ヤングにバカウケ
記念真紀子
今だ!2ゲットなのれす〜!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (´´
∋oノハヽo∈ ) (´⌒(´
⊂(´D` )⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
 ̄ ̄ (´⌒(´⌒;;
ズザーーーーーッ
ニビル星で農業できるかな
スカラー波で栽培促進
成長だ
この板の人はみんな寝るのが早いですね
女呼んで
七輪炊いて
いい気持ち
>>3 ∩
( ⌒) ∩_ _
/,. ノ i .,,E)
./ /" / /"
./ / _、_ / ノ' _n
/ / ,_ノ` )/ / ( l _、_
( / good ! \ \ ( <_,` )
ヽ | ヽ___ ̄ ̄ ) good !
\ \ / /
_、_
( ,_ノ` ) n
 ̄ \ ( E) good !
フ /ヽ ヽ_//
今、最もNOWな栽培はなんですか?
幼女栽培ですYO
実に興味深い
苗の仕入れが難しいのが難点ですYO
(´・ω・`)残念です
無理です
タイーホです
(稲 ̄д ̄)y─┛~~~ どなたもおりませんな
藤本美貴のうちわを買いました
すいませんが、どなたか汁まみれ亜衣糊羅もってませんか
(稲 ̄д ̄)y─┛~~~ 持ってませんな
あいぼんは栽培したくないですね
(稲 ̄д ̄)y─┛~~~ 栽培するならののですね
なうな農家のやんぐがですこでふぃーヴぁーふぃーばー
農家にやんぐっているんですか?
青年団なのに50代じゃないんですか?
40過ぎても青年断腸と言われていた河内のおっさんの例もありますからね
20代は勢年団
30代は請年団
40代は凄年団
50代は性年団
60代位から逝年団
>50代は性年団
なんだか切ないぞ
こんな世の中だもん
せめて農学
今だから稲作
放射能で超成長
危機が迫っている今だからこそ本気で農業
今まさに農家の時代到来
我が精液で高品質な野菜を提供
( ゚д゚)新種か?
今もっともNOWなワーク
農業あんど漁業
第一次産業が今暑い
やっぱりみかん畑継ぐよ
おらはリンゴ畑なんか継がないど
農協でべごかうだ
なんで農協なのよ
んがバカだべ
だって農学だもん
べごより鶏だべ
ぶろいらーつーのがいいらしいど
おらやっぱ夢諦めらんねえ
おめえまだあっただバガだ夢見でらのが
いい加減にしねえばとうちゃんおごるど
おらの畑はおらが守る
また減反だよ
おらに死ねって言うのが
まくだなるどのばーがーばっか食うてるなうなやんぐは現実を見なせえ!!
おらコンバインの金払えねえ・・・
ブロッコリーだけじゃ食えねえ
最近腰が痛くて痛くて
用水路が枯れちまった・・・
こんな土じゃダメだ
農家とかかっこいいよね
けみすとりーの片方の実家が農家らしいよ
農家発のいけめんだよ
米を食わせろ
タイ米しかないよ
しこう
みんなさあ
もっと米食べようよ
肉の方がいいべ
知らないのか納豆にねぎをきざむとうまいんだ
君は日本の米を食べているのか?
明るい農村 あげ
野良仕事を明るくできるわけない
家族は和気藹々と仕事してるよ
農家はおやすみの時間ですね
コンビニで炊きたての米を販売するというのはどうだ?
農家は税金やめて年貢米を納めるようにしよう
やっぱり江戸時代のような制度に戻したほうがいい
ダッシュ村しかなかろうよ
若者がいません
40代ならまだまだこれから
何か副業を考えなければ
生きよう
副業っつってもおらなにすればいいんだがわがんねえ
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
困ったねえ
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
米食おうよ
∧_∧ ∧_∧
ピュ.ー ( ・3・) ( ^^ ) <これからも僕たちを応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄〕
= ◎――――――◎ 山崎渉&ぼるじょあ
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
日本の米
age
おらは麦になるだよ
age
91 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 19:22
今だからこそみかん栽培
92 :
農NAME:04/10/17 00:14:46
がんばっていこう稲作
93 :
農NAME:04/10/17 15:29:36
農薬散布
してくる
もちろんヘリだ
94 :
農NAME:05/01/26 00:08:52
不況だからこそ地に足をつけて稲作
95 :
農NAME:2005/04/17(日) 13:04:17
腰痛くても頑張らないとな
おめえら中国の野菜食うよりおらのうんこで育った白菜の方が100倍安心だぞ
おめだぢ今はジンギスカンが流行の最先端だべ
ひつじかえ
98 :
農NAME:2005/08/02(火) 01:15:48
馬糞と牛糞のミックス
ひつじも
うしも
ぶたも
とりさんも
みんな病気でおらもうだめだあ
カレーに100げっとだべ
ムーンウオークおぼえでひりぴんむすめさモデモデになるべ
102 :
農NAME:2005/09/17(土) 16:58:48
馬糞攻め
103 :
俺っち:2005/09/17(土) 22:29:53
さらに.牛糞投げ.デヤ-------*******
うんこ
|┃≡
|┃≡
ガラッ.|┃∧∧
.______|┃´・ω・) はらへったお
| と l,)
______.|┃ノーJ_
今だ!ゲットォォォォ!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ (´´
∧∧ ) (´⌒(´
⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
 ̄ ̄ (´⌒(´⌒;;
ズザーーーーーッ
・・・・・・・
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄
∧∧ (´;;
⊂(゚Д゚⊂⌒`つ (´⌒(´
場違いか・・・・
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄
∧∧
⊂( ゚Д゚⊂⌒`つ;
ドッコイショ・・・・・・・・・
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚Д゚ ,)⌒ヽ
U‐U^(,,⊃'〜
何見てんだゴルァ!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄
ポ ∧∧ ポ
ン ( ゚Д゚,) . ン
(´;) U,U )〜 (;;).
(´)〜(⌒;;UU (´ )...〜⌒(`)
107 :
農NAME:2006/02/18(土) 18:30:21
肥溜めに落ちる寸前だった
うはWWWWWWWWWW
農業NOWWWWWWWWWWW
109 :
農NAME:2006/06/28(水) 00:31:57
今こんな時代だから農業NOW!!
110 :
農NAME:2006/06/28(水) 00:52:26
そろそろトラクターかうべ
112 :
農NAME:2006/11/05(日) 06:46:25
べごかうかねもねえ
113 :
農NAME:2007/01/18(木) 02:16:55
玄米はやっぱまずいんだ
114 :
農NAME:2007/01/18(木) 23:11:35
知らないのか
納豆にネギをきざむとうまいんだ
115 :
農NAME:2007/01/19(金) 13:59:59
とろろ掛けても旨いんだ、それにうるめ鰯あぶれば最高。
116 :
農NAME:2007/02/07(水) 01:42:48
俺はトウホグ生まれ民謠育ち
カッペな奴はだいたいトモダヅ
カッペな奴とだいたい同ず
裏の山歩き見てきたこの町
クボタコンバイン
そう思春期も早々に、これにぞっこんに
農具ならおきっぱなすてきた農道に
まじ稲に迷惑かけた本当に
だが今じゃ時がたち今じゃビニールカバー
そこら中にハウス作る算段だ
農具掴んだら
まずでNO.1
トウホグ代表トップランカーだ
そうこの地この国に生を預かり
JAに無敵の農薬授かり
仲間たつ親たつ稲たつに感謝して耕す荒れたオフロード
酷い話です。拉致(強制連行)され、移送され、管理され、性奴隷にされたのです。しかも北朝鮮に拉致されたという100人や200人の数じゃありません。
陸軍は兵100人に1人の「慰安婦」と言っていたそうで、海外兵員は最大で350万人。ということは3万5000人の慰安婦がいたと言うことです。
そして交代数を入れれば総数7万人。ただしこれは上からあてがった数字であり、現地の軍が独自に集めた慰安婦が別途いて、慰安婦は合計で8万から20万人
いたという証言もあります。全てが拉致された女性ではないとしても、拉致された多くの慰安婦がいたことは歴史的事実です。
歴史的事実といえば、1938年に日本軍が慰安所業者を選定し、業者は中国・朝鮮・日本国内で「慰安婦」を集め、誘拐で検挙し、
陸軍省がそれを統制することになったという記録があります。警察庁の資料では400の業者名があります。また業者の人物選定、
徴募について軍が業者を選定していましたし、地方でも憲兵と連絡を密にしていたことが資料にあり、このことが朝日新聞で報道されて
政府は関与を認めることになりました。
http://blog.nojijizm.jp/archives/50906596.html まさに日本軍、及び日本軍国主義、それを支えた靖国神社、そしてそれらの根元である天皇と天皇制の罪なのです。然るに日本政府は永年謝罪
もせず、あろうことか教科書からもこの歴史的事実を消させてしまいました。確かに北朝鮮による拉致は酷い話です。
でも日本政府はどの面下げて北朝鮮の拉致を非難出来るのでしょう。
【抗日朝鮮人読書会から、集会参加への呼びかけ】
在日朝鮮同胞の皆さん!
祖国全土を血で染めた3月1日!日本帝国主義を打倒して、祖国の独立、民族の自
由と解放を成し遂げるため、私たち朝鮮民族が「独立万歳!」を絶叫した1919年3
月1日!
それから約1年間の間、三千万全民族の総蜂起のもとにこの独立闘争は闘われた
。日帝は、完全に一掃されるべきであった。ところが、私たち朝鮮民族による「
民族自決」の当然の要求を、日帝は検挙、投獄、拷問、虐殺、ありとあらゆる残
虐な手段で完全に鎮圧しにかかった。
日本国家は植民地支配期より現在に至るまで、朝鮮人の独立運動を犯罪化してい
る。独立を要求し団結してきた私たち朝鮮民族を今も変わらず犯罪者としている
。
8.15解放後もなお、日本国家は在日朝鮮同胞に対してあらゆる暴力を駆使し、そ
の存在を抹消しようとしてきた。1949年の朝連強制解散と朝鮮学校閉鎖。朝鮮戦
争下に、殴打、殺害、逮捕、追放され、過酷に弾圧された在日朝鮮同胞を想起し
よう。
外国人登録法下、在日朝鮮同胞を無国籍状態へと放逐して、重罰主義によって監
視・処罰し、専制的支配をしいている日本国家。「韓日条約」締結によって、植
民地支配責任を不問に付したうえ、私たち在日朝鮮同胞に南北分断を持ち込んだ
のは、日本国家である。
今日、日本国家は在日朝鮮同胞、朝鮮総連組織に未曾有の弾圧を加え続けている
。日本国家は植民地支配責任を全く果たさないばかりか、さらなる加害行為を朝
鮮民族に対して行なっている。日本社会はこの言語道断である加害行為を公然と
容認し助成している。
私たち在日朝鮮同胞を取り巻く民族抑圧は「植民地主義」以外の何ものでもない
。今なお在日朝鮮同胞は、植民地支配責任を不問に付した日本の差別的な法制度
や外交政策のもとにおかれている。在日朝鮮同胞を取り巻く植民地主義的抑圧は
、決して過ぎ去ったものでもなく、過去の支配の残りかすでもなく、今なお繰り
返されて
いるものである。
敗戦後日本国家の在日朝鮮人政策は、朝鮮人を主体として承認しない一方で、事
実上「日本人」とは異なるカテゴリーとして扱い支配した。これは朝鮮植民地支
配の原則を引き継いだものである。敗戦後日本国家の法体系は、これを日本国憲
法の枠内で同様に実践するために編み出されたものであり、私たちはこれを植民
地主義が
継続したものと考える。私たちは、この抑圧を克服し、在日朝鮮同胞の解放を勝
ち取るためには、「反植民地主義」の理念に基づく実践が必要であると考える。
私たち抗日朝鮮人読書会は、在日朝鮮同胞に民族解放のための反植民地主義闘争
を呼びかけ訴える。
銘記せよ3.1記念日!集え同胞よ!3.1記念日に在日朝鮮同胞の反植民地主義闘争
を示威しよう!
日午前10時、京都地方裁判所101大法廷で在日無年金高齢者裁判の判決言渡しが
ありました。
弁護団は30分の時間枠を要請していましたが、結果は「原告らの請求をいずれも棄
却する 訴訟費用は原告らの負担とする 」 という主文のみのまさしく「秒殺」の判決でした。
傍聴席が満席となり裁判所の門前で待機していましたが、すぐに「不当判決」の垂れ
幕を掲げた事務局メンバーが出てきました。正直いって一切期待していなかった
つもりでしたが、悔しさと情けなさに涙が出てきました。
戦前・戦中と「日本人」として義務を課しておいて、戦後は「日本人」ではないと一
方的に放り出し、さんざん辛酸をなめさせて補償もせず、人並みの老後を保障も
せず、死ぬまで働けというのか。今目の前にある現実を救済する術はいくらでもあ
るだろうに と。
判決後の報告集会で80歳〜87歳の原告は、命のある限りとことん戦い抜くと口
々におっしゃいました。本当に命をかけた闘いであり時間との競争です。早速明日
から控訴に向けた準備にはいります。多くのみなさんのお力添えをお願いします。
自衛隊員が私人としてソープランドのような風俗営業の店を利用するのと、国家機関である自衛隊が、その構成員の福利厚生施設として、
ソープランドと契約するのでは、ことがらがぜんぜんちがいます。
前者はほめられたことではないですが、私人の愚行権の範囲におさまりますが、しかし、後者をやったら日本は世界中の笑いものになるでしょう。
国家の品格は地に墜ちます。戦前の日本軍は
それをやったわけです。だから、そのことをできるだけ隠そうとした。
「商行為」だという人は、じつは自衛隊がソープランドと特約を結んで、隊員の福利厚生施設にしたりすれば、これが世界中の笑いものになることを、
よくわきまえています。だからこそ、慰安所が日本軍が軍の構成員のために設置した
性欲処理のための軍施設であった事実を、かたくなに否認するのです。
旧軍の慰安所制度を、現在の自衛隊員が個人として風俗営業を利用するのと同じものであるとみなすことによって、
先ほどのちがいを無視するわけです。そのためのトリックが「商行為」という言葉であるわけです。』
ぼくは浅野氏を政治家としてほとんど評価していません。なぜなら彼の声が聞こ
えてこないから。
かといって彼の主張を探ろうという気もしません。本物の政治家というのは、ほ
っておいても万人にわかるような主張をしてしまう動物だと思うからです。
月並みなことをいうようですが、ぼくは政治家には政策が第一だと思います。
たとえば、ぼくが東京都政にとって、ひいては日本の政治にとって一番大切な問
題は、君が代起立強制政策の是非だろうと思います。
それだけじゃないでしょう、という人があるかもしれない。
しかし、この問題への対処の仕方で、その政治家の資質や大まかな方向性がはっ
きりわかる、いわば羅針盤です。
つまりこの問題は民主主義を否定するかどうかという問題なのです。
君が代強制を継続するということは、これははっきり民主主義の否定です。
民主主義を否定しておいて、民衆のための政治、人々のための政治はありえない。
いくら浅野氏お得意の情報公開があったとしても。
ぼくは浅野氏が君が代起立強制政策を打ち切ると期待できません。むしろ肯定的
に推進するのではないかと危惧します。
しかし、それは浅野氏個人が右翼的だということを意味しない。
なぜなら時代が右傾化しているからです。そのような時代にあって流れに逆らっ
て右傾化を阻止するには、民主主義への並々ならぬ渇望といってもいいほどの強烈な
意思が必要です。それが浅野氏にあるとは思えないのです。君が代問題については、
吉万さんもはっきりしていないようですが…。
もし、浅野氏が君が代強制反対を表明するなら、ぼくはそれだけで即、彼を支持
するでしょう。もちろん公約は守ってもらわなければなりませんが。
浅野氏を担ごうとしておられる方々は、マスコミに作られたイメージに踊らされ
ているように見えます。イメージ選挙ですね。
青島のときもそうだった。あの時は本当にがっかりした…
よろしいか?当たり前なのです。ファシズム社会、自民党の感覚する体制と左翼
勢力の感覚する体制は全く別物です、浅野氏を担ぎ出そうとする一派の選挙戦術
と言うのはそのファシズム体制化の思考の上にある戦術なのです。つまり「あな
た方は反石原であるならば○○であるべきだ」と認識を統一させようとしている
のですね。
あるべき姿は意思を統一させることではないのです。それぞれの異なった価値観
異なった思想の中で互いの違いを認め合い共存していくことを共生共闘共存と言
うのです。ところが自民党のファシズムの根源である「数の論理と言う同じ土
俵」で戦おうとしているのが「多くの浅野氏擁立を薦める人たち」の論理になっ
てしまってます。
そりゃま石原は馬鹿ですから、石原以外の人間なら誰でも良い、と言う論理の正
しさは認めざるを得ませんから(^^;、積極的な批判はしようと思いませんが、
「数の論理上で当選した知事はどちらにせよ危険ではあるのです」
ですから都知事選の候補者に対して反石原の票は候補者の何に注目しているの
か?と言うことなのです。その候補者が反石原だと言うのであれば、これまで石
原の何を批判し何とか戦ってきた人物なのか?と言うことなのですよね。
児玉誉士夫(1911年〜1984年)と言えば、「政財界の黒幕」・「フィ
クサー」・「日本の裏のドン」と言われた人物です。戦後日本の政財界と裏社会
を語る上で欠かすことができない人物でした。彼は、政治家、大企業経営者、官
僚、右翼、そしてヤクザににらみをきかす男として恐れられました。ロッキード
事件で逮捕されたことで有名です。また、統一協会を通じて、韓国の軍事政権と
深いつながりを持っていました。
自民党の大物政治家のほとんどが彼と関係がありました。安倍首相の祖父岸信
介、父親の安倍晋太郎、麻生外相の父麻生太賀吉、福田康夫元官房長官の父福田
赳夫、そして田中角栄に中曽根康弘、竹下登・・・。自民党の影の総裁は児玉誉
士夫だ、「闇将軍」だと言われたことがあります。
児玉は以前からアメリカの情報機関である中央情報局(CIA)と協力
関係にあったのではないか、と指摘されてきました。政財官界と裏社会に通じ、
右翼の大物として暗躍してきた児玉は、CIAの対日工作活動にうってつけの人
物だったからです。
このたび、CIAの機密文書が公開されました。そこで児玉に関する資料がありました。
そこに書かれていた児玉に対するCIAの評価は驚くものです。
1953年の報告書です。
「(児玉は)情報工作員としての価値はほぼゼロ」
「プロの嘘つきで悪党、ペテン師、大泥棒。情報工作は完全に無理で金もうけ
以外に関心がない」
(2007年2月26日付け西日本新聞夕刊より)
ここまで言うか、と言いたくなるような酷評ぶりです。よくまあボロクソに言
ったもんだと関心します。
しかし、この評価は児玉という人物の本質をすべて言い当てていたと思います。
ここに書かれてあるとおり、児玉はプロの嘘つきで悪党でペテン師、泥棒でした。
社会主義者だった彼は右翼に転向し、日中戦争から太平洋戦争にかけて旧日本海軍の手先として工作活動を
行い、物資横流しや資金の横領などで莫大な財産を築きました。太平洋戦争敗戦後はA級戦争犯罪人として
逮捕されたものの釈放、その後は山口組や東声会、住吉会などのヤクザや、その配下にある右翼団体をま
とめ上げました。彼は同時に自民党や財界、官界との太いパイプをつくり、ヤクザなどの裏社会とつなぎました。
彼はカネと人脈で「地下帝国」を築き上げ、戦後日本の暗部で活躍しました。今もその全容は明らかになっていません。
朝鮮総聯中央本部 高徳羽(コ・ドク)副議長兼同胞生活局長の談話
(2007年2月28日)
東京地裁は本日午前9時40分、当会の集会と関連した日比谷公園大音楽堂使用許可
取り消しの執行停止を求める、仮処分申請を認める決定を下しました。
これは至極当然の決定であります。
私たちは、3月3日の「3.1節記念在日朝鮮人中央大会」を予定通り行なうもので
あり、同日のデモについても既に警視庁に申請しております。
しかし、東京都はこのたびの東京地裁決定を不服として東京高裁に即時抗告する
とも伝えられており、あくまで集会を阻止しようとしています。
これは、基本的人権と民主的権利を踏みにじる不当千万な行為と断じざるをえま
せん。
そもそも一か月前の1月25日に許可していた日比谷大音楽堂の使用を集会直前に何
ら正当な理由もなく、一方的に取り消すこと自体、極めて異常なことであります。
東京都は、「右翼団体の抗議」を取り消し処分の口実にしていますが、本来そのような妨害行為を規制する
立場にある東京都が、その義務を果たさず、不当な許可取り消しを行なったことは、まさに本末転倒と言わざるをえません。
私たちの集会は、あくまで在日朝鮮人の人権擁護を目的とした平和的な集会であり、
「右翼勢力の抗議」を口実に集会を阻止することは、東京都が在日朝鮮人の人権を侵
害する行為に加担するものと言わざるをえません。
東京都によるこのような不当な行為は、最近の日本当局と警察による朝鮮総聯と在日
朝鮮人にたいする法を逸脱した強制捜索と人権侵害行為、朝鮮学校と生徒にたいする
頻発する脅迫・嫌がらせ、意図的につくられている民族排他と蔑視の危険な風潮
と決して無関係ではありません。
東京都は、今回の不当な措置を自ら撤回し、在日朝鮮人の正当な権利を尊重すべ
きであり、また日本政府当局もこれを機に、朝鮮総聯と在日朝鮮人にたいする不当な
政治的弾圧と規制を即時中止すべきであります。
127 :
農NAME:2007/03/03(土) 12:18:54
おら白菜もう潰したくねえ
アイゴー
3.1独立運動88周年を迎え、あの日の自主独立の叫びを今日に引継ぎ、日本の右
傾化を糾弾して、東北アジアの平和のために敢然と立ち上がった在日同胞と日本
の皆さんに、熱い連帯の挨拶を送ります。
日本と韓国は東北アジアの和解と平和、共存のために、共に努力すべきパート
ナーだといわれますが、これまで日帝時代の苦しみを清算できていません。日本
の保守層は軍備を増強し、軍事大国化を強化しようとし、東北アジアの緊張と軋轢も高まっています。
私たちは過去の歴史的な反省なしに軍国主義の復活を画策する日本の右翼と政
府当局を強く糾弾します。独島(日本名、竹島)問題、教科書の歪曲、靖国神社
への参拝、平和憲法の改悪など、最近日本の右傾化は大変深刻なものがあります。特に、政権の座に
就くや否や、教育基本法を改悪し、防衛庁を防衛省へ昇格させ、自分の任期内に必ず憲法改悪を行うとする
安倍政権の右傾化政策に、私たち
は憂慮を禁じ得ません。過去の歴史に対する反省なく侵略の歴史を美化する日本
の再武装化は、東北アジアの平和を深刻な脅威にさらします。よって私たちは日
本の右傾化を決して許さず、東北アジアの平和を愛する民衆と共に肩を組んで闘
い続けます。
さらに私たちは、日本政府が朝鮮半島の平和に脅威となる北への制裁を解除し、日朝関係改善に
乗り出すまで力強く闘い続けるつもりです。
日本の右翼勢力と安倍政権は、「拉致問題」を政治的に拡大誇張し、北の核実
験を口実に軍国主義復活を進めています。私たちは、在日の朝鮮学校生徒に対す
る暴行、人権蹂躙や総連同胞への弾圧は、このような対北制裁の一環だと
みています。
2月13日六者会談における初期措置の合意によって、朝鮮半島の非核化と平和体
制のベースが築かれました。朝鮮半島に平和が芽吹こうとしている今、六者会談
を破綻させ、戦争を呼び込む日本政府の対北制裁は決して座視してはなりません。
在日同胞の皆さん!そして、東北アジアの平和を願う日本の市民の皆さん!
隣国の私たちが過去の歴史を清算し、平和に共存し、連帯を強化するよう共に
努力しようではありませんか!日本の右翼と政府が真の悔悟と反省により軍国主
義の亡霊から抜け出すまで、制裁ではなく対話で、日朝関係の改善に取り組むま
で力強く闘いましょう!
野村さん、お疲れ様でした。私も集会に参加しましたが、
やはり同じように入り口で止まられ、いろいろと訊ねられました。
私の場合は、どうにか入れてもらえましたが、
入り口の警備の方はかなりピリピリした表情で、
そういう状況をつくった日本社会の現状について考えされられました。
集会とデモに関しては、とても感動させられるものでした。
大勢の人間が集まっているとはいえ、上記のような緊張した雰囲気の中、
参加された在日の方々には、大なり小なり恐怖心もあったことと思います。
しかしそうした中においても、不当な差別・迫害に対する怒りと
民族的な誇り、人としての当然の自尊心を掲げて、
この日本社会に断固として意義を申し立てる、
そうした本当にかれらの「人間らしい」姿に心を揺り動かされました。
歴史的事実と世界情勢に対する無知、そしてそこからくる偏見で、
かれらの姿を見ても「どうせ朝鮮総聯のデモだろ」というような
感じ方しか出来ない人間でなくて良かったと、この日、痛感させられました。
何はともあれ、日比谷の集会の件といい、渋谷区の読書会の件といい、
こうした攻撃は単に在日朝鮮人の方に向けられたものではなく、
排外主義を煽って進められる弾圧強化体制の一環という意味でも、
平和を望む者すべてがもっと深刻に考えるべき問題をはらんでいると
つくづく考えさせられました。
慰安所というのは日本軍将兵による強姦事件があまりにも頻発したので作られた(もちろんそれでも強姦事件がなくなったわけではなかった)ことを知らないのかねえ。
何が「英霊に失礼」だよ。強姦魔になにを遠慮しなきゃなんねえんだよ。こいつ本当に頭おかしいな。
さらに、日本人慰安婦については一部にだまされて連れて来られたものがあるにせよ、大多数は現役の「醜業婦」でした。したがって、
一部にだましたり、威かしたり、金銭で縛ったりするなどしても、募集に応じる自発性がかなりありました。これは一部の日本女性の犠牲に
よって前線の将兵の慰安を行うということです。この場合、前線の将兵の慰安を行うという目的にはRAAほどの目的の正当性がないと思います。
国家の倫理としてかなり問題のある行動だと思います。
現在、慰安婦の問題が中韓、東南アジア各国から非難を浴びるのは、日本人慰安婦についてではありません。(ついでながら、日本人慰安婦からは
政府の責任を追及する動きがあるのでしょうか。その当たりは私はまだ勉強していません。だれかご存知なら教えて下さい。)
日本人慰安婦にはまだしも、日本の兵隊さんに気持ちよく戦闘してもらい、国を守ってもらうためだ、という目的意識がありました。
日本人慰安婦の一部にだまされたり、威かされて就業したものがあったとしても、政府の追求の声が上がらないのだとしたら、このため
ではないかと思います。言葉には尽くせないほどのひどい待遇であったとしても、日本人慰安婦がお国のためと我が身を納得させる
大義があったためではないかと思います。
朝鮮・韓国、中国の人たち、さらには東南アジア、オランダの慰安婦被害者の方たちにとっては就業に至る経過が強制的なことはもちろん、
日本人慰安婦のように自分を納得させるための大義はなかった。自国を抑圧し、蹂躙するための兵士の慰安に我が身を供するというのは
二重の苦痛でしかなかった。
強制の有無ということは形式的には強制した側の行為の内容を問うことでしょうが、実態としては強制される側が嫌がっていたか、
どうかが最大の問題ではないでしょうか。
安倍首相などは銃剣をちらつかせて連行した、とか家屋に押し入って連行したなどの事実がなかったことをもって、
「狭義の強制がなかった」という例証にしようとしています。もともと、慰安婦になりたくてなる人などいないのですが、
さらに自身を納得させる大義もなかった。このことこそ慰安婦問題の本質ではないでしょうか。
「広義の強制性」の説明として「行きたくないが、」の部分は朝鮮人女性の消極的意思だけを示しており、積極的拒否に及んだ事実を無視している。
しかし、それより問題なのは、「結果としてそうなった」という部分において
1.行為の主体が日本政府・軍であること
2.行為の内容が「強制」に他ならないこと
の二点をぼかしていることである。
狭義の強制性というものを「(官憲が)家に乗り込んで強引に連れて行った」などのように思い切り狭く解釈して慰安婦問題を否定するのは、安倍氏が属する
ウヨクグループの昔ながらの手口である。しかし、狭義の強制性をいかに解釈しようが、慰安婦問題の本質とは植民地女性、侵略先のアジア人女性
を強制して性労働に酷使したという事実にあることは覆しようがない。そしてこの事実総体が広義の強制性に相当するのである。
今回、「狭義の強制性」を否定する事実がないといいつつ、実際にごまかそうとしたのは「広義の強制性」それ自体であった。
それも事実関係を上げて否定するのではなく、口先だけ、言葉を操ってごまかすという姑息なものであった。
136 :
農NAME:2007/03/11(日) 03:43:38
おらのキャベツは日本一だど
大日本帝国・日本軍はは心底腐っていたが、
もはやそれを擁護する人間も同様に腐っている連中しか残っていないのだ。
右翼に未来はない。
大日本帝国・日本軍の亡者となった右翼は大日本帝国・日本軍の加害と侵略と戦争犯罪の
紛れもない事実をなきものにするために、ありとあらゆる汚い手段を講じてくるのだろう。
「慰安所をつくる時には、たとえば建物は軍が提供するわけですね。内部を改造す
る場合も軍がやります。それから料金も軍が決定する。それからどの部隊が何曜日に
利用するのかも全部決めていく。
それから業者には、そこに入っている女性は名簿を含めて全部ださなければなら
ない、売り上げなんかもチェックするということをやっていたと思うんですね。
ですから仮に慰安所で問題が起こったとすれば、業者にももちろん責任はあると
思いますけれども、慰安所制度をつくり運営した主体は業者ではなく、軍ですから・
・・主要な責任は軍にあるということになると思いますね」
朝鮮人被爆証言者・パク・ミンギュさんを偲ぶ特別展&ビデオ上映会の
ご案内です。
今回は、戦争と原爆、戦後の差別により過酷な生を強いられたけれども、
常に明るさとユーモアを失わず、同じ境遇にある朝鮮人被爆者を助け、
学生たちに希望を語りつづけた朴さんの、追悼特別企画です。
ぜひぜひ、差別に満ちたこの日本で、強くそして明るく生き抜いた
朴さんに「再会」してください。朴さんを知らない方も、この機会に
そういう人生があったことを知ってくださればと思います。
ウイルスセキュリティZERO
141 :
農NAME:2007/03/16(金) 22:14:34
銀座ナウ
それにしても南京大虐殺や従軍慰安婦否定論者って、これ↓を読んだことあるのかな?片方は「防衛研究所戦史部図書館所蔵」、もう片方はあの「靖国楷行文庫所蔵」ってブツです。
これでも南京大虐殺を否定するつもり?『戦場心理ノ研究−総論−』/早尾乕雄陸軍中尉(防衛研究所戦史部図書館所蔵)
余ガ南京へ入ツタノハ陥落後一週間デアツタカラ市街ニハ頻々ト放火ガアリ見ル間市内ノ民家日本兵ニヨリ荒サレテ行ツタ。下関ニハ支那兵屍体ガ累々ト重リ是ヲ焼キ棄テルタメニ集メラレタノデアル。
目ヲ揚子江岸二転ズレバ此処二山ナス屍体デアッタ。其ノ中二正規兵ノ捕虜ノ処置ガ始マリ海軍側ハ
機関銃ヲ以テ陸軍ハ惨殺、銃殺ヲ行ヒ其ノ屍体ヲ揚子江へ投ジタ。死二切レナイ者ハ下流二泣キ叫ビツ、泳ギユクヲ更二射撃スル。是ヲ見テモ遊戯位ニシカ感ジナイ。中ニハ是非ヤラシテクレト
首切リ役ヲ希望スル将兵モアル。」
「岡村寧次大将陣中感想録」(靖国楷行文庫所蔵)
「中支戦場到着後先遣の宮崎参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州機関長萩原中佐等より聴取する所に依れは従来派遣軍第一線は給養困難を名として俘虜
の多くは之を殺すの悪弊あり、南京攻略戦に於て約四、五万に上る大殺戮、市民に対する掠奪、強姦多数なりしは事実なるか如し」
世の中には、コトバの通じない相手が存在するのだ。
右翼の存在を前にした時、もはや「話し合い」は無力である。
「話し合い」の万能を信じることは、右翼の暴力に立ち向かう有効な手段とは言えない。
それよりも、コトバの届かない世界と向き合い、その時に覚えた絶望感を思考の起点として、いっそう戦闘的な言論を繰り出して行くことにしよう。
それが、右翼に対処する上での、唯一の正統な作法である。
確かに,BBCなど海外の報道を見ていると,原則としてはっきり"sex slaves"と表現していて,"comfort women"という表現を使う場合は
"so-called"(いわゆる)などとつけていますね。
ちなみに日本の読売新聞などでは「いわゆる従軍慰安婦」などと表現しているようですが,この「いわゆる」は全く逆の趣旨ですね。
「従軍慰安婦」という婉曲表現ですら不当な誇張だと言いたいらしい。
ケニアで知り合ったデンマーク人看護婦は「Forced prostitutes」と表現していました。それが誰によって強制されたのかが問題になっているのよ、とわたしが
言うと「強制した人が誰であろうと、女性にセックス提供をさせた行為に変わりはない」と言われてしまいましたわ。
英語圏では身分の「奴隷的拘束」を問題視し、北欧では「女性本人の意思を無視したセックスの強要」を問題視しているんでしょうか。そういえば
エクアドルで知り合ったフィンランド人も同じ表現をしていました。
146 :
農NAME:2007/03/21(水) 02:17:52
知らないのか
レタスにマヨネーズ付けて食うとうまいんだ
平和だなぁ
日本軍は中国に侵攻した時など、村民は、老若男女をすべて連行にして寺院わきの丘のまわりで串刺しにした。また、
ある村落では、酷い場合幼児から老人までことごとく串刺しにされてしまった。そして、日本の将兵はその光景を見物しながら食事をしたというのだ。
南京に侵攻した時など、彼は、捕虜を含むあらゆる人々30万人以上を虐殺した。その殺し方も実に惨たらしいもので、
生きながら串刺しにしたり、焼き殺したり、ゆで殺したり、生皮を剥ぐなどして殺し尽くしたのであった。目撃者の一人は、
串刺しにされた死者の列がまるで樹海のように林立するこの世の地獄絵図に全身総毛立つ思いだと感想を残している。
日本軍は、また身の毛のよだつ恐ろしい処刑方法を考案した。それは、ネロやヘロデなどの残酷で知られる迫害者ですら思いつかぬような残虐で猟奇的なものだった。
例えば、母親と幼児をともに串刺しにしてみたり、母親の乳房の片方をえぐり落とし、幼児の頭をそこに押し込んだ上で串刺しにしたこともある。大きな鍋をつくらせその上に穴を
開けた板をわたして、捕虜の頭を突き出した形で釜ゆでにしたこともあった。
このように、吐気を催す拷問、むごたらしい虐殺、猟奇的カニバリズムなどありとあらゆる残虐行為を繰り返して行った日本軍とはいかなる軍隊であったのだろうか?
http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-41.html しかし、こいつら〔安倍晋三のブレーン〕って日本が被害国である拉致事件を「歴史捏造主義者」の論理で
否定されたら許せるんだろか?
↓例えばこんな感じで
◯金正日の「(拉致)は特殊機関の一部が妄動主義、英雄主義に走って起こした」発言から分かるように北朝鮮政府は拉致をしていない
◯拉致したことを証明する公文書は一切存在しない
◯北朝鮮で高額な給料をもらい裕福なくらしをし結婚までしていたのだから拉致ではない
◯拉致被害者の数が毎年増え、いつのまにか10倍に増えているのはおかしい
◯拉致被害者と言われている方の証言内容に不明な点が多く証拠にはならない
◯当時の工作船には朝鮮半島まで戻る技術はなかった
◯日本が主張する拉致被害者の姿がどこにも見当たらない
◯当時は楽園と呼ばれていたので、日本人達は自分の意思で北朝鮮に来た
◯拉致事件はCIAと公安の陰謀によるでっち上げである
こういう大嘘が被害にあった国の国民感情を煽ってることぐらい気付けよ! それに、あの極悪非道な金正日でさえ拉致を
認めてってことは・・・安倍は金正日以下の人間性ってことになるよね。
世界中でおのれの評価をガクッと下げるのは勝手だけど、日本のイメージまで悪くなるから、
首相やめてからにしてくれるかなぁ。もちろん再チャレンジ禁止でね。
『日刊ゲンダイ』(3月14日号)に掲載された私の談話を紹介する。
《政治評論家の森田実氏は言う。「安倍首相が従軍慰安婦問題をぶり返し、河野談話についてあれこれ言うのは、まったく余計なこと。反省がないと
ニューヨーク・タイムズの社説で批判され、アメリカにまで反感を持たれるのは当然のことです。これは欧州にも波及します。これでは北朝鮮の
人権無視をいくら批判しても、世界は共鳴してくれません。これで分かるように安倍は、自分の発言が世界でどう理解されるか、それが
どうハネ返ってくるか、全然計算できない。それでいて、右翼思想のブレーンたちに引っ張られ、なまはんかな知識だけで右翼政治を突っ走ろうとしているから、
非常に危険です。もともと大した人間ではない男が、周囲のタカ派に動かされて跳びはねることほど怖い政治状況はありません」》
安倍首相の従軍慰安婦問題に関する「狭義の強制はなかった」との軽率発言は、日本の国益を損ねる重大失言だった。アメリカのメディアは
安倍発言をきびしく批判している。安倍発言の結果、日本は、第2次大戦における日本の責任をうやむやにしようとする卑しい態度をとる国だと
見られ始めている。安倍首相の責任は大きい。
安倍首相はこの大失態を覆い隠すために、独裁的政治の道を突っ走り始めている。過ちの上に過ちを重ねている。
それにして、この安倍首相へどこまでもつき従う公明党という政党は、なんという堕落した政党なのだろうか。公明党のうしろには日本最大
の宗教団体が控えている。巨大宗教団体・創価学会は、いま何を考え、何をしようとしているのだろうか。
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C03236.HTML
常軌を逸した行動で、まさに血も涙もないとはこのことだ
荒唐無稽な行動のなかにも、占領の残酷さがくまなく表れている。
どうして今頃、とウヨクの人や政治家は言いますが、従軍慰安婦の人は、強制されたけれど、恥ずかしいと思って、家族の元に帰ることができなかったり、自殺したり、結婚相手や子供に話せなかったり、
戦後も大変過酷な人生を送ってきました。私は、顔やおなかに消えない傷跡が残っている女性の写真も見ました。彼女たちの尊厳を踏みにじり、一生を台無しにしたのは、誰でしょう。それなのに、
ウヨクもアベ一派も証言は信用ならん、強制はなかったなどと、ふざけた国際感覚、人権感覚ゼロのことを言います。「証拠、証拠」と言う人に言いたい。そんなに彼女たちの証言が信用できなくて、
証拠主義にこだわるのなら、人生最後の力を振り絞ってする彼女たちの話を直接聞きに言って、疑問、質問をすればいいと思います。多分、
その前に、そんな日本人には会いたくないと拒否されるでしょうが。
従軍慰安婦が実際に存在した歴史的確証がない。
強制的な慰安婦が存在したかどうかは客観的に確かめられなければならない。
両国合意の上で朝鮮半島は日本に併合され、1910年から1945年の間、合法的であった売春婦が日本に出稼ぎに来るのに、何の問題もなかった。
今頃になって韓国は日本に植民地支配され、慰安婦を強制されたと言っているが、戦勝国アメリカの力を借りて言っているだけ。
何だ!?この暴言は!
安倍晋三も酷いが、この男の酷さは何だ!
開いた口がふさがらない。
侵略され、殺され、犯された側の論理に立てない奴を首長にしておいていいのか?>宮崎県民の皆さん
大日本帝国・日本軍は十分非難に値する大悪党であり、これ以上ないほどの残虐な破壊行為をアジア・太平洋地域の植民地・占領地各地で容赦なくやりつくしたことも確かである。
だが、アメリカがイラクでやっていることもそれと同じくらい酷い。
日本兵が14歳少女の若さと純潔奪う!兵舎に連れ込み服剥ぎ取る!朝から晩まで毎日レイプ!−フィリピン
【マニラ/フィリピン 15日 AFP】1943年、当時14歳だったVirginia Villarmaさん(78)は若さと純潔を奪われた。その時の出来事を思い出すたびに、深いしわが刻まれた
顔が涙で泣き濡れるという。
Villarmaさんは食べ物を手に入れるためマニラ郊外の通りを歩いていた時、突然、日本兵の集団に襲われた。動物のように軍用車の後座席に投げ入れられると、
港にある兵舎の一室へ連れて行かれ、そこで服をはぎ取られ3、4人の兵士に繰り返しレイプされたという。Villarmaさんが悲鳴を上げ相手を殴って抵抗すると、
失神するまで殴られたり蹴られたりした。
「静まりかえった部屋の中で意識が戻ったとき、体中に激しい痛身を感じました。その痛みはその後も消えず、今も残っています。その日から3か月間、
朝から夜まで毎日虐待され続けました。あれは私の一生で一番長い3か月でした」
VillarmaさんはAFPの取材に応じて、ピンクのハンカチを指に巻きながら静かな声で語った。
「それが地獄の始まりでした。当時何が起きたのか、そしてなぜ私たちが日本政府に過去の過ちについての正式な
謝罪を求めているのかを、大勢の人に知ってもらいたいんです」
取材中に時折、言葉に詰まると金縁の眼鏡をはずし、目にあふれる涙をぬぐった。
3か月後、連合軍の爆撃のおかげで、Villarmaさんはやっとのことで兵舎から逃げ出すことができた。
だが、彼女の人生はその出来事を境に一変した。
http://www.afpbb.com/article/1417133
「要求」はさらに日本側の「公式で明白な謝罪」と「戦争犯罪の否定の違法化」「日本の侵略や戦争犯罪のあらゆるレベルの学校での教育の徹底」などを主要点
としている。同議会筋の指摘では、これらの主要諸点は(1)強制徴用の公式な認知と明白な公式謝罪(2)軍による慰安婦の性的奴隷化を否定する
言論の禁止(3)慰安婦についての今後の国内での学校教育−という
決議案の主要諸点とぴたりと合致しており、「要求」と決議案は構成面でも一致している
本件、麻生が、「客観的事実にもとづいていない」との態度を表明した。
「客観的事実」を調べもしないヤツラ。 まさに戦争犯罪人の流れを汲む
オツムしか持っていないやつら。
自民党の稲田という議員は、女だった。(知らなかった) お前も、性奴隷に
されてみるがいい。 同じ女性の哀しみ、憤怒に寄り添えない心を持って
いるなら、同じ体験を味わえば分かるだろう。
158 :
農NAME:2007/03/25(日) 00:45:32
しいたけお
ナンシー・ペロシ下院議長、
ここに名前を連ねる私たちは、議長が下院決議121-1Hを支持することをお願いするものです。下院本会議での議決を望みます。
1980年代の後半に韓国や日本の歴史家や研究者たちが、第二次世界大戦における慰安婦に対して組織的な虐待が存在したことを明らかにする公文書を発見しています。
これによると、20万もの若い女性が東南アジア各地から日本兵によって囚われの身となり、軍の性奴隷とされたと推察されます。
50年にわたって口を閉ざした後、生き残った慰安婦たちは恥の文化の殻を破り、彼女たちが体験した日本帝国軍による組織的な強姦と性奴隷扱いを証言しました。
彼女たちの要求は単純です―彼女たちは、自分たちを苛んだ戦争犯罪に対する公式な謝罪と賠償を求めています。彼女たちの経験した
犯罪は今も、老いていく彼女たちを肉体的に、精神的に、そして性的に苦しめています。彼女たちは、自分たちの尊厳を取り戻すため、
そして自分たちの娘、孫娘、そしてひ孫たちの安全を確保するために、これらの要求をしているのです。
生き残った慰安婦たちのほとんどはもう80歳を過ぎています。もうすぐ死を迎える人も多いでしょう。私たちは、連邦議会が速やかに
行動することによって、何人かが亡くなる前に正義がなされるのを見届けることができるようになることを希望します。
http://blog.livedoor.jp/baisemoi_bullet/archives/53405556.html
だからさぁ、何度も言ってんじゃん!他人の非を責めるときは、先ず自分の襟を正さなくちゃダメだってさぁ。
日本帝国主義が起こした「朝鮮人強制連行」や「従軍慰安婦」は知らぬ存ぜぬで、北朝鮮による「拉致」には過剰反応するなんて「美しい日本人」じゃないね。
相手を殴り殺しておいて、いざ自分が蚊に刺されたら大騒ぎするのと同じじゃん。バッカみたい!そんなくだらないDVDを、我々国民が納めた税金使って作るなんて許せんな。
それにしても「拉致 許されざる行為 北朝鮮による日本人拉致の悲劇」って題名がまた笑わせるね。そんなもんは先ず「拉致 許されざる行為 日本による
朝鮮人拉致の悲劇」とか、「拉致 許されざる行為 日本軍の性奴隷にされた中国人・朝鮮人の悲劇」ってDVDを作ってからにして欲しいね。
更に、自慰史観のそんなDVDを在外公館に配布するなんて日本人の恥を世界に晒すようなモノ。安倍晋三はどこまで日本と日本人に恥をかかせれば
気が済むんだろうか。まさに国賊だね。逝って良し!>安倍晋三
従軍慰安婦問題は、被害者の視点に立って考えてみることを忘れてはいけないのだと思う。安倍首相はじめ、タカ派といわれている人たちは、
自己主張ばかりが強くて、謙虚さが欠けているように思えるのです。安倍首相の予算委員会での物言いは、戦後60年の歩みで、戦争責任の牢獄から
解放されたのだ、無罪放免になったのだと言っているようにしかとれません。とても河野談話を継承しているとは認められません。言っていることと
やっていることが違うというような不信感があります。戦後60年、日本が築き上げてきた信頼も、崩そうと思えばあっという間に崩れてしまいます。
安倍首相は、その崩壊への道へ日本を導こうとしているように思えてなりません。
安倍首相の従軍慰安婦問題に関する発言には、政治評論家の森田実氏も自身のホームページで痛烈に批判しております。安倍首相は、
良家の坊ちゃんとして、純粋培養で育てられてきたのです。その悪い面である傲慢さが出てきたのが、従軍慰安婦に関する発言なのでしょう。
安倍首相は、国会で質問者に、日本をおとしめるのかと恫喝したが、日本をおとしめているのは、安倍首相自身であることにも気づいていないのである。
http://www.janjan.jp/government/0703/0703232269/1.php 〔外国人〕記者からの〔中曾根康弘への〕質問趣旨は2点に集約された。1つ目は慰安婦問題を一般的にどう思うか。2つ目は、中曽根氏の回顧録に出てくる「慰安所」について。
海軍将校だった中曽根氏がボルネオ島で設営した「慰安所」で兵隊さん相手の売春が行われていたのではないか、と外国人ジャーナリストたちは追及した。
元首相は「私は飛行場を作る施設部隊にいた。(相当な期間を要するので)、徴用した工員たちのための娯楽施設を設営した」と説明した。
「『娯楽』とはどんな娯楽か」「強制はあったのか……」入れ替わり立ち替わり次々と質問を浴びせた。1人で2回も質問する英国人記者(『THE TIMES』紙)もいた。
元首相は上記の答えに加えて「海軍におったのでその点は知らない」を繰り返すのだった。慰安婦問題の一般論については「河野談話を踏まえて謝罪すべきは謝罪する……」と答えた。
それにしても外国人記者たちは凄まじい熱気だった。筆者も慰安婦問題は大きいテーマだと思うが、まるで蜂が群がって刺すような外国人記者の勢いだった。元首相はブ然とした。
時間も限られているのに1人が2回も質問したり、元首相が「娯楽施設」と答えれば「どんな娯楽だったのか」と突っ込んだり。日本人記者と政治家との「馴れ合い関係」では先ずあり得ない追及だった。
記者会見が終った後で外国人記者数人をつかまえて「あそこまで拘った理由は?」と質問した。中曽根氏に2回質問した『THE TIMES』紙の記者にも聞いた。英国では別に問題になっていない、
いう。「アベさんがこの問題についてコメントしているから」と説明した。
『……?安倍さんがコメントしているからと言ってなぜ中曽根さんに?』筆者は何のことやら分からなかった。すると、ある米国人ジャーナリストが“解説”してくれた。オチは意外なところにあった。
「安倍さんはとにかく話がヘタなので何を言っているのかわからない。主語もはっきりしない。(だから知恵者の中曽根さんに聞いたのよ)」ということだった。
海外メディアの東京支局には有能な日本人取材助手がいる。彼らがちゃんと翻訳しても、安倍さんの話はわかりにくいのだろう。
>1943年、当時14歳だったVirginia Villarmaさん>(78)は若さと純潔を奪われた。
>3か月後、連合軍の爆撃のおかげで、Villarma
>さんはやっとのことで兵舎から逃げ出すことが
>できた。
完璧に捏造ですね。
連合軍が日本軍支配下のフィリピンを初めて空襲するのは1944年9月22日です。
つまりこの証言は全くのデタラメ。
簡単にばれる捏造を平気でやるところが浅ましい。
安倍晋三の慰安婦問題での非強制発言は、まさに“歴史的自白”である。
彼がその言動によってかばい立てしているのは、天皇に代表される日本の支配者層の
悪辣な行動であり、慰安婦問題に関して言えば、彼の祖父である岸信介や中曽根康弘
らとその仲間が行った蛮行であり、その支配者層の系譜を彼がそっくりそのまま受け
継いでいるからである。
人間というのは正直なもので、自分が行った行動は自分が一番よく知っている。
そして、慰安婦を作った支配者層の“記憶”は、今、その後継者である安倍晋三の口
を借りて語られているのである。何も言わずに黙っていれば、あえて問題にはされな
かったかもしれない慰安婦問題に自ら火をつけ、墓穴を掘っているのである。それは
自分が受け継ぐ支配者層が犯した犯罪から一刻も早く逃れたいと願う一心から出たも
のであり、まさに彼らが犯した歴史的犯罪の動かぬ証拠をわれわれの前に披瀝してい
るのである。
この上は、彼らが自ら掘った墓穴をさらに大きく掘り、そこにかれら支配者層と
そのゾンビ集団を埋めてしまわなければならない。無論それは暴力を伴わない、平和的で政治的な手段によって
達成されなければならない。
とにかく、安倍の失言によってアメリカの信頼を失いつつあることが、安倍内閣の土台を危うくしている。保守系論壇誌にも動揺が見られる。たとえば、ついこの間まで「親米右派」
路線一本槍だった「正論」は、最新号(4月号)あたりでは、中国とアメリカを同時に敵に回すような、国粋主義的なスタンスに変化しつつある。
安倍のブレーンの一人に、「アングロサクソンの言う通りにやっておけば、日本は安全だ」などとほざいている岡崎久彦という男がいるが、
彼に従軍慰安婦に関する安倍発言についてコメントを求めたいものだ。
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-294.html
一個人に置き換えたとする。社内で事故がおき(災害に巻き込まれ)、社員が一人死亡した、そしたら、担当役員が全社員及び遺族を含む家族に向って
「一人の死亡で良かった」と発言したようなものである。
もっと言えば、友人同士が災害に巻き込まれ、一人が死亡した。そして、ご遺族に向って、「一人の死亡で良かった」と発言したようなものである。
国家は、一人一人の命の尊厳を守ることによって、国家の安泰と繁栄を得ることが出来るのである。また、亡くなられた方の御家族、親族、友人、知人
にとっては、かけがえの無い、代わりのいない存在である。故に、一人だから良かった、これは亡国路線である。
事実、自殺者数は3万を超えている、3万を超えていても、「たった年間30,000の自殺者数だから良かった」と安倍政権は考えているのであろう。
故に、満足な対策を採らないのではないだろうか。過去にも触れたが、安倍政権の再チャレンジとは、国会の質疑でも明らかのように自殺防止対策が原点である。
しかし、話がコロコロ変り、無策である。無責任内閣の極みである。同胞の死を悼まない国民や国家とはなんぞや?烏合の衆である。
スターリン「一人の死は悲劇だが、万人の死は統計だ」
これを、安倍政権バージョンにすると、
安倍政権「一人の死は幸い、3万の死(自殺者)は統計である」
柳沢的比喩「一つ機械の故障は幸い、3万の機械の故障は統計である」
伊吹「一人一人の死を気にしてたら人権メタボリックになる」
これが、安倍政権の本音である、と四季桜は考える。
あの暴力的スターリン、大虐殺政権のスターリンでさえも、「一人の死を悲劇」と言うが、安倍政権にとっては「幸い」なのである。
つまり、安倍政権は、スターリンよりも危険なのである。
http://youkoclub.blog87.fc2.com/blog-entry-179.html
8月6日、わが故郷広島の平和祈念式典で、小泉首相は例年通り、まったく心のこもらない棒読みで、首相として広島での
最後のスピーチを終えました。改憲論を主張してはばからない首相が「非核憲法の堅持」という言葉をしゃあしゃあと棒読みする空疎さ。こんな非礼な
スピーチをするために広島へ来てほしくないと、毎度ながら怒りがこみ上げました。
約1週間後の8月15日、「公約」の終戦記念日靖国参拝を果たした小泉首相の上気した表情と決然とした自己正当化の言葉。広島での棒読みとの、この恐るべき落差。
彼は靖国参拝を「心の問題」と言います。これがただの神社参拝なら、誰も文句など言わないでしょう。
明治以降の「皇軍」戦死者を神格化する別格官弊社を由来とする施設として、帝国日本の植民地拡大戦争を正当化するイデオロギー施設
であるからこそ靖国が問題なのは言うまでもありません。靖国の遊就館は、日本国憲法や教育基本法を、占領軍が日本を弱体化するために
押し付けたものと呼んで憚りません。これを首相が「公式参拝」することは、靖国の植民地主義・軍国主義イデオロギーを日本国家が公認したに
等しい行為であり、だからこそ、その行為によって「心」を踏みにじられる者は、たくさんいるのです。小泉や右派連中は
そのことに一片の想像すらも寄せられないのでしょうか?
例えば、植民地朝鮮や台湾から「日本人」として軍役に徴用され、「日本人」として戦死、あるいは戦犯として処刑された人々。彼らは侵略者に奉仕するために命を奪われた挙句、
本名ではなく「日本名」で、しかも自分たちから祖国を奪った植民地拡大戦争の指導的人物らと同列に並べられて「英霊」とされているわけです。これほどの屈辱があるでしょうか。
彼らの遺族による合祀取り下げ訴訟の続発は、靖国とその支持者らがいかにこうした遺族らの「心の問題」を踏みにじっているかを、はっきり示しています。
これは何も植民地出身者だけではありません。日本人にも自分の家族が断りもなく「英霊」とされていることを望まない遺族はいます。例えば、「平和遺族会」を作った人々。
ついでながら、私の祖母も夫(写真でしかみたことのない私の祖父)をフィリピンでの戦いで失いましたが、靖国も護国神社も嫌い、決して寄り付こうとはしませんでした。
天皇を戦犯として処断すべきだと生前、公言していた祖母。国家によって妻子を残し犬死させられた夫が、国家によって神様扱いされ戦争の正当化に利用されることに、
耐えられなかったのでしょう。こうした遺族の「心の問題」を、靖国とその支持者らは踏みにじっているのです。
何故、慎太郎氏のテンションは、朝鮮問題になると異常に高まるのであろうか?
その原因の一つは、先に述べた敗戦トラウマである。
慎太郎氏の父親は、特設油槽船で軍用重油の輸送を請け負って急成長し、大連などに支店を置いて朝鮮、中国で大儲けをした山下汽船の重役であった。
愛知の船成金から身を起こし、同社を一代で築いた創業者には、済州島などから大阪に出稼ぎに来ていた朝鮮人労働者たちが故郷と往来する
船会社を作ろうと集めた資金を横領した、というよくない噂が絶えず、何かと朝鮮と因縁が深い。
その会社の重役の息子として何不自由ない少年時代を送った慎太郎氏が、敗戦に屈折した感情を抱くのは十分にありうる話である。
厳しかった父へのファザーコンプレックスも手伝って、目標とする父親像が傷つけられることは自分のプライドを傷つけるように耐えがたかったであろう。
さらに慎太郎氏には、朝鮮人コンプレックスを抱く個人的事情があった。
選挙の度に世話になる弟・裕次郎の妻が、朝鮮人なのである。
スラリとした長身と都会的センスにあふれたボーイッシュな容姿で、日活映画「狂った果実」に裕次郎の相手役として共演するなど、
゛太陽族ブーム゛を起こした北原三枝が、その人である。
少年時代に石坂洋二郎を愛読していた私も、「陽のあたる坂道」で、妾の子で少し反抗的な裕次郎の妹の家庭教師役を巧みに演じた美しい女子大生の姿を、今でも覚えている。
裕次郎は彼女との結婚が許されないのに怒って、アメリカに駆け落ちし、日活社長が結婚を認めるから帰って来いと電報を打って取り成した、という
エピソードが小樽の裕次郎記念館で紹介されているが、石原家の猛反対があったことがうかがわれる。
デュエット・ソングのはしりとなった「銀座の恋の物語」は、裕次郎が結婚前日に録音したもので、出だしの「心の底までしびれるような〜」は、
日活青春映画の主人公役を地で行ったナイスガイの純情であったが、周囲には歓迎されなかったようだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/15495708.html
このまま石原知事の3選でしょうか。
石原氏自身のポイントの伸びは若干に過ぎないそうですが。
浅野氏への批判を優先するという反石原側潮流の戦略が
みごとに功を奏したのでしょうか。
この調子だと
「反石原より反浅野を優先」陣営と、
石原氏陣営は
ともに目的を達し、(Win&Win)
浅野陣営のみが敗北ということに……。
いや最大の敗北者は、日の丸・君が代の強制に屈服するか免
職かの踏み絵を踏まされる教員たち、自立の名の下に隔離と死
に追いやられる障がい者たち、まるごと犯罪者あつかいされる
在日外国人たち……でしょう。
浅野批判陣営はゲーム理論的には合理的な戦略を選んだこと
になりますね。選挙には負けるがしかし勝者とは!
浅野史郎氏(59)が26日夜、大田区の区民集会に出席し、争点を少数派や
弱者の「人権」や「差別問題」にシフトすることを明かした。
差別的発言が目立つ石原慎太郎都知事(74)を強く意識した方針とみられ、浅
野氏は「都政のトップが差別発言をしてはいけない。一番弱いところに手を差し伸
べるのが政治」と石原氏を攻撃した。
最近の集会で同性愛者や在日外国人らと接したことがきっか
けとなったようだ。石原氏が昨年発言した、ゲイタウン「新宿2丁目」規制方針の
是非を聞かれた浅野氏は「即答はできないが、嗜好(しこう)が違うから差別さ
れてもいい、というのは間違い。だれかに迷惑を掛けなければ、基本的に自由だ
と思う」。また石原都政下で進んだ歌舞伎町などの風俗徹底規制についても「規
制によってもたらされる弊害も考えるべき」との見解を示した。
一方、石原氏が発表した、タレントらの声が入ったマニフェ
ストビラについて、浅野氏は「もともとの政策目標がマニフェストとはいえず、抽
象的だ。その裏面がタレントというのは、何をかいわんやだ」と批判した。また
、他候補の奇襲作戦を続ける桜金造氏(50)については浅野氏は「来てどーす
んの?」と無関心な様子だった。
自分の意見(体制)と異なる者に対して「アカ」と一括りにする態度は昔から
よくあるパターンですね。
浅野好きさんの一部にもそういう方達がおられました。
こういう扱いを受けて今どういうお気持ちでしょうか。
アカでもシロでもなんでもいいのです。
道理にかなった発言・行動をしていれば、何ら恐れるに足らず、だと思います。
今、日本はアメリカ軍の再編成に完全に組み込まれ、戦争ができる国になろ
うとしています。60年前、戦争をしない国を世界に誓った日本。
戦争をしない国を誓ったのはなぜだったのか?
歴史をひも解き日本国憲法の成り立ちと憲法9条をめぐる
今日に至る経過を膨大な事実の映像を積み重ね、真実を解明します。
憲法改正論議がかまびすしい中で、いま、国民ひとりひとりが
憲法とその平和主義について学び考える時ではないでしょうか。
本作品は、『日本国憲法』をテーマに、社会的な話題作を撮り続けてきた
3人の監督が構想を練り上げ、108人の各界を代表する呼びかけ人によって
実現され、シリーズ化されるドキュメンタリー映画です。
第一篇の監督は社会派ドキュメンタリーを代表する
片桐直樹(『日独裁判官物語』など)。
日本国憲法が、政府に命じつづけるもの。
その歴史と、事実を知るために、
膨大な記録映像で検証した、この作品をぜひご覧下さい。
■1945(昭和20)年4月2日(62年前のきょう!)、チビチリガマに避難していた住民139人のうち83名が集団自決した。その6割が18歳以下の子供たちだった。
そしてこの事実は戦後もひた隠しにされ、真相が明るみに出たのは、実に1983年のことだった。
元来、沖縄には「自決」思想はない。
この集団自決の悲劇は、徹底した皇民化教育の結果だったのである。
従軍慰安婦に関しても強制性が問題になっているが、力による拉致か否か以前に、植民地や敵国の人々に対する扱いには自ずから威圧的な強制力が働くものだ。
集団自決にしろ、たとえ直接的な軍の命令がなくても、無言の圧力が抗えない強制となって住民を死に追いやったのである。
今の日本に横行している自殺の背景を考えただけでも、そうした無言の圧力の一端を想像することはそう難しくないだろう。
黒を白と力ずくで言いくるめる事実の捻じ曲げと隠蔽、歴史の改ざんを決して許してはならない。
それは私たち国民の生きてきた証と未来を同時に奪う、とてつもない愚行であるからだ
日本のネットウヨ、および自民党や安倍首相などはますます全世界を敵に回し始めていますね。 ネットウヨ達は中国や朝鮮人をかなり嫌っているが、
米国の大学に留学している中国人や韓国人にぜひ会ってほしいですね。 彼らは日本人に対して非常に礼儀正しく、友好的でそして抜群の頭脳を
持ち合わせています。 かれらは大半は理科系の学者です。 医者や金融関係、システムエンジニアなどがほとんどです。 米国に留学している
ほとんどの日本人は彼らの足元にも及びません。 そして私の妻は中国人でコンピューター工学が専門です。
いま米国の大学で教授として学生達に教えています。
こんな事書くと、ケンシロウは中共のスパイだ。 なんて右翼のブログで書かれそうですね。w ネットウヨは大半が使用しているOSはWindowsだと思うが、
Windowsを作っている会社は米国のマイクロソフトです。 そしてマイクロソフトの技術者の半分はアジア系の技術者である事を知っているだろうか?
アジア系の技術者の半分はインド系の人たちです。 そして次に多いのが中国系の技術者達で、約4割ほど。 残り1割はその他のアジアの人たちです。
つまり Windowsは約4分の1は中国製なんですね。中国人技術者がいなければいまのようなネット社会は来なかったわけです。
そのことをネットウヨは知ってほしいですね。
特定非営利活動法人・外国人犯罪追放運動」
http://www.geocities.jp/gaitsui/ http://www.geocities.jp/gaitsui/page011.html などというレイシズム丸出しのNPO法人を認可するような東京都知事だけは、
絶対に再選させてはならない。ここで落選させねばならない。
(「特定の国籍でない者」の犯罪のみをターゲットとするこういうNPO法人を認可する
ことって、人種差別撤廃条約に違反しないんでしょうか。)
石原都知事は、レイシズムや排外主義をデマ(不法滞在者は犯罪の温床とか、治安が悪
化しているとか)をもとに煽る極右勢力の、きわめて強固なよりどころになっている。
これをこのまま再選させることは、あまりに危険すぎる。外国にルーツをもつ在日マイノリティの生存を、さらには、彼・彼女らと共に生きていこうとする日本人の
生存をも危機にさらすおそれを放置し、強めることにしかならない(私の妻はブラジル国籍です)。
浅野支持者の一部が浅野候補を担ぎ出す経緯で吉田候補や彼を支援する方々に対
して極めて失礼なことをしてしまったことは明らかであり、けっして許されるべきこ
とではないと思う。
しかし、ここはどうか、その非礼・無礼を容赦して、どうか、どうか、石原都知事の
再選を防ぐことを第一に、選択をしてもらえないだろうか。
要約すると、すべての「従軍慰安婦」が銃口を突きつけられたわけではないが、そうであった者もいた。「サービス」に支払を受けた者もいたが、
ほとんどはそうでなかった。すべての「慰安所」が軍の直接管理ではなかった。しかしそれは、膨大な数の女性が、暴力によるか、強制的であったか、
または騙されるかして、結果的に彼女らの一生涯に影響を及ぼした恐ろしい性的暴力の犠牲となる状況に連れ込まれたという事実を
打ち消すものではない。私は疑う。「数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を受けた」多くの人々が、その傷が、強制が「広い」か
「狭い」という言葉の結果であったかどうかを、大いに気にかけたであろうか。
東京都知事選がいよいよ終盤です。世論調査では石原がリー
ドして浅野が追うという状況らしい。東京都民はまたどうしよ
うもない選択をするのかなという感じです。
現職の石原慎太郎は、あまたいる政治家の中でも最低中の最
低です。
都民の税金を無駄な臨海副都心開発に2兆円以上もつぎ込み
、その上オリンピック誘致を言い出してそのための投資にこの
先8兆円も注ぎ込もうというのです。
こうした途方もない無駄をしておきながら、「福祉は贅沢」
などといって、シルバーパスの有料化、老人医療費助成制度の
段階的廃止、盲導犬の飼育費補助の削減など、あの壮大な無駄
とは比べ物にならない小さな予算規模の、都民のための仕事を
次々に切り捨ててきました。
それに加えて、都民の税金で超豪華出張、自分の四男を重用
するなど、都政を私物化してきました。
政府の失政で産み出されたフリーターやニートを指して「ご
くつぶし」というなど、懸命に生きる人々の気持ちを汲み取ろ
うとする姿勢がかけらもない、人を大切にするということが全
くわからない、どうしようもない人物です。
日本の首都である東京都民がこんな人物を今まで知事にして
きた、今度もまた選んでましうかもしれないということに、日
本の民主主義の成熟度のあまりの低さに、頭がくらくらしてき
ます。世界の恥さらしです。
この間の都知事選論議を総括したい。
はじめに無用な先入観を払拭しておくために書いておく。
私は結局、浅野氏に一票を投じた。いや、彼に入れざるを得なかった…
●争点を君が代強制問題に集中させ得なかったことが敗北
私は今回の都知事選において、当初から君が代強制問題に一番強い関心を持っていた。
君が代強制問題は、あきらかに都政レベルの問題であると同時に、単に都政にと
どまらない全国的な広がりを持つ重要な政治課題である。国が、国旗・国歌法制化以来進めてきた非民主的政策を、
地方自治体である石原・東京都がそのお先棒を担いで教育現場に定着させようとしているのが、現在の状況である。首都である東京にこれ
が定着すれば全国に波及する。だから、この問題はすぐれて都政レベルの問題であると同時に、全国的な政治課題なのである。
ことは一国の言論の自由、思想・信条の自由につながる問題なのだ。この重要さの前では、オリンピックにしても築地移転問題
にしても福祉問題にしても、どっちに転んでもたいした問題ではないと言っても過言ではあるまい。
決議案は、慰安所での日本軍の行為について「ギャング的な強姦、強制堕胎、性的暴行、人身売買など、多数の非人道的な犯罪行為が、
20世紀最大の規模で行われた。前代未聞の残虐さと広範囲を持った犯罪だった」と書いている
187 :
農NAME:2007/04/13(金) 01:00:56
種まいたら鳩に食われた
だって、我々の意志は、一人一人違うのです。実際浅野氏の主張は私の意志に答
えてません。我々と言うからには私を我々の一物するなら完全に矛盾してます。
その中で我々が共通する、願望を具現化する候補が必要だったのです。であれば
、
候補を統一する前に「我々の意志」を統一せねばならないのです、しかし意志を
統一するなんて不可能なんです。しかも、浅野氏擁立派はそれを怠った上に他者
に押し付けた。(これがファシズムの原理です)
共闘と言うのは「考え方の違う人々が共に闘う」と言う意味です。自分等の考え
方を他者に押し付けることではありません。
はっきりと自覚してください。
「我々」は「決して統一された意思を持つ集団ではない」のです。一点「反石
原」と言う意志があるだけであり、その「反石原」も互いに容認できない「反石
原」もあります。「敵の敵は味方」のような単純論法に納得する馬鹿は世の中に
はいないのです。
上皮組織
単層扁平上皮:血管内皮、リンパ管、肺胞壁、漿膜
重層扁平上皮:表皮、口腔、歯肉、食道、直腸下部
単層立方上皮:尿細管、甲状腺
単層円柱上皮:消化管(胃、腸などの粘膜上皮)、子宮内膜
重層円柱上皮:尿道
移行上皮 :膀胱、尿管、腎盂
多列線毛上皮:気管、気管支、卵管、鼻腔
アメリカ進駐軍のための慰安所
http://www006.upp.so-net.ne.jp/nez/ian/panpan.htm どの国の軍隊にも慰安婦がいたわけではなく、日本軍ほど大々的な性的慰安所を持った例は他にありません。しかし「軍隊には慰安婦が必要」は日本軍に
しみわたった常識でした。そこで終戦のわずか3日後にもう日本政府は、進駐してくるアメリカ軍のための慰安所を作ることを考えています。ほかにもいろいろ考えることが
ありそうなものですが、まず考えたことが慰安所の設置だったという発想がはずかしいですね。「一般婦女を米兵の強姦から守るため」としていますが、占領すればすぐ
強姦を始める日本軍の行状を知りすぎていたから、この様な発想になったのでしょう。
8月18日付けで「外国軍駐屯地における慰安施設に関する内務省警保局長通牒」が出ており、各都道府県の警察に対して米兵慰安所の急設を指示しています。朝鮮半島での
慰安婦強制連行には慰安婦の証言に警察官がよく出て来ますが、やはり政府から見ても警察が慰安所の担当であったようです。
慰安所の設置の仕方は、警察が指導して業者にやらせる方式で、各地に「特殊慰安施設協会(RAA)」が設立されました。東京銀座街頭に「新日本女性に告ぐ」と
募集広告をだしたのも、もちろん警察のバックアップがあってのことです。広島などの例をみると、当時の金で県費36万円を追加計上し、「資金は立て替える、
女は警察が募集する」と業者に持ちかけています。県警保安課は設営第一、設営第二、接遇第一、接遇第二と係をわけてまで慰安所開設に専念したほどです。
このようにして、かなり大々的な慰安所設置が行われ、この結果、戦後の混乱の中で食料の確保にも事欠く家庭の女性たちを売春へと走らせることともなりました。
日本政府のサービスに応じて、アメリカ兵にも慰安所は大人気ではありましたが、連合軍司令部は12月15日に慰安所への立ち入り禁止令を出しました。
ついで、翌1月21日には公娼制度全体の廃止を指令しています(SCAPIN642)。3カ月で慰安所は閉鎖されたわけですが、この間に「政府の努力」で増加し、
1万人に達した慰安婦たちは、路頭に迷い、非公認の街娼となって行きました。パンパンガールと呼ばれている人達です。
慰安婦問題や強制連行問題は「過去の歴史」ではなく「目の前の人権」です。貴
方の周りにも多勢おられるであろう在日の方々の人権も含みます、まさに「過去
の歴史」ホッカムリすることを理由に在日の方々の人権が公然と侵されているの
です。
また過去の歴史を清算せずに、どのようにして、いかなる理由で「目の前の人
権」を尊重できるのでしょうか?
もし、安沢さんの理屈が通るのであれば終戦から60年で、拉致事件から3,40年が
経過してますが何年くらいたてば「過去の歴史」として取り扱っていいのでしょ
うか?金正日に「あと30年すっとぼけなさい、そしたら過去の歴史として日本は
扱ってくれます、日本がそうしてきたように。」とでも提案しますか?
30年前の日本を思い出していただきたい、朝鮮半島やアジアの人々に対して今の
北朝鮮と同じ事を言っていたのですよ、そして60年たった今でもそれを続けてい
るばかりか「無かったことにしよう」としているわけです。
そんなバリ老人の話す●日本という国●についてのレポート。
◎おばあさんと思い出の歌:
ティカール(敷物)を買いにパサールへ行った。店番をしていた老人に
「日本人かい?」と尋ねられたので、happyがそうだよと応えると、
「この歌知ってるか?♪お〜て〜て〜つ〜ないで〜」とフリつきで歌いだした。
歯が半分以上ない老人だったので、歌詞は聞き取れなかったが、
そのメロディーで『おててつないで』 (※正式名は『靴が鳴る』)だと分かった。
私がどこで覚えたのか尋ねると、小学校で習ったのだと言う。
老人の話から、バリ島にも旧日本軍が占領して日本語教育を強制
していた時代があったのだと知った。当時、日本人の教師や日本人の子供
はとても威張っていて、理由もなくよく殴られたそうだ。
◎おじいさんと売れないサーベル:
「ウチにある日本の古い刀を買ってくれないか」と頼まれた。
happyはアンティークものは好きだが刀には興味ない。骨董屋でもないし
目利きもできないから…と断ったが、その老人は「見るだけいいから」と言う。
“年代物の日本刀”というから正宗とか孫六といった時代劇モノを想像
して行ったら、サーベル軍刀だった。しかもサビサビの欠け欠け…。
老人は「昔、日本の兵隊さんを助けたお礼に譲り受けたんだ」と言うが、
軍人が命とするサーベルを簡単に他人に手渡すものだろうか???あやしい。
http://www.baliya.com/babi/vol41.htm バリ、日本軍
さらにサンケイのコラムは、美しい国に関連して「泥まみれの"美"」もありうるとして安倍の続投を主張する。泥まみれの美は、その内実にまことがあるからこそ
美なのではないのか。内実が権力にしがみつくだけの"醜"のどこに美があるのか。
本当の美とは、ウソで塗り固めた歴史と決別して、第二次大戦中間違ったことをした歴史的事実に勇気を持って正対し、泥まみれになっても真実と誠実をつらぬき、
真実の上に誇りを取り戻していくことによってえられる。経費をごまかし、数字をごまかし、隠蔽する醜い政府が対外的にもその醜さを遺憾なく発揮している、
国民はある程度だませても、みながみなネット右翼レベルの知能とは限らない。特に諸外国に同じ話が通用するとでも思っているのならほんとうにおろかである。
戦犯人の責任を免罪するものではないが、日本の侵略戦争の最大の責任は、国家意思として戦争を行い、国民を戦場に送ってアジアの人びとや自国民に量り知れない
惨害を与えた国家の責任であり、次いで軍の戦略、作戦の決定・実行に深く係わった指導者にある。しかし、結果的にこれを許し、支えることを余儀なくされた私たち国民
にも責任の一端があろう。あの戦争を自国民の被害の観点だけで捉えるのではなく、
それをはるかに上回る被害・惨害を強いられたアジアの人びとへの加害の事実を深く認識しておきたい。
イギリスのBC級戦犯裁判の目的は、林氏の指摘のように「勝者の裁き」の側面とともに植民地民衆の期待に応えることで、イギリスの威信の回復を図ることにあった。
したがって、日本軍の戦争犯罪を構造的に裁くことには主眼を置いていなかったのである。そのため、本来戦争指導者など上級者が取るべき責任までも、
下級の将兵らBC級戦犯が加重に背負わされる結果となり、大きな問題点として残った。ここにBC級戦犯裁判の限界がみえてくる。しかし、この裁判で、
戦時下の日本軍の民衆への激しい暴力行為に対し、法に基づく裁きで対応し、武力・暴力の連鎖を断ち切ったことの意義は大きい。
BC級戦犯裁判の持つ欠陥、問題点や限界は認めざるを得ないが、それと引き換えに日本の侵略戦争・戦争犯罪を解消しようとする議論は、
アジアの人びとの理解を得られず、激しい批判と反発を招くことになろう。
最後に、いま私たち日本人は、戦争の「被害者意識」にとどまることなく、「加害者意識」を強く自覚し、日本が仕掛けた侵略戦争によって受けた
アジアの人びとの戦争被害・戦争体験、さらに日本の植民地・占領地支配の実態に思いを致し、共有することが求められている。
本稿が、その一助になれば幸いである。
インドネシア駐在の日本軍の総数について
藤岡信勝氏が『sapio』(1996年12月11日号)でインドネシアで「二万人の兵士に二万二千人の慰安婦」と言っていますが。これは明らかに嘘です。
『二万二千人という数字は、インドネシアの元兵補協会が、日本軍になんらかの性的被害にあった女性の申告を受け付けた数であり、「慰安婦」だけでなく、
強姦の被害者や軍人の愛人にされた女性などを含んでいます。次にインドネシアにいた日本兵の数です。』『敗戦時点での日本軍の兵員について、
厚生省援護局の数字を紹介します(桑田悦・前原透『日本の戦争 図解とデータ』所収)
その数字によると、スマトラ59600人、ジャワ50100人、ボルネオ29500人、小スンダ20500人、セレベス26500人 モルッカ71300人、ニューギニアの東半分は
パプアニューギニア、小スンダには東チモールが含まれており、これらはインドネシアに含まれません。ですからその分を引かなければなりませんが、
ボルネオとニューギニア、小スンダを全部除いても2007700人となり、インドネシア全体では25万人は下らないと言えるでしょう。
(中略)推測するに、ジャワ島だけのある時期には2万人程度だった時があります。多分この一番少ない時のジャワ島の数字だけを持ってきて
インドネシア全体がそうだとごまかそうとしてのではないかと推測できます』
(林 博史氏の論文を『「日本軍慰安婦」をどう教えるか』P108から引用しました)
http://www.geocities.jp/forever_omegatribe/indonesia.html
「米国やアジア太平洋諸国は原爆投下を『正しかった』『天罰だ』『救世主だった』と思っている。確かに、日本がアジア太平洋戦争などで行った数々の悪魔の所業を思うと、
原爆投下は仕方なかった、やむを得なかったと、と言わざるを得ない。東京大空襲や沖縄戦も同じだ」
「1996年に国際司法裁判所は核兵器の使用を『一般的には違法』と判断したが、それまでは規定はなかった。当時の原爆は今の核兵器と比べれば、おもちゃのようなもので、
通常兵器と変わらない。原爆による死を残酷だというが、南京大虐殺や三光作戦による死もすさまじい」
こうした本島氏の発言について、当時の伊藤一長・長崎市長(残念ながら射殺されましたね。ご冥福を祈ります)は「本島氏は現在は一市民であり、正式なコメントは
差し控えたい」とした上で、「本島氏の発言は『戦争を終わらせるために何を使ってねいい』と取られかねない」「発言は不可解だ」などと述べていますが…。
また、本島氏は同年7月には、共同通信のインタビューに対しては、広島と長崎への原爆投下について「落とされるべきだった。(満州事変から終戦までの)15年間に
わたるあまりに非人道的な行為の大きさを知るに従い、原爆が日本に対する報復としては仕方がなかったと考えるようになった」とも答えています。さらに、こんなことも言っています。
「南京大虐殺、三光作戦、731部隊などは残虐の極致。日本人の非人間性、野蛮さが出ている」
オーストラリアに対してだけではない。日本人はアジアの国々でもっとひどい、言うに耐えない残虐なことをしておきながら、ケロッとした顔で出かけて行く。
日本はアジアの国々に、謝罪も償いも十分におこなっていない。
それが、戦後五〇年近く経つのに、未だに日本が国際政治の場で軽んじられ、尊敬されない理由の一つなのだ
今我々が早急にしなければならないのは、戦前戦中に日本がアジアの国々に何をしたか正確に知り、子供たちにも教え、
アジアの国々の人たちに国として正式に謝罪して誠意を示すことだ。
中には遠いパプアニューギニアでマーカムポイントと言うところ相当数(二個中隊)ぐらいが全滅した場所です。遺骨収集に行こうと
したら当然それから二代(世代)ぐらい変っているが、その時の酋長さんに我々は立たされ、「今まで何していた?」と怒られた。
オーストラリア軍は戦後直後(遺骨収集)に来た。米軍は二年後に来た。お前ら20何年どの面、さげて来た?(私は)何で
おこられるのか?初めて許可が出て入ったのにと思っていたのですが・・・
実はその中隊長は素敵な人で、谷川まで、女性がいちいち降りて水をくまなくてはならない地形のところにあった住居に、上流から
樋のようなもので水の流れを作って部落の中に水を引き込めばその様な骨の折れる水汲みをする必要はないと教え、ヤシの実を手に入る物を
全部食べるのではなくて、植えると段々ヤシがそこに生えるという事を考えてくれ、そして今では考えられない変な場所に素敵なヤシの
美しい林があり、そこ一本だけ周りに柵が作ってあり、中隊長お手植ヤシがある。この実だけはタブーで誰も飲んではいけない。全部この実は
埋めるんだ。だからその辺りは立派なヤシ畑になっていました。その冷えてないヤシの実を飲まされて、美味しいものだとは思いませんでしたが、
泣けて困りました。そんな素晴らしい場所もありました。
しかし本当に残虐な日本軍の思い出だけが残っている地域も、残念ながら各地にあるのも事実です。そして戦後50周年の間にかつ
て日本軍が戦った各地で本当に沢山の慰霊碑を作りました。今その中で管理がいき届いている慰霊碑は一割もありません。それこそ
皆様も歌で名前をお聞きになった方もいらっしゃるかとは思いますが、モンテンルパという場所、ここでもBC級戦犯が死刑になりました。
モンテンルパの構内にお墓がありました。戦後50周年の時点で、訪れる(これは遺族が年を取られている事もありますが)人が殆んどなくなってしまった。
http://www2.odn.ne.jp/~cap47570/hasimoto/w_new/wnew060511.html
日本政府は60余年が過ぎたこんにちまで彼女に一言の謝罪も一銭の補償もしていない。
今この時刻にも、朴さんだけでなく、多くの旧日本軍の性奴隷被害者が計り知れない精神的、肉体的苦痛と不名誉の奈落に自分たちを
追い込んだ日本をのろいながら亡くなっている。
20万人の日本軍「慰安婦」に人間以下の恥辱と苦痛を強要しておきながら、その罪を清算することはおろか、被害者を冒とくし、愚ろうする
日本の言動は生涯苦痛を強いられてきた彼女らを最期まで苦しませている。
日本政府は今、自分らの反人倫過去犯罪の生き証人である被害者たちがすべて死亡すれば過去の清算の責任もおのずとなくなると打算し、
時間を引き延ばすため執ように策動している。
われわれは、代を継いででも40余年間、朝鮮民族が強要されたすべての人的、物的、精神的被害の代価を必ず払わせ、
日本が敗北してから60余年が過ぎるまで過去の清算責任を後回しにし、反朝鮮騒動で朝鮮人民の尊厳と利益を
侵害したことについてしっかり計算するであろう。
日本政府は、すべての重大人権侵害犯罪を誠実に反省し、明らかにしたうえで一日も早くその清算に踏み出すべきであり、
生存している被害者だけでなく、すでに死亡した被害者とその遺族にも徹底的に補償すべきである。
そもそも一般論として、被害者(と自称している)側と加害者(と目されている)側のどちらにより強く嘘をつく動機があるかといえば、
もちろん後者に決まっています*1。特に性犯罪の場合、性犯罪の被害者となることがスティグマとなる社会では、「性犯罪の被害を受けた」と嘘をつく
メリットは極めて乏しいわけです。刑事犯罪の場合なら、「冤罪」の可能性を常に念頭におきそれを防ぐための手続きがきちんと守られているかを
監視する必要性は当然として、被害者の主張はひとまず素直(無批判に、ということではない)に聞き、容疑者の否認はひとまず眉に唾つけて聞く、
というのが普通の対応というものでしょう(被疑者および被告の弁護人、裁判官を除く)。
日本人は、日本上空で撃ち落したアメリカ人のパイロットの肉を食なかったか? 日本人はいくつかの南洋の島々でオーストラリア兵や米兵の肉を食べなかったか?
そのような写真証拠が多くあり、そうしたことを物語っている。もし 日本人が連合軍兵士の死体を食べたのであれば、当然、日本軍が中国人の肉を食べても、まったく自然だ。
日本帝国陸軍による捕虜や中国と南アジアの人民への野蛮な取扱い − これは広範なレイプ、殺人、および 731部隊での野蛮な実験などを含む -
これらは、当時の日本人は狂犬病にかかった精神異常の動物同様であったことを暗示しており、正常な感覚に戻すためには、原子爆弾が必要だったのだ。
私共がもっている資料のなかに、日本軍による占領時代の蘭領インドにおけるオランダ人の経験に関する、すでによく知られたデータが含まれていることは、
言うまでもありません。しかし、同じ資料群のなかにインドネシアにおける日本人に関する他の、あまりよく知られていないデータも含まれています。
戦争前に関するデータのほかに、戦後日本人とのあいだにあった接触に関するものもあるだろうと予想されるのですが、事実は必ずしもそうではありません。
すでに戦争中に、私たちがいろいろな文書から学び知っている体験とは違った体験を人々はしているのです。
私共のもっている資料をめくりながら日本人との出会いに関する記録を探していきますと、そこに「一様でない、さまざまな」テーマが現われてきます。
こういったテーマを実例をまじえながら紹介したいと思います。
最初に出てくるのは、日本人は一様ではなかった、ということです。戦前からインドネシアに居住していた日本人で、開戦と同時に軍人として
戻ってきた人が相当数あったことは、既知の事実です。その日本人のなかには戦争中に起こったことに納得できない人もあったようです。日本軍が設立した
収用所の外に住んでいたオランダ人軍人や一般市民に援助の手を差し伸べた日本の軍人や一般市民についての証言があります。そのなかには、
日本人が幼児に対してどういう態度を示したか、というものもあります。ある具体的な例の場合、日本軍の将校に彼が本国に残してきた幼い娘のことを
言ったおかげで、一時的にその将校の養子にしてもらった、という婦人の証言があります。
http://www.djdialogue.org/Jtext2.htm
インドネシアは、わずか3年半しか日本に侵略されていない。しかしインドネシア国民が蒙った被害は350年もの間インドネシアを支配したオランダ時代の比ではない。
日本軍が課した"Romusa"(労務者):強制労働は、日本の残酷さを示す明白な証拠の1つである。この苦い思い出は、Solikinさんのような元強制動労者の人達の中に深い傷跡として今も残っている。
「竹ざおで、腰を何度も叩かれたよ」と、スマトラ島リアウ州プカンバルー市に住むSolikinさんはSCTVに話をした。Solikinさんの記憶では、1942年の終わりがSoliknさん
及びインドネシア国民にとって、その悪夢の始まりであった。日本軍がインドネシアに侵攻し、スカルノに労務者を招集させ強制労働を強いてきたのである。
Solikinさんは、3ヶ月間、プカンバルーの空港建設に労務者として従事し辛酸をなめた。その当時の過酷な労働で何十万という労務者が命を落としたが、Solikinさんは
幸運にも生きながらえることができたのである。しかし、皮肉にも、現在までSolikinさんのような人々に対する日本政府からの謝罪及び補償の話は無い。
「イアンフ(慰安婦)」「ヘイホ(兵補)」そして「ロームサ(労務者)」・・・・この3つは今でも問題になってますね。確か、タイのカンチャナブリに建設したクワイ河鉄橋
の強制労働にもインドネシアから連れて行かれた「ロームサ」がいたはずです。
http://plaza.rakuten.co.jp/gendaiindonesia/diary/200608280002/
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/ache.html 日本軍政期
プサは当初日本軍到来をアチェの解放ととらえ、日本軍に積極的に協力。
しかし日本軍が逆にプサを警戒・監視したため、期待を裏切られた。
http://www.jaas.or.jp/pdf/47-4/4-22.pdf 日本軍の侵攻はアチェでは当初、歓迎をもって迎えられた。なぜならそれ以前からすでにマラッカの藤原機関が
全アチェ・ウラマ同盟(PUSA)と極秘に連絡をとり、日本はオランダの植民地支配からインドネシアが
解放されたあかつきにはインドネシアの独立を認め、特にアチェに関しては封建制度を廃してイスラム教地域とし、
民生向上にも努める約束をしていたからである。しかしながらその後、日本軍がこの約束を反故にして行政機関の長には
ウラマではなくウレーバラン(領主層)を登用したこと、さらに住民に対する扱いが過酷で、しばしばイスラム教も
軽視されたことから、アチェ住民とりわけウラマ達は大きく失望し、やがて各地で抗日運動を指導するようになった。
大東亜戦争開始直前、アジア、アフリカのほとんどすべては白人列強の庶民地であった。例えばスマトラ島を支配していたのはオランダであった。
スマトラ島北端の港町バンダ・アチェには十六歳から住んでいたある老人から直接聞いたが、ここでのオランダの支配は、残忍きわまりないものであった。
男子の多くが性病で鼻骨が露出したまま労働に携わっていても、衛生教育ひとつしなかった。様々な毒虫に刺されて化膿し、人々が血や膿を流して働いていても、
薬一つ与えなかった。その一方、オランダ人だけは完璧に衛生的な環境を作り、その中で文化的な生活をエンジョイしていたと言う。そのためであろう、
日本軍が入ってきたときの歓迎ぶりは、まさに地鳴りがするほどのものだったそうである。やがて日本軍は敗退するが、その後には再び
オランダ軍が戻ってきた。人々はこのオランダ軍と戦ってインドネシアの独立を勝ち取るのである。
http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/principal/180301.html
韓国や中国と違って、インドネシアの人たちは日本あるいは日本人に対する反感はほとんどありません。しかし、だからといって
歴史は知らないと誤解しないでくださいね。インドネシアでは、早い段階からすべての学校で日本軍がインドネシアで犯した犯罪についてしっかりと教えられています。
日本軍はそれ以前のどの占領軍より残酷であり、3年余りの日本の植民地時代は300年のオランダの植民地時代よりつらかったと教えられています。
http://arnold.siboro.org/blog/jp/?p=76
一部良心からの譴責に堪えられずその後犯罪の事実を明かした者に対しても、周りから称賛されるのではなく、右翼から嫌がらせ、
戦友・同僚から非難、社会全体から冷眼を受けて孤立し、中に名誉毀損の罪で訴えられるケースもある。
過去の戦争での間違いを真剣に見詰め、反省することを、「自虐」な
どと表現する人々もいる。見当違いではないか。独り善がりの満足に陥ること
こそ、日本の名誉と信頼を傷つける「自虐」であることは、今回の事態が示した通りだ。
二十一世紀の日本は、個人の尊厳と人権を尊重する人権大国になることで世
界の尊敬を得て、発言力を高めるべきだ。それには重大な人権侵害である慰安
婦問題について誠実な対応が欠かせない。
元慰安婦らに人間として当然の思いやりを示し、戦後責任を果たすべきだ。
反省し謝罪することは恥ではない。尊敬と信頼を得る一歩である。責任逃れこ
そが恥であり、未来をふさぐ行為である。
218 :
農NAME:2007/09/25(火) 02:23:34
そろそろ農業について語れよ座位似血や労
私たちがビルマに着任したころは、日本軍が進駐して三年くらいたっていました。考えてみると、私たちは占領軍で、加害者だったわけですが、ビルマ(現ミャンマー)を
英国の支配から解放した勢力でもあるわけで、島の人たちは協力的でした。
駐屯していたメルギー島は、町の中心の海岸に沿って海軍と陸軍の本部があり、
小高い丘に金色のパゴタが建っています。外出して町の通りの店で軍票(軍発行
の紙幣)で自由に買い物もできました。
ビルマのどこへ行っても出会うのはお坊さんとカラスと水牛です。寺院では、日本の将校といえども境内の
入り口で靴を脱がねばなりません。カラスは。人間に
襲いかかることもありました。水牛が大きな車輪の車を運搬する姿は絵になりました。
http://www.nishijimaisao.jp/compo/compo_01_21.html
220 :
農NAME:2007/10/13(土) 01:56:37
りんごが全部落ちちまっただ
だいじょぶ 赤いほっぺのねーちゃんがいる
手記:森町の田中さん、旧日本軍と教え子の祖父の交流 孫娘の日本留学支援を /静岡
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071017-00000025-mailo-l22 ◇ベトナムで日本語教える大学教授
ベトナムの大学で日本語などを教える森町森、大学教授、田中孜さん(78)が体験手記「ヴェトナムで味わった感動と感激の物語」をまとめた。
第二次大戦中に進駐した旧日本軍と教え子の祖父との交流などがつづられている。田中さんは「(教え子の祖父は)日本人は正直だという印象が強かったようだ」と
話している。手記は出版する予定だ。
田中さんは県内の公立中学校で約40年間教えた後、同町国際交流協会会長などを務めた。00年からベトナムで日本文化の紹介活動などを続け04年、ホーチミン市にある
ホンバン大学の日本語教授になった。現在は同大の名誉教授で1年に半年間ほど同大の教壇に立つ。
手記に登場するグエン・スワン・クーさんは1940年代にホーチミン市近くで漆を栽培。日本軍に売ったことから軍人らと交流ができた。3年前に亡くなるまで家族に
「日本人はうそを言わない」と語り続け、旧交を温めたがっていたという。孫娘のグエン・ティー・ホワン・イエンさん(22)が「祖父の遺言なので日本に行きたい」と恩師の田中さんに伝えた。
「留学させてあげたい。勉強のかたわら旧軍人の関係者らを探せるかもしれない」と田中さん。「支援してくれる親切な日本人はいませんか」と呼びかけている。
連絡先は田中さん方(電話0538・85・2515)。【舟津進】
223 :
農NAME:2007/10/20(土) 21:55:10
沖縄の怒りが強烈に伝わってくる出来事でした。沖縄の心の痛みに鈍感なヤマト(本土)の人々……。これは中国や韓国、その他日本の侵略を受け、
心身ともに傷つけられた人々に対する鈍感さ、冷淡さと同じです。
226 :
農NAME:2007/10/26(金) 21:34:51
何でこのスレに書くんだよ死ねや
銀座ナウ 千田光男 那覇那覇
http://wwwsoc.nii.ac.jp/aacs/pdf/article/2_3.pdf およそ3年半にわたった日本軍統治時代については、比較的円滑に占領政策が行われ
ていたとする意見が多くみられ、実際に現在に至っても一般的には親日的な雰囲気が共有
されている面がある。しかしながら、ミナハサ地方の歴史について書かれた本によると、
日本占領期のミナハサ民衆の生活は悲惨で、困窮を極めたようである。あらゆる物に課税
され、宗教活動は制限され、労働しても契約通りの賃金はもらえず、「日本軍は強盗と同じ
である」とまで書かれている。「日本語を通じて日本精神.日本文化を会得、浸透すること」、
すなわちインドネシア人の日本化を目的とした日本語教育も制度化され、実施された5)。ま
た戦争後期.特にマナドが連合国による大空襲によって壊滅的な被害を受けるなど、現地
の人冷に対して甚大な心的、物的被害と与えたことも一面の事実であろう。
約20年ほど前にインドネシア国内を旅した知人によると、当時はまだ日本軍制下の記
憶を残す人が多く、日本人だと知るといろいろ話し掛けられることがあったそうである。
内容は、「叔父さんが日本軍に殺された」、「日本の兵隊にビンタされた」、「バキャロー(ば
かやろう)」などであったが、本当に日本人を憎む者は絶対に日本人に会おうとしなかった
ようである。また、逆に当時を懐かしむように、片言の日本語で「ワタクシワ_」、「イ
チニサン」、「アリガト」などど話かけられたり、童謡や軍歌の類をよく歌って聞かされた
りしたともいう。戦後も60年近くが過ぎ、当時の様子を知る古老も年々少なくなってい
る現状ではあるが、筆者も在任中に同様の経験をした。
かつて中国では、皇帝が変わろうが農民は殺されることは無かった。自分らの貴重な食料を
提供する農民を殺す馬鹿はいなかっただろう。数千年に渡り、農民は保護されたのだ。しかし、
それが仇となった。ラディオもなく、一体誰と誰が戦争をしてるのか、情報が無かった中国の農民達。
しかし自分らは政権が交代しようとも決して虐殺されることは歴史上無かった。しかし、それは起こったのだ。
日本軍である。刺突訓練の名の下に初年兵に“殺人”を教える古老兵士。多くの農民が殺人訓練の犠牲者になったのだ。
これが隷属根性しか持たなかった中国農民を初めて激怒させたのだ。そして、家族を虐殺された多くの農民が毛沢東率いる
共産党軍に参加したのだ。結果、共産党の軍隊は日本軍と国民党軍に勝利したのだ。それで、毛沢東は感謝したのだね、皮肉だろが。
慰安婦、私的慰安所の慰安婦、強姦被害者はいずれも性暴力の被害者であり、本質的に同一のものです。問題となるのは「日本軍将校の現地妻」です。
慰安婦の救済措置のための登録と信じて登録に応じたのですから、当然自らを何らかの性暴力の被害者であったと考えて登録に応じたのでしょう。
考えられる実態としては日本軍が地元の実力者に命じて徴募を行った際に気に入った女性を自分専用のものとして確保したということです。また、慰安婦の
募集の際とは限らず、兵士集団がしたように特権を利用して直接に女性を調達し、妾にしたというケースも考えられます。
奪われた記憶を求めて
元日本軍「慰安婦」沈達連さんの強制連行の現場から
「自由主義史観」グループは、軍や官憲による報制連行的な日本軍「慰安婦」の連行はなかったと主張している。だが、中国・フィリピン・インドネシアなどの
日本軍による占領地だけでなく、植民地支配していた朝鮮でも、日本軍による奴隷狩りのような連行は行なわれた。姉と一緒に
拉致・誘拐された沈達連さん(69歳)と拉致現場を確認し、強制連行の証人たちを見つけ出した。
写真・文伊藤孝司(いとう・たかし)
http://www.jca.apc.org/~earth/sub10.htm
わが国は、アジア・太平洋諸国に対して、歴史上いまだかつてない災厄をもたらしたのを忘れてはならない。
観光スポットというべきではないでしょうが戦跡が多数存在します。とくにBETIOは司令部があり米海兵隊と激突し玉砕しました。
この戦跡は1992年訪問時も多くそのままの状態で残っていました。
私の訪問時には戦時中タラワに駐屯しされた方と一緒になりました。ご一緒させて頂き「慰霊碑」や「戦跡」を訪問しました。
訪問前までは「マキンタラワ」という名前程度の理解しかなく日本軍が玉砕したという具体的なところまで知らなかったわけで、改めて
「マキンタラワの玉砕」や、「なぜ日本軍はここを攻略しようとしたのか?」という地理的・時代的背景を学ぶきっかけとなった場所です。
キリバスに着いたときは「果てしもないところに来たもんだ」と思ってましたが、果てしもないところに日本本土から戦争に来ていたのかという事に今もって驚きを禁じえません。
タラワ環礁のBETIO地区(ベシオ島)に司令部がありここが玉砕したわけですが、当時タラワ環礁のこの周囲に住んでいた島民はアベママ島という島に
強制移住させていたそうです。(これ自体問題ではあるが)多くは無事だったそうです。
また比較的日本の統治方法(態度?)が良かったのか、非常に統率が取れていたそうで末端の兵まで態度が良かったと言われています。
少なからず不幸な歴史がありながらも反日感情は見られません。
訪問時にロコのレストランで食事をしていた時に島のお年寄りが片言の日本語で話しかけてきて、日本の兵隊と話したことがあると言って
懐かしそうに名前を繰返し言っておられたのが記憶に残ります。
キリバス訪問時(1992年)でも約50年前(タラワ玉砕は1943年)です。2005年からみればすでに60年余の時が過ぎています。この時代の記憶はどんどん薄れ、
風化しつつありますが、現代にも残る戦跡を見ると改めて太平洋戦争の事を今一度深く考えさせられる。
タラワ環礁はそんな島なのです。
http://www.tsumura.net/T30QQippanjouhou.html
ハングとの交信の中で、時々第二次世界大戦の時のことを語り合うことがある。過去のこととはいえ、その戦争により、平和な南の島の人々に対して
日本が多くの迷惑を掛けたことは歴史的な事実である。それゆえ、オセアニアには現在でも日本に対してあまり良い感情を持っていない人々
の居ることも確かである。
しかし、ハングは戦争のことについては、遠く過ぎ去った昔のこととして語り、彼自身日本人に似た中国系の血が流れているせいもあるが、
戦争の話になると日本人である私に対して、むしろ同情的に語ってくれる。彼が子供の頃、当時島を占領していた日本兵の上官がとても良い人で
食料の差し入れなどをしてくれ、とても親切だったことを良く覚えているとか。
http://www9.plala.or.jp/vintage/qso_t30ab7.html
乗組員でなく現地人らしい!『今晩わ〜 何か用事ですか?』 『ハイ!ヨウジアリマス!オネガイアリマス!
【キッコーマン】ホシイデス!』 『エッ?キッコーマン???』
一瞬「この男」何を考えて言ってるのか分らなかった。
その後片言日本語での話を聞いた所、太平洋戦争の時「フイリピン」に駐留してた米軍を追い出し「マニラ」に進駐の
日本軍の駐屯地で住み込みで雑用してた男で、その時味わった「醤油の味」が忘れられずらしい?
日本船の入港を待ちわびていたら、朝方、日の丸の国旗を掲げた日本船が入って来たので遣って来た!是非「キッコーマン」が欲しい!金は無い!
女性を連れて来たので、貴方の好きにして下さい!で、その後は『SEX,OK!キッコーマン!OK?』の繰り返しである。
サァ〜 困った!休暇を終えて乗船したばかりで、自宅で充分?「閻魔ちゃん」と愛の交換行事も行って居り、今は性欲も無く、ま
して日本人でなく現地人だし、南方独特の強烈な病気(性病)も有るやに聞いた事もあり、SEX『ノーサンキュウ!』で断ると、
日本軍駐屯地で覚えたのか"土下座"で手を合わせての、哀願の「日本式スタイル」で攻めて来る。
以前から聞いていた話だが、アジア地域の現地人は、戦前から西欧諸国に植民地にされ国民の大部分が貧困の生活で、
生活必需品も無く困窮して居り、体を洗う「化粧石鹸」や「作業服」を求めて、買う金が無いので、女性とのSEX交換条件で、
欲しい物を得ていたらしいが、醤油の「キッコーマン」の話は聞いた事が無く、驚いたな〜
http://www003.upp.so-net.ne.jp/hokuyo/sub2_39.htm
早速、ドライバーに質問したところ、インドネシアの学校では女の子は「おさげ」にしなければいけないことと、
運動会や集会では「行進」をする習慣が残っているそうです。
太平洋戦争時に、日本の統治下にあったころの「名残」だそうです。
インドネシア政府が、日本の統治下時代に良いと思ったことを残しているそうです。
太平洋戦争時、オランダ占領下にあったインドネシアに日本軍が入ってきて、日本統治された
歴史の産物が目の前にありました。
そもそも、オランダ支配下ではコーヒーとさとうきび以外の米を含む全ての農作物の生産が禁じられ、コーヒーと砂糖を輸出して
オランダ人だけが潤い、米作を禁じられ食料が無かったインドネシア人の生活はとても苦しいものだったそうです。
そんな中で「北方の黄色い人達がやって来てオランダ人を蹴散らし、インドネシアを解放する。そして、とうもろこしの実が生る頃に去って行く。」
という伝説が生まれ、日露戦争で日本がバルチック艦隊に勝利した知らせを受けて、「北方の黄色い人達は日本人である」という考えが広まり、
太平洋戦争が勃発すると、インドネシア人は日本軍を「北方の黄色い人達」として熱狂的に大歓迎しオランダ軍と戦う日本軍を支援しましたが、
日本軍による現地住民に対する乱行が広まり、期待は急速に収束していったそうです。
1945年、日本が降伏するとインドネシアの民族主義者は独立を宣言し、1949年12月のハーグ円卓会議で、
インドネシアはオランダからの独立承認を得ることに成功しました
http://yaplog.jp/studiocube/monthly/200709/
早速、ドライバーに質問したところ、インドネシアの学校では女の子は「おさげ」にしなければいけないことと、
運動会や集会では「行進」をする習慣が残っているそうです。
太平洋戦争時に、日本の統治下にあったころの「名残」だそうです。
インドネシア政府が、日本の統治下時代に良いと思ったことを残しているそうです。
太平洋戦争時、オランダ占領下にあったインドネシアに日本軍が入ってきて、日本統治された
歴史の産物が目の前にありました。
そもそも、オランダ支配下ではコーヒーとさとうきび以外の米を含む全ての農作物の生産が禁じられ、コーヒーと砂糖を輸出して
オランダ人だけが潤い、米作を禁じられ食料が無かったインドネシア人の生活はとても苦しいものだったそうです。
そんな中で「北方の黄色い人達がやって来てオランダ人を蹴散らし、インドネシアを解放する。そして、とうもろこしの実が生る頃に去って行く。」
という伝説が生まれ、日露戦争で日本がバルチック艦隊に勝利した知らせを受けて、「北方の黄色い人達は日本人である」という考えが広まり、
太平洋戦争が勃発すると、インドネシア人は日本軍を「北方の黄色い人達」として熱狂的に大歓迎しオランダ軍と戦う日本軍を支援しましたが、
日本軍による現地住民に対する乱行が広まり、期待は急速に収束していったそうです。
1945年、日本が降伏するとインドネシアの民族主義者は独立を宣言し、1949年12月のハーグ円卓会議で、
インドネシアはオランダからの独立承認を得ることに成功しました
http://yaplog.jp/studiocube/monthly/200709/
しかしこんなことでずっとやっていけるだろうかと考え、五十歳くらいの時、役所に行って生活の実状を訴えましたが、年齢を理由に区長からも
面長からも生活の補助を断られ、失意のうちに長く寝込んでいました。
その後、テレビを見ていたら、自分と同じような境遇にある人がそこで訴えているのを見たのです。それを見て、もう一度訴えてみよう、自分の
ようなものがどうして行政の恩恵を受けられないのかと考え、面長に会いに行って、「自分は日帝時代、十六歳という若い時に連行され、日本兵にも
ソ連兵にも犯され、死ぬほどの苦労をして、その上病気までうつされて故郷にも住めず、よその土地で食べることもままならずに過ごしてきた。
そんな自分に、行政はなぜ手を差し延べてくれないのか」と訴えたのです。そして生活保護のような規定に該当するのではないかとお願いをしてみたところが、
具合はどこが悪いのかと聞かれました。そこで、子宮も痛いし、体全体が痛いのだと答えたところ、診察を受け、薬をもらったりできました。今は、
生活保護のような社会保障を得て、お米の配給や練炭代などをわずかばかりもらって、それで生活をしているのですが、それでもきちんとした
病院で診察や治療を受けられているわけではありませんから、病気も完治してはいないのです
http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_22.htm
一回が軍票の一円で、サックが一つ配給されていた。そして窓も無い風も通らない部屋へ入っていくと、がらんとしたアンペラ囲いの中に、
竹製のギシギシという寝台の上に、軍用の藁布団を敷いた粗末なものがあり、その上で用を足すわけだが、汗ばかり出て何が何だか分からないうちに終わってしまった。誠に浅ましい限りである。
外出出来ない日でも、裏門の前には、果物、アイスクリームなどを持った娘や少年たちが群がって、兵隊相手に商売しているが、夜ともなると、
これはまた春を売る娘たちがチラホラ現れて、兵隊たちに手で合図をするのだ。それに答えてこっそり顔を出した兵隊の一人が、一枚の軍票を娘に手渡すと、
それを持って街灯の下へ行き、ひもらしい男とそれを明かりにかざして、ためつすがめつ眺め、本物の軍票と確信すると、
娘は勇敢にも鉄の門扉に登って、兵営内に飛び込んでくるのだ。女が一旦体を張れば怖いものは無いらしい。
こんな呑気な日が続き、御馳走は飽きるほど食べられた。煙草は敵さんの押収品のジャワ煙草「マスコット」というかなり上等なものがどしどし
配給されたし、まったくの天国だったが、戦争に駆り出された男たちにこんな贅沢を長く許しておくはずは無かった。
http://p0t.jp/ww2/2007/09/
最後に私の義父は昭和十九年に新設された独立混成第七二旅団司令
部付軍医としてビルマにおけるインパール作戦に参加した人です。彼は拳銃を自分のこめかみにあてて
自決しようとしましたが、その時に家族のことが脳裏に浮かんで思いとどまったと、自身が書いた『渇望』
という本の中で言っています。またその本の中でビルマ人に対して「ビルマの人たちは、顔貌、生活、習慣が日本人と、大変よく似ているの
で、彼らは日本人を兄貴ぶんとして接し、大変心優しい人であった。しかし、日本軍の敗退に当たっては、病人を運ぶというための牛車徴
発、日本兵の食糧調達という一方的な略奪、強盗を日常茶飯事の如く甘受せねばならず、戦争と全く関係ないビルマ人が道案内人として
縄目にかけられ、あまつさえ、敵に通報されては困るからとの首脳部の妄想から、処刑されていつた」 と書いています。
http://www.ayu.ne.jp/user/tokawag/heiwa060813.htm
http://homepage3.nifty.com/tetu/essaysfile/jinbai1-3.html メダンのアチェ・スパカット基金会・ヤコブ副会長の言葉が忘れられない。
「実は、日本とアチェ州は、歴史的に深く関わっています。太平洋戦争時の独立戦争の時、アチェの軍隊はシンガポール駐留の日本軍に支援を依頼し、
その力で我々は独立を勝ち得たと感謝しています。そのことを我々は忘れていない。今、またこの戦争に比す悲劇に、日本人の力を得たことは、t
sunami・generationに引き継がれていくだろう。そのためにも子供たちを守っていかなければならないのです」
郵便局員:「インドネシア人の中には、戦争中に日本人にひどい目にあったと言う人が少なくないが、少なくとも私は、違った、いや私の村は違った」
郵便局員:「私の出身は、ここから35Kmある○○と言う町なんだけど、しってるか?」
Tnaya :「知ってる、知ってるそこなら、前に仕事で行った事があるわ〜」
郵便局員:「そうか〜、そこに昔日本軍の基地があったんだ」.......
そして、その郵便局員はその当時を思い出しながら、語り始めたんです。
その日本軍の基地があった所というのは、その町から少し外れたジャングルを切り開いた中にあったそうで、そこには日本軍が住む宿舎と基地のような建物が、
10棟ぐらいと小さな滑走路があったそうですが、人里離れたところにあったため、地元の人意外は、そこに基地が存在したことをほとんど知らなかったそうです。
また、その当時、基地を立てたり、滑走路作ったりするのにそれなりの、労働力が必要だったはずなのですが、その村の人は借りだされず、
どこかの町から連れてこられた人々が、働いていたそうです。
町に日本軍が来ることも、そんなに多くははなかったそうですが、町の人の中には基地で得働く者や、食料とかちょっとした者を、その基地に
売りに行っていた者をあった様ですが、たまに、日本軍から珍しいものをもらったり、珍しいものを見せてもらったりする事もあり、
彼らにとっては、すごっく良い人たちだった様です。
そんな日が続いたある日、突然終戦を迎え たわけですが、そのときは既にそこに基地は跡形も無く、インドネシアのことですから、
気がつけばそこは元のジャングルに戻っていたそうで、現在はそこに行く道さえもなくなり、その基地があったと言う事実を知っている者も、
ほとんど生存していないそうで、そのことを知っているのは、今話してくれている彼と、あと数人ぐらいしかいないそうです。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/3990/31_diary/17f_diary.html
8月21日、私たちは首都ジャカルタから飛行機でい時間ほどのジョグジャカルタの法律扶助協会の事務所で、マルディエムさんに会いました。
彼女は、淡々と静かですが、重い響きを持った語り口で、13歳のとき、騙されてカリマンタンの慰安所の部屋に閉じ込められて以降、3年5ヶ月にわたる
地獄のような慰安所の生活、日本軍の敗戦後も、社会から見放され、2重の苦しみを経験した経験を話してくれました。
日本政府が、「慰安婦」問題に関して、官房長官談話で、一定の「謝罪」をした1993年、マルディエムさんは、ついに告発に立ち上がったのでした。
半世紀にわたって、自分の中に封じ込めてきた辛い経験、憎しみや怒り、悲しみのすべてを明らかにしよう、この事実を日本政府に語ってほしいと
法律扶助協会に訴え出たのでした。
マルディエムさんは、私たちに対しても「私も生きておられるのはあと数年しかない。私が経験したことをすべて伝えてほしい。明らかにしてほしい」と繰り返し訴えました。
弁護士のブディ・ハルトノさん、マルディエムさんは、1、日本政府にきちんと謝罪してほしい。2、インドネシアも日本も「従軍慰安婦」問題の記述をきちんとしてほしい。
この点では、インドネシアの政府からは、小学生からの教科書に記述する準備をしているという良い返事をいただいている。日本は逆行している。3、賠償をしてほしい。
4、元「従軍慰安婦」一人ひとりに、政府から「退職金」(○注通訳のまま)のような援助をしてほしい、と訴えました。
マルディエムさんは、最後に、元「慰安婦」の現在の生活の厳しさを紹介し、「生きている限り運動は続けたい。
ぜひ皆さんも日本に帰って、この事実を若い人たちにも伝えてほしい」と訴えました。
http://www.tak.gr.jp/sec_area/html/menu1/2007/20070901152156.html
マスコミは、北朝鮮の拉致問題についてはいやという
ほど報道するのに、日本人が過去もっとひどいことを
したことは、伝えない。
第二次大戦開始後は、慰安婦被害や強姦被害は南方に広がった。
フィリピンからは、慰安婦被害者であるロラの証言に続いて、マパニケ村の集団強姦事件も提起された。これはマパニケ村を占拠した
日本軍が男性を殺害したり追放したあげく数十人の女性たちを監禁し強姦した事件である。
マレーシアでも多数の被害者がいたといわれるが、名乗り出ているのは1人であり、ビデオ証言を行なった。残されている写真に
「軍専用」の文字のある慰安所が写されている。
インドネシアを植民地としていたオランダの女性たちも被害にあった。90年代から名乗り出て、日本政府を相手に裁判を闘っていた。
インドネシアの女性被害者の証言が続いた。インドネシアでの調査で名乗り出た女性は10万人とも言われたことがあるが、
慰安婦事例というよりも強姦事例と思われる。法廷では、中曽根康弘元首相が慰安所を設置したバリクパパンの慰安所に入れられた被害者が証言した。
インドネシアから独立した東ティモールから初めて被害者が名乗り出て、来日証言した。ほとんどの女性たちは家族にも話していないという。
日本検事団は、日本人慰安婦の存在にも照明をあてた。慰安婦であったことをかつては語ったり記録に残した女性たちがいたが、
90年代に慰安婦問題が浮上してからは名乗り出た女性はいない。その理由にも議論は及んだ。
http://www.mdsweb.jp/doc/883/0883_06m.html
249 :
農NAME:2007/12/17(月) 11:12:31
農業するためには嫁が必要。
どうすればできる?
250 :
農NAME:2007/12/17(月) 11:23:01
埼玉の農業大学校をネットで調べたら
サイトが地味すぎ。
こんなんで人が集まる分けないと思った。
農業のイメージはそういうところから変えないと人気にはならない。
すぐ釣りで逃げる陰湿さはさすが日本人。海外から冷静に日本を見れば、日本の大罪に
気づく。友達の中国人達から日本の悪事をこと細かに話されたとき、涙が止まらなかったし
本当に申訳ないと思った。でも彼らは私の謝罪を受け入れてくれた。白人が見下すと避難するより
自分たちの行いを省みた方がいい。
第一章 日本占領時代におけるインドネシアの社会生活
http://www.geocities.jp/indo_ka/buku_pelajaran/bahasa_jepang.html 日本占領期間におけるインドネシア社会の発展と、独立初期のインドネシアとオランダ間の紛争を、検証する。
この章の内容:
序
経済資源と労働力に対して日本占領政府が行った動員と管理のシステム、そしてそれが社会生活に与えた影響。
社会動員及び政治参加への機会に対する、日本占領政府方針の関係(*2)
日本占領時期は、それが短い期間しか続かなかったとは言え、最悪の植民地支配の時代だった。その時代、天然資源や人的な資源に対して異常な収奪が発生した。
しかし、日本の植民地支配はインドネシア独立へ向けての準備を促進させたという側面もあった。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/5336/ternate2.html テルナテ島に限りませんが、インドネシアでは本当にどんなに田舎へ行っても占領中に日本軍の下で働いていたという人に会います。
左のおじさんも海の遠くの方から小舟を漕いでやってきました。
黒い砂浜に座ってずっと浜に上がってくるまで見ていました。
するとこのおじさん浜に上がるなり、どっから来たんだ?日本か?じゃあ、この歌を知ってるだろ?とでっかい声で軍歌を歌い始めました。
その歌知らないと言っても、このおじさんはガハガハ笑いながら、手際よく漁の成果を片づけ、話し続けます。
ついこの間まで、この浜のすぐ近くに漁業関係の日本人が住んでいたそうです。
海外や米国議員からの批判の高まりに直面して、安倍首相は、わずかに意見を後退させたかのように見える。というのは、
彼は自分の意見を後退させ、1993年の政府声明、すなわち従軍慰安婦が戦争時の「慰安所」の役割を果たしていたと認めた
声明を支持すると言うようになったからだ。しかし、彼は依然として、日本軍が強制的に女性を集めたことについては、どうしても
認めようとしていない。過去にも彼は、そのような募集は[日本軍によってではなく]民間仲買人によって行われたと主張していた。
このたび提示された記録文書は、戦後、オランダの尋問官によって作成されたものである。その文書には、陸軍と海軍が軍の売春宿で
使うためにインドネシアで女性を狩り集めたという記述が含まれていた。その事例の一つに、日本が軍の売春宿で強制的に働かせるために、
インドネシアの女性を監禁し、殴打し、衣服を剥ぎ取ったという記録がある。
その文書は東京裁判で用いられたものだから、従軍慰安婦に対する一連の行為を日本政府が否定することは、
いっそう難しくなるのは明らかであると、研究者たちは述べた。なぜなら日本政府は、アメリカを初め連合軍と共に
調印した1951年の平和条約の一部として、東京裁判の判決を正式に受け入れているからだ。
研究者グループの一人である吉見義明氏(中央大学歴史学教授)は、「安部首相たちの否認が東京裁判の判決を
覆す出発点になるとは思えない」と述べた。
しかしながら、日本の政治評論家たちは、その記録文書が日本の保守派を揺り動かさないだろうと述べた。なぜなら
保守派は、東京裁判の判決を勝者の正義と呼び、それを否定する努力を加速させているからだ。
他方、他のアジア諸国の学者は、日本人研究者たちが提出した記録文書、特にオランダの尋問官に
よって行われた報告書を喜んで受け入れている。
http://www1.gifu-u.ac.jp/~terasima/education_sexslavery070724.htm
筆者自身1980年から1981年にかけてジャワ農村で実施した調査の中でも、そういう女性のことはしばしば耳にした。それは、この村の○○の娘が、
「学校へ入れてやる」と騙されて日本軍に連れて行かれ日本兵の女にされた、というような話である。
また、そのような女性を題材とした小説や映画は早い時期から作られていた。たとえば、1982年には「カダルワティ──5つの名を持つ女──
(Kadarwati : Wanita dengan Lima Nama)」と題するパンディル・クラナの小説が出版され、のちに映画化もされた。さらに1986年には「欲望の奴隷(Nafsu Budak)」と
題する映画が制作・上演された。この映画はあまりにも有名で、そのため今でもマスコミ等では、「慰安婦」を象徴する代名詞としてしばしばこの
「欲望の奴隷」という表現が使われるほどである。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/531.html
http://mentai.2ch.net/soc/kako/987/987140004.html 徴発的連行には、『高野部隊ミンダナオ島戦記』(一九八九年)に、「邦人通訳の森山さ
んの紹介を得て、武石主計少尉が内地から持参した女性用のワンピースの布を持参して、
ダバオのボスを訪問し、『慰安婦』六、七名の斡旋を依頼した。一週間後に、ダバオのボス
が指定した場所に、食肉受領の帰途、私達のトラックが立寄り、六人の現地人女性を連れ
て来た」とある。また、インドネシアに帰化した元日本兵タイラ・テイゾウは、インドネ
シアの週刊誌『テンポ』記者に次のように語っている(大村哲夫「『現地調達』された女性
たち」『世界』一九九三年七月)。
インドネシア人女性が日本軍によって強制的に集められたと言う人がいたら、それ
は間運っています。彼女たちは普通、現地の村役人を通じて行われた通達によって集
められたんです。まず集められて、それから日本軍の司令部へ連れて行かれたんです。
ですから、もし強制があったとすれば、それはインドネシア人自身によって実行され
たことになります。(一九九二年八月八日号)
これは日本軍弁護論として語られているのであるが、「現地の村役人」を通じての徴発
がかなり普遍的に行われていた事実を明らかにしている。ただこうした事態が、日本軍に
よる現地村役人への事実上の命令・強制なしには行われないであろうことを、タイラは見
落としている。
そもそもこの慰安所が閉鎖されたのは、自分の娘を連行されたオランダ人抑留者のリーダー格の者が、たまたま視察に訪れていた
陸軍省俘虜管理部員との面会を苦心して取りつけ、抗議したからである。
この管理部員はすぐさま陸軍省や第一六軍司令部に通報し閉鎖を勧告した。この告発と、管理部員の素早い対応が無ければ、
この慰安所は閉鎖されなかっただろう。
実際に連行を指示したのは幹部候補生だが、第一六軍司令部から抑留所の女性を慰安婦にする許可を得ていた。司令部からは
本人の了承を得るようにとの注意があったそうだが、都合よく「ジャップ」の性のはけ口になることを望む女性がいるだろうか?
司令部は連行を承認したも同然である。それこそ兵士数名が勝手に女性を拉致して強姦していたのならば「組織的」とは言えないだろうが。
実際にオランダの軍事法廷では、陸軍中将、大佐など高級将校らも有罪判決を受けている。「組織」に強制連行の責任が問われて当然である。
それにスマラン事件は日本軍による強制連行を示す一例に過ぎない。日本の司法も強制連行の事実を認めている。
http://himadesu.seesaa.net/article/73774628.html
1948年に起きたマラヤ共産党の反乱を鎮めるための戦い、いわゆる独立戦争で命を失ったマレーシアの英雄を称えて1966年に
建てられたブロンズ像です。レイク・ガーデンの北に建ち、高さは15.54mもあるそうです。(写真の隅に写っている女性と比較してみて下さい。)
でもこの兵士たち、顔をよ〜く見るとマレー人というより欧米人?
アメリカ人の彫刻家フェリックス・デ・ウェルドンの作だそうですが、もうちょっとリサーチして創らないと.・・・
踏みつけられているのは共産党軍ではなくて実は日本軍ではないか?という噂もあるそうですが、同行の中華系ガイドさんによると
「独立戦争には、第二次大戦終戦後も日本に帰らずにマレーシアに残った旧日本兵も多数参加して命を落としているので、
そういったことはない」との弁でした。
http://namcotravel.jp/user/ayyokoya/w36882/
http://blog.goo.ne.jp/raps0dia-gi0rgina/e/4c305c8bd2e0bd3da7e1a1c8b1cb6ad1 戦争中の話だが、敵のいる前線に行くために、「ココポ」という船着場についた。
ここから前線へ船が出るのだ。そういうところには必ずピー屋がある。ピー屋というのは女郎屋のことである。(中略)
ピー屋の前に行ったが、何とゾロゾロと大勢並んでいる。
日本のピーの前には百人くらい、ナワピー(沖縄出身)は九十人くらい、朝鮮ピーは八十人くらいだった。これを一人の女性で処理するのだ。
僕はその長い行列を見て、一体いつできるのだろうと思った。一人三十分としてもとても今日中にできるとは思われない、
軽く一週間くらいかかるはずだ。しかし兵隊はこの世の最期だろうと思ってはなれない、しかし・・・・・
いくらねばっても無駄なことだ。僕は列から離れることにした。そして朝鮮ピーの家を観察したのだ。
ちょうどそのとき朝鮮ピーはトイレがしたくなったのだろう、小屋から出てきた。
(彼女がナニカを排泄する様子の描写)
とてもこの世のこととは思えなかった。
第一これから八十人くらいの兵隊をさばかねばならぬ。兵隊は精力ゼツリンだから大変なことだ。それはまさに「地獄の場所」だった。
兵隊だって地獄に行くわけだが、
それ以上に地獄ではないか。
と、トイレに行った朝鮮ピーを見て思った。
よく従軍慰安婦のバイショウのことが新聞に出たりしているが、あれは体験のない人にはわからないだろうが・・・・
やはり「地獄」だったと思う。だからバイショウはすべきだろうナ。
これを過去の発言として無視することは許されない。氏の発言は、日本人団体による中国広東省での集団買春騒動に
関するもので、日本人による買春は中国へのODAみたいなものだと放送番組で発言した。この発言が、日本人の行為を免罪し、
中国を冒涜するのは明らかで、放送特後から批判が相次いだという。
人権意識が疑われるような発言はこれだけではない。「能や狂言が好きな人は変質者」と発言したし、また、光市母子殺人事件で
弁護士懲戒請求をあおり、大きな波紋をよんだ。最近の橋下氏への懲戒請求は、同事件と府知事選をめぐる状況をいっそう複雑
にしていると思えるけれど、そうであっても、氏が900万自治体首長にふさわしい人物なのかどうかは、大阪府民は見極める必要があるだろう。
橋下氏の繰り返される一連の「過激」な発言には、人権意識欠如あるいは差別意識が通底しているように思う。
たとえば、能や狂言が好きという個人の嗜好を切り取って、他者とは異質のものと攻撃したり、逆に、買春という行為を免罪する片方で、
政府援助という名で隣国との関係のあり方をことさら強調するのは、およそ自治体首長には不適格といわざるをえないと率直に思う。
http://blog.goo.ne.jp/longicorn/e/73ae159b38de49c84f20b6edec6885fe
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/93344ccfdfaa84fe6d02ed78a3d8c65d 私も長くフィリピンでフィールドワークをやっていました。熱帯林について調べていたので、日本軍政下で対日輸出向けの
木材伐採をやっていたという地域でも調査をしたことがあります。
米国極東軍傘下の抗日ゲリラの主要な任務は、「日本の戦争遂行能力なくすために、フィリピンにおける資源開発を妨害する」と
いうものでした。鉄鉱山や銅鉱山など、日本の鉱山採掘現場は度かさなるゲリラの襲撃に悩まされたのです。
日本軍の木材伐採現場なんてのも、当然、ゲリラの攻撃対象でした。私が調査していた場所(ヌエバエシハ州のガバルドン町)も同様でした。
ゲリラ側攻撃と、日本軍およびマカピリによるゲリラ掃討戦が凄惨をきわめたのです。日本人として、調査をするのが辛いと感じることもしばしばでした。
「日本軍に雇われて木材伐採現場で働いていたら、木材運搬トラックをゲリラに襲撃された。乗っていた7人中5人が死んだ。私は幸運にも生き残っ
た一人だった」という話しを聞いたかと思えば、そのトラックの襲撃に加わった抗日ゲリラ兵の一人が、殺されかけた方の隣近所で今も存命だったりしたのです。
一つの町の中で、隣近所同士でも、日本に協力するかゲリラに協力するかで、お互いに凄惨な殺し合いを演じていたのです。本当にむごいものです。
http://www.nihongo2.com/history/history42.html 日本軍の中国全土への進出は、結局、都市と線路の支配(点と線の支配)でしかなかった。補給線の伸びきった日本軍は、広大な中国を支配することはできなかった。
そして、この点と線を取り囲んだ広大な面…農村地帯を基盤として抗日ゲリラが活躍した。中国共産党八路軍や新四軍の兵士達である。これに手を焼いた
日本軍がとった作戦が「三光作戦」である。満州侵略時に行った「平頂山事件」を中国全土で実施したのである。ゲリラの潜む村々を焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くしたのである。
これはゲリラ対策だけではなかった。補給のおぼつかない日本軍兵士にとっては、奪うことは、自らの食糧の補給でもあった。日本軍首脳はこれを
見逃すのではなく、むしろ促進した。この結果、中国民衆の被害は未曾有のものとなり、戦後も被害総額も死亡者数も定かではないほど、甚大なものとなった。
死亡者数5000万人とする研究者もいるが、あながち過大な数とは言えないのである。三光作戦だけでない。前記した、「731部隊」の人体実験による死者。そして、
そこで研究された細菌兵器、毒ガス兵器が実際に日中戦争で使用され、多くの犠牲者を出した。中国民衆はこれらの兵器の実験材料とされたのである。
中国戦線で日本軍が実施した犯罪行為はこれだけではない。中国に派遣された日本軍兵士の性の捌け口として、多くの中国人女性や朝鮮人女性が
強制的に連行され、兵士の相手をさせられたのである。「従軍慰安婦」と呼ばれるこれらの女性には、日本から娼婦も連れて行かれたが、多くは、
働き口があるとだまされるか、拉致されて連れてこられた人々であった。「日本軍性奴隷」と最近では呼ばれることが多くなったこれらの女性は
、一日に多いときは100人もの日本兵の相手をさせられ、性病のかかり、病死した者が大半であった。
http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/ta48.htm 南京市郊外の江東門近くに、「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」があります。
紀念館の敷地は二万五千平方メートルをしめ、そのうち建物は二千百平方メートルの建築面積で、資料展示館と遺骨陳列館の
二つがあります。花崗岩、大理石などで塀が作られて、荘重で厳粛な紀念館正面の壁面には「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」の
館名が刻まれています。右側の階段を登ると、その正面に、中・英・日の三カ国後で「遭難者30000」の文字が黒く大きく刻印され、
参観者は極めて強い印象を抱くようにされています。紀念館の入口には次のような中国語と日本語の掲示があります。
1937年“7・7”事変(溝橋事変)が起きて以来、日本帝国主義は中国全面侵略戦争を大規模に起こした。日本軍はまず北京・天津を占領し、
続いて華北を攻撃し、まもなく上海を占領した。つづいて12月13日南京をも占領し、ついて中国の捕虜兵士および罪なき平民に対して世に例なき
血生臭い大虐殺を繰りひろげた。時間は6週間の長きに達し、手段はきわめて残忍で、さらに殺す、焼く、強姦する、略奪すると同時におこなった。
被害にあったわが同胞の総数は30万人以上に達する。この世をあげて震憾させた歴史的事件は、中国侵略の日本軍の無数の暴行のなかで
最も集中した、最もきわだった一例である。本館に展示した関係写真と資料は歴史の証人である。
中国人民抗日戦争勝利40周年を記念し、わが遇難同胞を追悼するために、南京市人民政府は
本館の建設計画を決定した。その趣旨は、歴史によってわが多くの人民大衆と子孫後代を教育し、
強大さを求め、中華を振興し、わが国が一貫しておこなってきた独立自主の平和外交政策を堅持し、
中日友好を強め、あわせて世界各国の人民と共に、侵略戦争に反対し、世界の持続的平和を維持す
翼討伐人様がこのブログを完膚なきまでに叩きのめしたwww
いくら叩きのめそうと文字の読めない右翼には関係の無い話かもしれないがなwww
糞ネット右翼の脳みその腐り具合の観察には持って来いのブログではあるなwww
だが下品で低俗なアホブログウヨは精神病院に送られる前にブログを閉鎖した方がいいw
やはりあくまでも検定意見に固執し、沖縄戦の事実を偽る立場を堅持しました。「強制」という言葉をどうしても使わせないことに
文科省が頑固にこだわり通しました。
「集団自決」問題の核心は「日本軍の強制」ということです。これを認めないというのが今春示された文科省の意思でした。
今回もこの意思・立場を改めませんでした。「集団自決」の被害者自身はもちろん、また学問研究の成果も認めている真実に対して、
文科省はあくまでも自らの政治イデオロギーを押し通し、押しつけようとしています。
このような理不尽な政治を許してはなりません。朝日電子版は「沖縄戦の集団自決、検定意見を事実上修正」との
見出しで報じていますが、このような中途半端な甘い認識は許されません。
http://saru.txt-nifty.com/blog/2007/12/post_66ee.html
この『野火』について改めて思い出したのが、山村でのマンニャン族のお年寄り(Aさん)の話である。
「私が小さかった頃、日本兵が沢山私たちの村にやってきた。その人たちの名前は知らない。はじめ、その日本兵たちは、
私たちが飼っていた豚を持っていった。私たちの豚は徐々に少なくなり、遂にはすべての豚がいなくなった。多分、私たちの豚は、日本兵に食べられたのだろう。
日本兵たちは、豚がいなくなった私たちの村にやってきて、今度は私たちの村の住民を少しずつどこかへ連れて行った。その住民たちは、
そのまま帰ってこなかった。村の長老たちの話では、その連れて行かれた住民たちは、日本兵に食べられたらしい。」
Aさんは、日本兵が豚を奪ったあと、実際にそれを食べたところを目撃はしていないようで、それと同時に日本兵が村の住民をどこかに
連れ去ったあと、実際に彼らを食べたところを目撃はしていない。なので、その話にどれほどの信憑性があるのか、戦後何十年もたった
現在において、事実を確かめることは難しい。しかし、Aさんは、村の中に突如として現れた日本兵たちが、村の豚を食い、
人を食った、ということを少なくとも信じている。
http://blog.canpan.info/pnlsc/archive/142
生涯を捧げたという、70歳に近いころまで働いたが二〜三年前亡くなり3日後には親も他界した。戦争の悲劇の一つの例である。
もう一つは、「敗走する旧日本兵」 旧日本兵が人肉を食っていたということが、テレビで放映されていた。戦後軍部は戦争が終ったことを
知らず山へ逃げ込んだ。日本兵は食料がなく住民を襲い人肉を食料にしていたという、それに反対するものは、殺されそうで兵隊の間にも
不信感があり同僚も信頼されない状況であった。
ある人は、せめてもの罪滅ぼしにフィリッピンにボランチチァを続けているという。
この話は12年前の日記(平成5年10/23、10/24)からの抜粋であります。
http://blogs.yahoo.co.jp/hobb9313jpjp/8144302.html
http://blog.bridgeforpeace.jp/?eid=490153 ●LUCIO SAN JOSEさん、71歳
「いつも走って、逃げて、隠れていたのを覚えています」。
そう切り出した妻のLUCIO さん。洗濯をしている時に日本兵が急に現れ、「殺される」と夢中で逃げたこともありました。食事の用意さえ、
ままならなかったと言います。煙が出ると日本兵に存在がばれてしまうので、調理は見つからないよう夜に行うのが暗黙の了解でした。
「だから、いつもお腹が空いていました」。
戦時中の為、食糧自体が不足し、日本兵にとっておいた食べ物を取られたこともあると言います。
そんな逃避行の日々の中、彼女は父親を亡くします。家族で日本兵から逃げている時、事故で亡くなってしまったそうです
。無我夢中で逃げ切った直後、父親がいないと気付いて来た道を戻ってみると、無残な姿で息を引き取っていました。それ以来、
彼女が家族の責任を負う立場になりました。母親も、戦時中は何とか生き抜いたものの、戦後すぐ亡くなってしまったそうです。
日常的に辛い経験をしていたと見受けられるLUCIOさんですが、最も怯えていたことは、日本兵にレイプされること。独身女性と分かると
連行されることが常だったので、日本兵に見つかった時は子供を抱え、連れて行かれぬようごまかし通したと言います。
「抵抗は出来ない。拒否すれば銃剣で殺されました。男性も連行されていく女性を助けることは出来ないのです。
助けることは死を意味しましたから」
1年位続いた日本兵の占領の中、日本兵が人肉を食べる場面にも遭遇したというLUCIOさん。その話の後
、当時を思い出してしまった様子で、彼女が再び口を開いて語ってくださることはありませんでした。フィリピン人女性の
足を日本兵が食べているところを、木陰から目撃してしまったというのです。
本は敗戦したが、敗残兵がフィリピンに取り残された。
その敗残兵が食人行為を働いていたと言う事実でる。
1946年10月、5人の敗残兵は、ある一家に食糧を奪いに入ったが、食料が無いのを知ると、父親の首を切り食べた。
1946年10月、7人の敗残兵が、ある一家に押し入り兄を連れ去る、後日、頭部のみ発見。
80人近くの人名が奪われ、敗残兵14人に死刑、終身刑が言い渡されたが、恩赦により日本に戻された。
なお、この食人の発生した地域には野生の鹿が多数生存していたという。
敗残兵は鹿を捕まえることができず、人肉に走ったのだろうか?
それとも、鹿肉より人肉の方が旨かったのであろうか・・・
尚、これほどの事件を一般日本人は殆ど知らない。
この事実は1993年にTBS、テレビ朝日が簡単に短い時間で報道しただけで、新聞にも発表されなかった。
放送されなかった理由として、あまりにも悲惨な事件であったこと、遺族会からのクレーム等である。
しかし、こういった事実はあったのである。
http://shock.gray-japan.com/ura/can/file-0045.html
日本兵による人肉食事件
1946年6月、フィリピンのインパソゴン村でその事件は起きた。村で評判の美人である若妻(20歳)が、日本兵に捕らえられ、
刃物で切り殺された。日本兵は全裸にした女を、バナナの葉の上に横たえ、解体作業を行った。切り取った肉片とトウモロコシと
雑草でスープを作って食べたということである。日本兵によって、同様な行為が、各地で行われた。
(「棄てられた日本兵による人肉食事件」)
http://www1.odn.ne.jp/~ccb07360/sub/sub7.htm
http://www.news.janjan.jp/column/0712/0712280062/1.php 同実行委の大浜敏夫共同代表は「アジアのある記者から、日本には相撲以外に歴史歪曲という国技もありますね、と言われた。
南京虐殺や慰安婦、集団自決など歴史を歪曲してきたことを皮肉っていた。そう思われない国にするためにも、今回の文科省のやり方を
絶対に許すことができない」と述べた。「沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会」事務局長で、
琉球大学准教授の山口剛史さんは「日本軍が強制したとの訂正記述を書き直させ、二重の検定で事実を歪曲した」と指摘した。
またもや
逃げた
国の責任!
「沖縄戦の集団自決、教科書で「軍の関与」表現承認…文科省」
この記事を読んで、これは当然のことと思ったが同時に、
またもやアホ福田内閣流判断が其処に有った。
其れは、この戦争の責任は国にあるのだが
其れをこれは認めないことになる。
この本当の責任は国にあるのだから、当然、「「軍の強制」の記述復活」を認めるべきだは無いか?!
其れをしないのは、今のアホ福田内閣の基本である、
曖昧にし臭い物には蓋をしよう・・・今は完全な蓋は出来ないから、
己の責任が掛からぬようにして居るのだ!!こんな卑劣な内閣や行政は
本当に国民の為の役人か?
本来、役人は国民全体の奉仕者である!
今の奴らは保身の術に走り、国民全体の奉仕者では無い。
己のための奉仕者である!!子奴らは追い出そう!!
http://ameblo.jp/cm-macandpac/
ニューギニアにも慰安婦問題が起きました。1997年週刊朝日は現地人の告発として第二次世界大戦中に日本軍による強姦5,164人以上、
慰安婦12,718人、食人被害1,867人などとした、ニューギニアでの日本軍の残虐行為の報道を行いました。
この記事はその後朝日新聞などの続報もあり、南方での日本軍の慰安婦問題、残虐行為の一つとして扱われたりすることもあったようなのですが、
正直首を傾げざるえません。人数がやたら細かいということもありますが、日本軍の「マンハント」のような食人被害にあったのは文字もなく、
他の村落とは言葉も通じないような未開な原住民です。このような被害が戦後50年以上もたって、記録として残っているなど考えられません
(語り継がれることはあるかもしれませんが)。目の前で残酷な行為を目撃した人はいるでしょうが、統計的な数字はでたらめでしょう。
一方、例によって「慰安婦はいなかった、強姦はなかった」という論ももちろんあります。確かに、ニューギニアのような場所でのんびり
慰安所を開設できたとは思えません。しかし、「原住民は皮膚病がひどく性的対象になりえない」というのはどうかと思います。原住民の皮膚病は
ひどいかもしれませんが、おそらく日本兵の皮膚病もそれ以上にひどかったのです。そんなものを気にする日本兵は、とても生き残れなかったでしょう。
20万人の日本兵がニューギニア島の人々にどの程度ひどいことをしたかは、今や闇の中です。個別の話は残っていても統計など不可能ですし、
人肉を食べた話をべらべらは話す人は滅多にいないでしょう。ついでに言うと、食べられた原住民の多くは食人の習慣がありました。
食べられる仲間を見て恐怖は感じても、文明人とは違った受け止め方をしたはずです。
http://realwave.blog70.fc2.com/blog-entry-106.html
それから、侵略戦争で塗炭の苦しみを嘗め尽くしたアジアの国ぐにでは、多くの人が『拉致は自業自得』といってますよ。
これは本当です。もちろん政府間では、日本の恫喝外交や金のばら撒きなどで批判をかわしてますけどね。実際にもアジアサミットだった
普通の日本人の前では決していいませんけどね。日本人旅行客に優しい韓国人と同じですよ。それから静岡県立大学で
『平和学』を研究している森正孝氏も、『拉致問題』でのアジアの国ぐにからの非難を述べた上で、『拉致は身から出た錆び』と書いています
『統一評論』2004年4月号(統一評論社)。ですから私が二元論だというのはいがが、と思います。ネット上で私と議論するより、上の文献をご覧ください。
以下の点につきましては、公正な議論をするのであれば、善悪を議論する前に国どうしの対等性という前提(ダブルスタンダードを作らない)という
ルールを守らないと議論できません。
もっともほとんどの日本人は普通に議論するときは、(私も含め)この前提すら守らないほど傲慢で恥知らずですけどね。
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=4991;id=sikousakugo#atop
日本人はアメリカのポチになりきってしまい、自らアジアの孤児になってますね。日本人自身がアジア感覚ゼロの人が大半ではないでしょうか。
アジア人からは、そうですね、過去の侵略戦争で被害にあった国ぐにでは、内心は『ウソつきニッポン』、『不誠実ニッポン』、そしてカネと
恫喝外交で無理を強いるから総スカンなんです。国連常任理事国入りにどこも賛成しないことから明らかです。表向きはカネをばら
撒いてくれるから仲良くしてあげましょう、ってとこかなぁ。
アメリカでは、アジアで戦争を起こす拠点ですから日本は自分たちの属国だと思ってますよ。独立国家とはみなしてないですね。
他の国々からは、地の果て、地図帳からはみ出しそうなところにある成金大国、って感じかなぁ(アジア以外の地図帳は大西洋中心に描いてある)。
アジアという認識の人は少ないと思いますよ、そもそも日本がどこにあるか知らない人の方が多いと思いますよ。アジアの一国と
思ってる人は少ないですよ。そしてどうしてこんなに世界中から嫌われているのか不思議に思っている人が多いのでは^^
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1012155500
まり知られていないが、旧日本軍の軍紀は実際、半端じゃなく乱れていた。
国会図書館にも資料が膨大にあるから嘘だと思うなら確かめて欲しい。
同じ部隊内での刺殺が続発し、婦女暴行は当たり前に行われ、窃盗、暴行、リンチは、
数えればきりがない。びっくりしたんだが、上官の刺し殺し、上官に対する集団暴行、撲殺など
さまざまな行為が行われていた。ちょうど今の犯罪を平気で起こすDQNみたいな連中の方が
多かったそうだ。他国の人間だけではなく、なんと、日本の女性に対する強姦、
日本の同じ仲間内での殺人が普通に行われていた。
1941年、軍部はこの事態を重く見て、「戦陣訓」というものを通達した。
しかし、戦陣訓を通達してもいっこうにこの軍部内の乱れはおさまることなく、
慰安所を設置したり、仲間内での暴行、殺人をかなり大目に見るように姿勢を変えたそうだ。
当時の上官などは部下のリンチや、仕返しに恐れおののき、びくびくしていたそうだ。
これが本当の旧日本軍の実態らしい。
国家図書館に行けば、すべて資料として残ってる。いかに軍部が
この事態に頭を抱えていたか、ちゃんと記録に残っている。
尚、この事実は公表されていないばかりか、当時の新聞記事にも載っていない。
だが公文書として資料は残っている。確かめたいなら国立国会図書館に行きなさい。
92年から94年まで、「食べる」という共通項をたよりにして、世界の各地をめぐって、短編に仕立てている。その間、
全国の新聞に共同通信社として配信され読み物記事となっている。
バングラディッシュ、フィリピン、タイ、ベトナム、ドイツ、ポーランド、クロアチア、ユーゴスラビア、
オーストリア、ソマリア、エチオピア、ウガンダ、ロシア、韓国。筆者はベテラン記者で
なければ不可能な行動力と切り込みを駆使し、しかし、一個の辺見庸という個性の「視力」を唯一の基準として「もの食う人々」に接近する。
韓国では94年1月25日にソウルの日本大使館前で割腹自殺をはかり未遂で保護された3人の老婦人と、いろいろのいきさつがあるのだが、
食事を共にする。その3人は元従軍慰安婦である。
例えばそのうちの一人の金福善さん。「教会帰りの彼女はビビンバ、私はネンミョン(冷麺)を食べながら話」す。18歳の時だったという。
はじめてされた時、1週間出血して寝込んだよ。赤チンもらったよ。
彼女はラングーン軍人慰安所で「光子」と呼ばれる。朝8時の朝食後兵士が、昼食後下士官が、夕食後将校たちがやってくる
http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/ugo/oe/kibo2.htm
フィリピン人のマリア・ロサ・L・ヘンソン氏はその著書『ある日本軍「慰安婦」の回想』の中で、自身の従軍慰安婦体験を詳しく記しています。
実態を知る上で、実際に被害を受けた方の手記ほど貴重なものはありません。太平洋戦争中、夥しい数の女性が日本軍による
性暴力の被害を受けたにもかかわらず、被害を受けた女性自ら記した書物は他にないと言って良く、
『ある日本軍「慰安婦」の回想』はその点で極めて貴重です。性暴力だけでなく、
侵略の実態や、フィリピン人民の抵抗運動も詳しく記されています。日本人の残虐性や日本人の能力も良く分かります。日本軍は他の地でも
同じようなことをしてきたのでしょう。いかなる著名な作家の作文よりも本書は貴重です。
http://ww6.tiki.ne.jp/~funabashi/philippine-t.html
14歳の少女を性奴隷にしてしまうなんて、なんとむごいことでしょうか。
楽しかるべき青春が待っているはずなのに。その青春を軍靴で無惨に踏みにじ
り、電気拷問までかけて特攻隊員の性のいけにえにしてしまうなんて、「従軍
慰安婦」ほど女性を根底から踏みにじった制度は空前絶後ではないでしょうか。
元「慰安婦」の方々にはどれほどのトラウマを与えたかはかり知れません。
http://www.han.org/a/half-moon/hm057.html
この結論は、国連人権小委員会での4年間におよぶ研究と勧告や、昨年9月に開かれた北京世界女性会議の決議などを踏まえ、
さらに現在の段階の最も高度な調査や研究に基礎を置いたものと考えられ、私たちは厳粛な気持ちでこの勧告を受け止めたいと思います。
少なく見積もる人で8万人、多く数えるならば20万人を超すといわれる性奴隷にされた女性たちの被害の計り知れない重さと深さを思うとき、
これを犯罪とみなし、重大な犯罪に見合った処置を日本が要求されることは、当然のことといわねばなりません。
http://www.han.org/a/topics/topics_14.html
日本はすべての国に対して傲慢、恥知らずですね。アメリカに対しても、例のワシントンポストに『The Facts』のような恥知らずの広告を出したり、
ロビー活動でカネ(国民の血税)で何とかしようとしますから。常にカネで何とかしようとするし、何とかなると思っている。世界中の国の横っ面を札束で
引っ叩いて国連決議で票を集めて、国連を辱めているのをご存知ですか。このことが逆に、世界中から嫌われる原因なんですよ。
アジアだけでなく日本は『世界一嫌われている国』です。これを反省せず誠意でなくてカネで何とかしようとするんです。
世界中にカネをばら撒かないと、相手にされなくなるからODAや国連その他に多額の血税を注ぎ込むんです。
そして国民には、日本はこれだけ『国際貢献』しているんだ!といって騙してるんですよ。ほとんど世界中の人びとは
表向きは『日本大好き』です。だってこういうわがままな国に対しては、『触らぬ神にタタリなし』ですよね。
お金もばら撒いてくれるし、タタられると『北朝鮮の脅威』のように国民が逆ギレして集団ヒステリーを起こして
何されるか分かりませんから。ここうゆう調子だから、アメリカの属国となってしまい、
アメリカの戦争幇助をさせられるんだと思いますよ。
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=5148;id=sikousakugo#atop
謹 賀 新 年
■人類に末永く尊厳をもって生き続けて欲しい。だから環境破壊はできる限り抑えなければなりません。
破局的事故が皆無とは言えない原発は廃絶するしかありません。気候変動も私たちの生活の一層の簡素化を求めています。
■戦争は人を殺し傷つけ、破壊しか行いません。しかも戦争は最大の環境破壊です。軍隊の存在自体が貴重な資源の浪費です。
戦争廃絶こそ人類生存の条件です。軍隊の廃絶、その枠組みである憲法九条を世界に広め定着させる、それを保証するのはすべ
ての国の市民同士の友好と連帯です。
■市民同士の真の友好は、正しい歴史認識に基づいた過去の清算の上に初めて成り立ちます。日本軍国主義の被害者の尊厳回復と、
アジア諸国と日本の関係正常化に努力します。
■今年もどうぞよろしく。
嫌韓流に対する反論本が出版されるようです。嫌韓流なるものがベストセラーになる日本も世の末ですね。
そもそも、嫌韓流のような本にあるような言論は日本にて禁止して、著者も含めて、きちんと法的な制裁が加えられるようにすべきです。
強制連行、強制労働、独立運動弾圧で多くの朝鮮人の命を奪いました。そのような嫌韓流そのものの存在こそが、大日本帝国によって
苦痛の中で死にいった多くの犠牲者を冒涜するものであり、二次加害であり、非人道の侵略や加害、殺戮の歴史をもつ日本にあって
なおさら許される者ではない。現代の世代として、この嫌韓流のような者が存在することで、日本が過去に韓国を含むアジアの被害者や
犠牲者を傷つけ、死に追いやった上、このような歴史修正漫画や書物、主張が山のような氾濫することで
幾度にわたり、加害し続けてきたことを悲痛の思いで一杯です。ともあれ、嫌韓流をすぐに取り締まることはできなくても、
同じ言論の立場に立った反論本がでてきてくれることは大変心強いものです。
これで大日本帝国の犠牲になった人々が報われるものではありませんが、やつら右翼勢力どもの主張に洗脳されている人々を
元の正常な日本人に戻せたり、一人でも多くこの種の問題に関心をもって、大日本帝国および右翼勢力に対する憎悪、
近隣諸国への加害の歴史に対する償いの心をもつ人々が増えれば幸いです。
近い将来に右翼勢力がすべて滅びさることを願ってやみません。
例えば、ビルマのカラゴン事件。敗戦間近の7月、ラングーンをイギリス軍とビルマ軍に明け
渡し、タイ方面へ敗走する日本軍が、ビルマ南東部のモールメイン郊外のカラゴン村で、600名
あまりのビルマ人イスラム教徒を虐殺した事件のことだ。女性や子どもも多数含まれる。
ラングーンで行われた裁判の記録からするとカラゴン村の村長はイスラム教徒で、生き残った
証言者もイスラム教徒だ。ビルマ語で「カラ」はインド人やイスラム教徒を指す蔑称である。
虐殺を実行した部隊は前述の増田さんの所属する第33師団(弓)歩兵第215連隊。当時の
田中信男第33師団長が、村人の殲滅(虐殺)命令を出し、それを実行したのが第3大隊だ。
裁判の結果、被告14人のうち、市川大隊長と三人の中隊長(内、一人は長野県出身)が死刑
となり、6人が5年から10年の禁固刑となった。この4人は、戦後14年たってから靖国神社に
合祀され、法務死扱いとなっている。
カラゴン事件で見る限り、住民殲滅を命じた田中師団長は、牟田口中将と同様に責任を部下
に押しつけ生き延びていることだ。(カラゴン事件についてはいづれきちんとした記事にしたい)
運良く虐殺を逃れた住民からすれば、死刑となった4人が靖国神社により「昭和の殉難者」扱い
とされ、神として祀られていることが納得できるだろうか。彼らも「国を守るために尊い命を落とした
英霊」といえるのだろうか。B級C級の一例からもわかるように、靖国問題はA級戦犯だけでは
ないことが実感できるのではないだろうか。
http://homepage2.nifty.com/munesuke/za-2006-8-14.htm
戦後のアメリカと違って、当時の日本政府は南の島の社会的、経済的発展を真剣に考え、インフラの整備や産業振興に随分と力を注いでいたことが判る。しかし、
その30年余り積み上げた実績も、太平洋戦争と共に歴史の彼方に吹き飛んでしまった。そればかりか、島々を戦場と化して荒廃させたことで、歴史を後戻りさせ、
島民たちに大変な迷惑をかける結果となった。アメリカは何もしない。全てインフラの基盤を作ったのは日本だ、と威張っている日本の政治家も居るが、
静かな島を引掻き回した挙句、島民を混乱に巻き込んだ日本。余り卑下する必要もないが、決して威張れる存在でもない。
ポンペイにも米軍の空爆はあったが、幸いむごたらしい地上戦はなかった。他の島同様この島にも、「日本時代は良かった、良かった」
と云う老人が居るそうだが、日本人は決してモいい気になって“はいけない。セピア色に変色した古い本に戦前の日本人の
足跡を辿りながら、私はそんな事を考えていた。
http://www.jpnclubguam.org/member/m180709.htm
1時間ほど走ると目的地に着いた。そこは「マンドール」という地名で戦争記念公園があるそうだ。現地に到着した僕たちは鍵の閉まった小さな建物の
前に集まった。しばらくすると管理人らしき人が現れ、僕たちを中に入れてくれた。そこには第二次大戦中に日本軍によって見せしめとして殺された
カリマンタンの領主たちの顔写真、当時の新聞の拡大コピーなどが展示されていた。処刑されたインドネシア人の数は21,037人。この数字は日本軍の
資料提出により西カリマンタン州知事の名で発表されているかなり正確な数字だそうだ。すこし離れたところには当時の状況が物語風のレリーフ
になっていた。説明してくれたガイドの方は、「殺された」という事件だけでなく、
密告によって現地人が現地人を売るスパイ行為もあり、すべての非が日本側にあるわけではないと冷静に客観的に話してくれた。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/1987/ibunka/ibunka8.html
日本政府の統計によると、台湾支配が確立するまでの8年間、軍政下で 32000人が殺害されました。これは当時に人口の1%を上回る数字です。
そして、日本統治下50年間では総計10万人を越える犠牲者を出しています。これは、民衆の抵抗の激しさと日本の武力鎮圧の凄まじさ以外の何物でもありません。
『霧社事件』もこうした抵抗運動の一環だったのです。モーナ・ルダオは「我々も人間である事を日本人に知らしめるため」抗日の狼煙をあげました。しかし、
人間としての生を奪還するための戦いは、山地民族同胞の痛ましい
死への道でした。この霧社事件を、台湾に住む日本人は襟を正して記憶の中にとどめておかなくてはなりません。
http://park15.wakwak.com/~inochan/4.taiwan/4-66.htm
フィリピンとのビデオ交換プロジェクト
http://blog.canpan.info/ideaeast/archive/123 元日本兵の方は、戦争が終わって60年以上、ほとんど戦争の時のことを語らなかった方が多いのですが。
人生の終わりが見えてきたこともあり、今、戦争の体験を語り出しているのだそうだ。
その証言を、フィリピンの方が見たとき、当時の様子がフィードバックされる人もいたそうだが、日本兵も仕方なく
戦っていたという被害者でもあるという事を言う方も出てきた。
そして、そのビデオを、元日本兵の方に見てもらうと。いままで、語らなかった事実を語り出したのだ。
それは、日本兵が、日本兵の人肉を食べたという話しだった。
昭和20年の6月〜8月が、当時のフィリピンにいた日本兵にとって最悪の時期で、総ての補給が絶たれ、軍隊内でも食料の
取り合いが行われるようにもなっていた。そんなある日、アメリカ軍の基地に投降すると見せかけて、自爆テロをするという3人が現れたのだ。
しかし、なんとなく、おかしいと思って、調べたら爆弾ではなく米が入っていて、どうもこの3人は、食料を持った上、アメリカ軍に投降しようとしていたようだ。
そんなことが、そのにいる辛い思いを共有している兵士にばれ、収まりがつかなくなったので、この3人の日本兵を殺すことになった。
その殺された日本兵の肉を、その部隊の何人かが、あまりもの飢えのために食べたそうだ。
30万のうち半数はこの泰緬鉄道に埋没されています。それはここにも書いてあるんですが、1人のインドネシア人が残ってたので、
その人をインドネシアに連れていったときに、そこの村長が、うちの部落からは10人出て行ったが、帰ってきたのは5人だったと
言っていた。だいたいそれが平均なんです。ビルマもみなそうです。でもビルマは地続きだから逃げちゃうんですね。仕事は苦しいし、
敵の爆撃があったりするから。そこで脱走して逃げて帰ると、あくる日、その家に日本の兵隊と部落長さんが来て、「夕べよく眠ったか、
ご苦労さんやった。また行ってくれ」いうて連れて帰るわけです。だから2度目に脱走するときは自分の家に帰れないんです。
帰ったらまた行かなきゃならないから。だいたい労務者として連れていかれる人は1家の働き手でしょう。
そういうふうにしてビルマの18万人の家族は全部破壊されてしまった。
http://homepage2.nifty.com/ojsc/war-experience.htm
1軒の大きな民家にあがらせてもらう。中は大きな部屋がひとつあるだけで、囲炉裏もしっかりしていた。ここの長老は太平洋戦争のとき日本軍とともに連合軍と戦ったと言い、
肩にたくさんの筋の入った軍服を着ていたと言っていた。まだ日本語を少し覚えていて、新高山をしきりに口に出していた。気の毒に視力を失い、
高床式の家では階段の上り下りが大変だろう。家の下には連絡用に使っいた木の太鼓が置いてあった。幹の内部を彫って空洞に
したもので東南アジアの国にはよくあるもの出る。交通手段のない当時には唯一の通信手段だったのだろう。
http://www2.neweb.ne.jp/wd/sadachan/pngf/PNG4.htm
記事によると朝鮮や日本以外にも、中国、台湾、フィリピン、インドネシア、マレーシア、東ティモール、ビルマ、グアム、パプアニューギニア、オランダの女性たちが慰安婦を強いられたらしい。
あたいは大学生時代に台湾で被害にあったという女性の方の話を生で聞く機会があった。
その時実際に感じたことはこの人は絶対に嘘をついていないということだよ。
あんな生々しい嘘を言うことができるはずがない!!
話を聞いていて溢れる涙をこらえることができなかった・・・
日本人がしてきたことに対してすごく恥ずかしくなったと同時に自分の無力感を感じたよ。
ちっぽけな自分。
何にもできない自分。
今どこかの首相は慰安婦に関して政治的な関与はなかったとしている。
あんた本当にいってんの?本人の目の前で同じことを言えるの?
もうそんな方々も生きられる時間が数少ない。日本の恥を今こそ反省するときだと思う。
ぼくわたしは関係ないってことはない。
あなたが日本人なら関係ある問題。
日本人に一度よく考えてみてもらいたいRatsでした☆
http://blog.livedoor.jp/ratstar/archives/53360085.html
真実なくして和解なし
テッサ・モリス・スズキさん(オーストラリア国立大学)は「友人の中には米議会決議は偽善で役に立たないという意見がある。
だが、私は同意できない。アメリカでは四十年かけて日系人収容に関する謝罪・補償を実現した。決議の中心のホンダ議員も収容されていた。
日本国内では、ベトナムやチベットでアメリカや中国がやったことより、日本がやったことがより悪いのかという悪循環が延々とある。
これを積極的な循環に逆転しなければいけない。
この問題は安倍・ブッシュの間の問題ではない。慰安婦問題は米メディアで報道されるようになった。オーストラリアのメディアでも報道されている。
また、オーストラリアも、パプアニューギニアで強制労働をさせた歴史がある。この問題は日本と隣国だけの問題ではなく、アジア全体の問題なのだ。
安倍政権は一番ひどい対応をしている。問題を言葉の遊びにした。その結果、袋小路にいる。日本国内の人々は批判を理解できなくなっている。
日本政府の今後の対応の第一は謝罪しない。第二は謝罪・補償する。もし、政府が前者の立場に立つならはっきりそういうべきだ。
外国の運動が日本の運動と協力して問題解決を促進できればいい。それが日本の戦争責任を追及するだけではなく、
日本の社会運動がオーストラリアの戦争責任に関心を持ち、オーストラリアでの強制労働、
アボリジニ虐殺の責任追及を支援することになる。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mmr/glocal/2007/712/pp.html
参院で否決された「新テロ特措法案」の、衆院での再可決による成立という状
況の中でわれわれはまた、2・11「紀元節=建国記念の日」を迎えようとしている。
安倍政権のような強権的な政治手法から距離をとって野党との「協調」という
姿勢で売り出した福田政権だが、アメリカの要請する戦争国家化の道を進むことを最
優先する方向になんら違いがないことが、改めて明らかになった。
安倍政権のもとで進んだ日本の国家主義的、排外主義的な歴史認識にもとづく
政治は、アジアの人びとの大きな怒りを引き出しアメリカやヨーロッパにおける「慰
安婦決議」の採択をも促した。そして沖縄戦をめぐる文科省の教科書記述改ざんは沖
縄の人びとの「島ぐるみ」の抗議の声を前に、手直しを余儀なくさせられた。
ここには、「現在」の戦争国家化が「過去」の戦争の記憶を不断に甦らせ「過去」にたいする歴史認識が、
現在の政治のありかたへの批判的問いに直結せざるを得
ないという関係が、はっきりと現れている。
一方で、「靖国派」とはいえない福田政権の登場は、右派の危機意識をかきた
て巻き返しもはじまっている。こうして、支配者層内部の「対立」をもはらみながら、グローバリズムの下での天皇制の
あり方が、制度的な面でも再編成されていくことにわれわれは注目していかなければならない。
天皇制と戦争・戦後責任、歴史認識とナショナリズム、靖国と「慰霊」をめぐる反天皇制運動の日常化・大衆化をめざす2.11反「紀元節」行動への
参加と協力を訴える。
バリ人の老人と話しをすると、「♪おぉ手ぇて〜、つ〜ないで〜♪」と歌い出した方がいました。
この老人が小学生の頃だったそうです。
日本の占領下にあったバリ島で、日本語教育をされて育った方です。
その頃は、日本軍に「米」を納め、代わりに「とうもろこし」を受け取るシステムだったという事です。
「よく殴られた」
「炎天下で一日中、立たされた事もあった」
と言っていました。
オランダ軍による植民地時代も知る方で、
「オランダ軍の時は、米が少し食べられた」
「日本軍の時は、誰でも学校へ入れた」
と言っていました。
その他、日本の軍歌を歌えるバリの老人とも会った事があります。
http://blogs.yahoo.co.jp/mons_bali/50222796.html
日本ではこの島の事は全然知られておりません。日本人などめったに来る事はないのではないでしょうか。私はその時この島で要人の多くが、
日本軍のために殺されたという事を知りました。日本ではこの事は全然知られて居りません。
私は1944年、アンボンへ行く途中で船を沈められ、このメナドに助けあげられ、それから約2年間トモホン地区で一部隊本部付で過したのですが、
そのため色々の情報を知ることも出来ました。当時フィリッピンからアヌリカの飛行機が毎日のようにトモホン、メナド、
ビートン等の爆撃を繰り返していましたが、これらの飛行機を誘導している小さな島があるという情報を聞いた事がありました。
然し、こんな24名もの民間人が罪状不認のままで殺されたという事は知りませんでした。同じ日本の兵隊として然も同じ地域の中で、
このようなことが起こっていたという事は申し訳ない事だと思います。
私たちはトモホンに駐屯している時インドネシアの人達に本当によく親切にして貰った記憶しかありません。だから私としては
インドネシアの人にそんな人は居ないと信じていただけに、この話を聞いて大変なショックを受けました。そして、この事実をはっきりと知りたい
と思ったのです。といって、これに対して個人としては何もしてあげることの出来ない事を残念に思っています。私はインドネシアへは
もう40回以上行ったり来たりしています。インドネシアの人達と本当にとけ合ったおつき合いの出来る事を願っています。
http://homepage2.nifty.com/manado/aoki5-4.html
[18]日本軍の便衣行為
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=18;id=imgbord#18 元トピ消滅につき転載
実は昨年、画像による日中戦争検証シリーズを、某theBBSに連続投稿していたのですが、
元トピが事故で消滅してしまいました。
前記した「軍装なんて例外だらけだ」ということの裏付けとして、それなりに面白いテーマもありましたので、この場を借りて、再録を試みて見たいと思います。
【日本軍の便衣行為】
[15]ja2047 04/08/12 17:55
掲示板で熊猫さんがたびたび引き合いに出す「日本軍の便衣斥候」です。
もちろん、撮影当時は「不許可」扱いで掲載禁止でした。
(毎日新聞社 一億人の昭和史10 「不許可写真史」P49)
[48]ja2047 04/08/19 20:18 IXOO5KPU38J
便衣斥候の別の例、画面中央左の帽子の男がそれです。
「図説日中戦争」(河出書房新社)P8に、1933年の熱河作戦の写真として掲載されています。
303 :
農NAME:2008/05/05(月) 19:10:35
なにこのスレ?
安保?
基地外に粘着された
305 :
農NAME:2008/05/31(土) 11:41:34
535 :195 ◆IyApGKf56Q :2008/05/23(金) 00:12:17
./ ̄ ̄ ̄\
>>527 トマトは病気になりやすいよ
|.. |だからあたし、最近はつくってないからわかんないー
|:::: ●) ●)|
ヽ:::::::.....∀....ノ で、だ。
./ ̄ ̄ ̄\
>>530-531 |.. |このキチガイ山形ホストのメール送ってきたクズよぉ(w
|:::: ●) ●)|お前の知り合いみたいに、事故で死んじゃえよ
ヽ:::::::.....∀....ノ 訴えでも何でもしろって。その前に事故で家族もろとも死ぬだろうけど(ゲラゲラ
お前程度に人権なんぞあるかよ。
306 :
農NAME:2008/06/05(木) 22:11:11
フィリピン人、中国人女性の証言や日本軍の文書でも中国やフィリピンで日本兵による強姦が広がっていたことが分かっている。上で引用した
北支方面軍の参謀総長からの命令でも「多くの場所で日本兵による強姦が広がっている」ことについて言及がある。強姦は明らかに日本軍と
中国軍あるいは日本軍と1943年から1944年にかけて出現したフィリピンゲリラとの間に大規模な戦闘があった地帯で数多く発生していた。
現地の日本軍部隊はフィリピン人、中国人の少女を誘拐し、数週間から数ヶ月に渡って監禁し、強姦を繰り返したことが報告されていた。
オランダ政府の文書にも1942年に日本軍がオランダ領東インドに
侵攻した直後に日本兵による強姦の被害を訴える数多くのオランダ人女性の証言が記録されている。
http://d.hatena.ne.jp/honyakusha/20070416
人間を幸福にしない日本というシステム
http://ac-net.org/common-sense/00b-wolferen.html 第1-4章 民主主義に隠された官僚独裁主義
104 日本はうわべだけの民主主義国になっている。そうした構造のなかで多くの「民主主義的」儀式が行われ、
日本の市民を欺く偽りの現実が維持されている。うわべだけの民主主義のなかで実際に機能している権力システムは、
「官僚独裁主義」と呼ぶべきものだ。
日本の独裁主義は特異な現象だ。なぜなら、私のよく知っている他の独裁政治体制とちがって、
権力が最終的に一人の人間もしくは一つの集団に集中していないからである。
ここまで抜粋
終戦記念日の前日(2007.8.14)、マルク州西南東マルク県のセラル島のレミャン海岸に立った。ここは、日本軍が連合軍と対峙した、
正真正銘、“最前線”だった。南の方角にはオーストラリアのダーウィンが位置する。レミャン海岸に夜間上陸した日本部隊は、
陸路、東海岸に面するリンガット村に進駐した。リンガット村で、“戦後”が訪れていないことを実感した。陸地、海岸、
そして海中に投棄された多量の弾薬と兵器。「村は破壊され、連合軍の爆撃で約200名の村人が死亡した。そして村のおよそ
50名の若い女性が慰安婦として強制的に性の奴隷となった」と、現村長のユスフ・サンボヌさん。
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200708/article_6.html 。「お金のことは二の次の問題です。まずは、思い、関心を持って欲しいということです。私が知っている限り、
戦後、旧日本兵がセラル島を再訪したことはありません。私は、その昔セラル島に居ざるを得なかった、そうした旧日本兵たちが、
あるいはその子孫たちがやってきて、今の世代と友好を築き上げて欲しいと願っています。援助ではなくても、旧日本兵の孫の世代が、
この島に投資をしてくれないだろうか。例えば、電気の問題でいえば、太陽光発電などの技術を持ってきてくれると大変嬉しい。
あるいは、貧しい家庭の子供たちに奨学金を出してくれるとか、あるいは優秀な生徒を日本へ留学させてくれてもいい。終戦時、
他の地域では、恨みから日本軍が攻撃を受けたこともありますが、この県の中で、セラル島やその他の島々にいた日本兵は、
皆無事に祖国へ帰ることができました。そればかりか、実の兄は、日本兵に養子縁組される直前まで親密な間柄だった。時代が残虐性をもたらしたが、
一時期とはいえ、日本人と地元民との間に、うまくは表現できないが、普通では考えられない友好や友情があったことも事実です」
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_7.html
「日本軍の進駐で、この村は戦争の犠牲となった。遠い北からやってきた日本兵が、南のオーストラリアと対峙するために、
ここを戦場に変えてしまった。島にはまったく関係のないよその国の問題なのに、村人は巻き込まれてしまった。連合軍の
爆撃でたくさんの家屋が破壊され、焼かれた。日本兵による拷問で死んだ村人もいたが、少なくとも200名近くの村人が連合軍の
爆撃に巻き込まれて亡くなった。村の墓を見てください。一目瞭然です。それから、村の若い女性たちが性暴力の犠牲者となった。
その数は約50名。日本軍によって強制的に性の奉仕をさせられたのです」
リンガット村ではあの“先の不幸な大戦”が終わっていないような錯覚にとらわれる。到る所に“戦争”が残っている。日本から赤道を越え、
5千キロ以上もの長旅をして運ばれてきた、日本軍の武器・装備が残骸となって視線に飛び込む。
「繰り返して言いますが、私たちは罪のない犠牲者です。人間としての威信を傷つけられた女性たち。そして意味のない軍票で
強制労働に従事した男たち。傷はいまだに癒えていません。どうか、傷を癒してくれませんか。どのようにしたら傷が癒えて、
私たち村人に、本当の戦後が来るのか、考えてもらいたいのです」とユスフ村長(上の画像)。
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_8.html
『エンプラワスの村人が日本軍に抵抗した理由は、それは余りにも理不尽な課税と、それから人間の尊厳に関わる酷い要求の二つだった。
大東亜戦争の中、日本軍は現地で食料を調達。軍票で支払うこともあったが、支払わないこともあった。それを村人は“税”と捉えていた。
農産物を始めヤギ、豚などの食料供出を、各村々に割り当てていた。日本軍は、さらに、まだ未婚の女性や美人の若妻をイアンフ(慰安婦)
にしようとした。村々から集められた女性たちは(注:陸軍部隊の本部があった)ワクパパピで選別された。さらにエンプラワス村に
義務付けられた納税の一つはタバコだった。エンプラワスはババル島で最高の品質のタバコ産地だった』
『悲劇の始まりはというと、シノハラ(注:極秘報告書によれば、シノハラとは海軍錦隊の嘱託だった篠原と思われる。
シノハラがエンプラワス村にやってきたのは1944年10月27日とされる)はイタリアと言う名のスパイらと共に、慰安婦候補探し
とタバコの調達の二つの用事で村にやってきた。村人は税のことは分っていた。供出物資の事は承諾していた。
プロテスタントの牧師の家にやってきたシノハラは、村長らを呼び、そこで、要求を突きつけた。元々はこれぐらいと言っていたのに、
今後はこれぐらい増加でタバコを供出せよと、酷い増量を求めた。村人は納得できない。
さらにシノハラは娘と美人の人妻を出せとも要求した。イアンフ候補を急いでセレクションしろと』
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200807/article_1.html
今度は おしゃれな長老のお出迎え。
これ位の老人は、日本語を話せる。
旧日本軍が3年いただけで学校教育でちゃんと日本語を教えてしまったのは、すごい!
幸いな事に、日本に対して悪感情はなかった。
しかしここでの買い物は難儀した。何しろ私達一人について、少なくとも10人の女性達が、
それぞれ自分のイカットを広げて取り巻き、離してくれない。
目なんか合っちゃうと大変!
見るのと、値切るのと、一苦労。
しかし1枚購入した。
http://www.little-pumpkin.net/indonesiatrip.htm
この季節になるとまたぞろ出てくるゾンビども。
先の大戦を「侵略ではなく自衛」などと嘯く施設へなど、恥ずかしげもなくよく参拝出来るもんだ。┐('~`;)┌
しかも靖国神社は天皇に命を捧げた者だけを祀る施設。それを「国家のために命をささげた人々の御霊を慰め、
その事績を後世に伝えることが目的」などとよくもまぁしゃあしゃあと言えたもんだよ。嘘をつかずにちゃん
と「天皇のために命をささげた人々の御霊を慰め、その事績を後世に伝えることが目的」だと言えよ。
今もなお天皇中心の国家観を持ち、先の侵略戦争を美化する宗教とはいったい何だと思う?
戦前の体制を懐かしみ、時計の針を逆に回し、価値観や体制を元戻ししようとしているのだということは
幼稚園児でも理解できるだろう。
この時期になるとそんな施設に不逞の輩どもが集うわけだ。
靖国神社ってのは不逞の輩やゾンビどもの集会所ってことだ。
私は自他共に認める産経新聞派です。(笑)
以前、とあるWEBサイトで激論してしまい、この話題にはあまり触れたくないのですが、私の体験を書きます。
=私の友達のマレー人の男性(今37歳)は学校で、大東亜戦争がアジアを開放したとならったし、僕もそう思う。なのに、何故今も悩んでいるのか?
=バスに乗っていたとき、中華系のお年寄りに突然日本語で話しかけられた。
「あなたは日本人ですか?私は戦争中に日本語を習いました。素晴らしい先生でし た。その先生は
戦争後もマレーシアに住んで私たちにとても良くしてくれました。」
=取材で行った、マラッカのババニョニャ・ハウスのオーナーの話。 日本軍はとても律していて、意味もなく虐待をする事はありませんでした。
私は当時 若く、自警団のメンバーでした。ある日、私の態度が悪いと下層の軍人に事務所へ連 れられていき、体罰を受けたことがありました。
その下層の軍人は台湾人でした。私 の両親が謝りに行き、私を連れて帰ったのですが、その後、将校が私の家へやって来 て「部下が勘違いをして、
大変酷い事をして申し訳なかった。」と謝りに来ました。こんな事が出来るのは日本人だけだと思います。
当時虐待もありました。でも、あれは戦争だったのです。だれもが気が狂っていたのでしょう。
勿論、虐待された事を忘れられず、ジョホールでいやな目にあった日本人の方の話を聞いたこともありあす。
=去年、「抗日感情」を煽る事件があったのを覚えていますか?私は某日本のTVのリサーチ依頼でアンケート調査をしました。
私の担当は中華系でした。約50人ほどのアンケートを集めました。
若い人は18歳、年配は60歳まででした。殆どの人が日本のODA活動の事を知りませんでした。
http://www.junmas.com/asiansquare/wforum.cgi?list=&page=10&mode=msgview&no=15016&reno=&oya=14981
阪神
07 03,08,11総流し
08 03,07総流し
09 03,08,09総流し
10 08,11,15総流し
11 06,15総流し
12 01,03総流し
中山
07 03,09総流し
08 01,12総流し
09 04,08総流し
10 10,14,17総流し
11 05,07総流し
12 11,14総流し
阪神05 03,04,07総流し
阪神06 03,04総流し
阪神07 01,13総流し
阪神08 09,13総流し
阪神09 07,12総流し
阪神11 11,14,15総流し
阪神12 02,05総流し
中山06 08→07,09→総流し
中山07 見
中山08 09,12総流し
中山09 04,07総流し
中山10 04,07総流し
中山11 07,09総流し
中山12 06,12総流し
東京07 3,11総流し
東京08 6,14総流し
東京09 見
東京10 2−4,12総流し
東京11 4−15総流し
東京12 2−7総流し
京都07 12,14総流し
京都08 3,11総流し
京都09 9,13総流し
京都10 5,6総流し
京都11 見
京都12 16−2,15総流し
福島11 4,16総流し
京都06 5,10総流し
京都07 10,12総流し
京都08 4,11総流し
京都09 4,10総流し
京都10 5,16総流し
京都11 12,14総流し
京都12 10,12総流し
東京06 2,5総流し
東京07 12,15総流し
東京08 4,14総流し
東京09 2,3,5,11総流し
東京10 5,6総流し
東京11 14,16総流し
東京12 5,13総流し
【ソウル21日聯合ニュース】北朝鮮の朝鮮労働党機関紙「労働新聞」は21日、日本が拉致問題などを理由に国連人権理事会で北朝鮮人権に
関する決議を主導したことについて「日本が拉致問題と人権問題を取り上げれば取り上げるほど、わが人民の日本に対する怒りは
さらに激増する」と述べるとともに、日本植民地時代の強制連行などを非難した。北朝鮮の朝鮮中央通信が伝えた。
同紙は論説を通じ「拉致問題について論ずるならば、真の拉致犯は日本」だとし、「今も日帝による強制連行、拉致、誘拐により、
人間生き地獄で奴隷労働、日本軍慰安婦、戦争に借り出された被害者ら、日帝により命を失った数多くの朝鮮の人々の霊魂が、
日帝の蛮行を忘れることはできないと絶叫している」と主張した。
また、「日帝の朝鮮人強制連行、拉致犯罪は、いくら歳月が流れても絶対に覆い隠したり消してしまうことはできない」とし、
今日まで日本は20世紀前半期にしでかした反人倫的な拉致、強制連行犯罪を認めていない上、謝罪も行っておらず、
むしろそれを歪曲(わいきょく)し、歴史の黒幕の中に埋めてしまおうとさまざまなまやかしを行っていると非難した。
植物のように生きたいだけなのになんでいちいちめんどくさいことが起こるのか
西の人間はクズばかり
328 :
農NAME:2009/08/04(火) 22:03:20
>>326 欲深な馬鹿どもが余計な事ばかり狂ってやるから
フィリピンに生活していると、確かに、さまざまな場面で、
「日本兵はしょっちゅう我が家に遊びに来てくれて、本当に仲良くなったんだ。」
「私の知る日本兵は、真面目で礼儀正しくて、いろんな歌を教えてくれた。」
「若い日本兵が我が家に出入りして、嬉しそうに食事をしていった。」
という声をしばしば耳にします。こうした「鬼畜ではない日本兵像」は、『炎熱商人』をはじめとした日本の文学には
多く描かれてきましたが、65年の時が経っても、アジアの国の側の芸術作品に描かれることは、
非常に稀だったと思います。 Ben Suzukiさんはそれを「勇気」と表現されています。
http://keso.exblog.jp/9864706/
日本食は低カロリーかつ栄養バランスがよく世界的に人気のある食べ物ですが、ある部族によるとそれを作り出した日本人の肉も美味しいそうです。
実際に食べ比べてみた人の感想が明らかになりました。
詳細は以下。
Meeting the cannibals of Papua New Guinea: "Japanese people taste the best - whites are too salty!" - Bild.de
写真家のIago Corazzaさんと文化人類学者のOlga Ammannさんがパプアニューギニアの原住民族を取材した
「最後のパプワ族」の内容によると、食人族にとって「一番ウマいのは日本人」とのこと。
http://blog.goo.ne.jp/hyouhei03/e/aecb6c7b5689626c578d1348ec7d87ee
大事なのは、罪の度合いではない。「罪を自覚する度合い」である。
すくなくとも、戦後のドイツが過去を自浄する努力は周辺国から十分な信頼を取り戻すに値するものだったといえる。
「ドイツは日本よりひどい真似をした」にもかかわらず。
日本政府もたしかに、戦時中の罪を認めたし、賠償もした。
その事実を逆手に取り、反省を迫られる場面では「日本は謝罪済み」と突っぱねながら(つまり国民として政府の方針を認めながら)、
なおも日本は無罪とうそぶくネット右翼の腐った根性、彼らを野放したままにする現政権の最低な道義こそが、
謝罪も賠償もうわべだけと感じさせ、ぶち壊しにしているのだ。
今年もまた「戦争」を考える季節がやって来た・・・広島、長崎、そして8月15日。年々少なくなっているとは言え、今年も戦争関係のドラマや
ドキュメンタリー、映画などがブラウン管(もはや死語か?)を賑わせることだろう。昨年はNHKのドキュメンタリー(元兵士の証言)に秀逸なものが散見されたが、
今年はどうなのだろう?戦争体験者は年々減っていく。今のうちに彼らに証言してもらわなくては困る。自身の戦争体験、ことに「加害体験」を語ってもらいたい。
映画やドラマについてはドキュメンタリー以上に「加害」を避けたものが多い。「日本人はこんなに酷い目に遭った」「日本の兵隊の中にもこんな良い人がいた」・・
・こんな映画ではダメなのだ。外国映画がそれを描くのは良い。しかし我々日本人がそれをやってしまっては単なる「免罪符」だ。
「杉原千畝」は確かに日本人の「自尊心」「優越感」をくすぐる題材である。だから映画もテレビもこぞって「杉原千畝」を取り上げる。しかし日本人が本当に作るべき映画は、
例えば「石井四郎」(陸軍731部隊創始者)の生涯を描いた映画である。その映画には「良い日本人」など登場させてはいけない。彼らが
「故郷では良き夫・父親であったこと」を描くのは良い。しかし満州ハルピンの収容所に配属された彼らは、もはや「悪魔の日本人」でしかなかった。
そこに良い日本人は「基本的に」いなかったのである。たとえいたとしても「善」を貫けば最後には抹殺された。
それが日本の軍隊の現実なのである。そこまで突き詰めて、覚悟を決めて映画にしなくては駄目だ、と私は思う。
日本の軍規が乱れて退廃していたのは、南京事件以前からです。
古くは旅順虐殺事件や、平頂山事件にみられるように軍規とは無縁の軍隊であったと言えます。断片的な事例を提示すれば、
残忍極まりない話もあれば美談も少なくはありません。
日本人というより同じ部隊の仲間に対して、部下や新兵に対する陰湿な暴行や、被差別部落出身の兵隊への差別すらありました。
道徳観の欠如した部隊が戦争をしていたのです。弱い者と見たらお構いなしの軍隊が、
敵国の民を如何に扱うかは、兵士の証言や被害者の証言で充分でしょう。
南京というのは中国の首都だった特別な地域であり、兵士の中に征服者あるいは支配者になったという
傲慢な気持ちが働いたのではないでしょうか。
この陽気な老人は、93歳だといっていたが、
老けて見えるのではなく、どう見ても高齢で、
おそらく戦争中に日本軍兵士から
日本語を学んだのだと思われる。
名前を尋ねると、ピーター・パンバンとこたえた。
覚えている日本語の単語をぽつぽつと口にするだけで、
会話が成立するわけではないのだが、
こちらを日本人と知って、
日本語で話しかけてきたことに驚かされた。
ぼくと老人のやり取りを見ていたほかの観光客は、
かなり驚いたようだ。
ぼくと家人は、別々に行動していたのだが、
離れた場所にいた家人は、
デンマーク人一家の15歳になる少年が、
いきなり走ってきて、英語で
「日本語を話す村人がいた!」
と興奮して何度も繰り返すので、驚いたそうだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/aokikatsu_blog/47300294.html
パプアニューギニアは第二次世界大戦の激戦地区。
十四万人の日本兵がこの地で亡くなっている。
今も国内には多くの戦争の遺物が残されている。
飛行機の残骸等、いたる所にある。
今は海岸沿いに、道路が走り、人々も多く住むが、それも日本人が作った道らしい。
昔はみな、ジャングルの奥の方で、暮らしていたが、今は学校の通う為にだんだん山に住む人々が少なくなってきているそうだ。
パプアニューギニアの40以上のみんな日本人の名前や言葉を知っている。
彼らの親達はみな日本軍の兵士達と出会っているからだ。
数多くの日本兵の名前、軍歌など、僕も何人かの人に聞かせてもらった。
パプアの人々に随分、食料をもらったり世話になってたらしい。
ジャングルに住む60歳の老人の父が生前に日本軍のキャンプを任されていた。
日本軍の制服、銃、武器、靴等、全て与えられ、日本人を連れて、戦ったと彼はいう。
今も彼の父の墓には全て一緒に埋まっているそうだ。
銃を撃つ仕草等、身振り手振りを交えばがら、笑いながらアメリカ兵を殺す話をする彼の姿に戦争というものを強く感じた。
いい日本人だけではもちろんなく、「ある村では日本軍の兵士が村の女性を殺して食ったんだ。」などという話をされ、
同じ日本人の自分は何を言えばいいか分からず、ただ謝るしかなかった。
外国人が今まで、訪れたことの無い、村で、そのような話を聞くことが出来、墜落した飛行機を見に行き、とても良い経験になった。
今も昔も温かく日本人を迎えてくれる現地の人に心から、感謝したい。
そして日本とアメリカの巻き添えを食らって亡くなられた現地の方々に深く追悼の意を。
http://www.asiall.net/papua_report.html
男だけの軍隊が、長い間戦場にあるとき「慰安婦」はつきものであるということは容易に想像がつく。ここにも数人の
日本人「慰安婦」がいたという。そこで世話をするために働いていたという現地男性の話によると、そこには将校以上が頻繁に来たという。
そして覚えているといういくつかの日本女性名を口にした。その女性たちに現地男性が指一本でも触れたら即座に首を切られてしまうという。
現地人の命はそれほどのものにしか思われていなかった。軍隊は階級が絶対なので、将校以下の兵隊がきたら追い払うように命じられていたという。
日本軍の部隊長の一人は土地の若い女性を無理やり自分の女にし、敵国の捕虜の処刑も手伝わせた。また、結婚している女性に
子供を生ませたものもいた。その女性は「これまで息子に真実を話せなかった。この映画の中で始めて明かす。
これをみて息子はどう思うだろうか。第三者からの方が衝撃が少ないと思うからここで話す。元日本兵が生きているのか
死んでいるのか分からないが探してほしい。」という。
該当者ではないが、生還した元日本兵はいる。そして言う。「あんな汚い(衛生状態が悪い)女たちにその気は起きなかった。
だから何もしていない。」「なにも迷惑をかけていない。なにをしてほしいといっているのか分からない」
全ての日本兵がしたことではないかもしれないが、同じ日本人で、当時現地にいた日本人の何の反省もない発言に驚き、
かつ深い悲しみを覚える。命令されるまま疑問も持たずに戦地に行き、生還し、戦後の日本をそのまま享受できる精神構造が
戦争遂行の後押しをするのではないかと思われる。
http://kawagoe9jyounokai.spaces.live.com/?_c11_BlogPart_BlogPart=blogview&_c=BlogPart&partqs=amonth%3D2%26ayear%3D2007
十一日はセピック河付近のカウプ村を訪問。この村は戦時中、柴田チヨ様の夫、柴田幸雄中尉(船舶工兵第九聯隊、故人)が
現地自活と宣撫のために村に住みながら、村人のために学校を開いたところです。柴田様は数年前、カウプ村に新しく学校を建てるために
多額の寄付を行いましたが、昨年、校舎の一部が完成したので、慰霊団全員で学校訪問をすることになりました。学校では全生徒が集まったうえ、
「アメアメ降れ降れ母さんが〜蛇の目でお迎え嬉しいな〜」「木曽の中乗りさん〜」など、戦時中に日本兵が村人に教え、
現在も村に伝わっている歌をうたって歓迎してくれました。
帰路は鹿沼市の竹沢キヨ江様の父上、竹沢喜作命が戦没されたモロネ村を訪問し、そこから往復1時間のジャングル歩きの末に、喜作命が戦没された、
まさにその場所において慰霊を行うことが出来ました。そのうえ、戦中に村で自活していた日本軍の様子を覚えておられるモロネ村の高齢者にお会いできるなど、
御英霊のお導きとしか言いようのない、恵まれた巡拝を行う事が出来ました。
http://www.gokoku.gr.jp/jyunpai/h19_jyunpai_rec.html
ニューギニアの人達は、陽気で楽天的である。日本軍に長期にわたり占領された地域の人達は、戦争中、嫌なことも多かったに違いない。
食糧は取り上げられる。村は戦争の巻き添えで、焼かれて山地に逃げた人も多い。怪我をしたり、身内を殺された人も多い。日本軍が来さえしなければ、楽しく暮らせた南海の楽園である。
人の好い、外部からの新しいものに興味を持つ彼らは、日本軍の始めた学校や軍事訓練等に参加したり、困った日本兵を助けた。戦後、日本軍に荷担した村は、
その後入ってきた豪州の行政府ににらまれて、不利な扱いをすることが多かった。また、日本軍に協力した人、村と豪州軍に協力した人、村との間で溝が深まったケースもある。
しかしながら、現在、そのような村に入っても日本人に悪い印象を持っていないようである。これは、私だけでなく多くの日本人の感想である。
私の分析では、日本軍はニューギニア戦線で負け続けていたため、住民に余りひどいことをしなかった事、食糧が足りなかったので村人の
協力が必要であった(村人は日本軍に同情していた)事、そして彼らの楽天的な気性(嫌なことは忘れる)によるものと考えている。
村人達は、日本兵の悪かったことよりも、よかったことしか思い出さないようである。
PNGの独立の父、ソマーレは、自伝「サナ」に、日本軍の村における様子を、
「一九四二年、セピック川流域のムリックに日本軍が現れ、村人と仲良くなった。」
「酒を持ち込んで、村人と飲み明かした。」
「翌日、米軍が爆撃してきた。」
「日本軍は、ただ単に戦争に来ただけではなかった。村に学校を作ってくれた。」
「村人達は、日本軍に食糧を与えた。」
「戦争が終わり、日本の兵隊は捕虜として連行された。村人は泣いた。そして兵隊に薫製の魚を与えた。」
「日本の兵隊は、畑を荒らしたりしなかったし、村の女性を大切にした。」
http://homepage3.nifty.com/haraiso/Samarai/Samarai01/Samarai01.htm
道のセピック川の突き当たりがアンゴラム村である。
すると血相を変えて詰め寄って来るアンゴラム人。
彼らが言うには「日本軍はアンゴラム人を殺さなかった。殴るだけだった。しかし日本軍は私達のお嫁さんをレイプした。」
「日本の観光客に戦争の遺骨、遺品などは見せ無い。」、「見せる前にお金を払え」等々であった。
ここで分かった事は、ブラックワラまでモーターボートで4時間、カヌーで6時間。アンゴラムから海までモーターボートで5〜6時間を要す。との事であった。
http://ikotu.org/old/papua/papua2-2.html
http://www.nindja.com/modules/news4/article.php?storyid=9 ■ エデさん
ある朝、14歳だったエデさんは、ランカス・ビトゥン村の水田脇の小道で、軍服姿ではない3人の日本軍兵士に出会った。そしてその場で、その3人に順番に強姦されたという。
エデさんは、現在すでに82歳だが、健康状態は良好で、近所の人びとの洗濯をすることで何とか食べている。
子どもたちも経済的に厳しい状況で暮らしているため、エデさんは子どもたちに生活を頼ることもできない。
■ チチさん
日本支配下の1942年、チチさんは17歳だった。ボゴールにある自宅は、オランダ人が経営するゴム工場付近にある日本軍宿舎から
さほど離れていない場所にあった。ある時、日本軍兵士たちがチチさんの自宅にやってきた。そのうちの1人は片言のインドネシア語が
話せたという。彼らは自宅前に座っていたチチさんを室内に引きずり込み、身ぐるみはがして交代で強姦し、チチは気を失ってしまった。
事件当時、チチさんの自宅前には近所の人が大勢おしゃべりしており、中には男性もいた。しかし、日本軍兵士の脅迫を怖がって、
誰もチチさんを助けることはできなかったという。チチさんは、その後半月にもわたって自宅で強姦しつづけられ、
彼女の両親は、娘に対する日本軍の行為に深く傷心し、その後まもなくこの世を去っている。
現在チチさんは足を痛めているため、医療費のほかに杖を購入するための10万ルピアも支援した。
タケダ隊長?誰だそれ?だから、おじいさん、僕は軍人ではなくて…。
『タケダ隊長はいい隊長だった』人の話を聞かず、遠くを見る老人。
早くペテペテ出発しないだろうかと、誰もいない運転席を恨めしく見ている私に、老人は話し続けた。
『わしは、戦争の時日本軍の手伝いをしていた。その時わしの上司だったのが、タケダ隊長だった。日本軍人は、
なにかあるとすぐにわしらを殴り倒したが、タケダ隊長は、そうではなかった』。
少々興味深い話しだ。
するとタケダ隊長は現地人には手を出さなかったのかい?
老人はまだ遠くを見ている。『いや、飯をくれなかった』ぼそりと言った。
何が言いたいのか解らず、老人を見つめる私。
老人は話を続けた。
『でも、タケダ隊長にもいいところがあった。日本軍はならず者が多くて、多くの若い女性が日本軍に
ひどい事をされたと聞く。しかしタケダ隊長の隊はそんな事は無かった』。
従軍慰安婦の話だ。日本では、韓国や中国のケースが注目を浴びているが、
インドネシアの片田舎でも、その様な事があったのだった。
http://tayatoru.blog62.fc2.com/blog-date-200807.html
つまり日本人はオランダ人と真反対のことをしたのだ。
けれども350年にわたって人間扱いされなかった民衆を、たった3年半でどうこうできるものでもない。
しかもこの期間は日本は英米を相手に戦争をしていた。 オーストラリアとも中国とも戦争中だった。 後半はずっと負け戦が続き、
日本とインドネシアの間で船舶が自由に航行できる状態ではなかった。 アメリカの潜水艦は輸送船だろうと病院船であろうと、かたっぱしから攻撃し、これを沈めていた。
そんな折でも、日本軍はインドネシア全土に学校を建て、病院を作っていった。それまで600人しかいなかった高等教育を
受けた地元民は、10万人に増えた。 一部の金持ちしか利用できなかった病院を、大衆に開放した。橋を架け、鉄道を造った。
貨物用でしかなかった規格がバラバラの鉄道をひとつに統一し、人間が長距離移動できるようにした。(ジャカルタでは三田線の
車両が使われている。つまり鉄道の規格はいまでも日本のそれだということだ)
http://d.hatena.ne.jp/naokin_tokyo/comment?date=20090726
日本軍は例外でしょう。日本軍は補給の観念が極めて乏しく、食料は現地調達でした。これは日本が島国であり、
対外的な長期戦争を経験せずに20世紀を迎えたことが原因です。
大げさに言えば、日本は戦国時代の感覚で、20世紀の近代戦に突入したようなものです。戦国時代は、いかに合戦に明け暮れたとはいえ、
同国人同士の戦いです。言葉は当然通じるし、情も通い合います。負けた領地の民衆は食料その他の物資を差し出せば、命の心配はありません。
その感覚で外国との戦争を始めたのです。いくら何でも外国に日本の感覚を押し付けても通用するはずがありません。言葉は通じないし、
相手は日本を憎悪しています。食料を出せと言われても、自分達が餓えてしまうから当然断ります。すると、日本軍はその村や町は
「敵性村民・町民」=ゲリラということで、皆殺しにしたのです。
中国や東南アジアを旅行すると、よく分かります。「こんな田舎の小さな村を」と思う所まで、日本軍の虐殺の記念碑があります。
ドイツ人が人種意識高いのは事実。
アジア人なんざ奴らの美意識では3流人種ですよ。
しかし、旅先でいい奴だと思えるのは意外にもドイツ人とイスラエル人
後者は、金に汚いのと快活なのとに二分されるから注意なw
米国人はまじで馬鹿が多い。金と勢いで何とかしようとする。
英国人は万事控え目なんだが、本気で痛烈な皮肉を言ってくる。
仏国人はなんというか、見えないところで壁があるw
中国人は集団。ただ集団。ツアー客以外の中国人は全て香港人。
韓国人は、醜くうるさいうえに自分勝手なのでどの国でも嫌われてる。
日本人は・・・ 村社会ですね。個人では不満はない最良の人々なのですが、集団、というか日本人比率が多くなると途端に村社会作ってしまう。
リフレッシュを目的とした旅先では関わりたくないですね…
http://blog.goo.ne.jp/462981/e/fb4f130e1110c65ccd997ec467416beb インドネシアの人々で大好きなものが『闘鶏』
今は禁止されているようですが、バリ・トラジャは冠婚葬祭、祭りなどでは大っぴらに行われる賭け事なのです。
闘鶏はすざましいもので、鶏の足に長さ10cmほどの細いナイフを縛り付けてあります。
ハッケヨイで一瞬うちに終わる勝負が多いのですが、負けた鶏はザックリト斬られ、瀕死の状態。
手塩にかけて育てた鶏を、泣きながら抱えている飼い主。
勝者の飼い主は、掛け金がはいる。
場を仕切る「地回り」のような者がいるようで、私も賭けてみましたが、全部スッテしまいました。
ツイデですから書きましょう。
日本軍は、この地域にも侵略をしていたのです。
「軍票」がミカン箱大にびっしりつまっており、なんとかならないかと、いわれてしまいました。
また、土産店や骨董店では、錆びた日本刀・鉄兜・お金など、
「兵どもの夢の跡」などといえない、侵略の証を見せ付けられました。 -->
少数者、弱者への差別主義的な言辞を弄するネットウヨクを取り締まれるような法律は必要なのかもしれないと最近思うようになった。
刑務所にでも入れて矯正してやらないと彼らの病気は治らないだろうと思う。
朝鮮人差別や童話関係の発言、チョンコ叩き、チャンコロ叩きなど、がネットでもてはやされたのは、それがマスコミのタブーだったからだ。
タブーを破る発言のが新鮮だったからに過ぎない。だれでも匿名で発信できるようになればタブーでも何でもない。
タブーを作るべきではないことは確かだが、この社会のマイノリティに対することさらな差別発言などをしてよい訳ではない。そういう悪意の
ある人間はネットからも淘汰されるべきだし、そうならなければある程度の取り締まりも必要かもしれない。
マルジアさんは80歳、「15歳のとき『高給の仕事がある』と声をかけられ、家が貧しかったのでその話に乗ってしまった。
バイヤさんと同じような状況になったが、防空壕を作るため石を運ぶ重労働や肉体的拷問も受けた。ゴミを運ぶトラックに紛れ込み脱出した。
軍施設ではたくさんの男女がロームシャや慰安婦として働かされていた」「夫もロームシャとして連れ出され現在も帰ってこない」と訴えられました。
そして最後に「苦しい経験がむくわれるときがくるのを待ち続けてきました。インドネシアの国会に陳情もしましたが
その成果がいまだ得られていないのは非常に残念です。
私は非常に疲れました」と、お二人の屈辱の歴史は、聞く私たちの胸に重く突き刺さります。本当に日本政府の
正式謝罪と補償を実現しなければと痛感させられました。
http://homepage2.nifty.com/osakaaala/sab6worldby4asia5indonesitabi.htm
ところでボクの隣にいた70歳を超えた老人の顧問はピントはずれな発言で会議を悩ませた。しかしこの老人は休憩時間に
いきなり「君が代」歌ったり、「軍歌」歌ったり、昔の教科書(教育勅語?)の文章を語り始めたり、毎日「タイソー」してる!といって
「イチ、ニ、サン・・・」なんて言いはじめたりで、日本語の通訳の女性とボクは思わず50センチくらいのけぞってしまった。
「日本軍とインドネシア軍はオランダ相手に戦い独立を勝ち取った。私も戦った。日本兵はたくさん死んだ。」
「日本は長崎、広島に原爆落ちて何もなくなってしまったが、すごい速度で復興を遂げた。」
http://www.zofrex.co.jp/kawara/report7.doc
ヤハはこの一帯が日本の統治下にあった時代に日本軍の通訳をしていた。モシモシ、モシモシ、ヒコーキオクル。
イチ、ニー、サン、シッ・・・・・・。ヤハは喜々として、おぼえているかぎりの日本語をわたしに披露した。それはおよそ四十年
の歳月を経てはじめて意味をもって発せられた音声にちがいない。オーストラリアノヒコーキ、バクダンボムボム。小ケイ島
の中心トゥアルは日本軍の海軍基地となっていたために爆撃をうけたのであった。この期間中にトゥアルに建てられていた
伝統的な民家は一棟を残してことごとく焼けてしまった。空襲はやはり海軍基地のあったケイ=タニンバル島もおそい、
村への入口にかかる高さ十メートルちかい木製の梯子も被弾して一部が破損した。切り立った丘のうえにある村までの近道に、
海岸道から梯子がかけられていたのである。はしごには見事な浮き彫りのある扉がとりつけられていたが、
それも被弾の記憶をとどめるかのように壊れた状態のまま放置されていた。
戦争や日本軍が島の人間たちのうえに果たした意味は、善悪の二項対立のなかではとらえきれないもので
あることをそのときにわたしは知った。島では生や死さえもが海のむこうから訪れるできごとだった。
そのようにして、戦争は彼らの理解のおよばぬところからやってきて彼らの眼前に出現した。暴風雨や荒波への対応が
島の生活に不可避であるように島民たちはこの事件にも対処してゆくほかなかった。島に生きる老人たちの多くにとって、
日本時代がもっとも生き生きした話題の源泉でありつづけるのは、むろん彼らじしんの輝かしい若さの記念ゆえでもあるが、
それと同時に、戦争を通して個人の体験を社会の体験にむすびつけ、個人の口をかりて社会を
語る至福を手にいれていたからである。共有する事件の記憶をもつことのない共同体が存在したためしはなかった。
http://www.r.minpaku.ac.jp/sato/asia/refer/gunkyo.htm
〓教育相談〜外国を侮辱する暴言を吐く息子〓
【質問】:兵庫県、女性
高校1年生の息子のことでご相談します。テレビで北朝鮮や中国などの外国の報道をみては、両国をはじめ
外国を酷評し、最後には「あんな国なんか無くなっちまえ」などと暴言を吐き、聞くに耐えません。
「他人を悪く言うのはよくないよ」と親の気持ちは伝えてきましたが、これに関しては反抗的態度を取るばかりです。
先日父親が厳しく指摘したら、激しく反抗し取っ組み合いになりそうでした。
外でおおっぴらにこのような発言はしていないと思いますが、このような狭い了見では、とても人様とは上手く
やっていけないだろうと心配です。
息子の言動をどのように考え、どのように接して行けばよいでしょうか。
【回答】:大阪学院大学助教授
お母様の心配はもっともであり、さぞかしご心痛のことと察せられます・・・。(以下略
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/qanda/consul/20061020wn02.htm
メロンの隣村の沖合いに旧日本海軍の軍艦が沈んでいるというので見に行きました.沈没船までは海岸から100m くらいですが,
このボートで漕いで行くというので最初躊躇しました.右に写っているのはバンドン工科大学の学生のDudyさん,現在は名古屋大学大学院環境学研究科にいます..
こんな形で船の舳先だけが海上に顔を出しています.この船は戦争末期モロタイ島を出てタラウド付近まできたところで米軍機の攻撃を受けました.
戦争終結までの数ヶ月間,日本軍人が村内で生活していたそうです.
反対側に回るとこんな感じ.村内の林の中には旧日本兵の生活の跡が見られます.最初にメロン村に来たとき,片言の日本語を話す老人がいました.
直接戦闘があったわけではないので,日本人に対する感情は悪くありません.
http://iic00.cc.kochi-u.ac.jp/~tabei/photos/photo1.htm
3年前。バリでウブド村から外れた田舎のママの家に泊めてもらっていた時、毎日 どこからか近所の お年寄りがママ宅のガレ−ジに集まって
おしゃべりをしていた、、外人客を一般の家に泊める場合は警察に届ける義務があるらしいので(まあたぶん賄賂でなんとかしてくれたんだろうけど)
そういう負い目みたいなのがあり 部屋から出入りするたび、お年寄り達と目が合うのだけど 軽い会釈にとどまりコソコソと部屋へ 戻っていた。。
ある日ママが「皆はキナコさん目的で集まって来ているんだから 来なさいsign01」と腕をひっぱり 輪の中へ連行されてしまった
sweat02「やだ〜!何を話せばいいのか間がもたないよ〜sweat01」とりあえず笑顔で名前を言った。そこで上半身裸で パイパイ丸出しcoldsweats02の
おばあちゃんが果物のサラック(すっぱい梨のような)を ほれっ!食え!と渡してくれたので 1口かじったら すっぱ〜い!シブ〜い!で
キナコは、ク〜〜!((゚゚дд゚゚ ))ワワ!!と 梅干ばあさんのような顔になってしまったsweat01キナコの顔を見た お年寄りは全員爆笑sweat01空気が和むと
みな話す話す!「日本人は見かけるだけで話したのは初めて!嬉しい!」と喜んでいる、、日本人のおかげで今の
インドネシアがある。みんな日本が大好きなんだよ!と言う おじいちゃん。。despairキナコは歴史に何も関わってないので偽ヒ−ロ−になった気分。。
350年にわたるオランダの支配下から 日本軍は解放してくれた。それまでアジア人は白人より劣るとされ 教育の機会さえ与えられず
愚民政策を推し進められていた。。日本軍は そんなアジアを開放するため島に来て、幽閉されていたスカルノらの指導者を救い出し
代表者の地位につけたのだ。それまで日本人は未知の存在だったので オランダから救い出された後は 日本に侵略されるものだと
思っていたのに 日本はインドネシアと同一家族、同胞主義を掲げ、独立の為に戦い、侵攻からたった1年で大学まで作り 教育環境を整え、
日本の精神訓話 「正直であれ、勇気を持て、常に前進せよ!」を叩き込み、後はインドネシアの主導者に任せ去っていったのだ。
http://ayo-ayo.cocolog-nifty.com/kinako/2009/08/post-97f4.html
http://ryukyujichi.blog123.fc2.com/blog-entry-419.html パプアニューギニアは他の太平洋諸島と同じく、日本軍が連合国軍と戦争を行った場所であり、現在でも、日本の戦後賠償問題が解決したとはいえない状況にあります。
9/4 The National PIR
パプアニューギニアにおいて日本兵遺骨の収集が行われようとしている。
第二次世界大戦においてパプアニューギニアにおいて戦った日本兵の遺骨を日本政府が収集しようとしていることに対して、
アジア太平洋戦争犠牲者に関するパプアニューギニア賠償要求国際協会は懸念を示している。
日本遺族会は、ポートモレスビーにある日本大使館を通じて日本兵遺骨に関する調査をすすめている。
パプアニューギニア賠償要求国際協会は、賠償金が支払われない限り、村人が遺骨に関する情報を提供し、
収集活動に参加させることはできないと述べている。同協会は、日本兵の残虐行為をうけた犠牲者に対する賠償金と
して33億米ドルの支払いを求めている
http://www.oceania-color.net/detail.html?u_id=148 また、「日本の戦争犯罪」といわれる、
日本人がアジア及び東南・南アジアで行った残虐行為の数々。
以前より歴史問題の教育が事実に基づいてきているとはいえ、
まだまだ教科書ではごく表面しか教えない。
もっと深く、ありのままの事実を教えるべきだと思う。
オーストラリアのファームで、南アジアの人たちが少しこのトピックに
触れたとき、私は日本が具体的にどんな事をしたのか知らなかった。
そんな自分が恥ずかしかったし、彼らに申し訳ないと思った。
現実をよく知らずに、「戦争問題はもう解決済みでしょ」「なんで彼らはいつまでもこれを叩くんだ」
などと簡単に言い放ってはいけないと思う。
私たちは政府ではない。
政治の駆け引きをするわけではない、個人なのだから。
オラスからはエンジン付きトライシクルやジープを使い、東サマールのドロレス(Dolores)、州都ボロンガン(Borongan)などに立ち寄ったあと、
旅の最終目的地、タフト(Taft)へ向かった。タフトを訪れたのは、この町が1944年8月ごろ、サマール島の日本軍の主力が配置されたところ
だったためだ(『フィリピン・幸せの島サマール』70ページ)。
戦時中の被害を尋ねると、タフトの住民に対する直接被害ではないが、西サマールの方から連行してきたフィリピン人に強制労働をさせていたとか、
スパイの嫌疑をかけられたフィリピン人が殺害されたなどの話が出た。町の小学校には、駐屯部隊が使っていたという
木造の建物が残っていた。日本兵の宿舎や医療施設だったという民家もある。小さな町の各所に日本軍の跡が残存しているだけでなく、
お年寄りの語りからは非常に具体的な日本兵との思い出もあふれ出た。「ここでハポン(日本人)はココナツの殻で焚き火をして
我々とのダンスパーティを開いた」、「これはハポンが作った井戸、日本語で書かれた教科書みたいな紙も家にあったんだ」、
「ここからハポンが私を見ていたのよ。びっくりしたら、私が日本に残してきた妻に似ていたんですって」
「挨拶を忘れたとハポンに怒られたけれど、そのまま帰してくれた」
日本人の名前もしばしば会話に出てくる。87歳のセグンダさんは医者だった夫のところへ日本兵が来ては治療を頼んだと言う。
「なかでもカワバタのことはよく覚えています。よく缶詰を配ってくれましたもの」。また、日本兵の一人にワライ語と日本語の
通訳をしていた人がいたらしい。カトバロガンで商売をしていた日本人と地元の女性との間の子供で、名はパブリト・モモカワと言った。
パブリトは当時まだ18歳だったが、地元民とワライ語を解さない日本兵の間で地元民を助けていた人物として語られる。
彼の現在を知る人には出会わなかったが、パブリトの名は今でもタフト
(おそらく他のサマールの町でも)の人たちの記憶の中では生きている。
http://kyoto-samar.hp.infoseek.co.jp/newpage109.htm
インドネシアから参加したエカ・ヒンドラディさんは日本軍「慰安婦」被害者の記録を「モモエ〜彼らは私をそう呼んだ」にまとめ、
発刊、ベストセラーになっているそうです。また、日本統治下のインドネシア「慰安婦」についてのウェブサイトを立ちあげ、
この問題を広く知らせ、また、各国と情報交換もしていると報告されました。彼女は社会運動が被害者たちの存在に目を
瞑ってきたことを指摘、インドネシア政府も「国民基金」から老人施設として3億6千万円ものお金を受け取ってからは解決に
関心を示さなくなり、被害者の多くは生涯貧しさの中で辛い人生を送っていく他ない状況だと訴えました。
東ティモールでは、東ティモール人権協会(HAK)による調査・支援活動が取り組まれています。同会の正義実現担者で、
自らの祖母が日本軍「慰安婦」であったというエディオサルダニャさんが参加しました
2005年より調査、公聴会やスピーキング・ツワー、パネル展示などの活動が報告されました。
http://www.jca.apc.org/ianfu_ketsugi/9th_asia-rentai_houkoku.html
マレー半島内を自転車で進軍するのは、マレーの中国人の証言にもよく出てきます。中国寄りのゲリラを早くみつけたり移動を
機動的にするために、自転車をかっぱらっていたようです。
マレー半島やシンガポールに入ってからの行動は、わりと本に書いてあるのですが、それ以前のつながりがたどりにくいんですよね。
シンガポールの友人の母方の祖母の姉妹が日本語を話せるので、友人がなぜ話せるのかと聞くと「日本人がきたときは怖かったし、
自分の身をまもるために(たぶん生活のための商売とコミュニケーションのため)覚えなければならなかった」と述べたそうです。
これは、日本統治下で自然に日本語をみにつけた、台湾や朝鮮の祖父母世代とは異なる感覚です。
http://okwave.jp/qa3609919.html
日本軍はアロール本島にも進駐した。今日の県都カラバヒ(Kalabahi)の眼前に広がる真珠湾(Teluk Mutiara)のモル(Moru)に水上基地を設置、
アロール島東部にも前進基地を設けた。また、カラバヒ市の北側の山岳地帯では、コーヒー栽培にも着手したと言われている。その跡地は現在、
コピディル(Kopidil)と呼ばれる村として残り、今でもコーヒー栽培が続いている。村人のお年寄りは今でも、日本の唱歌や軍歌を覚えている。さ
らに、パンタール海峡に浮かぶプラ(Pura)島に日本軍が開校した国民学校は、それまでのオランダ植民地支配政府による愚民化政策を覆し、
すべての子供たちを“強制的に”通学させることによって、島の歴史で初めての教育機関となった。『学校に来ないと、先生が家までやってきて、
子供をビンタ。親も怒鳴られた。しかし、そうした日本軍の強制的な教育があったからこそ、プラ島の子供たちは賢くなり、やがて独立後、
多くの県指導者がこの島から誕生した。村人たちは、一方的に他国の戦争に巻き込まれたが、
少なくとも教育面から見た場合、日本軍が果たした役割は小さくなかった』---プラ島出身で県政府の水道局のトップを務めるカレル氏はそう語る。
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200811/article_32.html
カスアンのサテイ・ハウス・レストランで昼食、食事をしながらマナド美人の「ミナハサの伝統的民族舞踊」観劇であったが、
フォークダンス調の何処にでもある踊り、それも練習不足のせいもあり幹事さんも立腹、ガイドを交え値引き交渉に奔走、相手も値引き納得させられたようです。
トンダノ(Tondano)は ミナハサの7民族144の村の中心だった所で緑のじゅうたんを敷きつめたような平野をバスの車窓から眺めながら
進むと巨大な湖に到着、カルデラのトンダノ湖はシンガポールと同じくらいの面積を持つ北スラウエシ州最大の湖です。
記念撮影後、第2次世界大戦時、日本軍落下傘部隊の降下地点に行ってみたが、今は一面水田と化していた。近所の家族から歓迎を受け、
配のおばあさんからは当時の思い出話を聞くことが出来、軍歌まで歌ってくれた。我々グループからお礼にとお菓子、日本酒のお返し。
ひと時ではあったが、昔を惜しみながらの日・イ友好交換会であった。
観光途中でも幾つか日本軍が掘った防空壕を見ることができた。[マナド」は落下傘部隊の降下とともに陸・海軍が上陸し、
連合軍の北上を喰い止め、海峡をにらむ重要な激戦地だったそうです。
http://members.jcom.home.ne.jp/shira-kiyo/indonesia/manado/manado.htm
彼女たちに日本に対する考えを聞くと、日本の統治を台湾人は誰も感謝していると言います。それは当然のことだという
言い方です。ただその言い方が「日本の皇民化教育」が良かったからだという言い方です。その言葉には今の日本人には
受け入れられない古さを含んでいるのでちょっと消化し切れません。
彼女たちの言う「良さ」は実際はどの辺にあるかというと、第一が治安が良くなったこと。二番目が社会的な基礎が、
鉄道や道路・各種産業が興されたことです。そして第三が教育が台湾全島に渡って実施されたことです。
台湾で発行されている日本語の歴史書などを見ると次のように書いています。
日本が支配を始めた頃台湾はまだ一つの国としては纏まっていなかった。台北に清国の代官が居たが彼らは
庶民と対話することはなかった。多くの民族対立や、場合によっては芸術派の対立が常時あり、集団で
武器を持って襲ったりしていた時代であった。暑い国なのに治安が悪くて夜は窓を開けて寝られなかった。
又日本が上陸したということもその統治が始まったということも知らない人がほとんどであった。
新聞やその他の連絡網がまだ無かったからである。
http://www.ne.jp/asahi/cn/news/text/tw/tw_12.html
戦争 数々の事実を学ぶ
木造古建築に感動
警察官のことなら - sirube
日本の平和憲法を生かし、世界中の国々、特にアジアを中心とする国々とよりよい関係を築くために少しでも役立ちたいと思い、
戦争を中心とする過去の事実についていろいろ学んでいます。そして、様々な書物の中で、記憶にとどめたい関係者の証言や文書
の一部をアップロードしています。 (真実を知りたい 更新 2009.11.16)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/
スンバワ島やフローレス島、レンバータ島に行くと、日本軍が残した形跡を垣間見ることが出来ます。
フローレス島のホテルで同宿した70歳位の老人と話をしていたら、「ヘイホウ」という言葉がしきりに出てきました。
どうやら「兵法」の意味だったようです。
でも、インドネシアの人たちは親日家ですよね。
交番はインドネシアに定着してるし、レンバータ島にある伝統的捕鯨漁をしているラマレラという小さな漁村では
村から街に行く何キロもの道路を日本軍が作ったとの事。
岩だらけの地形なのに、戦争もしないで地元の人たちのために働いていた日本軍、何だかジーンとしました。
遠い日本に帰れるあてもなく、労働に明け暮れた若い軍人達の苦労には頭が下がる思いです。
http://mamahana.blog.so-net.ne.jp/2009-08-06
日本軍は「ヘイホ」(兵補)と称してインドネシア人を登用、日本軍の補助業務につかせたり、「ロームシャ」(労務者)を徴用、道路や空港、
ダム工事のため強制労働をさせたほか、海外へも送りだしたのでした。 1年3ヶ月の突貫工事で完成させた泰緬鉄道はジャワ島の線路を移設したものとも言われています。
また、「慰安婦」として狩り出された女性も多かったようですが、一方では「その昔、女学生だった頃、毎朝日本軍の事務所に出掛けて
掃除をさせられていたが、日本の兵隊さんはいつも優しかった。“タベッ・トゥアン!”(スマトラ語で、今日は!)と挨拶をすると、元気よく“おはよう!”
と声を返してくれ、帰りにはよくお菓子やパンをくれたものだった……」との思い出話をするお年寄りも1人や2人ではありません。
1944年に入り、太平洋戦線における米・英軍の反撃が激しくなると、インドネシアに駐留していた日本軍は、兵力を前線に送るためインドネシア人による
“祖国防衛義勇軍(ペタ)”を組織させ、日本軍の教官の下で軍事教練を与えインドネシア国内での防衛戦に備えたのですが、
この頃の教練の激しさから、「ビンタ(びんた)」「タイソウ(集団で行う体操)」「カケアシ(駆け足、行進中に走ること)」
「バゲロー!(馬鹿野郎!)」などの日本語がそのままインドネシア語の辞書にも載ることになりました。
しかし、この「ペタ」が後にオランダとの独立戦争を戦うインドネシアの中心部隊となり、独立後はインドネシア国軍となったのです。
http://www.geocities.jp/tuan_mk/kirakira2/kirakira2.1.html
10年以上前にインドネシアに行ったけど、地方を回っている時に私が日本人だと判ると「空襲警報」とか
「天皇陛下」などと話し掛けて来る人が多かったです。
スラウェシ島の田舎でおばあちゃんに道を訊くと、非常に丁寧な日本語で返事をしてくれたのでビックリしました。
ビルマでもインドでも、日本人だと判ると妙に歓迎されました(商売絡みも勿論あったけど)。
それに較べて20年ほど前にソウルにパッケージツアーで行った時、地下鉄の中でガイドさんが
肩身の狭そうな表情をしていたのが印象的です。
このガイドさんは日本人に対する偏見がなく、却って韓国の女性蔑視の文化が嫌いということでした。
http://dogma.at.webry.info/200708/article_12.html
初めてそれを言ゎれたのは,ぉ友達の帰郷にっぃて行って立ち寄った,彼女の祖父母の家。ジャヮ島の@番東,バリ島から3km海の向こぅの,バニュヮンギとゅぅ港町です。
私と,彼女の祖父母は,ぉ友達ナシでは英語でも,日本語でも,ィンドネシァ語でもコミュニケーションが取れなぃ。
そんな老人たちの口から,ィキナリ,昔の日本の軍隊用語(走るトキの掛け声とか,号令とか)が出てくるんですょ。その頃の私にはすっごぃ衝撃でした。
相手は多分,日本人に久しぶりに会って,とゅぅか終戦後初めて日本人に会って,幼少期を思ぃ出して単純に懐かしかったんだと思ぅ。
純粋に,見知らぬ土地に来て心細ぃでぁろぅと思ゎれる日本人の女の子に,知ってぃる日本語を披露したかっただけなのだと。
でも一方の私は,その単語を聞ぃただけで,それが戦争中の言葉で,軍隊の言葉なのだとわかってしまぅ。
この土地に日本軍がぃたコトも,ココを統治下に置ぃたコトも,ローカルの人々も巻き込んで兵士を作り上げょぅとしたことも,
日本語教育をしたことも。
『日本は強かったんだょ』
とィンドネシァ人でぁる彼女のおじいさんは日本を誉めた。
『でも,日本は負けました。』
http://mohyo2.exblog.jp/9759660/
1 :名無しさん@3周年:2008/12/27(土) 11:15:32 ID:jHhHFgcL
私の場合、家族に一人ネトウヨがいます……。
勉強について行けなくなり大学を中退。
専門学校を卒業後就職するも、会社でいじめに遭い、配属後二ヶ月くらいで退職。
現在は家に寄生しながらフリーターを続けるという、コピペのようなスペックです……
嘘だと思われる方もいらっしゃると思いますが、本当です。
フリーターの分際で実家に帰る度に以下のようなことを私に口走り、実にゲンナリします。
・外務官僚は売国だらけで無能! ←フリーターが東大卒の官僚を無能扱い……
・ミンスが政権を取ると、中韓に主権を委譲し、日本が乗っ取られる! ←リアル会話で「ミンス」……
そんな人間を身内・周囲に抱え、悩みや怒りを抱いている人々が、心境を吐露するスレッドです。
http://shadow-city.blogzine.jp/net/2009/09/post_a88a.html
現在でも、被差別部落出身者などを誹謗中傷するいわゆる差別落書き・差別はり紙が横行している。また日本社会の国際化や住民の
多国籍化が進むにしたがって、かつての在日韓国・朝鮮人に対する差別落書きに加えて、外国人一般の排斥を唱導するような差別煽動を
内容とする落書きも深刻な問題となっている。さらにインターネット上では、その匿名性ゆえに、多くの差別表現が蔓延しており、
被差別部落出身者、障害者、同性愛者、在日外国人。女性などに対する差別表現や差別煽動が日常的に行われている。
こうした悪質な差別表現・差別煽動は、社会一般に対する悪影響が大きく、差別を受けた当事者のみならず、二次的、三次的な差別を生むおそれがある。
したがって、人権救済機関としてもこれら差別表現・差別煽動について積極的な規制・救済の対象とすべきである。
ネトウヨってカルトによく見られる破滅論・終末論をよく唱えるよ。
「ミンスが政権とったら中韓が攻めてくる。国が乗っ取られる。国が滅ぶ。」
とか、まじめに危ないカルト連中と何ら代わりがない現実離れした妄想そのものだが、そういったカルト妄想に入り込んでしまっている認識が全くない状態で、自分たちの作り出した世界を信じ込んで必死にうごめいている。
危ない奴らだと思うよ。
歴史的な知識も完全にカルト妄想を信じ込んでいるだけ「反日勢力が日本の歴史を悪く言っている。」とマジだからな。
私が「棄民」と呼ばれたからといってそれ自体を「差別」だとはいえないが、土壌にあるものは悪質な
「差別愛好性向」「人権侵害趣味」「排外体質」とでも言うべきものものだろう。
日本になんらかの<人権擁護法制>が必要なことは確かだと思う。千葉法務大臣にはがんばってもらいたい。
少なくとも、日本における人権教育の欠如やネット言論の異常性の問題を世に問うことは必要だ。
小泉政権時代を通じて、「自由」の名を冠したある種の絶対主義が風靡した。少数者や弱者を
嗜虐的なまでに差別し蹂躙することが正義とされ、市場を支配する強者が善であるとされた。
匿名掲示板は朝鮮人差別や部落差別の汚らしい発言にあふれている。そういう言葉で洗脳された
頭のおかしな人々が、ネットにとどまらず路上にまで出てくるようになっている。
人権擁護法を成立させ、インターネット上に政治的文化的少数者・政治的経済的弱者に対する差別を
扇動する種類の書き込みをする者を刑事的に処分できるようにすることが必要だと痛感する。
http://www.nids.go.jp/dissemination/senshi/pdf/200703/3.pdf また、インドネシア民衆に恐怖心を抱かせたのは、憲兵や特警ばかりではなかった。あ
るインドネシア人は「私が憶えていることは、・・・人々が日本に協力することを怖れてい
たことです。・・・ちょっとした過ちでも平手打ちでした。・・・バゲロー[馬鹿野郎]と
言って頭を叩くのです」49と述べているし、ある元南方特別留学生も「民政部の前を通る
ときには、そこに立っている兵隊さんにお辞儀をしなければならないのです。・・・お辞儀
をしないとビンタです」50と回想している。もちろん全部が全部とは思われないが、軍人
か否かを問わず日本人の中には、インドネシア人に対して傲慢な態度、あるいは粗野な行
動をとった者がいたことは事実であろう。南方生活の索漠さ、緒戦における戦勝による優
越感、異民族との接触の無経験、現地風俗・習慣についての無知などが主たる要因であろ
うが、インドネシア人を一段低い民族と見ていた日本人の驕りもあったのではないだろう
か。元ジャカルタ海軍武官府調査部勤務であった西嶋重忠は「いつまでも当時、暴力をふ
るった日本人の名前をあげ、うらみごとをいうインドネシア人がいる」51と述べているが、
日本人のインドネシア民衆に対する接し方がインドネシア人に深い傷となって残っている
老人達は何の違和感も無い日本語を駆使して代わる代わる身の上話を聞かせてくれた。
中国でこうした場面に遭遇すると、日本人であり、かつ言葉がわかることもあってか、
瞬く間に非難の集中豪雨を受ける。だが彼等のそれには日本への批判どころか、日本軍として戦ったことへ
のプライドすら感じさせられた。
いつもの流れなら批判の後で日本人としての見解を求められるので、波風立てない言い回しで包み込んだ
僕なりの考えを頭の中で用意するのだが、この時ばかりはちょっと意外な展開だったので
思わずかしこまって聞いてしまった。更に彼等は、話について行けるほどの日本語力の無いハティに気を使い、
これまた流暢なインドネシア語で話しかけ、しまいには彼と肩を組んでインドネシア国歌を斉唱していた。
「大東亜共栄圏」を信じ続けた人々がそこにいた。
http://www.k2.dion.ne.jp/~szkasia/travel.indonesia.html
タクシーのインドネシア人運転手なんかでも、古い人なんかはカタコトの軍歌を歌ってくれたり、
また若いかと思えば、エッ、肌が黒いのに名字がフジヤマ?“祖父は日本兵です”とか、
歌手のジェロみたいな人との出会いがあったりしました。
さてジャカルタ市内・通称“カッペ通り”の、オノボリ専用だったブローラ通り(Jalan Blora)にあった某中華料理屋なんかでも、
私が入店すると、即、日本演歌のメロディーを流してくれてました。
まだまだジャカルタにおいて和食店がメジャーではなく、日本人が中華料理による擬似和食体験で、
ようやくホッとしていた時代の名残だったんですね。それはともかく、やはりエド・はるみの“コォ〜”みたいな
轟音を立てる冷房の下、できたての炒め物が、見る見る冷えてロウ細工化してしまってました……。
http://kowloon.lolipop.jp/ishii/2008/07/post_78.htm
筆者らは、ペナン州において日本軍元「兵補」の生き残りの方々から体験談を
聞き取りしたことがある。週末などを利用して元「兵補」の方々の家を訪問し、
インタビューを行なった。
ある老人は、質問に注意深く答えながら、苦労の多かった兵役の体験を聞かせ
てくれた後、日本兵に教わったという「赤とんぼ」を歌って聞かせてくれた。
「夕焼け小焼けの赤とんぼ、負われて見たのは、いつの日か」と細々と歌うさび
れ声は耳朶に残っている。その歌声はインタビューを実施してから、随分と年月
が過ぎ去った今でも、時折、老人達の儚げな様子と共に思い出される。
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai07/tz0729.pdf
興味深かったのが紹介してくれた井関恒夫著『西ボルネオ島住民虐殺事件ー検証「ポンテアナ事件」』(不二出版 1987年)の記述です。
※著者は商社マンとしてポンテアナックに駐在していた
「妾を囲って放埓な生活をしている在留邦人の行動は時局柄もはや黙視し難い事態であり、在留邦人の精神を刷新する目的とした
指令が出された。『蓄妾禁止令』である。日本人が妾を持つことを禁止する軍の指令である。現在妾を持っている者は妾と別れて差し出せとの命令である」
〜中略〜
「私の知っている二号となっている女たち二人が私のところにやってきて『私らは一人の日本人の旦那に仕えているのが何が悪いのか、
私は旦那が好きで現地妻となっているのに、それを娼婦扱いして慰安所に入れて、大勢の日本人の相手をしろというのですか、
こんなバカなことがあるもんか、私らは納得出来ません』と二人から抗議を受けたことがある」
僕が以前、戦争当時に「外地民生部文書課」というところに勤務していた女性に聞いた話しですが、
彼女は「『慰安婦募集の件依頼』という文書をタイプしていた」と言ってました。
http://blog.iwajilow.com/?day=20070813
インドネシアが日本軍によって占領されたことは、私たちにとって幸運でした。
さもなければ、インドネシアの独立は遅れていたことでしょう。
日本の占領がなかったとしても、恐らく独立は出来たと思います。
しかし、果たしてどのくらいそれが遅れていたか、私にはわかりません。
それ故に、私は日本軍に感謝しています。もちろん彼らがインドネシア人に対して荒々しく、粗暴だったことも事実ですが。
軍事訓練においても、何かミスをすればすぐに殴られました。ただ、戦場において何かミスをすれば、そ
れは死につながります。だから、そのように厳しかったのでしょう。
http://vaccine.sblo.jp/article/4766323.html
テハン氏の昔話にはいつでも、『マルモ・テルヨシ先生』という言葉が出てきた。この日本人の『マルモ』先生こそ、
テハン氏が日本との関係一筋に一生を送ることになったキーマン(鍵を握る人物)。
テハン氏が中学生、15歳だった時、ビルマに侵攻した日本軍が、テハン氏が両親と住んでいるメイクテラにやって来た。
「日本軍は1942年に日本語学校を作りました。学校に行っていなかった私は、そこの生徒になったのです。日本語を教えてくれたのは、
陸軍第18師団で菊部隊のマルモ・テルヨシ中尉でした。マルモ先生は笑顔をまったく見せない人でしたが、
私たちに熱心に正しい日本語を教えてくださいました」とテハン氏。
現在ではヤンゴンの自宅で地元の子供にひらかな、カタカナ中心に日本語を教えているテハン氏は、正確な日本語が話せるが、
「漢字はほとんど忘れてしまった」ので「マルモ」先生を漢字で書けない。もしやと、インターネットで「マルモ」をいろいろ検索してみたが関連情報は得られなかった。
「寺子屋といった感じの教室で、150人ほどの子供が日本語を学びました。大人の組には後の文部大臣のウ・バイン(BA YIN)がいました」
マルモ中尉から日本語を学んだテハン氏はその後、タバンガンという地元の村のお寺で小僧をしながら18歳になった。
戦争末期に近づいていたその時、テハン氏は「イナバ大尉」という名の隊長の通訳として日本軍に協力するようになった。
http://www1.ocn.ne.jp/~kenmazda/utehan.htm
百年もの間、イギリスの植民地支配に喘いでいたビルマ人の心情を察することができる。
しかし、独立後のビルマでは日本軍政が敷かれ、その反撥もあってビルマ軍は日本軍に叛旗を翻すことになる。
たしかに日本軍はビルマで随分酷いこともやった。
左翼がよく言うような虐殺をやったわけではないが、占領政策に要する各種施設や物資の徴発で掠奪まがいのことをやったのも事実だ。
また、日本軍憲兵の暴虐な振る舞いはビルマ人を怖れさせた。
たとえば、ビンタ一つにとってもビルマでは首から上の部分に手を下すことは想像を絶する侮辱と受け止められていてこの国の人たちは絶対にしない。
いまでも年配のミャンマー人は「日本の兵隊さんのやったことでビルマの人たちに嫌がられたのは『ぴんた』と立小便でした」と振り返る。
また、日本軍進駐のせいで、イギリス軍から空爆を受けラングーンやマンダレーは廃墟のようになってしまった。
このとき、コウバウン王朝の宮殿も跡形も無くなるほど破壊された。
http://blog.goo.ne.jp/tuneari/e/714a76f9410706e7680c2127d2bc85ba
さて、最近、驚くべきことが分かりました。その村の村長さんはとてもいい人で、我々の為に、
きれいなトイレや水浴びのスペースを作り、何くれとなく世話をしてくれました。日本人と顔立ちもそっくりで、
昔の良き日本の田舎の老人という風情です。しかし何と、その村長さんのお父さんは、戦中に日本軍によりスパイの疑いを
かけられ殺されていたのです。村長さんの回りの一部の人々は、いいチャンスだからあだ討ちをしろ、つまり我々を殺して恨みを
晴らせと随分けしかけたそうです。そこに我々が飛び込んだのです。しかし村長さんは人格者で、「昔のことだから」と、
それを受け入れず結局我々は殺されずに済んだわけです。チン族は「やられたら、やりかえせ」という考え方を持っており
あだ討ちの風習が残っているそうです。私はやられていてもおかしくはなかったのです。
にもかかわらず、そのことはおくびにも出さず、何くれとなく親切にしてくれた村長さんや村人に深い感動を覚えずにはいられません。
http://www.yangonow.com/jpn/magazine/essay/shinkawa_kota/essay01.html
『遥かなる島』
「……だから戦争に負けたんだ、と揶揄されたり恨まれ
ても困るので、軍隊時代の話をしないことにしよう、と
内地に帰ってきた直後に友人たちと申し合わせていまし
た。当時、ジャワ島は南方圏に展開している日本軍の食
料庫のようなものでした。
衛生兵として病院に勤務していましたので食事は入院
患者と同じで待遇がいいんです。
http://carecopain.gooside.com/k12.htm
次にニャンウーからパコックに入り、荒涼たる耕地を左右に眺め、でこぼこ道を走りミョキンター村寺院に到着。
300人程の歓迎を受け、寺院本堂に安置されている仏像の正面に、日本から持参した御社を設置し、御供物を献じて、
天理教式にて慰霊の祭儀を厳粛に勤めさせて頂きました。引き続き、ミョキンター村およびベイジー村の僧侶又住民と懇談した折、
80歳から 90歳位の村のお年寄り十数名が私共を待ち受けて、当時の日本兵の様子等を語って下さったのであります。
意外にも「日本兵はとても優しく、西瓜がとても好物で何度となく食べてもらった。わしはお礼に手ぬぐいをいただいた。
また日本兵の所に行く度、いつまでも一緒にいるとおまえ達も攻撃されるから早く帰れと言って俺達を気遣ってくれた。」と
涙して真剣に真実を語る面持ちには私達も感涙し頭の下がる思いでありました。
ベイジー村であろうか日本兵の遺体を発見して埋葬してくださった場所に案内され、私共は各々に線香を手向け、
当時のご苦労を偲び、心からご冥福をお祈りしたのであります。
http://amda.or.jp/old/journal/asmp/0407-11.html
○昭和53(1978)年12月11日放送:ワニになった少年
少年の体をワニと同じ“うろこ”模様に切り刻む成人式の儀式。セピックの河口から200キロ離れたセピック彫刻で有名なTUNBNUM村。
◯同年12月18日放送:頭がい骨と踊ろう
死んだ偉大な長老の頭がい骨を墓から掘り出して、生前の時の元気な姿を再現させる二次葬の儀式。ANGORAMに近い、KANGNUM村。
ほかに、ヤム芋の大きさを競う祭り。ここは、MAPRIKから車で4時間の距離にあるNERIGUM村。
戦争時代、日本軍が駐留しており、旧日本兵から歌を習ったという男がいた。
◯同年12月25日放送:殺人の呪術を見る
セピック川の源流の奥地ヤプシー村にいる呪術を使う「サングマ」という呪術師は殺人もするが、病気なども治す力をもっている。
ほかに、800キロ上流に上ったイエローリバーに近いアキアプミン地域で石斧を作れる老人に会い、石斧を作る。
そして、源流の滝に到達する。
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200903/article_27.html
テアタ一家が戻ってきて、遅めの朝食。その時、ミガンのお兄さんも来ていたことを知った。実際、顔がミガンと似ている。
そして、一緒に食事をしながら、衝撃の事実(?)を聞いてしまった。テアタによれば、このお兄さん、
名前を「コメ」というのだという。「コメ?」日本語のできるテアタによる冗談かと思ったら、そうではないらしい。
そして、ミガンが「コメはライスなんだろ? 俺の名前は、ワン・カインド・オブ・オレンジなんだろ?」と。その時、初めて知った。
13年前には知らなかったのだが、「ミガン」とは、キリバスの発音ではミガンと聞こえるが、スペルは「Mika」と書く
(最後のnは、発音には出すが表記はしないらしい)。すなわち、ミガンとは「蜜柑」のことだったのである。そして
、蜜柑のお兄さんの名前は、「米」なのである。
太平洋戦争時、キリバスには日本軍が駐留していた。韓国あたりでは、その頃の名残で、いまだに反日感情の高い人がいるわけだが、
当時、キリバスにおいては、日本軍はとても紳士的に接し、現地の人とは仲良く暮らしていたのだという。
そのため、当時は日本語の話せるキリバス人も多かったし、子どもが生まれると、日本軍人に頼んで、日本語風の名前をつけてもらうことも
多かったのだという。実際に逢ったことはないが、その頃、「モモタロウ」「キンタロウ」という名前をつけてもらった人もいたらしい。
ミガンはテアタと同世代だから、ミガンが生まれた頃には、すでに日本軍はキリバスにいなかった。けど、ミガンのお爺さんの世代なら、
日本語を知っているから、おそらくはそれで、新しく生まれた子ども(孫)に、日本語の米や蜜柑という名前をつけた、ということなのであろう。
http://members3.jcom.home.ne.jp/tutee-t/kiribati20-11.htm
http://geoship.typepad.jp/brunei/2009/05/post-d6a9.html 南の風取材班主筆は、高熱にうなされ、殆ど意識のないまま、何とか布団をたたみ、
前々から約束していた息子さんの結婚式に参列してきました。迷惑運転しながらようやくたどり着いたお宅では、日本人がやってきたというだけで大歓迎。
参列者のVIPルームに案内されると、現役の枢密院メンバーや元開発大臣、
ブルネイの過去の大使方々等たくさんのブルネイの顔と思われる方がいらっしゃいました。
するとどこからともなく、「カタイネ、コノ、バナナ」と日本語が...。え〜。今の日本語!?
あー、いよいよボクにも天の声が届いたか、と思った瞬間、それは空耳ではないことがわかった。
何と次には、「カイダン、ツライヨ」と聞こえ、我に返った。
こちらのご家族・親戚、ご友人の方々は、旧日本軍から日本語や唄を習ったり、第二次世界大戦中に
旧日本兵から大変良くしてもらった王家の方々だったのです。
チルボン島事件
太平洋戦争末期、南太平洋のマーシャル諸島のミリ環礁に駐屯していた日本軍は、
米軍の艦艇封鎖作戦で補給路が断たれると、多くの島々に軍隊を分散配置して食糧を自給自足する事にした。
1945年3月18日、日本軍が駐屯していた島のチルボン島で朝鮮人軍属が日本人を殺害して反乱を起こすと
、他の指揮部は重武装した日本軍討伐隊をこの島に向かわせ、170人余りもの
朝鮮人と反乱を支援した島の原住民を銃殺した。
朝鮮の軍属が反乱を起こした理由が、飢えに疲れた日本軍人が朝鮮人の軍属を殺害し、
その人肉を食べた事であった。
http://d.hatena.ne.jp/r17891917/20091103/1257248829
中国などの報道は、犠牲者ケタがひとケタ二ケタ誇張していますが、なかったわけではありません。
まあ、強いて理由をあげれば。
1、虐殺の報復としての虐殺
2、日本軍ではローテーションという概念がなかったので、数年間前線にでたままなので、ストレスがたまりやすく、暴発しやすかった。
3、ゲリラと一般住民の区別がつかなくなった。
などなどがあげられるでしょう。
世界的にはまあ平均か、やや多いくらいのレベルくらいだとおもいます。
そのあとの国共内戦のように、主義の違う人間を殺しつくす必要もありませんでしたから。
日本軍の中国大陸での戦闘が激しくなると、華僑たちの間で排日運動が激しくなり、日本人の生産した野菜を買わなくなったり、
労働者として雇っていた働き者の華僑たちが辞めていった。代わりに、インド人やマレー人を雇ったが働かなくて困ったという。
1940年をすぎると、日本と英国との関係も悪くなり、状況は悪化の一途をたどった。泰平も繁治も、シンガポールの音吉に頼んで
家族を日本に帰した。 1941年春には泰平も帰国した。11月には繁治夫婦も最後の引き揚げ船で帰国した。島崎は終戦までゴム園に残った。
いったん戻ってきた泰平もシンガポールの音吉も家屋も家財道具も親しくしていた華僑に譲り渡した。音吉が勤めていた沙加乃商会の
社長の坂野氏は、日本軍のシンガポール占領後、商売仲間で親交のあった華僑商人のチン・ヨクチー氏が抗日華僑の
粛正をしていた日本軍に捕まり処刑されそうになったときに、必死の工作をしてすくった。
板野氏とチン氏の友情は戦後もずっとつづいた。音吉は捕虜として拘留され、インドに抑留された。
泰平は日本軍占領下のイポーで紙会社を経営し、儲けたという。
http://www.nichimapress.com/longstay/2008/longstay04_2008.html
太平洋戦争前から、かなり多くの日本人がインドネシア(オランダ領東インド)に存在し、各地で商売をおこなっていた。
1860年代から日本軍の占領期までを、トコ・ジュパン(日本人店)の時代と言ってもよいだろう。このトコ・ジュパンによる商売は、高いサービス、
一定の価格、きれいで整頓された店・・・によって、インドネシアの人びとの心を射抜いたといえる。このようにトコ・ジュパンの印象は悪くなかったにもかかわらず、
この時代の日本人はネガティブにとらえられている。インドネシアの人びとは一般的に日本人のことを、日本政府の「スパイ」だと考えていたのだ。
日本軍政による3年半の占領期は特にそれが顕著であった。しかし、この見解は完全に正しいわけではないということを論証する。
現在まで、トコ・ジュパンに関する研究はインドネシアではほとんどおこなわれていない。その理由としては、情報そのものが少ないこと、
日本語が堪能なインドネシアの歴史学者がほとんどいないことなどが挙げられる。それでも、このテーマは、非常に重要だといえる。
インドネシアと日本の関係性、特に「小さな民」に重点を置いた関係性に関心を与えることになる。これまでイ日の2国間関係は、
政府間やODA政策に関連したものに重点がおかれていたからだ。だからこそ、わたしはトコ・ジュパンの特徴について
より詳細な調査をおこないたい。どのような商売がおこなわれていたか、どのようなイメージをもたれていたか、トコ・ジュパン
の雰囲気や生活様式など。それ以外に、当時、その地に存在していた経済や文化、地域の発展についても調べてみたい。
中国、ヨーロッパ、プリブミとの間に競争関係があったのかどうか?
トコ・ジュパンと地元住民との交流はあったのか? そして、当時のトコ・ジュパンと現在の日本人の
生活様式を比較するとどうなのか? そうしたことを考えていきたい。
http://www.nindja.com/modules/eguide/event.php?op=print&eid=24
1.インドネシア アチェ地区で付近の老人に日本語で声をかけられ(今から
10数年前)、昔日本軍が現地の人たちに取った(押し付けた)施策を話して
くれました。そして”歌も知っているよ”と歌って聞かせてくれました。
老人は優しく話していましたが風化されない日本軍への思いが伝わってきました。
これが日本人の取った行為か?と半分疑問符でしたが「これが戦争の結果」かと
深く恥じる思いを感じました。
http://www.yume21.org/SensouPoto/GSKA09221.HTM
夜、タムローともう一人日本語をよく話す老人(ヨハネス)があらわれ、えんえんと二人の話はつづく。
日本軍に使われて、タニンバルに行ったとき、船の物資が枯渇したらしい。ある村に近づいて叫ぶ。サカナアルカ?
ナイヨ。バナナアルカ? ナイヨ。コメアルカ? アルヨ。それっというんで頼むと、わずかばかりの米をくるんで投げてよこしたそうだ。
日本時代には、この島で石鹸も作ったし、皿も布も作った。それが今では何も作れない。日本人は頭がいい。
カナヤロウの葬式のとき、全員黙祷せねばならない。見張りがいて、それができない人間がいると殴られた。
カナヤロウは勇気があった。アメリカの飛行機が落ちたというと、すぐ見に出かけたし、不発弾が落ちると、信管を抜きに行った。結局、それで死んだけれども。
国民学校は青空教室だった。道ばたに棒きれで字の練習をさせられた。
明け方まで死んだ子を弔う賛美歌の歌声が続いていた。
http://www.r.minpaku.ac.jp/sato/asia/field1986.htm
東南アジアでは、多かれ少なかれ太平洋戦争で残した私たち日本人の足跡を感じることが少なくありません。
この写真はチン州のある村で撮ったものです。左のおじいさんは74歳で日本軍がチン州にやってきたときには12歳だったそうです。62年前、1942年9月のことだったそうです。
「わしらの村に来たとき、日本軍は何も悪いことはしなかったよ。村からはニワトリなど食事を提供したね。わしは、日本軍の一兵卒から
日本の紙幣をもらい今でもそれを大事にとってあるよ。それに、次に日本軍がやってきたときのためと言って、ある手紙をもらったんじゃ。
その手紙には、この村は日本軍の敵ではないので、乱暴をしないようにと書いたあったそうな。今では失くしちまったけどね。」
http://birmania.voxx.jp/essays/ES000/ES002.html
無駄に決まってるじゃん
そもそもUMAにしなかったのも統合シェーダーにしなかったのも
ホモジニアスCPUにしなかったのも全部無駄だよ
日本列島は日本人だけのものではありません。だって、日本人が日本列島を作ったわけじゃないでしょう。当たり前のことですね。
「エミさんとユミさん」奇しくもどちらも映画のヒロインの名前である。1935年に封切られたウ・ニプ監督の「ニッポン娘」そのヒロインがエミさん。
しかし、この今私が紹介しているエミさんこと鈴木孝子さんは主演女優ではない。しかし、ウ・ニプが日本から連れ帰った女性をビルマの人たちは
映画の「エミさん」と信じて疑わなかったようだ。70年前にビルマに空前の日本ブームが起こるエミさんパナ(ぞうり)
エミさんタナカ(白いおしろいのようなもの)エミさん雨傘エミさんお菓子エミさん蚊取り線香など、エミさんの名前が付いた商品が
数え切れないほど出現したそうである。そして、戦争、日本占領時代、横暴な日本人軍人、各地で軍人によるビルマ人女性への
レイプやさまざまな不祥事、戦中戦後一気に日本や日本人への評価は悪くなる。
「ビルマが世界の中で最も親日国家」だとしたり顔でのたまうビルマ通の方がたは、このへんの時代の事を知ってあるのだろうか?
http://gg.yangon.jp/achikochi/ittekita/emi.html
戦争の傷跡
デイープアジアを旅する現代の若い旅行者は、60年前この地が日本軍に占領された前線基地だった事など、知りません。
私達夫婦自身、団塊世代と言っても知るわけもないのですが、ミャンマーを旅していると思いもしない場所で、戦争の傷跡に出会います。
多くは、お寺にある「日本軍○○部隊慰霊碑」でした。ここを覗くとお坊さんが現れ、必ずお茶・お菓子の接待をしてくれました。しかし、
こんな心温まるはなしばかりではなく、ある場所では、ミャンマーの老人から昔日本兵士から言われて覚えたのでしょう、日本語で「気を付け」「直れ」「バカヤロー」と叫ばれた事もありました
ミャンマーに限らず、アジアを旅する時は、60年前にこの地で日本が戦争していた事を忘れてはなりません。
http://www.tt.em-net.ne.jp/~soy7686/myanma.html
ミャンマーは歩き心地がいい。日本軍の兵隊が半世紀前、このあたりをうろついたんだなあとよくおもった。あの山々へ必死で逃げこんだんだなあと。
南の島々でみたトーチカの跡や大砲や、海に沈んでいる輸送船などからは感じたことのない、兵士の息づかいのようなもの。
道で目があった老人が数秒後、突然敬礼して日本語で戦争中のことをなにかいって握手を求めてくることがある。
旅人はなにものでもない。簡単な役ならなんでも引き受けられる。足の下が舞台である。だから話がはずむ。
いっしょになって戦争を懐かしむ。重心が五センチほど下がった感じがして、それはそれで悪いものではない。
ピンウーリンの時計台を守ってきた男である。日本兵の名前を酔ったようにしてくりかえし、彼は立派だった、
男のなかの男だったといった。時間の進みがここは遅い。外からの情報でかきまわされることのなかった、
無垢であることを強いられた泉のような町だ。
http://subaru.shueisha.co.jp/html/hippie/h44.html
本当にウヨほど日本人の卑しさを凝縮したような連中はない。
ウヨがのさばっている日本は結局はそれだけのものだ。これからますます世界から取り残されていく。
これは恐らく日本の戦争責任に関する歌ですね。
中島みゆき「泥海の中から」
http://www.youtube.com/watch?v=J-8Q6pKM7K8 南京大虐殺や慰安婦強制労働などに誠意ある謝罪と補償をしなさい、
という中島みゆきのメッセージでしょう。ネトウヨに聴かせてやりたいものです。「明日は少しマシになれ」と。
夫婦で参加していた私達に、村の長老格と思われるおばあさんが話してくれたことがあります。彼女が1枚の10ルピー札を出し
「これは日本軍が侵略していた時のものです。私は日本軍がいやで、戦争が終わってからもずっと日本に良い気持ちを持っていませんでした。
でも今あなた方がナフー村に来てくれ、こうして楽しく過ごす内に日本に対する私の気持ちが変わってきました。
このお金を日本にお返しします」と夫に手渡したのです。よく見ると、ルピー札ですが下に『大日本帝国政府』と漢字があるのです
。つまり当時の日本軍の軍票です。
その頃彼女は、10台前半でしょう。イギリス統治で英語を覚えたのでしょう。トツトツながら英語で話してくれました。
1945年日本の敗戦から58年間、良く思っていない日本の軍票をどんな思いで持ち続けていたのでしょう。
私達夫婦なら戦争を知っていると思い、長年の思いを託したのでしょうね。
http://www.onigiritai.com/activities/reports/03/morememory.html
未だに自民党が総選挙に勝利した際のシナリオを「機械的に行い続けてる右翼」は超キモい。
何か、ゾンビだかキョンシーだか、生きてる人間なら普通に出来る「状況の変化に応じた計画変更」が無理な、
死んだのに動いてる化け物っぽい。
靖国原理主義カルト教義の機械的反復である、まるで旧日本軍がフィリピン人やミャンマー人を殺さなかったかの様な
「坂の上の雲」に酔った絵空事も、同様の雰囲気を醸してるし。
第一、南京大虐殺も従軍慰安婦問題も直視不能な右翼の分際で、中国や韓国だけを責めるなんてチンピラ臭が紛々で日本を愚弄してる。
日本を代表する与党民主党は、ンなチンピラ臭い態度は取らないよ!
極右弱小野政党の自公だけだ!人殺しが人殺しを罵れば格好イイと信じる日本人は。
後、三下チンピラやヤクザ右翼だけ。
シンガポール&バタム紀行、このビーチのオーナーPak Hitam (Mr.Brack)はなかなかの語り部で、いつも話の輪ができています。
この日は、ここにやってきた日本軍の話になりました。14歳の時、日本兵がやってきた。みんな小柄だったが気合が入っていて、
なにかとbakero(多分バカヤロー)とどなった。このビーチに落下傘が舞い、飛行艇もやってきたという話です。
いつぞやタクシーの兄ちゃんが、日本語で書かれた戦跡のパンフレットをくれたこともありました。
http://www.ne.jp/asahi/calypso/lip/diary2003-1.htm
ミャンマーのモモタローさんに会う
http://blogs.yahoo.co.jp/winjapn1789/archive/2009/11/13 今、翻訳に取り組んでいるのがミャンマーのモモタローさん(ペンネーム)が書き記した軍記物。
その当の筆者であるモモタローさんに会っていろいろと話を聞くことができた。
モモタローさんは1926年10月18日、ザガイン町の生まれで、現在83歳。
日本軍統治時代の1943年年頃、当時17歳という青年が自らビルマ防衛軍に入隊を志願し、ミンガラードン士官養成学校で学び、
日本陸軍士官学校にも留学したという波乱の人生を歩まれた方だ。
まさに時代の生き証人なのである。
彼の口からは正確な発音の日本語が飛び出してきて、当時の大変だった時代のことが手に取るようにわかる。
「アウンサン将軍(スーチー女史のお父さん)」「牛島中将(沖縄戦の総指揮官)」「泰緬鉄道」などの時代の
キーワードが次々出て来るのには驚いた。
あの牛島中将が、実はとても温厚で優しく、日本に留学していたミャンマー人士官候補生のことをとても
可愛がっていたことを聞いて、教科書に書かれていない意外な事実を知ることができた。
他にもアウンサン将軍の自宅に招かれて、
「軍人たるものは自分の利益を考えてはならない。
軍人は国や国民のためにいつでも命を捧げる覚悟をしておくべきだ」
と話した将軍の生の声を聞くことができた。
昔馴染みが集まって
http://myslowlife.blog.shinobi.jp/Entry/61/ お義父さん、80歳すぎだけどハイパーなおじいちゃんなのでパソコンで毎月、中学時代と高校時代の友人に会報を作ってみんなに送っています。
古い写真を取り込んで、タイピングはブラインドタッチです…スキャナとパソコンを使いこなす80代…
数日後、↑の写真を会報に載せるからメールで送ってくれとSMSがきました。
すごいな〜と感心するばかりです。
それから、このイブイブたちもまた、戦時中日本軍の作った学校で教育をうけています。
だから日本語も少し単語を覚えています。
お父さんの右隣の女性が、帰り際に「おーて〜て つーないで〜」と歌いました。
このとき題名がどうしても思い出せなかったんだけど「靴が鳴る」っていう歌。
♪お手つないで 野道を行けば
みんな可愛い 小鳥になって
歌をうたえば 靴が鳴る
晴れたみ空に 靴が鳴る♪
てやつです。
最初の1小節口ずさんで、「どうしても続きが思い出せないわ」と。
私も実は途中までしか歌えず、ごまかしてしまったけど。。。
http://blue.ap.teacup.com/sophiark/18.html 残り1ホールだし早く雨が止まないかなと思いながら待っていると、背の高い方の老人が「どこ(の国)からですか?」と話しかけてきた。
「日本です」と答えると「韓国かと思ったけれど、日本ですか。日本のことなら少し知っている」と言い、もう一人の老人と共に大昔の話を語り始めた。
「1943年ごろ、二人は7歳くらいの小学生。その頃は戦争をやっていて、オランダに変わり、日本がこの国を支配していた。
そのため、毎日東の方(皇居のある東京の方角)を向いては「私達はジャワの臣」ととなえ、学校などで日の丸が掲揚される時は「キミガヨ」を歌った。」
(略)
昔日本に占領されていたなどというとインドネシア人は日本に悪いイメージを持っているのではないかと心配になるが、
インドネシアでは「オランダより良かった、独立を助けてくれた」ということで日本には好印象を持ってくれている人が多いようだ。
この二人の老人も戦争中の話なのに昔の楽しい思い出話をしているかのように、笑いながら元気良く話を聞かせてくれた。
1991年、韓国の金学順(キムハクスン)さんが元「慰安婦」として名乗り出られて以来、各国の多くの被害女性たちが声をあげました。若い日にだまされ、
あるいは暴力で日本軍の「慰安所」に監禁され、想像を絶する苦しみを受けた被害者たちの多くはすでに亡くなり、残された方も今はもう80代90代の高齢になられています。
1993年に河野洋平官房長官(当時)が、調査結果に基づき「お詫びと反省の気持ちを申し上げる。そのような気持ちを我が国としてどのように表すかについては、
今後とも真剣に検討すべきもの」との談話を発表しましたが、その後、なんら進展がありません。
私たちが加害国の一員として、また人間として、誠意を表すことのできる時間はもうあまり残されていません。
政権交代が実現した今こそ、日本軍「慰安婦」問題を解決させる法律を早期に成立させましょう。
そもそも社会的弱者、少数派に「権利」を付与することは多数派にとってメリットが見いだせないのはある意味、
当然といえば当然である。それは生活保護にしろ、ホームレス対策、貧困対策だって同様である。多数派にとって
メリットが見いだせないから施行するな、というのならばそんな社会がお望みならば「お隣の国」*2にいけばよい。
弱者/少数者の権利を尊重しない国は、結局のところ衰退していくと私は思うけどね。
外国人参政権問題だけではなく、これは基本的人権やホームレス問題を語るときも地下水脈でつながっていると、
私は思う。「なんであいつらを保護しなきゃいけないの?好きでやっているんでしょ」とか「生活保護なんてやるだけどうせ無駄なんだから」とか、
問題意識は同じなんじゃないだろうか。語っている当人自体は「理想論ではなく現実論を語っている」つもりなだけに、
腹が立つよりその底の浅さ、無根拠な権力と自分の同一視が哀れさを誘う。弱者の側に「立たない」ことを「リアリズム」だと
勘違いしているんだよな。単に弱者の側に立つと自分まで取り込まれそうだから、なんだろうけどね。実態は。*3「あんた」が
神の視座から「メリット/デメリット」なんて弄んでいるその「権利」は、それを「獲得」(国家に命令)するためにどれだけの血や人柱、涙、
苦しみが注がれたのかわかってんのか。当たり前みたいなツラしていっちょまえに語ってんじゃねーよ。
愛国心/愛郷心あふれる憂国の右翼をもって任ずる私としては、メリットは「我が国における地方自治の公共性が担保される」と
いうことにつきる。(人権云々も結局のところここに集約されるのではないだろうか。)それだけ?そう。それだけ。それが「国益」だから。
より広範な声を拾い上げ、地方政治を充実し深化させ、その地域の人々に即した「環境」が具現化してこそ、この国が発展していく原動力となるのではないだろうか。
たしかに永住外国人が地方で参政権を得たとしてもドラスティックな変化は期待できないといわれれば、そうかもしれない。
しかしこの国の、閉塞した環境に一石を投じ、本当の意味で「開かれた国」へと
変化させていくには必要なことだと、私は思う。そしてそれこそがまさに本質的な意味での「国益」なのではないだろうか。
我々は、過去の加害を反省いたします。
我々は特に、日本に侵略されたアジア諸国の人々に対する加害、つまり、
わが国の歴史の傷ついた一章について反省いたします。
過去の過ちを正し、自信を持って未来へと進むことによって、日本の歴史の新たな一ページをめくるときが来たのです。
我々は、我々の隣国の人々に対して深い悲しみ、苦しみ、損失を与えてきた歴代の議会や政府による数々
の歴史修正主義の誤りや戦争責任否定の誤りやアジア侵略の正当化の誤りについて謝罪いたします。
これら被害者とその子孫、残された家族の苦しみと痛みについて、我々は「申し訳ありませんでした」と申しあげます。
第二次大戦中の日本によるアジア各国とその人々への被害の件の中でも、元・従軍慰安婦の受けた被害をめぐる問題について、
残された時間は多くありません。被害を受けて、名誉が回復されないまま亡くなった方々も多いことに心が痛むことは
普通の感性だと思います。
◆◆ 海外で経験したあれこれを語るスレ 4◆◆
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1260508999/ 320 名前:可愛い奥様[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 00:27:59 ID:P9hnd3g10
>>316 台湾、インドネシアには行ったことあります。
あと日本でシンガポール人の年配の方と知り合ったことが。
まず台湾ですが、2ちゃんでは無茶苦茶親台の人が多いよね。
>317さんがネトウヨのこと書いてるけど、私はどっちかというと保守右派なので、
そういう目で見てるところがあるかもしれないんで差し引いて欲しいんだけど。
台湾には足掛け3年のうち、1ヶ月程度の滞在を10回くらいしました。
その経験から言うと統治時代のお年寄りは、2ちゃんねらが思っている通り、本当に親日が多数派。
私は恥ずかしながら台湾の歴史を知らずに渡台して、そこでお年寄りに話しかけられ、
最初は何かの商売とかかと思って避けてたんです。
でも、日本人と話したがるお年寄りは本当に多かった。
329 名前:可愛い奥様[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 01:24:40 ID:ogkG5FNl0
>>327 狭い日本人社会なので国名は伏せますが、
>>316の東南アジア某国に4年住んでました。
おじいちゃんから日本語で話しかけたことは多々。
「加藤さん知っていますか?すごくお世話になった」「山田さんから日本語を教えてもらった」等々。
軍歌を歌いだすお坊さんも出会いました。
親しくしていた家族のおじいちゃんも日本軍の元で通訳をしていて「ツトム」という
日本名を書いて披露してくれたり。
あとは、激戦地だったところに行ったとき、私と同年代の男性が、その村の占い師が
彼のおじいちゃんは終戦後に日本軍と一緒に日本に行って、今は広島で暮らしている
と言ったそうで、初対面の私に「探してくれ」と頼まれたりといったこともありました。
私の住んでいた首都だけではなく、各地に日本人墓地があって、今も慰霊の旅に来ている
日本人もいて、現地日本人会でも毎年慰霊祭を行っていました。
他に、地方の村の教会の壁に日本軍の銃弾の跡などもあったり…。
334 名前:可愛い奥様[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 02:18:39 ID:P9hnd3g10
ついでに。
慰安婦とかの単語が出たのでちょっと書かせて頂きたいんだけど。
戦時中に日本人が海外で行った非道について、その重さを云々するのではないのですが。
戦争という狂気の中で起こした非道よりも寧ろ、
今現在行われている非道のほうがより問題だと思ったりします。
インドネシアでは「10歳くらいの子が3000円くらいで買える(性交渉できる)」と言った日本人に出会いました。
台湾ではリージェントのようなレベルのホテルにも、女性を平気で連れ込む爺が多数います。
タイでは小さい子供を買う旅行者がたくさんいる。
過去のことはたいしたことないって言ってるのではなくて、
現在そういうことが、平然と行われていることは物凄い大きな問題じゃないかって思う。
1942年3月14日、約35年にわたりオランダをはじめとする他のヨーロッパの国々(英国、ポルトガル、スぺイン等)に支配された後、
インドネシアに日本が上陸しました。日本の到着は何よりもまず、「年上の兄弟」と日本が称したように一陣の風のようでした。
インドネシア国民は平和と繁栄が来るであろうことを信じました。
しかし、実際に起こったことは逆でした。どん欲と残忍が蔓延しました。軍のためにと、日本はインドネシアを搾取しました。
何十万人以上のインドネシア人飢餓のためまた病気のために死んでゆきました。16歳以上の男子は地方から引き立てられ
労務者として強制労働をさせられました。
10代以上の女子は、最近よく聞かれるようになった「従軍慰安婦」にされました。
インドネシア国民の心に付けられた傷跡は痛みます。
http://sv2.jice.org/jigyou/indonesia01.htm
NHKドラマ「坂の上の雲」が面白いのでついつい見てしまうが、かなり露骨な国粋ドラマである。侵略戦争を「美化」し正当化し、
加害者と被害者を逆さまに描いている。西欧列強に侵略されたので仕方なく侵略した、などはネトウヨの主張そのものだ。何をどうこねくり回したところで
侵略は「正当化」出来ない。資本主義が帝国主義に変容する「歴史の必然」を科学的に描くことをせず、情緒的に「民族感情」をくすぐり、
見るものを何となく「いい気持ちにさせる」内容となっている。司馬遼太郎はこの作品の映像化を拒んだとされている。いたずらに「ナショナリズム」を煽ることになる、
というのが理由であったようだ。今この時期にNHKがこのようなドラマを作る意図が何処にあるのか?良く考えてみる必要がありそうだ。
映画やドラマについてはドキュメンタリー以上に「加害」を避けたものが多い。「日本人はこんなに酷い目に遭った」
「日本の兵隊の中にもこんな良い人がいた」・・・こんな映画ではダメなのだ。外国映画がそれを描くのは良い。
しかし我々日本人がそれをやってしまっては単なる「免罪符」だ。
「杉原千畝」は確かに日本人の「自尊心」「優越感」をくすぐる題材である。だから映画もテレビもこぞって「杉原千畝」を
取り上げる。しかし日本人が本当に作るべき映画は、例えば「石井四郎」(陸軍731部隊創始者)の生涯を描いた映画である。
その映画には「良い日本人」など登場させてはいけない。彼らが「故郷では良き夫・父親であったこと」を描くのは良い。
しかし満州ハルピンの収容所に配属された彼らは、もはや「悪魔の日本人」でしかなかった。そこに良い日本人は
「基本的に」いなかったのである。たとえいたとしても
「善」を貫けば最後には抹殺された。それが日本の軍隊の現実なのである。そこまで突き詰めて、
覚悟を決めて映画にしなくては駄目だ、と私は思う。
●「主権者としての責任」と「自ら担う責任」
一般に、ある結果に対する責任は、
その結果を引き起こした本人が負うものであり、
結果の予測可能性や他の選択肢の有無、
行為実行意志が本人にどの程度あったかなどを考慮することによって、
責任の重さが測られ、あるいは免責される。
その意味では、「常識的」に考えて、
戦争当時生まれてもいなかった者に対して戦争の責任を問い、
戦争の責任を負わせることには、無理があると言わざるを得ないだろう。
ただし、戦後日本社会にはこの原則がそのまま適用されない事情がある。
それは、侵略被害者への償いを怠ってきたという事情だ。
この結果、日本政府にはいまだ、侵略被害者への国家補償・賠償実現の義務が残っている。
こうした現在の日本政府が果たすべき未決の戦争責任については、現在の日本政府の行為に責任を持つ者
−−政府の行為に自らの意思を反映させ、その結果を引き受けねばならない者、引き受けようする者−−が
「主権者」として責任を負うと考えられる。
主権者である限りこの責任は、戦後世代であっても否応なく負わなければならないものだ。
その意味では、戦後世代にも明確に戦争責任がある。
何らかの形で主権者としての意思表示を行ない、日本政府の政策を修正させて、自らの責任をまっとうすることが求められる。
たとえば「慰安婦」は金儲けのために自ら進んでなった売春婦だと蔑むことによって彼女たちは「慰安婦」としての被害だけでなく今日なお差別と侮蔑の対象とされ、
名乗ることもできず苦しめられる。被害者たちは何度も何度も傷つけられていく。
その傷を癒すことができるのは、加害国による謝罪と補償であるが、国の政策は有権者に意思によって決まる。そうした政治家を選ぶのも国民である。
そうすると戦争には関わっていない世代も国の政策に責任を負っている以上、現在の日本国家で市民権を持っているすべての人が責任を有する。
犯罪の責任は当事者だけが負うしかないが、被害を回復する補償の責任は加害国を構成しているすべての市民が負わなければならない。
何もしないということ自体が被害者の苦しみを継続させるという点では不作為自体が加害行為になってしまうと言ってよい。そうしたことを戦後責任と呼んでいる。
侵略戦争や植民地支配による加害を償うことを戦後補償と呼んでいるのは、そうした戦後の問題の解決、戦後世代の責任も含めて考えているからである。
これらの戦争責任に対して、加害者の処罰、被害者や被害国への賠償など、戦後すぐに徹底した償いをおこなっていれば問題は
なかったかもしれない。しかし連合国、特にアメリカが冷戦状況下で戦争責任がある者たちを免罪して利用し、
戦時中のエリートが戦後もその地位を保った(天皇が退位さえもせず残ったのはその象徴である)。アメリカの圧力で多くの国は日本への賠償請求権を放棄した。
一部のアジア諸国は日本と賠償交渉をおこなうが、日本の経済進出と当該国のエリートの利益が優先され被害者は放置されたままで終わった。
この部分、同意します。交戦国であったオランダ領を攻めたわけですから当時の感覚で非常識なことをしたわけではありません。
攻めなければ、インドネシアにあったオランダ軍に、日本船が何隻沈没させられたか分りません。つまりこれが戦争なのです。
その一方で、日本には、武力による南方資源獲得の目的や、さらにはアジアの覇者となる野望もあったでしょう、
これは帝国主義の延長で、オランダやその他の欧米列強と同様に日本も誤ったことをしたとも言えるでしょう。
戦争地でのレイプ、これは、日本特有の問題ではありません。どこでも起きている悲惨なことです。
戦時において、明日に自分が生きている保証がない兵士の心理状況は特殊です。
過去のレイプをいつまでも問題視するのではなく、悲惨な戦争が二度と起きないように努力するのが
あるべき姿ではありませんか。どうしても過去のレイプにこだわりたいのなら、どうして、
沖縄で米軍にレイプされた日本人女性たちのためにアメリカに抗議しないのですか?
最近のなら、チベットやウイグルで中国には抗議しないのですか?
2、駐留日本兵の現地女性との同棲、
戦時中北スラウェシに駐留した日本兵は3万人とも言われ、現地人にとって空の神兵の女友達になることが当時のステータスであったといわれ、
兵士の多くが許される範囲で同居、現地の風習にのっとり身内だけで婚姻し家族を持ったものが多い。
しかし当時の海軍は、たとえ兵士が独身であっても正式な結婚は許可せず、同居だけと黙認していた。
http://manadonet.com/yakin2.html
本来ベトナムにとって日本は侵略国であり憎むべき存在であるはずなのですが、仏印として長期にわたり植民地化されたフランス、
直近では最も被害を受けた記憶が鮮明で現政権によって敵国として教育されているアメリカ、今の30代が従軍したカンボジア、
それにベトナムでは最も最近で紛争が起こり、また数千年にわたって侵略を受けつづけた中国、といったように日本軍の悪行を
忘れさせるために十分な出来事を経験してきましたので、ベトナムでは有難いことにあまり反日感情がありません。
ただ、私もベトナムを愛する一人の日本人としてそのことには関心がありましたので、日本軍による侵略の記憶がある方に
それについて話をしたことがあります。残念ながらその方の印象では、日本軍も相当酷かったということです。
経済的な進出の際にもアジア蔑視丸出しの日本人のことですから、いわんや軍事的侵攻をや、ということでしょう。
幸いそのことについてこの国で私が責められることはありませんが、
仮に私自身に責任があるわけではないとしても、いつも言動には気をつけています。
http://www.vinapark.com/blog/mt/archives/2004/08/15/
1945年2月日本軍占領下のベトナム北部では200万人が餓死した。ベトナム人が作った米を没収し
日本軍の食糧としたばかりでなく、それを戦利品として日本に送られ、横浜に住む私の家でもシャム米として配給があり、食べさせられた。
ベトナム農民には米を作る代わりに亜麻を作らせた。軍需物資を運ぶ袋を作るためである。その後、大洪水が水田を破壊した。
人々は米を運ぶ荷車を見つけると争ってその後について歩き、こぼれた米粒を一つ一つ拾っては口にいれていたという。200万人が餓死したことは独立宣言にも記されている。
「ハノイの街の両側には幾人もの人がうずくまり、やがて動かなくなって倒れた。餓死したのだ。やがて荷車が来ると
その遺体を載せて郊外の穴に捨てに行った(注2)。
http://www.news.janjan.jp/world/0704/0704270523/1.php?action=tree
あとは、「犠牲的精神」もあったかもしれませんね。家族や仲間の犠牲を少なくするように! 命乞い。
南京に至る戦線で、
"中国女たちが目の前でズボンを脱いだのにはビックリした””私に向かって命乞いをしたのだろうか””そんなことを強要した訳じゃないのに” という
日本兵の手記がありましたね。(これも認知症で出典ごめんなさい)
・・・日本兵の多くが「強姦」と思わず「和姦」だと思って、罪悪感を持ち得なかったことが推察されます。
でも、相手の中国婦女、家族は、『獣兵』として憎しみをもったのですね。
悲しいけど中国戦線では当たり前の『命乞い』。
沖縄や硫黄島で女たちに自決を迫ったのは、こうした加害体験の裏返しです。
「生きていたら『獣兵』に犯されるだけだ」
と中国戦線を経験した兵隊がいった。
マッカーサーは大東亜戦争を自衛戦争とは言ってない
http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-43.html 更迭後の1951年5月3日、朝鮮戦争における中国海上封鎖戦略について上院軍事外交共同委員会で
They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan.
Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.
(日本は、資源の供給を絶たれることにより、1,000万から1,200万の失業者が発生することを危惧した。
日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分がその脅威から逃れる必要に迫られてのことだった)
と答弁した。これによりマッカーサーの認識した日本の戦争目的が様々に解されている。
日本の自衛戦争であった。(なぜこのような経済的動機が「自衛戦争」の根拠として正当性があるかの説明は確認されていない。
“security”を「安全保障」と訳したり、前半部分を関連づけないでこのような意見を持つ者もいる。)
・日本の自国経済の利益(失業者対策)の為に引き起こされた。(以下略)
訳してみますと
「かれら(日本)は供給が削減され,1000万から1200万人の失業者が出ることをおそれた.それゆえ
かれらの戦争にいたった目的は主に治安上のものである」
特に先入観は持たず判断してみると
これは日清日露戦争ではなく,経済封鎖のあった太平洋戦争の動機の
説明ですね.
前段の文章からSECURITYを(国内の)治安としました.
失業対策としてやる戦争を「自衛戦争」とするのは無理があるんじゃ
ないでしょうか?
日本の近くにも,経済が今にも壊れそうな某国がありますが
そういう国が,同様の大義名分で「自衛戦争」を起こしたら
日本人は賛同しますかね?
歴史を歪めたり、隠したりすることは次の戦争を生み出すことに繋がる。何をされたかではなく、
何をしたかという加害の側面に目を向けない限り、戦争の実態、そこにおける人間の脆弱さと恐ろしさ、異常と狂気は見えてはこない。
加害の事実を直視し、認識することが、ほんとうの戦争を知ることであり、そこに再び過ちを繰り返さぬための歴史の教訓が存在する。
「確かに、今回の戦争でガザ地区の子供の犠牲とかが過剰にクローズアップされてる、それはアンフェアだ、
とかなんとか言ってる『なんとなくイスラエル擁護』の人たちは
『しょうがないじゃん、戦争だもの』みたいな意見が多いよね(笑)」
「だいたい戦争やら紛争だって『しょうがない』から起こるんだって。
『しょうがない』ってのは完全な思考の放棄で、敗北宣言で、自分という人格の否定なんだよ。
『しょうがない』と人間は自分を納得させて、すべての罪悪感をそこに棚上げして、
ヘラヘラ笑いながら非道で傍若無人で残虐非道なことをやらかす(笑)」
日本の知識人の道徳水準をさらした慰安婦広告
日本の国会議員 45 人や大学教授・政治評論家・言論人ら 14 人が日本軍による慰安婦動員に日本政府や軍部が介入した
事実はなかったと主張する全面広告を 14 日、米国のワシントンポスト紙に掲載した。 一同は、米下院で審議が中断している
「日本軍が若い女性に性奴隷となることを強要したのは 20 世紀最大の人身売買だった」とする決議案は
「真実ではなく、信念に基づく歪曲(わいきょく)」であると主張した。
さらに一同は広告の中で反証として「慰安婦を募集する際、拉致や強制を禁ずる」とした日本軍の文書や、1939 年 8 月に
韓国のある新聞に掲載された「女性らを満州に誘拐した悪徳ブローカーを日本の警察が処罰した」という新聞記事を提示した。
しかしこのブローカーたちは私娼窟に女性を連れ込んだものであり、日本軍の慰安婦とは何の関係もない。
一方、一同はインドネシアに駐屯していた日本軍がオランダ女性を慰安婦として連行した事実を認めた。
日本がこうした対応をとるのは、オランダの文書保管庫に裁判記録をはじめとする証拠資料が存在するからでもあり、
また被害者がオランダ人であるため、欧州諸国の世論が悪化することを恐れたからだ。 ところがこの広告は、
慰安婦の強制動員による最大の被害国である韓国・中国・インドネシア・フィリピンなどのアジア国家については、完全に無視を決め込んだ。
そのくせ「これらの(オランダ女性を連行した)軍人は重罰を受けた」とし、あたかも軍の方針に反して処罰を受けたかのように強調した。
しかし実際に彼らを法廷に立たせたのは日本軍ではなく、連合軍であったことには一言も触れなかった。 また当時インドネシアで
日本軍が道を行く女性を無差別に略取した事実についてもまったく言及されていない。
日本は首相や外務相をはじめとする不道徳な日本政府関係者に、不道徳な国会議員、さらには知識人までが加わり、
犯罪の歴史を闇に葬り去ろうとあがいている。 だが彼らがそうした行動をとればとるほど、日本国民の誇りが
地に墜ちるばかりだということにもはや気づくべきだろう。
http://www2.ocn.ne.jp/~ricky.mv/private_room/nmw0815.html
心に深い傷を受け、現在もなおその後遺障害に苦しめられている原告ら被害女性は、加害者たる日本国によって、被害者として正当に認められること、
すなわち心からの謝罪と、その証としての国家による損害賠償を要求しているのである。
「加害者による人道的措置」という転倒した方法では、決して彼女らの心の傷を癒すことはできないのである。
被害者側からみても何が悪いのですが。日本軍の惨たらしい戦争犯罪の前に、日本人側(加害者側)から戦争の狂気云々を避けんで、
そういう戦争犯罪を行った言い訳にしても、それを日本人の側がやれば、ただの`「免罪符行為」です。被害を蒙ったインドネシア人の側が
戦争の狂気云々、冤罪で犠牲になった日本兵の境遇云々を言ってもいいが、日本人が日本軍の過去の侵略および加害の事実を前に、
戦勝国の裁き、冤罪、戦争の狂気云々を言い訳をして「免罪」してはならないのです。分かりますか?
我々日本人や日本がやるべきことは、過去の歴史の侵略や加害の事実や戦争犯罪、犠牲者や被害者の訴えや痛み、
悲しみに正面から向き合い、思いを馳せ、「申し訳ありませんでした」と謝り、誠意をもって償うことです。
その加害の事実や償いを子孫代々に伝えていくことによって過去の過ちを正し、未来へ歩んでいけるのです。
微妙かな。自国の国益エゴのために、広島・長崎へ原爆投下をしたことに対しては、一人の日本人として怒りに思うところがあります。
ただし、そういった原爆にしても、怒りはさほどありません。原爆投下の被害者としての日本を考える前に
、それ以上に苦痛を蒙ったアジア・太平洋地域、そして、36年間植民地にされた朝鮮民衆の痛みをまず思いを馳せるからです。
被害者面をしてはいけません。被害者である以上にはるかに加害者なのです
。原爆を落とした米国にしたって、日本が加害者の面があるのですから。
バターン死の行進や真珠湾攻撃、米兵捕虜への悲惨な酷使、フィリピンにおける米国人市民への加害、アッツ島などのアリューシャン列島やグアムなどの
米国の領土を日本軍が占領したという側面をもっています。大日本帝国は最も暴虐非道で人類史上最悪な国家でした。
日本人は最も愚かな民族として60年前は振舞っていたのです。
そのことの反省が根底にあるからこそ、米国への怒りはさほどないのだと思います。
以前アキラと言うバカウヨが、「闇鍋」と言う掲示板をやっていた。そこではバカウヨ共が
うじゃうじゃと集まり、チャットのような書き込みをしていた。私やその他の仲間はそれを見て
見ぬふりをしていたのだが、そうとは知らぬ連中は、我々の「攻略」の「打ち合わせ」までそこで行っていたものだ(笑)。
バカどもが、その「闇鍋」でWBCを見ながらリアルタイムでチャットをやっていた事があるが、案の定それは
「チョン」を始めとした「民族蔑視」「差別」「侮辱」用語のオンパレード。誠に「醜悪」この上ない「チャット」であった。
このような連中に果たして健全なスポーツである野球を観る「資格」などあるのだろうか?
奴らのやっていることは、イチロー選手を始めとした選手、野球関係者、野球界そのものへの「侮辱」ではないか?
また、日本人ばかりで意思疎通しあうのが悪いと言うのではない。
同じ国の者にしか通じない話をするからといって偏狭とは責められない。それはどこの国の人もやることだ。
ネット右翼のように、病理人格者にしか楽しめないような話題でいい大人同士がかたまり合うことに問題があるのだ。
「日本は無実だ、侵略国家なんて濡れ衣だ」
「日本人はむかしから温和で、日本軍は規律正しかった。虐殺や強姦などありえない」
「戦争に負けたので、悪役にされただけ」
「南京大虐殺なんて中国の捏造だ」
「東京裁判は戦勝国による不正な裁き」
「従軍慰安婦問題は中韓が仕組んだ」
「真珠湾攻撃は米国大統領の陰謀だ」
「アメリカは原爆を投下したくて、日本の終戦を妨害した」
「悪いことなんて、どこの国もやってる」
「ナチスは絶対的な悪だが、日本の侵略は相対的な悪にすぎない」
「普通の国なら、核武装しよう、核武装!」
「中国人も朝鮮人も、日本を貶めようと世界中で暗躍してる」
「お。日本人になりすました在日がまた俺たちに文句いってるぞ」
日本が先の大戦をはじめ近隣諸国の方々に一方的な侵略行為で非道な振る舞いを続けてきたことは
世界でも周知のことです。
日本はそういう事をきちんと教科書に載せ、永遠に近隣国の方々に頭を垂れる事を
教育しなくてはなりません。
独島・対馬を不法に領有権を主張する教育、東海を日本海などと恥ずべき
名称に変えた事など日本には反省謝罪を続ける義務があるのです。
ネット右翼の不当な暴論に騙されないでください。
民主党社民党さんが政権を取れば近隣諸国に譲歩し、大韓民国への領土返還や
東海への名称変更などを実現し永遠の平和が実現できるんです。
大日本帝国時代から戦後にかけて,「日本人」の支配的な自画像といわれる単一民族神話が,いつ,どのように発生したか。
民族の純血意識,均質な国民国家志向,異民族への差別や排斥など,民族というアイデンティティをめぐる膨大な言説の系譜と分析を行う。
ここでわれわれは、まず二つの事実を確認しなければならない。一つは戦前の大日本帝国は、多民族国家であったということである。
こんにちでは忘れられがちなことだが、一八九五年に台湾を、一九一〇年に朝鮮を併合していらい、総人口の三割におよぶ非日系人が臣民として
この帝国に包含されていた。戦時中の「進め一億火の玉」という名高いスローガンにうたわれた「一億」とは、朝鮮や台湾を含めた帝国の総人口であり、
当時のいわゆる内地人口は七千万ほどにすぎない。
長い間、何代かにわたってその国に暮らして、社会生活を営んでいる外国人たち。
経済的にも社会的にもその地域に依存し、貢献もしているそういう人にきちんとした権利を与えるのは
むしろ当たり前の話。
いまさら日本人の「純血」だの「単一民族」だのとわめきながら、ひたすら昆虫的な敵意のみで
排他主義に走る連中には、こんな当たり前のことすらわからないんだろう。
ゆっくりと沈没してゆく日本。
これからこのボロボロの国の再浮上の鍵になるのは、依怙地でアタマの小さい「純粋な日本人」よりも、
死に物狂いで頑張ってきた外国人たちなんじゃないのかな。
納税の義務をはじめ、日本人と同じように生活している永住外国人から参政権を奪っているということ自体が考えられないことだ。
日本は単一民族で構成しているとか、神の国であるとか、根強い純血民族主義に基づいた排除思想が根本的におかしい。21世紀では笑い話だ。
多民族、多文化共生の国際国家に当然変わっていく時に、外国人を国から排除しようとする考え方はとんでもないと思う。
アジア市民という考え方、アジア全体がボーダレスになっている状況の中で考えるべきで、「参政権が欲しければ帰化しろ」というのは、ナンセンスだ。
文化というのは完全に理解しあえるものではないが、違いを認識することによって共生文化ができあがると思う。永住外国人が
地域社会にいることが必要で、地域社会を構成していく上での意思の形成に「在日」の人たちの力も借りなくてはならない。
環境問題などの住民投票でも投票権がないと聞いたが、住民として認めていないということは、一体どういうことなのか。
国籍の壁をなくすことによって、日本人と外国人との心の壁がだんだん解消されていくし、
お互いに人権尊重の意識が育っていくと思う。その意味で参政権は有効だ。
日本列島は日本人だけの所有物じゃないといって驚いたり、理解不能だとする人は世界中でもいないと思いますよ。
まぁ、日本のそこかしこに外国人名義の土地・建物などの【所有物】がありますし・・・
米軍基地なども日本列島内にあり、間違いなく日本人の【所有物】ではありません。
そもそも日本は資本主義国家で、外国人への日本列島内の土地・建物の【売買所有】を禁止する法律はありませんよ?
日本列島が日本人だけの所有ってどういうデマですかね?米軍基地を知らない人がいるのかな?
朝鮮半島も、北朝鮮はともかく、少なくとも韓国は外人籍による土地・建物の売買を禁止してないですね。
中国や日本人が韓国の土地を所有している人もいるので、韓国人や北京人?に言っても『だから何?』と言われるだけだと・・
ただ、福建省の人に農作物は生産者だけのモノではないというのは、かの地が共産圏であり土地の特に農地の所有権が
国家にあるためかなり気まずい、険悪な空気にはなるでしょう・・・・
中国において、所有権を気軽に発言するのは結構、勇気のいる作業ですよ。
アメリカでもイギリスでも、○○人だけの所有物なんて原則は聞いた事が無いですね・・・・・
逆に、アメリカはアメリカ人だけの所有物では無いって言えば「当たり前だろ?で何が言いたい?」と言われますよ
だから、みんなそう言っちゃうんですよ。でも自信の有る無しの問題なんです。自信があれば、もっと度量を広く持てば、
日本列島は日本人だけの所有物じゃないんですから、もっと多くの方々に参加をしてもらえるような、喜んでもらえるような、
そんな土壌にしなきゃダメですよ。<中略>私は仏教の心をね、日本人が一番世界の中で持ってるはずなのに、
なんで他国の人たちが地方参政権ひとつ持つことを許せないのかと。
少なくとも韓国はもう認めている訳ですよね。彼らが認めていて我々が認めないというのは、非常に恥ずかしいと思いますね、私は。
この歌を分析してみよう、
沖縄民族自決、沖縄人に主権を取り戻す、沖縄独立の歌、としてなら全く意味が通っている。
しかし、日本に主権を返せ、沖縄の領土は日本人の「物」だと本音を書きたかっただろう、
沖縄の領土は我らの(ヤマトの)物だアメリカから日本に所有権を移せと、
「我らは」沖縄人民でなければならない。
沖縄の領土は我らの(ヤマトの)所有物だと思っているヤマトンチューには沖縄人民に返せとはとても言えない
かといって当時は(復帰の数年前ぐらいまでかな)沖縄人基地従業員と公式に新聞などでも書いていたぐらいだから日本人の物だとも言えない。
若者の私には全くどうでもいいなこの問題海外に配慮するのは当然だろ?
おっさん連中の過剰反応にバロスw
公式掲示板とかよくあそこまでいえるよな〜垢停止させればいいのに運営
日本がしてきたことを考えればいくらなんでも過剰反応wwww
私を含め、多くの日本人たちはそれに対する明確な答えを持っていない。本来ならば、途上国の人たちができない
付加価値の高い仕事をこなすことで高い賃金を得るべきだ。しかし、そんな分野はどんどん少なくなりつつある。
日本人全体が、「日本人である」という利権に必死にしがみついて暮らそうとしている。利権にしがみつく者はいつでも保守的・防衛的
になる。なぜなら、自分がその報酬に見合う仕事をしていないことにうすうす気がついているからだ。どこか後ろめたいからだ。
日本人がいま内向きになり、まるで外国と切り離された世界にいるかのように振舞っているのは、そのせいだろう。
そして、必ず死んだ米兵はろくでもない埋葬の仕方で葬られる。捕虜を生きていても
、死んでいても粗略に扱うのは、太平洋戦争当時の日本人の行動様式であった。
確かに無差別の爆撃を行った米軍兵士は、一般の人からみて文字通りの「鬼畜」であったかもしれない。
しかし、捕虜として囚われの身となれば国際法上保護してやる義務が生じる。
汝の敵を愛することができないような、日本人の道義の退廃が、日本の大きな敗因の一つであることは、
終戦直後に東久邇宮総理の「一億総懺悔」論で言われたことであるが、その発言の趣旨はともかく、
一面ではそういう道義面において日本は敗北したといえるであろう。
在特会のQ&Aに総じて言えるのは、諸問題についてロクに勉強もせずに、
ただ自分たちの都合の良い情報をつなぎ合わせて書き立てているだけです。
彼らには議論などする気もないように思えます。
動画サイトに大阪のテレビ局(MBS)から在特会の桜井代表が
インタビューを受けている様子をカットなしで流しているものがありますが、
在特会に都合の悪い、記者からの質問に対しては全て論理のすり替えで、
逃げている様子が映し出されていました。
日本の戦後ナショナリズムが、醜悪で差別主義と直結した形でしかありえないということは、
アメリカが占領政策として、その意向と戦略によってでしか存続できなかった天皇制が、
そのナショナリズムの根本的な拠り所としてある以上、不可避なのだと考えます。
抑圧された民族や集団の、その解放のために思想や信条や宗教などを超えた連帯として発露する、
旧来的あるいは本来的ナショナリズムというものは、
日本の帝国主義を受け継いだ形で東アジア支配を発揮し続けているアメリカと、そのアメリカによって
戦略的共犯関係として存続した天皇制国家の中では存在しようのないものだといえますね。
オランダを含むヨーロッパ地域では、いま社会政策を転換しようとしています。
一つは便利な奴隷として移民を野放図に導入したことへの反省です。西欧の豊かな社会保障制度は、
移民が底辺労働を担ったゆえではないかという反省から、移民に頼らなくても自分たちでやっていける社会への転換が
模索されているのです。そこで「万人に無条件に付与される」権利から、相互に責任を果たす主体同士の「契約」へと転換が図られています。
もう一つは、移民を無権利状態に放置していたので社会統合が果たされなかったという反省です。勝手に生きろと放置し、
それで生まれる社会的落伍者を公的保障でケアするという、いわば場当たり的な政策のツケが、
イスラム系市民のゲットー化であり、怒りの蓄積であり、イスラム・カルトの進出につながったという分析です。
オランダのフェルドンク外国人問題・統合担当大臣は、移民を「ケアを必要とする」カテゴリーとするのではなく、
彼らの「自己責任」を重視し、コミュニティへの義務を果たすことを求めると述べています。
http://d.hatena.ne.jp/dondoko9876/20091114
「移民問題と参政権問題を混同している反対派」まったくその通りの論証と思います。ただ反対派の混同が知識不足によるものなのか、
意図的なものかも考える必要があるように思います。付和雷同しているだけの大半の人達は知識不足による混同でしょうが、
煽動している人達は別問題と知った上で、参政権反対をそのまま外国人の排斥運動につなげようと目論んで、
在日外国人は中国、韓国、北朝鮮の手先だ、移民は侵略の尖兵だ、そのような者たちに選挙権を与えれば日本は乗っ取られてしまう、
悉く追出さなければ日本の独立は維持できないと煽り立てて、参政権問題を移民問題と意図的に混同して、
移民否定をそのまま二世三世や、強制連行されてきた人達の子孫も含む在日外国人の排斥につなげようと目論んでいるように思われます。そ
のような目論見のもとで、在日外国人に地方参政権を与えれば、日本人は朝鮮人の奴隷になるとか、対馬は韓国に併合される、
沖縄は中国に売り渡される、などという地方参政権の付与くらいでは有り得ないことを、大声で言い立てているのではないでしょうか。
私は在日外国人ではないのでこの問題については関係ないと考えていましたが、今の反対を叫んでいる人達の言動を見ますと、
この人達に好きなようにさせていたのでは、日本は外国人を手酷く差別排斥して、その延長線上で国内の弱者や貧困者も
差別にさらされ、近隣諸国とはあらゆることで対立して紛争を起こし、国内ではそれに反対する者が在日の手先とか、
外国の工作員とかいったレッテルを貼り付けられて、何も言えな国になってしまうのではないかと思えてきます。
外国人の参政権問題は反対する人に反対と言わなければならないと考えるようになってきています。
ちなみ車で1時間ほどかかる隣町の工場は多数の不法入国したメキシコ人や中国人が働いている。(多少不潔な環境のため米国人は働きたがらない)
でもだからといって日本みたいに残業だらけでこき使うことはまずない。米国人と同じように扱われ、米国人と同じ給料をもらっている。
不法入国ではないが米国に来たばかりの中国人の知り合いもそこで2年ほど働き米国で今後生活するための基盤となる多額のお金を貯めたそ
それに比べ日本を見ると、研修目的で来日した外国人を奴隷のように扱い、育児休暇をとったつもりが会社をクビにされていたり、
ワーキングプア現象も大学卒、大学院卒の人など高学歴、高技術者の間にまで広がっている。そして私が今まで一緒に学んだ日本人と数十カ国に及ぶ外国人、
今まで一緒に働いた日本人と現在一緒に働いている外国人と性格や人間性を比較して自信を持って言える。 日本人の性格と人間性はおそらく
世界で最も陰険で悪質な民族の一つだと。 ちなみに現在の私の職場で働く外国人の国籍は米国人8人、インド人20人、トルクメニスタン2人、
スーダン4人、パナマ1人、アルジュリア3人、スペイン 2人。そして日本人は私一人。
うち外国人の正社員は私と私の直属の上司のインド人とパナマ人の3人だけだ。3人とも米国永住権所持者だ。他の正社員は米国人が6人だけ。
この言葉がなぜ重要になるかというと、日本占領下時代の3年半が、この350年の搾取時代よりも激しく困難な時代だった、
というところにつながってくるからです。日本の歴史教育で、太平洋戦争のことはあまり詳しくは取り上げられません。
受験の問題に取り上げられる箇所ではないからでしょうか。最近でこそいろいろな歴史教科書の登場でかえって
脚光を浴びるようになっていますが、実際の教育現場で子供たちが何を学んでいるかを言えば、
まだまだアジアの人たちを隣人として理解できていないのが実情でしょう。
日本との歴史的なつながりに関して、オランダ植民地下の350年間よりも日本占領下3年半のほうが酷かった、というのが、
インドネシアで行なわれている公教育で一番印象的に伝えられていることだとは、知っておくべきことだと思います。
僕は、こちらに来てはじめて知ったわけですが。市場で買い物をしていたとき、値段の交渉がうまくいかなくて、それじゃ買うのをやめる、
と後ろを向いたとき、売り手のおばあさんが「バッキャロー」と毒づいた言葉は忘れられません。戦時中の軍歌を
覚えている人たちもまだいますし、食料を全部取り上げられて、
そのあたりの草を食べて飢えをしのいだという経験をしてきた人たちもまだいます。そうした痛みを覚えているべきでしょう。
http://www.geocities.co.jp/missionindonesia/misiindone/02.html
ルンバンの町に長期滞在していた2002〜2004年の間、僕はよくSおばさまに誘われてあちこちに連れて行ってもらっていたのですが、
確か2003年の半ばにスラバヤに一緒に行った際、一度このトゥバンの食堂Rに入ったことがあるんですね。で、この食堂Rのオーナーは
80歳代の華人のおばあさんなんですが、Sおばさまが雑談がてらオーナーに向かって、僕が日本人だよと話したら、オーナーは突然
僕の前に歩み寄って日本の軍歌を歌いだしたんです!このおばあさん、小さい頃に日本軍政を直に経験しているので、遠い記憶として
まだ覚えていたようなんですね。でも如何せん歯がないものだからふごふごふにゃふにゃ、歌詞がよく聞き取れない(笑) それでも懐かしそうに
一生懸命歌うものだから、笑い話として覚えていたんです。
で、その食堂Rのオーナーの方も、僕が一度食事しただけなのに、Sおばさまが立ち寄るたびに、「あの日本人はどうした?」と聞いていたんだそうです。
・・・・・・というわけで、今回およそ4年ぶりに満を持して食堂Rへ。入店するなりSおばさま、店の奥にいるオーナーにむかって、
「おばあさん、あの日本人を連れてきたよ!」と(笑) そしたらオーナーが出てきて、またまたいきなり軍歌を歌いだしましたよ!! しかもしかも、
何と今回はしっかり歯が生えているではありませんか!!!!......っていうか入れ歯を入れていたので、
歌詞もしっかり聞き取れましたよ(笑) 「ウミユカバ〜 ミヅクカバネ〜♪」
インドネシアでは一般に、オランダ植民地期の350年に比べ、日本軍政期はわずか3年半と短いにも関わらず、
より過酷で辛い時期だったと語られていますが、記憶のされ方は人それぞれのようです。
http://tsudakoji.blog6.fc2.com/blog-entry-476.html
このような人種差別的発言によってひき起こされる抗議の叫びに対して、発言が誤解されたと弁明するテクニックがありますが、
これによって人の目を欺いてはなりません。国民としてのアイデンティティについての討論が(フランス)共和国の価値への
賛同を強化するどころか、憎悪と離反の要因であることは、もはや証拠をあげるまでもありません。しかし、本来、私たちの国は
共生の思想を育てることに取り組まなければならないはずです。
共生の思想はあまりにも壊れやすいものです。これらの用語によって提起された、結局憎悪と離反のほかに何も生み出すことに
できなかった討論を通じて共生の思想は弱体化されてはならないのです。
隠そうとする必要のないこの現実に直面して、「人々の表現行動は合法的である」というカードを持ちだすことは全く無益でもあります。
なぜなら、私たちの国でも、あらゆる大きな民主主義国でも、人種差別は一つの思想ではなくて、一つの犯罪であるからです。
この点において、各県庁によって実施されたこれらの討論の中で出た人種差別的発言は、公共空間では存在を許されない
思想の表現に国家が正当性を与えることになるので、なおさら重大な誤りなのです。
SOSラシスムはこの「大討論」から人種差別的言説が噴出したことをきびしく批判し、強く抗議していますが、この「大討論」に賛成する、
あるいは中立的な立場もあるわけです。「フランス人としての、国民としてのアイデンティティとは何か?それを持つことがなぜ悪い?」と
いう考えを持つ人はフランスにもいますし、どこの国にもいることは確かです。「反・ナショナリズム」、「反・ゼノフォビア」の人々と
思想と運動の重みにひときわ存在感のあるフランスも例外ではありません。
しかし、「国民としてのアイデンティティ」を「確立・強調」しようとすることの危険性、実際にそのようなテーマの言論や政策追求の場から
排他的・攻撃的・暴力的・人種差別的な言説が噴出する現実を知ると、そのような討論や「国民としてのアイデンティティ」重視論から、
私はできるだけ距離をおきたくなります。ほかの人が「国民としてのアイデンティティ」を肯定的に強調しようとするなら、
少なくとも、「よほど慎重にした方がいいですよ」と言ってあげたいですし、「国民としてのアイデンティティ」を
肯定的に強調することの危険性についてよくよく知ったほうがよいと個人的に強く思います。
いち在日コリアンです。
在日特権が云々というのを、汚らしい言葉で散々書かれていたので、差別を受けた経験はあっても特権を享受した記憶が全然なかったもので、
何の事を言っているのかと思っていたら、こんなことを言っていたのですね。
アホですねぇ。少しは頭使ってほしいですね。
まぁ、なに言うのも勝手ですけど、差別する自由がないことぐらいは分かってほしいものです。少なくともある程度の
想像力は使ってほしいものです。全然期待できないですが。
在日朝鮮・韓国人全体を「嘘つき」呼ばわりするレイシズム丸出しのコメントだなw
「在日特権」なんて嘘八百を並べ立てるネトウヨや在特会のことを言っているのかなw
ならば首相に就任するや否やそれまでの態度を一変させて村山談話・河野談話を
「ふしゅう」すると言った安倍晋三・麻生太郎は二人とも「嘘つき」ってことになるな。w
日本人の中でも非常に醜い部類に属する皇族たちが日本に君臨しているということは、やはり間違いだと思う。どう見ても明仁は醜いでしょう。
エリザベス女王と比べてみればわかります。その子や孫たちも、日本の皇太子よりは見た目が良いですね。
日本のブログなら削除されるか、提供会社からメールでイチャモンが来ます。
日本には言論の自由がない。率直に思ったことをネット上にも書けないのです。
日本のブログ会社やSNSを使っている人は、ネット会社の奴隷のようなものです。
325 名前:異邦人さん[sage] 投稿日:2010/01/08(金) 01:20:25 ID:lRnlr5j8
若いひとは日本に興味がない感じ
お年寄りはやはり日本の統治下時代を
良く言わないひとが多いと思った
元々リベラルが抑圧されてる国だから、
当然社会的地位でかなり違うのかもしれない
残念ながらインドネシアを愛するみんなが好きな
グサン氏は日本に対して好意的ではないようですね
そもそも、統治した側が評価されてるなんて口にしちゃあいかんと思う
かしこ
悪意でなく、年月が経って記憶違いを起こす事はありますよ。新選組の生き残りでも同じ事件について証言が違うことがある。
http://blog.goo.ne.jp/dongyingwenren/e/5e5edca96cbda64e3f18dc6feb89dbff 俺「へえ…。お爺さん、いまいくつなんです?」
爺「今年で七十七だ、確か。だがこの通り、身体も頭もピンピンしとる。まだ働けるよ」
俺「それは重畳です。ところで、当時はなぜマレーシアに移住しようと考えたんですか?」
爺「いや、実は日本軍が攻めてきてから世の中がいろいろと荒れとってな。
ひどいもんじゃった。…が、あんたは若いから戦争のことなんぞ知らんわな?」
俺「いや。歴史は好きな方なので知ってはおりますが…。何と言いますかその」
爺「はは(笑)。よいんだよいんだ。当時は生まれてもいなかった人間が気にすることじゃあない。
大事なのは現在だからな。マレーシアも中国も日本もお隣なんだから仲良くせにゃあならん」
しかし、勇敢な台湾人とやらは228事件に対してだけ大きな声を上げて、
過去に日本人が台湾で60万人を虐殺した事実に対しては向き合っていない!
この問題にも向き合わずに、台湾独立だとか笑わせるなよ。
学者の統計によれば、日本によって殺された台湾人の人数は60万人にも及ぶ。
台湾史上空前絶後の災難だと言っていいだろう。
大坪頂事件 30000人虐殺。
焦?年事件 30000人虐殺。
蕭壟大虐殺 27000人虐殺。
桃園三角湧/大? 24000人が斬殺及び焼殺。
台南西來庵大虐殺 18000人虐殺。
阿公店(岡山)大虐殺 11053人虐殺。
霧社大虐殺(全3回) 8000人虐殺。
宜蘭大虐殺 5000人虐殺。
後壁林事件 3473人虐殺。
苗栗事件 1200人虐殺。
http://ameblo.jp/jaya-abadi/entry-10015365935.html 独立記念日が近いとよく当時の戦時中の話が出る。「ごめんね、みんな〜」と私は言う。
日本軍が占領してたからね。
中国・韓国の反日感情がある中、ここバリ州に関しては反日はない。
60歳くらいのお爺さんに当時の話を聞けば、得意げに話をしてくれる。
なぜ反日がないか?
私が思うには、当時、日本軍が統治する前のオランダ軍が、かなりひどかったからだろう。。と思う。
日本軍は厳しかったけど、ちゃんと教育をしてくれたし、道路も造ってくれた。katanya・・・
オランダ軍は奴隷のような扱いで、何も残してくれなかった・・・
(元・警察官 スタマ(うちのスタッフのヒゲ男)の親父 談)
だから日本軍の統治がなかったら、我々は独立できなかったんだ・・gituloh。
さらにEU議会決議を見ると、その中には「“慰安婦”制度は輪姦、強制堕胎、屈辱及び性暴力を含み、障害、死や自殺を結果し、20世紀の人身売買の
最も大きなケースのひとつであり」という表現が見られる。戦時にとどまらず、日常の性暴力・人身売買という視点が含まれている。
日本軍が女性を「慰安婦」として動員していく際の主要な方法の一つが人身売買だった。政府首脳を含めて日本では、直接の暴力で
無理やり連れて行くことだけが問題であり、人身売買や詐欺で連れて行かれても問題ではないかのような暴論を平気で口にする。
このような日本社会が、今日においても人身売買された女性の主要な送り込み先の一つになっているのは必然だろう。
歴史認識と現状認識はメダルの裏表である。今生きている社会と格闘するとき、なぜこうなっているのか、どのようにすれば変えられるのか、と真剣に考えようとするとき、
歴史を振り返る必要がある。歴史学とは、過去を振り返ることを通じて未来を見ることである。日本では過去にこだわらず、振り返らないことが「未来志向」
だなどと言う人々がいるが、とんでもない暴論である。この間、日本では、人々の歴史意識の衰退が重要な問題として、指摘されてきている。自分たちに
とって都合の悪いことに対しては、いつまでも過去にこだわるなと言って切り捨てようとしながら、都合のいいものには、「伝統」だとか
「日本」などというものを持ち出して喜ぶ。このような態度は、あまりにもご都合主義だろう。
さらにいえば、歴史意識の衰退は、一方では自己に都合のよい 恣意的 ( しいてき ) な観念との一体化、(しばしばナショナリズムと結びつく)、
によって安堵感を得るか、内向化して自分の心に閉じこもるか、時には他者への排他的な攻撃性となって現われることもある。
食堂部門の未成年少女も売春を強要
安倍は従軍慰安婦問題について、「河野談話を継承する」と言いながら、「狭義の強制はなかった」などと屁理屈をコネている。
「軍による強制連行を裏付ける公の文書はない」というのが、安倍の主張だ。
ところが、ここにきて、軍による強制を裏付ける証拠資料がごっそり出てきた。東京裁判の際に各国検察団が提出して、
証拠採用された陳述書や尋問調書などで、林博史・関東学院大教授(現代史)が東大社会科学研究所図書館に所蔵されていた資料から
確認した。林氏は17日、外国人記者クラブで記者会見する。
「新ネタはこれだけではありません。インドネシアに開設されていた民間の慰安所が、旧日本軍の指示によるものだったことを示す
オランダの裁判資料も出てきた。フリージャーナリストがオランダの資料館から入手したもので、近く、雑誌に発表する。
その店には欧州系の女性が20人ほど集められ、店には売春部門と食堂部門があった。食堂部門の未成年少女も
売春を強要され、憲兵に逮捕、監禁された女性もいたという生々しいものです」(雑誌編集者)
こうしたネタが次々に炸裂すれば、当然「もっとキチンと調べろ」という声が出てくる。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1211359292
ベトナム政府はこの交渉の中で加害事実を隠蔽しようとする韓国に、次のように抗議したという。
「侵略者は『未来志向』といった言葉を使いたがり、過去を忘れようとする」
(韓国が小泉の靖国参拝を批判したことを挙げ)「この問題で日本を批判している韓国なら、我々の考えが理解できるだろう」
チベットやウイグルを侵略してる中共にも言ってやりたいね。
ミドルウエァ拡充してソースコード共有してでやっとこさ
一部分で360版を上回ってるかどうかってレベルだからね
PS3の限界を十に越えてるのが明らかだよ
井上さんは戦時中を振り返り「上官に対して絶対命令でしてね。モノをいうものでしたら拳が飛んできた。
戦争や作戦の良し悪しなど考えられる状況でありませんでした」と話した。広島の原爆投下や東京大空襲を耳にした戦時中と、
平和な時代になってから考えるのでは、やはりニュアンスが違うようだ。「今思うと、原爆投下も中国での虐殺もたいへん残酷です。
戦争中は、作戦上任務を全うするため、命令は絶対でした。図面上の作戦どおりには運びませんから、いろいろなところで無理が
あったと思います」。戦争という狂気な時代、国をあげて戦争している以上、残虐性は戦争から切り離せない。
白黒や善悪と簡単に線を引けるものではないようだ。
戦争が始まると、罪もなく無力な子ども、老人、女性たちの命が紙くずを捨てるように扱われる。平和な時代に、それらに
かかわった人を裁こうとすることは無意味ではない。だが、平和な時代の物差しが、戦時の出来事を裁くうえで
万能でないことを忘れてしまえば、その裁きも歪んだものになるリスクを抱えている。
http://news.livedoor.com/article/detail/1324005/
大東亜戦争開始直前、アジア、アフリカのほとんどすべては白人列強の庶民地であった。例えばスマトラ島を支配していたのは
オランダであった。スマトラ島北端の港町バンダ・アチェには十六歳から住んでいたある老人から直接聞いたが、
ここでのオランダの支配は、残忍きわまりないものであった。男子の多くが性病で鼻骨が露出したまま労働に携わっていても、
衛生教育ひとつしなかった。様々な毒虫に刺されて化膿し、人々が血や膿を流して働いていても、薬一つ与えなかった。
その一方、オランダ人だけは完璧に衛生的な環境を作り、その中で文化的な生活をエンジョイしていたと言う。そのためであろう、
日本軍が入ってきたときの歓迎ぶりは、まさに地鳴りがするほどのものだったそうである。
やがて日本軍は敗退するが、その後には再びオランダ軍が戻ってきた。人々はこのオランダ軍と戦ってインドネシアの独立を勝ち取るのである。
http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/principal/180301.html
元CIA顧問の、チャルマール・ジョンソンは言う。
日本は第二次世界大戦の侵略行為に対して謝罪をしていない、といまだに批判されている。
しかし、日本は謝罪した、9条こそが謝罪だったのだ。
しかし不幸にも、アメリカとの同盟関係のせいで、その謝罪はしばしば蝕まれてきた。
そしていま、9条を破棄するなら、謝罪を放棄したとして、東アジアに重大な緊張をもたらすだろう、と。
個人的には、従軍慰安婦のことについて、いまさら頭を下げることが謝罪ではない、と思う。
スマトラ沖地震のとき、インドネシアの老人たちは、かつて武器を担いで駐留していた日本の軍隊が、
今度は、水と食料を抱えてやってきたことに、とても驚いたという。
私達の子供たちが、日米同盟の名の元に武器を抱え、ふたたびアジアのどこかに侵攻するのだろうか?
黒い目をした日本人は、アジアが平和のなかで安定し、発展することをなによりも望むべきではないだろうか。
立ち止まって、考えてもいいと思う。
あなたは2009年コメント欄において、見事なネトウヨぶりを発揮されました。致死量に達する赤恥を掻きながらも、
嬉々としてその「低脳ぶり」「レイシストぶり」「偽善」「品性下劣さ」を自ら晒し、またその垂れ流す「稚拙な」「自己矛盾だらけで」「没論理な」「負け惜しみ」に
満ちたコメントは、他の追随を許さぬ醜悪さであり、正しく、ネトウヨとして「模範的存在」と申せましょう。ここにあなたの「バカ」を讃え、
今後も当ブログにおいて、ネトウヨの「馬鹿さ加減」を広く世間に知らしめるための、ご活躍を期待し、表彰致します。
典型的なネトウヨの言説をこれでもかと垂れ流しておきながら「僕はネトウヨではない」。
さらに、実生活で必死に「正体を隠し」「己を偽る」姿をズバリ指摘されると、仕舞いにはキレたのか、
完全にその本性を現わにし、始めたのが「派遣労働者差別」「老人差別」の限りを尽くした腹いせの「妄想的暴言」
「人肉食」等「異常人格」「犯罪者性」「変態性」丸出しのコメントの数々は史上最悪!と言っても過言ではないでしょう。
「醜劣」なコメントを長々と書き込みしてくる「ふてぶてしさ」「鉄面皮」には
開いた口が塞がりませんでした。今回の三者の中では最も「犯罪者」の素質を持ったネトウヨだと思います。
同じような無作法をしていても、インド人ならああインド人かと思うだけかもしれないが、
自分と容姿の似た連中がしていたら許しがたいと思うだろう。
言い尽くされたようなことだが嫌中嫌韓の出所は大方この辺にある。
白人ならもっとひどい無作法をしていてもあれが国際標準かと思ったりするのが日本人。
日本人が嫌われているのは、確かに日本軍のせいでもありますが、その後の日本の態度によるところも大きいと思います。
経済的には発展しているのに、煮え切らない態度や靖国神社参拝、教科書問題、領土問題、戦後補償についてなどなど、
問題は数え切れません。おまけにそのことについて日本人があまり関心がない、知識がないことに、わをかけて腹がたつんでしょうね。
学校の教育では戦争のことを教え込んだり、外国製品の非買教育なんかをやるもんですから、中高校生は
その影響を素直に受けている面もあると思います。ですが、ほとんどの韓国人は日本に好意的です。英語についで日本語は
人気のある語学です。戦争中に日本語を習ったという老人たちは日本語で話せることが自慢気のようでもあります。
従軍慰安婦、強制連行、強制労働で検索してみてください。日本人以外の著者もすぐみつかります。
グアムはこれまで日常がだらしなかったのでいい刺激になったし、その規律を守るために罰則を
与えることに違和感を誰ももっていなかった」と肯定的にとらえている人もいたのだ。不思議である。おそらく兵隊は単に暴力を
振っただけではなくその理由も述べていたのであろう。そしてその反面、一人の人間として民間人と親しくもしていたのだろう。
子供が兵士たちと食べ物をはじめ物々交換していた話はよく聞かれる。末長常太郎連隊長の部下たちは海岸の対面にある
アリファン山の中腹、伸びやかな平原丘陵にコンクリートで固めた(地元民が砦といっている)要塞をこしらえた。
彼はそこに旗を立て遠くに布陣する味方に対して敵の状況を知らせていた。その要塞は他の戦地と違って総て日本軍人によるものであった。
連隊長は地元と無意味な摩擦を避ける努力をしていたのだ。
7月11日のサイパン陥落の報を受けると連隊長は住民代表を集めて「いよいよ決戦の時がきたようだ。敵上陸前にあたってお前達は
この場所を捨て、速やかに奥地に避難することを勧める」といい放った。「ここに留まれば敵軍と我が軍の板挟みになることが予想される」から
撤退を勧めたそうだ。住民は抵抗することなくその指示に従ったという。「その後、避難した壕内で住民が殺される、という悲劇があったが、
儂はあの日本人の判断は正しかったと思う。なぜならこうして今でも儂達は生き延びているじゃないか」と戦争体験者である老人がそういった。
粛々と避難する住民と対照的に日本兵は奮い立っていた。
やがて7月21日未明、僅か数千メートルも離れていない海上から出撃した米海兵隊およそ9.000名の海兵隊員は目前のアガット村目指して上陸し、
守備するおよそ3.000名の日本軍守備隊と激しい戦闘を開始した。
しかし死守の使命を帯びていた末長連隊長と旗下の部隊は「今ここで敵の攻撃を食い止めなければ益々勢いをつけさせることになり」とさらに
「既に討ち死にしていった兵士の無念を思うとこのまま撤退は偲び難く」と胸中を述べて「全軍夜襲総突撃をしたい」、
とフォンテヒルで指揮を執っていた高品毅師団長に申し出る。
http://blog.livedoor.jp/cpiblog01241/archives/cat_10028155.html
アジア解放と喚きながら、
6年後に独立を確約されたフィリピンや
独立国の中国・タイに進出し、インドネシアが「独立させてくれ!」と言っても撤退しないクズ侵略軍
解放するなら、台湾と朝鮮と南洋にジャップ語や天皇信仰を押し付けるなよ
東南アジア人にも神道を強制させたりね
旧ジャップは全然「他者を尊重する」ことができてないな
ちなみに、東南アジアの文化では『顔を殴る』行為は『ぶっ殺されてもしょうがない』侮辱行為。
日本軍が現地の風習を理解せず、日本軍内の虐待的非人道的な『ビンタ』を
現地労働者に対して行ったことが、非常に恨みを買った。
今でも老人の間では『日本軍=ビンタ』であり、虐殺や餓死よりも憎悪されている。
2008年、日本に滞在する外国人登録者数は221万人を超え、そのうち中国人は約65万人で、外国人登録者数全体の
約3割を占める。これに対し、ブロガーは「中国人の地位が徐々に重要視されるようになっている」と語った。
続けてブロガーは、日本メディアが外国人犯罪を必要以上にクローズアップし、吹聴したことによって、
日本人は「外国人=犯罪分子」という誤った認識を持ってしまった、とメディアを批判。また、日本人が外国人を「外人」と呼ぶことに対し、
ブロガーは「極めて侮辱的」と批判し、外国人がどれだけ努力しても、日本人は外国人を「身内」として扱わないと指摘した。
ブロガーは日本の『外国人参政権』について、「さまざまな方面からの積極的な宣伝によって、
永住外国人でも日本の政治に参加する権利は持つべきでないという障壁が形成されている」と指摘し、
「外国人が和服を着るのは自由だが、外国人が和服を着たまま入ってはいけない場所が存在するのと同じだ」と結んだ。
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=1116&f=national_1116_001.shtml
2008年、日本に滞在する外国人登録者数は221万人を超え、そのうち中国人は約65万人で、外国人登録者数全体の
約3割を占める。これに対し、ブロガーは「中国人の地位が徐々に重要視されるようになっている」と語った。
続けてブロガーは、日本メディアが外国人犯罪を必要以上にクローズアップし、吹聴したことによって、
日本人は「外国人=犯罪分子」という誤った認識を持ってしまった、とメディアを批判。また、日本人が外国人を「外人」と呼ぶことに対し、
ブロガーは「極めて侮辱的」と批判し、外国人がどれだけ努力しても、日本人は外国人を「身内」として扱わないと指摘した。
ブロガーは日本の『外国人参政権』について、「さまざまな方面からの積極的な宣伝によって、
永住外国人でも日本の政治に参加する権利は持つべきでないという障壁が形成されている」と指摘し、
「外国人が和服を着るのは自由だが、外国人が和服を着たまま入ってはいけない場所が存在するのと同じだ」と結んだ。
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=1116&f=national_1116_001.shtml
華人は、外から中国人として叩かれるときには「中国人」として結束する。これは歴史的教訓からだろう。だから中国共産党も滅ぶことはないと思う。
しかし外からの叩きがなくなるとすぐに内部分裂をはじめるのだろう。だから、中国人叩きをやっているネトウヨは本当のバカか、中国共産党の走狗か。
マレーシア華人は、他民族との関係では「中国人」としての立場をとるが、こちらが「中国人」の敵でないとわかると、逆に「中国」に対してかなり厳しいことを
言い始めることがある。延々と続くことも。これは何を意味するか。「中国人」で括って「シナ人叩き」をしているネトウヨは本当にバカである。
こういう人に何を言っても理解できないでしょう。
せいぜい10人ほどの人としか接触してないのに、
あたかもそれが全てのように言う人。
自分の意見なのに「みんなが言っている。」とか言う人。
小沢一人の悪行を民主党全部と決めつける人。
海外で盗難にあったら、その国の人全部が泥棒であるかのように言う人。
20年5月末ラブハ派遣隊は全員カウ司令部に合流を命ぜられて、折角親しくなった住民達とも
別れを告げ何艘かのカヌーに分乗してカウに向かいました。
この頃既に司令部の上層部にはハルマヘラの今置かれている環境が判っていた様でした。
26特別根拠地隊は解散となり、改めて29警備隊となっていました。
司令官の一の瀬中将は既に居ず、藤田大佐が警備隊隊長でした。
つまりカウ湾の喉元に当たる地形の所にモロタイ島と云う小さな島がありますがこの島は
2ヶ月程前に米軍の猛攻を受け300名程の守備隊は全滅していたのです。
もうハルマヘラには航空機は勿論船舶も有りません。
だからハルマヘラ島に何万の兵が居ようと米軍にとっては相手にするだけ損な存在となり
今や米軍は主力をヒリピンに向けており、ハルマヘラはお構いなし、と言う訳です。
だから激戦地はハルマヘラをとっくに通り過ぎてヒリッピン付近だったのです。
http://tamoyandaa.blog.so-net.ne.jp/2007-10-04
「歌でも歌おうか。歌ってくれませんか、みんなで」
雰囲気で言葉は伝わっているようだ。日本語がほんの少しわかる村の長老は「さ〜ら〜ば、ラバウルよ〜」と『ラバウル小唄』を口ずさんでいた。
締めは「阿波踊り」
ともあれ、ここは“ビジター”の僕が最初に一発かますべきだろう。というわけで、阪神タイガースの歌『六甲おろし』を歌った。
今や日本では歌う人は少なくなってしまったが、ここハテタバコでは「日本で一番有名な歌です」と胸を張って紹介した
村人と大合唱…とはいかなかったが十分ウケた。
この『六甲おろし』を合図に大交歓会になっていった。桂文福師匠のマネをしてハテタバコのことを歌詞に盛り込んで
『河内音頭』を歌った。次は、ちょうど出ていた満月を指さして『炭鉱節』。母は『さくらさくら』。ビートルズならみんなで歌えるかなと思って
『ヘイ・ジュード』を歌ってみたがみんなイマイチ知らなかった。やっぱりこういう状況で盛り上がるのは“ジャパニーズ・ブルース”
“ジャパニーズ・フォークソング”である民謡や音頭なのだ。
ハテタバコの人たちもお返しに歌ってくれた。「♪カワイイあのコは誰のもの? きっとあのコはひとりもの」というような歌詞の、
インドネシア人ならみんな知っている歌を大合唱してくれた。
http://data.livex.co.jp/okonomi/9511/trip2.html
日本兵はジャングルの中で、様々な人たちを傷つけていた事を実感しました。
そこで、白人用の船も作りました。
現地人の人達はどうしたらいいのかと思案していると、茶色っぽい民族衣装 丁度作務着(サムエ?)のような服に頭には同色の三角帽子?の
やさしい顔をした男性が現れました。
後で友人に聞いたところ、「シャーマン」と言うことでした。
その彼が「私もお手伝いいたしましょう」と言ってくれたんです。
2種類の船と天の渦が出来上がりました。
兵隊さんは日本兵と白人を船に誘導し、シャーマンは現地人を誘導して下さいました。
滞在中は毎日誘導しました。
その間に、友人を通して様々な事実を聞きました。
日本兵の行進は約三千人で、敵の本拠地に到着した人は数人だったこと。
現在では死の行進と呼ばれていること。
ジャングルの中の行進中に、現地人の方を部落ごと焼いてしまったり・・・
捕虜になるのを恐れて日本人以外はみんな敵と勘違い・・・
等など、辛いお話を聞きました。
でも、ボルネオの人達は日本人を恨んではいないのです。
当時日本兵が到着した場所に「メモリアル」を建設して今でもお祈りをして下さっているんです。
ボルネオ人曰く、「日本人が悪いのではなく、戦争が悪いのだから」と話して下さいました。
ありがたいことです。
私はボルネオの為に出来ることがあれば、協力していくことを心に決めました。
http://8536.teacup.com/sirogane/bbs/410
インドネシア人はオランダが好きだと思うよ。
だって日本のほうが貿易量も多くて、援助額も圧倒的に多いのに
オランダ留学が日本留学よりもはるかに多いし。
建国指導者のスカルノの娘(デビ婦人の子供)も、日本留学したけど
オランダ人と結婚した。
インドネシアで反日暴動があったことを知ってる?
私は老人から日本軍の占領時代について何度も攻められたことがあるね。
過去の傷はまだ癒えていない。ほかのアジア諸国についても癒えることだよね。
アジア諸国の小中高の社会科教科書には日本兵に拠る虐殺の写真と記述が記載されて全国民は過去より事実を伝えられていることを
知っている?
表層的には親日であっても、情況次第では憎悪が剥き出しになって反日暴動に至るような素地はあるんだよ。
そのことを改めて教えてあげるよ。
表層ばかりみて、人々の奥底に眠るものを知ろうとはしないよね。
ネトウヨの歴史賛美の宣伝ばかりを間に受けて、事実というか、ほんとうの現地の人々の奥底にあろうというものを
知ろうとしないのは馬鹿だよ。
555 名前:可愛い奥様[sage] 投稿日:2010/01/15(金) 18:22:27 ID:pGtpprQI0
ジャカルタあたりだと日本人が肩身が狭い思いをするのは、テレビのニュース
や特別番組で戦争時代のフィルムが流れる日本の終戦記念日ぐらい。
バリ島あたりは日本人兵士が農業の指導をやっていたり、観光客も多いからあまり
険悪ではない。
むしろイネ人(インドネシア人)より、元宗主国のオランダ人(元インドネシア
在住者とその子孫)のほうが日本人に虐待されたから、日本人に対する憎悪の念が
強く、近年も天皇がオランダに行ったときに反日デモがあったよね。
法制化の議論は2001年から続けられてきたが、ラトビアなどバルト3国がスターリンによる粛清もジェノサイドとして
扱うよう求めたため、合意が遅れていたと書かれている。今回、全会一致で承認された法案は、戦争犯罪等については
国際法廷で認められたもののみを対象としている。
法律によって差別が根絶できるとは私は思わないが、差別や偏見を煽ったり戦争犯罪を否定しながら「悪いことをしている」と
いう自覚が全くない人への意識喚起にはなるのかもしれない。日本でもこういう法律があるといいなと思うけれど、
首相からして戦争犯罪に無反省な人なので、それはヨーロッパ27か国が合意するよりもあり得ないことなのだろう。
ドイツの裁判所は戦争犯罪等について普遍的管轄権を認めている(国外での犯罪にも司法権が及ぶと考えている)ので、
この法律ができると、理論的には、日本の悪質なブログや安倍首相の発言もドイツで提訴できるようになるのではないかと思う。
胸に手を当てて、心当たりのある人は、私がドイツ語を勉強して告発状を書くのを、気長に、首を洗って待つがよい。
http://eunheui.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_d26f.html
同和と在日がくっついてるっていうのはものすごく納得。
というのも大学からの友達が同和と在日のハーフだから。
元は同和がベースなんだと思うけど両親の親(友達からみれば祖父母)
の片方が在日or韓国人。親は民潭とか水平社にも入っているぽっかった。
友達はそのことを隠すことはしなかった。京都出身だから周りには
一発でどこの出身か分かるから本人にすれば嫌な思いもたくさん
してきたみたい。でも、前向きな子だからこの話しもさら〜としか
言わないし日本人が恨めしいなんてことも一切、聞いたことない。
(まぁ、パスポートも見てるけど完全に日本国籍だし。)
実家から離れたのもそういうしがらみから開放されたかったのも
あると思う。まず、地元じゃ結婚するのも難しい事実があったんだろうね。
結局、結婚も日本人としている。でも自分と同じ境遇の子は日本人と
結婚したくないって言う子も多いよとはチラッと言ってた。
こういう子だから別に反日発言や行動をするわけじゃないし他の日本人
と変わらない良い友達だと思うから自分はいまだに仲良くしているよ。
でも親は民潭や水平社と関係があるぽいからその辺の利権を受けている
節はあるんだよね。他にもよく言われる在日特権のまつわる噂は彼女の口から
昔、聞いたことがあるものばっかり。
おかげで自虐史観から目覚めたら在日への過保護な政策へすぐに疑問を
もてましたw
既に何年も前に、EUでは「人種差別や他民族排斥を扇動するような言動を犯罪として扱う法案に合意した」というのに、
日本ではこの体たらく。
管理人さんの説明より遥かに低い次元で、地方参政権にごちゃごちゃ文句付けてる人は単に、私はレイシスト
であると告白してるだけにしか読めません。
そんな人達が「民主主義」だの「法律」などという言葉を使う事自体が笑い話でしかないでしょう。
この件に関する民主党の進め方は私も少し稚拙だなと思います。先に書いたようなレイシストに対する厳しい規制も
同時に行わないと、施行する際に「在特会」などが性懲りも無く跋扈する事が危惧されます。
陸山会土地問題ですが、小沢が本気で蓄財するつもりならあんなもんじゃありません。皆そこのとこを考えるべき。
陸山会土地問題は、あの程度のことは他の政治家にもあります。それに、04年のことが今ごろ出てくるのもおかしい。
マスコミの検察リーク情報に注意すべきです。マスコミは会見独占権を手放すのが死ぬより怖いので民主叩きに力が入ります。
2004年のことが今になって騒がれていることにものすごく違和感を覚えます。
国会開会を18日に控えてこんなことやるなんて、十分に政治的。検察がしゃしゃり出てくるような国でいいのか?日本は小沢ではなく検察が支配しているのが実態だ!
パレパレにやって来たのは日本軍の諜報員として、 現地の情報を集めるため。 結婚も菓子売りもすべて、 カモフラージュのためだった。
今まで嘘をついていて申し訳なかった、 これまでよくしてくれたお礼をいいに来た、 と頭を下げたということです。 私がどうしてその時のことを覚えていないのかわかりません。
そして、 その話が本当かどうかも分かりません。 でも、 姉が嘘をつくとは思えませんから、 本当なのだと信じています。
話し終えると老婆は、 遠くを見つめていた目をぼくに向けて、 冷めたお茶をすすめてくれた。 ぼくを送りに門まで出てきた老婆は、 別れ際に 「またいらっしゃい、
こんどは日本のお土産を持って来てね」 といいながら、 少しいたずらっぽく笑った。 偶然老婆に会ったぼくは、 手ぶらで家にあがりこんでいたのだ。
ぼくがその小さな港町を訪れるずっとずっと前のこと、 一人の日本人トゥアン森はこの町で暮らした。 皺くちゃだらけの老婆は、 記憶をたどりながら、
トゥアン森の話を今ぼくに伝えた。 したことがありません。
ですが、 その夜トゥアン森はたいそうお酒に酔っていたのです。 それに大変驚いて、 迷惑をこうむったのが私の家族です。
気分が悪くなったトゥアン森は私の家の前を汚し、 もう二度と家に来ないでくれ、 と言い渡されたと聞きました。
そのことがあってからトゥアン森は私たち家族の前からすっかり姿を消してしまいました。 あまりの恥ずかしさに、 見せる顔がないのだろうと私たちは話していました。
私が覚えているトゥアン森のことはここまでです。 しかし、 後になってトゥアン森について私の姉から聞いたことがあるのです。
日本軍がパレパレにやって来て間もなくのこと、 立派な馬に乗った軍服姿の日本人が私たちの家にやって来たというのです。 見るとそれは、 駄菓子売りのトゥアン森ではありませんか。
馬から下りたトゥアン森は、 恭しく家族に挨拶をして自分の本当の仕事について話したといいます。
パレパレにやって来たのは日本軍の諜報員として、 現地の情報を集めるため。 結婚も菓子売りもすべて、 カモフラージュのためだった。
http://www.sakai-journal.co.jp/186/04.htm
パレパレ港
パレパレはマカッサルから北へ約130km の位置
にあり車で4時間の行程である。途中の道沿いに水
田、エビ養殖、漁師街と素朴な景色が見られる。
パレパレ港はマカッサルに次ぐ第2の港で、海岸
沿いに市街がありその後ろにゆるやかな丘が広がっ
ている。港の丘の中腹には日本軍の壕が残っていた。
堂垣内先生は昭和21年5月18日、この港から日
本に向け帰国した。
パレパレは、中部の観光地トラジャを訪れる人々
の中継地点で、丘の上にはマカッサル海峡を望む見
晴しの良いレストランがあった。
http://www.ipej-hokkaido.jp/ch/ch113/p015.pdf
メモリー・オブ・セレベス〜洋画家 庄司栄吉の太平洋戦争〜
http://antiwar.tuzikaze.com/serebesumovie.html 太平洋戦争中、インドネシアのセレベス島に帝国海軍派遣の美術教師として勤務していた庄司栄吉氏が再訪をし、
教え子と60年ぶりに会い、彼らからいろいろ話を聞いていきます。
出てくるお爺さんお婆さん達は皆、楽しそうに日本語の歌を歌ったり、思い出話をして、「庄司先生は本当に優しかった、
怒ったことは無かった。他の日本人からはバカヤローといわれたりしたけど」などと笑いながら話していました。
以下も教え子達の話です。(最後のジョニー・パントウ氏の証言は上記のURLから予告ムービーへ行けば見られます。
他の証言は私の記憶を頼りに書いています。)
「日本教育から規律正しさを教わった。それは後々まで私の人生をよりよいものにした。」男性
「日本精神を教わった。そのおかげで戻ってきたオランダ軍を追い返せた。」男性
「学校は楽しかった。当時こどもはみんな学校に行きたかった」女性
教え子の中には、日本軍に家族を殺された人もいます。
「父と兄は日本軍にスパイだと言われて処刑された。日本が大嫌いだった。日本のことなど知りたくもなかったが、母に日本学校の寮に入れられた。
当時の事は私のビューティフルメモリーだ。」女性
「兄は日本軍に殺された。父もマナドで殺された。しかし、私はその苦しみを乗り越えて大きくなった。アジアはひとつと言う想いで。
だからセンセイ、聞いて。私の兄と父は日本人に殺されたけどそれはもういい。アジアが立派に成長したのだから。」男性
(ジョニー・パントウ、インドネシア在住)
永住外国人に地方選挙で投票する権利を与えることに賛成する人が60%にのぼることが、
16、17日に朝日新聞が実施した全国世論調査(電話)の結果わかった。「反対」との意見は29%だった。
政府と民主党は、地方選挙権付与法案を今国会に提出することで合意している。民主支持層では賛成が
70%とさらに多く、反対は23%にとどまる。内閣支持層でも賛成70%、反対23%だった。
自民支持層では賛成と反対がともに45%で並んだ。自民党内では反対意見が優勢だが、
支持者の意識とは必ずしも一致していないようだ。
世代別では、30、40代で賛成が7割台なのに対し、60代では54%、70歳以上では37%にとどまる。
http://www.asahi.com/politics/update/0118/TKY201001180431.html
彼女の日本語は日本語覚えたての人のようだったけれど、意味は通じるし、ひと昔の言葉を使っていらっしゃって、とても丁寧だった。
彼女の人生は、私にとってとても興味深かったので、色々と質問してみた。
私 「旦那さんと結婚したのは何歳の時ですか」
おばぁちゃん(以下お) 「18歳の時。だからジュウクヨンジュウサンの年ね」
彼女は、西暦を千九百とは言わずに英語形式で日本語で話した。
私 「その時はどこに住んでいましたか」
お 「ここ。おじいさんのお父さんとお父さんの妻よったり(4人)と私とおじいさんで暮らしていました。おじいさんは最初、
私のいとこと結婚しました。でも、いとこが死んで、私と結婚しました。」
なんとも複雑な人間関係
私 「昔何をしていましたか?」
お 「先生。戦争の時は日本軍の兵隊さんが来て、日本語を教えた。その時私も字引きをみながら、晩に勉強し、朝教えていました。」
兵隊さんなんて、第2次世界大戦の時の話らしい。それにしても字引きなんて地引網かと思いました。
私 「お母さんから日本語を教わったのですか?」
お 「お母さんと近所に住んでいた日本人たくさんいて、お母さんいつも平田さん、原田さん、池田さんの家に朝連れて行って、
晩までいました。そこで日本語を話しました。でも、お父さんとはマレー語で話しました。」
私 「いくつの言葉を話せますか?」
お 「日本語、マレー語、英語、アラブ語は聞けますでも話すことは出来ません。でも書くことはできます。それと支那語も聞くのは分かります。」
http://kenloo.com/lisu/malay9.html
http://orange.zero.jp/kyosei.mc1/war.htm 日本軍による空港建設に従事した老人
アジア太平洋戦争時、3年強にわたってサラワクを占領した日本軍は、サラワク各地に飛行場を建設した。多くの人々がこの労働に借り出され、
強制的に労働を強いられたという。この写真の老人から当時の話を聞いた。まず最初に彼は日本軍がつくった学校に強制的に入れられたが、
坊主にされ、日本語を強制され、言うことを聞かないとビンタを食らうという状況に我慢できずに逃げ出した。
その後日本軍に雇われ、シブという町の飛行場建設に従事した。当時耳にした軍歌や「バカヤロー」ということはを今でも覚えていた。
「日本軍の指導に対し、全インドネシア青年を代表し、血を捧げてお礼申し上げる」
と自決しました。
ラデン・アブドル・カムリ。 父はマドラ島の郡長でした。
カムリは日本軍の進駐に感激し、志願して憲兵補に採用されました。
出身地のマドラ島はバリ島の近く、スラバヤの対岸にある島です。
ここの島民は九州の松浦水軍の「松浦」が「マドラ」となったと言われるくらい情熱的で勇敢でした。
貧しくても名誉や信義を重んじ、たとえ暴風雨の中でも平気で船を出す勇気の持ち主です。
それだけに、同じアジア人としてあれほどの大戦争を戦う日本への親近感と憧れが強く、
進駐した帝国軍人と島民との間には熱い友情が生まれました。
カムリはマドラ人の典型とも言うべき青年で、日本語の上達も早く、
日本の軍人たちから特にかわいがられていました。
当時、志願して兵補として採用されたマドラ人は6人でしたが、
帝国軍人とは兄弟のようなもので、よく「死なばもろとも」と言う言葉を互いに交わしていました。
http://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/50054482.html
「1941年12月8日」。授業で「この日は何の日?」と尋ねることがよくあります。
本校は中高一貫校のため、中学生にも高校生にも聞く機会があるのですが、きちんと答えられる生徒はあまり多くはありません。
これは、本校に限ったことではないのではないかと思っています。この日は、いわゆる「旧日本軍によるハワイ真珠湾攻撃が行われた日」です。
一部ですが、回答できる生徒もこのことはよく知っています。
しかし、「旧日本軍がマレー半島北東部のコタバルに上陸し、背後からシンガポールに迫り攻略を試みようとした」
ことはあまり知られていません。その後、マレー半島においては旧日本軍による「華僑虐殺」が重ねられました。
ある村を訪ねた際、その被害者の人たちから話を聞く機会がありました。一人のおじいさんは、
「日本の軍人が私のことをまるでサッカーボールのように蹴りまくった。そのせいで体が不自由になり
松葉杖なしでは歩けなくなった」と悔しさをにじませながら語りました。また、あるおばあさんは、
「子どもを宙に放り上げられ、銃剣で串刺し状にして殺害された」と涙を流しながら話してくれました。
戦争では、想像を絶する残虐な行為が展開されるのかもしれません。
私はそれまで知ることのなかった事実を耳にし、大きなショックを受けました。
正直、この事実を事実として受け止めるのに、少し時間がかかりました。ただ、「この事実と向き合い、
歴史的事実から学び、同じ過ちを決して繰り返さない社会を形成していかなければならない」と考えるようになりました。
「社会科の教員の道」を最終的に選択したのは、教育を通してこの事実を伝えていかなければならないと考えたからというのが
理由の一つとしてあります。もちろん、授業をする際には、見方考え方が一方に偏ることなく、
また、感情移入しないように気を付けています。あくまで客観的に事実を伝え、生徒たちがどう考えるかが大切だと思います。
http://hensyukouki.blog104.fc2.com/blog-entry-61.html
日本語を話すおばあさん(1)
2007.03.15 Thursday
そのおうちは道路から少し中に入って森の中にありました。とっても古いお家でおじいさんとおばあさんが
二人で住んでおられました。一緒に行ったお友達が中国語で話すと、中に入って、といってくださいました。
中は土間になっていました。そのおうちは築80年以上だそうです。奥さんは「ここに昔日本人が住んでいたんだよ。」
といわれて、びっくりしていると、奥さんは今70代で6歳のときに日本軍が来て、そのおうちを占領したそうです。
でもその日本人はとってもいい人だったと言っていました。日本語をいろいろ教えてもらったよ。
いまでも「ありがとう」は覚えているといっておられました。戦争中、日本軍がこんな田舎にも来たと聞いて、
びっくりしました。
http://blog.samasama.chu.jp/?month=200703&page=1
島の中にはラハシアさんの生家があり、氏の写真や蔵書が保管されている。島の大半は森になっているが、海岸沿いにずっと歩いていくと30分ほどで
島を一回りできそうだった。ラハシアさんは森の中を歩きながら、「この森の一部を落花生の畑にしてみようかな」と言って悪戯っぽく笑った。
実はこの話には前置きがあり、氏がまだ若かった頃にマナドを侵略してきた日本軍の将校が人々に対して「我々は諸君がオランダから独立するのを
助けにやって来た同志なのだ!」と演説したのでいったん感動を覚えたのだが、その後ラハシアさんが仲間たちと一緒に好物の落花生を食べていたところへ
若い日本兵がやって来て「貴様たちは猿と同じだな!」と怒鳴りつけられたので、すっかり幻滅したというのである。
http://d.hatena.ne.jp/HelloseaWorld/20061222
520 :
農NAME:2010/01/29(金) 14:13:11
相談になるのですが、真剣なので助言してください。
うちの旦那(23歳)は現在住友金属工業に努めています。
旦那が住金に努めて1年近くなりますが、
私が三交替の夫と生活する辛さを痛感してしまい、
このまま今の生活を続けていく自信がありません。
そこで、私(26歳)の祖父母は代々の農家でみかん畑を(メイン)で営んでいるのですが、
住金を退職してそちらを手伝いならが生計を立てて、後々は後を継ごうと、
さみしがりな私には収入が少なくても一緒に仕事して
少しでもたくさん一緒に居られる生活が幸せだからと旦那に相談しました。
旦那的には収入や待遇のいい今の仕事を辞めるのは抵抗があり、
農業でやっていける気がしないようですが、
現に私の祖父母は子供を二人育て上げましたし、
うちは母子家庭なので、私達(弟と私の2人)の為にも援助してくれたはずですから、
裕福とはいかなくても人並みの生活ができると思うのですが?
私の考えは甘いのでしょうか?
ちなみに結婚して8ヶ月程ですので子供はいません。
一度退職したら後戻りできないのでこの選択は容易できません。
長文になりましてすみませんが、どうか相談に乗ってください。
バーカ
ある役所のおっちゃんら(六十前のプリブミはん)、
倭の国のことあれこれ興味があって、膝を乗り出してわての話聞いてくれ
よりました。ほんで聞かれましてん。倭人のことものすご好きやねんけろ、
なんで華人は嫌いよんねやろ。
わて、質問の意味がいろいろにとれたんで、聞きなおしましてン。
なんで、そう思いまんねん。
(敗戦後)、オランダ軍がもどって来ようとした時、倭人のおっちゃんら
一生懸命、わてらの父ちゃんらと一緒に戦ってくれた。みんな尊敬して
いろんな家にその人ら泊めたげてたんやけろ、ある日、〇〇さんが
広場で吊るされ、その数日後、××はんがまた吊るされ、どんどん
殺されていき%8
http://yorozu.indosite.org/bbs_log/bbs_log01/old16/messages/1255.htm
首を切られたそうです。それで、そのおっさんはそう言っているのでした。でもおっさんの
年が50なので、自分で見たわけでないでしょと聞いたら、両親から何度も聞かされたと
言っていました。日本はSudah bayar banyak. Indonesia Hotelも日本の戦後賠償で立ったぞ
と言っておきましたが、残虐行為というのは、賠償を支払っても、いつまでも後に残るもの
なのだと、思いました。
最近、BukittinggiのRoban Jepangは日本軍の残虐行為の一つという説明がされていたのが、
本当は大嘘であったことが明らかになりました。Bikittinggiは戦争中も最も住民との交流が
うまくいっていた地域だったそうです。私がBukittinggiに行ったのは、まだ、残虐行為が
あったというのを本当だと思っていた頃で、雇った運転手のおっさんが、子供の頃、日本人の
軍人が楽しく遊んでくれたと言うのを聞いて、不思議な気がしましたが、それが本当であった
そうです。
http://yorozu.indosite.org/bbs_log/bbs_log01/old16/messages/1282.htm
家内(華人)が言うには、インドネシアでは小学校で(多分今でも)、戦時中インドネシア各地で日本軍が
残虐行為を行ったと教えているそうで、少なくとも帝国陸軍に代表される日本に関しては非常に悪印象を
持っています。 ところが、年配の方の話だと、自分もしくは家族が残虐行為にあった、日本人は嫌いだと
言う方と、日本軍はとても良くしてくれたと懐かしそうに語る方(こっちの方が少ないけど)に分かれます。
メナドの方は概して良く言う人がおおく、軍艦を見ながら釣りをしてると兵隊さんがお菓子をくれて、二人で
ゼロ戦に手を振ったなんて話も聞きました。海軍は行儀がよかったんでしょうね。 パレンバン周辺でも
落下傘部隊の兵隊さんは皆のあこがれの的であったと言ってたおばあさんがいました。 ここもきっと陸軍精鋭
部隊としてのプライドが品行方正にさせたのでしょうか。 あと独立戦争の際に、もと日本軍兵士とともに戦った、
彼らはとても勇敢でクレバーだったと言った元政府関係者(この人は陸軍幼年学校の出身)。
でも、一般に人にとっては「バッカヤロー」と「コラッ」が全てみたいです。 この言葉、こっちの人の前で絶対に
使わないようにしてください。
http://yorozu.indosite.org/bbs_log/bbs_log01/old16/messages/1240.htm
http://members.at.infoseek.co.jp/saeed25/ss0005-3.html 柵に囲まれた庭は広く、果樹が立ち並び、鶏が駆け回っている。一番大きな木の下にテーブルとイスがしつらえており、
そこに何人かの老人が座って談笑している。皆親戚らしい。ムハンマドが僕を皆に紹介した。日本人と聞いて、彼の母親が何やら日本語で元気に唄を歌って聞かせた。
よく聴き取れないが、確かに日本語の歌っぽい。何でも先の第2次大戦中に日本軍がこの地まで支配を広げて進駐してきた際、
日本軍政下の学校で習わせられたのだと言う。このような片田舎に来て遥か遠くからの異邦人めいた気分になっていた僕だが、思わぬ現実に引き戻された。
既に60年前、実に僕らの先祖がこの地を踏んでいたのだった。恥ずかしながら改めて、ここでは日本人が既にある具体的な好ましからざる
イメージを与えられており、そして僕もまたその同じ枠を通して見られなければならないことを自覚した。
(略)
おばあちゃんに、日本軍の占領時代はどうだった、とムハンマドを通じて恐る恐る訊いてみた。実体験者から見た事実を知るべきだと思ったのだ。
しかし彼女も息子も日本人の僕から投げかけられたその質問に対し、少々の戸惑いを感じたようだった。それにムハンマドの通訳もちょっとあやふやで、
余り明確な答えは返ってこなかった。只彼女が述べたのは、日本軍はこの地でイギリス軍と戦争をしていただけでマレーシア人は戦争に参加しなかった、
ということだけだった。ムハンマドはそれに、「オレは戦後生まれだから日本軍のことは分かんねぇし、特別日本に対して悪い感情はねぇよ。」と付け加えた。
彼らはきっと僕に気遣っているんだろう。
日本軍から被った被害の度合いにおいて比較にならないが、これが中国人だともうバンバン遠慮なく言われるところだ。
サウジの中国人学生とそういう体験がある。
色々とお喋りしたなかで、印象に残っているのが隣に座っていたインド人のGおばあちゃんの話。70代の彼女の子供の頃はまだ戦時中で、
マレーシアは日本軍に占領されていました。時折こちらの高齢の人たちが戦時中の事を話すのを聞いていると、自分は何も悪い事をしていなくてもなんだか
申し訳ないような気持ちになるのですが、そのGおばあちゃんによると彼女が住んでいたところを占領していた日本軍の将校はいい人で、よく子供達にお菓子をくれたりして
一緒に遊んでいたのだそう。日本軍の中にもいい人はいたのだと言う事を知って、なんだかちょっとホッとしました。
インド本国から来たベンガル出身の女性とも初めて会って色々お話できて楽しかったです。彼女は日本の某宗教の信者なのだそう。
デリーにはたくさん信者がいるそうです。インドにまで布教を広げるなんて、すごいなぁ。一般にその宗教の人は勧誘攻勢が激しいと聞いていますが、
彼女はそんな感じはしないので気楽に付き合っていけそう。エリートにありがちなスノッブさを感じない、とても気さくな人でした。
彼女のご主人は医者で、彼女自身も遺伝子学を勉強しているそう。
http://www.mangotree-jp.com/diary12.html
取材先の国について書かれた資料を本屋で探し、雑誌の特集、ガイドブック、専門書から「地球の歩き方」まで、一通り読んでみて、
自分なりの”その国”像を描いてから、旅立っているのである。(まずは、ロケーションハンティング、下見です。)
しかし・・・。
ハンガリー・ブダペストの古本屋で、乞食のおじいさんが入ってきたなあ、と思っていたら、やぶれた靴下から小銭を集め、聖書を買ったのだ。
中国自治区・チベットでは、空港から町への移動中トイレに行きたいといったら、どうぞ、と車を止めてくれて橋の下をユビ指され、仕方なく・・・。
マレーシア・コタバル海岸では、太平洋戦争の日本軍上陸の海岸を複雑な思いで静かに撮影していると、
民家のおばあちゃんに、日本人は帰れと、怒鳴られ、戦争の傷に立ちすくんだ。
http://www.tv-nexus.com/conts/recruit/danwa/danwa_mitiroman.html
カウンムード・ドーム・・・お椀を伏せたような白亜のドームを持ち、高さは45mもあり、どこからでも目立ちます。戦時中、インパールから撤退する
日本軍が目印にしたというのもうなずけます。1636年〜1657年にかけて作られました。
このあたりも質のいいタナカの産地として知られており、境内にはタナカ売りのお店が並んでいました。それらのお店をひやかしていると
、おばあさん(写真おばあさん参照)が声をかけてきて、そして突然、日本語の歌を唄い出したのです。その歌が「春が来た」であることは、すぐに分かりました。
つられて我々も一緒に歌い出しのですが、二番三番と続けていくうちに歌詞が怪しくなり、
最後はおばあさんだけが唄っていました。我々グループ(私をカウントしません)も、平均年齢は70を越え、しっかり戦前の世代なのですが、
ミャンマーのおばあさんの記憶力にはかないませんでした。続けて、「和尚さん」・「兵隊さんのおかげです」等を熱唱。もう拍手喝采でした。
歌が終わり、「どうして日本語の歌が唄えるのですか?」と聞いてみると、日本語で、「兵隊さんが教えてくれました」、「まだ、子どもでしたから
膝にのせて唄ってくれました」という答えが返ってきました。その後も色々話をしたのですが、特に「日本の兵隊さん。いい人でしたよ」と
いうひと言が心に残りました。まだこんな人が現地で生存している間に、日本の若い人達にもアジアの旅をしてもらいたいものです。
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/overland/myanmartravel6.htm
車窓に映るのは相変わらず田畑や竹林、それほど高くもない霧に包まれた山々。道沿いには昨日のトンコナン・ハウスではなかったが高床式の民家が並び、
人々が農作業に従事している。畑の脇道では子供達が裸足のままで駆け回り、何もせずに家の前でボーッとしている人もチラホラ見かける。
人々にはやはり東南アジア的な人懐っこさがあり、大きな壷を頭に乗せた母ちゃん達や、庭先でギターを弾いている女の子達も、
こちらが手を振ると屈託無い笑顔で手を振り返してくれる。ヒッチハイクだろうか、たまに人差し指を一本掲げて道端に
立つ地元の人を見かける。一方で時々見かけるバスからは車掌が窓の外に身をのり出し、あと何人乗れるかを指の数で道行く
人々に知らせている。女の子がいたら指を一本出そうか、とヘンリックは陽気にジョークを飛ばしていた。田畑の真ん中に
突如現れる青く大きな溜池、そして船のようなトンコナン・ハウスが水面に映っている。こんな風景を時々カメラに収めていると、
突然後ろの方から「コンニチハ」と日本語が聞こえた。振り向くとそこには麦わら帽子をかぶった休憩中の老いた農民。
自分の写真を撮ってくれとせがんでいた。この地も戦時中は日本軍が占領していたので、
老人の中にはコンニチハとかアリガトウといった簡単な日本語を知っている人もたまにいるらしい。
http://www.k2.dion.ne.jp/~szkasia/TRAVEL/travel.indonesia-5.html
「実はね,パパはいろんな人に取材をしたんだけど,従軍慰安婦の人たちは必ずしも悲 惨じゃなかったんだ」
という,この本のモチーフと思われる一文に出くわします。そして,著者つかこうへいの真意がだんだん見えてきます。
パパがいろんな兵隊さんと話して,いくつかの,今まで持っていた知識とはまったく 違うことを知りました。
一つ目は,従軍慰安婦という言葉は,まるで軍が移動するたびに連れて歩かされ,奴 隷のように犯されていたという
イメージの戦後の言葉であって,戦時中は別の呼ばれ方 をされていたということです。
二つ目は,従軍慰安婦というのは自由がなく犯されているだけの存在で,金のやりと りなどなかったというイメージがあったこと。
三つ目は,確かに強制的に連行されてきた女の人たちもいたのだろうけど,たいてい は貧しさゆえにお金のために,たとえば
日本の売春宿と同じように,身体を売ってお金 を稼ぐということを自明の理としていたこと。
四つ目は,兵隊は犯す,慰安婦は犯されるという関係ではなく,けっこう人間的な付 き合いがあったということです。
これらのことを一体どういうふうに理解すればいいのだろう。どちらかが正しい,と いうことではなく,おそらくどちらも少しずつ
真実で,どこかが微妙に本当のことから ずれているのです。
こう述べて,一見,著者は折衷的な見方を提示しているようにも読めるのですが,ここの部分,つまり「パパが誤解していたこと」
であり,元日本軍兵士からの聞き取りにより「知ったこと」は,かなり断定的に述べられています。
http://www.han.org/oldboard/hanboard2/messages/356.html
自衛隊機で救出されることを望もうと思われるのは勝手です。しかしインドネシア外務省は自衛隊
機を必ずしも歓迎していません。かつて日本軍占領時代に、インドネシアの人びとが塗炭の
苦しみを味わったことを少しは思い起こしてください。多くのインドネシア在住日本人の方々
民間企業の方だと思います。インドネシアでお世話になっている、そして利益を上げているの
だったら、少しは冷静に自分の立場をわきまえて欲しいと思います。
平和憲法という理念で話しても通じないようですので、日中戦争の発端を話したいと思います。
あの時も、日本の戦争開始の口実は邦人の救出のための軍隊の派遣でした。人の命は等しく
平等です。自分たちの命が大事だと思われるのなら、インドネシアの人びとの命も大事です。
そんな青臭い書生論でこの「危機」に対応できるか、おまえは責任をとれるのか、と言われるか
もしれません。だが本当に、あなたがた一人一人にとって危機ですか。あなた方の家族で
http://yorozu.indosite.org/bbs_log/bbs_log01/old14/messages/8227.htm
握手をしようと近づいたとき、その感覚はさらにはっきりした。若い女性ならまだしも、浅黒く深いシワが刻まれている年老いたおばあさんなのにはっきりと感じられる。
身長差があるので上からのぞくような形で顔を見ると。右目は悪いのか精気がない。しかし澄んだ左目の瞳から数秒間、おばあさんの人生を凝縮した情報のようなものが一気に伝わってきた。
うまく言葉で表現できないが、星の瞬きが何十光年を経て直接、伝わってきたような瞬間が数秒間続いた。これは宿命通とでも言うのだろうか。
その中には、おばあさんの娘時代、インドネシアに駐留していた日本兵を見た情景も含まれていた。
おばあさんも何かを感じているはずだ。それは目線が合ったまま数秒止まったときに、おばあさんの表情が穏やかに変わったことで確信した。
こちらを向いているおばあさんは、唐突に外国人と握手した出来事に戸惑っているとかいうのではなく、よく分からない不思議な感じ、肯定的な何かを感じていたように見えた。
おばあさんとは、ほとんど言葉を交わしていないが、両者の魂が通じたという確信があった。
http://www.bekkoame.ne.jp/~alteredim/asoh/030611.html
[9864]ハルマヘラ島を訪ねて 2
名前:気持ちはthirty [2008/11/21 11:57:04]
村を取材班が訪れると、村人がウワーッと出て来てカメラを取り囲むというシーンがよくある、ヤラセだと思っていたが、テレビもなし、予告もなしでも、このお出迎え。
ビックリ仰天で、何か一瞬にしてスターになったような気分。動くと皆んなついてくる。旅がスムーズに行ったのは、私の覚えたインドネシア語はトウリマ カシー(ありがとう)
スラ マッバキ(おはようございます)ぐらいですが、叔父は60数年前に現地で覚えたインドネシア語、話すうちドンドン思い出し半日でもうペラペラ、通訳不要な位!驚きです・・・感動しました!
スラウェシ島では長らくオランダの植民地となっていたインドネシアは日本が行った戦争で、結果的に独立した。日本の占領で、
オランダが追い払われた形、だからなのか対日感情は大変良い。
“日本が解放してくれた”と考えている人も多いと聞く、それは本当に腹の底からの感情なのか。叔父がハルマヘラに居た元日本兵と知ると、
人が集まり話しかけ大変、ホテル、土産屋、レストラン、何処でも大歓迎で、村をひとつ通り越して、しばらく歩くと広い草原状の土地が空港の跡、
ボロボロに破れた飛行機が地中に埋まっていた「ゼロ戦」だ。錆びた高射砲、もここ“戦地跡”は、戦争の跡形もなく密林と化していました。
叔父は地に伏し姿なき戦友に思いを語りかけていました感動しました!感謝!です。叔父の様に八十過ぎてもチャレンジする情熱を持ち続けたい
http://74.125.153.132/search?q=cache:drvAzbbEyXoJ:www.e-yuyu.com/cgi-bin/bbs0108/bbs. cgi%3Fc%3D1281+%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%80%80%E6%
97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B5%E3%80%80%E3%81%8A%E3%81%B0%E3%81%82%E3%81%95%E3%82%93&cd=46&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
ワタシはそんなシワおじいちゃんが大好きだった。
そしてシワおじいちゃんが住んでいる所も。
シワおじいちゃんはワタシが喜ぶと思って日本の童謡を小さな縦笛で吹いてくれた。
笛の「つくり」が多分現地の調子にあわせてつくられているのだろう、その笛で奏でられるおじいちゃんの
「おててつないで」はちょっと不思議な感じになっていた。
そのトロピカルなのにもの悲しいというなんともはやな音色を耳に、でっかい夕日を見ながら何故かワタシは涙が止まらなかった。
童謡はかつて日本兵に教わったものだろう。
日本の侵略について、独立のきっかけになったとか、高い技術を教わる事が出来て今でも大変役に立っている
、とか、旅の途中で現地の人に直接、感謝のことばを受けた事も何度かあった。
http://www.kazemachi.net/textView.cgi?file=./text/1.txt
376 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2009/08/20(木) 01:01:54 ID:saCoLjjL
インドネシアのサマランという糞田舎の町に日本軍がやってきて、女子高の隣に駐屯した。
そしてそこから夕方過ぎになると駐屯地から「あつーーー」「あちゃちゃ」「くおーー」
などと苦悶する男の声が聞こえてきた。
ある日勇気を振り絞った女子高生がこっそり見に行ったら、数個のドラム缶の下で火を起こして
その中のお湯に苦悶の表情を表して浸ったり、それに並ぶ無数の全裸の男たち、、、
インドネシア人少女が初めて見るお風呂と男の裸だったそうです。
それを見て思わず声を上げてしまったインドネシア人少女に「どうしました?」「何かあったんですか??」
「ここは民間人立ち入り禁止ですよ。」などと親切心で心配の言葉を話しながら押し寄せる無数の全裸の日本人たち。
その場でシクシク泣き始め、駆け付けた通訳官に、なぜここに来たのかを説明し、
通訳官からお風呂という日本の文化を教えてもらったそうです。
それから外のあずまやで本場のトラジャコーヒーをご馳走になり
ましたが、このうまかったこと!!コーヒーの味はよくわからない私ですが、
この味は忘れることができません。
おばさんともお喋りしましたが、この辺りにはかつて日本軍が進駐して
いたそうで、子供時代おばさんは日本人がやっている学校に通っていた
そうです。「こんにちは」「ありがとう」など簡単なあいさつを日本語で
知っていて、「真白き富士の根」という昔の賞揚歌も歌って聞かせてくれ
ました。
離れにあるトイレを借りたら扉がしっかり閉まらず、まぁインドネシア
ではよくあることなので気にせず用を足していたら、子供たちがすき間から
覗いていたのが笑えました。
http://blog.goo.ne.jp/zakka_life/m/200608
中国や朝鮮・満州などに駐屯した兵隊たちが、「不潔」「嘘つき」「無知」等々の悪徳をその住民の印象としてもち、たかだかその雄大な自然に打たれて
日本に戻ってきたのにくらべると、南方に駐屯した兵隊たちは、もっと人間的な共感をもって帰ってきた。大陸─敗戦型の兵隊が、
中国人の反日感情を見せつけられてきたのに反し、南方─敗戦型の兵隊は最後まで親日的雰囲気に浸っていることができた。
KI氏 日本軍のスマトラへの乗込み方が実によかったんです。例の「空の神兵」っていう奴で、落下傘で上陸したでしょう、あの部隊には
少年航空兵か何かの紅顔の美少年が沢山居たし、しかもそれが空から降ってくる、これで現地人の日本人に対する第一印象がいいものになった。
それから、オカしな話しですが仁丹のマークに将軍みたいな人の顔が使われていますが、あの顔が立派だというんで、日本人の評判が上ったんです。
こういうわけで、現地人はとても好意的でした。敗戦が近くなると、私たちは補給がつかなくなったんで、現地人を部隊に入れました。
これは兵隊じゃないんで「兵補」と呼ばれましたが、この連中が実によく仕事をしてくれました。南方は暑いから、自然動作はニブいんですが、
一生けんめいやってましたし、日本兵が彼らと一しょに働いて、一しょに暮らしたことが、なおさら好感をあたえたようです。そんな暮しをし乍ら、
お互いにコトバを教え合って仲良くやってました。
オランダ人のいた時には、仕事の監督をする白人は黒メガネをかけて安楽椅子に腰を下してフンぞりかえっている。しかもよく見たら居眠りをしていた。
ところが日本軍はちがう。監督とはいい乍ら、一しょに飯を食う。こんなところが気に入ったんでしょう。尤も、兵隊のなかに悪い奴もいて、渡し舟に乗って金を払わない者があった。
こういうことをされると腹が立つでしょう。だから、日本の敗けたことが分ったとき、私の知っているインドネシア人たちは、またいつか必ずやって来い、
待っているぞといった調子で別れを惜しんでくれたんですが、私たちがトラックで送られて行くとき、早く帰れといって石を投げた住民もあります。
http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/2415.html
スハルティさんは1944年、東ジャワ州クデイリのカンプン・ンドゥウェットの町役場に集められた。その時、日本軍はボルネオ(現在のカリマンタン島)で
働かせる15歳以上の女性を探していた。選ばれた少女とその親たちは町役場から呼び出しを受けた。スハルティさんの両親もその中に入っていた。
村長は父親に「(ボルネオに行けば)スハルティさんを学校に通わせてやる」と言った。はじめ、その父親は「スハルティは学校になど通ったことがないから」
と申し出を断ったが、町長は「それなら仕事をやろう」と言った。村長はなおも娘を手放すよう迫った。町役場は各村から少女を供出するよう割り当てを受けていたのだった。
ボルネオに連れて行かれ
昼も夜も「慰安婦」として働かされた
当時スハルティさんは15歳だった。
異なる村から彼女と3人の少女が選ばれ、日本軍のために働くことになった。東ジャワのスラバヤから木造の船で、ボルネオに到着すると、
木造の日本式住宅に連れて行かれた。中には30の部屋が向かい合って設けられていた。
そこで、スハルティさんは民間の日本人と軍関係者のために、昼も夜も「慰安婦」として働かされた。名前も日本風に「みき」と変えられた。
労働に対する報酬を得ることはなかった。穀物入りの汚い米飯少しが与えられた食べ物だった。
http://homepage2.nifty.com/osakaaala/sat20091128ianfuindonesiashougenkouentudoi.htm
おばあちゃんに聞くと、高木氏は日本音楽は大嫌いだった人よ、で片づけられたがどうなのだろうか。
空の神兵の解説には以下のように出ている。
『昭和17年1月11日に海軍の落下傘部隊が蘭領印度(現在のインドネシア)のセレベス(現在のスラウェシ)島メナドに、続いて2月14日に陸軍
の落下傘部隊がスマトラ島のパレンバンに降下しました。この歌はその時の模様を歌ったもので、青空に純白の落下傘が次々に
開いてゆく様子が絵のように歌はれています。普通軍歌は勇ましいか、暗いかのどちらかが多いのですが、
この曲は珍しく明るく美しい軍歌になっています。
http://yhsvtex.blogspot.com/2007/06/cd6050-httpwww7.html
インドネシア最南端の島ロテ(Rote)島には、世界中でそこにしか存在しない弦楽器ササンドゥ(Sasandu)があります。
ササンドゥ演奏の名手だった故ユスフ・ンゲボ(Yusuf Nggebo)氏が語る日本軍の占領時代(言語はインドネシア語)。
1924年ロテ島生まれのユスフさんは、3年間、日本軍の「兵補」として務めた体験を持つ。
日本軍支配下の思いで、そしてロテ島伝統楽器ササンドゥの未来に関して語った。
インタビューの要約は以下の通り。
「日本兵にササンドゥ音楽を聞かせてあげた。日本兵はとても喜んでいた、ロテの曲を聴いて踊ったりもした。
日本兵で地元の女性と結婚した人もいた。モクダレ村の一人の女性、アスマット・マンダラさんは日本人の子供だった。
私が演奏したのは10本の弦のササンドゥだったから、聞かせたのは伝統曲だった。確かに、ササンドゥの命運は消滅の危機にある。
ロテ島の若者は西洋楽器により惹かれている。彼らには自らの文化を守ろうとの気持ちはない。西洋のギターなどは一生懸命
習おうとしているけれども。先生たちにも教えたことがあるが、余りいい反応ではなかった。教会の指導者に言いたいが、
教会を通じてササンドゥ文化が残っていくことを願っている。私の子供たちにも教えたけれども、残念なことに皆ロテを離れ、
多くはジャカルタで暮らしている」
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200907/article_2.html
ロテ島でかつてササンドゥの名奏者として知られた故ユスフ・ンゲボ氏は、2002年5月9日、バア(Baa)の自宅裏、綺麗な小川が流れる傍らで、インタビューに応じてくれた。
青春時代の3年間、兵補として日本帝国陸軍に徴用された体験を持つユスフ氏。ササンドゥを奏でて遠く祖国を離れた日本軍兵士を癒したという。
インタビューの要約は以下の通り。
「名前はユスフ・ンゲボ。1924年1月7日、北西ロテ郡のブサランガ村生まれ。日本軍の兵補として1943〜1945年務めた。
兵補として亡くなった仲間もいるが、彼らの名前は知らない。司令官の名前も覚えていない。戦争中のことだから、
日本軍は厳しかった。間違えを起こせば、制裁として誰彼となく殴られた。私は殴られたことはなかったけれどもね。
あの時代は非常事態だったから、歴史として仕方がない部分もあったかな。
私は規律正しかったこともあってか、よく日本兵から食事に誘われたことがある。
海軍に呼ばれたこともある。今日のシクマナに海軍本部があった。日本軍は厳しかったが、付き合いの面ではとても良かった。
彼らは、村にいれば何でも食べ、そして飲んだ。トゥアック(棕櫚椰子の汁)も、そしてアルコール(注:棕櫚椰子の液から作るソピ酒)も。
彼らは悪いところもあったが、良い面も持っていた」と。
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200906/article_2.html
81歳のおじいちゃんはめちゃくちゃ日本語が上手で、なんと昔、日本軍の兵士に志願して
日本兵としてインドネシアのスマトラ島で終戦を迎えたとのこと。
日本人よりも日本をこよなく愛している人で、日本の政治の話とか靖国の話とか
戦争の時の話とかをいろいろ聞かせてもらった。
日本には50回以上来たことがあるんだって。
私よりも日本のこと詳しい・・
おじいちゃんの話は私が生まれる前の戦争中のリアルな日本で。
戦後の今の時代しか知らない私にとってはものすごい興味深い話ばかりだった。
http://yukie77.blog106.fc2.com/blog-entry-135.html
日本のキリスト教伝来とインドネシアの国とは、歴史的に同じ時代にローマカトリック教会が伝来しています。同じ年代にイエズス会の宣教師によって
現在のマニラから日本とインドネシアに伝えられました。その意味では、何か主の摂理的な働きを感じます。太平洋戦争中、日本は、インドネシアの国(オランダ占領下)を
加虐的に侵略し、村の若い女性を女中さんとして軍隊に出させました。強制的に日本語を押し付け、
教育まで日本と同じ皇国主義を押し付けました。
教会の年配の兄弟は、今でも日本の軍歌を歌うことができました。自分からでは、なく強制的に覚えさせられたとの事ですから、
今もまだその傷つけられた傷が癒されることなく彼らの心の内にあることを切に感じました。その兄弟は、アンボンで生まれアンボンで育った方です。
最近バタムに移られたそうです。アンボンは、日本の軍隊の部隊が日本の敗戦まで、駐屯していた地域です。インドネシアのあちらこちらに、
今でも日本軍の爪あとが残っています。私は、キリストの十字架の贖いを伝えることなしには、
この日本の大罪は赦されないことだ改めて思い知らされております。
http://mcchurch.jp/zbxe/?mid=school_j&listStyle=gallery&document_srl=431&sort_index=regdate&order_type=desc
クリスチャン・三浦襄は1942年2月、陸軍第48師団今村隊の随員としてバリ島サヌール海岸に上陸した。当初、太平洋戦争の大義(大東亜共栄圏)を信じていたので、
現地の王族たちを集めて次のように説いたと言う。"この戦争は、アジア10億の解放運動である。インドネシアは必ず日本軍の力で独立させるのだ。
日本は決して嘘をいわない"。しかし、後、三浦は、日本軍人がバリ人をぞんざいに扱った事件を憤慨の気持ちとともに数多く日記に書き留めている。
彼を一番憤慨させたのは、陸軍からの慰安婦の徴集問題だった。陸軍からバリ島の陸軍慰安所に拘引された女性を自らのカで取り返したこともあっ た。
http://www.youtube.com/watch?v=Q7YOlgSgtHk
パレンバンの博物館を訪れた。オランダの植民地時代の様子や日本軍の武器なども展示してあった。見ている後ろから大きな声で歌を歌って来る
中年の男がいた。「四面海もて囲まれし わが敷島の秋津洲 外なる敵を防ぐには 陸に砲台海に艦・・・」日本の歌だと分かるが意味が分からない。
ニコニコと笑顔を振りまき得意げに歌ってから、我々にインドネシア語で日本人かと質問した。日本人です、日本から来ましたと答えた。
そうすると彼は「1.2.3.・・・・」と数字を日本語でそらんじて見せ、日本人は大好きだと熱烈歓迎された。
彼はこの博物館の館長で、日本語は第二次世界大戦時に日本軍の現地補助兵(兵補)だった叔父さんから習ったのだと語った。
片言の日本語とインドネシア語で館内を案内してくれた。石油を産出している場面のコーナーになったら今度は「藍より蒼き 大空に 大空にたちまち開く
百千の真白き薔薇の 花模様見よ落下傘・・・」と落下傘攻撃で石油施設を占拠した時の快挙を祝した軍歌『空の神兵』を歌うサービスだ。
親しくなった館長さんに古い更紗を探しにパレンバンに来たことを伝えた。親日家の館長さんは仕事を放り出し自ら案内役を買って出てくれた。
http://www.komatsucraft.com/sumatera.htm
lazyflowさん
叔父のことを考える時、いつもlazyflowさんのお父様の事を思っていました。
インドネシアに対する想いがとても似ていると感じていたんです。
叔父はここ数年はかなり弱っており、昔の事を詳しくは思い出せないようでした。
lazyflowさんにお父様のお名前を教えていただこうかと思ったこともありましたが、叔父には思い出すことは難しいように思えました・・・
でも、lazyflowさんが思われるのと同じ事を私も感じています。
もしかしたら・・・と。
戦争という悲しい時代でしたが、そこには確かにインドネシアの人たちとの温かい交流があったんだと思います。
だからこそ、lazyflowさんのお父様は、戦後もインドネシアの人の為にご尽力されたんですよね。
そして、叔父もベッドの中でボロボロになるまでインドネシアの地図を見ていたんだと思います・・・。
http://canting.exblog.jp/6812578
なんとなく聞いたことのある言葉だな、と思った瞬間、それが日本語である
ことに気が付きました。
それまではほとんどギターを爪弾いていたせいか、急に聞こえてきた日本語
にぼくは非常に驚いたのです。
ぼく以外にも4?5人のインドネシア人がいたし、外見上でも現地人と間違
われることの多いこのぼくを、日本人と思って歌い出したのではないことは明
らかです。
それは、ぼくもまるで聞いたこともない日本の軍歌でした。
発音がいまいちなので処々言葉は聞き取れませんが、メロディや歌詞の感じ
から想像するに、勇ましくはないがまさしく軍歌なのです。
ジャワ辺りでも70歳以上の老人には日本語の単語やフレーズを片言話せる
人がいますが、これを歌っているのはその半分の年端もいかない男性です。
どのようにしてその歌を覚えたのか。おそらく彼の父親か祖父が口ずさんで
いたものをちいさい頃に覚えたのでしょうか。
歌を聞きながら、ぼくの心はなんとも言えない気分で満たされました。ぼく
でも全く知らない軍歌、戦後生まれですからレコードなどからしか聞いたこと
がありませんが、その中にもなかった戦時中の唄……。
そんな唄を、ぼくよりずっと若いインドネシアの男性が、今でもホテルの中
で口ずさんでいるなんて、あなたには想像できますか?
http://archive.mag2.com/0000207699/20080606200500000.html?start=80
その市街を朝早くから取材に飛びまわって香河という川のほとりまで来たとき、気づくとお昼を過ぎていました。
おなかが空いていましたが、どこのレストランも開いていません。
みな避難してしまったのです。
途方に暮れて川のほとりで座っていると、ベトナム人のやや年老いた女性が近寄ってきて、いきなり「日本の方ですか。私のレストランを開けてご飯を出してあげましょう」と言うのです。
私に同行していた通訳を通しての語りかけですが、ビジネスとしてではなく、好意のようなものを感じました。
そこで話を聞いてみると、その女性は「かつて日本軍が駐留していたとき、私の夫は日本軍で働いていた。日本人は尊敬に値する人たちだった」と言います。
それは私が受けた戦後教育においては、あるはずのないことでした。
東南アジアの国々を侵略し、残虐行為を働いた日本軍は、邪悪な存在として忌み嫌われているはずではなかったのか――。
そうした疑問から、日本軍はベトナムで何をしたかということを調べてみました。
一九四〇年九月、日本軍はフランス領インドシナ(現在のベトナム・ラオス・カンボジア)に進駐しました。
http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/799865
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/1367/kobore/rotimaros.html ロティとはパンのこと。ジャム(これはカヤ[kaya]と呼ばれ、果物は使わず、卵、白砂糖、ココナッツミルクを時間かけて練って作ります)の入った
何の変哲もない山型モコモコのパンがここ数年の間に飛ぶように売れています。
ロティ・マロス(Roti Maros)または短縮形のロマ(Roma。ミルク・ビスケットの名前にも同じのがありますね)を看板に掲げたお店が、マカッサル市内から空港、
マロスへ向かう道路沿いにたくさん見かけます。夜に街道沿いを走ると、パロポやマムジュに
向かう長距離バスが列をなしてロティ・マロス屋の前に停まっていて壮観です。
マロス周辺だけではありません。南のゴワやタカラールへ向かう街道沿いにも、遠く離れたルウ県のパロポにも、東南スラウェシ州のコラカにも進出しています。
ロティ・マロスの起源については諸説ありますが、日本軍がこの地を占領していた1940年代に始まるといわれます。またなぜか、パン屋さんにはスラヤール出身者が多く、
車を引いてマカッサル市内を売り歩いていました。以前はロティ・カヤと呼ばれていました。私の華人系のアシスタントによると、カヤ作りでは海南出身の華人が名高くもしかしたらロティ・マロスの出自と関係があるかもしれません。
脱線しますが、インドネシアのパンは全般に甘いですよね。ジャカルタにはスイス、ホランド、デリシャスといった植民地時代から続くパン屋がありますが、
この甘いパンを作るようになったのは日本軍が入ってきてからだと聞いたことがあります。もっとも、この話が本当かどうかは知りません。
亡くなった親の遺産を引き継いだ息子夫婦が1994年頃からロティ・マロスを本格的なビジネスとして展開し始めました。狙いはバスやトラックの
運転手に常連になってもらうこと。最初は10人の運転手でしたが、話が運転手仲間にどんどん広まって、今や常連が300人以上になったそうです。
客を紹介したり連れて来たり運転手には、ロティ・マロスだけでなく、飲み物も付けてタダで運転手に渡すのだそうです。
経済活動の促進と同時に、島民への日本語教育を筆頭に日本化への組織的な教育も行われた。島民のための公学校が設立され、
島の子どもたちは8才から3年間公学校に通い、日本語の会話、綴り方、算数と共に「君に忠、親に孝」のいわゆる皇民教育を受けた。
また、公学校を卒業後、優秀な生徒はデュブロン島にあった高校やその先のパラオに創られた大学に進み、
土木、機械などについて学んだ。今でも島民の中には公学校で学んだ日本語を流暢に話すお年寄りもいる。
当時公学校に通っていたお年寄りの方々と日本語で会話をした。彼らは当時のことをこう語ってくれた。
「日本時代は良かった。仕事もおもしろいことも珍しい食べ物も何でもあった。公学校で 日本語の勉強をするのはとても楽しかったし、
みんな学校が好きだった。働くのもおもしろかった。少しだけどお金がもらえるので欲しいものはたくさん買えたし、服や食べ物は店の主人がよくしてくれた。」
「日本人は色々なものを買ってくれた。バナナでも野菜でもココナッツでも。だからみんな畑仕事をして売ってお金を稼ぐことができたんだ。」
「夜でも灯りで島は明るかった。お酒を飲んで一緒に歌を歌ったり、騒いで楽しんでいたよ。日本人はその下で働いていると良く面倒を見てくれた。」
と、当時が一番良かったと民間時代を振り返る声が多い。
http://www.apa-apa.net/~jinrui/soturon/paper/harada.pdf
ヴェスヴィオ火山で壊滅したローマのまちじゃなくて,赤道付近のミクロネシア連邦の島です。第2次大戦中日本兵が現地で漁具や漁法など
を教えたことで生活水準の向上に一役買ったらしく,結構親日的なところだそうです。
きょうは,チャイルドサポートの羽原さんとお話ししていました。
羽原さんは国連NGOの世界平和女性連合広島第4連合の正式派遣員として活躍しておられます。活動は最近で言えば昨年10月にポンペイの
アワック小学校に運動具や文房具,楽器などの教材を提供しています。資金は廃品回収やバザーで捻出しておられます。
http://blog.canpan.info/yubitoma/archive/9
その後のオチ知ってて物言ってるのか?
確かにその手の宣伝はあった。が、その後のオチをつけてやるよ
>>
「中国人接待婦数百人求む。年齢は17歳前後から。採用されれば、毎月150ドルを最低保障する(毎月1回の休日)。
このほか、応募のさい、本人に3ドル、紹介者に2ドル支給。応募受付者はビーチ路のラッフルズホテルにて。また、接客婦経験者も可」
昭和17年3月5日(日本軍が進駐してわずか20日後)に、このような広告を出したが、応募者が居なかったため、兵士をあちこちに差し向け、
数百人の娼婦を駆り集めた。このなかには良家の娘さんも少なくなかった。(略)
青木書店「日本軍占領下のシンガポール」より一部抜粋
次、インドネシアの例
「インドネシアからたくさんの「ロウムシャ」が船で運ばれてきたが、その中に白い制服を着た16〜20歳くらいの少女30〜40人くらいが混じっていた。
彼女達は「看護婦になるために来た」語っていたが、実際には市内の慰安所に連れて行かれた。戦争が終わって、カトンロードにあった慰安所から逃げ出してきた
彼女達は、オスマン氏に対して「看護婦にするといわれて来たが、慰安婦として働かされた」と語ったという。
高文研「シンガポール華僑粛清」より一部抜粋
<<
つまり、醜業広告出しても応募者がいなかったため、軍が女をあさって駆り集めてるんです。更に現地で「看護婦」募集と称して少女を騙し、
体を売らされてますね。これらを強制売春と言わずして何という?
インドネシアの独立に付いては、8月15日に日本が敗戦したとき
今インドネシアを独立させなければ、チャンスは来ないと考えた
前田精海軍少将を中心とした人たちが、資金と場所を提供し、
居所不明になっていた、スカルノ、ハッタ氏を探し出し独立宣言を
させたのですから、日本がインドネシア独立を支援したのは事実です。
日本占領当時、東インドネシア(現在のスラウエシ、カリマンタン等)
は海軍が「民政」をしき、西は(ジャワ、スマトラ等) 陸軍の「軍政」
でしたので、私が以前居りましたマカッサルでは当時の日本に対する
非難は聞きませんでしたが、ジャワや今居りますスマトラでは日本軍に
強制労働に狩り出され虐待を受けたとか、特に中国系はスパイとか
スパイ容疑で殺された人もいるようで、家族の者が殺されたと云う非難を
時々聞きました、しかし中年以上の人たちは、インドネシアは日本の
協力があったから独立出来たのだと、大部分の人達が認めております。
http://yorozu.indosite.org/bbs/messages51/8800.html
華僑系に限らず、ほとんどのインドネシア人は戦中の日本軍は酷かったと
思っています。これは、(今は知りませんが)小学校の社会の教科書に
そのように書いてあり、そう言う風に教わってきたからです。初期教育で
刷り込まれていますから、そう簡単には修正できません。
それでも大半の人は戦中の日本と今の日本を一応区別しているだけです。
うちの嫁さんともしょっちゅう揉めてました。今村軍司令官のひいた軍政は
まれに見る現地より政策であったこと、オランダ植民地時代との差など
いくら説明しても聞く耳もたない...という状態でしたが、ちょっとした
きっかけで、オランダ植民地時代から戦争中にかけての英国人とアメリカ人の
書いた(これが重要、日本人が勝手に言っているのではない)本を読ませる
ことに成功しました。本人は あら、学校で教わったのと全然ちがうじゃない
みたいな反応で、多少の改善をみました。
http://yorozu.indosite.org/bbs/messages51/8674.html
夏島で生まれ、日本時代を体験したポールさん(現在70歳)から、日本語で話を聴かせてもらった。
「村から日本の街に遊びに行って、よく日本人の子どもと遊びました。テニスやピンポン、野球とかね。日本人も、チューク人も一緒に運動会や、
カヌー競争もやりました。そんな時、日本人が饅頭、天ぷら、サイダー、アイスクリームなんかを売っていた。ビンにはいったラムネは10銭だった」懐かしそうに語る。
「納豆、豆腐、なんでも食べました。うどんや、ソウメンとか、お店もたくさんありましたから。船一杯の鰹を朝から晩まで運んでいる人たちがたくさんいましたよ。
モートロックから夏島に焼いた鰹を運んできて、鰹節をつくる仕事は島の全部でやっていました。キネマで日本の『活動』(映画のこと)も観ました。入場料は50銭でした」
「パンパン屋」と呼ばれていたキーセンハウスも2軒あったという。約30人ずつ、日本人女性の店と朝鮮人女性の店とがあった。
日本人女性の店は、「兵隊さんだけ」なので、いわゆる「慰安所」と考えられる。
ボートから見る夏島
9歳になる頃、「戦争」が始まった。「戦争がはじまって、兵隊の水運び、飯あげをやりました。空襲は怖かった。木なども壊れて、
壊れた木でブランコしたりしていましたよ。防空壕で練習(防災訓練)したり、煙を出す練習をしました。その1週間後に(連合軍の)飛行機が来ました。
30機から40機やってきて、夏島と秋島の海から山まで爆弾をたくさん落としました」
占領の方針やありかた、期間の違いから、朝鮮半島や中国、東南アジアの人びとの感覚と、過去の日本人のとらえかたが決定的に違う。
それだけに、私たちもこの歴史をどう理解し、チュークの人びとと共有するか、大きなテーマになってくると思う。
「日本人から習ったことを、今でもやっています。家のつくり方、畑の作業・・・」とポールさんの日本人に対するイメージは肯定的だった。
日本語を話すこと自体、楽しそうにも見える。確かに、1944年2月の連合軍奇襲攻撃までの間、チュークの人々と日本人の、特に移住してきた
民間人とのあいだに心の通った絆、友情があったかもしれない。教育や文化、経済面で当時の日本が現地の人びとに
貢献できた部分もあったのだろう。それに加えて、終戦後アメリカの信託統治国となり、1986年アメリカとの自由連合関係の中で独立を果たし、
現在にいたるまで、独自の産業もなく、アメリカからの財政援助に依存し、アメリカからの輸入品に囲まれながらの生活の中よりも、
「一生懸命働けば収入が得られた」日本時代の生活の方に生きがいを感じる事が、確かにあるかもしれない。
しかし、そういった側面があったからといって、日本が他の地域を占領したことを肯定することはできないし、結果として
その地域を戦場にしてしまったことも肯定できないと思う。むしろ、30年かけて人びとの精神までをも日本化してしまったことの、
問題の根の深さ、罪の深さがそこに見えてくる。なにより、チューク人が身をもってその恐怖、悲惨を体験した空爆を、
今現在、日本が他の地域で支えているこの現状は、裏切りでなく何であろうか。
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~yuki_248/urushibara/urushibara26.html
ミャンマースペシャリストの高野さんにお伺いしたいのですが、幾度となく訪れたかの地において、
日本人ということで軍関係者や大東亜戦争を知る現地の老人達から感謝されたということはなかったでしょうか?
と言いますのも、『親日話』というWEBにおきまして、ミャンマーを訪れたことのある日本人は皆、
独立できたのは残虐な英国軍を追っ払ってくれた日本軍のおかげだと感謝されるそうです。
その手の話が多数掲載されていますので、一度『親日話』を覗いてみて下さい。
http://aisa.ne.jp/mbembe/index.php?eid=399#comment
ttp://ameblo. jp/sainte317/entry-10331377285.html
週末、主人の伯母さんの家に行って、中国式(?)のお披露目をしました。
彼の両親や親戚の人にお茶をあげて、もらった側はお祝いの品(お金や宝石など)をあげるというもの
でした。その後、彼の両親が結婚した時と同じ人が作ったケーキ(!!)をカットして、みんなで食べました。
それから、親戚や親しい人達と一緒にレストランで食事をしました
伯父さんは11歳の時に日本軍の学校教育を受けた事があり、何度か日本に行ったことがあるようで、
日本の童謡や日本文化に詳しい一面を見せていました。伯母さん夫婦のお家は家もお庭もとっても素敵で、
鯉を沢山飼っていて、緊張したけど、なかなか楽しい週末でした(‐^▽^‐)
ミャンマーと戦争
http://plaza. rakuten.co.jp/nemuchik0519/2008
初めて戦闘の話を聞いたのは、インディン村というムスリムの集落だった。
「あの山で日本軍と英国軍が戦ったんだ。夜には、山のあちこちでパッパッと光がはぜるのが見えたよ。」村を案内してくれた老人は、
戦闘の様子をこんな風に語った。その戦闘では日本軍が敗走を喫したという。
残念だったねえ。と、彼は付け加えた。私はなんと答えていいものか口篭もり、こんもりと木の茂るなだらかな山々を見上げた。
怖い思いはしなかったのですか?と尋ねると、老人は悪戯っぽく笑って、「いいや。次の日の朝に、皆で山へ行ったら
日本軍と英国軍の食糧がどっさり残ってたんだ。」それでその年、村人は飢えずに雨季を越せたのだという。
因みに缶詰の中身と味は英国軍の方が勝っていたとか。「日本軍は粗末な食事でよく戦ったよ。」と、誉められてしまった。
同じくラカイン州の州都シットウェ(アキャブ)で孤児院を営む僧院を訪ねた時のこと。僧院は当時日本兵の兵舎として利用されており、
兵隊達が使っていたお椀が大切に保管されていた。色の黄ばんだ金製のお椀の裏には、爪か釘で記したのだろう、苗字と班名が読んで取れた。
ここの長老の母は、日本軍で賄いをしていたという。兵隊は彼女を「びるま」と呼んだが、その発音がラカイン語では大変な尊敬の意味だったらしく、
彼女は気を良くして一生懸命働いたのだそうだ。後でそれが単なる国名だったと知ったときはびっくりした。と、まだ健在の老母は大笑いした。
ボルネオ島の魅力
ペナン島は普通の世界地図では点にしか見えない小さな島であるが、ボルネオ島はどんな地図にも載っている世界で3番目に大きい島である。
広い大地、悠々と流れる幅広い川、熱帯雨林と豊富な動植物、晴れた夜は広い空に降るような星の瞬きが美しい。そしてそこに暮らす人々は、マレー系、中国系もいるが、
少数民族の人たちが多く、多数派はイバン族である。半島側同様多宗教だが、多いのはキリスト教徒であり、教会の建物が目立つ。
台風や地震のような自然災害はほとんどない。人々は貧しいが心優しく、子どもも大人もうらやましいくらい仲が良い。
のどかで平和なこの土地が、かつて日本軍に荒らされた。地元の人たちは多くを語らないが、今も年老いた人々は日本人を怖がっている。
ボルネオの人々が日本軍と戦わなければならない理由は何もなかったのだが、日本の軍隊が入ってきて規則を決め、それを守らないと、
随分ひどい制裁が行われた。私の父もボルネオで日本の兵士の1人だった。そして、終戦の4日後に戦死した。不純かもしれないが
私には、この地での活動に償いに似た思いが含まれている。実際には、地元の人々の大きな協力があって進めているのだが。
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n306/n306016.html
今度のバスは最悪だった。 出発してから1時間程してから車輪がおかしくなってきて、2時間後には立ち往生してしまった。
そこはTojoと言うココナツ、カカオの農場がある人口600人の農村で店は雑貨屋が数軒あるだけだった。
暗くなると向かいの雑貨屋から女の人が来て食事を勧めてきたが、他の人達が何も食べてなかったので付き合う事にして断った。
しばらくすると、そこの御隠居さんらしいおじさんがやってきて日本語で話しかけてきた。 彼の話によると第二次大戦中に日本人が建てた学校に通っていたそうだ。
挨拶、整列のときの掛け声、ラジオ体操など昔の日本そのものだった。 珍客を見に大勢村人達が店を訪れたが、
年配の人は大抵日本の教育を受けていたらしく懐かしそうに日本語(単語レベルだが)を話したり、日本の当時の歌を歌ったりした。
彼らの話によると日本軍は'42年にマナドに上陸して20日でこのスラウェシを制圧したらしい。 それから'45年までこの島にいたらしい。
多分、彼らは日本軍からひどい目に会っていたと思うがそれには触れずに日本からの珍客を歓迎してくれた。
持参したガイドブック「旅行人ノート4・海洋アジア」に「・・・ふと立ち寄った島で、第二次世界大戦の日本軍の痕跡を見るかもしれないし、
あるいは島の老人から日本語で話しかけられるかもしれない。・・・」とのコメントが最初にあるが、現実に目の当たりにするとは思わなかった。
この他にも年配の人から日本語で話しかけられたり、昔の童謡を聞いたりした。
http://www.asahi-net.or.jp/~PT3S-HSGW/html/asia/indonesia/sulawesi.html
ボルネオの大虐殺は日本では殆ど知られておらず、インドネシアでも知らない人が結構いるが、実はインドネシアの記録では二万人もの市民が短期間で
抹殺されたのである。昭和19年初頭、西ボルネオの守備隊であった陸軍部隊が硫黄島に転戦し、そのあとに190余名の海軍陸戦隊が守備隊として上陸、
司令部はボルネオ西部の要衝、ポンティアナックに置かれた。司令官は学卒という理由だけで下級将校になった素人軍人で、
当時の人口8,000人の町を190余名で守るのが怖くて仕方が無い、
徹底的な反日分子の粛清をやった。密告者には米と砂糖の報償が渡された。
その日から軍の諜報に引っ掛かる反日分子、密告される反日分子はひきも切らず、大部分は何処かへ連行されてそのまま二度と戻らなかったのだが、
中には彼の伯父さんのような話もある。
彼の伯父さんは或る日の夕方突然自宅へ押し掛けてきた日本軍に、問答無用で頭から黒い袋を被せられ、後ろ手に縛り上げられ連行された。
伯母さんはびっくりして一緒に家から外へ出ると、既に数人の男が同じように黒い袋を被せられて捕えられていた。日本軍はそれらの男たちを
ラックに長いロープで括りつけると、町の真ん中の広場をそのままグルグルと息の根が止まるまで引きずり回し、市民への見せしめとした。
伯母さんは、飛びだそうとするのを親戚に取り押さえられ、死にゆく夫を絶叫しながら見守る内に発狂してしまった。
伯父さんは反日運動とは全く縁のない普通の公務員だったそうだ。
http://d.hatena.ne.jp/baiksaja/20090822
http://www.sumai.org/asia/field1986.htm Kさんに誘われ、Toko Ganefoのアサイという中国人の店に同宿させてもらう。Tualを往復する船はこのアサイ氏の所有だ。本名を蔡さんと言う。
お父さんは、日本時代にこの地区のカピタンで、日本軍によく協力して国の発展につくしてくれた、という表彰状を地区の
日本軍司令官サカモト某からもらっている。当主も、台湾からの密漁船(鮫取り)が拿捕されるたびに船員の面倒をみてやるという義人だ。
血縁関係のある別の家では、儀礼の踊りの前触れでしきりに太鼓の音が聞こえる。やがて、赤い衣装をまとった男が二人、踊りながらあらわれ、これが村中を踊り歩きながら、新築の家まで至る。
しかし、この段階で僕には難題が吹きかけられていた。tari adat 30000RP(伝統的な踊り3万ルピア)なる紙片がヨセフの元に届けられたのだ。
張本人は日本語をよく話し、Tualを出るときから「トモダチ」と言ってくっついてきた男だ。彼の弁によると、日本軍時代、隊長をしていたので日本軍とよくつきあったという
。この男はショアル・ヤマンといって、船の中でも「タバコあるか?」と、船頭に渡すはずだったタバコを2箱とも横取りしてしまったのだ。
http://www.sumai.org/asia/field1987.htm 2月 4日(水) 快晴、夕立 Lalao
朝から村人たちと連れだって木の撮影。木の撮影のあとは、伝統衣装をまとった村人たちの記念撮影。
気を許すと,私もよ私もよとばかり際限ない。写真を撮るのはいいけれど、あとの処理に金がかかるから大変だ。
日本時代に日本軍はこの家に起居しておったそうだ。日本時代には盗人はいなかった。盗みをはたらくと、
クギを無数に突き刺した板切れでもってこの盗人の手をたたく。
「おまえがやったんだな」
バシャッ。
手はみるみるうちに血みどろと化す。いまでも日本ではそうですか?
この島にいる猫はすべて日本猫だ。ここでは猫も食べる。猫の肉は鶏肉のような味だという。
日本では犬や猫は食べません、と言うと、けれども日本人は蛇を食べるでしょう、と言われる。戦争中の日本兵はさかんに蛇を捕まえて食べたらしい。
トッケイも食べましたね。それから日本人は甘い物が好きで、何にでも砂糖をまぜて食べていたなあ。
インドネシアの甘すぎる紅茶やコーヒーに閉口しているいまの日本人には意外だろう。
気持ちいい〜!!みんなありがとう!!はじめオランダでpeace walkをやろうと決めたときはただただpeace flagを広めるためにって考えていたけど、
今の自分はBaliの人達のために何かできたら、できることは歩くこと、
Baliの人達がすごく好きになっていた。少しだけ雨がぱらぱらと落ちてきたそれも気持いい。宿で降ろしてもらい出てきた女の子に紹介文を渡す。
タクシーにお金を払おうとしたらいらないって、けどそこまで甘えられない、バックからマルボロをだしてすすめた。「テレマカシー」彼は手を振りながら
夜の街に消えていった。大きな宿だ看板をみると偶然ウブドの知り合いが教えてくれていた宿だった。「Ramayana Loji/ラーマヤナロッジ」しばらく宿の
中庭にあるレストランで主人が来るまで待たされた。あぁ月が出てきたな、もうすぐ満月なのかもしれない。東の山並の上にポッカリ光の穴が空いている。
タバコをすいながらじっとそれを見つめていた。そして主人が来た。机をはさんでまるで面接かのように主人は淡々と昔の日本軍のしてきた行為を話す。
年の頃は70近いだろう、長身でほっそりしていて、Bali人というより華僑の人みたいだ。
「私が1番嫌だったことは同じ年の子供達に日本兵はキャンディを配り、やりたくもない相撲をとらされたんだ、
それを眺めて楽しんでいる日本兵の顔は今でも覚えている」「そうなんだ、日本軍ってそんなことやっていたんだ・・・」
「彼等の前でインドネシア語で喋っていたらそれだけでひっぱたられたんだ」「この歌、知ってるか」というと昔の童謡を歌いだした。
その歌声には怒りと憎しみに満ちていた。それを聞きながら昼間歩きながら思ったことを思い出していた。〜おいらほんとにこの地で
悪いことしていたのかもしれない・・・そのキャンディをわたしていたのは昔のおいらかもしれない、だから今それの償いのためにも歩いているのかもしれない・・・
〜「おじさん、ごめんね。確かに昔の日本の政府は悪いことしてたよね、ちゃんとあやまるよ」といって土下座をした
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」なんだかスッキリした。だったら今の日本の政府もちゃんと
認めて謝ったらいいのに。すっきりするのにな。
http://www.medialabo.co.jp/moon/diary5.htm
http://www.yoshikawatakaaki.com/lang-jap/diaryjp2002nobakkunannba5.html 2002年の「バリ日記」で、激変するウブドの町の中で変わらない店(ワルン)や人がいると書いたことがある。
私が昔、バリ菓子をしょっちゅう買っていたワルン(何でも屋)が町外れにあるのだ。私が最初のバリ訪問で
初めてその店を訪れた1987年から全く変わっていない。周りの家や店や道路がどんどん変わってもその店は
何の影響も受けず、いや、受けるセンスが無く、そのままのたたずまいだった。むしろどんどん風化しているので
重要文化財のごとくかえって異様に目立っていたのだった。売っている品物も相変わらずのものばかり、しかし私に
とってはこの店が落ち着き、一歩中に入ると妙に居心地がよく、つい通ってしまっていた。変わらないことも「静かな凄み」
だとつくづく思う日々だった。
昨日3年ぶりくらいでその店の前を通った。驚いた事に、というかやっぱりというか全く同じまま現在もワルンを
経営している。この店のおじいさんも健在で、私が覗くと中から出てきてくれた。もう年はおそらく85歳を過ぎていると
思われるが、まだまだお元気そうだった。ちょうど今から髪の毛を孫に切ってもらうんだと言って、椅子に座り始めた。
これは面白いぞ、とピンと来た私は、とりあえずカバンの中からスケッチブックを出し、ラフスケッチを何枚も描いた。
彼の名はレノさんと言って、戦争を体験しているので、その頃日本軍が教えた日本語を今でもかなり覚えていて、
日本の歌も歌うことができる。彼の日本語を聞くたびにちょっと複雑な、申し訳ない気持ちになるが、彼はそんな事
お構い無しに相変わらず上手な日本語でいろいろ話しかけてくる。彼と私との仲はもうそろそろ20年!になるのだ。
凄い年月になってきたなあ…。
10.ネロさんが唄った串本節
太平洋戦争も末期の昭和19年、ネロ少年の住むネリガム村の日本軍の小部隊が駐屯した。
ネリガム村はパプアニューギニア島ウェワクの海岸からセビック河を車で5時間ほどさかのぼった山深い村である。村の人々は親日的であった。
やがてネロ少年は、兵隊たちの炊事手伝いに雇われて働くことになった。
そんなネロに「二郎」という日本名をつけて弟のようにかわいがったのは和歌山県串本出身の兵士サカイであった。
ネロはサカイが望郷の思いをこめて唄う串本節や、ネロのために唄ってくれた童謡の鳩ぽっぽや桃太郎、金太郎などを、いつか覚えてしまった。
が、そんなのどかな生活もながくはなかった。
戦況は絶望的であった。
半年後、ネズミのように追い詰められたサカイたちの隊は村を発ち、ジャングルの中に消えていった。
戦後、32年たった昭和52年、ネリガム村に再び日本人が姿を見せる。
ニューギニアの各地を取材中のテレビの一行であった。
カメラは、串本節を唄う長老ネロ・ナナシンビの姿をとらえた。
「ニューギニアの山中で、正調串本節が・・・」
テレビの画面は。串本町の人びとにはげしい感動をあたえた。
こうして串本の町からまねかれてネロがやってくる。
英語を話せる甥のドビヤス・ウェリックを同行したネロは、町役場の車で歓迎場にむかった。
ながい式次第のあと、ネロは求められて串本節を唄った。
唄い終わるのが待ちきれず、拍手がわきあがった。その次に、桃太郎や金太郎も唄った。
いずれも片ことの一節だけのものであったが、終わるたびに町民たちは歓声をあげ、掌が痛くなるほどの拍手をおくった。
http://www.oyadoebisu.com/sub02-kushimotonominwa.htm
■親日的な人が多かった所以は…
2番目に感じたことは、親日的な人達が多いことです。
島の人々の歓迎会の中で、戦時中の日本の歌を唄う老人が何人もいました。“さらばラバウルよ”とか“見よ東海の空あけて”などです。6
0数年前、日本の兵隊達から習い覚えたとのことで、大変親日的な人達ばかりでした。
島からラバウルヘ戻った夜に、政府関係者、日本大使館領事と地元ラバウル・ロータリークラブの会長らが参加した歓迎会が開かれましたが、
その際に、ロータリークラブ会長が、こんな話を紹介されました。
「現在のパプアニューギニアの総理大臣は子供の頃に日本軍隊が作った学校で学び、先生はキャプテン柴田という軍人が専任で教えて下さった。
今の自分があるのはこの人のお陰であり、現在はもうこの世にいないけれど、
奥様が日本におられるので、時々手紙を差し上げている」
キャプテン柴田とは、陸軍か海軍の若手将校だったのだと思いますが、このように日本の兵隊が島の住民に歌を教え、
将校が子供に読み書きを教えたということ。そのような日本軍隊であったことを、日本国民としても誇りに思って頂きたいと思います。
この軍人達の多くは“水漬く屍、草むす屍”となって帰らぬ人になられたことでありましょう。
http://rid2650.gr.jp/archives/2004/pages/getshin/050315/index.html
http://j-support.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/14_9a4c.html この小さな島でなぜ協力隊日本語教師の要請があったのかというと、以前は日本語の流暢な島民によって高校で日本語教育が行われていたんですが、
現地人日本語教師が高齢になったために新たな日本語教師を探していて、その時期とミクロネシアへの
協力隊の派遣が始まる時期が重なったからだと聞いています。
1914年から1945年まで日本がミクロネシアを含む太平洋地域を広く統治していました。学校ではすべて日本語で授業が行われ、日本軍などの影響でさまざまな
日本文化が入ってきました。それで、日本語が外来語として取り入れられ、その他日本文化も残っています(米食・運動会など)。
日本統治時代も現地人と日本人は友好関係を保ち、その間にインフラの整備やさとうきび工場建設による雇用の確保が行われたため、日本のイメージは良く、多数の親日家がいます。
そのため、公的な学習期間での日本語教育を望む声があったため、高校の科目になりました。建前は、(日本語を話せる)お年寄りと高
校生が日本語で会話をするために・・・ですが、教員不足の解消のためのマンパワーと、授業にバリエーションを加えたいという教育局や当時の高校の本音も垣間見られました。
集落のずっと奥、明るい林に囲まれた一軒の民家を訪ねた。
そこには一人の老婆が住んでいた。山岳民族パオ族の女性で、ここが日本兵がいた村だと聞いてやってきたと告げると、当時の話をしてくれた。
老婆の夫はもうだいぶ前に亡くなったのだが、日本語を話すことができたので、
戦時中は日本軍の通訳の仕事をしていたという。彼女自身の戦時中の思い出はほとんど無いが、
戦後、夫からその頃の村の様子などをよく聞いていたという。
彼女の家の場所がちょうど、日本兵たちが食事を作る炊飯所だった所で、家の前の大きな木は
日本兵が辺りを偵察するためによくよじ登っていた木なのだという。
話を聞いていると、集落が昔と変わらないたたずまいを見せているだけに、戦時中の光景が生々しく
脳裏に浮かんでくる。六〇年以上も前、確かにここは戦場で、日本人がいたのだ。
http://myanmareye.exblog.jp/12654334/
http://www.potomak.com/bali/ubud/vol-26.pd 久しぶりの人物紹介。セニマンとはインドネシア語、バリ語でアーティストのこと。それが職業として成り
立っているかどうかは別として、とにかく芸術にたずさわる人で、特にその道で名の通った人のことをいう。
それは賞賛の言葉でもある。今回はそのセニマン中のセニマンである、ボナ村のシジョー氏を紹介しよう。
■ダランの勉強はどんなふうになさったのですか?
「ダランの勉強はな、わしは自分でカウィ語の本を読んで学んだのが最初だ。
若い頃、日本軍のとりしきっとる学校に行くのがイヤでね、日本の歌だけは今でもいくつか覚えとるなあ。
…部隊訓練といって、ヤリ攻撃の練習をするのがイヤでイヤで、仮病を使って家に閉じこもって本を読んでばかりいた。
それが、今考えると、ダランになるための基礎を学んだことになるわけだ。」
ご存知のように太平洋戦争のとき、
日本軍はインドネシアにも兵を進めておりました。
バタビア(今のジャカルタ)のあるジャワ島はもちろん、
セレベス島(今のスラウェシ)にも、スマトラ島にも、
日本軍の基地はあり、今でも、70を越えたお年寄りは日本語を話したり、
カタカナが書けたりします。
インドネシアは、当時400年にわたり、オランダの統治下にあり、
バタビアには東インド会社の中継地があり、歴史の時間に習ったあの、
シーボルト先生も、バタビアに日本から多くの書簡を送ったりしています。
日本軍がインドネシアに入ったのは、オランダの統治に苦しむ
インドネシア人を救い、開放するためでした。(これはもちろん表向き・・・)
大東亜共栄圏を作るためにどうしてもこの土地が欲しかったからです。
http://www.rakuten.co.jp/doaindonesia/458340/465235/
昭和33年とは1958年.当時の貨客船での船旅というものは,こういうものだったようである.
なお,国内旅行中のスラバヤ〜マカッサルの二晩三日の船旅については:
スラバヤから500トンほどの小さな貨物船に乗船した.貨物船はデッキの上まで荷物と乗客にあふれていた.
船は重量制限を越えており,港湾長は出港を拒否したが,
戦争中日本海軍で訓練されたというブギス人の船長は,自分が責任をとるといいながら,無許可のままで出港した.
http://sanggar.exblog.jp/3471210
1984年のスハルト政権時にタンジュン・プリオクでイスラム教徒の青年が商店や車を焼き討ちにする暴動事件があった。
治安当局は暴徒に発砲して鎮圧し、少なくとも30人が殺された。
そもそもタンジュン・プリオクは港湾労働者の町である。そこに住み着いた人には敬虔なイスラム信者である
スンダ人、ブギス人、マドゥラ人の住民が多い。イスラム教徒からスハルト体制への批判が高まった際に、タ
ンジュン・プリオクで騒動が発生した理由はこのような地域事情がタンジュン・プリオク事件は1974年のマラリ事件(→390)と併せて
スハルト体制への批判に対する当局側の実力行使であった。
今後もジャカルタのイスラム教徒が何か過激な行動を行うな多くの日本人にタンジュン・プリオクの名は苦い記憶となっている。
戦時中の昭和19年に起きた大朝丸の積荷に火薬爆発で多くの犠牲者を出したが、日本軍は緘口令をひき、事件を闇に戦後ではジャワ島に
進駐してきた連合軍は港湾の荷役労働に日本人を動員した。商社マンなどの民間人は一転して敗戦国民となり、
最底辺のクーリーとしてタンジュン・プリオクで兵のそもそもジャカルタの前身であるバタビアの都市計画は
オランダの手によって作りあげられた。
http://badmintonplayer.web.fc2.com/E382B8E383A3E382ABE383ABE382BF.html
短編小説であるが、ほぼ作者の周辺に起きた事実だと思われる。
大東亜戦争中、日本軍の軍属になった、インドネシア(当時はオランダ領東インドであるが、以下インドネシアとする)
生まれのインドネシア・日本の混血人がいた。(父が日本人、母がインドネシア人)
戦争中にインドネシア人の女と結婚する。
戦争が終わって、インドネシアに残ろうとするが、英軍に抑留され、日本に送還(といっても、
日本に住んだことなどない、日本語も不自由な男である。)される。
同行の妻は、送還船(復員船)の中で、流産し、以後こどもができない。
日本にいっても、夫は日本社会に帰属できるわけはない。やむなくオランダの会社の仕事をしている。
そんななかで、偶然東京で会ったのが、インドネシア軍政時代に知り合ったひとりの
インドネシア人(作者、モフタル・ルビスであるとおもわれる)だ。
彼(つまり、作者であるモフタル・ルビス)は、軍政時代、宣伝部の仕事をしていた。
東京にいたのは、朝鮮戦争取材のための報道員として、ここ東京に立寄ったためである。
日本軍占領時代は、軍属として日本側にいた混血児も、いまや敗戦国の人間である。
一方、作者の分身である報道員は、欧米のジャーナリストとともに、日本人立ち入り禁止の
外国人専用クラブに出入りできる身分である(以下、主人公とする)。
http://blog.goo.ne.jp/y-akita-japan/e/8f8750a4af382a7f9e16f99cf7d6ac71
ラジャデインともマルワ以上に親しくなった。
「日本軍政時代サルタンの子弟だけの特別学級があってな。皇居に向かい最敬礼!ってこう頭を下げる
のよ。これ困るのよ、儂等が頭下げるのはアルラーの神と両親だけでしょ。愛国行進曲、意味も解らず
歌わされたものよ。'やさしい兵隊さん、僕らの兵隊さん'て歌っている隣の教室じゃあ、バッキャロウって
そのやさしい兵隊さんに殴られたものさ。君の国が敗けた日に二機のゼロファイターが舞い上がってな、
あらゆる空中サーカスを演じて、最後にハラキリ自爆で海に突っ込んだ。理由はどうでもサムライの
美学だな。
独立すればどうなるかはよく解らなんだ。まだ子供だっだ。しかし村の男が引括られて帰らなければ、
やらにゃならんだろう。ウエスターレンは六万人虐殺したといわれたら、四ヵ月でそんなには殺せない、
四万人の間違いだと答えたという。私の父や弟、マルワの父さんはその頃の犠牲だ。ゲリラでオ
ランダ兵を探し回ったが、相手はアンボンやミナハサの雇われ兵で儂と同じ色の敵だった」
十七才かそこらでの私は、田舎でたらふく喰って遊びほうけていただけだ。
http://www.world-reader.ne.jp/fiction/iori-000506.html
http://www.singapore-travel.jp/littleindia/india1.html この通りのセラングーンロード側の入り口付近に、スパイスをひいているお店があります。機械があって、おじさんが
いるだけのところで、
特に何を売っているわけではないのですが、強烈なにおいに誘われて、このお店の前でじっと中をのぞいていたら、
70歳くらいのおじいさんが手招きして、中に入れといってくれました。話し始めると、日本人かというので、そうだと答えたら、
おれは日本語を少し知ってるぞというのです。簡単なあいさつ言葉などを聞いたりしていたら、今度は日本の歌も知っているというのです。で、おじいさんが歌い始めた歌が、
何と軍歌。聞くと、戦争中に日本軍の兵隊が教えてくれたそうです。何とも複雑な気持ちになってしまいました。
白髪の老人ですが、運がいいと話す機会もあるかもしれませんね。
日本の多くのメーカーはインドネシアを重要な市場と考えているだろうし、石油など資源の供給源として不可欠な存在でもある。
日本が太平洋戦争で占領したのも資源供給のためだったといわれている。1945年まで3年半の日本軍政支配を受け、
初代スカルノ大統領の第三夫人は日本人(そう、あの「世界のデビ夫人」だ!)。インドネシアにくると日本でまったく縁のなかった
退役軍人のおじいさんたちとなぜかよく会う。ものすごい辺鄙な島に日本軍の痕跡がある。ここまで来て一体何がしたかったんだ?!と思ってしまう。
下の写真のおばちゃんの黄色いカバンはどう流れたか日本の幼稚園児の中古品。援助物資なのか、とんでもないところで日本の中学の体操服を
きているおじさんに出会ったりする。「田中」とかゼッケンまでついてたり。いろんなモノから海を超えたつながりが考えるのも楽しい。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/kendjoko/main.html#dairy
中井国家公安委員長は、就任間もなくでしたか、取り調べの全面可視化と抱き合わせで、捜査力の補強のため、おとり捜査と司法取引の導入を言っていました。
取り調べの全面可視化と引き替えに、おとり捜査と司法取引とは、官僚に取り込まれたのかと思っていました。
犯罪を誘発したり、容認したりする、おとり捜査と司法取引より、取り調べ技術の向上、科学的、心理学など、捜査技術の向上の方が先だと思います。
今回の発言を聞くと、そうでもなかったようです。
記者会見はこれまで、公安委員長自らでなく、警察庁長官、官僚がおこなってきたものを、公安委員長主催で行うことに変えたそうです。
さらに、補充の国家公安委員をこれまでは官僚の人事案を踏襲するだけだったのを無視して、高木元連合会長に決めました。
今後は国家公安委員会の事務局が全員、警察官であるのを、法律で変え、民間人にするといっていました。
大臣たちが官僚主導政治の飾りだったように、国家公安員会も警察の飾りだった訳です。
警察を監視監督する国庫公安委員会が、警察に監視監督される立場だった訳です。
検察も警察も、国民が監視できる体制が絶対に必要です。
一つは、取り調べの可視化や記者クラブの廃止、裁量権の公開など、徹底的な情報公開と、幹部の政治登用です。
検察も検察を監督する国家公安委員会なるものがあっても良いかも知れません。
検察審査会がその役割を担っても良いかも知れません。
国家公安員会が政治家に牛耳られるのを危惧する場合もありますが、今の官僚が実権を握るよりは、少なくとも国民の半数以上の支持を得た政治家が実権を握る方がはるかにマシです。
政治家もマニフェストや、透明性を高めれば、国民のコントロール下にあり、政治の暴走も防げ、政治家主導の方が民主的と思います。
公平中立な第三者機関でも勿論良いですが、公平中立を如何にして担保するかが問題と思います。
1968年3月、大統領として初来日したスハルト氏は、多忙な公務の中で土屋氏を真っ先
に探し出し、宿舎のホテルに招いた。その時のことを土屋氏は自著の中でこう書いている。
「この方が私の先生の土屋さんだよ」と傍らの夫人に紹介した。夫人は「主人はいつもこ
うして現在の立場になれたのは土屋さんのお蔭だと申しております、有難うございます」
土屋競氏は数年前逝去されたが、戦友たちの評は清廉潔白の人だった。彼と大統領と
の関係を知り、日本の商社やメーカーからアプローチがあったが、一切断った。腐敗と癒
着が渦巻く国である。立場を利用すればカネ儲けはできた筈である。
僕がジャカルタに滞在していた42年前には、僕の周囲に日本の軍政時代を知るかっての
兵補(軍隊の補助兵)や義勇軍出身者が沢山いて、昔の日本の軍歌や流行歌を一緒に
歌ったものだ。スハルト氏の訃報に接し、改めて一時代の終わりを知った。
http://blog.goo.ne.jp/bagus_2006/e/899a63bc3a5c5d0e233c9245072b6e71
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/8239/nagasepaha4.html そのうちおばあちゃんがやってきた。どうやら敷地内にある小屋に一人で住んでいるようだ。私たちにバナナとりんごをくれた。昔は山の中に住んでいたが、
今は村の中に住むようになったと言っていた。小屋の中は寝床だけの簡素な部屋だが、何枚もの布が几帳面そうにきれいに整えられていた。
グンデルの演奏が終わったあと、Ngurahはじめ4人が「日本の歌を知ってるよ」と言って歌い出す。耳をよく澄まして聴くと、
今まで聴いたことのない歌だけど、メロディーから軍歌なのではと思う。50年前に旧日本軍から教えられた歌だという。
今から60年ほどさかのぼる、太平洋戦争が勃発した1942年に旧日本軍がサヌール海岸に上陸し、デンパサールに侵行している。
そしてバリ島北部の、この人里離れた桃源郷のような村にも進駐の手が及んでいたかと思うと、何とも言えない気持ちになる。何か言おうとして、
言葉を慎重に選んでいる私にNgurahは「君の言いたいことはわかるよ、確かに昔は戦争や侵略があった。でも今は違う。
国が違ってもお互いこうして気持ちを分り合えるし、友情を分かち合うことができるでしょう」と。続けて「この村は町からはずれた
小さい村だ。がしかし、クラフト、ペイントアート、ワヤンクリットなどの音楽と芸術・芸能の豊かな村でもあるんだ」と話していた。
Ngurahの家に戻る頃、おばあちゃんとの別れ際に、その折れそうな細い腕で強くわたしのからだを抱きしめる。
おばあちゃんは私を放そうとしない。あばあちゃん泣いている。涙がこぼれ落ちそうになるのをこらえる私。
思えば今までバリ島の女性に何度強く抱きしめられただろう。心が溶けてしまう瞬間。
このままずっと時間が止まってしまえばいいのにと思う。
湖の奥まったところにある島では、パプアの伝統的な主食サゴヤシの精製?を行っていた。葛湯をもう少しもったりさせた感じにして食べる。
到着した島では地元のおじいさんに昔話を聞く。国生み伝説や戦時中の日本軍の話。ここでもポスト植民地話。
お昼は湖畔のレストランで。食前に悪のりしたパプア人の奨めに悪のりして人生初のビンロウを試す。
インドネシア語ではピナン。ビンロウを例にした、このあたりの異なる言語の音韻対応について、何かで読んだことがあるので感慨深い…
などと思うまもなく酩酊。アルカロイド系成分を含むため、軽い興奮と酩酊が…(wikipedia)。台湾では親戚たちから食べちゃだめだと言われ、
行く度に気になっていたビンロウ。母に食べてはだめだといわれていたものを食べる喜び、禁忌を破る喜びは普遍的なはず。
http://njmnjm.blogspot.com/2007/12/1221papua.html
像の両側には,インドネシアの独立に至る過程が,レリーフで描かれています.左の写真は,日本占領時代を描いたもので,右の説明板には,次のように書いてあります.
日本占領時代
・強制労働/スラバヤの労務者(訳注:レリーフの左上)
・若者の訓練(左下)
・物資や食糧の徴発(右,日本軍に物資を供出する人の行列の横に,餓えて倒れている人がいる)
・Kidunganの中でのCak Durasimの役割(中)
最後の行は何かというと,kidunganとはジャワ語の「詩吟」で,Cak Durasimという歌手が,日本を批判する歌を歌ったことを示しています.
レリーフの真中あたりにいる人がそれで,吹き出しの歌詞は,"Pegupon omahe doro, melok nipon tambah soro"と書かれています.
ジャカルタ日本人学校のサイトにある,「JJS国際ニュース No. 20」の記事(ページの中程)によると,この歌詞は,「プグポンは鳩の家,
日本に従い苦労が増える」という意味だそうです.スラバヤ工科大の共同研究者のAgus Zainal Arifinさんによると,前半はとくに意味はなく,
本当に言いたい内容である後半と韻を踏む形になっているのだそうです.日本の憲兵隊は,この歌を歌った人を次々に逮捕しました.
そのため,ずっと後の1970年代になっても,子供時代のAgusさんがこの歌を歌っていて,叔母さんに叱られたそうです.
http://laskin.mis.hiroshima-u.ac.jp/Photos/200808/
私はそのように思っていませんので誤解しないで下さい。戦争ですから日本軍に
残虐行為は有ったでしょうし、それも数え切れない位有ったと思います。
しかしアメリカが日本に原爆を落としたのも、ソ連が戦後日本の捕虜をシベリアで
殺したのも事実です、それを彼らは口をつぐんでいるのに、日本の侵略を50年間
指弾され続けて来たのは、日本に自分の国を加害者にして満足している「自虐的」
人達が居ると云ったので、私は日本軍の残虐行為が捏造とは決して思っていません
たまにインドネシアの年寄りから、昔日本の兵隊に殴られた、日本人は残虐だと
云われた経験が有ると思いますが、それはインドネシア人だから特別殴って虐待
したのいでは無く、当時の軍隊だけではなく、小学生(国民学校)まで鍛えると
云って殴られていたので、日本では普通で有った事でも、受ける側は虐待と
受けるその様な行き違いは、捕虜虐待でも有り、無実の日本人が処刑された事も聞いて
います。
http://yorozu.indosite.org/bbs/messages22/8195.html
私は他の国の事はわかりませんが、例えばインドネシアの場合、戦争中この様な事が有ったとインドネシア人から云われる事は有りますが、それに対して謝罪を要求
されたり、非難されたことは有りません,毎早朝ゴルフで退役大佐の老人グループ
と一緒になりますが、この人達は戦争中、兵補、義勇軍として日本軍に訓練されたので、中心になって独立戦争を戦うことが出来たと、
例えば日本兵に訓練で殴られた事等、当時のことを色々話してくれますが、恨むどころか反ってこれらのことを
感謝しておりました。
逆に独立で武器を必要としたインドネシア人が、武器を奪うためスマランのブカシで、丸腰の旧日本軍人86名を殺害した事件、ブルー刑務所に収容されている日本人
百数十人を惨殺した事件等有りますが、これらの事も日本軍の残虐と云われる行為も、戦争だから起きたことなので、この事を一々取り上げて、日本の侵略がどうの
残虐行為がどうのと云ってみたところで埒があきません、それを今だにわざわざ取り上げて、日本を加害者にして満足しているグループが有りますが、
この問題は全て終わったと思って良いはずです。
http://yorozu.indosite.org/bbs/messages22/8289.html
http://www.geocities.jp/hkbtls/hakerek/Hakerek11/can_we_just_japan.html 寄る年波、立ち話は辛いのか、藁葺屋根の軒下に腰掛ける白い顎鬚のご老人は昔、ここの村長だったという。このご老人はわたしが日本人だと知るや、
日本軍がここにいたことを話し出した。タラ中尉の通訳してくれる。「ここいらへんにも日本軍が来たなあ。日本軍が来るとオーストラリア軍は逃げちまった。
3年ほどいた。あっちの上の方で宿営して自分たちで作物を植えていたよ」。
日本兵は何名ぐらいいたのだろうか、50〜60人か、100人〜200人か、わたしがたずねると、人数は覚えていない、ともかく大勢だったという。
日本兵が自分たちで作物を植えていたというが、食料を住民から奪うような行為はなかったのかとわたしがきくと、物資や食べ物を盗むことはしなかったし、
住民を殺すこともしなかったといい、日本兵の住民にたいする態度は悪くはなかった、こう元村長はいう。
ここの村民は主に日本兵を助けたのかとくと、ある者は日本兵についたし、ある者はオーストラリア兵についたという。
そして、こちとら武器がなかったから殺されないように立ちまわったともいう。
客人であるわたしが日本人なので気分を害すことなく日本軍のことを悪く言わないように立ちまわっているのでは?
と勘繰ることもできようが、おそらくこのご老人は正直に記憶をたどっていると思う。まだ尊敬の念を集めている元FALINTIL司令官が通訳してくれているからだ。
3年ほど村に駐留した日本軍に悪いイメージをこの元村長が抱いていないとしても、東チモールを日本軍が3年半軍事占領したのは歴史的事実であるし、
それは紛れもない侵略行為だった。そのために東チモール人は生命・財産を失うなどの多大な犠牲を払わされたのも事実である。
ただし、日本軍が東チモール人に与えた被害の詳細な調査はされていない。つまり日本は第二次世界大戦中に
東チモールにしたことについてカタをつけていない。
このレポートNo.8で紹介した"CODE川(チョデ川)"のバンブーハウス群は、今も日々変化を遂げている。わずか数時間の訪問だったが、
私たち日本人にとっては忘れられないできごとに出会った。迷路のような川沿いの集落を歩いていると、真っ黒に日焼けした老人が、
畳2枚くらいの広さのバンブーハウスでマッサージをしていた。
そのお爺さんは私たちを見ると日本人とわかったのか、「こんにちは!」と大きな声で声をかけられた。「えっ!」と一瞬立ち止まり、家の中を覗き込むように
その老人と話しはじめた。彼は日本軍との戦争で「衛生兵」として日本軍で働いていたそうだ。しばらくすると彼はゆっくりと「君が代」を歌い出した。
特に災害援助で、アジアの国に来て最も考えさせられるのは日本軍がもたらした「戦争」だ。何も語ることは要らない!なんら解説も要らない!
この老人が朗々と歌う「君が代」がすべてを語っている。日本とインドネシアは、切っても切れない関係があるのだ。
一方、皮肉なことに、日本とインドネシアはアジアでも有数の地震国でもある。もっと昔の1万年もまえに遡ると、
同じ先祖であるという説もあるのだが、それはさておき、阪神・淡路大震災という大地震を経験したKOBEの市民として、
お互い減災社会を目指して、国境を越えての民際交流を永続的なものにして行きたい。「災害」には、戦争もあることを肝に銘じながら。(完)
http://code-java.seesaa.net/article/29605878.html
http://www.arainodendo.com/konjaku/10sakkin.html ジャワ島の日本軍
お風呂で皮膚病→バイキンうようよ→殺菌→銅イオンの殺菌効果、とアタマがグルグル連想・・・
『アカすくい』で銅の殺菌効果を調べて、リンク友だちになった日本イオンの中島社長さんに、突撃取材をしました!
中島さんのおとうさんが、第2次世界大戦で出征したジャワ島で、日本軍が水の殺菌に銀を使うのを知ったのをヒントに、
戦後、銭湯の殺菌装置を開発したのが会社の始まりとか...
な・ん・と・ビデオマンさんの思い出と、戦争でつながりました・・・
私のインドネシアのスタートは、ウジュンパンダンからで、何年か住んでおりましたが、戦時中の非難は一切有りませんでしたし、逆に日本はインドネシアの、
兄であり姉であると云われ、異常な位の親日でしたので、Maaさんがカリマンタン
(当時のボルネオ)で、云われたのは、決して社交辞令ではないと思います。
その後スマトラ、ジャワでは、当時の日本占領時に対する非難は、何回か聞きましたが、何処でも共通に云われる事は、日本がインドネシアをオランダから開放して
くれたので(日本の意図は別かも知れませんが)独立が出来たと云う事でした。
http://yorozu.indosite.org/bbs/messages21/8016.html
http://yorozu.indosite.org/bbs/messages21/8011.html 実際の日本軍インドネシア統治を知らない私に、断定的なことを言う資格はありません。軍政支配の実態は、歴史上のすべての
戦争・支配=被支配関係と同様に入り組んでおり、一言で言い表せるような単純なものではなかったのだと思います。
ただ一つだけ確かだと思うこと、それは、戦前日本の軍国主義的規律や体罰主義が、ひどくインドネシアの人々を傷つけたということです。
ある日、うちの女中が「戦争中の日本人はすごくjahatだった」と言うので、「どうせ学校で習った愛国主義的な歴史をそのまま真に受けているのだろう」程度に
考えていましたが、話を聞くと、彼女の父は年配で、従軍経験があり、その父が家族によく自分の経験を語って聞かせたのですが、
その父によれば、日本兵はよく暴力を振った、特に「手でなく、足で蹴られた」ことを繰り返しくやしそうに語ったそうです。
偉い人ほど鷹揚に構えることが美徳とされるこの国で、支配者の突発的な感情爆発で足蹴にされることがどれほどの侮辱か、
当時の軍国日本の規律に染まった兵士たちには想像も付かないことだったでしょうが、その屈辱の思いは、こうして子供たちに語り継がれているわけです。
翻って、現在の我々が同様の苦痛をインドネシアの人々に、知らず知らずに与えていることはないでしょうか。
形は軍事侵略から経済進出に変わったけれども、たとえばある日系企業の駐在員が、「ここのたるんだ奴等に本当の仕事のやり方というのを
見せてやる」と張り切って、怒鳴りつけ、警告書はばんばん出す、残業はつけてやんない、それで会社に忠誠を示せ、というスパルタ式の規律を
強要した例を知っています。これなど、インドネシア人のメンツを無視して日本式価値観を押し付けたという点で、戦時中と変わりありません。
その駐在員は「お前らのためだ」というお馴染みのフレーズを
口にしていましたが、逆に本家本元の日本で旧来の価値観が音を立てて崩壊してしまった現在、
ローカル社員にあれだけ厳しくしたのは結局何のためだったのでしょう?
http://blog.4en.jp/kobemyanmar/1/article/29/ ○ 校長先生
ピンウールイン第22小学校の校長は女性である。2004年夫と初めて学校を訪問した。翌2005年私が再び学校を訪れた際
「今回どうしてご主人が来られていなしの」と校長と教頭が私を迎えてくれた。
この校長は街で店の手伝いをしている未就学児童を見つけては、数年遅れても就学させている熱心な教育者である。
校長は「私たちは退職すると僅かな年金しかない」と言われた。
私は夫と訪問したときに、この学校で日本の童謡「めだかの学校」を指導した。先生方や児童たちは初めての
日本語の歌で、教えるにも覚えるのにもきっと苦労したことと思う。
2004年11月22日この会の横山会員が贈られた校舎の落成式が行なわれ会員も多数参加した。
この式典で全校児童による「めだかの学校」の斉唱があった、私は感動を覚えた。ここでも教育の熱心さを感じた。
○ ウーチーマンさん
彼はラカイン族で82歳である。私が西海岸グェンサンビーチに滞在中「戦争のことを人の話を聞きたい」と希望を
言っていたら、詳しいことを知っている長老がいることを知らせてくれた。
彼は村で雑貨屋を営んでいた。戦争当事は広い農場を持った農家であった。
戦争中、日本軍はラカイン山脈を越えて南下し彼の村に進駐し、800人の兵士がこの村に駐留した。
日本軍に農作物をとられることはなかったが、乱暴な炊事兵がいたと言う。
彼には漁師の弟がいた。ある日、その弟が沖へ漁に出て船ごと流されてシンガポールへ漂着をした。
そこで日本軍の宿舎で働き日本語を学んだ。日本兵は弟がビルマ出身だと知ると、数人の日本兵とふるさとへ連れ戻ってきてくれた。
ある朝、弟が「兄さん大変だ! 日本兵が、あなたの妻と母親が美人なので、男を殺して自分の妻にすると言っているよ!」と知らせに来た。
「私は、2人を森の奥深く隠したよー」「でも、日本人を憎んでいない」と言われた。静かな話し方の長老だった。
梅農園近くの老婦人
ピンウールィンに当皆好会農業支援の梅農園があります。
農園近くに住んでいる男性も農園作業の手伝いに来てくれる。
その男性が、「うちの母は80歳を超えているが、60数年前日本軍が進駐してきたときに、炊事班の手伝いをしていたことがあると言っていた」と
通訳を通じて話が出た。
その時は権藤常任理事と北山が早速その家を訪問した。
その老婦人は「私は若いとき、日本軍に炊事班の手伝いをしていた、英軍は爆弾を落としたが、離れていた所だったので被害はなかった」などの話があり、
「私は、日本人は兵隊しか知らない」と言い「日本の女の人に会いたい」と言った。
翌年に当会シルバーカレッジグループ12名がミャンマー福祉ツアーを組んで、梅農園も訪れ、老婦人宅を訪問(写真)した。
老婦人は「兵隊さんは男の人ばかりだったので、日本の女の人に会えることができて、大変嬉しい」と言って、一人ひとりの手を握った。
ミャンマーには、このような方がまだたくさんいるだろうと思った。
常任理事 北山秀俊
http://blog.4en.jp/kobemyanmar/1/article/38/
夫が亡くなってからもずっと一人で仕事を続けているらしい。
年齢を聞くと、70才だという。それを聞いて僕が思い出したのは、戦争のことだった。
先の世界大戦では、日本軍はここインドネシアにも侵攻しており、かなりの虐殺を行ったと聞いている。
彼女もその戦渦を巻き込まれている可能性が高い。
彼女の気を害さないことを祈って、おそるおそる聞いてみた。
「戦争の時はどこにいたの?」
「ジャカルタさ」
空恐ろしくなって、次の質問が出来なかった。ジャカルタには日本軍が来たはずである。
「ふーん」と平静を装っていながらも内心おどおどしている僕の心を見透かしてか、彼女は続けた。
「日本人は大好きだよ。」
まるで僕を許すかのように言う。彼女の心の記憶には「戦争」などという黒雲は広がっていないらしい。
あるいはもうそれはとっくの昔に乗り越えたのか。
「日本人は大好きだよ。」
もう一度彼女は繰り返す。
そういいつつ彼女は出会ったときから変わらない笑顔を続けていた。その笑顔には70年の歴史が詰まっているかのような
重みのあるメッセージが埋まっている。そのメッセージに僕は押しつぶされそうになっていた。
そして、あともう一つ彼女が何か言えば、僕の目に浮かべられ始めたものがこぼれ落ちていたところだった。
http://eiji.main.jp/tvasinjw09.htm
あとバリでも感じたけど、インドネシアの男性は結構下ネタ好き。
そっち系の話を結構ふってきます(笑)
でもそれは日本人も同じ事で、逆にインドネシアで日本人の男性が
そういう夜遊べるような所で遊んでいるせいかもしれない。
ヤントさんもガイドをしていて日本人のおじさん(50?60代)に紹介してと言われる事がよくあるらしい。
バリでも夜蝶々は日本語でなんて言うの?って言われて意味がわからなくて「売春婦」だと
わかったのは説明されてからでした。
その時の話の流れでも「売春婦」と「従軍慰安婦」の違いはわかる?と聞かれて
もちろんわかったんだけれど、第二次世界大戦中に日本軍がインドネシアの女性に対して行った事を、数十年経っても同じ日本人として恥じました。
でも根本的に下ネタは好きなのかも。
ヤントさんとも温泉の話になって(ジャワ島にも火山があるので温泉がある。でも日本のようには入らない)
日本の温泉は水着を着るのかと聞かれたので「裸だよ」っていったら驚いていたので
食いついてくるかな?(笑)と思って「混浴」というのもあるよ、と言ったらやはり食いついてきた(笑)
http://winter-cherie.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/index.html
●インドネシア伝統舞踊上演 舞踊家:ユスティナ・アナさん
●ビデオ上映「沈黙をやぶって 女性国際戦犯法廷の記録」
●講演「インドネシア 日本軍慰安婦のインタビューから」講師:木村おっちょさん
今年の5月27日大地震が発生したジャワ島中部ジョグジャカルタは、福岡在住の舞踏家ユスティナ・アナさんの故郷です
観光地バリや美しい伝統工芸品や音楽など無形文化で名高いインドネシアは、日本と関わり深い歴史を持っています。
日本が太平洋地域に戦火を拡大した1940年代、日本軍はインドネシアの各地にも慰安所を作りオランダや現地の女性たちを
閉じ込めレイプを続けました。2万2千人以上の被害者が明らかになっています。
木村おっちょさんは、宣教師の夫と共に15年間インドネシアに在住し、現地のストリートチルドレンなど貧しい人たちを支援してこられました、
また、各地を回り日本軍性奴隷制の被害者のインタビューを行い掘り起こしてこられました。
ぜひ、インドネシアの文化と歴史と現実に触れてください。
http://blog.fuku-heiwa.main.jp/?eid=607510
州都マナドは太平洋戦争時、オランダ領東インド(現在のインドネシアに相当する地域)に日本軍が上陸した最初の地である。
1941年12月8日、日本軍がハワイの真珠湾に奇襲攻撃を加えた約4時間後に、オランダはオランダ領東インドのラジオ放送を通じて
日本に宣戦布告を行った。翌42年の1月11日、日本軍は蘭印作戦に踏み出し、セレベス(現スラウェシ)島のマナドに上陸し占領したという。
しかし、マナドでの占領政策が当時としてはかなり細心に行われたため、地元民との関係は比較的良好であり、その後も
親日的なイメージが保たれている。また、兵隊との混血児も多かったようで、現在でも一定数の日系人が存在している。
その日系人を中心に近年日本への出稼ぎ労働者が増加しており、日本での労働に対する憧れ(両国の物価格差により、
2,3年日本で単純労働に従事すれば、家や車が入手可能であるという事情がある)も日本語学習に対する強い動機付けになっているようである。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/gender/journal/no5/8_fukihara.htm
http://yorozu.indosite.org/bbs/messages13/5075.html ビアックでの経験は1990年でした。観光開発のための水源調査に行き、石灰質の基盤
であるため、地下浸透速度が速く海岸の方が取水しやすいということになり、ある漁村の水源を見に
行ったとり、そこの古老が「おお、日本人か。しばらく見なかったな。白いのが来たらいなくなった。
また来たのか?あんたのところの船も白い人の船もあるぞ」と海岸を案内してくれ、ついていくと日
本軍の潜水艇と米軍の揚陸舟艇がオレンジ色に磯に横たわっておりました。「だいぶ長い間来なかった
の。でも、よー来た。これ食っていけ、飢え死にはきついからの」と超臭い干物を焼いてくれました。
その古老はビアク島で玉砕した日本軍(洞窟があり、記念碑もあります)に最後まで食べ物を運搬し
たそうです。「日本人が来るということは、またすぐ白いのがくるのかの?」と言っておりました。
(バリの南端でも、こうした残骸見られますよ)
この海域の地図は米軍が1943年、47年に作成したものが90年当時も使われていました。
戦闘機に使う軽金属確保のため、ニューカレドニア島やガダルカナル島に拠点を作ろうとした日本軍。
宣撫工作とならんで、1930年代から、地質調査やっていたみたいです。ついでに日本軍のイスラム
研究もかなりの水準にあったようです。インドネシアを歩くと至るところに日本人の跡があります。
平和目的でなかったのは残念ですが、学校、軍隊を身分関係ない組織として確立した点は日本の貢献と
言えるのではないでしょうか。戦後、日本の援助が教育に乏しく、土木重視になったのは経緯があり、
仕方のない面もありますが、国家百年の付き合いなら、教育にもっと援助があっていいのではないでし
ょうか。教育インフラでは「学校校舎」とか「実験器材」には援助がいきますが、先生たちには何も
ありません。先生たちの住居の無償(ないし、0.5%くらいのローン)援助を教育インフラ整備として
手当できないでしょうかね。
若い女性の方もいらっしゃいました。朝の出勤時、我が家のベランダ前の敷島通りを、ご出勤の白い半袖半ズボンのお役人方、
白いワンピースの女性軍属の皆様が自転車で、颯爽とご出勤のお姿を、2日酔いのボクはベランダの籐椅子に寝穢く座り、眺めておりましたっけ。
林兼(今の大洋漁業の前身?)が我が家の裏手にお菓子工場を造り、羊羹、餅菓子を作っておりました。ボクは、職人さんを脅迫(?)して、
羊羹を貰っておりましたよ。日本酒を造っていたのは事実です。「南の光」って言う名前でしたが、ハッキリと覚えております。
藤山一郎さんは、アコーディオン一つ持って、前線の慰問をやってました。不思議と、ボクの飛行機に乗ることが多く、よくご一緒しましたが。
輸送機の搭乗員は、機長、航法(操縦)、機関、通信、銃手とペアを組みますが、島伝いの飛行時間の短い飛行では航法は要りませんので、操縦席は一つ空席になります。
藤山さん(増永嘱託)は何時も、其処に坐り、ボクタチと気楽にオシャベリをしてくれましたが、気さくな方でした。藤山さんはマカッサル中学で、
音楽も教えて居らっして、現地の若者に日本の音楽も伝えて居りました。現地の古老には、未だに日本のメロディーを覚えていらっしゃる方もおいでになります(マシロキ フジノ ケダカサヲ・・・)。
「Bengawan Solo」「Nona manis shapa yang punya (可愛いあの娘は誰のモノ)」は日本にも伝わりましたね。
アトで書くと思いますが(出来たらね)隣家 W家の長女の亭主がマカッサル中学の先生で、ボクがスラバヤに移動してから、マカッサルを通過して、西ニューギニア方面に向かうとき、
マカッサルで、下りる藤山さんに「手紙?」を託したこともあったようですが、記憶が薄れてしまいました。(皆様が知りたいようなことはゴマカスのが、ボクのずるいところでね)
昭和17年のクリスマスは楽しかったナー。其れが、最後の楽しいクリスマスになろうとは、その時は誰も、そう思いませんでした。
ミッドウエイで航空母艦の大半を失い、辺境の島々に滑走路一本の航空基地を展開し始めた、日本海軍のことは、ボクタチ下々には知らされておりませんでした。
(実は暗号班の友人にコッソリとおおよそのことは聞かされては居たけれどね)
http://tseiso.hp.infoseek.co.jp/ml/s3_himatubusi.html
ヨハネスは日本軍にならった技術でいまでもアルミのフライパンを生産している。島の沖合いに撃墜されたアメリカ軍の飛行機の残骸があって、
それが彼の自慢のフライパンの原料の入手先なのである。日本軍がこの島の材料からつくりあげた石鹸、布、皿などの技術がすでにうしなわれたこと、
そして、コクミンガッコウというのがあって、青空の下で、棒切れをつかってカタカナの練習をしたけれども、ほとんど忘れてしまったことを、彼はなげいていた。
ヨハネスのもとを辞してから、ドミングスの熱心な招待をうけて、タムローとともに分村まで出かけようとしていたのだが、この計画には横槍がはいってしまった。
入村もせぬ者がいろいろと人の家を訪問すると、よからぬ噂をたてる者がある。分村に行くのはヨセフの帰島を待ってからにしろと言うのだ。
村長を出しぬいても、村人たちを出しぬいてもいけない。緊張の糸はあいかわらず張りつめたままだった。
「土地の主」のカットウヴスのもとに私を連れていってくれたのもタムローである。カットウヴスはファルネーとともに、慣習会議では私の入村に反対していた。
実測調査の噂は、村の大工である彼の耳にも届いていたとみえる。「調査の目的はなにか? 結果はどうなる?」と
高飛車だったのもはじめのうちだけで、彼のなかの職人気質が私を放っておけなくなったらしい。結局、ここでも日本軍があと一〇年島にいたら、という話になった。
かつて大文明をきずいた民族の末裔が、過去を振りかえりつつ語るときのようなトーンが、彼の言葉にはかんじられた。
http://www.r.minpaku.ac.jp/sato/asia/refer/gunkyo.htm
インドネシアより彼方此方出掛けると未だに、あの大戦の傷痕を見ます。その前で
日本よりみえた観光旅行の方々が非常に楽しそう(言い換えればばか騒ぎ)している
のを現地のスタッフと見ると恥ずかしくて、すぐその場を離れるようにしています
”もうとっくに禊は済んだ”と思って見える方は、けしてそんな事は感じないのでしょう
ほんとにそう思っているのは日本人と援助のほしい国のお偉いさんだけで、現地の方は
未だにそんなふうに思っていない方の沢山みえるとおもいますが...
http://yorozu.indosite.org/bbs/messages7/2588.html
「♪肩を並べて兄さんと 今日も学校に行けるのは 兵隊さんのお陰です」。杯を重ねたY議員はきれいな日本語で歌いだし
「ビンタは良くありませんが、日本軍の団結は良かった」と、繰り返す。確かに、民主派にとって最大の“武器”は団結である。
今まさに正念場に立たされているが、内外の民主派組織にはひびが目立つ。 在日ビルマ人協会は、会自体の民主的運営を巡って
東京と名古屋組が不仲となり、タイのABSDFは、 ビルマ共産党へ支援を求めた前議長が分派を作っている。そしてビルマ本国では、
NLDは離党が相次ぎ、党員数が百人余りに激減している。 遡れば、独立の父アウンサン将軍が初代委員長を務めたパサパラも五一年独立後初の総選挙で圧勝しながら、
左右に内部対立し、 今日に至るまで軍部が政治に入り込む余地を与えた。「ここ一番という時にも、ビルマ人は我を張って、バラけてしまう」と嘆き、
この老政治家は全体主義の日本軍時代を懐かしむ。
Y議員が苛立っているのは、日本企業に知己が多く、投資のタイミングを尋ねられているからでもある。それは憲法が発布され、 民政移管された時であろう。
いつ頃か尋ねると、財布から宝くじを取り出した。「これが当たるか外れるか、わかりますか?」。 それが彼の答えだった。Y議員は、東京の不動産業者、
MCGが頓挫させた土地転がしについても良く知っていた。彼によると、 同社は本国の高まる民主化ムードに将来に不安を抱いていた駐日大使と共謀、
九〇年一月ミャンマー大使館の土地売買で「空中権」という細工をして大金を浮かせた。その金で三大臣を買収、 ラングーンにホテル用地を得たが、
民主政権発足後の値上がりを待って、大企業に転売するという彼らの算段は外れたという。 ラングーン市内の現場を訪ねると、完成予定図の看板は色褪せ、
中断した基礎工事が醜態を晒している。片や東京品川では「工期 平成五年三月末日完了」と工事用囲いに貼り出されたまま、平成六年になっても着工された様子はない。
http://www.hh.iij4u.or.jp/~asabe/burma/bmhaza.html
旧日本兵との出会い
KNUは昨年末、ボーミャ前議長が病没し、求心力のある指導者を失った。1996年タイのウンパンで会ったボーミャ氏は政府軍の戦略を次のように分析していた。
軍政はKNUの分裂弱体化を狙って、カレン族の仏教徒を優遇、カレン州の幹道沿いに寺院を建て、参拝客に工作員を紛れ込ませ、キリスト教徒のカレン族との宗教対立を煽った。
その結果、KNUの仏教派が政府軍に投降。軍政は95年1月彼らを使ってKNUの総司令部、マナプローを陥落させたという。以来、
カレン州はタイ国境まで政府軍の侵略を受け、カレン族はポーターや土木工事の強制労働、強制立ち退きに従わなければ殺されるという迫害に遭っている。
バンコクを経て藤岡さんがやってきたのは、モエイ川を挟んでカレン州と接するタイの街、メソート。かつてKNU義勇兵となり戦病死した
日本人青年3人を祀る『自由戦士の碑』がこの街にはある。攻防が激しかった90年代には、短期で一度だけという人も含めると
10人以上の日本人がKNUに加勢した。その碑を世話しているのが、旧日本軍第31師団の衛生兵で、戦後もカレン州に残り、メソートに居を構えた中野弥一郎さん(87)。
写真:自由戦士の碑に合掌する中野さん
「カレン人は英国側で敵だったのですが、終戦になると、離隊した私を匿ってくれたんです。ビルマ軍の中には居れなかったですよ」。
日本軍の形勢が悪いと見ると、ビルマ軍は英国側に寝返り、日本兵狩りをしたそうだ。「それでカレン人と親しくしてきたわけです」。中野さんはカレン族の女性と結婚し、
衛生兵の知識を活かして無医村に貢献。その後は、雑貨屋を手始めに、宝石貿易で成功した。しかし、中野さんがタイへ引っ越して来たのも、
国軍が攻めてきて、カレン州には安住できなくなったからである。
http://www.hh.iij4u.or.jp/~asabe/burma/bmfreeter.htm
◆政府遺骨収集
カモテス諸島の古老語る。爆撃で沈む日本軍艦船。 浜辺には自警団
太平洋戦争中の激戦地レイテ島の西方約20キロに位置するビサヤ地方
セブ州カモテス諸島。
1944年10月の米軍のレイテ島上陸で旧日本軍の敗色が濃厚となりつ
つある中、同諸島周辺のカモテス海では旧日本海軍艦船が米軍機の爆撃
で次々と沈んだ。
九死に一生を得て同諸島内に逃げ込んだ旧日本兵にも、比人自警団の
襲撃が待ち構えていた。
日本政府の遺骨収集団が入った同諸島ポロ島に住む古老たちに当時の
様子を聞いた。
日本政府の遺骨収集団、ポロ島の収集予定地を訪問、祈り捧げる
(Manila Simbun)
《ブログに写真掲載》 米軍の爆撃と比人自警団に包囲された旧日本兵
の当時の状況を説明するエドゥアルド・フロレンティーノさん=ポロ町ポブラ
シオンで19日午後4時10分ごろ
http://www.melma.com/backnumber_183369_4678485/
この地は、僕にとってはインドネシアの原点。 ご指摘のブキット.アッサムのプロジェクトでパレンバンと合わせて
合計5年以上関わり、そのうち数年はタンジュン.エニムに住んでました。 以前は小さな炭坑だったのですが、この
プロジェクトでインドネシア最大規模、最新鋭設備を持つオープン.ピットの炭坑に生まれ変わりました。 ドイツ、米国、日本、
豪州が絡み、工事の絶頂期には300名を超える外国人技術者が滞在。横の発電所はフランスで、当時数えたら
関係者は21ヶ国にも及びました。
戦争中はプラブムリの油田地帯を制圧するために有名なパレンバン落下傘部隊が降下。その後、この地にも守備隊
がおかれていたそうです。 近くの町に陸軍幼年学校もあったとか。
以前は完璧な「デサ」で、石炭公団の敷地内のみがまともな場所でしたが、大炭坑に生まれ変わり、少しは街っぽく
なりました。 それでも、あまり観光でいくようなところではないと思いますが..... おじいさまをノスタルジアでお連れするの
ならともかく。
http://yorozu.indosite.org/bbs/messages2/331.html
南グアムの親日おじぃさん!と 田母神前航空幕僚長の論文!
http://blogs.yahoo.co.jp/pat_pat_mama/archive/2008/11/06 今日、イナラハンのフランクおじぃさんと立ち話をしました!フランクおじぃさんは片言の日本語を話します。
戦時中の海軍隊の話をしてくれました。
彼曰く、イナラハンに在中していた日本人兵は良い人が多かった。
日本軍のリーダーは彼を拘留せず、『今の内に家に帰りなさい。私はあなたを連れて行きたくない。』
と言ったというのです。もちろん拘留されれば殺されていただろうとの事。
ちょっと感動しました。
私は『この地区の人たちが良い人だから、日本兵も良い人に振舞えたのだろう。』
と言いました。
今、日本では、田母神(たもがみ)前航空幕僚長の論文が問題になっています。
彼の考え方が偏っているという報道等もありますが、国内に問題提議をしたという点で、私は賞賛したいと思います。
彼の論文の中に日本軍が満州統治中にインフラ整備をしたりして、
地域活性に役立っていたという行がありました。
そのような話をミクロネシアの島々でも聞いた事があります。
パラオなどはその一つで、日本軍の在留中には町作りが進んでいたが、撤退後は持続せず壊されてしまい、残念な結果になったそうです。
日本軍は何をしようとしていたのか、戦後おざなりになってしまった部分を国として、正式に研究調査し、国内外に発表しても良いのではないでしょうか。
戦争という異常な状況下、非難される事もあったと思いますが、フランクおじぃさんの話のみならず、大和精神に則った誇れる部分もあったのではと感じます。
テロや戦争などの破壊活動が地球上からなくなる事を祈って止みません。
ところでこうした意図は慰安所設置によって解決できたのでしょうか。強かん防止について言えば、慰安所設置後も強かんは跡を絶ちませんでした。
将校や下士官が慰安所に入り浸っているのに、下級の兵士は時間的にも金銭的にも慰安所に頻繁に行けなかった代わりに、
作戦で出動してはタダでできる強かんをくりひろげました。また慰安所は主な都市にしか設けられなかったので、
小さな町や村に駐屯した部隊は村長に強制して女性を提供させたり、拉致してきた女性を監禁し輪かんをおこないました。
日本軍が慰安所を堂々と設置したことによって、かえって日本軍の隅々にまで強かんをはびこらせることになったのです。
http://www.wam-peace.org/jp/modules/qa/index.php?content_id=1
子供たちが日本の歌(戦時中、日本兵が教えたものです)を歌いながら「シンシン」(民俗舞踊)を踊って柴田夫人と、われわれを歓迎してくれました。
踊りの音頭をとっているのは、キャプテンシバタの学校でソマレ首相と同級生であったアベルカインさん。日本の歌をたくさんご存知です。
http://www.gokoku.gr.jp/jyunpai/h21_jyunpai_E_NewGuinea.html ここの入り口にいるおじさんもフレンドリーで、気楽に話ができます。以前に訪れたときに、ここのおじさん、
一番奥の電飾のさらに中まで入って、壁の絵の意味なんかを丁寧に説明してくれたことがあります。祭壇の前の鉢に水があるのですが、
聖水であると教えてくれて、コップにくんで飲んでみろと私たちに勧めます。
おそるおそるのんでみると、何ということはない水なのですが、おじさん、「どうだ、パワーが入ってきたような気がするだろう」と自慢げ。
なんとなく、毛細血管の先まで、ありがたみが浸透したような気にはなります。
さらにおじさん、中央の通路の右側の壁にある座禅を組んだ写真を指さし、「これは若い頃のオレだ!」と教えてくれました。
何と本人だったんですねえ。昔、インドにいる頃に修行したときの写真だそうです。となりにある爺さんの写真はその先祖だということ。
その後で、おじさんがくれた名刺を見て謎が解けました。おじさんは「ナゴールさん」というんですねえ。この寺院の「ナゴール・ドゥルガー」は
どうもここの祭司をしている一家の名前に関係があるようです。
ところがおじさん、「ナゴール」と、日本語の「ナゴヤ」を同じだと思っていて、しきりに「日本のナゴヤと同じだ」と言っています。
とにかく、ナゴヤだナゴヤだというので、こっちも熱意にほだされて、「そうだねえ、同じだねえ」と調子を合わせてやります。おじさん、大喜び!
しかし、話しているうちに、自分が子どもの頃は、このあたりは日本軍の兵隊の集まる場所がたくさんあったんだというような話になりました。
これは初耳でしたが、場所的に不思議はありません。戦争中、日本軍はインドの人を比較的優遇しましたから、きっとあまり
つらい目にはあっていないのだろうなあと思いましたが、こんなところにも「日本による占領」という歴史が顔を出すのだなあと思いました。
http://www.singapore-travel.jp/chtown/telokayer.html
ラバウルの将軍今村均 〜ラバウルの今から感じる戦争(世界ウルルン滞在記より)
http://shibata16.at.webry.info/201002/article_5.html 今村均大将(新発田中学出身)が行った
強固な要塞をつくり、補給に頼らない自給自足の政策、
餓えによる死者を多くだした日本軍が、7万とも10万ともいう
兵隊を餓えることなく終戦まで・・・
下記の世界ウルルン滞在記「ラバウル日本の唄」をご覧になり、
そこに見える戦争を感じると、単に侵略戦争や虐待というイメージとは
異なる人が見えるような気がします。
自分達のなかにある偏見をなくすため、是非ご覧になり、
軍人のイメージではなく、日本人を感じてみてください。
侵略国によって強制労働させられ、賃金も貰えず、年金が99円とは。日帝はどこまで戦争被害者を侮辱するんだろう。
いや決まりどおり計算したらそういう額になったんだろうけどさ。
戦争責任は金の話だけじゃないと思うけど、強制労働の被害者に対しては、まず金の問題を国がどうかするべきではなかろうか。
自分も労働者の端くれだからそう思うんだけど。
まともな論理を立てて物を語れないから、コピペみたいな汚い手段しかとれないんだろうな。嘘も100回200回とついてるうちに本当のように思えていくものだから・・・。
街宣右翼とネトウヨの同じところは、自分に酔ってるゆえ、自分の行為が如何に他に迷惑をかけているのか、またそれによって幾何ほどまでに自分らの評価を
下げているのかを理解しないで、恥ずかしげもなくその行為をし続けるという点。
討伐なんかしなくても、そのうち自滅していくよ。一般市民はこいつらの蛮行を見逃していない。
こういう調査結果があった
まあ、イメージ通り
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=335 「排外主義的愛国主義者には低学歴か低所得が多い」というのは、本文にもございます通り、実証的なデータ分析の結果です。
分析手順は、実際に博士論文を読んでいただきたく思います。
(中略)
本旨は、論壇誌を読む読まないに関係なく、各国に共通して、「拝外主義的愛国主義者には、低所得か低学歴が多い」という一点にあります。
(中略)
私の在職する大学で博士号を取得した田辺俊介君の博士論文『ナショナル・アイデンティティの概念構造の国際比較』(2005)が、
ISSP(国際社会調査プログラム)の1995年データを統計解析しています。
それによるなら、排外的愛国主義にコミットするのは、日本に限らず、低所得ないし低学歴層に偏ります。
要は『諸君』『正論』な言説の享受者は、リベラルな論壇誌のそれより、低所得か低学歴だということです。
大企業トヨタの直参と陪臣
news.livedoor.com
>トヨタ本社の管理部門にいるノンワーキングリッチが肥え太る一方で、
>モノ作りの現場はどんどんやせ細っていくわけだ。
下請けをいじめ、非正規から搾取して暴利を貪る、
トヨタ自動車の人事部長・荻野勝彦(吸血豚)をなんとかすべき
お客様を差し置いて、自社の儲けと規模が最優先という会社なのが明らか。
部署や年齢にもよると思いますが、
課長級1000万円以上・係長級800万円以上・平600〜700万円以上といったところでしょうか。
トヨタは以前も国際競争力向上のために30%低減を行い実現しました。
その際には多くの部品メーカーや設備メーカーが涙を飲んだと思われます。
現在生産が持ち直してきているとは言え、
一度下がった部品や設備の価格を上げると言ってもまず受け入れてくれないことでしょう・・・。
豊田の欠陥隠しは日本の場合ではマスコミへの圧力で世間には広まらなかったけれど、欧米の外国とくに米国では、
いつでも自国の利益で態度を豹変させますので、日本のやり方で押し通せると判断したのが失敗でしょう。
しかも駄目押しに、当初公聴会には章男クンは出ないと言い、それに対する批判が高まるや出席する、と。
馬鹿やねぇ。としか言えませんな。
豊田の日本、日本人に対する悪行の数々を考えると、今回の件は嵌められたとか考えもするけど、仕方ないとしか言えませんね。
トヨタの欠陥車問題の背後には、不当な低価格や短納期を下請に強要し暴利を貪るトヨタの不公正取引があるのではないか?
トヨタをそのような拝金主義に走らせたのは、竹中平蔵などの三流エゴノミストのたわ言やマスゴミの扇動である。
役員でも株主でも無い経済音痴、経営音痴のマスゴミごときが、偏向報道で企業経営など国民の経済的権利の行使に違法に干渉し圧力をかけ、
国民の経済的権利を侵害していることが真の問題ではないか(マスゴミは総会屋より悪質な反社会的勢力である)。
トヨタ問題はマスゴミ問題へと収斂するだろう。
マスゴミの言論責任、報道責任の厳格化、厳罰化を政府に要求しよう!!
こに戦争を望む一人の若者がいる。格差社会の底辺で喘ぎながらも必死に正義なき日本社会の冷酷さを訴え続けている。
『日本なんか滅びてしまったほうがいい』、と言わんばかりに。
弱肉強食の競争原理を露骨に押し出した資本主義社会が人の心を蝕み、事大主義、拝金主義がはびこり、権力に媚び諂い、
弱者を見つけて出して虐げることに自己の存在価値を見出そうとするような歪な人間社会を作り上げてしまったのではあるまいか。
それにしても現在の日本社会はあまりにも狂っていると思う。まともな精神状態で生きている人間のほうがどうかしている世の中で、
彼はひたすらまともであろうとしているのではなかろうか。
田舎暮らしを取り上げたテレビのドラマやドキュメンタリーの中では、
常に「暖かな人間関係」という部分だけがクローズアップされていますが、
実際の「田舎の近所付き合い」というものは、
異端者を厳しく排除する、冷酷で非人間的な側面が表裏一体です。
僕の理解では、異端者をも受け入れる、真に「暖かな」な社会というものは、
大都会のドライな人間関係の中にしか、存在しません。
嫌いな人間とは最小限の接触で済ませることができる「ドライさ」が前提にあって、
初めて、異端者も社会の一員として受容されることが可能になるんです。
裏返して言えば、人間というのは、自分の価値観と相容れない他人に対して、
すぐに「濃厚」で「暖か」な人間関係が作れるほどには、
価値観の相違について、寛容にはなれないんです。
■「らち問題・制裁問題は無関係」とか鳩山首相あたりがいっているが、無関係なはずがなかろう。「十分考えてやってほしい」と
閣僚の一部がチャチャをいれているのだから。
■国交がない国の教育方針にそったものだと、高校と同等とみなせるか微妙とかいっているが、それも いいわけにすぎない。
■旧ブログ「朝鮮学校 を含む記事」で何度も話題にのぼったとおり、みんなで よってたかって、朝鮮学校だけ ねらいうちにしていることは、みえみえ。
イジメは あきらかなのに、国際機関から指摘されてもしらをきるんだから、完全に「うちむき」の感覚だ。
■ 大学はともかく、高校無償化は、日本列島の経済水準からして当然だとおもうが、それとの格差を、これまでロコツにだせる感覚は、
「世界の非常識」だということを国民が理解するのは、いつか?それは、もはや右派の問題ではない。市民権に対する見識・民度の次元に位置する。
■とはいえ、産経のような右派媒体が、「朝鮮学校には毎年、各自治体から5億円を超す補助金が支払われている。この支出が
妥当なものか否かのチェックも必要だ」といったもっともらしげな論理をもちだせる土壌こそ、
問題として検討しなければならない。インターナショナルスクールのような、欧米系の富裕層のばあいは、公的援助など不要だといった問題ともからめて。
翌朝、ガルート近郊のヒンズー遺跡を見学する。正月休みで、田舎の村でも馬車や人力車、バイクタクシーがあふれて大変な賑わいだが、
遺跡そのものは大した代物ではない。それにしても、老若男女のモスレム(回教徒)が、ヒンズー教遺跡など見てどうするというのだろう。
タシクマラヤに近いシンガパルナ(Singaparna)は、37歳になる同行ガイド氏の生まれ故郷である。小さな町ながらイスラム神学の牙城で、
イスラム教の大学も置かれている。そのせいか、このサダム・フセイン(イラク大統領)のような髭をたくわえたガイド氏は敬虔なスンニ派モスレムで、
一日5回のお祈りを欠かさない。布教にも熱心で、「オヨメサン、ショウカイシマス」と餌をまき、何度となくイスラム改宗を迫られた。
願わくばお嫁さんだけにして欲しい。そもそもここは、戦時中、回教徒の抗日パルチザン活動の拠点だったところで、
山中に潜み激しい戦闘を繰り広げた。故に、罪なき多くの回教徒が日本軍に捕縛され、虐殺された悲しい歴史を持つ。
http://www.kuro-net.org/travel02.html
ヲル「なぜか突然現れた老人に何人だとか誰何されてしまいました。雲山さん咄嗟に「台湾人です」とか意味不明な嘘つくし…話がややこしくなるじゃないですか。
彼の「日本軍が進駐していた時に教わった日本語」で聞き取れたのは「百」だけだった。
軍人さんだったらしいけど、話がよく聞き取れず、僕らはただヘラヘラ笑っていて失礼があったらごめんなさい。」
http://seedfolksjawa.com/jalan05.html 寺子屋
http://seedfolksjawa.seesaa.net/article/55510432.html Temanggungの郊外で日本語の教室を開いている82歳のおじいさん、バンバン氏である。
久しぶりに彼の教室を訪ねたが、古い家を改造してこじんまりとした教室や事務所に
日本の景色、着物の女性の写真、歴代首相の色紙、工芸品、教訓など飾られていて、
日本にいるよりよっぽど日本っぽい雰囲気。
彼の日本語教育は、単に語学を教えるというだけにとどまらず、
かつての日本人の礼儀作法、文化風習なども軍隊式に教え込むため彼の生徒は大変礼儀正しい。
彼の兄が、終戦後まもなく数多くの残された日本兵の命を救ったということで
バンバン氏も古くから日本人との親交が深い。
日本語から「子供,槓桿」
Kontak dengan pendatang dari luar telah memperkaya kosakata bahasa ini, terutama dari Ternate (ngana, tofore),
Portugis (fugado, lenso), Spanyol (nyora, tuturuga), Belanda (mar, boh - bocht)... Jepang (kodomo, kokang) dan sebagainya. "Kamus Melayu Manado - Bhs Indonesia"
ミナハサ社会の共通語マナド・マレー語にはテルナテ語,ポルトガル語,スペイン語,オランダ語,日本語などからの借用語が見られると述べている個所.
日本語からの例として,kodomo, kokang の二語が挙げられているのが興味深い.
kodomo: インドネシア語では見たことがない.KBBI_3 も載せていない.
kokang: これは有名な日本軍用語「槓桿」である.
http://sanggar.exblog.jp/3420916
父は熊本県出身で、外国旅券下付表記録によると、渡航は1925(大正14)年。ダバオ市カリナンでアバカ栽培に従事。
1929年(昭和4年)に父は母の姉と最初の婚姻(バゴボ族の部族婚)をし異母兄「勝」(戸籍登載あり)をもうけたが、
妻はまもなくして死亡したため、1940年(昭和15年)に母と再婚(部族婚)し、申立人が出生した。
戦争が始まると、父は日本軍カリナン義勇軍兵士となった(当時の写真が残されている)。
戦後、父は日本へ強制送還された。その事実から、連合軍作成による捕虜名簿を調査したところ、
父についての記載があった。母は2005年に死亡。
http://www.pnlsc.com/2009-6-profile/index.html
あえてこのたとえを採用したとしても、せいぜい「要請説」への反論にしかなってないんじゃないでしょうかね。「家族会議にも同席させて発言権を認めるようなことをすれば、
必ず友情は破綻します」って断言してますけど、なんの根拠もないですから。「同居」している「友人」にも関わりのあるような事柄を
「家族」だけで決めつづけた方が「友情は破綻」する、と誰かが反論したらどう再反論するつもりなんでしょう。
どうも、脊髄反射的反対派の人たちは参政権は責任を負うという面もあることを忘れている(責任を果たしたこともないのかも知れないが)
自らそう決めたのなら自らそうするという責任ね。
地域社会で暮らすのなら、自ら参加して地域社会の成員として責任を果たして欲しい。
少なくとも俺はそういう意味で参政権に賛成しています。
私の夫は、外国人。
地方参政権は、帰化する必要なしとのことで、国籍の違う人間にも与えるのはその国の地方自治に関する考え方の自由、と言っておった。
言っとくけど、特定アジアの人だよ。
それで、あんた、基地外かい。
夫の友達もみんな賛成でした。
朝鮮学校を無償化から外すのは、「北朝鮮に経済制裁を続けても日本人拉致問題に進展が見られない状況を考慮、さらなる強硬姿勢を示すため」と見られています
(記事はこちら)。まあ、それしかないでしょう。けれど、それで拉致問題の解決が進むのでしょうか。そんなわけはないこと、ちょっと考えればわかることです。
政権が交代しても、相変わらず拉致問題を自分の政治パフォーマンスに利用することしか考えていない政治家が拉致問題担当相におさまっている、
それは誰にとっても不幸だと思います。こんないやがらせをしても、北朝鮮憎しに凝り固まっているごく一部の声高な人びとが、いっとき溜飲を下げるだけでしょう。
先の記事によると、朝鮮学校を高校授業料無償化から外すために、政府内には、「『授業内容と本国の教育課程が日本の学習指導要領におおむね
合致していると確認できること』を無償化対象の条件とすることで、国交がなく教育課程が確認できない北朝鮮を除外する案が浮上している」そうです。
もっともなように聞こえますが、では特定の国に依存しないインターナショナルスクールはどうなるのでしょう。個別に確認するしかないと思うのですが。
日本と国交がなく、民族学校を経営しているのは、北朝鮮と台湾の人びとです。台湾とは交流があるのでその教育カリキュラムが確認できる、
だからOKなのでしょうか。でも、確認のために台湾まで出かけはしないでしょう。台湾系の学校に行くでしょう。
だったら、朝鮮学校にも行けばいいのです。「国交がなく教育課程が確認できない北朝鮮」というのは、とんだ言いがかりです。
どこの民族学校も、それぞれの価値観に沿ってカリキュラムを組んでいるでしょう。とくに近現代史などは、
朝鮮学校だけでなく、中国系の学校も韓国系の学校も、日本のそれとはぶつかる面もあるでしょう。アメリカンスクールは無償化の対象なのかどうか知りませんが、
民族学校としては最大の規模と豪華さを誇りますが(なにしろ校舎は六本木ヒルズにもあるのです)、そこだってたとえば
ヒロシマナガサキへの原爆投下について、日本とは異なる考え方を教えているかも知れません。
朝鮮学校長と朝鮮学校の子どもたちの保護者の反応は次の報道の通りですが、「無償化で生徒の活躍の場を大きくしてほしい」というのは当然でまっとうな要望です。
「朝鮮学校のために日本の税金を使うのはいやだ」うんぬんと主張する日本の方々がコメント欄によく現れるのですが、日本に定住している、
朝鮮人を含む外国人が全く日本の税金を払っていないとでもそういう方々は思っているようです。日本で生活している以上、誰もが(それぞれの所得や財産や消費に応じた)
日本の税金を払っているのですけど、そういう事実の話が通じない日本人と議論するのは悲しいです。
「朝鮮学校は、北朝鮮の影響が強い在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)と関係が深いとされる」と書いてあります。
しかし、そのことを理由に朝鮮学校の生徒を冷遇することは、たとえば、卑劣な日本人政治家がいたとして、その人物を非難するときに、
その人物を直接批判するのではなくてその人物のたとえば家族や近親者に別の制裁を加えることと同様の誤りだということなのです。
高校無償化、朝鮮学校はだめなの?! 前段
http://blog .livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51352281.html
古い話で恐縮ですが、「日本の教育の06年問題」ってご存じでしたか?
国連人権理事会は、各国の人権状況を調べ、問題があると勧告をします。08年、日本への勧告は26項目、日本政府はそのうち13項目を受け入れました。
受け入れなかったのは、従軍慰安婦問題の国際基準での解決、人種差別禁止法の制定、在日コリアン差別の撤廃、死刑廃止、警察取調べの可視化と記録、
代用監獄廃止、難民審査の独立機関設置、
不法滞在者の匿名告発の廃止です。このくにが世界にどんな姿をさらしているのかがわかって、胸にぐさぐさ来ます。
残念ながら、日本は昔から閉鎖社会だった。江戸時代の鎖国、部落民の差別 ― 自国民に対する差別・偏見の歴史を見れば、いわんや外国人差別・・・。
残念だけど、日本は変わらないと思う。被差別民や弱者を助けると、その助けた日本人まで村八分する空気が、今でも残っている。外からの外人(特に白人種)客に対しては、
平身低頭のお客様扱いなのにネ...。白人コンプレックスの対極に、そのはけ口としての、国内差別問題が根深く横たわっている現実を、恥ずかしく思う。
日本人の意識は分裂、分断、多様化しているが、差別問題に関しては両極化の一途をたどっている気がする。
>停止や廃止を視野に入れて死刑について緊急に検討すること
上記受け入れの拒否については、世論のせいにするのではないでしょうか。いつものように。国連人権理事会に対しては今後はもっと
強硬な態度で日本政府に対応してほしいと願います。当面それ以外に死刑廃止、停止の道が開ける望みはないように思います。(死刑に反対です。)
>平等と非差別の原則に適合するよう国内法を改正し、人種差別、差別、外国人嫌悪を禁止する国内法を緊急に制定すること
> 在日コリアンに対するあらゆる形態の差別を撤廃する対策を講じることなど(2項目)
この要望を拒否するということはあまりにも露骨、恥も何もないことにびっくりしますが、真意を問われたら、どんな説明をするのでしょうか。
日本社会には人種差別はない、異端排除などとんでもない、と弁明するのでしょうか。それとも、最近の社会の空気を読んで、
そのくらいのこと(本音)を言っても問題はないと考え、開き直っているのでしょうか。いずれにしても恐ろしいことです
>いつから日本はこんな恥ずかしいことを平気で言える国になったのだろうか…。
「神の国」(森総理)発言があったころは、まだいくらか救いがありましたね。すぐに批判、非難が起こりました。でもあれも人によったのかも知れません。
日本社会にはそういうところがあります。発言主が石原氏や小泉氏だったら、どうだったでしょうか。
結局、国として「侵略」「植民地支配」の過去を本気で反省したことが一度もないことが今日につながっていると感じざるをえません。
それから、昭和天皇が一切戦争責任をとらなかった、退位もしなかった。これが大きな禍根を残しているとつくづく思います。
・ 平等と非差別の原則に適合するよう国内法を改正し、人種差別、差別、外国人嫌悪を禁止する国内法を緊急に制定すること
が受け入れられなかったことに、とても矛盾を感じています。なぜなら、性的指向(「指向」であり「志向」ではありません。別紙1のpdfにはちゃんと「指向」って書いてあるのに?)に
関する差別を禁止する法律は現在のところ存在しません(人権教育・啓発に関する基本方針の中には「その他」の中に入っていますが)。
人種差別、差別、外国人嫌悪の中に含まれているこの「差別」は一体具体的に何を指しているのかよく分かりません。
もちろん、人種差別も外国人嫌悪もされてはならないとは思いますが、性的指向に関しては、一方で受け入れられ、一方では受け入れられず、
結局国内法は整備されない中途半端な状態になってしまうのではとなぜか悲観的な印象を持ちます。
http://blog. goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/513106272e5e2829be8542ef6d2c4128
(ヤメ蚊様)
2008年5月、国連人権理事会の「普遍的定期審査」(UPR: Universal Perio dic Review)制度のもとで、日本の人権状況が審査されました。
日本の審査は、作業部会第二会期において5月9日にジュネーブで行なわれ、そこでは42ヶ国の政府が発言し多くの人権課題について
厳しい質問や勧告が提示されました。審査をうけて5月14日に作業部会の報告書草案が採択されました。同報告書草案では、
日本政府に対して、以下の項目を含む26項目の勧告がなされています。
●国内人権機関の設置
●個人通報制度の受諾
●死刑の廃止または一時執行停止措置の実施
●刑事司法制度の改善とりわけ代用監獄制度の見直し
●差別禁止法の制定
●マイノリティと先住民族の権利保障
●移住者および難民の権利保障
●女性に対する差別の撤廃
●女性に対する暴力及び人身売買の撤廃
●日本軍「慰安婦」問題の解決
●子どもの権利保護
●国際人権諸条約のさらなる批准
●国際人権機関との協力
etc…
この作業部会の報告書草案に対して、日本政府は、6月12日に開かれる国連人権理事会本会議の場で、それぞれの勧告を受け入れるかどうかの
立場表明を行います。日弁連は代表団をこの本会議に派遣し、国際人権問題委員会の大谷美紀子先生が日弁連代表として意見を述べる予定となっています。
各国政府が示した勧告や懸念・質問に日本政府がどのように応えていくのか国際的にも注目されているところです。
国連人権理事会の勧告のうち日本政府が受け入れなかったものは…排他主義の撲滅
http://blog. goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/a33a18c7039f6fe0a7c6e8b16a35416d
日本政府は、13日(ジュネーブ時間12日午後)、日本を対象とする国連人権理事会の勧告26項目のうち、
女性差別禁止、体罰の禁止、国内人権機関の設置など13項目を受け入れるものの、
死刑制度の廃止、代用監獄の廃止、人種差別の撤廃、在日コリアンに対する差別の撤廃など7項目については受け入れを拒否した。この日本政府の対応からは、
排他主義政策をとっているとしか思えない。この日本政府の対応には選挙民としてとても恥ずかしく思わざるを得ない。
受け入れた項目と比較すると、異国、異質なものを廃し、差別する方針は維持しようとする姿勢が明確になるように思う。
いつから日本はこんな恥ずかしいことを平気で言える国になったのだろうか…。
時事通信によれば、【鳩山由紀夫首相は26日朝、高校の実質無償化の対象から朝鮮学校を除外するよう求める意見が政府内にあることについて、
「そういう検討が(文部科学省で)されている」と明言した。首相公邸前で記者団の質問に答えた。】(
http://book.jiji.com/kyouin/cgi-bin/edu.cgi?20100301-1)という。
日本がいかに人権に無頓着な国家であるか、
これほど天下にさらすものはない。ただちに、鳩山首相はこの発言を撤回すべきだ。さもなければ、日本人が国際社会で恥をかくことになる。
時事通信によると、【除外を検討する理由として、首相は「国交がない国の教科内容を果たして私どもが検討(把握)できるかどうかということが一つある」と説明した。
高校に相当する各種学校かどうかなどを北朝鮮当局に確認できないことを念頭に置いた発言とみられる。】という。
しかし、それはおかしな話で、日本の高校と同程度かどうかが問題になっているのであり、母国での取扱を確認する必要はない。
逆にいえば、母国が高校と認めていたら、小学校程度のカリキュラムしかない学校でも高校扱いするのか?そんなはずはない。
この件については、【中井洽拉致問題担当相が川端達夫文部科学相に対し、北朝鮮による日本人拉致問題や核実験に対する
制裁措置の実施を理由に、無償化の対象から外すよう要請し】たのがきっかけのようだが、このような人物が国家公安委員長をしていることに
恐怖を感じる。国家公安委員長は警察の行き過ぎを防ぐ立場だ。中井氏も直ちにこの発言を撤回するべきだろう。
高校無償化法案の対象から朝鮮学校を外さないように求める緊急集会が4日、
倉敷市の岡山朝鮮初中級学校であった。
広島の朝鮮高級学校に通う保護者らが「無償化対象から外すことは新たな民族差別。
教育と政治・外交の思惑は切り離してほしい」と訴えた。
法案では、朝鮮学校を支給対象に加えるかどうかに関して閣僚らの発言が相次いでいる。
県内には高校に相当する朝鮮高級学校がないため、
岡山朝鮮初中級学校の卒業生25人は広島で寄宿生活しているという。
集会には約30人が参加。同初中級学校の趙邦佑校長が「驚き、憤っている。
朝鮮学校に通うのは日本植民地支配の被害者の子供。拉致や経済制裁とは無関係で、
日本の高校とほとんど同じカリキュラムで学んでいる」と訴えた。
朝鮮学校を含むすべての外国人学校を無償化するよう鳩山由紀夫首相らに求める要請書を採択した。【井上元宏】
毎日新聞 2010年3月5日 地方版 高校無償化:岡山朝鮮初中級学校、対象求め倉敷で集会 /岡山
http://mainichi.jp/area/okayama/news/20100305ddlk33010511000c.html
橋下さんは、とにかく弱い立場の子どもたちの教育にお金を使うことに抵抗があるようで、以前は私学助成金をカットしないでと訴える高校生たちに、
親が貧乏なのに私学に通っているのは自己責任だ、というようなことを言って、高校生たちを涙ぐませました(こちら)。こんどは朝鮮高校というわけでしょうか。
こうした意見は橋下さんだけではなく、政府部内にもあることが大問題です。子どもたちが将来は帰国することを見越して母語のみで教育する民族学校とは異なり、
朝鮮学校は、朝鮮人としてのアイデンティティを保ちつつ、日本で生きていくための教育をしています。
すでに朝鮮高校生に受験を認める大学のほうが圧倒的に多い昨今、その子たちを排除することに、いったいどんな意味があるのでしょう。
鳩山さんの友愛が泣きます。鳩山さんは、新しい公共という、一般にはなじみのない理念を掲げていますが、その理解が一段とむつかしくなります。
友愛や公共の考え方と、朝鮮学校排除は相容れないからです。
でも、岡田外相と亀井金融相は除外はおかしいと表明しましたし、野党の公明党と共産党も除外に反対です。良識ある地方議会もあります。
きのう、東京の小金井市議会は、朝鮮学校排除に反対する決議を採択しました。こうした動きを、メディアはていねいに報じてください。
ここは、私たちの社会が世界の見ている前で人権、それもマイノリティの子どもの人権を踏みにじって大恥をかくかどうかの瀬戸際なのですから。
衆議院文教委員会のメンバーが、朝鮮高校を視察しました。鳩山さんは、生徒さんたちと会うこともやぶさかではないそうです。
橋下さんも視察に行くそうです。どれもいいことです。じかに見て、会って、率直に意見を交換する。
そこから、世界の人権基準に恥じない結論を導き出していただきたいと思います。
今年は朝鮮「併合」100 年の節目です。将来、史書に「この年、鳩山政権下で高校の授業料が無償になったが、朝鮮高校は除外された」
なんて記載されていいんですか、鳩山さん。いつもに増して中身のない記事ですみません。またかっかするなんて、
自分まで感情に走ってどうする。反省してます。でも私、もう涙目。
国立墓苑の建設を主張する人の中には、「アメリカのアーリントン国立墓地のように外国からのお客さんにも喜んで来てもらえる施設を」と主張している人がいるが、
これも旧「帝国主義国」に対して無反省な考えだと言わねばならない。アメリカの国立墓地にはいったい誰が埋葬されているのか。当然のことながら、
ベトナム侵略戦争に参戦した米軍兵士も葬られている。それはアメリカという国家がベトナム侵略戦争を国家としては肯定しつづけていることを象徴している。
アメリカとベトナムの国交は回復したとはいえ、ベトナムの人びとがアメリカを訪れた際にアーリントン国立墓地を「喜んで」お参りするだろうか。
国立墓地を墓参するというのは、個々の旧兵士同士が互いに和解するということとは次元を異にするのである。
(引用ここまで)
戦没者は自国にも、他国にも、いたるところにいます。「戦没者の追悼」について自国や自国の兵士の都合だけで
簡単に考えてはいけないということを意識すべきだと肝に銘じました。
http://blogs.yahoo.co.jp/bandung_longstay/6255159.html その日本が支配していたわずか3年間、インドネシアの各学校では「日本語教育」が行われたようである。
それまではオランダが支配していが、一般庶民まで教育はせず、一部のエリートのみの教育が行われたようである。
(100年以上オランダが支配したにも関わらず、インドネシアではオランダ語が公用語として使われたことはない)
日本が支配していた3年間教育を受けたという人にカンプンで出会うことが出来た。
70歳前後のお年寄りだが、私が日本人であることを知ると、大変自慢そうに「私は第二次世界大戦中に小学校で日本の教育を受けた。
とても楽しい授業だった」と語ってくれた。そして「さくらさくら」「君が代」を歌ってくれた。
また、別のあるとき、1人の老夫婦と出会った。彼が言うには小学校3年生から3年間、日本の教育を学んだというのだ。
何か覚えているか聞くと、「イチ ニ サン シ・・・」と当時覚えさせられた体操を披露してくれた。ラジオ体操によく
似たきびきびとした動きは、やはり当時の軍国主義を思わせる。
最後には「独立万歳」と握手を求められたときには大変恐縮してしまった。
またあるとき、「浦島太郎」「桃太郎」の話を日本語で語ってくれたおばあちゃん姉妹がいた。
「ムカシ ムカシ ウラシマタロウガ オリマシタ」たどたどしい日本語だが本当に驚いた。
授業は厳しかったかどうか聞くと、厳しかったけど優しい日本人が多かったと答えてくれた。
話をしている中で彼女たちにとっては忘れがたい古きよき日だったように思えてならない。
日本軍のインドネシア占領はたった3年間の支配だったが、好意的に受け止めている人が存在したことは
私にとって驚くべきであった。戦争を美化するつもりはないが、「日本がインドネシアを独立へと導くきっかけを作ってくれた」と
考える人が多いような気がしてならない。
引用:「全海研の会報「ひまわり」に連載された
Surat Dari Bandung (バンドンからの手紙)(49号 2007/2/20)
この条項を留保しているのは、日本だけではありません。マダガスカルとルワンダもパスしていました。01年、人権理事会は「経済大国」日本の留保を重く見て、
06年6月末日までになんとかする旨回答しなさいと、きつく言ってきました。でも、当時の政府はこれを無視したのです。
ルワンダはおととし留保を撤回したので、残るは日本とマダガスカルのみとなりました。顔から出た火が髪の毛に燃え移りそうですが、
これが「日本の教育の06年問題」です。
この問題、多くの方は、知りもしなかったのではないでしょうか。なにしろマスメディア(文科省記者クラブメディアと言っていいと思いますが)は、
文科省にぐあいの悪いことはお体裁程度にしか報じないことで文科省とお友だち関係を保ち、結果、政府とメディアの共犯関係のもと、
私たち市民の知る権利、きちんとした情報をもとにものを考える権利を奪ってきたからです。
おかげで、高校以上に進むのは自己負担という考え方が、この社会にしっかりと根を張ってしまっています。
高校の授業料は、そこで学ぶことで利益を得る本人が負担すべきという、いわゆる受益者負担の論理です。
たとえば大阪府知事の橋下サンは、「授業料を払えないのに高校に進学したのは自己責任」なんてことを言っていました
(動画もいくつかあります)。今はちょっとお考えを変えたようですが。
でも、それを真に受けてきたなんて、なんとけなげな私たちでしょう。この日本の常識は(も)世界の非常識です。
学びたいのに経済的な理由で学べないのはれっきとした人権侵害だ、というのが、世界の常識なのです。
審査会前にNGOが放映したビデオは、日の丸を掲げた集団が京都の朝鮮学校前で集会を開き、「北朝鮮のスパイ養成所だ」と
罵声を浴びせている様子が映し出された。
審査員は「なぜ北朝鮮がやっていることで、子どもたちが責められるのか」と問うた。審査会は朝鮮学校が
公的援助を受けられない現状を問題視した。それは人種差別とみなされる。
朝鮮学校の高校課程に相当する高級学校は、沖縄にはないが全国で10校。約2000人が学んでいるという。
日本の敗戦後、在日朝鮮人たちが母国語を取り戻そうと各地で始めた学校だ。1950年代後半から北朝鮮の援助を受けて存続してきた
。厳格な思想教育が行われた時期があり、教育内容が偏向しているという批判もあった。
現在は、例えば東京朝鮮中高級学校は生徒600人のうち韓国籍が49%、日本籍1〜2%で、民族の言葉や文化を大事にしたいと
通わせる家庭も増えた。授業の大半は朝鮮語で行われ、朝鮮史など以外は日本の学習指導要領に沿って授業しているという。
こうした「民族教育」に対する受け止め方も問われている。米国ハワイ州でもハワイ語で授業する学校があり、言語、風習を守ろうと取り組んでいる。
教育と外交問題を同一視すべきではない。
繁華街エリアを抜けてザビエル高校へ向かいます。途中 グアムから降り立った空港横の道を通過していきますが、
この空港は日本軍が戦時中に利用していた滑走路である事の説明を受け、ビックリです。ちなみにチューク環礁には各島含めて
全部で7つの空港があって、現在の国際空港以外はその滑走路跡のみとの事。これら滑走路は、当時日本で罪を犯した犯罪者が
本土から送られて来て、日本兵がその犯罪者の日本人を使って建設したものとの事です。その数3,000人。話を伺うと日本兵は
彼らを人間扱いしない過酷な労働を強いたようで、戦争に負けて日本へ帰還する時には、その数僅か280人にまでなっていたそうです。
当時を知るローカルの方からは同じ日本人同士で見るに耐えない仕打ちをしていたとの事。例えば、1日1食で炎天下労働をさせ、
何か気に入らない事があると、硬い棒で何度も殴り、ある日本兵はあいつは何回殴って死んだ。俺は何回だ。等という事が平気で行われていたそうです。
日本兵こそ犯罪者で過酷労働を強いられれば良いのに!と憤りを感じます。彼らを祭った碑もありますので、そちらにも立ち寄っていただきたいです。
その他ですと繁華街からすぐのところに春島中村桟橋というエリアがあって、カマボコ状のドーム型の大きな倉庫も目に出来ます。
説明を受けなければただの古い倉庫として通り過ぎてしまいます。これは戦争に負けて日本軍がアメリカ兵の捕虜に一時なったのですが、
その際の日本軍の捕虜収容所だったそうです。小さな街の到る所に戦時下のものが残っているのと、そこにまつわる話もとても
深く興味をお聞きしながら観光が進みます。また、少しメイン通りから奥に入ると絵本の中で見るのと
そっくりな大木のマンゴー樹木・大きなパンの樹などが到る所にあります。落ち着いた南国の風景も楽しめますヨ!
http://4travel.jp/traveler/islandsflavour/album/10432407/
朝鮮学校への差別的政策を批判する私のような主張に対して、北朝鮮と日本には国交がない、とか、朝鮮学校は各種学校にすぎない、
とか、朝鮮学校では金正日を絶対視する価値観を教えている、とか、いろいろと言ってくる人たちがいます。
まず、たとえば、日本と正式な国交のない台湾系の日本国内の民族学校に対しては、正式な国交がないことを理由に高校無償化をやめようという
日本政府の動きはありません。したがって、北朝鮮と日本に正式な国交がないことを理由に日本国内の朝鮮学校の高校無償化を拒むことは差別ですから、
そのようなことは法のもとの平等の建前から言って、
民主国なら絶対にやってはならないことです。
次に、朝鮮学校は各種学校にすぎないという主張については、今あげた日本国内の台湾系の民族学校をはじめ、日本国内の中国系、
欧米系の学校も、形式的には「各種学校」ですから、台湾系、中国系、欧米系の「各種学校」(としての高校)には高校無償化を適用するが
朝鮮学校には適用しないということは差別ですから、そのようなことは法のもとの平等の建前から言って、民主国なら絶対にやってはならないことです。
また、朝鮮学校では金正日を絶対視する価値観を教えているという主張についてはどうでしょうか。そういう主張をする人たちは、
日本の朝鮮学校の歴史や現在の朝鮮学校の実情やそこに通う子どもたちやその親たちを知ることから始めるべきでしょう。
そうすれば、かつては確かに北朝鮮の金日成・金正日体制を称揚する教育があった時期もあったものの、
現在はそれがかなり緩んでいること、親も子も金日成・金正日体制を称揚するだけの一枚岩ではないことがわかるはずです。
これだけでは不満な方にはこういう例えで説明しましょうか。
日本人学校は世界各国にあります。その国の現地在住の日本人の子どもたちが通う学校です。高校無償化を日本国内の朝鮮学校には適用しないという
政策は、たとえて言うなら、それらの日本人学校がある国の政府が、「日本政府は従軍慰安婦問題について従軍慰安婦は単なる商行為であったなどと主張したり、
南京虐殺(南京事件)を軽く見せかけようとして戦争責任から逃れようとしているし、国際的に認められていない日本の独特な
国家主義的・歴史修正主義的・民族的主張を絶対視する教育を国家による教科書検定などを通じて行なっている」という理由で
それらの日本人学校に対して補助をやめるとか制裁をおこなうとかするのと何も変わらない行為である、ということです。
仮に、外国政府が外国にある日本人学校に対してそのような理由で制裁をおこなったら、日本国と日本人はその差別的制裁に
ついて抗議すると想像します。それと同じことなのです。日本国と日本人はそこに気付かなければなりません。それを通じて、
日本国と日本人の内にある差別に気付かなければなりません。
もう一つ、重要なことがあります。日本国内の朝鮮学校(あるいは他の外国人学校でもいいのですが)内での民族教育の存在理由と
その意義についてもきちんと擁護すべきところですが、それは次の機会に回させていただきます。(でも、次に示すたくさんのリンク記事の中に、
民族教育の存在理由とその意義についてしっかり説明された記事があります。特に、現在の日本という国では
、コリアン系の学校の民族教育の存在理由は、一般的な意味での外国人学校の民族教育とはちがった、
特別な重さがあるということを日本国と日本人は理解してもばちは当たらないでしょう。)
ところで、5年ほど前、マレーシアに旅行したときに貴重な
はなしを聞きました。
美里という街の宿泊先のご主人は少数民族出身の方だったのですが
、その方の父上は、英軍の依頼で日本軍兵士を夜間に矢で射撃し
ていたとのことでした。
叔父から聞いた話と酷似する状況ですが、はやり夜間の歩哨にたつ
兵士を樹幹や草むらから狙い、射たあとは、その場をすぐに離れた
そうです。
少数民族は日本軍を憎しみ等があったわけでなく、マレーシア・
インドネシア人がするような差別せず、むしろ医療行為
や教育をしてくれ、感謝してたそうです。
ただ、英軍からは日本軍を攻撃する報酬や戦後のことで
約束があり、しかたなかったとも言っていました。
ただし、付近の住民は夜間に森の中で”サムライ”が光
るので怖がっているとも言ってました。
サムライは日本刀の意味で使用されているようでした。
http://caramelpapa.blog.so-net.ne.jp/2008-08-14-6
9月10日トバ湖を発ちメダンへ向かう。萩谷朴氏の「僕の大東亜戦争」
にでてきたプマタンシアンタールの病院の敷地らしき所を通った。ゴム、油椰
子カカオの林が続く。テビンティンギに入る。太平洋戦争が終わった1945
年12月に飯尾大尉他60人が殺され、日本軍はインドネシア人50人を処刑、
戦闘で150人を殺した町だ。メダンの旅行会社で車を乗り換え400キロ北
西のバンダ・アチェへ夜8時半出発。客は4人、運転手2人、荷物満載のコル
トはメダン近郊は対抗車やベチャも多く飛ばせない。途中休憩を2度取り一路
バンダ・アチェめざしコルトは、時々牛や犬が横切る暗闇の道を突っ走る。深
夜にスピード計を見たら140キロだった。ベルトを締め恐怖から逃れるため
眠ってしまった。アワス ハティ ハティ
http://homepage.mac.com/macky_mako/Sites/indonesia2.html
ばらく前に出た研究会で聞いた話。植民地支配や占領において、支配・占領する側を男性、される側を女性とする見方はよくあるけれど、
それを男どうしとして見るとどうなるかという話。以下、話題に上った映画や小説は実際に
観たり読んだりしないで話を聞いただけで書いているので細部で間違っているかもしれない。
これまでは植民地支配や占領は男と女の関係と重ねて見られてきた。マラヤを占領した日本軍の例でいえば、日本軍は現地女性を強姦したり、
現地住民から食糧を取り上げたりする存在として描かれてきた。夫が妻に性生活と炊事の無償奉仕を求めるのと重ねられている。
地元住民のなかには勇敢に侵略者と戦おうとした人もいるが、映画「Leftenan Adnan」のように
最後には命を失うことになる。映画「Embun」では日本占領期の地元女性の働きが描かれているが、
「女らしからぬ存在」として描かれることになる。
http://d.hatena.ne.jp/setiabudi/20090305
http://d.hatena.ne.jp/setiabudi/20080208#p1 組織に所属していると、個人の意思とは別のところでこういった活動に動員されることがある。でも、
それを契機に他の人と関係が作られていくのは悪くないことだと思う。募金がいくら集まったかが重要なのではなくて、
それをもとにどういう関係を作っていくのか(そして、そこに自分たちの専門性をどう織り込ませるのか)が大切なのだろうと思う。
だからこそ、組織が集めた募金をそのまま赤十字やユニセフに丸投げするのはどうかとも思う。そうするんだったらはじめから個人で
赤十字やユニセフに直接募金すればいいんだし。
話がそれたが、地震の話になったついでに、日本軍政中に大きな地震があって被害が出たそうだけれど
何か情報があるかどうか尋ねてみた。自分たちも文献資料を探す一方で聞き取り調査を行っているところで
まとまった情報はないのだけれどと断った上で、地震の直前に動物たちがたくさん穴から這い出して
逃げていったのを見た日本人が地震が来ると言って人々を避難させ、そのため被害がほとんど出なかった村があったという話をしてくれた。
調べ中ということは、震災以後に関心を持って調べ始めたんだろう。いくつかエピソードがあるはずだけれど、
そのなかから日本人の知恵で助かったという話をわざわざ選んで聞かせてくれたということなんだろう。
従軍「慰安婦」問題や沖縄戦「集団自決」問題などに絡んでしばしば右派が口にする被害者(遺族)証言への懐疑論の背景には、
「本当に被害があったなら被害者は機会を捉えて積極的にそれを訴えるはずだ」といった素朴心理学があるのではないでしょうか(“なぜ何十年も黙っていたのか”
“なぜ日本人慰安婦はほとんど名乗り出ないのか”→“実は慰安婦の境遇は悪くなかったのだ”など)。しかしこの男性の沈黙は、トラウマ的(ないしそれに匹敵する)体験を
口にすることがいかに困難であるかを改めて教えてくれます。
もう一つ、戦争にまつわるさまざまな不平等は「被害の記憶(の共有)」にまで及ぶ、ということもこの記事は示していると言えるでしょう(参考)。
同じように、社会的に差別の対象とされた人々の空襲体験をとりあげた記事が毎日新聞に掲載されています
日本人の心には差別意識が入り込みやすくなっており、それがあらゆる機会にいろいろな形で顔を出してしまうのでしょう。
日本国内、日本人の心の中では、無知が差別を生み、ひとつの差別が別の差別につながり、...というようにどんどん差別が連鎖しているのではないでしょうか。
無知それ自体は恥ずべきことではありません。全知全能になることは不可能です。でも、知ろうとする意思を忘れたら、
人間は考えようとする意思もやめることになります。そうなれば、進歩も止まってしまうでしょう。進歩が止まれば、退化するしかありません。
差別を止めるのは、知ること、考えることから始まります。差別の連鎖をどうやって止めるか、そのための知恵こそが大切なのだと思います。
そのためには、政治や教育の力も必要なのですが、それらの力も弱まっていることが日本国と日本人の大きな問題なのでしょう。
たとえば民族差別や人種差別や女性差別はかなり多くの国や社会に見られるものですが、
多くの国はそれらの差別を克服すべく、国連からの勧告などをうけながらそれぞれの努力をしています。
しかし、非科学的な「血液型差別」は、ほぼ日本独特のものであり、日本人の持つ差別意識のあらわれの一つであると考えられます。
これをいきなり「差別意識のあらわれ」と表現するのがきびしすぎるというのであれば、「非科学」と「商業主義」と「心の弱さ」から生ずる
迷信が信仰として固まり、「差別意識」、「差別行動」として形作られた、と言いましょう。
「血液型差別」は人種差別や女性差別などとはちがって、国連の人種差別撤廃委員会などからの改善勧告もなく、日本人自らの理性や
科学的知見の光が当てられて修正されることも少なく、商業主義と結びついて長年しつこく生き延びています。多くの日本人は
これが差別であることを意識しておらず、その「悪意の不在」がこの「血液型差別問題」をよりやっかいなものにしているといえるでしょう。
授業料の無償化を朝鮮学校にも適用すれば、家族が学費を払わずに済む。無償化による恩恵は生徒の家族が受けるものであって、
学校を運営する北朝鮮本国、あるいは関連機関にはお金は送られない。つまり運営側にとってはなにも変わらない状態だ。
ではなぜ政府は朝鮮学校にも制度を適用しないのだろうか?アメリカとの関係?右翼・民族主義者の圧力?否、これは日本古来からの民族差別にあるだろう。
右翼だけではなく、日本国民全体には外の民族を差別・蔑視する傾向がみられる。それは時が経つにつれて薄くはなってきたが、依然強い。
朝鮮学校にも適用すれば、国民の税金は朝鮮人家族に渡ることになる。ましてやその多くは北朝鮮の国籍を持つ人だ。
だから国民感情としては税金は日本人だけに限りたい。そういうところだろう。
しかしそれは重大な民族差別で、彼らを侮辱する行為だ。国連人種差別撤廃委員会も疑義を唱えている程、各方面に波紋が広がっている。
同じ人間、同じ国の中に住んでいる人々なのに、なぜ協力し合おうとしないのか?共に文化・化学多くの面で
切磋琢磨・協力し合って発展してきた仲なのに、なぜ?
すばらしいですね。実際に植林されているということですが、そもそも森林破壊が行われなければ植林する必要性もないわけです。森林破壊の一員に日本が関わってますよね。
そもそも、アジアに対して高圧的態度を取り、経済侵略し、そういう森林破壊を含める影には、日本軍による過去の占領という側面があります。私は過去の日本について
関心をもっています。書籍や資料によって綴られるものではなく、生きた人間によって語られる歴史についてに関心をもってます。インドネシアにおいて植林を行われる中で、
村々を訪れ、日本軍の占領時代を生きた高齢者の方々からお話を聞く機会はなかったのでしょうか?あれば詳しく教えていただければ幸いです
■[政治・社会]韓国在留日本人妻の戦後
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20100304/p2 朝日新聞(大阪本社)の朝刊に「百年の明日 ニッポンとコリア」と題する企画記事が掲載されている。3日の「上」は戦中の徴用、敗戦後の引き揚げ、
戦後の「ポッタリさん」(行商人)などを通じ関釜航路をとりあげている。4日の「中」では北朝鮮への帰国事業と、
韓国在留日本人妻の帰国事業(1962年から)について。しかしすべての日本人妻が帰国できたわけではない。
韓国東南部の慶尚北道慶州市には、身寄りのない日本人妻の保護施設「慶州ナザレ園」がある。72年の創設以来、
200人以上が在籍し、今も 76歳から96歳までの23人が暮らす。無国籍者として社会から捨てられ、たどたどしい
日本語を頼りに担ぎ込まれた女性もいた。
同園に勤めて27年になる宋美虎(ソン ミホ、原文ではルビ)園長(59)は「みんな日本に帰りたい。でも、身寄りがないのにどうして
日本で生きてゆけるでしょうか」と話す。23人の日常会話は韓国語。日本の話題を楽しみに、余生を送る。
「日本がいやなら在日は半島に帰れ」などとほざく輩にはこの園長のことばなど届かないのだろうか。
朝鮮学校除外問題、外国人参政権問題にみる近視眼的考え方の跋扈…日本市民は脳なしになったのか
http://blog. goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/f6526e5fe6ab51eb8e6eaab4a7fc4ae9
民主党は、高校無償化の朝鮮学校への適用について、4月からは行わない方針を明らかにした。もう少し基準について検討するのだそうだが、
これについて、批判的な声が過半数を占めているという話は残念ながら聞かない。また、外国人参政権についても、
特定の自治体に「外国人」が住所を移し、その自治体を乗っ取り、将来的に日本が乗っ取られるなどという妄想を信用して反対する人が結構いるらしい。
いつから日本の市民は、脳なしになったのだろうか?
高校無償化問題についていえば、差別的な待遇を受けることで、朝鮮学校で学ぶ多くの若者が日本国家及びそれを
支持した市民に対してどのような感情を抱くかを考えてみれば、差別的取扱いをするべきではないことは明らかだ。
まず重要なのは「日本で収入があり税金を納めて親が支給対象」という点です。
「外国人に日本人の税金を配る」とあるが、税金を納めている外人の話なので「日本人の税金」という点が変です。
外国人を除外すればそれは「外国人の収めた税金を日本人が独り占め」という話です。
レアケースや、子供の数を誤魔化す詐欺行為を危惧するばかりに、正規の養子や婚外子を除外するようは制度は、
運用上足かせとなります。詐欺行為をどうするかを別途考えるべきです。
そうは言っても気になる点はあります。
まず本制度は国内の少子化対策を目的としているので海外の子供に配ってどうしようというのか?
また、子供に対する制度なのに、子供を日本に残して親が日本に住んでいないと子供に支給されないのは理解しかねます。
GoW3のほめられる部分なんてMLAAフィルターぐらいだからね
アンチャは見た目が派手で頭悪い奴ならだませそうな絵だったしね
大日本!と云われると今の日本人はこそばくなるかも知れない。しかしインドネシア解放軍の一員として、インドネシア人の実感はよく分かる。
「ジンポール」と親指を立てて熱狂して我々を迎えた感激は、85年の長い人生でも二度とはない。
ジャワ観光の現地添乗員が「インドネシアの今日があるのは、日本軍のお陰です」と堂々と云った。私は「具体的にどんなことですか」と聞くと、
「教育と農業の大事なことを教えてくれた。白人支配に立ち向かう勇気を教えてくれた」と答え、私は感激一入だった。
更に次のバリ島では皇紀のカレンダーが売られていた。これから出かけると皇紀2665年カレンダーが店頭に見かけるかも知れない。
http://www.medias.ne.jp/~seizi-n/inndonesia.htm
■20世紀
オランダは、20世紀初期までにアチェとバリ島を含む全諸島を支配下においた。
1928年、スカルノらによりインドネシア国民党が結成され、公然と独立を呼びかけた。
第二次世界大戦中、日本軍は1942年、諸島を占領した。
インドネシアは当初日本によって、独立が達成されることを期待した。
しかし日本の軍政は、オランダ統治時代より悲惨なものだった。強制労働により多くの国民が死に、
天然資源、食糧の搾取により農業生産は低下し飢饉が襲い、餓死者が多数でた。
反乱も多発し、日本軍により鎮圧された。
日本の無条件降伏の二日後、1945年8月17日、スカルノはインドネシア独立を宣言した。しかしインドネシアの再植民地化をねらう
オランダは武力で制圧しようとし、双方で戦闘が始まった。
インドネシア軍の抵抗と国際世論の非難により、オランダは植民地化をあきらめ、1949年12月、オランダのハーグにおける会議で、独立が合意された。
http://www.eastedge.com/indonesia/history.html
インドネシア側のODA窓口になる国家開発計画庁で現在、円借款による道路建設など地域開発事業に携わっているエディ・プラモノさん(46)の父は大戦中、
ジャワ島中部に住んでいたが、日本軍が反抗的な住民の手首をしばり、水も与えずに炎天下に終日座らせるという仕打ちを繰り返し、中には死んだ人もいたという。
また、住民を「労務者」として強制労働に従事させ、農作物も収奪した。プラモノさんはこうした話を父から聞いて日本をうらんでいたが、
「ODA事業に携わって、日本がインドネシアと良好な関係を築こうと努力していることが分かり、日本への見方が変わった」と日本のODAを評価する。
http://www.rikuryo.or.jp/worldeye/indonesia/episode08.html
日本軍は、オランダ植民地「東インド」に42年2月に侵攻し、2週間で占領。同年7月に、戦前からの独立運動指導者でオランダによって
投獄されていたスカルノをジャカルタに迎え、日本軍への協力と引き換えに活動の自由を与えた。スカルノらの指導で隣組や婦人会、
青年会など各種団体が作られ、軍事訓練や労働奉仕に参加した。
スカルノは日本軍に協力する一方で、国民意識を育てる政治演説も行った。日本は戦局悪化に伴い小磯声明(45年3月)でインドネシア独立を
約束するなど、懐柔に努めた。
シャムシルさんらの青年団体には独立を目指す若者が集まり、スカルノらを講師に迎えて政治の勉強をした。また、日本軍が禁じていたラジオを
事務所外に隠し持ち、海外放送をチェックして日本軍の苦戦を把握していた。シャムシルさんによると、日本降伏の日、ジャカルタの日本軍は
何も発表しなかったが、ラジオ放送を聞いた仲間がいち早く情報を知り、仲間に伝えたという。
降伏の報を聞くと、シャムシルさんの友人が1人で自転車に乗って町に飛び出した。「日本が降伏した!」と家々に叫んで回り、
町の様子を観察して事務所に戻った。かつては住民が日本兵と出会った場合、おじぎをしなければ、「ばかやろう!」と怒鳴られ、
ほおをたたかれることもあった。しかし、友人によると、この日は兵士らが住民をとがめずに歩いていた。
同日午後、シャムシルさんらの指導者は他の青年団体の指導者と一緒に夕方近くまで会議を開き、夜になってスカルノ邸に出向いた。
指導者らはその道中で日本軍幹部に会ったので降伏についてたずねると、「町の治安に気を配り、われわれの指示に従ってほしい」と答えるのみだった。
http://www.rikuryo.or.jp/worldeye/indonesia/episode07.html
「普通の国」と言いながら差別や人権侵害、必要性のほとんどない調査捕鯨なんかを批判されると、伝統だ!文化だ!って反発するのはすげー矛盾だよな
。一応建前としては、国連も認めた国際貢献の中で自衛隊を派兵することになってるんだから、
国際協調っていう枠組みを守るのが「普通の国」のあるべき姿ジャン。自分の都合のいいとこだけつまみ食いはできんですよ。
あとさ、何かっていうと人権侵害を続けている中国を批判する方が先じゃ!日本だけ批判されるのは不当だ!って
吹きあがるのもどーよ。日本は民主主義国家なんだからさ。国民全体の意志として差別的だったり感情的だったりすることを
積極的に選んでる、ってとこを批判されてるんだよ。中国政府とは違って、民主的に選ばれた政権なんでしょ?重みが違うんだよ。
ワタスは米軍基地は日本から無くすべきだと思ってるんだ。でも、悲しいけど今のような国のあり方では、アメリカに
首根っこ押さえられてない日本なんて、とてもじゃないけど近隣諸国に受け入れられないだろうな。70年前に狂犬の
ように暴れまわり、そのことを正当化したり美化したりする政治家が常に絶えず、当時の被害者に対して真の意味で謝罪も賠償もしない。
そんないつまた暴れまわるかもしれん国が米軍を追い出したりしたら、間違いなく東アジアの軍拡競争勃発だよ
669 :
農NAME:2010/03/20(土) 19:50:26
外国人参政権反対デモに参加した2女の父親という国立大の男性職員(45)は語った。
社会の流動化や閉塞感、国際環境の変化に対する危機感……。
先の見えない日本への不安に、運動が油を注いで、極端な敵意を膨らます。
東西統一直後のドイツで、若者に「外国人は出て行け」と突き飛はされた経験のある大阪大大学院の
木戸衛一准教授(ドイツ政治)は「在特会は、人種差別的なヘイトクライム(憎悪犯罪)をあおっている」と見る。
「人種差別撤廃条約を批准しながら、日本は差別を禁じる国内法の整備を留保してきた。
ドイツ刑法の『民衆扇動罪』のような歯止めが必要だ」と指摘する。