【左】続々・伝説または逸話【右】

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1 
前スレ>>1さんのテンプレより
東洋・西洋・古今東西・森羅万象問わず伝説・逸話を
語り合いましょう。

初代スレ
http://hobby2.2ch.net/test/read.cgi/occult/1032338511
前スレ
http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/occult/1047174839
http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi?bbs=occult&key=../dat9/1047174839&ls=1000

お仲間スレ(過去ログ)
【懐かしい】昔話はオカルト満載・第3話【語れ】
http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/occult/1046453001
http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi?bbs=occult&key=../dat9/1046453001&ls=1000
スレ立て代行して頂きました
ありがd!
3コピペ 4−1:03/05/24 15:03
□恕閑塚とその周辺(誉田町)

寛永11年( 1634 )3月
日蓮宗不受不施派の僧侶、蓮照院日浄は誉田町一丁目の公会堂のところに
本門山本覚寺を建立したが、翌年当地の代官三浦監物はこれを襲撃して焼きはらい、
日浄・日盛・日徳・信者長左衛門・市右衛門とその妻の6人を捕えて8月7日江戸送り、
同月下句より東金まで引廻し、9月5日誉田町野田の十文字ヶ原ではりつけの後
斬首してここに遺骸を葬むった。
恕閑塚(お塚山ともいう)というのは日浄が恕閑と号したからである。
4コピペ 4−2:03/05/24 15:04
・不受不施派とは

京都妙覚寺の日奥が唱えた宗派で、
法華経こそ唯一最高の正法であるから、これを信じない者からはたとえ天子、将軍と
いえども布施供養を受けず、また信者は他宗の者へ供養してはならないと主張して、
王法を超越する仏法の立場を固執した。
それ故、文禄4 年(1595 )豊巨秀吉が造立した京都の方広寺大仏殿で行なわれる
千僧供養会に出席を拒絶した。
秀吉の没後徳川家康は慶長4年( 1599 )大阪城に於て日奥と王法の庇護のもとに
日蓮宗を維持しようとする妙顕寺日照らと対論させた結果、日奥を捕えて対馬国へ流した。

そこで日奥に私淑する日経(長生郡長生村一つ松出身)は幕府の不法を憤り、
関東10ヶ寺の僧侶を土気町善勝寺に集めて不受不施派の再興を協議するとともに、
自ら北陸、東北、東海道を巡錫して多数の信者を得た。たまたま彼が奥州二本松にいた時、
池上本門寺の日浄と徹宵問答してついに屈伏させたことから、日浄は彼に師事した。
5コピペ 4−3:03/05/24 15:04
その後、日経は慶長13年( 1608 )江戸城において浄土宗の僧と対論したが、
幕府は独断的に不受不施派を邪宗として翌年彼を京都に送り、六条河原で鼻と耳を切り、
その弟子5人の鼻を切り落して追放した。
これを聞いた日浄は第三陣となって関東一円に布教を再開し、山武郡大網白里町南横川の
芳墳寺(開祖日経)の日耀・日盛らと呼応して盛んに論陣を張った。

寛永4年( 1627 )代官三浦監物が方境寺を破却して日耀らを捕えたので、日浄は同11年
前記の本覚寺を建立して布教活動の拠点としたのである。
6コピペ 4−4:03/05/24 15:05
1 刀洗池(血洗池ともいう)
恕閑塚の西南約600メートルのところに、日浄らの処刑に使った凶器を洗った池があったが、
現在は小さな凹地になっている。


□五日堂(誉田町)

恕閑塚に葬むられた日浄の首はその夜密かに掘り出されて、焼亡した本覚寺の境内に
埋められ、目印に杉苗が植えられた。その後高田の源右衛門は役人の目を憚かって
杉苗の近くの土中に五輪塔を埋め、明治に及んだ。

明治9年政府は不受不施派を独立の教団として公認したので、両総の信者は浄財を集め
同13年ささやかな精舎を建立して五日堂と名づけ、殉教者の霊を弔らった。

今でも誉田町周辺の信者は日浄を敬まって御五日様と呼び、毎年8月には密かに守護して
来た本覚寺の什物を展示して供養を続けている。
7あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/05/24 20:05
おかえり あげ!
8コピペなんですが:03/05/24 20:25

★ペストの流行
ペストとは
Yersinia pestisという細菌によって起こされる、動物とヒトの感染症
西暦541年、1346年、1855年、それぞれ世界的大流行をおこした。
中世の時代には130年以上にわたって流行は続き、ヨーロッパの人口の3分の1にあたる
2000〜3000万人が亡くなる。
その当時は、もちろん病気の原因を知るよしもなく、激しい恐怖を巻き起こした。

「死を想え」という僧侶の説教が流行したり、ゾンビが生きている人を誘っている絵が流行ったり、
ペストを神罰と思う人たちが自分の体を鞭で打ちながら町から町へ遍歴したりしたという。
9コピペなんですが:03/05/24 20:25
続き
・鞭打ち苦行者
村や町の広場に、十字架を背負い、自らを鞭打つ苦行者の群れが
頻繁に現われるようになった。
ときに、かれらは千人を越すこともあり、ふたりずつ並び、頭巾で顔をかくし、
背と腹に赤い十字の印を縫いつけた粗衣をまとい、視線を地面におとし黙々と歩く。
彼らは村の広場に来ると、上半身、裸となり、われとわが身を鞭打つ。
鞭は杖の先端に三本の皮紐がさがり、大きな結び目がいくつかこしらえてあるもので、
その結び目には、麦粒ほどの針のように鋭い鉄の釘が突き刺してある。
この鞭をふるって、自分自身の裸体を打つので、肌は青黒くふくれあがり、
血が地面にしたたり、あるいは見守る村人たちの顔に飛び散ることもあった。
10コピペなんですが:03/05/24 20:26
続き
・ユダヤ人の虐殺
ペストの原因は、ユダヤ人が泉や井戸に毒を流し込んだのだ、というデマが流れ、
ユダヤ人を街から追放したり、自白させるための拷問や虐殺が行われた。
この「毒物撒布説」はスイス、フランスにとどまらず、ライン河に沿ってオーストリア、
ポーランドまで、野火のように拡がっていった。
そして、長いユダヤ人殉教史上、かつてない大虐殺が相次いで起こり、
六十の大ユダヤ人集団、百五十の小集団が絶滅されたのである。

先の十字軍遠征の時も途中でかなりの数のユダヤ人が殺されたそうです。

ユダヤ人はキリスト教徒に比べてペストにかかる率が低かったそうで、
ある説には「身体を清潔に保ち、生活上も清潔にする」という習慣が、キリスト教よりも
浸透していたからとあるそうですよ。
>>8
病原菌の恐怖は ペストの時代から 現代のSARSまで続くわけですね。

天然痘とか AIDSとか エボラとか、
人類はいろいろな病気を経験してきたわけですが
いくら医学が発達したとはいえ、
まだまだ、とんでもない病原菌が出てくる可能性は ないとはいえませんね・・・
SARSはアメリカが中国潰しの為に作った細菌兵器だと思う スレ違いスマソ
13コピペなんですが:03/05/27 09:39
★血の中傷 blood libel
中世から近世にかけて、頻繁に行われたユダヤ教徒に対する中傷、デマ。
ユダヤ教徒が、過ぎ越しの祭りという儀式を行う際、キリスト教徒やイスラム教徒の
子供を殺し、その血を使った、生贄にした、マツォ(平べったいモチのようなもの)を
作った・・・などと言う充分な証拠もないデマが流れた。
キリスト教徒の子供が遺体でみつかったり、行方不明になった時は、
ユダヤ教徒が拷問されたり、手足を切断されたり、火あぶりにされたりもしたという。

この根も葉もない主張の裏には、ユダヤ人を社会からすべて隔離し、絶交しようとする
動きが見られる。
その根底にあるものは、「神(キリスト)」を殺した者達への、キリスト教徒の蔑視・差別である
ところの反ユダヤ主義なのであろう。

「聖体冒涜」や、「儀式殺人」とも言われますね。
14コピペなんですが血の中傷つづき:03/05/27 09:40
1144年
イギリスのノリッジ
復活祭の前夜にウィリアムという12歳の男の子が遺体で見つかる。
ユダヤ教徒に殺害されたとデマが流れる。
復活祭の後、教会会議が召集されユダヤ教徒が出頭を命ぜられたが、
一方的な裁判になることを恐れ、拒否する。
後にウィリアムは聖人と指定されたという。
この事件は直接的な暴力、迫害事件にはならなかったが、「血の中傷」の起源になった。

後、専門家の調べでは、ウィリアムは性的倒錯者により殺害されたか、カタレプシーの発作
で亡くなった可能性が高いそうです。
15コピペなんですが血の中傷つづき:03/05/27 09:41
1171年
フランスのブロア
あるキリスト教徒がロアール河畔で子供を処分するユダヤ人を目撃した、という報告がある。
結局遺体は発見されなかったが、ノリッジの事件が伝わっていたこともあり、ユダヤ人に
よる子供殺害事件と断定された。
結果40名のユダヤ人が投獄、内31名が火刑、残りは1000ポンドと引き換えに釈放された。

1235年
ドイツのフルダ
あるキリスト教徒の家が焼け、焼け跡から5人の子供の死体が発見された。
ユダヤ人が儀式のために殺したといううわさが広まり、拷問によって自白を強要された。
フルダのユダヤ人は、ちょうど同市に到着した十字軍によって殺害された。
16コピペなんですが血の中傷おわり:03/05/27 09:41
1255年
イギリス
あるユダヤ人の結婚式の翌日に、3週間前から行方不明になっていたヒューという名の少年が、
ユダヤ人街の汚水槽から死体となって発見された。
容疑者であるユダヤ人が、拷問された末に、儀式のために殺したと自白した。
この事件に関係したとされる994名のユダヤ人は、ロンドンに連行された上で投獄された。
少年ヒューは聖人に認定されている。

この "Blood Libel " という言葉は、ユダヤ人に対してだけでなく、色々なところで使われています。
魔女、ジプシー、キリスト教徒、イスラム教徒、はてまた、胎児スープに絡んでアジア人。
>★血の中傷 blood libel
ユダヤ人に対する迫害の歴史はほんと洒落になってないですね
まぁ西洋での感覚は違うのかもしれないけど。

旅行中知り合ったユダヤの青年が、パンに塩を振って「食べてみろ」と差し出す
訳もわからず食べて、「まずい」とそのままの感想を言うと
「我々はずっとそのような歴史を強いられてきたのです」と言う。
そんなようなことを北杜夫氏がどこかに書いてた。
18あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/05/27 20:49
【伝説】幻・空想上の生物【神話】
http://science.2ch.net/test/read.cgi/wild/1052490931/
19てst ◆17hfrMhcQw :03/05/29 16:39
てst
20てst ◆ZoIdG1g.tw :03/05/29 16:40
test
21てst ◆yj4VuLOIP. :03/05/29 16:53
てst
22てst ◆ZOIDZXZ6Ew :03/05/29 16:54
てーst
23好爺:03/05/30 00:17
『狐、産婦の幽霊に妖(ば)けたる事』―平仮名本・因果物語より―

寛永二年のころ、京に上って、逗留した時に二村庄二郎が語った事にはこの頃気の毒な事があったという。
立花町と云う所に、白かね屋与七郎と云う者の女房が難産して亡くなってしまった。
その夜より、かの女房の亡魂、産新婦(うぶめ)となって、裏のかたなる窓のもとへ来て
赤子を泣かせていた。その凄まじさはかぎりなかった。あたり、近所の者達、若い女の子達は
恐ろしがって、日が暮れると戸を固く閉めて、顔も出さなくなった。与七郎、口おしく思い
村の長老にたのんで、仏事を行い、山伏を呼んではいろいろ祈祷を行なったが少しも効果が無かった。
毎夜来て泣いている時に、与七郎は隣に回って、垣根の隙間より伺い見ると、本物の産新婦ではなく
大きな古狐であった。憎く思って、半弓を持って射ると、狙いを外して狐の後足に当たった。
四、五日ほどしてから、かの狐、与七郎にとりついて口ばしり
「いかに我が遊ぶ所を、弓で射るとは腹立たしい事よ。それが良い事かこれが良い事か」
と言いながらさまざまに狂った。後に与七郎は死んだと申された。
24 ◆HEux96NTJk :03/05/30 03:08
 
25 ◆eN4/sE4DwA :03/05/30 03:09
 
26 ◆TY0nA9b68A :03/05/30 03:09
  
27 ◆TY0nA9b68A :03/05/30 03:09
   
28 ◆OHfFdUMtlA :03/05/30 03:11
29コピペですが:03/05/30 06:36
★十字架
「はりつけ」という刑罰は、ペルシャ人によって紀元前300から400年に開発された。
「はりつけ」の刑(Crucifixion)は英語の「Excruciating」(激痛、極度の苦しみ)
と言 う言葉の語源になる。この刑は当時のもっとも残忍な犯罪人や、
ローマ帝国に反抗す る勢力への見せしめに使われた。

受刑者は
・手首の橈骨(とうこつ)と尺骨(しゃっこつ)と手のひら付け根の手根骨(しゅこんこつ)との間
・足の甲側から、足の第二と第三指の骨の間
この2箇所に、25センチから30センチほどの長さの釘で、十字架にうちつけられる。
足は膝を45度に曲げた状態。

十字架にかけ られた後数分で、肩が関節から外れ、更にその後数分で、
今度は肘(ひじ)と手首の関節 が外れてしまう。
この両腕の関節が外れることで今度は、大部分の体重が胸部にかかり肋骨がひきつる。
それは常に息を吸った状態(息を大きく吸って止めた 状態)で、
息を吐くためには、足を踏ん張り、体を押し上げなければならない。
処刑の時間が経つに連れ、受刑者が体をもち上げられる時間が徐々に減り、
これによって 両腕の関節への負担が更にひどくなり、いっそう胸が引きつり、
呼吸がより困難になる。
そして、肺機能の停止、心停止、脱水症状、酸素供給不能などにより、
受刑者は死に至るのである。

ttp://www.jaspella.com/ministry/articles/j-agony.html
こちらでは図解もあり、とても詳しく説明されてます。
30コピペですが:03/05/30 06:36
好爺さんおかえりんりん。やっとみつけてくれましたね。またよろしく。
31吉備津の釜:03/06/01 11:03
>>31
おぉ、定番。今でも鳴り釜の神事ってやってくれるのかなぁ。

別スレにも鳴り釜の話ありました。締めの言葉もよい感じ
http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/occult/1053948114/12-14

2ちゃんねる2に新オカルト板が出来ました
http://bbs.2ch2.net/occult/index2.html


2ちゃんねる2
http://2ch2.net/
34あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/07 08:44
age
35あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/07 08:47
釜鳴りととんねるず。
36あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/07 10:36
>31
読むのがつらい
HPからの無断転載です。失礼。

与那国島

 日本で一番西にある島です。
石垣島から週2便のフェリーで4時間(飛行機は毎日飛んでいます)。
その距離は111kmですが、さらに117km西へ行くとそこはもう異国の地・台湾です。
島の最西端の西崎(イリザキ)に立てば年に数度は台湾の山も見えます。
日本のラジオはNHKしか入らないのに台湾の放送はいくつも入るという国境の島です。

 絶海の孤島といえる断崖絶壁の絶景オンパレードの島で、まわりの海の色の
濃さが違います。潮の流れが速いので生身で泳げる場所はほとんどありませんが、
ダイビングが盛んで海底遺跡や冬のハンマーヘッドシャークをはじめ、
大物狙いのダイバーが集まっています。海に入りたくない人も、朝、久部良の漁協に行って
ゴロゴロと転がるカジキマグロを見れば与那国の海の豊かさを実感できるでしょう。

 島は周囲60kmくらいで起伏もあるので、一周するのなら車かバイクでの観光を
お勧めします。時間がありあまっている人やストイックな気分を味わいたい人は
自転車を借りてももいいでしょう。水分は、必ず集落で仕入れてから出発しましょう。

 海を背景に在来種のヨナグニウマが草を食むのどかな風景を快走し、東崎(アガリザキ)や
西崎(イリザキ)の岬の風景や、神立岩やサンニヌ台の自然の造形美を堪能しました。
あまりに気持ちが良くて、思わず2周してしまいました。

 島の西部にある「クブラバリ」は景観の美しい断崖絶壁ですが、人頭税にまつわる
悲惨な歴史にゆかりのある場所です。
 クブラバリは「久部良の割」で、崖に幅3mほどの長い溝が走っています。常識を超える
重税に苦しんだ与那国の人は、妊婦をここに連れてきてこの割れ目を飛ばせました。
多くの妊婦は海に落ちて命を落とし、助かっても衝撃で流産は免れませんでした。

 また、島の中央には「人舛田(トゥングタ)」というところがあります。
すべての島人を突然招集し、時間内にこの田に入れなかったらその場で惨殺・・・。
 1609年の島津の琉球侵攻以来、薩摩へ納める税の確保に苦しんだ琉球王府は、
宮古・八重山地方を中心に人頭税制度を設けました。
それまで税率は8割(それでも五公五民より多い!)だったのが、
人の頭数に対して非情な率の税がかかるようになったわけです。

 川がないので田んぼができないサンゴの島でも、米納のために他の島へ出稼ぎに行きました。
台風や干ばつでも、病人がいても、人間の頭数にかかった税は納めなければなりません。
この悪政は、明治維新後1903年に琉球が日本に併合されるまで続きました。
クブラバリや人舛田が歴史なのか伝説なのかはわかりませんが、
口減らしをするしか島の人が生きる道はなかったということが、
人頭税の過酷さがを物語っている気がします。


写真
ttp://homepage2.nifty.com/mindtravel/images/kuburabari1.jpg
39あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/09 03:34
沖縄も暗黒時代があったんだね。サンクスコ>>38-37
40あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/11 01:34
41細道 ◆jq.mNmMeyA :03/06/12 01:44
以前、オカ板にupした鬼伝説と鬼伝説2をリライトして
完成度をあげました。
よろしかったら読んでください。
↓の創作物からです。

偉大なる長嶋
http://www.h6.dion.ne.jp/~kuranpa/index.html
なんか妙に陰惨なスレになってしまったなあ。
43コピペ:03/06/13 03:04

 今から四百年前ほど前のこと (弘治元年・1555年)。
岩崎城主(現在の湯沢市)にお姫様が生まれ、能恵姫(ノエヒメ)と名づけられた。

 生まれて少し経った頃から姫はなぜか昼夜を問わず泣き続けるようになり、
いろいろ手を尽くしたがさっぱり効果がなかった。
そこで霊符森の白藤明神に泣き止めの祈願をすると、数日後乳母が庭で卵形の石を拾い
それが姫のむずかりをおさめたので守り石とされた。

 ある日のこと、女中が庭で姫に用を足させていると小蛇が現れたので、たわむれに
「その汚物を片づけてくれるならば姫をおまえの嫁にやろう」と言った。
 すると姫の用便の度ごとにその蛇が現れてそれを食い去るようになった。

 姫が十六歳(十五歳とも言われている)になり、
川連城(現在の稲川町)の小野寺の若殿のところへ嫁入りすることになった。
 その輿入れの途中皆瀬川のサカリ淵というところにさしかかった時、
一天にわかにかき曇り姫は何者かによってさらわれてしまった。
両家では手を尽くして捜したが、その行方は知れなかった。

 その後のある日、木の枝を切っていた家臣が誤って まさかり(あるいは鉈)を
サカリ淵に落としてしまい、それを追って水中を潜っていくうちに水のない世界にたどり着いた。
そこには姫が居り傍らには大蛇(龍神)が眠っていた。
 姫は自分の形見にと櫛と笄を託し、
連れ帰ろうとした家臣が川辺で気がつくと、その手には姫の片袖だけが残されていた。
姫の菩提を弔うために川連の龍泉寺が建立され、また岩崎の水神社にも姫の霊が祀られた。

 これが湯沢市の岩崎地区を中心に
皆瀬川、成瀬川両水系に広く語り伝えられている「能恵姫物語」である。

 山 じ い

 昔谷道の山には入らず山という所があった。
ある時にけんど屋がやって来た。けんど屋はおろしのがわた(側面)を山に来てこしらえ、
それに馬のへんぼ(尾)でこしらえた網を張ったり、目の細かな金網を張って、おろしにして
売るのが商売であった。

 谷道の山でも、奥へ入らぬとよい材料が無いので、祖谷の衆が魔道が居るといって、
入らぬいらず山に入って行った。材料になるよい木がたくさんあるので、小屋をこしらえて
そこに寝泊まりすることにした。
 昼は木を伐り倒して、側(がわ)たにする材料を取り、夜は小屋の中のいろりの端で、
火にあたりながら側たを削ったり、それを曲げて樺(かんば)の皮で縫うてとめたりしていた。

 ある夜のこと、汚らしい髭のはえた爺さんがやって来て、
 「今夜は寒いきに火にあたらしてくれんか。」と言った。
 「さあさおあたり。」とけんど屋が言うと中へ入って来た。
けんど屋は火のそばにつくなんでいる爺を見て、ひょっとするとこれは山じいかも知らぬ。
山じいだったら、今夜わしは取って食われるかも知れんと思いながら、
けんどの側たを輪げよった。

 すると爺は「お前は今夜わしに食われるかも知れんと思いよろうが」と言った。
けんど屋はこれは変化か魔道に違いない。こんな奴、鉄砲持っとったら
撃ちまくってやるのにと思っていた。
 すると爺は「お前は鉄砲持っとったら撃ちまくってやろうと思っているだろう。」と言う。

 こっちの思うことはみんな爺に知られてしまう。もう、今夜食われても仕様がないと思って、
これからはもう何も思わずに仕事をしようと、一生懸命で仕事をつづけていた。

 やがて山じいは、金玉をだしてあぶりはじめた。ぬくもるにつれて段々ひろがって来た。
これが人間を包むぐらいにひろがって来たら、それで人間を包んでしまうと聞いていたので、
けんど屋は恐ろしいながらも見ぬふりをして、一心不乱にうす板を丸く輪げて、けんどのふちを
作っていた。
 ところがひょっと手がすべって、けんどのふちがピンとはねてしまった。
その拍子に、山じいのひろがった金玉の中へ、いろりのつぼの真赤な、
燠(おき)がみんななでこんでしまった。

 山じいはおぶけてしまって、「こりゃたまらん、痛いわあ。」とにがりもって、
金玉の中へ燠を包みこんだまま、小屋の外へ飛び出してしまった。
 そして「人界の者に余計な手出しをしとったら、えらい目にあった。」と入らずの山に
ひびきわたるような大声をして、山の向こうへ行ってしまったそうな。

 人の行かれんくへは行かぬもの。けんど屋も危うく食われるところじゃった。
おもしろかたーよ
お仲間ねただからオケだと思う。でも昔話スレも復活してほすぃもんだ
玉袋で包まれるのかw
怖いな、包んでどうすんだ、ハァハァするのか
48あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/16 22:30
誰か昔話スレ立ててくれ
でもあのスレのpart1、どうしてしまったんだ?
未だにHTML化されとらんぞ
49ビル・ゲイツになり損ねた男:03/06/16 22:36
ハウザー氏が研究者、アンディ・ホッパー氏らと1978年に創業したエイコーンが、一躍スター
企業に躍り出たのは81年。
パソコン教育番組を企画していたBBCが専用機として同社製品を採用したのだ。

エイコーンのBBCマイクロは、高度なグラフィックス、通信機能を備え、当時のアップル機の
2倍の処理性能を備え、イギリスで150万台を販売する伝説的商品になった。
50ビル・ゲイツになり損ねた男:03/06/16 22:38
当時、そんなハウザー氏をアメリカから一人の青年が訪ねたきた。
「我が社の基本ソフト『MS-DOS』をパソコンに使用しませんか?」
51ビル・ゲイツになり損ねた男:03/06/16 22:41
それはまだ20代だった、ビル・ゲイツ氏だった。

ハウザー氏は、
「後戻りするような技術を使う気はない」
と辞退。
エイコーン機では自分のコードを入力すれば、ネットワークを通して、他のコンピュータの
ファイルからソフトを引き出す、といった高度な機能を持つことを説明した。
52ビル・ゲイツになり損ねた男:03/06/16 22:42
ゲイツ氏は一瞬の沈黙の後、こう問い返した。


「ネットワークって何ですか?」
53あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/16 22:54
ビル・ゲイツ嫌いには格好のおいしいネタだな
>53
そういうつっこみをするとマカ対ドザの終わりなき逸話が...(w
55あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/17 21:17
ドザ?
56あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/17 21:23
えもん
57あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/17 21:51
ウィンどウズユーざー?
58あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/17 22:00
bulldozer?
ヤパーリ反応してる(w

さ、ここら辺で本題に戻りましょう ササ 次の方どうぞ!(w
60ゲトドザー。
61あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/21 19:20
62あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/25 15:11
age
63あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/25 21:24
初代スレ、HTML化されてる

伝説または逸話
http://hobby2.2ch.net/occult/kako/1032/10323/1032338511.html
報告さんくすこ。あぁ好爺タソはいずこへ・・・
65あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/25 23:20
前スレでの危惧が現実のものに・・・・

 雨石 (あまいし)さま

 雷公神社の祖、大野了徳院重一を祀る神社のご神体である石。
 「旱魃で雨が降らない年は必ず雨を降らせるので、私を川のほとりに埋めてほしい」
と遺言して亡くなった。家族はその通り川のほとりに埋葬し、
塚石を安置し記念の松を植えたという。

 祈願すると必ず雨が降ったので雨石と呼ばれるようになった。
30cm程度の少し角張った石で、背丈45cmほど。石質は解らないが御影石の感じで
容量に比して非常に重い。北海道の産では無いと考えられている。

 昭和60年、旱魃のため鮭が知内川を遡上できずにいたため、当時の漁協組合長が
雨石の故事に習い、雷公神社の神主と祈願したところ、翌日に雨が降り出し川は増水、
無事に鮭は遡上することが出来たという。

<ところ>
 知内町元町・雷公神社内

<付記>
 昭和60年の祈願の時、雨が降りすぎてしまい、肝心の鮭の施設が流されてしまった
そうです。久しぶりの出番に、雨石様はりきりすぎ?

 2003年5月4日

 雷公神社の第25代の神主さんに、お話をうかがいました。
この雨石様は普段は雷公神社の奥深くに眠っているそうです。
お祭りの時でさえお披露目などもせず、扉を開くのみだそうで・・・。
なぜなら、ちょっとでも外に出そうものなら、必ず翌日には大雨が降るからだそうです。

 霊験あらたかな石だということで、これまでも地元のテレビ局などが何度も取材に来ています。
撮影のために雨石様が出されると、とたんに翌日から知内は土砂降りになってしまうそうです。
これまで雨石様を出して雨が降らなかったことは、私が知る限り一度もないとおっしゃっていました。
 真冬にテレビ局が取材に来たときには、翌日から猛吹雪で、テレビクルーも
札幌まで帰るのに死ぬ思いだったそうです・・・。
68あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/07/02 10:20
age
69あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/07/11 13:16
?
70山崎 渉:03/07/15 09:09

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
71好爺:03/07/17 22:52
『小笠原殿家に、大坊主ばけ物の事』―諸国百物語より―

慶長年中(1596-1615)に、小笠原の何がしの内儀、年齢四十四、五にて疱瘡にかかったが
重大な事になって、小笠原殿も、次の間にて薬の相談などをしている時に、奥の間より
奥方付の老女、腰元たちが「恐ろしい事がおきています」と駆けつけてきた。
小笠原殿が奥の部屋に入って見てみると、屏風の上より、真っ黒な大坊主がお内儀を
見て笑っていた。
小笠原殿は、刀を抜いて、切り払うとこの坊主は消え失せた。
72好爺:03/07/17 22:52
…続き
あくる夜もまた来るだろうと思って、侍どもを奥へ呼んでおいて、侍どもが待ち構えて
いる所へ、案の定、昨夜の坊主がまた屏風の上より頭を出した。
「何物なれば、このように化けてでるのか」とかの坊主、内儀を引っつかみ、天井を
蹴破ってあがろうとしたところを侍たちは御内儀に取り付いて引きとめようとした。
坊主は上へ引き上げようとした。
この勢いで、御内儀を二つに引き裂き、首を引きちぎって取って消え失せてしまった。
その後一年ほどの間は、殿が雪隠へ行くと冷ややかな手で、腿を撫でられたり、雪隠の
掛金を、外から掛けられたりと色々の不思議な事が続いたという。
祝!好爺さん復活&保守
74好爺:03/07/19 22:44
『恋ゆえ殺されて、その女につきける事』―平仮名本・因果物語―

伊勢の国、かとりと云う所に、浅原七右衛門という牢人がいた。一人娘を持っていた。
その姿かたちは麗しかった。
召抱えている者のうちに、猪之介という二十四、五の男がいて、この娘に想いをかけていて
他人が見ていない隙にいろいろと言い寄ったが、彼女は彼になびかなかった。
かくして、猪之介は患って、床に臥すまでにはならなかったものの、物も喰わず、顔色も
悪く、痩せ衰えていった。薬をつけて、治療すれどもどのような病気か不明だった。
日をかさねてのちに、猪之介はひそかに、傍らの下女に語った事には
「それがしの患いは、別の事ではなく、このように秘めた恋がかなわなかったためである。
このままならばきっと死んでしまうだろう。後の世こそ悲しく思う。私が執念深く迷って
しまったら、むすめ子にも不幸になるに違いない」と涙を流して、語った。
75好爺:03/07/19 22:45
…続き
下女はそれを聞いて、大いに驚いて、娘の母に語れば、その母も肝をつぶして、七右衛門に
語った。七右衛門は大いに腹をたてて「代々仕えてきた奉公人が、主の娘に想いにかけて
その望みがかなわないからといって、わが娘の一生を呪うとはなんと憎い事か」と臥している
猪之介を引き出して、首を刎ねてしまった。
その夜より、かの娘の目に猪之介の亡霊が現われ見えて恐ろしい事かぎりなかった。
さまざまに弔いをし、門にも窓にも寺社の御符を貼っても防ぐ事は出来なかった。
後には、夜昼なく側についてはなれなかった。亡霊は娘のみに見えて、他の者には見えなかった。
それゆえ、娘も患い、最後には亡くなってしまった。
76あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/07/22 05:58
前スレが見れない(´・ω・`)
77あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/07/22 07:17
好爺シャンが出てくるスレで
「オカルトな死に方〜」見たいなスレなかったかな
このスレだったかな
知ってる人居たら教えて下さい

>好爺
おつ
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
79好爺:03/07/22 13:31
>>77
『歴史上の人物』オカルティックな死に様
ですね。・・・ネタが続かなかったけど、面白いスレだった。
80ファンタオレンジ:03/07/22 13:35
>>1-79毎日パン屋に耳貰いに行くのいい加減やめたら?
81好爺:03/07/22 14:43
『女の一念、来て夫の身を引きそひて取りてかへる事』―善悪報ばなし―

丹州の田辺(京都府舞鶴市)にある商人がいた。毎年越前の福井に下がり、半年ばかりづつ
居ては、京に戻っていた。ある時から田辺にいた妻を見限り捨てて、福井に住み続けた。
いつも一緒に遊んでいた友人がある女性を紹介した。この男、この女にほだされて、
国元の事を露も思い出す事もなくなってしまった。
然るに田辺にいた女房は、夫がいつまでも帰って来ないばかりか、便りもないので
「一体どうしたのだろう」と案じて患っていた所に、ある人が来て
「その方は福井での様子はよくは聞いていないが、過ぎた春の頃、さる方より、
お似合いの妻を持たれた、と聞いた。然らば便りがないのも当然だ」と言った。
女房は、この事を聞いて、大いに驚き「このような事とは思いもよらず。今日は音信が
あるだろう、明日には便りが届くだろうと明け暮れて暮らしていた。心のほどの愚かさよ。
さても世の中に、女の身ほどはかない物はない。たとえ福井にとどまっていても、それは
夫のある事なり。さりながら我は、このように捨てられるとは夢にもしらず。ああ、くやしい
腹だたしい」と起き臥しごとに、激しい怒りを思い焦がした。
82好爺:03/07/22 14:44
…続き
そして、一念の悪鬼となって、福井へ行って、夜な夜な夫を責め続けた。
この霊の来た時は、大きく屋鳴りして、いずこともやって来ては夫の前にひざまづいて、
血の涙を流して、ひたすら恨みを言っては、つく息を見るとまさしく炎を吐いていた。
夫はどうしようもなくて、巫女や山伏を呼んで、祈らせても効果はなかった。
ある徳のある僧が言うことには「そのような霊がきた時には、経帷子(経文を書き入れた
帷子)臥していれば、なんの事もあるまい。それがしが書いてあげよう」といって
即時に書いて渡した。
日が暮れて、この帷子を取って打ちかずき伏した。霊が来ても、この帷子に恐れて、
近づこうとせずに遠くに控えて、ただ恨めしく眺めては、はらはらと泣いて帰った。
夫は嬉しく思ったが、ある時油断して、臥した上に軽く引っかけて寝てしまった。
件の霊が来て、恨みをかずかず言って「ああ、にくい」と聞こえた。
はっと思って見るとあたりに血が流れていた。
「これはどうしたことか」といって我が身を見ると、左足の腿を引っかかれていた。
はじめは何ともなかったが、次第に痛み出して暫くして亡くなってしまった。
8377:03/07/23 20:11
>>79
(・∀・)ノ
84好爺:03/07/24 22:13
『尼が崎伝左衛門、湯治してばけ物にあひし事』―諸国百物語―

摂州尼ケ崎(兵庫県尼崎市)に伝左衛門という人が居た。
有馬に湯治に出かけた時に何処ともなく美しく若い女が一人でやって来た。
「わらわも湯に入れてくださいな」云ったので、女であればと伝左衛門もゆるして
入れてやると、この女は伝左衛門の背中の垢を掻いてあげましょうといったので
背中を掻かせてやると、いかにも気持ちよく、垢を掻かせながらとろとろと寝入って
しまった。すると、いつのまにか、背中の肉が少しもなく、骨ばかりになって、女は
いつのまにか消え失せてしまっていた。
85あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/07/25 12:51
臓器移植の都市伝説みたいな話だな
86好爺:03/07/26 15:41
『生きながら女人と成る僧の事』―片仮名本・因果物語―
其の一
武州江戸、ある山の学徒、実相坊は、無類の学者にして、高慢であったが、江州坂本真清派に入って
法談を語りだすと、僧や俗人はこれを尊ぶ事限りなかった。
それより信州に行って、ある家に一泊した。亭主が御馳走してくれて、留まっていたら
傷寒(チフスなどの激しい熱病)を煩って、七十日ほどして回復して行水をすると、
男根が落ちて女人となってしまった。
それより学んだ才智、文学などをみな忘れて愚人となってしまった。力を無くして酒屋の婦と
為った。その後、彼の山の宗徒が街道を通っていた時、酒を飲もうと四、五人でその店に立ち寄ると
彼の女が涙を流して悲しんだ。僧衆が不思議に思って尋ねるとありのままに語ったという。
87好爺:03/07/26 15:41
其の二
上州藤岡から武州秩父へ経帷子売りに行く僧が山家の町に入ってある酒屋へ入って見ると
この前に会った僧に似た女房がいた。この僧を見て隠れてしまった。不審に思っていたところに
暫くして酒売りに出かけていったが、顔を隠して直には見せないようにしていた。
このときに「あなたは私が知り合いの僧に似ていますが、もしかして其の姉か妹ですか」
と聞くと、黙って涙を流して奥に入っていった。
あたりの人にこの女の来処を尋ねると「上野筋から来たと云っていたが、親類は知らない」と答えた。
また帰りに立ち寄って、彼の女を呼び出して訪ねると「私はあなたの旧友の何某ですが、
何となく煩って、ふと男根が落ちて女となりました。もはや、子供が二人います。無念の次第です」
と泣く泣く語ったと言う。
88さの死蝋 ◆P/7CFo8UDU :03/07/28 07:16
好爺さん、お疲れ様です。待ってた甲斐がありました。
89あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/07/29 09:58

 お か え り な さ い 好 爺 !
>>12
俺はチャンコロが対米に作って自爆したと思う。
91好爺:03/07/29 18:54
『天狗の鼻つまみの事』―曾呂利物語―

三河の国に道心という坊主がいて、すべてに付け、恐ろしいという事を露ほども感じた事が
無かった。平岡の奥に一軒の神社があったが、ここは人が訪れずに深山幽谷であれば、
いつしか神主も何処とも無く消え失せて、跡をとどめていなかった。しかるに、道心は社僧
となって年月がたったが、糧料などがいつも乏しかった。人家まで遠いとはいえども
こころざしある人にたよって、毎日の糧をもらっていた。
ある時在所に出て暮れ頃に帰っているときに、寺近くに死人があった。道のほとりで
あったので、腹を踏んで通るとこの死人が坊主の裾を咥えて引きとどめた。立ち戻って
腹を押さえると放した。腹を踏むと口を開き、足をあげると口を閉じる。これは、
有り得ぬ事と思って通ったが、何者であればこのような事をするのだと不審に思い
まず夜が明けてから片付けようと思い、寺の門前の大木につよく縛っておいて、道心は
中に入って眠ってしまった。
92好爺:03/07/29 18:55
…続き
夜が更けて「道心、道心」と呼ぶ声がした。例によってすべてに驚かぬ者であるので
眠気もしたのでそのままにしておいた。彼の者の呼び声が止まって「私を何で縛るのか
解け、解け」と言い出したが、なお取り合わなかった。「ならば、自分で解こう」といって
縄をぶつぶつと切って寺に入り、戸を開けて入ろうとする時に「何者だ。まて」と太刀を抜き
斬りつけた。右の腕を肘のところからぶっつり切落とした。「あっ」という声がして
消えてしまった。
程なく夜も明けてきて、彼の社に毎朝、詣でにくる老女がいたがいつもと同じ様に来て
「今夜、お坊様は恐ろしい事にあったと聞いたが、本当ですか」と言った。
「いやいや恐ろしくは無いが、昨夜にしかじかの事があった」と語ると老女は
「その手を見せてください」と言ったので、取り出して見せると「私の手だ」といって
自分の手にさし接ぎ、門の外に出たかと思うと、またもとの暗闇となった。
この時に初めて驚き、気を失ってしまった。次第に夜が明けて、いつもの老女が来ると
気を失っている坊主に驚いて、在所に行って人を多く呼び寄せて手当てをすると気がついた。
それよりこの坊主は、普通の人のように臆病になって、この場所からも去って行った。
常に自慢する者は天狗の鼻をつままれるといわれる。何事によらず高慢な者は禍に逢うという。
93&lro;:03/07/30 02:13
 
94&lro;:03/07/30 23:51
 
95好爺:03/07/31 22:49
『安部宗兵衛が妻の怨霊の事』―諸国百物語―

豊前の国、速水の郡に、安部宗兵衛という者がいた。
つねづね、女房に邪見にあたっていて、食物も喰わせなかった。女房はこれを悔しく思って
患ってしまったが、薬を飲ませようともしなかった。なおなお辛くあたっていて、
女房は十九歳の春についに亡くなってしまった。
すでに息絶えようとした時に、宗兵衛にむかって年月つらかった恨みを言い、
「いつの世になろうとも、忘れる事は無い。やがて思い知りたまえ」と言って亡くなったが
死骸を山に捨て、弔いもしなかった。
死して七日目の夜半頃、かの女房、腰より下は血潮にそまり、丈なる髪をさばいて、
顔は緑青のようで、お歯黒を黒くつけ、鈴のような眼を見開き、口は鰐の如く、宗兵衛の寝間に
現われて、氷のような手で、宗兵衛の寝ている顔を撫でると、宗兵衛も身をすくめてしまった。
女房はからからと打ち笑い、宗兵衛の側に寝ていた新しい女房を七つ、八つに引き裂き
舌を抜き、懐に入れて「もはや帰りましょう。また明晩参り、年月の恨み果たしましょう」
と消えるように去って行った。
96好爺:03/07/31 22:49
…続き
宗兵衛驚いて、貴僧高僧を頼んで、大般若を読んでもらい、祈祷を行ない、あくる夜は、
弓、鉄砲を口々にかまえて、防備をかためてまちかまえていたが、夜半頃、かの女房
いつの間にか来ていた。宗兵衛の後ろに現われ、つくづくと眺めていた。
宗兵衛はなんとなく、後ろが寒く感じて、振り返ると、かの女房、きっと見て
「さてもさても用心きびしき事かな」と言って、宗兵衛の顔を撫でたかとみえたが、
俄かに凄まじき姿となって、宗兵衛を二つに引き裂き、あたりにいた下女を蹴殺し
天井を蹴破って虚空にあがっていった。
97山崎 渉:03/08/02 00:02
(^^)
98&lro;:03/08/02 01:59
 
保守
100あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/08/03 16:09
100
101あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/08/06 01:17
江戸の怪談本読んでると、マジ怖くなりますよ。
何しろ相手は古文なので、どうしても全神経を集中して読まなければならなくなりますからね。
精神集中して読むぶん、読後感は強烈です。
102好爺:03/08/07 04:41
『女の生霊の事』―諸国百物語―

相模の国に信久という身分の高い男がいた。この人の奥方は土岐玄春という人の娘であった。
かくれなき美人にて、信久は寵愛していた。
腰元に常盤という女がいて、これも奥方に劣らぬ美貌の持ち主であった為、信久はおりおり
常盤の部屋に通っていた。常盤はそれより、なおのこと奥方に奉公していた。
ある時、奥方が患って次第に病状も悪化していき、信久が不思議に思い
「もしかして、他人の怨みではではないか」と高名な僧を頼んで、祈祷をすると、
僧は、経文をもって占い「この病は、人の生霊がついているからです。依り憑けという事を
行なえば、その生霊の主は、必ず現われるでしょう」と言った。
103好爺:03/08/07 04:42
…続き
信久はこれを聞いて「よきようにお頼み申す」と言えば、僧は十二、三歳の女を裸にして
身体中に法華経を書き、両の手に御幣をもたせ、僧百二十人集めて、法華経を読ませ
病人の枕元に壇を飾り、蝋燭百二十丁をともして、いろいろの名香をたき、息もつかずに
経を読み出すと、案の定、依り憑きの十二、三歳の女に生霊がついて、語り始めた。
僧はなおなお力を得て、経を読み出すと、そのとき、常盤が壇の上に現われた。
僧が「まことの姿をあらわせよ」と云うと、常盤は衣文をひきつくろい、打ちかけをして
出てきて、小袖をぱっとおおうと、百二十丁の蝋燭が一度に消えると共に奥方も亡くなった。
信久は無念に思い、かの常盤を引き出して、奥方の追悼のために、常盤を牛裂きの刑に処した。
104あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/08/09 07:27
(屮゚ー゚)屮age
105あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/08/12 00:47
(屮´д`)屮age
106山崎 渉:03/08/15 10:31
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
107好爺:03/08/21 23:48
『夢争いの事』―曾呂利物語―

都にある男がいて、正妻を持たずに、腰元として二人の女を召抱えていた。
一人は出雲の国の者、一人は豊後の国の者であった。ある時、二人の女が昼寝をしていた。
二人の間は畳半畳ほどであった。然る所に、奥の座敷から女の声でうめく音がした。
不思議に思い、男がしのんで駈け寄れば、二人の女の身の丈ほどの髪が、空に向って
生い上り、上では一つに乱れ合っては落ち、または両方へ分かれたりして、なかなかの
凄まじさで口に表わせないほどだった。
そこで二人の女の枕元を見れば、小さな蛇が一尺二、三寸ばかりではあるが、二匹お互いに
舌を出して、喰い合っては退きあっていた。このとき一人の女が事の外歯ぎしりをして
うめいていた。これを見て、男は肝をつぶして、あきれ果ててしまった。
108好爺
…続き
しばらくして、男はいつものように声を出して女達を起した。
すると二匹の蛇はそのまま分かれて、女の胸に上がったかと思うとそのまま消え失せた。
長い髪はいつものように美しく、解いて結んだままだった。
そこで男は二人を一緒に起すと目を覚ました。見れば二人とも汗を流していた。
男は、「なにか夢でも見たのではないか」と尋ねると「いやいや、夢も見ていません」と
答えた。一人の女は「不思議な事に、人と争ったような気がします」と答えた。
そこで男は恐ろしく思って、それから二人共に暇をやり、その上に独り身で暮らしたと言う。