抗うことができないこの死という名の不可抗力になおも
抗おうとする時、人は第一哲学=形而上学と
出会うことになるだろう。「魂の不死」という形而上学的
観念でしか、不可抗力(暴力)としての死に応答することは、
とてもでないが、かなわないからだ。
形而上学とは本来そういう根源的暴力へのささやかな抵抗
としてあるのに、デリダは形而上学のほうを暴力だとした
わけだが、これは誠に滑稽な話だろう。
どちらに暴力があるのかを見誤ってはならないのである。
らげってさあ、すゴーく哲学的に詳しく、感性的にも鋭いと言うか
敏感な面が有るようにも感じるけど、
実人生の中で、やっぱ苦労とか挫折とかしてるの?
哲学的苦悩じゃなくて、個人的なものとか生活的なものとかで。
だってさー、内面的にあれだけの考えを生み出す、あるいは知識量が高い
人間がどういう、感じなんか知りたいんだよね。
周りの人間なんか、あんましそういう話を、掘り下げてしない人
ばっかだからさ。
でも、らげのその哲学的知識は正規の教育(大学の哲学科とか)
を、通ってきてのものなの?
もちろん個人的には、みずから沢山の本を選んで読んでると思うけれど・・。
それと、キリスト教徒とか?
>>938 実生活上の苦労ねぇ....まぁ、今日も胃が痛い一日
であったことは確かだな(w
しかし、見知らぬ<他者>と接触していくということは、
ある意味痛みを享受して行くことにほかならないわけで、
その痛みから解放された時の味はまたいいものでもあるね。
だから、休日はある種味気ないかな。
痛みと快感の弁証法がそこでは働かないからね。
人は受苦(Leiden)的あるがゆえ、情熱(Leidenschaft)的に
もなれるとマルクスが言うゆえんだろう。
俺にとっての哲学とは日々出会い、目撃している不条理に
合理的外観を与えてくれるものであり、そうでなければ、
それは哲学の名に値しないと思っている。自分はそういう名の
哲学を好んで学んできたかな。
一応大学の哲学科は卒業しているけど、俺がこのスレで
展開している哲学的知識やその解釈はほとんど邪道だね。
かなり滅茶苦茶なことを言っているので、あまり真に
受けてほしくない(w
それと、哲学の正規教育なるものの実態は、単なる語学
だね。例えば「Dasein」と出てきたら、「現存在」と
訳しましょうという翻訳上のルールを学んだだけという感じ。
尤も、哲学の正規教育にそれ以上のものを求めようする必要
もある意味なくて、それ以上を求めようとすると教授との
仲が険悪になることうけあいなのでね(w
俺のここでのカキコはそういう教授の目からすると、
きっと噴飯ものだと思うよ。
最後に、俺はクリスチャンではありません。
だけど神学には興味があります。そのうちそちら関係の
本を機会があれば色々と読もうと思っています。
因みに、俺が個人的にいままでで一番面白いと
思った哲学書は、柄谷行人の『探究2』(講談社学術文庫)だね。
この書だけは未だ飽きずに今も読み続けている大変
面白い本だよ、これは。
「Holy ground」については今まで色々と喋ってきたが、
ついにこういう解釈に到達したので最後にその解釈を
喋っておこう。
この詞は「君」と名指しされている自分にとってとても大切
だった人がいなくなった(死んだ?)後の世界をまず前提
にしている。つまり「他者喪失後の世界」がその舞台である。
大切な人を失い、その人と過ごした幸福な時だけが記憶として
そこにあるばかりだが、その記憶の大きさとは裏腹に、
大切な人の姿は目の前に二度と現れることはない。幸福な時
の記憶が大きい分だけに、かえってその幸福をもたらして
くれた君と二度と会えないことは、いわば「二重の苦しみ」
として自分に跳ね返ってくる。
「死んでしまえば生きなくていい」
そんなことばかり考えるほどに体はその苦しみに病んだ。
その苦しみを振り払うかのように、自分は君と過ごした
幸福な時を忘れようとした。「昨日までの幸せを喜ぶなんて
ことしない」という決意とともに。
だけど、いなくなった君を焦がれる気持ちは依然として
消えず、それどころかかえって強くなるばかりだった。
いなくなった君をあたかもいるかのように求め続けることは、
日々の生を空回りさせ、蜃気楼のように掴み所のないものに
してしまう。いなくなった君と出遭うことはもはや現実では
く「夢」に等しい。しかし、そんな「夢」を抱き続けながら
過ごす日々の虚しさをAZUKIは敢えてここで肯定するのだ。
「与え続けることでしか満たされない聖地へ辿り着こう」
与え続けることとはいなくなった君になおも愛を与え続け
ようとすることなのだ。無論、もはやいない君に愛を与えても
何も返ってこない。それはあたかも死者に向かって話しかける
ようなもので、極めて虚しい行為だ。
だから、もはやいない君に向かってなおも愛を与え続ける
ことは、まさに「行き場をなくした情熱」であり、その虚しさは
その情熱を無常にもあっさり冷やしてしまう。
いなくなった君の喪失の虚しさを、その喪失にも関わらず、
かつてのように君に愛を与えることで乗り越えようとする様を
AZUKIはこの一節で表現したわけだが、その行為はまたしても
虚しさのなかに挫折する。その挫折感(不確かな気持ち)を
抱えながらまた日々を過ごすが、もはや自分には何も守るもの
がないことを悟る。
「何を祈ろうか」
祈ることなど本当は何もない。どんなに祈ろうと、いなくなった
君が自分の目の前に返ってくることは二度とないからだ。
だから、そういう優しい願いを口にすることは偽善に過ぎない。
だけど、そういう偽善が実現し、「本当に変わればいい」と
想う自分がそこにいることもまた否定できない真実だった。
(つづく)
(
>>941のつづき)
「世界が優しい光にいつか包まれますように」と祈り、
「深い傷よりもいつの日にか愛しい気持ちが残り
ますように」と祈り、「優しい方へ倒れ込んでゆけるように」
と自分は祈った。だけど、
いなくなった君は自分の前へ返っているはずもなかった。
そんなことは始めから分かっていた。だけど、祈ったのだ。
いなくなった君にはもう二度と遭えない。君の居る場所は
聖地のようにこの世からは最も遠い場所だからだ。
それにも関わらず、もう一度君に遭いたいという想いは
募るのだった。祈りはその想いをかえって強くした。
「いつかその足で歩いてゆける時が来たら
聖地へ辿り着ける?」
いなくなった君にそれでも愛を与え続けることは、もはや
虚しささえも通り越している。そういう無償の愛の贈与
をしてさえ、君の逝った聖地は依然として遥か遠いのだ。
聖地とはなんと遠い場所にあるのだろう?であるなら、
そんな祈りでさえも届かない聖地に逝った君のことなど、
はなから忘れるべきだった。だけど、愚かにも、
自分にはそういう都合のよい忘却の術などなかった。
喜ぶなんてことしないと誓ったはずのあの「幸福な時の記憶」
が、昨日のことのように甦る。
出遭うことのない夢をみて過ごすなら、君と出遭う「夢のような
現実」を自分は選ぶ。
そう、自分も君の居る遠い聖地へ自らの足でゆくことを。
(与え続けても返ってこないなら、自らゆくしかないのだ)
「行き場をなくしたココロは
いつか目覚めて
揺れ動く波にのって
きっと生まれるよ」
こうして、いつか来る新たな目覚め(その目覚めの時、いなくなった愛しい君と再会することになるだろう)のために、この詞の
主人公は、二度と目覚ることのない深い眠りに就いたのだ。
そして、行き場をなくした情熱(ココロ)はついにその
安息の場所を手にいれた。
そう、己の命さえついに"与えること(差し出すこと)"によって。
己の命さえも与えるという愛の極限の贈与を、この詞の主人公は
最後になしてみせたのである。
いなくなった愛しいあの人にもう一度聖地で出遭うために。
<Holy ground>とは他者のために己の命でさえ差し出すこと
を厭わせないような、そして、そうすることでしか辿り着けな
いような、愛の極地がそこに現れるような場所だったのだ。
とまぁ、「Holy ground」を"後追い自殺の詞"と
解釈してみたのだけど、邪推かな?
この詞は「きっと生まれるよ」というポジティヴな言葉で
締めくくられているから、自殺の詞には余りみえないけど、
それは「死後の転生」のことを言っているようにもみえる。
「生まれ変わってまた再会しよう」という意味の言葉にみえた。
そして「揺れ動く波」は「輪廻」のメタファーであってね。
なにより決定的なのは「いつか目覚めて」という言葉だが、
目覚めるためには、まず眠らなければならないわけで、
その眠りが表象する死のイメージが、目覚めるという肯定的な
行為の裏で影のようにちらついているわけだね。
「死から輪廻へ。そして輪廻から転生へ。」
こういう道行きが最後の三行の部分で表現されていると思った。
しかし、なにはともあれ、AZUKIがこの「Holy ground」で
表現したかったことは、中原中也の
「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません」
という言葉が意味するのと同じ感情なのではないかな。
こう考えると、「Holy ground」は2ndのなかで、
一番悲しい曲なのかもしれないな。
その次に悲しい曲は「Timeless Sleep」かな。
この詞の
「Timeless Sleep
優しい眠り包まれて何も望まない」
というフレーズ以下は唐突に明るい言葉が散見される
ようになるから、この詞は一見して悲しい詞には見えないけど、
AZUKIの詞において「眠り」とは死の婉曲表現としても
機能しているわけだから、このフレーズ以下の明るさは、
「この世」における明るさではなく、「あの世」で再会した
二人の喜びの情景を詠っているとも言えると思う。
「忘れえぬ喜びの記憶がah-
生命を吹き込むでしょう out live」
だから、ここに言う「忘れえぬ喜びの記憶」とは、
生前における二人で培った喜びの日々のことで、あの世で
再会した二人はまたその生前に培ったその喜びの記憶で
固く結ばれる(その固く結ばれる様を「生命を吹き込む」と
表現したわけだ)でしょう、ということ言いたかったのだろう。
生命を再度吹き込まれるためには、つまり、転生するためには
やはり一度死んでいなければならないわけで、この詞の「私」
も「いなくなった君」を探し求めて、地平線の遥か彼方へと
"die away"したのたかもしない。
永遠に目覚めることのない眠り=Timeless Sleep
の中で見る夢は、おそらく永遠に醒めることはないだろう。
「あの世」とはそういう"永遠に醒めない夢の世界"の
ようなものだね。「Holy ground」と「Tineless Sleep」
の主人公達は、きっとその永遠に醒めない夢の世界で、
いなくなった大切な人と再び出会ったに違いない。
そう考えると、これらの詞は、ある意味、極めて明るい詞
であるのかもしれない。永遠に醒めない夢の世界では、
再会した二人はもう二度と離れ離れになることはないのだから。
(夢の世界には、死=別れはもうないわけだから)。
だから「bad end」は必ずしも「happy end」でないとは
限らないということだね。
しかし、確実に言えることは、永遠に醒めない夢の世界を
手に入れるためには、その代償として、この世における生(身体)
を放棄しなければならないということだ。
この代償はやはり大きいだろう。この代償の大きさからすると、
永遠の醒めない夢の世界へ行くことは、やはり或る悲劇性を
伴わずにはいないということだね。
この意味では、「Holy ground」も「Timeless Sleep」も
或る悲劇性を表現していることには違いないだろう。
946 :
名無しの歩き方@お腹いっぱい。:02/07/22 17:21
>子供の頃何かの本で、人間はこの地上で普通に歩き生活してるが
>空気の重さは人間一人当たり ゴリラ3頭分だか、5頭分だか(うろ覚え)
>ある時それを意識した時、急に重さや、息苦しさを感じた事を思い出した。
ありゃりゃ
>らげ
「Last love song」のc/w「Jewel Fish」の歌詞はどうよ?
それと、以前「Last love song」の種明かしみたいなことしてたけど
やっぱり、中村が「old player」の「old」をわざと歌わないのは
「old」を強調したかったからかなあ?
>>947 「Jewel Fish」、いいね。歌詞については
既に
>>886で書いたので、まぁみてやって下さい。
(意味不明なことを書いているかもしれないけど)
メロディや中村の歌い方もどこか牧歌的で、かつ
のびのびした感じで、好感度大だね。
しかし、歌詞自体は悲しい「別れの詞」であり、
「いつか少しでも
君のいないこれからの日に
優しくなれるように」
という一節は「Timeless Sleep」の
「かろうじて憎しみに変えずいれた
私がんばれたよね?」
という一節と絡めてみると、実に意味深だね。
私をふった君のことが本当は憎い。
でも君を憎まずに優しくいたい。なら、どうするか?
「bury at sea
bury at sea for me」
君を海に葬る。私自身のために。私が君のことを憎まず、
そして、私が優しくいられる唯一の道は、君のことを
微塵の名残もなしに完全に「忘れること」しかない。
その忘却への苦渋と共にある意志が"bury(葬る)"という
言葉になって結晶した、と思う。
それと、「Last love song」の「old player」の部分
だけど、GCスレの住人其の二さんの指摘をうけて、再度、
「Last love song」を聞いてみたよ。で、俺の結論では、
曲の開始から3分13秒のところで、「old」は歌われて
いると思ったね。ただし、発音が「オウルド」と明瞭に
発音されているのではなく、「オウ」と曖昧に発音されて
いるんだよね。「オウ」に続く「ルド」まで発音していると
歌がメロディに遅れをとってしまうから、「ルド」が欠落
してしまったんだと思うよ。
つまり「オウ、プレーヤー」と歌われるほかなかった、と。
個人的なことだが、『first kaleidoscope』以外の
全CDを漸く揃えることができた。色々なCD屋を
巡り歩いて揃えたので、時間がかかってしまった。
(金欠という大きな理由もあるが)
だけど『first kaleidoscope』だけはみつからなかった。
これだけは、amazonに頼るしかないらしい。
色々なCD屋を巡って集めたのは、GARNET CROWコーナー
の各店における充実度具合をサーチする目的もあったのだが、
俺の地元のHMVはGCに冷たいね。
今日みたら『SPARKLE』しか置いてない。シングルは皆無。
売れたからないのではなく、以前よりスペースが縮小されて、
そこに『SPARKLE』が表置きに詰め込まれていただけ。
んで、HMVより小規模な某店では、逆に全シングル、全アルバム
が揃っていて、小規模店もあなどれないと思った。
HMVほどの大手でこの扱いなら、小規模店などでは.....
と勘ぐりを入れていたが、真実はその全く逆だったわけだ。
>君を海に葬る。私自身のために。私が君のことを憎まず、
>そして、私が優しくいられる唯一の道は、君のことを
>微塵の名残もなしに完全に「忘れること」しかない。
指輪か何かを海に投げ捨てるドラマのワンシーンのようだ
>『first kaleidoscope』
HMVのオンライン通販にもあるし、どこの店でも注文すれば来る
>HMVほどの大手でこの扱いなら、小規模店などでは.....
>と勘ぐりを入れていたが、真実はその全く逆だったわけだ。
それぞれ洋楽に強い弱い、邦楽に強い弱いとか店長の裁量とかあるからね
店長もレジに立ってるような店の場合、自分の贔屓のアーティストの作品は店長ばかりに会計してもらうと
なぜか岡本のCDまで揃えてくれるようになる
POSとか関係なしかいっ!!(w
>>950 なるほど。
彼との思い出の品を海に捨てるシーンを思い浮かべると、
「Jewel Fish」のラストの一節は雰囲気でるね。
特に、jewelが散りばめられた指輪なんかをね。
そういや、
>>949で挙げた例の某小規模店には、岡本のCDも
GCコーナーに一緒に置いてあったな。
「未完成な音色」。聞いてみたけど、
確かに、分かりずらい歌詞だ。何かの神話が
元ネタにあるとGCスレにあったけど、何の神話だろ?
この詞には生きる術を失い、「無力さ」に打ちひしがれた
男女二人が登場人物としているように思う。
この詞に言う「闇の国」とは無力な故に生きる方向性が
見えない、つまり、出口を失った生の閉塞感の隠喩か?
で、男は後を振り返らず、その出口を懸命に模索している。
しかし、女はただその後ろで出口の発見を「願うこと」
しかできないほどの底知れぬ無力さに捕らわれている。
女にはその無力さをほとんど「罪」のように感じられている。
そしてその罪にはいつか「裁き」が来ることを悟っている。
「弱者(無力者)必滅の法(ある種の自然淘汰)」による「裁き」が。だけど、それに抗うかのように男は或る「希望」を抱いている。
闇からきっと抜け出せるという希望を。でも、女はその希望が、
「未完成な音色」つまり決して完成することのない希望だと
知っている。
この闇から抜け出すことはきっと「未完」(つまり失敗)に
終わる、と。
「大地に耳をあてて目を閉じたら
君にも感じられた筈の
めぐりくる運命」
この「めぐりくる運命」とは「この世を去ること(=死)」
のことであろう。
大地のその奥から聞こえてくる地獄からの声がその運命を告知
している。
それは生を死へと引きずりこもうとする死の引力。
女にはその声がしっかり聞こえている。
だけど男はその声を振り払い、「未完成な音色」(淡い希望)を
唱い続ける。しかし男にもやがてその「めぐりくる運命」
が分かる時が来ると、女は知っている。
大地からのその呼び声に耳を澄ませば、男にもきっと分かる。
自分達にはもうこの闇から抜け出す力が残されていないことを
女は誰よりも深く悟っていたからだ。
「みつめ合うこと許されず
この闇を抜け出すこと
二人には重すぎた罪
超えることは出来なくて」
男の抱いた希望は未完成な音色のように、はかない希望だった。
無力さという罪はこの二人には乗り越え難く、何より重かった。
そしてその無力さへの、あの「裁き」の時がついに来た。
「ひそやかに勤めを果たす様に
この世界を去りました」
「勤めを果たす様に」という言い方は、
「弱者必滅の法("所詮この世は弱肉強食"という律)」へ
無抵抗に、かつ、素直に従う様をよく表している。
(その律へ素直に従うことで、この二人はこの不条理な律への
あらんかぎりの軽蔑と抵抗を逆になしたのだが)
そして、この無力な二人はこの法に則り、あたかも義務を
果たす様に"心中"した、というより、するほかなかった
(と俺は解釈したんだけど)。
>>952 元ネタの神話は琴(琴座の琴)の名手オルフェウスとその妻である羊飼いエウリディケの悲劇
黄泉の国から地上に完全に出るまで、妻の姿を振り返ってはならないというシーン(日本の神話にも同じ場面がある)が有名だが
エウリディケ・オルフェウスの死のエピソードもかなしい
>>953 「オルフェウスの琴」という神話が元ネタだったのか。
サンクス。
この神話を知ると、「未完成な音色」の
「決してその手を離さずに
振り返らないでいて」
「見つめ合うこと許されず」
という諸フレーズが納得行くものになるね、確かに。
ところで、この神話が意味するところは、「死者は二度と
生き返らない定めにある」ということだろうか。
冥王がオルフェウスとエウリディケに課した試練は、
「見つめ合ってはいけない」ということだが、黄泉の国
まで追いかけて行くほどオルフェウスはエウリディケのこと
を愛していたわけだから、そんな二人に「見つめ合うな」
というほうが実は無理で、これは冥王がしかけた一種の「罠」
なのだろう。つまり、それは死者を再度この世に生還させまい
とする罠なのだが、しかし、死者が蘇生することは神話の
世界ならいざ知らず、現実の世界では決してありえないこと。
この点、この物語は神話の形態を取っているけど、結末は
いたって現実的だったりする。
死んだエウリディケは"当然のように"生き返らなかった
わけだから。
そしてオルフェウスは回帰してきたその「現実」に直面して
気が狂うわけだが、「現実」とはそのように人を狂わせる
に足るほど「無情ということ」なのだろう。
いかに永久の愛を誓おうと、死とともに来る永久の別れは
たとえ冥王の力をもってしても越えることは出来ないという
ことをこの神話は教えているように思う。
AZUKIがみつめているのも、そのような「無情の現実」
なのであろう。
>>954 「オルフェウスの琴」のリンクを貼ってくれて、サンクス。
御蔭で「未完成な音色」への理解が深まったよ。
それと「今日、ナニカノハズミで生きている」の歌詞だけど、
検索してgetすることに成功した。
なので、そのうち(明日か明後日)感想書きます。
>>954 うーん。横レスで申し訳ないがタイトルからしてすごい詞だね。
諸行無常というか、この世界の曖昧さ、複雑さをうまく表現してて、やっぱり凄い才能だなと思う。
本当、この世界(人間が認識できる世界)はあいまいで不確定で移ろいやすい。
例えば物質を構成する最小単位とされる素粒子は
力や意味や性質であって物理的実体じゃないそうだし、
他に遺伝子やカオス理論なんかもこの世界の曖昧さ、複雑さを教えてくれる。
でもその一方、世の中には霊能者や超能力者という者もいる。
世界はあいまいで常に流動的であるハズなのに、彼らは未来を正確に予知出来たりする。
普通の人でも虫の知らせとか、ユング言うところのシンクロ二シティ(意味ある偶然)ような科学では説明出来ないような
経験はあると思う。
果たして我々は「今日、ナニカノハズミデ生きている」のか?
それとも・・・。
いつもながら恣意的な解釈だな・・・。
哲学と科学とスピリチュアリズム(今はニューエイジって言うのかな?)関係の
本を同時に読んでるので頭がさらにおかしくなってる(藁
それと「未完成な音色」も興味深くていい曲だよね。
>らげ
もうすぐ黄泉の国を出るぞというときに
オルフェウスはエウリディケの足音が聞こえなくなって振り向いたという説もあるよ
手を繋いでるのに彼女の存在を信じきれなかったというのは2人の愛が未完成だったということか?
結局、オルフェウスが殺され黄泉の国へ行くことで2人は再開できるというのも意味深げ
日本の神話の伊耶那岐の命・伊耶那美の命の話もおもしろいので調べてみるといいよ
「今日、ナニカノハズミデ生きている」についてだけど、
読んでみると、なるほど、これは確かにAZUKIの詞だという
感じだね。
今日ナニカノハズミデ生きているとは、目指すべき目的を
喪失した生の様相のことのように思う。"未来"という目的が
あるのだが、どうもそれは自分が遠き日に呼んでいたそれとは
また違う。それは未来が変わったからではなく、自分の気持ちが
変わったから未来がかつて夢見ていたのとは違って見えている。
そのことはちゃんと分かっている。だから、
「変わりゆく気持ち抱いて
幸せだと言い切れよ」
と自分に言い聞かす。未来が変わったのではない、
自分が変わったのだ、と。今ある未来は自分がかつて望んだ
未来だ、その到来に喜べ、と。だけど、そんな変わりゆく
気持ちのなか、変えられぬ願いもある。それは夢のある未来を
求めるという気持ち。それだけは変えられない。だけど、
変わりゆく気持ちは、未来をかつて夢見たものとは異質のもの
に見えさせてしまう。そしてまた夢をみては、これは違うと
思ってしまう。まさに不毛な堂々巡り。
「同じ世界に立ち尽くす」
そういう同じ世界に立ち尽くす不毛な堂々巡りに
僕らは戸惑う。ドアの向こうにはまたドアがある。
目的(goal)が定まらない酔うような不安定な生。
生きている感じがしない。
だけど、生きた確たる証は残したい。でも、今の二人には
それが出来ない。出来ることはドアの向こうにあるドアを
開けまたその向こうにあるドア開け、駆け抜けるように
「限りなき今」を"衝動"とともに生きることだけ。
「限りなき今を
ナニカノハズミデ生きている」
>>958 なるほど、「オルフェウスの琴」と一口にいっても、
様々なパターンがあるのだね。おそらく歴史を通じて
この神話が伝承されていくうちに、様々に脚色が
加えられていったのだろう。
(批評のオリジンをそこにみることもできるだろう。その意味で
伝言ゲームなんかも批評だよ。そこでは初期情報が他人に
伝えられ解釈されていくうちに、最後には別の情報に変化
しているからね。無論、伝言ゲームは情報がいかに他人に
正確に伝わりにくいかを利用したゲームで、正確に伝わり
にくい情報を逆に正確に伝えたチームが勝つゲームだが、しかし
正確に情報を伝えたいなら、なにも人間を使う必要はないね。
コンピューターにでもやらせればよい。だから、コンピューター
とは異なる人の脳の弁別素性とはかえって「誤読する能力」
にこそあるといってもよいかもしれない。
だから誤読は恥ではない。それはむしろ人間性である。だから
コンピューターが誤読するとすれば、それはコンピューター
がそれだけ人間の脳に近づいたということを意味するだけ
であろう。)
それと日本の神話も面白そうだね。今度調べてみようかな。
961 :
考える名無しさん:02/07/28 23:29
「私がハイデガーだけど何か質問ある?」ていうスレはどこいったの?
「blue bird」なんかはメーテルリンクの『青い鳥』
を意識して作詞されているのかな?『青い鳥』は
幸せをもたらすとされる青い鳥を病気の少女のために
チルチルとミチルが探し歩き、見つからなかった挙げ句に
家へ帰ったら、そこにあれほど探し求めていた青い鳥が
いたという物語だけど、この物語の結末は、その青い鳥を
病気の少女に渡そうとする時に、その青い鳥を逃がして
しまうんだよね。
そして物語はまた振出しに逆戻りというように、この物語は
循環構造的に構成されているわけだが、これは幸せだと夢
みていたことが実際手に入れてみると、もう幸せではなく
なっている、だから、また新たな幸せを追い続けなければ
ならないという欲望の無窮の反復を意味しているように思う。
(或いは、幸せとはそう簡単には手に入らないものだと
いうことをメーテルリンクは諭したかったのかもしれない。)
で、この『青い鳥』はしばしば誤解されていて、この物語は
チルチルとミチルが青い鳥を自分達の家で発見して、幸せは
身近なとこにあるという教訓を残して終わると思われているが、というよりそういう話しの筋だと自分も思っていたが、
メーテルリンク自身はチルチル達の努力を無に帰すかのように、
幸せの青い鳥を彼らの手から再度逃がしてしまう結末を
用意していたわけだ。メーテルリンクとしては、幸せは
遠くにあるのではなくあなたのすぐ隣にあるのだよ、という
こともこの戯曲を通して言いたかったのであろうが、力点は
その身近にある幸せさえもいつかはするりとどこかへ逃れて
いってしまうという或る不条理さこそ置かれているように
思う。
人は常に欠如を抱えていて、たとえその欠如が全て満たされて
もその欠如が満たされたことにさえ欠如を覚えてしまうほどに、
人は欠如とともに実存しているというか、そういうことを
言いたかったのではないか?
そうだとすると、青い鳥はチルチル達の手から勝手に逃げた
というより、チルチル達が敢えて逃がしたのかもしれない。
あたかも満たされることを拒絶するかのように。
963 :
考える名無しさん:02/07/29 16:21
しつこいようですが、
「私がハイデガーだけど何か質問ある?」ていうスレはどこいったの?
それで勉強しようとおもうのですが。
964 :
考える名無しさん:02/07/29 16:26
そんなにしあわせになりたいのかい。
965 :
考える名無しさん:02/07/29 21:08
らげさんは、院には行かれたんですか?
柄谷の探求以外にリスペクト
している本等あったら教えてください。
あ、GCのファースト買いました。
>>936 さぁ?俺は知らないです。スマソ。
>>937 メーテルリンクは案外そういいたかったのかも。
幸せの青い鳥をいつまでも追い続けても、結局
は徒労に終わるのだから、幸福を追いかけること自体
やめたら?とね。まあ、しかし、幸せの青い鳥を
追いかけること(幸福を追求すること)を放棄した
とたん、幸せの青い鳥は自分達の前に現れたというのが
『青い鳥』の結末なのだから、幸福の追求を断念すること
でかえって得られるような"逆説的な幸福"もあるということ
もメーテルリンクは示唆してもいるだろう。いずれにせよ、
幸福を志向していることには相違はないのだけど。
たとえ、それが幸福を拒絶することで得られる"裏返し幸福"
であろうと、それが幸福の名を持っていることに
相違はないのだから。
>>965 大学院には行ってません。学部だけですね。
すごいと思った本は
大澤真幸の『行為の代数学』(青土社)
広松渉の『世界の共同主観的存在構造』(講談社学術文庫)
などでしょうか。
(前者の著作はヘーゲルを、後者の著作はフッサールを、
それぞれ過去の無用の長物として葬り去るに足るほどの著作
だ、などと妄言してみる。しかもこれらの著作はヘーゲルや
フッサールの著作と違って、論述の仕方が鮮明で解りやすく、
なにより日本語でそのまま書かれているので翻訳による
バイヤスがないのが嬉しい。難解な西洋の原書を読む苦労
がないのが嬉しい。原書読むだけで脳疲労を起こしてては、
それをもとに考える余力が残らないから、日本語で書かれた
哲学書はとても重宝する。まぁ、難しい西洋の文献を読むのが
自分としてはめんどくさくて嫌なだけなのだけど(w))
あと、『first soundscope』買ったのですか?
そりゃいいですね。
よかったら、感想など聞かせて下さい。
GCスレに(あんなクソスレを未だに覗いてる俺萎え)
「『好きなものだけをやってればいい』では済まなくなってきている」(by中村?)
とあったけど
「GC終わったな」って印象。AZUKIのエッセイもそうだけど
本人の口から聴かされるとやっぱり萎える。
まぁ、結構売れてきたからしょうがないよね。でもただの「商品」を聴く気にはなれない。
というわけでこれをいい機会と捉え、俺もここを含め、すべてのGC関連スレから撤退しようと思う。
らげさん、他の皆さん、今まで楽しませてくれてサンクス。
またGCが「好きなことだけやってればいい」時代に戻れたら(多分無理だろうけど)
どこかでお会いしましょう。では。
>GCスレの住人さん
ずっとROMってただけだけど今まで楽しませてくれてサンクス
で、俺はというとGCが変わってきていることはGCスレの住人さんと同様でわかってるけど
「好きなことだけやってればいい」時代が後腐れらしきものにずっと突入しないと
非常に前向きに予想しつつ、これからもGCに注目していきたい。
970 :
luciferase:02/08/01 16:36
>968
おつかれさまです。
実際メロディーが変わってきてますね。
でも中村の声は変わらないし、あずきの歌詞は注文がきても変えないだろうから
基本的には変わらないのではと。
まだまだ、初期のストックがカップリングなんかで出てくるだろうから
まだまだ応援するよ。
>>968 GCスレの住人さんには、大変お世話になった。
約4ヶ月の長きに渡り、自分の駄文に粘り強く
好意的なレスを沢山つけて頂いたことを心から
感謝します。GCスレの住人さんがいなかったなら、
このスレはきっと空虚なものとなっていたでしょう。
今まで、ありがとうございました。
自分としては、『first kaleidoscope』以外の全曲を
聴いた感想として、メロディも詞も後期の作品のほうが
好きだったりする。特に詞は後期のほうがうまくなって
いると個人的に思う。単純に言って「Mysterious eyes」
や「君の家〜」より「call my name」や「Holy ground」
のほうがうまいと思う。なので、今後どうなるか知らないけど、
期待しています。
AZUKIは宇多田ヒカルより作詞の力があると思うのでね。
宇多田の「Letters」を解読するスレが哲学板にあって、
そこにその詞がupされていて、読んでみたけど、解釈をそそる
詞ではなかった。宇多田の声も野太いというか、良家の育ち
に支えられた確固たる生活力が背景にあるのだろうか、
はかなさがないね。別に宇多田は売れなくても、親の遺産で
飯が食えるわけだから、こういうのは頂けない。
「チープな贋作」しか買えない生活は宇多田には無縁なのだ。
(関係ないこといって、スマソ)
>らげ
「チープな贋作」で思い出したけど
レンブラントは自分の作品も含めて作品を買ったり売ったりして値を動かすことを
楽しんでいたらしいということを聞いたことがある
意外に「call my name」の中で「チープな贋作」を扱ってるのはレンブラントだったりして
ということもないかw
973 :
考える名無しさん:02/08/03 01:30
>>972 「call my name」に登場する二人は、画商としての
レンブラントから贋作を買った、と。
もしそうだとすると、この詞の時代設定は17世紀
ということになるね。もしこの詞に「ビデオ」とか「TV」
というものが出てくれば、時代設定は明らかに我々の
生きる現代だけど、この詞にはそういう時代設定を特定し得る
ものが特に出てこないので、逆にそういう解釈も許容される
と思う。「call my name」の詞の時代設定が実は17世紀
で、ここに出てくる二人は実はオランダ人だとすると、
詞の印象が一変して実に面白い。
まさか、この二人が17世紀の人だとは夢にも思わないからね。
(おそらくこの詞の作者のAZUKIでさえも)。だから、
そういう意味で、意表をつく実に鋭い読みだと思いましたよ。
>>973 Rage Against The Machineについては、
アルカイダによるWTCテロの後でも、なお白々しく
続くアングロサクソン・キャピタリズムの強かな現実に
驚異せよ、と言っておこう。
たとえ、強行路線を突っ走り、支配体制に度でかい爆弾を
くらわせたとしても、その結果は、土木建築資本と武器商人
が漁夫の利を得るだけだ、ということを知るべきである。
Rage Against The Machineというバンド名も
涙をそそるものがある。
機械打ち壊し運動(ラッダイト運動)そのまんまだからね。
しかし、ここにいうMachineは社会構造(「牢獄」と形容される)
のことも意味するようで、「自由を圧殺する牢獄ような
社会体制への怒り」というのが、バンド名の由来らしい。
「ああ、俺は自分の敵を知っている
それは俺に己と戦えと教えた教師たち
妥協、順応、同化、
従順、無知、偽善、獰猛
エリート
こういうものがアメリカン・ドリームってやつなのさ」
(「KNOW YOUR ENEMY」)
アメリカン・ドリームを思いきり皮肉っている。
貴重な証言だ。
鬼塚ちひろは?
>>(横レス失礼)
らげさん、皆さん、どうもありがとうございました。
このスレがなかったら、相変わらずボンヤリと2chをながめ、
ボンヤリとGCの曲を聴くだけだったでしょう。
若い頃から音楽は聴いていますが、GCみたいなアーティストに
出会うことが生き甲斐で、音楽ファンを続けてるようなものです。
GCは詞も好きですが、中村さんの極めてオーソドックスなスタ
イルの音楽指向(とりわけ最近の”pray”のようなトラディショ
ナルな要素を含めて)にもまだまだ可能性を感じています。
さてこれと関係しますが、このまえ京都の街を歩いていて気がつ
いたことがあります。
京都を南北に地下鉄が貫く、烏丸通り(からすまどおり)という
大きな通りがあるんですが、京都人の中村由利さんからすると、
案外garnet crow という名前の由来はこの辺にあるんじゃないで
しょうか?
ある意味で古風ともいえる普遍性を持ったGCの音楽スタイルと、
千年の古都の地名は、妙に符合するものを感じてしまいました。
京都の街はまだまだローカルな香りがあり、「東京の街を歩くの
が怖い」という人にも和むものがあるようです。
さてそんな妄想をいだいて脇道に入った私ですが、なんと目の前に
「あずき」(AZUKI)という居酒屋(バー?)が現れたではありません
か!
(これはホントの話です。この話を覚えているのも、この時の
強烈な印象のおかげ・・・)
さて長々駄レスすみません。
それではまた。
このスレもあと少しで終わりですか。
このスレは自分にとって得るものが非常に多かったと思います。
らげさん、有意義な時間を楽しませてくれてありがとう。
>>978 よく知らないけど、歌はうまいね。
>>979 詞にも旧仮名遣いが時々出てくるから、「古風」という
のはその通りですよね。詞によく出てくる「はかなさ」
というのも「幽玄」という古の美意識と共鳴するものがある。
(これらは「伝統への回帰」というべき現象だが、これは
最近の音楽シーンの一つの潮流になりつつある。例えば、
元ちとせの音楽は沖縄の伝統音楽を継承しているし、
三味線を巧みに操る吉田兄弟(だったっけ?)も活躍している。
音楽シーンもいよいよポストモダニズムの向こう側へ行き、
コミュタリアン化しつつあるということだろうか。
だけど、Rageのロック音楽はモダニズムの水準でまだ
ふんばっているようだが。というより、ロックという音楽形式
がそもそもモダニズムと共振して出てきたというべきか。)
「烏丸通り」とバー「あずき」。これも不思議な符合ですね。
偶然の重なり合いが運命の輪を織りなして行くということで
しょうか。まさにmysteriousですね。
とまぁ、興味は尽きないところですが、長々とお付き合い
頂き、ありがとうございました、カミーユさん。
>>980 いやぁ、何か有意義で得るものを提供できたなら、
こちらこそ光栄です。
初期のころからこのスレを見守ってくれて、
どうもありがとうございました、GCスレの難民さん。
難しいことかけないからこのスレずっとROMってたんだけど
もうすぐ終わりってことで
色々な解釈読ませて頂いて楽しかったです
らげさん他ここの住人さん ありがとうございました
Hey yo, and dick with this...uggh!
Word is born
Fight the war, fuck the norm
Now I got no patience
So sick of complacence
With the D the E the F the I the A the N the C the E
Mind of a revolutionary
So clear the lane
The finger to the land of the chains
What? The land of the free?
Whoever told you that is your enemy?
Now something must be done
About vengeance, a badge and a gun
'Cause I'll rip the mike, rip the stage, rip the system
I was born to rage against 'em
Now action must be taken
We don't need the key
We'll break in
AZUKIの詞の世界観の特徴をまとめると、
それは所謂「二世界説」というのになるかな。
具体的には、それは「この世」と「あの世」とか、
「一切が流れる無常の世界」と「一切が停止している
永遠の世界」、ということになろう。
AZUKIは自らの詞作のモチーフは「諸行無常」にあると
自己解説しているのだが、その無常に流れる世界に対する
或る「虚しさ」の情感もその詞のなかで表明していると思う。
ところで、何故、流れ行く無常の世界が「虚しい」と
感じられてしまうのだろうか?
それは、おそらく、本当は焦がれている永遠の世界との
遠い距離感がそこに露呈してしまっているからだろう。
確かに、この世は無常の世であって、それ以上でもそれ以下
でもない。つまり、この世は「単に」無常なのである。
その単に無常であるこの世に虚しさという異和を抱けるのは、
永遠という観念が他方であるからなのである。
無常のこの世は永遠の世界とは程遠い姿にあるが故、
この世は虚しいと感じられてしまうのである。
だから、諸行無常の世を或る虚しさと共に詠うAZUKIは、
それだけ他方では切に永遠の世界を希求してもいるという
ことになろう。
「流れ行く」というある意味この世では当然のことがわざわざ
言葉にして表現したいと思う程にインプレッションを与える
ものたり得るのは、それがまさに自分が希求して止まない
あの「永遠」を無碍に否定し去ってしまうからなのであろう。
だから、流れ行く無常の世を詠い続けるAZUKIのその詞には、
永遠を否定し去るものへの密やかな"Rage(怒り)"も宿って
いるのである。
その意味では、AZUKIの詞の主題はかえって「永遠」のほうに
こそ在るというべきなのかもしれない。
>>982 いままでロムってくれて、ありがとう。
永遠を希求することが、無常の世を虚しく見えさせて
しまうと先に言った。しかしながら、我々の「生」とは、
その無常の世のなかでしか展開し得ないものである。
であるなら、永遠を希求することは、その反映として、
無常の世にしか存在し得ない我々の生をも虚しくしてしまう
ことになろう。つまり、そういう生の虚脱感や倦怠感
といったものは、永遠を希求することのいわば代償として
あるのである。
無論、この代償は余りに大きいに違いない。
その代償の甚大さに直面する時、人は裏返すようにして、
永遠を希求することのほうにかえって虚しさを覚える
ようになるだろう。
無常の世が虚しいのではなく、永遠を希求することのほうが
虚しく思われてくるのだ。
つまり、ここで或る「逆転」が生じるて来るのである。
そして、その逆転の結果として、無常の世はなんら虚しいもの
ではなくなってくる。
なぜなら、今や虚しいのは永遠のほうなのだから。
やがて、この逆転劇は、AZUKIの詞においても、その姿を
現わすことになる。
「Naked Story」や「スカイ・ブルー」がまさにその
逆転劇の産物である。
これらの詞を読んで、これらは本当にあのAZUKIが詠んだ詞
なのか?と疑った人もいたに違いない。
しかし、虚しさの位相が、かなりの必然性を伴って、
無常から永遠に移ることがあることを知った今、これらの詞は
紛れもないAZUKIの詞であることを知ることが出来ると思う。
だから、AZUKIは「Naked Story」や「スカイ・ブルー」
でその詞作の方向性を転換したのではない。
ただ、虚しさの位置を無常から永遠の方に"ずらした"のだ。
その結果、たとえ無常であろうとも、この世を肯定する
ような詞が紡ぎ出されたのである。だから、
AZUKIの詞作の本質には、このような方向へと発展する可能性
がもとから秘められていたと言うべきなのである。
つまりここには"転向"など始めからなかったのだ。
.........そして、おそらくこれからも。
『千や千尋の神隠し』を観た。
で、印象に残ったのは、千尋の優しさと共に千尋の両親の
ふがいなさだね。この両親は自分の不注意から、湯婆婆という
魔女によって豚に変えられてしまう。で、千尋は両親を
もとの姿に戻すべく、色々と尽力をし、両親を救うことに
成功する。その過程で、千尋は色々と活躍し、ハクやカオナシ
などの異世界の住人達を救ったりもする。だけど、
その千尋の活躍の間、両親は依然、豚のまま。
そして、この両親は我が子についに救われることになる。
このコントラストは面白い。
なにせ、親より子(しかも少女)のほうが立派に描かれて
いるからね。この親は実にだらしないんだ。
豚にされた理由は彼らの「無銭飲食」なんだからね。
湯婆婆の仕切る街の食べ物を勝手に食べて、その罰として豚に
されただけ。いわば、自業自得だね、これは。
そんな両親でも、千尋はけなげに気遣い、元の姿に戻そう
と尽力する。
千尋(子供)と両親(大人)の間にあるこのコントラストは、
見逃せないポイントだと思う。
「子供は大人よりも実は立派」という逆説がここには
あるのだから。
で、千尋は両親を元の姿に戻すべく、湯婆婆の下で働く
ことになるのだが、その過程で、千尋は強く成長していく
んだね。しかし、千尋のその成長の間も、やはり両親は
豚のままで何もしない。ただブヒブヒいっているだけ。
千尋を強く成長させたのは、両親を救いたいという想い
なのだが、だけどやはり両親は豚なんだね。子を成長させる
のは親の役目だけど、この両親はその役目を果たさないどころ
か、かえって子である千尋に救われたりする。
宮崎監督のある種のアイロニーが、ここに見え隠れして
いると思うな。
そして、千尋の両親は千尋に救われ、元の姿に戻れたの
だけど、しかし、両親の口からは千尋への感謝の言葉はない。
勿論、自分達が実は千尋に救われたなどとは知らないし、
千尋もそれを説明しようとしないから、ある意味それは
当然だったかもしれない。
説明しても、大人にとっては夢物語として相手にされないのを
千尋はあたかも悟っているかのように、千尋はなにも語らない。
ただ、異世界で別れたハクのことを想うかのように、
後ろを振り返り、物語は終わる。ところで、
このラストの場面は念願だった親との感動の再会の場面なのに、
そこに何も感動はない。あるのは、ハクとの別れの悲しさ
だけなんだね。
このことは千尋のなかでは、もはや両親よりもハクのほうが
重要な存在になっていたことを意味していると思う。
つまり、ここにおいて千尋は所謂「親離れ」を果たした
のだろう。
『千と千尋の神隠し』とは、それ故、千尋という一人の少女が
異世界の他者と交わることで親離れをするまでの成長を描いた
物語なのだろう。それに連動するかのように、湯婆婆の子供も
自分の足で立つことをおぼえ、カオナシは自分の居場所を
見つけたのである。つまり、湯婆婆の子供やカオナシにとって
千尋こそが異世界の他者だったと言える。
このように、千尋を中心とした様々なる成長の諸相が、
この物語には描かれているのである。