孔子の考えてた事って哲学と呼べるの?

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1
何かM・ウェーバーが論語を
インディアンの酋長のおしゃべりだと評してましたが。
2考える名無しさん:02/01/13 22:28
僕は論語を哲学書としては読めないですね。
が、それはこの時代の日本という環境に規定されてる面が大きいでしょう。
超長期的には、「哲学」というものの意味も変わってくるだろうし、
東洋哲学も見直されてくるだろうと思います。
ですから、現状では研究する気は起こらないが、なるべく興味を持つようにしています。
3考える名無しさん:02/01/13 23:10
論語のよさがまったくわからん。
人をコントロールするということにかけては
天才的だと思うが。中学生の時に思ったのだが、
支配者や自己の欲を道徳化し、後は人生訓をたれてる
としか思えなかった。だれか、この俺の認識を変えるような
孔子の教えのよさを語ってくれ。
4 :02/01/13 23:11
>>1
孔子=儒教ってわけでもない。
論語は儒教の複数あるテキストの中でも真ん中くらいの位置付けだし。
朱子学は体系化されていると思うが?
5Маршал Боголюбов:02/01/13 23:14
論語とは即ち不遇の知識人の処世術
6無為:02/01/13 23:15
逆境に立てばよく分る。
7Маршал Боголюбов:02/01/13 23:17
孟子はかなり落ちるね
8考える名無しさん:02/01/14 01:44
ゆっくり徂徠とか読んで、それからヴァレリーのユーパリノスを読む。
部分に対する全体の関係、それと精神、正しい思惟の在り方について考える。
そうするとじんわりよく思えてくる。
9考える名無しさん:02/01/14 02:02
>8
徂徠経由は反則。純粋に論語の魅力を語ってくれ。
10考える名無しさん:02/01/14 04:01
まず白川静の『孔子伝』(中公文庫)を読めば?
11考える名無しさん:02/01/14 04:03
っていうか1の趣旨とずれてるよ。
12hiro:02/01/14 04:04
論語は孔子が書いていない
古典としての価値が低い
論語に従って生きるのはちょっと・・・
だがなぜか日本では論語を会話の中で引用すると
賢いと思われる
13考える名無しさん:02/01/14 04:08
じゃあ聖書も仏典もコーランも価値が低いと。
14hiro:02/01/14 04:10
価値は低い
宗教者ではないものにとっては

しかも宗教は哲学ではない
15考える名無しさん:02/01/14 04:13
じゃあキリスト教以外の人にとっては
聖書は価値が低いと。
16hiro:02/01/14 04:13
そうだが
なにか?
17考える名無しさん:02/01/14 04:14
まいりました!
18考える名無しさん:02/01/14 04:14
お話として笑えたし、考えさせられたから俺にはカフカなみに
価値はあるyo!
19hiro:02/01/14 04:18
なんだ?お前は
一般人で聖書読み込んでる奴いるか?
いないだろ
20考える名無しさん:02/01/14 04:21
「日本人じゃ」ほとんどいないね。もってると変人扱いされるかもしれ
んしー
21hiro:02/01/14 04:22
じゃあなんでホテルにはあるんだよ
22考える名無しさん:02/01/14 04:23
>>21
海外のホテルの習慣が、日本にも残ったんだろ。
23考える名無しさん:02/01/14 04:23
>>21
どこ?
24Iridium:02/01/14 04:24
「インディアンの酋長のおしゃべり」ってのはすごいよ。
「一万年の旅路」読んだ?
25hiro:02/01/14 04:26
浅草キッドはホテルに泊まったら必ず
聖書を猪木の自伝と取り替えてるらしいが。
今日本屋に行ったら「猪木暗殺計画」って本が
100円だったが。
26 :02/01/14 15:43
>1
けど、何か漢学者とかは「論語」を「宇宙第一の書」と評価してる
みたいよ。それと論語は何度も読んでいくうちに本当のよさが
わかってくるらしいよ。
27考える名無しさん:02/01/14 16:36
趣旨がずれてるよ。
西洋的な意味でなら、「論語」は哲学じゃないだろう。
だから「哲学」という概念そのもが幅広くならないと、孔子が哲学者として
世界的に認知されることはないだろう。
個人的には>>2と全く同じ心境だ。
28考える名無しさん:02/01/14 17:09
>>3
>論語のよさがまったくわからん。
>人をコントロールするということにかけては
>天才的だと思うが。中学生の時に思ったのだが、
>支配者や自己の欲を道徳化し、
その観点で読んだらよさは全くわからないだろうね。

>後は人生訓をたれてる としか思えなかった。
人生訓は、命令ではなくて、まず最初に、「どういきるべきか」という問いが、
聞く側の心の中にあって始めて意味を持つものだと思う。
それが無いなら、命令にしか聞こえないだろう。
29考える名無しさん:02/01/14 17:34
>>28
そのなんというか、心がまえというのは、内面の形式だろ。
その形式が他者から与えられる、押し付けられるというのではなく、
自己の中に取り入れ、実践していくことによって得られるもの、
みたいな話だろ? それは、思考を鈍らせる。その形式にそった
行為、思考があたかも最良のように約束されてしまっては、
人生訓についての心の中の意味がすでに規定されていると同義だろ?
経験でその意味を内実させるとしても、最初の方向性がかわるわけ
じゃない。なんというか、変化あるいは否定を許容してないように
感じる。まだ>>28の内容じゃ、俺の見解はゆるがない。
30考える名無しさん:02/01/14 17:51
>>29
こころ構えという問題ではなくて、それこそ、欲望、欲求の問題だよ。

孔子は、同じことでも、相手によって違う言葉で語っている。
孔子は弟子達に語ったのであるけれど、それは、
彼らが何を望んでいるか、孔子はある程度わかっていて、
そのつど適切な教えを授けているわけだ。
つまり、論語に書いてある言葉は不特定多数に向けられたものではない。
(そのあたりが哲学でないと言われる所以だろうが)

だから、それを聞いた弟子と同じ欲求を抱いているものが、
それを読めば、「ためになる」と思うだろうけれど、
そういう欲求が無いのなら、無価値なのは当然だ。

それは、スポーツ選手になるつもりの無い人間にとっては、
一流トレーナが作った完璧なトレーニングスケジュールであっても、
単なる苦役に過ぎないのと同じことだ。
3127:02/01/14 17:58
>>29
まず、俺らは東洋哲学一般に対して偏見を持ってる。このことを認識した上で話を進めなければならない。
「プラトンの書物には「開かれた対話」があるが、論語には師弟関係における対話しかない」
これはごく一般に言われてることだ。俺も正直そう思う。
しかし、そのことをまず疑わなければ、孔子のみならず東洋哲学一般を論じることはできなにのではないか。
32考える名無しさん:02/01/14 18:01
>>29
>行為、思考があたかも最良のように約束されてしまっては、
これはまったくの誤解だよ。
論語においても、約束などはだれもしていない。
孔子が提示し、弟子が納得しているだけだ。
33考える名無しさん:02/01/14 18:14
>>30
>孔子は、同じことでも、相手によって違う言葉で語っている。
もちろんそれは知っているというより、うっすらと覚えている。
えらい奴に説くのと民衆に説く場合の内容は全然ちがうしな。
ただ、もうだいぶ前なので忘れたが、孔子が礼における形式で
表現したのは、ありうべき規範であり、それは真の意味では、
個々人に別々なものとは思わない。
欲求・欲望の、孔子の教えにそった達成というのは、
二次的な問題で、むしろ孔子自身は、自分が説く教えに
普遍的なものを見ていたのではないか?
むろんすべてではないだろうが。そしてその普遍性とは、
彼の考えるありうべき規範を、実践をとおしながら道徳化したもの
ではないかということ。
さらに、その道徳には否定や変化を許容しない権威性が
まぎれこんでいるのではないかということ。
34考える名無しさん:02/01/14 18:22
>>31
俺の偏見は、あくまで論語の中の孔子の話。
しかも思い込みが強いのも自覚している。
だからこそ、なるほどといわせる反論が欲しい。

孟子や朱子学、日本の近世思想などにはここまでの偏見を持ってない。
よく知らないというのもあるが。ところで、
人の話を聞いたかぎりじゃ、道教は哲学だと思うよ。
天の概念とか、よく理解してるわけじゃないけど。
3527:02/01/14 18:30
>>34
いやいや、俺が言いたいのは孔子を否定するのは簡単、だってこと。
逆に意識的によく解釈する必要があるとさえいえる。
西洋的な価値観から脱却するのは容易なことではない。

しかし、確かに、こういう状況だからこそ、
説得力のある「孔子論」を研究者の側から出して欲しいって気持ちはわかるが。
36考える名無しさん:02/01/14 18:34
>>33
>ただ、もうだいぶ前なので忘れたが、孔子が礼における形式で
>表現したのは、ありうべき規範であり、それは真の意味では、
>個々人に別々なものとは思わない。
それはそうだけど、孔子が望んだような理想を「求めるか」、「求めないか」という違いはあるだろう。

>個々人に別々なものとは思わない。
>欲求・欲望の、孔子の教えにそった達成というのは、
>二次的な問題で、むしろ孔子自身は、自分が説く教えに
だから、その問題を二次的な問題にしてしまうところに、
あなたが論語をそのように評価する理由がある。
私に言わせれば、その問題が一次的な問題であって、
普遍性、権威云々は、「あなたの」問題でしかない。

「普遍性」、「権威」という価値観に、「あなた」がとらわれて、
それによって解釈しようとしているということだ。
37考える名無しさん:02/01/14 18:43
だから一度、白川静の『孔子伝』(中公文庫)を読んでみなよ?
酒見賢一『陋巷にあり』(新潮文庫)も面白いよ。
呉智英の論語塾、一年通うのでもいいけど(w
3827:02/01/14 18:47
>>37
・・・・。
っていうか、もっと西洋哲学わ理解した上で論じられる人いないの?
呉とかいって・・・。
39考える名無しさん:02/01/14 18:48
井上靖はどう?
4027:02/01/14 18:49
え?作家の?
41考える名無しさん:02/01/14 18:50
井上靖の小説、「孔子」の話だが。
42考える名無しさん:02/01/14 18:56
『孔子伝』『陋巷にあり』にはシャーマン(儒)出身としての孔丘が描かれているが、
井上靖のには、その視点が全く抜け落ちている。つまらん。
4327:02/01/14 18:57
なんていうか、西洋哲学と比較検討しながら、
哲学史そのものをダイナミックに再構成し
「哲学」という概念を変えちゃうような、衝撃的な書物とか・・・。
44考える名無しさん:02/01/14 18:57
>>36
>「普遍性」、「権威」という価値観に、「あなた」がとらわれて、
>それによって解釈しようとしているということだ。
もちろんそうかもしれない。しかし、孔子の教えを自己に還元して
自己そのものを充実させていくということに、個人を超えた「何か」
への志向性を見据えるべきではないのか?
論語に対する批判に、意味の多面性あるいは自己への還元
だけで返すのは、論語は「人生訓」にすぎないということに
反論できない。それが一次的で最も大事だとしても。
それでいいならもう何も言わないが。
俺は、それにとどまらないのではなないか
という密かな期待を抱いて反論しているのだが。
45考える名無しさん:02/01/14 18:59
呉智英の以費塾だって、そんなにバカにできないよ。
でも、まだやってんのかな?
46考える名無しさん:02/01/14 19:11
>>44
>孔子の教えを自己に還元して
>自己そのものを充実させていくということに、個人を超えた「何か」
>への志向性を見据えるべきではないのか?
見据えなければならない必然性というものが私には感じられないね。
第一、そういったものを求めることこそが、「否定や変化を許容しない権威性」に
繋がるのではないか?

>論語に対する批判に、意味の多面性あるいは自己への還元
>だけで返すのは、論語は「人生訓」にすぎないということに
>反論できない。それが一次的で最も大事だとしても。
というか、人生訓であることを否定してない、
人生訓というものの扱い方の違いとして私は論じているつもりだが。

>それでいいならもう何も言わないが。
>俺は、それにとどまらないのではなないか
>という密かな期待を抱いて反論しているのだが。
だったら、あなたが、どういうものを期待しているか、具体的に書いたほうが
早いのじゃないか?
47考える名無しさん:02/01/14 19:13
>>42
じゃあ諸星大二郎は・・・(藁
48  :02/01/14 19:47
儒教って要するに「政治万能主義」だろ?
49考える名無しさん:02/01/14 19:55
儒教の考え方をどうひっくり返しても、
「万能」という言葉はでてきようが無いが。
50考える名無しさん:02/01/14 19:56
そもそも、「儒教=孔子」では無いし。
51考える名無しさん:02/01/14 19:59
↑どういうこと?
5251:02/01/14 20:01
誤爆。>>49です。
53考えぬ名無しさん:02/01/14 21:15
 日本で一般的に儒教と呼ばれているものはノイ=コンフューショニスムス
程兄弟や朱子によって大幅に改定・再構築されたもので、それいぜんの儒教
とはかなり違うし、その旧儒教も孔丘の教えに関連しているもののかなり独
自な変容をなしているよ。
54考えぬ名無しさん:02/01/14 21:17
>>12
『アポロギア』はソクラテスが書いていないから価値が低い?
阿含経はゴータマ・ブッダが書いていないから価値が低い?
55考える名無しさん:02/01/14 21:18
>>51
儒教の想定する社会って、一種のセクショナリズムでしょ。
「子は多能を恥ず」ってのが基本的な考え方だと思うけど。
56考える名無しさん:02/01/14 21:20
おいおい、hiro君に構うのはやめとけ・・・
57 :02/01/14 22:25
ならば、老子の思想は
あれは哲学と呼べるのか?
まぁ >>1 の趣旨とははずれるが。
58考える名無しさん:02/01/14 22:28
孔子も老子も思想ではあるが哲学ではない
何故なら論証が無いから
といったところではいかが?
59疑問くん:02/01/15 00:38
易経の孔子の「読み」について、意見もとむ。

よろしく。。。
60つーか:02/01/15 10:07
「東洋思想」とかいう言葉は使わない方がいいだろ…
東洋などという文化的統一体が存在するわけでもないのに。
61考える名無しさん:02/01/15 12:29
>>60
それは、西洋、中東・・・etcなんでも同じかと思われ。
恣意的である事を前提に便宜的に使うのは問題無いと思われ。
又その様な指摘だと果てしなく瑣末な議論に終始する事になると思われ。
それに何故この流れでその指摘が出てくるか不思議に思われ。
62考える名無しさん:02/01/15 13:39
>>61
>それは、西洋、中東・・・etcなんでも同じかと思われ。
全然レべルが違うだろ。
63考える名無しさん:02/01/15 15:11
>>62
どの様に違うの?

西洋哲学であろうがムスリム文化だろうが中華思想だろうが、
どんなカテゴライズでも厳密に定義する事は困難だと云ってるんだが?
だから議論は使う文脈によって適切か否か判断して、
漸近的に進めるのが普通でしょ?
文化的統一体って云いまわしもよーわからんし、
何故その有無で何故東洋思想と云う括りが否定されるの?
ここで東洋思想に孔子を代表させようなんて話にはなってないと思うし、
上にある西洋哲学と、孔子や東洋思想の比較とか云う大雑把な話しに、
何故そんな視点で指摘するのか意図が解らないんだけど?
ギリシャ系譜の哲学と孔子を比較する様な具体性を示せって云ってるだけなの?
64考える名無しさん:02/01/15 16:01
>>1
 > 孔子の考えてた事って哲学と呼べるの?

『論語』が信頼できない以上、孔子が何を考えていたかは、誰にもわかりません。
65考える名無しさん:02/01/15 16:03
>>64
じゃあ「論語」は哲学書か?にしよう
66孔子:02/01/17 21:27
わしの考えは哲学じゃよ。
度重なる戦で荒廃した春秋戦国時代において
孔子は儀礼や誠実さに平和への道を求めたのでしょ?
それを活かせるかどうかは我々の知恵次第で
もっとも 論語を踏みにじろうとも礼賛しようとも
孔子が徳を失うわけでは有りませんが
68猫電波:02/01/18 01:24
>>63
それじゃ海外思想に付いて語ってください。
>文化的統一体って云いまわしもよーわからんし、
>何故その有無で何故東洋思想と云う括りが否定されるの?
なんで東洋が存在しないのに東洋思想って括りが使えるんでしょうか?
あなたの方が良く解らん。
69考える名無しさん:02/01/18 09:21
>>68
そう。俺も「東洋」なんつー文化的統一体は存在しないと言いたかった。
最近の「アジア」的仲間意識もなんか胡散臭い。
70考える名無しさん:02/01/18 12:26
>孔子の考えてた事って哲学と呼べるの
普遍的な概念というよりも、仏教でいう随機説法に近い、個別の事象に
該当する道徳的概念であろう。普遍的な道徳概念とは言い難い部分がある。
それ故に酋長のおしゃべりと評する者もでてくる。
71ヘーゲル:02/01/18 12:39
論語ではまったく実用的な処世訓が述べられているだけであって、哲学と呼べるものではありません。
72ヘーゲル:02/01/18 12:41
東洋の精神には自由の概念が欠けているので、本当の意味で哲学と呼べるものは存在しません。
そこにあるのは通俗哲学のみであります。
73考える名無しさん:02/01/18 18:54
>>72
つーか、「自由」ってそもそも仏教用語だし。
74考える名無しさん:02/01/18 19:18
とりあえず、「論語」を初めとする中国古典を基本的教養とみなすような
文化圏が存在しているのは確か。
で、そういった文化圏におけるものの考え方を「東洋精神」と呼んでいいかどうかはともかく、
いわゆる「西洋思想」に比べて欠けているのは、
(キリスト教的な)「神」の概念じゃないの。
「欠けている」とみなすか「囚われていない」とみなすかは、
人によって違うだろうけど。

75sage:02/01/18 20:43
西洋のフィロソフィーというものを哲学として西周が命名した。
76考える名無しさん:02/01/18 23:07
>>74
アジアとかオリエントとか東洋とかは、要するにヨーロッパとか西洋とかに対する
単なる対抗概念であり、無理に作られた観念的な概念にすぎない。
ヨーロッパ・キリスト教文化圏の様にまとまりの良い概念を、それ程まとまりの良く
ない地域に敢えて当て嵌めて、何か共通の文化圏が存在するかの様な錯覚を抱かさ
れているだけである。
儒教文化圏であるとか、漢字文化圏であるとか、最初から文化的一体感が存在する
かの如き前提で議論を進める人がよくいるが、いわゆるアジアの宗教で一番信仰を
得ているのはヒンズーであり、イスラムであって、決して儒教ではない。
漢字を使わないアジア人の方が多数にのぼるのであって、漢字文化圏とは広い意味の
中国文化圏という事にすぎず、いわゆるアジア全域を代表していない。
強いて言えば、アジアの共通項は過去二世紀に西洋近代の影響を、各国それぞれ違った
形態であったとはいえ(大半は植民地として)、モロに全身に受けてきたという同一経験
である。
77考える名無しさん:02/01/18 23:20
>>76
だから、
>アジアとかオリエントとか東洋とかは、
じゃなくて、
>とりあえず、「論語」を初めとする中国古典を基本的教養とみなすような
>文化圏が存在しているのは確か。
という言い方をしたのだが?
中国、朝鮮、日本は、少なくとも儒教文化圏といっていいのじゃないか?
アジアを代表するなんて一言も言ってないよ。

まあ、

>いわゆる「西洋思想」に比べて欠けているのは、
>(キリスト教的な)「神」の概念じゃないの。
>「欠けている」とみなすか「囚われていない」とみなすかは、
>人によって違うだろうけど。
については、「論語が(いわゆる)西洋思想に比べて」としてしまったほうが、
問題が少ないかもしれないね。本質的に言いたかったのはその点だし、
こういった無駄な議論をしないですむから。


78 :02/01/18 23:31
>>77
あのな、「論語」なんて儒教のテキストの中じゃ中ランクのものに
すぎんのだよ。
儒教=孔子じゃねーんだよ。
大体、日本に入って来た時点で儒教なんざ都合のイイように変質させられ
まくって本来のソレとはほど遠いものになっているだろーが。
そもそも、儒教を奉じていながら武人が政権担っていた事に矛盾を
感じんのかお前は?
本当に儒教知ってんのか?
79猫電波:02/01/18 23:40
>>77
東洋精神なんていらんこと書かなきゃイイのに
それはともかく「(キリスト教的な)「神」の概念」とは何か、となったときに
「天」なんかとどう違うかって差異によって規定されるだろうし、
それだけ書かれても読んだほうが困るんじゃないんですか?(私は困る)
いわゆる「西洋思想」に含まれてるネオ・プラトンなんかに「(キリスト教的な)「神」の概念」
を読みこむことは、やろうと思えば幾らでも可能だろうし、逆に現代哲学なんかを論ずるにも
キリスト教的背景を語ろうと思えば可能でしょう。その手の発言をポンと出されても
単に文化的背景が違うんだから、文化的背景を読みこめば出てくる、ってこと以上の話が欲しい。


80考える名無しさん:02/01/18 23:43
>>78
>儒教=孔子じゃねーんだよ。
その点については、少し前のレスで十分語られていたと思うけど?

>まくって本来のソレとはほど遠いものになっているだろーが。
キリスト教だって、国によって随分違うよ。
イギリス国教会を持つイギリスは、キリスト教文化圏には含まれないとでも?
プロテスタントの国は含まれないとでも?

>本当に儒教知ってんのか?
つうか、そもそも、儒教というものが成立したのは、孔子が死んだずっと後でしょ。
「儒教文化圏」っていうのはあなたが引き合いに出したから例に出しただけだよ。
儒教を語る上で、孔子を語るのならともかく、
孔子について語るなら、儒教については、置いておくべきじゃないの?

81考える名無しさん:02/01/18 23:48
宿無し犬?
82猫電波:02/01/18 23:48
>>78
>あのな、「論語」なんて儒教のテキストの中じゃ中ランクのものにすぎんのだよ。
あ、そうなんですか(恥)。
五経に次ぐかなり重要な聖典だと思ってました。

中国哲学スレに移行した方がイイ展開になってるかな?
83 :02/01/18 23:52
一神教の絶対者としての「神」概念は基督教ではなくユダヤ教が
オリジナルだと思うが?
84考える名無しさん:02/01/18 23:59
インディアンの酋長のお喋りってのは、
「内容はともかく、その話の展開の仕方(いわゆる、説話を挙げていく中国的な手法)が酷似している」ということだと思っていたが。
85猫電波:02/01/19 00:03
>>79のネオ・プラトンはプラトンに直してください。
推敲したとき直し忘れました。

訂正だけじゃなんだから、半ば以上揚げ足取りだが
>>83
彼/女は「(キリスト教的な)「神」の概念」って曖昧な表現しかしてないと思う。
現状では、絶対的唯一神って方向にも、神にして人なるものって概念を軸にもできる。

>>84
セネカとかはどうなるんでしょうね。何か'西洋'でも幾らでもいるような気がします。
86考える名無しさん:02/01/19 00:14
>>79
>東洋精神なんていらんこと書かなきゃイイのに
いや、まったく。(笑
いちおう >>72 が念頭にあったので「しいて言えば」ということで、
相当気を使って書いたつもりなんだけど、
そういうところが汲み取ってもらえなかったみたい。

>「天」なんかとどう違うかって差異によって規定されるだろうし、

>単に文化的背景が違うんだから、文化的背景を読みこめば出てくる、ってこと以上の話が欲しい。

あなたの問題認識はものすごく的確なのだが、それでも「困る」か・・・。
こちらの説明不足を認めざるをえないね。
>>72 的な観点からの反論を期待していたのだがちょっと甘かったみたい。
実際上、孔子の活躍機関からいうと、なんらかの文化圏が存在して、
それをバックグランドとして孔子の思想ができたというよりも、
(もちろん、孔子のバックグランドとして、彼がしつこいぐらい意識していた周の文化が
あるわけだけど)
孔子の思想がそのバックグランドの源流になったというほうが正確なので、
あんまり意味が無いのは確かかもしれない。

つまり、「天」も「神」も「人の力の及ばざるところのもの」の象徴なわけだけど、
「論語」を読んで私が理解した範囲の孔子の考えでは「天」というのは、
人間の運命をある程度決める存在だけれども、
孔子は、その「天」の思うところが何かということにあまり踏み込もうとしない、
「天命」という受け取りかたはするが、「天」の意志を測ろうとするのはそこまでで、
それ以上「天」の存在について考えるということを放棄している。

これに対して、いわゆる西洋思想では「神」の意図についてしつこいぐらい考えている。

で、「人の力の及ばざるところのもの」の象徴に対する態度として、
どちらがより合理的か、と考えた場合、私は孔子のほうに合理性を感じる。
87考える名無しさん:02/01/19 00:26
「語りえないものには沈黙しなければならない」ってことではないの?結局。
荘子は天や神(道)について論理を展開するけど、「道は不可知であり、人はそれについて考えを及ぼすことすらできない」という結論。
孔子は怪力乱神を語らず。結局のところ、「世の中がうまくいくための方策」を考案して、「それが天意である」ということにしてるのが孔子だと思う。
8868:02/01/19 03:58
>>69-70
ではね、西洋なんてものも存在するのか聞きたいね(w
海外思想と云うものも存在するのか聞きたい(w
国内思想と海外思想がどう貴方の中で区分けされてるのかをね。
こんな事言い出したら、ただの相対主義に陥るよね。
どの様なカテゴライズなら妥当性を持つかも聞きたいね。
では文化的統一体ってのはどう定義されたものなの?
俺はどれも厭くまで便宜的に定義付けされていると思ってるよ。
そこで文化的統一体有無なんて云い方をするなら、定義を聞こうじゃない。
西洋の文化的統一体がなんなのかさ。
8963:02/01/19 04:00
↑間違えた。
>>68-69ね。
90 :02/01/19 09:17
>>88
正直、見苦しい。
91考える名無しさん:02/01/19 10:55
>>87
大枠同意だけど、

>それが天意である」ということにしてるのが孔子だと思う。
これはどうだろうか、「道理を説くこと」を天命として覚った、とはいっているが、
「私は天命を受けて説いている、、だから、私の主張は天意である」
という意味なのだろうか?

私は「天」というものは、「道理を説け」という「天命」を暗示はしても、
天命を与えられた人の「説」が正しいかどうかについては関知していない
ように思う。
92素人 :02/01/19 11:00
純粋に「知」を追求するのが「哲学」だとしたら、「儒教」は哲学という
よりヴェーバー的定義でいう所の「宗教」なんじゃない。
儒教の本来的な目的って「知の探求」じゃなくて「政治」でしょ。
日本だと論語が一般大衆の道徳訓みたいに読まれているけど、本場中国
では儒教はあくまで政治を司る士大夫階級の為のもので、被統治者である
民衆は(大乗)仏教や道教に救いを求めたって聞いたけど?
9363:02/01/19 15:04
>>90
雰囲気でレス付けないで具体的に批判してね♥
94考える名無しさん:02/01/19 15:24
論語から、天、道、天命についての記述を抜き出してみた。
天に対して罪をおかしたなら、どこにも祈りようはない
〔国境役人〕天の神様はやがてあの先生(孔子)をこの世の指導者になされましょう
〔子貢〕先生が人の性と天の道理についておっしゃることは、[奥深いことだ
けに、普通には]とても聞くことができない
天が我が身に徳を授けられた。桓タイごときが我が身をどうしようぞ
天がこの文化を滅ぼさないからには、匡の連中ごとき、我が身をどうしようぞ
(顔淵死す)「ああ、天は私を滅ぼした、天は私を滅ぼした。」
天を怨みもせず、人を咎めもせず、身近かなことを学んで高遠なことに通じて
いく。私のことを分かって呉れる者は、まあ天だね。
人間こそ道を広めることが出来るのだ。道が人間を広めるのではない。
天は何か言うだろうか。四季は巡っているし、万物も生長している。天は何か
言うだろうか。(何も言わなくても、教えはある。言葉だけを頼りにしてはい
けない)
世界中に道が行なわれているなら、丘も何も改めようとはしないのだ。
君子が仕えるというのは、その大義を行うのである。[今の世の中に]道が行
なわれないというのは、とっくに分かっている。
尭が言った、「ああ、なんじ舜よ。天の巡る運命(さだめ)はなんじが身にあ
り。[なんじ帝位に就くべき時ぞ。]まことにほどよき中ほどを守れ。四海は
苦しめり。天の恵みの永遠につづかんことを。」(中略)周には天のたまもの
あり、善人の豊かなことだ。
天命が分からないようでは君子とは言えない。
95考える名無しさん:02/01/19 15:35
孔子自身は天をほとんど常に「運命」あるいは「運命を下すもの」というニュ
アンスで使ってるいて、自分の思想を正当化するようなことはほとんど言って
ないけど、
あえて挙げるとすれば、
子の曰わく、予(わ)れ言うこと無からんと欲す。子貢が曰わく、子如(も)
し言わずんば、則ち小子何をか述べん。子の曰わく、天何をか言うや。四時 
行なわれ、百物 生ず。天何をか言うや。
(先生が「私はもう何も言うまいと思う。」と言われた。子貢が「先生がもし
何も言われなければ、私ども門人は何を伝えましょう。[どうかお話し下さい
。]」と言うと、先生は言われた、「天は何か言うだろうか。四季は巡ってい
るし、万物も生長している。天は何か言うだろうか。[何も言わなくても、教
えはある。言葉だけを頼りにしてはいけない。〕)

ここでは、「自分が述べるまでもなく、正しい教えというものは元々存在して
いて、それを説いているのが自分だ」という立場が読み取れないこともない。まあ、理屈屋の子貢に「言葉よりも、少しは態度を見て学べ」と言っているの
がメインだけど。
96導師 :02/01/19 18:02
>>93
君は既に論破されていると思うよ。
本人が分っていないだけで。
97遅レス、スマソ :02/01/19 21:26
その昔、ヨーロッパのあの地帯に国境は無かった。森林は海の如きものであり
都市は島の如きものであった。
中世にボローニャ大学やパリ大学に各地から学僧達が留学生として続々と集まったが
彼らには国境を超えて他国に学ぶ現代の留学生の意識は無かった。
使われる言葉は共通のラテン語であり、大学を支えているのは国王ではなくカトリック
教会だった。
近代になって初めてヨーロッパに国家がうまれた。
故に近代国家は歴史から切り離された比較的新しい概念で、フィクションとも言える。
この国民国家は19世紀には永遠に続く様に思われていたが、今はそんな事は西洋世界に
関する限り、誰も信じていない。
そこでは国家を止揚しても、「ヨーロッパ」というより上位の概念がこれを救って
くれる。大きな外枠があるからこそ、安んじて国境を外すという方向に動いて行ける。
歴史に共通性があり同一のキリスト教文明圏に属しているという暗黙の共通了解が
ある彼らは、いわば「聖書とラテン語」という絆で結ばれている。
翻って、言語,宗教,人種,風俗習慣,歴史等があまりに異なる「アジア」なる概念は
ヨーロッパに匹敵する様な有機的にしっくりした一つの絆で結ばれた文明圏ではなく
国家を止揚する上位概念・大きな外枠にはなり得ない。

9863:02/01/19 22:29
>>97
猫電波さん?
以下ネットで検索したサイトから抜粋。
>英語「Orient」は古フランス語「orient」から。
>古フランス語「orient」はラテン語「oriens」(東、太陽)から。
>ラテン語「oriens」は同じラテン語「oriri」(上る、起きる)から。
>ラテン語「oriri」はインド・ヨーロッパ祖語「*er-」(上る、動かし始める)から。
>(大修館書店「スタンダード英語辞典辞典」)
>「アジア」
>古代アッシリア帝国で、エーゲ海の東側沿岸地方をアス「東、東方」と呼んでいた。
>後、ラテン語の地名接尾辞-iaがついてアジアになった。
>(牧英夫編著「世界地名ルーツ辞典」)

どちらも地理的概念からきたものだから無論指す対象には
変遷があるし、呼ぶ立場によっても指す内容も違う。
古代、オリエントはメソポタミアなんかを指していたはずだし。
東洋って括る事に条件をつけるスタンスがある事も解る。
だけど>>76の様な無理に作られたって云い方が解らない。
では一体どんな概念なら無理が無いのか?
>>97で言及される(なんか何処かで見た文章なんですが典拠って
あります?)のは中世についてですが、ローマ帝政期についてどう思われます?
>>76で主張される様(言語学宗教学的にヨーロッパに文化的統一体が
存在するというなら)同じ様に帝政ローマによる国教化によって影響を受けた、
様々な文化の同一経験でしかないのではないかって云い方も出きるのでは?
ギリシャは「神々」だし、東欧にも「神々」による神話があった。
エジブトには太陽神があり、土着の宗教ならそれこそ無数にあったのでは?
キリスト教文明圏と云う括りは、ローマ帝国をその本質に持つと思われるのですが如何?
それは聖書とラテン語だけなんですか?
そしてそれは文化的統一体と呼ばれるんですか?
9963:02/01/19 23:03
私は>>60で、この様に云った。
>恣意的である事を前提に便宜的に使うのは問題無いと思われ。
>又その様な指摘だと果てしなく瑣末な議論に終始する事になると思われ。
このスレで「東洋」と云っても「西洋」と云っても曖昧な事には変わりない。
ただ、取上げる文脈上適切か否かなのでは?
孔子を哲学かなのか判断するには、具体的な「哲学」の定義が必要でしょ。
つまり「哲学」がなんなのかさえ解れば作業の半分が片付くのではないかと。
西周が輸入し訳を付けた「希哲学」なるものは、既に幾つもの系譜をもつもの
(それがドイツで流行っていた哲学であれ何であれ)だったはず。
私はソクラテス−プラトン−アリストテレス系譜(ギリシャ系譜)と比較するのが、
妥当かと思うんですが如何か?
まあ、あまり根拠は無いんですが(w

今、K・アームストロングの『神の歴史』を読んでるんですが、バキバキに引っ掛って
全然読み進まない(w
とても一筋縄ではいかない世界。この本信用できるのかしらん?
100考える名無しさん:02/01/20 00:56
一瞬、世界史板かと思ったぞ。
中世から近世にかけてのキリスト教文明圏の領域というのは、
要するにイスラム勢力との境目で策定されている。
つまり、西-南はイベリア半島(レコンキスタで奪回)、
東はルーマニアのあたりまで。時期によって微妙に違う。
最近じゃEUにトルコが加盟したいなんて言い出して、何をかいわんやだが。

ちなみに古代には、ヨーロッパより地中海文明圏という括り方が普通だった。
中心となるのはイタリア、ギリシア、アフリカ北岸のカルタゴ、エジプト、シリア等で、
のちにイギリスやフランスやドイツが成立する地域はまだ未開の蛮地。

ローマの滅亡後、その遺領はアフリカも含めてゲルマン系民族国家に分割されたけど、
中東−アフリカ地域にイスラム勢力が栄えるようになると、
「古代文明の遺産を受け継いだイスラム圏」と「野蛮人に乗っ取られたヨーロッパ圏」という区分が生まれる。

イスラム教徒は独自の「イスラム教圏」という意識があるらしいし、
ヨーロッパにしてもいちおう「ヨーロッパ」という意識があるにはある。
日本・朝鮮・ベトナム・中国を「黄河文明圏」などと呼んでみても、
文化・制度面で中国の強い影響を受けているというだけで、
ヨーロッパやイスラムのような歴史的一体性があるわけではない。
地勢的にも、経験的にも、共有しているものは少ないからだ。
結局、「西のほうに住んでるやつから見れば、全員極東人には違いない」という程度の話。
101考える名無しさん:02/01/20 09:02
>>100
ワールド・カップのアジア予選の参加国みれば「アジア?ハァ?」とか思うっス。
102考える名無しさん:02/01/20 15:15
アジアって、元々はギリシア人が東の方を漠然と指して使った言葉なんだよね。
今でいえばトルコ半島とか、シリア・パレスチナ一帯とか、せいぜいイランあたりまで。
日本人がインドを指して呼んだ「天竺」とか中国人の「南蛮」みたいなもんだが、
世界の構造自体が当時思っていたようなのとは全然違うことが分かった現在においては、
アジアなどという区分にはほとんど何の意味もない。
なにしろ、広大なユーラシア大陸の西の隅の一角が「ヨーロッパ」で、
残りは全部「アジア」というのが実体なのだから。
結局、ヨーロッパ人による「ヨーロッパ人とアジア人」という区分は、
ギリシア人による「ヘレネスとバルバロイ」の区分、
中国人による「中華と夷狄」の区分とたいした差はない。
あと、日本人による「日本人と外人」という区分とも。
103考える名無しさん:02/01/20 15:43
アジアや東洋という概念の歴史的経緯というのは
多かれ少なかれみんなわかってると思うよ。

「哲学」=ギリシャ、ローマ起源のヨーロッパの学問
というものに対して、「孔子」の思想をどのように位置づけるか、
という問題なわけだから、
その違いを考察する意味において、
「孔子」と「哲学」の違いについて、同様の性質を持つ思想の集団というものを
想定することはそれほどおかしなことではない。
むしろ、「孔子」のみが独自であって、孔子が(いわゆる)西洋哲学に対して
持っている差異は、ほかの思想と西洋哲学に関してはまったく存在しないと考えるほうが不自然だ。
そういった共通の差異を持つ思想の集団の呼称として「東洋思想」という言葉は使われているのであって、
(それは、西洋思想、哲学についても同様なのだが)
それは、その「差異」がどういった性質のものであるのかを考察するには有意義なことであるし、
むしろ、それ以外の意味を引き出そうとするのは、議論の本筋から離れることではないのか?
104釈迦:02/01/20 15:50
ヨーロッパという文明圏に相当するのはアジアではなく、むしろ中国
でしょう。
中国は一つの国というよりも文明圏と考えた方が良いかと思うのですが。
ただ、思想・哲学に関しては中国よりもインドの方が数段上ですが。
105考える名無しさん:02/01/20 16:12
で、共通の差異を持つ思想の集団という意味での「東洋思想」というものは存
在するといえるのか?
インド哲学もこちらに含まれるわけだが、インド哲学と諸子百家の思想は全く
別、それぞれ独自の系統として生まれたもので、両者をくくって考える意味は
あまりないと思う。
その後の、たとえば仏教思想の変遷を考える上では両者からの影響を考慮する
必要があるが、だからといってそれは両者が同じ集団であることを意味しない


古代ギリシアで生まれた「哲学」は、その後「ヘレニズム世界」と「ローマ帝
国」を経て、「イスラム諸科学」と「ヨーロッパ文明」に枝分かれしてそれぞ
れ発展していったといえる。そして、現代文明(科学、哲学等一切を含む)は
ヨーロッパ文明から発展したものだ。これが大雑把に「西洋哲学」と言われる
ものの系譜。だが、その兄弟格のイスラム哲学も、今日では「東洋哲学」の枠
組みのほうに放り込まれている。なんとなれば、それが「西洋と対立するもの
」だからに他ならない。

思想的同一性の意味でも、「東洋」という区分はやはり、今や圧倒的権威を持
つに至った西洋哲学が「それ以外」を総称して呼ぶものに過ぎない。
孔子の思想と同一性を持った集団というなら、時代を共有し互いに影響を与え
あった他の「諸子百家思想」を筆頭に、後代の朱子学や陽明学のようなものも
含めて考えることができるが、それにはやはり「東洋」という区分は相応しく
はない。要するに、お釈迦様のいうように「中華文明圏」だ。

ただ、東洋思想にはただ一つの思想的同一性があるにはある。
「それらは西洋哲学的ではない」という点だ。より正確にいえば「そうみなさ
れてきた」ということだが。ま、「西洋思想以外の思想」という意味で使うな
ら、無論論語も東洋思想の一つには違いない。
106考える名無しさん:02/01/20 16:28
>>105
>で、共通の差異を持つ思想の集団という意味での「東洋思想」というものは存
>在するといえるのか?
というか、そういう問題の捉え方が、既にスレの趣旨から逸脱している。

「差異」が存在して、「共通する差異を持つ思想集団」が存在していればいいのであって、
呼称は便宜的なものにすぎないし、あくまでも「差異」を論じるためのものだから、
差異についてだけ集団であればいいのだ。
文化史について論じているのではなく、思想の内容について論じようとしているのだから、
それで十分だろう。

「天」と「神」といった差異を議論する場合に、
「天」を持つ思想の集団と、「神」を持つ思想の集団があって、
なんらかの呼称が無ければ不便だから、
一方を「西洋思想」一方を「東洋思想」と呼んでいるのであって、
「孔子の考えてたことって哲学と呼べるの?」
という議論においては、カテゴリに求められる機能はそれで十分なはずだ。

「東洋思想」がまずければ「中国思想」でも「古代中国思想群」でも構わない、
呼称が必要だからつけているだけだ。
そこから、スレの趣旨以上の過剰な意味を読み取ろうとするほうがおかしい。



107考える名無しさん:02/01/20 17:38
>「東洋思想」がまずければ「中国思想」でも「古代中国思想群」でも構わない、
>呼称が必要だからつけているだけだ。
だから中国思想と呼ぶだろ普通
>そこから、スレの趣旨以上の過剰な意味を読み取ろうとするほうがおかしい。
あのな、じゃあ「北欧思想」と呼んだって便宜上の呼び名だからOK、って事にはなるぞ。
おかしいのはお前だ。

108考える名無しさん:02/01/20 17:39
しかし、最近多いよな。自分勝手に言葉を定義して他人を非難する奴。
109考える名無しさん:02/01/20 18:32
>>107
誰が見ても>>105のアンタのレスでケリがついてんだよ。
>>106は論点や問題提起の掏りかえを続けて絶対に自分の間違えを
認めない2chの伝統的負け犬タイプ。
ローマ帝国時代にゲルマン等ヨーロッパ地域の蛮族に広まっていたのは
ローマの国教となった基督教ではなく、ニケア公会議で追放され帝国領内に
布教の場を失った異端のアリウス派だという事もわかっていない程度だし。
110考える名無しさん:02/01/20 20:09
>>107
>あのな、じゃあ「北欧思想」と呼んだって便宜上の呼び名だからOK、って事にはなるぞ。
前後の文脈上不都合が無ければ別に「北欧思想」だっていいだろう。

>>109
>ローマ帝国時代にゲルマン等ヨーロッパ地域の蛮族に広まっていたのは
>ローマの国教となった基督教ではなく、ニケア公会議で追放され帝国領内に
>布教の場を失った異端のアリウス派だという事もわかっていない程度だし。

つうか、要するに、相手の言葉尻を捕まえて、
自分の知識をひけらかしたいだけだろう。
あんたらの知識は正しいんだろうけど、
その知識が、このスレの議論にどんな価値があるっていうんだ。
スレの流れを、自分の知識を開陳できる方向に捻じ曲げてるだけだろ。
いい加減、だれも興味が無い、スレ違いの解説を、自己満足のためだけに
やってるってことに気づけ。


111105:02/01/20 21:01
とりあえず、107は俺じゃないのでそこんとこよろしく。
112考える名無しさん:02/01/21 00:25
ちょっと視点を変えてみよう。「孔子は哲学者であったか?」という問題だ。
もちろん、違う。
孔子は初めから知の探求など望んではいない。彼は周の古法を現代に甦らせる
ことで世の混乱を食い止めようとした復古主義者であり、政治家になれなかっ
た政治思想家だ。
彼はむしろソクラテスよりはマキアヴェリに近い。方法論は正反対でも、混乱
する祖国の現状を憂いて過去の偉人に人間のあるべき姿を求めた、という点に
おいて。
そんな孔子の言行録である「論語」が哲学書にならないのは当然といえよう。
彼にとっては、自分が無知であると悟ることより、自分が何を知っていて何を
知らないか把握しておくことのほうが遥かに重要だったのだから。
113107=108:02/01/21 07:54
うん,105のふりしたつもりもない。誰が見たって106はアホ。
98で相手を猫電波と思ってるところをみると、敵は一人だけと思ってるかも知らんがな。
>前後の文脈上不都合が無ければ別に「北欧思想」だっていいだろう。
不都合があるから文句言われてるんです。
>スレの流れを、自分の知識を開陳できる方向に捻じ曲げてるだけだろ。
捻じ曲げてるのは君だ、無理に東洋東洋叫ばなきゃすむことにきづけ。
114考える名無しさん:02/01/21 09:15
>>113
まだアイツ同じ事言ってんの?
テメーで論点スリ変えといて「流れを捻じ曲げられた」とか、
反論の前提となる知識が間違ってるからソレを指摘してやれば
「知識自慢、自己満足」とか、独りで被害者ぶってるし 反省という
言葉を知らんのか あのお坊ちゃまは?
115考える名無しさん:02/01/21 19:54
(・∀・)
116 :02/01/21 21:21
東洋では哲学などなかったんだよ。
だから孔子も哲学者じゃないの。
117考える名無しさん:02/01/21 21:25
とすると、なんで東洋には哲学がないのか?
11863:02/01/21 22:45
>>113-114
おいおい。
俺は63でしか書き込みしてねーよ。
そもそも俺が引っ掛ったのは>>60の「文化的統一体」ってのだよ。
地理概念から来た呼称に主体を求めるってのがそもそも間違いだって云ってんの。
そこにキリスト教文化が西洋のそれだっての云ってんのは誰なのよ?
便宜的に西洋・東洋って云うのは解るっての。
だけど西洋って云う主体がある様な云い方してる人は何なのって事だよ。
貴方達は「東洋」って言葉は「間違ってる」って思ってんのか?
そうなら、俺が話す事は何もねーよ。アホくさ。
11963:02/01/22 00:22
あっ、一つ解らねー事がある。
>>109の云う、
>ローマ帝国時代にゲルマン等ヨーロッパ地域の蛮族に広まっていたのは
>ローマの国教となった基督教ではなく、ニケア公会議で追放され帝国領内に
>布教の場を失った異端のアリウス派だという事もわかっていない程度だし。
こりゃどう云う文脈で出て来たの?
五賢帝時代が終ってゲルマン民族の大移動が始まった帝国の衰退期に、
国教化されたキリスト教文化が西洋・ヨーロッパの文化的統一体になった事を
説明するもんじゃないよね?どんな関係があんの?
どのレスのどんな箇所を間違ってるから訂正したの?
で、貴方は「西洋」の文化的統一体ってのはあると思うの?
あるんだったら何?
>>104>>109だよね?
後学の為に教えてちょ。
12063:02/01/22 00:24
あ、又間違えた。
>>109>>114だね。
失敬。
121考える名無しさん:02/01/22 00:25
「厳密な定義」というのはもちろん不可能だが、「西洋」と呼びうる主体はな
いこともない。少なくとも、「東洋」に比べればよほどはっきりした「流れ」
がある。
それは決して単に「地理概念から来た呼称」ではない。というか、西洋という
のはむしろ地理上の概念よりも、文化的意味合いのほうが強い。地理的には、
どこからどこまでが西洋(ヨーロッパ)なのか、のちゃんとした定義はないと
いっていい。そんなわけで、文化的に自分は西洋だと思いたい奴は勝手に西洋
を名乗る。典型的なのが、「ロシアはヨーロッパである」と発言して物議をか
もしたロシアのエカテリナ二世だ。
西洋人とは社会的、歴史的、文化的に共通の要素をもつ一つの系統を受け継い
だ国家、ないしは人々のことだ。その要素の中で最も重要なものこそがキリス
ト教。キリスト教徒が全員西洋人なわけではないのは当然だが、「西洋キリス
ト教」と呼びうる流れはたしかに存在する。分かりやすくいえば、カトリック
とプロテスタントのことだ。ビザンツ帝国の扱いなど厄介な部分もあるから、
もちろん、「ここからここまでが西洋」という「厳密な定義」はない。だが、
それは「西洋というものはない」ということを意味しない。
これに対し、「東洋人」は「それ以外」の総称に過ぎない。その差は決して小
さいものではない。つまり、「西洋」にカテゴライズされる文化や思想にはあ
る程度の統一性があるが、「東洋」にはそれがないということ。
ま、こんなことは本題ではないのだが、孔子が哲学かを論じるに当たって、「
とりあえず西洋と東洋という二元的な枠組みを設定してみる」こと自体が疑問
なんでな。
122121:02/01/22 00:29
あ、俺は104でも109でも114でもないので念のため
アリウス派云々は俺も気になった
12363:02/01/22 03:29
>>121
あいや、間違ったね。ヨーロッパと西洋を並べちゃったのは不味かった。
いや、言葉として西洋・東洋は普通対になるよね。
西洋は欧米を特に欧州を曖昧に指すし、東洋もかなり広範域を曖昧に指す。
無論、この言葉が(反論してる方達は「東洋」ね)、粗雑な概念だってのは解る。
東洋なんて中国じゃたしか日本を指してたりする。
だけどね、地理的概念と云ったって、西の果てから来たとか
東の方とか云ったりして厳密に指し示すものばかりじゃない。
勿論文明を意味したりするけど、地理的概念が先にくるでしょ「西洋」って云ったら。
江戸、明治、現代と「西洋」に対する概念は変っていって、今便宜的に使っている西洋・東洋と
云う言葉に具体的な意味を求め正否を問うのはなんか変な気がする。
辞書から消せって乱暴な話しでもないでしょ。
様々な概念を含んでしまう事ぐらい解ってて使ってるでしょ、普通。
これが政治的文脈や厳密な学問のレベルで問うなら解るよ。
けど俺が云った>>61>>63はそれに対してちゃんと断り入れてるつーの。
アリストテレス以降のキリスト教の影響にあった哲学の系譜と比較する
訳じゃ無いのに、何故にキリスト教の文化的統一体で西洋哲学かな?
スコラ哲学と孔子を比較すんの?
俺には学問的な文脈で、哲学を西洋と云う括りでどこまでも論じてこうとするのも、
キリスト教文化に西洋を代表させて良しとする感覚もワカンネ。すんません。
だが西洋の主体に言及する方達の云う事が解らない訳じゃない。けど、それも一つの視点で
あると相対的に俺は<今>思いました。そも最初から俺は東洋の括りに意味を見出して無いよ。
西洋と云っても様々な差異があって、それが東洋の、極一部ではあれ、他文化を吸収してきた
日本と諸国の差異が、戦時下に色々あったにせよ如何程にあったのか?
弱い繋がりであったにせよ何か共通点が見出せないのか?
そこに近代、所謂西洋文化の影響を受ける以前にあった漠然としたもんではあれど、
なんかスレ違い板違いなんでもう突っ込んで話しませんが、「東洋」に思いを馳せる事にします。
では、具体的な孔子と「哲学」の比較をどうぞ。色々解ったんで、もう余計な茶々入れませんです。
124考える名無しさん:02/01/22 03:58
ソクラテスと孔子を議論させてみたいものだ。
孔子はソクラテスに論破されて自分の無知を認めるだろうか?

平気な顔をして認めそうな気もするな。
「知らざるを知る、これ知なり」だし。
125考える名無しさん:02/01/22 06:37
しかし、プラトンの「哲人王」はある意味、
「君子」とかと似たような発想のような気がする。
考えの進め方は違っても、最終的には
(誤解されやすい言い方だがあえていうなら)エリート独裁に行き着く。

で、
そのエリートがいかにあるべきかということを説いたのが孔子で、
プラトンは、なぜエリート独裁でなければならないかの論証から
始めてる。

乱世とはいえ、中国の場合は、基本的には王政しかないわけだから、
孔子は、この王がいかにあるべきかを論じればよかったわけで、
プラトンも、理想の政治が実現される可能性として、
そのようなプロセスに論及している。
しかし、当時のギリシャは都市国家の全盛期で、
アテナイは民会政治だったわけだから、
プラトンは論証から始める必要があった。

「悪妻が哲学者を生む」みたいなことをソクラテスがいっていたとかいわないとか
いう話があるけど、それに近い意味で「(古代)民主主義が哲学を生んだ」
といえなくもない。
126考える名無しさん:02/01/22 13:11
アリウス派云々って何なの?
127考える名無しさん:02/01/22 17:35
そもそも「哲学」を定義してくれんことには…
簡単でいいから。
128考える名無しさん:02/01/22 18:14
孔子の考えていたことは哲学と呼べるのか?

この問いに答えるにはまず「哲学」という言葉が何を指しているのかを
明確にしなければならない。
一般に「哲学」という言葉が指し示す対象はかなり多く、巷ではAIR(エロゲー)が
哲学的なストーリーを持っている、などという使い方もされるようになった。
「哲学」はピタゴラスに言わせれば「知を愛すること」だし、ウィトゲンシュタインに
言わせれば「ある人間が無意義な事を話し始めたとき「それは無意義である」と指摘すること」
だし、ヘーゲルに言わせれば「精神が精神自身の内部を探索し明らかにすること」なのだ。

と言うわけで、まず今までの議論はリセットして

・ある哲学定義上で孔子の思想が哲学的かどうかを議論する。

のが良いかと。

そうするとある命題「哲学を〜とすると、孔子の思想は哲学的であると言えるor言えない」に対する反論は、
「あなたの哲学の定義が気にくわない」

「あなたの孔子解釈が間違っている。」
のどちらか(か双方)になる。
129 :02/01/23 21:42
まぁ所詮は諸子百家なんて、人民の統治の仕方を研究してただけだからね。
あんなの哲学とは呼べないYO!
130考える名無しさん:02/01/23 22:13
しかし、同時期のギリシャの哲学も、社会のあり方についてかなり論じているよ。
131考える名無しさん:02/01/23 22:24
>129
そんなことには全然興味がなかった諸子百家もいるYO!
「農村に帰れ」とか「汝の隣人を愛せよ」とか「大いなる天のもと万物に差異はなし」とかNe!
132考える名無しさん:02/01/25 09:29
>>129
か、マキャベリは哲学じゃないし、プラトンも哲学じゃないってことで。
133考える名無しさん:02/01/25 19:15
じゃあ、アリストテレスもだね。
134ネタ・・?:02/01/27 21:06
アリストテレスもなの?
135考える名無しさん:02/01/27 22:46
>>134
アリストテレスは哲学の領域を二つの部門に分け、
実践的な部分には政治学と倫理学が含まれるとしている。
プラトンが哲学でないという定義からいえば、
アリストテレスも同様だろう。
136考える名無しさん:02/01/29 20:36
学者とかが、孔子は「哲学者」って言ってんだから。
素人の俺らが言ったって何も始まらないよ。
137考える名無しさん:02/01/29 20:49
孔子が考えたことは政治思想であって哲学ではないんでない?
138>136
俺は学者だけど、孔子の発言は哲学じゃないと思うヌ。