668 :
ザハトホ実存主義者:
いやはや、なんとも・・・
お久しぶり。。
669 :
考える名無しさん:03/12/07 06:14
ageまひょ
670 :
考える名無しさん:03/12/14 20:36
あげ〜。想像力の問題。
671 :
考える名無しさん:03/12/23 02:49
サルトルの独自性ってなんですか?
672 :
考える名無しさん:03/12/23 02:59
ゴミ知識と童貞、この無意味さに耐えてこそ実存でわwww
673 :
考える名無しさん:03/12/27 14:47
>>672 確かに!ワラタw霧の乙女号って、アホ丸出しだねw
674 :
考える名無しさん:04/01/11 03:46
『存在と無』長くて読んでられないよ。
吐き気がする。・・・・サルトルの境地に達したのだろうか。
>>673 ああっ、誰かが漏れの個人情報をこんなところで機密漏洩してるぅ・・・。(;゜〇゜)
そんなことに独りごちてage同意してるイタ杉のアナタって、やっぱ漏れ以上のド阿呆ですか?(^_^;)
>>675 まだサルトル四級くらいですな。(^_^;)
明日の午後は、マロニエの樹の根を見つめましょう!
地獄とは他人のことだというのはどういう意味ですか?
自己に対する否定性としての現れかな?
他者の出現において、自己の存在が突き崩されるみたいな。
例えばオレが死にスレでマタリとネタカキコしてると、誰かからアフォ呼ばわりされちゃうみたいな・・・。(^_^;)
679 :
考える名無しさん:04/02/02 14:24
鏡の反射に閉じ込められるということじゃないかな?
それは対自存在の相克ってこと?
681 :
考えた名無しさん:04/02/04 18:38
自由の刑を背負って生きてゆく。
嗚呼、存在そのものが匂い立ち、むせかえり吐き気がすることだなあ。
682 :
考える名無しさん:04/02/11 18:53
誰か助けてよ!!!!!!
サルトルが何をした人か教えてよ!!!!
切羽つまってるんです!!!!
683 :
考える名無しさん:04/02/12 02:17
684 :
考える名無しさん:04/02/12 07:25
歳とってからションボリな生活してたサルトルのような生き方はヤダ
685 :
考える名無しさん:04/02/12 07:35
「存在と無」を読み始めたばかりの初心者です。
翻訳者:松浪信三郎/人文書院発行
緒論 「存在の探求」
T現象という観念
現象とは、現れの全連鎖である
その現象が起こる要素すべてひっくるめて「現象」
と記述されていると解釈しました。
この章においてサルトルは
'現象の内にありながら、それ自体は外にあるもの'を示唆しているのですが
これは例えば、人で想像してみた場合
「意識」と捉えてよいのでしょうか?
688 :
考える名無しさん:04/02/16 14:21
そして、
>本質はそれをあらわす個々の現れから根本的に切り離されているもの
>本質は原理的にいって、
個々の顕現の無限の一連鎖によってあらわされうべきものだからである。
と書かれているのですが
人の本質は、その行動や行為で垣間見えるものであり
しかしそれが本質の全容をあらわすことはない、との解釈は
読み違えも甚だしいでしょうか?
まず、一足飛びに人間に当てはめて考えるのは、
結果的にあっているとしても、差し控えたほうがよいと思われます。
ここでの議論を追いながら説明すると、まずサルトルは
カント的な意味での存在と現象の二元論を批判します。
つまり、ある存在が私たちの主観に現われる。
そのとき、主観を通しているのでその存在を
ありのままに認識しているわけではない。
現象を超えた本質みたいなものがあって、
私たちは部分的にそれを認識するのみである。
そういう考え方のことです。
そうではなく、現象すなわち本質である。こう主張します。
現象の向こうに元になるような存在があるのではなく、
現象すなわち存在である、現象は絶対的にそれがあるところのものである、
本質はそれ自身が一つの現われである、というわけです。
しかし一方で、有限なものと無限なものが対立する。
これはどういうことか。
ある現象が現われるとき、例えばコップを見るとき、
私たちは一度に一方向からしか見ることしかできません。
上から見ているときは底は見えませんし、
正面から見ているときは裏側は見えません。
ひとつの対象がひとつの射影を通じてのみ与えられると言うとき、
このことを指しています。これはフッサール現象学の理屈です。
そして射影を得るための視点は無限に取ることができます。
で、コップをコップとして見るとき、底が見えていなくても
底があるものとして認識するのが普通です。
私たちがコップを認識するとき、ひとつひとつの射影
(有限的にしか与えられない)を超えて、
コップという全体(射影を無限に積み重ねた全体)を
構成しているということです。
さて、するとさっきは現象の向こうに元になるような
存在があるのではないと言ったばかりなのに、
今度は有限なものの向こうに無限なものがあることになってしまった。
これはどういうことだとなるわけです。
サルトルは基本的に節を細かく区切ったりせず、
ひとつの章の中に立論、反論、再反論を
どんどん盛り込んでいくタイプの書き手です。
ですから、慣れるまではどこまでがサルトルの批判している説で
どこからがサルトルの説かがわかりづらいと思います。
>>689-690さん
687-688です。分かり易い説明をありがとうございます。
特に
>>690のコップの例はとても理解しやすいです。
サルトルの考え方は父が口頭で話してくれたりして
興味は持っていたのですが、まともに読んだことがなくて、
即自と対自、存在の捉え方など、ちゃんと勉強したくて
普段読まない哲学書を開いた所存です。
まだ読み始めたばかりですが、また疑問が湧いたら
質問させていただいたりするかもしれませんが、
「それはこうだよー」と道を示してくださると助かります。
>>691 ついでですので補足的に説明します。
>現象とは、現れの全連鎖である
現象は、個々の射影から与えられる現出と、
その現出を超えて構成される現出者からなっています。
現象(現出者)とは、現われ(個々の射影)の全連鎖(綜合されたもの)である、
と読み替えればわかりやすいかと思います。
色々なところで言われていますが、
この緒論が初学者には一番難しいところです。
わからない個所があればどんどん聞いたほうがいいと思います。
サルトルを読んでいくにあたって少しばかり助言を。
存在と無は見てのとおり相当大部ですし、
内容も決して平易ではありません。
はっきり言ってわからなくても当然だと思います。
ただ、有名なカフェのボーイの比喩など、
さまざまな例証はとても生き生きとして読んで楽しいですので、
最初はわかるところだけ読み込んでいけばいいと思います。
カントやハイデガー、ヘーゲルといった名前がたくさん出てきますが、
基本的に存在と無は独り立ちが可能な本で、
哲学史の知識がなくとも理解はできるはずです。
(無論、知っていればなおよいですけれど)
あまり意気込んで取り組むよりも、時間はかかっても
わからない場所を行きつ戻りつし、
少しづつ歩みを進めていけばよいでしょう。
無理に買う必要はありませんが、もし持っているのなら
「自我の超越」を先に読んだほうがわかりやすいかもしれません。
新装版の存在と無についてきた小冊子と同内容のものがここで読めます。
http://www.jimbunshoin.co.jp/rmj/sonzai.htm
>>692 691です。ありがとうございます。
正直、緒論の電流の喩えはとてもよく分かったのですが
有限なるもののうちの無限については
分かったつもりでいても???な解釈ばかりしてましたので
やはり分からないところは人の意見を聞かないといけないと思いました。
ほんと難しいです。
でも地道に読み解いていきたいです。
「自我の超越」ですか。少し探してみます。
URL先も参考にさせていただきます。感謝します。
またここで質問させていただくかと思いますが
その時はどうぞよろしくお願いします。
694 :
考える名無しさん:04/03/06 05:33
あ
695 :
考える名無しさん:04/03/17 21:51
サルトルがキューバ(カストロ、ゲバラなど)について語った文章が載っている
本の名前を教えてください。いろいろ探したのですが、
具体的な書名は出てきませんでした。
696 :
考える名無しさん:04/03/17 22:36
>>695さん
原書は未見ですが、『集英社ギャラリー 世界の文学9 フランスW』に収められたサルトル著作年譜(p1132)には
《『キューバ訪問記』Sartre visita a Cuba 旅行記 一九六〇》という記載が見られました。
題名から察する限り、お探しになられている文献ではないでしょうか。
なお、邦題は便宜的なものであって、未訳のようです(上記の文学全集は十分、入手可です)。
本を引いただけの、付け焼刃の曖昧な知識で申し訳ない。
>>696 ありがとうございます。その本あたってみます。
サルトルは60年代にキューバ革命を熱烈に支持したようですが、
その後70年あたりでカストロと決別します。
ゲバラについては「20世紀で最も完全な人間」と評したようです。
ボーボワールも同様にキューバに接したようですが、
こちらも詳細を知りません。当時の知識人のキューバに対する態度を
知りたいと思い、調べているところです。
>>697 いえいえ。
後年からすると、1968年がひとつの結節点として働いたために、
知識人たちの間でキューバ革命のインパクトは薄れていったのではないかと、私などは勘繰るのですが。
68年5月の時点で影響力を誇ったのがゲバラ=カストロではなくマオであって、
それとは対照的に68年以降、ゲバラ=カストロはある種のヒーローとして知名度を得はしても、
かたやマオは忘却されていったことを比較すると、何かのメカニズムを嗅ぎ取れるかもしれません。
――無論、このことを言うには両者が第三世界論の文脈では一致することをカッコに入れなければなりませんけれども。
それにしても、アラン・バディウのようなマオイズムを正面から受容した人がまだ生きているのに対し、
キューバ革命のフランスにおける証言者というと、寡聞にして知らないのですが、誰かいるのでしょうか。
サルトルがゲバラと接触したことを聞いただけでも、驚きだったのですが。
とにかく、「フランスでは、アルジェリアやヴェトナムの方が多く取り沙汰されることによりキューバは後方に追いやれたのだ」という、
時事的な問題だけでは済まされないようですね。
67年ゲバラが死に、上にありますように70年あたりサルトルがカストロと決別したというのは象徴的だ、とは言い過ぎでしょうか……。
書き込みをみて思うところがあったのですが、ミッシング・リンクを見出すという意味で、
695さんの着眼点には興味深いものを感じました。
浅学な者ですが、695さんの研究が進むこと、影ながら応援しております。
699 :
考える名無しさん:04/04/12 00:33
age-
HOSHU
701 :
考える名無しさん:04/04/27 06:47
あー 問題は俺が哲学好きであるにも関わらずなんの社会的活動もしとらんこっちゃな
あー あせってキタ Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒(。A。)!!!
702 :
考える名無しさん:04/04/29 18:09
サルトルが詩は言葉をものとして扱うといった事を述べているのはどの本ですか?
どうせどこまでも極貧だからな、こわいぞ〜貧乏
704 :
考える名無しさん:04/04/29 18:52
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>>702 文学とは何か
「いや、詩は全く言葉を使用しないのである。
むしろ詩は言葉に奉仕するものだと言えよう。
……事実、詩人は道具としての言葉と一挙に手を切って、
詩的態度を選んだのであり、詩的態度とは
言葉を記号としてではなく、ものとして考えることである。」
707 :
考える名無しさん:
あげ