【12】序論4 『汎神論を諸事物や個体性を無となす説と見る誤謬』 1-3段落(『名著』p408)
11-3は、全ての諸事物を無とし、神だけが存在するとする。しかし、存在しているものは純粋に
神のみとなり、汎神論という概念自体、言葉上だけのものになってしまう。
ただし、この考え方は「神は万物である」という命題を含んでいるが、これを簡単に却けることはできない。
【13】序論3 4-9段落(『名著』p405下18)
これら三つの説の曲解の原因は、「同一律、及び判断における繋辞」の誤解にある。
命題とは主語と述語の同一性の言明である。しかし、それは「主語=述語」といった単純な一様性を
示しているわけではない
例えば、「完全なるものは不完全なものである」とは、「完全なものと不完全なものは単純に等しい」
ではなく、「不完全なものは完全なものによって(根拠として)存在している」である。
これらの誤りは、弁証法的思考の未成熟さに負っている。
【コメント】
ここでハイデガーは、「同一律」「判断における繋辞」について詳細な検討を加えています。
「繋辞」は、存在者全体の結構の仕方を規定しています。この繋辞への問いにおいて、
汎神論への問いが存在論のそれへと転じます。
「SはVである」の「である(繋辞)」は、単純に「S=V」といった空虚な一様性を表しているのではなく、
「SがVを根拠づける」という高次の同一性を表しています。同一性とは、異なったもの(S,V)が
共属しあうことです。
故に、「神は万物である」とは、「神は万物を存在させる根拠として(万物と)同一である」と解釈
せねばなりません。「神」とは「存在者全体の根拠」であり、「万物」とは「存在者の総体」であり、
その両者の結構の在り方が「である」なのです。
高次の同一性とは、弁証法です。哲学の命題は全て弁証法的なものです。
【14】序論4 4-9段落(『名著』p408下15)
スピノザにおいても、諸事物とは実体の諸変動、つまり諸帰結の一つにおいてみられた
実体である。無限的な実体(神)と帰結において生じる実体(諸事物)は、単純(一様)に
同一ではない。
(ただしスピノザの体系は、神や諸事物を、ー意志さえもー、「もの」と見る機械論的体系
である。故に、彼の体系は決定論となり、真の汎神論とは言えない)
【15】序論5 『汎神論を自由を否定する説と見る謬見』 1段落(『名著』p411)
自由の否定が汎神論の本来的な性質であるならば、近来の諸体系の多くが汎神論となって
しまう。その謬見は、自由の本来的な概念が諸体系に、−ライプニッツの体系にさえも−、
欠如しているからある。
【コメント】
ここでハイデガーは、従来の「非本来的自由」(汎神論と両立しない)と、「本来的自由」の違いを
述べています。
15-1.非本来的な自由・・・感性に対する精神の単なる支配
15-2.本来的な自由 ・・・自分の本質法則における自主性としての自立性
本来的自由概念においてはじめて、汎神論は自由と両立させることができます。
非本来的自由概念から本来的なそれへの移行期をつくり出したのが、カントであり、
それらはドイツ観念論において本格的に捉えられ展開されています。
【16】序論5 2-6段落(『名著』p411下11_)
(再び「万物の神への内在と自由は矛盾しない」が、−今度は神の側から−、論証される)
真の同一性によれば(
>>116)、諸事物は神に「依存」している。それは、諸事物が自由でない
ことを意味しない。「生成」の面から見れば依存的であるが、「存在」の面からすれば決して依存的
ではない。人間の生成は神を根拠(依存)とするが、”それ故に”(すでに)存在する人間は自立的で
なければならない。
その理由は、神そのものを考察してみればわかる。
17-1.神とは機械的な存在者ではなく、生き生きとした創造的な生を持つ。そこから帰結してくる
諸事物が、機械的な仕方で存在することはできない。
17-2.自立的な神は諸事物において自己啓示をはたす。故に、諸事物は自立的な存在者でしか
あり得ない。
17-3.自立的で自由な神に内在するものは、それ自体自由でなければならない。
【17】序論6 『汎神論を自由の否定と見、これにスピノザ主義を結びつける謬見』 (『名著』p414)
スピノザ主義の誤謬は、神を一個の事物としていることである。故に、(神から帰結する)
あらゆる諸事物も、−意志を含め−単なる「もの」となる。これは全存在者の存在を機械論的に
見る思考法である。対してドイツ観念論は、存在の根源を「意志的(精神的)なもの」とみる。
それにより、従来の哲学を規定していた機械的思考法より、いっそう高次の考え方への展望が開く。
【コメント】
ハイデガーは、ライプニッツ−カントーショーペンハウアーーニーチェという4人の
ドイツ哲学者の間には一つの思想的系譜が成り立つと指摘しています。彼らの元では、
表象能力(認識能力)よりも、生命衝動(意志・意欲・欲求)が優位に立ちます。
ハイデガーは、この系譜を「ドイツ形而上学」と呼びます。
L ー K ー S − N
欲求 実践理性(物自体界) 意志としての世界 ディオニュソス的 (生命衝動)
表象 理論理性(現象界) 表象としての世界 アポロン的 (認識能力)
これは、「意欲こそ根源存在である」と見るシェリングや、「存在の本質を知と捉え、
その知とは意欲と同じものだ」とするヘーゲルにも受け継がれています。
プラトンに始まる伝統的な形而上学は、自然の外に「超自然的原理」を設定し、自然を
この原理によって形成される無機的な素材と見ます。ハイデガーは、この「(物質的自然観の)形而上学」
との対決のため、自然を生きたものとみる「ドイツ形而上学」の復権を企てています。
【18】序論7 『スピノザ主義の欠陥と真の汎神論』 (『名著』p416)
「汎神論は宿命論となる」とするスピノザ主義の欠陥。
19-1.神を諸事物(機械的なもの)と見ている
19-2.意志をも事物として取り扱う
19-3.生命のない体系
19-4.機械論的自然観
スピノザ主義は「一面的−実在論的」体系である。シェリングは、「実在論」と「観念論」を統合し、
(同一哲学)「自然」と「精神」を相互浸透させる。前者が後者の持つ自由により生き生きと生動化し、
それにより存在者全体を貫く「根源存在」は自由なる「意欲」であると規定される。
「意欲こそ根源存在である」
【コメント】
「観念論」「実在論」について
ハイデガーは、この両者には「認識論」「存在論」の立場から二通りの解釈があると
述べています。
認識論的立場・・・「観念論」は外界の実在を否定する立場で、「実在論」は外界の
実在を主張する立場。
存在論的立場・・・「観念論」は、存在者の存在を自我(精神)的なものと見、
「実在論」は、それを機械的、物質的なものと見る立場。
ハイデガーにとって、真の「観念論」「実在論」とは、「存在論的」なそれであり、『自由論』
で述べられているそれらも同様です。
故に、存在者の「自由」を肯定するには、(存在論的な)観念論でなければなりません。
存在者の存在の本質を、「私は思考する(自我、表象作用)」とみなすデカルトの観念論は、
カントにより端緒を開かれた「私は自由である」とみなす高次の観念論、−つまり「自由の観念論」−、
に昇華されます。シェリングは、自然を「非ー我」とみるフィヒテの教説に対抗し、自然を自立性の証示します。
ライプニッツの、「あらゆる存在者の本質は表象作用である」と、「人間の本質は自由である」というカントの
洞察を高次に融合させ、「あらゆる存在者の存在の本質は自由である」と導きます。
このように、デカルトからヘーゲルに至る観念論の歴史は、「存在者の存在の本質を何とみなすか」
の探求です。つまり観念論は存在論です。それゆえ観念論を「存在論的」に捉えなければ、その本質を
見失ってしまいます。「認識論的」に捉えては近代哲学史を本流を眺め遣ることはできません。
【コメント】
(本来的)自由→意欲について(
>>122)
本来的自由とは、「自分の本質法則に基づいて自分自身を規定すること」(
>>118参)です。
自分に即して自分を規定すること、それは「自分自身を意欲すること」につながります。
自由な存在とは意欲です。それゆえ、存在者の本質は「自由」であるとは、「意欲こそ根源存在である」
と結論づけられます。
【19】序論8 『観念論における自由概念の欠陥』(『名著』p418)
このように従来の哲学は、観念論によって更なる高みへと達した。
しかし、その観念論にも未解決の難問が含まれている。
19-1.完成された体系ではない
19-2.その自由はあくまで「形式的な(一般的な)」ものにすぎない
19-1)a.フィヒテ的な「自我性が全てのものである」ではなく、「(自然を含めた)全てのものが
自我性」でなければならない。
b.自然を自立したもの、自由なものとみる高次の実在論(自然哲学)を観念論に取り入れ、
両者を真の統一へと統合せねばならない。観念論的概念把握(存在者を自由とみる)
こそが、高次の実在論、及び哲学への出発点となる。
カントは、実践哲学において存在者の本質を自由と認め、存在者と関連づけているが、
『純理』においては自由の本質は認識されないとした。そのうえ、自由を人間だけの本質とし、
全ての存在者の普遍的規定としなかった。
19-2)獲得された(本来的)自由は、全存在者に貫く一般的な規定であり、人間の事実性において
把握されたものではない。もっと生き生きとした人間にとって固有の「人間的自由」を探求
せねばならない。その概念とは、「自由とは善と悪の能力」である。従来問われなかった
この問いにより、観念論は新たな限界へと突き当たる。なぜなら観念論は、人間の本質を
理性的な自我、−故に悪を含まない−、を前提としているからである。
【20】序論9 『悪の問題との連関において自由論が当面する諸困難』(『名著』p420)
人間的自由の本質としての「悪」は、諸体系(汎神論)を揺るがせます。完全なる神と、
人間の悪は両立するであろうか。可能性としては以下の通り。
20-1.内在説
a.神の中に悪の根拠を求める
b.故に悪を否定する
20-2.連関説(神と人間の随伴)
a-1.人間の行為を神の協働に局限する
a-2.a-1でない
b-1.神から来るものは全て積極的であり、悪も積極的なものである。故に
悪も善いものである
b-2.悪に積極的なものはない。善が多いか少ないかである(悪は存在しない)
b-3.神から来る積極的なものは自由であり、それ自体は善でも悪でもない
c-1.二元論的体系を求める
c-2.(一元論的に)悪なる根本存在者は、善なる根本存在者に依存しているとする
20-3.流出説(諸事物の神からの流出)
a.神の側から意図されて流離された
b.神、人間の両者あずかり知らぬところで起こった
c.人間の側から意図されて流離した
しかし、以上の可能性は全て否定される。その理由。
20-1.内在説
a.神の内に悪が含まれると、完全なる存在者という概念と矛盾する。
b.自由の実在的概念が消滅してしまう。
20-2.連関説(神と人間の随伴)
a-1.人間が神に依存する以上、悪の行為は神も共同責任をもつ。
a-2.悪の実在性が否定されてしまう。
b-1.本来的に悪をなす基底の由来がどこにあるのか疑点に残る。
b-2.確かに、悪は善よりも不完全ではあるが、比較を離れて悪自体を考察
すれば完全性を持つ。その悪の完全性はどこから来るのか。
b-3.自由が悪へ向かいうる一能力なら、自由は神から独立した根拠を
持たねばならない。
c-1.理性とは統一の能力であるので、二元論は理性の絶望に行き着く。
c-2.悪なる根本存在者どうやって存在できるのか。
20-3.流出説(諸事物の神からの流出)
a.人間を悪へと放逐した神に責任があることになる
b.誰が流離させたのか疑点が残る。
c.人間の咎の結果流離が起こるとすれば、その咎自体が悪である。
hosyu
とうとうあげたね
132 :
考える名無しさん:03/02/04 01:43
【21】序論10 『哲学の魂と肉体をなす観念論と実在論との統合の必要性』(『名著』p424)
以上の考察から、人間的自由(悪への能力)と全存在者の根拠(神)の両立は
不可能に思える。しかしこれは、神の概念が正しく捉えられていないからである。
神とは、抽象的な観念論者が考えるような、道徳的に純化し、現実離れした、
−故に悪など微塵もない−、空虚な存在ではない。もっと生動的で実在的な存在である。
近世哲学はデカルト以来、自然を死物化させ、生き生きとした根拠を持たない体系である。
観念論とは哲学の魂であり、実在論は哲学の肉体である。この二つが統合されて始めて
生命感ある真の哲学が構成される。
【コメント】
従来の哲学において、「自由」とは「善への能力」です。対して、シェリングは「善と悪への能力である」
と規定します。悪を体系に組み込み、自由の体系を可能とするには、体系の規定根拠、つまり
存在一般の本質がいっそう根源的に捉えられねばなりません。悪への問い(悪の形而上学)は、
存在の本質概念の解体・再構築を引き起こします。
21-1.神(全存在者の根拠)の本質への問い
21-2.人間の本質への問い
自然の外に「超自然的原理(=存在者の本質)」を設定し、それを善とみなす西洋形而上学
の伝統を、「悪の形而上学」は大きく動揺させます。その揺さぶりにより、存在者の本質の
より根源へと遡ります。
22-1.自由(悪)が神から独立した根源を持ち、それでいて存在者の根源が唯一神のみである
なら、神の内に「神でない」ものが存在せねばなりません。
【コメント】
悪への問いは本質的に「非存在者」の存在への問いとかかわっているともハイデガーは
いいます。悪を善の欠如体として存在しないものと考えても、(
>>128 20-2.b-2)
その「無」は空疎なものでなく、存在の本質に潜む重要なものです。
これで『自由論』序論は終わります。
議論の発端である汎神論への問いは、自由の体系への問いとなり、その問いは
存在者(神、人間)の本質への問いとなりました。つまり存在論的基盤へと移行された
わけです。『自由論』は、悪の概念の規定といった個別的問題でなく、「人間に自由は可能か」
といった宿命論(決定論)への問いでもありません。『自由論』は人間の、そして人間を含めた
全存在者の根拠(神)の本質への問いそのものなのです。
>小陰唇博士
おそらく誤読だらけとは思いますが、ここまで進みました。
読み始めの頃はさっぱりわからなかった箇所も、少しはわかるようになりました。
なぜハイデガーがこの論文を取り上げるのか、最初は不可解でしたが、
今では彼の解読の素晴らしさに感動しています。
しばらくは『プロレゴーメナ』再読に集中し、その後、序論及び博士のレスを読み返しつつ、
本論に入りたいと思います。
博士の留守中は、不肖この寅が細々とスレ運営しておきます。
またのご教授を心よりお待ちしております。
ビオランテスレから来たんだけど、
やっぱビオランテも太郎なの?
Kuriたんはこのスレを知らないのかね。
hosyu
>>138 学問スレに限っては、書き込みルールを厳しくし、
IDを付ける等最大限スレが荒れずに議論できる
環境を希望します。
2chとの差別化・共存化を図る意味でも。
>小陰唇博士
どうにも我慢できず、『存在と時間』読み始めました。
『自由論』を読んでいるおかげか、
こちらの方が読み易くなっていましたね(笑)
このスレもまだまだ続けます。
>>博士
土〇月って人は太郎?別の人?
やっぱ違ったみたい。
本論 悪の自由と哲学体系との関連をめぐる諸考察
1 悪の可能性
【コメント】
いよいよ本論に入ります。
序論に比べ『自由論』はおもしろくなり、『講義』はおもしろくなくなります(笑)
人間的自由の本質として、「悪を行う自由」をシェリングは挙げました。
しかし、その人間に潜む悪はどこから来るのでしょうか?人間は神から生まれ、
神を根拠に存在しています。では、悪も神から来たのでしょうか?
神は完全なる存在者です。悪がその内に存在するはずはありません。
では、人間の悪の根拠は何でしょうか?
【22】本論11 『真の自然哲学の諸原則にもとづいた考究の開始』(『名著』p426)
これら(序論)の課題は、真の自然哲学の諸原則からのみ完全なる見解が
与えられる。
【23】本論12 『実存するかぎりの存在者と、たんに実存の根拠であるかぎりの存在者との区別』(『名著』p427)
自然哲学は、次のように存在者を区別する。
23-1.実存する存在者(実存)
23-2.実存の根底である存在者(根底)
この区別こそが、存在論的に自然と神との明確な区分に結びつく。
【24】本論13 『絶対的に見られた神とは異なる、神のうちの自然』(『名著』p427)
全ての始まりである絶対的な神(23-1)は、自身の根拠を他に求めることはできない。
故に、自らの内に自らの根拠を持つ。その根拠とは、実存の根底(23-2)、−神のうちなる自然、−
である。それは神でありながら、神とは区別された存在者である。
といって、「(神の実存の内的根拠である)根底」が「(実存する)神」よりも時間上、先に位置する
わけでもないし、本質上優位であるわけでもない。もちろんその逆でもない。これらの関係は、
いっさいが相互に前提しあい、依存しあっている円環のごとくである。永遠である。
【25】本論14 『神の実存の根拠のうちからの、諸事物の生成過程』(『名著』p428)
諸事物の本性は、神へのたんなる「内在」ではなく、神のうちでの「生成」である。しかし、
諸事物は神のうちでは生成できない。無限の神と有限の諸事物とは、根本的に異なっている
からである。一方、神以外の実体はなにも存在しない。つまり、諸事物の根拠は、
「神自身のうちの神自身でないもの」のうちにある。それは「根底」である。
「根底」とは、神が自分自身を生み出そうとして感じる「憧憬」である。
憧憬は、無規則的で混沌とした「暗闇」「悟性なき意志」である。いまだ暗い憧憬から神の
最初の活動、ー自分自身の表象ー、が行われる。それが悟性であり、「憧憬の言葉(注1)」となる。
悟性は憧憬と結び合い、自由に創造する全能の意志となる。
憧憬は悟性に刺激され、自分自身の闇の中へと閉じこもろうする。それに反して悟性は、
諸力の区分(闇の放棄)を促し、その区分された根拠の隠された統一(生命の閃光)を図る。
それにより、概念化された個別物が成立する。
その区分された諸力の中心点の生きた紐帯が「霊魂(注2)」である。
【コメント】
注1:「憧憬の言葉」・・・神のうちの暗い諸力の多様な活動(憧憬)に付与されてくる「統一性」
注2:「霊魂」 ・・・根底のうちから諸力の区分によって、しかしいまだその根底のうちにとどまりながら
生じてくる統一性。
【26】本論15 『人間の成立と、人間における悪の可能性の理由』(『名著』p433)
全ての存在者はこの二重の原理、−憧憬(闇)、悟性(光)−、を含んでいる。これらは分離
されていると同時に、一つの「根源的統一」が存在する。闇の原理は光へと浄化され、それが暗い
ものである限りは「我意」となる。我意はいまだ「盲目的意志」であり、悟性とはなりえない。
我意 ー 暗闇 ー 特殊意志(盲目的意志)
悟性 ー 光 ー 普遍意志
諸力の区分の段階に応じて、(神以外の)存在者の完成度が決まる。(ひとり神のみは純粋なる
光のうちに住まう)。これを示すことが、自然哲学の課題である。
あらゆる区分が進み、光の原理が高まるほど暗闇の根底は己の内部へ閉じこもり抵抗する。
最後に、暗闇の最深の点が全面的に光へと浄化された時、同時にそれは光の最も高い高まりとなる。
それが人間である。
「人間のうちには、最深の深遠と最高の天空が存在する」
その時「精神」が立ち現れる。
精神とは二つの原理の分離不可能な統一である。それは神のうちに存在する。しかし、人間の精神の
それらは分離可能である。もし分離不可能なら、人間も神と同じく完全な存在者となってしまうからである。
そして、この分離可能性こそが、「善と悪への可能性」なのである。
(故に、分離不可能な神には悪はあり得ない)
>>141 情報ありがとうございます。
レベルの高いスレですね。時間ができれば参加してみたいです。
最近は1さん来てないようですが、戻ってこないのかな?
彼のような人が中心となる議論スレが増えて欲しいのですが。
【27】本論16 『悪の可能性の構造』(『名著』p435)
人間の精神とは「自我性(我意)」である。
自我性は精神である限り、二つの原理(憧憬、悟性)を超えている。自我性は
(二つの原理に対して)自由である。自我性が根源意志(光)となる時、神的な精神、
ー愛の精神ー、となる。
しかし一方、自我性は自由であるため、光から自己を分離させることもできる。
つまり、神のうちでは分離不可能だった二原理は分離可能となる。この自我性の
光を超えた高まりが悪である。悪の可能性とは、二原理の分離可能性である。
この悪の出現を、別の角度から見てみよう。
人間の意志は、生きた紐帯である。その我意が普遍意志と統一している限りは、
神的な精神である。しかし、その我意があるべき中心から外れるやいなや特殊意志へと
変化する。特殊意志はもはや諸力を統合することができず、個々の諸力(悪癖、欲情)の
分解となる。悪の出現である。
こうした生が可能なのは、いまだ根底が悪の内部で存続しているからである。
【コメント】
神の根底からいかにして存在者が生成してくるのか。わかりにくいと思われますので
まとめてみました。
1.神のうちの暗い「根底」は「憧憬」であり、それは自己を啓示しようとする。
2.その自己表象から、「実存する神」が生成する。
3.それが「悟性」となる。
4.「憧憬」は「悟性」に刺激され、根底(暗闇)のうちへと閉じこもる。
5.「悟性」はますます光を強めて、諸力の区分(闇の放棄)、隠された統一を図る。
6.この区分と統一により諸存在者が成立する。
7.「憧憬」が暗闇の最深に達するとき、光も最大となり、そこで人間が生まれる。
「憧憬」とは
>>122ででた、全存在者を貫く根源存在である「意欲」と考えていいでしょう。
以下、本論17-19まで悪の三つの謬見をシェリングが反論します。
【28】本論17 『悪の誤った捉え方(その一)ーライプニッツ』(『名著』p438)
ライプニッツは、存在者の「有限性(欠如)」ゆえに悪が生じると考えた。
しかし、欠如それ自体は何ら悪ではないのである。悪をなしえるのは、全被造物の中で
最も完全な人間だけである。その事実は欠如自身が悪の根拠でないことを示している。
悪は欠如といった受動的なものではなく、もっと最高度に積極的な、ー根源意志のうちからー、
生成するものである。
悪とは諸原理の積極的な転倒、逆転である。
【29】本論18 『悪の誤った捉え方(その二)ー悪を全体的なものの形式的解体と見るもの』(『名著』p442)
これは、全体的な統一の不調和が悪の根拠とみなす考え方である。
積極的なもの(善)は、統一された全体である。実質的な要素は互いになんら変わらないが、
その「関係」により悪が生じると述べる。
しかしこうした哲学は人格性の、精神性にまで高められた自我性の概念をなんら持って
いない。「関係」という無機的な根拠に悪を押し込んでいる。
【30】本論19 『悪の誤った捉え方(その三)ー悪の根拠を感性のうちに見るもの』(『名著』p443)
現代という時代は、「悪は存在しない」という。
それによれば、悪は理性に対する感性的傾向が優位を占めた時に起こる。悪の唯一の根拠は、
感性、つまりこの地上的、現世的原理にあるとする。善は理性に由来し、自由とは、感性的欲望を
理性が支配する事により成り立つと考える。(非本来的自由
>>118)
この理性の能力の欠如を根拠とする説も受動的、何ら積極的でない。人間のうちには悪への
積極的な陶酔も存在するのである。
動物のうちにも暗い原理(憧憬)は活動しているが、それらは光へと産み出されていない。
悪は、ー神にも動物にも存在せずー、人間のうちでのみ存在する。
「人間における退廃が、動物並みにいたるなら望ましいであろうが、
残念ながら人間は、動物の上か下かにしか位することができない」
寅さんさあ、あんたもしつこいねえ。
もう1はへこんでるのよ。。。。わかんない?
あんたさあ、もしかしてYAHOOで共和なんとかというトピ立ててない?
ていうか俺はもう、こんな腐りきったサイト、見切りつけてますから。
大局的に見て2chから自殺者だとかなんだとか出てることに
対して直感的に嫌気がささないかあ。それでよく哲学なんかやれるよ。
こっちへ来て、スレ立てなさい。
http://zeta.ns.tc/
やっぱ違わないかもしんない。
(^^)