いや、違うと思う。
心理板ではセクシャリティネタのスレにしか書き込みしてない。
おそらく、この話題で行われる主張にはいくつかの類型があるってことじゃないの。
私のような主張は大体、クオリア説の人間が激怒して
論理的な話は不可能になって終わってしまうが。
そうか。失礼した。
んじゃ、議論を続けよう。ところで、捨てハンでも使ってもらえると幸いだ。
立場を整理してみる。
まず、「クオリアというものがある」という点について見解は一致している。
そしてそのクオリアの定義についても>268で一致しているといえよう。
で「クオリア説の人間」というのは何を主張する人を言うんだ?
俺はクオリアは絶対に解明できないという主張をする気はない。
解けてくれると非常にありがたいのでな。
「クオリアが解明されうるかどうかは分からんが、
とりあえず現段階では解明されていない」という立場だ。
まあ、気分的には多分無理じゃないかとは思ってるが。
>>273 >で「クオリア説の人間」というのは何を主張する人を言うんだ?
というか、厳密には私が問題にしているのは、
「クオリアが解明できない」と主張しつつ、
「どういった点がどのように問題なのか」
の説明を求めると、怒るだけで全然説明してくれない人のことだよ。
だから、「クオリア説の人間」はちとアバウトすぎると思うが、
「クオリア」を提示した時点で、議論が終わったことにして、
一切の質問を拒否するひとがいること自体は事実だと思う。
クオリアの問題の解決以前に、
なぜ問題になるのかが私には理解できないし、
説明しようとする人に出会ったこともない。
だから、私が理解できていることは、
・ある刺激に対応する脳の状態の認識を「クオリア」と呼んでいる
・「クオリア」は説明できないと主張する人がいる
・私がであった、「クオリア」は説明できないと主張する人は、その理由の説明を断固拒否した
ということだけだ。
確かに、実験的に具体的な現象と対応付けられているわけではないが、
現状の仮説で充分説明できる問題だし、実験の精度以外に、
何が問題になっているのかさっぱりわからない。
そんな連中がいるのか。
……もしかしてそれ、化石行動主義者かなあ。ま、どうでもいいが。
ちょっと言葉の使い方にズレがあるかもしれんな。クオリアというのは、「脳
が認識するということ」ではなく、「認識されているその感覚そのもの」のこ
とだ。
「感覚そのもの」は「感覚そのもの」であって、まず、これを言語化すること
はできない。「赤いと感じた」というのは、便宜的な説明であり、クオリアそ
のものではないということだ。
人間は他人に自己のクオリアを伝える能力を持たない。ただ、それを言語情報
に置き換えて、便宜的な情報疎通を図っているだけだ。
よって、人間には他人のクオリアを感じることもできない。想像するだけで。
それがどのような問題を引き起こすかというと、
つまり人間の意識そのものは観察不可能であるということだ。
本人に自分の意識を観察させてそれを言語化させる方法論はある。
ヴントが提唱した、心理学の一番最初の方法論だ。
だが、これには様々な弊害がある。
最も重大なのは、それが客観的な観察方法ではなく、
本人の主観に縛られる観察方法であるということだ。
つまり、「誰の目から見てもそうだ」という科学的客観性が得られない。
本人の意識そのものを観察できるのは本人の主観だけである以上、
このことは決して避けては通れない。
しかも、実際に語られた情報というのは、
「意識そのもの」ではなく、意識を観察した追想に過ぎない。
つまり、クオリア(あるいは内観)は主観的で定量的ではない。
だからこれ自体を科学的に扱うことは不可能だといわれてきた。
またそのような主張に基づいて誕生したのが、行動主義心理学だ。
最初のそれ、方法論的行動主義は主観的認知という要素を切り捨て、
人間の「表出する行動」だけを科学的に扱うという立場を取っている。
これにも多くの弊害があるのだが、
こうでもしないことには科学的に人間心理を扱うことはできなかった、
というのもまた事実。
これが心理学にとってのクオリアの問題。
>270
>ある刺激を受けたときの脳の状態が、 クオリアそのものでは「無い」
クオリアは脳の状態「そのもの」ではない。
脳の何らかの物質的・電気化学的要因が生じさせる、感覚「そのもの」だ。
特定のクオリアに対応する脳の状態(電気化学的反応)が特定されても、
「その化学的反応が、なぜそのような感覚を生じさせるのか」
という問題への解答にはならない。
それ以前に、「特定のクオリア」は最前の理由で客観的に分析できないし、
「脳の化学的反応」の全貌を解明しようという試みも、
脳のあまりの複雑さがネックとなって壁に突き当たっている。
また、踊りの喩えにおける「差異」は、価値判断の差異であり、
認識される感覚そのものの差異とは関係がない。
また、感覚と実際に差異があることは問題ではない。
「感覚されているその感覚そのもの」を知らなければならない、
これがクオリアの解明に挑むということなのだから。
もっとも、相関性に関しては「ある程度」なら判明しているのは確かだ。
エンドルフィンと感情の関係とかな。
しかし、それは「そのエンドルフィンがなぜそのような感情を生起するか」
の答えを示すことには、少なくとも今のところは繋がっていないのだ。
>>275 >そんな連中がいるのか。
この板の、心脳問題関係スレでのクオリアの話はだいたいそんな感じだけど。
>ちょっと言葉の使い方にズレがあるかもしれんな。クオリアというのは、「脳
>が認識するということ」ではなく、「認識されているその感覚そのもの」のこ
>とだ。
うん、ちょっと認識にズレがあるように思う。
「感覚そのもの」を
「直接認識する」ことができるかどうかという問題がまずあるんじゃないだろうか。
「赤という感覚」も、
「赤の知覚によって引き起こされた脳内の現象を認識に統合したもの」
なわけで、
「赤の知覚によって引き起こされた脳内の現象」と、「認識に統合したもの」
のどちらが「赤という感覚」の「感覚そのもの」なのか。
私は、「感覚そのもの」とは、「赤の知覚によって引き起こされた脳内の現象」であると思う。
「クオリア」というのは、この「感覚そのもの」を、
「認識に統合したもの」を介して理解した言葉であるように思う。
脳の活動においては、認識と身体の現象が、同一の器官で行われているから話がややこしくなるが、
これを、体の姿勢とそれに対する認識に置き換えてみると、
「立っている」という「身体の状態」に対して、それに対する「認識」が存在するが、
この「認識」が、解剖学的な肉体の状態と完全に対応しているかどうかというと、
それにはおのずと違いがある。
その結果、「俺はこんなみっともない立ち方はしてねえ」という感覚の齟齬が起きる。
つまり、身体の「状態の認識」と「実際の身体の状態写した情報から得る認識」は、
同一のものとならない、「同じものでないようなに感じる」のが普通だ。
だから、クオリアはおそらく存在するが、
それはおそらく、外部からの刺激に対する脳(内の一部の神経細胞群)の反応であるだろう。
そして、「クオリア」として「語られていること」は、そういった現象に対する「身体感覚」であって、
その現象そのものではない。
だから、現状の脳神経系の知識で、それが説明できないというのは、
「映画俳優みたいにかっこよく立つオレが撮影できないから写真はのオレの体を写していない」
といっているのと同じことのように思う。
>人間は他人に自己のクオリアを伝える能力を持たない。ただ、それを言語情報
>に置き換えて、便宜的な情報疎通を図っているだけだ。
まったくそのとおり。
>>276 そう、そういった問題は残るね。
というか、そのあたりが、心理学の存在理由のような気がするが。
ふーむ。
科学的なアプローチが無理だってことになってしまうのか・・・。
>278
言葉の定義が違う場合、議論は永久に平行線のままだぞ。
「クオリア」の定義を「客観的に解析可能なもの」の上にスライドさせること
で、「クオリアは解析可能である」という結論を引き出そうとしているな。
そりゃあ、そういう定義の上ではクオリアだろうが何だろうが解析可能だ。
>外部からの刺激に対する脳(内の一部の神経細胞群)の反応
は、現象として存在する。が、普通それをクオリアとは呼ばない。
まあ「そのクオリア」が解析できたとしてだ、あんたも人間に「身体感覚」が
あることは否定しないな?それがクオリアではないとしてもだ、その「身体感
覚」は解析可能か?問題はそこだ。
>279
心理学の科学性については心理学板でうんざりするほどやっているので詳しい
話はやめておくが、心理学が科学的であろうとする限り切り捨てなければなら
ない要素があり、人の全てを扱おうとするときには科学性を諦めなければなら
なかった。どちらのやり方にも方法論上の限界がぶち当たる。
心理学は常に方法論を模索しなければならない、悩める学問だ。未熟とも言う。
>>277 >クオリアは脳の状態「そのもの」ではない。
>脳の何らかの物質的・電気化学的要因が生じさせる、感覚「そのもの」だ。
この問題に関して、脳内の活動は、物質的・電気化学的レベルにまで言及する必要は無いと思う。
神経系によって成立している脳の情報システムが、外部からの刺激を
生化学的にデコードして、対応する記憶を保持している神経細胞を活性化させる。
ものすごく大雑把にいえば、「赤」という視覚の刺激によって、
赤に関連した記憶を保持する神経細胞が活性化する。
おそらく、その状態がクオリアそのものだ。
>特定のクオリアに対応する脳の状態(電気化学的反応)が特定されても、
>「その化学的反応が、なぜそのような感覚を生じさせるのか」
>という問題への解答にはならない。
脳内の神経細胞における「化学的反応(群)」から感覚が「生じる」という
考えがそもそもよくわからない。
私には、そのほかの脳の活動と同様、
その化学的反応(群)自体がクオリアという現象そのものという解釈ではなぜいけないのか?
>それ以前に、「特定のクオリア」は最前の理由で客観的に分析できないし、
>「脳の化学的反応」の全貌を解明しようという試みも、
>脳のあまりの複雑さがネックとなって壁に突き当たっている。
どうも、「脳の化学的反応」というレベルで人間の精神活動を調べようという
発想自体が酷くこっけいなのだが。
同様に論じるのは乱暴だが、
コンピュータ内部の回路の電気信号を測定して、Windows について調べようとするようなもので、
なぜシステムという要因をそんなに無視しなければならないのかよくわからない。
>また、踊りの喩えにおける「差異」は、価値判断の差異であり、
すいません。「踊りの喩え」って知らないんだけど・・・。
>もっとも、相関性に関しては「ある程度」なら判明しているのは確かだ。
>エンドルフィンと感情の関係とかな。
>しかし、それは「そのエンドルフィンがなぜそのような感情を生起するか」
>の答えを示すことには、少なくとも今のところは繋がっていないのだ。
それもクオリアの問題なのだろうか・・・。
>>280 というか、
逆に「客観的に分析不可能なもの」という定義をするなら、
議論すること自体無意味だが。
そういうなら、どう違うのかまず説明するべきだろう。
その発言だけでは「分析不可能がクオリアの定義だ」といっているのと同じだ。
>は、現象として存在する。が、普通それをクオリアとは呼ばない。
だから、なぜ呼ばないのだ?
>その「身体感 覚」は解析可能か?問題はそこだ。
というか、ここでいう「解析」って、何をすることなのだ?
私は
「現象の実体を、生化学反応のレベルで観察するならば、このようなものであると考えても、
問題はないのではないか」
といっているだけだ。
「説明する」はそれだけでも十分だろう。
>おそらく、その状態がクオリアそのものだ。
>その化学的反応(群)自体がクオリアという現象そのものという解釈
だから言葉の定義の問題だってばよ。
それがクオリアだったら、そりゃああんたの言うとおりだろう。
が、少なくとも俺や多くの人々が論じているのはそういうクオリアではない。
>コンピュータ内部の回路の電気信号を測定して、Windows について調べようとする
そう、そういうこと。俺の持ってる脳科学の本では「ラジオを分解して音楽を
聞こうとするようなもの」と表現していた。で、問題は、Windowsについてどう
やって調べればよいか、ということなんだが。
>「踊りの喩え」
>>「当人はかっこよく踊っているつもりなのにまわりからみたらみっともな
いだけ」
>それもクオリアの問題なのだろうか・・・。
俺の定義するクオリアにとっては問題だ。物質面と精神面の「繋がり」を解き
明かすためには。
>>281 この板での議論を見ればわかるように、科学自体も「真理の追究」という意味では、
「因果律」など相当の妥協をしている。
妥協はその学問の価値を貶めるものではおそらくないと思う。
>議論すること自体無意味
かつて、J・B・ワトソンもそう言った。そう言って彼は方法論的行動主義を
作った。だが今、科学はクオリアに挑もうとしている。
正直、とうの昔にクオリアへの挑戦を諦めた我々にとっては意外な展開だ。
定義
クオリアとは私たちの感覚の持つシンボルではあらわすことができない、原始
的な質感のことである。
この現象を支配する法則を科学の力で解き明す。それがクオリアの解析だ。
>「説明する」はそれだけでも十分だろう。
常識的あるいは思想的理解としては何の問題もない。
だが科学はそこで妥協するわけにはいかないんだよ。
>285
科学が真理ではないことぐらいは知っている。
だが、心理学は真理でないどころか、科学ですらないと言われるのは屈辱だ。
いや、俺はどうでもいいんだが、屈辱だと思う奴がいるんでな。
最終的には妥協が必要なわけだが、心理学はまだ若い。妥協と挑戦を繰り返している。
>285
が、妥協まみれの我々臨床系心理畑にはありがたい意見ではある。
多謝。
>>286 >正直、とうの昔にクオリアへの挑戦を諦めた我々にとっては意外な展開だ。
らしいのだが、結局何をしようとしているのかさっぱりわからない。
というか、
>この現象を支配する法則を科学の力で解き明す。
ができていないことをもって、クオリアを説明できていないといっているのだろうか。
クオリアの定義より、「説明」の定義の問題だね。
>だが科学はそこで妥協するわけにはいかないんだよ。
その点については異論はないけど。
要は、「何を知りたいか」の違いのようだね。
>要は、「何を知りたいか」の違いのようだね。
そう、哲学と科学の差だな。俺は科学の成果を利用したいだけだが。
>結局何をしようとしているのか
心脳問題の解決だろ。人工知能の実現だとかさ。
ま、多分、そもそも人間の能力の限界を超えてるんじゃないかとは思うが。
>クオリアの定義より、「説明」の定義の問題
辞書的説明では科学的に解明したことにはならん。
辞書的に説明されても、我々の役には立たない。科学の方が便利。そういうこと。
>>284 >が、少なくとも俺や多くの人々が論じているのはそういうクオリアではない。
だから、「感じること」と「その感覚に対応する現象を別の形で示したものから受ける感覚」は
違ってあたりまえなんだがから、具体的に何が違うのか説明してくれないとなんともいえない。
「赤」という外部の刺激を起因として発生する諸現象を、
脳神経組織レベルの活動で説明しようとした場合に、
私の言うような説明でどういった不足があるのだ。
>問題は、Windowsについてどう
>やって調べればよいか、ということなんだが。
詳しいようなので、間を省いて結論をいえば、
システムとセマンテックの問題だと思う。
「同じ神経組織を使っているのに、違う感覚が生じるのはなぜか」
といった疑問はセマンテックの問題がわかっていないだけとしか思えない。
100という数値が、温度を示す場合もあれば、テストの点数を示す場合もある、
これをデータベースに記録した場合、これらは基本的に同じビットパターンで記録される。
記憶回路上でも、伝送路上でも、物理現象としては同じものだ。
では、100℃、100点という意味はどこから生じるのか?
それは個々の数値や記憶回路の動作を追っているだけでは理解できない問題だ。
>>>「当人はかっこよく踊っているつもりなのにまわりからみたらみっともな
>いだけ」
いや、価値判断とは少し違う。
価値判断の違いならば、見ている踊りの姿自体は同じでも、違う評価がでるはずだ。
マイケルジャクソンの踊りが「カッコイイ」と思うような同一の価値基準を持つものの
間でも、この現象は起きるし、そもそも、当人が自分のビデオを見ても、
そう感じるだろう。
>俺の定義するクオリアにとっては問題だ。物質面と精神面の「繋がり」を解き
>明かすためには。
うむう・・・。
入力と結果の直接的な対応を知るというレベルまで知らなきゃなんないのか・・・。
このあたりは私の思索が及んでいない領域だね。
>具体的に何が違うのか説明してくれないとなんともいえない
具体的に何が違うのか説明するためには感覚というのが具体的にどんなものか
把握しなければならない。それすらできないのがクオリアという問題。
だが、その両者は現象としては一見全く別のものであり、繋がりがあるという
こと自体つい最近まで分かってもいなかったものなのだが。何せ心は心臓にあ
るとか言われてたんだからな。
>どういった不足があるのだ
それだけでは、「赤クオリア」という現象を再構成できない。あくまでも分か
った部分だけを言葉で説明してるだけで。
>個々の数値や記憶回路の動作を追っているだけでは理解できない問題
なるほど。でも、記憶回路の動作すら追い切れないのが現状なのだが。
神経組織の問題は、それが電気的媒体であると同時に化学的媒体でもあるとい
うところに真の複雑性が隠れていたらしい。このへんはよく知らんが。
>入力と結果の直接的な対応を知るというレベルまで知らなきゃなんないのか
というか、知ろうと試みてる人たちがいるわけよ。「そんなことが可能か?」
と自問しつつ。
>>292 >それだけでは、「赤クオリア」という現象を再構成できない。
なるほど、そりゃそうだ。
そんなことをしなきゃならないという必然が最初から頭になかったよ。
(しかし、そうすると、究極的には特定の人間の(意識の)コピーを
作らなきゃなんないわけだが・・・。)
>神経組織の問題は、それが電気的媒体であると同時に化学的媒体でもあるとい
>うところに真の複雑性が隠れていたらしい。このへんはよく知らんが。
まあ、電気的媒体のみであれば、ぶっちゃけた話、
今の電子技術である程度模倣できちゃうはずなわけだし。
>というか、知ろうと試みてる人たちがいるわけよ。「そんなことが可能か?」
>と自問しつつ。
いや、それこそ、
「パソコンにどういった電気信号を加えれば、
美しい絵が描かれた画像ファイルが発生するか?」
というような問題のような気がするが。
情報を有意に変質させ得るのは情報であって、
メディアを直接操作しても、多くの場合、破壊的な結果しか
もたらさないと思う。
>「パソコンにどういった電気信号を加えれば、
美しい絵が描かれた画像ファイルが発生するか?」
クオリア問題の場合、画面を見ずに画像を模索しなければならない。
ところで、脳をパソコンの比喩で把握しようとする方法論も、
既に人工知能研究の分野から否定されてしまっているそうだ。
少なくとも、脳の機能はノイマン型アーキテクチャでは説明できないと。
ところで、そろそろ寝るので、このへんで。
ちょっと読み違えてたな。
>メディアを直接操作しても、多くの場合、破壊的な結果しかもたらさない
そう、そういう方向性からの「還元主義」への批判もあるわな。
分析的アプローチはそんな理屈でもって生理心理学に反論したりする。
が、それはそれとして、解析に成功すれば便利だという話もあるわけよ。
つーわけでおやすみなさい。
>>294 >少なくとも、脳の機能はノイマン型アーキテクチャでは説明できないと。
というか、コンピュータを比喩に持ち出すことを
ノイマン型アーキテクチャの限界の問題から批判するのは、ちょっと検討はずれだと思う。
情報工学において、ノイマン型アーキテクチャは唯一絶対のものではないわけで、
情報工学の心脳問題への援用はノイマン型アーキテクチャに縛られているわけではない。
(これは、というか、「ノイマン型アーキテクチャ」というカテゴリわけが存在することからも、
既に明白なことだけど)
パソコンを比喩に持ち出すのは、説明の都合上便利であるというだけで、問題の本質は
「ある機能を実現するシステム」において、各階層の機能が最終的な機能と
どういった関係にあるのかという問題だろう。
実際のところ、ノイマン型アーキテクチャの問題以前の問題として、
情報自体とメディアの違いに関する理解も不十分なまま、議論を行っている人がかなりいるように思う。
工学系の話は手に余るが、ちょっと聞いたところでは、人工知能研究の最新の
成果ニュートラルネットワークをもってしても、人間の脳どころかナメクジの
学習機能すら再現できないのが現状なのだそうだ。
誰か物凄い天才が現れて、既存の概念を覆す新たなコンピュータシステムを開
発してくれればなんとかなるかもしれんという話はあるが、ノイマン型のフォ
ン・ノイマンだって「知の悪魔」と恐れられた超天才だったというのになあ。
>「ある機能を実現するシステム」
脳はシステムで意識はその機能だという考え方、「唯脳論」だが、それ自体す
らもまだ比較的新しい知見だったりするのだよな。
どちらにしても心理学は「情報自体」を忌避して発展してきた学問だから、果
たしてこの問題に対して果たせる役割があるのかどうかすら疑問ではあるが。
アーキテクチャの問題は、煎じ詰めれば効率の問題だからね。
ニューラルネットワークをそのままハードウェアで再現することは難しくても、
基本機能のエミュレーションするソフトウェアは
(挙動が解明されている範囲においては)作れる。
その場合、現物との根本的違いは、機能要素あたりのコストと動作速度だけだろう。
ハードウェアの模倣と、機能の模倣には根本的な違いがある。
結局、設計思想自体よりも、その時点で利用できる素子レベルの
テクノロジーの制約される部分があるから、ノイマンにしても、
当時のテクノロジーで実現できるモデルを提示しただけなわけで、
ノイマン型コンピュータは彼の理論の応用であって本質では無いはず。
まあ、「情報」という概念を超越した概念が、何か提示されうるなら、
心脳問題における真のブレークスルーになるとは思うが。
それは情報工学にも影響を及ぼさずにはおかないだろうし、
情報工学の側から提示されても、それほど不思議ではない。
>アーキテクチャの問題は、煎じ詰めれば効率の問題だからね。
そうなのか?工学系の知人はなんか違うことを言っていたが。
なんでも、ノイマン型というのはソフトウェアドリヴンなシステムだが、
脳というのは動的に回路を生成するハードウェアドリブンなシステムで、
ハードウェアアーキテクチャにも革新がないと脳のコピーは難しいのだとか。
こっちは別の人の話だが、そもそも「ハードウェアとソフトウェア」という
方法論自体がノイマンの提唱したものなんだが、
人間の脳はハードとソフトという発想では説明できないのだそうな。
聞きかじりなので、これ以上突っ込まれても多分答えられんが。
>「情報」という概念を超越した概念
それが提示されたら、多分人間の認識する世界は激変するだろう。まるでSFだ。
>>300 >脳というのは動的に回路を生成するハードウェアドリブンなシステムで、
>ハードウェアアーキテクチャにも革新がないと脳のコピーは難しいのだとか。
確かに、脳神経系のハードウェアは動的ワイヤードロジックとでもいうべき、
自己生成・書き換えの機構を持っており、現状のハードウェア技術でそれを実現するのは
きわめて困難かもしれない。
しかし、ソフトウェア・レベルでは、自己生成・書き換えはごく当たり前の手法だし、
どこまでそれでやるかは、純粋に効率の問題だと思う。
要するにその人は、ハード、ソフトの意味を、
きわめて限定的にしかとらえていないように思う。
ハード、ソフトという言葉をノイマンが提唱したというのは初耳だが、
(確かに、ワイヤードロジックからプログラム内蔵式への変革が
ノイマン型コンピュータの眼目であるわけだが)
ノイマンがこのことばをどのような意味でとらえていたかはともかく、
現状の使われ方では、「ハードウェア=電子回路」、
「ソフトウェア=コンピュータプログラム」といった
限定的な意味しかもっていないわけではないし、
私自身、そういった意味で使っているつもりもない。
そういった本質的でない問題を理由に、
情報とデバイス(生体組織)の違いを無視するなら、
古典的な一元論と二元論のような、不毛な議論が永久に続く
ように思うが・・・。
・・・確かに、現状の、アドレスを振られた主記憶に逐次実行される実行プログラムを
ロードして、アドレスを追いながら引き出しつつ、解釈実行するという機構は、
生体の並列同時進行の脳神経系とはまったく異質のものだけど、
メディアの物理現象と、メディアに記録された情報の独立性は、こういった、
動作原理とは独立した問題であって、逆に、「ハードウェア」といった場合に、
そういったノイマン型アーキテクチャだけを指すと理解しているなら、
現代の計算機については理解できているのだろうけれど、非常に狭い視野でしか
ものを考えていないとしかいいようがない。
ノイマン型コンピュータの限界は、(特に一昔前ぐらいの)コンピュータ専門誌では
非常にポピュラーな話題で、そのころそういう本を読んでいた人で、
「ハードウェア=ノイマン型アーキテクチャ」と考えている人はまずいないはずだ。
私自身も脳のコピーは困難(おそらく不可能)であると思うけれど、
それは、生体組織と電子回路といったデバイスの特性のみに起因する
問題ではないと思う。
>それが提示されたら、多分人間の認識する世界は激変するだろう。まるでSFだ。
つうか、あなたの発言(
>>298 の後半など)を読む限り、
心理学も、そういった概念を提出しうる学問
(あるいは提出しなければならない必然に迫られている学問)、
のように思うけれど。
>301
なかなか面白い。
>302
それ、素人にありがちな誤解ヽ(´ー`)ノ
ていうかね、提示したことはあるんだよ。ユングとかさ。
ただ、「それは心理学ではない」と言われてるだけで。
>それ、素人にありがちな誤解ヽ(´ー`)ノ
そなんすか・・・。
心理学も奥が深いne。
むしろ周囲が思っているより底が浅いということかもしれんがな。
それというのもこれというのもクオリアのせいだが。
は〜るの〜こもれびの〜なかで〜きみの〜やさ〜しさが〜
ノイマンは、ロジックにフローチャートを処理することを求めた。
だから、フローチャートを書くのは未だに人間である。
ほぜんぬ
309 :
考える名無しさん:02/04/18 04:29
あげとく。
310 :
考える名無しさん:02/04/18 21:55
あげ
311 :
考える名無しさん:02/04/30 03:12
あげ
メタルギアソリッド2の愛国者達
313 :
考える名無しさん:02/04/30 18:25
最近ハマリました。ガイシュツかもしれんが、
この人、ビスコンティの映画によく出てる俳優のヘルムート・バーガー
に似てるよね。
314 :
考える名無しさん:02/04/30 22:59
う〜んダメでしょ
315 :
考える名無しさん:02/05/09 21:56
クオリアは浅い
316 :
考える名無しさん:02/05/23 08:28
クオリア あげ
317 :
考える名無しさん:02/05/23 10:43
フェミにトドメを刺すもの。
318 :
考える名無しさん:02/06/04 20:56
ていうかみんな読んだ?
319 :
考える名無しさん:02/06/04 20:59
320 :
考える名無しさん:02/06/04 21:03
ていうか、おまえ何?
ヴィークル よ