1 :
考える名無しさん:
親鸞が云う悪人とは、何でしょうか?
2 :
考える名無しさん:02/05/06 23:23
自分の罪を自覚した人ではないでしょうか。
3 :
考える名無しさん:02/05/06 23:26
親鸞?
なんなの?
4 :
考える名無しさん:02/05/06 23:35
昔、吉本孝明(?)だったかが説明してくれて、納得したような覚えも
かすかにあるのだけど、そもそも何で「いわんや悪人」も往生出来るんでしょう?
5 :
考える名無しさん:02/05/06 23:39
悪人の方が、捨て身になりやすく、悟りに近いからだと思う。
自分が善人だと思ってるような人は、自我を捨てることが出来ない。
しんらんさんは、積極的に寺に寄進したり信心深い行動をする人は
それで成仏できると思ってしまうので
むしろ仏の救いから遠のいてしまう可能性もあり、
そのような信心深い人でなくむしろ宗教的規範などから外れた人でも
心から仏の救いを求め委ねる瞬間があれば(念仏すれば)救われると書いてる
と、思うけど思い違いかも。
7 :
考える名無しさん:02/05/06 23:40
でも、「悔い改めて念仏する」ような人って、
今の基準からすればじゅうぶん「善人」だよな・・・
8 :
考える名無しさん:02/05/06 23:44
5,6
解説ありがとう。
5に近かったような気がするのだけど、その説明で納得したとも思えず??
なんか、ハタ、と手を打ったような納得する説明であったのことよ。
9 :
考える名無しさん:02/05/06 23:46
教えて君は質問スレ逝けやゴルァ!
10 :
考える名無しさん:02/05/06 23:49
>>9 まあまあそう怒らんと。
でも親鸞は要するに単に「念仏しろ」と言いたかっただけなのだろうから、
「悪人正機」という言葉だけがこうやって有名になってしまうことには
迷惑してるんじゃないだろうか。
11 :
考える名無しさん:02/05/06 23:50
はいはい、すまねーこってすたい。
しかし、んなにおこんなくったっていーじゃん。
#ちなみに、ゴルァは半角がモアベターだったりするのことよ。
12 :
考える名無しさん:02/05/06 23:52
迷惑かどうかは、ま、本人死んでることだし、どうでもいーけれど
悪人正機という考え方は、当時どのように受け入れられたのだろーか?
また、現在において、どんな意味を持ちうるのでしょー?
「ゴルア」は全角で「ア」も小さくしない。これ最強。
悔い改める事はたぶん主ではなくて、
「助けてください!」てのが肝腎なのだと思う。
普通に考えると地獄に落ちそうな自分を振り返って死の瞬間にでも
いやだ!助けてくれ!と。
もし仏を念じる事ができれば実はそれはすでに仏の側でそういう風に
しむけてくださっていると。救われているという話。
当時も誤解されたから遠流されたんではなかったですっけ。。
ちなみに悪人正機は実は師匠の法然さんのことばと聞いた気が。。
16 :
考える名無しさん:02/05/07 00:00
するってーと、現代にあいてはあんまり力を持ち得ない考えであったりするのこと?
自立しちゃった近代人たる我々にとっては、「助けれ」と仏にただすがるっつーの
もなかなか受け入れにくい考えではあったりするのことよ。
17 :
考える名無しさん:02/05/07 00:03
和尚は神も仏もありゃしないと言っているのです。
>>16 すでに救われているのだから安心して生きましょう。となる。
19 :
考える名無しさん:02/05/07 00:07
悪いことをした奴の中にも、
自分が悪いことをしたということが、
何かの瞬間に自覚出来る場合がある、
それは救いだ、ということ。
人間には、改心する、反省出来る
という利点があるということか
浄土真宗の絶対他力は一神教的であり、
日本の近代化が準備されるもととなった、みたいな事を本で読んだ。
鎌倉仏教はだいたい一神教的という事だったかな?禅は違うか?
上人は悪行を働く悪人こそが極楽へいけるといったのではありません。己が
善行をしている、または己の力を過信している自称善人は救われない、と
言いたかったがために悪人こそ、、、といったのです。そしてこの自称善人
は人間の力を過信している現代の人間に当てはまることであります。
22 :
考える名無しさん:02/05/07 00:10
>>19 あ、これ。確かこれだったのことよ。
悪人正機。
善人は自分の罪を自覚する瞬間がなく、悪人が改心した時に「ああ、なんと自分は罪深いことよ」と自覚できる。
その罪を感じる心根なのね。
なるほど。
さんきうのことよ>19
さらに言うと、救われているありがたさを自覚し
安心して生きれば自然と悪事などしないでも生きていける
というような事も含まれているので
決して悪事を奨励しているわけではない。
けど人間は必ず何かの罪の意識をしょったりしているものだから、
だいじょうぶ、救われます。ということ。
じゃあ、悪人の犠牲になった者は救われないのかい。
償いもしなくて救われるとは、都合のいい教えだな。
25 :
考える名無しさん:02/05/07 00:26
>>24 それはちと短絡的であるのことよ。
悪人といったところで言葉通りの極悪人を想定する必要はないわけで
「罪を感じる心根を持った人」が悪人の定義であれば、「被害者」は
想定しなくたって良いのことよ。
相対する概念として「善人vs悪人」なのであって、「被害者」まで
持ち込むのは面倒であるのことよ。
>>24 被害者にとって、「害した者が救われない」事が救い?
とらわれて苦しい心から脱して安心できる事が救いではない?
知っててレスしたのれす。
当時も、曲解した者が大勢いたとか。
結局、親鸞が、自分の教えを広めるための、キャッチフレーズ
だったと、考えられる。
まず、民衆をひきつける為に、インパクトのあることを言う方法
28 :
考える名無しさん:02/05/07 00:34
でも、歎異抄になにが善で何が悪かは凡夫の自分には分らん。って書いて
あるよ。善人、悪人ってのもこの点からどう解釈するの?
仏の道に従う者と、それに反する者。
>じゃあ仏の道って ?
>・・・・
31 :
考える名無しさん:02/05/07 01:14
>>29 さばくのは人間ではないのです。世間的な価値観での
悪人も善人も、
みほとけの前では等しく迷える子羊。ぼんぷ。
>>31 そうなんだろうけれど、親鸞が使った「悪人」には
どういう意味と意図があるんだろ。いろんな研究が出
てるみたいだけど。
33 :
考える名無しさんat19:02/05/07 06:02
悪人が、反省・改心をするということの中には、
被害者への救済もセットになって含まれている
のが、俺の解釈。
ただ、被害者やその遺族が亡くなってから
やっと改心する場合とかもあるかもしれない。
その場合は、気付いただけでもOKとみなす、
救われたと思う。
34 :
考える名無しさんat19:02/05/07 06:04
でも、当然、その悪人は、
贖罪として、全くの別人に対して
善行を成すようになるのでは…
35 :
考える名無しさんat19:02/05/07 06:08
要は、ある行為=悪いこと
を一度でもしたら、完全に駄目!
なのではなくて、
挽回・修正は可能だという
考え方、物の見方をしてる。
自分からなりたくてなった悪人は無し
本当は幸せを撒く善人に生まれたかった育ちたかった
37 :
考える名無しさん:02/05/07 11:08
悪いことをする、悪人=政治家とか、成功した事業家、芸能人とか
に対して、「あいつらは、陰では酷いことをやっているんだよ!」
とか、妬み半分で、したり顔で批評する、自称善人がいるが、
それって善人様が、軽い人格障害=性格の歪みを患っているだけの
ケースもまた多い。
38 :
考える名無しさん:02/05/07 11:17
奇麗事だけを言って何かを成そう、それでも何かを成せるはず
と思う子供では、大人の社会は渡っては行けないだろう。
でもそれは、大人というものはすなわち悪人である、
ということではなくて、やむを得ず成さざるを得ない悪ならば、
成す、のが大人の態度である、ということ。
大局的に見れば、納得出来る行為でなければ、その人物は
いずれは糾弾されて、然るべく場所(?)にまで堕ちる。
親鸞の目的は「救い」にある。説法というのは、
たとえ大勢の人へ向かって語られていても、一個人の心の奥へ
届くもの、届かなければ無意味なものである。
そしてもし、一個人が真摯に聴くなら、
「悪人」という言葉も一般論ではなくまさに「我がこと」として心に響く。
胸に手をあててその言葉を受け止めてみれば、
心の奥底でもなお「いや、自分は善人だ!」と断言できる人間なんて、
一人もいない。人間である以上、
誰も知らない心の奥には「誰でも」必ず、なんらかの「自責の念」を抱いている。
自分だけが知っている自分の悪、それを責める思い…誰にでもあるそれは、
一人一人で重さも苦しさも違っている。
もしそれが、神仏の前に懺悔しても許されまいと思えるほど
大きく重くのしかかっている場合、たとえば密かに殺人を犯した場合、
「こんなひどい事をした大悪人の自分は、たとえ他人は知らなくても
神仏の眼をごまかせるはずはない、絶対に許されるわけがない、どうせ
地獄に堕ちるしかないのだ」…という絶対的な絶望の色を帯びる。
この世の何処にも、あの世にさえも、自分の居場所も救いもない情況…。
多くの場合そうした絶望は自暴自棄を生み、次の犯罪への衝動になったりする。
親鸞は、そのような決定的な絶望をも、救おうとした。
「自分の悪を知っている」ことによって。
「悪人」という言葉に感応する心、それが「正機」。
40 :
考える名無しさん:02/05/07 12:46
>>1 今の「悪人」とは、違うらしい。
幕末に当てはめれば、よく分かると思います。
佐幕と勤王では、勤王派が悪人です。
社会を、正そうとして権力にはむかっていた者を「悪人」と呼んだらしい。
親鸞は悪人に、こそ泥や、破廉恥罪を行う者を想定していない。
41 :
考える名無しさん:02/05/07 13:23
フェミニズムとかクイアとかポスコロとかって悪人正機っぽい。
>>39 そうですね。
中世史のいわゆる「悪党」に近い概念と捉えるのが
本来の解釈に近いのではないかと思っています。
もちろん、その「コトバ」を契機に、新たな概念と
して「悪人正機説」が展開していった、と。
当時の「善行を積む」とは、何よりもまず、寄進すること
だったんです。
崩壊した政治経済秩序とそれによりそう仏教が、彼の前に
あったことから、それ以外の層に語りかける必要が生じた。
それが、「いわんや悪人をや」の人々です。
親鸞の云う善人、悪人とは、悪に対する自覚に関しての善人、悪人である。
45 :
考える名無しさん:02/05/08 03:06
親鸞は他力、道元は自力って言われてるけど、道元も、
多額の借金を抱えて返せる見込みの無い状態の人は、
一番悟りに近いところにいる、っていうようなことを言ってたな。
結局宗教の極致は他力なんでしょうね。
46 :
考える名無しさん:02/05/08 04:40
「悪人正機」という言葉を見るとソクラテスの「不知の知」、キリストの「罪なき者のみこの女を打て」という言葉とダブッてしまういます。いづれも自称「知識人」、「善人」という絶対者に対する皮肉的意味を持っているような気がします。
時空によって限界づけられ、有限の能力しかない相対者としての自分を自覚することから出発しようということではないでしょうか。
47 :
考える名無しさん:02/05/08 04:51
悪人こそ救いが必要なのだ。
48 :
考える名無しさん:02/05/08 06:11
>>43 免罪符の乱発に疑問を抱いた人によってプロテスタントが興されたっていうような事と
共通するモノがあるのかな?
当時としては一種の原理主義運動だった?
まぁいつでも宗教者は原点を求めているのかもしれないけど。
>>46 その通りだと思う。
行為、人間性等の具体的にあれは悪だとか善であるといった字面どうりの
善悪ではないはずだ。翻って何が言いたかったのかといえば時の権力者達
はこぞって喜捨などをして自分たちは徳をつんだと思い、金や権力によっ
て主体的に善人となった。逆にそんな力もない民衆は、自分たちの力のな
さを自覚しつつ、受動的に仏にすがっていたので当時の感覚ではの徳とい
った観点で民衆は悪人と見なされた。そこで親鸞は他力本願こそが正しい
と信じていたのでその己の力のなさを自覚した悪人こそ救われると説いた
と思われる。
51 :
考える名無しさん:02/05/08 15:37
受動性と能動性ってムズカシイな。
仏教では「あきらめ」をいい意味で使うけど、中途半端な「諦め」を徹底させることが
「明らめ」につながるように思う。
その時、絶対的受動性の中に能動性が生まれるんだろうね。
52 :
考える名無しさん:02/05/08 23:41
「他力」→「念仏」、「原罪」→「祈り」というベクトルには共通のものがあるように思えます。
相対的存在として自己の弱さ、能力の限界の認識、罪の自覚。
↓
自己存在の不安定さの認識。
↓
より確かなもの絶対的なものとの繋がり、すがりによる不安、恐れの克服。
「念仏」「祈り」はそのための機能を果たす。
そこには「自力」はありえず、「善人」の自覚はありえないのです。
53 :
考える名無しさん:02/05/08 23:50
>>52 祈りの先に、自らの力を頼む っていうのがいるのかな。
>「他力」→「念仏」、「原罪」→「祈り」というベクトルには共通のものがあるように思えます。
>相対的存在として自己の弱さ、能力の限界の認識、罪の自覚。
>↓
>自己存在の不安定さの認識。
>↓
>より確かなもの絶対的なものとの繋がり、すがりによる不安、恐れの克服。
↓
己の努力と、神への祈りの他には何も力になるものはない。
じゃんばるじゃんも似たようなこと、言っていたのことよ。
54 :
erbarme dich:02/05/09 00:07
>>52 >>53 「自力」という場合の、「自」の意味が問題だと思います。
仏教学者には、「自我」と「自己」とを使い分ける人が多いですが、
その場合の「自己」は、表層的な「自我」よりもはるかに根源的なもので、
存在そのものと一体化したようなものをさしていると思われます。
そういう意味での「自己」にもとづく「自力」は、
親鸞の「他力」とそれほど違わないものだと思います。
よく文化人と云われる人達が、討論番組で「他力本願的な・・・」と言って、あなたまかせの
無気力と置き換えて使う時があるが、これは親鸞の言う他力とは全く意味が違う。
他力とは、相対的なる他人ではなく、絶対的なる他による真実のはたらき、如来の本願力
なのである。
悪人の自覚は、二種深信中の於いては、機の深信に通ずる。
いずれの行もおよびがたき煩悩具足という信知の上に、本願他力をたのみたてまつる
世界が二種深信である。
≫54
確かに自己の中に普遍的な存在、もしくは普遍的な存在との繋がりを想定できれば「自力」と「他力」との違いは、相対的なものともいえますね。
例えば、西郷隆盛の「敬天人愛」の「天を敬う」という言葉の意味を私は、「自己の中にある自我を越えた超自我的、普遍的なものを敬う」というふうに理解しています。
58 :
考える名無しさん:02/05/09 22:41
>>愚禿釈さん
55については、言葉は世に連れ…なもんで、変化するのよ。
新しい【あらたしい】→【あたらしい】のよーに、って言うまでもないね、んなこと。
ま、親鸞ちゃんのいわんとしていた意味から言葉が違ってたって、気に書ける必要は
あたしら一般人にはないのことよ?。
56で書き込まれたことは、あたしにゃさっぱりわからんのことよ。
出来れば、現代語日本語に翻訳してちょーだいな。
>ま、親鸞ちゃんのいわんとしていた意味から言葉が違ってたって、気に書ける必要は
>あたしら一般人にはないのことよ?。
あれだろ、無知蒙昧な一般人を啓蒙してやろうって親切心だろ(ワラ
そんなこと、気にかけもしないのか一般人のバカさ加減ではあるがな(ワラワラ
58>>
なんで、そんなしゃべり方なんや。
おちょくってんのけ?
62 :
考える名無しさん:02/05/09 23:12
>>60 おちょくってはいないのね〜。こんなかきかたなのね、このスレでは。
64 :
考える名無しさん:02/05/10 00:17
>>59 >あれだろ、無知蒙昧な一般人を啓蒙してやろうって親切心だろ(ワラ
>そんなこと、気にかけもしないのか一般人のバカさ加減ではあるがな(ワラワラ
あれあれ〜?
無知蒙昧はいいけれど「一般人の馬鹿さ加減ではある」?
特定の宗教のなかの、さらに特定の人物の思想について気にも止めないのが おばかさん なの〜
ワラ
とか書いている人の愚かしい発言であることだよ。
と、言ってみるテストのことよ(ワラ。
>特定の宗教のなかの、さらに特定の人物の思想について気にも止めないのが おばかさん なの〜
まったく、その通りだね。
だから無教養なバカだと言われるわけだね。
特定の宗教を背景に生まれ、その宗教が普及することによって人口に膾炙した言葉を、
無知な連中が誤用し始めた。
それを、あたかも正しく、それを教養ある言葉遣いであるかのように振舞うのは、
まさにバカ。
あえて、そんな意味もろくに知らない言葉を使わずに、
「人任せ」とか「無責任」とか、適切な語を使えばいいだけの話。
機の深信とは、自らを無限の過去から深い迷いの中に流転しつづけている凡夫である
と自覚し、そのような苦悩と迷いの中に沈んで、自らの力では生死を超え出る事が出来ない
という自己の罪障の深さを信知する事である。
どうせなら、愚禿釈さんの仏教用語の解説には、
何だかんだと、1000レスまで続いて欲しい。
深く物事を考えていた、先哲の教えならば、
むしろ、一度は徹底的に解説をされて然るべきだ
他力本願とは、神力の助けを借りること
ではないのか? 端的に言って…
神、が自らの内側に内在する、飛び込んで来るか来ないか?
みたいな考え方で、思想を分けることが出来るとも聞くが、
実は宇宙そのものが、神の本体であり、特にその中心に位置する
根源意識・思想を、あえて、神であると捉えると、そこからの距離を
どう感じ取るかで、神が外にあるのか、内にあるのか、
の見方の違いが発生するような気が、俺はしている。
>>68 ちがうな。
無限の力の前に、
自らの有限性を自覚することだな。
我々人類も神の一部であるならば、
中心意識により、人類の絶滅が
志向されることがあっても、何の問題はない、
とか考えることも出来る。
>>69 ちなみに仏教は、
無記だから、神の存在については議論しないし、
諸法無我だから、汎神論のような考え方もとらない。
>>72 それでは、宇宙を司る大いなる意志、みたいなことは全く考えないのか?
運命というものは、どういう仕組み(?)で、成り立つのだろうとか
>>73 人知によって分からないこと、体験できないことについて議論はしない。
世界は有限か無限か、霊魂と身体は同じか、死後の世界はあるのか、など、
形而上の諸問題については(このようなテーマが14あるとされる)議論しない。
釈迦は、このような議論を、
毒矢が刺さった人間が、その矢を放った犯人がどんな人物か一々詮索したり、
それが分かっても、なおも弓や矢の材質や形状を問題にしたりして、
それら全てが解決しなければ、毒矢を抜いて手当てすることを拒否しているようなものだ、
と喩えた。
それは、しかし、人知を超えるものはない、
と断定するものではないということか?
判らないものをうかつに論じることはしない
それでは、自分が一番偉い存在であるという
権威が損なわれるから、という逃げの姿勢だな?
結局は…
釈迦の深層心理とは、かくも惨めなものなのか
確かに、判らないものは判らないから、
そのことに囚われて、
他に出来ることがあるのにそれをサボるな!
ということは、
一般論として判るし、正しいと思うが
>>75-76 釈迦の時代も、このような若者(王家の財務官の息子)が、
当時、話題になっていた形而上の問題について、
釈迦が回答を与えてくれれば弟子になって修行しよう、
と挑発するのに対してした喩え話。
矢の毒という、人生の苦悩、その原因である欲望の炎にまみれ、危ういのに、
いたずらに空虚な議論に耽ることを戒めたもの。
釈迦は、自己を真摯に見つめ、誠実に勤めて生きることを勧める、
「犀の角のようにただ独り歩め」と。
後世のナーガールジュナ(龍樹)が指摘しているように、
アートマン(我)を釈迦は「諸法無我」と三宝印のひとつとして否定しているわけだから、
積極的に死後の世界や霊魂などを否定していると解釈するのが合理的である。
しかし、釈迦は、それよりも、人々が空虚な問題に煩わされて、
明日も不確かな人生の時間を浪費することを戒めたものである。
仏教は、教えのみならず、それと不可分のものとして、実践を大切にする。
だから、かくいう釈迦自体が、それ程までに危ういのだから、
他人の教えなどに、惑わされるなという話だ。
私のことなど、相手にするな!
それが、釈迦の出した究極の答えなら、まだ見込みがあるな
ということぐらいで、釈迦への悪口の話は
一旦これで打ち切ろうと思う。
勿論、反論があるだろうから、
それは、1レスで決めてくれ
>>79 釈迦は最期に、こう言い残す。
「自帰依・自灯明、法帰依・法灯明」
(自らを灯り(激流の中の島)として、
他人をたよりとせず、
法のみを灯(島)として、
他のものをよりどころとしてはいけない)
それでは、私目も、真摯に、法とやらを
学ばせてもらおう。
>>79 釈迦は救世主でもなければ、超越的な神でもない。
彼は自らが悟ったことを、求めに応じて、その者にふさわしいように語って歩いた。
それは、その者が、自己に世間の道理を明かにし、誠実に勤めて生きていくことを勧めるものだ。
もちろん、その実現は、その人自身に、全てが懸かっている。
仏教は、個人が、まさに自分の問題だと受け取るところに、全てが始まり、終わる。
では、人にとって、
究極の問題とは、何か?
という聞き方をしたら
どう答えられる?
何が問題で、それはどう解決すれば良いのか?
と、言い換えても良いが
機の深信は、単なる自己反省ではない。煩悩具足の身という単なる自己反省であっては、
それは自己反省という名の人間に於いて拭いがたい僑慢に他ならず、そこには、自我心、自己愛
が存在する。
86 :
考える名無しさん:02/05/17 00:35
.
87 :
考える名無しさん:02/05/19 20:08
.
本願中の第18願に「唯除五逆誹謗正法」とある。一切の衆生を救済する本願が、「唯除」と叫ぶのは、
なぜであろうか?
この事について御討論願いたい。
89 :
考える名無しさん:02/05/24 21:43
侃々諤々
>>88 流れから言って「唯除の機」の話だね。
宗教板からデムパを召還しないように、
注意してね。
91 :
考える名無しさん:02/05/24 23:06
>>91 いや、何か意味があるわけじゃなくて、
単なるHNみたいなモンです。
ああ、このスレでは「!」でした。
誤解したのなら、ごめんね。
93 :
考える名無しさん:02/05/24 23:49
唯除とは、「唯除といふはたゞのぞくといふことば也」と尊号真像銘文に釈されてある
如く、それは明らかに一切の衆生を救済せんとする如来の誓願における一種の制約、制限
であり、条件である。それは如来の誓願の救済からの除外を意味するものであり、よって、
五逆誹謗正法とは、本来、如来の誓願より漏れるべく除外者を示せるものである。
1、悪人が「死んでも極楽に行く」という利益を享受する。
悪人はその悪事のために苦しんだから、極楽に行く権利を得た。
2、そうであるならば、善人も「極楽に行く」
という利益を享受してしかるべきである。
ここでは悪人とは悪事を犯した者。
布教される側の大多数である「善人」サイドから見ると
「忌むべきもの」でなくてはならない。
「身体障害者なおもて往生す」
もしくは
「被差別部落出身者なおもて往生す」
と同じニュアンス。
さすがに時代状況が違いすぎるか。
>>94 もちろん分かってるとは思うけど、
仏教的には
>ここでは悪人とは悪事を犯した者。
>布教される側の大多数である「善人」サイドから見ると
ということじゃない。
人間の考える世俗の善悪の区別なんて、
無限の救済者(が、もし、おるとしたら)の側からすれば、
「目糞、鼻糞を笑う」程度の差であって、
「(世俗的な意味での)悪事をやってモンは救済せん!」なんて
ケチ臭い「救済者」なんて、信用できんし、インチキ臭い(ワラ)
その程度やったら、オレは落選間違い無し、やな・・・
もし「おる」とすれば、絶対的な救済者やろうから、
「おる」として、それに賭けるしかないがな。
てな話。
まあ、悪人や自覚の無いヤツは、話しにならん、ってことでもあるかな。
なぜ一切の衆生を救済すると誓う本願に「唯五逆と誹謗正法を除く」という言葉が加えられなければならなかった
か。それは、「我が国に生れんと欲」へとの如来の願においては「十方衆生」であったものが、「若し
生れずば正覚を取らじ」と誓うとき、始めてそこに「唯除」せざるをえない衆生の現実相を見出すことになる。
つまり、如来の誓願が真実ならんとし、真に救い遂げようという誓いそのものより、
救われ難い衆生の姿が必然的に見出されてくるのである。
周知のとおり、「五逆」とは殺父、殺母、殺羅漢、破和合僧、出仏身血等であり、
「誹謗正法」とは、正法たる仏法、真理としての法を誹謗することのみでなく、心中
に善因善果の道を破し正法を撥無することである。
98 :
考える名無しさん:02/05/26 03:22
94
はネタka?
<98
ちょっとね。
なんでもそうだけど、なんか業界内部に篭っちゃう議論て、
現実世界への実効性がなくてつまらないくない?
関係者だけで楽しんでるというか…。
普通に誰にでもわかる言葉に展開できないものなの?
…という発想はeazyに過ぎる?
100 :
考える名無しさん:02/05/26 12:17
>99
一理蟻
愚禿釈サンはもうすこしやさしく説明してもらえないもんかn0〜
五逆と言われているものは、何か決まった個々の罪を指すのではなくて、そういう個々
の罪を惹き起こす原因となるものを、それによって暗示しょうとしている。父を殺し、
母を殺し、聖者を殺すなどということは、そういう原因の最も極端に現れた場合であって、
極端の事例をもって、そうした極端にまで発展する可能性を我らの人間性のうちに見出して、それを
五逆と押さえたのである。
102 :
考える名無しさん:02/05/26 16:28
103 :
考える名無しさん:02/05/27 02:50
上の説明では如来の本願がうすっぺらく見えるのは、私だけか?
勉強してみよう!
五逆というような極端な大逆罪は、我らの自己愛のうちにその原因をもつと考える。
自己愛故に、我らは互いに逆らい合うという必然的な社会関係の中に生きているということ、
それが、「逆」という文字の語る意味である。
「逆」が人間の愛を語っていたのに対して、「誹謗正法」というのは人間の知を語るものである。
人間の知は理性と言われる。理性はそれの本質上、智慧に対してただ不信、疑惑という
関係でしか関係しえず、必然的に仏智と背き合うものである。なぜなら、理性は分別意識であるからである。
これは、あらゆるものを相対的、対立的にしか観る事のできない意識で、そこにはいつも自己愛が潜んでいる。
正法を誹謗するということは、理性が求めずしておのずから落ちこんでいく運命なのである。
仏智に対する背反、不信としてのみ存在する人間の知を押さえたものが、誹謗正法である。
106 :
考える名無しさん:02/05/28 01:56
命あるものの全てはどうしようの無いほどに悪をなさねば
生きられない。
命あるもの全てはどこまでいっても救いがたい存在だ。
悪人は自らが救いがたいどうしようもない存在であることを
自覚しているがゆえに阿弥陀如来の慈悲にすがる以外に命あ
るものは救済されることをひしひしと自覚するだろう。
悪人正機とはそういうことなのでは無いだろうか?
107 :
考える名無しさん:02/05/28 01:59
悪人正気説
五逆と誹謗正法という、この二罪が人間の免れることのできない現実相であり、
人間の性格を規定した言葉であり、我々の個人的我の内容なのである。
五逆・誹謗正法は、決して特定の人のみの特定的状況ではなく、人間が生きて
在るということ自体の具体相であり、そのこと自体が罪といえる。
逆謗的存在としての自身を、救いから除外された存在として見出さしめられる。
救われざる身の事実を「唯除」を通して深く覚知せしめられるのである。
悪事を犯しても善事でつぐない、また悪をやめて修善に励む事によって救われようとする
人間の自力作善の心が、真実の法を聞こうとせず、仏智を疑惑する事になる。
仏智を疑惑して、罪福信をもって善本をたのもうとする。しかしそれは、疑心の善人と
いわれるように善人ではあるが仏智を疑う罪において辺地にとまらざるをえない。
諸悪莫作・衆善奉行という「涅槃経」に示された根本徳目は聖道門の教義という
状況的限定性を持つのであって、法蔵比丘既に彌陀と成りて立つる本願成就文に
唯除文あるの要はなく往生は既に決定してある。これ恰も所謂天台本覚思想に
於いて衆生本有の清浄心の如きものの様に思われるのであるが、彌陀成佛を証す
る決定往生の他力なるが所以は、本覚を碍する煩悩の故に不覚を生じ、以て始覚
へと向かうといった自力作善の道を設定せんがための理には非ずして、衆生既に
彌陀成佛の因として決定往生し、この故に念佛また報恩感謝の文句として、限り
なくその呪たるの性格が無化されていったのである。
罪福信とは、罪の原因として悪を恐れ、幸福の原因として善を求めるという、所謂
善因善果、悪因悪果の因果の道理を信ずる事である。しかし、その罪福信によって、
人間は仏智を疑惑し、如来の誓願を疑うのである。仏智疑惑は人間の存在そのものに根ざした、
人間が生きて在ると言う事に於ける罪であり。その事において免れ得ない罪である。
従因向果を旨とし、菩提心の発露を以て開悟への端緒と思惟する聖道門に対し、
本願他力の趣は因果融通して凡聖倶aし、迷悟をともに遣るところに把捉される
、まさに「智度論」に謂う善悪ともに為さざるにあるといってよい。これは衆生
をして一切の自力作善への道を不能ならしめるものであるが、これが所謂宿命論
にあらざる所以は、既に本願成就せる状況下に於いて、最早衆生は念佛を己が善
根の報告手段とし、また悪行の故に自ら念佛の資格なしとする自己判断の無効を
宣せられているのである。
本願に唯除された人間に於ける根源的罪障は、宗教的信念の確立にとって、最後の障壁であろう。
故に、これは第二十願の問題に他ならない。この二十願の立場は「三経往生文類」にあるように、
修諸功徳の第十九願に於いて、定散自力の諸行を修めんとするも、そこに諸行に破れ、
「万善諸行の少善をさしお」いて「善本徳本の名号をえらび」取って念仏の立場に帰するのだが、
なお定散自力の心が離れず、罪福信は、なお残っているのである。この第二十願の不定聚の機に於ける
念仏の選びは、罪障性の自覚の中に、自我心が潜んでいる。
二十願の機は、念仏の立場に帰して、不可思議の名号をとなえながらも、なお執拗な自我心
である罪福信が離れず残る為に、「南無阿弥陀仏」ととなえる念仏を私有化し、私の善根とし、
その功徳を自身の未来の往生の為の徳として振り向けて果遂の誓をたのむのである。
このような人間における最後の在り方をも否定尽くさんとするのが「果し遂げずんば」
という果遂の誓いであり、それは「はたしとげずばといふはついにはたさむとなり」
という大悲の心の徹底である。
行に拠りて獲得すべき往生既になく、信に於きて応ずるの本願なき状況は不安
をもたらすのであるが、よくよくこれを案ずれば、かかる不安は自力作善の残
滓を消滅させ、真に彌陀を教主となして行くことを拒否せんとする我執の産物
たるが知られると同時に、この故に本願成就、決定往生は益々頼もしきものと
なり、煩悩は往生の勝因となるのである。これ、法界縁起に於きて浄染融通せ
る一大縁起が立てられたるが如く、彌陀まさに大悲心に拠りて浄染を無化し、
以て我執の衆生をして正定聚の安心を得さしむるのである。
117 :
■訃報■ :02/06/14 20:58
■大谷光照氏死去 前浄土真宗本願寺派門主
大谷 光照氏(おおたに・こうしょう=前浄土真宗本願寺派門主、元全日本仏教会会長)
14日午後、京都市上京区の病院で死去、90歳。京都市出身。
自宅は京都市下京区大宮通花屋町下ル、西本願寺内。
葬儀・告別式の日取りなどは未定。
1927(昭和2)年、日本有数の仏教教団、浄土真宗本願寺派の23代門主に就任。
昭和天皇のいとこに当たる。教団総長を代表役員とするなど画期的な宗門改革を実行した。
55年から3度、全日本仏教会会長を務め、70年には世界宗教者平和会議京都大会名誉総裁に就任するなど、
各仏教教団の連帯、平和運動に尽力した。
77年、長男の光真・現門主に譲位した。
質問する前に、基礎文献を抑えておきましょう。
まず、親鸞聖人著作索引目録で、「悪」、「悪人」、「機」などの
使用例、引用例を集めてみましょう。
真宗全書など各種全集本の悪人の巻を参照し、論点を把握しましょう。
仏教関係論文目録や、真宗関係論文目録で検索し、悪人を問題にして
書かれている論文と、論文にある参考文献を読んで、何が問題になっ
ているのか、確認しましょう。
弥陀が五劫を思惟せねばならぬ程の苦労は、第十八願の救いからもれる「親鸞一人がため」
にあったということを思い知らされた「本願のかたじけなさ」なのである。それは「ただひとたびの
回心」と言われるように、限りなく流転のなかに埋没してゆく五逆誹謗正法の自己自身の上に起こった、
たった一度だけの救いなのであり、弥陀に気付かされる今まで逆謗の身である我が身に気付かなかった
ところに申し訳ないと如来の苦労にただ念仏せずにはおれないのである。
如来の本願がただ親鸞一人のためであったことが頷かれ、その摂取不捨の本願は、逆謗の自覚の上に、
「親鸞一人」として、成就する本願成就の世界である。大悲は万人におこり、そしてこの成就は、我が身一人一人
に於いて成就するのであって、我が身を離れてそれはない。それは、親鸞一人の成就である。
120 :
考える名無しさん:02/07/10 01:54
愚禿釈親鸞
121 :
考える名無しさん:02/08/01 15:22
しょうき
なんだここ・・???
>>121 ageアラシか?
それとも、なんかのスレを必死に下げようとしてんのか?(ワラ
いずれにしろ、たいして書き込みも無く、
用も無いスレ、ageんなや、アホが!
125 :
考える名無しさん:02/08/21 22:59
保守
あんまりキリスト教の罪とかと比較するのはどうかなと?
なんかもっと庶民的というか、
「ダメ人間」っぽいというか、、、