【科学哲学】

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101zion-ad:02/12/08 21:55
【エセ保守】小林よしのり・西部邁らの発狂反米 9 コピペ
http://corn.2ch.net/test/read.cgi/mass/1037113619/589
うーん。俺はウヨではないので、自分でオルテガぐらい読めっていいたいが、
西部のフィールドだしね。
12章「「専門主義」の野蛮性」にあるけど、文明によって科学は進歩して
いき、19世紀までの科学者はさまざまな分野に感心を持った「教養人」
であったが、現代の科学者は自分の専門分野だけに埋没し、自分の分野以外
については全く関心を示さない。引用すると

(前略)そして、事実、専門家の態度はその通りなのである。彼は、政治,芸術
社会慣習あるいは自分の学問以外の学問に関して、未開人の態度、完全に無知
なる者の態度をとるだろうが、そうした態度を強くしかも完璧に貫くために-
ここが矛盾したところだが-他のそれぞれの分野の専門家を受け容れようとしない。
文明が彼を専門家に仕上げた時、彼を自己の限界内に閉じこもりそこで慢心する
人間にしてしまったのである。しかしこの自己満足と自己愛の感情は、彼をして
自分の専門以外の分野においても支配権をふるいたいという願望にかりたてる
ことにあるだろう。(中略)
そして、彼らの野蛮性こそが、ヨーロッパの堕落の最も直接的な原因なのである。(以下略)

つまりオルテガは科学者という専門馬鹿を彼の言う「大衆」の典型であると断じて
いるわけ。俺は理系の大学出身だが、極めて身に染みたなあ、このくだりは。
あ、保守を肯定的に捉えてたら御免ね。俺も大して知ってるわけじゃないしもう退散
するわ。詳しくは自分で読んでくれ。
http://corn.2ch.net/test/read.cgi/mass/1037113619/584-603
102zion-ad:02/12/08 22:04
>>101
まったくもって、俺のことだな。俺の専門領域は吉外。

>**************しかしこの自己満足と自己愛の感情は、彼をして
>自分の専門以外の分野においても支配権をふるいたいという願望にかりたてる
>ことにあるだろう。****
103考える名無しさん:02/12/08 22:17
>>zion-ad
ヘイヘイヘイ、氏に名
104zion-ad:02/12/08 22:49
>>103
>ヘイヘイヘイ、氏に名

これこそ俺の求めるものなんだよ。氏(うじ)に名(な)がある。
蛆虫(うじむし)が、蛹(さなぎ)となり蝶(超)を求める。
105zion-ad:02/12/08 22:49
>>38
>内井と中山茂のクーン翻訳論争はどう思う?
なんだ、読み直したら中山茂って人、有名な人だったんだ。
これからネタにしようと思ってたら先に出てたとは。よろしくね。

偶然にも土曜の午後、スポーツクラブの小さな図書館(カラーボックスの)に

「西洋占星術―科学と魔術のあいだ」中山茂 講談社現代新書
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061491059/qid=1039354124/sr=1-2/ref=sr_1_0_2/250-5757840-1681060
を発見して読んでいたんだ。どっかで無意識の囁きが俺を導いたのかな。
で、これ終わりのあたりだけ読めばいいよ。おもしろい。
ちゃんと話が整理できている。

>>8 のこっちは、竹内薫と茂木健一郎の解説だけ読めばいい。
106考える名無しさん:02/12/09 11:54
科学哲学どころか、新科学哲学ですらないこのスレッドは、
いったい何について議論なさっているのでしょうか。>>諸氏
107向こうで書き込んだ者:02/12/09 18:42
>106
ある人物のせいで議論すらできない状況
議論の邪魔になるのは排除しなくちゃ
別スレ建てる?
108考える名無しさん:02/12/09 18:54
平然とスルーで。
109W・H    :02/12/09 20:52
この科哲のスレがようやくたったので、どんなことみんな話すんだろうと思って
読んでみた。
 それぞれ疑問、問題があることは分ったし、それぞれの方の問題はそれぞれが
必ずしも解答を付与できるほどこの世は優れてないと思う。
 そうした中、私なりに今ざっと思ってるところを表明したいのだが、
‥‥‥ ごめん。少し経ってから
110考える名無しさん:02/12/09 21:32
一部に科学哲学を「科学的に哲学する(分析哲学)」と勘違いしている者がいる
科学哲学は「科学を哲学すること」なのに。
つまりは「科学とは何か」「科学はどうあるべきか」「なぜ科学を用いるのか」の話。

では、「なぜ科学(的手法)を用いるのか」あたりから始めませんか?
111W・H    :02/12/09 21:59
 「科学とは何であるか」という問いにせよ、
 「なぜ科学を用いるのか」という問いにせよ、分っていることは
荒れた場合、一番無知になるということだと思う。
 だから、荒れだけは最低限食い止めるということを約束する限りでの
知識として、それらの問いを考究することは無意義でないと思う。
112W・H    :02/12/09 22:14
>>109 私が最初に109で言いたかったのは、だいたいこんな感想だった。
それは、1 哲学に対して遥かに限定性を
有しているような科学哲学と言えども、その扉を開いた先に広がるのは、
どうしようもなく広がってる科学があること。
2 私が科学哲学に没頭したのは、科学的な心理学であった行動主義が
科学を標榜しないで獲得していた認識に制限を加えることの問題から、ということ。
 そこで科学とは何であるのか、あるいは科学的とは何であるのかの考察が
始まった。卑近な例で、世界共通だが、まずクーン、ファイヤーベント、
ラカトシュなどと入ってゆき、それ以外にも触手を伸ばした。
 結論から言って、この学問が台頭したにせよ、誰のどんな業績を科学的とするか、
あるいは誰のどんな業績を革命的なものとするか、というものも、全く
発言力、知識の正当性の拘束力をもっている個人、あるいは集団が決すると
判断せざる得なかった。
 そこでは心霊現象であれ、血液型占いであれ、どんなものでも同様である。
そうした中で一体どうした支配理論(パラダイム)が、正当なものと評価されるに
至るのかという大革命から小革命を含めた支配理論の変遷の原因に関心をもった。
 続く。
113W・H    :02/12/09 22:23
>>112 一般には変遷の原因、または原動力となるものは、その社会情勢、
あるいは社会思想が果たしているということはしばし言われてきた。
 しかし必ずしもそうでない例があれば、それがないのに革命が起こっている
場合もあり、一般性を付与できると言えるものでもない。
 はっきりしているのは、小革命にせよ、大革命にせよ、反則事例に対して
説明を付与できた理論または研究については、歴史家は必ずその人の名を
記載してきたということ。
 
114W・H    :02/12/09 22:28
 このことはまだ考究中なのだが、仮定は矛盾に優先する、ということを
許容している人、あるいは人間は矛盾を嫌う動物である、という考えを
強く持っている人であればあるほど革命をなしているということ。
 
115W・H    :02/12/09 22:33
 そしてその「矛盾」という言葉はクーンが使った反則事例という言葉に
置き換えられるのではないか、ということ。
 つまり、仮定は反則事例に優先する、ということを許容し、反則事例を
忌み嫌う人、あるいは、西洋思想そのものである、世界は神が創ったもの
というものであれ、創ったものでないというものであれ、
この世界は完全で調和をなしているという原信頼を
大事にしていた人であればあるほど革命への意欲が強かった、ということ。
116W・H    :02/12/09 22:46
 そこでその「仮定」というものが、これまで広がりすぎた現代科学哲学
において、社会思想、あるいは社会情勢がもたらす理想とか考えにより
限定されてきた、とひどく言われ過ぎたということ。
 大事なことは、その「仮定」の出所が、全く任意である、とむしろ
言った方がいいのではないか、ということ。
 「〜である、と仮定すれば、この反則事例は私の言う理論により遥かに
簡単に説明できる」とか「〜である、と仮定すれば、この反則事例は
私の言う理論により包摂することができる」という展開、あるいは革命が西洋科学に
おいては非常に散見される。
 私が今関心を持っているのは、なぜ数理性を尊び、デカルトに忠実であった
ロエブ・パブロフ流の刺激-反応説が瓦解して、第二次大戦直後のドイツ行動学が
なぜ前説が隆盛を極めていた英米圏で歓迎されたのか、という問題である。
(その立役者であるローレンツ、ティンバーゲン(もう一人フリッシュも含まれるが)
は周知のよう1973年にノーベル生理医学賞を受賞した。) 
 そしてなぜそれを否定できたとドーキンズらの第二期英国エソロジスト派が
宣伝することが出来たのか、あるいは世界で受容されたのか、という問題である。
 
117W・H    :02/12/09 23:09
 生物に自発性を付与するということは、それは生気論への回帰であり、
デカルト派、あるいはロエブ・パブロフ流の刺激-反応のパラダイムに従って
生物行動を物理、化学的に予見するが求められていた。
 ロエブ・パブロフ流の刺激-反応説と現在一括されているものの、そこには
フランスで興隆を極めた実験生理学も含まれる。
 ドイツの科学観とフランス科学観は犬猿の仲だった。だが、ドイツはその当時
フランス由来の実験生理学を尊重してより興隆してゆこうとしてすらいた。
 しかし、戦後、嫌われ、嘲笑の的であったドイツの行動学が英米圏に
紹介された時、ロエブ・パブロフ流の刺激-反応論者が
生気論への回帰するもの、あるいは非科学への退化とみなしていた生物への
自発性を大いに尊重していたそのドイツの学説は、忌避されることがなかったのである。
 つまり、そこでも「重力が何であるのか」といったことや、
「光速度を一定と本当にみなしていいのか」といったことを問題にしない
といったよう、「生物に自発性がある」と仮定すれば、
仮に純理的な科学方法論に対して退化した科学観であっても、
全ての行動現象はより予見性を付与できる、全て問題は包括できる、
という利点を英米圏は見たのだ。
118考える名無しさん:02/12/09 23:09
>W・H氏
厨房な意見スマソ。
論理実証主義がポパー派の出現によって崩壊し、さらに現在ではクーンらの
新科学哲学派、所謂、解釈学的科学哲学が主流になっているからではないのですか?
違うかな?浅薄な知識振り回してスマソ。
119W・H    :02/12/09 23:24
>>117 しかし、話はおよそそれで終わらないことは承知している。
 更なる議論を希望の方はこちらまで
http://groups.msn.com/ebba9124ta288i2ptcmr8phas0
あるいは [email protected] 
>>118 なるほど
120zion-ad:02/12/10 03:22
>>114
> このことはまだ考究中なのだが、仮定は矛盾に優先する、******

私は、これを枠組みの想起と呼んでいる。ただし、この枠組み。
見える枠組みと、見えない枠組みの2つある。そして、

>許容している人、あるいは人間は矛盾を嫌う動物である、という考えを
>強く持っている人であればあるほど革命をなしているということ。

科学と非科学を分けるデデキントの数直線の切断。

区間0と2(或いは、直線。−∞と+∞)の間、1で数直線を切断する。
121zion-ad:02/12/10 03:22
両端が明確に決定できる区間0と2。見える枠組み。
両端が不明瞭な、その先もっと延長できるだろうなの直線。見えない枠組み。

で、ともかく、線分であろうと直線であろうと見える。
見えるってことは間(あいだ)、間(ま)がある。
この間(魔)を許容している人が、

この間(愛だ)に距離があることを嫌う。
間(魔)を間(魔)で切断する。ママの贈り物、知の間(剣)で切断して。

そして動く物となり、互いに歩み寄りダンスを始める。
122zion-ad:02/12/10 03:24
黒木玄のウェブサイト
http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/index-j.html
二つの実数論 黒木 玄 1999/06/03 09:28:39

>こういうことを当然の予備知識として持ってない人が実数論に関係した哲学を展開する
>のは無理だし、やめた方が良いと思うのだ。
http://www.google.co.jp/search?q=cache:xHn5NkwCyWAC:www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/keijiban/Tmp/realnumbers.html+%E3%83%87%E3%83%87%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%88+%E5%88%87%E6%96%AD&hl=ja&ie=UTF-8

やっちゃうよ。僕に言わせればですね、数学者さん達は、
なぜ座標をイメージできたか知らないで、幾何学をやっているわけですよ。
それを知らないでは、大天才東晃史(あきふみ)から今世紀の物理学は創れないですよ。

で、ここには優秀な方々が多いですから、ヒントを出しておきます。

布置。布がなければ、なんにもイメージできない。置は、また今度。
123zion-ad:02/12/10 03:37
「他力」五木寛之 講談社文庫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062730103/ref=pd_bxgy_text_2/250-5757840-1681060
蓮如のやり方パクル。あともうひとつは有能な斥候、中沢新一の・・・
さて、なんでしょう。ヒント、ひとつ目小僧。

あー、そういうことか。確率の振幅を収束させるに、
不在の証明の名を喚起しながら、求めるは意志ある実体。
その方法論、視線の投げかけ。女の方が得意なのの、紛い物を俺はやっている。
124zion-ad:02/12/10 03:51
>>80
>正当、客観性が無いなんて誰が決めた?!
>それこそ君の独断だ

俺が決めた。俺、戦争屋なんでね。
斥候からのレポートがいっぱい参謀本部に集まってくるんだけど、
前線の向こうの状態なんて、第一次世界大戦、塹壕の延長、線。

その向こう側の面における敵の配置なんかわからないんだよ。
当時は、電信なんてのもたいして発達してなかったし、時間的ズレがある。
だから、こっちが軍を進めたら、そこはもぬけの空。

戦争ってのは、思い込みでやるもんさ。
125zion-ad:02/12/10 03:57
>>123
冒頭が抜けていたな。
>>88
>他力本願なんだな。
126zion-ad:02/12/10 05:12
>>116
>大事なことは、その「仮定」の出所が、全く任意である、とむしろ
>言った方がいいのではないか、ということ。
貴殿が俺の騙りを魔に受けるかどうかは、この俺の女装を見抜けるかに。

”向こうで書き込んだ者” 。俺も彼と同じで女装した刺客なんでね。
そうとう鬱積している。彼は客観とかいう世間に公認された言説、
或いは、これから世間で公認されると思い込んでの”哲板の住人”を名乗って、
勝手に哲板代表者となったように、俺は、勝手に東晃史(あきふみ)を代表する。
みんなが楽しめるもの(見い出したい客観)なんてないの、論理じゃわかってるけど、
それでも、それを無限遠点に向けて、科学信仰で暴走するか、己の欲望で暴走するか。

<全く任意である>。
<欲望は部分的な真理であり、真理は部分的なものでしかありえない。>

その答えを意識側面、意識の物理学として解答したのが東晃史(あきふみ)であり、
無意識の側面、イメージを言語学から解答したのが、ラカンかな。
127zion-ad:02/12/10 05:13
>>112
>2 私が科学哲学に没頭したのは、科学的な心理学であった行動主義が
>科学を標榜しないで獲得していた認識に制限を加えることの問題から、ということ。

なにを話題とするか。その視野の大きさが恣意的だということ。
血気はやりの若手参謀は、前線全体のことを考えず視野に入った小高い丘を
橋頭堡になると、がむしゃらに進む。戦線が崩れてあとの修復が大変だ。
と、近代西洋思想の科学信仰を批判してオナルではないようなので飛ばしてと、

戦争ってのは思い込みでやるものさ。マッチポンプの。
放火魔と消防士と野次馬の三位一体。
現実界・想像界・象徴界のちょっとズレ。
欲望だ。活躍だ。物語だ。

W・Hよ。俺の文書官となれ。印税生活も夢じゃない鴨よ。その前に喰われなきゃな。
128zion-ad:02/12/10 05:32
>>110
>では、「なぜ科学(的手法)を用いるのか」あたりから始めませんか?

だからよ、そんなのおまえの欲望に聞いてみな。
それやらないで、これからの日本はどうすべきだと思いますか。とか、
やってんじゃないの。世間の流れに己の言説、欲望を迎合させようと汲々させんな。

で、おまえが科学をなんで用いたいかわかったら、俺の軍師マトリックスに来い。
下手に次期作戦計画提案なんてしてみろ、言ったものがやらされるんだぜ。
だからって、イエスマンが、次の作戦計画はどれが正しいと思いますかと、
明確な枠組み内の選択、レディメイドの作戦をしていたら、勝てねえぜ。

ま、普段着は安く仕上げる正攻法がいいけどさ、王侯達の集まりでは、オーダーメイド。
それもプレタポルテしなきゃ。ところでプレタポルテってなんだ。裸ってことかい。

不明瞭な枠組みの。空間を纏(まと)ったシャネルの碁盤。ひかるぜ。
129考える名無しさん:02/12/10 05:34
>>128
流石にジオンという名前をつけておられる方につかえるのはちょっと・・(^^;
130zion-ad:02/12/10 06:58
>>129
俺に仕えるんじゃない。俺は遠征軍の旗。
”慈恩公国の合従連衡−闇の旗保険”の説明は、ここじゃやらんが、

保険の加入者にはもれなく、戦場への片道切符をお渡ししております。
帰りの切符は御自分で用意してください。惚れた娘を再び女房とするために。
>>124
でもどっかにゃいるというのは知ってるんだろ?
ならば「ある」じゃないか

敵軍がどこにいるのか考えて分かろうとするのが学者
いやしないから好きなところに戦争をふっかけるという態度が戦争屋
戦争屋は学問の世界から排除したいね
まったく恣意的にね
132zion-ad:02/12/14 06:34
>でもどっかにゃいるというのは知ってるんだろ?

知らない。今はカマかけて、おまえの中のすごさを引き出し、
俺の駒におまえを加えようとはしているけど。
俺の予想以上におまえしっかりしているから。
で、このことが言葉を通して俺の知ることになった。
そのおまえの存在を知ることとなった。

でもどっかにゃいたというのは知っている。常に情報が過去形になる世界、
この今の俺にはね。でも最初の最初は、おまえの言うように、

俺の手駒に>>いやしないから好きなところに戦争をふっかけるという態度が戦争屋

が、俺。名という、空間座標でない位置座標の旗を手に入れた。
幾何でなく行列のようなものだと思ってくれ。まだかなりあいまい。
133zion-ad:02/12/14 06:35
エクセルのセルデータ。行列3の3とか、3の4。これがインターネットで
バラバラに送信され、バラバラな経路を辿って目的地に向かうと思ってくれ。
表計算ソフトの特定シートの内部住所とこの目的地の外部住所が付加された、
情報の塊が、ネットを駆けめぐり、なんとかして目的地に辿り着こうとする。
このデータは名であり、点のようでもあるけど、

空間化、幾何展開されていない言語情報、数字。序列でも、1,2,3。
数、5個、10個の量的なものでもない。ただの言葉。それなのに連鎖の特性、
意味志向を持つ。慣用とかの惰性の世間を漂うだけでなく、
自立的な、人間を越えたモノ達の連鎖力、言霊(ことだま)がある。
俺は文学者じゃないのでこれも飛ばす。
134zion-ad:02/12/14 06:36
この過程の物理学を光速度限界を越えた量子的物理的世界(現実界)と、
座標を読む人間の思考の世界(象徴界)。

そして、その両面に接面する2つのイメージ。座標空間に点として収容されながら、
イメージ空間で面として見かけの形を維持する対象。粒子と波の相補性のような
なんかを維持するママの贈り物。形を見させる機構(想像界)。

これを使って数学者を洗脳し、堅物の目に見える世界しか対応できない物理学者の
頭にガツンとぶつけるのが、当面の俺のゲーム。ネタは東晃史(あきふみ)読めば
わかるんだが、ま、営業として少しはわかりやすく紹介するつもり。
ラカン知ってれば、一発でわかるし、でなくても、数学者なら老子と同じ目を持つはず。

ただし、量子的物理世界が単純に光速を越えたのではないことは、
ベルの定理とかなんとかで、専門家に任す。ただ、答え合わせをする前に
光速を越えた世界があるらしいの系統。答え合わせには、光速度限界の掟に
従っての。
135zion-ad:02/12/14 06:47
◆老荘思想と日本の心 - 1 見えないものを見る文化
http://tao-club.com/tour/japanese/taoist/
 無いからこそ有る。色が無いモノクロームだからこそ、そこに多彩な色を想像し観る
ことが出来る。無音だからこそ、あらゆる音を感じることが出来る。無いからこそ有る。
無いからこそ豊富になる。豊富さとは無いことから生じる。我々日本人は、
この真の豊富さを追い求めて来た。

 その根底には「老荘思想」がある。「老子」は語る。

 「之を視れども見えず、名づけて夷(い)と曰う。之を聴けども聞こえず、
名づけて希(き)と曰う。之を搏(う)てども得ず、名づけて微(び)と曰う。」
http://tao-club.com/
136zion-ad:02/12/14 06:47
直径10センチメートルの円盤をイメージすることはできる。
直径10キロメートルの円盤をイメージすることもできる。
だが、日常では、遠くから点として眺めるか、近くで線として走るか、
その中間距離で、首を振って、直径の両端を確認するしかない。

経過時間。同時性がこの時、どうなっているか考えてくれ。疑え。
まして、円盤が移動し続けていたなら、それに注目し続けたのはおまえだ。
そして、円盤がイメージとして認識できることに、回転が関係し、
回転といってもなにが回転しているのか。
137zion-ad:02/12/14 06:49
数学の不動点という概念。
アフォーダンスの見かけの構造に対する不変項という概念。
同一性のトリックとは。対象と空間と観測者の。
物理的なら、これに観測手段としてのプランク長の網戸の格子の干渉も加わって、
光速度限界が起きているのかもしれないは、ちょっとまだ俺のずっと先の狙い。
俺の能力越えてるんで、飛ばし。

とにかく、面が見えるとはどういうことか。瞬間には天使化、点しか見えないはずだぜ。
その点は、面積を持たないで見えないとくる。
138zion-ad:02/12/14 06:58
視線を動かす。視線がA4コピー用紙を貫く。点から点へ。
もしこの作業を座標面でやったら、経過時間を要した線が発生する。
数学者でなければ、これは同時でない。A4コピー用紙と観測者位置不明との
距離は変化してるかもしれないぜ。もちろん、数学者の頭の中なら、
距離をイメージ固定してもかまわないけど。三角測量で距離すら求められない世界。

地図でなく、この世界を実測するときに、経過時間が関与するとは。
そこにファインマンの気付かなかった、ファインマンは未完成な物理学を
語るときには、わざとあいまいに語ったという。学生に、イメージに囚われて
欲しくなかったからだろうね。でも、この俺は、東晃史(あきふみ)のイメージを
勝手にパクル。誤読もしているかもしれん。危険なのは断っておくが関係ねい。
とにかく、俺のイメージする東晃史の世界だ。
139zion-ad:02/12/14 06:59
位置情報を取得した段階で、その情報を参謀本部が入手するまでの経過時間の発生。
それが不確定性原理のような事態になるんだ。斥候が光の速度で帰ってきても、
前線の向こうの情報はこの今、どうなっているかわからない。

「士は三日見ざれば刮目して待つべし」

おまえの成長を侮(あなど)っては、こちらがやられるということだよ。

まして、まだここじゃ紹介してないし、超空間の証明はできないから物理で扱える範囲に
限定するけど、しなければ光速度なんて関係ない速度で、敵軍が移動しているんだ。
敵軍というより、階層違いの観測者が。で、これはわけわからな過ぎるので飛ばすが、

存在が、「ある」になるには、対象が存在内、空間に含まれる感じが必要だと思うんだ。
で、存在が、対象情報のイメージと、存在を含む空間情報のイメージがバラバラで、
それを結びつけるのが意識の作用だとしたら。ちょっと、飛ばしすぎ。
ここんとこは、物理スレでやるけど、予告。
140zion-ad:02/12/14 07:05
戦争シミュレーションゲームやったことあるか。テレビゲームのでもいいけど。
六角形のマス目、ヘックスに、戦車だ歩兵だの紙切れをスタック、積む。
ゲームの駒とゲーム盤の大きさの関係は当然、駒<マス目<盤。これが普通。
オセロでもいい。白黒の石ひとつと、ゲーム盤の大きさは、駒<マス目<盤。
囲碁だと駒<盤。マス目大きさどうするかの処理は面倒なので飛ばし。

ところが吉外のゲームのやりかたは、それを空中の離れた2カ所でやる。
駒や石を盤面にくっつけないで、接地させないでゲームをする。
駒を右壁で、盤を左壁に置いて。その2つの壁の後ろから投影でもして。
空中で干渉させてのゲーム。

位置情報は、行列の座標情報を言語化した数字だけ。
それをコンピューター(ママの贈り物、前意識)が処理して結び合わせる。
だから駒と盤の大きさ関係なし。こんな奇妙な世界がなんで必要か。
141zion-ad:02/12/14 07:15
理由は、運動体に注目するとき、人の意識は注目した運動体を運動体が
移動したとされる空間に対して、運動体(面積がある)を点にしてしまうから。

そして、移動したとされる空間には、時の流れが老化が発生しなかったと
思い込むから。もっとついでに言えば、運動体を点とみなしてしまうから、
運動体内部の時の流れもなかった、老化しなかったとみなすから。

運動体が空間というより面積、見かけのイメージを保ったまま移動しているとしたら。

こっちで、ラフな草稿さしてもらったら、度胸つけて物理板に攻勢かけなきゃ。
あっちでやるのは、まじで発想だけ。あまりのアホさ加減に付いてきてくれるかが
不安でしょうがないのよ。ホントにアホのアホって感じが、三体問題の答え。

とにかく、運動体が、質点でなく剛体として動くってのは、
ホントはイメージできないんだぜ。まだ、これはイメージしてもらうの大変だけど。
142zion-ad:02/12/14 07:15
碁石と碁盤なら、片方が右へ、片方が左と透明な感じで交叉させればいい。
だけど、空間だと碁盤と違って枠組みがないんだぜ。なんとなく恣意的じゃないかね。
なにがってのは、まだ先の話だ。無限の枠組みの空間を動かせないのに、
輪郭がないんじゃ動いたかどうかわからない。なのに碁石(運動体)の方が、
動いたとする、思い込みの座標原点の取り方のトリック。

で、運動体が光速近くなったら、長さが消えて点にしか見えないのでなく、
実は、その運動体は、駒の投影された影絵であって、それを首を振って追うんだが、
そこに光速度限界がある。そして、もうついてこれるのがどれだけいるか知らんが、
先に恐怖の不安を吹っ飛ばす為に、ここに書く。動いていないものは見えない。
その見えていないのもの、静態をイメージとして面として捉えるのが、
ラカンの想像界であると。さて、物理板で座標トリックやりましょう。
143考える名無しさん:02/12/26 21:34
君の書いたことを読んでるヤシはいないとおもうが・・・
かわいそうなので、これだけレスをつけておく
144考える名無しさん:03/01/03 23:48
ぽぱああああああああああああ
145考える名無しさん:03/01/04 07:57
>>144
なに?
146名無し:03/01/07 00:15
ポパーの反証可能性を説明してください。
もしくは、その反証可能性がどの程度実用的かを教えて下さい。

現代思想の冒険者達シリーズのポパーを読んで『反証可能性』はかなり使えそうな
思考方法だと思いました。

ポパーの著作は邦訳が無いそうなので残念です。
147zion-ad:03/01/07 01:54
>>146 >ポパーの反証可能性を説明してください。

例えばアインシュタインの相対性理論。ある物理学者に言わせると、
特殊相対性理論は100%正しいそうな。これって宗教か。
1+1=2。これを正しいというのと同じようなものだ。
だが、波。ソリトンとかいう現象でいいのかな。
山と山、谷と谷の重なりは1以上になる。

1+1=2という数学の決まりの世界に反証性はない。
しかし、物理の世界なら物性なり空間特性なり、時間特性がある。
だから、反証可能性がある。

特殊相対性理論が成立するのも、ある特殊な条件下であることを示せば、
反証可能性があるということになると、俺は思う。
だから、100%なんてわめく物理学者は権威主義者で相手にはできない。
こいつは一般相対性理論は99.9%正しいとわめいている。
一体どんな基準でだ。

で、特殊相対性理論は宗教ではない。だから検討の余地がある。
検討するものを、人生の時間を無駄に浪費していると嘲り嗤うのは勝手だが、
非科学的行為であると非難するものは、あやしいと論ずるものと、
どちらが非科学的であるか。
148考える名無しさん:03/01/07 02:02
>>146
ポパーの邦訳はいっぱいありますよ。とりあえず「科学的発見の論理」を読んでみては?

反証可能性という境界設定は「実証」と「反証」の非対称性に注目して導き出されてます。
普遍言明の有限個による実証は論理的に不可能だけど有限個による反証は論理的に可能であると。

てなことが書いてありますから。最初の方に。

ところでラカトシュはほとんど話題に上がってないですね。私はあの「洗練された反証主義」とやらに批判的なんですが・・・
149zion-ad:03/01/07 02:29
本物の宗教なら、神はいかなるものかを問う。
神に同一化したり、世間に同一化したりしない。
宗教は不在の対象に反証不可能を承知で、反証不可能性に挑む。

大学の言説というのがある。自分が学んできたことが否定されると、
自己が否定されたと感じるものたちが発する言葉だ。
学と自己を同一化したものたち。権威主義者。
堕落した宗教と同じ。パパが言ったから。ママが見せたから。
自己の欲望を隠蔽し、なにかを知っているとわめく。リスクを取らずに。
条件が揃えば、あるいは当然だと。だが、

なぜ条件が揃わず、なぜ当然以外の病みが現象として存在したかを考えないものが、
科学者であり医者であるなら潰す。出陣しないで城に残るものがわめくなら処分する。

欲望は自己のものだ。だが、この自己の欲望を通して
なにものかの願いを叶えるかもしれない反証不可能性を希求する。
自分の欲望だけで、娘を欲せないものが。

欲望は真理の部分として存在する。部分としてしか存在できないものを
言葉にするとき、注意しなければ。それは宗教と科学、精神分析と哲学の
四面体を弄ぶ戦争屋の領域。言語流動。
150山崎渉
(^^)