>>719>>727 哲学という語感に対する認知の違いだな。
日本人が哲学と言うと、なんだかあやふやなものを連想しがち。
西洋で哲学Philosophyと言うと、強固なロジックや体系性が確保されたものを連想しがち。
哲学の発展史の違いでもある。
西洋では、三段論法に見られるようなロゴスの構造を解析し、それについて討論し、しかも
決着をつけるまで徹底的にやりあったところから哲学が始まった。はるか古代からシロかクロか
正義か悪かを決着をつけないと気がすまなかったわけだね。
図式としてはギリシャ→ローマ→欧州世界全体という伝播だ。
西洋人は言葉できっちり表現できないものを哲学とは認めたがらない。
哲学というからには内部にきちっとした論理があり、前提や公理AXIOMが存在する
ものを哲学と認める。
日本はご存知のとおり、アジア経路の哲学発展史をなぞっているので、
主流は禅問答や頓悟といった、直感重視の体系を哲学として受け入れてきた。
こういう風土があるので「言葉で表現するような
ものではない」むしろ哲学と言うのはペラペラしゃべるもんじゃない
という考え方がどこかにある。「不立文字」というのはその端的な表現だな。
無論、明治維新以降、さらには敗戦以降、日本は徹底的に欧米を指標として
真似てきているので、現代日本で哲学をアカデミックにやろうとすると、
論理学はどうやっても避けて通れない必修項目になる。
「ロジックがきちんとしていないものは哲学の名に値しない」という流儀に
合わせるようになったわけだ。象牙の塔のメインストリームとしては。