メルロ=ポンティを再評価しよう

このエントリーをはてなブックマークに追加
1ポンチ
・・・って無理か。
その昔読んでけっこう面白かったんだけどなぁ。
2考える名無しさん:01/10/03 15:29
3考える名無しさん:01/10/04 05:46
俺は一番、好きだけどなあ・・・。
「行動の構造」「知覚の現象学」「弁証法の冒険」面白いよ。
4考える名無しさん:01/10/04 05:52
みすずのコレクション誰も読んでないのかな?
俺も読んでないけど。
5考える名無しさん:01/10/04 06:12
もってるけど、読んでない。
だって、中途半端なんだもの。
6:01/10/04 06:17
ん、勘違いかもしれん。
コレクションって、ちくま学芸文庫の「メルロ=ポンティ・コレクション」じゃなくて、みすずの一連の翻訳のこと?
それなら、読んどるよ。
7:01/10/04 06:34
木田元が編集してるやつで今3巻まで出てる。
8:01/10/04 06:37
9考える名無しさん:01/10/04 06:46
それって、真ん中が「シーニュ」に、両端が「眼と精神」に収録されてるやつですね。
そんなものを今更、分冊にして出版する意味あるんだろうか?

少なくともそれらを読むぐらいなら、少々時間をかけて「知覚の現象学」を読んだ方がいいような・・・
10:01/10/04 07:05
「哲学の貌/メルロ=ポンティ」
Visages de la philosophie / Merleau-Ponty
http://www.kainos.it/Visages%20web/pagine/Merlau-Ponty.htm
11考える名無しさん:01/10/04 07:09
昔どこぞで見た、娘と手をつないで歩いてる写真が微笑ましかった。。。
12考える名無しさん:01/10/05 17:56
そもそも、フッサールがわからないので、
順序として後回し。
13考える名無しさん:01/10/06 06:55
フッサールって、変に難しいからねえ。適当な所で見切りをつけて、メルロ=ポンティ読んでもいいかもよ。
14ポンチ:01/10/06 11:54
あの、のらりくらりとした文章がたまらんです。
やめられないとまらない、みたいな(藁
木田訳ってあの文体をわざと強調してるような気もするんだけど。
中島訳(「知覚の現象学」法政大学出版)とか読むとずいぶん印象が違って、
わりと普通の記述っぽくなってる。
15考える名無しさん:01/10/06 12:41
哲学者というよりエッセイストでしょ
>>12
同様内に有るけどフッサールわからんので・・・
どれから読めばいいでしょうか?
17考える名無しさん:01/10/06 13:20
フッサールわかんなくてもメルロ=ポンティは読めますよ。
15さんの言うようにエッセイみたいな文章が多いし。
でも「知覚の現象学」の序文とか読むと、彼のあのスタイルにも実は
ある程度戦略的な意味があることが分かるかと・・・。

ま、最初に読むとしたら、やはり「眼と精神」とかでしょうか。
まさにメルロ=ポンティ節全開といった感じで、かえって入り難い
かも知れないが。
18考える名無しさん:01/10/06 18:21
>>13
>>17
 12です。わかります。
 (ただ『知覚の現象学』とあるとどうしても、
「現象学」=フッサール←いまいちわかってない
ので不安、という連想が働いちゃって)
 メルロ=ポンティを読むと、フッサールが、逆
に、わかる、となると嬉しいですがネ。
19考える名無しさん:01/10/07 01:40

んんー、メルぽん?
20考える名無しさん:01/10/07 02:46
おいらは「知覚の現象学」をお勧めするよ。
長くて、とっつきにくいと思うかもしれないけど、エッセンスがつまってるし、一番面白いと思う。
ちくま新書の「メルロ=ポンティ入門」の著者が翻訳が出た時に一晩で読んでしまったと言うのもわかる(このこと自体の真偽はともかく)。
極端なことを言えば「この一冊さえモノに出きればいい」ぐらいの気持ちで、時間をかけても眛読してもいいんじゃないかな。
その時間は、「イデーンT」に頭を悩ませるより価値あるものになる、とフッサール研究者の自分でさえそう思えてしまう。

反対に、初心者に全くお勧めできないのが、「見えるものと見えないもの」。
2120:01/10/07 02:49
付け加えておくと、「知覚の現象学」をわけわからんという人もいるから、「つまらん」と思ったら、止めた方がいいかもね。
この辺は感性とか嗜好の問題かなあ。
22びたみん:01/10/07 02:51
>>20

フッサールについてだけど、斎藤慶典の「思考の臨界」
どうかな?もし読んだのなら、感想を聞きたいな。
2320:01/10/07 02:54
初心者向け、という印象かな。
整理されてて、わかりやすいけど、本当にこれでいいんかいなという感想。
244:01/10/07 02:57
>>12
舟木享著の『メルロポンティ入門』に「すべての情報を入手して
から、万全の決断をしたいと(中略)主張するのは、むしろ決断
したくないと主張することにひとしいのである。」とあります。
順序だてて取り組むのも大切だけれど、この言葉も参考にしてみ
てください。
25びたみん:01/10/07 02:58
>>23

そ・そうなんだ。いや、読もうかどうか迷っていてさ。
それじゃあ、フッサールに関する本でお勧めってある?
西研の「哲学的思考」、手に入れたけどまだ読んで無いや。
2620:01/10/07 03:32
うーん、フッサールの解説書って、どれも帯に短し、襷に長しっていう感じだからねえ・・・。
そもそもフッサールの思想自身が何だかわかんないような所があるし。
古典的だけど、木田元の岩波新書「現象学」がいいかなあ・・・

いや、斎藤さんの本も決して悪くないんだけどね。
初心者が大雑把にフッサールのイメージを作るには悪くないのかもしれない。
ただ図式的に整理されすぎてるのが、釈然としないというか・・・。
2720:01/10/07 03:33
>24
ん〜、実にメルロ=ポンティ的な発想。
28わかりません:01/10/07 03:48
うーん、行動の構造や知覚の現象学などの初期の論文の隠れたテーマは、科学的諸成果
を哲学の問題解決に応用しようというものだったわけで、この意味で認識論と心理学で
共通に取り上げられる知覚というテーマが設定されたのだし、科学と哲学を取り持つの
が現象学であったのではないかとおもうのですが、そうすると、もろフッサール後期の
生活世界の現象学こそがメルロー=ポンティの理解する現象学であるとおもいます。
ところで、これって、現在のフッサールへの評価に照らしてみて、どう評価されるもの
なんでしょうか。かなり個性的な理解の仕方ですよね。
29たぶん:01/10/07 04:52
メルロ=ポンティは自らそう語っているように、フッサールの祖述や解説をしているわけではなく、フッサール現象学の創造的理解を試みている。
その点では、「個性的」ではあると思う。(逆に言うと、凡人にはできない芸当)
しかし、メルロ=ポンティはフッサールの正当な後継とまでは言わないまでも、その発展可能性の一つを示していると思う。

なんかありきたりなコメントになってしまった・・・。
30ちなみに:01/10/07 05:17
「行動の構造」や「知覚の現象学」は「科学的諸成果を哲学の問題解決に応用」したのではなく、
科学(特に生理学的心理学)のジレンマに対して、哲学(現象学)から解決の道筋を付けようとしたものだと思う。
あるいは、ゲシュタルト心理学のように、科学それ自身による対処の中に現象学的思考を見出そうとするものだったとも言える。
そして、社会学や言語学に関する彼の後の著述もこれと同じスタンスで行われているように見える。
31単純に言って:01/10/07 06:10
生活世界論に見られるとおり、後期のフッサールは超越論的主観性と世界との不可分性を強く認識するようになっていた。
この点をはっきりと強調し、実践したのが、メルロ=ポンティではないかと・・・。
32考える名無しさん:01/10/07 12:20
>12です。
 いろいろ意見ありがとうございます。
 >>24さまの意見を参考にします。
 (どうも岩波新書の例の本の章立てに影響さえていたようです)
 ウニベルシタス・ファンなので法政出版の買おう。
33弁証法的理性批判放棄:01/10/07 12:57
皆様色々意見どうもです。
34考える名無しさん:01/10/07 13:20
メルロ=ポンティもいわゆる前期と後期という言い方がされるようですが、
どういう違いがあるのでしょうか? 分かる人います?
ウィトゲンシュタインのようなラディカルな切断はこの人の場合なかったよう
に思いますが。
35考える名無しさん:01/10/07 23:42
よく知らないけど、前期は具体的問題にかなり立ち入っている、
後期はかなり形而上学的と理解してるんだけど、違う?
で、後期から見ると、具体的であるぶん前期の思考は捕らわれている、つまり自然化(実体化?)された身体に依存しすぎていると。
36びたみん:01/10/07 23:47
メルポンか・・・。
知覚の現象学を直接読むのと、鷲田清一
の講談社から出てるやつ読むの、どっちがいいかな?
37考える名無しさん:01/10/08 00:09
>>34
確かメルロ=ポンティ自身が「知覚の現象学」のある面を自己批判して
いる文章がどっかにあったっと思ったけど、見つからんし、どんなんだっ
たか忘れた・・・。
38考える名無しさん:01/10/08 00:19
「見えるものと見えないもの」のどっかに書いてあるんでないか?

>36
俺は直接、読んだ方がいいと思う。
鷲田さんの本は知らんが、メルロ=ポンティは解説書の方がわかりにくくて、退屈という経験が多い。
39びたみん:01/10/08 00:41
>>38

直接かー。あれ木田元の訳とかも
けっこういいみたいだね。
40仏語で読めりゃいいんだろうが:01/10/08 04:42
中嶋訳しか読んだことないけど、どっちがいいんだろうね。
中嶋訳、わりと好きなんだけど。
41わかりません:01/10/08 11:22
>科学(特に生理学的心理学)のジレンマに対して、哲学(現象学)から解決の道筋を付けようとしたものだと思う。
>あるいは、ゲシュタルト心理学のように、科学それ自身による対処の中に現象学的思考を見出そうとするものだったとも言える。
木田元氏の解説はまさにこのとおりですが、科学が前提とする主知主義や経験論を取り除くことによって科学の諸成果との対話の
次元を切り開き、ゲシュタルト心理学の諸成果を自分のものにする、すなわち、哲学の課題を解決するための一助としたというこ
とです。彼が考えていた現象学が科学以前の世界と私との初原的なつながりの解明を目指していたとするならば、それは極めて
具体的なるものについての哲学であり、この具体的な世界とのつながりに立ち返ることにおいて科学と哲学の共通の出会いを実現
しようと構想したわけです。
42わかりません:01/10/08 11:48
ところで
この知覚の現象学の読みずらいところは、主知主義や経験論の用語をそのまま使いながら、
それを乗り越えようとしているところで、自らの主要な論を展開する時点で主体という言葉を
使ってしまった以上、それは二元論を前提としているわけだし、主知主義の範囲にとどまる議論
を展開することを主張することになるが、案外そのてんでは無自覚というか、無防備に論を展開
しているように思われます。この点ハイデガーは徹底しているというか、自覚的なんですね。
また他方、行動の構造に比べて科学的諸成果に対してのスタンスが確立されているにしても、
全体としてゲシュタルト心理学を超える議論ではないのではないか。たしかに身体論と言語論
についてはかなり鋭い突っ込みがあるにせよ、存在論的基盤が弱いからか、依然として科学拠り
の議論に傾いている傾向がある。
後期の見えるものと見えないものではこの点がハイデガーに依存しながら初期の問題点の克服
を図ろうとしたと考えていますが、あまりに自分がハイデカーを誤解したままであったことに
気づいて、ショックのあまり心臓発作になって死んだんだと思いますよ。だってひどいもんね、
あまりに無理解というか誤解だらけで、当時のフランス哲学の限界を見る思いです。
43考える名無しさん:01/10/08 12:45
>主体という言葉を 使ってしまった以上、それは二元論を前提
>としているわけだし、主知主義の範囲にとどまる議論 を展開
>することを主張することになるが、案外そのてんでは無自覚と
>いうか、無防備に論を展開している
必ずしも、そうは言えないと思うけど。メルロ=ポンティの主体の概念には特有なものがあると思うけどなあ・・・。

ハイデガーに関する無理解は、そうだと思う。
「眼と精神」のとある叙述でフッサール・マンセーに対して、あまりにハイデガーへの評価が低いのに驚いたことがある。
44考える名無しさん:01/10/08 12:57
うーん。
メルロ=ポンティはけっこう好きだけど、彼の「間主観性」という
概念っていまいち好きになれない。あんまり理解できてないからか
もしれないけど、そこだけちょっと議論に後退を感じる。
ハイデガーに対する誤解って具体的にどんなところなんでしょう?
「見えるものと見えないもの」は個人的にけっこうイケてる(笑)
と思うんですが。
45例えば:01/10/08 13:13
ハイデガーの試みているのは「世界内存在」の記述です。
ですから我々は、哲学者もまた当然世界のうちに投げ出されていて、十全な認識の状態に達するのは哲学者にも難しいに違いない、と考えてもよさそうです。
ところがハイデガーは、哲学者の態度を定義する際には、哲学的思考という絶対的能力に何の制限も加えようとはしません。

以上、「人間の科学と現象学」より。
46考える名無しさん:01/10/08 13:17
>44
僕と正反対かもしれませんね(w
僕は彼の間身体性という概念が非常に面白いと思ってしまう。
反対に、「見えるものと見えないもの」は難解なこともあって。「こんな抽象的な議論に価値があるのかな」って考えちゃう。
47考える名無しさん:01/10/08 14:58
「間身体性(間主観性?)」ってウィトゲンシュタインなどから読むとどうな
るのかな?
48考える名無しさん:01/10/09 03:08
昔、栗本慎一郎が「天才」といってた
49わかりません:01/10/09 23:28
>45 その個所というのは気になりますよね。
ハイデガーについては、知覚の現象学の序文で現象学を定義する際にも登場してくるし、
かなり早い時期から知っていたにもかかわらず、ほとんど聞きかじり程度の理解しかして
いないな、という印象がありますね。
たしかに、彼が世界内存在(etre‐au‐monde)というときには、まさしく世界内存在と
でも呼ぶような無垢なものになっているのに対してサルトルのetre-dans-a-la-monde(だったっけか?)
がどっちかっていうと「世界の内側にある」というように読めますし、ハイデガーのin-der‐welt‐sein
(だったっけか??)もどちらかというと、「世界の中にある」というように読めないこともないのであって、
そういう意味では、後期のフッサールのポイントをしっかり押さえているという点では、
鋭いんですが、如何せん存在論が見えていないという印象があります。
これは何も、彼だけの責任というわけではなくて、フッサール自身にも問題があると思いますし、
この点で彼自身はそういう伝統的存在論をそもそも問題にしていなくて、ゲシュタルト心理学に
存在論的に無自覚に依存してしまったという点に大きな失敗があったのではないか。
つまり、意味が立ち現れるのは、図と地の差異的関係においてであるという心理学的事実性
に依存してしまって、この点において知覚こそがもっとも原初的な意味の立ち現れる現場である
と考えてしまった点にあったと思うのです。ある意味、科学を哲学によって人間的な地平へと
救済しようとして、飲み込まれてしまったのではないか、という印象があるんですね。
もっとも、彼が展開した身体論は、私たちがもっとも具体的で慣れ親しんでいる身体を
手がかりとして世界を了解しているということを明らかにしたとともに、身体もまた世界なのだ
という指摘は大変鋭いものがあったと思います。これは心理学や生理学の世界にも届く指摘ですし、
彼の論の中でもかなり具体的でわかりやすいと思います。ここがすぐれた現象学的成果としても
評価される点だと思います。そういう意味で、栗本さんがご指摘のように、科学と哲学の両方に
またがったすぐれた論を展開している、両方に互換性のある思想として評価していいと思います。
ただし、残んないんじゃないでしょうか、今後…。
50わかりません:01/10/09 23:49
すいません、フランス語の表記が出来ないんで、どうすればちゃんと表記できるか教えてください。
51考える名無しさん:01/10/10 00:00
えっ? フランス語ができないんじゃなくて?
52考える名無しさん:01/10/10 01:29
>ただし、残んないんじゃないでしょうか、今後…。
こういう評価は一般にあるみたいだね。
メルロ=ポンティは自然科学(心理学)にどっぷりつかりすぎている、よって科学が進歩すれば無用の哲学になる、みたいな。
で、こういう批判に対して弟子が「行動の構造」の序文で反論してた。
53サルトルと比べると、流石に・・・:01/10/10 01:50
とあるイギリス人哲学者がテレビ向けの講座で、
サルトルは消えるが、ハイデガーとメルロ=ポンティは残るだろうと言っていた。

議論抜きにこんなコメントだけ抜粋しても、しょーがないけどね。
5452=53:01/10/10 02:02
で、こんな与太話はいいのですが、メルポン萌えとして具体的なコメントを・・・

>ゲシュタルト心理学に存在論的に無自覚に依存してしまった(略)
>図と地の差異的関係においてであるという心理学的事実性に依存・・・
ここはそうは言えないと思います。
むしろ、彼はゲシュタルト心理学には現象学的思考からの転落の危機があると、指摘しています。
55引用1:01/10/10 02:10
例えば、次のように言っています。

このような知覚的諸関係を十分に言い表すためには、カテゴリーを一新しなくてはならないのであるが、ゲシュタルト学説はこれを果たしていない。
ゲシュタルト学説はカテゴリーを一新しなくてはならないという原理を認め、それを若干の特殊な場合に適用してはいる。
56引用2:01/10/10 02:11
しかし、これらの諸現象を正確に表現しようとするならば、理解の仕方をすっかり変えることが必要であり、
そのためには古典的な論理学と哲学の客観的思惟を問題となし、世界に関する諸カテゴリーの使用を差し控え、実在論のいわゆる明証性をデカルト的意味で疑い、結局本当の「現象学的還元」を行わなくてはならない
ということに、ゲシュタルト学説は気付いていない。
57考える名無しさん:01/10/10 02:14
長くなってゴメンナサイ。
「知覚の現象学」
中島訳99―100pからです
58わかりません:01/10/12 05:46
>57
いってることはわかったけど、メルロー=ポンティはゲシュタルト心理学を現象学によって再構成する必要があると
指摘しているのであって、前提としてはやはり心理学の問題圏にとどまるのではないか、そしてその理由は、この
時期まったく伝統的な存在論を知らないままであったからではないかと指摘しているのが私の議論。
この議論は、この時期の彼のハイデガーについての理解が稚拙であったという先の書き込みの議論を受けてのもので
すから、だとすると、ハイデガーを主に取り上げている後期の立場からこの時期の議論を擁護するか、
積極的に生活世界論として開き直るかのどちらかの議論しかないと思うのですが、どうでしょう。
59考える名無しさん:01/10/12 07:34
>ゲシュタルト心理学を現象学によって再構成する必要があると
>指摘しているのであって
そうそう。でも、
>前提としてはやはり心理学の問題圏にとどまるの
これが納得できない。
60考える名無しさん:01/10/12 07:43
で、「伝統的な存在論」というと、何だかアリスとテレスなんかが出てきそうだけど、これってハイデガーのことですよね?
たしかに、前期の彼はハイデガーの存在論の意味をよく理解してなかったかもしれない(っていうか、直接知っていたんだろうか?)。
しかし、だからといって、彼が全く素朴な存在論を前提にしていたのかというと、全然そんなことはないと思う。
61考える名無しさん:01/10/12 07:52
彼は初期の著作で純粋な存在論を展開することなく、具体的な相で議論を進めている。そうして、心理学や生理学の問題に関わることになるから、一見その議論は「存在者」の水準でしか展開されていないように見える。
だけど、そうじゃないと思います。
彼はむしろ、例えばゲシュタルト心理学なんかをダシにしながら、「存在」について語ろうとしているのではないでしょうか?
彼が「理解の仕方を一新する必要がある」と言うときに考えていたことは、そういうことだと思います。
62考える名無しさん:01/10/12 07:57
だから、前期のメルロ=ポンティはハイデガー的な存在論を具体的相において展開したもの、あるいはその途上にあるものだと思います。
その点で、彼自身の自己批判もあったりはしますが、前期と後期の議論は接合可能で、むしろ一つの事柄の二つの側面である、
これが僕の解釈です。
63訂正:01/10/12 08:01
>60
「アリスとテレス」だって・・・
アリストテレスだよ・・・。
64わかりません:01/10/13 14:29
>62 一つの事柄の二つの側面である
ほんとメルロー=ポンティ好きな人はこういう表現しますよね。両義的アンビギュイティ
だかアンビバレントだか・・・。
なんかあなたのいっていることは気持ちとしてわかります。
何を隠そう私も学部の学生だったころの愛読書はみすずの知覚の現象学と木田元のメルロー
ポンティの思想だったので、あなたの言おうとしていることはわかります(だいぶ忘れちゃっ
てますが)。
では「理解の仕方を一新する必要がある」という際に、これが唯一、存在論を指すのであれば
あなたの論のとおりですが、これが現象学を指すのであれば、それは間違いになりませんか?
理解の仕方を一新するとは現象学によって、ゲシュタルト心理学を再構成することであったの
ではないでしょうか。

私が知覚の現象学を読んで面白いのは、私たちが世界を獲得するその仕方を学びなおすことを
彼が主張している点にあります。私たちは、世界を自らによって獲得しているのであって、
あらかじめ天与のものとして前提されているものでもなければ、本能によって行動している
わけでもなく、そうすることを選び取りつづけているのですが、彼の議論を読んでいると、
そういう無垢なまま自らの世界を構築していく姿に出会うことができる、または自らが日常
の中で自動的に反射的に行ってしまっていることをもう一度呼びだしてくるということをさせる
哲学であると思われます。
私は、科学上の発見に関心がありますが、世界を獲得するとは、すなわち世界を発見する
ことにほかならず、驚きや驚異の連続であり極めてスリリングなものであると思うのですね。
ここから、科学という行為を人間的な次元へともう一度取り戻したいと考えているのですが、
この点でメルロー=ポンティには関心があるということです。
65考える名無しさん:01/10/20 00:10
>「理解の仕方を一新する必要がある」という際に、
>これが唯一、存在論を指す
いや、私はそう言いたいわけではないのです。
むしろ、私も
>理解の仕方を一新するとは現象学によって、ゲシュタルト
>心理学を再構成することであった
と思っています。
66考える名無しさん:01/10/20 00:13
しかし、だからといって、彼がゲシュタルト心理学に依存していたということではない。
ゲシュタルト心理学は一つの挫折であって、それが達成せんと欲したところのものへとそれを解き放つとき、それは一つの哲学になりうるというわけです。
67考える名無しさん:01/10/20 00:14
余談ですが、この辺りはフッサールの現象学的心理学の構想、心理学と現象学の並行性に近いと言えるかもしれません。
68考える名無しさん:01/10/20 00:24
話を戻しますが、こうした試みの一方で、もしも存在論を語ろうとするならば、それはもはや古典的な存在論ではダメということです。
やはり、存在論の方も新しい存在論へと組みかえられる必要があるのです。
69考える名無しさん:01/10/20 00:33
で、それをやろうとしたのが「見えるものと見えないもの」。
例えば「知覚の現象学」なんかでやったことを存在論的に純化して語ると、ああいうふうになるのだと思います。
だから、私が「一つの事柄の二つの側面」と言ったのはそういう意味であって、彼の両義性の概念とは全く別物だということを一応指摘しておきます。
7065-69:01/10/20 00:44
だから結局、前期と後期の違いというのは、単なるスタイルの違いでしかないと私は考えるわけです。

とはいえ、これには結構私の予断も入っているので、スタイルの違いに還元できない両者の相違、決定的な転回点
〜単に「一種の実証主義から存在論に向かった」といった類の指摘にとどまらないような〜
について教えてもらえると、有り難いと思います。
71考える名無しさん:01/11/08 21:34
濃いからage
72考える名無しさん:01/11/13 22:00
本スレage
73考える名無しさん:01/11/13 23:21
今高校二年生です。
行動の構造読んでますが、ちと難しい。
こんなことで大丈夫だろうか。。。
74考える名無しさん:01/11/13 23:43
>>73
大学入ってからも読めるから安心しな。
俺なんか学部2年だが、未だにフッサールを微塵も理解出来んわい
75考える名無しさん:01/11/14 00:44
高2でメルポンってすごいね
76考える名無しさん:01/11/14 01:23
>73
マセガキめ。羨ましいぞ。

>74
フッサールはむずいよなあ。
その割に実りが少ないような・・・。
77わかりません:01/11/14 02:41
遅くなりましたが、ひとつ、簡単に。
メルロー=ポンティの後期の思索を特徴付けるものとして、ハイデガーへ
の接近が上げられると思うが、彼はハイデガーをかなり誤解しているふし
がある。
彼は、「知覚の現象学」執筆時から自分の哲学の方向性をフッサール後期
の生活世界の現象学の内に見出していたと思うが、同時に彼が初期から一貫
してテーマとしていた知覚というものをあわせて考えてみると、知覚による
世界との関わり方の解明こそが問題であったということがいえるのであって、
存在者に対しての認識の次元にテーマ設定がとどまっていると思われます。
ところが、では、この関わりという事が如何にして可能なのかという問いこそが
極めて存在論的なのであり、これに気づき始めて、ハイデガーに接近していった
のが晩年の思想というように総括できると思います。
しかし、フッサールとハイデガーがブリタニカ草稿で決定的に各々の立場の相違
を見たように、フッサール後期の思想につよく影響されている分だけ、つまり、後期
フッサールの立場でハイデガーを理解しようとしているふしがあって、その分、
ハイデガーの咀嚼に失敗しているように思えてならないのが、彼の後期の思想で
あったと思います。
回答になってるでしょうか?
78初心者:01/11/14 02:53
オレは学生時代メルポンを同語反復のペテン師で現象‥例えば目の前の
赤い帽子・・は客体が光を媒体にして脳と化学した単なる結果で物事の原因
になど到底なるものでないと思っていたが今はおおっ!なんと豊かで愛しの沃野
かと思うようになった 人類が進化の果てに得たアナログと言う役の実在
79わかりません:01/11/14 03:01
メルロー=ポンティの思想は割と初期から一貫していて、要約すると、
私たちは世界をどのように獲得し、またどのように関わっているのか、
そしてそれはどのように知りうるのかということであったと思います。
このために、あまりに密着しすぎている世界との関わりを一旦かっこ
の中に入れて、改めて見つめなおすという現象学的手法によって、具体的に
論じていったのが知覚の現象学であり、また、一時担当していた発達心理学
などもこれに属するものと思います。このころから世界を構成するエレメ
ントである言語と表現の問題に深く関わっていき、中期のソシュール研究や
芸術論に発展していきます。この間に社会問題に対して積極的に発言していき、
マルクス主義にも接近していくのは時代のお約束というところでしょう。
後期から晩期にかけての彼の問題は、真理論がテーマとなってくるのですが、
私見では、彼が自覚していようがいまいが、フッサール的問題圏とハイデガー的
問題圏との克服であったのではないかと思っています。つまり、真理を語り得る
次元の設定はフッサール的問題圏としての認識の真理なのか、それとも、真理が
それとして語られるハイデガー的問題圏にあるのかを解決することではなかったか
と思います。これが本人の内に自覚的でなかったために、どうも混乱が多いというか、
ハイデガーへの言及が多いという結果になったのだとかってに理解していますが、
専門の人から見たら、落第かもしれませんね、これは・・・。
80考える名無しさん:01/11/14 03:02
>77
「わかりません」さん、お久しぶりです。

>78
続きは?
81考える名無しさん:01/11/14 03:10
>79に関しては私も大筋では似たような見立てをしています。
ただ、「見えるものと見えないもの」がどうも理解できないので、最後の所は私には判定しかねます。
82初心者:01/11/14 03:14
>79
認識と存在という水脈の源泉を知覚の現象に求めたのでは
83考える名無しさん:01/11/14 03:29
で、77に関して、一つ質問しておきます。
・通常の現象学運動の解釈では、中期フッサールがハイデガーと対立する一方で、後期フッサールとハイデガーとは親縁関係にあるとされます(木田元なんかもそういう見方をしていますが)。
とすると、後期フッサールの研究から出発したメルロ=ポンティがハイデガーと対立するという見方に違和感を覚えますが、そのあたりはどうなんでしょうか?
84考える名無しさん:01/11/14 03:35
一応、私の見立てを述べておきます。

メルロ=ポンティが知覚を、というより身体を重視するのは、後期フッサールの影響ではなく、別のいくつかの要因があると僕は思っています。
8581=83=84:01/11/14 03:48
もちろん、フッサールにも知覚重視の思想はあります。しかし、それは論理学研究の頃からあったもので、後期に特有のものではありません。
またフッサールの身体論として有名なキネステーゼ論ですが、これも中期の「事物と空間」や「イデーンU」に見られる思想であり、一般に言われるほど後期特有のものではありません。
むろん、この点に関してフッサールの影響は皆無ではないでしょうが、以上の理由で私はそうした影響関係は薄いと見ています。
8681=83=84:01/11/14 03:57
では、何か要因となっているかと言うと、無論メルロ=ポンティ自身の嗜好もあるでしょうが、やはりそこにはフランスの思想的伝統がある、と私は見ています。
乱暴なまとめ方ですが、そうした伝統はメーヌ・ド・ビラン〜ベルクソン〜と続くフランス・スピリチュアリスム(ドゥルーズもこの延長線上にあると思われますが)に明瞭に現われていると思われます。
これも乱暴なまとめになりますが、それは生命論の思想であり、ひいてはそれが具体的な場面で哲学を問うということにもなっており、これこそがメルロ=ポンティ(特に前期)の哲学的スタンスに影響していると、最近私は考えています。
8781=83=84:01/11/14 04:05
では、メルロ=ポンティは後期フッサールから何を学んだのかというと、世界ー内ー存在の思想だと私は思っています。
勿論これはハイデガーの思想ですが、「人間科学と現象学」におけるメルロ=ポンティのハイデガー理解を見るに、これをハイデガーから学んだとは思えません。おそらく、彼は少なくともこの時期までにハイデガー研究をあまり真面目にやってなかったのでしょう。
8881=83=84:01/11/14 04:19
後期フッサールとハイデガーの親縁性というのは全くの通俗解釈ではなく、後期フッサールの世界概念はハイデガーの世界ー内ー存在に近い発想があり、極めて不器用な仕方でありますが、知覚や言語に関する研究にもそれは息づいていると私は思います。
メルロ=ポンティはその息吹を繊細に読み取って、見事な仕方で活かした。それが「行動の構造」や「知覚の現象学」でしょう。
余談ですが、サルトルはこの手のセンスを欠いていたという先入見を私は持ってます(w
だから、この点に関してはフッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティはつながっていると、私は思っています。
その辺のメルロ=ポンティのスタンスを言い表そうとすると、
82さんのような言い回しにもなるのかもしれません。
8981=83=84:01/11/14 04:33
だから、ハイデガーからメルロ=ポンティへの批判があるとすれば、それはハイデガーが中期フッサールに対して向けた批判とは同じものではありえないと思っています。
おそらく後者に対応する仕方で批判されるべきは初期のサルトルでしょう。
むしろ、ハイデガーから見たメルロ=ポンティの欠陥があるとすれば、それはフランス哲学の負の遺産だったのかもしれません。
メルロ=ポンティはベルクソンを高く評価しながらも、辛辣な批判を浴びせましたが、翻って考えてみれば、それはメルロ=ポンティ自身にも向けられうるものであり、
「見えるものと見えないもの」でのメルロ=ポンティはそこから懸命に離脱しようとしていたのではないでしょうか?
9081=83=84:01/11/14 04:37
あらためて自分のレスを読んでみると、「わかりません」さんに色々質問して答えさせておきながら、ねちねちと反論する粘着みたいで私は嫌な奴ですね(w
思ったままを書いて議論を発展させようと思っているだけなんで、気を悪くしないで下さいね。
9173:01/11/14 18:23
行動の構造は早々に投げ出しちゃったんだけど、
知覚の現象学は、今のところ大変面白く読めています。

皆さんの興味をそそるレスのおかげで、メルポンを諦めないですみました!
92考える名無しさん:01/11/14 20:53
>>91
行動の構造は、優秀な大学院生がまとめたレポートみたいなもんだから、
”主著の一つ”との位置付けはどうかと思うよ。
知覚の現象学読みながら、息抜きにシーニュを読む。
これ、悦楽♪
93考える名無しさん:01/11/14 23:09
知覚〜も、簡単な本じゃないけどねー
94考える名無しさん:01/11/15 01:03
とうとつですが。
「見えるものと見えないもの」とシェリングとの関係はどう読めば
いいんですかね?
95考える名無しさん:01/11/15 01:18
自分で考えなさい
96ただの名無し:01/11/15 02:12
幻肢はどう解釈を?脳生理学 あるいは現象学的に
97わかりません:01/11/15 04:04
なんかものすごいですね、レスポンスが。
後期フッサールの、例えば危機論とハイデガーの相違を木田元が世界-内-存在の内に
捕らえているとすれば、安直な見方をするものだと思います。ハイデガーの問いは、
あくまでも存在がそれとして語られる次元を開くものであり、問うということそのも
のを問う極めて哲学史的な問いであるのに対して、フッサールの問いは、世界との関
わりそのものを問うことに限られているのであって、フッサールの問いはハイデガー
によって相対化されると私は考えています。
しかも、ハイデガーにしてみれば、独自に身体論を相対化することはありませんでし
たが、現存在分析の内に身体論が入り込む余地もないですし、知覚と身体とを語りだ
したら、現存在分析が、疑似科学になってしまう恐れだってあったわけですから、な
んともハイデガーからメルロー=ポンティ的な思想は生まれないと思うんですね。
もっとも、木田元は、ハイデガーをやっていくうちにメルロー=ポンティを見出して、
その脈略で逆にハイデガーを捕らえなおしたかったという意図があったそうですが、
ハイデガーはハイデガーでやるべきだったみたいなこと後になっていってたんじゃな
いでしょうか。大学ではまともにメルロー=ポンティ取り上げてなかったみたいですし。
こういう現象学の文脈でハイデガーを読み解こうという動きは彼の世代にはけっこうあ
ったみたいですが、どうも、後になって後悔した人が多かったんじゃないでしょうか。
ちょっと余談っぽくなってしまいましたね。
98らげ@遠距離中:01/11/15 04:08
木田には宣伝マンとしての資質はあっても
哲学のセンスはないよ。知ってる?関西での先生の講演会の題目
「ハイデガーを読んで50年」うひゃひゃ
99わかりません:01/11/15 04:10
らげ氏と私はやはり合い通じるものがあるらしい・・・。本心はそのとおりです。
100びたみん:01/11/15 04:10
そういえば、ドレイファスとかいう人の
「世界内存在」って読んだ人いるん?どう?
101らげ@遠距離中:01/11/15 04:12
あんなクソ長い注釈読めませんです。
やっぱペゲラーの本が俺は好きです。
102考える名無しさん:01/11/16 00:03
おっとー、ぺげらー?
103考える名無しさん:01/11/16 00:07
正直、脱力・・・
104考える名無しさん:01/11/16 00:42
フッサールって頑張って頑張って、やっと「生活世界」へ
たどりついて・・・って印象で、やっぱ「独我論」でしょ結局。
意識性がら出発する限り。
でメルポンの「行動の構造」がもろ、それからどう歩を進めるかって
意識でかかれてんじゃないんですか?
だから、階層論的に身体の階梯を上っていく道に、共主観性の
活路を見出したってことではないの?
でも「行動の構造」等初期の底辺の階梯をのぼり始めた段階はわりと明確で
わかりやすいのに、階梯を意識性のほうへのぼってって、意識や言語の
領域へ議論がおよびはじめると、とたんに「両義性」がもたげてくる。
そんな印象なのですが、ちがいます?
105名無し:01/11/16 01:09
既出かもしれないがメルボンのどこが現代社会の諸問題あるいは
個々の人生にブラスアルファなのか
今までの印象だと書き込みは観念内存在から一歩も外に出てない
気がするが
106わかりません:01/11/16 01:45
それは時代的にそうともいえないんじゃないですか?
現象学の独我論に対して、それを開くために共同主観性へ論を持ってい
ったというわけではなくて、実験心理学や生理学の諸成果によって哲学
における知覚の概念を鋳造しなおす事を目的にしているってはっきり彼
が計画書で言ってますから。心理学的成果を持って哲学を刷新すること、
これが目的だったんでしょう。
それにしても、メルロー=ポンティの哲学を特徴付ける言葉ですね、この
「両義性」。ここに知覚の現象学の失敗があるように思えてならないんです
が、どうでしょう。と、いうのは、要するに二元論の範囲で独我論を超え
ようとしているがために両義的といわざるをえないわけであって、そもそ
もが、依然として認識論の範囲にとどまっている部分が見受けられるとい
う意味で、不徹底さが見受けられますね。
知覚の現象学は、行動の構造がそうであるように、心理学の諸成果を糧と
しつつ、現象学によってそれらをも批判の対象としながら改めて哲学の諸
概念を鋳造しなおし、哲学の新たな局面を創出しようとしたのですが、
同時に、このことが、依然として自らを旧来の哲学の次元にとどまらせて
しまった理由でもあったのではないかと思います。
1959年以降の彼はこのことを自覚し、自らの哲学の基盤の掘り起こし
をしようとハイデガーへの接近を試みたということではなかったでしょうか。
しかし、何で今、メルロー=ポンティ?
107わかりません:01/11/16 01:49
上の書き込みは、104に対してです。偶然にも105の書き込みと
おなじようなことを言ってますね。
時節柄ヒューマニズムとテロルくらい俎上に上げましょうか?
108名無しやろー:01/11/16 03:15
眼が疲れる。

>>98

木田元『ハイデガー入門』解り易過ぎる。
長年ハイデガーを読み込んできただけあって解説書かせれば彼よりスゴイ人はあんまりいないだろう。
――が、彼自身の哲学は見たことない。

ってか、彼の本はどれ見ても同じことが書いてある。
岩波新書の『現象学』から講談社学術文庫とか岩波現代文庫とかちくま学芸文庫をめぐって岩波新書『偶然性と運命』と見ると微妙な違いが楽しめてOK。(w

『偶然性の哲学』すごいな。
ハイデガーの時間論を自分の本に都合のよい部分だけを引き剥がして再構成して解り安イ!……って読者騙してるよーにしか思えないほど。

>>メルロ=ポンティ

レヴィ=ストロースの<構造>の概念だけでなく、ハイデガーの<世界-内-存在>の概念まで。。。
どうやらこの人は、自分のイイように……イヤイヤナンデモ(≧∀≦)ナイ!!

この人のおかげでパンキョーのとある科目のレジュメが意味不明になったんだが。
109らげ@遠距離中:01/11/16 03:19
木田氏は私などから言わせればまさに
晩節を汚しつつある人です。
110Dovecraft:01/11/16 14:43
メルロ・ポンティを読んでる人にとって、Jギブソンってどうですか?
再評価っていうのはこの辺と照らし合わせてのことだと思ったんですけど。
111考える名無しさん:01/11/16 18:06
>>110
洋楽板へ(・∀・)カエレ!
112Dovecraft:01/11/16 20:27
>>111
おお。名盤さん。
113正助 jtws003.zaq.ne.jp:01/11/16 20:44
おらはDovecraftさんのレスを読んで、
知覚の現象学と行動の構造を読ませていただきました。
期待通りの面白さで(・∀・)イカッタ!。(行動の構造は途中で挫折したんですが)
114Dovecraft:01/11/16 21:04
>>113
読むの早いなあ!それと洋楽板のスレ消えたの?
115正助 jtws003.zaq.ne.jp:01/11/16 21:08
>>113
行動云々はかなり早い段階で投げ出してしまいましたから。

スレに関しては、旅行から帰ってきたら消えてた・・・
レヴィストロースの話なら加わりたかったのに、残念です。
また気が向いたら立ててみますだ。

メルポンスレから脱線してしまってスマソ
116考える名無しさん:01/11/16 23:52
Dovecraftと正助って知己なのか
117104:01/11/17 00:06
106さん。なるほど。
「両義性」を帯びざるをえないのは、やはりかれが「哲学」を
「形而上学」とは考えていないからじゃないのかな?初期は。
ハイデガーへの接近は「形而上学」へめざめたから、ってのが
わたしの解釈なんですが。
118考える名無しさん:01/11/17 00:11
>>106、117
君ら、その指摘が何十年前になされたと思ってるの。
時代遅れも甚だしい。
ここはいっちょギブソンなんかを持ち出して再評価してみそ
119104:01/11/17 00:16
それと、知覚論の心理学等からの鍛えなおし、ってのはたしかに
やってることは、そうだどその背景ちゅうか(本人の意向はべつにして)
受容のされかたは、やっぱフッサールの独我論、つまりは意識性から
しゅっぱつした「生活世界」概念の閉塞性に新手のアプローチを開いた、
ってかんじじゃないのかな。
120104:01/11/17 00:19
118
ギブソンって、そんなにめあたらしいか?
そーか?
121考える名無しさん:01/11/17 02:59
>110
まあ、ギブソンの限界はなんだかんだと言っても知覚の問題
しか扱えないってことなんじゃないですかね。
そう考えると、メルロー=ポンティは単純に言ってしまえば知覚も言葉
も不可分なモノとして捉えている点で、ギブソンよりもラディカル
思えるのですが。
122ただの名無し:01/11/17 03:52
メルボンの両義性は自己運動する両義性で 旋回し螺旋を描き意味をはらみ
落し育て育てなおしまた次の意味をと言う感じで捉えているけどこれってヘーゲル
の観念運動と同じ危うさにあると思う
両義性が初めからあったのではない限りそれをもたらしたのは何か
それを支え押し出していく物質的条件などあるのではないのか 見かけだけの自立
性なのでは 両義性は矛盾する現象を説明するためのコラージュに見える
と言う訳で例えばアメリカ人の知覚身体とイスラム人のそれはどういうふうにちがっているのか
自爆にむかう人間の身辺風景とやがてくるクリスマスバーティ等に喜びを待機させている
人間のそれは?
123考える名無しさん:01/11/21 19:16
age
124考える名無しさん:01/11/21 20:12
「両義性」ってそれほど独我論と違っているるとは思えん。
意識の代わりに身体を意味の凝集点に取り上げただけ。
それも結局は「沈黙のコギト」に還元されんでないの?
よく知らんのだけど。
125考える名無しさん:01/11/21 21:25
agew
126考える名無しさん:01/11/21 22:08
木田元に氏を。

まったく、木田元の訳は最悪。
句読点ちゃんと打てよ、一文400じまるまる句点なしって、お前は
日本語わかってんのか。糞訳が。もう一回はじめから
訳し直せ。
127考える名無しさん:01/11/21 23:17
>124
違います。

どうでもいいけど、このスレ木田元を叩くスレッドになってきたな(藁
128わかりません:01/11/22 02:20
木田さんはいい人らしいけど、ハイデガーを現象学の文脈で読もうとしたのは、
間違い。あくまでも哲学なのよ、ハイデガーは。
129考える名無しさん:01/11/22 03:44
いろんな文脈で読めるのがハイデガーの魅力か、と。
ハイデガーの特殊な思想空間、言語空間の中に自閉するのもどうかと思うが。

メルロ=ポンティの話題じゃないので、sage
130考える名無しさん:01/11/22 15:21
>>128

って言ってる内に木田元の最新刊@岩波現代文庫!

   『ハイデガー』   ……って……

いまさら文庫化です。
木田さん、岩波現代文庫のハイデガー関係の本すべてに関わってるだろ?
スタイナーのにも解説書いてたし。
131考える名無しさん:01/11/29 18:32
アゲルシカナイ
132考える名無しさん:01/11/29 21:44
 学者の金太郎飴現象って勝手にいってるんだけど、
木田木田木田、
長谷川長谷川長谷川(加藤加藤加藤)、
みたいに、同じ人の、同じ見方の本ばかりで、つまらん。
133考える名無しさん:01/12/01 02:06
それは出版者が入門者向けの本を同じ人にしか依頼しないからだろ。
ちょっとした専門書だったら、それ以外の人の本なんていくらでもある。
134名無しさん:01/12/03 04:23
>>133

じゃあ、木田氏が大塚氏と仲がいいのも原因か?
135考える名無しさん:01/12/03 04:53
乱暴に言って、
メルロ=ポンティの両義性と
デリダの差延と
レヴィナスのディアクロニー
って、発想としては近い所にある?
136考える名無しさん:01/12/08 23:59
ダレカコタエロ
137考える名無しさん:01/12/09 00:00
幼児が数の概念を身につけていく過程を分析した
メルロ・ポンティの本ってなんですか?
138考える名無しさん:02/01/08 01:57
これも。
139考える名無しさん:02/01/15 08:34
 
140考える名無しさん:02/01/30 00:07
再評価したいが・・・
141考える名無しさん:02/02/02 20:38
>>135
分かりづらい概念という一点のみが共通。
意味は全く違う。
>>137
たぶん、講義録のどこかにあると思われ(それ単体の著作はない)
142考える名無しさん:02/02/04 14:25
日本語で読むとムズイ。。。。
フランス語で読むと意外によく分かるって聞いたことがあるけど、本当ですか?
143考える名無しさん:02/02/06 09:01
>>142
フランス語読むのむずいよ(藁
144考える名無しさん:02/02/08 01:52
シーニュが面白い
145考える名無しさん:02/02/13 09:28
>144
エッセイ集だね。
146考える名無しさん:02/02/13 10:04
>>144
エッセイなんてレベルじゃないと思うが(内容が)
147考える名無しさん:02/02/13 13:56
>>98
文学のセンス?
訳?
148考える名無しさん:02/02/14 03:23
『行動の構造』復刊記念アゲ
149 :02/02/14 06:58
>>148
5000円は高い。誰も買わない
150考える名無しさん:02/02/14 09:18
>>146
エッセイって試論っていう意味だよね。
いまだこの世界では論じられていなかったものを初めて
論ずるという意味。
151考える名無しさん:02/02/14 12:23
152考える名無しさん:02/02/14 12:24
6kBか…。まだまだだな。
153考える名無しさん:02/03/03 04:08
メルロ=ポンティ、高校の「倫理」で初めて名前見たが、ヘンな名前という印象しかなかった。

ageついでに懐かしい思い出。
154 :02/03/08 08:40
5巻完結しますた
155考える名無しさん:02/03/09 02:40
>>154
シーニュ買えばぁ?
156考える名無しさん:02/03/09 03:26
大江健三郎の「洪水は我が魂に及び」の最後に出てくる
「すべてよし!」という台詞はこの人のものらしいのですが、
無学なためどういう意味の言葉なのか分かりません。
バカな質問かもしれませんが、教えて下さい。
157考える名無しさん
>>156
メルロ=ポンティじゃなくてカント。