月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて
老をむかふる物は日〃旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。
と、あまりにも有名な序章で始まる「奥の細道」、私はこの俳句には重要な暗号が含ま
れていると考えています。また、松尾芭蕉・曽良の本来の姿も謎です。
お江戸、深川からスタートして日本海に至るルートを心霊・オカルト的に解釈しながら
たどってみましょう。スタートは安部清明でおなじみの深川です。
「雛の家には謎があります・・・・」それではでかけましょう。
えなり〜
[草の戸も住替る代ぞひなの家]を解釈してください。
4 :
満潮 ◆wmmanCHo :02/04/24 20:04
松尾芭蕉の歩いた行程は普通の人間だと無理があるペースなんだってよ。
ただあの人は几帳面で日付を間違えるような人じゃないらしいから、
もしかすると実際には歩いてないか、幕府のスパイかどっちかなんだって。
深川は滝沢馬琴・山東京伝・そして芭蕉がまだ桃青(とうせい)と号していた頃の
庵があり、ここに芭蕉の株を植えたことから俳号を”芭蕉”に改めたと伝えられている。
「古池や・・・・・・」で有名な古池もここにあったといわれている。
まず、深川か界隈の心霊話でも聞きながら出かけましょう。
おいてけ堀、死んだ遊女を投げ入れたといわれる回向院、東京大空襲で焼けた町、包丁で通行中の母子を
殺害した川又○○、などをキーワードに千住まで向かいたいと思います。
6 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/04/26 16:10
すさまじき月に老女のけはひしてしはすの霜をおいていけ堀
[おいてけ掘]夜、釣人が堀端を通りかゝると現はれて「おいてけ、おいてけ」
と魚をねだり、全部置いて行くまではその聲を決してやめないといふ妖怪。
7 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/04/26 17:46
よく解からんのだが、要するに
奥の細道のルート上にあるミステリースポットを紹介したいのか?
8 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/04/26 17:57
キリストはあなたを見ている
>>7 まあ、そんなところです、芭蕉忍者説その他色々あります
スレはどうなるかわかりませんがとりあえず芭蕉出立・
そして立ち寄りの地でのオカルト話でも拾いつつ、もう一つ
の奥の細道を「ばれ句」でも作りながら旅してみようと思い
ました。
先に日光や平泉などのオカルトを紹介してしまったのでは
ありきたりになってしまうのでスタート地点からとしました。
10 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/04/28 09:48
麻布さんいますか?
11 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/04/29 04:46
hozen
>>1 まずは芭蕉がとった大雑把なルートを載せておいた方が良くない?
>>12 ご指摘ありがとうございます。
第一部旅たちから那須までとしてみたいと思います。
芭蕉は3月後半(旧暦)の深川を立ち千住〜春日部〜間々田〜鹿沼〜日光〜黒羽〜那須
以降福島に入りますので二部として
須賀川〜郡山〜福島〜飯坂〜白石〜仙台〜塩釜〜松島〜石巻
こんなルートで地域の話を募集していきたいと思います、宜しくお願いいたします。
15 :
麻布 ◆1F42ZK8k :02/04/29 15:39
まあ架空ツアーですから、あまり気にせず、適当に怪談、心霊話でも
お願いいたします。
ちなみに三部(おそらく途中で挫折するとは思いますが)
尾花沢〜山寺〜新庄〜羽黒〜月山〜鶴岡〜酒田〜象潟〜鶴岡〜温海〜新潟
となります。
うんそのとうり!
17 :
麻布 ◆1F42ZK8k :02/04/29 15:49
>>16 もっちゃん、いろんな所に変なもん貼り付けないで、なんか
怪談話でもくださいよ、お願い。
18 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/04/29 19:50
寛文7年(1667)に両国回向院の住職弟誉義観によって、行路病死者、刑死者の供養のため別院として創建。
当事は常行堂と称した。以来、小塚原刑場の受刑者や牢死者のほか、安政大獄で吉田松陰、梅田雲浜・
橋本左内、瀬三樹三郎等の多くの志士たちが回向し奉られてきた。
回向院前の地蔵尊横には「史跡 小塚原処刑場」との標識がある。
やはり処刑場跡という事も遭ってけっこうさまよっている霊があるんじゃないですかね。
19 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/04/29 19:55
立石寺の奥の院には、若くして亡くなった人とか、カップルとかの写真が壁一面に飾ってありました。
遺影のように、花嫁装束を着せたりしてね。
ゾッといたしました。
21 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/05/05 23:08
22 :
満潮 ◆wmmanCHo :02/05/09 11:42
おいおい。早く江戸を出ようぜ。
次は千住でいいの?
なら千住できめるぜ。
千住には今からおよそ40年くらい前まで、ある奇妙な煙突が立っていた。
それは菱形のような配列で4本そびえ立っていた。
この煙突は当時かなり有名な心霊スポットとして注目を浴びてきたらしい。
以上
回向院にはネズミ小僧のお墓もありましたね。
何故か猫がわんさかいて、とても人懐っこいの。
思ったほど広くもなく、奥にある一般の墓地?も墓石が整然と並んでます。
芭蕉の時代の回向院はもっと境内が広くて参道にも出店が出てたはずなんだけど・・・。
そんな片鱗も感じなかった。もちろんゾクッの体験もナシ。
実際に行ってみてガカーリしたYO!
24 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/05/12 12:32
25 :
sakana:02/05/13 22:26
麻布はアフガニスタンにいます、5月末にもどります。
26 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/05/16 23:05
帰ってきましたか?
27 :
麻布 ◆1F42ZK8k :02/05/17 22:41
28 :
麻布 ◆1F42ZK8k :02/05/18 15:22
深川付近ではもうお話も無いようですので次の移動地の北千住へ行こうかと思います
[草の戸も住替る代ぞひなの家]は1689年ちょうど元禄、綱吉の頃で当方では江戸
幕府へのクーデターを予言したものと考えました。雛の家を江戸幕府、住み替わるを
主が替わる、草の戸をと当時多く起きた幕府への反乱分子と考えました。
「行く春や鳥鳴き魚の目は涙」
深川から千住までは隅田川を上りました。隅田川、千住の怪異歎がありましたらお願
いいたします。
29 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/05/18 23:39
お化け煙突の時代ではだめか。
>>27 見れなくなってるよ。詳しく知りたい。
忘れもしない今年の正月。ばあさんの家に泊まりにいったとき
TVで見ました!
若くして亡くなった方が20歳になる頃にやるもので、
婚礼の絵を書いて祝うのだけれど、霊魂が本当に絵の中に
入るというのでしょう!?
見れなくなってて残念!頼むよ〜。
31 :
麻布 ◆1F42ZK8k :02/05/19 14:03
芭蕉が旅立ったのは46歳のときであった、時の平均寿命が42歳前後だったことを考えると
命をかけた旅であったことが想像できます、西行の旅を思い上野、谷中の桜を見てのち船
に隅田川の人となり千住を降り前途三千里を深く思いめぐらしたに違いない。
32 :
麻布 ◆1F42ZK8k :02/05/21 01:17
千住大橋の近くの公園の一隅に、「おくのほそ道」の旅が千住から始まったことを記念して昭和49年
(1974年)に建てられた「史跡 おくのほそ道矢立初の碑」がある。碑面に、
「おくのほそ道」からの抜粋「千じゆと云所にて船をあがれば、・・・見送なるべし」
を刻む。 矢立初の碑がある。
ほとんど自己満足の世界スレですね。
どうなのかしらね。。。
34 :
麻布 ◆1F42ZK8k :02/05/21 01:53
もちろんその通りです、もし誰かの書き込みが少しでも
あればと思っております。
まあ、あまり気にしないでください。
ガンバレ、ROMってるから。
36 :
麻布 ◆1F42ZK8k :02/05/21 18:19
37 :
麻布 ◆1F42ZK8k :02/05/21 18:33
牡丹灯篭は死後婚か?について
これは元は中国の古典です。
カランコロンと駒下駄の音をさせてやってくる美しい幽霊・お露さんの物語
「牡丹燈籠」は元は中国の古典です。
これは元々、明代の怪談を集めた「剪燈新話」の中の1編「牡丹燈記」で、
16世紀初めに日本に伝来しました。それを読んだ、近江六角氏の家臣・中村豊前
守の子息中村某が、その中から3編を選んで訳して「奇異雑談集」を作りました。
これが日本でのこの物語の初出で、「女人死後男を棺の内へ引込み殺す事」とい
う題名でした。現在のものとは登場人物や設定も微妙に違っています。
中国版『牡丹燈記』
正月十五日・上元の日。家々が門に灯籠を掛けるので、男女がその明かりを頼りに
遅くまで出歩く習慣があった。その日妻に先立たれて一人で暮らしていた喬生と
いう男が下女に牡丹燈を持たせた17〜18歳の娘・麗卿と出会う。
二人は恋仲になり、喬生の家で何度も逢瀬を重ねるが、ある日隣家の翁がのぞい
てみると、喬生がきれいな服を着た髑髏と対座していた。驚いた翁は翌日そのこと
を喬生に告げる。
そんな馬鹿なと答えた喬生ではあったが、念のため、麗卿が住んでいるという湖西
を訪ねると、なかなかそれらしき家が見つからず、ふと入った湖心寺の西廊の突き
当たりに棺があるのを見つける。そこには「奉化符州判の女麗卿の柩」と書かれていた。
自分が会っていたのが亡霊であったことを知った喬生は護符をもらって門と部屋に
かけておいた。すると女の来訪はなくなった。が、1月ほどして油断して酒を飲
み酔って湖心寺の門前を通り過ぎようとした時、そこに突然下女が現れて彼を中
に導き、麗卿の柩の中に入れてしまった。
その後、雲陰の昼や月黒の宵に牡丹灯籠を持つ下女に導かれた麗卿と喬生の姿を
見たものがあったが、みな病に倒れたという。
浅井了意版・牡丹燈籠
中村某の本は長い間写本で読まれたあと、1687年に出版されています。
しかしその出版に先立ち、浅井了意が1666年「伽婢子(おとぎぼうこ)」(13巻)
の中でこの物語を舞台を日本に移し、「牡丹燈籠」の名前で発表しています。
了意版『牡丹燈籠』
舞台は天文戊申年(1548)の日本ということになっている。妻に先き立たれ寂しく
暮らしていた男の名前は萩原新之丞。燈籠は上元ではなく、盆の精霊祭の燈籠に
した。そして、燈籠を女の童に持たせてくるのは二階堂の息女・浅茅(あさじ)
となっている。その他の構成・ストーリーはほぼ同じだが贈答の恋歌などを配し
た巧みな翻案になっている。
千住は昔骨ケ原とも呼ばれていたところで相当にやばいとこです、
近代においても近くの日暮里の大火、三河島の電車事故、下山事件
と続き現代も4号線(日光街道)は死者の街道とも呼ばれています。
最近鉄パイプでめちゃめちゃに殴られて死んだ人もいて、怨念を感
じるよ、高校の頃千住大橋に出る親子連れの幽霊の話は有名だよ。
バショ−さんとは関係ないけどね。
39 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/05/22 01:02
4号線にあった目黒エンペラーはまだあるんかい。
40 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/05/22 01:32
1さんへ
以前、「死後婚について」の板に書き込みしたことがありました。
私の実家が山寺に近い方なので山寺の話などを…。
読んでもらえているか心配なのでこちらにきました。
もう落ちたので私は見ることが出来なくて残念でした。
42 :
麻布 ◆1F42ZK8k :02/05/22 21:27
>>41 「死後婚」は申しわけありませんでした、書き込みしていただいたんでしょうか?
「くまちゃん」の名前は記憶にあやふやな部分がありませんた。
連休前より急な海外出張があり、戻って見ると「死後婚」は消えてました。
これからもこのスレで死後婚の情報があり次第貼りますので宜しくお願いいたします。
43 :
麻布 ◆1F42ZK8k :02/05/23 22:43
芭蕉が旅立ったのは今から305年前の旧暦の3月下旬、現在の陽暦5月16日には
千住より草加(春日部)に泊している、「・・耳に触れて、いまだ目に見ぬ境、
もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、」と元禄二年、旅の第一歩を
草加に印した。
これはほんの一週間前のことではないか、幸いタイムマシンに乗ってみると現在
芭蕉、曾良は栃木黒羽に長期逗留中である、急いで追いかけよう。
草加、春日部、間々田、小山、(室の八島)栃木、壬生にかけて何かオカルト話
がありましたら宜しくお願いいたします。
足立区、保木間の撲殺電波の情報キボン
<大中寺七不思議> 場所:栃木県下都賀郡大平町 大平山 大中寺。
------------------------------------------------------------
所以@ 人肉や死肉を食べる青頭巾という鬼畜坊主が、この地を荒らしまわり、
大中寺の開祖、快安妙慶禅師が念力で青頭巾を退治し、
その霊を弔うために、墓標代わりに杖を立てた。 (『青頭巾の伝説』)
所以A 戦いに敗れた豪族(晃石太郎)が大中寺の住職に匿うように頼んだが、
断られたので、仕返しに馬の首を切って、井戸に放り込んだ。 (『馬の首の井戸の伝説』)
所以B 晃石太郎の妻は、大中寺の雪隠に隠れて夫(晃石太郎)を待っていたが、
戦死したものと思い、雪隠内で首吊り自殺した。 (『開かずの雪隠の伝説』)
※ 大中寺七不思議とは、『青頭巾の伝説』 『馬の首の井戸の伝説』 『開かずの雪隠の伝説』
『枕返しの伝説』 『拍子木の音』 『不断のカマド』 『油坂』 の7つのことをいう。
------------------------------------------------------------
噂@ 快安妙慶禅師が立てた杖が、いつの間に根無し藤という古木に代わった。
この木は、枯れても生え代わった。 (『青頭巾の伝説』)
噂A 青頭巾の怨霊が頻繁に出没する。 (『青頭巾の伝説』)
噂B 25畳敷きの客間にある達磨大師の掛け軸に足を向けて寝ると、
朝には頭が掛け軸の方を向いている。 (『枕返しの伝説』)
噂C 馬の断末魔の叫びが井戸の中から聞こえる。 (『馬の首の井戸の伝説』)
噂D 雪隠の扉がどうやっても開かない。 (『開かずの雪隠の伝説』)
噂E 大中寺の墓地で、人魂が飛び交う異様な光景が、TVで放映された。
午後8時頃、突然、ラップ音がして、根無しの藤の辺りに人魂が浮き出て、飛び交った。
噂F 住職だけに、近隣の不幸を知らせる不思議な『拍子木の音』がする。
噂G 決して火を絶やすことのない『不断のカマド』がある。
噂H 扉を開けて中を覗くと祟りがあると言われる便所がある。
噂I どんなに用心しても転んでしまう『油坂』がある。
噂J 大平山の麓にある『大中寺』に午前2時頃行くと、階段の所に鎧を着た人が現れる。
46 :
麻布3321456:02/05/24 21:42
>>44 この件の情報は現在ありません、精神異常者の犯行といわれています。
>>45 この寺を芭蕉が尋ねた記録はありませんが情報ありがとうございます。
芭蕉は間々田を経て3日目に小山宿を左に折れて「室の八嶋」詣でた。
「鐘つかぬ里は何をか春の暮」などの句を五句残している。
また、栃木市には日本最古の神社である大神神社があり芭蕉は詣で
「いと遊びつきたるけぶりかな」との句を残した。
室の八嶋は古来、木乃花咲耶姫(あまりの美しさに衣服を通してその裸身が見える)
を祭っている。なんとも夢のような記述ではありませんか、是非見てみたいですよね。
予断ですが小山には「古池や,蛙飛び込む、水の音」の句碑もあります。
例弊使街道を北上し今市へ入り日光にむかう、杉並木の樹齢は当時30年程度で、現在
の杉並木を芭蕉が見たのなら、きっと秀句を残したであろうと思います。
栃木はその昔、いい酒は無いといわれていたが蔵元が奮起して最高のお酒を作り上げ
ました、それが「四季桜」です。今夜はちょっと衣服のすけた美女を想像しながら
お酒でものみましょうか?
ばれ句 「四季桜 室の八嶋に さくやひめ」
さあ、明日は日光への旅立です。
47 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/05/24 22:33
麻布タン、サトラレを解明してください、なおながいします。
48 :
麻布 ◆1F42ZK8k :02/05/24 22:59
>>47 サトラレの意味がわかりません。ごめんなさい。
49 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/05/25 12:50
俺は鎌倉幕府の頼朝が大嫌い、だいたい征夷大将軍とかで東北に攻めてきたわけだし
やっぱ「平家にあらずんば人にあらず」だよ
50 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/05/25 14:22
室の八嶋に詣す。同行曾良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。
無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火〃出見のみこと生れ給ひしより室の八嶋と
申。又煙を讀習し侍もこの謂也」。将このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨世に傳ふ
事も侍し。
「おくのほそ道」になぜ「室の八島」の縁起だけを記したか
元禄2年(1689年)3月29日(新暦5月18日)、芭蕉と曽良は、「おくのほそ道」の
旅における最初の歌枕の地、室の八島を訪れた。室の八島は、木花咲耶姫が貞操
の証として、燃え盛る無戸室で子を三柱出産したという神話から、古来、煙を題材
にして多くの歌が詠まれた歌枕であり、芭蕉一行は、日光への道からわざわざ逸れ
てこの地を訪ねたのだった。
室の八島ともいわれる大神神社は、奈良県桜井市の三輪山に鎮座する大和国一之宮
三輪明神・大神神社の分霊を祭り、創建は神武天皇からかぞえて10代目の崇神
(すじん)天皇のころとされる。
芭蕉が訪れたころの大神神社は、天和2年(1682年)三代将軍徳川家光によって再建
されたばかりでまだきらびやかさが残り、木花咲耶姫についての神話を思い起こさ
せるようなミスティックな趣きを持ち合わせはいなかった。
また、正徳4年(1714年)に刊行された貝原益軒の「日光名勝記」によれば、8つある
島の周囲の水は枯れていたとあるので、芭蕉も、往時のように煙と見紛う水蒸気が
境内に立ち上がる光景を見ることはできなかっただろう。
其社の前に室のやしま有。小嶋のごとくなるもの八つあり。其まはりはひきくして池
のごとし。今は水なし。嶋の大さいづれも方二間程あり。其嶋に杉少々生たり。室の
八島古歌に多くよめる名所也。しまのまはりの池より水気の烟(けむり)のごとく立け
るを賞翫しける也。其村の人あまたに問しに、今は水なきゆへ烟もなしといへり。
わづかなる所なり。(貝原益軒著「日光名勝記」)
貝原益軒が上の著書で、「わづかなる所なり」(辛うじて歌枕の名残をとどめる所だ)
と書いて失望の念を記しているが、芭蕉が「おくのほそ道」の中で室の八島を十分に
綴りきれなかったという現実の中に、貝原益軒の心中と同様、歌枕の地が原形をとど
めていないことへの無念さが込められているように思われる。
このような事情から、芭蕉は、曽良の神学の素養を借りて室の八島の縁起説明をする
にとどめたのだろう。
ただし、「おくのほそ道」には採用されなかったが、曽良の俳諧書留には「室八島」
と題して「糸遊に結つきたる煙哉」をはじめとする5つの芭蕉の句が認められている。
卯月朔日、御山に詣拝す。往昔此御山を二荒山と書しを、空海大師開基の時、日光と改給ふ。
千歳未来をさとり給ふにや。今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の
栖穏なり。猶憚多くて筆をさし置ぬ。
あらたうと青葉若葉の日の光
曾良は河合氏にして、惣五郎といへり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。
このたび松しま・象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと、旅立暁髪を剃て
墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。「衣更」の二字力ありてきこゆ。
廿余丁山を登つて瀧有。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落たり。岩窟に身をひそ
め入て瀧の裏よりみれば、うらみの瀧と申伝え侍る也。
暫時は瀧に籠るや夏の初
日光へ入った芭蕉は大権現(家康の墓)を詣でたあと幕府の関係者と面談をしたと言われて
います。当時は大名クラスではなければ通されないところにも入れた芭蕉の幕府とのつなが
り(水戸藩との関係)を感じさせます、この頃より「芭蕉忍者(隠密)説」が浮上してきま
す、時に奥州の伊達藩の内情を探る打ち合わせをしたとも言われています。
53 :
ダヌル・ウェブスター:02/05/26 23:38
するとやっぱり源義経はチンギス=ハンだったのですね?
コピペで
50 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・ :02/05/26 18:16
日光の○谷ホテル、伝統と格式の裏にあるものは誰にも知られていない。
何があるんでしょうか・・・ワクワクですね、詳細希望です。
やっとオカルトツアーの本題に入れそうです、芭蕉の滞在した日光には
やはり何かありそうな雰囲気が充満しています、東照宮とかきらびやか
な部分が強調されますがきっと何かあるでしょう。
華厳の滝は有名な心霊スポットですし、心霊写真といわれるものも多く
があります。・・・・・芭蕉は華厳の滝を見ることはなかったようです。
55 :
あなたのうしろに名無しさんが…:02/05/27 12:28
麻布さんの書き込みって、すごくいろんな事を調べてて面白い!
残念ながら東北は全然知らないので書き込みできませんが
ROMを楽しんでます!
松尾芭蕉は、46才にして江戸から東北・北陸地方を太平洋沿岸から日本海沿岸
にかけて歩き俳句を詠む旅に出た。約150日間で約600里(2400km)
を踏破した早足ぶり、忍者の里・伊賀上野の出身であることから、忍者ではないか、
幕府の隠密ではないかとの説が生まれた。
根拠&雑感
・1日平均16km・・・、確かにきつそうだけど身体を鍛えていれば歩けない
距離ではない。時速4kmとして、4〜5時間歩けば良い。私にもできそうだ。
足が速かった、辺境地に赴いただけで忍者とするのは如何なものか?間宮林蔵も、
伊能忠敬も、皆、幕府の派遣した忍者ということになってしまう。
・それよりも短い17文字の俳句に多くの情報を凝縮した芭蕉の情報伝達力に
忍者としての本質を感じることができる。これだけ鋭く自然を観察する眼を持
っていれば、人・カネ・モノの動きから、凡人では気づかない情報を抽出する
こともできたのではなかろうか?
・伊賀者であれば、諜報活動は昔も今もお手のものである。諜報活動の95%
は公開情報の分析収集にあるとも言われ、平穏な江戸時代であれば決して戦国期
の陰忍的な術が前提条件ではなかったはずだ。
・俳句の先生なら、そこら辺を徘徊していても誰も怪しまれないだろう。
膨大な旅費を賄うために俳句だけではなく、詳細な調査レポートを幕府に届けて
いたのではないだろうか?
>>55 そのような見方をされて光栄です。ありがとうございます。
>>56 この忍者説を待ってました、水戸藩との繋がりは小石川後楽園(東京ドームの裏)
から始まり以後死ぬまで続きます、これから向かう那須での滞在の長さが時間調
整として史実にあります、歴史発見(NHK)でも忍者(隠密)説が登場しています。
自分は忍者より隠密つまりスパイ説を支持したいと思います。
温泉情報ももう少し集めたいのでここ2.3日は、ここ日光に滞在して温泉にでも
つかりながら、鮎の塩焼きで一杯とまいりましょうか?
仏五左衛門
卅日、日光山の梺に泊る。あるじの云けるやう、「我名を佛五左衛門と云。
萬正直を旨とする故に人かくは申侍まゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」
と云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食順礼ごときの人
をたすけ給ふにやとあるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯無智無分別に
して正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ気禀の清質尤尊ぶべし。
日光
卯月朔日、御山に詣拝す。往昔、此御山を「二荒山」と書しを空海大師開基の時
「日光」と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや。今此御光一天にかゞやきて恩沢
八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。猶憚多くて筆をさし置ぬ。
あらたうと青葉若葉の日の光
黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。
剃捨て黒髪山に衣更
曾良
曾良は河合氏にして、惣五郎と云へり芭蕉の下葉に軒をならべて予が薪水の労を
たすく。このたび松しま象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらん
と旅立暁髪を剃て墨染にさまをかえ惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。
「衣更」の二字力ありてきこゆ。
廿餘丁山を登つて瀧有。岩洞の頂より飛流して百尺千岩の碧潭に落たり。
岩窟に身をひそめて入て滝の裏よりみれば、うらみの瀧と申傳え侍る也。
暫時は瀧に篭るや夏の初
59 :
麻布 ◆1F42ZK8k :02/05/28 23:17
少し寄り道。 川俣、女夫淵温泉、塩原に足を伸ばしてみた。
川俣の平家杉は樹齢1200年といわれている、落人が平家再興の願いをこめて植え
たと伝えられている,再興が成らなけ実をつけるなと願ったとおり,この杉は今だ
に一度も実をつけていない。また、歌舞伎にもある中将姫の伝説がこの地にもあ
り温泉如来は姫の姿を宿している。
そこから川を遡ること30分で女夫淵(めおとぶち)温泉につく。
女夫淵はなんと開業の頃は年間客数が16人、終戦の知らせも10日送れて伝えられ
たという、七里の道を資材を背負い切り開いた当時の主人が、昨今の温泉ブーム
を見たらなんと言うだろう。
ばれ句 「暫くは 湯気に篭るや 夏の初」
いい湯だった。
兄弟スレの「いわくつき温泉」にあったスレの女夫淵とおいらん淵について
普通、めおとと入力すると、夫婦と出るが、こちららは女夫で女性上位です。
(関係ない)女夫淵は、たとえると日本昔はなしの「お爺いさんとお婆さん」で
始まる物語が似合います、しかし、おいらん淵は「あなたの知らない世界」です。
甲州武田氏の山城に従事した人足が、城の完成とともに秘密を守るために殺され
人足の慰めであった遊女も口封じのために、大菩薩峠近くの流れの淵に投げ込ま
れたという事に由来し、ぬれた遊女の亡霊が道に立つといわれています。
しかし、女夫淵も昨年あった事件などを考えると、あながち繋がりは無いとはい
えません。
http://curry.2ch.net/test/read.cgi/occult/1011285730/l50 の662
平家の落人となった武士とその妻が追手から逃れ、この淵で哀れにも自害したと
すれば水辺に亡霊が立ってもおかしくありません。しかし記録ではこの里に源氏
の追手があったとの記録はなく、平穏な暮らしのみがあったようです。
女夫淵 「湯の香なる 木々のこずえに 女夫淵」
おいらん淵 「気がつけば 口をあけたる おいらん淵」字余り
そろそろ、日光に戻ろう。
60 :
あなたのうしろに名無しさんが…:02/05/29 01:49
中将姫って、奈良の当麻寺のですか?
61 :
麻布 ◆1F42ZK8k :02/05/29 02:05
中将姫の伝説は各地にあるようです、岐阜の願成寺には有名な桜があります
ここでの伝説は都(京)から落人とともに苦難の旅して女夫淵に来たといわ
れており右大臣藤原豊成の娘と言われる歌舞伎バージョンと思います。
当麻寺の曼荼羅を織り浄土へ行った姫とは違いがあるようです。
ただ、伝説としての話が多くあるので関係が無いともいえません、それほど
ここの地域の仏教信仰が厚かったと推定されます。
「金○ホテル」は出るそうです。
漏れの区では、消防の修学旅行は日光に宿泊します。
聞いた話では、天上から槍に刺された忍者?が覗き込むとか、
ゲーム場?に女の子の霊が出現するとか聞きました。(先生談)
それから、華厳の滝エレベータまでの間(滝壺に降りる所)でも
「見られてる感じ」がするのでいると思います。
>>62 ありがとうございました、もう一つのスレに貼らせていただきました。
>>61 麻布さま
早速のレス、ありがとうございました。
中将姫の歌舞伎バージョンというのはきっと謡曲「當麻」から
発展したものだと思いますので、
中世にはすでに中将姫伝説というものが
各地に定着していたのかもしれませんね。
65 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/05/30 01:20
○家旅館に宿泊した時の話です。
その晩寝ていると急に金縛りにあい夢うつつの中「部屋を落ち武者が二人横切り、
その間にぼろぼろの服を着たお姫様を見ました。」
そしてこの話を聞いていた母もなんと同じ夢を見ていたと言うのです。
その時はそのままあの夢は一体なんだったんだろうね。ということでまと
まったのですが、帰宅後写真を現像に出して思わずその写真を投げ出して
しまいました。
家族を写したその写真の後ろの屏風に十二単を着たお姫様と武士が浮き出
るように写っていたのです。
62ですが、「あっちとこっち」すれの違いがわからんちんなのですが・・・(苦藁
67 :
麻布 ◆1F42ZK8k :02/05/30 03:17
>>66 するどい指摘ですね。実はこちらのスレはあくまでも「芭蕉の奥の細道」を
追いながらその旅をした場所近辺を紹介(心霊的)しながら日本海まで旅を
してみようという企画です。
そして、もう一つのスレは関東、東北にかけて、いわく付きの温泉などを紹介
していただき面白そうなところがあればこちらのスレで芭蕉一行の名前を借り
て寄り道してみようと考えました。
平たく言いますと、もう一つのスレは素材集めのスレとなります。
またなにか情報がありましたらよろしくお願いいたします。
68 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/05/30 04:50
このスレつまんなーい
62)では、見たり聞いたりした事をあちらにカキコしときます。
(突っ込まんほうが良かった?・・・w )
日光に戻る途中、岩の湯に時間があったのでよってみた。
箒川(ほうき)の急流に面する小さな湯を横に見て、少しばかし奥へ進む。
木々の中に緑が深い、小さな川しそっていくと湯気が見えてきた、滝のよう
に流れる豊富な湯がそこにあった。
湯気の中に体を沈めるとそこは森林浴、湯の香、そしてもしかして若い女性
でもいれば三拍子だったが、それは夢に終わった。
「奥山に もみじ踏み分け 鳴く鹿の 声とそ聞くぞ 秋は悲しき」
猿丸太夫に怒られるだろうがばれ句が浮かんできた。
「奥山の 苔むす道に 湯の流れ 声とぞ聞ける 鬼気(すだま)かなしき」
あぁ、女性でもいればと 「女(ひと)の背を 流す姿に 湯の香」
そして、やっと日光に戻った。
那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。
遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行。
そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬ
には非ず。「いかゞすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道
ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとゞまる所にて馬を返し給へ」と、かし侍ぬ。
ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名をかさねと云。聞なれ
ぬ名のやさしかりければ、
かさねとは八重撫子の名成べし 曽良
頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て、馬を返しぬ。
黒 羽
黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つゞけて、
其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、
日をふるまゝに、日とひ郊外に逍遙して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて玉藻
の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣。与一扇の的を射し時、「別しては我国氏神正八
まん」とちかひしも此神社にて侍と聞ば、感應殊しきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。
修験光明寺と云有。そこにまねかれて行者堂を拝す。
夏山に足駄を拝む首途哉
雲 巌 寺
当国雲岸寺のおくに佛頂和尚山居跡あり。
竪横の五尺にたらぬ草の庵
むすぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、
人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼梺に到る。
山はおくあるけしきにて、谷道遥に、松杉黒く、苔したゞりて、卯月の天今猶寒し。
十景尽る所、橋をわたつて山門に入。
さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむす
びかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。
木啄も庵はやぶらず夏木立
と、とりあへぬ一句を柱に残侍し。
殺 生 石
是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、短冊得させよと乞。
やさしき事を望侍るものかなと、
野を横に馬牽むけよほとゝぎす
殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。蜂蝶のたぐひ真砂の色
の見えぬほどかさなり死す。
遊 行 柳
又、清水ながるゝの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。此所の郡守戸部某の
此柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、
今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。
田一枚植て立去る柳かな
そろそろ那須に向かおう芭蕉一行が待っている。
そこで、芭蕉の忍者説について補足。
俳諧は連歌から発展したもので連歌師たちは諸国を遍歴し諜報活動を担わされたといわれている。
室町時代の連歌師柴屋軒宗長などが有名である。
宗長は今川家の有力な家臣である朝比奈氏の掛川の城を詳細に探索し、日記の中に書き残して
いる。 これが、芭蕉隠密説の根拠となっている、さらに、 その東北旅行に同行した河合曽良の
「曽良旅日記・細道随行日記」と、 芭蕉自身の「奥の細道」との間に八十個所以上にのぼる食
い違いがあることである。 江戸深川を旅立った日から既に食い違っている。
芭蕉は三月二十七日、曽良は二十日としている。
芭蕉の「奥の細道」は文学作品という性格から、文学的デフォルメがあるのは仕方ないにしても、
その食い違いの多くは、そのようなことでは解釈出来ず、 そこには、何か隠されたものがあると
見ざるを得ないと云う。
先日発見された原本の遊行柳についてはまた後に検証してみます。