時間の始まりって何時?

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11
いっっちばん最初の時の始まりっていつだろう?

もしビッグバンの時だとしたらカミサマはどう見はからったの?そのタイミング。
つーかそのカミサマのお生まれは何時?

「時間の始まった時」哲学してください。
2終了:02/07/29 07:14


                          サルでも               (  (
                   ,,.r'' ゛~~` ''ッ,,  立てねーぞ            )   )
                 、 ゛  ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, ヾ.   こんなスレ       ,.、   / /
                  ミ   ミ゛,へ.__, ,_ノヽ i.                .| |l   l ,´
                ミ    ミ, ( ・) {・フ 〉 ミ.          _-、i::| |ニニii '
            、,,,,ツi:     ミ,`~´ ヽ~〈  .ミ        /,‐ヽヽ`、||
          、シ``   i:      ,ゞ  'n.inヽ. .ミ          ( .〉〉/
         シ  //      ミ`    l.l ヽ"、         /  ノ
        ミ/ シ           彡 ,=こ二=.{ ミ,,      ,r'´ ,,、'゛
        ミi. /  /       ' ! w、`~^' vwv '、   ミ      〃 .ミ
       .ミ /     i:  /      `^^     \ ."   〃  ミ
      .ミ.:/ / / i:      v    !  ,,   \ 、 〃  ミ
      :i;     .i:   w      !!   ミ!:   ミ \\( ⌒ヽ
      :i;  /   i:      !!       .ミ キ    , ⌒`、_  )  )
      :il     .i:    !    w!    ミ .:i.   (_ (  _,ノ  ) ,
     :il   !  i:           ! ,〃゛  キ    ゞ、 __,  ノ ,
     .:il !   /~~````` " '''' = ‐- 、ミ  _,,,,_ミ,  il `  ー ´
     :il   ´ ―  ̄ - ,,. -‐‐-、、 ヽ. ヾ、  ゞ、 `  〃
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3考える名無しさん:02/07/29 08:03
時間を時間と感じれるのは人間だけかもしれない。
4プルースト:02/07/29 09:02
>>1
一度宇宙論スレに逝ってらっしゃい。
物理学では時間を実在とみなすため、いろいろな
無理をしなければならないことがよくわかるでしょう。
まだ現在の物理学は、時間についてはコペルニクス以前
なんです。
5考える名無しさん:02/07/29 09:08
>>3
バーカ!!!!!
カラスもだよ
6考える名無しさん:02/07/29 11:27
ビック晩以前は虚数時間だったんだと
7考える名無しさん:02/07/29 12:15
何でもかんでも立てりゃいいってもんじゃ
ねーんだよ
よく吟味して哲板にふさわしい
食いつきのいいスレ立てロや
8考える名無しさん:02/07/29 12:54
ついさっき、みのもんたの司会と同時に始まったに決まってるだろ。過
去の経験は超越的存在=神による捏造。
などというドキュソなことを、平気でファンダメンダリストは言い出し
かねない。鬱だ。
9螺旋蒼月@ ◆CkPYJQLQ :02/07/29 12:59
>>1
自分がどう思うかくらい書けよ。
スレ立てるんだったら事故見解くらい提示するべきだろう。

俺的には「時間は元々概念であり、それ自体は存在しない」
時間の始まりは「人間が『時間と言う概念システム』を考え出した時」である。
と思う。
10ふにゃぽん:02/07/29 13:22
>>9
それじゃ、カント以前だよ。
じゃあ、「人間」が自覚」をもつまで、「世界」=「時間」は存在しなかったのかい?

>>1は、「純粋理性批判」の「アンチノミー」=「二律背反」のとろだけでも
読んでみな。

私の見解では、「時間」は「空間」同様、始まりも終わりも限界もない。

あっても、それはあくまで相対的なものだ。

この論証については、メチャクチャ長くなるので、いまはやらない。
11螺旋蒼月@ ◆CkPYJQLQ :02/07/29 13:48
>それじゃ、カント以前だよ。
カント?知らんな。他人の意見は資料且つ考察の祭の参考程度の物だ。俺にとっては。
>じゃあ、「人間」が自覚」をもつまで、「世界」=「時間」は存在しなかったのかい?
俺としては、
世界もあった。変化もしていた。しかし、
「時間」ってのはさっきも言ったとおり、「概念」であり、「人間の尺度」である。
元々存在しない物であると言う認識だ。
正確に言えば『「時間そのもの」は実在しない。』となる。
それを感じる、若しくは定義する、又は見出す存在(人間)は実在するが。
>私の見解では、「時間」は「空間」同様、始まりも終わりも限界もない。
>あっても、それはあくまで相対的なものだ。
同意。
>この論証については、メチャクチャ長くなるので、いまはやらない。
じゃぁ、糸冬。
12考える名無しさん:02/07/29 17:18
>>10
短めでもいいから論証してホスィ。
13考える名無しさん:02/07/29 18:46
でもカントははずせないよな
14あほにんげん:02/07/29 18:51
>>1
朝起きた時。
15考える名無しさん:02/07/29 19:00
>>14
いい答えだと思うよ
人間の主観的な認識を超えて流れる時間なんて想像もつかんよ
16考える名無しさん:02/07/30 15:24
そうだと決めた時
17考える名無しさん:02/07/30 15:55
つうか時間の始まりは存在するのか?
今時間が流行だな。
18考える名無しさん:02/07/30 16:07
そうだね、朝起きた時は正しいね。
19 :02/07/30 16:10
今も時間は存在していない。時計が勝手に動いているだけ。
20考える名無しさん:02/07/30 16:12
時間が始まる・・・始まるということ自体時間の中で起きることなのでこれは文章に矛盾が有る
つまり時間は始まることも出来なければ 終わることも出来ない
21考える名無しさん:02/07/30 16:38
朝になって起きて活動し、夜になったら眠る。体のリズムとからじゃない?
太陽の動きも関係あるかも。時間が始まったのは何時?って聞くのはよろしく
ないかも。六十進法で分割されるより前から、時間の感覚はあっただろうし。
日時計とかはどうだったかな?でも、朝、夜って時間に名前を付けた時
ぐらいからかな?
22考える名無しさん:02/07/30 16:42
23考える名無しさん:02/07/30 16:51
>>10
時間って、カントにとっては、
経験的実在性を持つだけで、超越論的観念性は持たないはずだけど。
あんま知らないのでこれ以上訊かれても答えられんが。
24考える名無しさん:02/07/30 17:01
>>10
カントのアンチノミーはその部分だけ読んでも仕方がない。
『純粋理性批判』で「純粋理性」を「批判」してるんだから。

むしろカントに従うなら「時間に始まりや終わりはあるかないか」という問い自体が成りたたなくなる。
2523:02/07/30 17:04
ごめん。間違い。
経験的実在性と超越論的観念性があって、
超越論的実在性と経験的観念性がない。
なぁ、どっちかに絞らねぇ?
「時間とは?スレ」か「時間の始まりは何時?スレ」か。
27考える名無しさん:02/07/30 19:01
中島義道の時間論ってどんなん? 面白いんかな?
28ふにゃぽん:02/07/30 19:24
>>24
>カントのアンチノミーはその部分だけ読んでも仕方がない。

>むしろカントに従うなら「時間に始まりや終わりはあるかないか」という問い自体が成りたたなくなる。

いや、いいんだよ。>>1にとっては、「時間に始まりはある」でも、「時間は始まりをもたない」
でも、両方とも矛盾なく分析論の立場では、証明できるということを
知るだけでいいんだから。

重要なのは、そこを終点ではなく、起点として、いかに自分の立場(唯物論か観念論か)
で、論理を演繹していくことにあるんだから。


291:02/08/03 11:42
時間論は今後こちらに一本化したい。

>>24
そう。「時間に始まりや終わりがあるか?」という問い自体が成り立たない。
始まりや終わりは実は無かった。

それで宜しいか?
だとしたらその仮定の先は哲学できるか?
30考える名無しさん:02/08/03 12:50
有限一直線、無限一直線、円環、など様々な考え方があると思いますよ。
ニーチェの永劫回帰は、円環。
31考える名無しさん:02/08/03 13:04
時間とは人に造り出された概念にすぎず実体など存在しません
存在するのは物の活動速度です
時計や天体などの物が動く速度を時間といっているだけのこと
32考える名無しさん:02/08/03 13:11
聖書ではアルファはオメガつまり神は初めであり終わりと書かれています
33ε υ ε#:02/08/03 18:07
>>29
無責任だなお前。
34考える名無しさん:02/08/03 20:04
>>29
なら最初ッから類スレ立てんナヴァカ
責任持って両方同時進行すれ
もしくは削除依頼出してこい
35浪子:02/08/03 20:07
時間はね、直線や円環みたいに1次元的に捉えることはできないんだよ。
時間は二次元か三次元的にとらえないと。
そうすれば、「始まり」や「終わり」を考える馬鹿さがわかるでしょ。
36おやおや:02/08/03 20:14
時間とは、変化だと思う。
時間の始まりとは、変化の始まり。
37浪子:02/08/03 20:25
>>36
おもしろーい(w
381:02/08/03 21:45
以下時間スレより優良レスを独断でコピペ。

3 :プルースト :02/07/29 08:51
ある瞬間に何のまえぶれもなく突然よみがえってくる
できごとの無自覚的な想起の中に、
私は過去でも現在でもない、
この瞬間における無時間的時間を見出した。
そのような時間を私は私の著書『失われた時を求めて』において、
純粋状態におけるわずかばかりの時間
un peu de temps a l'etat pure
と名づけたのだよ。
4 :考える名無しさん :02/07/29 08:58
>>3
美しい!
391:02/08/03 21:47
12 :考える名無しさん :02/07/29 23:49

時間と言う言葉は人が発明したものだ。時間の認識も人が成すが故に存在する。

13 :考える名無しさん :02/07/29 23:53

人は太陽と共に行動したので、そのような時間を作った。
分割して認識する、人間の脳の結果生み出された。

14 :St :02/07/29 23:53
>>3
それもろBergsonの影響受けてますが
401:02/08/03 21:49
15 :考える名無しさん :02/07/30 00:05
時間の捉え方は人のリズムの反映だし、個体が認識せずには感じとれない物
である。つまり、人は同じ時間の物差しを規定したが、実際は生きている
のは個々の時間認識の内で生きているといえる。つまり、私は私の時間を
生き、君は君の時間を生きることになるね。流れ方も多種多様。流れと
いう言葉を使ったのも、時間を流れとして感じとる思想が発明された
からかもしれない。

16 :考える名無しさん :02/07/30 00:12
つまりの使いすぎだーはずかしー。
突き詰めていくと、キリがないね。今度は3次元や2次元の存在の
意味の探求になりそうだ。

17 :考える名無しさん :02/07/30 00:14
結局、存在論になるのかも。

18 :考える名無しさん :02/07/30 00:17
時間があるから我々がある。我々があるから時間がある。どっちでしょうか
????
411:02/08/03 21:50
21 :考える名無しさん :02/07/30 02:56
「時間」というものは概念であり
我々に「時間」というものを感じさせるものは「変化」です
「存在」するものは「変化」します

22 :プルースト :02/07/30 03:03
>>14
たしかに私はベルグソンの哲学には触れていた。
しかし影響というより、別の道をたどってよく似た
場所に行き着いたといったほうがよいかもしれない。
421:02/08/03 21:51
23 :考える名無しさん :02/07/30 05:13

箇条書きですまん。
時間とはなにかと問うのは、時間は存在するかという命題に置き換えられる?
時間の方向性に関して、物理学ならエントロピーの矢、歴史の矢、
宇宙の矢という3つの現象を観察する。
一方で私たちはもっと直接的に感じている生理的な矢(食欲、記憶、
忘却など)を挙げる。ならば時間は人の数だけ無数にあるということにもなりうる。
楽しいことは短く感じ、逆にいやなことは長く感じる。
GMTなんてのはただの定規だ。イージーライダの冒頭でなにをしたか。
まあそんなことはどうでもいいことか。
時間に関して疑問がある。
植物状態の人や寝ている人にとっては時間が流れているといえるのか、
つまり時間というものは意識する必要があるものなのか。
物理学的にいえばノーだろうな。だがひとりひとりの時間感覚となると
急に怪しくなってくる。時間そのものと時間感覚というものを
物理学と哲学の問題として分けて考える必要があるのか。
431:02/08/03 21:52
25 :考える名無しさん :02/07/30 07:51
ベルクソン‐大森的(現象学的?)区別を導入するのはいかがでしょうか?
つまり、時計を見ることによって知る客観的で空間化された時間と、
ベルクソン的純粋持続や大森的に言えば原生時間の区別です。
(>>St 現象学で言う過去把持とベルクソン的純粋持続は同じですか?)
この区別は1の問いに対する回答ではないが、問題にせざるを得ないと思われます。
>>18
現象学だと多分過去把持が時間を構成すると考えるんだと思う。
過去把持は主観(といっていいのかなあ?)に属すると考えれば、
時間は我々があるから存在するといえるんじゃないでしょうか。

26 :17に同意しつつ :02/07/30 07:58
ハイデガーの『存在と時間』について軽く(無理か…)論じていただきたい。
読了すらできんかった…
441:02/08/03 21:53
29 :考える名無しさん :02/07/30 09:38
>>23
古典力学の世界だと時間的に可逆で対称性を持つらしいんですが?
ホーキングとかはその伝統を受け継いで、時間は単なる幾何学的パ
ラメータとして扱ってて空間と時間の区別を一切消そうとしてるら
しいです。
物理の世界と私達の経験的なものとは両立しません。
それを一つにまとめようとしている物理学者さんもいるけど

30 :25 :02/07/30 09:54
>>21
「変化」も概念でしょうか?
概念に侵されていない領域を設定することはできますかね。
変化そのものとか…
もちろん、「変化そのもの」だって言葉でしょ、だったら概念だよねえ
概念じゃないっつーんだったら証拠見せんかい!
という展開に至ること必至。
これ、哲学者だったら誰で行けばいいんですかね?ベルクソンのような気も…
>>St
ベルクソンの言う「持続」は概念ですか?
451:02/08/03 21:54
32 :螺旋蒼月@ ◆CkPYJQLQ :02/07/30 13:14
俺としては、
「時間」ってのは「概念」であり、「人間の尺度」である。
元々存在しない物である。
外界の変化から見出した人間の基準である。
正確に言えば『「時間そのもの」は実在しない。』
それを感じる、若しくは定義する、又は見出す存在(人間)は実在するが。

33 :考える名無しさん :02/07/30 14:45
>時間に関して疑問がある。
植物状態の人や寝ている人にとっては時間が流れているといえるのか、
つまり時間というものは意識する必要があるものなのか。
答  植物状態の人→時間を感じているということを他人に伝える
事ができない。彼が夢を見ていると、私たちがわかるなら彼には時間が流れている
であろう。時間を感じ取る意識があるのだから。ノンレム睡眠で全く
感じない時は、その時はない。彼に意識がないから。外部から客観的に、私
達が彼に対して時間を感じているだけ。
461:02/08/03 21:56
35 :25 :02/07/30 16:11
>>32
社会的に共有された規約としての時間とは区別された、いわば一人称的時間とでも呼ぶべきものを立てることも可能だと思うのですが。
それがまさに変化ということではないでしょうか。
>>33
乳幼児においては規約的時間は存在しないと思いますが、彼は何らかの感覚的持続‐変化を経験しているのではないでしょうか。
後者をも時間と呼ぶことは出来ないでしょうか。
性質を異にすることは確かですが、ある種の時間ではないでしょうか。原初時間とでも呼べるような。

36 :慶應OB :02/07/30 16:26
表先生の宿題、いまでもコレなの?

37 :25,35書き足し :02/07/30 16:30
>>33
35はちょっとずれたかもしれないですね。すいません。
植物状態の人と乳幼児は同一視できないですよね。私は乳幼児で語りやすかったもので。
33の内容と関連ありそうだと思ったんですが。伝達可能性は規約的時間とはかかわりあうが、
主観的(?)時間とは関係ないのではないか、ということを言おうと思ったのです。
471:02/08/03 21:57
38 :考える名無しさん :02/07/30 17:11
時間というものを重さというものと比較して考えてみる
重さは「バネ」で図ることが出来る
それは「バネ」が加えられた力の量に対して均一な伸びを示すということが経験的に知られているからである
だから有る物体にかかる重力をバネの伸びを尺度として測ることが出来るのである
時間を量る尺度として「時計」がある
これはある構造の変化の仕方が均一であるということが経験的に知られたために
その構造の変化の量を他の全ての存在の変化した量の尺度として利用できると考えられたのであろう
ただしバネは環境(重力)によって値が変化し 被測定物の特性(質量)を正しく測定できないように
時計も時間(総合的な変化の量?)を正しく測定することはできない
重さも(感覚としての)時間もそれを感じるものがいなければ存在しないが
それを感じさせる根本のもの(質量、絶対的な時間?)はそれを感じるものがいなくても存在する
むしろ感じることは出来ないが存在するのではないか
などと考えてみまスタ
個人としての時間はその個人の思考の速度、密度(?)と外部の変化の量との相対的なものではないでしょうか
またある者に時間を認識できるだけの知性が無い時 彼にとって(感覚としての)時間は無いかもしれないが
感じることが出来なくても彼は常に変化していくので時間が無いわけではない
481:02/08/03 21:58
39 :螺旋蒼月@ ◆CkPYJQLQ :02/07/30 17:24
>>35
社会的に共有された規約としての時間とは区別された、いわば一人称的時間
コレ、すごく興味アリ。具体的に説明希望。
さっき(>>32で)も言った通り俺としての時間観は、
時間は概念である。というのがまず前提。
更に、概念とは形式的な、形骸化された存在ではない。と言う自論から、
「時間そのもの」という「実在」は存在しない。となる。
実在以外の存在であれば、「時間そのもの」たり得る。
例えば「変化」。
人間は物体・物質の「変化」から「時間」という概念を考え出した。
そして、>>38>時間を量る尺度として「時計」がある<の一文の様に、
定期的且つ一定の変化をする物を用いて「単位」を与え、こんにちの「時間概念」が確立した。
まぁ、コレがつまりは「>>35>社会的規約時間」と言う事になるのだろう。
491:02/08/03 21:59
42 :考える名無しさん :02/07/31 01:21
あんま関係ないかも知れないけど、思い付いたこといいます。
例えば、プラットフォームに入ってきつつある電車を見て
「電車が〈来た〉」って過去形で表現する日本人と、
そうは表現しない人種とでは、やはり時間の捉え方って
違うんじゃないかな?

43 :ευε :02/07/31 01:28
それは個人個人の時間観の違いではなく単純な文法構成上の違い。

44 :考える名無しさん :02/07/31 01:29
だからさ、他者性だろ。
501:02/08/03 22:00
45 :35 :02/07/31 04:06
>>39
時間の伸び縮み(楽しい時間は早く過ぎるとか)は比較できる基準の存在を前提とします。
それは具体的に言えば時計であり、抽象的に言えば規約的時間です。
そのような人々に共通の時間を括弧にくくってみたときに何か残るのではないでしょうか。
そこにあるのは計測できる目盛りや基準を持たない「変化」ではないでしょうか。
「変化」はすでに時間と呼べるのではないでしょうか。
変化はわたし(デカルト的コギト?意識?)に属するか、わたしそのものなのではないでしょうか。
すいません、自分でもよくわからなくなってきました。
とりあえず今回のレスはこの辺で勘弁してください。

46 :26 :02/07/31 04:21
存在するということは時間の幅を含むのでは。
時間的幅を持たない存在って…
>>44
他者性ってのは、自分ならざるものってこと?
自分が在るってことは時間的幅があるってことでは。
その場合自分と時間はむしろ一緒のものではないかと思われ。
511:02/08/03 22:02
47 :St :02/07/31 04:59
>>25 >>30
自分は反射的にちゃちゃいれただけで、こういう概念は馴染みがないんですが…
ベルクソンもぜんぜん詳しくはないですが・・(25さんのほうが詳しそう
彼の「持続」ってのは純粋な持続、意識の継起的な全体、
内的に体験してる時の流れの事でしょうか。
概念ですか、という問いの真意がよく掴めませんが、
ベルクソンにとって概念として捉えられてはならないような気もします。
自分の内にある動きだから。
大森については大昔に読んだものであまり語れませんが、
ベルクソンとは決定的に違うんでないでしょうか・・
大森さん、「過去」を空虚なものだっていってませんでしたっけ??
現象学についても詳しいわけではありませんが…
現在が意識のうちで過去保持され、沈殿していくってニュアンスでしたか?
あうあう。答えになってなくて申し訳ありません。
521:02/08/03 22:03
48 :25 :02/07/31 05:34
>>47
いえいえ、ベルクソン、大森荘蔵、現象学、どれもほとんど知りません。
固有名詞を羅列して何か語った気になるのはよくないですよね。申し訳ない。
で、概念についてですが。たとえば、「痛み」という言葉にはそれに対応する感覚、痛みそのものがあると普通信じているわけですが。
(感覚的領域を否定する立場もあるのでしょうか?それらは事後的に捏造されたもので、すべては言語的存在であるとか。)
ベルクソンにとっては当然心的諸事実(といういいかたでよろしいのでしょうか?)は前提であり、言葉はその表現ですよね。
そうすると、彼が持続ということであらわそうとした経験がすなわちこのスレの問いに対する答えになるのでしょうか。

49 :St :02/07/31 13:32
>>48
少なくとも、答えそのものにはならないのではないでしょうか。
ベルクソンが時間について明らかにしたのは、
内的意識における時間がどれだけ空間的思考に犯されてたか、ってあたりでは?
そして、その内的意識の多様性。
その経験を表そうとしたのは事実だと思うのですが、
果たしてそれだけで答えになりうるでしょうか?
ベルクソン時間論批判として、知っているものをふたつ。
バシュラール。ベルクソンの持続の哲学は、瞬間を軽視している。
ベルクソンは瞬間を、運動現象を空間的な関係として捉えた結果の
刹那の現象、持続の末端としてとらえていたようですが、
そこには「今この瞬間」という要素が欠けている。
また、持続を理解した途端、その持続は「瞬間」として捉えられているのではないのか。
中島義道の旦那。内的意識における時間をホンモノとして、
実際の計られる時間をニセモノとする思考は、断罪すべきだ。
心の状態以上の、時間説明に議論が到達していない。
どちらの批判もみるべきものがあると思いますが、どうなんでしょうね。
531:02/08/03 22:04
50 :42 :02/07/31 23:46
>>43
>>例えば、プラットフォームに入ってきつつある電車を見て
>>「電車が〈来た〉」って過去形で表現する日本人と、
>>そうは表現しない人種とでは、やはり時間の捉え方って
>>違うんじゃないかな?

>43 :ευε :02/07/31 01:28
>それは個人個人の時間観の違いではなく単純な文法構成上の違い。
確かにそうかも。でもその文法を自分のものとして使っているのは
結局個人なわけで、その個人の思考がその文法に引きづられたり
左右されたりするということは大いにあるんじゃないですかね。
「電車がホームに入ってきつつある」という現実が、「電車がきた」
という、持続を看過/無視した表現で捉えられているという事実は
わりかし重視されてしかるべき事項な気がするんですけどね。
いわば、持続が瞬間として捉えられているというか・・・。
少なくとも、日本的瞬間は数学的点に比すべき瞬間じゃないんじゃ
ないかなと(別に日本的時間論を説くつもりは一切ないけど)。
そういう違いを考慮に入れなければ、例えばベルクソン的持続の
理解は、日本人には難しいのではないかな、と思えたんで、
言ってみたまでです。
sageときます。
541:02/08/03 22:05
51 :ε υ ε :02/08/01 01:04
んっとね。
>でもその文法を自分のものとして使っているのは
>結局個人なわけで、その個人の思考がその文法に引きづられたり
>左右されたりするということは大いにあるんじゃないですかね。
ない。
貴方、日本人ですね?普段日本語で会話する祭、
日本語の成立過程や、その言語の外国語に対する相対的文法的性質、
果ては表現方法の理由、文化的背景まで意識して話しますか?
しないですよね。
母国語とそれを話す人間の思考とは直接的関係は無いはずです。
コレは言語成立期から遠くなれば成る程そうなります。
「その言語を母国語とする人間程その文法を気にする人間はいない」。
これは(真の)命題です。
なぜなら、文法が「外国語」として「学習する人間」にこそ必要とされるからです。
ちょっと主題がずれたけど、
過去形的に言うのは言わば日本語と言う「言葉」、即ち「意志伝達方法」上の問題であり
本人の思考上の問題ではない。
そして何より、表現上の問題であるので
「本当にその状況を過去のものとして捉えている人間はいない」のです。
表現と認識は必ずしも一致しないと言う事です。
これは「言葉」と言う道具自体の不完全性と、主観と主観の間に価値の違いがある事に帰依すると思います。
>そういう違いを考慮に入れなければ、例えばベルクソン的持続の
>理解は、日本人には難しいのではないかな、と思えたんで、
それは正論かも知れないけど、
大体の人間、特に哲学をしようとする輩であれば、
言語と言うものと表現と言うもの、そして主体の思考の関係くらいは考慮できる問題だと思う。
言葉はその裏を受け取るべき物の筈です。
551:02/08/03 22:06
52 :考える名無しさん :02/08/01 01:18
時間‐因果の対置から、無関係という関係を抽出したものが空間である。

53 :42 :02/08/01 02:05
>>51
それこそ日本語でベルクソン(あるいは日本語圏以外の哲学者)を読もうとする態度こそ
一つの問題なのかも知れませんね・・・、とまずことわっておきます。
さて、
例えば日本的「電車がきた」という表現をフランス語に訳すとした場合、
あなたは"Le train est arrive"(アクサン略)と訳しますか?
(日本語的表現を知らない)フランス人ならきっと不思議に思って
「まだ着いてない」と答えますよね?
そのへんのことをわたしは言ってるんです。
同じ一つの現象を捉えながらも、言語習慣が異なると、違う時制で答えると。
それはやはり時間の把握の仕方が異なるからではないかと。
>「その言語を母国語とする人間程その文法を気にする人間はいない」。
>これは(真の)命題です。
日本語だけで哲学をやっていけるならそれは正しいと思うんですが、
現状を考えると、わたしたちが問題としてるのはえてして「西洋」哲学なので、
どうしても原典にあたりますよね。そうするとどうしても時制の問題に
ぶちあたると思うんです。
"Le train est arrive"という文章にあたったら、それはすでに到着して停まっている
列車を思い浮かべちゃいますよね。
逆にもし、"Le train est en train d'arriver"というフレーズにぶちあたったら、
我々は、日本語として「とおりのいい」「電車がきた」に置き換えながら読みませんか?
「電車がまさに到着せんとしている」とはあまり訳しませんよね。
(もちろんこういう場合、前後の「文脈」も考慮に入れるべきではありそうですが)
そういう操作は、それが些細だろうとも歪曲の余地を生ぜしめる原因になるのではないかと
思うわけですよ。
日本語としてとおりがいいのと、フランス語(外国語)として自然なのとは違う。
それゆえ自身の母国語の表現に関して敏感になるべきである。
だからあえて言うなら
「その言語を母国語とする人間程その文法を気にすべきである」
とわたしは言いたいんですよ。一人の学徒として。
561:02/08/03 22:07
54 :考える名無しさん :02/08/01 02:08
今や我々が時間の感じるのに不可欠な「時計」について。
誰でも当たり前に持っている「腕時計」は、実は第1次世界大戦中に
発明されたんだなんて話を1年くらい前にききました。
つまり、襲撃をかけるのに1秒でも足並みが揃わないと、
戦況、ひいては自分の命に関わるということで時間を「持ち歩く」ように
なったんだそうです。
それまでは、たとえビジネスのための待ち合わせであっても、相手が
半日遅れてもそれは「仕方ない」ことで、そんなに頓着していなかったとのこと。
それを考えると、時間という概念は、やはり人間が自分達の利便のために
「つくった」
ものなのではと思います。
「時間」という言葉をどう捉えるかで、考え方もかなり
変わって来るかもしれないけど。

55 :考える名無しさん :02/08/01 02:29
うるう年、うるう秒の存在を知った時、時間は太陽の存在と共にあるもので、
人工的なものなんだって思ってヘコんだ。
しかし時間の流れは一定であって普遍だよね。太陽暦そろそろ止めたい。
飽きました。
571:02/08/03 22:08
56 :考える名無しさん :02/08/01 02:36
>>55
サイクルって観点で時間を考えると、もとに戻んないといけないから
飽きちゃうかもしれないけど、でも一つのリズム、どこかかつてない場所に
移ってゆくリズムだと考えると、そうヘコまずに済まない?

57 :ε υ ε :02/08/01 03:46
ってか、
俺は>>43で、
言葉の違いの問題で、話す内容の違いではない。
つまり、哲学議論に於いてその内容に関与する問題ではない。
言語学的問題。つまり、板違いだって言いたかったんだが、まあいいか。
>>53
>それはやはり時間の把握の仕方が異なるからではないかと。
正確に言うならば、
「時間の把握の仕方が異なる言語を用いている」から。だな。
言語がどうってのは本来どうでもいい事ですらある。
本人が何を言わんとするのかが問題。そしてそれは受け手の姿勢も大きく関わる。
つまり、「理解しよう」という積極的な姿勢。
>同じ一つの現象を捉えながらも、言語習慣が異なると、違う時制で答える
むしろ、異なる言葉で表されているが、結局は同じ事象の説明である。
どちらがどうのとか言う問題じゃなく、どちらも等価の言葉として捉えるべきだと思う。
>そうするとどうしても時制の問題にぶちあたると思うんです。
>(日本語的表現を知らない)フランス人ならきっと不思議に思って
>「まだ着いてない」と答えますよね?
>そのへんのことをわたしは言ってるんです。
さっきも言ったとおり、それは「理解しよう」という心理的姿勢がない者であればそうなる。
しかし、哲学を学ぼうと言う目的で哲学書を読む者であれば、
その姿勢は十分にある筈であり、また、そうでなければ論外である。
よってそれは「考慮できる事象だが、要らぬ心配」である、と言える。
そもそも、論じる内容。つまり哲学に関係無いし。
>そういう操作は、それが些細だろうとも歪曲の余地を生ぜしめる原因になるのではないかと思うわけですよ。
むしろ、言語と言語を100%確実に、一切の歪曲も食い違いも生じさせずに変換する事は元来より不可能。
「言語A⇔言語B」という図式では絶対に「言語A≠言語B」となる。
しかし、「言語A→シニフィエA≒シニフィエB←言語B」ならば限り無く可能。
そして、この図式変換を行うには、言語を受けてその言語をシニフィエに変換しようという姿勢。
つまり、先刻の「理解しよう」という姿勢に似た必要性がある。
あと、
>「その言語を母国語とする人間程その文法を気にする人間はいない」
>「その言語を母国語とする人間程その文法を気にすべきである」
後者は俺の前者に対抗して書いたんだろうけど、この二者は同一直線上の話じゃないね。
ってのは、前者は「現状」を。後者は「理想」を。其々言い表している。
そして俺はどちらも真の命題だと思っている。
自国アイデンティティとでも言うか、自分の国の文化を理解する事は国際関係上、重要な事だ。
「〜はいない」と「…べきである」ってさ、
話のウェイトが違うでしょ。
>日本語としてとおりがいいのと、フランス語(外国語)として自然なのとは違う。
>それゆえ自身の母国語の表現に関して敏感になるべきである。
コレ、同意。
こんなとこかな。
どの道言語学的問題・異文化間交流上問題だからなぁ。
581:02/08/03 22:09
59 :48 :02/08/01 05:08
>>49
まず、バシュラールを読んでいないことを告白しなければなりません。(ベルクソンだってろくに読んでませんが)
なので、バシュラールの批判を知らないということを前提にして言うのですが、ベルクソンは瞬間を軽視したというよりも自覚的にそれを批判したのではないでしょうか。
空間化の帰結として、時間を線形的に表象します。つまり時間を直線で表し、現在を直線上のある一点とし、右方向を未来とし、左方向を過去とする(その逆でも可)。
そのように考えてはじめて、「瞬間」が思考可能になります。瞬間つまり点時刻がゼノンのパラドックスを生んだと考えます。
「点」はその定義上幅を持ちません。そのために、本来有限であるはずの直線が無限に分割されることになります。(半分の半分の半分…)
しかし、現実の私たちの生においてそのような幅のない点としての「瞬間」がありうるでしょうか。ありうると考えてしまうのは、空間化された時間のなせるわざです。
しかし「パラドックス」を引き起こすことからわかるとおりわれわれの現実に合致しません。
ベルクソンは衣服でたとえたのですが、哲学は、既製服ではなく体にあわせあつらえられたものでなければなりません。
そのため、空間化された時間およびそこから帰結する点時刻としての瞬間は批判されねばならない。
>「今この瞬間」という要素が欠けている
のはだから、端的に現実に「瞬間」が存在しないからではないでしょうか。
あの、言うまでもないことですが、あくまでも私の意見ということです。
本当にベルクソンこんなこと言ってたっけ、と不安になってきてしまいました。
彼をちょっと読んだことは確かですが、当然私の読みということです。あと大森も混ざってる気が…
中島についてですが。確かに。
哲学をやりだしたころは、自明のことがひっくりかえされるようなラディカルな説(バークリとか)を面白いと思うもんだから変な逆説が生まれる。
常識は大体嘘だと考えるようになったりとか。空間化された時間に対し、持続を強調しすぎることはつつしまなければならないかもしれません。
ベルクソンも空間化された時間はそれはそれとして、日常的には有用だといった趣旨のことを書いていた気がする。
しかし、我々は空間化された時間のみを時間だと考えがちで、それがある変造を加えられたものであるということを忘れがちである限り、
あえて、持続を強調する必要があるように思います。
591:02/08/03 22:10
60 :考える名無しさん :02/08/01 20:05
>>59
ベルグソンの持続って、等質的な瞬間という要素に分解できない生きた時間の
ことだから、瞬間を自覚的に批判したという指摘は正しいと思いますよ。

61 :プルースト :02/08/01 20:11
真実の詩的魂の持ち主が繰り返し述べてきたように、
そこにおいて永遠が開示される瞬間こそが、本当の瞬間なのである。
ベルグソン氏は等質化された尺度としての時間を構成する
偽りの瞬間を否定した。氏の言う持続とは、私の解釈では、
たえず真の瞬間が可能的に顕現する時のことである。
62 :プルースト :02/08/01 20:20
私の死後、私の思想を文学とは異なる手法で再構成したある学者は、
時計の時間を数直線にたとえ、私とベルグソン氏の考えた、真の
瞬間において見出される時を、数直線上のすべての点(=瞬間)
に対して、垂直に広がっている次元にたとえた。
この次元における時間は、それ自体のうちに過去を
包括しており、現在の中に過去が生きている(過去は過ぎ去らないのだ)。
私はこの卓抜な比喩を気に入っている。
この学者は、どうやらこの比喩を、ベルグソン氏の「物質と記憶」
に含まれる、俗にコーンと呼ばれている図から考案したようだ。
601:02/08/03 22:11
63 :52 :02/08/02 00:21
因果を所与とするなら、事象の同一性を疑うことで時間を見、
因果の埒外の関係全てを、空間と称する。
時間を所与とするなら、事象間の関係を疑うことで因果を見、
同時刻たり得る全ての事象を包む広がりを、空間と称する。

64 :考える名無しさん :02/08/02 19:11
>>63
しからば因果も時間も所与としなかったなら?

65 :考える名無しさん :02/08/02 22:18
木村敏の「時間と自己」によれば
「私が私であること=時間」らしいです。
よくわからなかったので解説してください。
611:02/08/03 22:16
以上。こちらの方がより本質に迫る題かと考えました。
「時間とは」スレは削除依頼出します。
62消された10:02/08/03 22:31
うわっ、消されてる。重要な事だと思って、書き込んだのに・・・
「時間」=「人間」説

まあいいや、
過去の事、未来の事として確認できる「時間」と、
自分が感じれる「流れ」としての「時間」がある。
問題となる「時間」は後者の自己が感じとれる「時間」のことでしょう

後者の「時間」とはつまり「我々が生きてる時間」のこと
オノレが存在していれる時間
時間の始まりとは「自分が生まれたとき」であり、
時間の終わりとは「自分が死ぬとき」




631:02/08/03 22:42
>>62 失礼。

10 :考える名無しさん :02/07/29 22:07
時間さんは人間です。
呼び捨てになんかしてはいけません。
仲良くすると、ゆとりのあるステキなティーパーティーに招待してくれます。
しかし、怒らせると、ものすごい勢いで追いかけてきて死ぬより恐ろしい目にあわされますよ。
各界の著名人とも交流のある、厳格な紳士です。


64くろしろ ◆0a.9Ms2A :02/08/03 22:43
今日から。
65匿名希望の小人:02/08/03 22:44
私も時間と言うのは「概念」でしかないと思います。実際に時間と言うのは人間の便利な道具の一つでしかないのではないでしょうか?
たとえば、待ち合わせをするとき、学校の授業の区切りをつけるとき、法律などで権利を与える時期を決めるなど利用方法はさまざまです。
「時間」と言う概念があるからこそ、我々は基準を持って生きていける、または概念に支配されているからこそ行動できると言う一面があるのではないでしょうか?
時間が始まったということはいつ?と言うのは問題ではなく、人間がいつ「時間」という概念を持ったのかというとが、人間が直立歩行、道具を使うようになったことのように、人間の頭脳の進化と言えるのではないでしょうか?
また、この概念ができたことによって、我々は時間によって支配されることにもなったのでしょうけど・・・
66おやおや:02/08/03 22:57
>>65
時間の概念を知らなくても、人は「時」が経てば(来れば?)死にます。
変化は必ず起こっています。植物状態と言われる人も。
全ての事物は、時間の概念に支配されているのではなく、変化に支配されている。
67考える名無しさん:02/08/03 23:01
>>59にもあるが、「瞬間即永遠」という考え方が古くからある。
ニーチェも時間の根源を「瞬間」として捉えたが、
この「瞬間」は、過去と未来とを排除しない「瞬間」である。
ニーチェが次のように述べていることを考えると、
ニーチェの場合は目的論的思考法の克服という意味合いが強かったのだと思う。
「現在のことが未来のために、あるいは過去のことが現在のことのために
是認されるのであってはならない」。
「生成の意義はあらゆる瞬間に満たされ、達成され、完了しているに違いない」。

また、道元は、空間と時間とが一点に重なった「瞬間」を「正当恁麼時」とか
「而今の有時」と言ったが、これはハイデガーの考え方にも近いのではないかと思う。
68考える名無しさん:02/08/04 12:18
>もしビッグバンの時だとしたらカミサマはどう見はからったの?そのタイミング。
つーかそのカミサマのお生まれは何時?

「宇宙の果ての向こうには何がある」っていう質問と同じ?

質問自体に意味が無い。
69移動した10:02/08/04 21:08
時間とはなにか?という疑問だと
いろいろ考えさせるものがありますね。
そっちをキボンヌ
70浪子:02/08/04 21:13
あんたたち、自分の想像できる範疇でしか時間概念をとらえられないの?
71螺旋蒼月@ ◆CkPYJQLQ :02/08/04 22:02
>>70
「時間」=「概念」である俺にとって、
時間概念を考慮する範囲は己の想像力範疇内のみで事足りる。
概念であるならばそれの存在可能範囲は想像力の範囲と同義であるからだ。
72おやおや:02/08/05 01:04
「時間」=「変化」と考える俺にとって、
時間を捉えようとする時の範囲は、己の想像を越えている。
「変化」であれば、想像を超えて俺に影響を与える範囲も含めて存在すると言えるからだ。
73螺旋蒼月@ ◆CkPYJQLQ :02/08/05 05:04
>>72
一応言っておくと、俺の言う「概念」ってのは(今件では)
人間が物体の変化の中(?)に見出したものであり、
「時間」=「概念」=「変化」である。

また、先刻の「想像力の範囲」ってのは、
この場合、「知覚可能範囲=存在認識可能範囲」と略同義で使った。
上記通り、「時間」=「変化」でもある訳で、
変化には「変化する物」、即ち何らかの「存在」が必要である。
よって知覚可能範囲(=存在認識可能範囲)内として「想像力の範囲」と表現した。
「想像や認識を超えての存在」は考慮は可能でも存在実証は不可能だと考える。
よって時間概念は確率的なものでしかなくなる。
74考える名無しさん:02/08/05 07:06
>>73
変化ということがわたしに現れるためには、
すでに時間が必要なのではないでしょうか?
時間的幅を持たない変化は考えられないと思います。
変化のなかに時間を見出すというよりも、変化を見出すという事態は時間の中においてでしかありえないのではないでしょうか。
75考える名無しさん:02/08/05 07:20
>>70
「想像」と「とらえる」ことの違いは?
想像し得ないことをとらえるということがあり得るのですか?
「とらえられる」ということをどのような意味で使うかにもよりますが、
わたしは、何かを「とらえられる」時点でそれは想像可能なものに全て含まれると思います。
ですから、
>自分の想像できる範疇でしか時間概念をとらえられない
のは、あまりにも自明のことで、非難するにはあたらないとおもうのですが。
どうですか?
76考える名無しさん:02/08/05 09:32
時間の始まりなんてないんだよ
ビック版のまえは虚数時間
77考える名無しさん:02/08/05 09:50
>>76
虚数時間の意味を教えていただけないでしょうか?
78浪子:02/08/05 12:00
>>75
n次元空間は数学的に捉えることは可能だけど、わたしには想像はできないな。
7975:02/08/05 12:51
>>78
レスありがとうございます。

浪子さんは時間を、想像不可能だが何らかの形で記述や言及が可能なものとして考えているのでしょうか。
もしくは、我々が知覚できる変化や規約的な時計的時間のみでは時間を記述することが出来ないとお考えになるのでしょうか。


80浪子
>>79
理論的には「想像不可能だが何らかの形で記述や言及が可能なもの」ってことになりそうな予感はするけど、
「我々が知覚できる変化や規約的な時計的時間のみでは時間を記述すること」は非常に困難だろーねー。
私たちの経験、知覚なんかから帰納的に時間について記述するのは非常に困難だと思うよ。