>>442 「客観」とは「主観の向かう対象」であること。
ただ、主観と客観とは共軛的である。
「客観的」とは「客観に条件づけられている」こと。
つまり単に「主観の向かう対象である客観に条件づけられている」ことだが、
通俗的に「なるべく、できれば完全に、主観的条件を排している」ことというのが付加される。
ドキュソ氏はこの通俗的部分を加えた「客観性」のことを指して、
>客観的であるというのは誰がどう見ても成立するということで
と述べているのだろうが、これは同語反復にすぎず、客観性について論じているとは言えない。
>そもそも「論じる」と言うこと自体が矛盾律を前提として成立しているわけだから
>矛盾律に従っているかどうかが客観性の基準であるでいいのではないか?
論じることは手段である。
論じるという手段の客観性は矛盾律に還元できるかもしれないが、
学問それ自体の客観性は、論じること自体が目的でない以上、
その学問の客観性の本質を矛盾律に還元することはできないと思われる。
それを考えず、ただ矛盾律を客観性として主張することは、
手段にかかずらわって、内容を無視し、議論している当の対象を捨象している。
対象にかかわる条件を捨象するということは、客観性を自ら放棄していると読める。
つまり、哲学で、例えば自由を論じるなら、
その客観性は、理想的には自由=対象=客観によって規定されるものであるべきでしょう。
そこでは、論じることの客観性の根拠(ドキュソ氏が正しいなら矛盾律)は、
論じる以上、重要ではあるが、本質ではない。
>>442 >反証する側の人間がオレの理屈がオレの主観であると言うことを立証できなければ客観なんじゃないのか?
反証というなら、
>>441を読んだら反証済みだった。
>おかしい/おかしくない以前に、基準が何かを言い当てるのが難しいということ。
>つまり、ここで客観性について言い合ってるわけだが、
>その言い合いについては客観性についての客観性、
>要はいわゆるメタ客観性(言い方がダサイけど)が必要となる。
>しかし、そのメタ客観性という足場が見えないため、
>ドキュソ氏の基準がおかしいと誰も指摘できない。
>ドキュソ氏が指摘されないのは、別にそれが誤っていないからだ、というのではなく、
>そのメタ客観性の欠落のためだ、ということでは?
反証できないという内容の文章だが、これ自体でじゅうぶん反証している。