>>104 だから「悪とは…」「善とは…」という説明のことだよ。
107 :
考える名無しさん:02/03/20 23:19
善悪を悩んでる奴は法律に従うか
神を認めろ!
108 :
考える名無しさん:02/03/20 23:21
110 :
考える名無しさん:02/03/20 23:31
>>109 なるほど・・・。
いや、ちょっとまて、
>>106 って全然説明になってないな。
君の言っている
「「悪とは…」「善とは…」という説明」ってのは、
「善悪」に対する各個人の考え方」のことだろ。
俺が
>>100 で言ったのは「善悪」それ自体についての共通認識の話だよ。
つまり、
>>106 が君の認識なら、
>>102 は全然検討違いってこと。
111 :
考える名無しさん:02/03/20 23:34
誰にも善・悪はあるさ。善悪で人を見るのは西洋流だね。
もう流行らないよ。
むしろ人間には善悪両者があるという前提で、むしろ善悪が変化する存在
と見たほうがいい。善悪など二項対立的なものが変化するとみるべきである。
112 :
考える名無しさん:02/03/20 23:38
つまり儒教でいうところの陰陽剛柔だね。つまり人間には善悪両面があり善悪はっきり
二分するのは無意味。むしろそうした対立した概念が変化する存在と見るほうが理解しやすい
のではないだろうか。
113 :
◆Jw4.nqFk :02/03/20 23:42
55>6さん まー、なんでもいいよ。。。あなたの意見も尊重するよ。
>>110 >君の言っている
>「「悪とは…」「善とは…」という説明」ってのは、
>「善悪」に対する各個人の考え方」のことだろ。
そうです。
> 俺が
>>100 で言ったのは「善悪」それ自体についての共通認識の話だよ。
私は、「それ自体についての共通認識」というのが確固たるものではない、と言っているのです。
「善悪とは○○というものだ。ゆえに人間は善である」と言うと
「いや、△△だから悪だろう」とか「何言ってんだ、□□だよ。だから善」という
際限無い循環におちいるでしょう。
これを、私は善悪は幻たるゆえんだとしています。
例えば「人間は存在する」という言明であれば、「いや俺は存在しないと思う」という
人はいないでしょう。このような確実性が善悪の観念には無い、という意味で
狭い意味での共通認識は無い、と私は言っています。
日本人に「おい、ゼンアクって知ってるか」と聞けば「ああ、善悪ね」と反応するでしょう。
この反応は善悪という言葉があるからこそできるものです。
「おい、ハバイアウジェって知ってるか」と聞いたとしても「はぁ? 何それ」という
反応が返ってくるでしょう。そんな言葉は存在しないからです。
このような意味での「共通認識」は存在します。
しかし、なんか頭わりーな、俺……。
>>115 自分の頭で考えない奴よりは、全然マシだろ。
117 :
考える名無しさん:02/03/21 00:13
善悪ということになったら何か基準が必要だね。西洋の場合それはキリスト
教。
119 :
考える名無しさん:02/03/21 00:25
>>114 >反応が返ってくるでしょう。そんな言葉は存在しないからです。
>このような意味での「共通認識」は存在します。
だから、それにとどまらないだろう。
「○○はゼンアクどちらだ」と質問したとき、「善だ」、「悪だ」、あるいは「わからない」
といった答えが返ってくるだろう?
「はぁ?なにいってんだ?」とはならないはずだ。
だから、「単に言葉が存在する」だけではなく、
なんらかの意味が認識されていることは確かだし、その意味において、
共通の認識が存在することも間違いない。
(まあ、言葉だけが存在し意味が存在しないというのは言葉というものの機能からういって、
普通ありえないんだが)
そして、「○○は善だ」という人と、「○○は悪だ」という人は、
自分と相手の意見が違うということを認識できるし、
議論を交わすことも可能だ。
大体において、「□□だから善」というような場合の、「□□」において、
そして、「○○は善だ」という人と、「○○は悪だ」という意見の対立が
ある両者についてさえ違うことがあるかい?
「○○が□□であるかどうか」という議論はあっても、
善とする根拠、悪とする根拠において、両者が違うことをいうことはあっても、
相反することをいうことなどあるだろうか?
>>119 > なんらかの意味が認識されていることは確かだ
そうです。なんらかの意味は存在します。
ただ、殊に善悪に関してはそれが確定でないのではないか、というのが私の主張です。
> 議論を交わすことも可能だ。
善悪に関して議論を交すことは、仰る通り可能です。
これ以降の部分、何を仰られたいのかよく分りません。
> 大体において、「□□だから善」というような場合の、「□□」において、
> そして、「○○は善だ」という人と、「○○は悪だ」という意見の対立が
> ある両者についてさえ違うことがあるかい?
文の意味が取れません。
> 「○○が□□であるかどうか」という議論はあっても、
> 善とする根拠、悪とする根拠において、両者が違うことをいうことはあっても、
> 相反することをいうことなどあるだろうか?
この文章もよく意味が取れませんが、議論とは相反する意見が出るものでは?
電波板住人から回答がありました。
14 名前:最電波 :02/03/21 00:45
<<12 うん、そうだね。
一様に善悪で物事を判断しようとする君は烈しく時代遅れということさ。
わかったらさっさと教科書開いてお勉強しなさい
真実が見えてきますよ
>>121 アホか?
誰がどんな物事を善悪で判断しようとしているんだ。
123 :
考える名無しさん:02/03/21 00:56
>>120 >文の意味が取れません。
簡単にいうと、「善悪」についての意見の違いがあったとして、
「善である」「悪である」とする根拠が、意見を異にする両者で、
相反するものであることがあるかどうかということだ。
>この文章もよく意味が取れませんが、議論とは相反する意見が出るものでは?
同じことについての、異なる意見だから、「相反する」ということがいえるのだろう?
対象自体が異なるのなら、それは相反するとはいえない。
>>123 > 「善悪」についての意見の違いがあったとして、
> 「善である」「悪である」とする根拠が、意見を異にする両者で、
> 相反するものであることがあるかどうかということだ
表出している意見が違うのだから、根にある根拠は当然違うのでは?
> 同じことについての、異なる意見だから、「相反する」ということがいえるのだろう?
> 対象自体が異なるのなら、それは相反するとはいえない。
善または悪という同じ対象について論じるとき、異なる意見がでるのではないか
というのが私の主張です。さらに、意見が異なっている以上、それが確定した
存在として存在し得ない、とつながります。
どうも「相反する」という言葉(以前の「矛盾」という言葉)がネックのようですね。
私としては相反する、または矛盾という言葉にこだわる必要は無く、
ただ確定でない、というのが問題なのです。
125 :
考える名無しさん:02/03/21 01:23
>>124 >表出している意見が違うのだから、根にある根拠は当然違うのでは?
違うかどうかという話ではない、「相反するものであるかどうか」という話だよ。
>善または悪という同じ対象について論じるとき、異なる意見がでるのではないか
>というのが私の主張です。さらに、意見が異なっている以上、それが確定した
>存在として存在し得ない、とつながります。
〜
>ただ確定でない、というのが問題なのです。
だから、「それが確定した 存在として存在し得ない」ってのは具体的にどういことなの?
最初から言っているように、ある対象について論じるとき、
異なる意見が出ることはごく当たり前にあることだよ。
「ある対象について、違う意見が出るなら、
その対象について議論することは無意味だ」といっているわけじゃないんだろう?
どう考えても、事柄と意見の峻別ができていないとしか思えない。
「仇討ちが善だ」という主張は「善は仇討ちだ」といっているわけじゃないだろう。
同じように、「仇討ちが悪だ」という主張は「悪は仇討ちだ」といっているわけじゃないだろう。
「仇討ちが善だ」という主張するものと、「仇討ちが悪だ」という主張するものの、
「仇討ち」ではなく「善悪」それそのもについての認識に、どういった違いがあるか指摘できるか?
> だから、「それが確定した 存在として存在し得ない」ってのは具体的にどういことなの?
「地球は存在する」という言明は確固としています。しかし、善悪に関しては
確固とした言明ができない、ということです。
> 異なる意見が出ることはごく当たり前にある
その通りです。従って、善悪に限らず、「それは幻だ」と
言うことができるものは相当数存在すると思います。
> 「ある対象について、違う意見が出るなら、その対象について議論することは無意味だ」といっているわけじゃないんだろう?
議論すること自体は大いに結構です。
> どう考えても、事柄と意見の峻別ができていないとしか思えない。
「事柄と意見の峻別」の意味がよく分らないので、できていないのかも知れません。
> 「仇討ちが善だ」という主張は「善は仇討ちだ」といっているわけじゃないだろう。
> 同じように、「仇討ちが悪だ」という主張は「悪は仇討ちだ」といっているわけじゃないだろう。
「仇討が善だ」というのは「善の中に仇討は含まれる」ということです。同値ではありません。
> 「仇討ちが善だ」という主張するものと、「仇討ちが悪だ」という主張するものの、
> 「仇討ち」ではなく「善悪」それそのもについての認識に、どういった違いがあるか指摘できるか?
例えば、「殺人行為はすべて悪」という認識を持っている者は「仇討は悪」と主張するでしょうし、
「主の恩に報いるのは善であり、そのためにはどのようなことをしてもよい。」という
認識を持っている者は「仇討は善」だと主張するでしょう。
実際、お上と庶民の間では赤穂浪士に対する評価は違います(もっとも、お上が仇討を悪とした理由は
「殺人行為はすべて悪」ではありえませんが。お上の認識は「喧嘩両成敗」といったところでしょうか。
私は詳しくは知りません)。
127 :
考える名無しさん:02/03/21 01:44
>>126 >確固とした言明ができない、ということです。
それは単に、形而上の概念である、ということとどう違うの?
>例えば、「殺人行為はすべて悪」という認識を持っている者は「仇討は悪」と主張するでしょうし、
〜
>私は詳しくは知りません)。
それは、「殺人」と「忠誠」についての認識の違いだろう。
俺の言ってるのは、「善悪」それそのもののについての認識の違いだよ。
>>127 > 形而上の概念である、ということとどう違うの?
すみませんが、私は meta-physics 形而上学という言葉は知っていますが、
それが実際にどのようなものかはよく理解しておりません。
形而上の概念とは実際に自分で体験できない、頭の中だけのもの、という意味でしょうか。
それでしたら、形而上の概念すべてが幻である、とは申せません。
例えば、数学には公理から出発してすべてを演繹していく、というスタイルがありますが
その演繹によって得られた定理は確固たるものだと思います。
> 「善悪」それそのもののについての認識の違い
善悪とは、その性質上「善悪とは…」という言明ができないものである、
たとえ出来たとしてもそれは空虚でなければならない(つまり、出来ない・矛盾)
というのが私の主張でありますから、
>>126 のような説明しかできません。
すでに
>>79 で申しあげておりますように、私には「善悪とは…」という説明ができません。
(何かこの説明はおかしいな……。たとえ矛盾だとしても「悪とは…」という
言明自体はできそうだが。)
ところでこの議論はどこに繋がっていくのでしょう。そもそもあなたは
何が主張したいのですか。何かを主張したいわけではなく、私の意図を
確認したいだけなのでしょうか。
やっぱり何か違うなあ。
俺の言いたいことは、人間に善だの悪だのというような属性はない
っていうことであって、善悪とは確定して存在するかというのは
実はどうでもいい。
しかし、人間に善だの悪だのという属性は無い、ってのの理由として
善悪という観念それ自体がナンセンスというのを持ちだした以上、
これは擁護しなければならない。hmm.
130 :
考える名無しさん:02/03/21 02:31
>>128 >の演繹によって得られた定理は確固たるものだと思います。
では、それらと善悪は何が違うの?
>善悪とは、その性質上「善悪とは…」という言明ができないものである、
>たとえ出来たとしてもそれは空虚でなければならない(つまり、出来ない・矛盾)
>というのが私の主張でありますから、
>>126 のような説明しかできません。
君が「矛盾したものであると規定したから」、「矛盾している」ということを言っているようにしか
読めないよ。
だから、どうして、「善悪」は「矛盾したもの」「空虚なもの」で「なければならない」んだ?
>ところでこの議論はどこに繋がっていくのでしょう。そもそもあなたは
>何が主張したいのですか。何かを主張したいわけではなく、私の意図を
>確認したいだけなのでしょうか。
「善悪は幻想だ」といった主張こそ「幻想だ」というようなことを
言っているつもりだが。
131 :
考える名無しさん:02/03/21 02:34
>>129 >俺の言いたいことは、人間に善だの悪だのというような属性はない
「善だの悪だのというような属性はない」というのは、いったい何をいっていることになるの?
「善悪」は空虚で、矛盾していて、幻想なのだろう?
ぶっちちゃけた話、「なんやらもんやら」なわけだろう。
なぜ、わざわざ「人間にはなんやらもんやらというような属性はない」
などという主張をする必要があるのだ?
132 :
考える名無しさん:02/03/21 02:38
1.あるイデオロギーを持ってるものには各々の立場によった善悪がある。
2.イデオロギーを持たないものには善悪はない。
ってことじゃだめ?
簡単にいやぁそういう事。
>>130 >では、それらと善悪は何が違うの?
まるで違います! 数学的にキチンとしたものは、
全世界の数学者が認めたものなんです。客観性に厳しい科学の世界の話ですよ。
誰もが異論をはさまないような善悪の定義はありますか?
> 君が「矛盾したものであると規定したから」、
> 「矛盾している」ということを言っているようにしか読めないよ。
実はそうなのかも知れません。「人間には善とか悪とかは無くて、
存在しているだけの存在」と言いたいがために、
>>29 に始る
「善悪自体が曖昧」論議に乗ったのかも知れません。
善悪を説明する根拠は空虚でなければならない、というのを否定するためには、
空虚でない、確固たる善悪の定義が出来ねばなりません。そのような定義を出来ますか?
私には
>>90 =92=82 氏がとっても頭のいい人間に思える……。
結局はあの定義でいいのかも知れません。
しかし、スレッド「善悪とは何ですか?」
(
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/philo/1013858932/)
に300レス以上費やされていることは、善悪の観念が確固としていないという
傍証にはならないでしょうか(私はこのスレッドをよく読んでないのでアレですが)。
> 「善悪は幻想だ」といった主張こそ「幻想だ」というようなことを言っているつもりだが。
それは認めます。私の考えはユメマボロシです。
「地球は存在する」という言明に比べたら、カスのようなものでしょう。
>>131 > わざわざ「人間にはなんやらもんやらというような属性はない」
> などという主張をする必要があるのだ?
それがこのスレッドの主題「人間は根本的には悪か善か?」だから、
私は<Bold>このスレッド</Bold>に書込みをしているのです。
> 「善だの悪だのというような属性はない」というのは、いったい何をいっていることになるの?
「人間は根本的には悪か善か?」という問に対しての、私の返事です。
「悪か善か?」と聞かれても「どちらでもない」というだけの話です。
しかしながら私の返事は、
>>1 氏の期待しているものとは
異なっているであろうことは、当初から指摘されている通りです。
>>1 氏に対しては、
>>20 で一応答えたつもりなのですが……。
137 :
考える名無しさん:02/03/21 03:03
>>134 >誰もが異論をはさまないような善悪の定義はありますか?
おそらく、あるだろうね。
そうでなければ、「人間に善だの悪だのというような属性はない」
などという主張自体成立しえないからね。
>善悪を説明する根拠は空虚でなければならない、というのを否定するためには、
>空虚でない、確固たる善悪の定義が出来ねばなりません。
そんな必要は無いね。
何故空虚でなければならないかについて君は根拠を示していない、
根拠を示していない主張については、
根拠が存在しないことを指摘するだけで、否定するには充分だ。
>傍証にはならないでしょうか(私はこのスレッドをよく読んでないのでアレですが)。
ならないね。
逆に、善悪についての議論というものが存在すること自体、
それを論じるものの頭の中に、共通する概念が存在するという証明に他ならない。
138 :
考える名無しさん:02/03/21 03:07
>>135 でも、「人間には無い」というのは、「善悪というものはもともと無い」ってことじゃなくて、
「人間に限定すれば無い」という意味になるんじゃないの?
「善悪」そのものが空虚であるというのなら、「人間には」という主張の仕方自体が
ナンセンスじゃないの。
>>137 > 根拠を示していない主張については、
> 根拠が存在しないことを指摘するだけで、否定するには充分だ。
裁判等の世界ではそうかもしれません。原告側が立証しない限り罪は確定しないでしょう。
「疑わしきは罰せず」というやつですか。
しかし、そうではない一般の命題の場合は、肯定的にあるいは否定的に証明が
なされない限り、その命題は「肯定・否定どちらでもない」のです。
> 逆に、善悪についての議論というものが存在すること自体、
> それを論じるものの頭の中に、共通する概念が存在するという証明に他ならない。
その通りです。「善悪」という概念自体はちゃんと存在しています。
しかし、その概念が確定的に定まらない、と私は申しているのです。
135は確かにその通りなんですけど、「それをいっちゃあ…」ってとこもありますね。
「善」や「悪」という概念は、自己の存在以外に何かしらの存在がある時においては存在しうるのでは?
それが度々出てくる共通の認識というものでしょう。結局「善悪」という概念が人間の感情的な部分により
左右されるのでばその理論体系を確立するのは難しいかもしれません。
>>138 私の一番最初の発言、
>>6 の通り、私は善悪なんてものは元々無いという立場にいます。
「人間には」という部分は、このスレッドは「〈人間には〉善悪はあるか?」という
主題であるから付くのです。だから「人間には」という部分がナンセンスだ、と
言われても、私にはどうしようもありません。
142 :
考える名無しさん:02/03/21 03:16
世界構造を正邪二神の闘争とする宗教が現在の主要宗教の源流となった。
世界の火薬庫といわれる地域の報道を視聴すれば、あながち無理もない。
しかしやおろずのかみがみをまつる国々の宗教も過去現在を通じてある。
黒白を決するを好まず善悪の彼岸を信ずるモンスーン的立場であろうか。
6氏に質問
人間における、善悪という概念を形成する要因となるものは何でしょうか?
>>142 モンスーンって、熱帯地方に降る強烈なにわか雨のことですか?
しかしそのイメージは「善悪の彼岸を信ずる」というイメージとは合わないな。
モンスーンは雨、ってのが間違ってるのかな。
>>143 今まで生きてきた経験、それも特に幼少期での経験が左右する割合が大きいんじゃないでしょうか。
期待されてるのはこういう答えではないのかな?
いやそんな事ないです。ありがとです。
善悪はそれぞれの人間のイデオロギーに依る。
イデオロギーに依るから普遍的な善や悪はありえない。
しかしながら、所詮人間はなんらかのイデオロギーをもつため
個々人の善悪は存在する。
善悪の議論で答えが出ないのは、
それぞれが異なるイデオロギーを基準に議論するから。
ちなみに、現在の日本において用いられている善悪とは
キリスト教の影響が強い。
日本では古来「善」とは自分に気持ちの良いこと、
「悪」とは自分にとって不快なことであった。
したがって、人間が根本的に善か悪かを考える場合
思考の基準となるイデオロギーによって答えは変わる。
「根本的」という言葉を「普遍的に」というつもりで
使用したのなら、答えはない。
私は「根本的」という言葉を「普遍的に」というつもりで
使用したつもりはない。「根本的」とは「根本的」にという意味だ。
皆さんが頭が良く、真剣に議論しているのはよくわかりました。
だが、私は
>>11で書いたとうり。
皆さんにとって、善人か悪人かという自己分析するうえで
そんなに「善」とは「悪」とは考えなくてはいけないのか?
自分を自分で判断すればいいだけではないか・・・。
各個人の捉え方が違うのは、あたりまえである。
私には知識人ぶってるようにしか見えない・・・。
↑考えなくてはいけないんじゃ?何が善で何が悪なのかがわからないうちは
善人か悪人かの自己分析は出来ない様に思うが?1の例をふまえれば、
「友達の成功談を聞いた」…(A)→「喜ぶ」…(B)の間に「これは喜ばなきゃいけないのかな」…(C)
という感情が入るとします。チャクティパットさんが言いたいのはこの(C)が何者なのかという事ですか?
それは天使でも悪魔でもなく感情でしょう。1の例だとその感情が悪なのだと読み取れるが、
その感情を悪と言う根拠は何でしょう?みなさんはそういうことを語ってるんだと思いますが…。
151 :
Маршал Боголюбов:02/03/21 22:26
自然主義か価値情緒主義か、というやつ?
>チャクティパットさん
まずはこれから。(というかもう寝るかもしれないから後の
展開は他の方にお任せするかもしれませんが)
自己分析して「自分は結局の所いい奴だ」と結論しても
他方で「自分以外は皆悪党」という結論が矛盾無く並立
しませんか…?
だとするなら、いくら自己分析を繰り返しても
標題「人間は根本的に善か悪か?」の結論は出せないのでは?
ゆえにみなより普遍的な善悪の定義を論じているのではないかと
思われるのです。
153 :
考える名無しさん:02/03/21 22:37
>>141 立場はわかったから根拠を言えって。
ここんとこ君は自分の思いつきを何の紺根拠も示さずに、
並べ立ててるだけだ。
154 :
考える名無しさん:02/03/22 01:01
善悪とは行為に修飾する言葉ではないか。
善い人間という場合、「善いことをする人間」が省略されているということだと
思われる。ここでは「人間は根本的に」といっているわけだから、題を換言する
と、人間の本能的な行為は善い行為か悪い行為か、ということになるだろう。
それならばむしろ問題は人間が「本能的でなくなる」状態とはいつ始まるのか、
ということになる。そしてここで考えがわかれるかもしれないが、私が思うに、
それは人間が社会化した時、単純に言えば、環境適応した時である。そうして
このとき客観的視点が規範化し、そこで善い悪いが起こるのであれば、本能的
な行為というのは「規範が形成される前の善悪も考えられぬうちに引き起こさ
れる行為」である。そうなると、規範が形成された後もその行為が残存した場合
それは規範から元々はみ出た行為であるから、その意味では(規範の上の)悪で
ある。しかし、その行為が存在する理由は「それが少なくとも規範を形成する
(そして善悪の基準を形成、その後その基準に従う善い行為をしようという働き
を形成する)準備段階」として必要であったからに違いない。その意味で考えれ
ば、善なのである。ようは、このような根源的な考え方であっても見方次第だと
いうことになろう。