善と悪を考えないということではない。
とにかくまず社会的な価値観をとっぱらうことから出発して、
「自分」(他人が自分を指し示すであろうところの自分も含)
の生きるモデルを考察してみようと思う。
人生を渡り歩く際に考慮に入れなければならないことの
一番目は、やはり「常にいつ何時死ぬかもしれないという可能性に晒されている」
ということであろう。
生が中断されるということ。それより先にもはやなにものも知覚できず
あらゆる可能性が断たれるということ。
3 :
考える名無しさん:03/03/11 01:41
「社会的な価値観を超えた理想的な生き方を考える」
ではなぜいかんかったのか。
6 :
考える名無しさん:03/03/11 02:27
「政治的」な善悪の介在する余地も、ある…かな?
7 :
考える名無しさん:03/03/11 03:08
理想というのは自分が求めるものだから、
自己の欲望を全部表に出して生きるってことが理想的な生き方。
>>6 んなわけないでしょ?んなわけあるでしょ?
>>7 それはそうだ。
欲望が善悪を決めるなら善悪は欲望のありかたによって千差万別。
欲望とは身体的欲望(ダイ一義的)、記憶・思考による欲望(ダイニ義
)とに別れる。
前者には性欲・食欲・睡眠欲等がある。後者には前者の他に
知識欲・権力欲・名誉欲等がある。両者は混ぜあわさっている。
そしてそれらの欲望を自由に統括する欲望(欲望とよべるものか)が
また存在していて、欲望によって支配されている自己の知覚を
統括し、支配しようとする(自己の支配)欲望が、最も程度の高い欲望として
人間特有に付与されている。(これは理性とよばれる)
理性のとらえかたはいろいろで、宗教的なもの、現象学的なものなど
自己統括の欲望がごちゃごちゃにごちゃごちゃな視点から論じられている。
身体的、または身体から生ずる知覚の欲望を客観としてとらえ、
統括する第ニの視点を獲得する事こそ宗教、哲学最大の功績であり、
自然科学の導き出した臆測であった。
(神の視点)
それは自己の起源をあきらかにし、出生の秘密をさぐる思索でもあり、
死と生が意図する自己というものの真実の姿をもとめる、
いや求めたいという欲望の物語であった。
欲望というものは、いってみれば顔のない怪物であり
厳密に言えば前述したような形而上学的範疇におさまるような
なまやさしい姿をしていない。
ある欲望には、たの様々な要因が複雑に入り混じっており、
この欲望がこれこれのものだと断じる事は如何なる場合でもできない。
欲望とは自己に固有な観念の表出であり、ひとはこれを単純化画一化された
わかりやすいかたちに変形させ、型に押しこませようとする。
そうした傾向は他者によるものがもっとも顕著にみられるが、
得てして人は自己自身にむかってそういった欲望の押し込めを断行する。
善悪という社会的価値観は他者とのコミュニケーションに必要なアイテム
>9欲望が善悪を決める
ここから善悪論を始めると「善悪は全て欲望によって左右される」
という筋からは離れられないと思います。
まず、善悪の概念についてその何故を考えます。
「コミュニケーション、欲望、,,,etc」は全て「生きる為」に還元できると思います。
そして「生きる為」にはどのような観念が必要か?を考えます。
で、その観念を考えるには、その考える人の状況を見る必要があると思います。
「生きる為」〜「状況」の関係から善悪は導かれると私は思います。
土〇月さんのトピックは面白そうです。頑張ってくださいね。
>>13 うむ。
>>14 欲望→善悪→生きるため→欲望→
というふうにループしていくんだね。
状況。
僕はいま総てにうんざりしている。
生にも、死にも、人間の欲望にも。
すべては嘘っぱちで、喜びも、悲しみも、
ただ干上がるだけの虚ろな水溜りに過ぎない。
その虚無感を癒すはずの芸術も、
ただ注意を拡散させて、乃至は集注させて
虚無によって虚無を打ち壊すに過ぎないとすれば。
>15
あー私の意見をよく理解してくれなかったみたい。
14については。まず、欲望の観念から離れないと
15であなたのいったようなループに陥ります。
それが、ループだとしてもその中には「理性」も「感性」も
入るはずです。
それだと、そんなループになるような思考は生まれません。
ま、貴方がそう思えなければそれまでですが。。。
貴方がそう思えなければ貴方の思考はそのループからは抜けられない
でしょう。
>「生きる為」にはどのような観念が必要か?を考えます。
この文を理解してください。
>>18 理性や感性は欲望の一部です。
理性的な視点は、欲望に向けられているのみならず、
理性自体が欲望から生まれ出たものです。
感性もそうではないでしょうか?というより、感性と欲望とは同義という感じすらあります。
どう思われますか?
>>19 言わんとすることがあまり飲めこめません。すいません。
人間が他者のために生きるのか、自己のために生きるのか、
あるいは神のために生きるのかというのは
あまり問題になりません。
人間はある「感じ」をめがけて知覚し、行動します。
その対象はなんであるか、またどのような「感じ」なのかがむしろ問題です。
その
「感じ」は、安定をもとめているのか、変化をもとめているのか、永遠か、
消滅か、進化か、無個性か、個性か、激情か、沈静か、
高揚か、無感覚か。
その総てと言って良いだろう。
だが人間は単一な感情を嫌うくせに単一な目標に向いたがる(効率化、安定化)
∩
∧_∧ | | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´Д`)// < 先生!こんなのを発見シマスタ!
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http://saitama.gasuki.com/kaorin/ __| | .| | \
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動かぬ拠り所を求める感情は学問のもとになる。
自己は変化しやすい。とくに身体的に。
もし身体の変化がなければ、つまり身体を脅かす死や老化や災難がなく、
ただ思考の変化のみがあるのなら(思考が身体を統括できるなら、
死や老化、病気、熱さ寒さを自由に選べるなら)
人間は動かぬ拠り所など求めはしないだろう。学問の発展もないだろう。
しかし実際には、自己の身体的自由は他者の身体的自由と相容れず、
両者は拮抗しあう。(これだけとってみても身体的自由を創造することは
不可能である。)(他者は常に自己を脅かす存在としてしか存在できない。)
26 :
考える名無しさん:03/03/12 05:21
>理性や感性は欲望の一部です。
そう思っていると、ループから抜け出せないのは自然です。
じゃ、「全て欲望」と考えると、人の欲望は1種類じゃないから
どこかでその欲望同士が衝突します。
そこからはどの行動も一方では衝突している以上、矛盾があるかもしれません。
その矛盾について考えてよい道を探るのは理性です。
あと、その理性を支えるために自分の状況を見るのは感性だと思います。
つまり、欲望〜理性〜感性は互いに三位一体で結びついていると思います。
だから、互いに互いの一部と見なす事もできますが、一つがその
全体とはとれないと思います。
だから善悪の判断の結果はその三つの中で共通する部分にあると思います。
勿論、これらの想定は私の想像ですけど、、
人間とは身体である。
ゆえに、身体に付随する思考(理性含む)も変化する。
身体の変化の大枠が付与のものであるように、
思考の変化も大枠が付与のものである。(しかし運動の形態が身体の変化に
影響をあたえるように、思考も。)
>そこからはどの行動も一方では衝突している以上、矛盾があるかもしれません。
>その矛盾について考えてよい道を探るのは理性です。
欲望の拮抗を調和させたいという欲望をとりだして、
それを理性と名づけ、欲望とは別に考えるというのはおそらく道徳的欲望から
出てきているのだと思います。
欲望〜理性〜感性を区別するものは一体なんでしょうか?欲望ではないでしょうか。
ここで問題は、自己は何を欲すべきであるか、
という一点に絞られる。
善悪を超えて。道徳的価値観(他者ー社会ー自己というわくぐみ)
から始めるのではなく、本質的な意味で(自己の本来のあり方に忠実な)
生き方を考えたい。
まず、自己は自己の欲するものを欲するべきか、
またはそれ意外か、ということがある。
自己の欲望か、他者の欲望か、自己の欲する他者の欲望か、
あるいは自他の欲望両方か、またそれ意外か。
現代社会や過去の歴史において、様々な人間が様々な欲望をもち、
その欲望に従って行動してきた。(また阻害された)
人間の欲望はいかなる形態にもあてはまるだろう。
31 :
考える名無しさん:03/03/12 06:01
>欲望〜理性〜感性を区別するものは一体なんでしょうか?欲望ではないでしょうか。
、、、どうやら理解できてなかったみたいです。読めば理解して
もらえるだろうと思ってましたが、私が説明してもしょうがないみたいですね。
貴方は欲望のみでこれからは考えていけばいいでしょう。
私にとってこの話はそれまでです。
欲望 目指すところ めがけるところ
受け取りたい感情
腹が減る、食べたい、食べる事を愛する(食欲)→食べる→
身体的食欲の消滅→腹が減る→
(身体的欲望)【飽和状態は胃袋】
知りたい、知ることを愛する(知識欲)→知る→分からない→知る→わからない
(知的欲望)
【知識には飽和状態がない】
>>31 すみません、できるならばわかるまで説明を希望します。
すべてを知りたい。すべてになりたい。
全ての人の行動はその人の欲望に関連している。
しかし、その欲望は短絡的なものではありません。
イド、エゴ、スーパーエゴみたいに関係性から行動は起こります。
その欲求にからだけで善悪の基準をつける事はその環境に対する反応、
環境についての認識からくる善悪の基準を無視しないとは限りません。
善悪の生まれる場所はその人からだけでなく、全体の関係から生まれる
事があるという事です。
>すみません、できるならばわかるまで説明を希望します。
一度、その独欲望説から離れたほうがいいと思います。
ま、わからない人は一生わからないと思います。
>>36 >善悪の生まれる場所はその人からだけでなく、全体の関係から生まれる
>事があるという事です。
もちろんそうですね。全体と自己との関わりのなかから欲望が生まれる。
あなたは神の視点を想定しておられるのでしょう。
全体のなかの自己というふうに自己を連帯にける部分に還元することで
「全体における自己の役割」を欲望の形態とし、そこへ向けて
まさに神の視点からアプローチしようというのですね。
そういう神の視点(理性)そのものが欲望の物語、つまり
自己を神としてとらえる(35さんのような欲望)のあらわれだと指摘したのですが、
とりあえずあなたの忠告に従って、独欲望説から離れることにします。
漏れは高校中退したあふぉなんだけど、相手してもらえるかな?
漏れは個人が何する為に生まれたのかを疑問に思っていたのよ。
結構悩んだ、そりゃもう夜寝れないくらい考えた時もあったよ。
で、どんなに考えても答えが見つからなかったから
考え方を変えてみた。X(人はXをする為に生まれたとする)をしなかったひとは
生まれた意味が無い人という風にしてみた。
そうして、生まれた意味がなかった人ってのを考えてみたんだけど、
漏れの結論は、生まれた意味のない香具師はいない。(いなかった)
生まれてすぐ死んだ香具師でも意味がなかったとは思えない、
(このことの根拠を一生懸命考えたけど根拠は無かった、
だけど、どんなに考えても生まれてすぐ死んだ香具師でも生まれた意味がない
とは思えなかった。この根拠が無いことが尚更この事が明らかな真実だと自分に
告げてるように思えた)
で、生まれてすぐ死んだ香具師にも、60まで生きた大悪党にも、
(勿論そのどちらでも無い人にも、誠実で生真面目な人にも)
共通する生まれた意味を考えてみると、有り得るとしたら生まれて来た事に
意味があるとしか言えなかった。誰しも生を授かった瞬間(この辺の定義はおいておく)
に意味があり、その後の生はウィニングランみたいな物なのだと。
それを踏まえて漏れ的にはこの人生をどう生きたら良いのかってのを
考えてみた。すると漏れはこのままでいい、自分がこれからも
何をしたらいいのか、自分は何をすべきなのか等で悩みつつ
現実の金銭問題や人間関係を巻き込んで、
喜怒哀楽の上で自分の人生を語るのだと結論が出たのでした。
どうこれ?
背理法の応用ですね
>このことの根拠を一生懸命考えたけど根拠は無かった、
だけど、どんなに考えても生まれてすぐ死んだ香具師でも生まれた意味がない
とは思えなかった。この根拠が無いことが尚更この事が明らかな真実だと自分に
告げてるように思えた
不条理ゆえに我信ず、という感じですか?
>>38 生まれた意味ってどういうことなのかは、きみの捕らえ方によって違うよね。
とすると、生まれた意味がないってことの意味は、君の捕らえ方によって変わってくるね。
そして、生まれた事自体にのみ意味があるとしても、
そういう捕らえ方がその後のウィニングランに意味を与えているよね。
つまり、概して君の捕らえ方だということにならないかな。
僕はそういう見地にたって独欲望論を論じているわけだけども。
人間は生物であるかぎり、他者のために生きてはいない。
生物を殺さないと生きてはゆけず、生物との格闘が生の前提になっている。
人間同志において格闘が起きるのは、自己のエゴと他者のエゴは本来
両立しないためである。他者支配は他者における自己侵害である。
これが人間の生物的あり方であり、その歯止めとしての道徳的善悪は
本来的自己と相容れないものである。
自己のエゴの追求と、他者との格闘。
どういうエゴか?
身体、思考、記憶。
欲望が引き出す目的、その欲望を作る環境からの原因と結果についての認識、
そしてその役割を合理化させる理性。
これらの関係から善と悪の指標は作られると思います。
例えば、2chのある人を考えます。
コンプレックスを持ってる人がいます。解消したい欲求があります。
スレの議論が全くわかりません。議論してる人がねたましいとします。
荒らします。が、それがその人のみじめなコンプレックスの解消には
なりえません。 これはその人の中で善悪の分別を自分でこわして
さらに善悪の区別から逃れられません。
ここで、善悪の区別から全く関係無い人は、
「まず自分で考えてみる」〜「わかんないのは質問する」
〜「質問の回答を考える」〜「理解したら感謝する」〜「感謝された人は
気分がいいからその人をその環境に入れる」〜「その人の環境はコンプレックス
を解消する事に繋がる」〜「Happy」〜「善悪から解放された」(仮説)
と、「環境を認識して欲望を理性的に処理して欲望を解決する」
〜「欲望の解消につなげる為に認識を理性を使う」
これが私のモデルです。
なにを目指しているのだろうか。
現在の状態に留まることだろうか。
成長。自他承認、自他を凌駕したものを。
神のごとき完全な調和と打ち壊されることのない永遠性を。
>>43 そうだね。カントの定言名法や法律に準拠しようとする意志は
欲望が引き出す目的を合理化する手段のひとつだね。
46 :
(´-ω-`):03/03/12 08:22
調和。
ヘラクレイトスは対立しあうもの、
自己自身に相反するものから調和が生じると考え、
それを弓や竪琴の弦に譬えた。
弦は両側から引かれながら、なお全体として一つの張力を保っているからである。
ピタゴラスは、音の高さと弦の張力ないしその長さとの間に
数の比例関係を発見したと伝えられ、
音の秩序が数比に支配されていることを初めて洞察した人物とされる。
霊魂は1種の調和である。アリストテレス。
ケプラー第三法則。
ライプニッツのモナド論における予定調和。
「この世界の内なる調和を信ずることなくしては、
いかなる科学もありえない」アインシュタイン
社会的な価値観を超えた理想的な生き方を考える。
社会的な価値観を超えるということは
その生き方は古から理想であり、現代を通り越して未来でも理想的であるべき。
理想的な(人間の)生き方と推測されるのであんまり昔に遡り過ぎると
別の論争が起きる可能性があるのでちょっと昔でも、今でも
恐らく未来でも理想である生き方を考えてみた。
この生き方は国によってかわる物では無い。人によってかわるものであってはならない。
と考えてみたんだけど、これって結構簡単じゃ無い?
理想的な生き方をする為には当然生きていなければ成らない訳で、
その生を支えている食欲、睡眠欲、性欲が十分に満たされていて
まあ、体には障害が無い方が理想なのかな、(この辺は現代特有なのかも)
後のどうやって生きるかとか仕事は何をするかとかお金持ちがいいとかは
時代に左右されてしまう事なので駄目な訳だし。
その3大欲を満たす為の手段として仕事とか人間関係があると言える。
人間関係をうまくすることによって彼女が出来て性欲が満たされるかもだし、
仕事で役職になれてより沢山のお金が貰えれば食べるのに困らないわけだし。
何故かそういうストレートな考えを嫌う風潮にあるのが現代だよねえ。
それでそんな野蛮で程度の低い生き方(と思われている)が理想だなんて認められなくて、
もっと、高尚なレベルの理想的な生き方をとか言われそうだなあ。
50 :
十二使鳥 キジバト:03/03/12 13:51
(バタバタバタ)
へ〜、こりゃ驚いた。仏と同じようなこと言ってりゃ。
と言っても仏に比べるとまだまだ。遥かに甘い。
>>26で欲望〜理性〜感性は互いに三位一体で結びついてると思います。となってるけど・・・
高まり→欲望→静まり 高まり←欲望←静まり
で、とりあえず欲望は表せる。が、理性と感性をも含めるとすると
感性→欲望→理性 感性←欲望←理性
さながらこのようになります。参考に他のものと比較してみます。
冷たい→熱→熱い 冷たい←熱←熱い、N→磁石→S N←磁石
軽い→重力→重い 軽い←重力←重い
>>22で人間はある「感じ」をめがけて知覚し、行動しますとなってるけど、半分その通り。
仏はこのことを、 野生=感性、理性=感性とし、野感→理知としています。
ただしこれは男にのみいえることで、女は逆の流れとなり、理知→野感となります。
例えばファッションですと傾向として女は色、形など細かいところを覚えているものですがこれは理知から入るためで、
逆に男は大まかに明るい色だったなぁ程度のことしか覚えていないのは感覚から入るためなのです。
女は哲学にむかないというのもこのためでもあります。感性や野性には間違いも糞もありません。
もし人間に間違いがあるとしたら歪んだ理知が間違いをおこすのです。この世の本質を掴むには野感からの流れの方が有利となります。
そのかわり様々な習慣や決まりごとがある社会環境に適合しやすいのは女となります。
このへんはあくまでも傾向としてであって微妙でありますが。
あと、仏は反発こそが行き過ぎに調和をもたらすのであるといってたなぁ。
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/philo/1041784039/ (バタバタバタ)
>土〇月 さん
>道徳的価値観(他者ー社会ー自己というわくぐみ)から始めるのではなく、
>本質的な意味で(自己の本来のあり方に忠実な)生き方を考えたい。
>>29 大変興味深いスレです。土〇月さんは、
「社会的価値観(道徳など)」や「理想の彼岸(宗教)」、「生物的価値(生き物としての本能)」
ではなく、「人間の本質」に基づく生き方を模索しておられるのでしょうか?
哲学的に思考すると、「善悪」「道徳」といった価値を根拠づける
絶対的な根底はないように思われます。しかし、何らかの価値基準、
価値体系がないと自分を選択することのできない人間は、
その体系を根拠づける根底を「無理矢理」想定せざるを得ない。
土〇月さんはその基盤に人間の本質を据えようとしているのでしょうか?
その人間的本質の中でも、最も根源的本質が「欲望」と考えているのでしょうか?
当方、哲学素人なので的外れの質問でしたらすみません。
>理性自体が欲望から生まれ出たものです。
>>20 私も理性とは、欲望によって切り取られた欲望の一種ではないかと思います。
(欲望という言葉が適当かは疑問ですが)
>人間はある「感じ」をめがけて知覚し、行動します。
>その対象はなんであるか、またどのような「感じ」なのかがむしろ問題です。
>>22 私も大変気になります。
ある「感じ」とは、人間的本質に関わる「何か」でしょうか?
>一般人さん
>それでそんな野蛮で程度の低い生き方(と思われている)が理想だなんて認められなくて、
>もっと、高尚なレベルの理想的な生き方をとか言われそうだなあ。
>>49 私も同感します。ただ疑問点も少しあります。
人間も生物である以上、基礎的本能(食欲、睡眠欲、性欲)を
充実させることが、最も「生物として」理想的な生き方だと思います。
それなのに、「人間として」理想的な生き方は、それに反することさえあります。
生物的本能に反するものを求める人間とは一体何なのでしょう?
社会的価値を剥ぎ取って残るのは、生物的価値だけでしょうか?
それとも、人間本来、人間特有の価値は残されているのでしょうか?
54 :
考える名無しさん:03/03/12 23:08
人間よ、おごるなかれ。人間も動物、生物。その側面は肯定的に受けとめたい。
人間はそう高級な存在でもないだろう。
が、過ぎた性能の大脳を持つ生き物として、本能も理性や信心もなるべく「高いところ」
で融合しつつ生きたいと願う。
レベルの低いスレだな。
哲学というのはそれまでの常識にはない新しい論理形式を発見したところから始まるんだよ。
そのための方法が社会的良識の否定だったり肉体的欲望の否定だったりするんだよ。
何も新しい論理も発見してないのに哲学板にスレ立てるなボケ。
人生論とかダメ板にでも立ててればいいんだよ。
56 :
考える名無しさん:03/03/13 01:04
自己実現等の高次元の欲求を満たす事が個人の最適な生き方だろう。又、哲学は所詮無力と言う事を認識する必要がある。腹が減って哲学は出来ない。
>>55 >哲学というのはそれまでの常識にはない新しい論理形式を発見したところから始まるんだよ。
新しい論理形式・・・!?
>>49 うむ。
>>50 スレ面白く読ませてもらいました。2回も読んでしまいました。
老荘思想好きなので共感できる部分が多かったです。
重力の話しはちょっと強引かと思いましたが、
物理学を老荘思想から解釈するのは斬新ですね。
>ある「感じ」とは、人間的本質に関わる「何か」でしょうか?
そうです。
人間は本質的に、自己のことを他のなにものにも凌駕し得るものとして
認識しています。
それは自己がアプリオリ(先天的)に保有している「可能性」に由来します。
固有性、自己にとって固有な他者。
謎の探求。世界との乖離、
固有の体験。謎の発見。
至福体験への強い執着。
これが自己存在の本質であろう。
至福体験とは、自己が保有し得るうちで最も強い印象を与えられる、
と確信するような体験。
自己の執着の対象や度合いによって決まる。
もっとも強い執着、それは最も愛する(または憎む)対象である。
人間が保有し得る愛や憎しみのうちで
もっとも強烈なものは自己に対して完全肯定
をもたらすようなものである。(憎しみにおいても肯定)
「自己存在の本質」とは何なのでしょうねー。
まずそれを見極める為にはどのような事に注目すると良いのでしょうか。
まずそれから考えるといいと思います。
ま、結局、その「欲望論」から抜けられないみたいね。。。
64 :
考える名無しさん:03/03/13 04:37
||
ノ⌒||^ヽ
彡/‖ ̄ ヽ
| |`====′
| |__|←Sophia
凵 ##ヽ
∪###ゝ
^T TT´
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「 「 |
し'し'
創造主たる神が存在している。
その神は肉体をもたず、物質的には無である。
其れ故神は想う事しかできない。
そう、神はただ想っている。
今で言う地球を想定する。
そこは自分には無い物質の世界にしようと想った。
今で言う大地を想い、植物を想い、動物を想い、想像した。
その全ては依存関係にあって、協力しながら想像の世界を保っている。
そして、神は自分がその世界のある物質になりきって物語を想像する。
大地に入り込んだ神は自分の奥底にある想う事のエネルギーを表現し、
熱くたぎるマグマを想像する。
そして、想うエネルギーは自分の全てを成り立たせているので
この世界の大くの物はマグマに依存するように想像する。
そして神はそのマグマの立場で物事を見ている。
大地の上には植物という、物質は持つが受動的な生き物を想像する。
それは神が物質の想像になれていく為の第一段階だった。
植物はマグマの影響下で存在し、近付き過ぎると存在は消され、
離れ過ぎても生存できないようにした。
それは、神の本質と想像の世界の距離を表しているのである。
そして神は植物の視点で想像している。
想像に慣れてきた神は物質を持ち能動的に活動出来る動物を想像する。
この動物の想像は自分には不可能な事を自由に出来る魅力があり
神にとって非常に愉快な事だった。
神は動物の中に意識を潜ませて、様々な場合を想定する。
自分が獣であった場合どう言う行動をするのか、
その獣の周りの獣だった場合どういう風にその獣に関わるのか。
様々なパターンを想像する。
そして、様々な物を想像し、自分の意識を入り込ませて
想像の世界を創造する。
どの役を演じてみても本質的に神は神であり
想像の世界の全ては神の想像と神の意識である。
しかし、神は様々な物に入っていく内にその入っている物を
完全な個として見るようになっていく。
想像の世界の物は創造主である神の存在を知らない立場で
想像しているので全ての物が自分を固有の存在と誤認するようになった。
そうなったことで自分と他者が存在するようになり、
そうなったことで、神の想像は幅の広いものとなった。
神は今も想像を繰り返している。
僕が昔考えた事なのですけど
自分の中には物質と切り離されている自我がある。
その自我は本当に他者の中にもあるのだろうかという疑問から
考えは始まりました。
この自我は他人の中にも存在していているのだろうと思い込んでいたけど
そのことは実は証明しよう之ない事でもしかしたら間違いなのかも。
神が自分のような人間を想像していて、
他の様々な場合も想像している。
そう仮定すると自我と言うのは創造主である神の意識であり、
他人の中にある自我と本質的には同じ物なのでは?
つまり、神の暇つぶしの想像がこの世界であり、
神が面白そうだからと想像した各状況の集まりがこの世界なのです。
どんな風に生きるかというのは問題では無く
全ての物の行動は神の興味を引けるかどうかで価値が決まる。
そして、その中でどう想い考えるかは神の意識であり
他人の心(自我)は状況の違う神の意識なのです。
全ての物が同じ物なのです。神の遊び心の為に人と人のぶつかり合いが
生じていて、僕達はいわば神を楽しませるピエロなのです。
そして、神は自我であるからどういう風に生きたらいいかと言うと
自分のおかれた状況下で自分だったらこうするという事を行えば良いのです。
学のある方々、暇だったら採点よろしくです。連続ですみませんでした。
真面目にならない
正気にならない
正義のヒーロも僕に幸せを与えて駄目にする
バイキンまんは僕を殺すだけ
正直どっちも役立たず
Sophia ◆8ADoZCl6.k 03/03/02 13:07
いらっしゃいませー!! (^v^)
私といろいろな哲学っぽい話題について話しませんか?
私にはいろんな疑問があります。
順次主題を出しますので、皆様の為になる意見を聞きたいと思います。
よろしく。(^v^)
他のスレでの私への個人的な誹謗、中傷はこのスレでして下さい。
他のスレに迷惑になりますから、、。ヒマな時には返事をするかも、、。
あと、仕切りやさんはこのスレから
出てください。 ちなみにこのスレの重複スレは無いですよね。
>>68 僕は可能性を考えてみただけで、
心情的にあって欲しく無い事でも
可能性が否定出来ないなら考える余地があると想うんですけど、
まして善悪を超えた事を考えるスレならいいかなと思うんですけど、
駄目だったのでしょうか(/_;)
読んだ。自然で良いと思います。
>>71 ありがとです、
でも寂しいです(ノ_・、)
阿呆過ぎて議論の余地が無いって事でつか。
そうでつか(;´_`;)
73 :
考える名無しさん:03/03/13 12:14
人を基準に行動する。
その人が信用できるひとで自分のことを生かしてくれるのなら、
そのひとの考え方に従う。
(^^)
>>73さん
他者というものはあくまでも自己を措定する為のものでしか
ないので、その人がどんなに信用できる人であれ、依存して
しまうと自己を見失ってしまう危険性があるのでは。
ん?
>一般人
>創造主たる神が存在している。
その神が創造される物語はないの。
その神が超高性能PCを使ってこの世界をプログラムしている
キモイオタクという可能性はないの。
79 :
考える名無しさん:03/03/15 12:33
>>78 物語がないのならどうしてそれを否定できるのかね、
おちびちゃん?
80 :
考える名無しさん:03/03/17 23:39
>>1 持続可能な高揚感(精神的、肉体的、両方共)または高揚感が上昇し続けるような
そんな生き方があれば、私は理想としたいです。
これあげる。
<善悪について>
そもそも「善」、「悪」の境界を「私」がどのように想定したかという位置に立ち返らなければならない。
往々にして、境界は明確さが無く想定されているから。
すなわち「善悪」をなにと想定するかは、「私」達の枠の中の問題、
いわば「私」達のゲーム上のルールである。ゲームのルールの真理や、恒久性はない。
その場、その場でルールとして決めていけばいい。
ただ「私」というのは、無限の可能性が在るわけではなく、この世界との連続的存在で、一部であるために、
大局的にはこの世界の影響を受けている。
ゲームのルールを決める場合も、意図しなくても必然的にさらに大きな局部に依存した決定になる。
おそらくその判断は、ほとんどが大局の影響によって決まるだろう。
それが「私」の限界であり、抑制効果である。
本人の考え方によっては一生幸せだろうね
世界は美しい。
己が本当に欲するままに生きるがいい。
84 :
Sophia:03/03/18 21:44
ば〜か ば〜か
キャハハ
必要を超えてみたら?
Tar語ワカリマセン
>>85 いつでも必要をめがけること。
認識と力への。
永遠不変なものの認識、神、自然の仕組み。への。
力としての自己(自然)への。
仮面(振るまい)としての自己。
力(支配)への。つまり、神への。
神の仮面を被ること。神とは総てであり、全能であり、
存在者に対する存在そのもの。
自己否定。神への。
身体的自己(存在者)から離れ、
神(存在)を自己とする。
道具連関の崩壊。
情状性が神の仮面を剥ぎ取る
身体的限界が創り出すもの、存在者としての限界。
不滅性、、、、、、、、、、、、、
永遠としての未来なき現在。
未来なき現在への強い信頼。
未来・単純な意味での過去を捨て去る。
永遠の現在。
エネルギーとしての終曲。
終曲としての未来なき永遠の現在。
存在そのもの(つまり、対極がない、総て)全体を溶かし、
また全体を包み込むエネルギーの集合体、神。
へ向う。現在。自己。
相対関係を砕くもの。挫かれた存在者の「関係性」。
絶対的力、概念(哲学)からの離反。
理論理性の批判。
自由。
理想は理想
自己を自ら規定すること→絶対的な視点(神の視点)
概念(世界、自然、身体的自己に付随するもの、生の目的)
を下位に置く、価値を否定する。
(あらゆる目的を蔑視。世界を軽蔑。)
あらゆる規則の溶解。
(^^)
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
100 :
考える名無しさん:03/05/26 21:43
中庸
101 :
考える名無しさん:03/05/26 21:46
自由に生きればいいのだろう、要するに。
腹が減ったら、殺し、攻撃するものには対抗し、
場合によっては殺し、動物のようにストレートに生きればよいということだろうな。
ディオゲネス風が一番環境に良いような。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
104 :
考える名無しさん:03/06/07 20:18
105 :
考える名無しさん:03/06/07 20:20
理想的な生き方。
いきがるという意味では超えるでいいけど
実際こえられるわけないyおね
107 :
考える名無しさん:03/06/22 20:54
超えられるよ。バカだなあーWw
ルール1 知識(科学や哲学含む)で理解できることは、ほんの一部だとしろう。
ルール2 この世界に真実などなく、現実があるだけだとしろう。
ルール3 この世界の現実に対処するもっともよい方法は、私自身を信じることだとしろう。
ルール4 この世界の現実は知るものでなく、係わるものということをしろう。
109 :
3 ◆Yv95BkWDl6 :03/06/22 21:49
>>108 知るということは、関わる事だということを知ろう
110 :
3 ◆Yv95BkWDl6 :03/06/22 21:53
>この世界の現実に対処するもっともよい方法は
これはプラグマティズムてきなひとつのパースペクティヴに過ぎないと言う事を知ろう
>この世界に真実などなく
と言って反形而上学的な立場を示しながら
>現実があるだけだとしろう
とくるのは、矛盾だということを知ろう。
>知識(科学や哲学含む)で理解できることは、ほんの一部だとしろう。
きみはほんの一部さえも理解できていないことを知ろう。
>これはプラグマティズムてきなひとつのパースペクティヴに過ぎないと言う事を知ろう
>と言って反形而上学的な立場を示しながら
>とくるのは、矛盾だということを知ろう。
>きみはほんの一部さえも理解できていないことを知ろう。
ルール1 知識(科学や哲学含む)で理解できることは、ほんの一部だとしろう。
ルール2 この世界に真実などなく、現実があるだけだとしろう。
ルール3 この世界の現実に対処するもっともよい方法は、私自身を信じることだとしろう。
ルール4 この世界の現実は知るものでなく、係わるものということをしろう。
ルール1〜4を知識(科学や哲学含む)で理解しようとすると、
たとえば、プラグマティズムでパースペクティヴで形而上学的となる。
ルール1〜4さえ知識(科学や哲学含む)であると、考えられれば、
ルールの本質がわかるだろう。。。
>107いやまぁそうなんだろけど。別に善悪が喧嘩売ってる訳でもないのに超えるとか言ってるし。
最初から悟ってる人は悟ったなんて言わないのに.善悪は自らの中にあるのに客観的だし多分無理なんだろなと
114 :
考える名無しさん:03/06/23 02:33
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄