テコンドーがカラテの影響を受けたのは事実
- テコンドー初期の元老たちのほとんどがカラテ修練者
キム・ジュンソン記者 (2001/03/07)/
3月6日付の東亜日報の報道によれば、国政広報処が韓国関連の外国のサイトを調べた結果、韓国情報がある外国の
サイト654個を検索した結果、このうちの56.4%にあたる369個で515件の間違った情報を捜し出したという。 この中
で我々の関心を引くのはテコンドー関連部分だ。
国政広報処は米国モンタナ大学の格闘技サイト(www.bstkd.com)がテコンドーの起源が日本のカラテだと紹介している
と明らかにした。 報道によれば、国政広報処はさらにこのサイト運営者に間違った情報を是正するよう要求し、関連
資料を送るらしい。
しかし、国政広報処のこのような措置は適切ではないのだ。 なぜなら、テコンドーがカラテの影響を受けたのは明らかな
事実であるのみならず、はなはだしくはテコンドーがカラテから派生した武術だという主張をしたとしても、これを根本的
には否定できないからだ。
青涛館創立者の李元国(イ・ウォングク)翁など1940年代中後半にテコンドーを広めるのに先頭に立った多くの元老
たちが日本でカラテを修練した人々であることは既に広く知られた事実だ。 いまだにこの事実を知らない人はこのこと
についてこれ以上あれこれ言い立てるべきではない。 実際、李元国(イ・ウォングク)翁は日本の松涛館の系譜に今でも
その名前が登録されていると知られている。
松武館を建てた盧秉直(ノ・ビョンジク)翁も日本の松涛館カラテを修練したと知られているが、自身が建てた松武館の
「松」の字がまさに松涛館の「松」であると知られている。 李元国(イ・ウォングク)翁が建てた青涛館の「涛」も松涛館の
「涛」だ。 これは名前を明らかにしないよう頼んだテコンドー元老から直接聞いた話だ。 この元老はテコンドーはカラテ
の「イミテーション(imitation)」だと言った。
いまは故人になった青涛館出身のウ・ジョンニム将軍は記者との対話で、「私は空手道(コンスド)をしていて、のちに
崔泓煕(チェ・ホンヒ)将軍などが主軸になって名前を変えただけだ」とも言った。 米国テコンドー発展に大きな貢献を
したATAの故イ・ヘンウン会長も、自身がはじめて米国に行ったとき「コリアン カラテ」として自身の武術を紹介して教え、
実際テコンドーとカラテの差はなかったと証言した。 これらはすべて、テコンドーという武術がもともと存在せず、カラテ
を学んだ人々が解放後に道場を開いてカラテの韓国式発音である「空手道(コンスド)」を教え、後になって「テコンドー」
という名前を使うようになったことを物語っている。
このことはカン・ウォンシク テコンドー新聞社社長とイ・ギョンミョン 忠清大教授が共同執筆した「テコンドー現代史」でも
紹介されている。
ヤン・ジンバン龍仁大教授やキム・ヨンソン延世大講師、アン・ヨンギュ韓国体育大教授なども一様にテコンドーがカラテ
の影響を受けたという事実は認めるべきだという主張をしてきたし、彼らの立場はかなり妥当性を認められている。
カン・ウォンシク テコンドー新聞社社長も、自身が講義している大学院の授業でそのように教えていると話していた。
これらの主張の核心は、1945年以前に我が国に「テコンドー」という武術が存在したといういかなる証拠もなく、現実的
に初期のテコンドーの元老たちがすべてカラテ修練者だという点を見れば、現在、国技院、世界テコンドー連盟が採択
している「2000年の歴史のテコンドー」という公式的な立場は正しくないということだ。 それで、ヤン・ジンバン教授は
かつて、解放以前の「テコンドー史」は「伝統武芸史」に修正されるべきだと主張したことがある。
解放以後にテコンドーを修練した元老たちの話を聞いてみると、テコンドーの用語や技など全てのものがカラテと違わ
なかったという。 ある元老はそれがカラテだという事実も知らずに習ったが、後になってそれがカラテと全く同じだという
ことを知って驚いたとも言った。
もちろん、テコンドーは50余年の時間を経過しながらカラテを「克服」してきた。 固有の蹴り技を持続的に発展させて
きたし、競技化部門ではオリンピックに正式種目として採択されるなど注目に値する成果も収めた。 しかし、テコンドー
がカラテから出てきたということは明らかな事実だ。 これを否定しようとすることは「歴史を歪曲すること」だ。 既に
テコンドーは独自にアイデンティティを確保し、カラテに臆しなくなるほど世界的に広まった。 そして、テコンドーの宗主国
が韓国であることを否定する人は誰もいない。 これ以上「伝統コンプレックス」に陥る必要はないということだ。
最後に老婆心で追加すれば、テコンドーとカラテの関係問題を論ずるとき、数千年前の古代史を調べるのはやめよう
ということだ。 地政学的に見れば、中国から韓半島を経て日本に文化が伝わったのだから、日本の物の源流は結局
すべて我が国の物だとか、カラテの源流が誕生した沖縄のような小さな島で騎馬姿勢が出てくるはずがないから、これは
馬を乗り回していた大陸から伝わったことを証明するものだとかいう話のことだ。 これは全く別な論題になるからだ。
MOOTO
http://members.at.infoseek.co.jp/koreawatcher/docs/webzine2.htm
また書かざるを得ないテコンドーの歴史 (転載)
幼い頃、テコンドーはひとつの憧れの対象だった。絢爛な蹴り、世界的な我々固有の武術、日本人たちが習って行き
カラテを作った我々の武術・・・・・・・・・・これが幼い頃のテコンドーの印象だった。実際、テコンドーは我々の固有武術
として世界に広がり、他の何よりも韓国の存在を知らしめることができる道具になった。
今やテコンドーを知らない人はほとんどいないほどに世界的な我々の武術になった。今のスポーツ化されたテコンドー
が明らかに我々のものであることは間違いない。
テコンドーの歴史は、テコンドー側の主張どおりに高句麗の花郎とかいうものに言及できるほど古い伝統性のある
武術ではない。国内にある数多くのテコンドー書籍や数多くのテコンドー関連論文は、テコンドーの歴史を歪曲している。
誰か本屋に行ってテコンドー書籍の歴史の部分を見てみなさい。高句麗壁画や石窟庵の金剛力士像や海東竹枝、
朝鮮上古史などに触れていない本がほとんどない。東亜大百科事典を見ても例外ではない。「・・・・・・・このような我々
の伝統武術が日本の空手道(コンスド)とか唐手道(タンスド)の亜流だと思われているが、まことに残念なことである
・・・・」と言って、伝統武術であることを一層強調している。
しかし、大部分の本で引用している高句麗古墳壁画や過去の記録の中の我々の武術は、すでに私が「また書かざる
を得ない韓国武術の歴史」で明らかにしたように、韓国の全体的な武術歴史であっても、それがテコンドーなどのある
特定の武術の歴史として引き入れてはならない。
テコンドーの歴史の主張方法は一般的に三つに分類できる。一つ目はテコンドーが元々あったが、日帝時代を通じて
日本人が我々の伝統武術、すなわちテコンドーを唐手(タンス)、または空手(コンス)と呼ばせたという主張と、二つ目
は解放以前までの韓国武術の歴史をそれがまるでテコンドーの歴史であるかのように記述する場合と、三つ目に
カラテの流入事実を認めつつ、同時にそれが伝統武術テッキョンと結合したと主張するものである。
三つの主張はすべて、結局はテコンドーは我々固有の武術だというのが結論だ。はたしてそうだろうか?
残念ながら、テコンドーという武術は1945年以前にはこの地に存在もしなかった武術であり、テッキョンの長所を結合
させたりもしなかったし、テッキョンから派生したものでもない。テコンドーは解放後、日本から留学生たちが戻ると
ともに、彼らが留学時代に習った空手道(コンスド)すなわちカラテを普及したのが韓国テコンドーの母体だ。
黄g(ファン・ギ)、李元国(イ・ウォングク)、盧秉直(ノ・ビョンジク)らがその代表的な人物であり、韓国テコンドーの
父と呼ばれる「蒼軒 崔泓煕(チェ・ホンヒ)」氏もやはりそのような部類の一人だった。当時の名称は空手道(コンスド)、
唐手(タンス)、拳法などを使い、以後に手道(テスド)と呼ばれてから、1960年代に入って拳道(テコンドー)という名称
の下に統合されて、黄g館長は「手道」という名称を持って渡米し、今でも「手道」という名称で活動しているのだ。
(以下略
テコンドーの歴史をもう少し詳しく知りたい方に推薦図書:
キム・ヨンオク教授の「テコンドー哲学の構成原理」
ヤン・ジンバン教授の「解放以後の韓国テコンドーの発達過程とその意義」
(ソウル大学体育教育と修士学位論文、1988)
金槌日報(掲示板ベスト)
http://members.at.infoseek.co.jp/koreawatcher/docs/www_14.htm テコンドーの歴史
http://homepage1.nifty.com/OUTERHEAVEN/taek/history.htm
58 :
クーベルタン男爵さん:04/03/02 15:19
花粉症は韓国が発明しました。
59 :
クーベルタン男爵さん:04/03/05 19:00
名義貸しは韓国が発明しました
60 :
クーベルタン男爵さん:04/03/12 23:37
61 :
クーベルタン男爵さん:04/03/15 19:57
高橋尚子落選は韓国の発明です。
62 :
クーベルタン男爵さん:04/03/18 18:52