体験していないものは理解できないって

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1考える名無しさん
本当ですか?
だとしたらいくら哲学書読んでもダメですよね?
2考える名無しさん:02/07/21 23:51
>>1
例えば「ニュースを理解する」、という言葉の意味が通ってるなら、
それで「理解できる」ことはありえることになりますよ。
3nanazi:02/07/22 01:35
>1
「理解する」と言う名前を、どの「条件(意味)」に貼り付けるかだと思うよ。
例えば他の人の経験を完全にわかろうなんて無理。「完璧さ」を「理解」の
「条件」として付け加えるなら、その意味で「理解は不可能」であると言える。
でもそれを自分自身のもっている経験と照らし合わせて考えて、それを「理解した」
と言っても間違いではない。

「哲学書を読む意味は無い」と貴方が言えば「哲学書を読む意味はない」し
「哲学書を読む意味がある」と貴方が言えば「哲学書を読む意味はある」
何故って「哲学書を読む意味」と言う名前をどの条件に当てはめるかは、
貴方次第だから


4考える名無しさん:02/07/22 01:40
もっと言えば、体験しても理解できるとは限らない。
「体験してない奴には理解できない」と言ってくる奴には
こう反論しましょう。
5考える名無しさん:02/07/22 01:49
「理解」の定義とは?
6nanazi:02/07/22 01:58
>5
「理解」の定義は人それぞれじゃないの?
または文脈次第だと思う。

質問@
国語辞典に載っているものをそのまま上げたら
それって「定義」になるんだろうか。

なんだか今度は「定義」の「定義」をしなくちゃいけないような気持ちに
なってきたな(笑)。

質問A
間主観的に「定義」の「定義」を定めたとして
それでいいのか?
(でもそれで通用してればとりあえず大丈夫なんだけどさ)
7nanazi:02/07/22 02:05
>4
確かにそうだ!
うおーちょっと目から鱗が落ちたよ。
8考える名無しさん:02/07/22 02:08
>「体験してない奴には理解できない」

だいたいこんなことを認めてたら学問や歴史やその他いろんなもの記録の
価値を全否定することにもなりかねない。
9考える名無しさん:02/07/22 02:13
>>4
「体験してないやつに何が分かる!」
「でも体験したからといって理解できるとは限らないよね」
「うるせー!! 体験してないやつになにが分かる、ゴルァ!!」
とか、なりそう
10考える名無しさん:02/07/22 02:15
まあ、体験して理解できることは、あくまでそれと同じシチュエーション
でその人間が体験して理解できることに限られてるわけで。
もともと理解力のないやつがある体験をしても理解できる範囲は限られる
わけで、理解力に優れたやつが本を読むだけで体験しないで理解できる
内容を大きく下回ることはいくらでもありうる。
またある体験が別の似たようなシチュエーションにも応用できるとも
限らないわけで。
そういう自覚のない愚かで傲慢なやつの発言。
>「体験してない奴には理解できない」
11nanazi:02/07/22 02:16
>8
そりゃそーだね。言葉の意味が完全に決定されてたら、の話。
もしくは言葉の意味が完全にその発話者の決定に基づいたもの、であれば。

>1言葉として流通された時点で、本を書いた哲学者本人ですら
「完全なる理解」から阻害されるんじゃないかな?


12考える名無しさん:02/07/22 02:17
要するに、本を読んだだけで理解できるというやつも
体験したから理解できるというやつも、両方とも傲慢なんだよ!
13考える名無しさん:02/07/22 02:25
賢明な人間なら体験だけから分かることと本だけから分かることの限界
を知っているものだよ。
で、体験だけでも本だけでも駄目だと思うものだよ。
14考える名無しさん:02/07/22 06:45
じゃあ、体験を経験として理解するために本を読むと言う事で、どうか一つ。
15考える名無しさん:02/07/22 08:17
体験したものは理解するまでもない。
16考える名無しさん:02/07/22 09:28
恣意的に理解できたりして
17考える名無しさん:02/07/22 09:38
ここの掲示板ずっとROMしてるか、それとも書き込んだりスレ立ててみたり
するかの違いだろうな。
18考える名無しさん:02/07/22 09:41
体験しなければ分からない哲学と
体験しなくても分かる哲学があるということだ。
19考える名無しさん:02/07/22 10:14
哲学(論理学+数学を手段として自然を対象とする思考だと思ってくれ)の、
素養がないと分からない経験があるということだろう。
ルドルフ シュタイナー 「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」ちくま学芸文庫
ゲーテ「色彩論」ちくま学芸文庫

上は、司書(アカデミズムの本流に乗るほどではない)が書いたドイツの時代精神を伝える本。
下は、ニュートンによるプリズムの実験に対して、既存の専門知識が陳腐化する様を当事者の立場で伝える本。
20考える名無しさん:02/07/22 10:27
経験は、体験を越えて汎化せねば役に立たない。
21考える名無しさん:02/07/22 10:40
汎化されない経験は当人の役にだけ立つと言ってみる
22考える名無しさん:02/07/22 15:20
>>15
これでいいじゃん。
23猫電波:02/07/23 23:02
>体験していないものは理解できないって
見ようによっては正しい。
赤い輪と言われて理解出来るのは、赤と輪を体験しているからです。

24:02/07/27 00:02
>>2-23
なんとなくわかったような感じになりました
25考える名無しさん:02/08/01 01:03
本能がある。
体験しなくても
天敵を見れば
小動物は
逃げる。
26t.u:02/08/24 15:45
君たち恋をしなさい恋を
27考える名無しさん:02/08/24 15:48
君たち鯉を食べなさい鯉を
28考える名無しさん:02/08/24 15:51

>君たち鯉を食べなさい鯉を

うわ、むっちゃつまらん
29考える名無しさん:02/08/24 15:55
哲学を何だと思っているのか知らないけど、
経験から本質とは何かと考えていくのがいわゆる哲学ですから、
経験なしに理屈だけで考えるのが哲学ではありません。
というわけで1は果たして哲学版にふさわしい書き込みであったか、疑問である。
30考える名無しさん:02/08/24 16:16
哲学とは何か?だけでも議論百出と思われ。
その意味では1の疑問もそれほど相応しく無いものとは思えないよ。
アナルがどうした、女がどうした、というイタイ1よりはよほど良い。
31考える名無しさん:02/08/24 16:26
「体験しても理解できない」事は体験しないと理解できない。
3232:02/08/24 18:31
ぼくは読書を体験した。
3333:02/08/24 18:33
ぼくは読書と著書と撮影と建築作業といじめを同時に体験した。

34ふにゃぽん:02/08/24 18:33
>>1は、「純粋理性批判」読みなよ。
35考える名無しさん:02/08/24 18:47
想像力の問題だろう。
例えば「死」は理解できるか?
36考える名無しさん:02/08/24 18:49
>>35
なんとなくならできる。で???
37t.u:02/08/24 19:26
ぼくは宇宙人に誘拐されてUFOの中で
身体に異物を埋め込まれた。
38考える名無しさん:02/08/24 19:34
僕は宇宙人に誘拐されて体に異物を埋め込まれた奴に誘導されて心に異物を埋め込まれた
39考える名無しさん:02/08/24 19:35
>>4
「体験していないものは理解できない」と等値なのは,
「理解できるときは体験している」であって,
「体験すれば理解できる」ではない。よってこの反論は
不適切。
40考える名無しさん:02/08/24 19:38
100聞は一見にしかずってことか。
その通りだね
41t.u:02/08/24 19:40
ぼく、本当にUFO見たんだ。
42考える名無しさん:02/08/24 20:42
答えを求められてると思ったから、たぶんそうだ、、、気が合いそうだし一緒に頑張ろうと思った。もしその前からの事なら、全くの事故。まだ答えはでてないけど。
43考える名無しさん:02/08/24 23:13
>>15
これ、もらおう。
44考える名無しさん:02/08/26 19:48
>>15
体験したからといって理解できるとは限らない
45考える名無しさん:02/08/26 20:17
つーか、何故に、「そうですね」と言えないかね。
体験しなくても分かる事はあるとか言ってる厨房って、端から見てる
と、かなり痛い感じがする。
何故に謙るという気持が起こらないのか疑問。
多分、背伸びしたい年頃だからかな。
46キチガイ:02/08/26 20:22
そうですね。所でここに、キチガイは何人いますか
47考える名無しさん:02/08/26 20:23
>体験したからといって理解できるとは限らない
同意。

48考える名無しさん:02/08/26 20:25
体験した事でしか理解できない事ってのはあるだろ。
それを認めようとしないのは、厨房の証みたいなもんだな。
49反作用体:02/08/26 20:28
そうだ、体験しないと分かるはずがない
50考える名無しさん:02/08/26 20:30
>>49
わかるはずは無いとまでは言わないけど、体験しないと分からない事も
あるよと・・・
51考える名無しさん:02/08/26 21:25
体験しないとわかるはずがないと言い切れる気持ちがわかるはずがない
52考える名無しさん:02/08/26 22:20
体験しないとわかるはずがないと言い切れる気持ちがわかるはずがない

53考える名無しさん:02/08/26 22:21
ことはない。
54考える名無しさん:02/08/26 22:28
ことはない
55考える名無しさん:02/08/27 01:20
「理解したい」という自分の衝動を相対化すれば、体験にこだわることはなくなる。
56考える名無しさん:02/08/27 05:39
心の病にかかってる友人が言うことです。

「経験(体験)して無い奴には私の気持ちなどわからない。
 だからカウンセリングなど無駄。
 同じ経験をした人、似た境遇の人で無いと心を開けない。」

どうすりゃいいですかね?
自分も心の病(自分に自信が無いので人が怖い等)ではありますが、
この友人の考え方とは違います。
57考える名無しさん:02/08/27 06:07
放置>>56

その人は他人よりもスカートが長いようだ、
普通は問題ない所でもめくると怒るだろう

「早く心を開ける相手がみつかるといいね」

と一言かけてやれば良し

5856:02/08/27 06:09
現にその人は友達がいません。
特に欲しくも無いそうです・・・(^^;
59考える名無しさん:02/08/27 07:27
>>56
セリフから察するに
病人さんにとって>>56さんは
同じ経験をした人、似た境遇の人として
心をひらける存在だと思われ
つまり友人
>>56さんも病人さんを友人といっていることだし
相思相愛言うことなし
なんだ、ノロケカ??
6056:02/08/27 18:48
のろけってまさかw
好きな人じゃないですよ
61考える名無しさん:02/08/27 19:12
心が病んでいる奴ばかりだ
62考える名無しさん:02/08/27 19:21
>>56
結局、その理論を突き詰めると、自分は他人とは違うからわかりあえるはずがない
という事になる。
多分同じような人を連れていったところで、細かい点を挙げて「違う」となる。

その人はそうやってアイデンテティを保ってるんだと思われ。
「自分は他人とは違う」っつーかなんつーか。
自分で気付いてるのかどうかは知らんけど、教えてあげれば?
多少の違いはあれ、みんなそう思ってるって事もね。
63考える名無しさん:02/08/27 19:23
それはそうだ
6456:02/08/28 01:46
その人はわかってると思いますよ
65考える名無しさん:02/08/28 01:52
できるだけ自分も苦労して、病気もして、親も無くし、子も無くし、
家も火事で失い、破産して、
・・・そうすれば、人の悩みを理解しやすくはなるでしょうね。
66考える名無しさん:02/08/28 12:06
本当にわかってるのかどうかはあやしいものだが、
全てわかってるのだとしたら、ただの甘えだよ。
甘えられる環境がまわりにあるんだろうね。56さんも含めて。
6756:02/08/28 16:39
甘えは言われなくとも十二分に承知ですw
というか、人に言われることって自分が考えてきたことばかりで
なにも発見が無かったりする。
ていうと、なんと言う言葉が返ってくるか想像出来てしまうけどね。
68考える名無しさん:02/08/28 18:42
なんと言う言葉
69考える名無しさん:02/08/28 19:30
>>56
何だろう?自分の優越性を証明したいのでしょうか?
話す事すべて君の考えた事だっていうんなら大したものなのかも知れないけど、
よくよく考えるとそんなの当たり前かも。切り口なんてそんなにある訳無いし。

発見が無いから……どうしたいんですか?
7070:02/08/28 20:35
中学生でも高校生でもいいですよ。どんどんカキコ
してください。
71考える名無しさん:02/08/29 00:57
>>69
優越感?そんなもん無いですよ。
思ったこと書いただけでっす。
別にどうもしたくない。おやうみ。
72考える名無しさん:02/08/29 01:00
じゃあ、体験したら理解できるの?
73考える名無しさん:02/08/29 01:10
不幸な目に合いすぎると価値判断が狂う。
苦労を体験することで理解できることが増えるというのは嘘。
74考える名無しさん:02/08/29 01:19
体験なんてそもそも本質的には同じものなど存在しない。だからこそ、
他人の体験を理解し合おうとすることが重要だと思う。

75考える名無しさん:02/08/29 01:21
お前の体験は理解したくない
76考える名無しさん:02/08/29 01:24

お前とは体験したい
77考える名無しさん:02/08/29 01:35
神は人間ひとりひとりの体験を同時に体験してるんだってね。
ひとりひとりが、神のひとしずく。
78考える名無しさん:02/08/29 02:27
>74
日本語変
79考える名無しさん:02/08/29 02:34
正常な価値判断などない
すべて一人一人の主観
80考える名無しさん:02/08/29 02:35
「体験」って厨だとそのまま「性体験」と等置される
もしくはリーマンの営業とか。
哲学板で実経験を過剰にありがたがるヤシは、
実際にはこの二タイプが多い。
81考える名無しさん:02/08/29 02:57
>>73
自己レス。価値判断が狂うというのは確かに語弊がある。
諸々の主観の解釈、体験の意味が個々人で違うというのはごもっとも。

言いたいのは、常識というか背景的知識に狂いが生じるということ。
推論過程や意味付けが不自由になっていく。
端的にはトラウマのことを考えれば良いかと。

これ自体伝えるのがなかなか。。。

>>80
禿do
82考える名無しさん:02/08/29 10:46
それは「狂い」じゃないんじゃないか?
背景的知識が同じ人間なんていないし、違って当たり前かと。
仮に同じだったとしても導き出す答えが同じであるわけがない。
推論過程や意味付けがその人の経験知識から出てくるのは当然の事で、
自身の身に起こった幸運だろうと不幸だろうと、それを糧に
できればいいのではないだろうか。

不幸が多いと歪みやすくはなるとは思う。
歪んだ状態だと「狂い」と表現してもいいかもしれない。
83考える名無しさん:02/08/29 11:07
難しくてよくわからん
84考える名無しさん:02/08/29 16:25
体験を軽んじてるワケじゃなくて、体験してないから分からないだろ
うと言うヤシが嫌なんだよね。
体験自体は、みんなマンセーでしょ?
85考える名無しさん:02/08/29 16:37
「体験」という言い方に問題があるんじゃないか?
86考える名無しさん:02/08/29 16:46
 不幸なのは不幸な記憶の方が頭に残りやすいから。同様に
幸せな記憶も頭に残るものなんだが、それが理解できないから
みんな自殺しちゃうだろう。
87考える名無しさん:02/08/29 16:56
>>86
単に貪欲だから幸福だと認めたくないだけでは
88考える名無しさん:02/08/29 17:03
 体験してないと理解できないのは、想像力のほうに問題がある
のだらう。
89考える名無しさん:02/08/29 17:28
想像力?ああ、思いこみのことね
90考える名無しさん:02/08/29 17:32
確かに体験しないと解らない事はたくさんある。
でも想像力でそれに近づく事はできると思うな。
近づこうと思う性格というか性質も必要だが。

自殺すんのは事故中の表れなのでは?
91考える名無しさん:02/08/29 18:04
 そうだな〜。このあいだ殺人事件起こした事故中は
「自分にとって人を殺す体験が必要だと思った」
 とかのたまってたからな〜。事故中はヤバイよ。
92考える名無しさん:02/08/29 18:13
童貞が集まって慰め合うスレというのは此処ですか?
93考える名無しさん:02/08/29 18:23
94考える名無しさん:02/08/29 18:39
>>87
それあるとおもふ
95考える名無しさん:02/08/29 18:47
どんな境遇に居ても不満に思う人間はいるよ。
逆に幸福を見つけられる人間もね。
96考える名無しさん:02/08/29 19:00
>>95
それは何の違いだろうね
やはり生まれ持ったものが違うのか・・・?
97考える名無しさん:02/08/29 19:17
どうなんだろう…?
生まれ持ったものかもしれないし、成長の仕方や教育かもしれない。
でも幼少からの教育で少しはそういう性格に育てられるような気がする。
98考える名無しさん:02/08/29 19:19
じゃあ、本人に罪は無いということ?
そうなると本人はつけあがるというか、
余計上手くいかなくなると思うよね。
99考える名無しさん:02/08/29 19:19
まさに自分のことだけど・・・汗
100考える名無しさん:02/08/29 19:32
>>96
利己心の強さと関係すると思う。
捨て身になれるような人は、どんな環境でも
幸福を見つけやすいような気がする。
101考える名無しさん:02/08/29 19:34
>>96
利己心の強さと関係すると思います。。
捨て身になれるような人は、どんな環境でも
幸福を見つけやすいような気がする。
102考える名無しさん:02/08/29 19:35
ごめん。
103考える名無しさん:02/08/29 20:21
>98
そう育った事への罪って事?そりゃそうした教育者も
ちょっとは罪あるだろうけど、つけあがるのは本人の罪かと。

>100
捨て身っつーと…自殺?違うか。
104考える名無しさん:02/08/29 20:35
おお、
「つけあがるのは本人の罪」
でたか、名言!?
105考える名無しさん:02/08/30 09:45
>>100
捨て身はちょっと違う気がしる。
106考える名無しさん:02/08/31 00:06
スレと関連性が薄いかもしれないけど、人間は頑張る目標が無くなった
時に、初めて人としての強さが試される気がする。
107考える名無しさん:02/08/31 00:09
>>106
『夜と霧』なのかな ?
108考える名無しさん:02/08/31 00:36
>>107
それ、なんですか?
109考える名無しさん:02/08/31 00:38
>>108
早く 寝なさい
110考える名無しさん:02/08/31 00:38
イギリス経験論者ですか?
だったら、ドイツ観念論者になりなさい。

間違っても、ニーチェリアンにはなるなよ。
111考える名無しさん:02/08/31 00:45
>>107
読んでないヒト=「読む経験を経てないヒト」には
何を言ってるか判らないので、少し解説が必要。
一口で言えば「ナチ強制収容所の体験談」(みすず書房刊)。
オレが読んだ特は肉体的反応=吐き気がした。
むろんフランクルの「思想」にではなく、「事実の描写」で。
112考える名無しさん:02/08/31 00:53
>>107
付け加えると、「希望」を持ち続けた収容者は、飲まず食わずでも
何とか生き延びた(確立が高かった)が、
「今度のクリスマスまでに連合軍が来る」と信じた音楽家が、12月26日に
死んでしまったりするのを見て、「希望」は肉体を持たせる役割を持つと確信した
フランクル(著者)の「実存主義」の著でもある。
「自殺するのは簡単である、絶望しさえすればいい」ということ。
113考える名無しさん:02/08/31 00:54
>>111
それならば、問う
囚人とされたひとたちが、苦しい収容所生活のなかで
耐えてきたのは、何であったか。
また、そのことがナチスの偽りとわかったときの
ひとびとの反応はどうであったか。

ほんとうの人間の強さは、
希望を失ったときに、発揮されるのである。

愚か者や、無教養ものは、そこで壊滅してしまう。
114考える名無しさん:02/08/31 00:56
>>113 です。
一歩 出遅れました。はずか思惟。
115考える名無しさん:02/08/31 00:57
誰かに体験談を聞いたとき、なにか違うと思ったとしても「なるほど」と
言ってみよう。
騙されたと思って言ってみよう、そこから話が弾むはず。
経験を不定ばかりしていては、話が膨らまないというものです。
まぁ、子供には無理かもしれんけどね。
116考える名無しさん:02/08/31 00:58
>>113
「意外と教養人の方が絶望しやすい」ということから、
西欧的「教養」の価値を問い直している著だとも思う。
「ニーチェ」の下流にある実存主義。
117考える名無しさん:02/08/31 01:40
>>115
私は聞き上手です。
「なるほど〜」「そうなんだ〜」「それってどういうこと〜?」等、
相槌を打って、相手を良い気分にさせ話を弾ませることが得意です。

でも心の中では、
「おまえのことなんか興味ないんだよ」
「くだらねえ話」
などと思ってます。
118横レス:02/08/31 01:43
>>117
なるほど〜。
(基本すぎか)


いや、あの、真意なんて存在しないんだよ。
119「哲学的」者:02/08/31 01:44
>>117
単なる処世(書生)術と何処が違うんですか?
120117:02/08/31 03:07
処世(書生)術って?
121考える名無しさん:02/09/02 07:56
高下駄履いて戦うことです。
122考える名無しさん:02/09/02 07:58
死後の世界はあるのか?
体験したら戻って来れないので
確認しようがない。
123考える名無しさん:02/09/12 03:07
>>117
聞き上手って言ってるけど、相手が本当に聞いてくれてるかは、分かる人には
分かるんではないでしょうか?その、書いてあるものを見るかぎりは。随分自信あるみたいですけど。
実際あなたが、もし誰かに相談したときそう言う聞き方されたらそれにきずいた時、その人に話し続ける
気になりますか?それとも、あなたの言う聞き上手とは、ただ話したがりの人の話を聞くと言う簡単なもの
ですか?
124考える名無しさん:02/09/12 03:20
なぜ今上げる?
しかも二週間前のカキコにレス。
これは何のサインなのか。その不可解な改行は。
sage。
125考える名無しさん:02/09/12 11:02
なんだ体育会系というやつか。
126117:02/09/12 11:35
別に気付かれても構わんし。
大切な人の話ならまじにきくけどね。(ぷ
127o:02/09/12 18:01
でも、まあ、体験していないやつにいろいろ言われたくないって
いう気持ちはわかるんだけどね。
とくに、自分のやった仕事に対する悪口に聞こえたりとか
反省中の劣等感を刺激されたときとか ね。
もちろん、本当は、体験 と 理解された内容 は
別々のもので、こればかりは人それぞれであり、ある程度の共通項は見出されるから
そのあたりで理解の共有は落ちをつけなくてはならない。
究極的な一致は求められない。しかし、あまりにも理解のないやつがいるときには
その限りでなく、おまえみたいなやつには何も言われたくないといいたくなるときもある。
しかし、それを言っちゃあおしまいなのであえて黙っている。はいはい、とききながす。
128考える名無しさん:02/09/13 01:52
それって、すごく共感できる!!!
129考える名無しさん:02/09/15 00:26
>>127
一度、その、お前に何も言われたくないってやつに「お前には、経験ないから分からないよ。」
みたいな事を言ったことがある。そしたら、できるよ!と言われた。
話しているうちに、自分の気持ちを理解してくれず、きれいごとばっかり言われて、だんだん腹
立ってきました。その人は、そのあと経験なくたって私、そういう人たくさん見てきたからお前
の気持ち分かるよ。と、言われ私は、ますます腹が立ちましたけど、そうなんだ・・・。としか
言えませんでした。ラチあかねえと思ったから。でも、最後に100%は、無理だと思うよ。
と言いました。相手は、考え込んでいました。
ちなみに、この話しはイジメにあったことの話しです。そして、軽い人間不信だという。
130考える名無しさん:02/09/15 03:22
>1
時と場合によることくらい分かれ。何するにもキリが無いぞ。哲学書を読むことも体験だ。
131o:02/09/15 06:51
>>129
どう返事したらいいかわかりませんが、難しい問題かと想います。
「おまえのこと、わかるよ」というせりふはくせものです。
これがないと話ができませんし、これがあるとはなしができません。両方もっともです。
これがないと、此方は追い詰められていて何もできませんし、あればあるでやはり追い詰められています。
だから、>>130のおっしゃるように、このせりふはことと次第によって生きるも死ぬもするのではないかと
考えています。軽軽しくは用いることができないし、といって、すぐさま用いなければだめなときもあるのですから。
132o:02/09/15 07:00
被害体験を例に取ります。気分屋の夫に不当に殴られつづけている毎日とします。
もう、有無を言わさず殴られるし、やめてといえば「誰のおかげで飯を食っていけると想ってるのか?」
といわれ、「そんなこと、関係ないでしょ」といえば「口答えするから殴って教えるてんだ」
といいます。泣けば、泣くな!とどなられます。こういった日々がもう数ヶ月は続いており、
恐怖でこちらからは口も聞けません。足はすくみ、行き苦しくて、ふいに息切れや動悸もすごくなるときもあります。
しかし、子供がまだ小さく、教育費もたいへんになる、実家か原逃げるようにして結婚した手前、
離婚はできません考えられません。
133o:02/09/15 07:16
被害について、慣習や判例上、弁護士により訴訟で利用可能な言葉をもちいて
記述することができます。また、文学作品や週刊誌の記事になりうる記述も可能です。

しかし、はたして、そこに 体験 はあるといいうるでしょうか?
もしいいうる場合、どんな条件で可能なのでしょうか?いいかえましょう。
そのような記述内容に、体験 は 還元可能 でしょうか?
つまり、そのような記述内容に、記述内容の与える印象、に 体験 は還元可能で
しょうか?こう問うて見ると、どうだろう?私が>>127で体験と 体験に関する理解内容
とを区別したのは、この問いに関係があります。私なりに言えば、体験 とは区別セル蝶番であり、
それを境にある判断がわかれるところです。
被害体験について、私は父親に殴られたとき、とてもおびえて、殴り返せなかった、どころか、
おびえて、足もすくみ、声を出せなかった。それはとてもおそろしかった。と、友達に話したところ、
「なさけないな〜おれならよ〜・・・」と余裕の声。こんな折に、体験というものの、ある個別性、
ある単独性、共有を拒むもの、がありませんか?つまり、記述上は同一(「殴打された」)でも、
結果が異なる(一方は殴られただけ、他方は反撃をした)ときに、体験が違う、体験内容がちがう、
といいたくなります。どういうことか?体験内容がちがうからこそ、おまえは反撃可能だったが、
私は反撃不可能だったかもしれない、という考えをするのです。逆に、おまえが私のした体験をしたなら
おまえでも反撃は不可能だったかも知れないし、それゆえ、私の話をも理解可能だろう、と考えるのです。
これはたんに、屈辱的な自己へのナルシシスムなのかもしれません。というのは、
もし私が友達の立場なら、やはり友達のように武勇伝を語るだけで済ますかもしれないからです。
134o:02/09/15 07:30
体験時にうけた衝撃のため、通常なら反撃する私も、そのときは動けなかった、
というわけですが、こうした衝撃はおまえにはなかった(というのはおまえは反撃できたから)以上、
おまえの体験と私のそれとはおのずと別のものなのだ、というわけです。
これはナルシシスムからくる誤謬推理ではないでしょうか?私は、誤謬推理ではないかと疑っています。

しかし、私はなおも、体験は 個別的、個人的で、単独的、あるいは共有不可能で、記述に対し還元不可能だ
と考えます。体験される対象が社会的現象である以上、
ある程度は、その記述内容から理解可能でしょう、相互に(ナンシーの言う意味での「分有」)。
しかし、個人はそれでも秘密を抱えざるを得ない、
自分でもその内容について当面はうまく言語化できず、よって知らない秘密を持たざるを得ないだろうと想います。
私が以上の弁明からどうしても保持したいと考えるのは、体験する個人の分割、体験ごとの分割ですね。
この意味での分割こそ、安易な理解、安易な共有を撥ね付けるものである限りで。


135考える名無しさん:02/09/15 18:55
 
136いぬたけのこ
何事も想像力と応用の問題かと。