スレ立て代行して頂きました
ありがd!
□恕閑塚とその周辺(誉田町)
寛永11年( 1634 )3月
日蓮宗不受不施派の僧侶、蓮照院日浄は誉田町一丁目の公会堂のところに
本門山本覚寺を建立したが、翌年当地の代官三浦監物はこれを襲撃して焼きはらい、
日浄・日盛・日徳・信者長左衛門・市右衛門とその妻の6人を捕えて8月7日江戸送り、
同月下句より東金まで引廻し、9月5日誉田町野田の十文字ヶ原ではりつけの後
斬首してここに遺骸を葬むった。
恕閑塚(お塚山ともいう)というのは日浄が恕閑と号したからである。
・不受不施派とは
京都妙覚寺の日奥が唱えた宗派で、
法華経こそ唯一最高の正法であるから、これを信じない者からはたとえ天子、将軍と
いえども布施供養を受けず、また信者は他宗の者へ供養してはならないと主張して、
王法を超越する仏法の立場を固執した。
それ故、文禄4 年(1595 )豊巨秀吉が造立した京都の方広寺大仏殿で行なわれる
千僧供養会に出席を拒絶した。
秀吉の没後徳川家康は慶長4年( 1599 )大阪城に於て日奥と王法の庇護のもとに
日蓮宗を維持しようとする妙顕寺日照らと対論させた結果、日奥を捕えて対馬国へ流した。
そこで日奥に私淑する日経(長生郡長生村一つ松出身)は幕府の不法を憤り、
関東10ヶ寺の僧侶を土気町善勝寺に集めて不受不施派の再興を協議するとともに、
自ら北陸、東北、東海道を巡錫して多数の信者を得た。たまたま彼が奥州二本松にいた時、
池上本門寺の日浄と徹宵問答してついに屈伏させたことから、日浄は彼に師事した。
その後、日経は慶長13年( 1608 )江戸城において浄土宗の僧と対論したが、
幕府は独断的に不受不施派を邪宗として翌年彼を京都に送り、六条河原で鼻と耳を切り、
その弟子5人の鼻を切り落して追放した。
これを聞いた日浄は第三陣となって関東一円に布教を再開し、山武郡大網白里町南横川の
芳墳寺(開祖日経)の日耀・日盛らと呼応して盛んに論陣を張った。
寛永4年( 1627 )代官三浦監物が方境寺を破却して日耀らを捕えたので、日浄は同11年
前記の本覚寺を建立して布教活動の拠点としたのである。
1 刀洗池(血洗池ともいう)
恕閑塚の西南約600メートルのところに、日浄らの処刑に使った凶器を洗った池があったが、
現在は小さな凹地になっている。
□五日堂(誉田町)
恕閑塚に葬むられた日浄の首はその夜密かに掘り出されて、焼亡した本覚寺の境内に
埋められ、目印に杉苗が植えられた。その後高田の源右衛門は役人の目を憚かって
杉苗の近くの土中に五輪塔を埋め、明治に及んだ。
明治9年政府は不受不施派を独立の教団として公認したので、両総の信者は浄財を集め
同13年ささやかな精舎を建立して五日堂と名づけ、殉教者の霊を弔らった。
今でも誉田町周辺の信者は日浄を敬まって御五日様と呼び、毎年8月には密かに守護して
来た本覚寺の什物を展示して供養を続けている。
7 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/05/24 20:05
おかえり あげ!
★ペストの流行
ペストとは
Yersinia pestisという細菌によって起こされる、動物とヒトの感染症
西暦541年、1346年、1855年、それぞれ世界的大流行をおこした。
中世の時代には130年以上にわたって流行は続き、ヨーロッパの人口の3分の1にあたる
2000〜3000万人が亡くなる。
その当時は、もちろん病気の原因を知るよしもなく、激しい恐怖を巻き起こした。
「死を想え」という僧侶の説教が流行したり、ゾンビが生きている人を誘っている絵が流行ったり、
ペストを神罰と思う人たちが自分の体を鞭で打ちながら町から町へ遍歴したりしたという。
続き
・鞭打ち苦行者
村や町の広場に、十字架を背負い、自らを鞭打つ苦行者の群れが
頻繁に現われるようになった。
ときに、かれらは千人を越すこともあり、ふたりずつ並び、頭巾で顔をかくし、
背と腹に赤い十字の印を縫いつけた粗衣をまとい、視線を地面におとし黙々と歩く。
彼らは村の広場に来ると、上半身、裸となり、われとわが身を鞭打つ。
鞭は杖の先端に三本の皮紐がさがり、大きな結び目がいくつかこしらえてあるもので、
その結び目には、麦粒ほどの針のように鋭い鉄の釘が突き刺してある。
この鞭をふるって、自分自身の裸体を打つので、肌は青黒くふくれあがり、
血が地面にしたたり、あるいは見守る村人たちの顔に飛び散ることもあった。
続き
・ユダヤ人の虐殺
ペストの原因は、ユダヤ人が泉や井戸に毒を流し込んだのだ、というデマが流れ、
ユダヤ人を街から追放したり、自白させるための拷問や虐殺が行われた。
この「毒物撒布説」はスイス、フランスにとどまらず、ライン河に沿ってオーストリア、
ポーランドまで、野火のように拡がっていった。
そして、長いユダヤ人殉教史上、かつてない大虐殺が相次いで起こり、
六十の大ユダヤ人集団、百五十の小集団が絶滅されたのである。
先の十字軍遠征の時も途中でかなりの数のユダヤ人が殺されたそうです。
ユダヤ人はキリスト教徒に比べてペストにかかる率が低かったそうで、
ある説には「身体を清潔に保ち、生活上も清潔にする」という習慣が、キリスト教よりも
浸透していたからとあるそうですよ。
>>8 病原菌の恐怖は ペストの時代から 現代のSARSまで続くわけですね。
天然痘とか AIDSとか エボラとか、
人類はいろいろな病気を経験してきたわけですが
いくら医学が発達したとはいえ、
まだまだ、とんでもない病原菌が出てくる可能性は ないとはいえませんね・・・
SARSはアメリカが中国潰しの為に作った細菌兵器だと思う スレ違いスマソ
13 :
コピペなんですが:03/05/27 09:39
★血の中傷 blood libel
中世から近世にかけて、頻繁に行われたユダヤ教徒に対する中傷、デマ。
ユダヤ教徒が、過ぎ越しの祭りという儀式を行う際、キリスト教徒やイスラム教徒の
子供を殺し、その血を使った、生贄にした、マツォ(平べったいモチのようなもの)を
作った・・・などと言う充分な証拠もないデマが流れた。
キリスト教徒の子供が遺体でみつかったり、行方不明になった時は、
ユダヤ教徒が拷問されたり、手足を切断されたり、火あぶりにされたりもしたという。
この根も葉もない主張の裏には、ユダヤ人を社会からすべて隔離し、絶交しようとする
動きが見られる。
その根底にあるものは、「神(キリスト)」を殺した者達への、キリスト教徒の蔑視・差別である
ところの反ユダヤ主義なのであろう。
「聖体冒涜」や、「儀式殺人」とも言われますね。
14 :
コピペなんですが血の中傷つづき:03/05/27 09:40
1144年
イギリスのノリッジ
復活祭の前夜にウィリアムという12歳の男の子が遺体で見つかる。
ユダヤ教徒に殺害されたとデマが流れる。
復活祭の後、教会会議が召集されユダヤ教徒が出頭を命ぜられたが、
一方的な裁判になることを恐れ、拒否する。
後にウィリアムは聖人と指定されたという。
この事件は直接的な暴力、迫害事件にはならなかったが、「血の中傷」の起源になった。
後、専門家の調べでは、ウィリアムは性的倒錯者により殺害されたか、カタレプシーの発作
で亡くなった可能性が高いそうです。
15 :
コピペなんですが血の中傷つづき:03/05/27 09:41
1171年
フランスのブロア
あるキリスト教徒がロアール河畔で子供を処分するユダヤ人を目撃した、という報告がある。
結局遺体は発見されなかったが、ノリッジの事件が伝わっていたこともあり、ユダヤ人に
よる子供殺害事件と断定された。
結果40名のユダヤ人が投獄、内31名が火刑、残りは1000ポンドと引き換えに釈放された。
1235年
ドイツのフルダ
あるキリスト教徒の家が焼け、焼け跡から5人の子供の死体が発見された。
ユダヤ人が儀式のために殺したといううわさが広まり、拷問によって自白を強要された。
フルダのユダヤ人は、ちょうど同市に到着した十字軍によって殺害された。
16 :
コピペなんですが血の中傷おわり:03/05/27 09:41
1255年
イギリス
あるユダヤ人の結婚式の翌日に、3週間前から行方不明になっていたヒューという名の少年が、
ユダヤ人街の汚水槽から死体となって発見された。
容疑者であるユダヤ人が、拷問された末に、儀式のために殺したと自白した。
この事件に関係したとされる994名のユダヤ人は、ロンドンに連行された上で投獄された。
少年ヒューは聖人に認定されている。
この "Blood Libel " という言葉は、ユダヤ人に対してだけでなく、色々なところで使われています。
魔女、ジプシー、キリスト教徒、イスラム教徒、はてまた、胎児スープに絡んでアジア人。
>★血の中傷 blood libel
ユダヤ人に対する迫害の歴史はほんと洒落になってないですね
まぁ西洋での感覚は違うのかもしれないけど。
旅行中知り合ったユダヤの青年が、パンに塩を振って「食べてみろ」と差し出す
訳もわからず食べて、「まずい」とそのままの感想を言うと
「我々はずっとそのような歴史を強いられてきたのです」と言う。
そんなようなことを北杜夫氏がどこかに書いてた。
18 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/05/27 20:49
てst
test
てst
てーst
『狐、産婦の幽霊に妖(ば)けたる事』―平仮名本・因果物語より―
寛永二年のころ、京に上って、逗留した時に二村庄二郎が語った事にはこの頃気の毒な事があったという。
立花町と云う所に、白かね屋与七郎と云う者の女房が難産して亡くなってしまった。
その夜より、かの女房の亡魂、産新婦(うぶめ)となって、裏のかたなる窓のもとへ来て
赤子を泣かせていた。その凄まじさはかぎりなかった。あたり、近所の者達、若い女の子達は
恐ろしがって、日が暮れると戸を固く閉めて、顔も出さなくなった。与七郎、口おしく思い
村の長老にたのんで、仏事を行い、山伏を呼んではいろいろ祈祷を行なったが少しも効果が無かった。
毎夜来て泣いている時に、与七郎は隣に回って、垣根の隙間より伺い見ると、本物の産新婦ではなく
大きな古狐であった。憎く思って、半弓を持って射ると、狙いを外して狐の後足に当たった。
四、五日ほどしてから、かの狐、与七郎にとりついて口ばしり
「いかに我が遊ぶ所を、弓で射るとは腹立たしい事よ。それが良い事かこれが良い事か」
と言いながらさまざまに狂った。後に与七郎は死んだと申された。
29 :
コピペですが:03/05/30 06:36
★十字架
「はりつけ」という刑罰は、ペルシャ人によって紀元前300から400年に開発された。
「はりつけ」の刑(Crucifixion)は英語の「Excruciating」(激痛、極度の苦しみ)
と言 う言葉の語源になる。この刑は当時のもっとも残忍な犯罪人や、
ローマ帝国に反抗す る勢力への見せしめに使われた。
受刑者は
・手首の橈骨(とうこつ)と尺骨(しゃっこつ)と手のひら付け根の手根骨(しゅこんこつ)との間
・足の甲側から、足の第二と第三指の骨の間
この2箇所に、25センチから30センチほどの長さの釘で、十字架にうちつけられる。
足は膝を45度に曲げた状態。
十字架にかけ られた後数分で、肩が関節から外れ、更にその後数分で、
今度は肘(ひじ)と手首の関節 が外れてしまう。
この両腕の関節が外れることで今度は、大部分の体重が胸部にかかり肋骨がひきつる。
それは常に息を吸った状態(息を大きく吸って止めた 状態)で、
息を吐くためには、足を踏ん張り、体を押し上げなければならない。
処刑の時間が経つに連れ、受刑者が体をもち上げられる時間が徐々に減り、
これによって 両腕の関節への負担が更にひどくなり、いっそう胸が引きつり、
呼吸がより困難になる。
そして、肺機能の停止、心停止、脱水症状、酸素供給不能などにより、
受刑者は死に至るのである。
ttp://www.jaspella.com/ministry/articles/j-agony.html こちらでは図解もあり、とても詳しく説明されてます。
30 :
コピペですが:03/05/30 06:36
好爺さんおかえりんりん。やっとみつけてくれましたね。またよろしく。
34 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/07 08:44
age
35 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/07 08:47
釜鳴りととんねるず。
36 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/07 10:36
>31
読むのがつらい
HPからの無断転載です。失礼。
与那国島
日本で一番西にある島です。
石垣島から週2便のフェリーで4時間(飛行機は毎日飛んでいます)。
その距離は111kmですが、さらに117km西へ行くとそこはもう異国の地・台湾です。
島の最西端の西崎(イリザキ)に立てば年に数度は台湾の山も見えます。
日本のラジオはNHKしか入らないのに台湾の放送はいくつも入るという国境の島です。
絶海の孤島といえる断崖絶壁の絶景オンパレードの島で、まわりの海の色の
濃さが違います。潮の流れが速いので生身で泳げる場所はほとんどありませんが、
ダイビングが盛んで海底遺跡や冬のハンマーヘッドシャークをはじめ、
大物狙いのダイバーが集まっています。海に入りたくない人も、朝、久部良の漁協に行って
ゴロゴロと転がるカジキマグロを見れば与那国の海の豊かさを実感できるでしょう。
島は周囲60kmくらいで起伏もあるので、一周するのなら車かバイクでの観光を
お勧めします。時間がありあまっている人やストイックな気分を味わいたい人は
自転車を借りてももいいでしょう。水分は、必ず集落で仕入れてから出発しましょう。
海を背景に在来種のヨナグニウマが草を食むのどかな風景を快走し、東崎(アガリザキ)や
西崎(イリザキ)の岬の風景や、神立岩やサンニヌ台の自然の造形美を堪能しました。
あまりに気持ちが良くて、思わず2周してしまいました。
島の西部にある「クブラバリ」は景観の美しい断崖絶壁ですが、人頭税にまつわる
悲惨な歴史にゆかりのある場所です。
クブラバリは「久部良の割」で、崖に幅3mほどの長い溝が走っています。常識を超える
重税に苦しんだ与那国の人は、妊婦をここに連れてきてこの割れ目を飛ばせました。
多くの妊婦は海に落ちて命を落とし、助かっても衝撃で流産は免れませんでした。
また、島の中央には「人舛田(トゥングタ)」というところがあります。
すべての島人を突然招集し、時間内にこの田に入れなかったらその場で惨殺・・・。
1609年の島津の琉球侵攻以来、薩摩へ納める税の確保に苦しんだ琉球王府は、
宮古・八重山地方を中心に人頭税制度を設けました。
それまで税率は8割(それでも五公五民より多い!)だったのが、
人の頭数に対して非情な率の税がかかるようになったわけです。
川がないので田んぼができないサンゴの島でも、米納のために他の島へ出稼ぎに行きました。
台風や干ばつでも、病人がいても、人間の頭数にかかった税は納めなければなりません。
この悪政は、明治維新後1903年に琉球が日本に併合されるまで続きました。
クブラバリや人舛田が歴史なのか伝説なのかはわかりませんが、
口減らしをするしか島の人が生きる道はなかったということが、
人頭税の過酷さがを物語っている気がします。
写真
ttp://homepage2.nifty.com/mindtravel/images/kuburabari1.jpg
39 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/09 03:34
40 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/11 01:34
41 :
細道 ◆jq.mNmMeyA :03/06/12 01:44
なんか妙に陰惨なスレになってしまったなあ。
今から四百年前ほど前のこと (弘治元年・1555年)。
岩崎城主(現在の湯沢市)にお姫様が生まれ、能恵姫(ノエヒメ)と名づけられた。
生まれて少し経った頃から姫はなぜか昼夜を問わず泣き続けるようになり、
いろいろ手を尽くしたがさっぱり効果がなかった。
そこで霊符森の白藤明神に泣き止めの祈願をすると、数日後乳母が庭で卵形の石を拾い
それが姫のむずかりをおさめたので守り石とされた。
ある日のこと、女中が庭で姫に用を足させていると小蛇が現れたので、たわむれに
「その汚物を片づけてくれるならば姫をおまえの嫁にやろう」と言った。
すると姫の用便の度ごとにその蛇が現れてそれを食い去るようになった。
姫が十六歳(十五歳とも言われている)になり、
川連城(現在の稲川町)の小野寺の若殿のところへ嫁入りすることになった。
その輿入れの途中皆瀬川のサカリ淵というところにさしかかった時、
一天にわかにかき曇り姫は何者かによってさらわれてしまった。
両家では手を尽くして捜したが、その行方は知れなかった。
その後のある日、木の枝を切っていた家臣が誤って まさかり(あるいは鉈)を
サカリ淵に落としてしまい、それを追って水中を潜っていくうちに水のない世界にたどり着いた。
そこには姫が居り傍らには大蛇(龍神)が眠っていた。
姫は自分の形見にと櫛と笄を託し、
連れ帰ろうとした家臣が川辺で気がつくと、その手には姫の片袖だけが残されていた。
姫の菩提を弔うために川連の龍泉寺が建立され、また岩崎の水神社にも姫の霊が祀られた。
これが湯沢市の岩崎地区を中心に
皆瀬川、成瀬川両水系に広く語り伝えられている「能恵姫物語」である。
山 じ い
昔谷道の山には入らず山という所があった。
ある時にけんど屋がやって来た。けんど屋はおろしのがわた(側面)を山に来てこしらえ、
それに馬のへんぼ(尾)でこしらえた網を張ったり、目の細かな金網を張って、おろしにして
売るのが商売であった。
谷道の山でも、奥へ入らぬとよい材料が無いので、祖谷の衆が魔道が居るといって、
入らぬいらず山に入って行った。材料になるよい木がたくさんあるので、小屋をこしらえて
そこに寝泊まりすることにした。
昼は木を伐り倒して、側(がわ)たにする材料を取り、夜は小屋の中のいろりの端で、
火にあたりながら側たを削ったり、それを曲げて樺(かんば)の皮で縫うてとめたりしていた。
ある夜のこと、汚らしい髭のはえた爺さんがやって来て、
「今夜は寒いきに火にあたらしてくれんか。」と言った。
「さあさおあたり。」とけんど屋が言うと中へ入って来た。
けんど屋は火のそばにつくなんでいる爺を見て、ひょっとするとこれは山じいかも知らぬ。
山じいだったら、今夜わしは取って食われるかも知れんと思いながら、
けんどの側たを輪げよった。
すると爺は「お前は今夜わしに食われるかも知れんと思いよろうが」と言った。
けんど屋はこれは変化か魔道に違いない。こんな奴、鉄砲持っとったら
撃ちまくってやるのにと思っていた。
すると爺は「お前は鉄砲持っとったら撃ちまくってやろうと思っているだろう。」と言う。
こっちの思うことはみんな爺に知られてしまう。もう、今夜食われても仕様がないと思って、
これからはもう何も思わずに仕事をしようと、一生懸命で仕事をつづけていた。
やがて山じいは、金玉をだしてあぶりはじめた。ぬくもるにつれて段々ひろがって来た。
これが人間を包むぐらいにひろがって来たら、それで人間を包んでしまうと聞いていたので、
けんど屋は恐ろしいながらも見ぬふりをして、一心不乱にうす板を丸く輪げて、けんどのふちを
作っていた。
ところがひょっと手がすべって、けんどのふちがピンとはねてしまった。
その拍子に、山じいのひろがった金玉の中へ、いろりのつぼの真赤な、
燠(おき)がみんななでこんでしまった。
山じいはおぶけてしまって、「こりゃたまらん、痛いわあ。」とにがりもって、
金玉の中へ燠を包みこんだまま、小屋の外へ飛び出してしまった。
そして「人界の者に余計な手出しをしとったら、えらい目にあった。」と入らずの山に
ひびきわたるような大声をして、山の向こうへ行ってしまったそうな。
人の行かれんくへは行かぬもの。けんど屋も危うく食われるところじゃった。
おもしろかたーよ
お仲間ねただからオケだと思う。でも昔話スレも復活してほすぃもんだ
玉袋で包まれるのかw
怖いな、包んでどうすんだ、ハァハァするのか
48 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/16 22:30
誰か昔話スレ立ててくれ
でもあのスレのpart1、どうしてしまったんだ?
未だにHTML化されとらんぞ
49 :
ビル・ゲイツになり損ねた男:03/06/16 22:36
ハウザー氏が研究者、アンディ・ホッパー氏らと1978年に創業したエイコーンが、一躍スター
企業に躍り出たのは81年。
パソコン教育番組を企画していたBBCが専用機として同社製品を採用したのだ。
エイコーンのBBCマイクロは、高度なグラフィックス、通信機能を備え、当時のアップル機の
2倍の処理性能を備え、イギリスで150万台を販売する伝説的商品になった。
50 :
ビル・ゲイツになり損ねた男:03/06/16 22:38
当時、そんなハウザー氏をアメリカから一人の青年が訪ねたきた。
「我が社の基本ソフト『MS-DOS』をパソコンに使用しませんか?」
51 :
ビル・ゲイツになり損ねた男:03/06/16 22:41
それはまだ20代だった、ビル・ゲイツ氏だった。
ハウザー氏は、
「後戻りするような技術を使う気はない」
と辞退。
エイコーン機では自分のコードを入力すれば、ネットワークを通して、他のコンピュータの
ファイルからソフトを引き出す、といった高度な機能を持つことを説明した。
52 :
ビル・ゲイツになり損ねた男:03/06/16 22:42
ゲイツ氏は一瞬の沈黙の後、こう問い返した。
「ネットワークって何ですか?」
53 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/16 22:54
ビル・ゲイツ嫌いには格好のおいしいネタだな
>53
そういうつっこみをするとマカ対ドザの終わりなき逸話が...(w
55 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/17 21:17
ドザ?
56 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/17 21:23
えもん
57 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/17 21:51
ウィンどウズユーざー?
58 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/17 22:00
bulldozer?
ヤパーリ反応してる(w
さ、ここら辺で本題に戻りましょう ササ 次の方どうぞ!(w
60ゲトドザー。
61 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/21 19:20
62 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/25 15:11
age
63 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/25 21:24
報告さんくすこ。あぁ好爺タソはいずこへ・・・
65 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/25 23:20
前スレでの危惧が現実のものに・・・・
雨石 (あまいし)さま
雷公神社の祖、大野了徳院重一を祀る神社のご神体である石。
「旱魃で雨が降らない年は必ず雨を降らせるので、私を川のほとりに埋めてほしい」
と遺言して亡くなった。家族はその通り川のほとりに埋葬し、
塚石を安置し記念の松を植えたという。
祈願すると必ず雨が降ったので雨石と呼ばれるようになった。
30cm程度の少し角張った石で、背丈45cmほど。石質は解らないが御影石の感じで
容量に比して非常に重い。北海道の産では無いと考えられている。
昭和60年、旱魃のため鮭が知内川を遡上できずにいたため、当時の漁協組合長が
雨石の故事に習い、雷公神社の神主と祈願したところ、翌日に雨が降り出し川は増水、
無事に鮭は遡上することが出来たという。
<ところ>
知内町元町・雷公神社内
<付記>
昭和60年の祈願の時、雨が降りすぎてしまい、肝心の鮭の施設が流されてしまった
そうです。久しぶりの出番に、雨石様はりきりすぎ?
2003年5月4日
雷公神社の第25代の神主さんに、お話をうかがいました。
この雨石様は普段は雷公神社の奥深くに眠っているそうです。
お祭りの時でさえお披露目などもせず、扉を開くのみだそうで・・・。
なぜなら、ちょっとでも外に出そうものなら、必ず翌日には大雨が降るからだそうです。
霊験あらたかな石だということで、これまでも地元のテレビ局などが何度も取材に来ています。
撮影のために雨石様が出されると、とたんに翌日から知内は土砂降りになってしまうそうです。
これまで雨石様を出して雨が降らなかったことは、私が知る限り一度もないとおっしゃっていました。
真冬にテレビ局が取材に来たときには、翌日から猛吹雪で、テレビクルーも
札幌まで帰るのに死ぬ思いだったそうです・・・。
68 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/07/02 10:20
age