
アウフヘーベンです
止揚ですか。
確かにうまくミックスされたあたりが正しいかも。
このスレもそうだが、内容はともかく、スレタイが馬鹿っぽいのは
勘弁してくれ
113 :
ハンニバル:03/07/11 20:50
唯心論も唯物論も脳みそが考えることでは同じ。ものの見方なんて所詮一面的
でしかなく、そこからいかに真理にたどり着くか、でしかない。
止揚・アウフヘーベンなんて古臭い弁証法形而上学の用語を使うなよ。
いまや哲学学界は、カントから分析哲学を経て論理実証主義が主流だ。
カントは「弁証法」を詭弁論理と喝破し、「止揚」なんてのは、論理の破綻を
取り繕うたんなる折衷主義だと批判している。
「真理」なんて、言語的概念の厳格化のことでしかない。どこかに超越的な
普遍的「真理」があると考えるのは、宗教的妄想だ。まさにオウム真理教だ。
>>107 思想関係の職業=イデオローグ(知識売人)への所属なし。
>>108(ふにゃぽんさん)
お久しぶり。そちらのスレで・・・。
116 :
アウグス アヌス:03/07/12 06:34
暴力で 決着 つけませんか>114
理論理屈に結論は無いよね 腕力実証してあげちゃう。
117 :
突然の通りすがり:03/07/12 06:42
>>1 アフォか?
唯○○が両立する訳ねーだろが!!
超越的原理がなければ社会は機能しないのである。
それに蓋をしてごまかしている奴は無責任主義者である
ここでいう超越的原理ってなんやねん?
120 :
アヌス グスティヌス:03/07/12 11:14
普遍的な、思考 実在 の一致は 無いと言う事ですか?
絶対的なものを、認識しようとすることは 宗教的妄想なの?
あんち てーぜ!
カントでさえ「物自体」を認識によっては到達しえない不可知とみなし、
存在と意識、ザインとゾルレンの二元論に至った。
唯心論と唯物論などという対立は、現代哲学では
エピステーメとオントロギー、すなわち認識論と存在論の区別であり
両者はまったく位相の異なった学問領域とされている。
理論理屈に結論はないかもしれないが、学問研究には
膨大な先人の蓄積がある。先行研究を無視しては
何も議論できない。たとえば、われわれの使う言語そのものが
共同主観的な蓄積の所産なのだから。
>>121君、意味わからずに雰囲気で哲学用語並べてるやろ?
気をつけんと、ぴかぁ〜みたいになるで
124 :
考える名無しさん:03/07/12 14:01
121,ひろまつ先生の文脈ですね。共同主観的構造。
これ,社会の意味でだよ。
122。123。
共同主観的構造だぞ。
126 :
考える名無しさん:03/07/12 14:14
>>121 エピステーメというより
エピステモロギーといったほうが正確っぽいのかな。
認識論
[英語 epistemology, theory of knowkedge,
独語 Erkenntnistheorie,
仏語 épistémologie ]
>>126 間違えた。あほでごめん。
× theory of knowkedge
○ theory of knowledge
128 :
ハンニバル:03/07/12 14:47
普遍的な真理を考えない哲学なんて単なる言葉遊びに過ぎない。「言語的概念
の厳格化」だの「宗教的妄想」などというのは宗教の定義も知らないバカの壁
である。真理は言語的概念を超えたところにある、というのがナーガールジュ
ナの見解だ。よ0く勉強しろ。
129 :
考える名無しさん:03/07/12 15:00
>宗教の定義も知らない
ことを批難するのだから、ハンニバルさんは言葉を大事にする人
であるのでしょう。
>真理は言語的概念を超えたところにある
というのは、言語的概念を獲得したその先に真理があるという
ことだと理解していいのかな。言語的概念は「必要」だがそれは
「重要ではない」ということか。
言語的概念の厳密化といった途上の段階で留まってはいけないと。
>よ0く勉強しろ。
というのがとても面白いですね。
「0」は言葉を発する口。そこにある穴。言葉は穴。空虚だ。
なんてことを考える。
吠えるハンニバルさんかっこいい!
130 :
考える名無しさん:03/07/12 17:45
哲学って何?
何故いつも決着つかんの?
そこが俺にはいつも分からない。
反論されてむかつかない?
勉強したもの勝ち?
ばーか、ばーか!
131 :
アヌスグス ティヌス:03/07/12 21:09
そうじゃねんだよ
暇なんだよ
俺のかち
全ては脳が解釈する電気信号に過ぎんのだよ。
133 :
?l?|?e´?1/4?3?μ?3?n:03/07/13 15:31
ホントに〜〜〜?
>>114 >古臭い弁証法形而上学の用語
弁証法は形而上学ではない。
たとえば、ヘーゲルも『(小)論理学』において、狭義の弁証法的契機
と思弁的契機とを区別しており、後者を重視している。
>主流だ。
どの辺りでのことかな?哲学思想はファッション(流行)ではない。
>「止揚」なんてのは、論理の破綻を取り繕うたんなる折衷主義だと批判
カントは折衷主義などと言っていないし、それ自体折衷主義でもないが?
>「真理」なんて、言語的概念の厳格化のことでしかない。
その前に、自己の使う用語(言語的概念?)を正確に理解するように。
>>132 >脳が解釈する
ことはない。脳を擬人化することは観念論に通じるでしょう。
135 :
考える名無しさん:03/07/14 14:14
>普遍的な、思考 実在 の一致は 無いと言う事ですか?
論理ですら仮定から結論への道を一致させない。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄