1 :
小陰唇博士代理:
前スレが落ちたので、小陰唇博士に代わり私が新スレを立てました。
ハイデガーの講義を参照に、シェリング『人間的自由の本質』を読みます。
シェリング『人間的自由の本質』 (中央公論社『世界の名著 フィヒテ シェリング』所載、渡辺二郎訳)
ハイデガー『シェリング講義』 (新書館、木田元訳)
基本的にsage進行です。
【前スレのまとめ】
シェリングは、「自由」を考察することにより、あらゆる存在者の根拠の本質を
問おうとする。それは、存在の本質への問い、つまり、真に哲学的な問い(存在論)
である。「人間に自由意志はあるか?」といった人間の特性としてのそれではない。
まず、「自由の概念」と「体系」という互いに相容れない関係から考察を開始する。
理性にとって唯一可能な体系は「汎神論」であるが、その汎神論は不可避的に
宿命論となる。スピノザ的汎神論、ー生命感のない機械論的・宿命論的汎神論ー、
である。一方、宿命論は自由を排除する。つまり、体系と自由は互いに相容れない
ものとなってしまう。
しかし、それは謬見である。真の汎神論は、スピノザのような「内在」的汎神論ではなく、
神のうちで「生成」する活き活きとした汎神論である。この「生成的」汎神論に基づいて、
存在者の本質を解明していく。
次に、形式的な(一般的な)自由概念ではなく、人間固有の自由概念について考察する。
人間固有の自由とは「善と悪とへの自由」である。「人間的自由の本質」とは「悪を行う自由」
である。
しかし、ここで一つの問いが浮かび上がる。
人間に潜む悪はどこから来るのだろうか? 人間を含む全存在者は神から生成し、
神を根拠に存在している。では、悪も神に根拠を負っているのだろうか? 神は完全なる
存在者である。悪がそのうちに存在するはずがない。とはいえ、被造物の根拠となり得る
存在者は神以外存在しない。では人間の悪は何を根拠としているのだろうか?
シェリングは存在者を、「実存する存在者(実存)」と「実存の根底である限りの存在者(根底)」
とに区別する。(以下、図1参照)
実存する神の根拠は、神のうちに存在する「根底」である。
根底とは「憧憬」、つまり自己自身を啓示しようする性質を持つ。その神の自己表象が
「悟性」である。「根底」は無規則な混沌とした暗闇である。この暗闇が、光(悟性)に
刺激され、抵抗、それにより光自身も更に大きく輝く。そこから被造物が産み出される。
暗闇の最深部が全面的に光へと浄化された時、光は最も高い高まりとなる。
それが人間の誕生である。
その時(人間の)精神が立ち現れる。
精神とは二つの原理(光と闇)の紐帯である。神におけるこの紐帯は、分離不可能な
永遠の紐帯、ー「愛」ー、である。しかし人間のそれは分離可能である。
そしてこの分離可能性こそが「善と悪とへの可能性」なのである。
【表1】
┌─── 実存する神 ─────────────────────┐
│ │
│┌─ @(神の)精神 ────────────────────┐ │
││ │ │
││ ┌─ 暗闇 ─────┐ ┌─ 光 ──────┐ │ │
││ │ │ │ │ │ │
││ │ │D生成→ │ │ │ │
││ │ │ ←刺激│ │ │ │
││ │ A根 底 (B憧憬)│抵抗→ │ C 悟 性 │ │ │
││ │ │ │ │ │ │
││ │ │ 〓 │ │ │ │
││ │ │紐帯(E愛) | │ │ │
││ └─────────┘ └─────────┘ │ │
│└────────────────────────────┘ │
└──────────────────────────────-┘
‖
‖ 悟性が憧憬を刺激、憧憬が抵抗
‖ することにより被造物が産まれる
‖
∀
┌──── 被造物 ───────────────────────────────────┐
│ │
│┌─ 人間以外の被造物 ────────┐ │
││ | ┌─ 人間 ──────────────────┐│
││┌─ 根底 ───┐ ┌─ 悟性 ─-─┐ | | ││
│││ │ │ │ | | ┌─ J(人間の)精神 ───────────┐││
│││ K我 意 │ │ L普遍意志 │ | │ │ │ ││
│││ │ │ ││ | │┌─ 根底 ───┐ ┌─ 悟性 ──-┐│││
││└──────-┘ └──────┘ │ │││ │ │ ││││
││ ││ | │ M自 我 性 │ ⇔ │ 普遍意志 ││││
│└─────────────────-┘ | ││ (我意) |N霊魂│ ││││
│ ││ │ │(紐帯)│ ││││
│ ││ └───────┘ └──────┘ | ││
│ │└────────────────────┘││
│ └──────────────────────┘│
└───────────────────────────────────────────-┘
@(神の)精神 愛の紐帯で二原理(根底と悟性)が結ばれている。「愛の精神」
A根底 神の実存の根拠。「根底の意志」
B憧憬 神が自己表象しようとする意志。悟性を生み出す。「意欲」
C悟性 神のうちで生み出された神自身。「憧憬の言葉」「根源意志」「普遍意志」「愛の意志」
D生成 原初的創造
E愛 二原理の紐帯。神において分離不可能、永遠。神の精神の在り方。
J(人間の)精神 自我性と悟性から産まれる(高次の創造)。二原理が分離可能な紐帯で結ばれた精神。「不和の精神」
K我意 悟性に刺激され、光へと浄化されていく根底。未だ暗いもの(根底)が残る。「盲目的意志」
L普遍意志 被造物の悟性。我意を従属させる。「根源意志」
M自我性 人間における我意。光(悟性)により全面的に浄化されている。
N霊魂 二原理(根底と悟性)の紐帯。人間において分離可能。
「悪」 二原理の分離。自我性が普遍意志を超えて、それを支配しようとする時に起こる。
>小陰唇博士
いつの間にか僕がスレを乗っ取ったような形になってしまいました。
もし博士の意図したスレ展開でないなら申し訳ないです。すみません。
質問したい箇所もたくさんありますが、未だ僕もよく理解していないため、
ある程度全体が見えてからにしようと考えています。
専門教育を受けていない僕が独学で『自由論』を読み切ることができれば、
難解な哲学書を読む体力がつくと共に、精神的にも大きな自信となります。
なんとか読了するまでこのペースで続けたい思います。(我が儘な言い分
かもしれませんが・・)
とはいえ、依然ここは博士のスレです。
気が向いたら、いつでもお越し下さい。
2 悪の現実性
【コメント】
この章では、これまで述べられた悪の「可能性」にもとづき、
「個々人における悪」の現実化に先立つ全般的な「普遍的悪」の
活動について論じられます。
人間の本質には生来、悪への傾向が含まれています。にもかかわらず、
「悪は人間自身が選び取るものである」と述べられます。
【31】本論20 『悪が現実的なものとして出現する仕組みの一般的基礎』(『名著』p446)
悪へと向かわせる普遍的な根本悪──それ自体で悪なもの──を想定することは
誤りである。根底自体は悪ではないし、悪そのものを惹き起こすわけでもない。
ただ悪への可能的な原理(注1)をかき立てるだけである。
根底における悪は、現実化することなく、「可能体」としてしか存在しえない。
悪は、二原理が分離──自我性が普遍意志を超えて、それを支配──するときに
生じる。二原理が分離可能な仕方で統合されているのは、人間の精神だけである。
悪は、人間おいてのみ現れる。
一方、神における二原理の紐帯──「愛」──は分離不可能かつ永遠である。
愛の精神において悪は存在することはできない。
愛の意志(悟性)が現れるためには根底が必要とされる。神の最初の創造いらい、
根底は被造物のうちに働きつづけ、被造物の我意を刺激しつづける。その活動は、
愛を存在させるためである。根底と我意は互いに反発、抵抗、刺激しあいながら、
愛を──それゆえに悪を(注2)──産出する。愛は根底をとおして現れる。
【コメント】
注1 「悪への可能的な原理」
根底と悟性の優劣が転倒する可能性があること。
根底と悟性はたがいに逆らいあい、自由に分離できる可能性を持つ。その可能性ゆえに、
普遍意志に支配されるべき自我性が増長して、逆に普遍意志を支配する。この転倒への
傾向は、「根底の引き締まり」(注3)に根ざしている。
注3 「根底の引き締まり」
光に抵抗する根底が、ますます濃厚に、凝縮し、烈しい姿となること。
その結果として更に大きな光が現れる。
【コメント】
注2 「それ故に悪を・・」
悪は、対立するもの(善)が与えられ、この対立者のうちでのみ現れることができる。
(その逆もしかり)。このように、
「ある概念は、その反対の概念の存在のうちにおいて初めて存在することができる」
と考えるのがシェリング(ハイデガー)の見解である。
「あるものが開在的になりうるのは、自分の対立項のうちにおいてだけです。」 (『講義p329_12)』
【コメント】
「人間のうちの諸原理の紐帯は自由な紐帯である。人間は分岐点に立っている。
人間は未決定のままにとどまることはできず、かといって、その未決定から外に
出ることもできない。」 (『自由論』p446下18)
存在者を「生成」と捉えるシェリングらしい実存的な言葉です。
悪とは、それ自体ではなにものでもなく、人間の決断状態としてのみ存在するといいます。
【32】本論21 『自然のうちに前兆として存在する悪が歴史のうちに決定的に出現してくる諸過程』(『名著』p449)
原初的創造において悟性が誕生し、根底と悟性との対立において、万物の生成過程
がはじまる。それは、無機物、植物界、動物界、人間へと至る。これが「自然の王国」である。
さらに人間において、自我性と普遍意志との対立により精神が産まれ(高次の創造 注1)、
「歴史の王国」がはじまる。精神の誕生は、分裂(悪)の精神のはじまりである。これに対して、
愛の精神が高次の光として己を顕示してくる
この分裂の精神と愛の精神の対立・生成過程が、歴史の段階となって現れてくる。
32-1.罪に関する無意識の時代
愛の精神が自己啓示せず、悪が根拠のうちに隠れたままの時代。
善も悪もなかった至福の時代。
32-2.神々と英雄達の支配する時代
根拠がもつ諸力のみで、大地を支配した時代。
32-3.混沌の時代
根拠自身だけでは真の統一を産みだせない。それゆえ、世界の統一は崩壊し、
混沌が支配する時代。根拠の諸力に、悪の本性が帯びてくる。
32-4.悪の出現
「根底の引き締まり」が起こり、到来する光に対して激しく抵抗する。
この作用こそが、悪への傾向である。「根底の引き締まり」は、
善の出現を促すとともに、悪もまた現れでる。(>> 注1)
【コメント】
注1 「高次の創造」
フールマンス(シェリング研究家)は、「高次の創造」について次のように解釈しています。
「(人間の)精神の誕生は、『分裂(悪)の精神』の開始であり、それが『堕罪』である。
原初的創造の光と闇の戦いの最後に『人間』が現れるのと同様に、善と悪の戦いの
最後に、高次の勢位の人間である『キリスト』が現れる」
(闇) (光) (最後に生成される高次の被造物)
原初的創造 根底 悟性 人間 《自然の王国》
高次の創造 自我性 普遍的意志 キリスト 《歴史の王国》
【コメント】
《ドイツ観念論の歴史構成について》
ドイツ観念論の歴史構成は、通常の「実証的な」歴史学ではなく、「精神の本質的な
法則性をとらえる」という意図のもとで行われます。そのもっとも壮大で偉大な著作が、
ヘーゲルの『精神現象学』である。
『精神現象学』 ・・・ 絶対者が現出していく有様、絶対者が自分から自分へ向かって歩み出て、
本質的な系列をなす己の本質的な諸形態へと展開していく有様を叙述。
【33】本論22 『人間における悪の執拗性』(『名著』p455)
人間には生来、悪へと向かう自然的傾向(根底の引き締まり)がある。
人間のうちには、普遍的悪の「可能体」──自我性を刺激しつづける根底──が存在する。
それは、神の原初的創造のうちから活動しはじめ、被造物のうちで顕現化を待って
うごめいている盲目の意志である。(その顕現化は、分離可能な二原理の統一である
人間の精神において初めて可能となる)。その意志は、特殊意志(自我性)に対抗して、
愛の意志の立ち現れをうながす。
一方、根底の意志は、あらゆるものを個別化し、被造物化する。神の自由に反発し、
自由のうちに被造物的なものへと向かう欲情を目覚めさせる。
生は、人間がその中へと創造された中心から外へと追い出す。この中心で生きるには、
あらゆる我執性を捨てねばならないからである。
にもかかわらず、悪は人間みずから選ぶものである。たとえ悪への傾向が先行しているにせよ、
人間は自分自身で悪を決断する。
21 :
考える名無しさん:03/03/21 20:08
立派ですね、あなた。age
22 :
考える名無しさん:03/03/21 20:35
立派というよりただの狂信者だと思う。
こんなバカネタスレにこのようなマジレス。
前スレの1は麻原の尻尾程度のカリスマはあるようだ。
中途半端なインテリ崩れを感化させるとこなんか、そっくり。
23 :
考える名無しさん:03/03/21 21:35
なんだか最近、この前スレの奴がプロ固定じゃないかと思えてきた。
まあ、プロだろうがなんだろうが素人のキツイ煽りくらえば
傷つく心もった市井の人間であることには変わらんがな(w
どう意図をもとうが素の部分やBGがでる。
プロ固定なんて自分の精神、切り売りしてるようなもので
最後には発狂だろ。ネットを侮ってはいけない。
悪意や欺きは必ず、自分にはね返ってくる。通信だろうが。
報酬なんてもらってればなおさら、その諸刃は真剣となるだろう。
毎度ワンパターンの煽りだな(w
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけのもっともらしさ(偽善)に騙されるな!!)
●とにかく神経質で気が小さい、了見が狭い(臆病、二言目には「世間」(「世間」と言っても、一部のA型を中心とした一部の人間の動向に過ぎない))
●他人に異常に干渉して自分たちのシキタリを押し付け、それから少しでも外れる奴に対しては好戦的でファイト満々な態度をとり、かなりキモイ(自己中心、硬直的でデリカシーがない)
●妙に気位が高く、自分が馬鹿にされるとカッと怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようとする(ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際にはたいてい、内面的・実質的に負けていることが多い)
●権力・強者には平身低頭だが、弱者に対しては八つ当たり等していじめる(強い者にはへつらい、弱い者に対してはいじめる)
●あら探しだけは名人級でウザく、とにかく否定的(例え10の長所があっても褒めることをせず、たった1つの短所を見つけては貶す)
●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため性格が鬱陶しい(根暗)
●何でも「右へ習え」で、単独では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ)
●少数派の異質・異文化を理解しようとせず、あるいは理解を示さず、排斥する(差別主義者、狭量、視野が狭い、多数派=正しい と信じて疑わない)
●集団によるいじめのリーダーとなり皆を先導する(陰湿かつ陰険で狡猾)
●他人の悪口・陰口を好むと同時に、自分は他人からどう見られているか、人の目を異常に気にする(自分がそうだから容易に他人を信用できない、ポーズだけで中身を伴っていない、世間体命)
●自分の感情をうまく表現できず、コミュニケーション能力に乏しい(同じことをレコードの再生のように何度も言って変)
●たとえ友達が多い奴でも、いずれも浅い付き合いでしかなく、心の友達はおらず孤独(心の感度が低く、包容力がなく、冷酷だから)
●頭が硬く融通が利かないためストレスを溜め込みやすく、また短気で、地雷持ちが多い(不合理な馬鹿)
●たとえ後で自分の誤りに気づいても、素直に謝れず強引に筋を通し、こじつけの言い訳ばかりする(もう腹を切るしかない!)
●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(例:「俺のほうが男前やのに、なんでや!(あの野郎の足を引っ張ってやる!!)」)
寅さんは、言語哲学大全スレの1さんですね。
もう大森スレはたてないのでしょうか。
>>21 ありがとうございます。
>>26 言語哲学大全スレは僕ではないですね。
大森スレを立てることはないと思いますが、他の哲学者で
読書スレを立てるかもしれません。
【コメント】
ここで、シェリングが『自由論』を書くまでの状況を振り返ってみます。
『自由論』は、人間的自由の考察だけでなく、シェリングの同一哲学へ
むけたヘーゲルの批判に反駁する意図もありました。
1.カント哲学の欠陥
2.フィヒテのカントを乗り越える試み
3.シェリングのフィヒテを乗り越える試み
4.ヘーゲルの批判
5.ヘーゲルに反駁
6.『自由論』後のシェリング
1.《カント哲学の欠陥》
カントは、純粋理性の働きは現象界の成立の根底に存ずるとし、実践理性は
英知界に属するものであるとした。では、なぜ我々にとって同一の自我である
はずの理性が、一方で、実践的自我として自由でありながら、他方で、理論的
自我としてその働きが限界づけられているのであろうか。
この二つの自我はいかにして関連づけられているのか、カントの答えは曖昧で
あった。
2.《フィヒテのカントを乗り越える試み》
フィヒテは、理論的自我の根底に実践的自我の働きを考えた。
まず、有限的自我の働きが存在する。その自我は、非我(対象)により阻害、
抵抗される(理論的自我のありかた)。それでも自我はこの阻害を乗り越えて
いこうとする(実践的自我のありかた)。なぜなら、有限的自我は、非我の影響を
うけず純粋に自己定立する絶対的自我を目指すからである。有限的自我のこの
働きが、意識の中に対象を成立(認識)させる。
人間の有限的自我は、理論的・実践的自我とも非我による制限をのがれられない。
その点で同一の性格をもつ。ただその相違は、理論的自我は非我から制限
される受動的性格をもち、実践的自我は非我を制限する能動的性格が強い
というだけである。
3.《シェリングのフィヒテを乗り越える試み》
フィヒテは絶対的自我を、自我の根底に存ずるものと考えた(カントのいう先験的統覚)。
それに対して非我は、自我と対立してはじめて現れるもの、それだけでは
存在しないもの、と考えられた。そこでは、自然(非我)それ自体がかえり
みられることはない。
一方シェリングは、絶対的自我を自我と非我、両者の根底に潜むもの──絶対者──
と考えた。絶対的自我からみれば、非我(自然)も自我(人間)とおなじく独立
して存在するものとなる。ゆえに、自我について「知識学」が成り立つなら、
非我についても「自然哲学」が成り立つと考えた。
シェリング前期の「同一哲学」とは、自我と非我、精神と自然、両者の根底に
無差別な絶対者を考える思想である。
4.《ヘーゲルの批判》
同一哲学にひそむ難点を指摘したのがヘーゲルである。
それは、「どのようにして絶対者から有限者が生じてくるか」である。
まったき無差別である絶対者から、いかにして差別をもつ有限的な存在者が
生まれてくるのだろうか。
5.《ヘーゲルに反駁》
このヘーゲルの指摘に対する反駁の書が『自由論』である。
神からいかにして悪が生ずるかという問題は、神からいかにして有限者が生ずるか
の問題につながる。
6.《『自由論』後のシェリング》
その後の彼の思索は、さらに非理性主義の方向へとむかう。「積極哲学」である。
その思想は、事物の「本質(〜である)」と「実存(〜がある)」を峻別する。科学とは、
前者の「である」を探求する学問であり、従来の理性的哲学も同じである(これが消極哲学)。
積極哲学は、事物の実存「がある」を探求する。
「本質存在」と「事実存在」をわける彼の後期思想は、後の実存哲学の根本思想に
通じている。しかし、実存探求の対象は異なる。シェリングにとっての探求すべき
実存は神のそれである。一方、実存哲学にとってのそれは人間である。キルケゴールが
シェリングの講義に失望したのもこの相違であった。
3 個々人における善悪の決定
【コメント】
この章では、人間の本質にもとづく自由が述べられます。人間の本質は、
「自らが自らの原理によって決定できる」です。これに基づいた行為が、
本来的な自由行為です。
【34】本論23 『自由の形式的本質』(『名著』p456)
本論でこれまでおこなった自由概念の考察は、人間固有のそれであった。
次は、序章で考えられた自由の形式的概念を再び取り上げ、人間固有の
それと融合させる。
【35】本論24 『自由に関する二つの謬見──思惟の均衡の体系と決定論』(『名著』p456)
自由に関する議論には、次の二つの謬見がある。
35-1.恣意の均衡の体系 ・・・ 一切の諸行為は、全面的な「恣意」により行うことができる。
35-2.決定論 ・・・ 一切の諸行為は、「必然的」な根拠により決められている。
《35-1の反論》
この体系は、個々の行為の原因を全面的な偶然性に求める。
これは根源的未決定という人間の本質にあった説ではある。しかし、個々の行為を
考えれば、大きな不合理に陥る。なぜなら、いっさいの動機も根拠もなしに、人間は決断
することはできないからである。それは、理性にも、また、神が創ったこの世界の
必然的統一にも矛盾する。この説は、「行為の規定根拠を知らないから、その規定根拠
が存在しない」と推論しているにすぎない。自由の根拠に、まったき偶然はありえない。
《35-2の反論》
未来永劫、一切の諸行為はすでに決まっている、という言説につながる。
反論は「本論25-27」.
真なる自由概念とは、かの高次の必然性──すなわち、まったき偶然からも、
また、強制もしくは外的被規定からも等しくかけ離れている、行為者自身の
本質からあふれ出る内的必然性──に規定されている。(注1)
【コメント】
注1 「真なる自由概念とは・・・に規定されている」
これこそが「本来的自由」です。ハイデガーは自由概念を六つに分類しています。
1.自ら自発的に行うことができること
2.〜からの自由
3.〜への自由
4.感性や欲望に対する精神の支配(非本来的自由)
5.自らの本質法則に則って自らを規定する自立性(本来的自由)
6.悪への自由
(1-5:形式的自由、6:人間固有の自由)
5こそが観念論が説く自由です。神の自己表象である人間には、この自立性が要請
されます。この本来的自由という「自立性」こそが、人間的本質における自由行為です。
以下、形式的本来的自由(5)と、人間固有の自由(6)の融合──高次の観念論の形成──
が試みられます(注2)
【コメント】
注2 「以下、・・・が試みられます」
従来の観念論は、自由の形式的概念(5)しか持ちませんでした。この自由は、実在的に
裏付けられてない形式だけのものです。現実の存在者に密着した実在的な自由概念
とは、「悪への自由」(6)です。高次の観念論は、この両者を融合することによりうまれます。
【コメント】
行為の原因に、「完全なる」偶然性や必然性を考えることは矛盾です。
シェリングによれば、「自由」とは、「自由でない」状態が存在して初めて存在します(
>>14)。
ゆえに、完全なる恣意、必然のみの存在は考えることはできません。
【36】本論25 『自由に関する正しい考え方──叡智的存在者の内的本性から発する絶対的必然性としての自由』(『名著』p458)
自由の教説における自由概念の真の理解は、高次の観念論が導く。
それによれば、あらゆる事物の叡智的本質──とりわけ人間のそれ──は
一切の因果関係、時間の外にある。先行する何者にも規定されていない。
(決定論の反駁)。これは、カントの考察から生じる正しい帰結でもある。(注25-1)
かといって叡智的存在者が、まったくの無規定性にもとづいて、自己規定する
こともない。それでは、「恣意の体系」になってしまう。
では、自由な行為を規定する、恣意的かつ必然なものとはなにか?
それは、叡智的存在者自身の内的本性である。
「己の内的本性という絶対的な必然性にもとづいて、自由に行為すること」、
これが可能であることが人間の本質であり、人間である所以である。(注25-2)
【コメント】
注25-1 「これはカントの・・・である」
カントは自由を、時間を超越し、因果関係に縛られない物自体界の属性と規定
しました。これにより、人間の自由を守ります。おそらくシェリングは、カントの
この理論を念頭に置いていると思われます。
余談ですが・・。
カントやシェリングは、意志の自由の根拠を、時間の外にある超越的世界に求めます。
われわれの住む世界を超えた世界を想定し、そこにわれわれの住む世界の属性の根拠を
求めるのは、イデアや神といった超越的存在を基盤に、文化を創ってきた西洋らしい考え方
に僕は思えます。
【コメント】
注25-2 「これが可能であることが・・・人間である所以である」
人間の本質を、「自己を自己自身の本質によって創っていくことができる」
とみるシェリングが、実存主義の源流の一人である理由がわかります。
【37】本論26 『内的必然性と自由──人間とはそれ自身の所業である』(『名著』p460)
では、存在者そのものの「内的必然性」とは何であろうか?
この必然性は、人間の行為に「自由」と「責任」を与える。決定論では、人間に
自由はなく、恣意の体系では人間に責任能力を問えない。人間は、内的必然性に
基づく行為においてのみ、人間に「自由」と「責任」を帰すことができる。人間は、
本質的に人間自身の所業である。 (注26-1)
フィヒテの自我も、それ自身の所業、自己定立そのものとしている。 (注26-2)
認識作用に先立つこの自我は、根源意欲であり、自己をあるものへと創りあげよう
とする基底である。
【38】本論27 『必然的でかつ自由な、人間の叡智的所業』(『名著』p461)
人間は未決定な存在者である(
>>15)。人間だけが自己を決定することができる。
その決断は、一切の時間の外にあり、最初の創造(原初的創造)と符合する。
人間の行為の由来となる所業(注27-1)は、それ自身、時間に属さず、永遠に属する。
人間は本質的にこの所業ゆえ、自由であり、それじしん永遠的な開始である。
そうした所業は、存在者に先行するとともに、存在者の意識を創り出す。
人はこの所業を無意識に受け入れている。悪人は、自らの行為を偶然的な行いと
みなすことなく、自らの咎のせいと受け止める。
悪への傾向は、生以前に先行するこの所業を指し示す。
人はこの所業によって、ある特定の本質を持った存在者として産まれる。(注27-2)
(ここで再び決定論に反駁する)
決定論とは、人間の行為の偶然性と、神的悟性の必然性が対立すること
から起こる。後者を優先すれば、人間の行為は永遠から規定されることに
帰結する。この説の誤りは、「創造と同時的な『永遠の行為』でなく、絶対的な
神の御心により行為が規定される」と考えたことである。(注27-3)
正しい説は、「人間がこの生で行為するのと同様に、永遠から、すでに最初の
創造において行為した」である。人間の行為は生成しない。(注27-4)
【コメント】
注27-1 「人間の行為の由来となる所業」
おそらく「内的必然性」のことと思われます。「所業」とは、「業(ごう)」という「根源的罪」と
いったニュアンスをもつと思われます。そうであるならば、原初的創造の時から被造物
の内部でうごめく「根底の引き締まり」、悪への自然的傾向です。所業は、最初の創造
のときより被造物のうちで活動しつづけています。それゆえ、人間の生は創造の原初に
届いているともいえます。.
【コメント】
注27-2 「人は・・・産まれる」
シェリングは「創造」について次のように言っています。
「以前のもののうちに、もうすでに以後のものも同時に活動していて、
一切のものは、不可思議にも一挙に同時的に生起する」 (『自由論』p463上9)
それゆえに、神の最初の創造で現れる人間は、その時点で、永遠から彼が
そうであるそのような特質を持った人間として生まれるのです。
【コメント】
注27-3 「この説の誤りは・・・である」
人間の行為は、「実存する神」によって規定されるのではなく、「実存する神の根底」
──それは被造物の中にも受け継がれている──によって規定されます。
前者は決定論に帰結しますが、後者では人間の行為に自由を与えることができます。
また、「根底」とは「憧憬」、つまり自己表象能力です。この能力が活動するゆえに、
人間は自己を創ることができるのです。
【コメント】
注27-4 「人間の行為は生成しない」
わかりにくい箇所です。
この言葉は、「自己を自己自身で創っていく」という言葉と矛盾します。
「生成しない」とは、最初の創造における所業が、現在の我々を規定していると
いうことでしょう。かといって、決定論に帰結することはないはずです。
「人間はある一定の枠(所業)に縛られている。その枠は変化・生成しない。自己を
創ることができるのは、この枠内においてのみである」
といった感じでしょうか。
【39】本論28 『人間のうちに潜む根本悪』(『名著』p464)
全ての人間は生まれた時から、悪の暗闇の原理をもっている。この根源的悪は、
現在の生からいえば、全く自由から独立したものであるが、その根源においては、
人間自身の所業(根源的罪)である。
カントは、理論においてはこの所業を想定しなかった。しかし、実践において承認
するようになった(注28-1)。フィヒテは反対に、思弁のうちにおいては把握していたが、
道徳論においては承認しなかった。一切の行為に先行する悪を、ただ人間本性の惰性
のうちに見いだそうとした。
【コメント】
注28-1 「カントは〜承認するようになった」
カントは、所業が属する英知界を、理論では、「想定せざるをえない」と曖昧なまま
残したが、実践では、曖昧なはずの英知界を前提に、人間の所業、自由を肯定します。
この矛盾が、カント哲学の大きな欠陥です。ドイツ観念論はこの欠陥の克服
──具体的にいえば、英知界をどう扱うか──を目指します。
>>29
【40】本論29 『人間のうちに潜む善への転回の可能性』(『名著』p465)
このような所業を想定すれば、次のような反論が起こるであろう。
「生の間に、悪から善へといった転回が不可能になるのではないか」
しかし、人間を善へと変換させる原理は、悪への傾向と同じく原初的行為に
含まれている。人間の内面には、善へと変化させようとする声もささやいている。
人間自身が善い、もしくは悪い存在なのではない。人間のうちの善い精神、もしくは
悪い精神が行為をなすのである。
4 悪の現象形態
【コメント】
この章では、悪の現象形態とともに、善の現象形態についても述べられます。(本論32)
悪のうちに善が、善のうちに悪が共に現出してくるといった具合に、両者は不可分の
関係です。
【41】本論30 『人間における悪の現象』(『名著』p466)
前章では、悪が個々の人間のうちで現実化されてくる過程を述べた。
次に人間のうちにおける悪(と善)の現象を記述する。
【42】本論31 『悪と罪の出現の様相』(『名著』p466)
悪の可能性は、自我性が普遍意思を支配しようと努めることに存ずる。そのとき、神に代わり
「逆倒した神」が現れ、人間を愚行の中へと引きずり込む。
「罪」の開始は、自我性みずからがあらゆる事物の支配者になろうとすることにある。自我性には、
神のうちにあった頃の自分が全存在者であったという記憶が残っている。それゆえ、自分だけで
そうあろうと再び欲する(注31-1)。これが自我性の普遍意思への支配を呼び起こし、紐帯を破壊する。
通常、無規則的な性質をもつ根底(自我性)は、被造物のうちで愛をもって隠蔽されている。それゆえ、
被造世界の秩序は保たれている。しかし、自我性の跳躍は紐帯を崩壊し、根底の無規則性を
顕在化させる。そのとき、根底に潜在していた生命の閃光は、罪人を焼き尽くそうとする。
【コメント】
注31-1 「それゆえ・・・再び欲する」
自我性はもともと根底、つまり憧憬です。憧憬とは自己表象能力です。ゆえに、人間の自我性は
自己を表象しようとして、普遍意思から外れていきます。
【43】本論32 『善の出現の様相──宗教性』(『名著』p468)
悪が二原理の不和のうちに存するとすれば、善は二原理の完全なる調和のうちに存する。
その紐帯は神的なもの(愛)である。この関係を「宗教性」と表現する。
真の善は、認識のうちに神が直接現在することにより生ずる。神とは、われわれの澄明なる認識、
精神の光である。そのうちで一切が明らかになる光である。人は、義務の掟(道徳)に従って行為
するのではなく、認識の光──つまり神──に基づいて行為しなければならない。後者の行為こそが
宗教的、良心的と呼ばれる。そのとき人間の行為は、神に教えられたままのそれとなり、美しい自由な
勇気となって現れる。それが信仰である。(注32-2)
【コメント】
注32-1 「悪が二原理の・・・(愛)である」
悪の形態は、そのまま悪と善の形態であり、そのまた逆も成り立ちます。悪も善もそれ自体で
存在するものでなく、一方の現出はもう一方の現出につながります。
【コメント】
注32-2
ここでは、認識の光(神的悟性か?)を用いることにより、「善なる行為」を獲得できると述べられて
います。認識の光とは一体何でしょうか? 本来的自由(自己の本質法則における自立性)に
則った知でしょうか。それならば、「自己の本質法則」が認識の光ということになりそうです。
それとも純粋に宗教的なものでしょうか。
この箇所では認識論についての言及はありません。ですが、認識の光はカントの物自体界さえも
認識できるともいえそうです。このあたり未だ理解が及びません。
5 自己啓示における神の自由
【コメント】
これまでは、神のうちでいかにして悪が生じてくるか、その仕組みを考察しました。
この章からは、完全な存在者であるはずの神が産みだす悪は、神自身が意欲した
ものか否かが問われます。
【44】本論33 『二つの問題──(イ)神の自己啓示は自由な所業か否か、(ロ)神は悪をも意欲したか否か』(『名著』p472)
神は自己を顕わにする存在である。そのとき以下の問題が発生する。
33-1.神の自己啓示は自由な所業か否か
本論34-36で詳述。もし然りと答えるならば(事実そうであるが)、直ちに次の問題が
生じる。
33-2.神は悪をも意欲したか否か
本論37-41で詳述。意欲したとすれば、神の最高完全性と悪は、どのように調和
されるのだろうか。
【45】本論34 『人格性としての神の、たんなる論理性と必然性によるのではない、とりわけ愛の意志にもとづいた、自由なる自己啓示』(『名著』p472)
33-1の問いには然りと答える。神の自己啓示は自由な所業である。
神とは論理的な抽象物ではない(注34-1)。神は諸力の生きた統一、人格性である。根底と
実存が結びつき精神となるのは、今まで見たとおりである。ところで、神の自己啓示には、
二つの始源がある。「憧憬」と「愛の意思」である(注34-2)。
憧憬(根拠の意思)は、全面的な自由ではないし、かといって、まったくの無意識の意思
でもない。それは、生成する自然の内的運動と比されるものである。一方、愛の意思こそは、
自由に意識された意思である。そこで初めて、神は人格的なものとなる。そこから生じる
啓示は「行為」と「所業」である。
自然は、機械的な必然性によって存在しているのではない。自然のうちに存するのは、
人格性と精神である。普遍的な諸法則から被造物が存在するのではない。神という
「人格」が普遍的法則であって、生起する一切のものは、神の人格性によって生起する。
自然諸法則を、全面的な必然性(決定論)や恣意性とせず、情念、精神、意思へと
還元せねばならない。
【コメント】
注34-1 「神とは・・・抽象物ではない」
神が論理的抽象物ならば、一切のものは論理的必然性をもって生じてこなければなりません。
そこから、悪といった負の性質が生じてくる余地はありません。神を意思をもった「人格性」と
考えているからこそ、悪が産まれてくる可能性があります。
非人格的存在者の神の例として、純粋実在論の神の代表でスピノザ、純粋観念論の神の代表に
フィヒテが挙げられています。
【コメント】
注34-2 「「憧憬」と「愛の意思」である」
前者は、原初的創造における自己啓示。後者は高次の創造のにおける自己啓示。
>>16
【46】本論35 『一切を先見しつつ行われる、愛と善意にもとづく、神の自己啓示への決断』(『名著』p475)
では、神の自己啓示は、それから生じる一切の結果を神は先見していたという意味で自由で
あったのであろうか。──然りである。
神の自己啓示は、神(悟性)に逆らい内奥へと逃避する根底の働きから生じる。この働きが、
神のうちに潜在的に内含されている像を生じさせる。この像のうちで、神は自分を観念的に
実現する。
「神はおのれのうちの一切のものの反省的像をもち、自分をあらかじめ観念的に実現しており、
従って一切の結果を先見している。」
【コメント】
フールマンスによれば、シェリングは「神は世界の「存在」を定立するか否かに関しては
まったく自由であるが、世界が「いかにあるか」といった「内容」に関しては自由ではない」
と考えています。(この考察は、次段における神の可能性の問題に関連します)
【47】本論36 『神の自由なる自己啓示のうちに、可能的世界の任意な選択を読み込む謬見』(『名著』p476)
神は自由に先見を持って自己啓示する。
しかし、神は幾つかの可能な世界から選択するわけではない。神にとって必然的に可能な
世界は、即、現実とならなければならない。神の本質は「可能性=現実性」である(注36-1)。
これに反する見解がライプニッツである。彼は、神のうちに複数の可能性を認め、それを自由に
選択できるとした。もしただ一つのことしか可能でないならば、その存在者は自由ではないという)。
しかし、神の本質(注36-2)を考慮しないこの説を受け入れることはできない。
根底の無規則性の中に無限の諸可能性があり、それが複数の世界の産出可能性の根拠であると
考えるのも誤りである。根拠は神と名づけられず、神は完全性は、ただ一つのものしか意欲できない。
神のうちにはただ一つの可能的世界しか存在しない。
【コメント】
注36-1 「神にとって・・・である」
人間は「可能性>現実性」です。それゆえに有限的な存在者といわれます。ハイデガーは、
可能性と有限性の内的本質関係について語っています。
「可能なものの領域と、現実的なものの領域をもつのは、有限な存在者だけです。
『選ぶ』という行為は、もろもろの可能性を前にしての行為です。それは可能的で
未決定な在り方で存在する存在者の本質です。無限で完全な神は、『選ぶ』ことが
できません。ある可能性が選ばれた時点で、ある可能性は捨てられ、完全という
神の属性に反するからです。よって、神の完全性は一つのことしか意思しえません。
これが神の本質であり、この本質が愛です。」
【コメント】
(注36-2) 「神の本質」
本来的自由とは、「自己の本質に則って」おこなう行為です。神の可能性が唯一つで、それが
神の本質ならば、それに則った行為は本来的に自由な行為であるといえます。ここから、
神の行為は唯一の可能性しかもちえないが、それは最も本源的に自由な行為であるといえます。
>>61の「認識の光」とは、人間に潜在している神のこの可能性(本質)を指すのでしょうか。
そうならば、その認識に則した行為だけが、人間の自由な行為であるといえます。
それが、(神の理性の出張所としての)人間の理性なのでしょうか。
【コメント】
(今までの議論を振り返って考えれば)神の属性には、(人間のいう意味での)自由は含まれない、
と僕には考えられます。自由はやはり、有限な存在者の特質だと思われます。
「人間は、有限な存在者だからこそ自由が属する。完全な(理想的な)存在者になった途端、
自由な存在者ではなくなる。」
可能性は未決定な存在者にのみ属する性質です。未決定な存在者とは、未来の存在者です。
自由の根拠は、未来に負っています。人間が有限な存在である理由も、未来がその存在者に
属しているからです。そう考えれば、人間の本質には、(過去や現在よりむしろ)未来という次元が
深く関わっていると思われます。
とまれ、「人間の本質」と「時間」の関連には関心があります。
6 神の自己啓示と悪
【コメント】
前章では、神の自己啓示は自由な所業であることが述べられた。
この章では、33-2で問われた「(自己啓示が神の自由な所業ならば)悪をも意欲したのか」
が答えられる。
【48】序論37 『悪とは何のことか──善と悪の弁証法的同一性』(『名著』p478)
根底の活動に刺激された自我性が、普遍意思から自らを引き離したとき、悪(罪)が出現する。
しかし、根底の活動自体はなんら悪ではないし、むしろ善を成立させるために不可欠な要素で
ある。善は、活性化された自我性を愛で包みこみ、普遍意思に従属させることで初めて成り立つ。
活性化された自我ーー悪の可能性ーーがなければ、善が存在することもない。
善と悪とは同じものにすぎず、ただ異なった側面から見られているにすぎない(注37-1)。
根底の働きは、悪においては悪へと向かう働きであり、善においては善へ向かう働きである。
それゆえ、活動的な自我性を持たない人は悪への能力もないが、それと同様に、善への能力にも
欠けている。(注37-2)
【コメント】
注37-1 「善と悪は・・・にすぎない」
「『善なるものは悪なるものである』とは、悪なるものは、それ自身によって存在する威力を
持っておらず、悪なるもののうちに存在するものは善なるものである、ということである」
(『名著』p406下11)
この正しく捉えられた同一性こそが弁証法である。序論3(前スレ
>>115-116)参照。
【コメント】
注37-2
根底の活動が、人間の生へのエネルギーと考えられています。人間を理性的存在者と
捉える従来の哲学と、人間(に限らず全存在者)の本質を生成と捉えるシェリングの
違いがはっきりと現れています。「自由論」全体を貫くテーマ──存在の本質を生成と
捉える──は、「生の諸力の復権」であります。ニーチェ、ハイデガー、ベルクソンら
にも影響を与えているのでしょうか。
【49】序論38 『悪と神』(『名著』p482)
自我性の刺激が起こるのは、人間のうちの愛が自分を実現するためである。その過程で、
悪の可能的原理の活動は避けることはできない。また、この刺激は神の自由意志によって
起こるのでなく、ただ自分の諸性質にのみしたがって働く。(注37-1)
【コメント】
注37-1 「また、この刺激は・・・のみ働く」
前章では、神の自己啓示は自由な行為であると言われていたにもかかわらず、ここでは
それを否定しているように見受けられます。この辺りわかりにくいのですが、根底は
神そのものでないので、根底の働き(自我の刺激)に関しては、(実存する)神の意志に
よらないと考えられているようです。つまり、意思によらず自己の諸法則で動く根底の
活動の結果を、神(愛)の自由意思が利用しているというわけです。
【50】序論39 『神の自己啓示と悪との関係に関する誤謬の批判(その1)』(『名著』p482)
したがって、「悪を意欲したのは神自身ではないか」、もしくは「悪の誕生を先見していた以上、
神にも責任はないのか」といった反論は退けられる。なぜなら、悪が存在しなければ、
善(そして真なる神としての愛)も生成しえないからである。善と悪は表裏一体である。
時間的なもの(悪)のために、永遠的なもの(善)を犠牲にすることはできない。善が登場する
ための不可欠な条件としての悪は、根底にのみ適用される。
【51】序論40 『神の自己啓示と悪との関係に関する誤謬の批判(その2)』(『名著』p483)
他の反論として、「たとえ神が悪を意欲しなかったとしても、神は罪人のうちに働きつづけ、
悪を実行させるのではないか」が挙げられる。もちろん実存の根拠(神)は、悪のうちにも
働きつづける。しかし、そうした生命は、根底の引き締まり作用による統一に反する緊張の
高まりとともに、ついには、自己滅亡に至る。
【52】本論41 神の人格的生成とその啓示の終局としての愛 (p484)
神の自己啓示(創造)に終局目的は何だろうか(注41-1)。それは、真なる神(愛)の出現である。
神は自らの非自立的理念を非存在者(根底)のうちに沈め、これらの理念を自立的に実在させようと
試みる。自立した存在者は再び神のうちに還る。自立した万物が神のうちへと取り集められたとき、
真なる神が現れる。(注41-2)
では、なぜ神は最初から完全なものを存在させないのだろうか。それは、神はたんなる一存在者でなく、
一つの生命だからである(注41-3)。この生成する神という概念なしには、歴史を正しく捉えることは
できない。(注41-4)
啓示の終局である真なる神こそ「愛」である(注41-5)
【コメント】
注41-1 「神の自己啓示(創造)に・・・あるのだろうか」
「世界の終局」とは、一切の生成したものが絶滅するという歴史の終わりのことでなく、
神が一切の歴史的生成物の果実を取り集め、それを己へと最終的に結びつけるという
意味です。歴史は神の生成過程です。ところがこの考え方は、プラトニズムの影響で
久しく失われたと、フールマンスは述べています。シェリングは本来のキリスト教精神を
基礎に論を組み立てています。
【コメント】
注41-2 「神は自らの・・・真なる神が現れる」
言葉を変えていえば次のとおりです。
「存在者のうちの暗闇と光の活動は、悪を刺激し善を産みだす。その終局は、悪と善との
完全なる分離である。悪は永遠に非存在の中に突き落とされ、善は神と永遠に統一される。
そのときすべては現実化し、それ自身だけで自立し、再び神のうちへと還っていく。」
「啓示の終局は、悪を完全に善から区分、非存在者へと追い込み、善と神との永遠の統一
(神への帰還)を実現することである。」
【コメント】
注41-3 「では、なぜ神は・・・一つの生命だからである」
神は最初から完成したものでなく、「時の終わりにおいて、生成した万物が神と結び
つけられたとき、真なる神が一切中の一切として現れる」といった生成する神として
捉えられています。(その生成過程が歴史です)
【コメント】
注41-4 「この生成する神という・・・できない」
シェリング「世代論」では、一切が神のうちにある「過去」の世代、現在の歴史を生む
「現在」の世代、一切が神へと還る「未来」の世界が考えられてます。万物は円環をなし、
神から創造された万物は、再び神のうちへと取り集められ、そのとき神が、真に実現され
顕在化し、神が万物となります。
【コメント】
注41-5 「啓示の終局である・・・「愛」である」
愛こそが最高のものと規定されます。しかし、愛が真なる神そのものを指すのか、
また、この愛と今まで使用された愛の概念との関係もはっきりしません。
【序論41の追加】
愛こそが最高のものである。愛は、根底と実存するものが存在する以前に、
すでに存在していた根源存在である。まだ愛としてではないが・・。
7 神の自己啓示と悪
【コメント】
いよいよ最終章です。
【53】序論42 「本体系は二元論か一元論かという疑問」(『名著』p487)
「根底」と「実存するもの」に何らかの共通の中心点は存在しないのだろうか。
そのようなものがないならば、この体系は二元論になる。反対に存在するならば
(こちらが正しいのだが)、これら二つのものは再び合一され、一緒になるはずである。
そのとき、一切の諸対立に代わってただ一つの存在者を持つことになる。
【54】序論43 「二元論の疑惑に対して(その一)──二元論に先行し二元論を定立するゆえんのものとしての没根拠」(『名著』p487)
一切の根底と実存に先立って、一つの存在者が存在せねばならない。それは「没根拠」
(注43-1)である。没根拠は一切の諸対立に先行するもので、二つのものの「絶対的な
没差別」(注43-2)である。
没根拠内に諸対立は存在しえない。しかし、非対立として、すなわち各々それだけが
切り離されれば可能となる。それが、諸原理の二元性を定立する。没根拠がなければ、
二元性は産まれないだろう。(注43-3)
【コメント】
注43-1 「没根拠」
以前、「憧憬(根底)」こそ根源存在である「意欲」と誤って述べてしまいましたが、
この段でわかるように、究極の根源存在は「没根拠」です。ゆえに「没根拠」こそ
「意欲」です。
【コメント】
注43-2 「二つのものの「絶対的な没差別」」
(あらゆる存在者に先立って先行するものですから)そこでは一切の対立が存在
しえず、二つのものの同一性としても言い表せることもできません。といって「無」
でもありません。それは、なんら述語されることのない一存在者です。
【コメント】
注43-3
フールマンスによれば、シェリングにおいて一切の生起は、神的充実の展開(神の
生成過程)であるので、原初には絶対的な存在者が含まれていなければなりません。
実存の根底と実存者を内含し、それらが顕在化していない存在者(没根拠)の要請は
彼にとって必然です。もちろんこれは一元論を要請します。
【55】序論44 「二元論の疑惑に対して(その二)──没根拠から二元論そして最後に精神よりも高い愛として現れる没根拠」(『名著』p489)
没根拠は、二つの永遠の始源(根底と実存)へと分岐していく。その目的は、没根拠の
うちでは同時的に存在することのできなかった二つのものが、愛によって統一されるため
である。没根拠に二元性が生じてくるや否や、愛も産まれ、実存するものを根底と結合する。
愛の生起により、没根拠は二原理へと分岐する。
その後、二原理の争いは根底の区分を促し、終局的には全面的な区分へと至る。そのとき
一切は精神へと服従させられる。精神のうちでは、二原理は「絶対的な同一性」である。
そこでは、没根拠も存在するが、もはや没差別でもなく二原理の同一性でもない一切から
自由な「愛」である。
【56】序論45 「一元論の疑惑に対して── 一つなるものの二分化とそれの統一、およびそこからの悪の排除」(『名著』p491)
以上から、悪を志向するものも、善を志向するものも、共に同じ存在者であるといえる。
その存在者(没根拠)は、二つの存在者へと自らを区分することによって、二つの活動
(たとえば善と悪)を生み出す。それは、二つのものが神の人格性に従属しているという
ことである。
また(たびたび繰り返すことであるが)、善と悪は対立するものではない。二元性とは、
二つの存在者が現実に対立しあううちにある。ところが悪は、何ら実体をもつ存在者
ではない。それ自体としては、実在性を持たない(注45-1)。
【コメント】
注45-1 「ところが悪は、・・・実在性を持たない」
悪とは「概念」であり、「存在者」ではありません。このような実在性を持たない概念を
実在する存在者とみなすことで、多くの謬見がうまれてきます。そもそも「神」もその
一例ではないでしょうか。(もちろんシェリングは反論するでしょうが)
【57】序論46 「その他もろもろの疑惑と非難に対して」(『名著』p492)
46-1、「絶対者のうちに一切の対立が消失するならば、この体系は汎神論ではないか」
(序論2ー7で詳述したように)ある体系を空虚な一般概念に押し込むことは無意味である。
われわれの体系は「生成」としてのそれである。その論拠は十分に示した。(繰り返して言えば)
二原理の統一をなしていない自然存在者は、神との関係において周辺的な存在者にすぎない。
人間のみが、神のうちにおける中心的存在者である。神は人間を通して、自然と結びつく。
人間は自然の救済者である(注46-1)。
46-2、「この体系は善と悪の区別をなくしてしまうのではないか」
46-3、「没根拠という根源存在は非人格的であり、それゆえこの体系は最高存在者の人格性を
廃絶するのではないか」
没根拠は出発点にすぎない。それのみで体系全体を評価することはできない。
46-4、「神の人格を理解し難いものとしているのではないか」
この反論者たちは、人格性を排除した抽象的な諸体系こそが、理性にかなった唯一の体系と
みなしている。そうではなくその反対に、最高の諸概念が明晰な理性洞察を可能としなければ
ならない。(注46-2)
46-5、「善と悪といった二元論を人間や宗教に当てはめる謬見。歴史を、純粋無雑な原初から堕落
していく過程と見る謬見」
没根拠のうちの分裂に先行した時代には、一つの世界観や宗教が存在していた。(注46-3)
【コメント】
注46-1
この辺り、シェリング(というよりこの時代特有の)人間中心的視点が強烈に現れています。
シェリングによれば、歴史とは神から生成した諸事物が再び神へと還る過程です。様々な
被造物は、神のうちの二原理の区分の進展具合によりその段階が決まります。もちろん
最高の──ゆえに神に最も近い──被造物は人間です。この自らに対する信頼、自信が、
絶対者としての神から開放された近代特有の高揚した世界観・歴史観を創りだします。
いまだ神を絶対的存在者と認めながらも、そこから自立した人間の尊厳、自由を──それは
神から与えられたという形をとりながら──取り戻そうとします。人間は神の後ろ盾があるゆえに
特別な存在者です。しかしその人間観は、皮肉にも神からの自立へと至ります。
【コメント】
注46-2
少しわかりにくいですが、体系の成否は、理性によって決定されるのではなく、
その体系により理性が保証されねばならないということです。(ではその理性を
保証する体系の確実性は、何によって保証されるかという疑問が残ります)
【コメント】
注46-3
この問いと答えがどうつながっているのかよくわかりません。
【58】序論47 「哲学のあるべき姿(その一)──理性に準拠しつつ悟性によって遂行される学問的弁証法的哲学」(『名著』p496)
道徳的感情や悟性の要求を統合するものは、理性的な体系である。しかし、理性(注47-1)
によって人類が発展するのではない。人間は人格性である。人格性は根底の上に基づいて
いる。悟性こそが、根底に潜在的に内含されたものを顕在化させる。それは学問的弁証法に
よってのみ可能となる。われわれは、普遍的な理性に準拠し、確実な悟性によって遂行され
ねばならない。感情に支配されてはいけない。
理性とは、精神のような活動性でなく没根拠(注47-2)である。それは、真理の住まう普遍的な
地点であり、根源的な知恵が受容される場所である。悟性は、ここを見やりながら認識の
構成作用を行わねばならない。
【コメント】
注47-1 「理性」
この段落で使われる「理性」は、意味的には「理念」に近いと思われます。
【コメント】
注47-2 「没根拠」
(文中では「没差別」と訳されています)。理念の住まう場所(カントの英知界)を、
根源存在である没根拠とみなしていると思われます。つまり、あらゆる存在者に
先行する没根拠には、すでに(没差別としてだが)理念の原像が内含されている
ことになります。
【59】序論48 「哲学のあるべき姿(その二)──歴史的伝承への依存でなく自然の解読を目指す哲学」(『名著』p499)
もし哲学から弁証法──悟性とそれに準拠する原像──が抜き取られるなら、哲学は
もはや、歴史的伝承に頼るだけの学問に成り下がる。(注48-1)
真理とは歴史的伝承説の中にあるのではなく、もっと身近なところにある。それは、
自然のうちに、である。自然は、文字で書かれたどんな啓示よりも古く、もろもろの
兆候を含んでいる(注48-2)。宗教と学問の真なる体系は、この自然の啓示を
読み取り理解することにより構築される。
【コメント】
注47-1 「哲学はもはや・・・に成り下がる」
伝承に依拠するとは、思想を、理性・悟性の裏づけのない従来思想へと分類する
教科書的な体系化のことだと思われます。
【コメント】
注48-2 「自然は、・・・兆候を含んでいる」
シェリングにとって自然とは、神の生成の過程が実在化したものです。自然を研究する
とは、神を研究することに他なりません。根拠のない論拠により組み立てられた独断論
でなく、自然という実在する神を、これまた神の分身である人間の悟性にしたがって
見透すことが、真なる宗教、学問の確立となると言います。
【60】序論49 「終りに」(『名著』p500)
現在の論文には、一連の他の諸論文がひきつづいて現れ、それらの諸論文のなかで、
哲学の理念的部分の全体が、漸次叙述されていくであろう。
これにて、シェリング『人間的自由の本質』読了です。
とりあえず読了記念age ( ´∀`)
今読み返すと、誤読している箇所、ポイントをはずしている箇所、
自分でもよくわからずに書きこんでいる箇所、など多々あり、
お恥ずかしい次第です。
さて、おぼつかない足取りながら、なんとかここまでたどり着けました。
これから、彼との本格的な対話を始めなければならないわけですが、
こちらもなかなか困難な道程となりそうです。今後どうするかは、
しばらく時間をおいて考えます。
114 :
考える名無しさん:03/04/15 16:39
一回通読してからまとめましょう。
あまり細かい字義にこだわらないようにしましょう。
部分部分をひとつひとつ取り上げるよりも、
全体と部分との関係を中心にまとめましょう。
要点を書くときは、なるべく自分の言葉に置き換えて、わかりやすい文章にしましょう。
115 :
考える名無しさん:03/04/15 17:32
その前に労をねぎらいたまえ。乙>寅
しかし、そろそろ太郎に来てもらわないと、辛いんじゃないの
(^^)
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
hosyu
120 :
考える名無しさん:03/04/26 08:59
hosyu
太郎らしき人物が、何処かに来てるとか、ない?
>>114 ご指摘ありがとうございます。
特に『自由論』の様に、文の組み立てが構成的でなく、
一見散漫とした印象を与える論文では、全体との関係を
考慮せず部分にこだわると、論旨を見失いがちになるようです。
(実際見失いました)
とりあえず一回通読したので、今度は自らの関心に
引きつけつつ、指摘された事に注意を払いながら
(気が向けば」再読してみようかと思います。
いくつかのシェリング本の中で、
高山守『シェリング─ポスト私の哲学─』はおもしろいですね。
>>115 ありがとうございます。
『プロレゴーメナ』は大変おもしろく、カントに惹き寄せ
られたのですが、『自由論』の方は、自分の関心との
接点が見つからず苦労しました。
まあ、大きな収穫といえば、『存在と時間』を読む時、
「ハイデガーってなんて親切な人なんだ」
と感じることですね(笑
アンチ・アズマンて、知識量と話し方と、根は真面目なところが太郎っぽいと思った。
保全
保守
hosyusyu
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
こんなスレッド、今まで気づかなかった! スレタイに騙されていた!
ネットで長文よむと目がチカチカするので、ゆっくりROMってみよう。
前スレから読むと良いよ。
前スレは、かの有名なチンポ太郎が立てたスレだから。
これっきり来なくなっちゃったみたいだけど。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
135 :
考える名無しさん:03/05/28 18:19
ちんぽ太郎はまた逃走か(プ
136 :
考える名無しさん:03/05/29 00:15
尾崎なんかつまらん
hosyu
hosyu
140 :
上げて聞いてみる:03/07/04 00:53
141 :
考える名無しさん:03/07/04 02:56
タイトルとか1の文句はふざけてるけど、思いっきり硬派なスレなんですけど・・。なんスか、このスレ?
はんしんろん 3 【▼汎神論】
〔pantheism〕すべてのものに神が宿っているとしたり、一切万有の全体がすなわち神であるとしたり、総じて神と世界との本質的同一性を主張する立場。ウパニシャッドの思想・ストア哲学・スピノザの哲学など。汎神教。万有神論。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
145 :
考える名無しさん:03/07/20 13:34
良スレage
初心者1=寅は、今は質問君としてハイデガースレに出入りしてるね。
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
148 :
考える名無しさん:03/08/25 20:14
この寅ってポール?
150 :
○○○太郎:03/08/25 22:13
ちなみに私は寅でもあります。
151 :
○○ポ太郎:03/08/25 22:17
このくらいでいいか?
ポールって誰?
現象学スレでやってた人でしょう。
>そうでしょうね(笑)。今の哲板に、これだけ学識があって、明快かつ丁寧な解説ができて、
>さらにこれほどのユーモアセンスのある人はチンポさんぐらいでしょうから(笑)
ここはさすがにキモイものがありますね。
実際いないんじゃねぇ?
さすがに居ないけど、オフには来るらしい。
栗原の話によるとだけど。
チンポ来るのか?嘘だろ?
もし栗と本当にメールやってて、尚且つ
栗が漫才で言ったんじゃなければね。
チーズは彼の熱心なファンだし、元々はあいつのオフが
失敗してから、オフを計画したからな。
Kuriとチンポってメールやってんの?
160 :
考える名無しさん:03/08/25 22:47
167 :Kurihara :03/08/24 01:02
ちんぽ太郎さんも来ますよ。
168 :?レス前? :03/08/24 01:05
>>167 まじっすか?Kuriharaさんは?
169 :Kurihara :03/08/24 01:40
僕はオランダに行く準備で忙しいので行けないけど、
ちんぽさんは来ますよ。メール貰って、そう言っていましたから。
ホントかよ!!
いや、本当のところはKuriharaに聞かんと分かんないけど・・・。
そのKuriが偽物でなければ、あいつが嘘言うとは思えんしなぁ
チンポって群れたりしないタイプかと思ってたよ。
偽者ねぇ、どうなんだろう。
トリップつけてないから、良く判断ができない。
あいつは勉強会とかやってるから、群れるのは・・・。
勉強会と2chのオフ会は違うと思うぞ
オフ会スレで最初の企画はあいつだったから、
意外と、お祭り好きなんじゃない?
もし本物だったら、是非参加者に報告してもらいたい。
でも、チンポって実際会うと(言い意味での)常識をもった人な気がする。
行かんの?
しかし、あいつと常識って一番似合わなそうに見える。
いけん。だから報告が欲しい。
>しかし、あいつと常識って一番似合わなそうに見える。
常識の本質は外してないんじゃない?頭良さそうだから。
173 :
Kurihara:03/09/14 01:31
174 :
Sandalphon:03/09/14 23:52
チンポ太郎へ送る歌
ここに一人の青年は、十八才になった時、その故郷を去り、故郷の家族を捨てて、
西の都へ上洛した。そこで女性の妄想に取り付かれ、孤独に苛まれ、二年の後も
心の平静を得なかった。しかしついに彼の心の変わる時が来た。――ある正午、
彼は真夏の日差しの照りつける田舎道を歩きながら、太陽を天空に戴いて、次の
ように己に語り掛けた。
「矮小なるチンポ太郎よ! 何時の日であったか、貴方は我々にこう言った。
『彼女なんか作ってはならんよ。君が哲学に従事する者であるならね。』
これは一見通俗の教えに見えて、その実まことに含蓄のある教えであった。
私もかつては、この言葉を聞き流した。しかしそれは、今日に至るまで私の
思考に度々姿を現しては、無為の裡に去って行った。しかしついに、この言葉の
真実が悟られる時が来た。
私は貴方の教えに従って、彼女などは作らない事にした。気が付けば、私は
それを欲しもしなくなっていた。何故なら私は、私自身を自ら愛するからである。
まことに、自らを愛し得る者は幸いである! 彼は最早、他人の愛などを求めない。
ただ愛するだけだ。彼が人間を愛するだけなのだ。自らを、そして人々を。
175 :
Sandalphon:03/09/14 23:53
しかし、私は女性に遙かな希望を見出した。私は彼女を作らぬ代わりに、私の
妻を作る事にした。私が彼女に望む事は、唯一つ、私の子供を産み育てる事だ。
私は市井の男達が彼女と戯れている間に、早々にして私の妻を作らなければ
ならない。それ程迄に、現代の我々は急務を以て命じられていると思われる。
その為には、私は自己自身を完成させなければならない。嗚呼、その時果たして
彼女などが一体何の助けになるだろう! 今こそ私は、いとも過酷にならねばならぬ!
ニーチェも、ヴィトゲンシュタインも、ジャン・クリストフも、遂に自分の子供を
持たなかった。しかし、私は彼ら程には偉大でないから、私の子供が必要であるだろう。
こうして、私は彼らを超えて行くのである。
では、祝福して下さい。偉大なる教師である貴方よ! どんな小さな厨房でも
呆れずに愛する事の出来る貴方よ!
御覧なさい。この男は初めて独りになろうとしている。あらゆる女性の妄想を
振り切って、初めて自己自身になろうとしている。」
――こうして青年の求婚は始まった。
パチパチパチパチ