分析哲学のウザイところ

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454考える名無しさん
>>443で混乱がありますた。
「考えられたもの」=人が参照する対象(主観が向かう客観)としての学問自身の客観性が、
学問の客観性と考えられます。
「考えられたもの」という側面があるなら「何かについて考える」という側面があり、
その「何か」=対象についての客観性が、上記の学問の客観性を規定する。
対象についての客観性とえらくイイカゲンに書きましたが、同内容が>>443にあるので。
学問の客観性と言っても、
「その学問がどれだけ対象に忠実か」という意味と、
「その学問がどれだけ一般に認められるか」という意味があると思うので、
前者が「対象についての客観性」で、後者が「(上記の)学問の客観性」となるのでは?
つまり、その学問において対象に規定されていることが、
一般にその学問が認められることの基準になると思うのです。

例えば、自然科学なら、
対象にどれだけ従っているか、ということで、
対象への忠実さに注意を払いながら理論構築を進めたり、
実際に実験で確かめることを意味するのでしょう。
この「公理系の形をした理論+実証」は、
対象にいかに忠実かを、その学問分野に相応しいように、
方法論として定式化したものであり、
それがすべての学問分野に普遍的かは解りません。
どんな方法論が相応しいかは一概には言えず、
学問の目的・対象により決定されるものでしょう。
455考える名無しさん:02/08/12 18:33
矛盾律について言えば、
これは「対象への忠実」を追究する際に必ず出てくるものです。
その意味では客観性に拘わると言ってもいいのでしょう。
でも、客観性が「対象への忠実」から来るものだとすると、
シェーマである矛盾律は、追究の型のみを示し対象の欠落したものであり、
客観性の根拠としては内容のないものだとされても仕方ないです。

と長々と述べて、万一これが正しいとしても、客観性のトートロジーでしかないです。
具体的に客観性が何かを述べることができれば立派な哲学者だと思いますよ。(;´д⊂)