>>70 「過去の事件とその叙述が事物か?」とはどういうことかな?
>>72 そういうことではありません。
「歴史法則」が「歴史」を決定しているということ、「起こること」が決定されている
ということです。この場合は「ゲシヒテ」に近い意味になりますね。
唯物史観の例を出しましたが、マルクスは階級闘争によって社会が変化していく
ということを述べました。そういう意味です。
とりあえず、こちらの前提では「事物」とは実体を意味すると解しています。
「法則」とは実体ではないので「事物」ではない、と解せます。
「過去の事件」には「社会関係」を前提として含んだ出来事も含まれます。
この種の事件は実体ではないと思われる。
「叙述」も実体ではなく行為だと思われる。
「過去の事件について叙述する」も実体ではなく行為では思われる。
−−こうした疑問です。
>>74=73
>この場合は「ゲシヒテ」に近い意味になりますね。
マルクス主義の場合は「ゲシヒテ」に近い意味になる
と言うのはわかります。
しかし、◎◎の場合はこうなる、と言うのは恣意性を感じます。
仮に、恣意的に適用しなくてはならないのだとしたら、
歴史の定義56>歴史とは「過去の事件とそれの叙述」に不備があるのではないか、と疑われますが。
どうでしょうか?
歴史の意味を問われれば、やはり「過去の事件とその叙述」としか答えようがないですね。
これが一般的な答えでしょう。
>>77=74
(学問的な定義ではなく)一般的な答えということならば了解できます。
ありがとうございました。
「学問的定義」といわれても、この2つの意味をもっと詳しくというならばともかくも、
簡単にいえばそういう答えだと思いますよ。学者に聞いてもそう答えるでしょう。
事件が決定されなければ、当然に叙述も決定されないんじゃ・
>>79 少し絡んだような感じになったのは申し訳ありませんが。
一部の社会史家などは「歴史」と「歴史叙述」を分別して
「歴史」とは「社会関係を含んだ社会構造の変動・遷移の実態」と考えていると思います。
これはこれで成立する定義だと思います。
歴史学業界用語で「事件史」と言う言葉がありますが、
これは一例、上記のような立場の史家「過去の事件とその叙述」を限定して捉えようとした表現だと思われます。
82 :
考える名無しさん:02/05/12 23:34
古生物学とかも、歴史になるんじゃないの?
いや。通常、「歴史学」における「歴史」とは「人間の歴史」でないと駄目なんですね。
84 :
考える名無しさん:02/05/12 23:42
それでは古生物学は科学かどうかと考えたとき、
仮に、科学であるとするなら、古生物学と歴史学を、
科学と科学で無いものとして分けるのは
「人間について」の学問であるかどうか、
という点だけになるが。
つまり、「歴史学は人間についての学問であるから科学では無い」と。
よくわかんないけど、生物学は歴史じゃないでしょ。
自然史はまた別の分野ですね。
いずれにせよ、今回の場合の「科学」は法則の発見ということですので。
>>84 >それでは古生物学は科学かどうかと考えたとき、
>仮に、科学であるとするなら、古生物学と歴史学を、
>科学と科学で無いものとして分けるのは
>「人間について」の学問であるかどうか、
>という点だけになるが。
いろいろな立場があるとは思いますが、その場合の「人間」が「政治的動物」であるとかの定義を付加してゆけば「自然史」との区別は付くと思われます。
例えば、仮定の話、「文化」を有するという定義を付加すれば、「霊長類の歴史」がある段階から「古生物学」から区分されることになると思います。
89 :
考える名無しさん:02/05/13 00:50
なんか強引だなあ。
90 :
考える名無しさん:02/05/13 00:52
「文化」の定義は何なのさ?
91 :
考える名無しさん:02/05/13 00:56
>>86 とりあえず、歴史学≠生物学としても、
歴史学を科学でないとする論理の多くは、
そのまま、生物学の多くの分野についてもあてはまるから、
それらの論理が正しくて、歴史学が科学で無いなら、同様に科学で無いことになるのでは?
>>87 >今回の場合の「科学」は法則の発見ということですので。
その点、皆さん了解しているということでいいの?
「法則の発見」を科学の条件だとすると、
博物学は科学で無いということになるのでは?
>>88 「政治的動物」、「文化」というのも、極言すれば人間の習性の一つであって、
それらを「ある動物の習性」と考えた場合に、
他の動物の他の習性と明確に分別する相違は無いのでは?
あるサル山におけるグループの勢力の推移
ゴキブリの生息範囲の変化
と「人間の歴史」の明確な相違点とは何?
92 :
考える名無しさん:02/05/13 01:06
ゴキブリは人間の交通、特に航海の発達とともにその生息範囲を広げた
と思われ。
93 :
考える名無しさん:02/05/13 01:14
>>93 生物学に関する私の認識が間違っているといいたいなら、
どういった認識が、どのように間違っているか指摘してくれないか?
少なくとも、「生物学全体」について何か述べたつもりはないが。
95 :
考える名無しさん:02/05/13 01:31
なんとなく的外れだと思います。
96 :
考えるまでもない名無しさん:02/05/13 04:04
本当に糞スレ立てるやつがいるもんだな。
歴史法則があれば科学的だろう。
もう歴史法則は実証済みなんです。
それは高らかに宣言されているんです。
あなた方がそれを知らないだけなんです。
http://www.chojin.com/
>>90 「文化」の定義は何なのさ?
アメリカ語でのCulutureが適当でしょう。
ある人間集団を特徴づけている生活様式、及びその生活様式を成り立たせる諸要素。言語、親族制度、習俗など。
>>91 >「政治的動物」、「文化」というのも、極言すれば人間の習性の一つであって、
>それらを「ある動物の習性」と考えた場合に、
>他の動物の他の習性と明確に分別する相違は無いのでは?
そうですね、グレイ・ゾーンになる境界領域はあります。
ニホンザルなどには文化が見られると言いますから。
ただ動物一般と人間の区分としては、「文化」は後天的に学習・習得される
生活様式だと言う点でつけられます。
ゴキブリの行動様式は先天的に組み込まれた物であって、文化とは言えません。
一部ニホンザルに観測されたイモ洗い行動は後天的習得であることが観測されましたので、文化と呼ばざるを得ません。
文化についての過去を考察と言う意味では社会学や人類学方向。
生物についての過去を考察するなら生物学方向。
事象についての過去を考察するなら自然科学方向。
人間の生態他について考察するなら人類学方向。
これらは「歴史」と言う汎意の言葉で現在は表されている。
歴史研究のそれぞれの側面であり
それぞれの結論の方策であると私は考える。
つまり歴史学において生物の歴史から何かを叙述する事も
不可能なのではなくやっていないに過ぎない。
違いますかね?
歴史学とは本来時間的過去について考証しようと言う
方向性では一致を見る筈だ。
この観点から見るに考古学との関わりが一番強い。
つまり「史料」と呼ばれる物において相互間系的立場に
有る為である。
これは他の分野でも言える事で
哲学倫理と社会倫理は内容的方向性は同一性を持つ。
人間が社会的動物で有るが故に双方ともその存在は
無視し得ない為だ。
つまり一番重要と思われるのは歴史学がどの部分を
自分がおいどの部分を相手側にまかせるかと言う事。
それを決定するには本質について言及し論議すべきだろう。
>>101=26
環境史と呼ばれる部門がありまして。
研究者には、既存研究者共同体の姿勢に不満を抱いていることが多いようです。
>つまり歴史学において生物の歴史から何かを叙述する事も
>不可能なのではなくやっていないに過ぎない。
というのは半ば以上正しいように思います。
>一番重要と思われるのは歴史学がどの部分を
>自分がおいどの部分を相手側にまかせるかと言う事。
>それを決定するには本質について言及し論議すべきだろう。
と言うご説にもうなづけます。
生物の歴史から歴史学的叙述をする場合、生態学や環境学のフレームと社会変動を接合する必要はあるはずです。
この辺では、社会変動に関与する人間集団の主体性(とその評価)と環境要因のどちらを重視するか、と言った旧くからの対立が再演されがちなようです。
「本質について言及し論議」がうまくいかない理由の一端はこの辺に見られるかと思われます。
例えば、「歴史考古学」が法医学にサポートしてもらう場合は、
環境史家と文献史家のような摩擦は寡聞にして聞いていません。
※
「歴史考古学」というのは歴史学業界の業界用語で、有文字時代に考古学的手法を用いる研究を指します。
103 :
考える名無しさん:02/05/13 15:40
観察者の視点によって歴史の事実はちがってみえる。
だから科学ではないってことなの?
104 :
考える名無しさん:02/05/13 15:46
単なる印象だけど、実際のところ歴史学の論文とか読んでると
説得力ってのがかなり重要なんです。新発見の史料とか使ってても
説得力なければ相手にされませんよ。
でもまあ、説得力なんて個人の主観でしかないし。
だから、歴史学が科学的とは思えないな。
「科学的」であるはずの史的唯物論派の論文、特に冷戦下の時期の
論文なんて今読むと滑稽なのが多いですよ。
>>103 >観察者の視点によって歴史の事実はちがってみえる。
>だから科学ではない
いや。そこまで凄いことは、あまり無いとは思います。
皆無ではないですが。
ただ、事実(過去の出来事)の評価や、その因果関係の分析は
観察者の視点によって違わざるを得ません。
例えば、古代ローマ帝国末期にゲルマン系の諸族がローマ領に進行した出来事ですが。
ドイツの学会では伝統的に「民族大移動」と、フランスの学会では伝統的に「蛮族大侵入」と呼ばれます。
この辺が、>「史料の取捨選択」も研究者が予見として持つ「歴史概念」や旧い「歴史概念」に対する疑義に左右されざるを得ない(
>>29)という事情で。
こうした事情は根本的に回避できないので、歴史学は科学とは呼べないと思います。
だんだん理解出来てきました。
マルクスの提唱したような「歴史法則」は結果として
歴史学の叙述である事に疑問はありますでしょうか?
歴史法則を成り立たせるものを論理論証ですれば法則は叙述と同意に成り得ます。
この時に論証で使用する前提を形而上学上で通用する「史料」から
論理弁証によって成す訳です。
この結果得られた結論は叙述であり法則で有り得ます。
これは即ち歴史学の科学的側面をマルクスなどが指摘したに過ぎません。
つまり本質を「叙述と事実」とすると
分科して方法論と弁証法や検証法を従来のものと分ける必然性が
出るかもしれないと言う事です。
この時事実そのものを本質として扱わなければこういった問題は
提唱されなかったであろうと思われます。
逆説的ではありますがこれは事実自体が歴史学の本質の一部であると
広く認められている側面と言えるでしょう。
ヘ−ゲルの唱えた主観、客観的側面の他に事象的側面を
マルクスが提唱したと言えるかもしれません。
>>107=26
えーと、疑問の無い点は以下です。
>マルクスの提唱したような「歴史法則」は結果として歴史学の叙述である事
>歴史学の科学的側面をマルクスなどが指摘した
少し自信がないですが、理解できたと思えるのは以下の点です。
>逆説的ではありますがこれは事実自体が歴史学の本質の一部であると
>広く認められている
理解できなくなったステップは次のポイントのようです。
>つまり本質を「叙述と事実」とすると
>分科して方法論と弁証法や検証法を従来のものと分ける必然性が
>出るかもしれないと言う事です。
〔歴史の〕本質を「叙述と事実」とすると、
〔歴史学から〕分科して方法論と弁証法や検証法を従来のものと分ける必然性が〜
−−と言う事かと思いました。
この場合、「従来のもの」は、「科学的であろうとする以前の歴史学の営み」と解してみたのですが、
よいでしょうか?
>ヘ−ゲルの唱えた主観、客観的側面の他に事象的側面をマルクスが提唱したと言えるかも
「主観的側面」を「〔歴史学における〕叙述」と、
「客観的側面」を「〔歴史学で検証された〕史実(=歴史的事実≒事実)と、解してみました。
この理解でよいでしょうか?
この理解でよいとして、事象的側面とは、「史実-叙述」とどのような関係で理解されるべきなのでしょうか?
少し言葉が足りなかったようですね
申し訳無い。
ほぼその通りです。
つまり事実と言う部分が曲者で
歴史的事実≠事象的事実である事が問題であろう点なのです。
実際に現実世界において起きた事件は主観において認知され
叙述として歴史学にある訳ですが現実世界の状態そのものを
表現しているわけでは無いのです。
史実も客観的な事実では有りますが現実に起こった状態
そのものでは無い可能性を含んでいます。
これを単なる現実世界の一状態として認識したものを
「事象的事実」と都合上呼んでみたに過ぎません。
しかしこれは「事象的事実≒歴史的事実」が現状で有ろう事も含みます。
(定説と言う形で認可された一般化がそうさせる訳ですが)
事象的事実が明らかになればそれは歴史的事実にも影響します。
「事実」自体が両意を含み歴史的事実と事象的事実は相互関係となります。
以上のような科学的考察を歴史学で行うとするなら
現象学的考察が要求され多面的になりすぎる可能性を含みます。
したがって分科して行く方向性を示した訳です。
110 :
考える名無しさん:02/05/13 22:54
そもそも、学問かどうかすらあやしいな。
111 :
考える名無しさん:02/05/13 23:38
言語論的展開の歴史学における衝撃って、哲学の側から見れば、
今さら何をビックリしてやがるって感じなんだろうな。
>>110 りっぱな学問だよ。自然科学ではないがね。
事実認定に多数の研究者の承認と史料による裏づけが必要だし。
歴史を単純な「国民のための物語」として認めるならば、
結局のところ、歴史家は国家の御用歴史家に堕してしまう。
何が歴史的事実かという認定作業とその事実の積み重ねに理解と
解釈を提供しつづけるのが、歴史家の努め。
近代形而上学において「神が死んだ」時
歴史学の「事実」は2つの側面を持つ事を要求され始めたのでしょう。
存在論の変革は現代哲学のみならずあらゆる分野に影響しましたから。
111氏の言はその意味で現在の歴史学の要求されるべき点を
的確に表しているかもしれません。
ただ最初に私の言していた「考古学」との関係ですが
この観点
>>109 から見た場合 史料の再考の余地を考古学と双方向で
検討する余地が出ると思います。
どちらにせよ歴史理論的なものを科学的に構築し法則性を図る場合
そういった考古学で使われるような科学的検証法なども余地に
入れているのが現状なのでは無いでしょうか?
その点で現在は考古学との衝突部分が論争化や分派を生んでいると考えます
113 :
日本@名無史さん:02/05/14 12:17
歴史=「過去の事件とそれの叙述」という定義は簡略にすぎるのでは?
その理由は、
「過去の事件」=史実は、史料の解析を通じて得られるわけです。
史料それが出発点、事実(史実)それが帰着点(三木清『歴史哲学』)。
そしてこの史実自体が多面的な構造をもっており、そのいかなる面に重点を置くかで、叙述の内容も異なってきます(異なる学説が成立する理由)。
ですから、史料からいかに可能な限りの情報を抽出し、またそれに基づきいか
に論理的な整合性をもって史実を組み立てるか、というのが狭義の歴史学の学問性を担保する必要条件です。
以上のような、仮説(既存の歴史叙述への批判)・史料解析による検証と事実の再構成・結論(新しい歴史叙述)という歴史学の日常的営為は、自然科学のような法則定立的科学とは異なりますが、個性記述的科学として十分に科学性をもったものと考えます。
なお、歴史法則とは、自然科学的法則とは異なり、異なる文明間の接触・衝突
のパターンや、官僚制の形成・構造・崩壊などのプロセスのように、大まかな
経験則やモデルを指し、それ自身歴史学で再構成された事実を一般化・抽象化
したもので、上記の学問的営為を遂行する上では有力な参照系ともなります。
私としては十分言及しているつもりですが
もう少し詳細に補足しましょう。
>史料それが出発点、事実(史実)それが帰着点(三木清『歴史哲学』)。
これは私も最初の方で言及しています。
史料がこの時曲者たるのは御分かりでしょう。
現在は文献史学系から由縁される歴史学は「過去の文献」より
史実の側面抽出などをする筈です。(多かれ少なかれ)
この側面は現実世界に起こる事実「事象的事実」そのものではありません。
しかしこの時扱われる史料が博物学系に由来する「物品」である場合
この物品それぞれの多面的分析とその論理結合によって得られた事実は
「事象的事実」たり得ます。
これは同時に史実である事も御分かりでしょう。
(これは考古学の考証方法と思っていましたが違いますか?)
つまり扱われる史料そのものと検証法やその抽出法が
従来のものと同じでは科学的ではあれ科学ではないのです。
この事から御分かりと思いますがこの科学的側面は「考古学」が
現状負っていると思われます。
つまり歴史学の現在時点における本質は「事実よりも叙述が勝っている」と
言い換える事が出来るかもしれません。
これは文献史学を由来とする以上至極当然であり、
ルネッサンス派のようなある種考古学のような叙述の可能性の追求は
分科する意義を持つのではないかと提言したまでです。
115 :
考える名無しさん:02/05/14 14:55
>>114 御指摘の内容はだいたい理解いたしました。御指摘のような基準で区分すれば
そうなるかと思います。
ただ最近では、(文献がある場合ですが)文献史学と考古学との共同も日常
的なものとなっています。古代建築物の復元作業などでは、考古学・文献史学
はもとより建築史や美術史との共同・連携も不可欠です。
更に20世紀史となれば、文献・遺物いずれに属するのか不明ですが、映像など
も史料として入って来ることになります。いずれにしても、文献史学を中心
とする従来の歴史学は、今後大きく様替りしていくことになるでしょう。
>歴史を単純な「国民のための物語」として認めるならば、
>結局のところ、歴史家は国家の御用歴史家に堕してしまう。(
>>111)
と言う指摘がありました。
>>111の文脈からは、多少ズレるのですが。
現状、「歴史学」的叙述は、伝記文学や軍記物語のようなものでは許されないと思われます。
まず、この件は確認しておきたいです。
では、「歴史学」的叙述を伝記文学や軍記物語と分かつものは何かと言うと。
a>史料解析による検証(
>>111、他)
については問題ないようです。
b>事実の再構成(
>>111)
と言われている行為も「『歴史学』的叙述を伝記文学や軍記物語と分かつもの」ですが、ここに問題があるという指摘がなされています。
私としては、
c>なる文明間の接触・衝突のパターンや、官僚制の形成・構造・崩壊などのプロセスのように、大まかな経験則やモデルを指し
、と言う点からも問題を解きほぐしたいと思います。
まず、a、b、cと、それぞれの妥当性、説得力が、「『歴史学』的叙述を伝記文学や軍記物語と分かつもの」である、という整理を提出しておきます。
「歴史的事実」≠「事象的事実」(
>>109、他)なわけですが。
事象的事実の方は、過去の特定の時間幅を持った世界で、リアルな事物連関に連なっていた、と信憑されます。
ところが、「歴史的事実」の方は、常に限定された「史料」から再構成されたモデルになります。
モデルとしての「歴史的事実」は、「過去自体」に実在したと信憑される事物連関に対して、必ず解放恒常系として含まれざるを得ません。
同じ事態を、別の角度から整理すると、次のよにも言えます。
「過去自体」に実在したと信憑される事物連関総体の、限定された一部が学問的手続きで写像投影されたものが、限定された事物連関モデルである「歴史的事実」です。
>「史料の取捨選択」も研究者が予見として持つ「歴史概念」や旧い「歴史概念」に対す>る疑義に左右されざるを得ない(
>>29)という事情で。
こうした事情は根本的に回避できないので、歴史学は科学とは呼べないと思います。(
>>106)
――と指摘してましたが。>>***に整理したような関係性がより根本的なのだと考えます。
これは>史実自体が多面的な構造をもっており、そのいかなる面に重点を置くかで、叙述の内容も異なってきます(異なる学説が成立する理由)。(
>>113)
――と言うことでもあるのですが、もう少し深刻です。
「歴史学」的叙述の説得力(
>>105)とは、叙述された「歴史的事実」の客観性と同時に、読解を通して想起される「過去自体」の事物連関――世界像と呼んでよいでしょうか?との関連様態によって左右されます。
で、もし歴史学が分科してゆくとしたら、特定の歴史的過去の「過去自体」の客観性に対する信憑がブレてゆくことになります。
それでは、「史料」が無限に揃えば特定の歴史的過去自体の事物連関を再構成できるか?
と言うと、私は事実上そういう事は不可能だと思います。
歴史学の論争史をみると、「過去自体」の広汎な世界像再構成に関るような論争は、
決着がつかないでいる内に、“パラダイム”自体が遷移することが目立つと思います。
(“パラダイム”は曖昧な概念だと思いますが、ここでは、予見としての認識フレーム、程度の意味で用います)
例えば、近世西欧では、ギリシア語聖書(旧約)と、ヘブライ語聖書(新約)のどちらの記述に基づいた歴史を事実と認められるか?、と言うテーマと、エジプト史や中国史の始点がノアの方舟物語の大洪水以降の事件か、以前の事件か?、と言うテーマが相補的に検討されました。
この議論は一部に粗雑なものも含んでいたでしょうが、決定的な部分では極、厳密な推論がなされていました。
この関連では、考古学的発見があってその後、「旧約の大洪水」を史実から外すという選択がなされたわけではありません。
逆に、旧約の世界創造の日から年表を編成する、と言う創世紀元が放棄され、現在使用されているBC/ADの西暦表記に移行するという“パラダイムシフト”が起こってから、考古学が進展しました。
一例を挙げただけですし、旧すぎる例示と捉える向きもいるかもしれません。
が、少なからぬ歴史家が、「優れた推論は事実を予想する」という意味の警句を承認しています。
何も考古学的発見のみではなく、優れた推論が文献学的史料も予想します。
例えば聖書学におけるQ史料の仮定は、ナグ・ハマディ文書の発見を予想したと言えます。
が、こうした優れた推論は、必ず、「特定の歴史的過去の『過去自体』に対する信憑」を脅かします。
図式的に記すと、「(過去自体の事物連関⊃事象的事件)≠モデル化された歴史的事実」といった感じです。
問題は「歴史的事実」に提出されるモデルは、実在が信憑される事物連関に対して、常に限定された部分的世界像にしかなれない、という点です。
私としては、この事態は根本的なものなので、歴史学がどれだけ科学的になっていっても(その事自体には反対ではないのです)、決して科学にはなれない、と考えています。
仮に、歴史学の分科の可能性が必然的なもの(
>>112←誤読をしてるかもしれませんので仮定とさせてもらいました)だとしたら、
ますます歴史学は科学とは呼べないように思われます。
×>ギリシア語聖書(旧約)と、ヘブライ語聖書(新約)
訂正>ギリシア語聖書(旧約)と、ヘブライ語聖書(旧約)
まぁ取りあえず分科云々は私の戯言ですから
本当に決定すべきは歴史学の学会等が判断すべきでしょう。
ただ両者ともに御解りだろうが
現在の歴史学の本質は「叙述と事実」であろう事は御解り頂けたと思う。
方法論的可能性や未研究分野の可能性も含めてではあるが
この事実の部分を完全に考古学にしてしまうか否かは
歴史学自身が決定せねばらなない。
歴史学のパラダイムは2重性があるのだから。
叙述自体が直感的仮定になって行き科学方向に行くか
事実自体は他の学問になり叙述方向に行くか
それを決定するのは双方の研究成果なのではないだろうか?
ただ科学として確立された場合現在の実状の他の科学と同じく
立証自体にかなりの困難が要求される。
たとえそれが事象の一側面であったとしてもです。
叙述に傾いた場合その信憑性は今以上に苦しくなる可能性も有り得ます。
他分野の相互関係から論理で引き出された事実が出てしまっていたら
叙述解釈は固定化しその意味を成さなくなるかもしれません。
ヘーゲルの言う「真」を捨てるか求めるか?
私は求めるべきだと考えたからこそ提言したのです。
不可能は今時点ではそうでしょう。
ですが最初に言したように今この時に次に伝える事実が
それを変え得るのだと言う事を双方とも御解り頂きたいと思う。
>>113 叙述よりも前に事件があるのだから、史料が出発点なんてやはりおかしいと思うな。
まあ、いろんな考えがあるということで。