この偉大なるエンターテイメント作品ヲ
今こそ哲学しようじゃないか。
2 :
考える名無しさん:02/07/01 12:27
ひろゆき
3 :
日本仏教哲学100年の集大成:02/07/01 12:32
偉大なるかな人生リセット願望。コール・トータルリセット!
とりあえず私が理解できないのは、
PT2のラストで、ドクとマーティが2人づついる所です。
1955年のドクと、1985年のドクと、
1985年のマーティが2人。
この場面で、仮に1985年に時計台落雷と共に帰ろうとするマーティが
失敗して帰れなかった場合、もう1人のスポーツ年鑑をビフから奪いにやってきた
マーティは一体どうなってしまうのでしょうか?
ドクによると、時のパラドックスが起こって、宇宙が破裂すると言ってますが。
自分と出遭ったりしてパラドックスが起こると
宇宙が崩壊する、っていうのは科学的にはどうなのかな?
6 :
日本仏教哲学100年の集大成:02/07/01 15:33
科学的には、心理学の一部門で、鏡像段階を乗り越えられないと
自我が形成されないので宇宙=宇宙論=世界=世界観が形成されない
ということを述べているといえるでしょう。自我が形成されるかわりに
形成さえる物語がある・・・と。
7 :
考える名無しさん:02/07/01 15:51
タイトラよめ
8 :
日本仏教哲学100年の集大成:02/07/01 15:55
親の人生でいいからリセットさせろ!!!!!!!!!!!!!
9 :
考える名無しさん:02/07/01 16:01
は〜い♪リセット開始!スイッチ怨!
ど、どうしよう、パパが自分のやってる会社を継げって・・・・。ドウシヨウカナ
11 :
考える名無しさん:02/07/01 16:07
即売り逃げすべし
>>11 地主さんが「俺が保証人になってやるからもうすこし頑張れ」って!
んで、宇宙は崩壊するんですか?
それと、このスレを進めていくにあたって、
タイムマシンはエメットブラウン博士によって作られたと仮定してください。
14 :
考える名無しさん:02/07/01 23:00
俺この映画好きだったのよね
え・・と
とりあえず映画の中で起きていたパラドクスを一つ
バック2でドクは
タイムマシーンで未来に行っても、それはビフが年鑑を渡した未来に行くことになるから改善できないと言う
だけど
その前の老ビフは過去に戻って年鑑を渡した後に
年鑑を渡していない未来に戻ってきている
これおかしいよね
まー現実に年鑑を渡した未来に戻ってたら
マーティは返れなかった訳でそれだとストーリーが進まないから仕方がないけど
>>14 あー、これは気付きませんでした。
そうですよね。
2015年の老ビフが1955年の自分に年鑑を渡して2015年に帰ってきた時点で、
時間の流れとしては、ドク&マーティにとって荒廃したヒルバレーが
現実である必要があるわけですね。
あくまでもドク&マーティ視点で作られているって事なんでしょうけどね。
思うに、この世界は偶然によって成り立っている訳ですよね。
必然とか、絶対というものも、些細な偶然性の積み重ねによって
成り立っていると考えられる訳ですね。
そういった事から考えるに、PT3で1885年に行った時点で、
1955年に行った事や、2015年に行った事も全て無意味なような気がするのですが。
17 :
考える名無しさん:02/07/02 05:43
そもそも過去になんぞ逝けるわけ無いだろうがヴォケ
タイムマシンはエメットブラウン博士によって作られたと仮定してください。
そもそも仮にタイムマシンでドクやマーティのような存在が
過去に行けたとしても、我々はそのいじくられた過去を
「いじくられた過去」ではなく、「現実」としてしか体験できないわけです。
20 :
考える名無しさん:02/07/02 21:19
>>19 あまり真剣に悩まないほうが良いかと思われます。
22 :
考える名無しさん:02/07/02 21:25
例えば一年前に行ったとする。
すると当然一年前の自分もいるわけで、この映画だとそれに触れると
宇宙が崩壊するんだっけ?
でも物理の世界で言うと原子の量は増減しないワケで、
過去に行くとその機械+自分という原子が増えるんだけどどうなるのかな。
ごめん、わけわからんわ。
>>22さんの言ってるのは多分、質量保存の法則だと思うのですが、
そういった物理学の見地から観ると、この物語りも成立しないって事か。
>>4の疑問と同様に、
PT1で1955年のロレーン、つまり母とマーティが恋愛をした場合、
一体世界はどうなってしまうのでしょうか?
写真では、兄から順に存在が消えてましたが、
マーティも消滅してしまうという事なのでしょうか?
26 :
考える名無しさん:02/07/05 01:20
バタフライ効果から考えて、世界に余計な物が入ったとたん、
マクロ的な時間への見地から、必ず、世界は変わる。
タイムマシーンができるという「世界線」は
設定上、過去にタイムマシンが出現していない世界線上だから、
世界はカオスによって予見不可能になり、
上記の時間との関係からも「世界」は変わる。これ確実。
ただ、変わるのはおそらく確実だが、いつ変わるかは不明。
ひとつ疑問なのは「世界線」の定義。
タイムマシーンが過去にあらわれてこそ、
タイムマシーン開発の未来が生まれるのであればややこしーと思う。
あと、実際に自分に合っても、発狂するぐらい(笑)で
具体的、物質的に宇宙は崩壊しません。
世界線は分岐しますが、そんなの日常茶飯事。
もうひとつ付け足すと、タイムマシーンは現実味がないので
時間より場所的な見地からいくと思考実験しやすいかも。
「俺は今、道を左に行くか、右に行くか」って感じでね。
まぁ、結局、この思考もあてにならないけど。
27 :
考える名無しさん:02/07/05 04:13
タイムマシンで過去に行ったと考えるのは間違い
正しくは、過去によく似た世界に行った
28 :
考える名無しさん:02/07/05 12:56
そもそも偉大な映画か?これは
バタフライ現象で世界が変化するのは分かる。
そうじゃなくて、私の疑問は、例えば過去に行って、
因果律的に間違った事をしてしまった場合、
人間や、動物や、モノが、その過去の時代で急に消滅したりするのでしょうか?
30 :
考える名無しさん:02/07/05 13:21
27が正解。
マーティを加えた過去はかつてあったはずの過去ではなく別の世界。
そこでマーティは1匹のサソリを踏み潰していると思う。
そのサソリは、将来女100人殺す運命にある人間を刺し殺すはず。
タイムマシンで移動すればその数だけ世界が増える、というほうが
まだ無理がない。
31 :
考える名無しさん:02/07/05 13:49
現在に戻ったらなリッチな父と母がいた。
貧乏でひ弱な父、口うるさい母はもういない。
欠点だらけでも大好きだったあのとうさんかあさんはもういないのだ。
なのに、思い出を共有していない不気味な両親を前にマーティは大はしゃぎ。
過去現在未来を通して世界は一本の線で繋がれており、そういう意味で世界
が1つなら、マーティの人間性に疑問を感じる。
32 :
考える名無しさん:02/07/06 01:42
今にして思えば開発途上国の映画だよ。
スターウォーズのほうがマシ。
いえいえ、BTTFの方がマシ。
あげ
みんなBTTFを哲学してくれ。
もういいや下げ進行で。うっかり入って来た人だけ書き込め。
36 :
考える名無しさん:02/08/01 02:08
あの映画は一貫して、マーティーの時間旅行としての体裁をとっており、
そのものずばり、あれはマーティーという存在の中の表象を映している。
その中でマーティーは謎の車に乗ることによって、周りの表象を激変させるわけだが、
その表象の変換には何らかの必然性がなければならない。
そしてその必然性がタイムトラベルという形で与えられるのである。
(タイムトラベルという理想的な現象が我々に思考される如く
「そのことが起こる(表象される)こと」はなんら「不思議」にはならない。
それが実証的に不可能である、という論証は、現代の科学理論では
未だ不十分なものしかないので)
マーティーの時間旅行中、タイムトラベルたるための必然性は一貫していく。
最初に注意すべきなのは、マーティーが車に乗っている点である。
車の外では、世界の大変換が行われるわけだが、
車の中(空間)は、前時代を保ったままであり、
ここで車という存在は時代を中和するような存在になる。
これは重要なところである。
例えばもしマーティーが一人でいきなり時代の変換を行ったとすれば、
マーティーの会う表象の変化は、夢を目覚めるがごどくであり、
いささか胡蝶の夢に陥るに違いない。
そしてこれは、ある危機の前兆となる。
今はその危機の話は後においとくことにし、
ここではこの胡蝶の夢をおこさないための方法を考えよう。
厳密な理論性は欠くが、そのための一番の方法は
空間の時間移動である。
映画中で、表象の変化の境界は「車の窓ガラスに」電光がうつることになっている。
そしてその時、車の中はというと、いたって目だった変化はない。
このことにより、マーティーが存在する空間(場所)は
まるで時間的な「連続性(持続性)」を失っていないのである。
しかも、巧妙な点は「窓ガラス」である。「窓ガラス」は
それが透明な(表象されにくい…この表現には後に関連がある)存在である
にも拘らず、「存在する」と容易に認識される。
これにより、隔離された空間、且、外部の表象の変化が同時に巧くなされるのである。
このようにして、時代の変換は、中間的な過程がなされる。
マーティーは前の時代にいたマーティーとして保存されることで、
「旅行」という行動の主体は持続性を保ち、且「旅行」はなされる。
そしてこれは、タイムトラベルたるための必然性によるのである。
さて、いささか話が混乱ぎみであるが、次からのことを前文と関連させて、
読み解いて欲しい。
ここで、例の危機の話に入っていくが、これは言うまでもなく、
「タイムパラドックス」である。
パラドックスとは
「相互に矛盾する命題がともに帰結し得ること。また、その命題。」という意味だが、
映画上では存在論的な議論のとき、用いられているゆえ、
ここでの命題とは「〜が存在する」という点にしぼられるのではなかろうか。
ところで、少し詭弁くさいかもしれないが事前に了解してもらい、
まずパラドックスの意味をよく注意されたい。
この意味には少し「主体的な動き」が感じられないだろうか。
とくに注目すべきは「帰結し得ること」である。
これは存在する命題A,B(A∧B)を演繹した時、それぞれの内包C,Dが
明瞭に(¬C)⊃Dになるということだが、
「帰結し得る」とは、be(なる)の文化である日本語でさえ、
have(得る…詳しくは米的にtakeといいたいところだが)で表現されている。
このことは最初に命題が並列して存在してしまう故に、
矛盾は「発見される」他ないということからのようである。
つまり、矛盾しているのでは、もともと並列して存在したということが疑わしくなるが、
もともと「あった」という了解から、それはむしろ「変化(動き)」として、
とらえられる他ないということからではないだろうか。
このように、パラドックス、とはその定義の中に矛盾の存在を示すため、
定義自体が論理的に不安定であり、要は動的になっているようである。
ここではタイムパラドックスという言葉をそのような意味で念頭に入れたい。
まず最初に気にとめておきたいことは前述の通り、マーティーは、
時間的に連続的な存在として他の時代にいることである。
もし、マーティーが着いた過去の時代にその時代のマーティーがいるならば、
そのマーティーは、時間旅行できたマーティーの過去の時間的延長線上の
マーティーである。ここでは明らかな矛盾が生じる。
そことここにいるマーティーは同一の表象の持続をもったものである。
(ここでは連続と持続の質的違いにはかなり寛容である。)
それなのに、彼らは時間的に同時に存在するのだ。
一つの表象の中に二つの自分の身体が存在するとする。
時間的違いはあるにしても、時間的持続をもってアイデンティティが常に
自分の身体を定義づけるのならば、持続性の点で二つの対象に違いはない。
ゆえに、もしその一方の自分がそのめぐまれない客を認識(表象)したらどうなるか...
アイデンティティ崩壊である。
顔を合わせた時点で彼らの表象は混乱し、破綻する、それは「全銀河の破滅」を意味するのだ。
これをドクは「タイムパラドックス」と呼ぶ。
なぜならそれは(というが、私の勝手な考えであるが)
彼らは矛盾(二人の自分)を発見する(表象する)ことで
破綻の道へと進むからである。
ただの客体世界としてそれらをとらえるならば、
それらは既に時間旅行でやってきた瞬間から、時間的な矛盾をなしている。
ある意味ではその時点で破綻している。
しかし、表象の面でとらえるかぎり、重要なのは、
彼らが「発見する」という動きなのだ。
ここでタイムパラドックスという言葉はこの内容に合致しているわけである。
さて、話を果てしなく思考的な方向にもっていったが、
映画では実際どうなっているのか。
まず、ここまで述べた事で一番気になるのが、2のマーティーが二人になる所だろう。
あそこではシーンにマーティーが二人でてくるのだが、前記の通り、
この映画がマーティーの表象をあらわすならば、(諸所に例外的な場面はあるが)
その時点でカタストロフィは始まりそうである。
しかし、その前にこの表象をするマーティーとは未来の方のマーティーであることを
注意すれば、ここでカタストロフィが起こらないことがわかる。
というのも、前述の「時間的持続をもってアイデンティティが常に
自分の身体を定義づけるのならば」という点についてよく考えると、
未来の自分は過去の自分の存在を知っているのだから、
それは「過去の自分」として表象されるのである。
つまり、自分はこの自分だ、という了解がすでにアイデンティティを保障するのである。
すると、アイデンティティの崩壊はない。
しかし、「過去の自分」はこの了解がないため、
もし表象するならば、カタストロフィはありえる。
その点は実際起こっていないので断定できないが、
過去の自分が表象の破綻をおこすならば、
むしろ身体が二重的になるという副次的な作用によって未来の自分が
破綻する可能性はある。
ここからはこれまで以上に難解になってくるだろうが、がんばっていただきたい。
それでは、映画の実際の際どい点をついて、考えていく。
今、副次的な作用によって、と周りくどいことを言った。
ここで、過去の自分が破綻すれば未来の自分の表象もそのまま破綻するのでは、
と思うかもしれないが、実際はそうはいかないだろう。
過去の自分は、自分と言っても「過去の自分」である。実はもうすでに
他人でしかない。むしろ、他人だからこそアイデンティティが保たれるのである。
ゆえに、過去の自分の破綻は、他人の表象の破綻である。
もし、このような他人の表象の破綻が(映画で映される)マーティーの表象にまで
影響をあたえるのならば、この映画中で破綻はあらゆる所で
起こることになってしまうのだ。
例えば2で、ドク同士(1955と1985)が会話しているところや
ビフ同士(1955と2015)が会話しているところである。
ここで、その四人のうち二人は表象の破綻があってもおかしくないが、
いたって、何もなく状況は過ぎる。
このことを考えると、やはりこの映画は、
「マーティーの表象」そのものであって、他人の表象は
考えるべきでないということになるのではなかろうか。
そして、「過去のマーティー」が起こす表象の破綻もほぼ同様である。
しかし、それには未来のマーティーの身体が絡むため、
未来のジェニファーが気絶したように、明らかな「自分」という認識が
過去のマーティーにできれば、過去のマーティーの表象の破綻は
(未来の)身体の二重性(表象がかぶることで身体が分裂する)
という形で現れてくるのではないか、ということである。
(厳密に言えば、表象と認識、という観点からドク、ビフの方も
表象が考えれるかもしれない。そうすれば、副次的な考えも必要なかろう。
例えば、昔のドクにしてもビフにしても、それぞれ「ただの通りがかりの人」
「変なじじい」としか未来の自分を認識していない。
これにより、彼らの表象にはそう言う人物としてしか、
未来の自分は現れていないのではなかろうか。
しかし、マーティーの場合、2の終盤、ビフの子分が
未来のマーティーと過去のマーティーを全く同一の人間と思っているように
過去のマーティーが未来のマーティーを、「自分」として認識するため、
その場合にかぎりアイデンティティの崩壊が起こるという可能性はある。
それならば、その表象がそのまま未来のマーティーの表象に関わるという
可能性はある。しかし、その機構は全く考えられない、
(他者の表象がいかにして自分の表象にかかわるか)
ので今ではそれは考えないことにしておく。
(しかしこの考えならば、未来のジェニファーが「30年前の私」と認識する
ことでタイムパラドックスが起こらなかったという説明もできる。))
46 :
考える名無しさん:02/08/20 02:37
age
胡蝶の夢とタイムパラドックスの関係を詳細にするのがまだなのだが、
ちょっとこれを続けるには暇をもらいたい。
久しぶりにこの板に来たけど、まさかこのスレが生き残っているとは思わなかったよ(w
高ぞう→将軍 ◆xllvU7xAさん、レスありがとうございます。
ただ、難解すぎてイマイチ理解できません。
私のようなDQNにも把握出来るように説明してほしいです。(w
あげー。
いやぁここまでこの映画を丹念に考察しているのは面白い。
ぽかーんと口開けておもしれぇ!と言っていた自分がちょっと恥ずかしくもある。
50 :
考える名無しさん:02/09/02 10:13
高ぞう→将軍さん、続きキボンヌ
もうちょっとやさしめに。
ここからは、この映画の根幹を探っていくから、
これまでの復習も兼ねながら、要所をついていく。
(※ちなみに、おわかりのとおりこのレスは
映画「BACK TO THE FUTURE」「〜2」「〜3」についての考察であり、
しかも裏構成は割愛し、映画に表現されているもののみについて述べるものである。
つまり、小説であったり、メイキングビデオ、「バックトゥーザフューチャーの秘密」等の
関連物はふせて、あえて映画そのものについて考える。
これについて、便宜的だと言われるかもしれないが、
これはただのスタンスであるから、考察においての問題にはならないと思う。
というのも、私の考察とは、
全世界に感動を与えた(私見)この映画、そして、この映画が現せているその世界、
すなわち、世界的に感動を与えたこの映画が成立するにあたっての世界観の考察、である。
ここで映画の世界観の本質を探ることで超自我な論議にもっていくつもりであるならば
ある程度の議論上の制約はあるだろうが、
そういうものは二の次であり、実際の考察にあたっての目的は
「世界観の明確化」につきる。
ゆえに、変な期待をもってもらっても困ることはないが、
期待が外れてもしょうがないとおもってくれ。
何しろ、ただのお遊びなのだから、そうかそうか、と思ってくれたり、
問題についての議論が楽しめればそれでよい。
といっても、私もこれからそれだけの時間的余裕があるわけでもない。)
最初の方で、
「あの映画は一貫して、マーティーの時間旅行としての体裁をとっており、」
とあったが、それについて少し考えよう。
映画ではもちろん、マーティーに限らず色々な人がシーンの中心となる。
またそれには、マーティーがその場にいないことが多い。
これについて、例の表象理論についての疑問をもつ方もいるかもしれないから、
まずそれについて説明する。
表象と言うと、色々な具体的概念を含むであろう。
映画にそくして例をあげれば、現前するものの知覚像であったり、
夢、はたまた想像、回想などである。
それらはものによって様々で、それら全てが、
マーティーの表象内にマーティー自身が表象されないことを
否定するわけではない。
結局は何らかのかたちで具体性があたえられるかもしれないが、
未だそれらの具体性は限定されるにいたらない。
単純に「マーティーの表象」と言うのもその抽象性を保つためである。
しかしだからといって、表象である、と言明するにたる理由がまだ
不明確かもしれないが、
それにあたっては、映画のメインとなるタイムトラベルが
マーティー中心にあることから、単純に推定され、
後にその実証性(必然性)を確かめていきたい。
しかしそれ以前に、その推定の反証をあげるかのように、
それではこの映画に映り出されるものはマーティーの(物象的な)頭の中で
おこった戯言ではないか。という、イメージ化がなされるかもしれない。
しかし、現実にはそうとはいいきれないであろう。なぜなら、
「この映画を見るところ」、マーティーはこの映画の中にしか見出せない、
と言える。それならいかにして、マーティーが「頭をもつ」と単純に言えるだろうか。
マーティーは実際にその表象の中の一人の人物であるため、
そういう意味では表象界に存在していると言えるし、その存在こそが、
表象界の持続性を保っているのだが、その存在は、現に周りの表象界に応じている。
けして、周りの表象が、一概に、その存在の都合に応じているのではない。
つまり、周りの表象はある一定の必然性を保って、マーティー本人に、
働きかけるのである。その外在性はそれが表象である所以であろう。
表象は、簡単に言えば、知覚により構成された像と言うことになるが、
そのもとになる感覚は、外的なものというほかない。
それが、マーティーにどのように与えられたかはともかくとして、
それはマーティーに働きかけ、且マーティーをマーティーたらしめている。
というのも、マーティーが「そこに存在する(生きる)」ためには、
その世界に展開が必要であり、展開のためには、外的な持続が、
必要なのである。つまり、表象界の持続である。
つまり、そこに住もうマーティーの持続と、表象界の持続は、
相互補完的であると言えるのだ。
そして、この兼ね合いを保つために、マーティーという存在の持続性の保護、
タイムトラベルであるための必然性が同時になりたたなければならない。
実はその相互補完性が、この映画を「マーティーの表象」とする
実証的な証拠の一つであるのだが、その関連性はまだおいとこう。
ところで、このような考え方は、これまで長きにわたり述べてきた持続性からは
少し遠ざかっているように感じられるかもしれない。
しかしそれは、このレス自体、私の、暗中模索の思考過程なのだから仕方ないことである。
だがそうだからといって、私は、文脈的な矛盾を認めるわけではない。
今のところは、前後をよく関連させれば、より明確な世界観が得られるだろう。
思考を進めるほどに、問いに対し答える幅が、狭まってくるのは
当たり前のことなので、
確かにか細い論理性の糸であっても、注意深く織り込んでいくことで、
絶妙に一貫したその世界の実体を少しずつ浮かび上がらせていくのである。
(とテンションage)
さて、私のレスに細かな間違いは初期からある。
というのは、前にも少しほのめかしたのだが、その前にある、
「ここで、例の危機の話に入っていくが、」の部分で、
実はまだ、その話に入っていない。
そして、「これは言うまでもなく、」の「これ」は何も指示していない。
そこで、こんどこそ危機の話をすることになる。
かなり下がってるなぁ。高ぞう→将軍 ◆xllvU7xA さんファイト!
トリロジーBOXでちょっと勉強する…
57 :
考える名無しさん:02/09/28 01:21
一言で言えば、複雑系だな。
58 :
考える名無しさん:02/10/05 00:08
>>14 >その前の老ビフは過去に戻って年鑑を渡した後に
年鑑を渡していない未来に戻ってきている
DVD版の「未公開シーン集」を見てもらうと解るよ。
2015年戻ってきたあとすぐ、老ビフは苦しみながら倒れて消えていくシーンがあった。
59 :
考える名無しさん:02/10/05 00:10
そもそも未来にタイムトラベルして未来の自分に遭うという画はオカシイ
たとえば10年後の未来だと10年間自分が行方不明の未来に着く筈だ
こういう映画はそこがオカシイ。
だれか説明しる
60 :
考える名無しさん:02/10/05 00:18
>たとえば10年後の未来だと10年間自分が行方不明の未来に着く筈だ
なーるほど。確かに。車に乗ったままどこかに行っっちゃって居なくなってる
筈だよね。
>>59 10年後の未来で、もう1人の自分が居た場合。
ちゃんと元居た世界(過去)に戻れるという事に。
59さんの意見が結論。終わり。
63 :
考える名無しさん:02/10/05 04:19
>>59 そうそう。
さらにいうなら、パート1で「世界初(!?)のタイムトラベラー」となった犬のアインシュタイン。
彼は数分後の未来に行くが、そのあいだ存在してません。
人間と犬では違うということでしょうか。
これ、公開時から(劇中の設定として)ずーっと疑問でした。
65 :
考える名無しさん:02/10/10 22:47
>>59 はげどう
映画板のスレでその疑問出したらおかしくないって言われちゃったけど…
やっぱおかしいよねえ
行ったっきりなのか、元の世界に帰ってくるの確定なのか
の違いでしか無いと思うんですが。
67 :
考える名無しさん:02/10/11 01:05
でも1985を出発した時点では1985に戻ってくるかどうかわからないんじゃない?
バックトゥザノーフューチャー!イェア!
69 :
考える名無しさん:02/10/11 01:58
「タイムマシーン」でそうだったが、過去は変えられないのでは?
もしくはパラレルワールドが存在するということか。
>>64 犬にはそこまで考える能力は無いのでいいのでは。
くだらねえ。
まったくもってこのスレは下らないよ。
「テツガク」するなんて言ってる時点で予感はしてたんだけど。
結局「やっぱりつじつまが合わないネ」「この映画は無理があるネ」
→「やっぱり駄作かもネ」なんつうオチになるのが見えてるよ。
高ぞう→将軍とかいうやつ、あんたくだらない事並べるなよ。
「全世界に感動を与えた(私見)この映画、そして、この映画が現せているその世界、
すなわち、世界的に感動を与えたこの映画が成立するにあたっての世界観の考察」
とか言ってるけど、切り口がタイムトラベルについてだけじゃねえか。
そんなものの中にあるんじゃねえだろ、この映画の良さは。
72 :
考える名無しさん:02/10/19 00:33
73 :
1(かなり久しぶり):02/10/30 16:45
>>59さんの問題について、
元の時代に帰ってくる事を想定している訳でしょう。
っていうか、また戻ってくるから未来の自分がいる訳で。
そこはSF映画として、っていうか、この映画としての矛盾は犯してないですよ。
犬のアインシュタインの1分間(5分だっけ?)タイムトラベルにしても同じ。
74 :
考える名無しさん:02/11/07 21:19
ハリーポッターつまらん
75 :
考える名無しさん:02/11/22 23:11
ハーマイオニーハーマイオニーハーマイオニーハーマイオニーハーマイオニーハーマイオニーハーマイオニーハーマイオニーハーマイオニーハーマイオニーハーマイオニーハーマイオニーハーマイオニーハーマイオニーハーマイオニーハーマイオニーハーマイオニー
76 :
考える名無しさん:02/11/22 23:15
HERPU
>>75は時間的にも金曜ロードショーを見てレスしたと思われ
78 :
考える名無しさん:02/11/26 03:17
>>71に禿同だよ
>>59量子力学の世界では
収束しない無限の分岐が無限に流れていることになっている
ほんの少し先の未来でも無限の種類があるの
このばあい、自分が未来に行かなかった事象で
進んだある一点に行ったと考えればいい。
いいわけみたいな理論だけどね。
つーか、こんな下らんことで一々文句言うなや
作品の世界観考察と作品自体への評価をごっちゃにしてるアフォがいるスレ。
保守あげ
81 :
考える名無しさん#:02/12/21 00:18
映画のことならジジェクに聞くべきだと思う朝立ち。
現在Aさん30歳。
タイムマシンで20歳の頃の自分を殺しに行きました。
無事に抹殺。
あれ?なんかおかしくない?
もし、時間の流れが一本なら、Aさんは20歳で死んでるから30歳にはなれないよ?
自分が20歳の時に、未来から30歳の自分が殺しにくるからね。
そうか、タイムマシンで過去に行って、そこで何をしても、
現在の自分には何も影響はないのか!
あぁ夢が・・・
現実ってこんなもんさ。
83 :
考える名無しさん:03/01/06 04:24
たーたーたーたーたらたーたった!
(^^)