>>457 思想史的な観点だと、自然科学、特に近代自然科学は非常識的
(世間でいう悪い意味の「非常識」ではない)。
常識から離れることで、対象をどう見ようと研究者の勝手。
逆にいうと、対象を色んな角度で見たいから、やむなく常識から離れたことになるが。
勝手な分、学問性を保持するためには、あらかじめの客観性の基準が必要となる(実証的な方法)。
実証的な方法は、そもそも技術の開発が元にあったこともあるんだろうけど、
不特定多数の人に了解を得やすいというのもあると思う。
それに対し、法学や政治学は、自然科学ほどの厳密な基準が、
歴史的に最初からは要請されてなかったのでは。
もともとが実践的・人因的なものだから。
自然科学であれ、法学であれ、基準(方法と密接だと思う)の精緻化は歴史的なものなんだろうけど、
おのおのの学問の性質からして、学問内での基準の位置づけが違うのでは。
自然科学は客観性の基準に従って対象の見方を修正することは比較的容易だが、
法学・政治学などではそうもいかない。
自然科学では対象に関して自由さが大きいのは上でも述べた。
いわゆる「理系」学問に対する物質主義という揶揄、
いわゆる「文系」学問に対する人間中心主義という揶揄という2つの揶揄の相違が、
「理系」学問と「文系」学問の対象の自由さの相違と関係あると思う。
ドキュソ氏が文系学問と呼んでいる学問には、
歴史的に当初から対象に従っているものであり、客観性はある
(主観性を排していることは意味しないが、極力そうしようとはしているはず)。
もともと保たれている客観性を明文化するのが難しいだけ。
このことには、上で述べた、法学・政治学などでは、
対象について自由さが比較的小さいのも関わっていると思う。
その客観性の明文化が学問とは離れた、その学問についての哲学になってしまうため、
なおさらその明文化は行われないのでは。
哲学の客観性はより複雑。
客観性の基準をそこまで求めてくるのは、歴史的には理系のスタンスであると思われ。