1 :
考える名無しさん:
文春よ、なぜ人を殺してはいけないか、子どもに説明できますかだと、
じゃあ、なぜ人を殺してよいのか、子どもに説明できますか?
人を殺していいというのは、戦争、死刑と言う意味です。
2 :
考える名無しさん:01/09/29 03:45
何がいいたいのかわかりにくいです。個人的には、心情的に同感できる
論調をお持ちのようですが。
個人の視点では、人を殺す事についての意見はただのイデオロギー主張にしかならないように思います。しかし、共同体的視点からこの問題を考えれば、積極的肯定はできないかもしれませんが、説明できるような気もします。
>>3 共同体視点というのは、共同体を観念する個人によって
主張されるものですが?
>4
そうならざるを得ないと思います。したがって、自己矛盾が生じるわけですが、それゆえ積極的な肯定はできないと思われます。つまり、私には説明できません。誰かこの問い(>1)に対して、説明できますか?
>>5 そうですよね。
>>1 人を殺してはいけないのは、殺される人にとって、殺されることは
生きていれば得られうる事柄を奪われるから、また、殺される前提と
して殺されることが痛いからです。このことは常に殺される側に
とってはいけないことであり、それを当人でない人間も認めるべきで
ある。と言えば良いです。
殺してよい理由があるとすれば、
1.ある人間(たち)を殺すことは、自分(こっちは「たち」でない
点に注意)が殺されることではないから、
自分は殺される不利益を得る事はないし、痛くもない。
自分が嫌な目に合わなければ、他の人間が嫌な目にあうのは
構わない。だから殺しても良い。
2.ある人間(たち)を殺すことで、自分に利益があるから、
その利益を優先する。
などが考えられます。あくまでこの段階で判断停止・もしくは
判断したとある場所で認められる状況になった、という点を
踏まえての話ですが。
>判断したとある場所で認められる状況になった
ある場所で上記の判断が認められる状況になった、に訂正
追加。殺してはいけない理由には、殺された人の周囲の人が
悲しむからというのもあります。
>6.7.8
ということは、やはり積極的に「殺しを否定」することはできないということでしょうか?やはり、その個体が所属する共同体の意識をもって、「殺し」はだめだよ。っていうしかないのでしょう。
積極的に殺人を否定することはできます。私もあなたも、
単に否定すればいいのです。身近な人に対して。
11 :
考える名無しさん:01/09/29 05:25
現に人を殺してはいけないという道徳が存在するからには、
哲学の立場からその理由を探究することには意義がある。
だが、人を殺してもよいということが明らかにまちがっているのに、
なぜ人を殺してよいのかと問うのはナンセンスである。
>>1よ、道徳について語っているつもりで、道徳に語らされてはいまいか?
>人を殺してはいけないのは、殺される人にとって、
>殺されることは生きていれば得られうる事柄を
>奪われるから、また、殺される前提として
>殺されることが痛いから
理屈にもなっていない。哲学板のレベルも落ちたものだ。
殺す側は痛くないんだよ。分かってる?
上の理屈が成立するための条件をよく考えてみなさい。
ちょっと積極的という言葉が不適切であったかな?と思います。
殺人に対する、肯定的・否定的意見共に、”単に相対する意見を否定する”だけならば、それは個人のイデオロギーとなり、単なる主張となります。
そうなると、>1の答えとしては説得力のないものになるような気がします。
>6より引用
あくまでこの段階で判断停止・もしくは 判断したとある場所で認められる状況になった、という点を
踏まえての話ですが。
上記にあるように、社会的判断・共同体の認識からでしか説明できないと思いますが・・・
14 :
考える名無しさん:01/09/29 05:36
殺す側も、殺される人の事情をわかってるはずだろう。
しかし、そのことは人を殺してはいけないという道徳にはつながらない。
15 :
考える名無しさん:01/09/29 05:46
この手の議論の存在は永井均を読んで初めて知ったよ。
>>1のように道徳批判を許さないわけでもなく、
かといってそうした風潮に対して逆らうわけでもなく、
ただ平凡に暮らしてきた俺にとってとんでもない衝撃だった。
16 :
考える名無しさん:01/09/29 05:50
17 :
考える名無しさん:01/09/29 05:52
まあな。
つうか思考停止してないし。
ただこの手の議論を紹介しただけ。
社会機構というのか、共同体の倫理(哲学にあらず)的観点から
言えば、人を殺すということは、自分も殺されても文句は言えない
立場に立つこと。自分を殺すことは許せないことだから、他人を
殺せない。
ぜんぶ既出
20 :
考える名無しさん:01/09/29 06:14
>>19 だったら流れを一目で把握できるようにまとめてくれ。
21 :
考える名無しさん:01/09/29 06:34
人を殺してはいけないのはルールだからです
>>11 問える以上ナンセンスではありません。
>>12 理屈になっているかどうかで言えば、理屈にはなってます。
あなたが私の理屈を認めないことを、いいかげんな慣用句でごまかすのは
やめてほしいですね。
>殺す側は痛くないんだよ。分かってる?
それは
>>6の別の箇所で触れているでしょう。文章を読んでから批判して下さい。
>>13 それは安易ですね。人の生死でも、なんでも良いのですが、みなさんは
議論の上での正しさと、実際の正しさが一致するとは限らないという点に
ついての認識がなさすぎです。
人の生死の問題は、利害がある場合において、いかに議論の上で説得力がなかろうが、
端的に害を受ける人にとって不都合なことを回避すべきだという点にしか、
究極的な解決は求めようがありません。それを認めないなら、単にその人は
殺されうる、という問題でしかないのです。
>>12氏はなにやら議論の上での説得性を確保したいかのようですが、
はっきり言わせてもらえば、私にしてみればこんな議論はクソくらえなのです。
なぜなら、私たちはあらゆる不利益を云々することに説得性−というより、
自明性−を認めていますが、それを云々するなら、前提としての生存が確保
されなければならないことは、自明であるからです。
要するに人を殺してもいいというのは、ある人が利益について主張をする機会を
奪うこと以上に奪って良いということをいっているのと同じです。
それを主張という、人間の営みの内の、人間の思考の上で説得性を確保しあう
試みの中で規定しようということ自体、私に言わせれば見当違いなのですよ。
みなさんの議論は、哲学らしい議論であって、哲学ではありません。
>>13 私は共同体視点を導入すべきとはいってません。
目の前にいる人を殺すべきでないと、くちぐちに言い合え、
と言ったのです。殺される不利益は、殺される人にとっての
問題です。そこで起きる不利益を回避することを、
単純に認めるか否かの問題です。
そのときの論理構成をわざわざ一般的・理論的なものにする
必要はありません。
だから我々は本能的に
「通常みんなにとって駄目だといわれている事、正当化出来ない事」を
「何らかの理由で許可される事又は正当化される事は」
「利益がある、武器になる」と感じているのだよ。
だろ?
だからこういう議論が絶えない。
誰しも武器が欲しいんだよ。
>>18 >社会機構というのか、共同体の倫理(哲学にあらず)的観点から
>言えば、人を殺すということは、自分も殺されても文句は言えない
>立場に立つこと。
そんなことはありません。親に強姦された娘が、当時の刑法で
定められていた尊属殺重罰規定(死刑か無期懲役)にかかるため、
執行猶予付きにできないために、尊属殺を違憲と判断せざるを
えなかったという事例があります。ここで娘が殺されても仕方が
ないとは、誰も考えないでしょう。
>>21 それも一つの正解です。
>>24 そんなことは殺される人間にはどうでもいいことです。
すみません、25は説明不足でした。娘は親を殺したのです。
まあわかるとは思いますが。
ちなみに強姦というのは、習慣的に行われていたものでしたが、
そういう境遇を知ったうえでつきあってくれるという男性が現れ、
そのことを告げたらまた強姦されそうになったというくだりだった
と思いました。間違っていたらどなたか訂正お願いします。
問える以上ナンセンスではないとは言うが、
明らかにこれはナンセンスな事例だろう。
形式的な議論に終始したいのならばそれでもいいけど。
それと
>>23において
>殺される不利益は、殺される人にとっての
> 問題です。そこで起きる不利益を回避することを、
> 単純に認めるか否かの問題です。
と言っているようだが、殺される人にとっての不利益を道徳に関する議論から
とりあえずは排除しようと言いながら、同時にその不利益を回避しようとする
道徳を前提としているのではないか?
29 :
考える名無しさん:01/09/29 11:42
2は馬鹿。もうちょっと勉強してから出直してこい。
30 :
考える名無しさん:01/09/29 12:05
末期癌で苦しむ家族を見るに見かねて安楽死させても
今の法律では殺人になる
俺は実際に癌で親父を亡くしてるが
とにかくモルヒネを絶やさないようにして
苦しみだけはできるだけ回避するように医者に頼んでおいた
それにもかかわらず
「さっき注射したばかりだから」という看護婦がいたらしいが
その時そばにいたお袋が
「カルテを見てください」と言ったら
すぐにモルヒネを持って飛んできたそうだ
親父自身は自殺も考えていたようだが
「医者に迷惑が掛かる」ということで結局実行はしなかった
現在の道徳・法律は
「人の死には敏感だが、人の苦しみには鈍感すぎる」と思うが
どうよ?
31 :
考える名無しさん:01/09/29 13:25
人を殺してはいけないのは社会契約だと思ってましたが、
やはり厨房ですからねぇへぼへぼな私
>>30 >「人の死には敏感だが、人の苦しみには鈍感すぎる」
同意
人の死は目に見える形になりますが
人の苦しみは目に見える形にならないせいなのでしょうね
>>31 そんなことはないでしょ
「人を殺してはいけない」という決まりは、個人でなくて社会の決まりだと思う。
ということは、人殺しを認めていないのは社会。
人を殺すということは社会の要素が消えるということ。
もし、それを認めたら社会はいずれ崩壊してしまう。
遅かれ早かれ崩壊するかもしれないが、この場合は早かれ崩壊するって感じ。
だから、社会は人殺しを認めない。
個人は、この結論だけを教わるのだと思う。
アホの考え休むに似たり
何度も言うように人を殺してはいけないのはルールだからです
ルールを守るべき社会もあれば守らなくていい社会もある。
進んで守る人もいれば、破る人もいる。
あたりまえのことです。
>>35 それがどうしてルールとして成立するのかを問うているのですよ
同じ様な内容の厨房スレが幾度とも立ち上がっちゃうのは
哲板の宿命か・・・
我々の社会の生活水準は分業により維持されている。
人を殺すことは、分業を支えている信頼を破壊する行為である。
このことを子供に伝えるなら
「人殺しすると回り回って、キミの好きなモーニング娘の歌やテレビゲームが出来なくるよ」
なんていう感じで、子供の好きな事が存在できなくなってしまうことを伝えればいい。
てゆーか、こんなスレどうでもいいんだが、下等君。
チンポ太郎のスレで書かれている下等というのは、キミのことなのか?
もしそうなら、相当な役者だね。
38 :
考える名無しさん:01/09/29 15:45
>>37 遠い国の、大して経済的関係もない場所のひとたちは殺しまくってもいいという結論にもなりますが。
かえってそのための軍需景気で景気も良くなるし。
>>38 そのことに関する俺の意見を正直に書くと
論戦に突入するのが必死となるから、パスするよ。
40 :
考える名無しさん:01/09/29 15:56
>>40 すまん。
俺が正直な意見を書くと、人権派或いは
戦略的に人権を普及させようとする人達と対立してしまうから、止めとく。
44 :
考える名無しさん:01/09/29 16:13
民衆主義の常識は多数決です。
一人の意見より二人の意見の方が正義です。
法治国家での正義とは秩序を守る法律です。
法律を守るのは国民です。
45 :
考える名無しさん:01/09/29 16:16
天皇は国民に含まれますか?
>>37 チンポ太郎というのは、前にどこかで見た気がするのですが
どのスレでしたっけ・・・・
1の言いたい事はよく分かる。
どちらの定義も論証不可能な以上、わざわざ何故人を殺してはいけない等と
負の思考を強化するのかと言う意味ですね。
この問いでもしかしたら殺人を肯定する人間がでてくる可能性もあるわけだから
負の問いに没頭するなという事ですね。
1の言いたい事はよく分かる。
どちらの定義も論証不可能な以上、わざわざ何故人を殺してはよい等と
正の思考を強化するのかと言う意味ですね。
この問いでもしかしたら殺人を否定する人間がでてくる可能性もあるわけだから
正の問いに没頭するなという事ですね。
49 :
阿修羅無限大 某:01/09/29 18:04
>>49 いや、ちがうです
こんな雰囲気なの?
私は暫くいませんでした、因みにこれからもいなくなるでしょう
はー、やる事いっぱいで困っちゃうなぁ
>>25 意味不明。哲学的・宗教的アプローチではなく、社会機構的観点
から「なぜ人を殺してはいけないのか」を論じてみたのに、「事例
があります」? 何が言いたいのか、何を主張したいのか全く理
解不能。もうちょっと考えが纏ってからから書き込むように。
>人を殺すということは、自分も殺されても文句は言えない
>立場に立つこと
それにしても短絡的だ。これでは、
自分の考えを何にも基づかずに主張しているだけだ。
殺しというのは快楽なんだ。
だから、それはほっておくと暴走する。
だから、他の快楽同様、社会は規制するんだ。
しかし、文春もこの問いを発することの責任というものがわかってないよな。
答えがないということをわかってて、あえてまた他のマスコミのようにやっている。
ただ社会が混迷しているということを印象ずけるためだけに。
こんな問いは軽軽しくするものじゃないんだ。
(これはある人から聞いた意見だけど、新鮮だったので書いときます)
色々と述べておられるようですが、何故
>>22に対してレスしなかったの
でしょうか? あれが本論であるのは明白だと思いますが。
>>51 私は、あなたの言う社会機構的視点とやらを、殺人という範囲に限定して適用する
ことが無意義だと考えているのです。なぜなら、そうした視点に反する
>>25のような
明白な事例が、相当数あるからです。
(なんで反証が上がっているのに、意味不明ということになるのか、全く不可解です。
>人を殺すということは、
↓
>自分も殺されても文句は言えない立場に立つこと。
↓の展開には、理由が必要でしょう。)
また、社会機構的視点は、論者が常に殺されない側であることを自明の前提としており、
そうした前提は殺される側にとっては、常に受け入れられない(受け入れられなくなる)
前提だからです。
<55の続き>
>>28 まず、「形式的な議論」というのは、それこそ形式的な議論です。議論の「内容を主張してる」
のに、内容は常に議論としてあるという枠に着目して形式化して、それを否定することで、
相手の議論が否定されたかのようにみなす論法だからです。
私は、「殺される人にとっての不利益を道徳に関する議論からとりあえずは排除しよう」とは、
考えていません。殺される人・その近くにいる人にとっての不利益に関わる考察に、
道徳の問題を限定しようとしているのです。それ以外は利害の判断です
つまり、ある種の利害についての判断に、伝統的な道徳だの倫理だのの名をふって、
理解の助けにすれば良い、と考えています。
殺人というあり方には、必ず「殺される側」にとっての不利益が付随します。
私は、そうした不利益を、不利益を受けない人間が承認し、不利益が出来るだけ生じない方向に
解釈し、それを議論の上で説得的に展開していき、それを習慣として根付かせることが、
道徳(的)だと考えているのです。
実際には、殺人をすることが許されるか否かは、殺人をすることそれ自体を評価しているの
ではなくて、殺人にともなう利害について論じて正当化・不当化を図っているのです
(死刑・戦争、殺人事件における殺人をした者の動機、そうした動機が出てくるに至った
事実関係にに対する外部からの評価など)。
ですが、上の視点は、それ自体として強制できない、比較的広範囲な社会という視点や、
殺した側にとっての利害を観点としてとったときに出てくる考え方です。
こうした視点は、よくある慣用を利用させてももらうなら、
「森だけ見ていて木も見えたかのように思う」「ある木の近くにあった木について考えて、
となりの木についてもわかったかのように考える」ような議論です。
殺される人間にとっては、殺される人間が生きていれば享受できうる事柄を失わせられる
ことは、常に不利益であるところ、そうした不利益を認識した時に、単にそうした不利益を
負わせない方向に考えるべき(観点を強調して判断すべき)だ、という点にしか、
殺してはいけないという理由は求められない、この観点からの結論は常に変わらなくある、
こうした個別的な議論は無視すべきでない、と言っているのです。
なぜなら、私たちが殺されずに、ある他者が殺される・殺す場合には、
殺すことに付随する現象に嫌悪を抱くことが一般的でありつつも、
不利益を負うことはないか、もしくは全員が共通の不利益を負うため、
相対的に不利益を負わないで済むか、それによって利益を得るか、のいずれかになります。
そうした前提の上で、「自分たちは」不利益を負わないという観点、または、自分が
むしろ殺すことに付随した事実の変化のうちに自分の利益を図る・見る観点をひきあいに
だして、この問題を考察すれば、利益のために、可能である手段は全て可能な手段としてある、
ということを追認するにすぎないからです。これは、あくまで「殺してはいけないか否か」とは、
関係のない問題です(
>>25の例であっても、親にとっては、「自分を殺してはいけない」のです。
しかし私たちは、彼のそうした利益主張を、殺されることとは関係のない彼の行為が、
彼が死ぬという事実がなければ、殺した彼女に及んでいる、また及び続けるであろう、などと考えて、
(私たちから見れば)殺されても仕方がない、と事実上の結論を取るのです)。
私たちにとって、ある人(達)を殺して良いというのは、単にある人は事実として殺されうる、
かつ殺したことについて承認があるという事実があることを認める人間の集団がある・属している
ことを認めているだけです。そうした判断は、殺される人(達)にとって、また、その人の立場を
承認する人にとっては、関係がありません。
>>22で重大な間違いをしましたので、訂正します。
みなさんの議論は、哲学らしい議論であって、哲学ではありません。
↓
みなさんの議論は、一見哲学らしい議論であって、哲学らしい議論ではありません。
以上のように訂正します。どうもすみませんでした。
>>56 文が変、しかも長い
もっと抽象的にまとめられるからやってみ。
それからこの手の文で「です・ます」は読みにくい
59 :
考える名無しさん:01/09/29 23:18
いや、おれはいいと思う。
60 :
考える名無しさん:01/09/29 23:21
ぜんぜん、人殺して良いじゃない。
殺し合いをやめた生物は、衰退する運命にあるのよ
社会を後退させるような人殺しは、駄目って事。
外敵に殺されるから。
>>58 よろしければ、どのあたりが変か指摘してもらえませんか?
お願いします。
長いのはわかっていますし、見苦しいことも認めます。ごめんなさい。
抽象的にまとめる方法は、ある程度前提を共有している場合にしか
通用しないと思います(私は抽象的に過去ログで書いたが、
どうもわかってもらえてないみたいなので、詳しく書いたのです)。
自分の議論を把握してもらううえで、常に感じられていなければ
いけない前提を、ふまえてもらえそうにない場合は、
しつこく前提を繰り返さざるをえないと思います。
前提とは、観点の転換の問題と、殺される人間側の観点からの
考察の結論は、常に一定と見て良いということです。
ですますで書かないと、ケンカうってるように思われることが
多いからです。反対者が多い場合はとくにそうです。
>>60 それなら、まずあなたがあなたを殺すことを、私たちは
要求します。という言明が、そこでは説得力をもちますよ。
それでもいいですか?
そもそも不明
・「形式的な議論」というのは、それこそ形式的な議論
・内容は常に議論としてあるという枠に着目して形式化
・こうした視点は〜議論です。
言い回しがおかしい
・よくある慣用を利用させてももらうなら
・と事実上の結論を取るのです
・判断は、〜とっては
短くする点
・殺人をすることが許されるか否かは
→殺人の妥当性は
・なぜなら、私たちが殺されずに、ある他者が殺される・殺す場合には、
殺すことに付随する現象に嫌悪を抱くことが一般的でありつつも、
不利益を負うことはないか、もしくは全員が共通の不利益を負うため、
相対的に不利益を負わないで済むか、それによって利益を得るか、のいずれかになります。
→殺人には応報感情が伴うものの、その評価は〜の観点から行うべきである。
などなど。
>>59 はどう思う?
いや、味があっていいと思うよ。
自分で一生懸命考えてるのが、伝わってくる。
突っ込みどころ満載だが、角を矯めるよりは…
>>63 >そもそも不明
Aは、ある内容を主張した。それへの反論は、Aが主張する内容は〜の理由で認められない。
になるはず。
にもかかわらず、Aは、ある内容を主張をしたが、私は「内容」は「形式的な議論」と看做す。
だから無意義な議論である、と述べている。ということを抽象的に述べたのです。
>言い回しがおかしい
>・よくある慣用を利用させてももらうなら
これは「も」を一回多く打ってしまったが、推敲のときに気づかなかったのです。
>・と事実上の結論を取るのです
これは、事実上なされてしまった、ということです。ですが、それだと違う表象が
みなさんの中に抱かれると思うのです。
>・判断は、〜とっては
最後の部分でしょうか? それは、判断が問題としている範囲についての意識、あなたが
「社会」という語に対応させて構成しているイメージのそれぞれが、あいまいであるため、
理解できないのだろうと思います。
判断が理論上・事実上影響する範囲に注意して、文章を読んでみてください。
>殺人をすることが許されるか否かは
>→殺人の妥当性は
この変更は、認められません。妥当性ではこの判断を総合的に行ってしまうきらいがあるからです。
>・なぜなら、私たちが殺されずに、ある他者が殺される・殺す場合には、
>殺すことに付随する現象に嫌悪を抱くことが一般的でありつつも、
>不利益を負うことはないか、もしくは全員が共通の不利益を負うため、
>相対的に不利益を負わないで済むか、それによって利益を得るか、のいずれかになります。
>→殺人には応報感情が伴うものの、その評価は〜の観点から行うべきである
誤読です。なんでここを、応報感情に書き換えることになるのでしょうか?
殺すことに付随する現象への嫌悪とは、殺したときに、殺された人が死ぬ様を見て、
喜ぶ人はいるが、「喜ばしい」イメージでとらえる人はいない。無残なことはみな認める。
そうした事柄に嫌悪を抱くのは、一般的であるいうことを、言っているのです。しかし、
一般にそうした心情を感じることが、それなりの不利益であるというコンセンサスは得られていない
という風に展開していきます。
>>59さん、どうもありがとうございます。ここに書き込むかどうかとかに関係なく、
とても励みになります。
突っ込みはWTCで当分お腹一杯。(笑
69 :
考える名無しさん:01/09/30 00:15
そのようなニュアンスで読んでくれる人は殆どいないと思う・・・
>>69 そのようなニュアンスで読んだら、どうだったのでしょうか?
私が「形式的な議論」と呼ぶのは、あなたが論証しようとしている議論ではなく、
>>1が「なぜ人を殺してよいのか」と言った事に対してです。
現在、人を殺してはいけないという道徳規則があるからこそなぜ人を殺すのが悪いのか?
といった議論が有意義であるのに対し、
なぜ人を殺すのがよいことなのかと問うことは全く無意味だからです。
この例が分かりにくければ別の具体例を挙げます。
なぜ1+1=2なのか?といった問いと、なぜ1+1=4なのか?といった問いの相違が
私の言いたいことを最も簡単に、しかもある程度明示的に示してくれると思います。
全体的に言葉の遣い方がおかしいのですが、
あなたの言いたいことは理解したと思います。
それは即ち「人を殺してはいけない根拠は、自分が殺されることの不利益を
なんとか回避したいという個人の心情の内部に求められる」
ということではないですか?
大雑把な理解であることは間違い無いですが、議論の細かい部分の言いまわしが
読めないので…。
まぁ頑張ってくれ。
>>72 私が言っているのは、形式的な議論という言葉だけで、「ある議論」を否定しさった
ことについてです。ですから、あなたが3行目以降に述べた内容は、無関係(!)です。
言葉の使い方がおかしいのは、日本語としての自然さより、ある観点を一義的に
指示するように言葉を使っているからです(私はそのつもりです。が、うまくいってない
みたいなので、反省したいと思います)。
あなたが示した理解は、私が示したつもりのそれと、ずれています。
一言で言うなら、
>>6に書いた通りですが、もう一回述べなおしてみます。
<総合的なイメージ>の★部分は、飛ばしてもかまいません。
<総合的なイメージ>
0.まず殺すことを考えていない人たちがいる範囲では、殺人はおきない(自明)。
単に、議論の説得性とは無関係に、殺すのはダメと言い、それに従う人がいる範囲では、
そこでは殺すのはダメだという合意は、事実上得られ続けている。
その時の理由付けとは、無関係に、事実上の結論として殺人は起きない。
逆に、議論の説得性とは無関係に、殺すのは良いと言い、それに従う人がいる範囲では、
そこでは殺しても構わないという合意は、事実上得られ続けている。
その時の理由付けとは、無関係に、事実上の結論として殺人は起きうる。
これらのあり方を、社会を多元的に把握する中で理解する。
社会的な単位・・・世界・国際・国家・地方・地域・家族・会社・趣味の集まり
(国家以上のレベルでの合意形成には、マスコミとネットが介在する)
事実関係として合意を形成する表象(社会的な単位においてそれがなされるかのように議論が
され、事実関係の形成において、殺人を否認・承認・黙認する合意形成の要因となる)
★殺される側の事を考えろ/殺される側はこんな目にあう。お前もそんな目にあうのは、
(そんな目にあう蓋然性は低いかもしれないが)イヤだろう/XXX(集団・目的)のために
殺されるほどの不利益を、ある人間にかさなくても、今回の事実関係は良い方向に持って
いきうる。そちらを模索すべきだ/自動車事故は毎年死人がたくさん出る。統計をみると、
ある交通網を発展させるなら、こうした犠牲はなくしていくことができる、だから犠牲を
なくす方向での検討もすべきだ。はなから現在の有用性を重視して、議論を回避するのは
許されない。←自動車事故での死人は自動車網を減らすこと以外の方法でもなしうる・・・云々
★戦争には殺人が付随するが、戦争は国際法上、一般市民がかかわらないところで、戦場に
関わらない者同士でなされた合意がある、だから許される/死刑にすべきである。
殺された遺族の悲しみを思えば、それしか方法はないから/XXX(集団・目的)のために
殺すべきだ。でないと事実関係がまずくなる(と殺されない私は考える)/人間は
殺すことを(殺す側に立つとき)楽しむものだ。楽しいことは常に許される。だから殺しても
良い/自動車事故で毎年死人がたくさん出るが、社会の維持のためには必要な犠牲なのだ。
そうした死人は誤差のうちなのだ。私も君も多分死なないだろうということを念頭において
考えてみよ
理由があろうがなかろうが、殺すこと、殺さないこと、どちらも物理的に可能である。
あくまで殺すことも、殺さないことも、蓋然性としては常にある。
しかし、あらゆる利益主張を認めるなら、その前提として生存を保証する必要があることは自明
だから、基本的には、説得的な理由があろうがなかろうが、そうした事情により、殺すことは
論理的・一般的には、否定されるべきであると私は考える。これはすでに
>>22で述べた。
<個別的な判断>
1.ところで、殺される側にとっての不利益は、「事実上殺人が起きる・起きないこと」、
「殺人をしても良い・良くないという合意」とは、常に無関係である。なぜなら;
殺すことは、事実関係を形成することであり、殺されたことも殺すことによって形成された
事実関係のうちの一つである(殺したこともその一つ、殺したあとのこともその一つ、
殺す動機もその一つ・・・)。
私たち(殺された人、殺されそうな人以外の人の観点)は多くの場合、そうした事実関係に
対する「総合的な判断」を、「殺すことが良いか悪いかの判断」だと考えてしまっている。
しかし、これは、事実関係のうち、どの(個別的な)利益を保全すべきかの議論であって、
殺しても良いかどうかの議論ではない、だから錯誤である。
なぜなら、殺してはいけない理由は、殺される側の観点を考える人にとっては、
殺される人が殺される事で負わされる不利益(生きる事で得られうる事柄を失わせられること、
痛いこと)があることに着目し、それがもたらされることを回避したいということだけで
十分理由になるからである。また、実際殺人に関係する不利益の最たるものは、そうした点に
求められるからである。
上に言うような「殺してはいけない理由」は、「殺される彼と、彼のそうした不利益に
着目する者にとっては」常に正しい。ここまでが、殺して良いか悪いかにかかわる判断である。
繰りかえしになるが、この段階の判断で、殺される側にとっては、殺してはいけない理由は
十分に説得的なのである。
だが、殺すことに付随した事実関係を総合的に判断すると、殺される人間にとっての不利益が、
甘受されるべきだと言いうる場合がある。そうした場合にどの利益が保全されるべきかは、
具体的な議論の中で決めていくしかない(良かったら★を見てください)。
しかし、それはいずれにしても、殺すことが正しいか否かの判断ではなくて、周囲の殺されない
人間が、殺される側の不利益がおきる(た)事実関係全体を見渡した時、殺される不利益を
承認してでも他に優先すべき個別的具体的な事情があるために、殺すことは常に殺される側に
とっては正当ではないが、そうした事実関係の形成を正当化するのである。
これは、殺すことが許されるか否かの問題ではなくて、殺すことが付随した利益主張を
承認するかの問題である。
私は、殺される側・その周囲の人が感じる不利益が重大だと考えるので、出来る限りそうした
利益主張は認めるべきでないと考えるし、他の人にも私や、私の周囲の人間や、他の人たち自身に
ついて、そのように考えて欲しい。
そして、「私についてそのように考えて欲しい」と考える人が増える方向に議論をしていくべきだ
と考えている。
といった感じです。
★印のところ、非常に見づらくなってしまいました。本当にすみません。
test
test2
2の文章力の向上は今後に期待するとして、
とりあえず具体例と主張を別々に書いた方がよい。
79 :
考える名無しさん:01/09/30 02:28
>>78 2行レスで切り捨てるのを、とりあえずやめるべきなんじゃないの?
>45
含まれません、基本的人権が無いから。国民以上、人間未満です。
>>55-56
悪いけど、読む気しない。誰か要約して。
82 :
考える名無しさん:01/09/30 03:46
>>80 天皇にも基本的人権は保障されるが、制限される部分が大きいと
一般に解されているよ。政府見解も、学説もそうだよ。
あと国民以上、人間未満というのはおかしいね。
>>52 短絡的なのは良くわかっている。ただ、この問題の行くつくところは、
結局、相対主義の泥沼であって、明確な答え(=割り切った答え)を
出しうるには、共同体を超える思想、つまり宗教的(形而上学的)レ
ヴェルにおいてのみ可能である。しかし、信仰告白は同じ観念形態
の人間にしか、共感を及ばさないわけで、これは少なくともこのスレ
ではナンセンスだろう。
そういったわけで、あくまで共同体の倫理(仲間内の理)において
のみに絞ったわけ。わざわざ、
>>18で「共同体の倫理(哲学にあ
らず)的観点から言えば」と断ってるでしょ?
>>84 それについての一応の回答を2はしたつもりなんだろ。多分。
読んでから文句言えよ。
>>85 だーかーらー、人に読んでほしいなら。読ませる文章書いてよ。
見るからに読む気起きないんだもん。
>>86 読ませられる側の認識と彼の認識に大きい隔たりがあったから、
あんな文章になったという可能性もあるだろ?
厳密な説明を要求しておいて、それがなされたらもっと短くなんて、
人をバカにするのもほどがあるんじゃないのかい?
書店の法律書のコーナーに行って、判例百選とかめくってみればいいんだ、
君みたいな奴は。
何言ってるのかわからん短文をただ書きなぐるよりは、遥かにマシだろう。
88 :
考える名無しさん:01/09/30 04:11
>>84 それは十分踏まえた上で2に付き合っているわけだ。
読んでやれって
ちょっと読んでみたけど、最初から全く意味不明。
>私は、あなたの言う社会機構的視点とやらを、殺人という範囲
>に限定して適用することが無意義だと考えているのです。
「社会機構的視点を殺人という範囲に限定して適用」って何?
>なぜなら、そうした視点に反する
>>25のような明白な事例が、
>相当数あるからです。(なんで反証が上がっているのに、意
>味不明ということになるのか、全く不可解です。
はぁ? 私が語ってるのは規範であって、記述じゃないのに、
なんで”具体的”事例が反証になるわけ? 「廊下は走っては
いけません。なぜなら人にぶつかって危ないからです」という
規範に対して、「○○君は、廊下を走っていました」が何の反
証になんの?
馬鹿馬鹿しいので、もうやめる。
とはいえ、これを読解するには
2独特の語法やら文章に書かれていない2の内の世界観やらを
汲み取らんとならんから大変だ。
92 :
考える名無しさん:01/09/30 04:28
意訳して、わからんところは2に質問しろよ。
建設的なやり方だし、2の添削も兼ねることができるぞ。
>>89 >「社会機構的視点を殺人という範囲に限定して適用」って何?
私もよくわからないが、おそらく、社会機構的視点というあり方が成立する条件は、
社会機構という把握の仕方を支える前提がなければならない。
ところで、殺人がおこった場面だけでは、そうした視点を支える前提が
そもそもない。
だから、そうした視点を、なんの論証もなく、いきなり殺人に適用できるかの
ように論ずるのは、無意味である、くらいのことを述べているんじゃないの?
なんか法律論くさいんだよね、2の文章は。
後者の方は、おそらく規範が、2の中で「社会的に」構成されている関係から
くる言い方だな。
>>74の、
>事実関係として合意を形成する表象(社会的な単位においてそれがなされるかのように
>議論がされ、事実関係の形成において、殺人を否認・承認・黙認する合意形成の要因となる)
という言い方からすると、規範が通常の意味で理解されていないことは、一応わかる。
(それしかよくわからないけど。私も流し読みしただけなので)
だから
>>87のように私は述べたのだけど。
>>90-91
そうだね。きついね。私もきついと思った。
でも哲学って、ああいうもんを読むのが仕事なんじゃないの?
少なくとも、法律よりゆるい仕事なんだね、君らが自分に課している哲学は。
まず2の世界には「利益」と「不利益」が
ア・プリオリに備わっているらしい。
法律も倫理も哲学者に言わせれば哲学という基礎に
基づいた応用であって、応用面での難しさがあったとしても
それらに意味付けを行う哲学がなければ何の価値も
持ち得ないという事なのだな。
相対主義の泥沼にはまって永遠に価値など
見つけられそうに無いけどね。価値概念すら否定する始末だし。
>>94 それは、違うんじゃない?
2は、殺される側に不利益があることを、論証しているから。
人間社会の目的は、繁栄と存続である。
その目的の達成に対して、障害となるようなものは、たとえ人間であっても
消去の対象である。個人の利益不利益は全く関係ない。
従って、戦争や死刑は正当化される場合もある。個人的な殺人などについて
は、それを許容することが社会の繁栄と存続に必要な場合にだけ許される。
>>95 誰の議論について言ってる? ただの感想?
こうやって人を研究するようになっていったのだな。
いまや権威主義が横行する始末だ。
>>98 >法律よりゆるい仕事なんだね
これへの解答
>>97 人間社会という観念を抱く必然性はないだろうが。だから以降は空論だ。
>>99 議論を解釈してるだけで、誰も2を支持するなんて言ってないだろ。
>>96に答えてから言えば? 君の方がよほど権威主義的だよ。
2=82と見た。
ちなみに97≠94だ
>>101 2は「殺される=不利益」と前置き無しに述べているから
不利益がア・プリオリであるは間違いないだろう。
>>100 うーん、齟齬が。そんなこと言ってるんじゃなくて、単に相手の議論が
理解しにくいことを理由に、議論を放棄するさまを見て言ったんだけど。
それが妥当かどうかは別として世界を把握するにあたって
利・不利があり、「殺される=不利益」である事は
(統計上多くの場合成立するであろうことも踏まえて)
とりあえずよしとする。
次の問題はこれだ。
>議論の上での正しさと、実際の正しさ
何のことだろう?
そのまえに「生きていれば得られうる事柄」があるのもア・プリオリだな
110 :
考える名無しさん:01/09/30 05:08
>109
いんじゃないの?
>>109 「生きていれば得られうる事柄」が奪い去られるということは即ち、
殺されることによる不利益が生じるということなのだから、
これは同一の事柄を指しているはず。
>>119 利益・不利益を辞書的意味で使うとして
自殺するものが年間3万人いることなどから、
「生きていれば得られうる事柄」は利益に限らないといえる。
ここで2は「生きていれば得られうる事柄」を利益とみなしている点が
ア・プリオリなのだ。また何を「得られた状態」と定義するかという問題が残る。
>>74 「人を殺してはいけない根拠は、自分が殺されることの不利益を
なんとか回避したいという個人の心情の内部に求められる」
ということと、
>>6の前半部分がなぜ食い違うのかが理解できなかった。
>>6の前半部分に示されている、人を殺してはいけない理由とは、
「殺される側にとって殺されることは常に嫌なことだ」
ということをみんな判っておけよって事じゃないのか?
つまり、殺される側の立場に立って自分が殺されたいかどうかを考慮すれば、
何故他人を殺してはいけないのかが理解されるはずだと君は言いたかったのではないのか?
>人の生死の問題は、利害がある場合において、
>いかに議論の上で説得力がなかろうが、
この件からどうやら「実際の正しさ」とは「利益」「不利益」によって
判断されるものらしい。
なんか、2を読む会になりつつあるな(ワラ
「議論の上での正しさ」は13への批判であるようだ。
13は「議論の上での正しさ」を備えた意見らしい。すると
個人のイデオロギーの問題似還元されるということが
議論では正しいと言っているのだろうか?
>不都合なことを回避すべきだという点にしか、
>究極的な解決は求めようがありません
>私たちはあらゆる不利益を云々することに説得性−というより、
>自明性−を認めていますが、それを云々するなら、前提としての生存が確保
>されなければならないことは、自明であるからです。
最大の不利益=生存が確保されないこと、でありこれを回避する事に
「実際の正しさ」がある。と読める
119 :
考える名無しさん:01/09/30 05:40
これぞ弁証法。
25から55は、一転して殺人への応報が必ずしも成立しない事を述べている。
ここでは単に「事実」としてそうであると述べているようなので、
それまで通りイデオロギーを述べていると判断した11が
2は応報(という道徳)を否定していると考え、28の発言がでる。ようだ
確証は無い。
121 :
考える名無しさん:01/09/30 05:55
ん?
>>22を通り過ぎたっぽいな。
なんで
>>22にレスしない? というつっこみが確実に入るだろうから、いれておくぞ。
・・・なんで
>>22にレスしない?
>あなたの言う社会機構的視点とやらを、殺人という範囲に限定して適用する
「応報観念による殺人の禁止」は「社会機構的視点」によると認識しているようだ。
ところが応報が成立しない事例があるためにそれが間違いであると2はいう。
>また、社会機構的視点は、論者が常に殺されない側であることを自明の前提としており、
>そうした前提は殺される側にとっては、常に受け入れられない
また、「社会機構的視点」は最重要問題である「生存の確保」の
主体になりえないので、この立場では「最大の不利益」を
回避しようとする当事者の行動を説明できない。
と考えているらしい。
もうやめるね
22は115,117,118あたり。
レスではなく要約のつもり。2からクレームが来ると思うけど
俺の疑問は、殺す側、殺される側に続いて、
殺されない側が登場したことに因るのだが…。
125 :
考える名無しさん:01/09/30 18:48
age
126 :
考える名無しさん:01/10/01 08:39
2は逃げたか。
127 :
考える名無しさん:01/10/01 19:17
なんか、2の文章は、N氏と対談して「私にはK氏の言っていることが分からない」
「K氏は私の著作の用語を使っているが、使い方が私と異なっているため、かえって
議論が混乱している」とか言われていた、K氏みたいだな(わら
2の主張を勝手にまとめると、こんな感じだろうか。
1.一般的に、人を殺すことは否定されるべきである。なぜなら、ある人を殺せば、その人
が自分の利益を主張する機会を奪ってしまうからである。
2.殺される者(と、殺される側に注目する者)にとっては、人を殺すことは否定される。
その理由は、殺されることによる不利益を避けたい、ということである。
これは、殺される者にとっては、常に正しい。そして、殺される者にとっては、これだけ
で、人を殺してはいけないことの理由として十分に説得的である。
3. 人を殺すことが良いか悪いかという判断について、ある人が殺されるという事実、お
よびそれに関連する事実に関する判断(その殺人によってどんな結果が生じるか、殺人の
動機は何か、殺される者にも非があるか、等)を持ち出すのは、誤りである。ただし、そ
のような事実から、殺される人間にとっての不利益が、甘受されるべきだと言いうる場合
がある(しかし、そのような場合は少なくすべきである)。
128 :
考える名無しさん:01/10/01 19:26
悩み疲れた、今日もまた。
130 :
考える名無しさん:01/10/01 19:45
131 :
考える名無しさん :01/10/02 00:54
人を殺すことが善ならばとっくの昔にみんな殺し合って、誰も存在しなくなってるってことだよね。
今、俺等が存在することが人殺しが悪だってことの証明じゃないの?
132 :
考える名無しさん:01/10/02 02:17
>>131 そこには人は必ず善を行うという前提があるね。そうかな?
殺すよりは協力した方が良くなるから……?
134 :
考える名無しさん:01/10/02 06:21
報って、老いても 死んじゃうから。
127が勝手に解釈するに、2は、道徳的な議論の場を、各人がそれぞれの主張を正当化
しあうバトルロイヤルの場のように考えているのではないかと。
つまり、こんな感じですな。
「みんな、道徳バトルクラブへようこそ。
ルール1.道徳バトルクラブは遊び場ではなく、自分の発言で人が死ぬかもしれない、
ということを忘れるな。
ルール2.道徳バトルクラブは遊び場ではなく、自分の発言で人が死ぬかもしれない、
ということを、絶対に忘れるな。
ルール3.相手に自分の主張をする機会を与えなくするようなことは、道徳バトルに
おいては禁じ手だ。
ルール4.自分に生じる不利益を避けたい、と主張することは、道徳バトルにおいては
非常にポイントの高い技だ。
ルール5.社会にとって利益がある、と主張することは、道徳バトルにおいてはたいして
ポイントの高い技ではない。世間ではこれを有効な技だと思うやつが多いが、それは
嘘だ。
それではみんな、「人を殺すことは良いか悪いか」バトルを始めようじゃないか。
私は、人を殺すことは悪いと主張するつもりだが、このルールに従う以上は、みんなも
私に賛成してくれるだろう?私の勝利は間違いないね。」
いかん、完全にネタになってしまった(笑)。
136 :
考える名無しさん:01/10/02 12:26
127の解釈による、2の主張の面白いところは、以下の二つのことを同時に行っている
ことですな。
・バトルの場の中に入って、自分が主張を行う
(例:人を殺すことは悪い、と言う)
・バトルの場でみんなが従うべきルールを、(バトルの場の外から?)主張する
(例:各人に主張の機会を与えるべき、不利益を避けたいという主張は十分に有効性
があると考えるべき、などと言う)
つまり、今まさに試合をしているサッカー選手が、ボールを蹴りつつ、ルールについての
提案も行っているようなもんだ。これは、上手くいけば、破壊的な勝利を収めうる戦術で
しょうな。
と言っても、単にある価値判断のもとでより効率的に価値を実現できる手段を主張する
のではなく、どのような価値判断を行うべきかという根っこから議論して、自分の主張を
通そうとすれば、誰でも2と同じような戦術を取るような気もする。
みなさん、レスありがとうございました。具合が悪くて寝込んでたので、レスできませんでした。
どうもすみません。
>>127 まとめて下さってどうもです。ただ、冒頭の感想は、不適切です。
私は、他の人が使っている用語に即して議論した覚えはありません。わかりにくいなら、
単にわかりにくいとだけ、おっしゃれば良いです。漠然とした類比で批判されても困ります。
実際、私の文章の細部を検討すると、主語のヌケがある箇所があったり、要素を述べつくそうとした
ために逆に読みづらくなっている箇所が見られますから(56の後半など)、そうした個別的な難点を
指摘してくだされば、きちんと答えるつもりでいます。
また、そもそも私が、
>>6や、
>>22のような文章を書いていたことを、無視しないでください。
私の議論が(それらの文章を書いていた時点で)分かりづらくなっていたのは、私が前提していない
共同体的な視点や、道徳という概念を、読み手が論証もなく持ち込んだりしたからです。
そうした議論に対応しようとして、はっきりと自覚されない、読み手の先入見を問題とすると、
>>56-のような、長ったらしい文章になってしまうのです。
>1.一般的に、人を殺すことは否定されるべきである。なぜなら、ある人を殺せば、
> その人が自分の利益を主張する機会を奪ってしまうからである。
これは、限定的すぎます。利益を主張する機会を奪う 以上に 奪う と述べたはずです。
思えなくなる事、見られなくなる事・聞けなくなる事・味わえなくなる事・嗅げなくなる事・
触れられなくなる事・誰かに会えなくなる事・性的な快感を得られなくなる事など、生きていれば
可能的である「事柄全て」が、奪われる不利益です。
>2.殺される者(と、殺される側に注目する者)にとっては、人を殺すことは否定される。
> その理由は、殺されることによる不利益を避けたい、ということである。
> これは、殺される者にとっては、常に正しい。そして、殺される者にとっては、
> これだけで、人を殺してはいけないことの理由として十分に説得的である。
人を殺すことが否定されるのではないです。「殺される者」を殺すことが否定されるのです。
上の議論を承認しあっていくなら、結果として人を殺すことが否定されてきます。
否定されてくる中でなされた議論の説得性は、結果から考えるなら、あまり重要ではありません。
ただ、そこでなされる議論の説得性が高ければ、結果として人を殺すことが否定されてくる公算が
高まります。そうした方向へ議論を向けていくのが(少なくとも私にとっては)道徳的な態度です。
これらの構造は、殺人に限ったことではないと考えています。
>3. 人を殺すことが良いか悪いかという判断について、ある人が殺されるという事実、および
> それに関連する事実に関する判断(その殺人によってどんな結果が生じるか、殺人の動機は何か、
> 殺される者にも非があるか、等)を持ち出すのは、誤りである。ただし、そのような事実から、
> 殺される人間にとっての不利益が、甘受されるべきだと言いうる場合がある
> (しかし、そのような場合は少なくすべきである)。
「ただし、そのような事実から、」は、「ただし、そのような事実に関わる議論から」とすべきです。
他は問題ないです。
他にいくつか疑問として出された点について答えておきます。
>>89 >社会機構的視点を殺人という範囲に限定して適用って何?
「ある人の思考」(社会機構的視点もそのひとつ)が、「ある事実関係」という
(総合的に把握された)場の分析に向けられている構造が、常にあります。
そして、「ある人の思考」は、常に「何らかの前提」を持っています。
その「何らかの前提」が成立する旨論証されていない、場の分析についても、
「ある人の思考」は向けられます。
しかし、そうした「ある人の思考」により導かれた「結論」は、常に正しさが保証されません。
なぜなら、「ある人の思考」が必要とする「何らかの前提」が、「ある事実関係」の内に
含まれていないからです。
>”具体的”事例が反証になるわけ
18さんが述べた、>人を殺すということは、自分も殺されても文句は言えない立場に立つこと。
という、社会機構的な視点からの帰結に、
>>25の事例について論ずる人の多くは、納得しないだろう
からです。
ついでに言うなら、18さんが89で述べた類比は、不適切です。なぜなら、私は「〜さんが廊下を
走っていた」ではなくて、「〜さんが廊下を走っていたことについて、みんなは・・・と考えるだろう」と
述べたからです(
>>25を見てください)。
>>94 >2の世界には「利益」と「不利益」がア・プリオリに備わっているらしい
これは間違いです。なぜなら、ある事柄が、不利益だということを認めているだけだからです。
それが確実に不利益だろうと考えるのと、アプリオリに世界の内に不利益を観念することは、
全く別の話です。ちなみに私の「世界」には、善悪は「ありません」。善悪と「人間がみなす」のに
十分な事象はたくさんあると考えます。
生きていれば得られうる事柄がある、も同じです。仮に殺される人が自殺願望を持っていたとしても、
自殺して死ぬのと、他殺で死ぬのとは、別のことで、選択の余地がありますから、生きていれば
得られうる事柄が奪われた点では、違いありません。
>>114 >「人を殺してはいけない根拠は、自分が殺されることの不利益をなんとか回避したいという
>個人の心情の内部に求められる」
私は「個人の心情の内部」などとは述べていません。そんなものは外部から見れません。
だいたい「ある個人が私が言う不利益を、常に正しく認識できる」とすることは、間違いでしょう。
(例 国家のために犠牲になる人間がいた・いるから)。
論理的に考えるなら、類型的に不利益を肯定出来るから、それを他者の目から見て、肯定しろと
述べているだけです。私はこの意見に説得性を感じるので、その通りにします。
説得性を感じない、他者の不利益などお構いなしな人間が多ければ、殺人は肯定されうるでしょうし、
カルネアデスの板の場合は、結果として殺人を肯定する意見が強くなるのではないでしょうか?
>136
あ、レスがついてたのに気づかなかった。スマソ
>だからぁ、君は2に賛同するの?
まず、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対しては、そういうルールが社会秩序
維持に必要だから、と答えようかと思う。
次に、「人を殺してはいけないというルールを実現させる手段として、刑罰などの社会制度
のみでは不十分ではないか。人に道徳を教え込むことによって、その人の内面に、人を殺
さないような意識を植え付けることが必要ではないか」と聞かれたら、多分そうだと思う、
と答えようかと。
次に、「子供に、人を殺してはいけないと教え込むときに、2のような主張は有効か。
成人相手に議論するときはどうか」と聞かれると、子供には2の主張は理解不能だと思わ
れるので、もっと気の利いた作り話のほうがいいと思う。また、成人相手になしうること
は、(その人が殺人を行った後で)刑務所か精神病院にぶち込むことのみであり、新たに道
徳を教え込むことは不可能であると思われるので、2の努力は徒労に終わってしまうんじ
ゃないか、と勝手に心配している。と答えようかと。
142 :
考える名無しさん:01/10/02 13:24
「なぜ人を殺してはいけないか」という問いはそもそも偽の問いで
あって、それに答えようとすること自体ナンセンス。その偽りの循
環に共犯的に加わるということになってしまう。
たとえば「なぜ人を殺してはいけないの」という問いは「かくかく
の理由で人を殺してはいけないのだ」というふうに答えることによ
って納得され解決されるような問いではない。なぜなら、ほとんど
の人間はそのような答えによってその問題を解決しているわけでは
ないから。むしろ、ほとんどの人間にとってそのような問い自体が
存在しない。そしてそのような形態によってしかこの問いは解決さ
れないだろう。(ウィトゲンシュタイン的に言えば)ある種の問題
とは、その問いに答えることによってではなく、その問い自体を消
滅させる形においてしか解決されない。
別の言い方をすれば「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問
いにまともに答えようとするよりも、そもそもそのような問いが一
種の流行にすらなっているように見える今日の社会状況や精神状況
の具体的分析に向かったほうがよっぽど有意義だと思われる(「人
は何のために生きるの?」というのも同類の問いだな)。
あるいはもし個人がそのような問いに悩まされているのだとしたら
それは哲学的な答えによってではなく、たとえば精神分析的治療の
ようなプロセスによってそのような問い自体を消滅させることによ
ってしか解決されないだろう。
>>141 こんにちは。
>まず、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対しては、そういうルールが社会秩序
>維持に必要だから、と答えようかと思う。
これなら、社会秩序維持に必要なら、人を殺してもいいことになりますよ。
もともと社会秩序維持の必要性と、殺してもいいかどうかは、別の話です。
私は賛成できません。
道徳を教えることで殺さない意識を植え付けるのが良いのではないか・・・云々ですが、
おそらく私の考えが正しいなら、人を殺すことを回避させるのに必要なのは、
ある種の状況であって、道徳はその状況をつくる要因になりうるもののうちでも、
弱いものでしかないです。
最後の、私の議論が徒労におわる云々は、
・まず、徒労に終わるかどうかと、議論の正しさは別です。
・子供の方が理解できます(なぜかというと、彼らは余計な視点を持ち込まないからです。
また、私の今回の問題に関する考えは、私の認識の仕方からくる、当然の結論であって、
議論を理解するとかいう程度の問題では、ないからです(つまり、知的に難しいことを
言ったわけではないので、理解可能です)。)。
・成人相手になしうることの例が不適切です。
>>25を参照してください。
戦争を想起してください。
あ、2氏にお詫びしなければ。
まず、もう2氏本人は姿を現さないのかと勝手に思い込み、それを前提に勝手な解釈を
書き込んでしまったことにお詫びします。
>>135、
>>137、
>>141 の文章は、その前提によって書いたものであり、議論を混乱
指せるおそれが強いです。よって、議論をすっきりさせるという観点から、無視して
いただきたいと思います。もちろん、必ず無視しろ、とか、これらの文章に対する
反論には127は返答しない、と言うつもりはありません。
また、
>冒頭の感想は、不適切です。
という部分は、全くの思い付きによる冗談のつもりでした。不快感を与えたとすれば、
お詫びします。
>>143中段の「道徳」は、因習的な道徳のことを指しています。
説明不足でした。すみません。
>>144 どうもです。
>>144の内容、了解しました。
ところで、
>>127の書き込みは、心情的には、むしろありがたかったですよ。
ニュアンスはあっていましたし・・・。
反論は
>>139で、すでにしましたので、これ以上するつもりはないです。
では改めて、2氏の主張を検討し賛同または批判を行う準備として、127の理解による2
氏の主張の再構成にチャレンジ。
1. 2氏は、人が殺されるという 事 実 が、なるべく起こらないことを、目標としている。
(「人を殺してはいけない」という一般性のあるルールについての検討を行おうとしている
わけでは、必ずしもない)
2. その目標を達成する 手 段 として、「人を殺してはいけない」という主張を、多くの人
に認めさせることは、それなりの有効性がある。
3.(1). より多くの人に「人を殺してはいけない」という主張を認めさせるような議論を行
うことが、2氏にとっての「道徳的な態度」である。
(2)「人を殺してはいけない」という主張を他人に認めさせるためには「殺される側にとっ
ては殺されることは非常に大きい不利益である」ということを確認することで、十分である。
「道徳的な議論」は、この範囲に限定すべきである。
(3)「人を殺してはいけない」という道徳を、一般的、論理的に確立しようとする議論は、
不必要である。むしろ、そのような議論を行う者は、通常は自分を殺されることによる不
利益を受けない側(さらに、殺すことによって何らかの利益を得る側)において考えるた
め、一定の利益のためには人を殺してもよい、という結論を出しやすい。
要するに、2氏は人が殺されることを少なくしようとする目標を持ち、そのための議論を
行おうとしている、と思われます。
で、もし147のような理解が正しいとすると、とりあえず127の言いたいことは
「別に道徳に関する議論をしたっていいじゃん、ここは2chなんですぜ?(笑)」
ということですな。
149 :
考える名無しさん:01/10/02 21:06
>>127 >まず、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対しては、そういうルールが社会秩序
>維持に必要だから、と答えようかと思う。
なぜ社会秩序維持は必要か?
答えて!!
150 :
考える名無しさん:01/10/02 23:36
142がいまいいこと言った・・・・・結論はコワいが。
151 :
考える名無しさん:01/10/03 01:55
>>142 そりゃウィトゲンシュタインを誤読してるよ。
文法的命題を事実命題と取り違えるような誤りを一つ一つ正し、
言語ゲームを展望する視点から、倒錯した哲学的誤解をとりのぞくこと、
これがウィトのやりたかったこと。
ウィト的に解釈すれば、非道徳的な動機からの批判にさらされる可能性のある
道徳規範は、行為や言語の規範と違って強制力が非常に弱い。
だからこそ、まるで道徳について語ること自体が頭のおかしい人間である証拠であるかのように
語る必要が出てくる。
と、こうなる。
152 :
考える名無しさん:01/10/03 02:04
>>151 そうした理解から、2の意見を検討してみると、どうなるんでしょうか?
153 :
考える名無しさん:01/10/03 02:08
151はたぶん出るだろうと思ってた。
151は正しい。しかし142と噛み合ってない。
154 :
考える名無しさん:01/10/03 02:13
道徳を批判的に語ることが批判される理由の一つは、
批判的に語る主体が多分に道徳に守られてこそ、存在しているからだろう。
殺人禁忌、交通ルール、親は子を健全に育むべしという暗黙の了解、相互尊重etc...
自分が乗っている船に気がつかない乗客に「あんた目が悪いのか?」
と言い放つのはある意味、当然。
道徳は「自ら気がつかなきゃいけないもの」という側面がある。
155 :
考える名無しさん:01/10/03 02:19
法や道徳、慣習その他を大ざっぱに「規範」と呼ぼう。
規範はそれを守らせる外的な強制力だけでは、うまく運用できない。
外的な強制力、たとえば警察や矯風委員会のようなものだけで法の
実効力を支えようとすると、社会はあっという間に警察国家になって
しまうだろう。
規範はそれを支える内的な力が必要だ。あるいは、明文化された
規範としての法を支えるのが、内的な規範としての道徳(倫理?)
というべきかもしれない。
156 :
考える名無しさん:01/10/03 02:26
だから個々の内面が規範を支えるように、「道徳化」されている
必要がある。道徳は内面化されていてはじめて、効力を発揮する。
外部から強制される道徳は、道徳ではない。
だからこそ、非道徳的なものに対する批判とは、その道徳そのものに
則って行われる。そのメッセージは要するに、
「早く気づけ」
だ。
157 :
考える名無しさん:01/10/03 02:28
158 :
考える名無しさん:01/10/03 02:29
道徳は個々の内面化−規範化を、まさしくその主体性の名の下に
要求する。これは不当なことであり――そして奇妙なことに、
まったく正当なものなのでもある!
これは弁護しているのでも、非難しているのでもない。
道徳の本質的な性格について述べているにすぎない。
>>158とか
いや、だからレスつけなって。
あいての意見に対して答えるのは、論理の基礎、
つまり哲学の基礎じゃないの?
160 :
153-156:01/10/03 02:34
>>157 2が何をいいたいのかよくわからんし、127との会話の途中なので。
161 :
考える名無しさん:01/10/03 02:35
>>159 ええっと、どれにレスつければいいんだ? ていうか君は何番にカキコしたの?
162 :
考える名無しさん:01/10/03 02:36
ぼくは人を殺しても「よい」。たしかに。
でもぼく以外の人はダメ。
164 :
考える名無しさん:01/10/03 02:44
道徳はなぜイデオロギー的に保護されねばならないのか。
なぜならそれは、イデオロギー的に保護されねばならないほど、
脆弱な基盤しかもたないからだ――。
これは正しい。しかし真相の一端でしかなかろう。
まさしく道徳は脆弱だ。しかしそれ故にこそ、保護されて然るべき
なのだ。
その脆弱なもののうえに、社会はあやうく成立している。
われわれは脆弱なそれに頼らざるを得ないほど、さらに脆弱なのだ。
165 :
153-156,161:01/10/03 02:46
>>163 すまん。なにを言いたいのか、さっぱりわからん。
>>165 あ、どもすいません、カキコしてないということです。
だから、自己言及(オレモナー)と・・・
ただ2の意見には、ボクは満足なんですけど。
>>6の時点で。
他にそういう人はいないんですかね?
167 :
考える名無しさん:01/10/03 02:56
道徳をその内部から食い破ることはとても簡単だ。
近代という装置が《外部》を殲滅した結果、「すべては《内部》に
なった」。
もはや道徳や社会を破壊する敵は外部からの侵略者などではない。
それは内部に潜んでいる。
いわくテロリスト。腐敗官僚。クラッカー。幼女誘拐犯。盗撮教師。
これらインサイド・クライマー(内部犯罪者)は社会のその柔らかい
喉笛に食いつく。
彼らは道徳によって保護されている。そしてその道徳を裏切ることに
対し、道徳は「道徳的非難」とい余りに非力な武器を投げつけること
しかできない。
168 :
考える名無しさん:01/10/03 03:00
>>166 >>6について2は保留的なようだから、2の今後の展開を待ったらどうだろうか。
169 :
考える名無しさん:01/10/03 03:13
道徳自体が非道徳的な方法を含むという事、これを批判するのは
現代ではすでに有用でなかろう。
道徳、それも所詮は社会装置に過ぎず、つまりは人為の作り物だ。
しかもわれわれは道徳的な社会に存在するわけでもなく、われわれ
自身が道徳的な存在であるわけでもない。
「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いが虚偽的なのは、その
ためだ。われわれは一度としてすべての殺人が禁じられた社会を持った
ことがなく、そのような道徳が敷衍されたこともない。そのような
文明文化は、人類の既知の歴史過程に存在しない。
絶対殺人禁忌を保つ道徳者(その殆どは宗教者だが)が多数派を
占めたこともない。
ただそこには「殺して良い場合」と「殺してはならない場合」が
あるだけなのである。
ムカツクから殺っただけ、文句ある?
171 :
考える名無しさん:01/10/03 03:22
172 :
考える名無しさん:01/10/03 03:30
173 :
考える名無しさん:01/10/03 03:38
>>172 注意深く読めば、ここで述べた事柄が現状追認にも、道徳の
根底レベルでの否定にも援用できるのがわかるはずだ。
そう、これは弁護でも非難でもなく、「道徳の本質」に過ぎない
のさ。
175 :
考える名無しさん:01/10/03 03:48
意見の効果? なんだそりゃ。
ずいぶんとまた、道徳的な物言いだ(笑
いっとくが、おれは道徳批判派にも、擁護派にも組みする気はないぞ。
おれの哲学はそんなに甘くない。
信仰の問題だな。
177 :
考える名無しさん:01/10/03 03:52
なぜテロがいけないのかも考えよう。
178 :
考える名無しさん:01/10/03 03:54
いみじくも174が体現したとおり、道徳批判者の道徳性には
しばしば辟易させられる。それはときに道徳家の鼻持ちならなさを
上回る。
ニーチェは道徳的に過ぎた.....思うに。
かれは道徳の非道徳性を、道徳的に許せなかった。
だからかれは道徳の由来を非道徳的なもの(奴隷一揆)に求めた。
わたしは、あるいはおおかたの現代人も、それほど道徳的ではない。
健全な不道徳、とでもいうか。
だからニーチェほどには眼を眩まされずに、道徳がどのような
社会力学から生じたかを考えることができる。
>>178 何が体現しただよ。
>>169のような言説が、殺人をするケースが
肯定される範囲を広げるのに加担する面がことを、「効果」と
言っただけだ。
だいたい
「殺して良い場合」と「殺してはならない場合」が あるだけ
なのは、双方の場合を承認する人間がいるだけで、
事態として成り立ちうるぞ。そうした事態について認識する
際の理由付けが、
>>169と同じだという保証が、どこにあるんだ?
180 :
考える名無しさん:01/10/03 04:18
永井均の「ルサンチマンの哲学」の冒頭に興味深い挿話がある。
「星の銀貨」という童話を下敷きにした、3人の少女の物語だ。
永井が書いたものの中で、わたしはこれが一番好きだ。
一人目の少女は、道徳的に振る舞ったご褒美に、星の銀貨を得て死んだ。
二人目の少女は、星の銀貨が欲しかったので、道徳的に振る舞った。
そして望み通り星の銀貨を得て、死んだ。
3人目の少女は、道徳的に振る舞うことを道徳的に拒んで、銀貨を得ず
に死んだ。
天国でお互いの行動を巡って言い争う、一人目の少女と三人目の少女。
それを見て二人目の少女はいう、
「あなたたちって、とても変。あなたたちはとてもよく似ている」……
181 :
考える名無しさん:01/10/03 04:25
>>179 全然、そんな風には読めなかったんだが。
>「殺して良い場合」と「殺してはならない場合」が あるだけ
>なのは、双方の場合を承認する人間がいるだけで、
>事態として成り立ちうるぞ。そうした事態について認識する
> 際の理由付けが、
>>169と同じだという保証が、どこにあるんだ?
なに言いたいのか、ちっともわからんな。
双方を承認するのが、普通の現代人だろう。
たとえばわたしは「正当防衛による殺人」を認め、「快楽殺人」を
認めない。
認識する際の理由付けが169? なんだそれは。
169は特に何かを認識する理由ついては、述べてない。
182 :
考える名無しさん:01/10/03 04:29
永井の文章はスマートで鋭く、魅力的だ。
しかし惜しむらくはユーモアに欠ける。
この挿話はその希少な永井のユーモア、それも自虐的なユーモアが、
微かに感じられる。
そこが好きだ。
183 :
考える名無しさん:01/10/03 04:38
>>181 読めないのは、
>>181の問題意識が、
>>172と違うところに
あるからだと思われ。172は、社会における、言説に影響され
行動が位置付けられていく集団についての認識を語っていると思われ。
認識する際の理由付けが云々は、おそらく、169の結論を標榜する
人間が実際に考えている理由付けのことを指していると思われ。
184 :
考える名無しさん:01/10/03 04:39
まあこの問題に興味があるのなら、
永井を読んどくのは当然だな。
185 :
考える名無しさん:01/10/03 04:41
186 :
考える名無しさん:01/10/03 04:47
179=183か?
ますます、わけわからんぞ。
179=183でないなら、183は179を理解していないし、
それ以上におれ(169=181)の言ってることを理解してない。
最後の2行なんて、道徳家陰謀説みたいだ(笑
187 :
考える名無しさん:01/10/03 04:49
>>180 これって、道徳っていう言葉を当ててるから、道徳について
語っているように思えるような挿話だね。
188 :
考える名無しさん:01/10/03 04:53
永井が「これがニーチェだ!」のなかで、あれほど散々
「ニーチェを僧侶にするな!」と訴えたにもかかわらず、
なぜかその永井さえ「僧侶」として読まれているのが、
可笑しい。
永井の本なんて、どれもこれも
「これはおれ・永井の哲学だ。お前はお前で自分の哲学をしろ」
これに尽きるだろう、最後は。
にもかかわらず、永井は実践を導くよりは、「教典」として
読まれることの方が多いようだ。
因果な事じゃ。
189 :
考える名無しさん:01/10/03 04:56
>>187 まあ読み方は自由だからね。メタ道徳挿話でない、と思いたいなら、
それはそれでいいんじゃない?
>>183 だいたい合っている。
ただ、行動が位置付けられていくというよりは、行動の方向性に
言説が影響を与える、のほうが良い。後半はその通り。
>>186 少なくとも183のほうが、俺が述べたことを理解したようだと思っている。
殺人の例として、そもそも殺人事件しか思い浮かべない時点で
話にならないよ。
192 :
考える名無しさん:01/10/03 05:00
道徳にとらわれるな。
あまりに強く道徳に反発しすぎることは、
道徳をお題目として唱える連中と同じ陥穴に足を突っ込むことだ。
自分を失うな。
193 :
考える名無しさん:01/10/03 05:06
>殺人の例として、そもそも殺人事件しか思い浮かべない時点で
>話にならないよ。
例がそんなに気になるか?
別に戦争でも尊厳死でも、堕胎でもヤクザの抗争でもなんでも
いいんだがね。
しかし話をしたくない、というのならそれはそれで構わない。
きみは文章が下手すぎて、なにを言ってるかわからないし、
土台わたしがきみに特別に用があるってわけじゃないしね。
194 :
考える名無しさん:01/10/03 05:14
子供はいつも誰かに納得させてもらいたがっている。
明確な答えを欲しがる。
この世の矛盾と不正に対する、大人からの明確な回答を
待ちわびている。
でもそんなもん、ありゃしないんだ!
>>193 例が気になるんじゃなくて、例として列挙されるものが限定的だった、
「そのときに持たれていただろう認識」が、気になるんだよ。
下手すぎて、というのは、まあ仕方がない。
土台・・・は、尊大さが表に出ただけだ。
今の話に関係ない、ただ相手を見下しただけの発言だからね。
197 :
考える名無しさん:01/10/03 05:17
大人だっていつも答えを持っているわけじゃないし、
子供をいつも・いつまでも納得させなければいけない義務を
負ってるわけでもない。
だから答えはいつも自分自身で探しにいかなけりゃいけない。
答えはいつだって自分の中にしかないんだ。
それがほんとなんだ。
>>197 自分の中に答えが見つかるまでに、他人と対話するだろ。
199 :
考える名無しさん:01/10/03 05:23
だからぼくは「問」うてはいけないのだ。
だれかに「問」うても、それは意味がないことなんだ。
だれかに、答えを求めても、それは意味のないことなんだ。
探すのだ。
ぼくの中に生じた答えは、ぼくの中で探すのだ。
答えはいつだって、ぼくの中に在ったんだ。
それに気づいてゆくだけなんだ。
誤りに気づき、誤りに気づいたことが誤りだと気づき、
また誤りに気づき、それを繰り返すだけなんだ・・・・
>>199 誤りに気づくときに、他人の意見が役に立つことがあるだろ。
201 :
考える名無しさん:01/10/03 05:27
>>198 対話して得られるのは、「他人の答え」だよね?
それは「きみの答え」じゃない。
そしてどうする?
言葉や文章で訴えてもしょうがない。
性善説を身をもって体感させなきゃ。
自然な、エネルギーの広がりを体験させる。
つまり、愛情とゆう概念をリアルに伝える、
それが答え。
あの300人殺しのヘンリー・ルーカスも愛の前では無力でした。
203 :
考える名無しさん:01/10/03 05:29
>200
なるほど。ではなぜわたしのレスを理解しようとしない?
表面的な反発だけが続けば、他人は逃げていってしまうよ・・・
204 :
考える名無しさん:01/10/03 05:31
性善説という言葉を不用意につかわなければ、202はある意味正解なんだが。
205 :
考える名無しさん:01/10/03 05:32
なぜなら「愛は人を殺しもする」から
>>201 意見を所有するかのように言うのは単純に間違いだよ。
>>202 実際上の影響をもつことがある、その影響をもつ要素の
一つとして、こうした話し合いもあると考えているんだよ。
ところで
>>202では文章はなかったかもしれないが、言葉は
使われたでしょ。あと、君は
>>202で文章を書いてるんだよね。
それについてはどう思う?
>>200 逃げていってしまうと誘導しているのは誰だよ。その部分は明らかに
いらないだろ。表面的・反発とか、意見を形骸化する表現にたよるのは
良くないよ。
性善説に愛情の要素は含まれませんか??
208 :
考える名無しさん:01/10/03 05:47
実際、いまの道徳論/道徳批判は論じ方が間違っているように思う。
それは現実の、モラルとは何かが問われる現場とかけ離れている。
現代人なんてほとんどが――意識的であれ無意識にであれ――、
>>180の「2番目の少女」だろう。
「人間は《絶対》に殺してはならない」なんて言う「1番目の少女」
なんて滅多に見ないし、だいたい「人を絶対殺すな」レベルの道徳的
メッセージなんて、せいぜい幼児期に吹き込まれる程度だ。
社会が進むにつれ道徳が鬱陶しくなるのは確かだ。
しかしそれに「殺人は、つまりは趣味の問題だ」といってみたところで、
有効な批判になるだろうか?
209 :
考える名無しさん:01/10/03 05:52
>逃げていってしまうと誘導しているのは誰だよ。その部分は明らかに
>いらないだろ。表面的・反発とか、意見を形骸化する表現にたよるのは
>良くないよ。
形骸化ではなくて、実際に形骸だと思うんだが(苦笑
だから逃げたくもなる。
しかし、きみのヤル気は感得したよ。
では具体的に中身について反論してもらおうか。
言説の影響ドウコウなんて、PTAじみた話はやめてくれよ。
210 :
考える名無しさん:01/10/03 05:54
ん〜。そうだな。
これ以上はこのスレの他の人に迷惑なので、
新しいスレを立てることを提案する。
>>205は愛情ではない。憎しみである。
だから成り立たない。
213 :
考える名無しさん:01/10/03 06:14
愛情の一杯の母親が子供をスポイルこともあるし、
病気の親を見かねて殺す子供もいるぜ?
179は寝ちまったのか。別にいいけど。
>>213 後者は自殺(安楽死)の手助けであって殺人ではない。
前者は言ってる意味がよくわからない。
216 :
考える名無しさん:01/10/03 06:42
>後者は自殺(安楽死)の手助けであって殺人ではない。
安楽死とはかぎらんぞ。親が嫌がってたらどう?
>前者は言ってる意味がよくわからない。
これでいい?↓
「愛情一杯の母親が子供をスポイルこともある」
217 :
考える名無しさん:01/10/03 06:44
あー間違った。
「愛情一杯の母親が子供をスポイルすることもある」
失礼。
スポイルってなんでしょ?
辞書で調べたけど殺人ではないでしょ??
具体的にお願い。
>安楽死とはかぎらんぞ。親が嫌がってたらどう?
それは子のエゴでしょ。
僕が言ってる愛情はもっと本質的なピュアなものです。
220 :
考える名無しさん:01/10/03 06:52
>>218 あ、人殺しの話じゃないよ。でも関係あるかな。
ダメな性格にしちゃうってことかな。
それで子供が自殺したり、他人を手に掛けたり
ってこともあるかも。
>>219 エゴ、かなぁ。
たとえば親が痴呆で自分の病気の進行がわからないとする。
子はこれ以上病が進めば、親がもっと苦しむと知り、なら
子である自分がいっそ、と思い詰めて.....
オチます。bye.
222 :
127=147 :01/10/03 10:53
>>147の文章は、2氏の主張の理解として正しいかどうかはともかく、自分としてはなか
なか面白かったので、147について検討をしてみようかと。
(よって、以下の文章は、2氏の主張そのものに対する検討・批判になっているかどうか
は不明です。むしろ127=147の意見です)
理解されたかどうかは自信がないけど、147のポイントは、一般的ルールとしての「人を
殺してはいけない」というものを主張して い な い、ということ。そんなものがなくても、
殺される側の不利益を根拠として「人を殺す事は、殺されるものにとって、悪いことだ」
と主張し、それに多くの人が合意すれば、人が殺されるという出来事が起こりにくくなる
という 結 果 が得られるであろう、と述べている。
つまり、147は、人が殺されるという出来事を減らすという目的のために作られた、技術
的な仮説というようなものなんですな。だから147は、世間一般で言われるような道徳を、
むしろ 否 定 している、と言える。
だから、147が道徳を擁護しているかのようにみなし、道徳に対してなされる批判を行う
ことは、誤解である。むしろ、147は不道徳な主張であって、道徳に不満を持つものは支
持しなければならん(笑)。
147に文句をつける者(例えば、あれこれ考えてみる前の127)は、道徳を擁護してはい
ないとしても、道徳的発想にとらわれている可能性があると思われる。
具体的に147の文章(および、2氏の文章全般を127=147が勝手に解釈したもの)の検討を。
○147の理論は、「人を殺すのはよい」という主張の擁護にも使えるのでは?
例えば、147は快楽殺人者であり、人を殺すことで大きな楽しみを得る一方、殺せないで
いると禁断症状のようなものでひどい苦しみを味わう、と仮定する。
すると、147にとって、人を殺すことはよいことである。殺される者がいかに自分の不利
益を主張し、また快楽殺人者でない一般人がいくら社会秩序維持の利益を唱えたところで、
そんなものは、147が人を殺せないことによって、快楽を失い苦しみを味わうことには、
何の関係もない。
ここまでは、147の理論は「人を殺すのはよい」という主張の擁護にも使えるようである。
ただ、「人を殺すのはよい」と「人を殺すのは悪い」が異なるのは、その主張が他人にも広
く受け入れられやすいか否か、という点だ。
殺人が行われることによって、殺される者が非常に大きな不利益を受けるということは、
類型的に広く認められるだろう。よって、他人の支持も受けやすいだろう。一方、殺人が
行われることによって、殺す者が非常に大きな利益を得たり、不利益を被る、ということ
は、快楽殺人者とか、戦場の兵士や飢え死に寸前の者のような、例外的な場合に限られる
だろう。むしろ、人を殺す際の嫌悪感など、殺人は殺す側にも不利益をもたらす場合が多
いかもしれない。
よって、多くの人が、「人を殺すのは悪い」と主張することになると思われる。そして結果
として、殺人の数は減ると思われる。
逆に言えば、その点以外では、「人を殺すのはよい」と「人を殺すのは悪い」はとくに異な
っていない。よって「人を殺すのはよい」という主張自体が排除されるわけではない。快
楽殺人者のような少数派がときどき現れ、他人の同意を得ることなく人を殺すことは、147
の理論のみからでは防止できない。
しかし、147の理論は、そういうことの防止を目指しているわけでない。「どんなときでも、
人を殺してはいけない」などという道徳的な主張を行ってはいない。よって、快楽殺人者
のような少数派を防止できないことは、147の理論に対する批判にはならない。そういう
批判をしたくなる人間(例えば127=147)は、「人を殺してはいけない」という一般的ル
ールを前提としている、道徳にとらわれた人間ではないかと思われる。
他にもまだ書くつもりだったんだけど、ややバテまちた。
とりあえず…
>149
>>まず、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対しては、そういうルールが社会秩序
>>維持に必要だから、と答えようかと思う。
>なぜ社会秩序維持は必要か?
>答えて!!
それは、自分の身の安全その他の、自分の利益を守るため。もしも社会秩序が自分の利益
と反するならば、革命でも起こすか、我慢するか、その中間として自分の利益と社会秩序
を折り合わせる道を探すしかないですな。
世の中には自分の利益と社会秩序がどうしても衝突してしまい、困っている、という人も
いるんでしょうな。幸いにして、127=147は快楽殺人者とかではないので、今のところ、
実際上の問題は起こっていないけど、
で、もしもその次に「なぜ自分の利益を守ることが必要か?自分の利益、とくに自分の命
は、必ず守らなければならないのか?」と聞かれたら…。
何と答えたらよいのやら、よくわからん(笑)。
金子みすずの詩から。
わたしはふしぎでたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかっていることが。
わたしはふしぎでたまらない、
青いくわの葉たべている、
かいこが白くなることが。
わたしはふしぎでたまらない、
たれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。
わたしはふしぎでたまらない、
たれにきいてもわらってて、
あたりまえだ、ということが。
226 :
考える名無しさん:01/10/04 23:52
>>224 なぜ自分の生命・財産を守る必要性に根拠付けが必要なのかわからん。
自分の生命を愉しむことこそが、全ての倫理の前提じゃないのか?
そんなこたぁない
228 :
考える名無しさん:01/10/05 00:31
「俺は好きな人もいないし、養うべき家族も無い。
自分自身も生きていたいとは思わない」
という人に道徳を語ることの虚しさ。
だから僕は
>>202で性善説と獄中で尼さんに人間愛を諭された
大量殺人鬼ヘンリーを引き合いに出したんですよ。
>>226は生きることの楽しさは道徳規範を習得する条件であるといっているだけで、
このことから性善説も、愛による教化も導けない。
生きていてこその物種。死んでいたら楽しめない。
232 :
考える名無しさん:01/10/05 01:27
フムム。
絶対虚無に沈みこむ人間には、道徳的に生きることそのものの
価値を説くのも、逆説的な一つの手だね。
233 :
考える名無しさん:01/10/05 03:49
ていうか、心理板?ここ。
「俺ハ好キナ人モイナイシ、養ウベキ家族モ無イ。
自分自身モ生キテイタイトハ思ワナイ」
とプログラミングされたロボットに道徳を語ることの虚しさ。
>226
>なぜ自分の生命・財産を守る必要性に根拠付けが必要なのかわからん。
>自分の生命を愉しむことこそが、全ての倫理の前提じゃないのか?
別に、とくに根拠が必要だというわけじゃないけど…。
何が言いたかったかというと、今の日本じゃ、道徳だの何だのに大した根拠がないと
いうのは、ある意味では当たり前ですな。だから、世間で説かれるような道徳に「なぜ?」
と疑問をぶつけても、たいして面白くない。「なぜ?」と言うからには、自分の命に対して
さえ「なぜ?」と言うところまで逝かないと、面白くないだろう、ということです。
言葉遊びを永遠に続けていたまえ
237 :
考える名無しさん:01/10/05 19:17
>>236 言葉遊びを永遠に続けて板前・・・ってなんですか?
意義のない、言葉遊びというのは、私のようなのをいうのであって、
「言葉遊び」をする者同士で、遊び続けていれば、それは「言葉遊び」に
とどまらない、事実上の影響を作り出してしまう面があるのではないですか?
言葉を聞いて、さしたる説得性も無いのに了解して行動する人間は、
大勢いるのですから。
そうであれば、遊びが節度ある範囲にとどまるように、ルールなり工夫なりを
しようとするのは、意義のあることだと思いますよ。
世の中には、沈黙しない人の方が多いのです。
238 :
考える名無しさん:01/10/11 23:17
あげ
239 :
Iridium:01/10/11 23:58
殺人を許容する社会もあった(ある)のだが、
殺人を許容しない社会のほうが人数が多く、
勢力を拡大しやすい。
(許容側の社会が競争に負ける)
結果としてスタンダードなルールが
「殺人を許容しない」というものになっている。
240 :
考える名無しさん:01/10/12 12:57
民主主義が、貴族を引きずり下ろしたわけやね(わら
241 :
考える名無しさん:01/10/13 02:34
>>239 殺人を許容する社会ってどんな社会なのか。
人を殺しても罰せられないわけ?
そこがはっきりせんことにはどうしようもない。
あと、人数が多い社会がそうでない社会に自分たちの
習慣を押し付けがちなものなのかどうか、考えたことある?
242 :
考える名無しさん:01/10/13 02:41
age
生物同士は常に摩擦を伴って生きている。ある一定の線を越えれば
攻撃し、相手か自分が引かなければどちらか死ぬまで戦う。
人は地球上に異常とも言える程の個体数を持っているためこの摩擦
が動物等より多く、常に過度の負担(ストレス)として本能を刺激して
いる。
このため攻撃的になったり精神的に崩れてきたりするが理性で何とか
保とうとする。しかしブチ切れて相手を殺していいとなれば自分の嫌い
なヤツを殺せるが自分も殺される。
それでは都合がよくないので普段は人を殺すのは良くないという事に
しておいた方がいいだろうという事ではないのかな。あくまで普段は、
という事だけど。
映画のセリフで人を殺すのはそいつと結婚するのに似てるってのが
あって面白いなと思った。相手のこれからの全てを背負うから。
でも離婚みたいに死人が復活する事はないからアレだけど。
>>241 「生物」と人間が看做す対象同士が「常に」「摩擦」を伴って生きている。
←「生物」として意識される対象があいまい、常に、は間違い。
摩擦は、殺し合いの形をとって現れるとは限らない。
ある一定の線を越えれば攻撃←無意味な表現
相手が自分が引かなければどちらか死ぬまで戦う。←第三者は?
人は地球上に異常とも言える程の個体数を持っているため、この摩擦が動物等より
多く、常に過度の負担(ストレス)として本能を刺激している。
←摩擦は関係であって、量ではない。摩擦する事例と理解したとして、摩擦する事例は、
人の間におきる事例の一種であって、事例の全てではない。
←また、摩擦が小規模・非暴力的に起きることで、より大きい次元において 摩擦が生じない場合が
ある。それを意図的に展開させる議論もある(三権分立など)。
また、マクロレベルで見ることができるようになったのは、マスコミのせいであって、
どんなに種に属する個体が増えたとしても、本能的刺激に関係しうる事柄は、その個体が
現に接触出来る範囲内の事柄である。地球レベルでの個体数の増加から、本能を論ずるのは、
明白な誤りである。
このため攻撃的になったり精神的に崩れてきたりするが理性で何とか保とうとする。
しかしブチ切れて相手を殺していいとなれば自分の嫌いなヤツを殺せるが自分も殺される。
それでは都合がよくないので普段は人を殺すのは良くないという事にしておいた方がいいだろう
という事ではないのかな。あくまで普段は、という事だけど。
←上の前提がおかしいので、このため〜以降は、導かれない。理性で何とかというのは、意味不明。
自分の嫌いな奴は当然に殺したいと思うことになっているが、これは間違いというか、気違い。
殺すこと自体、殺す側にとってもそれなりに気持ち悪いことであるということが無視されている。
都合が悪い主体として、殺す側の不都合しか観念されていない。
殺される時点で殺される側が不都合である点が完全に無視されている。
映画のセリフで人を殺すのはそいつと結婚するのに似てるってのがあって面白いなと思った。
相手のこれからの全てを背負うから。でも離婚みたいに死人が復活する事はないからアレだけど。
←死んだ相手から考えても結婚するのに似ているのだろうか。なんとも激しい勘違いっぷりである。
離婚みたいに・・・のくだりも、徹底して自分の側から結婚すると見る観点から書かれていて、
かなり理不尽なものを感じる。
はっきりいって、最悪である。
摩擦は人が人と接する時には常に生じていると思う。友達や家族とか
そういうのが弱くなっているのもあるし、人間関係とかもあれば人混み
が苦手だっていう人もいる。ヤンな兄ちゃんが何見てるんだよ!とかいう
のもあるし大小の差はあれ摩擦が生じないって事はないんじゃないかな
。
ある一定の線を越えるってのはまぁ満員電車でギュウギュウ詰めにな
ってこれ以上近づくなって線を越えたら行動に出るでしょ。日本人は
我慢して耐えるのがほとんど(理性)だけど欧米とかは電車で相手と近
づきすぎると避けたりなんか文句言う。本能的にテリトリーみたいな感覚
で動物だったら攻撃してるけどまぁ人間なんで理性で押さえて文句とか
自分から避けたりとかするんじゃないかな。
摩擦は相互の関係によって生じるんだけど摩擦によってストレスが貯ま
るでしょ。これは量に関係あるんじゃないかな。ストレスが貯まると胃潰瘍
になったり円形脱毛症になったり頭痛がしたり色々あるからね。
地球レベルでの増加によって人と人の間にある距離、空間とか日々接す
る個体の数は増えるでしょ。それによって摩擦が生じる機会も増えるし
ストレスも貯まりやすくなる。貴方がいう現に接する範囲内で増加する
って事じゃないのかな。
上の前提が貴方と解釈が違うので成り立つ訳なんだけど、ストレスの
貯めすぎは良くないってのは周知の事実で色々悪影響を及ぼすよね。
そこでプチっと切れると相手が嫌いだから殺すという事も有り得ると思う
し大勢の人は貴方みたいに相手を殺すのに嫌悪を感じるのは当然だと
思う。今迄人を殺すのは悪い事だという産まれてからの洗脳みたいな
ものとか悪い事ですよ、ってな感じの罪悪感もあるしね。でも殺してみ
たかったってだけで人を殺す事もあるし、多かれ少なかれ憎いと思った
相手は生きていればいるでしょ。殺したいとか思うくらいのも一人や二人
いてもおかしくないし。
で、殺す時には多大なストレスが掛かっているので感情的に暴走気味
だと思うので〔普通の人はね〕やった後で後悔するでしょ。後悔しない人
もいるかもしれないしね。
それに何故殺してはいけないのか?という立場に置かれたなら人は人
を殺す事にどれほど嫌悪感や罪悪感を伴うのか、というのも疑問だね。
殺していいんだよ、って教育されていたならムカついたから殺したぐらい
の感覚でしょ。貴方が蚊を殺すのみたいに(またそれは対象が・・・とか
言われそうだけど)。
えー、そこでですね、どうして殺してはいけないのかという事を考えるに
おいて殺してもいいんだという教育をされていたなら大して嫌悪感、罪悪
感等感じずにブッ殺すんじゃないかと(みんながみんなそうだという事で
はなくてそんな時に殺すやつは多かれ少なかれそういう素質みたいなの
があると思うけど)。
そうなった時にじゃあお前(自分ね)ムカつくよって事で殺されたらたまら
ないと。俺はテメーがムカつくんだよって殺してたら俺が誰かにサクっと
殺されちゃったじゃ意味ねーだろと。
だからお互い殺すのはいけないんだよ、貴方がいくら俺の逆鱗に触れて
も殺さないから俺が貴方の逆鱗に触れても殺さないでね、的な条約みたい
な感じで人を殺すのはよくないという結論に達した訳。
まぁ最後のは面白いなぁって思っただけだから貴方はそういうのが嫌い
ってだけでしょ?面白かった程度にしか考えてなかったから最悪と言わ
もああそうですかとしか言えないな。これはこんな表現面白いなぐらい
に受け取って貰いたかったんだけど貴方は真面目みたいなんで。
長いなぁ、誰も読まないと思うけどまぁそんな感じです。
長いんでsage
>>247 0 まず、人を殺す側からばかり分析するのをやめろ(やめるべき、ではない。やめろ。
少なくとも、殺人の弊害について論じたスレの最後に書き込むのはやめろ)。
1 摩擦が生じているという観点に集中させること自体が、世界観を偏らせるということに
対しての注意が無い。摩擦について語るなら、協調する側面についても語らなければいけない。
そうでないと「摩擦に着眼して理解する」傾向ばかりが強くなり、それが人の行動を意味付け、
そうした意味から行動が動機付けられることになる。
友達や家族とかそういうのが弱くなっているのもあるし
←「弱くなっている」とマスコミに動機付けられた人々によって、そうした図式が作られている面に
ついての洞察・考察が抜けている。
←こうした社会の傾向に基づく、身近な事実は、もともと実証的に把握できないし、
構成された言説によって、簡単に変更されてしまう側面があることに対しての注意がない。
(つまり、なんとなく気にいらない関係が、説明を与えられて攻撃的な関係に変わったりする
場合がある。戦争や、学生運動、政治家のプロパガンダなど)
2 テリトリーが本能でないことは、文化的・社会的意味付けによって距離の取り方が変わることから
明らか(刺激に基づいた反応ではなくて、直観に基づく反応だから)。
本能概念を濫用すると、ある種の行動をろくな根拠も無しに正当化することにつながる。
電車の中でよけることについて、本能と理性を対置させて論じているが、
本能的なのは、近くによって来ることに付随する刺激に対する反応の部分だけであって、
それに基づいた行動の大部分は、本能的なものではない。
3 >地球レベルでの増加によって人と人の間にある距離、空間とか日々接する個体の数は増えるでしょ
個体が接触する範囲では、ある個人的な範疇で、個人が相手をする人間の数が増えていると言えば
足るし、実際地球レベルでの変化の影響を、「個人」が受けるわけではない。
4 >今迄人を殺すのは悪い事だという産まれてからの洗脳みたいなものとか悪い事ですよ、
慣習と呼ぶところを、なんで(閉鎖的で、否定的な社会における「慣習」に使われることが多い)
洗脳と呼ぶのか? 理論的な意義も感じられないので、単なるプロパガンダと見分けがつかない。
表現の解釈を読み手側にさせることで、勘違いさせようとする狙いがある(これは必ずしも
殺人の肯定ということではなくて、闘争的な世界観を植え付けようとするというくらいの意味)
ように見えるんだが。少なくとも、そういう効果があるので止めたほうがいい。
6 >で、殺す時には多大なストレスが掛かっているので感情的に暴走気味だと思うので
>〔普通の人はね〕やった後で後悔するでしょ。後悔しない人もいるかもしれないしね。
普通の人は、大多数の人をイメージさせるが、そうした人をこの図式に持ち出す仮定が
通用するほど、殺人事件は起きていない。なんで殺人の図式に普通の人を引きずり込みたがる?
7 殺す素質→暴力をする能力の高さと、衝動的であること。衝動を暴力に反映させる習慣があるか
どうかなど、いろいろな要素によって成り立つ。「殺す素質」は、
明確に対象付けられるような概念ではない。
あと、殺人は関係的な概念であって、殺人すること自体をしたいと考えるのは、
本能的なものではない。殺人と言う図式の理解自体が、本能的ではない。
(自分・他人という理解は、本能的ではない。死ぬという知識も、本能的ではない)。
8 「面白い云々」・・・を最後のところに書き付けて、殺人自体が身近であるように見せかけたりする
こと自体が、悪質だと言っている。もちろん私はそれを嫌っているが、それは私が嫌ったから
悪いと言ってるのではなくて、悪質だと言えるから嫌うのである。
嫌っている、
>>245は真面目、というのは、観点のすり替え。
251 :
陳べんバー:01/10/24 00:51
252 :
考える名無しさん:
殺してみたらわかるんじゃないの?