不耕起農法は難しいのでしょうか?

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1農NAME
不耕起農法で米を作るのは難しいのでしょうか?
合鴨農法とは両立できないのでしょうか?
他の田からの農薬の影響は大きいのでしょうか?
やるにはその地区全部やらなければならいのでしょうか?
素人なので教えてください。
2農NAME:02/01/05 09:43
水がもれなくて移植が出来れば可能だよ。
部分耕という方法もある。

でも、文面からすると何か勘違いしているような・・・
耕起の目的をきちんと理解してる?
3農NAME:02/01/05 16:29
<2  目的教えて
4農NAME:02/01/05 20:31
2じゃないけど、省力化では・・・?
51です:02/01/05 22:32
父の農業を引き継ぐかどうか迷ってます。
引き継ぐにしても、農薬や化学肥料にたよらない自然の力をフルに活かした
安全でおいしいものを作りたいと。省力化ももちろん魅力です。
6農NAME:02/01/05 23:43
省力ではないんで無いの?
だってちゃんと耕すようになったの稲作の歴史でここ最近じゃない
7農NAME:02/01/05 23:46
硬度を下げる(根の伸長,易耕性を上げる)
通気性を上げる(好気的分解を促進)
透水性を上げる(水を均一にしみこませる)
8農NAME:02/01/05 23:54
うちの爺ちゃんはやることが無いとき、決まってトラクターで田んぼを起こしてるよ。
年よりのおもちゃみたいなもの
3・400万払って年1回じゃ寂しすぎるみたい
9農NAME:02/01/05 23:56
無農薬と省力化は相反すると思うが・・・。
自然の力(雑草・病虫)>>>稲
なので、あまり理想は追わない方が良かれ。
10農NAME:02/01/06 00:02
ちょっと前まではトラクタも農薬も化成肥料も無かったのでは?
11農NAME:02/01/06 00:03
土壌浸食を減らすために、不耕起栽培を導入してる国もある。
12農NAME:02/01/06 00:34
不耕起農法が省力化だって???
それは大きな間違い。
耕さなくても収量を確保するってことは、それなりの“工夫”が必要になる。
逆に重労働で煩雑な作業が待ってるよ。
13農NAME:02/01/06 00:43
工夫≠重労働
14農NAME:02/01/08 02:04
>>1
で、不幸機に何を求めてはるの? それによっておのずと答えは違うはず。
 技術的な可能性と経営的な問題をごっちゃにしたら、失敗の道一直線〜ってことになるので、よーく整理して考えてちょ。

>不耕起農法で米を作るのは難しいのでしょうか?
 出来るけど。 一言で不耕起というけどいろいろあるよ。
 それと雑草は覚悟してね。

>合鴨農法とは両立できないのでしょうか?
 出来るけど。 電牧柵位するか、鴨の使い捨てにするかは考えてね

>他の田からの農薬の影響は大きいのでしょうか?
 影響がないわけはないけど。 程度問題なんで回答不能。

>やるにはその地区全部やらなければならいのでしょうか?
 そんなこたぁない。 で、作った米はどうするつもり?
15:02/01/08 12:55
耕起というのは、>>7 のポイントもあるが、大きな目的としてはやはり「除草」である。
不耕起を行うと除草剤は必須になるから、農薬を減らしたいという希望にはナカナカ
そえなくなる。
不耕起の場合の除草剤の選択は、直播栽培で推奨されているものを選択すればよい。
16農NAME:02/01/08 18:59
合鴨が泳ぐ→除草効果
合鴨が泳げるように水位を高く一定に保つ必要がある。
水不足だ。やっべー。という地域にはお勧めできない。(ような気がする)
あと、Vの字理論を反対するような栽培になるんすかね。<素人考え

各地で自然条件が違うから
難度は一概に言えないと思うよ。
17農NAME:02/01/08 19:07
不耕起やってる人に聞くと、そんなに大変じゃないって
いってたよ。耕すと、土中の微生物が天日にさらされて
死滅。食物連鎖が壊れ、土をやわらかくしてくれるミミズ
などの小生物もいなくなる、と。だから耕さない方がいい
んだって。雑草の除去はかなり小まめにしているみたい。
18農NAME:02/01/08 19:27
>土中の微生物が天日にさらされて死滅。

病原菌が減って良さげだけど。。
19農NAME:02/01/08 20:04
乾土効果も期待できるんじゃないの?
乾田・湿田にもよるけど。
20農NAME:02/01/11 15:08
age
21農NAME:02/02/01 02:30
不耕起農法は難しいのでしょうか?
22農NAME:02/03/04 19:14
age
23農NAME:02/03/05 23:18
目標収量は決まっていますか?それによって、難易度は変わってきます。
24農NAME:02/07/20 07:57
とりあえず、農文協の資料を読み漁ったら?

農文協ルーラルネット
http://www.ruralnet.or.jp/
で、「不耕起栽培」で検索をかける。

また、農文協の本は、普通の本屋さんにも置いてあるので、一度みて覗いてみたらいかが?

おれの知識もこの辺りからしかないけど、
うまくいっている人はうまくいっているみたい。
たとえば、雑草対策は、数年間不耕起栽培を続けると、
雑草が減ってくる。
その理由としては、耕起していたら地中にある雑草の種子を掘り起こしそれが発芽してしまう。
しかし、不耕起は地表面の草を丁寧にとり続けると、雑草の種子の供給が減る、という話。
25農NAME:02/10/07 21:37
福岡正信さんや、川口由一さんがやっている「自然農法」
なら不耕起、無除草、無肥料、で直播です。福岡さんのほうは
本人の哲学が入ってくるので少し宗教じみてます。
ヤフーで検索に「自然農」で入れると何個か出てくると思います。
その中にあるMOA自然農法というのは完璧なる宗教団体が行っているものです。
MOAは世界救世教の教祖さんが作った自然農法が基となってるものです。
お勧めは
http://www1.linkclub.or.jp/~amal/index.html
です。あまるさんという方が専業農家でやっています。他へのリンクもあるので便利です。
お試しください。
26農NAME:02/10/07 21:50
25についてですが、基本的には。です。
不耕起、無除草、無肥料、で直播とはいうものの、それなりに仕事をします。
基本的に不耕起が理想ですが、
植え付けのときに少しだけ植え付け部分を掘ったりはします。
作物が小さいうちは草を刈ってあげたりします。
化学肥料は与えません。基本的に緑肥
(草の種をまき生えたらほっといて腐らせる。の繰り返し)ですませます。
そんな農業なので省力農業といえば省力で、仕事多い問えば多いです。
不耕起という点ではその仲でも結構いい農法だと思います。
不耕起は、やろうと思えばできるのだと思います。
27雑草学者:02/10/08 00:46
>>24 雑草に関する理解は私と逆ですね。
不耕起栽培の問題の最たるものは、雑草問題だと思います。
28農NAME:02/10/19 21:24
>>>27
ほぼ草生栽培みたいな人もいるので、代ジョブです。
29農NAME:02/12/22 18:27
先日夜にNHK衛星で不耕起栽培の米作りの特集があったけど、テレビを
見てる限り自分でも出来そうな気がしてきました。
30農NAME:02/12/23 00:32
じゃぁやれば?
31農NAME:02/12/23 11:50
>>30
とりあえず庭の一角を水田にして試験的に行います。
先週水を張りました。
それで良い結果が出ると本格的に行おうと思います。
しかし、不耕起特製の田植え機は高そうですね。
32農NAME:02/12/23 12:41
どこにお住まいで?
沖縄以南ですか?海外ですか?
さもなくば温室的に囲って加温する必要がありますが、
温室の圃場試験結果なんてなんの意味もなしません。

慣行的に5月〜6月くらいの田植えなら湛水はその直前でOK。
33農NAME:02/12/23 13:56
>>32
中国地方の山陽側です。
兼業ですから耕さなくてもよいのは魅力的です。
いきなりやるのは怖いから試験的に行いながらノウハウを貯めて行こうと考えてます。
不耕起農法は成功すると確信を持ってないので恐々と始めようとしてる段階です。
34http://www.ura2ch.net/:02/12/23 14:06
ura2ch ura2ch
35農NAME:02/12/24 02:16
病気出して近所の田んぼに迷惑かけるなよ。
36山崎渉:03/01/11 17:25
(^^)
37農NAME:03/04/10 17:20
^^
38農NAME:03/04/17 02:40
ageまちゅね
39山崎渉:03/04/17 08:48
(^^)
40山崎渉:03/04/20 04:29
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
41農NAME:03/05/07 22:56
畑の不耕起とちがって水田の場合なにかメリットあるんですか?
42農NAME:03/05/09 22:03
ずーっと畑の話だと思ってレスしてた・・・
43農NAME:03/05/12 21:46
不勃起性交は難しいのでしょうか?
44山崎渉:03/05/22 00:14
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
45山崎渉:03/05/28 14:43
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
46山崎 渉:03/07/15 13:00

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
49農NAME:04/01/23 03:04
age
50農NAME:04/02/07 02:46
age
51農NAME:04/02/18 20:55
いやね、不耕起とか無農薬とか嫌いっすね。
だって、技術逆戻りじゃん。今まで、何十年かけて化学肥料が発達してきたと思う?
何のために耕運機が開発されたと思う?
収量増加やろ?
日本の自給率考えてみてください。
ただの贅沢農業としか考えられませんな。
消費者も今まで散々農薬と化学肥料かかった食料食ってきといて今更そんなもん求めんなよ。
・・・って言ってもしゃーないか。

有機農法は自己満でどぞ。
52農NAME:04/04/19 14:37
ハイハイw
53農NAME:04/04/29 18:10
不耕起やってる親戚のおっさんがいるんだが、
除草もそんなにしなくていいらしいし、水を張った状態にすることで
水田の生態系も壊れないから、害虫の天敵も豊富で害虫駆除の農薬も
必要ないらしい。
肥料も使わないけど、今まで作ってた米よりうまい米ができるとか
で、こないだうちに来たときにめちゃくちゃ語って帰ってった。
>>29のテレビでやってたやつらしいんだが、大きい田んぼでもできる
からかなり楽だって言ってた。
おっさんいわく、葦なんかの生えた沼の状態に良く似てるみたい。
葦の生えてる場所には他の雑草がまったく生えてない状態で
生き物もたくさんいて、葦が虫に食われてることもない。
水田もそれと同じ状態にしてやればいいんだとかかんとか。
54農NAME:04/04/29 18:59
不耕起で水を張ると、どんどん水が抜けませんか?
わたしの周りでは、不耕起をやると減水深が50mm/dayを超えるので、
水がいくらあっても足りないと言ってる人がいましたが。
55農NAME:04/04/29 19:56
>>51
質問です。
植物は無機物質溶液で無菌培養出来るのでしょうか?

父が有機有機とうるさいので…。
56農NAME:04/04/29 23:50
農業と培養を同じに考えるあなたは、不耕起スレに相応しくないのでは。
57農NAME:04/04/30 09:38
スレ違いは承知の上です。

_| ̄|○
58農NAME:04/04/30 18:39
不幸起で減水深が120mm/dayだったのをありありと覚えていまつ

これだけ水喰ったらダムをもう3つほど作ってもらわにゃならん。
不幸起を奨励するヤシは土建屋と繋がってるのか?

冬季水張りしたいけど冬は水こねーんだよ
59農NAME:04/05/09 22:41
陸稲作ったら。水稲より簡単だよ。昭和40年代は結構作付けしてました。
60農NAME:04/05/09 22:50
除草がたいへんなのでは?
61農ネーム:04/05/10 00:15
〉54
不耕起栽培で水稲連作すると漏水します。
麦大豆等とのローテーションが必須です。
〉53
不耕耕栽培では、除草と苗だち不揃いが最大のネック。
もともと草が少ないほ場なら雑草も問題ないかもしれんが、
普通は草との戦いは避けられないでしょう(除草剤2回)
移植に比べ生育がばらつくので、収穫時に青米〜胴割れ
混在し良品質化は難。均平条件良ほ場ならいいかもしれんが
62農NAME:04/05/10 00:20
〉55
昔、稲等の種子からの無菌培養やってました。
結果、稲では穂が出ませんでした。
植物工場等は成り立っているけど、植物の生理は
未だ不明な点が多いみたい。

63農NAME:04/05/10 22:40
>>59
おかぼは味がね〜…
64農NAME:04/05/11 00:45
>>63
しかも生産量が約1/3に…。
65農NAME:04/05/16 00:43
収量を求めないんであれば不耕起でいいんでないかい。年寄りで農作業はフルにできないけど、田んぼを手放したくないって人に広まりつつあるみたいだね。
66農NAME:04/05/16 01:23
小規模なら何とかなるでしょう。
しかし一般化するなら水の供給とか農業のインフラからの整備が必要。

陸稲がどうとか言ってるヤシはただの阿呆
67農NAME:04/05/17 23:01
まぁ もち米作ることですな。
68農NAME:04/05/18 21:08
>>66
アホはお目江だ。出て行け区沿ったレ。
69農NAME:04/05/18 22:44
>>66
オートミールでも食ってろ。馬鹿
70農NAME:04/05/18 22:55
あ、オカボが怒った(w
そうだ、陸稲に罪はないし不幸帰納法も難しくない。

しかし、知恵足らずを治すのは難しい。 なぁ?>>68=69
71農NAME:04/05/18 23:13
>>70
That’s right 
72農NAME:04/05/22 21:41
So what?
73農NAME:04/05/23 20:50
先生!! 質問です。
男家母=婦耕起=婦勃起でつか?
74農NAME:04/05/24 01:03
その場合はレビトラかベファー、カベルタが効きます。
一応医師の指導を受けて下さい。
75農NAME:04/05/24 22:26
筒井康隆読みすぎ
76農NAME:04/05/24 22:49
月面では不耕起でないと、あっというまに水が蒸発して消滅するな。
77農NAME:04/05/26 20:36
こうだ。
78農NAME :04/05/27 23:03
>>51
農協の方ですか?
ところで合鴨との併用は無理なんですか?
79農NAME:04/05/29 21:15
合鴨との併用いいんじゃない。合鴨は大変だよぉ。窒素過多になったりして。
80農NAME:04/05/29 21:56
うんこ
81農NAME:04/05/29 23:03
おまえの星では、不耕紀とアイガモ一緒にやると窒素が湧いてくるのか?
82農NAME:04/05/30 15:23
おまいら、無知と誤解が多杉。
これを嫁。
 ↓

『不耕起でよみがえる』
 岩沢 信夫 (著)
 創森社 ISBN:4883401685
83農NAME:04/05/30 16:12
>>81
>>80を読め
84農NAME:04/05/30 19:36
もうちょっとだけ考えてみ
ウンコに含まれている窒素はどこから来るんだ?
85農NAME:04/05/30 20:31
不耕起って信じられないなあ
いろいろ読んだけど

ほんとにそのほうがいいのなら、何で先人は何千年も耕起して来たのよ
86農NAME:04/05/30 21:11
しかし、不耕起を続けている人がいるのも不思議。
ずっとうまく、いっている人もいるってこと?
87農NAME:04/05/30 21:21
俺も試してみたいけど、
耕地整理したての田圃じゃあやりづらいわな。
88農NAME:04/05/30 21:42
合鴨が何食ってるか調べてみ。どうやってタンパク摂ってるかわかるだろう。実際合鴨農法の米はタンパク含量が高くなる傾向にあって食味が落ちるんだよ。
89農NAME:04/05/30 22:21
不耕起って、そもそも田んぼにできる自然の生態系の力を最大限に
利用したものじゃないかな。
だから人為的にアイガモを放たなくても、冬期湛水すれば草も少ないし
微生物や虫が農薬や肥料の代わりをしてくれる。
90農NAME:04/05/30 23:38
ということは、2000年来続いてきた耕起移植栽培は
田んぼにできる自然の生態系の力を利用しなくて(ry

まぁ他人の寝言をそのまま受け売りするだけの発言ならもうやめとけ
91農NAME:04/05/31 01:38
2000年だってw
寝言は寝て言えよ
92農NAME:04/05/31 16:39
不耕起・無代かき田植機[6・8条]
http://www.iseki.co.jp/products/taueki/taue-10.html

う〜ん高そうだなぁ。共同購入かな?やっぱ。
2条の歩行タイプでいいから、安いのが欲しい。
93農NAME:04/05/31 19:06
>>91
洩れも原典を読んだわけではないが、漢代の農書に書かれていると聞いたぞ。
軽くぐぐると、六朝時代のものが現存する最古の農書らしいが、始皇帝の焚書坑儒で難を逃れた実用書に農書があったそうな。
水稲作の歴史は少なくとも7000年はあるんだから、耕起移植栽培の歴史は2000年では短いだろうね。
ついでに、7000年前には耕起していた。

日本でも縄文晩期の水稲作は認められているんだから、軽く2000年は越えるね。
これはもちろん耕起していた。

まずは己の不明を反省しる
94農NAME:04/05/31 20:33
>>92

いくらくらいするんですか?
9590:04/05/31 21:21
>>93
遺跡の方の話をしようと思ったんだが農書もあったか。

そういうことだ。 ちょっとは知恵付いたか>>>91
96農NAME:04/05/31 22:09
鋤がロータリーになったのは、たった数十年前。
97農NAME:04/05/31 22:25
ん? どうやらロータリーになるまで耕起しなかったと言いたいらしい。
なんかこのスレの不耕起派はあまりにレベルが低い。
いや、不自然なまでに低い。

ひょっとして釣りなのか?? どういうオチなのか知りたい気もする。
98農NAME:04/05/31 22:39
日本の農業においては、不耕起派 VS 耕起派(慣行派)
とい図式があるのでしょうか?
99農NAME:04/05/31 22:44
半不耕起でいいじゃん
100農NAME:04/06/01 19:28
100get
101農NAME:04/06/01 21:40
>>94
受注生産みたいですね。
300〜400万円くらいかな?
詳しい人、教えて下さい。
102農NAME:04/06/02 00:21
>>95
ごまかすなよw
2000年来続いてきた耕起移植栽培
2000年問題?
103農NAME:04/06/02 12:29
プ
漏れには十分に見えるな
根拠もないネタで頑張るなよ>>102

そこしか突っ込めるところがないようだが
そんな事よりも自分の書いたことを証明する方に一生懸命になれよ>>102=89
もちろん証明などできやしないだろうけどなw
104102 ◆mzHl.DfRDI :04/06/02 21:56
そもそも私は >>89 のような不耕起栽培に対する想いはないよ。ただ「耕起移植栽培が2000年来続いてきた」とする君の認識が悲しいかなとw
105農NAME:04/06/03 00:00
というわけでオチも無いみたいですし、不耕起の話は終わりましたかな。
106農NAME:04/06/03 10:58
不利になったら話題を逸らす、逃げるが不耕起野郎の常套手段だからね。
ほとぼりが冷めたらまたわいてくるさ。
条件を適切に設定すれば悪い技術じゃないのに、勧めているヤシが(ry
107農NAME:04/06/03 20:56
>>104 それで何年位なの?耕起移植栽培
108農NAME:04/06/03 21:51
意地悪してやるなよ>>107 知らないから必死になっているのに。
109農NAME:04/06/03 22:47
>>106
そうそう、条件を適切に設定すれば悪い技術じゃないんだよ。素直になればいいのにね。やたらと絡んでくるヤシが(ry
110農NAME :04/06/03 23:03
どうせ農協野郎でしょ。
111農NAME:04/06/04 01:21
農協野郎は資材と米を扱えれば農法なんて何でもいい。
絡んでくるのは不耕起を万能のように謳いあげる知障の人たちだね。

もっとも、本人達は絡んでいるんじゃなくて自分の正当性を訴えているつもりなんだが。
不耕起の為にはこやつらを黙らせた方が良いな。

# 主流になる技術だとは思わないけど。
112農NAME:04/06/05 19:44
>>107
2500年
113農NAME:04/06/06 13:48
あれま。それじゃ>>104はタコ?
114農NAME:04/07/03 02:28
弥生時代に耕起していなかったら、鍬や鍬が出土するわけないのだが

とマジレスしてみるテスト
115農NAME:04/07/03 23:18
農耕地が少なく、かつ収量が少なかった時代には耕起は重要な農法であり、それが故に何千年も耕されてきた。
農耕地の拡大が限界に達してきて、環境負荷の側面が無視できない状態ではミニマムティレッジという考え方が有効となってくるが耕起が不要というわけではない。

不耕起栽培も悪くはないが、ここで不耕起を語るヤシはあまりに近視眼的。おら泣けてくるぜ。
ちなみに水田ってのは耕起だろうが不耕起だろうが環境負荷は結構大きいのよ。環境負荷だけ語ると不耕起のほうが大きいな。
116農NAME:04/07/04 20:22
ミニマムティレッジってどういう意味?
それと不耕起のほうが環境負荷が大きいとはどういうことですか?
117農NAME:04/07/04 21:57
水漏れ、尿漏れ、ウンコ漏れ
118農NAME:04/07/04 22:24
聞く前にぐぐる
これ鉄則
119農NAME:04/07/05 07:58
ミニマムティレッジは、ぐぐってわかったが、
不耕起のほうが環境負荷が大きいとはどういうことですか?

120農NAME:04/07/05 19:23
水漏れ、尿漏れ、ウンコ漏れ

121農NAME:04/07/05 21:10
>>119
今の水田にそのまま不耕起を持ち込んだ場合、減水深が問題になる。
水が持たない(もたない位ならましな方)ので除草体系は組み直し、薬剤量も増える。
漏れた水には肥料成分も含まれる。 横にも下にも移動するんだなこれが。

冬季湛水から始めれば減水深はだいぶマシになるが、冬季湛水の為の水源確保が必要。
河川から水源を取れば河川の環境を激変させるおそれが高いしな。

というわけで
単純に不耕起栽培を導入しただけならまず間違いなく環境負荷は大きくなる。 不耕起栽培をするなら体系そのものを組み直す必要があるし、それにしても決して環境に負荷が少ないわけではない。
実際問題として、不耕起栽培を導入できる地域はかなり限られるから、漏れはあまり問題だと思ってはいないがな。
不耕起栽培はけっしてバラ色ではないのだよ。

定量的に知りたければ文献漁ってくれ。
122農NAME:04/07/06 21:14
>>121 今の水田にそのまま不耕起を持ち込んだ場合、減水深が問題になる。

しろうとですが、代掻きしない影響でみずもちがわるくなるのでしょうか?
123農NAME:04/07/06 22:15
そうだよ、耕盤が割れてるから水持ちが悪いどころじゃない。ザル田もいいとこだ。
ローテーション回ってくるからいつまで経ってもザル田(−−;

なんか書いてるだけで嫌になってきたな
124農NAME:04/07/13 10:32
めんどくさがらずに耕せよ。
不耕起ったってまったく耕さないってことはないだろ
「めったに耕さない農法」
125農NAME:04/07/13 10:35
水田の場合耕さなくても簡単。
畑の場合耕さないと、もともと土が固いとちょっと難しい
 
どっちも土地の素性によって結果が変わる
成功してる人は
たまたま土地が肥沃だったとか
上の田んぼから肥料や農薬が流れてくるとか、(゚д゚)ウマー
126農NAME:04/07/13 21:37
>>124
 耕さないほうが、冷害に強い丈夫な稲ができるのですよ。
127農NAME:04/07/13 22:06
>>126
それは違うぞ 盲信は避けろ
不耕起=冷害に強い丈夫な稲 ではない
先の不作の時は、不耕起では生育ステージが遅れて低温型障害を受ける時期がずれただけだった。

本当に遅延障害を受けた地域では、綺麗に冷害受けてるよ
128農NAME:04/07/14 06:05
うちのセンセイは、不幸帰だと根っこが丈夫になって例外に強くなると逝ってたよ。
129農NAME:04/07/14 08:17
>>127 本当に遅延障害を受けた地域では、綺麗に冷害受けてるよ

 ソースキボン。どの地方?
130農NAME:04/07/14 22:51
ソースはネット上には無いはず。出したらモロバレなんで堪忍して。
131農NAME:04/07/16 19:27
あ、こいつどこのヤシかわかった
なるほど確かにモロバレだわ(w
132農NAME:04/07/16 19:48
疫便大学?
痴呆脳死?
133農NAME:05/01/03 19:16:28
age
134農NAME:05/01/27 20:44:37
はるまでもう少しら
135農NAME:05/02/02 00:04:34
『新しい不耕起イネつくり』岩澤信夫著 農文協

ぜひ、科学の眼で、検討(たたき)してください。
136農NAME:05/02/14 03:41:02
不耕起農法というのは、土壌生物が耕してくれる?
という意味では、不耕起ではないのかな?
農薬をばんばん使って土壌生態系を壊しながら、
不耕起というのは、無理だろう。
それから、雑草の繁茂は困るが、土壌表面を
被覆する程度の雑草は必要かもしれない。
雑草の根っこが土を耕してくれるという珍説もあるし。
137農NAME:05/02/16 18:09:46
不耕起農法というのは、土壌生物が耕してくれるとと信じる
という意味では、不耕起ではないのかな?
農薬をばんばん使って土壌生態系を壊しながら、
不耕起というのは無理だろうと信じることです。
それから、雑草の繁茂は困るが、土壌表面を
被覆する程度の雑草は必要かもしれないと信じることです。
雑草の根っこが土を耕してくれるという珍説もあるけど、それも信じることで不耕起になります。
138農NAME:05/02/18 22:48:58
「耕さなくてはならない」というのは
信仰?
「除草しなくてはならない」というのも
信仰?
「農薬で防除しなければならない」というのも
信仰?
「単一の作物を固めて栽培しなければならない」
というのも信仰?
「肥料を与えなければならない」
というのも信仰?
信仰というより常識かな?
無農学になっちゃうかな?
139農NAME:05/02/18 22:56:16
脳みそで考えるだけじゃなく、自分でやってみろ。
自給換算でいくらだと思ってるんだ?

…農家のおっさんならそう言うだろう。
140こういち:05/02/19 04:21:37
アメリカ中西部での不耕起について話します。
アメリカ中西部では、これまでコーンの単作、あるいは大豆との輪作による
化学肥料、化学農薬を用いた集中型農業が主流でした。
そこではもちろん耕起がおこなわれます。
しかし、それによる、肥沃な上層土壌の劣化は著しく、
その2/3以上が土壌浸食により失われました。
その懸念から、様々な大学、研究所で不耕起の研究が行われています。
ネブラスカのある農家では、cover crop(アルファルファ:豆科植物で空気中の窒素を固定し土壌にNを供給。また土壌の浸食を防ぎます。)、
家畜を用いた除草、マルチの使用(雑草の繁茂と発酵性微生物の働きを助けます)、
オート麦やミレット等の多様な穀物の輪作(病害虫を抑制できる)、
などにより、無農薬、無化学肥料、不耕起を成功させ、
かなりの利益を上げています(premiumも見込めます)。
これはアメリカでの話なので、あくまでも参考に。
http://www.sare.org/
http://www.attra.org/
も参考にして下さい。
141農NAME:05/02/19 14:34:11
このあいだNHKの小学生向けの番組で、
不耕起稲作を紹介しておりました。
農家のおっさんなら採算考えて二の足踏むでしょう。
でも、農学研究というのは最初から採算を考えるものですか?
採算から自由な分、一番基本的なところから、問い直したり
別の方法を試してみることもできると思いますが。

昨日もTVで気象庁の役人が「地震と地震雲の関連は考えられない」
と言っていました。地震雲によって「二日後に大地震が起こる」
と公の場で言って当てた人がいるにもかかわらず、
莫大な予算を使って一度も予知に成功したことの無い期間が、
その可能性を最初から否定して研究しない。
それが既存の科学なのでしょうね。

よって立つ前提から細かい研究するのも大事。
でも、たまには拠って立つ前提を疑ってみないと、
本当の意味で新しい研究というのは生まれてこない。
そのあたりは『否定学』という本に詳しいですが。
142こういち:05/02/19 18:37:43
141番様。
ご助言の程、ありがとうございます。
否定的立場から疑問を持って研究する、私も賛成です。
ただ、アメリカでの持続型農業における研究は、
農家の方々の収入の向上を高めると共に各地域の生態系バランスを回復する、
という目的で行われています。
採算が取れないとだれもついていきませんよね。
アイオワ州立大学では経済学部、社会学部、農学部、
動物学部、地質学部、生態学部などが
持続型農業の研究グループ(大学院)を作り、
共に多角的に研究を行っています。
また、農家の方々との共同研究を非常に重視しています。
143農NAME:05/02/19 18:51:18
↑採算取れない仕組みを作ったのは政治家や役人だから、
研究者がそれに従って人類の可能性を塞ぐ必要はないね。
144みき:05/02/20 03:24:51
143番様。あなたは研究者という立場の人間をどう御考えでしょうか?
私は大学で小麦の品種改良を行っている研究室で働いています。
しかし、自分のことを研究者であるとは思いません。
私は現在の仕事を生活の為のだたの仕事として行っています。
採算が取れて生態系を保持できる農業を研究されている農家の方だっていらっしゃいます。
その方達も研究者と呼べるのではないのでしょうか?
あなたのいう研究者とはどのようなものなのか御聞かせください。
145こういち:05/02/20 06:11:36
143番様。
いつも、勉強させて頂いています。
143番様のおっしゃる人類の可能性とは何か、詳しく具体的に説明して頂ければ幸いです。
よろしく御願いいたします。
146農NAME:05/02/20 08:36:33
司法、立法、行政が独立した機関であるように、
研究者、政治家、官僚も独立した存在でなくてはなりません。
これは、大学に独自の自治が認められてきた理由でもあります。

しかし、研究者が従う法律は、人間が仮に決めたしきたりではなく
自然界の法則そのものです。

研究者とは、自然界の法則を真っ先に発見し、世の中に知らせ、
人類の発展に貢献する人のことを言います。
発見しても誰にも知らせない人のことを研究者とは呼びません。

147農NAME:05/02/20 08:48:13
145
自律的に自己最適化する能力のことでしょうか。
自律的ということは、積極的ということも意味しています。

他人が決めたシステムやルールの範囲だけで問題を解決しようとすると、
多くの問題が解決できないことは、すぐに理解できると思いますが。

解決できない問題を放置するか、現状のシステムやルールを保存する方を優先するかは
個々人の判断によるでしょうが。
148農NAME:05/02/20 09:08:01
最後の二行は変ですね。訂正します。

解決できなかった放置して現状のシステムやルールを保存するか、
何とか問題を解決しようとするかは、個々人の判断によるでしょうが。
149農NAME:05/02/20 09:09:16
再訂正、掲示板に慣れてないもので・・・

解決できない問題を放置して現状のシステムやルールを保存するか、
何とか問題を解決しようとするかは、個々人の判断によるでしょうが。
150農NAME:05/02/22 00:24:23
初期設定を変えるかどうか? 
ということでしょうか。
土をなくして水耕栽培…
水を絞って緑健農法…

耕さないですませるには、
農薬や除草剤を買ってはいけない。
化学肥料も買ってはいけない。
収量も落ちる。
下手をすると草抜きもだめ。
そのかわり米ぬか入りの発酵肥料を
作っていれないとだめ。
作業は増えるのか減るのか?
それで採算がとれるのか?

でも無農薬・不耕起の田んぼが増えて、
糸ミミズやらミジンコやらが大量発生したら、
川の魚も海の魚も増えるんじゃないかな?
幼い頃に小鮒を追いまわした水路が忘れられない。
151農NAME:05/02/22 13:41:18
正直不耕起栽培の何が難しいかって、近隣住民から白い目でみられ村八分
にされること。これが解決できれば大分ちがうのだと思う。
152農NAME:05/02/22 21:45:50
ということは、不耕起栽培の問題点は、
技術的なものではなく、
むしろ社会的、文化的なもの、
あるいは村落共同体的?なものなのですね。
そういう問題の起こらないところなら、
自由に研究できるような気もしますが…
153農NAME:05/02/23 08:41:39
研究はされてるよ

不幸起のメリットもデメリットもわかってるし、成り立つ条件もわかってる

普及しないのは研究不足のせいではないよ
154農NAME:05/02/24 10:07:02
1.自給自足での不耕起。これはあり。つーか、勝手に汁。
2.自然保護の視点での不耕起。やりたい人がやれば、の世界。
3.究極の有機栽培としての不耕起。シンパが寄ってくる可能性あり。
  消費者つくと良いね、の感じ。
4.不耕起こそ本来の農業の主張。これは、とりあえず食糧供給なんとか
  してからの話かと。寝言も休み々言えと。

こんな感じではない?
155農NAME:05/02/25 15:41:53
世界規模で考えてもいいかも?
第三世界では、
商品作物、農薬、化学肥料の導入で、
食糧事情がよくなったところと、
悪くなったところがあると聞きますが。
それから砂漠化と耕起の関係とか…

そして、コスト的にはどうなのか?
経済性がないというときに、
「貨幣経済において」という留保を
つける必要があるのでは?
156農NAME:05/03/05 00:33:37
どなたか、
放置された雑草・雑木の生産量の比較で、
研究しないかな?
何も投入しないで、どれくらい生産性が上がるか?
その質や種類(栽培種か否か)を問わないで、
ジャングル状態に持っていって、その生産性を計る。

だめ?
157農NAME:2005/05/19(木) 17:30:30
>>150
>耕さないですませるには、
>農薬や除草剤を買ってはいけない。
不耕起でも農薬や除草剤使ってもいいと思うんだが
158農NAME:2005/05/19(木) 20:05:05
全部読んでないけどさ、農協は無知な農民を騙してさんざん毒を高く
売ってまきちらしてきたな。不耕起できるよ、種類と田によるが。
問題は農協。ここで不耕起を否定する人間は、自分がこれまで
農機具と農薬と肥料に金を使ってきたので、そんなやり方が
許せないだけ、要するにただの嫉妬。農家の人が哀れだ。
農家は革命を起こさなければならない。非化学、非石油脱却
しなければ少ない収入から搾取されるつづけるだけ。
目を覚ましてください。ご近所の皆さんを説得してください。
農薬会社が売り上げを伸ばしています。ひどいもんです。
159農NAME:2005/05/19(木) 22:39:34
農薬もない時代から耕起栽培が主流だったわけですが。
そのための道具として鍬や鋤が存在するわけだし。

>非化学、非石油脱却
頑張ってw
160農NAME:2005/05/20(金) 07:05:50
不耕起はある程度土が軟らかくないと出来ないから、耕起栽培が主流なのは当然だな。
161農NAME:2005/05/20(金) 10:25:26
試したことある?できるよ
162農NAME:2005/05/20(金) 19:00:55
水浸しにする水稲なら出来るだろうけど、野菜はどう?
堆肥や肥料撒いても養分が地中深くに染み込まないような気がするんだが
163農NAME:2005/05/25(水) 10:01:30
>>162
堆肥や肥料をまいて耕耘機で耕したところで、せいぜい地表2、30センチを掻き混ぜてるだけだから
大差はない……のかな?
164農NAME :2005/05/25(水) 10:14:04
>>158 非化学、非石油脱却
2重否定ですね。非〜脱却で、化学薬品と石油を使わないことを辞めると
いう意味ですね。頑張って農協から色々買ってやって下さい。
165農NAME:2005/05/26(木) 11:33:49
土を耕すことによって生じる最大の恩恵は、好気的な条件を作ったり
混乱を生じさせたりすることによって、一時的に微生物を死滅させ、
無機態の窒素を増大させることにあるような気がする。
窒素が豊富に入手できるようになったのは、
空中窒素固定法が確立されてからだから、まだ100年ほど。
それまでは、農業生産量における最大のボトルネックは窒素であったと思われる。
それを最も効率よく供給するために連綿と“耕す”という行為が行われてきた。
現在の農地のほとんどは、窒素過多状態。
堆肥などの有機資材自体が大量の畜糞等を使ってますからねぇ。
と考えれば、耕すこと自体は、それほど大きな意味を持っていない様にも
思われます。
166農NAME:2005/05/26(木) 15:55:40
草だらけの空き地を畑にしようと思って一部耕して、堆肥入れて二週間ほど
放置してたんだが、未だにそこだけ土が乾燥したまんま。雨が降るとすぐに
ドロドロになるくせに、晴れるとカラカラになる。
もしかして、あまり耕さない土の方が植物の生育に適した環境なんじゃないか。
というか、耕す事のメリットって何?
167農NAME:2005/05/31(火) 23:08:34
耕すことのメリットは、栽培する作物によってもまちまちですが、
根張り・雑草の予防的手段・管理工数の削減などが挙げられると思います。
不耕起農法では基本的に根菜類や水が多量に必要な作物の栽培には向かないと思われます。
水稲や麦、大豆といった主流の作物で不耕起栽培を行い管理コスト、工数を減らして、
他の作物の管理に工数をまわすというのが基本になってくると思います。
特に水稲・麦などは面積を稼がないと収入にはつながらない面もありますし、
あと不耕起農法が環境にやさしくできるわけではないと思いますので、不耕起だから
化学肥料がいらないなどという幻想は捨てたほうがいいです。
168農NAME:2005/06/03(金) 09:53:38
>>167 あと不耕起農法が環境にやさしくできるわけではないと思いますので、

表土流出に対してはどうお考えですか?表土流出と言う観点では不耕起の方が
遥かに環境に優しいのでは?
169農NAME:2005/06/03(金) 18:11:27
不耕起が耕起に比べて環境に優しいとかはどうでもいい
どっちがより低コストで稼げるかが問題だ
170農NAME:2005/06/08(水) 18:37:17
表土流出に関していえば、耕起しても不耕起でやろうとともに防げる方法はあると思います。
耕起不溝起の選択要素にはならないと考えています。

コストについては、水稲を不耕起栽培で栽培するには、初期の機械投資が大きな要因になってくると思います、
栽培面積が多い場合なら、耕起・代掻きの工数が省かれること大きいと思いますが、
栽培面積が少なかったり、今後作業が持続できない可能性(跡継ぎがいない等)のある営農体系では
不耕起よりも慣行移植栽培のほうを続けたほうが得策と思います。

近年では湛水直播栽培の技術も広がってきているので、コストを考えるならそちらのほうがいいと思います
いつまで続くかわかりませんが補助金を出している県も多いそうですから。
171>>170:2005/06/10(金) 05:18:41
>>表土流出に関していえば、耕起しても不耕起でやろうとともに防げる方法はあると思います。
>>耕起不溝起の選択要素にはならないと考えています。

非選択的除草剤とその耐性作物の組み合わせがアメリカ等で大規模に
導入されていることの売りの一つは、不耕起栽培で表土流出を防げると
いうことです。コスト的には除草剤耐性作物を利用が優れていると思う
のですが、表土流出を防ぐ上で耕起をして且つ防ぐ場合はコストがかか
りすぎるとは思いませんか?
水稲だけが不耕起栽培の対象作物ではありません。特に畑作物の場合も
想定されてみるのもいかがでしょうか?
172農NAME:2005/06/12(日) 22:35:36
大規模栽培がベースにあるアメリカ農営方法と日本のような広くて2ha程度の
圃場しかないところではトータルコストが変化すると思います。
耐性作物についても種類によっては日本での栽培が認められていないものから
流通段階で敬遠される場合が多いです。
海外で不耕起栽培が受け入れられている背景には、面積あたりの生産量が少なければ
栽培面積を増やせばいいという余力が有るからだとは思いませんか?
173171:2005/06/15(水) 21:58:21
>>172 耐性作物についても種類によっては日本での栽培が認められていないものから
>>流通段階で敬遠される場合が多いです。
だからこそ、日本でももっと遺伝子組換え作物の栽培を大規模に導入する
ような方策を考える必要がありますね。愛媛大の阿部先生が主張されてい
るように有機農法より組換え作物の方が有益とされているのに
http://web-mcb.agr.ehime-u.ac.jp/gmo1/
生協にだまくらかされている消費者の蒙を啓かねばなりませんね。
>>面積あたりの生産量が少なければ
>>栽培面積を増やせばいいという余力が有るからだとは思いませんか?
日本でも農家の高齢化、耕作放棄地の増大という背景がありますから
耕作放棄地の再耕地化のためにも組換え作物の出番はこれからどんど
ん出てくると思います。更に、都市型農業という農地のそばに住宅が
立て込んでくるような場合、砂塵による被害を防ぐためにも作物残渣や
枯れ草をマルチ代わりに利用する不耕起栽培は有利だと考えます。

174172:2005/06/16(木) 22:23:56
遺伝子組み換え作物は確かに栽培しやすく、病気、虫に強く
大規模栽培でも農薬の使用量を抑えれたり、収量を上げるには
良いものだとは思えます。
しかし日本ではそれを栽培する人間がどこにいますか

農家個数の激減だけをとってみても実際の生産者が減っているのですから
精算面積が減るのは当たり前、大規模農家が増えてきたといっても
せいぜい周辺の離農した農家の耕地を譲り受けて栽培面積を少しずつ増やすのがやっとです

さらに消費面から、遺伝子組み換え作物が安全か危険かはまだ判定できていないのが実情ではないでしょうか
食物から来る影響は次世代・次々世代に出る可能性も有ります。
そして日本人の気質からしても、新しい食べ物をそれとして認識して食べるのには根強い
抵抗があると思います。
「遺伝子組み換え用大豆は使用していません」
このような表示が当たり前のように表記されている商品が店頭に並んでいる
限り、遺伝子組み換え作物が受け入られる事は無いのでは?
175171:2005/06/17(金) 17:04:54
>>しかし日本ではそれを栽培する人間がどこにいますか
2003年7月 茨城・谷和原村で農家が栽培していた遺伝子組換えダイズを環境
テロリストが圃場ごと破壊するという犯罪を働いています。また、北海道では作付
けしようという篤農家を脅し挙げて断念させるという暴挙もおき、北海道は条例で
締め付けています。栽培したくても栽培させないように悪辣な妨害している団体が
いるために、作付けがうまくいっていないだけで「日本ではそれを栽培する人間が
どこにいますか」というのは言い過ぎでしょう。
>>さらに消費面から、遺伝子組み換え作物が安全か危険かはまだ判定できていないのが実情ではないでしょうか
>>食物から来る影響は次世代・次々世代に出る可能性も有ります。
こんなことを言えば新たに育種した品種も安全性はわかりませんし、今までに食べ
たこともない深海魚も同様なのに遺伝子組換え食品だけを特別扱いする必要性はあ
りません。実質的同等性で充分でしょう。
>>このような表示が当たり前のように表記されている商品が店頭に並んでいる
>>限り、遺伝子組み換え作物が受け入られる事は無いのでは?
現在でも表示義務のない食品(醤油等)は多数あり、見る人が見ればわかる
(オイルの脂肪酸組成とか)ものもあります。ですので表面的にはどうであれ
日本においては充分消費されています。
176172:2005/06/18(土) 12:41:07
安全性の面で言っているのは、耐病性・耐虫性の面で食物の持つ特性のみを
上げている遺伝子組み換え食品があるから言っているのであって、
品種統合や改善されてできたものとは明らかに違うものだと思います。
ましてや深海魚と同じ論点で考えるのはおかしいですね。
消費の面では進んで消費されるかされないかが重要な点ではないですか?
農家のブランド化が進む背景にはブランド化しなければ売れないという現実が
有るからで、売りにくい作物でも何らかの足しになればいい兼業では容易に手を出すでしょうけど
ブランド産地、農業団体・組合からすれば近距離の圃場で栽培されることすら敬遠するのは
当たり前のことではないでしょうか?
表示義務の無いものは減っていくと僕は考えていますし、実際表示義務の無い醤油にも書いてあるものが増えてきています
環境面から考えても、雑草より強い大豆が環境の悪影響を与えないとはどうしても思えません。
177171:2005/06/18(土) 15:02:54
>>品種統合や改善されてできたものとは明らかに違うものだと思います。
>>ましてや深海魚と同じ論点で考えるのはおかしいですね。
どこがどう違って、同じ論点で考えるのがおかしいのですか?遺伝子組
換え自体は我々の体内にしろ植物にしろ頻繁に生じているものです。遺
伝子の水平伝播の一種と遺伝子組換え食品については考えれば良いだけ
のことでしょう。
>>農家のブランド化が進む背景にはブランド化しなければ売れないと
>>いう現実
だからこそ遺伝子組換え食品のほうがマイコトキシンなどの汚染や残留
農薬が少なく、殺虫剤散布や土壌流出などの害が少ないという事実を宣
伝して、遺伝子組換えをブランド化していくような動きがあり、最近は
第二世代をそのような観点から、特に健康を前面に出していますね。
>>ブランド産地、農業団体・組合からすれば近距離の圃場で栽培されることすら敬遠するのは
>>当たり前のことではないでしょうか?
敬遠するのは結構ですが、圃場破壊や脅迫は犯罪行為で許されることで
はありませんね。
>>環境面から考えても、雑草より強い大豆が環境の悪影響を与えないとはどうしても思えません
雑草卯より強い大豆?いったい何のことですか?作物が雑草と競合して
勝てるとでも思っているのですか?除草剤耐性とか、耐虫性とか特定の
形質のみ付与されているものが雑草より強いとはどのような環境を設定
しているのですか?
>>環境の悪影響を与えないとはどうしても思えません
環境に対するどのような悪影響を想定しているのですか?
「遺伝子組み換え食品は危険である」スレ
ttp://science3.2ch.net/test/read.cgi/nougaku/977732274/l50
でさんざん論じ尽くされていますので一読ください。
178農NAME:2005/06/29(水) 02:42:15
172のような思いこみ野郎ってまだいるんだ。農経の学生か?
179農NAME:2005/07/02(土) 22:36:24
自分の所属する国家の戦争責任を認めることは、自分にかっての国家との連続性を断つことによって他者の信頼を回復していく
肯定的・積極的な行為である・・・戦後世代の日本国民は、戦後日本国家に「戦争責任」を果たさせる
政治的責任(戦後責任)を負う・
従軍慰安婦」の問題についても、元慰安婦の人たちが闇のなかから立ち上がってきた。その動きにどう応えるかというところから考えるべきだ。
180農NAME:2005/07/03(日) 00:34:52
>>179
誤爆?
181農NAME:2005/07/04(月) 23:03:32
■■■■■■■■■■■■■■■■
■                     ■  違う板にコピペすると、四角の枠の中に
■                     ■  メッセージとURLが現れる不思議な絵。
■                     ■
■                     ■  (その仕組みがリンク先に書いてある)
■                     ■
■                     ■  この原理を応用すると、まったく新しい
■                     ■  コピペが作れる予感。
■■■■■■■■■■■■■■■■
182農NAME:2005/07/21(木) 00:56:47
183農NAME:2005/07/21(木) 19:04:15
WiP(ライターズ・イン・プリズン=獄中作家)委員会
http://www.japanpen.or.jp/committee/gokuchu/
184農NAME:2005/07/27(水) 00:02:41
ニュースフラッシュ
http://www.tokyo-doken.or.jp/news/n1724.htm
185農NAME:2005/07/27(水) 00:27:56
こだわらない強み −ミクロネシア連邦モエン島の現状に対する島民の意識−
http://www.apa-apa.net/~jinrui/soturon/paper/harada.pdf
186農NAME:2005/07/27(水) 23:17:06
「チベット大虐殺」否定論の根拠は?
http://hyper2.amuser-net.ne.jp/~auto/b19/usr/cha2maru3/brd1/comdsp.cgi?629&&&
187農NAME:2005/07/27(水) 23:26:30
188農NAME:2005/08/04(木) 23:52:03
個人的 書評ブログ
http://ameblo.jp/tomoaki-takeda/
189農NAME:2005/08/06(土) 21:30:08
China trying to get a sample of Ebola?
http://www.limbicnutrition.com/blog/archives/026876.html
190農NAME:2005/08/13(土) 15:44:57
過去と未来の間
http://comrade.at.webry.info/
191農NAME:2005/08/13(土) 16:12:14
192農NAME:2005/08/14(日) 10:32:40
横山 篤夫著『戦時下の社会』
http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho148.htm
193農NAME:2005/08/15(月) 23:15:53
194農NAME:2005/08/16(火) 00:04:13
「憲法9条を守りたい」
体験交え集会で訴え  731部隊の元少年兵

http://www.geocities.jp/osakalawyers9/4.6asahi.htm
195農NAME:2005/08/16(火) 00:04:50
「731部隊の少年兵として」 小笠原 明さん
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/3521/ogasawara.htm
196農NAME:2005/08/16(火) 23:23:59
NHK:戦後60年……ウヨ的マスの雄叫びが、あまりに恥ずかしい!
http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C1310380191/E20050815202336/index.html
197農NAME:2005/08/16(火) 23:26:01
198農NAME:2005/08/17(水) 23:23:29
戦争犠牲者数について
http://www2s.biglobe.ne.jp/~fdj/taidan/gisei.html
199農NAME:2005/08/17(水) 23:34:41
南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実
http://ybbs.data-room.info/0200/0051/00007188.htm
200農NAME:2005/08/18(木) 20:47:22
201農NAME:2005/08/26(金) 14:17:02
yellow korean
在日韓国人のささやき、独り言。
http://blog.goo.ne.jp/yellow-korean
202農NAME:2005/08/27(土) 00:48:00

英米からみた日本の朝鮮支配(1)

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/99-3/Kajii.htm
203農NAME:2005/08/28(日) 00:40:47
>>182-202
そろそろチラシの裏やめたら?
204農NAME:2005/08/28(日) 17:31:23
王 柯 (おう か)
『東トルキスタン共和国研究――中国のイスラムと民族問題』(東京大学出版会)
http://www.suntory.co.jp/sfnd/gakugei/si_reki0037.html
205農NAME:2005/08/29(月) 22:29:00
第2章 英語系と華語系の対立
http://www2.tba.t-com.ne.jp/oldyokohama/ronbun2.htm
206農NAME:2005/08/29(月) 23:33:19
ピエール歴史観ー歴史修正主義を討つ
http://www.t-t-japan.com/pieyre/
207農NAME:2005/08/30(火) 09:11:32
太平洋戦争前に策定された「南方占領地行政実施要領」では、
「占領地(東南アジア)に対しては…重要国防資源の急速獲得及び作戦軍の自活確保に資す」
「(東南アジア現地市民に対する)民生に及ぼさざるを得ざる重圧は之を忍ばしめ」
「その独立運動は過早に誘発せしむることを避くるものとす」
となっています。
208農NAME:2005/08/30(火) 23:04:03
209農NAME:2005/08/30(火) 23:08:21
兵士庶民の戦争資料館前館長
http://homepage3.nifty.com/sensou-siryou/index.htm
210農NAME:2005/08/30(火) 23:35:35
おいでませ山口・清宗 武の第二HPです
http://tseiso.hp.infoseek.co.jp/index.html
211農NAME:2005/09/03(土) 23:08:55
ウルルン滞在記 パプアニューギニア
http://ururun.com/bn/418.htm
212農NAME:2005/09/04(日) 12:38:00
カンボジア報道,カンボジア関連
http://members.at.infoseek.co.jp/postx/honda1.html
213農NAME:2005/09/04(日) 17:35:32
214農NAME:2005/09/04(日) 17:43:43
日本  305万人に対して
中国 1000万人ー2000万人
(台湾人は統計が残ってるが…)
朝鮮   20万人以上(←ありえない数字である…靖国合祀は22,182名)
ベトナム 200万人餓死(フランス植民地下の食料買い占めによる犠牲者ですね)
インドネシア 200万人ー400万人(独立戦争犠牲者80万人より多いなんてありえないね)
フィリピン 100万人(ほとんどが対米軍による死者ですが…)
シンガポール 6万人(抗日華僑ゲリラにしては大杉)
マレーシア 7千人ー10万人(バラツキに笑うのみ…)
ビルマ 5万人(英国の再植民地化の犠牲者ね)
インド 350万人(英国植民地下の餓死者ね)
オーストラリア 23365人(マッカーサーの為に死んだのね)
ニュージーランド 11625人(欧州戦も含まれてます)
215農NAME:2005/09/06(火) 00:13:00
日本がアジアにしてきたことに対して
アジアの人がどう思っているか
http://www.nara-wu.ac.jp/fuchuko/trip/95singapore/BF_SINGA.html/BF_SINGA23.html
216農NAME:2005/09/06(火) 01:01:02

日中戦争いまだ終らず―マレー「虐殺」の謎
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9910400294
217農NAME:2005/09/07(水) 21:13:43
12.インドネシア併合派民兵に壊された家々―残る、99年「騒乱」の傷跡
http://www.waseda.jp/wavoc/wavocmenu/unesco-rep3.pdf
218農NAME:2005/09/07(水) 23:39:57
219農NAME:2005/09/07(水) 23:50:16
220農NAME:2005/09/08(木) 00:15:28
ビルマと日本のはざまで:還暦・シュエバは思い出ムード
http://www.burmainfo.org/essay/koisuru-asia32.html
221農NAME:2005/09/08(木) 11:29:17
222農NAME:2005/09/09(金) 19:00:54
インドネシア分離独立運動 アチェとパプアの事例
http://jaas.or.jp/pdf/47-4/4-22.pdf
223農NAME:2005/09/09(金) 19:26:00
伝説の落下傘部隊の墓を訪ねて
http://www.class-e-jp.com/senior/membersinfo/uratani.htm
224農NAME:2005/09/09(金) 20:56:29
ピースセミナー
フィリピンと日本戦争体験者 100人の記憶
http://www.cffjapan.org/03smile/100warexp_004.html
225農NAME:2005/09/10(土) 00:44:11
元日本軍衛生兵
 M氏の語る「慰安所」
http://www.d3.dion.ne.jp/~okakinen/siryousitu/siryou1.html
226農NAME:2005/09/10(土) 16:53:11
終戦記念−チェンマイ周辺の日本兵慰霊場所
http://lannaexplorer.com/column/worldwar2/ww2.htm#01
227名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 18:59:59
228農NAME:2005/09/12(月) 14:31:38

『海舌』 Kaisetsu
http://blog.kaisetsu.org/
229農NAME:2005/09/13(火) 19:21:02
畝本正巳(南京)
230農NAME:2005/09/18(日) 23:18:17
一応独立国とはなっていましたが、ほんの形だけで、日帝の権益の都合だけを考えたものでした。
国とは名ばかりの操り人形であり、実質的には日帝の植民地である。中国側では9.18事変と呼ぶが、
柳条湖事件に始まる関東軍による一連の満州侵略戦争をさすものです。
 当時の新聞の論調等をみれば、日本人の多くは関東軍の一連の行動、満州国建国を侵略だとは
思っていなかったようです。それどころか、これで世界の欧米列強に肩を並べることができたと考えていたようです。
軍部の指導者はこういうことも狙っていたのです。日帝軍国主義ファシズム体制勃興の
一幕があけたというわけです。満州国建国が当然ながら当時の国際社会では正当なものと認められなかった
わけです。1933年の国際連盟総会で日帝は満州国建国の正当性を否定され、欧米各国を加えた共同管理
を提案するリットン報告書が参加国の大多数の賛成によって可決されました。日帝は国際連盟を脱退し、
なり、 軍国主義の狂気が加速し、その後、日中戦争、太平洋戦争と戦争と侵略と搾取と虐殺、破壊と
血の道を歩んでいくことになるのです。
 柳条湖事件から満州国建国までの流れをみると、満州事変というのは日清・日露戦争で開けてしまったパンドラの箱を
完全に破壊して完全に逆戻りできなくなる大日本帝国覇権主義が破滅への道を歩みだした瞬間だったのです。
戦前の大日本帝国の地図を見ると、日帝の領土の大きさには驚かされます。ただし、それは国力にあっていない
無謀な覇権主義によるものでした。日清戦争、日露戦争と着々と政府を乗っ取りつつある軍部は満州事変(9,18事変)のころ
になると暴走の兆候が顕著になり、ノモンハン事件のころには政府を完全にコントロール下に置きました。
もちろん、数々の戦争から教訓(近代兵器による蹂躙の意味、情報の重要さ)を得ようとすることなど全くありませんでした。
そして、2年後、太平洋戦争へと雪崩れこんでいき、日本本土を空襲で火の海とされ、挙句の果てには原爆を落とされ、
シベリア抑留や残留孤児といった悲劇を生んでしまったのでした。南京大虐殺や従軍慰安婦の問題もあり、
中国やアジア諸国の方々が味わった苦しみははるかに日本国民のそれらを越えるものであったことは
疑う余地はありません。
231農NAME:2005/09/20(火) 11:49:03
BC級戦犯裁判&転載許可のお願い: 山様 五番街様
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_plain?base=36906&range=1
232農NAME:2005/09/21(水) 01:26:10
日本軍占領下における東南アジアの動向―日本軍が東南アジア各国に施行した諸政策― 澤木絵里奈

http://www.tufs.ac.jp/common/fs/ase/cam/edu/stpa/sr16-05-02.html
233農NAME:2005/09/23(金) 22:57:48
カツラの葉っぱ 大好き!
http://plaza.rakuten.co.jp/foret/
234農NAME:2005/09/23(金) 23:04:35
235農NAME:2005/09/24(土) 00:31:37
封印された過去 ー 日本人慰安婦 (前編)
http://homepage2.nifty.com/kanpu/kanpu_news/no-44/hirao%2044.htm
236農NAME:2005/09/24(土) 00:36:53
抗日戦回想録 中公文庫BIBLIO20世紀
郭 沫若 (著), 岡崎 俊夫 (翻訳)
237農NAME:2005/09/24(土) 17:29:37
238農NAME:2005/09/24(土) 18:14:28
239農NAME:2005/09/24(土) 18:21:19
240農NAME:2005/09/24(土) 19:37:52
241農NAME:2005/09/25(日) 01:41:15
歴史から見た台湾人の意識の確立
http://www.isc.senshu-u.ac.jp/~thj0483/the_tamu.htm
242農NAME:2005/09/25(日) 14:52:50
243農NAME:2005/09/25(日) 14:55:41
244農NAME:2005/09/25(日) 18:57:59
インド・中国の政策はどうなっているか
http://www.lsd.tamagawa.ed.jp/pop/pop3/01hasebe.html
245農NAME:2005/09/25(日) 19:02:26

3兄妹上海幼稚園留学記
http://www.explore.ne.jp/articles/ono/you7.html
246農NAME:2005/09/25(日) 19:05:19
247農NAME:2005/09/25(日) 19:17:33
『電子耕』No.100-2003.01.09号
http://www.nazuna.com/tom/2003/100-20030109.html
248農NAME:2005/09/25(日) 19:39:55
中国のとことんあきれた人たち
http://www.wedge.co.jp/books/m2_27.html
249農NAME:2005/09/25(日) 21:18:35
250農NAME:2005/09/25(日) 21:41:11
731部隊と細菌戦に関する
鑑  定  書
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4586/224.html
251農NAME:2005/09/25(日) 22:40:22


[今だからこそ語る北陸の戦争]/9 今井百合子さん /富山
http://www.mainichi.co.jp/universalon/clipping/200308/195.html
252農NAME:2005/09/25(日) 22:54:27
「中国残留邦人」の形成と受入について

http://www.kikokusha-center.or.jp/resource/ronbun/kakuron/24/kaji.txt
253農NAME:2005/09/26(月) 18:20:56
254農NAME:2005/09/26(月) 18:25:43
南の隣人・ミクロネシア
http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/2966.html
255農NAME:2005/09/26(月) 18:34:32
ミクロネシア 戦争
http://www.wschool.net/eilnet/plaza/war.html
256農NAME:2005/09/26(月) 18:40:34
日本統治下ミクロネシア文献目録

http://www.fukyo.co.jp/02-naiyo/ISBN4-938718-98-7.html
257農NAME:2005/09/26(月) 19:48:32
258農NAME:2005/09/26(月) 22:53:17
   アジア太平洋戦争総括の基本課題
http://www.d7.dion.ne.jp/~anneh/hasesan.htm
259農NAME:2005/09/26(月) 23:26:09
フィリピンから見た日本
http://homepage2.nifty.com/rei-ngo-report/rola.htm
260農NAME:2005/09/27(火) 19:56:46
>不耕起農法で米を作るのは難しいのでしょうか?

おマイには無理。。。。。hi。
261農NAME:2005/09/27(火) 23:07:42
囲剿作戦
262農NAME:2005/09/27(火) 23:10:37
極あゆこ的わい歌
http://ayukoppe.blog17.fc2.com/
263農NAME:2005/09/27(火) 23:15:27
瑞金討伐作戦
264農NAME:2005/09/28(水) 22:38:05
西南連合大学 国民党
265農NAME:2005/09/28(水) 23:21:45
時 事 法 談 (57)

「極限状況と人の質」
http://www.kumagera.ne.jp/shorinji/houwa/houwa-57.html
266農NAME:2005/09/29(木) 21:39:34
267農NAME:2005/10/01(土) 00:48:15
268農NAME:2005/10/01(土) 16:41:08
日本兵だった夫を探しています

カンボジア
http://homepage2.nifty.com/CICR/nihonnhei.htm
269農NAME:2005/10/01(土) 16:44:46
東南アジアの人々
http://www.hh.iij4u.or.jp/~asabe/
270農NAME:2005/10/01(土) 23:02:50
8/4「満蒙開拓団と長野県;
いまだ語り明かされていない日本現近代史」

http://amana.hp.infoseek.co.jp/forum/ikeda.html
271農NAME:2005/10/01(土) 23:04:14
272農NAME:2005/10/01(土) 23:12:41
Minesanのホームページ
http://www6.plala.or.jp/imail/index.html
273農NAME:2005/10/02(日) 13:14:01
2回・「情けない日本外交 対中国編」
〜アジア杯ブーイングの向こうにある、中国の驚異〜
http://homepage3.nifty.com/tanakakogyo/webtanakakogyo_045.htm
274農NAME:2005/10/02(日) 19:58:22
 南シナ海の領土紛争 


パラセルとスプラトリーをめぐる複雑な問題を解く
http://www5c.biglobe.ne.jp/~vdg/book_islandsdispute.html
275農NAME:2005/10/02(日) 22:30:17
276農NAME:2005/10/03(月) 18:34:49
「知っておきたい世界の裏事情」

インドネシア編 

http://www.ne.jp/asahi/nagumo/kaito/people/233-in/233-in.htm
277農NAME:2005/10/03(月) 18:39:32
「平和はいかに失われたか」(ジョン・マクマリー原著、アーサー・ウォルドロン編著、原書房刊)
278農NAME:2005/10/03(月) 18:49:33
http://www2.neweb.ne.jp/wd/kennjiyada/page002.html
2005年9月22日 日中戦争残虐年表
279農NAME:2005/10/03(月) 19:21:53
280農NAME:2005/10/03(月) 20:22:12
281農NAME:2005/10/03(月) 22:22:38
日本軍の慰安所政策について
永井 和

http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/works/guniansyo.html
282農NAME:2005/10/03(月) 22:42:22
書評『共同研究 日本軍慰安婦』
www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/SIanfu.htm
283農NAME:2005/10/03(月) 23:18:26
従軍慰安婦について
http://www.tanken.com/ian.html
284農NAME:2005/10/05(水) 00:12:29
285農NAME:2005/10/06(木) 23:58:30
286農NAME:2005/10/07(金) 18:20:38
287農NAME:2005/10/07(金) 19:03:47
288農NAME:2005/10/07(金) 19:22:27
連載 北朝鮮の歴史
    独裁の成立、展開、そして崩壊 @
http://www.workers-net.org/wk80item.html
289農NAME:2005/10/07(金) 19:39:55
北朝鮮の歴史 独裁の成立、展開、そして崩壊 A
http://www.workers-net.org/wk81item.html#北朝鮮02
290農NAME:2005/10/07(金) 19:51:30
図書館の戦争関係文献について
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper32.htm
291農NAME:2005/10/08(土) 16:17:28

「親日人物名簿」3090人を発表
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=67117
292農NAME:2005/10/08(土) 16:51:32
自らの戦争犯罪に直面する日本
林博史

http://www.diplo.jp/articles05/0508-4.html
293農NAME:2005/10/09(日) 01:20:13
294農NAME:2005/10/09(日) 16:20:00
父の太平洋戦争従軍記
http://www.mozumet.com/story/sita.html
295農NAME:2005/10/09(日) 18:27:16
第1回 パプアニューギニア研修

http://www.meigaku.ac.jp/kokusai/png/index.html
296農NAME:2005/10/09(日) 18:44:39
記録映画『戦場の女たち』
http://page.freett.com/cinemajournal/bn/12/senjo.html
第三回「日本の夏」 レイプ
http://www.foiltokyo.com/takei/takei05/no3.html
297農NAME:2005/10/09(日) 19:16:49
西部ニューギニヤ戦記 著者 佐藤 耕太郎
http://www2.wind.ne.jp/sirakami/history/nyugini.htm
298農NAME:2005/10/09(日) 19:43:53
パプアニューギニア 慰霊
http://www.fureai-net.tv/emkazumi/newpage1%20nyu-ginia.htm
299農NAME:2005/10/09(日) 22:11:58
カニバリズム
http://www.h4.dion.ne.jp/~ftc/travel/9810/9810_k8.html

アメリカ軍と日本軍の戦闘で、丸裸に焼き払われたまま再生していない森林もいくつもあります。
住民は親日派と抗日派に分かれて、闘ったり、密告しあったり、強制労働もあったし、
ゲリラつぶしのための大虐殺もあった。
300農NAME:2005/10/09(日) 22:16:28
http://blog.livedoor.jp/toki1/archives/cat_1497298.html
昨夜NHKBSドキュメンタリー「60年目の対話 フィリピン・裁かれた対日協力者たち」を観た。

当時フィリピンにいた私の母でさえ知らなかったくらいだから、たぶん95%以上の日本人が知らない史実。

今度の私の小説には縦糸と横糸があり、横糸の部分で、私はこの悲劇を書いた(ちなみにゲリラはかなりの美青年)。

同じ国民でありながら、日本側についた者(義勇軍またはマカピリ)、アメリカ側についた者(抗日ゲリラ)、互いが殺し
合わなければならなかったのだ。 彼らはこの60年間対話することはなかった。

アメリカについた者は戦後いい暮らしを送り、日本についた者は「裏切り者」として現在も悲惨な生活を強いられている。
そして日本政府は、そのことに目をつぶっている。

301農NAME:2005/10/09(日) 23:06:16
日本台湾総合研究所(媚中)
http://www.japanresearch.org.tw/japan/
302農NAME:2005/10/09(日) 23:22:03
植民地文化研究会
http://homepage3.nifty.com/aab/
303農NAME:2005/10/10(月) 11:09:31
304農NAME:2005/10/10(月) 11:29:28
『20世紀の雑兵物語:仏領インドシナ=明号作戦シタデル城攻防前後』
http://www.nsknet.or.jp/~my-sachi/nittki-00-8-15.html
305農NAME:2005/10/10(月) 11:37:20
花は何処へ行った ベトナム
http://members.jcom.home.ne.jp/yoogi/essay102.htm
306農NAME:2005/10/10(月) 11:40:11
307農NAME:2005/10/10(月) 11:49:15
平和の旅 グアム・サイパン
http://www2.tokai.or.jp/s-koukyouso/heiwanotabi/saipan.html
308農NAME:2005/10/10(月) 12:09:10
『一兵士の戦争体験』
ビルマ戦線 生死の境

http://www.bea.hi-ho.ne.jp/odak/index.htm
309農NAME:2005/10/10(月) 12:37:14
ブキティンギ 防空壕 虚構
310農NAME:2005/10/10(月) 21:29:57
311農NAME:2005/10/10(月) 22:30:33
312農NAME:2005/10/10(月) 22:33:29
自分の回答を理解できないのか?
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=1143582&tid=fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb&sid=1143582&mid=7274
威勢の良い方針であり目標でしかないだろう。
相手がいるんだから。(黄泉の言う様に、日本びいきでないフランス植民地政府とフランス軍がいるのだから)
その相手が武装した8万のフランス軍なのだが・・・
現実に戦闘序列の推移を見ろ。
日本軍がフランス軍と兵力で同数となったのは昭和20年になってからだ。
それまでは警備旅団=2個連隊しか進駐していなかった。
いかに日本軍が「増加スベキ威圧」と凄んでも、5〜6千人と8万人じゃ話にならないことぐらい理解できないのか?
313農NAME:2005/10/11(火) 00:39:44
▽南京事件資料館
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/
▽南京事件資料集
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/
▽南京事件の真実
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm
▽南京事件 小さな資料集
http://www.geocities.jp/yu77799/
▽渡辺さんのページ
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/3924/
▽南京事件143枚の写真/読める判決「百人斬り」
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/
▽南京大虐殺 論点と検証
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/aandv/
▽事実.COM
http://web.sfc.keio.ac.jp/%7Egaou/jijitu/
▽対抗言論のページ
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/
▽我楽田箱
http://www.manekineko.ne.jp/s32311/index_a.html
▽半月城通信
http://www.han.org/a/half-moon/
▽戦史研究所
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/
▽はい 青木です!
http://ww32.tiki.ne.jp/%7Eyamikato1952/index.html
314農NAME:2005/10/11(火) 10:50:11
南の島 ミクロネシア
http://www3.telus.net/kaze/ponape.html
315農NAME:2005/10/11(火) 10:52:08
316農NAME:2005/10/11(火) 10:57:27
日本カトリック信徒宣教者会
http://www.jlmm.net/hakenkoku/thai/index.html#mission
317農NAME:2005/10/11(火) 11:13:13
318農NAME:2005/10/11(火) 11:28:29
君知るや南の国 椰子林で想ったこと
http://nagi.popolo.org/kimon/taiken/sugawara.htm
319農NAME:2005/10/11(火) 15:17:58
320農NAME:2005/10/11(火) 15:23:03
戦争を考える パプア
http://www.asiall.net/mizoguchi/pop010.html
321農NAME:2005/10/11(火) 15:28:45
322農NAME:2005/10/11(火) 15:38:01
泰緬鉄道
身辺雑記
http://www.takemoto-shozo.com/zakki.htm
323農NAME:2005/10/11(火) 15:48:03
324農NAME:2005/10/11(火) 15:51:16
太平洋戦争の残した足跡を辿る・・・・
http://guide.travel.goo.ne.jp/e/goo/traveler/adsawin/album/10019027/
325農NAME:2005/10/11(火) 15:58:59
326農NAME:2005/10/11(火) 16:03:19
Day5: メーホンソン、ミャンマー国境近く観光
★クンユアム旧日本軍博物館・ビルマ戦線資料館★
http://cafebkk.exblog.jp/i13
327農NAME:2005/10/11(火) 16:08:55
《ミャンマー紀行2》 日本兵
http://hkchazhuang.ciao.jp/myanmar/myan2004_05.htm
328農NAME:2005/10/11(火) 16:11:55
http://homepage2.nifty.com/dhammapada/kikoubunn.htm
質 問:少年時代に英国の支配を見てこられ、又、青年時代には日本軍の侵略を見てこられた。
僧院長:日本軍がビルマを支配していた19歳の頃、私は、褌姿で歩いている日本兵たちを見つけて、
その破廉恥な行為を注意した。それが切っ掛けで日本兵たちとの交流がはじまった。比丘になる前の
1年間は、時間潰しに駅で働き、蒸気機関車の運転をさせてもらった。英国支配の時は、そのようなこと
は許されなかった。船の操縦をすると英国人怒る。しかし、日本軍が来てからは、ビルマは比較的自由となり、
平和になった。物価も安かった。それゆえ、日本人に対する悪いイメージはない。

329農NAME:2005/10/11(火) 16:18:42
§タイと日本
タイ王国と日本の長い友好の歴史です。

▼優しかった日本兵を私は忘れない
http://www.akijapan.com/document/thai_nichi/

330農NAME:2005/10/11(火) 16:22:31
6面/戦争と愛(第二次大戦時の日本兵とビルマ女性との実話物語)
http://www.chaocnx.jp/archives/50050069.html
331農NAME:2005/10/11(火) 16:24:10


不思議なご縁から出会った一冊
伊賀並 勝・正信   作 ”父の残したビルマ戦記”

http://www2.cny.ne.jp/yp0440/step028.html
332農NAME:2005/10/11(火) 16:34:25
メーコック川に夕日が沈む時
BY:ダメダメALAN
http://hage.momo-club.com/news/mae-kok1.html
早速、私はコウイチに言われた通りにパスポートを作りました。そして家の増築です。コウイチは「どうせ増築するなら
湯船のついた風呂もつくって、やっぱり日本人はシャワーだけじゃものたりないよ。」と言っていたのですがタイ人に
湯船は必要ありません。もしコウイチが戻ってこなかったら無駄になります。戦争時代、日本兵相手に卵を売って
いたことのある父は、「日本人は礼儀正しい。礼をつくせば礼で返してくれる。おまえが言われた通りにすれば
必ず戻ってきくれるよ。」と言うので断腸の思いで風呂場を作りました。
333農NAME:2005/10/11(火) 17:46:58
日本の戦争被害者意識
http://www.lookthai.com/jp/its/selftlk2.htm
334農NAME:2005/10/11(火) 17:58:19
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?p=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%80%80%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D&ei=
UTF-8&fl=0&meta=vc%3D&pstart=1&b=11&u=www.nishinippon.co.jp/news/World/Asia/21seiki/1_08.html&w=%E3%82%BF%E3%82%A4+%E6%97%A5%E6%9C%AC+%E8%BB%8D&d=GM72KGFULkQn&icp=1&.intl=jp
タイ「カオソド」記者・チュムチャン・チャムニプラサートさん(30)    遺骨収集 いまだ帰れぬ日本兵

少年義勇兵
(2000年 タイ)
http://www.breast.co.jp/cgi-bin/soulflower/nakagawa/cinema/cineji.pl?phase=view&id=114_boysWillBeBoys
335農NAME:2005/10/11(火) 18:02:08
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jssah/seminar/ksreport/ks010519.html
東南アジア史学会関西例会報告要旨
日時:5月19日 13:30−16:00
場所:大阪市立大学文化交流センター
報告者:吉川利治(大阪外国語大学)
題目:タイ駐屯日本軍とタイの対応機関

336農NAME:2005/10/11(火) 18:14:43
理栄会編纂韓国・朝鮮史

第二章 日本統治時代

「コリア民族にとってそれは本当に日帝三十六年だったのか?」
http://www15.plala.or.jp/c-o-seraphin-S-R/Korea-Taehan-Choson-/Eternal-History/KOREA-materials-0-2.htm
337農NAME:2005/10/11(火) 18:20:05
共: タイに残ってよかった 元日本兵の半世紀 (84/93)

http://my.reset.jp/~adachihayao/001222A.htm
338農NAME:2005/10/11(火) 18:26:41
戦場に架ける橋・・・泰緬鉄道
http://homepage3.nifty.com/noshiros/TAIMENN.html
339農NAME:2005/10/11(火) 18:28:58
http://www2h.biglobe.ne.jp/~mrcisc/japan/column2/morigudhi98/990421.htm
「タイの現状と海外から見た目本」
340農NAME:2005/10/11(火) 18:30:18
http://www.eiga-kawaraban.com/01/01080803.html

少年義勇兵

2001/08/08 徳間ホール
1941年12月8日。日本軍と戦ったタイの少年義勇兵の実話。
『パール・ハーバー』に激怒した人はこれを観よ。by K. Hattori
341農NAME:2005/10/11(火) 18:40:49
■ 第8話    なぜコボリが愛されるのか  タイ
http://www.mekong.ne.jp/ippanreport/tochigimasao/8.htm
342農NAME:2005/10/11(火) 19:35:58
バンボン事件 タイ


カレン暦新年
http://www2.ocn.ne.jp/~jade/notes/karen_new_year.html
343農NAME:2005/10/11(火) 19:48:53
「ミャンマーの唄声」
http://www.denpakudo.jp/topic/myan.html
ビルマ紀行
Vol.1 2004.8.29 「カクーの遺跡」 写真・文 森博行(本会理事) 
http://www.jmfa.or.jp/kikoh/kikoh040829.htm
344農NAME:2005/10/11(火) 19:59:51
http://www.awaji-is.or.jp/otasuke/kouhou/gosiki.html
まちの話題
ミャンマー(ビルマ)から草の根親善使節来町

 12月4日、ウー・チン・ウーさん(61歳)、アウ・チャウ・ウィンさん(31 歳) の二人が、町長室を表敬訪問しました。二人は、
ミャンマー連邦より視察と親善のため来日したもので、2日早朝関西空港へ到着し、一宮町での講演の後五色町役場を訪れました。
町長町長室では、砂尾町長の歓迎の挨拶の後、ウー・チン・ウーさん(元ミャンマー政府役人、現在アルミニウム会社経営)が
表敬の挨拶を行いました。続いて砂尾町長そして、山崎議員を交え、ミャンマーの経済、民族、文化などについて、
和やかで楽しい交流の時を持ちました。ミャンマーでは第二次世界大戦で多くの日本兵が死亡したのでが、一方で日本兵は、
ミャンマー人の優しさのも触れて、無事帰国できた人のほとんどがミャンマーとミャンマー人に対して特別の感謝の思いと
なつかしさを持っています。また、ミャンマー人の側にも親日家が多く、日本人ともっと深い交流を望んでいる人々が多くいます。
淡路島内にも、戦時中ミャンマーで終戦を迎えた人が、20人あまりいると言われています。また、別の企画として、
「ミャンマーを訪問したい方、ミャンマーに関する情報が必要な方には、情報を提供させていただく予定です。又、
旧軍人の方の要望も歓迎します。」このような情報を提供してくださる方も淡路においでです。 人 口 約4、400万人
(3分の2までがビルマ族)


「米国 ミャンマー民主活動家の強力支援を提示」について
http://perico.at.webry.info/200502/article_14.html

345農NAME:2005/10/11(火) 20:03:37
346農NAME:2005/10/11(火) 20:08:33
347農NAME:2005/10/11(火) 20:53:39
私が出会った日本兵
http://duan.jp/item/17.html
348農NAME:2005/10/11(火) 21:05:55
ソウル発人&風:第20回 日中韓副教材への疑問(その3)
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/asia/korea/news/p20050729org00m030090000c.html
349農NAME:2005/10/11(火) 22:49:24
満蒙開拓団 ( まんもうかいたくだん)

王道楽土の夢
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n694.htm
350農NAME:2005/10/11(火) 23:28:14
351農NAME:2005/10/11(火) 23:49:49
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/zxvt29/tuusin2.htm
日本によって徴発された延べ人数が750万〜800万人
 私は、学者でもなく、政治家でもありません。ただの人、普通の人として生きてきました。その中で過去の歴史を
勉強しながら現在においての活動を通して、社会を改めるべく一生懸命生きて来ました。私が勉強したところによりますと、
1894年から1895年まで(日清戦争)朝鮮を武力で服従させるため朝鮮人を殺した数が30万名にも上ると歴史学者が
調査結果として述べています。その主なのは、義兵という不正規軍と、東学農民兵を合わせての話です。現在、
韓国の至るところに戦跡碑が建てられていますが、更なる調査によっては、これからも建てられるものと思います。
 もっとショッキングな話は、日帝36年間、日本によって徴発された延べ人数が750万〜800万人、その中
死亡者が100万人という研究結果が出ています。これは“つくり話”じゃありません。事実を調べたものです。
歴史的勝利者は事実を話さない。部分を美化するためにウソをでっち上げる事をはばかりません。日本が国家目的を
手に入れるために他国他民族を暴力で征服しました。
352農NAME:2005/10/12(水) 12:11:24
第16章 中国とイスラーム世界・チベット

『中国が抱える2大火薬庫』
http://taweb.aichi-u.ac.jp/leesemi/ronsyu5/4.16.noda.htm
353農NAME:2005/10/12(水) 12:20:02
雑食系ブログ。(仮)−【北朝鮮・チベット・中国人権ウォッチ】別館?
http://blog.livedoor.jp/zatsu_blog/
354農NAME:2005/10/12(水) 12:48:10
開発と紛争
―中国新疆地区の「西部大開発」と民族紛争をめぐる諸問題から―
http://www.peacebuilding.org/data/dp/No5_SAKURAI.pdf
355農NAME:2005/10/12(水) 12:51:42
中国のイスラム教徒歴史と現況
         土屋紀義
http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/refer/200403_638/063803.pdf
356農NAME:2005/10/12(水) 13:06:19
http://www.come.or.jp/hshy/j97/02c.html
少数民族】
   新疆自治区で民族衝突の動き
357農NAME:2005/10/12(水) 14:54:17
358農NAME:2005/10/12(水) 15:50:06
反戦翻訳団−Antiwar Translation Brigade−
http://blog.livedoor.jp/awtbrigade/
359農NAME:2005/10/13(木) 11:48:52
日本にとっての台湾の重み、呉濁流の作品が語るもの

『週刊東洋経済』1973年9月1日号122-125頁
http://www25.big.or.jp/~yabuki/doc5/wu7309.htm
360農NAME:2005/10/13(木) 16:23:46
ドラゴン・パール〈上〉
シリン パタノタイ (著), その他

http://f7.aaa.livedoor.jp/~dokusyo/book/4062070413.php
361農NAME:2005/10/13(木) 16:37:16
Kenichi Yamagasaki`s Web Site
http://www.asahi-net.or.jp/~eh6k-ymgs/
362農NAME:2005/10/14(金) 00:00:22
363農NAME:2005/10/14(金) 10:51:20
364農NAME:2005/10/14(金) 10:59:06
日本軍 地雷
365農NAME:2005/10/14(金) 11:38:52
366農NAME:2005/10/14(金) 11:43:02
367農NAME:2005/10/14(金) 12:13:01
ポーランド発: 『ドイツ兵よ、ありがとう!』 −ポーランドに残るドイツ系住民−
http://www.ttl-news.com/ttl_journal/ttl-journal33/ttl_journal33.html
368農NAME:2005/10/14(金) 12:19:09
情報 敗者と勝者
http://plaza.rakuten.co.jp/foot001/7022
369農NAME:2005/10/14(金) 12:38:14
イェドヴァブネの闇 ―ユダヤ人虐殺とポーランド住民
http://www.e.okayama-u.ac.jp/~taguchi/kansai/jedwabne.htm
370農NAME:2005/10/14(金) 13:17:53
371農NAME:2005/10/14(金) 21:54:01
戸川幸夫著「戦場の紙碑」などに紹介された三浦襄
http://www.fsinet.or.jp/~oak-wood/miura2.html
372農NAME:2005/10/14(金) 21:59:22
太平洋戦争における主要地域別陸海軍人・軍属戦没者数一覧表(旧厚生省調べ)
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/sennbotusyasuu.htm
373農NAME:2005/10/14(金) 22:07:29
日本軍政下のインドネシアのカトリック教会-フロレス島を中心に-
http://theology.doshisha.ac.jp:8008/mhara/hara.nsf/504ca249c786e20f85256284006da7ab/0bf5b272dd286f7749256546003eed72?OpenDocument
374農NAME:2005/10/15(土) 00:14:13
ひのもと 日本を正しく
http://www1.ttcn.ne.jp/~nihonjin/
375農NAME:2005/10/15(土) 00:16:40
溝口雄三『中国の衝撃』東京大学出版会 2004年
http://web.iss.u-tokyo.ac.jp/~marukawa/mizoguchi.htm
376農NAME:2005/10/15(土) 00:21:21
377農NAME:2005/10/15(土) 00:43:20
論文題目:摩擦と合作 新四軍1937〜1941
著者:三好 章(Miyoshi, Akira)
論文審査委員:三谷 孝、坂元ひろ子、吉田 裕

http://www.soc.hit-u.ac.jp/thesis/doctor/03/exam/miyoshi.html
378農NAME:2005/10/15(土) 00:56:19
379農NAME:2005/10/15(土) 01:23:05
http://homepage3.nifty.com/worldtraveller/manchuria/material.htm
「1945年 満州進軍」 日ソ戦と毛沢東の戦略
1600円
徐焔(シュ・イェン)著、朱建栄(ツゥジェンロン)訳
三五館
1993年8月5日 初版発行
380農NAME:2005/10/15(土) 01:27:15
花のニッパチ、心のままに
http://hana28.exblog.jp/i
ボストン大学のメリィ・ホワイト教授は「アメリカはよい国だ。ただし奴隷制、先住民抑圧、日系人の強制収容、無差別爆撃、
原子爆弾投下、あのベトナムのおぞましい過去を別にすれば。…では、日本は良い国か。良い国である。ただし、
台湾と朝鮮の併合、満州国のでっち上げ、南京虐殺、沖縄の人々やアイヌ民族への抑圧、在日韓国・朝鮮人や
部落民への差別、従軍慰安婦問題を別にすれば」といっている。さしずめ今なら「中国は良い国か。
良い国である。ただし、文化大革命での自国民の抑圧、ポルポト支援、ベトナムへの懲罰活動、
天安門の蛮行などなど… を別にすれば」となるだろう。
381農NAME:2005/10/15(土) 01:28:47
エッセイコーナー

http://www3.starcat.ne.jp/~snap/
382農NAME:2005/10/15(土) 01:31:42
「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が教育の場にもちこまれることに反対する声明

http://www.jca.apc.org/~itagaki/history/p010313.htm
383農NAME:2005/10/15(土) 12:14:45
384農NAME:2005/10/15(土) 12:19:54
T.「従軍慰安婦」問題の歴史
http://www.k-links.ne.jp/sihong/webjyohanur14.htm
385農NAME:2005/10/15(土) 12:30:28
写真103〜105 強姦殺人・首カセ p169〜173
http://www11.ocn.ne.jp/~nbbk/143/143_103.html
386農NAME:2005/10/15(土) 12:38:34
特 集■戦争体験と戦争責任
T善野碩之助さん U江野勝美(永青)さん

http://homepage3.nifty.com/mabune/mabunedayori3.htm
387農NAME:2005/10/15(土) 12:45:24
シベリアにおけるソ連の日本人捕虜虐待
研究資料

http://www.page.sannet.ne.jp/mhvmhv/shiiborutohoukoku.html
388農NAME:2005/10/15(土) 12:48:33
389農NAME:2005/10/15(土) 12:49:49
オセアニアの政治・社会・文化
http://opinion.nucba.ac.jp/~kamada/Koceania.html
390農NAME:2005/10/15(土) 13:35:07
「雲南、赤い大地」 

        

    著者:劉 岸麗、1999年、河出書房新社、
http://www.mekong.ne.jp/books/fiction/000801.htm
391農NAME:2005/10/15(土) 13:38:10
9.敗戦、暴動(ぼうどう)、豊治を守れ

http://www.sugano-net.co.jp/company/foundation/toyozi9.html
392農NAME:2005/10/15(土) 14:02:04
蓄積されていく文革の証言ー書評:鄭念著 篠原成子・吉本晋一郎共訳 『上海の長い夜』上・下 原書房 
1988年/馮驥才著 田口左紀子訳 『庶民が語る中国文化大革命』 講談社 1988 年 
http://www.musashi.jp/persons/hikakupublic/hikakupublic/essay-nishi.html
393農NAME:2005/10/15(土) 15:12:37
軍人恩給拒否・飛騨市の尾下大造さん
http://www.jic-gifu.or.jp/np/newspaper/kikaku/gifusengo2/gifusengo2_13.htm
394農NAME:2005/10/15(土) 15:44:04
インドネシア独立運動と日本とスカルノ(1)
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2005/0504/ronbun3-1.html
395農NAME:2005/10/15(土) 16:22:20
ベルリン陥落 1945
http://www5.hokkaido-np.co.jp/books/20040919/1.html
396農NAME:2005/10/15(土) 16:30:13
『関東軍憲兵伍長の戦争と平和』
http://carecopain.gooside.com/k8.htm
攻めこんで勝っているときは憲兵隊が後から来ている
のがわかっているから女子どもだけが残っている集落の
女性をレイプ(強姦)して殺してしまう兵隊は、それほど
多くない。反対に、その部落のチャンコロ(中国兵の蔑
称)たちが形勢を盛り返してくると退却しなくてはなら
ない。いつ戦死するかわからないからやっておこうとレ
イプ殺人が激しく増える。殺してから女性器に竹槍を突
き刺して道端にほっぽりだした兵士がいた。
397農NAME:2005/10/15(土) 16:41:49
〜想いの数だけ・・・〜
[#147:2002/11/11 OA]
http://www.fujitv.co.jp/ainori/st/st147.html
そして1時間後飛行機はラバウル空港に到着。
 ここラバウルは第二次世界大戦中、旧日本軍の重要な基地として3万人を超える日本兵が駐留していた。島のあちこちには、
当時を物語る戦争のツメ痕が今も残っている。日本兵が現地の人々にお酒の作り方など様々な日本の食文化を
伝えた為今でも日本人には友好的。
398農NAME:2005/10/15(土) 17:28:33
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_plain?base=37240&range=1
清の前の王朝の明は朝鮮に対して通常の貢物だけでなく、宦官や未婚の女性を要求することもあったとどこかで読んだ
ことがあります。そういうこともあったのかもしれませんが、
以前図書館で読んだのですが、朝鮮から中国の王朝への、「朝貢」に伴う貢物よりも、中国王朝から朝鮮への「回賜」(お返し)
の方が豪華だったそうですよ。
そのため、清は朝鮮に対して3年に一度の朝貢を義務としたのに対して、朝鮮は「回賜」を目当てにしているので1年に3回の朝貢
を願い出たそうです。

1882年清国と朝鮮との間に、北洋通商大臣兼直隷総督の李鴻章のもとで「通商章程」が調印されました。これは清国と朝鮮は
册封関係にあることを再度強調しつつも、朝貢交易に於ける清国側の不利益を是正し対等な貿易を図ろうとする都合の
いいものでした。この「章程」には、両国の使節の駐在費は自己負担とすることが明記されています。
つまり、清国側の財政負担を軽くするために、朝鮮からの朝貢使節の宿泊や食事は清国側
の全面負担であった慣例が廃止されたのです。
そして朝貢使節に対しても課税が実施されました。
「章程」締結後の2ヶ月後の朝貢派遣が北京に至る際、鳳凰城の辺門で交易物に対して4%課税され、また山海関や北京に
入城する祟文門にても課税されました。この時の主客使は、従来通り免税して欲しいと強く要望したそうです。

つまり、朝鮮から清への使者の旅費や食費まで清が負担し、しかもその使者が行う商売は非課税だったのです。
ご紹介のサイトの主張については不勉強な私にはなんとも言えませんが、朝鮮と清の関係はこういうものだったようです。
399農NAME:2005/10/16(日) 11:05:04
キルギス・中国国境画定協定を巡る国内情勢
http://www.meij.or.jp/countries/cis/kiru20010604b.htm
400農NAME:2005/10/16(日) 11:15:49
 大国中国で進行する静かな外交革命
   エバン・S・メデイロス、M・テイラー・フラベル

http://www.foreignaffairsj.co.jp/PR_Medeiros.htm
401農NAME:2005/10/16(日) 13:12:57
薔薇、または陽だまりの猫
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005
402農NAME:2005/10/16(日) 19:57:06
(意外や金正日と文鮮明の親密な関係 河 信基 正論3月号より)
403農NAME:2005/10/16(日) 22:54:10
http://www.mori-yoshiro.com/01_activity/act_kokugai20010900.html
父ゆかりの島で感慨 当事の弁当を試食」

 太平洋島嶼国歴訪の際、森議員は父茂喜さん(元根上町長)が太平洋戦争中に守備隊長として派遣されたミクロネシア
連邦チューク州(トラック諸島)にも足を運びました。トラック諸島訪問は森議員の長年の悲願でもありました。
 チューク空港では「第2のふるさとへようこそ」と日本語で書かれた横断幕が掲げられ、若い島民が民族舞踊で熱烈に
森議員を出迎えてくれました。
404農NAME:2005/10/16(日) 23:23:45
アムネスティ・インターナショナルのボランティアの坂井隆之と申します。
http://antiwar.jca.apc.org/aw/statements/aml24533
405農NAME:2005/10/17(月) 10:17:28
チベットでは
こんなことが起きている

http://www.tibet.to/mondai/mondai2.htm
406農NAME:2005/10/17(月) 13:33:30
WW2における犠牲者数についての議論
http://2ch.dumper.jp/0000068991/
407農NAME:2005/10/17(月) 20:15:03
中国少数民族曲芸団の7人と北朝鮮男性
自由求めてカナダ亡命の願い聞かれるか
http://www.netj.ca/nikka_new/shiten.asp?id=70
408農NAME:2005/10/17(月) 20:57:12
大連からの風 ナンバー32 1998.9.3
http://hp.vector.co.jp/authors/VA001148/fdai32.htm
409農NAME:2005/10/17(月) 20:58:46
http://www5a.biglobe.ne.jp/~bpcafe/184.htm
国シルクロードの奥地、新彊ウイグル自治区。中国の主要民族である、漢民族の構成比が半分以下という、
少数民族の多い地域です。こういう地域での異民族どうしの関係はどうなっているのでしょうか?興味あるところです。

先日ウルムチに出張した折、現地の漢民族と話す機会がありました
若い女性の方でしたが、まず、ウイグル族の親しい友人は一人しかいないそうです。「すごく奇麗な人なのよ、
紹介してあげましょうか?」と冗談を言う彼女。彼女の感覚では、漢民族の言葉(=いわゆる普通語)を十分に
しゃべるウイグル人は全体の3分の1しかいないそうです。「あなた(=かざまっち)の方がよっぽど上手ですよ」とのことでした
410農NAME:2005/10/17(月) 21:07:39
2.中国新疆ウイグル自治区の遊牧の調査(海外研修)
http://www.betsukai.gr.jp/agr/konsen/tushin/tushin95/tushin95b2.htm
411農NAME:2005/10/17(月) 21:08:50
新疆地方の漢化 (ウイグル)
http://www.economist-japan.com/2004/20040828/cont_j02.html
412農NAME:2005/10/17(月) 21:10:15
413農NAME:2005/10/17(月) 21:12:37
http://page.freett.com/roran/xin/wul_j5.html
ここ新疆ウイグル自治区は、少なくとも人口の面では、ウイグル族がマジョリティであり、漢族はマイノリティである。
 しかしながら実権を握っているのは、マジョリティである漢民族である。

 古代から侵略者である漢族に対するウイグル族の反目は、共産主義の恩恵を受けている上流階級を除いて、
日本人の想像を絶するものがある。

 他の日本人旅行者は、ウイグル人が溜まっている場所に行くといつも漢族の悪口を聞かされた、という話も聞く。
私はそのような機会には殆どなかったが。

 ここでは、あまりスペースに余裕がないので、ウイグル族やハザカ(カザフ)族などの遊牧民族と、漢民族との反目の
歴史については、他の資料を参照して頂きたい。

414農NAME:2005/10/17(月) 21:13:47
http://www.eonet.ne.jp/~bergenweld/shinkyo.html
今回訪れたウルムチ【新疆ウイグル地区の区都、ウイグル語で「美しい牧場」の意味】は人口144万人の大都市ですが、
活気はあっても煤煙と排水で汚れているとの印象が強かったようです。)
415農NAME:2005/10/17(月) 21:38:54
http://www.informatics.tuad.ac.jp/net-expo/asian-cinema/mongolia/history/ja/1-4.html
この国の広大な草原は、じつは表土がひどく薄く、鍬を入れるとたちまち草原が破壊されて砂漠化する。
げんに中国領の内モンゴルでは漢民族の農民が大量に入植して農業をはじめた結果、草原の大規模な砂漠化が進んでいる。
『娘婿』はおそらくは農業化促進のプロパガンダの目的を持って作られた作品だから、そうした問題にまでは触れていないが、
この国の四季の風物を映画詩的に淡々と綴りながら、遊牧から農業への転換にどうも納得できないという風情の老夫婦の
沈黙の姿を見せ、同じように黙々と農業に希望を託する主人公の<娘婿>の様子も見せる。
416農NAME:2005/10/17(月) 21:40:58
報告4 遊牧社会における民族関係 ホロンボイル草原
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai98/tz9818e.htm
417農NAME:2005/10/17(月) 22:20:04
418農NAME:2005/10/17(月) 22:21:26
http://www.nikkeibpm.co.jp/world/econo/eco040828_0903.html
新疆地方の漢化
中国の広大な新疆地方の最先端にある都市、中央カシュガルのIDH KAHモスクは、歴史的に新疆を支配していた
イスラム系チュルク語族の主要な会合場所である。 カシュガルに流れ込んだ中国人のために派手なショッピングセンターや
アパートを建造するため、中国人の会社が適切な補償無しにモスク周辺の伝統的な家々を破壊したと、
ウイグル族が不満を漏らす。中央政府は、この反抗的な地域におけるウイグル族の影響を薄めるために、
何十年にも渡って漢民族を新疆地域に移住させてきた。この地域は1949年以前は、つかの間ではあったが
独立国家であった。しかし最近まで、多くの中国系移民の移住先は、ウイグル族が少ししかいない新疆の東部
であった。ウイグル族への政治的および宗教的活動の弾圧もあって、新疆は不安定な場所になった。

華人メディアに見る「二国論」論争(2)
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2000&d=0316&f=column_0316_001.shtml


419農NAME:2005/10/17(月) 22:35:18
この本の第九章「鈴木啓久師団長の供述と回想」(P-216〜)では、撫順戦犯管理所に
抑留され戦犯として裁かれ、日本軍の残虐行為について告白した鈴木啓久元中将(第1
17師団長)の証言について検証しています。

出身校である仙台陸軍幼年学校の会報「山紫に水清き」による1979年6月2日の取材に対
して、飯盛山の自宅で次のように語ったそうです。

「・・・・だから(日本兵が)虐殺したと言われれば、そうですかと私は正直に受け取った。
だから20年の禁固にされた。恐らく“やれ”と言った将校はおらないと思うんですが・・・・。
目が届かなかったと言えばそれまでだが、それだけ訓練ができておらなかった。それは、
やはり我々の責任ですよ」
「・・・・ありもしないことを住民がなんだかんだといいますからね。“鈴木部隊が、ここに
こういうふうに入ってきた”と住民が言うので、“そんなところに私の兵隊を配置したこ
とはありませんよ”といったって、“住民の言うことに間違いはない”と言うんだから。
まあ、他の部隊がやったこともあるでしょうし、広い場所だから、やっぱり止むを得ない
んですよ。罪を犯した本人がおらなければ、そこにおった司令官が罪にされるのは当然だ
と思って“ああそうですか”って。」

ただし同時に、八路軍と対比させて日本軍の軍紀の乱れが収拾のつかないものだったこと
も指摘しています。
「しかし、八路軍というのは強かったですよ。本当の共産党員というか、負傷して倒れて
いる下士官だったか、助けてやろうと色々やったが、絶対にいうことを聞かない。
それで動かんもんだから、とうとう置いてきてしまった」
(しかし八路軍は)「資産階級や豪農に対しては相当ひどいことをやったようだ」(“万人
孔”のようなものが出来るほど虐殺し死体を埋めたそうです)
「その代わり、八路軍は民衆の針一本、糸くず一つ取らないんですから。家にも入らない。
日本の兵隊はすぐに家に入っては村落露営だなんていっている。入るな、といっても駄目です。
勅諭なんか口では言うけど、さっぱり実行しない将校が多いでしょ。それじゃ兵隊になんぼ言
ってもだめですよ」
420農NAME:2005/10/17(月) 23:08:05
BBS< チベットの女/イシの生涯 -

sajaclistさん
higeです。久しぶりに掲示板をみて驚きました。

私は大学時代に中国共産党の少数民族政策の変遷に関して勉強し、卒論も書きました。北京に2年間の留学経験も
あり中国人の友人もいます。ラサには3ヶ月滞在した他、今までに6回程訪れています。中国語に不自由はないので、
中国語の出来るチベット人ともきちんと意志の疎通が出来ていたと思いますし友達もいます。(中国語の出来るチベット人
が一部だなんて言わないで下さいね。若者は大抵出来ますよ。)

彼らが心から望んだかは定かではありませんが、内地へ勉強に行った学生達も知ってます。捉え方は様々ですが、
自分の将来に有利だと思って内地へ行きたいのだと言う人もいました。本音はわかりませんが。もちろん逆に自分の
子供にはインドで民族教育を受けさせたいと言っている友達もいます。当然の考えでしょうね。

私は別に中国政府のチベットの中国化を正当化する気はさらさらありません。むしろ批判的ですらあります。私が
先の書き込みで言いたかったのは「映画の中で毛沢東の写真が掲げられていたのは、当時の中国政府の政策を
美化するものではない。むしろ皮肉としてすら見れる」ということ。「生活のため、将来のため中国的な教育を
受け入れる人々もいる」ということです。善し悪しの問題ではなく、「実際にある」という事実を言いたかっただけです。
そういう意味でこの映画はリアリティがあり、決してプロパガンダ映画ではないと思ったわけです。

「抑圧がない」とは言っていません。実際に抑圧されている、と不満をもらす人とも沢山あいました。実際に
投獄されていた人と話したこともありますよ。抑圧されて亡命した人とも会ったことがありますよ。チベットでも
四川省でも(帰国者は意外と多いのです。)日本やネパールでも。

www.bitters.co.jp/cgi-bin/tibetbbs.cgi?mov=10 -
421農NAME:2005/10/17(月) 23:14:33
中国対台湾
http://www.tabibito.de/taiwan/rocvrc-j.html

http://www.smn.co.jp/takano/mongol.tabi3.html
中国内には、本国よりも多い480万人のモンゴル人がいる。もちろん最大のまとまりは内モンゴル自治区の340万人で、
17世紀から清朝に服属してきたため中国側は完全な自国領と見なしている。毛沢東は革命の過程で、内モンゴル
はじめ非漢族の少数民族について、当初は「独立国家、中華連邦の一員、中国内の自治区のどれを選ぶのも自由」
と宣言していたが、革命成就の目前になると豹変し、中華人民共和国建国の2年前、1947年に早々と
内モンゴル自治区人民政府を作らせて、モンゴル国との合同の夢を潰した。
422農NAME:2005/10/17(月) 23:19:47
日中韓3国共通歴史教材委員会
『未来をひらく歴史』
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/mirai-wo-hiraku.html
423農NAME:2005/10/17(月) 23:27:34
中国共産党政権下における宗教 Religions under the Chinese ...
http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf05/5-68-78-sekiguchi.pdf
424農NAME:2005/10/17(月) 23:36:46
425農NAME:2005/10/18(火) 00:13:47
「新疆ウイグル地区の旅」  川村湊(文芸評論家)
http://www.japanpen.or.jp/committee/gokuchu/21st.html
426農NAME:2005/10/18(火) 00:45:26
(59)昭和天皇は知っていた (2)

http://www.pauline.or.jp/repo/repo59-2.html
427農NAME:2005/10/18(火) 21:58:30
三浦小太郎寄稿集
http://www11.ocn.ne.jp/~rachi/miura.htm
研究会報告:「脱北者」の国際支援ネットワーク(講師:三浦小太郎氏)
http://sadria.cside.com/ccea/report/miura020921.html
読書録:姜尚中『日朝関係の克服』(集英社新書、2003年)
http://www6.plala.or.jp/Djehuti/322.htm
428農NAME:2005/10/19(水) 00:03:23
誰も構ってないようだからヲレが構ってやろう

な ん て 淋 し い 奴 な ん だ
429農NAME:2005/10/19(水) 00:41:36
[社会] 昼にはガイド、夜には売春…中国行き性観光が流行−韓国
http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/news1/050925.htm
430農NAME:2005/10/19(水) 01:03:46
チベットの歴史 中国側
http://www.gesanmedo.or.jp/uli016.html
431農NAME:2005/10/19(水) 01:10:48
☆郵送申し込みの場合

下記の1〜3を封書にてお送りください。

1. 必要事項を記入した用紙

・ 氏名(旧姓名)・ふりがな(英文証明書の場合はローマ字表記も必要)
・ 生年月日
・ 卒業学科(専攻)
・ 学籍番号(覚えていたらでよい)
・ 卒業年月
・ 証明書の種類・枚数
・ 自宅の住所・電話番号(併せて日中連絡の取れる電話番号)

2. 手数料(郵便小為替、手数料は下記参照)

3. 返送用封筒(大きさ長形3号、宛先を記入、切手貼付)

432農NAME:2005/10/19(水) 16:03:52
433農NAME:2005/10/19(水) 22:06:30
マーシャル諸島と温暖化

http://www.goodbankers.co.jp/wer/0506marshal.html
434農NAME:2005/10/19(水) 22:10:04
http://www.h7.dion.ne.jp/~makamaka/makamaka/ese.htm
マーシャル諸島で出会った日本人 一人NGO(2002年7月)   このページのtopへ
飛行機の便が少なく、グアムからトランジッタすること10時間弱で南の国の首都、マジェロに着く事は御存知のとおり。
途中、アメリカの基地の島に降りたり大変な思いをするが、しかし綺麗な海、数多くの魚や大きな珊瑚が見られることもあり、
日本人のダイビング客が後をたたない。そしてこの国の人たちは日本語を多少なりとも知っている人が多く、日本人と分かれば
「こんにちは」とニコニコ声をかける親日家も多い。


435農NAME:2005/10/19(水) 22:26:55
436農NAME:2005/10/19(水) 22:55:11
437農NAME:2005/10/19(水) 23:08:47
保健師ブログ
http://kamiaka.seesaa.net/
438農NAME:2005/10/19(水) 23:11:27
439農NAME:2005/10/19(水) 23:22:42
440農NAME:2005/10/20(木) 22:37:00
放り投げられた赤ちゃんに銃剣が
─ 鄭来さんの証言を聞く会 ─
http://homepage3.nifty.com/hinokimi/html/99/asia99.htm
441農NAME:2005/10/21(金) 12:01:32
442農NAME:2005/10/21(金) 12:04:12
http://www.urc.co.jp/taikendan0513.htm
ところが、すべてのマレーシア人が日本人を歓迎してくれるわけではありません。お年寄りの中には
日本人と聞くだけで機嫌を悪くする人もいました。お気づきとは思いますが、第二次世界大戦で日本軍の被害に遭った、
またはそれを伝え聞いた人たちでした。日本と聞くと、前述の経済的な話か、戦争の話を必ず
持ち出されたものでした。ある時など、初老のタクシー運転手に「日本人は乗せたくない」と、乗車拒否をされたこともありました。

当時の日本軍は、中国で残虐な行為を行っていたこともあり、マレーシアでも華人に対してかなりひどいことを
したようでした。マレー人に対してはそれほどひどいことをしなかった代わりに逆に利用していた、ということを
聞きました。マレーシア人にとって日本とは、あこがれの国であると同時に、暗い過去を残していった国でもあるのです。

443農NAME:2005/10/21(金) 12:06:15
http://www.nichimapress.com/02_special/2005/special_305a.html
「日本占領下のマラヤ 1941-1945」
について
444農NAME:2005/10/21(金) 12:09:05
珍道記11.マレーシアの優しさに触れた日!あんたら最高だよ!!
http://www.geocities.jp/koukouryokouki/chinndouki11.html
445農NAME:2005/10/21(金) 12:21:41
マレー半島 ピースサイクル
http://homepage1.nifty.com/nbach/newpage27.htm
446農NAME:2005/10/21(金) 12:26:11
447農NAME:2005/10/21(金) 13:09:06
448農NAME:2005/10/21(金) 16:11:36
腐敗の構造   言いたい放談 相田洋氏より
http://www2.ocn.ne.jp/~chikyuu/newpage95.htm
449農NAME:2005/10/21(金) 16:15:19
中国経済 超えられない八つの難題 「当代中国研究」論文選
http://www.spstore.com/aws/amazon/asin/4794212623
450農NAME:2005/10/21(金) 16:48:07
この映画では強かんの問題を、ベルリンを脱出するときに将校がユンゲに「ソ連軍と目をあわすな」と暗示的に言う程度に
とどめている。フェストの本にも少し、詳しくは『ベルリン陥落』(アントニー・ビーヴァー)に記されているが、ソ連に侵攻した
ドイツ軍によって略奪や強かんによる大規模な被害が起きたという。ソ連軍はその報復として、東プロイセンでは略奪や
多くの女性を強かんしたり殺害した。そのような暴行はベルリンでも抑制されることはなかったという。
 ソ連軍の司令官は、産業施設の破壊は禁止したが強かんについては寛大であったという。性暴力の被害は一般の
ドイツ人女性にとどまらず、ホロコーストの運命を免れたユダヤ人女性、東方労働者としてドイツに強制連行されていた
ソ連人女性、命がけでナチに抵抗したドイツ共産党員の妻や娘にまで及んだという。略奪は英米軍にもあったと
報告されている。中国侵略した日本軍も同じことを引き起こしている。一般市民を犠牲にして遂行された
第二次大戦の本質が浮き彫りにされていると思った。

http://www.jrcl.net/web/frame050912g.html
451農NAME:2005/10/22(土) 00:25:36
「東北地方をはじめいくつもの地で、日本軍はあまりにもひどい残虐行為を働いています。私の通っていた新京(今の長春)の
小学校では級友の6割が肉親や親戚を何らかの形で日本軍に殺されています。
 こういう人たちのなかには、日本人に復讐しろ、決して許さないという人も多かったのです。周首相はこうした
状態が続けば将来大変なことになると考え、そういう人たちに、日本人兵士もまたひとにぎりの軍事指導者にだまされていた
犠牲者だと説得したのです。そう説得することによって、感情を和らげるよう指導したわけです。」
 昭和28年、29年に早くも周首相がこの言葉を口にしていたのは、このハルピン事件の教訓が伏線だったということになる。
加えて、それは"日本人民"にむけてのことではなく、"中国人民"にむけて「過去をのりこえていこう」と呼びかけていたことをあらわしてもいた。
 Aさんの話から、私は改めて日本軍の行為によって精神的、肉体的に傷ついた中国人がどれほど多いかを知ったし、
周首相の言葉の意味も理解することになった。
http://www.mizu.cx/kokkai/kokkai235.html
452農NAME:2005/10/22(土) 00:53:13
http://gold.ap.teacup.com/applet/mtr310/20050727/archive
戦の色濃いサイパンや沖縄などで、末期には軍の保身という名目により、その残虐性は日本側一般市民にも向けられた。
戦局不利が深刻になっていく状況で非戦闘員である一般市民にもほぼ素手での米国軍への対抗を強要、しかも
占領軍への投降を善しとせず自決を強要、覚悟の無いものは銃や剣など容赦なくその手で殺害された。

このような自国民の命の尊さにも及ばぬ状況を造り出した張本人である
旧日本軍本部の罪深さには計り知れないものが有る。

453農NAME:2005/10/22(土) 17:54:06
インドネシアでも虐殺に狂奔する日本皇軍
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Cinema/4551/ciner02.htm
454農NAME:2005/10/22(土) 17:55:47
日本の教科書の一部のページ  Textbook of Japan
http://drive.kakiko.com/vipvip/
455農NAME:2005/10/22(土) 17:58:13
映画で見ると日本軍はおにぎりしか食べていないのですが、実際に日本軍は戦場で米以外なにを食べていたのでしょうか?

http://www.warbirds.jp/ansq/9/I2000054.html
456農NAME:2005/10/22(土) 21:25:27
2003年11月01日(土) 欧米と闘ったマハティール首相の演説「日本なかりせば」
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=65802&pg=20031101
457農NAME:2005/10/22(土) 21:30:58
458農NAME:2005/10/22(土) 21:39:05
インドネシア元従軍慰安婦の証言をきく
http://www.ashir.net/siis/koron/shohgen.html
459農NAME:2005/10/22(土) 22:18:44
彼女の人生に起きたこと 従軍慰安婦
http://kanatomoko.jp.todoke.net/file/F_01kaisetsu.html
460農NAME:2005/10/22(土) 22:54:57
隊員からの手紙(抜粋) ポンペイ
http://www.amy.hi-ho.ne.jp/~fom-net/jocv/saito1.htm
461農NAME:2005/10/22(土) 22:59:04
天皇陛下とミクロネシア
http://www.jaipas.or.jp/123/123_1.htm
462農NAME:2005/10/23(日) 17:34:55
勤労報国隊って何?


 私は父に「昔炭鉱に行ってたことがあるの。」と聞いてみた。そこでわかったことは、北海道の炭鉱に終戦の年、勤労報国隊として
召集されたこと。そこには朝鮮人が多勢いたこと。そして食べものがとてもひどかったことなどである。勤労報国隊ってなんだろう。
戦争中の炭鉱に対する知識などまったく無かった私にとっては、わからないことばかりである。

http://www.cine.co.jp/works1/list/80_2.html
463農NAME:2005/10/23(日) 17:42:28
464農NAME:2005/10/23(日) 17:54:01
国際教育論 歴史教育の問題(1)
http://www.asahi-net.or.jp/~FL5K-OOT/rekishi.htm
465農NAME:2005/10/23(日) 17:58:10
軍票について教えて下さい。日本軍の行った食糧の現地徴発などはちゃんと軍票で支払っていたのでしょうか?

http://www.warbirds.jp/ansq/7/G2000074.html
466農NAME:2005/10/23(日) 18:03:17
他国を植民地化する権利は誰ももっていない
http://angrydiary.at.webry.info/200408/article_11.html
467農NAME:2005/10/23(日) 18:15:39
468農NAME:2005/10/23(日) 18:18:38
西欧の植民地喪失と日本
http://www.ywad.com/books/213.html
469農NAME:2005/10/23(日) 18:28:36
日本のアジア侵略を美化する
『ムルデカ17805』完成、試写会始まる!
http://www.ei-en.net/frenet/17805.htm
470農NAME:2005/10/23(日) 18:38:47
日本軍政期の北ボルネオにおけるアピ事件について
www.nucba.ac.jp/cic/pdf/njeis471/14KAMIHI.pdf
471農NAME:2005/10/23(日) 18:50:11
なんか変なところに迷いこんだみたいだ。
472農NAME:2005/10/23(日) 19:22:06
今村均司令官の
ジャワ軍政
そしてムルデカ

http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/19440225tango/2501tango-imamura.htm
473農NAME:2005/10/23(日) 19:33:14
ジャワ・バリ・幽玄・夢現
http://www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/AA/JB/JavaBali002.html
474農NAME:2005/10/23(日) 19:44:52
トアン・ブサール

もう、ひとつのブブタンのお話です。デンパサール市のはずれのに、一人の日本人の墓があります。
その人の名は「三浦襄」といいます、三浦襄は明治21年生まれの仙台の人で、両親は熱心なクリスチャンで本人も
クリスチャンでした。太平洋戦争前にスラウェシ島に渡り、そこからバリ島に転住し自転車の輸入販売の
【TOKO MIURA】を営んでいました。しかし商売は店員に任せて本人は住民の世話にバリ島中を駆け回り人望を得ていました。
牧師の父の「南方に行ったら住民の利益のみを考えよ」という戒めの実施者でした。

http://idler2.exblog.jp/2766028#2766028_1
475農NAME:2005/10/23(日) 19:49:47
 インドネシアというと、戦争によって反日感情の非常に強い地域と思いがちであるが、一概にそうは言えない。地域によって、
対日感情はかなり違う。ジャワ島に於いても、ジャカルタを中心とする北部の地域とスラバヤを中心とする南部の地域
では大分違う。日本で言えば、ジャカルタが東京、スラバヤは大阪というふうに理解したらよいと思う。

http://blogs.yahoo.co.jp/seizaikai_club/12508023.html
476農NAME:2005/10/23(日) 21:47:06
『噂の真相』97年2月号より
「従軍慰安婦」記述を巡る教科書批判の文化人旗揚げ部隊裏の陰謀を暴く!
http://www.bekkoame.ne.jp/~yamadan/mondai/rmal7/react437.html
477農NAME:2005/10/23(日) 21:59:23
『アジアに出会う旅』講座
http://www.bremen.or.jp/mnews/saikai.htm
478農NAME:2005/10/23(日) 22:01:21
日本占領期インドネシアにおける「青年団」組織
http://www.chiiki.tsukuba.ac.jp/thesis-00/45-seido.html
479農NAME:2005/10/23(日) 22:04:05
「慰安婦と戦場の性」秦郁彦
http://yorozu.indosite.org/bbs_log/bbs_log03/main/10572.html
480農NAME:2005/10/23(日) 22:06:00
"捨 て 石"

地獄の戦線で、実りなき敗戦を闘い

奇跡的に生きのびた、一兵士の記録

http://homepage1.nifty.com/horms/suteishi01.html
481農NAME:2005/10/23(日) 22:13:25
東南アジアから見た日本の戦争責任
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai96/tz9604.htm
482農NAME:2005/10/24(月) 11:22:42
特 集■戦争体験と戦争責任
T善野碩之助さん U江野勝美(永青)さん

http://www5.ocv.ne.jp/~mabune/mabune/mabunedayori3.htm
483農NAME:2005/10/24(月) 11:57:37
ここは、『ホロヨイ憂国至情の板』
http://6626.teacup.com/takitaro/bbs
484農NAME:2005/10/24(月) 21:27:18
中国・上海での戦い(企業構造改革編)
いい乞食と悪い乞食
http://wayoshi.exblog.jp/2316534
485農NAME:2005/10/24(月) 21:29:30
486農NAME:2005/10/24(月) 21:30:11
 『阿Qの王国 中国浮浪者列伝』劉漢太著 岡田陽一訳
http://www.sofukan.co.jp/books/50.html
487農NAME:2005/10/24(月) 21:31:20
488農NAME:2005/10/24(月) 22:21:02
長編小説「パパバリ」

− バリ島で聖者と呼ばれた日本人の南方関与 −

サヌール海岸の夜明け

http://www.fsinet.or.jp/~oak-wood/novel.html
489農NAME:2005/10/24(月) 22:53:21
チベット人の苦境」とは?

中国共産党がチベットでやったことは何か。

地主や寺院から土地を取り上げ、農民に分配した。
寺院を壊して、子供たちが寺院に取られないようにした。
学校を作って、貴族や僧侶以外の人々が文字を読めるようにした。
映画館や新聞を作って外の世界のことを伝えた。
道路を作って中国の他の地域との行き来がしやすいようにした。
病院を作って医療を普及させた。
身分制を廃止して、貴族の土地財産を取り上げた。
無償労働を廃止して、労働者に賃金を支払った。

平均寿命は2倍近くになった。農民は幸福になった。
490農NAME:2005/10/24(月) 23:15:22
南京事件 −− 虐殺否定論の動向
http://www.jca.apc.org/nmnankin/news6-12.html
491農NAME:2005/10/25(火) 00:56:08
細菌戦被害の戦後への波及 
―日本の侵略戦争と細菌作戦に起因する
湖南省と浙江省のペスト被害―


京都大学教授   江  田  憲  治


http://www.anti731saikinsen.net/saiban/2shin/kanteiiken/eda.html
492農NAME:2005/10/25(火) 01:05:54
日本軍の「毒化政策」で山西省住民20万人が麻薬吸飲
http://www.china-embassy.or.jp/jpn/xwdt/t201496.htm
493農NAME:2005/10/25(火) 17:26:09
http://londonbridge.nobody.jp/sub.myanmar1.htm
「戦場にかける橋」「ビルマの竪琴」…。ビルマ(ミャンマー)にとってそれらの映画で描かれた戦争世界はその後に
続く過激な民族同士の闘争の序章にしか過ぎなかった。 
 同国は国内に135ともいわれる少数民族を抱えており、その多くがビルマの中心民族であるビルマ族(人口の約7割)と対立、
衝突を重ねてきた。それは植民地時代に英国が少数民族を優遇したことに端を発している。

 英国はビルマ統治のため、カレン族を中心とした少数山岳民族を軍人、警察官に多数登用した。それに対し、国民の7割を
占めるビルマ族の反感が高まり、独立義勇軍が結成されるにいたる
494農NAME:2005/10/25(火) 17:29:09
http://www.kirihara.co.jp/scope/SEP99/kiko.html
「ヒロシマに原爆が落とされて日本が戦争に負けた後、撤退していく日本軍は、この村も通っていった。村人たちは、
日本軍が来る前に、家をそのままにして山の上に避難したんだ。そして日本軍がいなくなるまでじっと息をひそめて
隠れていたんだよ。山の上からは日本兵の様子がよく見えた。当時の日本人はみんな背が低くてね。勝手に私たち
の家に入り込み、寝泊まりし、食糧を奪っていったよ。日本刀を振りまわして、村人を見つけると、わけもなく
気まぐれに殺したりしたんだ。もう戦争に負けたのにね」

 でもミャンマー人の対日感情は、概して言うなら決して悪くはない。

「戦時中、私の父が重い病気にかかってね。もう村では手のほどこしようがなくって、祈祷だけが頼りだった。
そんなとき日本人の医者がやってきて、治療してくれたんだ。おかげで父は命をとりとめたんだよ。戦争のときも、
悪い日本人だっていればいい日本人だっていた。それはどこの国でも同じだよ」

495農NAME:2005/10/25(火) 17:35:59
496農NAME:2005/10/25(火) 21:42:05
「二ューギニア島における空襲体験」   鈴木精 81歳(水戸市在住)
http://www.asahi-net.or.jp/~de3m-ozw/matsuna/page23.htm

なぜ従軍慰安婦が必要だったのか
なぜ、虐殺が起こったのか
http://members.at.infoseek.co.jp/YaYa/naze_okotta.htm
497農NAME:2005/10/25(火) 21:44:02
今年は十干十二支でいうと「乙(木の弟)酉」となる。ベトナム語ではAt Dauと言い、様々な災害や不幸なことが起こる年として知られる。
60年前のAt Dau、1945年には200万人が餓死したと言われている。200万人という数字の真偽のほどはわからないが、
日本軍が進駐し、食糧を調達したことや天候不順に拠る不作などが原因で、多くの人が餓死したことは高齢の方の話を
聞く限り確かなようだ。60年後のAt Dauであるが、人々が恐れていたように不幸な出来事が続いている。

http://www.ngo-jvc.net/php/jvcphp_epdisp.php?ThreadName=v03&ArticleNo=latest
498農NAME:2005/10/25(火) 22:51:45
PARTM
「陣中日誌」に書かれた慰安所と毒ガス
高崎隆治
http://www.jca.apc.org/nashinoki-sha/textbook/kyoukasyo14.htm
499農NAME:2005/10/25(火) 23:01:35
日本人は政治的に未熟な国民である。首相への集団的心酔という言葉を引用しながら小泉総理を盲目的に信じることで
馬鹿げた幻想を抱いている、と7月4日付のル・モンドが警告している。800兆円とも900兆円とも言われる国民資産への
「背任」を犯した詐偽政党がその罪を全く問われていない。誰も逮捕されないのである。それどころか利権を吸い尽くしながら
今尚政権を引きまわしている。300万人の日本人を殺し、侵略により2000万人を殺戮し国民財産を根こそぎ破滅させた
太平洋戦争の犯罪指導者たちを裁く裁判さえ出来なかった。奴隷としてのDNAは修復不可能なのだろうか?
500農NAME:2005/10/25(火) 23:03:48
アジア太平洋戦争で死亡したとされる日本軍軍人・軍属約230万人のうち、約6割にあたる約140万人の死因は戦闘による
狭義の「戦死」ではなく、栄養失調による病気や飢えだった。雅子さまの懐妊が確認されたことを受け、宮内庁は、
出産にともなう諸行事について、旧皇室親族令の「皇太子の子誕生式」を参考に帯は、一般の場合は「さらし木綿」だが、
旧皇室親族令では、長さ約3.6bの「生平絹(きびらぎぬ)」となっている。これを、半分の幅に折って、
三重にたたみ、白い「鳥の子」と呼ばれる紙で二重に包んで、その表に金粉とにかわを混ぜた「金泥」で松とツルを描き、
まき絵の「衣筥(衣装箱)」に入れて届ける。戦後の旧厚生省調査では日本人戦没者は約310万人とされ、空襲の内地の
被災者らを除いた軍人・軍属が約230万人に上る。藤原さんは、餓死が多かったガダルカナル島、ニューギニア、
メレヨン島(現ウォレアイ島)などの南洋諸島などをはじめフィリピン、タイ、中国大陸など、ほぼ全地域にわたって
戦線や作戦ごとに現存する軍資料や幹部の証言録、戦後の戦没者調査などを基に死因別の死者数(一部推計を含む)
を数えた。皇太子さまは20日午後、英国のチャールズ皇太子とともに、ロンドンのハイドパークで開かれた
日本文化を紹介する事業「Japan 2001」のイベントを視察した。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Cinema/4551/defl10.htm
501農NAME:2005/10/27(木) 19:18:23
http://www.jskl.edu.my/pages/introduce-Malaysia.f/pages/4-2.html
2. 戦争中(1941年-1945年)
(1) 太平洋戦争中の抗日運動

 1941年から約3年8ヶ月の間、日本軍はマレー半島を占領しました。
 日中戦争以来、排日、反日運動を支援してきた華僑は、初めから日本軍に対して背を向けていました。華僑の一部は
マラヤ共産党の「馬来人民抗日軍」に加わり、ジャングルにかくれて終戦までゲリラ戦をくり広げ、日本軍を大変悩ませました。
 一方、当初のイギリス軍を降伏させた日本軍を歓迎した多くのマレー人の中には、統制経済、強制労働などつらい政策を
押し付けられ、日本軍の華僑に対する暴行やむごい仕打ちを見聞きして、次第に日本軍から心が離れていく人も出てきました。

502農NAME:2005/10/27(木) 19:22:40
http://www.junmas.com/wwwboard/messages3/26926.html
私は、英領マラヤやシンガポールで日本軍による非戦闘員(子供を含む)の虐殺はあったと考えています。ただ、
その数は華人側の主張を大きく下回り、また赤ん坊を放り投げて銃剣で刺殺するという行為は無かったのではないかと思います
また、華人側の被害主張に基づき、事実認定が緩められた戦争裁判でもその様なケースが認定された事例も無いはずです。

割と最近の例では、1969年5月13日、総選挙後に起こったマレー人による華人虐殺事件でも、被害者実数
160名程度に対して、華人側は1000人を主張しています。「白髪三千丈」、「怒髪天を衝く」という言葉が示すとおり、
古来より中国の人は事実を誇張する性癖がある点は事実だと思います。

私には、赤ん坊を放り投げて銃剣で刺殺するという残虐な行動パターン/発想自体が私たちの祖父の代の日本人
にも無かった様に思えるのです。当時の日本の兵隊たちは、(侵略を正当化する為に軍上層部が言い出した後付け
のまやかしだとしても)八紘一宇(アジア民族の平等)や大東亜共栄圏の構築(東南アジアの欧米列強植民地解放)
思想を本気で信じていた訳ですから、その思想の高邁性と赤ん坊銃剣刺殺という行為の間に埋めがたい落差を感じます。

マラヤでは戦後の混乱期に華人が多数のマレー人を虐殺し、報復としてマレー人が華人集落を
襲撃し虐殺するという事件が多発しました。その有様は凄惨を極め、女子供まで殺されました。その惨状は余りに
も酷すぎてここで日本人の私が書くのは憚られます。戦後、マレーシアが独立した後、民族間感情への
政治的配慮からこれらの被害者数も日本軍のせいにされてきた事実も看過できません。

503農NAME:2005/10/27(木) 19:25:00
「日中戦争いまだ終らず〜マレー『虐殺』の謎」中島みち著 1991年7月文藝春秋
http://www.mikisystem.com/JForum/wfDisplay.aspx?pk=3073
504農NAME:2005/10/27(木) 19:28:16
505農NAME:2005/10/27(木) 19:48:02
506農NAME:2005/10/27(木) 21:31:39
台湾については
http://www.coolloud.org.tw/news/database/interface/detailstander.asp?ID=107777

韓国については
http://www.goodlaw.org/lawnews/Content.asp?board_idx=1801&Gotopage=

この二つの記事によれば、日本で訴訟を行ったのは、日本で補償法ができたことから、
補償法を使って行ったもので、これを通じて自国でも立法化を求めている、とある。

それに台湾では、戦後自国政府(といっても外来政権なんだけどね)の隔離政策
について、李勝雄弁護士らが中心となって抗議行動を行っているし、実態調査も
進めている。
すくなくとも台湾では批判の矛先は主に国民党政権以降の戦後政府に向けられている。

そもそも台湾では自国の隔離政策などに対しても座り込みとか抗議行動をやって
いるから。
台湾で訴訟をしないのは、台湾では訴訟という手段はあまり使われないから
(裁判官が国民党ばかりであてにならないということもある)。
日本は訴訟という手段が反公害運動以来、抗議行動のひとつの手法として確立
しているが、台湾ではそうではない。政府に何かしろという政府依存ではなく、
むしろ「自救会」みたいなのを作って、自分たちで何とかするという手法が
一般的だから。

日本での訴訟に乗ったのは、日本の弁護士から言われたのと、日本に対する場合
は訴訟という手段が効果的だから。台湾では別の手段がある。

抗議行動は、国によってさまざまな手法がある。裁判をすることがすべてではない。
解法者も結局日本のやり方が他国でも通用すると思い込んでいる時点で、
sinkenと同じ。
507農NAME:2005/10/27(木) 22:33:35
シンボル「ペサウ号」に魂
        −老船長迎え展示室の完成祝う
http://www.sonoda-u.ac.jp/yokoso/symbol.HTM
508農NAME:2005/10/27(木) 22:51:32
フレンズ オブ ミクロネシア
http://www.amy.hi-ho.ne.jp/~fom-net/micrones.htm
509農NAME:2005/10/27(木) 22:54:16
http://www.amy.hi-ho.ne.jp/~fom-net/micrones.htm
そんな日本とかかわりが深いチューク諸島には、漫画「冒険ダン吉」のモデルになった高知県出身の森小弁(こべん)という人が
住んでいた通称「秋島」がある。去年初め亡くなった「キミオ」さんという人の話をそこで聞いた。戦時中、キミオ少年は
沖合いに停泊していた海軍の補給船「愛国丸」に乗り組んでいた静岡出身の内田(名は不詳)という下士官に
かわいがられた。ちょっとした用事を頼まれて終えた後はいつも貴重な缶詰や砂糖、石鹸をくれたという。
もちろん島の住民にもやさしく、貧しい人をみかけると必ず施しをした人だったらしい。愛国丸の軍人たちも
昼は上陸していたが、夜は帰艦し島人に嫌われる行為はまったくなかった。いや、むしろ好かれていたと
言っていいだろう。それゆえ、敗戦近く島の沖合いで轟沈された愛国丸とともに死を遂げた内田さんの
ことを終生キミオさんは悼み続けた。その内田さんがキミオさんに残したことばに「負けず嫌い」がある。
負けず嫌いの精神でしっかり生きてゆきなさいということばだった。貧しかったキミオさんは、それから
このことばを胸に懸命に働いて、ホテルをはじめダイビングスクール、リゾート施設を経営する実業家に
なった。さらに内田さんの善行をみならって、福祉活動や貧困家庭への援助を続けたという。
510農NAME:2005/10/27(木) 22:58:28
http://www.interq.or.jp/tokyo/ystation/tc13.html
ダウンタウンを歩いてみると、韓国語看板が多い。サイパンの隣にありながら、日本語の看板はあま
り目にしない。街角のベンチでは韓国語の新聞を熱心に読んでいる人もたびたび見かける。
話しかけてみると、みんな戦時中に日本軍から強制連行されてきた人々の関係者だった。終戦後、
そのまま居残りせざるを得なかったという。そんな事情がありながらも、笑顔でやさしく接してくれた。
511農NAME:2005/10/27(木) 23:05:39
記念碑沈め隊 ミクロネシア
http://www.aoni.waseda.jp/akiokada/essay/sizumetai.htm
512農NAME:2005/10/27(木) 23:06:55
http://www7.ocn.ne.jp/~mazda86/diving/diving25.html
慰霊といえば、富士川丸にはこの二つの石碑が設置されている。

左のは、kimiuo Aisek さんという方の慰霊碑。

右のは、この船を沈めた作戦「ヘイルストン作戦」の50周年記念の碑らしい。

・・・この両方の碑文とも、なんだかこの船で死んだ人そっちのけって感じで

ちょっとどうかなぁ・・・という気がして、少しネットで調べてみた。

kimiuoさんの碑については建てられた意味がわかった。

この方は本当に世界的にも敬愛されたダイバーで、またチュークの有力者でもあり

現在リゾート地としてのチュークがあるのはこの方の力らしい。そして愛国丸という

船の船員ととても親しかったのだという。同じ石碑が愛国丸にも沈んでいる。

513農NAME:2005/10/28(金) 00:35:24
マックス・ハーフェラール

もしくはオランダ商事会社のコーヒー競売

19世紀、オランダ領東インド(現在のインドネシア)における植民地支配の過酷な実態を内部告発して、ヨーロッパ諸国に
大センセーションを巻き起こした小説の完訳です。この本は母国オランダでは「国民文学」として読みつがれ、
知らない人のいない古典中の古典。日本でも、アジア近現代史研究の中でしょっちゅう名前が出てきますが、
戦前に出た翻訳を目にしたものはほとんどいないという「幻の」作品です。オランダ語で書かれてはいますが、
植民地を通じてアジアとヨーロッパにまたがる世界的名著と言えるでしょう。訳者はオランダ史が専門で、
長年にわたってムルタトゥーリについて研究、ようやく翻訳が完成しました。

http://www.mekong-publishing.com/books/ISBN4-8396-0163-1.htm
514農NAME:2005/10/28(金) 00:38:00
30 オランダの勃興=アムステルダムの繁栄
http://members.jcom.home.ne.jp/spu/030.htm
515農NAME:2005/10/28(金) 00:41:23
http://www.eastedge.com/indonesia/history.html
■20世紀
オランダは、20世紀初期までにアチェとバリ島を含む全諸島を支配下においた。
1928年、スカルノらによりインドネシア国民党が結成され、公然と独立を呼びかけた。
第二次世界大戦中、日本軍は1942年、諸島を占領した。
インドネシアは当初日本によって、独立が達成されることを期待した。
しかし日本の軍政は、オランダ統治時代より悲惨なものだった。強制労働により多くの国民が死に、天然資源、
食糧の搾取により農業生産は低下し飢饉が襲い、餓死者が多数でた。
反乱も多発し、日本軍により鎮圧された。
日本の無条件降伏の二日後、1945年8月17日、スカルノはインドネシア独立を宣言した。しかしインドネシアの再植民地化を
ねらうオランダは武力で制圧しようとし、双方で戦闘が始まった。
インドネシア軍の抵抗と国際世論の非難により、オランダは植民地化をあきらめ、1949年12月、オランダのハーグにおける会議
で、独立が合意された。
516農NAME:2005/10/28(金) 20:02:51
http://www.nichimapress.com/syokufu/2005/300/syokufu_300.htm
ヴェトナム戦争当時、チュライ、ホイアン、ダナンには韓国軍海兵第二旅団、通称「青龍部隊」が駐留していた。アメリカ軍の
手先として共産主義勢力のベトコン(民族解放戦線)と戦った韓国軍の名称は「白馬部隊」、「猛虎部隊」といかにも朝鮮族の
好きな名称をつかっていた。(張子の虎部隊とか、虎の威を借る狐部隊というのなら分かるが)
 1965年10月に「青龍部隊」はやってきた。公式集計では韓国軍はヴェトナム全土の戦闘で41,400人の北ヴェトナム軍兵士や
ベトコンを殺害した。そして、きわめて控えめな数字で5,000人以上の民間人を集団虐殺した。ベトコンが潜んでいるという村の
入り口で待ち伏せ、まず、水牛を引いた村人や女、子供を殺害し、村を徹底的に攻撃した。女性は陵辱され、金品は
略奪された。ベトコンであろうとなかろうと、老若男女区別なく村人を虐殺した。幼児を抱いた女性はそのままの姿勢で
幼児とともに殺された。村の住民全員が殺されてしまえば、人数を数えようがない。実際には1万人以上殺戮しただろうと言われている。
 韓国軍の狡猾さは、攻撃、虐殺のあと、橋や道路、学校を再建し、医療活動をし、住民にテコンドーを教え、自分たちは
ヴェトナム人のため、ヴェトナムを再建するために戦っているという宣撫活動を行ったことだ。そして、韓国軍の残虐行為は正当化された。
 ヴェトナムの人々は多くを語らない。政府も、憎しみを忘れて、アメリカとの関係をより親密にしようとしている。韓国への
憎悪にもふれない。民族の誇りがあり、いま、この国は、憎しみを爆発させることより、未来に向かって、敵だった国々とも
仲よくしていくことのほうが幾十倍もメリットがあると考えている。アメリカという「虎」の威を借りて暴虐のかぎりを
つくした韓国の人々には、理解できないだろうが。
517農NAME:2005/10/28(金) 20:12:23
「私の村は日本軍によって消された」
アジアフォーラム横浜2000年証言集会−蕭雲さんの証言を聞く会−に参加して
杉浦 和義(船橋法典高校分会)
 アジアフォーラム横浜は、12月8日の太平洋戦争が始まった12月8日を選んで横浜で毎年行われている集会である。
7回目の今回は、マレーシアから蕭雲(シャオ・ユーン)さんが来てくれた。蕭さんは今年66歳。8歳だった1942年、日本軍は
マレーシア・ネグリセンビラン州のイロンイロンという山奥の村で、3月18日に敵性華僑狩りを行い、家族を含め村人1474人が虐殺された。
 その日の朝、日本軍が来るという話を聞き、彼の母は「戸籍調査に来ただけだから、心配はないだろうと」と逃げなかったが、
シャオ少年は恐怖を感じて一人で逃げた。その夜に戻ってくると家には誰もいず、日本兵が残りの村人を捜しに来たがベッドに
隠れて難を逃れた。しかしその夜日本軍は村の家を焼き、翌日大勢の死傷者を路上で見ることになった。生き残った人からは、
日本兵が女性をレイプし、抵抗して逃げようとした人を銃剣で刺し殺したことを聞いた。それから40年間イロンイロン村は消えた村になった。
 彼の話は青木書店発行の「マラヤの日本軍」で読んで知っていたが、やはり本人の直接の証言は胸に迫る。さらに今回は、
これまで伏せられてきた華人の抗日共産主義ゲリラや英軍ゲリラの存在、そして接触が証言の中で触れられ、
歴史がいっそうリアルになった。また日本軍の占領時代に強制されたため「最敬礼」が自然に出てしまう様子に残酷さを感じた。
 今年の12月にはシンガポールの大検証(日本軍による敵性華僑狩り)の体験者の方をお呼びすることが決まって
いるそうである。99年には横浜に引き続いて船橋市でも集会を持ったが、今回も千葉で集会ができないだろうか。協力者を募りたい。
 http://homepage3.nifty.com/hinokimi/html/01/060.htm
518農NAME:2005/10/28(金) 22:58:52
http://www.globetown.net/~rex/cq.html
C級戦犯として,無実の罪に問われて処刑された木村久夫上等兵(京都大学経済学部卒,シンガポール,
チャソギー刑務所にて1946年5月刑死,28歳)が獄中,コンクリートの寝台の上で,偶然入手した
川辺元「哲学通論」の余白に書ききつけた1万1千5百余の文章と短歌11首の中心部分。


519農NAME:2005/10/29(土) 14:17:07
http://72.14.203.104/search?q=cache:SBVlpcjBfhAJ:jyoho.kahoku.co.jp/member/backnum/news/2005/05/20050516t13014.htm+%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%80%80%E6%88%A6%E6%99%82%E4%B8%8B&hl=en
戦時下の“同僚” 青葉まつり会場で11年ぶり再会

旧日本軍が占領していたマレーシアのクアラルンプールで郵政局に勤めていた、仙台市宮城野区の元教員斎藤正一さん(90)が
15日、当時同僚だったシンガポール人男性バラ・スブラマニアンさん(88)と仙台で11年ぶりに再会を果たした。2人はこの日
最終日を迎えた仙台・青葉まつりを見物。躍動感あふれるすずめ踊りなどを楽しみながら、戦後60年を経てなお変わることのない
友情の深さを確認し合った。

 斎藤さんは1943年、旧日本軍の軍政下にあったシンガポールのマライ軍政監部郵政局に旧逓信省から派遣され、
44年にクアラルンプールに異動した。現地で雇用されたスブラマニアンさんは翻訳などを担当。2人は互いに
日本語と英語を教えたりする、気の合う仲間だったという。

 戦後も、2人は手紙などのやり取りを続けてきた。94年にスブラマニアンさんが来日し、半世紀ぶりに仙台で再会した。
今回はそれ以来11年ぶり。斎藤さんが卒寿、スブラマニアンさんが米寿を迎えたお祝いに、久々に会って旧交を
温めようということになった。

 スブラマニアンさんは妻スミッタラさんと来仙。青葉まつり会場の定禅寺通に設けられた桟敷席に
斎藤さんと3人並んで座り、勇壮な山鉾(やまぼこ)巡行やすずめ踊りに拍手を送った。

 祭りの由来などを分かりやすく説明する斎藤さんに、スブラマニアンさんは「すずめ踊りの乱舞がとても楽しそう。
斎藤さんは昔から親切な人だったよ」とにっこり。斎藤さんも「かけがえのない親友」と笑顔で返し、
「お互いもっと長生きして、また会いたいね」と握手を交わしていた。
520農NAME:2005/10/29(土) 14:22:10
植民地教育史像の再構成

http://www.libro-koseisha.co.jp/top03/rb1121.html
521農NAME:2005/10/30(日) 00:02:32
朝鮮戦争でアメリカは細菌戦を行った!
http://www1.ocn.ne.jp/~sinryaku/beigunsaikinsenzittai.htm
522農NAME:2005/10/30(日) 00:04:40
523農NAME:2005/10/30(日) 00:09:27
北朝鮮体制とソビエト連邦

http://homepage3.nifty.com/senshowun/page087.html
524農NAME:2005/10/30(日) 17:21:28
あの日中戦争の死者数について聞きたいのですが?
日中戦争の死者数で議論になったんですけど、
「まず、東京裁判時130万というのは、1946年の8月に、中華民国の軍政部長 何応欽から東京裁判に提出されたもので、
これは戦死者、つまり死亡が確認された 軍人だけの数131万9千人のことなのです。
これに対して、3500万人というのは1995年にモスクワで江沢民主席が述べた、軍民の死傷者の数です。 あなたの書き方だと、
一見30倍になってるみたいですが、比較する数字が全然違います。
1978年中華民国政府(台湾)発表の軍人の死亡が132万、行方不明13万、民間の死者578万人だったので、これは軍民の
死者723万ということになります。
大陸中国(人民共和国)側の数字は1989年発表で、死亡932万ですから、台湾側発表と大きくは違いません、これに、
行方不明289万人、負傷者947万人を 合わせて、死傷者2168万人というのが、江沢民発言前の中国政府公式発表 だったのです。」
というふうな反論の仕方がされて手が出せません。
頭が混乱しています。彼の話を聞く限り、3500万人の前の死傷者数2100万人が正しいということになりそうですが。
525農NAME:2005/10/30(日) 18:47:46
http://www.jet.ne.jp/~seto3104/sigpo/sp9.htm
日本兵は家族捕虜の女性達に野蛮で屈辱を与える行動をとったことも証言されました。12歳の時から15歳になるまで
一般捕虜としてキャンプに強制収容されていた現在70代になる女性が、その収容所で母親が日本兵に引きずり出され
屈辱を受けたと涙ながらに証言していました。母親の恥になるから、今日まで誰にも言わなかったと言っていました。
犠牲になったのは彼女の母親だけではなかったこと、そして、シンガポールの至る所で、マレーシアでも
インドネシアでも一般市民の女性に対する日本兵の野蛮行為が行われていたことを証言から知りました。
文化国家として経済大国として、アジアのリーダーとして君臨している日本が、僅か56−7年前は、
このような野蛮で卑劣な行為をアジアのあちこちで行っていたとは、俄かには信じ難いことでした。何千年も
昔の話しではなく、私達の世代の僅か一世代前の日本人がこのような悪を行っていたとは。かつて、韓国、
フィリピン、インドネシアの従軍慰安婦の話しも苛立たしい思いで聞かされたものでしたが、まさか、シンガポールの
一般市民の女性達まで屈辱を受けていたなどとは、無知をさらして恥ずかしいですが、初めて知ったことでした。
526農NAME:2005/10/30(日) 18:52:07
日本はアジアの人々に何をしたか
http://www.kazuart.com/H3/truth/truth2.html
527農NAME:2005/10/30(日) 18:53:43
528農NAME:2005/10/30(日) 18:58:59
529農NAME:2005/10/30(日) 23:35:53
南京では工作活動やベイツ、ティンパーリらの活躍もあって日本軍が暴行を
働いたと思ったらしいリリー・アベックも、その他の地域での日本軍の規律の正しさ
は認めている。

「支那の至るところで日本軍の入城が歓迎されていた。
政治的に日本をよく思わない人ですら、そうであった。
日本軍に、秩序と安寧の印象が元に戻るには時間がかかった。
実際、日本軍の良き名声は、広東と漢口を獲得して、ようやく修復された。
そこでの日本軍の振る舞いは、非の打ち所がなかったのである」
「支那の革新」リリー・アベック
530農NAME:2005/10/31(月) 17:54:52
資料紹介 フィリピンにおける日本軍の性暴力

  ―『日本占領下フィリピンにおける日本軍性暴力史料集』

 防衛庁防衛研究所図書館に所蔵されている、フィリピンにおける日本軍の性暴力について市民グループが徹底して調査をおこない、
関連する資料をまとめて掲載した資料集についての紹介です。こうしたすぐれた仕事をおこなった市民に敬意を表したいと思います。
ここに掲載したのは私の書いた解説だけです。  2004.12.8記


http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper58.htm
531農NAME:2005/10/31(月) 17:56:42
http://www.dennougedougakkai-ndd.org/~cielo/tdiary2/?date=20050119
「慰安夫 for men」が主人公のフィリピン映画

例によってFeedbackの「ゲイ」検索結果で引っかかってきた話題。『アイシテイマス』というこの映画の内容については、livedoorニュース経由、ベリタ通信の記事から引用;


映画の舞台は1941年の日本占領下のフィリピン。日本軍の性的被害者となったのは女性だけでなく、同性愛者も
「慰安ゲイ」やレイプ被害者になっていたという史実に基づいている。

町に侵攻してきた日本軍の将校に見初められたゲイの男性が、将校の「現地妻」として一緒に暮らすことを強いられる中、
将校に抱き始めた愛情と祖国への忠誠心との間で揺れ動く物語だ。

シリアスな舞台設定と、ゲイ男性独特のユーモラスな振る舞いには幾分の「ミスマッチ」の感もある。同性愛問題に
理解が及ばない観客にはコメディーのように感じる部分もあるかもしれない。

しかし、日本兵が一方的に悪玉に描かれていない点がこの種のフィリピン映画としては珍しい。日本兵がゲイ男性へ
の愛情と軍内規律との間で苦悩する場面など、さまざまな人間模様がうかがえる構成となっている。また頭巾を
かぶった村人にゲリラを指差させて密告させる日本軍の様子などのエピソードも盛り込まれており、史実によく即している。


532農NAME:2005/10/31(月) 18:01:51
http://homepage2.nifty.com/asipara/aishiteimasu.htm
AISHITE IMASU (MAHAL KITA) 1941
日本軍政下を舞台にとる作品で、同性愛のロマンスを中心にすえたのがユニークといえる。地方都市を舞台に
ジョエル・C・ラマンガンが複数の人物をからませる構成ながら、帝国陸軍のあつかいが大方のフィリピン映画と
同レヴェルの無茶苦茶さにあきれるばかり。せっかくの
素材を生かせず、どっちらけに終わったようだ
533農NAME:2005/10/31(月) 18:17:22
書評 
『戦場の「慰安婦」 拉孟全滅戦を生き延びた朴永心の軌跡』
西野瑠美子・著 明石書店

http://members.ld.infoseek.co.jp/rituhyou/news66.htm
534農NAME:2005/10/31(月) 22:22:11
   [論点]人権から見たハンセン病  笹川陽平(寄稿)
 七月初旬、私はジュネーブにある国連人権高等弁務官事務所を訪ね、実務のトップである 
バーナード・ラムチャラン高等弁務官代理に、ハンセン病を人権問題として考慮してもらいたい旨、訴えた。 
世界には現在、約六十万人のハンセン病患者と二千万人を超える回復者がおり、彼らとその家族を含めると、 
一億人を超える人々が社会のいわれない差別に苦しんでいる。 教育、結婚、就職はもちろんのこと、
本人の死後も、家族が差別の対象となっているというきびしい現状にある。 ラムチャラン高等弁務官代理は、
自分の三十年近くにわたる人権問題とのかかわりの中で、 ハンセン病の問題を聞いたのは初めてだと
率直に認め、即座に重要な人権問題である、と同意してくれた。 私は三十年以上、ハンセン病制圧
の仕事にかかわり、現在は世界保健機関(WHO)の
 ハンセン病制圧特別大使として、世界のハンセン病制圧活動の第一線で仕事をしている。 長い間、
不治の病と考えられてきたこの病気は今日、MDT(多剤併用療法)と呼ばれる複合療法により、 一年以内
にほとんどの人が完治する病気となった。WHOの指標である「人口一万人に一人以下」の基準を 
達成していない国は、インドをはじめ六か国ほどにしぼられてきた。 このようにハンセン病は、医学上の
問題としては解決の一歩手前まできている。一九八五年以降だけでも、 一千百万人の患者がこの病気
から解放された。しかし医学上の問題が解決しても、患者や回復者を取り巻く 社会的状況に
変わりはない。彼らに対するいわれなき差別がなくならない限り、この病気との闘いに終わりはないのだ。 
この問題は、歴史上最も古くから存在する人権問題であろうと考えている。
 患者や回復者たちは、社会のみならず、家族からも見放されるという宿命を、長い間背負ってきた。
 そのために彼らの声を真剣に聞き、人権問題として世界に訴える声はいままであがってこなかった。
日本でもつい七年前まで、ハンセン病患者の隔離を正当化する法律が存在していた。
 
535農NAME:2005/10/31(月) 22:22:43
日本でもつい七年前まで、ハンセン病患者の隔離を正当化する法律が存在していた。
 回復者の方々が法によって奪われた人生の補償を求める国家賠償訴訟を起こし、二〇〇一年五月、
勝訴した。 政府も小泉総理大臣の英断で率直に誤りを認めて控訴を断念したことは、我々の記憶に
新しいところだ。 しかし現在なお、日本においてさえ差別意識が根絶されたとはいえない。
 今月四日、ハンセン病史上初めて国連の人権委員会小委員会で患者、回復者、家族が直面する 社会的
差別の問題を世界に訴える機会が与えられた。 その場には、エチオピア、アメリカ、インドの回復者、
かつて三万人以上の患者を強制隔離していた
 フィリピンのクリオン島で治療に従事している医師も参加した。 私の基調報告に続いて患者、回復者、
家族が歩んできた苦難の道のりを歴史的に振り返ると同時に、 いまだ残る強い社会的差別について、
各国の現場から報告を行った。 集まった参加者からは、初めて知った差別の状況に驚きの声があがった。
 人類にとっての負の遺産であるこの問題に、正面から取り組む第一歩を踏み出すことができたことに
 大きな意義を感ずる。今後は、今回出席できなかった日本の回復者の方々の参加も得て、
 世界的規模の連帯組織の育成に尽力していきたいと考えている。
 病気としてのハンセン病制圧は「百里の道のりの最後の一里」まで来たものの、
 人権問題としてのハンセン病は、最初の一里が始まったばかりである。
 皆様のご理解とご支援を賜れば幸いである。
         
 ◇ささがわ・ようへい(日本財団理事長) 明大政治経済学部卒。
  一九八九年から日本財団理事長。米日財団理事などを務める。64歳。
               読売新聞・東京朝刊(2003.08.27)
536農NAME:2005/10/31(月) 23:31:23
インドネシア参考文献
http://www.harapan.co.jp/Indonesia/bibliography.htm
近代日本の南方関与〉に関する
戦後日本刊行文献目録
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db/nanpou/
537農NAME:2005/11/01(火) 00:25:00
538農NAME:2005/11/01(火) 22:46:32
国鉄松前線敷設工事の経過と労働の実態

http://school.hiyama.or.jp/esashi/esashisyo/matsumaesen.htm
539農NAME:2005/11/02(水) 17:12:30

http://nindja.exblog.jp/599942/
●日本軍の到着、第2次世界大戦の記憶をかき立てる
540農NAME:2005/11/02(水) 17:37:29
インドネシア建国の父・スカルノ
http://park5.wakwak.com/~asia/sea/sukarno.htm
541農NAME:2005/11/02(水) 18:04:11
オランダ インドネシア独立
http://web.soshisha.com/archives/2005/10/post_45.html
542農NAME:2005/11/02(水) 18:09:30
http://www.hcn.zaq.ne.jp/rukisan/Diary2003.htm
その実家に泊めてもらった時のこと。彼のおじいさんに僕が日本人だというと日本軍が占領していた
頃の話をしてくれた。軍の食料の徴収が厳しくて食べる物が無くなってとても辛かったという話しを
聞きながら果実の女王といわれるドリアンをご馳走になった。それまでうかつにも日本軍がバリ島の
歴史に登場するとは思ってもいなかった。高原とはいえ熱帯の夜の空気は甘くねっとりとした香りをまとわせ、
ドリアンの濃厚な味と舌触りと良い勝負をしていた。
543農NAME:2005/11/04(金) 15:20:20
http://www.ne.jp/asahi/kami/asi-pon/08.html
あえて「被害者としての日本」を語ろう

ふたつの証言

証言1:

「米は供出でみんな持って行かれたそうです。日常の食べ物はジャガ芋の薄いお粥のようなもの。米が再び
食べられるようになったのは、戦後4年ほどしてからだそうです」

証言2:

「食べ物には本当に苦労した。米なんてほとんどないから、大根やらコーリャンの雑炊。いまでは食べられたもん
じゃない。それもちょっぴり。妹とふたりで、おなかが空いた、と泣いたことは一生忘れられない」

 二つの証言の時代と場所を言い当てられるだろうか。証言1は言い伝えだから、若い世代のものということは分かる。
しかしどちらも太平洋戦争中についての話らしい。では、どこの話か?

 正解。証言1は7月10日の留学生文化フォーラムで紹介された日本軍政下のインドネシアの話。証言2は、僕の母親
(1936年生まれ)の戦時中の思い出話だ。「食べ物」に関して、占領地と日本本土でほとんど違いのない記憶があること
がわかる。インドネシアの留学生の話を聞きながら、妙に落ち着かない気分におそわれた。フォーラムにはわりと
年配の日本人が多く、どんな気持ちでこの話を聞いているのか、と思ったからだ。

544農NAME:2005/11/04(金) 15:24:45
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper51.htm
日本の占領は、占領された地域の経済と生活を徹底的に破壊しました。食糧を輸入していたフィリピン、マラヤ、
インドネシア(とくにジャワ島以外)は、日本軍による収奪とジュート・綿花など非食糧作物の栽培の強制、輸入の
途絶などにょり飢餓状態におちいりました。米の豊富であったベトナムですら多数の餓死者を出しました。すなわち、
日本は資源を奪うだけだったため、ゴム・砂糖・タバコなどの作物は輸出の道をとざされ、大打撃をうけました。
工業製品の輸入はとだえ、そのため工業製品は著しく不足しました。その上日本軍は、数々の残虐行為をおこないました。
 こうした日本の占領は、民衆を抗日へと追いやりました。日本は、連合軍の反撃とともに、各国から起こって
きた抗日運動によって、東南アジアから追い出されることになるのです。
 インドネシアのあるジャ−ナリストの言葉で、稿を終えたいと思います。
545農NAME:2005/11/04(金) 15:31:34
http://www.ipc.hokusei.ac.jp/~z00323/classes/history/topics/war/textbooks/asianwar/
アジアの教科書に書かれた日本の戦争

<東南アジア編>

越田 稜 編 著ー梨の木社

546農NAME:2005/11/04(金) 15:35:38
http://www.zenshin.org/f_zenshin/f_back_no03/f2117.htm
ロームシャ虐待
 とりわけ石油などの資源開発・工事への労働力供出のための強制徴用が組織的かつ大規模に行われた。
その数は410万人にものぼった。彼らは日本軍や日本企業によって炎天下での長時間労働を強いられ、
食事もろくに与えられなかった。過労や栄養失調で倒れても、治療されず、逆に殴られ、そのまま放置
されて死んでいく者が絶えなかった。「ロームシャ」という日本語は、日帝の残虐な仕打ちを記憶にとどめる言葉として残っている。
 また、日本軍への直接的な労働力供出として兵補(日本軍に組み込まれた補助兵)が組織された。
43年4月から日帝敗戦まで4〜5万人にのぼる兵補が、雑役や炊事から軍事工事に従事させられ、
さらには前線へ送られ、犠牲を強いられた。
 また、拉致、監禁、強姦が横行し、軍隊慰安婦とされた女性も多数存在した。
 一方、日本軍は米の供出制度を強化し、収穫量の10〜30%の供出を強制した。奉仕動員や労務者徴用などにより、
農村人口と農業生産は年々は減少した。日本軍の軍政下、農村は疲弊し、農民は極度に貧窮化し、餓死者が続出した。
 こうした中で、日本軍に対する農民の不満と怒りが高まり、ついに44年2月、西部ジャワの農村におけるシンガパルナ
事件が爆発する。2500人余の農民がヤリや刀で武装して抗日反乱に蜂起した。この闘いは日本軍によって
鎮圧されたが、その後も各地で労務者の徴用、食糧供出の強制、政治活動の禁止などに反対する闘いが続いた。
 44年7月、本土防衛の最重要基地とされたサイパン島が陥落。日帝の敗戦が決定的となる中で、東条英機が
首相を辞任。代わって小磯国昭が就任した。小磯は同年9月、インドネシアにも独立を許容するという声明を出し、懐柔を図った。
 しかし逆にインドネシア人民は、義勇軍に組織されていた青年などを中心に、独立への気運を高めていく。
45年2月、東部ジャワなどで即時独立を呼びかけて日本軍への反乱が開始され、それを契機にインドネシア各地で
独立に向けた闘いは押しとどめがたいものとなっていった。
 そして日帝敗戦後の8月17日、インドネシア人民は独立を宣言したのである。
547農NAME:2005/11/04(金) 15:37:56
2.アジア太平洋戦争の人的被害(死亡者数を中心に)


 次の数字は、文京二中の生徒が大使館などから取材したものです。

中国・・・死者:軍人・ゲリラ321万人、一般市民1000万人以上、
  計1321万人。
朝鮮・・・戦死・不明15万人、強制連行70万人、戦犯148人うち
  23人処刑(B・C級戦犯)
ベトナム・・・1944−45年200万人餓死、革命家など2000
  人虐殺、全体で人口の7分の1の割合で死亡。
インドネシア・・・餓死者10万人(正確な数字は不明)
フィリピン・・・死者:軍人2万人、ゲリラ2万9621人、
  計4万9621人。
インド・・・数字まで取材できず。
シンガポール・・・一般市民約8万人死亡。
ビルマ・・・数万人が死亡(正確な数字は不明)
セイロン・・・日本軍機が精神病院に投弾。
ラオス・・・正確な数字は不明。
カンボジア・・・取材できず。 
ニュージーランド・・・死者:軍人11625人。
オーストラリア・・・取材できず

東アジア地域総計 1298万人

日本(外地、沖縄を含まず)・・・死者:軍人・軍属155万5308
  人、市民29万9485人、死者数計185万4793人、負傷不
  明67万8232人

548農NAME:2005/11/04(金) 16:10:44
『大東亜戦争とインドネシア―日本の軍政―』

http://www.janjan.jp/book_review/0510/0510270400/1.php
549農NAME:2005/11/04(金) 16:33:57
日本語資料部所蔵シンガポール歴史資料書誌目録
http://www.lib.nus.edu.sg/jlb/jsh/
550農NAME:2005/11/04(金) 19:00:24
メラネシアで考える
http://www.geocities.co.jp/tnog0415/column1.htm

「パプア・ニューギニア」の歴史教科書から「つくる会」の検定教科書問題を考える
551農NAME:2005/11/04(金) 19:08:21
「なにしろ タイの元首相・ククリット・プラモード氏は こう言っている」

「日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。 日本と言うお母さんは難産して母体をそこなったが、
生まれた子供は すくすくと育っている。今日、東南アジア諸国が、米・英と対等に話が できるのは一体誰の
お陰であるのか。それは身を殺して仁をなした 日本と言うお母さんがあったためである」

「インドネシア 元中将・官房長官・第三副首相 アラムシャ氏」

「我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年にわたり、幾度か屍山血河の闘争を試みたが、
オランダの狡知な スパイ網と、強靭な武力と過酷な法律によって、圧倒され壊滅されてしまった。それを日本軍が
到来するや、たちまちにしてオランダの 鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が欣喜雀躍し、感緬謝感激した のは当然である。」

「マレーシア 元上院議員 ラジャー・ダト・ノンチック氏」

「先日、この国に来られた日本のある学校の教師は「日本軍はマレー人を 虐殺したに違いない。その事実を調べに
きたのだ」と言っていました。 私は驚きました。「日本軍はマレー人を一人も殺してません」 日本軍が殺したのは
戦闘で戦ったイギリス軍や、そのイギリス軍に 協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。そして日本の将兵も血を流した。」

↑出展は?

552農NAME:2005/11/04(金) 19:23:52
http://www.jyunrei.net/jyunrei95j5.htm
またマレーシアの経済発展の影に、環境破壊が深刻な問題として浮上して来ている。木材の伐採、有毒廃棄物等がそれで、
政府の政策そのものが、そのことと深く関わっている。表面的に様々な規制は在るが、実際は外国の投資を優先させる
政策の結果が問題の根本である。しかしマレーシアの人口60%が25歳以下の若い国であり、そういう意味で将来性に
富む国でもある」と語り彼の話を結んだ。日本軍がマレーシアを侵略した時、日本軍はマレー人優位政策を取り、
中国系マレー人を支配した。ラティフ教授の話も、そうした歴史の一端をうかがわせる話になったような気がした。

午後より2名の戦争体験者の話を聞いた。フォン氏(69歳)中国系マレー人「第二次世界大戦が始まるまで、
戦争の事を良く知らなかった。街が爆撃を受け、初めてその恐ろしさを知った。日本軍が街を支配して略奪、強姦を
繰り広げた。そして抗日組織を絶滅させるため、密告が奨励され、密告された人々は見せしめの首吊りにかけられたりした。
食料が欠乏し、栄養失調のため、人々の間に脚気等の病気が蔓延した。更に従軍慰安婦にされた人々の悲劇は、
計り知ることができなかった。既に戦後50年を経、戦後経済大国になった日本へ、若し可能であれば、世界中に
病院を作ってもらいたい」と言って話を終えた。他の一人は、かなりお歳を召していて、一生懸命話しをしてくれたのだが、
良く理解する事ができなかった。しかし「慰霊塔を見るたび、いまでも非常に悲しく寂しい思いにかられる」と語った顔が強く印象に残った。

2人とも個人的な事に触れなかった。それは個人的に受けた悲劇があまりにも大きかった時、人間は二度と思い
出したくないし、思い出して語る事に耐えれないのだ。50年たって尚この人々の心が癒されていない証左でもあろうか。
しかし一体この人々の心が癒される日が来るのだろうか。日本人の血を受けた僧侶として、この事を切に祈らねばならないし、
この50年、日本人及び日本政府のアジアの人々への対応が大きな原因となっている事を、この度、この巡礼の準備に約1年半、
アジア各国の人々と連絡を取り実際に話し合い、巡礼が中止になったシンガポール、マレーシアの慰霊碑を一人で巡る事に
よって知ることがでた。
553農NAME:2005/11/04(金) 19:27:33
http://www31.ocn.ne.jp/~hinode_kogei/antigo83.html
インドネシア人が日本軍の到来を歓迎したのは本当である。ただし、最初のうちだけで、後半は抗日的気分が高まったようだ。
実際、日本軍は労働力確保のために農村から人民を徴発し、ジャワ島だけでも30万人がほとんど強制的に動員され、
そのうち7万人が命を落としている。さらに働き手を奪われた農村は疲弊した。「日本軍政下のアジア」(小林英夫 岩波書店)
に紹介されている、「日本占領下のジャワ農村の変容」(倉沢愛子)の資料によれば、日本軍が占領する前の、
籾、とうもろこし・キャッサバの生産指数を100とした場合、45年にはそれぞれ66・45・38となってしまった。何が「身を殺して
仁をなし」だ。身を殺してまで日本軍に従属したのはアジアの民衆ではないか。

 マレー人は一人も死んでない、か。例の泰面鉄道建設にマレー人も駆り出されてるんだけどなぁ。何人亡くなったか
資料をもってないので詳しくは知らないのだけど。それに、中国系の抗日ゲリラだけでなく、何万人にも
のぼる多数の華僑、マレー系華人を「抗日的」との理由で虐殺してるんだけどねぇ。それとも華僑はマレー人
じゃないのか?しかも例によってマレー半島でも強姦が相次いだようで、これは当時の日本の貴族院でも
戦地強姦罪の審議の中で採りあげられている。


554農NAME:2005/11/05(土) 01:36:49
チェルボン 朝鮮人軍属
555農NAME:2005/11/05(土) 12:47:53
http://idler2.exblog.jp/2872364#2872364_1
「ブンガワン・ソロ」 (インドネシア)

若い方は憶えて居られないとは思いますが、懐かしいので旧い記事ですがこんなのがありましたのでお目汚しを・・・・

2004年11月4日 (じゃかるた新聞掲載 )
日イ友好のシンボルに クロンチョンの名曲
 「ブンガワン・ソロ」
 作曲者グサン・マルトハルトノ氏

 戦前から歌い継がれているクロンチョンの名曲「ブンガワン・ソロ」の作詞・作曲者として知られる
グサン・マルトハルトノさん(八七)が一日、中部ジャワ州の古都ソロからジャカルタを訪れ、全作品の
歌詞や楽譜、歌の背景などを編さんした豪華本「国民的作曲家シリーズ第一巻・グサン」の出版記念会に
出席した。日本人にも古き良き南国歌謡として、愛されてきたブンガワン・ソロだが、時代とともにそのような
イメージも変わりつつある。グサンさんは「若い世代の日本人にも、日イ友好のシンボルとしてブンガワン・ソロ
を歌い継いでほしい」と期待する。先月八十七歳の誕生日を迎えたばかりのグサンさんに近況を聞いた。

 「ソロから出ることもなくなり、ジャカルタに来るのは数年ぶり。年だから、体が言うことをきかない。
でも毎朝午前四時半に起床し、お祈りの後、家の回りを散歩するのが日課。杖も使わずに一人で歩ける」

 
556農NAME:2005/11/05(土) 19:22:58
http://www.asahi.ph/miki/ireisai.htm
第二次大戦末期のフィリピン国ルソン島バタンガスでは日本軍により実に1万3千人ものフィリピン人の住民が虐殺されました。
なかでもリパのバランガイ・ ルンバンでは地元住民の女性・子供に至るまで約1600人が虐殺され、谷川に投げ捨てられました。
住民の遺骨は、終戦後、村の一角に埋葬され、縁故者によりささやかな慰霊碑と簡素な慰霊堂によって守護されてきました。
 荒廃著しかったこの慰霊碑と慰霊堂を、横浜を拠点とする日比の戦後を考える会が、ルンバンの人々の協力のもとに修復し、
二体のエンジェルを寄進して、1992年2月に初めて日比両国人参加による慰霊祭が行われました。爾来、毎年その慰霊祭が
行われてきたのですが、戦後五十周年を迎えるにあたり、前出の日比の戦後を考える会(横浜支部代表大畑さく)及び
比日文化協会会長三木睦彦氏の、募金活動により、世界平和祈念塔が建立され、1995年8月30日にその竣工除幕式が催されました。
 今年はこの祈念塔の竣工から七周年を迎え、下記の趣旨による感謝祭、世界平和祈念祭、そして慰霊祭が行われる予定です。
557農NAME:2005/11/05(土) 22:18:43
ポンペイ(ポナペ)島情報
http://www2f.biglobe.ne.jp/~nesos/pohnpei/9610main.html
3)ポンペイの人々は、のんびり、おおらかで親日的

「南の島の人が、のんびり、おおらか」って当たり前じゃないか、と思われるかもしれない。しかし、よく見るとヤップ、
チューク(旧トラック)、ポンペイ、マジュロと、それぞれ島が違えば、言葉も違い、顔も違えば、おおらかさも違う。
ポンペイの人は、本当におおらかで、争い事を好まず、のんびりしている。

日本統治時代のなごりと言われるが、道で人に会うと、日本人のように軽く会釈する。また「反日感情」という言葉を良く
耳にするが、(たしかにポンペイにも個人的にそういう人もいるにはいるが)総じてポンペイの人々は、日本人が好きで親日的だ。

558農NAME:2005/11/05(土) 22:47:13
http://www.jcint.co.jp/pohnpei/pohnpei.html
ポナペ語は米国統治以来英語が普及。日本統治時代の日本語、ポナペ語と3ヶ国語を話す人も多い。60歳代の人は
日本語を理解し、70歳代の人は会話、読み書き、
流行歌や軍歌を好み、大和魂について語る。
ポナペ語は日本語と同じく敬語や作法がある。目上の人の前を横切るときは頭を下げて片手を前に出すなどの作法と礼儀を重んじる。
ミクロネシア諸島でポナペは親日的である。戦時中米軍攻撃がなく破壊されずにすんだことと日本統治時代は豊かであったことにある。
またその年代の人は日本を内地と称する人が多い。
559農NAME:2005/11/05(土) 22:55:09
http://www.magazine9.jp/60th/nishimuta/
去年までの4年ほど、朝鮮半島、サハリン、台湾、中国東北部、ミクロネシアといった終戦前後まで日本が統治
していた国・地域を取材した。
 各地で日本語教育を受けた方々から、それぞれの戦争体験を聞いたのだが、僕が旅の過程でお会いした戦争経験者
たちは、かつての日本のやったことや日本のあり方について肯定する人、否定する人と意見はさまざまだった。
だが戦争のつらさ、悲惨さを身にしみて実感しているからか、厭戦の気持ちでだいたい一致していた。
560農NAME:2005/11/05(土) 23:06:16
「ヤップ島−ミクロネシア最後の秘境」 小林正典
http://www.jpnclubguam.org/member/m040107.htm
561農NAME:2005/11/06(日) 01:03:59
562農NAME:2005/11/06(日) 17:05:13
「夢は赤道に−南洋に雄飛した土佐の男の物語」
高知新聞社編・B6判・1998年3月刊・定価2,100円
http://www.kochi-sk.co.jp/book/zin_rekisi/sekido/top.htm
563農NAME:2005/11/06(日) 17:13:56
http://why.kenji.ne.jp/review/review303.html
このように、南洋興発は、松江春次を中心に事業を展開し、つい
に南洋諸島で製糖業を定着した。南洋興発がひいた製糖業の発展は、
内南洋の税収を増やし、昭和7年には南洋庁は台湾総督府に次いで
財政独立を獲得した。

 南洋興発は、製糖業で得た利益を、南洋の拓殖事業に注入。酒造
業、鉱業、水産業、農業、運輸と、業種は拡大。サイパン・テニア
ン・ロタでは総面積の七割を官有化、甘蔗畑に一変させるなど、独
占も目立ってくる。その結果、傍系企業20数社、社員は4万8,000
人を抱えるまでになった。後に、南洋興発は「海の満鉄」といわれ、
国家的使命を持った会社となっていく。
564農NAME:2005/11/06(日) 18:16:51
http://home.e08.itscom.net/21water/rabaul.htm
ラバウルの人たちには日本人と暮らした経験から日本的な生活様式が残っている。たとえば、話しをしていても、
常に話し相手の意図を先回りして推測・理解しようとする。とは、ツアーガイドさんの解説だったが、私が話し
かけるちょっとしたことでも、すぐに、そのことがわかった。日本人同士の会話と同様スムーズなのだ。いままで、
日本語だから会話が楽だと思っていたのだが、彼らとの英語混じり(ピジンイングリッシュという英単語起源の
自然発生語)の会話ででもスムーズなのは、全部を事細かに言わなくても相互理解が可能となる、日本的会話だったからだろう。
565農NAME:2005/11/06(日) 18:22:59
http://speedbird.air-nifty.com/speedbird911/2004/10/
『世界ウルルン滞在記』のスペシャル版を見た。太平洋戦争中、日本に統治されていたラバウルの学校で、
日本語教育をうけたトライ族の老人の話。75才になった今でも片言の日本語を話し、さまざまな唱歌を記憶している。
以前放送された、若手俳優がこのじいさんを訪ねた一編はかなりの反響があったらしい。ネットを検索しても、
「日本は良いこともやった」「良い日本兵も多かった」という論調の感想が多く目についた。まあ今日的ではある。
真面目に論評しても仕方がないが、あの戦争における「八紘一宇」のドグマを冷静にふり返ることをしない若い人
が増えていることに対して、困惑せざるを得ない。そりゃアジア解放という側面だけみれば実に痛快であるし、
日本人として気持ちはよいけれどね。

566農NAME:2005/11/06(日) 23:09:16
http://homepage2.nifty.com/socialist-consort/mythought/HistoryTruth05.html
戦争犠牲者
 戦争の犠牲者全体の数について日本の歴史教科書は次のように記述している。
 「日本がおこした侵略戦争で,中国では1,000万人、東南アジア全体で1,800万人の犠牲者が出たといわれる。
日本人も300万人以上が生命を失い,はかりしれない深い傷あとを残した (shimizu 1986, p.283)。
 中国の中学教科書では次のようになっている。
 「中国人民は世界の反ファシズム戦争の勝利に村して多大な貢献をしたが、また、民族としてのきわめて大きな
犠牲も払ったのである。」(China 1992, p.1048)
 犠牲者数については本文に記述が無く、付図のなかに「軍と人民の死傷者 3500万人」とあるだけである。
戦闘員と非戦闘員を区別していないだけでなく、死者でなく「死傷者」としている。中国側の発表した数については次の指摘がある。
 「日中戦争における中国の人的被害は、何応欽軍政部長が終戦直後の東京裁判で出した数字だと軍人が
約320万で、民間人は不明です。20年以上経ってから何応欽は、両方合わせて570万人ぐらいと言っています。
 その後、中華人民共和国になってどんどん増え始め、2,168万人がしばらく中国の公定数字になる。一応それには
軍と民、死者と負傷者の内訳があり、北京の軍事博物館や慮溝橋の博物館などの壁に大きく
書かれていました。ところが、1995年の第二次大戦終結50周年の折、江沢民がモスクワで突然 3,500万と
いう数字を言い出し、一挙に1,400万人も増えました。」(Hata 2003)
 日本の教科書の犠牲者(死者)1,000万人は、「慮溝椅の「中国人民抗日戦争記念館」に日中戦争での
中国人死者932万をふくむ被害者2169万人と掲記されていた」(Hata 2001, p.35)ものと余りかけ離れていない。
しかし、日本の教科書で「犠牲者が出たといわれる。」と記述されているように、犠牲者数の確定は困難である。
しかし、他国に大きな損害を及ぼしたの であるから、「いわれる」ではなく、数を含めてきちんと認識する必要がある。
567農NAME:2005/11/07(月) 09:05:32
成立40周年を9月に迎えた中国チベット自治区は、中国政府の
支援を受け目覚しい近代化を遂げている。山間部でも電化生活が
当たり前に。区都ラサは携帯電話やパソコンが普及し、中国内地
と初めて結ぶ鉄道の開業を控えて建設ラッシュに沸く。「近代化」と
「中国化」の波が押し寄せるなか、チベット人の精神的支柱ともい
えるチベット仏教も大きな曲がり角を迎えている。
┌────────────┐ 電 化 生 活 当 た り 前
│  チベット自治区  中国の│━━━━━━━━━━━━━
├───┐総面積の8分の1を.| 出 稼 ぎ で 漢 族 流 入
│キーワード | 占める。 人口255万|  ラサの東約120`にある標高
├───┘人余 (03年) の9割.| .4200bのゼム村。約760人のチ
│以上がチベット族。 中国政.  | チベット人が麦栽培と牧畜で暮
│府は51年、 人民解放軍を進.│ らす。空き地に太陽光を利用し
│駐させ、 56年、 自治区準備 │ た発電所があり、11枚の大きな
│委員会が発足した。 59年の | パネルが並ぶ。3年前に自治区
│動乱を中国側が武力鎮圧  .│ 政府が300万元(約4200万円)で
│し、 ダライ ・ ラマ14世はイ  | 建設し、45世帯に電気を送る。
│ンドに亡命。 65年に自治区  |  農家のラバさん(33)の石造り
│が成立した。 89年にはラサ .│ の家には電灯が輝いていた。テ
│で独立要求のデモが相次   | レビもある。アンテナがなく放送
│ぎ、 戒厳令が敷かれた。 02.│ は受信できないが、チベット人歌
│年に中国側とダライ ・ ラマ .│ 手のコンサートや中国の時代劇、
│14世の特使との水面下での | 米国のホラー映画などをビデオ
│接触が始まった。       .| CDで楽しむ。以前はバター油や
└────────────┘ ロウソクで明かりをとり、夜9時に
は寝ていたが、セーター編みなどの内職をしながらビデオを見て、夜
12時ごろまで起きている。バター茶も電動の攪拌機でつくるようになった。
568農NAME:2005/11/07(月) 09:07:13
発電所から遠い地区は各世帯が電灯とビデオを賄える程度の小型太陽光発電機を買い、9割の世帯で
電気が使える。遊牧生活の村びともテントに太陽光発電のパネルをつけている。携帯電話も今年8月に開通し、
4人が買ったという。ゲンツェン村長(43)は「国内外のニュースを知りたいという要望が強い。衛星放送
アンテナ設置を政府に求めている」と話した。
 自治区では90年代から国家プロジェクトとして太陽光発電所の建設が進み、自治区内に計400カ所があり、
計14万人に電気を供給している。
 自治区の昨年の域内総生産はこの40年間で約19倍増の約212億元(約3千億円)になった。中央政府や
沿岸部の都市などが資金や技術面で支援し、道路や発電所の建設が進められ、農民らへの補助金が支出された。
 国内外の民間投資も増えている。青海省ゴルムド〜ラサ間で建設を進めていた青海チベット鉄道
(青海省西寧〜ラサ)の全線が07年夏に営業運転に入る予定で、ラサではホテルやマンションの建築が
急ピッチで進む。一戸建てがよく売れ、外国車のショールームが林立。インターネットカフェでゲームで遊ぶ
子どもが目立ち、ディスコでは未明まで若者がビールを飲んで楽しんでいる。
 当局発表ではラサの人口は約40万人。年に12万人の韓国客が訪れ、うち92%が北京や上海などからの
中国人だ。四川省など内陸部の農民らの出稼ぎ者も多く、屋台の野菜売りや中華料理店の経営、
タクシー運転手など10万人以上が働いているとされる。漢族の流入は増える一方だ。
<[仏教指導者不足]略-朝日新聞をご購入いただくか、図書館の縮刷版/マイクロフィルム等でお楽しみください。>

569農NAME:2005/11/07(月) 09:47:18
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/sougou/japan.html
続・重光葵手記

 然し俘虜及敵国人に対する日本人の考え方は日露戦争当時の考え方とは全然異なつた方向にあつた。軍及右翼を
中心とする思想の動き方は戦争前、特に満州事件前後より急激に反動的となり、「日本精神」「皇軍思想」は無意味なる
優越感となり、外国軽侮となって居った。底(低)劣なる唯我独尊、切り捨て御免の思想となり態度となって、支那、南方
に於ける我軍隊の行為は実に言語道断であって、進駐当初は南京でも香港でもシンガポールでもマニラでも虐殺、
殺戮、強盗、掠奪、強姦、暴行、収賄、不正等、殆ど悪魔の軍隊であったのは事実である。日本人が何時如何にして
斯程迄堕落したか殆ど想像も付け得なかった。戦争による一時の昂憤(奮)として片付ける訳には行かぬ。
(略)
 南京に於ては何とかして南京占領当時の罪科を償ふ為め支那に善政を布くことを極力努めた。敵国人の収容所の設備、
待遇等、截然の措置を講ぜしめたのであった。

570農NAME:2005/11/07(月) 10:01:37
571農NAME:2005/11/07(月) 10:07:12
●題  名: 日本占領下のフィリピン・レイテ島、食糧対策を中心に

●発表者: 荒哲(あら・さとし/福島学院短期大学非常勤講師)
http://www.d1.dion.ne.jp/~zmackey/page032.html
572農NAME:2005/11/07(月) 10:54:17
http://www.jrcl.net/web/pk630.html
「慰安所」設置と天皇の政治責任

 関東学院大の林博史教授と明治大学の吉見善明教授が専門家証言に立ち、軍による「慰安所」設置の経緯と
その組織構造、天皇の政治責任について詳しく立証した。
 日本軍の「慰安所」は、まず上海で開設され、一九三七年に中国への侵略戦争が全面化する中で次々に占領地に
作られていった。そして四一年十二月に日本軍はマレー半島に上陸し、四二年五月までに占領地は最大になるが、
ビルマ、インドシナ、マレー半島、インドネシアからソロモン、マーシャル諸島など太平洋の島々に至るまで、占領地域
のほぼすべてに「慰安所」が設置された。
 中国の大都市など、占領支配がある程度安定した地域には、軍の制度化された「慰安所」が置かれた。日本軍への
反感を押さえるため、地元女性への強かんは憲兵によって一定程度、抑制された。こうした「慰安所」には、
朝鮮・台湾など植民地の女性が連れてこられていた。その一方で、八路軍など抗日勢力の強い地域では住民の
虐殺と強かんは放置された。駐屯地の日本軍が地元の女性を拉致して監禁したり、村の幹部に強要して女性を
集めさせた。「慰安所」における性暴力と地元女性への無差別の強かんは平行して存在していた。東南アジアでも、
フク団など抗日ゲリラ勢力が強いフィリピンなどでは後者のタイプが多かった。
 陸軍省や内務省の要請と指示で、知事、警察署長、警察官が動き、女性たちを狩り集め、送り出していた。
天皇は南京における大虐殺や無差別の強かんについてよく知っていた。天皇は統治権の総覧者としての
国家元首であり、軍の統帥権を持っていたために、内閣はきわめて限定された力しか持っていなかった。
一九三七年頃から重要な国策は大本営政府連絡会議で決定されるようになり、さらに御前会議で決定される
ようになっていった。御前会議には国務に権限のない軍令部が出席する一方、閣僚は主要閣僚だけが出席した。
天皇と軍と主要閣僚だけが出席する、憲法にさえ規定のない会議ですべてが決定されていた。

573農NAME:2005/11/07(月) 17:57:07
フランスの戦後補償−モハメッド・ガルヌのケース
http://www.f5.dion.ne.jp/~kimbosi/sub.htm-3
574農NAME:2005/11/07(月) 18:09:06
http://www.saturn.dti.ne.jp/~davidyt/log116.htm
話しがアルジェリアとフランスのエヴィアン協定から離れた。話を戻すと、今度は2002年3月のフランスである。
エヴィアン協定で停戦となり、多くのフランス人がFLNの捕虜になった。今度はアルジェリア側からの復讐である。
日本がフィリピンでやったようにFLNがフランス人の俘虜を取り扱った。「死の行進」である。首都アルジェから100キロも
離れた南の収容所まで歩かせたのだ。先に、フランス兵がアルジェリア独立戦争中に、アルジェリア人の少女達を強姦し、
その責任をフランス国家に問うた訴訟のことを書いた。今年のことである。強姦の結果生まれた子供が勝訴したが、今度は、
「死の行進」をした当時の俘虜がやはりフランス政府にエヴィアン協定違反で補償を求める訴訟を起こした。現存する
FLNを相手取ってもよさそうだが、植民地化したフランスが根源なのだから、フランス国家を訴えたようだ。フランスの
アルジェリア戦争の戦後もまだまだ40年たって終わっていない。

 このことは、ベトナム戦争にもいえることであろうし、また、日本の中国侵略、朝鮮半島植民地についてもいえることで、
40年や50年で「戦後」は終わらないのである。戦後は戦争を忘れるためにあるのではない。しかし、歴史上、数え切れない
ほどの戦争を繰り返してきたフランスとドイツについてみるならば、フランス人はドイツ人が嫌いである、ドイツ人を警戒する、
ドイツ人もフランス人を軟弱だと思っている、けれども現在、お互いを尊重しあい、共栄の道を探るよう努力しているのである。
戦争が終わって急に「あれはなかったことにしよう」などと云ってはいない。不断の努力が、意識がなければまた戦争がいつか始まる。

 韓国兵は今、アフガニスタンの前線に派遣されているそうだ。ベトナムでもそうだった。韓国に「それはやめよう」というのが、
日本外交であるべきで、「まもなく僕たち日本も前線に派兵するから一緒に戦おう」というのが協調外交ではない。
戦友となることが近隣との連帯solidaliteではないのだ。

575農NAME:2005/11/08(火) 00:06:27
インドネシア その人々の歴史 著/スロト 訳/東京外国語名誉教授 伊東定典
http://members.at.infoseek.co.jp/A731/siryou/indonesia-kyoukasyo.html
576農NAME:2005/11/08(火) 00:12:30
シンガポールに関する本を読んで
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/singapore/singa2/literature.htm
577農NAME:2005/11/08(火) 00:15:01
−わが人生に悔いなし−

前編

平岡邦三 (日本軍 戦犯)

http://www.macyobiko.com/hiraoka.htm
578農NAME:2005/11/08(火) 00:19:45
1月2日 ▼承前、鶴見良行『鶴見良行著作集3 アジアとの出会い』。鶴見良行「阿片の匂い」(初出1979.05.)。
【イギリスが植民地主義的膨張の過程で、阿片を悪用したことは、日本でもよく知られている。阿片戦争で中国革命の
最初の幕が開ける。この戦争は、明治維新の指導者に西洋植民地主義の仮借ない手段を自覚させた。/だがイギリスは、
インドで栽培されるケシの実を中国に売りこんだだけではない。マラヤ半島の植民地経営は、実質的に阿片販売の
独占と委託(ファーム制度)によって成り立っていた。〔……〕/こうした土地の内陸部に進出していくためにイギリス
植民地主義が利用したのが、錫鉱山の開発と阿片販売の組合わせである。初期の錫鉱山開発は、ペナンやシンガポールに
定着していた華人資本家が大陸からの華人移民(苦力)を使って行なった。植民地当局は、鉱山の開発権と阿片の
専売権をセットにして入札した。入札者は、錫と阿片の売上げ予想に基づいて、価格を決定した。/だから、
極端な場合は、錫鉱山の赤字を、阿片売上げによって黒字に転化させることさえあった。苦力を大陸から
招き入れれば入れるほど、阿片の売上げは伸びた。/そう気づいてあたりを見まわしてみると、阿片売買は、
オランダのインドネシア、スペインのフィリピン、準独立国家だったタイでも重要な収入源だった。犠牲者となったのは、
いつでも華人移民である。阿片は、アジアの植民地社会に共通な経済的環になっている。】と指摘する鶴見はまた
【ただ判らないのは、なぜ華人だけが阿片吸飲者だったか、ということだ。】と未解決課題も提示している。
関連:丸井清泰作成「鶴見良行著作一覧」〔宮内泰介のページ〕。
http://www.linelabo.com/bk/2003/bk0301a.htm
579農NAME:2005/11/08(火) 12:34:15
http://happy7.poke1.jp/oshita.html
2001年 8月 7日付・朝日新聞に掲載された尾下大造さんの寄稿文)

 昭和16年、中国でのことだ。私は5、6人の先輩とともに敗残兵の討伐に出かけた。日本兵を恐れて、河川敷のヨシの
中に女性や子どもが20人ほど逃げ込んでいた。

 1年先輩の上等兵が突然、軽機関銃を十数発連射した。悲鳴があがった。地獄の光景だった。あまりのことに私は思わず
「何でこんなことを」と叫んだ。上等兵は言った。「むかむかしたでや」

 虐殺、強姦(ごうかん)、放火、強奪は日常的にあった。でたらめだった。せめて自分だけはそういうことはしたくなかった。
東洋平和のためと言われても、私には日本が悪いことをしているとしか思えなかった。表向きはまじめに義務を果たしたが、
内心ではこの戦争を疑っていた。こんな軍隊で勝てるはずがないと思っていた。

 昭和17年、フィリピンのネグロス島に駐屯していたとき、私は上官から住民の一人を殺すよう命じられた。ごつい体つき
の35歳ぐらいの男だった。部下と一緒に男を連れだした。命令だからやらないわけにいかない。「お前やれ」と、とっさに
私は部下に言った。部下は男の胸を突きそこなった。男は川に落ちた。私は銃で男の頭を撃った。

580農NAME:2005/11/08(火) 12:35:38
http://homepage2.nifty.com/asipara/comfortwomen.htm
悪の本質を見極めるために、すべてを悪へと持っていこうとするのはよくない傾向。ビルマ戦線で鉄道敷設の
兵隊だったじいちゃんと知り合ったときも、いわゆる欧米が主張している捕虜虐待の実態とは違った話を
聞くことができた。じいちゃんが自己弁護しているのではなく、背後には文化の違いからくる誤解が
横たわっている事実がうかがえて意味深かったわけだ。
581農NAME:2005/11/08(火) 12:41:00
http://www2s.biglobe.ne.jp/~ajia/gakushu.html
フィリピン・マパニケ村の悲劇
−日本軍の集団レイプと虐殺−

 日本の軍隊がフィリピンに侵略の軍隊を進めていた1944年11月23日、ルソン島マニラ北方のパンパンガ州の
マパニケ村に「抗日ゲリラがいる」と言って、軍隊が襲撃しました。静かな農村の家々に火が放たれ、男たちは
村の学校に集められ、虐殺されました。女たちは、村から数キロ離れた司令部に連行され、一晩にわたって
レイプされました。50年以上たってこの村の被害女性が名のり出て、日本政府を提訴する動きがあります。
現在約90人の女性が生存されています。この被害女性を招いて、証言を聞き、戦争の真実を学ぶ集会を開きました。
582農NAME:2005/11/08(火) 20:02:57
■「大田刑務所1800人虐殺」の写真
http://rerere.zive.net/res/up/source/up5167.jpg
■大田刑務所政治犯1800名集団処刑…米秘密文書確認(東亜日報)
※つまり収監されていたのは済州島民
http://web.archive.org/web/20030608083415/http://page.freett.com/eastasia/topic/taejun.htm#don000106
■その他の虐殺の数々
1950年 保導連盟事件   300000人死亡
1951年 国民防衛軍事件  100000人死亡
1948年 済州島「4.3事件」 30000人死亡
1951年 居昌事件      8500人死亡

↓↓↓↓↓↓↓50年後↓↓↓↓↓↓↓↓

■韓国戦争で虐殺された民間人の死体が発掘
28日午後、慶尚南道(キョンサンナムド)馬山市鎮田面ヨ陽里(マサンシ・チンジョンミョン・ヨヤンリ)にあるサンテゴル廃坑の近くで、
韓国戦争(1950〜1952)時に虐殺された民間人の死体が、銃に撃たれて倒れた格好を思わせる生々しい姿で発掘された。
http://japanese.joins.com/ui/images/200405/0528_han_02.jpg
583農NAME:2005/11/08(火) 22:40:22
http://www.soutokuhu.com/bbs/test/read.cgi?bbs=asia&key=1079515536&ls=50
 補足です(訂正とお詫び含む) 】
参考:軍紳政権 軍閥支配下の中国 ジェローム・チェン著
__:北村稔・岩井茂樹・江田憲治訳 岩波書店
参考:中国近代の 軍閥列伝 辛倍林著 上田正一監訳 学陽書房

{女工の話を探し出せない。弁髪部隊の可能性がある。
亡命ロシア軍の残虐は他にあるので参考に。}
軍閥列伝p333 極悪非道の狗肉将軍 張宗昌(山東督軍)の章
徐州以南地区で・・・孫伝芳の部隊・・・白系ロシア人部隊に包囲され、捕虜にされてから、
目をえぐり出され、鼻と耳をそぎ落とされ、心臓と肝臓を摘出されて全員殺害された。
孫伝芳の大部隊が到着した時、白系ロシア人部隊は、皆片手にブランデーの瓶を持ち、
・・・ブランデーを呷(あお)りながら半裸体で突撃し、獣のようにつっこんで来た。
孫伝芳の部隊は・・多数殺され・・・支えきれず・・・退却した。
・・・気違いのような攻撃に・・・孫伝芳軍は大砲と機関銃を集めて集中砲火を浴びせ、
一度に・・・800名以上を殺傷したので、
彼等は「はじめて」酔いが覚め、武器を棄てて逃げ出した。
註:ロシア人ってヤッパ野蛮人だあ。
p336 彼の一番寵愛していた七番目の妾は省公署の印を掌握しており、
その権限は(山東)省長を超越し、
すべての公文書は彼女の同意がなければ処理出来なかった。
p337 なお白昼公然と婦女を掠奪、陵辱した。・・・七番目の妾は
テリヤを一匹買うのに3000元、真珠をちりばめた靴・・・5000元使った。
彼は3つの知らないことがあるといわれた。すなわち、
「兵隊が何人いるか知らない。金がいくらあるかを知らない。妾が何人いるか知らない。」
584農NAME:2005/11/09(水) 01:25:44
アジアに生きる大東亜戦争−現地ドキュメント
ASEANセンター 編

http://www.mmjp.or.jp/jst/index/jst04625.htm

「日本軍がタイに上陸した朝、父(日本人)は突然軍服に着替えました」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5383/2003annai.html

 
585農NAME:2005/11/09(水) 13:15:27
http://www.ayeyarwady.com/ph_essay/essay2.htm
山の町の日本語学校

彼が十歳、一九四二年にそのサガインにも日本軍がやってくる。
「日本人は自分たちと同じ仏教徒だから、よい人ばかりだと信じていました。実際に日本人と会うと、
親切な人も多かったんですが、お坊さんをなぐったり女性を引っぱっていった軍人もいました。」
ビルマでは僧侶は非常に尊敬されていて、いくら戦時中でもなぐるなど想像すらできないことだ。それを、
仏教徒のはずの日本人がしていたという。
「でも、嫌いだという感情はなかったです。友達になった人もたくさんいました。」
子供好きの軍人との個人的交流が彼の心をときほぐしたようだ。そして、彼は日本語学校に入学することに
なった。ビルマでは終戦までに五十数校の日本語学校が設立された。入学は志願制であった。
その学校を卒業した後、通訳としてある部隊と一緒に行動することになる。そこの部隊長は子供が大好きで、
非常にかわいがってもらったという。しかし、途中でマラリアにかかってしまったため、
その部隊と分かれる。終戦となったのはその後であった。

586農NAME:2005/11/09(水) 18:41:05
正論 11月号
引揚民間人を襲った略奪・暴行・殺戮の嵐
(一部抜粋)
「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、
 今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。
 北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、
 辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。
 そこで見たものは、日本人の娘達が次々にまずソ連兵に犯され、
 ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々に辱められたうえ、
 虐殺されている光景であった。
         (中略)
「吉州や端川の海岸線にでた人たちに対する
 ソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と暴行は、残酷をきわめた。
 夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、17になる娘を父親からひったくるように連行。
 娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。
 みなソ連兵を朝鮮人が案内したのだった。
 部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、金や着物や米などが取り上げられた。
 靴の底や、女の髪のなかから金を探し出すのはふつう。
 一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。
 城津での惨状は言語に絶した。(中略)朝鮮人の男女が数十人の団体でおしかけ、
 干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、
 あげくは婦人の“提供”を要求されたという」
          (中略)
587農NAME:2005/11/09(水) 18:42:04

博多港から車で40分ほどの二日市温泉郷につくられたのが、「二日市保養所」である。
強姦によって妊娠させられた女性たちには、堕胎手術が施された。
また、性病に感染した女性たちにについても、匿って回復するまで治療が行われた。
昭和21年の春、堕胎のための専門病院設立のきっかけになる出来事があった。
医療救護に従事していた医師・田中正四は、港で引揚船から降りてきた教え子と再会した。
         (中略)
京城女子師範を卒業して朝鮮北部の田舎の学校に赴任していた彼女は、
進駐してきたソ連兵に暴行されたのだ。
しかも一度では済まず、相手も変わった。
兵隊同士が情報交換をしていて、部隊の移動のたびに新しい兵隊に襲われたのである。
救療部の関係者は悩んだあげく堕胎手術に踏み切った。
医療設備や技術の不備、そして何よりも、当時は堕胎を禁ずる法律があったからである。
しかし手術は失敗し、娘は命を落としたのである。
「二日市保養所」の産婦人科部長だった橋爪医師の証言が、『水子の譜』に収録されている。
同医師が昭和21年6月10日付で救療部に提出した報告書によれば、
強姦の加害者は朝鮮人が最も多く、次いでソ連人、中国人、アメリカ人、
そして台湾人、フィリピン人も登場する。
         (中略)
中絶された胎児は、黄色人種もあれば、白人の子もいた
588農NAME:2005/11/09(水) 22:57:26
http://www.nsleloi.co.jp/sino-vietnamse_war.htm
香港Kingsway International Publications Ltd発行(1981年)

1979年の中越戦争について、中国側の視点による写真集。中越戦争前夜、中国軍とヴェトナム軍の力量比較、
戦争の真実の記録、3つの作戦、反響、歴史の教訓の全6章に分類。

589農NAME:2005/11/10(木) 21:42:30
「 父 の ニ ュ ー ギ ニ ア 戦記 」

http://www.kamou.co.jp/senki/SENKI1.html
590農NAME:2005/11/10(木) 22:40:07
日本占領下のフィリピンにおける演劇 ―アートから受け取る人々の記憶
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/kidlat/soturon/ogiya.pdf
591農NAME:2005/11/10(木) 22:58:39
http://www.kitaweb.com/fukurou/kos/1.html
次にお寿司。
ミクロネシアは日本統治時代があったので 日本食らしきものが
多数、家庭料理として残っています。青いパパイヤを使ってすき焼き擬き・・・
呼び名もSUKIYAKI・・・・、お刺身・・・呼び名もSASHIMI・・・・、
たくあん・・・・TAKUAN・・・・漬け物・・・・TSUKEMONO・・・・そして
寿司・・・勿論、呼称はSUSHI・・・など 日本食擬きは殆どが
そのままの名前で普及しているんです。
592農NAME:2005/11/10(木) 22:59:50
http://www.gokaiclub.com/suenaga/0406.html
南国通信 楽園からのらくがき 豪海倶楽部

チューク諸島の海から

593農NAME:2005/11/10(木) 23:04:52
http://homepage1.nifty.com/jh7bzr/dx_op/v63ia.html
ポンペイのタクシーは、基本的に相乗りです。お役所からの帰りに、タクシーでホテルへ向かっていると、道を歩いていた現地の
年配の方を、相乗りさせました。 「どっから来んさったかのう?」と、広島弁で尋ねられ、友人と二人でびっくりしてしまいました。
「日本の時代はいい時代だった。アメリカさんになってからは全然」との事で、日本統治時代の、町がにぎわっている様子を語ってくれました。
 観光ぐらいしか産業のない国ですから、経済的には大変でしょうが、あののんびりとした雰囲気は、非常に心が休まります。
"The Village" のウオーターベッドの上に、また寝転がりたくなりました。
594農NAME:2005/11/11(金) 11:32:12
http://tseiso.hp.infoseek.co.jp/ml/c3_rabauru.html
『 木の葉を、食べましたよ。お正月が、一回あったね(昭和20年と思われる) 。特別な支給があったんだけど、
乾パンが7つと金平糖が3個か4個だけだったんだよ。ほとんど、毎日重湯のようなものばかりだったんだ。トカゲやネズミも、
食べたね。棒でたたき殺してね、火で焼いて食べたね。そりゃあ、皮をむいて食べたよ。いくらなんでも毛の部分はね、
食べられないからね。大きさね。日本のものと同じだよ。黒いねずみだよ。台風も来ないし、井戸を掘ると水はあるんですよ。
畑を、作りましたね。かぼちゃを作っていたんだけど、夜に盗まれるんだよね。 銃を持った不寝番が、立つんだよ。見つけ
次第射殺してよいということになったんだけど、相手は同じ兵隊だからね。撃ち殺された兵隊が、幾人もいたよ。私が
不寝番にたった時にも、盗みにきた兵隊がいたよ。よぼよぼの兵隊が、一人で来たよ。同じ兵隊だからね。撃ち殺す気
にはなれず、通報して捕まえられたんだ。その兵隊はやしの木に一週間も縛り付けられてね、見せしめだよね。
そのまま死んだよ。』 ・・・・ 池下四郎氏。

 盗難に対する私刑、つまり軍法会議によらない処刑が行われていたことは事実だった。絶食や吊るし首・絞り殺しも
行われていた。メレヨン島の悲劇は、食糧不足だけでなかった。軍隊だから当然としても、将校が絶対権限を持ち、
下士官兵に平等な食糧を与えなかった。メレヨンでは、将校の生還率は67パーセントで兵士の18パーセントに
比べてはるかに高い。将校は、三分の二以上が生還しているわけだ。結果的に、乏しい食料を将校が独占したことに
なる。自活のため僅かに開墾したこのような畑は部隊ごとに管理され、作物を盗む者は射殺してよかった。飢えに
耐えかねた兵は、殺されるのを覚悟で盗んだ。捕まった兵は見せしめのため、椰子の木に縛り付けられ放置された。
595農NAME:2005/11/11(金) 11:45:29
戦争とは双方の軍隊が華々しく戦闘をまじえ、勝った方がいろいろな要求をして自分の権益を守る確約をさせて
終戦になると教え込まれ、自分もそう思い込んでいた。だが「従事した現実の戦争は、まともに食糧を持たず、
部落から部落を襲って歩く強盗、火つけ、強姦集団でしかなかった」。その人は、フィリピンで大隊長の命令で
捕虜をひとり射殺したことはあるが、他の兵士がふつうにやっていた虐殺にも強姦にも、中国兵を食人した行為
にも加わってはいない。だからといって「わしに罪がないということにはならない」。
http://thor.prohosting.com/esashib/fukasaku07.htm
596農NAME:2005/11/11(金) 18:31:16
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nhabu/kotoba0204.html
−人権NGOの見方                  
 このことに関して朝日新聞に東ティモールの人権NGOの方の
投稿が掲載されました。彼は次のように言っています。    
 「日本の軍隊が東ティモールの中心都市ディリに侵攻したのは
42年3月20日のことである。この日から3年半の間,東ティ
モールに人々は日本軍の占領下で辛酸をなめさせられることにな
る。東ティモール人も日本の人々も,多くはこの歴史的事実を知
らない。(略)しかし,歴史にふたはできない。東ティモールに
は,防空壕や道路,軍の宿舎跡など日本軍の残したものがまだ残
っている。これらを作るために多くの人々が労働を強いられ,拷
問を受け,死んでいった。東ティモール人女性がこの営舎に閉じ
こめられ,「従軍慰安婦」にさせられた。これらロームシャやイ
アンフの体験を持つ人々は今もたくさん生存している。これら歴
史的事実に対する日本政府の謝罪や,犠牲者への正義の回復は、
いまだに行われていない。インドネシア国軍は東ティモールの人
々を拷問しレイプした。過去の日本軍も同じように東ティモール
の人々を抑圧した。期間が長いか短いかの違いだ。にもかかわら
ず,インドネシア国軍に対しては各界が非難し,日本に対しては
,3月から始まった自衛隊の国連平和維持活動参加を支持してい
る。(略)日本がすべきことは,過去の犠牲者を苦しめる自衛隊
派遣ではない。謝罪にもとづきその政治力と経済力をインドネシ
アと東ティモールの関係正常化を目指す外交努力に向けてくれる
ことだ。」                
597農NAME:2005/11/11(金) 18:45:56
http://blog.livedoor.jp/kabosu3/
NHKのBS1が見たい〜フィリピンの対日協力者〜平成17年8月15日夜10時10分から放送されたNHKの
「60年目の対話〜フィリピン・裁かれた対日協力者たち」という番組を見ました。
面白かった。
フィリピンでは大東亜戦争時、非常に多くの死者が出ている。
日本人で45万〜52万人以上、フィリピン人はその倍以上の110万人(?)が亡くなったとされている。
598農NAME:2005/11/11(金) 18:57:16
599農NAME:2005/11/12(土) 00:32:01
『壮烈!ビルマ・インパール』
http://www.mekong.ne.jp/books/daitoua-war/030701.htm
600農NAME:2005/11/12(土) 22:06:38
10月19日 15頁  悲劇を淡々と証言(ジョン・ムーア、書評)
◆〔マリア・ロサ・ヘンソン著『慰安婦・・フィリピン人女性が語る日本軍占領下の売春と奴隷化』の書評〕
 日本軍が第二次世界大戦中に犯した残虐行為についての証言が、また1つ加わった。著者ヘンソンは、自分が受けた9箇月の
苦難・・14歳のとき、(日本軍の部隊に監禁され)1日に30回も強姦された・・を淡々と語っている。
 ヘンソンは、名乗り出た最初のフィリピン人性奴隷である。ヘンソンが名乗り出たことで勇気を得た何十人かのフィリピン人
女性が、ヘンソンに続いて名乗り出た。これらの女性は、支援団体とともに(日本政府に対して謝罪・補償を求めて)活動している。
 性奴隷たちの運動は、性奴隷個人には利益をもたらしていないようである。性奴隷たちの運動は、ただ、日本に恥の上塗り
をさせるのに成功しただけである。
 日本軍の蛮行を否定しようとする者は、すべての証言者が死に絶えることを願っているようである。しかし、1997年に死去
したヘンソンの証言は今も生きている。
http://www.jiyuu-shikan.org/oversea/05/058/jtimes.htm
601農NAME:2005/11/12(土) 22:09:25
そして北朝鮮へも多勢の移民団が「自由意志」で渡航しております。北朝鮮からの情報はほとんど遮断されている
ため彼らが現在どのような暮らしをしているのか心配です。帰国した拉致被害者の北朝鮮での暮らしぶりは報道
を信じるのであればそれなりに安定した職業につき家族をもちまずまずの生活ぶりだったようです。
そうなると不思議なのは何のために北朝鮮は日本人を拉致したのであろうか?ということです。もしかしたら
日本に帰国させても問題にならないだろう、と言う人たちを「生存している」拉致被害者と言う事で帰国に応じたとも考えられます。

拉致被害者を支援する会の気持ちもわかりますが独裁国家に対しあまりに敵性意識をあらわにしては
同胞日本人の待遇が心配です。また数百人は居るのではないかと推測される北朝鮮に残る拉致被害者が
どのように扱われるようになるか考えるべきです。
旧日本軍関東軍731部隊は追い詰められ撤退の際に戦争犯罪の証拠となるマルタとよばれた拉致被害者を
女性やあどけない子供も含め証拠隠滅の為全員虐殺したのです。
数百人と想定される拉致被害者や何万人にも達する北朝鮮移民団を人質に取られている状況にあること
も認識すべきだとおもいます。
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/memo/30782.html
602農NAME:2005/11/12(土) 23:06:44
元「慰安婦」に対する「ありがとう」発言
:元日本兵はなぜ謝罪できないのか(1)

http://park17.wakwak.com/~ueba/history-cognition020707.htm
603農NAME:2005/11/12(土) 23:17:24
http://www.jca.apc.org/jcnc/halina91.html
第二次大戦中、日本軍によって「従軍慰安婦」にされたフィリピンの女性たちが日本政府を相手に起こした裁判は、
11年間の闘いの末、昨年12月25日に最高裁の上告を棄却され敗訴が確定してしまった。「正義を実現するまで闘う」と
訴えに来日した女性たちの報告会では、途切れ途切れの記憶を思い起こしながら話してくれた。(聞き手:JCNC赤松結希)

ナルシサさんは、フィリピンのどちらのご出身ですか。

 ルソン島北部のアブラ州の出身で、両親は農民でした。鶏や豚、山羊にカラバオ(水牛)、羊や牛などの家畜も飼い、
食べていくのにまったく不自由のない暮らしをしていました。ところが1943年、私がまだ11歳の時に突然日本軍の大隊
が近くに来たのです。そして村長であった父を、ゲリラをかくまっているのではないかと尋問したのです。

 日本兵は、何も知らないという父を柱に縛りつけ、首から下の皮を徐々にはいでいきました。父は私たちに
助けを求めて叫んでいました。上の二人の兄はどこかに連れて行かれ、幼い弟と妹は銃剣で刺し殺され、
母も私の目の前で日本兵にレイプされました。私自身も抵抗してそのときに腕に傷を負いました。

 その後姉二人とともに日本兵の駐屯地に連行され、来る日も来る日も洗濯など日本兵の身の周りの世話
をさせられ、レイプされ続けました。どれくらいの期間であったのかは見当もつきません。日本兵が出かける
時には私たちも裸足で山や川を歩き回り、抵抗すれば熱いタバコなどを押し付けられました。ところがある時、
爆撃を受け、姉と逃げ出すことができたのです。

604農NAME:2005/11/13(日) 00:04:02
教科書に載らない「女性の歴史」 慰安婦
http://homepage3.nifty.com/harunaji/a012.htm
605農NAME:2005/11/13(日) 00:29:05
http://www7.plala.or.jp/uminarido/page157.html
まず、フィリピンの歴史が「植民地"被"支配者」の歴史である、という事。

もうひとつは、日本軍がフィリピンを「解放」ではなく「占領」した事。



この事がまず頭になければ、何故フィリピンにおいて「抗日ゲリラ」が活動する事になったかを理解するのは、日本人の
頭では実は難しい。

最初の宗主国スペイン、次のアメリカ。そして日本。本来であれば同じアジア民族である日本がひいきされてもいいよう
に思われるかもしれないが、実際はそうではなかった。

スペインは、フィリピンを支配するに当たって、基礎的な町を造り、対外航路を開き、キリスト教という宗教を布教する事
で、その搾取の見返りとした。

米西戦争において、フィリピン宗主国の座をもぎ取ったアメリカは、さらに大掛かりに、港湾事業や交通網の充実を図
るなどして影響力を保持し、さらにはフィリピンに自治国としての権限も添える事で、極東(と言うよりは"極西"と言うべ
きか)戦略でのフィリピン支配を正当化していた。やがてマッカーサー将軍というフィリピン政府にとっての「スポンサー」
が現れ、この図式は一層強化された。

では、日本はどうであったのか。

多少歴史、特に昭和史を少しなりともかじっている方にとっては周知の事であろうが、アメリカ軍を破った日本は「フィリ
ピンに対し、何もしなかった」のだ。いやそれどころか、占領者として驕り高ぶり、度々「徴発」と称して食糧や物資、あ
げくは人間まで略奪し、経済観念も何も無い軍政は天文学的なインフレを招来させたのである。

606農NAME:2005/11/13(日) 00:31:14
TATLONG TAONG WALANG DIYOS

http://homepage2.nifty.com/asipara/tatlongtaong.htm
日本占領下における悲劇のロマンスを描くメロ・ドラマで、どことなくタイの『クーカム(メナムの残照)』にも通じるストーリー。
『クーカム』との大きな違いは宗教色の濃さではないか。神なんて最初からいるわけないだろうと思っている無神論者にとって
「神はいたのか」と悩まれてもバーカバカしなのだが、それだけにカトリック国フィリピンの素顔が浮きあがってきて興味深いといえる。
 また、死の行進のあったバタアン半島や激戦地のレイテを含め、フィリピン各地を歩いても戦争の話題を聞くことがほとんどなく、
実際に日本占領下に少年少女時代をすごした老人と知り合っても八割は親日か、戦争の恨みなど消えている現在と違い、
七十年代半ばの日本観をうかがう意味で貴重な作品と感じたのだが…
 神に祈ればいい的な相変わらずの信仰中心主義で、それゆえに甘えから脱却できないダメさ加減を除けば、けっこう
自己批判の厳しさを含む内容だった。
607農NAME:2005/11/13(日) 13:21:43
マハティール氏が、SAPIO(小学館)で「日本の統治下で私は自分の学費を稼ぐために
コーヒーやピーナッツを屋台で売り始めました。お客の中には日本兵もいましたが、彼らはお金を端数まで
数えて代金を払ってくれました。当たり前のことのようですが、イギリス植民地時代にはイギリス兵が金も払わず
に商品を持っていってしまうことが珍しくなかったのです。それだけに私は日本人の礼儀正しさに深い感動を覚えました。
事実、商売をしていて日本兵から困らされるような仕打ちを受けたこともなければ、小さなトラブルすら発生
しませんでした。」と述べていました。
608農NAME:2005/11/13(日) 13:25:26
第二次世界大戦博物館は、日本軍の侵攻、原爆投下、敗戦、英国支配復活、マレーシア独立と、淡々と並べていて拍子抜け。
日本の旗とクランタン州の旗の大きさが一緒だったり、山本五十六の写真が英国の軍人より大きかったり、原爆と
その被害の扱いも大きい。このクールさ(?)はなんだろうか。独立戦争をしていないにしろ、もう少しヒロイックな
感じにした方がいいのではないかと、他国ながら思ってしまう。他方では、この博物館とは対照的に、8月31日の
独立記念日にあわせて日本軍の蛮行とマレー人のヒロイックな独立闘争を過剰に強調したような映画Embon
のテレビCMが流れている。それでも話の中心は日本兵とマレー人女性の恋愛にあるようで、このあたりの感覚
がちょっとすぐには理解できない。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/kendjoko/malaysia.htm
609農NAME:2005/11/13(日) 13:28:40
チベット☆OK牧場
http://itoyama.seesaa.net/
610農NAME:2005/11/13(日) 18:19:39
http://www.koubunken.co.jp/0200/0199.html
歴史の偽造をただす
 戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」

中塚 明著  1,800円
611農NAME:2005/11/13(日) 19:50:55
http://asj.ioc.u-tokyo.ac.jp/html/041.html
1 「開放史観」と「贖罪史観」

 日本は戦前「大東亜共栄圏」という旗印の下に東南アジア諸国を占領下に置いたが、日本の占領と
東南アジア民族主義の高揚との関係に関しては、二つの極論が今もって不毛な論争を続けているように
思える。いわゆるアジア諸国を西洋の植民地から開放してやったという「開放史観」と、アジア侵略を
無批判に断罪する「贖罪史観」がそれである。両者の主張が噛み合わず、何ら建設的な議論を進展させて
いないように見えるのは、双方が自らの主張に都合の良い事例を選択して、自説に固執しているからだと言えなくもない。

 一例を挙げると、戦後フィリピンの反日感情が強かったことは周知の事実であり、「贖罪史観」はこの点を
強調する傾向がある。それに対して「開放史観」が注目するのは、むしろアジアの親日家による「大東亜戦争」に
対する好意的な発言である。このように、どちらか一方のみに焦点を当てている限り、不毛な論争は繰り返されるばかりであろう。

 かつて丸山眞男は「東南アジア民族運動における日本の役割には、具体的資料に基づく分析が今後必要」2
になると書いたが、現在に至ってもまだ、東南アジア全体を射程に入れた実証研究は生まれていないと言っても
良いだろう。例えば、東南アジア旧植民地諸国の統治形態や国内構造と、日本の占領形態などを
独立変数とし、一方では日本に好意的な民族運動が形成され、他方では日本がひどく嫌悪される
結果になった、といった系統だった研究は学術的な価値があると思われるのだが、まだ試みられていないようである。

612農NAME:2005/11/14(月) 00:55:14
マッドサイエンティストの部屋
歴史(東洋史・4) (慰安婦)
http://homepage3.nifty.com/adeno1/sci/hist3d.htm
613農NAME:2005/11/14(月) 11:12:10
http://www.bon-odori.info/pngtowa.html
60年前、パプアニューギニアを戦場としたにも関わらず、戦中戦後を通じて現地の人々は極めて親日的です。
それは19世紀末より欧米白人の植民地拡張政策の標的となって以来、人種差別と搾取に苦しんだ歴史に
由来するせいかも知れません。一方、戦時中ニューギニアに展開した日本軍は、彼ら現地人を搾取すること
もなく、両者の関係はおおむね良好であったといわれ、今日の彼らの親日的な感情は、そういった
過去の歴史が作用していると言えます。
先日来日したマイケル・ソマレPNG首相も、
『オハカマイリニ キテ クダサイ』
というメッセージを残し、日本人にもっとPNGを知ってもらいたいという旨を述べられました。

ニューギニアの高等教育期間での日本語教育は非常に人気が高く、老若男女を問わず彼らの熱い視線が
日本に向けられているのが判ります。

経済面において日本は、銅鉱石、海産物、木材、金、銅などの輸出品をはじめとして、オーストラリアに次ぐ
2位の主要貿易関係国となっています。

614農NAME:2005/11/14(月) 11:19:40
http://club.pep.ne.jp/~wafuro/column.htm
パプアニューギニアを訪ねて
   糟谷清彦さんのスピーチから要点のみメモ(いずれは本人の投稿を待ちたい)

 毎年、いままで行っていない場所を選んで、世界各地の旅行を楽しんでいる。平成16年も各地を旅し、秋には
パプアニューギニア旅行を試みた。
 ラバウルを訪れ、どこに行っても、現地の方々が実に親日的であるのには感激した。太平洋戦争中には、日本軍
の主力がここに置かれていたせいもあるが、軍規が厳しく、現地人の人権を大切に扱い、暴行や略奪や徴発など
一切しなかったことが今でも語り草になっているという。
 ニューギニアの高地に住む原住民の村も訪れた。一見してゴリラではないかと思われるような怖ろしげな現地人
だったが、実は柔和で素朴、よい風習をいまも保っていることは驚きであった。

 このような話を聞くと、現代のわが国社会のモラルの低下について深く反省させられる。太平洋戦争については
老人の間では敗戦の負い目と罪の意識を持ち、心に傷を負っている人が多いが、誇ってよいこともたくさんあると思った。

615農NAME:2005/11/14(月) 11:55:32
日本軍 中国人1700人を強制連行
パプアニューギニアへ 生存者が新事実証言
00/12/24 「しんぶん赤旗」
【北京で下司上記者】旧日本軍が中国人千七百人を南太平洋のパプアニューギニアへ強制連行していたと証言する
生存者が現れました。二十日の北京晩報が一面トップで伝えています。

 この生存者は上海に住む八十七歳の施方舟さん。一九三九年、江蘇省呉県で日本軍に捕まった後、多数の中国人
とともに呉淞口の港から貨物船で、日本軍が占領していたパプアニューギニアへ運ばれました。一カ月余りの航海中
に死者もでましたが、千七百人余りが上陸し、軍事施設の建設に酷使されました。

 一九四五年ころ、連合軍の攻勢の前に日本軍は撤退。施さんらはオーストラリア軍に保護され、一年半後に
国際赤十字社により中国へ送り返されました。そのときはすでに、当初の千七百人余りが半数以下の八百人
足らずに減っていたといいます。

 中国人強制連行の全国的調査を最近開始した中国人民抗日戦争記念館の李宗遠氏は、この証言について、
「日本政府の関連文献や国内外の研究資料に記載がなく、強制連行の歴史における重要な発見だ。調査の結果、
その事実が証明されれば、当時日本軍は中国人を日本だけでなく、その他の日本占領地域に強制連行し、
使役していたことになる」と語っています。
http://cwaweb.bai.ne.jp/~kazuwo/doyou/news01.html
616農NAME:2005/11/14(月) 16:08:06
617農NAME:2005/11/14(月) 18:15:43
1945年、大日本帝国の敗戦によって終結した第二次世界大戦(太平洋戦争)であったが、それは、
それ以前の数十年間にわたって明治国家が営々として築いてきた大東亜共栄圏(当該国から見れば侵略戦争)の
崩壊をも意味した。しかしながら、興味深いことがある。戦後55年間を経てなお、中国をはじめ朝鮮半島や
インドシナ半島等のアジア大陸に陸続きの国々が、先の大戦での日本軍(民間人も)の行為および現在の
日本政府の歴史認識を厳しく糾弾しているにもかかわらず、同じ日本軍が占領していた太平洋上の
島嶼諸国の政府や人々は、日本のことをほとんど悪く言わない。いったいこれはなぜなんだろう? 
大陸に派遣された軍人はみな「悪い奴」で、南洋に派遣された軍人はみな「いいひと」だったんだろうか?
そんなバカなことはない。日本国中から無作為に選ばれた(徴兵された)幾十万の軍人たちの思考
ならびに行動様式が、配属地域によって異なるとは、統計学的にも考えられない。

 合理的に考えられる答えはひとつである。それはすなわち、日本軍が占領した現地の人々の文化や
行動様式が、その土地その土地によって大きく異なり、その結果が、日本に対するその後のレスポンス
の善し悪しになって現れたと考えるのが妥当であろう。日本軍が働いたとされる残虐行為(そもそも戦争
というものは残虐なものであるが)を非難されるのならまだしらず、鉄道や学校・病院などの社会資本の
整備など、日本側から見れば「良かれ」と思ってした行為まで非難されているのは、日本人としては
心外の極みだ。これなど、その原因の多くが文化・思考様式の違いから生じていることはいうまでもない。
これまで、とかく「日本人論」というと、欧米人と比較したり、あるいは、せいぜい中国人や韓国人との比較
で論ぜられることが多かったが、今回、私は、太平洋地域との関連において、日本文化について考察を進めてみたいと思う。
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r12-63.htm
618農NAME:2005/11/15(火) 00:09:23
「戦争を語り継ごうML」
会員のホームページ・著書の一覧
http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/kaiinhp.htm
619農NAME:2005/11/16(水) 00:57:30
ベトナム集団焼身自殺事件 証言テープはこうして作られた1
http://www.asyura.com/2002/bd18/msg/434.html
620農NAME:2005/11/16(水) 17:50:03
日本のフィリピン占領
http://www.geocities.jp/jhonlenjp/page069.html
621農NAME:2005/11/16(水) 17:52:17
カサナグのフィリピン 慰安婦
http://blog.so-net.ne.jp/tamashige/
622農NAME:2005/11/16(水) 17:55:15
http://jalsha.cside8.com/travel/sub09.html
1.セブってどこ?

 むかし、シンガポールへ遊びにいったとき、セントーサ島の博物館へ寄りました。そこには、日本軍の数々の残虐行為が
展示してありました。すごいショックでした。「彼らは大げさに言っている」という人もあるけれど、すくなくとも悪行はゼロ
ではなかったはずです。むしろ、たくさんひどいことをしたのだという方に、私は賛成してしまうのです。仕事柄、日本人
の心の奥底をよくよく知っていますので。
 私は臆病なものだから、先人が悪いことをした土地へは、あまり行きたくないんです。上海へはようやく一昨年だかに
行ったけれど、南京なんてぜったい一生行けないな。フィリピンも、戦争中に日本軍が相当ひどいことをしたみたいだし、
今でも対日感情はかならずしもよくないとか聞きますし、南京同様、一生行くことはないだろうと思っていました。
623農NAME:2005/11/16(水) 17:58:04
アチラノ・リベラ(1939):<メジャー経験なし> 日本プロ野球史上ただ一人のフィリピン出身の選手。戦前、この選手が
巨人で5番を打っていたことを知る人は少ない。1939年1月に、巨人はマニラ遠征に出かけたが、そこで豪腕スタルヒンを苦
もなく打ち崩したのがこのリベラである。巨人は、このマニラ税関チームの主将の打棒に惚れ込み、入団させた。リベラは
ほぼ期待通りの打撃を見せ、4番中島冶康の後の5番に座って、6ホーマーを放った。戦前のプロ野球でシーズン6本は
多いほうである。のみならず、リベラは、巨人球団史上初の満塁本塁打を打った選手でもある(8月24日)。11月3日には、
セネタース戦で決勝二塁打を放ち、中尾碩志のノーヒットノーランのお膳立てをした。
結局、リベラはこの年限りで帰国し、その後は消息不明となった。それから28年後・・・1967年にリベラの娘2人が、
ユニバシアード東京大会にバレーボールの選手として来日する。戦前にリベラ夫人の友人だった人が、このことを知って、
戦前のジャイアンツ関係者に連絡をする。しかし皆の反応は冷たく、彼女たちに会って「戦前、お父さんは
東京巨人軍によく尽くしてくれました」と言ったのは川上哲治氏ただ一人だった。川上氏らが彼女たちから
聞いた話によると、リベラはすでに太平洋戦争の只中で戦死していた。しかし、伝えられていたのは、
「フィリピンを日本軍が占領していた間、通訳として働き、戦後、フィリピン軍によって死刑に処せられた」と
いう悲話だったが、彼女たちの語る真実はそうではなかった。リベラは、フィリピン帰国後、再び祖国の有能な
税関吏として働いていたが、そのあと兵役につき、最後は日本兵によって殺されたというのである。彼にとって、
日本でプレーした1年はどんな思い出であったのか。そして、それが良い思い出であってほしいと願う反面、
もし良い思い出であったとしたなら、その国の兵隊と戦い、最後には殺されたのだとすると、想像するのも辛い話である。】
http://www13.ocn.ne.jp/~tip/trivia.htm
624農NAME:2005/11/16(水) 18:04:06
これが馴れ合い検証だ!(インドネシア 慰安婦)
http://www.interq.or.jp/world/mado/genshiji/970804/KOREGANA.HTM
625農NAME:2005/11/16(水) 18:05:33
私は戦争を知らない。だから…わからない。わからない事が多すぎる。知ってても理解は出来ない。わからないから。
 もうずいぶん昔。インドネシアの元兵補と元従軍慰安婦の講演会に行った。ようは「こんなことされたからお金ちょうだい!」
って話。悲惨な出来事。あってはならない事実。

 私がインドネシアに行った時、ゲストハウスのおじいちゃんが日本の軍歌を私に歌ってくれた。「やめてくれ…」と私は
つぶやいたけど…。おじいちゃんはニコニコしながら歌う。これは私が自分の目で見た、感じた現実。私に親切
にしてくれるそのおじいちゃんが歩んできた人生。その事実。日本人の私は目をそむけたくなる事柄。でも、
そのおじいちゃんは日本人である私を責めるどころか「もういいよ」と言いたくなる程、親切にしてくれる。
お金をせびられるでもなく、ただただやさしくしてくれる。現実に心からの人の暖かさを感じる。
http://www.ne.jp/asahi/a/papalagi/today/genjitsu/genjitsu6.html

626農NAME:2005/11/17(木) 17:56:45
青木孝寿さんと学ぶ松代大本営  第4回・5回
          『15年戦争と従軍慰安婦』
http://homepage3.nifty.com/kibonoie/omona6.htm
627農NAME:2005/11/17(木) 18:08:39
従軍慰安婦、消せない事実 政府や軍の深い関与明白
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/8536/slave.htm
628農NAME:2005/11/17(木) 21:12:26
中日合同学術調査隊、関東軍の虎頭軍事要塞を調査

2005/05/25
第二次世界大戦の終結地とされる中国黒竜江省の虎頭軍事要塞の学術調査を行う中日合同学術調査隊が、5月2日、
黒竜江省東端の虎林駅に到着した。

 ウスリー江沿岸にある虎頭軍事要塞は、かつて日本の関東軍が修築したもの。関東軍は第二次世界大戦で日本が降伏した
1945年8月15日後もこの要塞にたてこもってソ連軍に頑強に抵抗し、8月26日に全軍が壊滅して終わりを告げた。

 調査隊の日本側隊員は計14人で、隊長の岡崎久弥氏は虎頭要塞戦役で生き残った岡崎哲夫氏の長男で、
《虎頭決戦秘録》など戦争犯罪を摘発・告発する著書を出版している。

 日本側調査隊員の中には、当時、虎頭要塞を守備する兵士だった後藤守(1919年5月18日生まれ、現在、
広島県庄原市居住)、小島捻(1921年5月3日生まれ、現在、広島県甲双郡居住)両氏の存在が特に注目された。

 84歳の小島捻は「今思うと戦争は悪夢のようだ。軍国主義と植民地支配は両国人民の双方に大きな災害をもたらした。
幸いすべてが終結したが、平和は容易に得られたものではない」と語った。
629農NAME:2005/11/17(木) 21:12:58
 1934年から67年間にわたり、中国を侵略した日本の関東軍は、中国東北地方の中ソ国境沿いに、秘密裏に
14カ所の軍事要塞を築いた。それらは東の吉林省琿春から西の内蒙古ハイラルに至るもので、関東軍はこれを
「東方のマジノ線」と誇らしげに呼んでいた。長年地方史の研究に従事している黒竜江省の民間学者で、綏芬河市
東北アジア文化研究会会長の周艾民氏は「これらの要塞の建設には10余年の時間と巨額の資金が投入され、
しかも100万の中国の労務者が強制使役に狩りだされ、そのうちの大多数は殺傷された」と語った。

 後藤氏は「日本は歴史を正視し、侵略戦争発動に責任を負うべきだ。われわれは平和のために、ここを訪れたもの
である。日本の若者の大多数は歴史の真相を理解していない。日本の教科書は中国侵略を故意に隠蔽している。
これは歴史に対し無責任であり、また後の世代に対して無責任な行為である」と述べた。岡崎団長は「われわれ
の今回の調査活動は、日本国内で多くの障碍に遭遇した。しかし、われわれはついにこれを成し遂げた。
われわれの努力が共通の平和の時代の訪れに、多少なりとも貢献できることを確信している」と語った。

中国側調査隊長で、中国侵略日本軍虎頭要塞遺跡博物館長の孫永林氏は「今回の合同調査は双方の努力により、
順調に行われ、多くの新たな成果が得られ、所期の目的が達成された」と語った。
http://www.china-embassy.or.jp/jpn/xwdt/t197111.htm
630農NAME:2005/11/18(金) 22:47:20
4.植民地化時代を経て新時代を拓く
 両国の友好関係は明治政府の武力を背景にした植民地化政策によって破られた。農民から土地を取上げ、収穫した
米を日本に持ち去り、日本語を強制したり、朝鮮人の姓名を日本式に改めさせたりなどしたのだ。その究極の目的は
朝鮮人を戦争に動員することにあった。
 まず朝鮮人を炭坑など産業を支える労働力として強制的に日本に連れて来た。以後、戦争の進行と共にその数を増やし、
太平洋戦争が長期化すると徴兵令をしいて、兵隊として駆り出した。
 36年間にわたる日本の支配の間、朝鮮の人たちは民族の解放独立のために戦い続け、世界各地に亡命した人々も
中国、旧満州、シベリア、アメリカなどで朝鮮独立の闘いを繰りひろげた。そして、日本の敗戦によって朝鮮は独立し、
人々は故国に帰国して行くが、米ソ対立という国際情勢の中で南北に分断されたため、祖国の統一を願いながら、
やむなく日本に留まった人も大勢いる。そうした韓国籍、朝鮮籍の人、そ
の家族や子孫が今でも日本で生活している。
 昭和54年、日本でも批准された国際人権規約は「国籍を越えて、そこに住むすべての人を人間として尊重
していこう」ということが基本になっているが、その主旨にのっとり、私たちは隣国との友好を取り戻し、共に、
住みよい社会をつくり上げるよう努力する必要があるのではなかろうか。

http://homepage2.nifty.com/taejeon/kaiho/kaiho-51a.htm
631農NAME:2005/11/20(日) 17:47:46
『サンダカン八番娼館』   山崎朋子/文春文庫/500円/★★★★★
天草で出会った、元”からゆきさん”のおサキさん。女性史研究のために、どうしても彼女たちの証言が欲しかった著者
山崎朋子さんは彼女の元に飛び込み生活を共にする。ぽつぽつと語られるおサキさんが体験したボルネオ、サンダカンでの
売春生活。近代日本が彼女たちに背負い込ませた歴史の重さを感じる。

貧乏を逃れるため、家族を助けるために天草地方の女性は、海外に出稼ぎに行く。身につける技術もいらない、自分の肉体
を売ることによってお金を得るために。おサキさんも、兄を助けるため、自らからゆきさんになることを申し出て旅だつ。しかし、
その先に待っていたのは悲惨としかいえない現実。日本人の、西洋人のそして現地人の男たちに次々に身を任せお金を稼ぐ。
その辛さは絶対に想像したくない。1日30人ものお客の相手をしたこともあるという、そのモノのような生活は、私の背筋を凍らせた。
家族を助け、ようやく帰国しても、待つのは安泰の生活ではない。身を売るという卑しい仕事をしたとしての世間の冷たい目、
そして極貧の生活。おサキさんに待っていたのは、翻弄されつつたどりついた故郷で、崩れかけた家にムカデが棲む波打つ
畳の部屋で、押し麦と白米がまぜられた飯と、くず芋の煮物だけという。
私の心を打ったのは、からゆきさん生活のひどさを語った部分よりも、おサキさんの心根の美しさだった。おそらく過去の
経験から生まれたのであろう、相手の気持ちを思い、すっと包み込むように著者を受け入れたその大きな度量と優しさ、敬虔な姿である。
取材を終え、東京へと帰ってしまう著者にまたいつかうちに来て欲しいとたのむ彼女の孤独に涙がとまらなかった。
あまり上手いとは言えないけれど、歴史に埋もれていく底辺女性の心情をくみとりたいと思った著者の熱意と、それを
感じ取り、ふところ深くまで受け入れてくれたおサキさんの優しさ、調査に協力してくれた天草の人々すべての思いが
結晶していると感じさせる1冊。多くの人に、日本という国がしてきたこと、そして今もなんら変わってないその精神を直視
してみてじっくりと考えて欲しいと思う。
http://www.geocities.jp/sibainu63/writer-y1.html
632農NAME:2005/11/20(日) 17:49:12
イバン族のロングハウスを訪ねる
 イバンはとても素朴で人なつっこく、「おぉ遠くからよく来た、まぁ飲め、さぁ食え、のんびりしていけ」といった感じで
どこへ行っても歓待される。あるロングハウスでは、村長から突然日本語で「わたくしの名前はスバンであります」
「山脇中隊長殿!」と話しかけられた。聞くと、日本がボルネオを占領した際日本兵となり、サンダカンの激戦で
多くの友人をなくしたそうで、イバンと日本との関係を改めて考えさせられる。
 彼をはじめ年長の男たちは、古い伝統に従い、のどやからだ中に入れ墨をして強さを誇示している。また重い
飾りをつけるため、大きな穴のあいた耳たぶを肩までたらしている年配の人もいる。しかし若い人にはもうこうした習慣はない。
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/sssp/tanaka2.html

633農NAME:2005/11/20(日) 18:02:20
サンダカン死の行軍は、捕虜虐待というよりも、上部の命令で作戦移動をしたまでで日本兵の死者の方が多いのだが
そんなことは一切報道されない。日本兵がいかに残虐であったかを論じても、ベトナムでアメリカ兵やオーストラリア兵
がいかに残虐なことをしたかは論じられない。


http://www.users.bigpond.net.au/nakahara/jpau/jpau1997.htm
634農NAME:2005/11/21(月) 00:35:44

 日本のマスコミ、特にテレビ朝日など民報テレビは、これでもか、これでもかと連日連夜、北朝鮮問題を特集している。
そのスタンス、アティチュードは、きまっている。金正日独裁政権の悪行の暴露と罵倒である。まぁ、それはそれでよいだろう。

 だが、渡辺氏がコラムのなかで言うように、「いま日本人は、『金正日の独裁政権はけしからん』と偉そうなこと」を
言えるのであろうか。我々は極めて形式的な戦後補償などだけで、過去してきたことをチャラにできるのであろうか?

 つい半世紀前まで、日本は今の北朝鮮以上のことをしていなかったのであろうか、と思います。

 それは渡辺淳一さんの以下の一説を読めば明らかです。

 「加害者は加害の事実を急速に忘れますが、被害者は永遠に忘れないで、子々孫々にまで伝えてゆく。このあたりは
論理ではなく、感情論で、だからそれに対するに、いくら理屈を言っても通じるものではない。やはり感情論で、
被害者の立場になって、まず素直に謝るべきです。

 (日本の)植民地政策、強制連行、強制労働、そして数多くの命を奪った日本の軍事政権が、いかにアジア
各国に傷跡を残したか、その事実を日本は次世代に伝える必要があります。※()は筆者が補足

 善良だった隣のおじさんやお兄さんが、ひとつ間違うと、あの戦争中のような鬼になる。そういう人間の
怖さと弱さが日本人のなかにも潜んでいる。そのことを肝に銘じて、自分を見詰めて生きて
いくことが、大事だと思います。」

http://eritokyo.jp/independent/nagano-pref/aoyama-col4425.html
635農NAME:2005/11/21(月) 00:55:36
マルトノ著 ティガ・スランカイ社
   インドネシア中学校用
      『社会科学分野・歴史科 第五分冊』(1988)

B インドネシアは、日本の戦争を支えるために資源およぴ人カを提供させられた。

 当初、日本軍の到来はインドネシア民族に歓迎された。インドネシア民族は、
長く切望してきた独立を日本が与えてくれるだろうと期待した、
 どうしてインドネシア民族は、このような期待をもったのだろうか。それは、
日本がやってきてまもなく、つぎのような宣伝を展開したからである。

――日本民族はインドネシア民族の「兄」である。日本がきた目的は、インド
 ネシア民族を西洋の植民地支配から解放することである。

――日本は「大東亜の共栄」のために開発を実施する。

 その実態はどうであったか。日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも
精神的にも、並はずれた苦痛を体験した。日本は結局、独立を与えるどころか、
インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。その行いは、強制栽培と強制労働
時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。資源とインドネシア
民族の労働力は、日本の戦争のために搾り取られた。
636農NAME:2005/11/21(月) 00:56:28
農業生産はすでに減少していたが、民衆は依然として収穫の八○パーセント
を、日本軍政府に引き渡すよう強制された。
 この結果、民衆の間では食糧がたいへん不足してきた。飢餓の危機がいたる
ところで発生した。栄養失調で腹ばかりがふくれた、多くの人ぴとが死んでい
った。道端や店先など方々で、しばしば死体が目撃された。
 一方、日本軍政府による衣料品の供給も失敗してしまう。オランダの植民地
時代には、輸入によって、民衆の衣料需要を満たしていた。日本植民地時代に
は、戦時であったので、このような輸入はありえなかった。そのため、民衆は
綿の栽培を義務づけられた。しかし、十分な成果は上がらず、またインドネシ
ア国内で加工することは、まだできなかった。
 その結果、民衆の衣料は非常に不足し、地方の多くの人びとは、麻やシュロ
の繊維で作った粗末な服を、身に着けるしかなかった。それさえも買うことが
できない民衆もまたいたのである。
637農NAME:2005/11/21(月) 01:13:41
臨床検査技師を目指すあなたへ
http://www.iwateamt.or.jp/mezase.html
638農NAME:2005/11/21(月) 01:14:55
 もっともひどい目にあったのは、強制労働者(ロームシャ)にするために動員
された人ぴとだった。彼らは田舎の出身で、一般的に文盲だった。もし教育の
ある者がいたとしても、小学校卒業がせいぜいであった。
 そのロームシャたちは、橋、幹線道路、飛行場、防衛拠点、防空壕といった、
日本の防衛のために重要であった建設工事で労働を強制された。そのような壕
が、いまでも残っている。カリウラン(ジョクジャカルタ)にあるのは、その一つだ。
 ジャワ島の各地方から集められた数千の人びとが、ジャワ島以外の島の森林
で働かされた。それどころか、例えぱマラヤ、ビルマ、タイ、インドシナなど、
国外で労働させられた人ぴともいた。ロームシャの仕事は、非常に重労働だっ
た。原始林で木を伐採し、丘を掘り崩し、山の中で岩を砕くことなどが、その
仕事だった。それとともに、ロームシャたちの待遇は、きわめて残酷であった。
彼らが労働中に少しでも不注意だったりすると、平手でたたかれ、銃で殴られ、
鞭で打たれ、足蹴にされた。これにあえて抵抗した者は、殺された。また、彼
らの健康は、配慮されなかった。衣服は満足に支給されなかつた。彼らは食糧
を与えられはしたが、米の飯ではなく、タビオカの粉の粥だった。それも一日
一回であり、量もきわめて限られたものであった。
 その結果、何千人ものロームシャは、二度と故郷に戻ることがなかった。彼
らは、働かされていた森林で世を去ったのだ。


639農NAME:2005/11/21(月) 11:23:09
ttp://www.indianexpress.com/full_story.php?content_id=81920
China needs watching
B. RAMESH BABU
Posted online: Monday, November 14, 2005 at 0000 hours IST

インディア・エクスプレス(OpEd):中国は監視の必要があるのだ

The inexplicable Indian habit of giving the benefit of doubt to China emerges
every now and then despite hard evidence to the contrary. Recently, when
Defence Minister Pranab Mukherjee referred to the ’62 border conflict as
a war with China, a lowly vice-consul in the Chinese Embassy pounced on
him. The vice-consul changed tack the next day and declared that his
admonition was a remark from a friendly country. Amazingly, he got away with it!

インドの伝統的な中国への猜疑心は、近年の発展の目覚しい中国は中印友好が
叫ばれても解消するというわけでもない。最近、国防大臣のPranab Mukherjeeは中国
との過去の62回の国境紛争について言及し、中国大使館が是に抗議した。ただし中国側は、
翌日には手を変えて、友好国からのコメントだからなどと述べた。(中略)
-----------------------------
日本は、インドとの関係強化が進んでいますが、今のFTO締結だけでなく、
日本とインドとの軍事同盟締結も、今後のアジア戦略で必至ですね。
640農NAME:2005/11/21(月) 18:40:09
http://ajwrc.org/modules/uu_cart/?ucart=main&item=32
中島みちはマレーシア住民虐殺を否定するのか 高嶋伸欣
641農NAME:2005/11/22(火) 18:46:10
インドネシアへ
 1943〜44年にインドネシアのカリマンタン島西部のポンティアナック周辺で、日本軍への抵抗運動を組織した容疑で、
住民の逮捕、虐殺事件がありました。殺害された人数は現在も明確な裏付けが取れていませんが、地元では
1万人以上と言われています。1988年7月に地元の人の案内で、その中のおもな虐殺現場であるマンドルを
訪ねました。そこには事件の顛末が描いてある大きなレリーフがあります。虐殺場面もリアルで、そのレリーフが
具体的に雄弁に日本の占領統治がどういったものだったかを語っていました。「しんどいなぁ」と思いましたが、何らかの
形で日本人に伝えなきゃと思い、帰国後、私は『アサヒグラフ』に写真中心の記事を書きました。

 このレリーフが作られた1977年頃は、「慰安婦」問題が一般的に認知されていなかったのですが、じつは、このなかに
「慰安婦」につながる絵もあるんです。酔った日本兵が酒瓶を振りながら女性を引っ張ったり、蹴っている場面。

 事件当時、ポンティアナックに住んでいた日本人商社員の井関氏(故人)は、著書『西ボルネオ住民虐殺事件』の
なかで、軍は、最初は日本の商社で働く女性に目を付けて、裸にして性器を調べ、処女でなかったら慰安所に
放り込むということをやっていたと書いています。当然、現地の反感があり、日本軍への抵抗運動(本当に組織的に
動いていたかは疑問だが)が事件への伏線になっていたといえるし、期せずして、性奴隷の問題がこのリレーフ
から見えていたと、今にしてみれば言えます。

 ポンティアナックの事件については、今では研究論文もいくつか出ていますが、事実関係を裏付ける具体的な
文書がありません。ただ、BC級戦犯裁判のなかで死刑になった人もいて、その関連のオランダ軍による文書
が明らかになっています。戦犯法廷という一方的な性格の場で作成された記録ではありますが、それが
唯一の資料です。それ以外の文書はオランダや日本の法務省が封印しています。「故人の名誉を守る」という
名目で。せめて、これらの文書が全面的に公開されないと、事件の全容は解明できないでしょう。

642農NAME:2005/11/25(金) 13:30:55
第1回インドネシア高校生エッセイ・コンテスト特選受賞作品
http://sv2.jice.org/02jigyou/essay/indonesia01.htm
643農NAME:2005/11/25(金) 23:10:54
インドネシアにおける慰安婦調査報告
http://www.awf.or.jp/program/pdf/p089_105.pdf
644農NAME:2005/11/26(土) 00:55:50
名前:文責・名無しさん[] 投稿日:2005/11/01(火) 00:44:22 ID:KMmkSZIS
正論や諸君が台湾独立派の主張を載せ始めたのはいつ頃からですかね?
岩波の世界はは40年以上前から載せてるけど

岩波書店 『世界』一九六二年四月号  王 育徳

ある台湾独立論者の主張

(前略)自由主義の世の中で、何が危険といって、知りもしないくせに、
知ったかぶりをいうことほど危険なものはない。社会党や日中友好協会のお歴々は、
「台湾は中国の神聖なる領土」「台湾解放は中国の内政問題」と絶叫してやまないが、
一体台湾についてどれだけ勉強して、何のデータを基づいてそう絶叫するのか、
そのわけをうかがいたい。

蒋介石の「以徳報怨」の一言に仁義を立てて、国府の暴政に目をつぶる
オールド・リベラリストの日本人もいる。なるほど蒋介石は何百万の日本人の利益になる
ことをいってくれた。しかし日本人の利益なら、台湾だって、過去五十一年にどれだけ
日本経済に寄与したか計り知れないのだ。数百万の台湾人の五十一年の寄与が、
蒋介石一人の一分間の言葉にも値しないのか。

645農NAME:2005/11/26(土) 01:27:52
・朝日新聞の陰謀
・創価の陰謀
・サヨの陰謀
・在日の陰謀
・中共の陰謀
・小泉・飯島の陰謀
・民主左派の陰謀
・民主執行部の陰謀
・社民の陰謀
・フェミの陰謀
・日弁連の陰謀
・アメリカ共和党の陰謀
・ユダヤ国際金融資本の陰謀
・フリーメーソンの陰謀
・コミンテルンの陰謀
・その他
646農NAME:2005/11/26(土) 17:02:36
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/01254/contents/728.htm
拙著は大きな反響を巻き起こし、全国各地で性教育の講演に招かれたが、危機感を持った山本直英グループは私に対して
「統一教会系の御用学者」というまったく笑止千万、お門違いの誹謗・中傷を、マスコミの反統一教会キャンペーンに便乗して
執拗にくり返した。
 私は、統一教会の純潔教育を支持したことは一度もなく(不覚にも利用されたことはあるが)、それとは明確に異なる
「第三の性教育」という独自の性教育論を一貫して主張してきたにもかかわらず、私の本質的な急進的性教育批判
の論点を統一教会問題に巧みにすりかえ、かつてのアカ狩りの裏返しのような卑劣な個人攻撃を、
今回の性教協と同様、私自身に対してではなく、マスコミをターゲットにしてエキセントリックに行ってきた。
647農NAME:2005/11/28(月) 22:46:30
可茂支部Diary
http://kamodiary.way-nifty.com/diary/元兵士が語る戦争の真実B
*8月は終戦の月です。新聞からの転載です。

 物資とともに労働力も極度に不足した日本は、中国人の強制連行を閣議決定(42年)。現地では労工狩り(労働者狩り)とも
「ウサギ狩り作戦」とも言いました。高橋さんも44年、この作戦に駆り出されました。村落の四方から包囲を縮め、逃げる人々や
農作業中の農民を捕まえていく。後ろ手に数珠つなぎにして牛か馬のように追い立て、トラックで都市に集めました。やがてトイレ
も窓もない貨車に閉じこめ、日本の炭坑や建設現場に送りました。

 討伐行軍中、道端に子どもの死体が転がっているのを何度も見ました。むしろをかぶせてあるのはよいほうで、野犬がむらがっていました。

 「これが『聖戦』『アジア解放』の実態だったのです」

648農NAME:2005/11/28(月) 22:58:34
649農NAME:2005/11/28(月) 23:01:25
私はどのようにして親愛の友を失ったか

エリザベス・ファン・カンペン(オランダ インドネシア 日本)
http://www.djdialogue.org/shuki.htm
650農NAME:2005/11/29(火) 22:51:39
http://www.h5.dion.ne.jp/~omi.k/StartWar.html
最悪の事態だ。大量破壊兵器をなくそうとする姿勢は正しいのだけれど、如何せん方法がいけない。 フセインとブッシュ。
どちらが悪いかという議論は、どっちもどっちだろうな。シラクは ムルロア環礁で核実験をしておいて、平和もないもんだ。
ロシアもチェチェンや白ロシアを 抑えてるし、中国だってウイグル・内モンゴル・チベットを侵攻し支配している。
651農NAME:2005/11/30(水) 23:36:44
延安の娘
黄玉嶺は、紅衛兵のリーダーとして100人の手下をかかえ、暴行・破壊・略奪の限りを尽くしましたが、
下放中に女学生と良い仲になり、女学生を妊娠させてしまいます。女学生は中絶させられ、彼は労働改造所
送りになって看守から「お前は人間じゃない。畜生だ」といわれ続けた……という過去を持っています。

 彼は父娘の再会に奔走するとともに、同じように畜生扱いされてきた王偉(ワン・ウェイ)という農民の名誉回復に
尽力します。王偉は下放学生の世話をする党幹部だったのですが、強姦の濡れ衣を着せられ労働改造所送りになり、
現在もなお村人からは「強姦魔」と呼ばれているとか。


http://72.14.203.104/search?q=cache:hySLPZLlULYJ:www.cafeopal.com/reviews/archives/2005/10/post_21.html+%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B5%E3%80%80%E5%BC%B7%E5%A7%A6%E9%AD%94&hl=en
652農NAME:2005/11/30(水) 23:50:39
653農NAME:2005/12/01(木) 21:26:33
http://www012.upp.so-net.ne.jp/musasabi-j/musasabi_journal/from_uk/uk_watch_101.htm
筆者は英国が植民地で犯した「罪」の例として次のようなものを挙げています。

1950年代のケニヤ(英国の植民地だった)で地元民の反乱が起こったときに、32万人の現地人を強制収容所に
入れたのみならず、1090人を絞首刑に処し、10万人の死を招くようなことを行った。英国軍の兵士は地元民の
男性1人を殺すごとに5シリング(今のお金で約9ドル)の賞金を貰った。
19世紀の終わりから20世紀初頭にかけてのインドで3000万人の餓死者が出たのは、英国の支配者による穀物
の海外輸出にある。1943年にベンガルで400万人が餓死したが、インド独立後はこのような飢饉は起こっていない。
654農NAME:2005/12/03(土) 20:08:26
反戦な家づくり
http://sensouhantai.blog25.fc2.com/
655農NAME:2005/12/04(日) 01:54:21
http://www.apa-apa.net/kok/news/kok188.htm
■皮肉なことにゲリラやテロは、もともと近代国家による「殲滅戦」に対する抵抗として生まれた戦法だ。
いかなる理由がつけられていようと、20世紀に起きた大量虐殺は、ドイツ、日本、アメリカ、ロシア、
中国、カンボジアなどの「近代国家とその軍隊」よって引き起こされたという重たい現実から目を背けることは
できない。孤独なテロリストよりも、多くの国民が支持する国家の方がいつだってよほど残酷なのだ。

■国家vsテロリズムという構図は、覇権主義を擁護する側にとってまったく都合の良いものの見方だろう。案の定、
アメリカの尻馬に乗って、中国は新疆ウイグル自治区を、ロシアはチェチェン共和国を、イスラエルは
パレスチナ自治区を、インドはパキスタンをテロ集団であると非難しはじめた。当のアメリカも、すでにテロ国家は
アフガニスタンだけではないと明言している。

656農NAME:2005/12/04(日) 22:45:45
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5383/sub1.html
オーカンポさんの体験を聞き、石田甚太郎さんとフィリピンでの住民虐殺を考える
ーワラン・ヒヤ(人でなし)とならないためにー
6歳の女の子の降りかかった日本軍による加害

ルソン島最大の湖ラグナ湖畔の町、ロスパニオスに住む歯科医スージー・オーカンポさんは6歳のときに
両親・兄弟・祖母・叔母の8人全ての家族を日本軍に殺された。ご自身は4ヶ所を銃剣で突かれたが奇跡的に生き延びた。
 アジアフォ-ラム横浜では昨年夏に石田さんのご案内でルソン島南部を巡るスタディ・ツアーを実施し、
そこで彼女に出会った。辛い体験を淡々と語り、戦争の無意味さを訴える彼女を日本に呼ぼうと考えた。
体験・事実・驚き・怒り・罪責・同情・責任・悔悛・役割・連帯。彼女は二度目の来日である。今日、改めて証言
をどう生かすかを多くの方と考えたい
657農NAME:2005/12/06(火) 00:07:47
記録映画史の空白を探る 日本映画社ジャカルタ製作所の興亡
(インドネシア)
http://users.ejnet.ne.jp/~manuke/zatsu/eiga/jakarta2.html
658農NAME:2005/12/06(火) 00:10:12
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-12-08/26_01.html
日本約 310万人
 中国約 1000万人〜2000万人
 朝鮮 約20万人以上
 ベトナム 約200万人
 インドネシア 約200万〜400万人
 フィリピン 約100万人
 シンガポール 約6万人
 マレーシア 約7千人〜10万人
 ビルマ 約5万人
 インド 約350万人
 オーストラリア 2万3365人
 ニュージーランド 1万1625人
659農NAME:2005/12/06(火) 01:04:34
この人々は革命家集団で、もう1人は早稲田大学の方がいます。この人は戦時中、日本兵がインドネシア人3千人
を埋めてしまったと言うのです。おかしいなと思って仲間を誘って調べに行きました。その場所は総理大臣が一杯
出ている場所で、一人殺されても大騒ぎになるところです。日本の長州みたいな場所です。その場所は第25軍の
司令部のあった場所ですから、ほめられることはしてもよいが、悪いことはするなということで厳しかったのです。
云われた場所に行きますと天然の穴があり、冷蔵庫として利用していたものです。そこは観光名所みたいになって
しまっていて出店などがあるのです。そこでずっと管理をやっていたインドネシア人のもう80歳を越えた方に事情を聞くと、
一切そんなことはなかったというのです。それで日本に帰ってからどうするか戦友会の会長さんで法務大臣やられた
林田悠紀夫さんなどに相談したら、インドネシア政府に抗議しようということになった。それでインドネシア政府に
この件で調べてもらったら、一人も死んでいないことが分かったのです。日本の左翼は針小棒大に事を宣伝
するだけでなく、事実無根のことを平気でさも事実のことのように宣伝するのです。ひどい話です。
最大の反日分子は日本の左翼です。
http://www11.plala.or.jp/jins/newsletter2005-8.files/benkyokai2005-8.htm
660農NAME:2005/12/06(火) 01:12:25
普段にこやかに接していたおじいさんが、
ある時「さくら、さくら」を歌ってくれました。
ロウムシャ、バカヤロウという片言の日本語を交えながら、
かつて日本軍がいた頃を語ってくれました。
そこには、アジアの民と、日本の民との苦しい接点があるのです。
かつて長くインドネシアを支配していたオランダを追い出すべく、
同胞として入国し、やがてオランダに変わって支配する事になった日本。
救世主が支配者になり、過酷な条件を突きつけてきたのです。
南の島にまで、鳥居を建て、神社を建立し、日本語を国語としようとしました。
服従か死かの選択の中で、多くの悲劇が生まれました。
1945年8月15日、日本は連合国に無条件降伏。
http://www.komagane.com/koe10.htm
661農NAME:2005/12/06(火) 15:11:44
http://onyx.blog9.fc2.com/blog-entry-44.html
マーシャル諸島は戦前は日本の植民地だったので、島の人たちが流暢な日本語を話すのに驚いた。
日本に対してとても友好的だったし・・・
それと、第五福竜丸のみなさんは、今でも被爆者として認定してもらっていないことが気の毒だった。
当時の日本政府がアメリカに強く抗議できずうやむやにしてしまい、核被害者として国に治療・生活の保障すらしてもらえないまま・・・
662農NAME:2005/12/07(水) 00:33:07
http://www.eireinikotaerukai.net/E06Link/E0600062.html
 インドネシアでは、独立記念日は国中で大きなお祝いをします。
その一週間は、インドネシア国民が一体となって祝っていました。(勿論大統領はじめ閣僚も加わっています。)官公庁や
学校だけでなく地域でも大きなお祝いをしていました。それには外国人も加わって本当に皆で祝っていましたし
、モナスと呼ばれる独立記念塔や戦争犠牲者の所には多くの人が集まっていました。日本人の犠牲者も
眠っていますし、彼らもその墓に敬意を示しています。

 それに比べて日本では靖国神社という立派な霊を祭る施設があるのに総理大臣はじめ閣僚は8月15日に訪問をしませんし、
4月28日などは無視され続けています。
もっと国が一生懸命に犠牲者の下に日本の今があるということや天皇陛下がいるからこそ日本があるということを丁寧に
説明をして、靖国参拝をもっと熱心にいくべきですし、占領下のふざけた憲法を改正し天皇を中心とした日本の伝統に
基づく憲法にするべきだと思います。

 インドネシア人は大東亜戦争によってインドネシアはオランダの圧政から自由と権利を取り戻し、日本軍のお陰で
インドネシア人という事を認識したと言っていましたし、日本の兵隊さんから教わった歌を歌っていたり、君が代も
愛しています。インドネシア国旗は日本の日の丸にちなんだものだそうです。今村将軍はインドネシアでは父的存在ですし、
昭和天皇はアジアの父だと言っていました。昭和天皇の崩御にはインドネシアは黙祷をささげたそうです。
663農NAME:2005/12/08(木) 00:22:35
・「アフガン・イラク・北朝鮮と日本 掲示板」
http://8330.teacup.com/netkikaku2/bbs2
・「徒然掲示板」
http://6547.teacup.com/sinken/bbs
・「四トロ同窓会三次会」
http://6038.teacup.com/mappen/bbs
664農NAME:2005/12/08(木) 17:48:24
http://www.lita.com/appealj/815.html

■各国の戦争犠牲者数

アジア各国の戦争犠牲者数を各国政府に照会したところ、中国、タイ以外には公式 統計がなかった。
そこで、各国の公的機関、学識者の調査に加え、宮地正人・東大史 料編纂所教授の調べ、
93年度文部省検定済み教科書「高校日本史B」(実教出版) の記述(病餓死者を含む)などの数字を紹介する。
死者数は軍人、民間人を合算した もので、中国を除いて期間は太平洋戦争中(41〜45年)。
 文中、△は宮地教授の調べ、▲は「高校日本史B」。


◇中国 中国政府資料は37年から45年まで「2100万人」、北京大学歴史学部の王暁秋教授は同期間に「2100万〜2300万人」。△1221万5000人 (31年の満州事変から通算)、▲1000万人(同)。

◇朝鮮半島 日本政府から伝えてきた軍人軍属名簿や被徴用労働者数などをもとに した韓国政府の推計は、「少なくとも35万人から36万人」。△21万人、▲20 万人。

◇台湾 日本政府から台湾赤十字会に提供された名簿では2万9000人。△3万 3000人。いすれも日本軍に加わった軍人、軍属の合計。

◇香港 英連邦戦没者埋葬委員会の埋葬・火葬者数は6403人。香港総督の本国 あて電文によると、軍人365人、監獄内の処刑などで民間人1万人、さらに飢餓で 6万人。
665農NAME:2005/12/08(木) 18:09:39
秦です

こんにちは

私も中国での食人については知っていますが、朝鮮半島については知りません。
が、可能性としては医療目的としてはあったかも知れないと思います。
というのは、嬰児の胎盤が中国四川あたりでは”清蒸嬰児胎盤”として
現在でも強壮剤や喘息用として1皿50元くらいで販売されており、
これは漢方からの知識ですから、”小中華”と称した李氏朝鮮でも恐らくこの知識
を持っていたと思われるからです。
http://www.han.org/oldboard/hanboard3/msg/3479.html

666農NAME:2005/12/08(木) 18:10:58
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Club/5916/jinniku.html
人肉食の基礎知識(1998年)
.
中国文学科 三年(当時) 池田 雅典
.
  この“基礎知識シリーズ”は、あまりにマイナーで別に知らなくても損はしない、いやむしろ得すらするんじゃないかと
思われる中国についての不要な知識を、わざわざ紹介してしまうという大きなお世話様企画である。
667農NAME:2005/12/08(木) 18:18:52
668農NAME:2005/12/08(木) 21:47:57
669農NAME:2005/12/09(金) 12:22:56
670農NAME:2005/12/09(金) 15:08:19
671農NAME:2005/12/09(金) 23:09:29
伊流★達流掲示板
http://6408.teacup.com/dandyjun/bbs
672農NAME:2005/12/10(土) 14:53:59
http://lion.zero.ad.jp/~zav39473/war.htm
時を超えたつながり
〜戦争の傷跡〜

 サラワクのあるマレーシアは、1941年のアジア太平洋戦争の口火を切ったパールハーバーの奇襲と同時に、
マレー半島北部に日本軍が上陸し、その後3年強にわたり侵略、統治された歴史を持っています。今でも当時、
日本軍から受けた苦しい体験を持つ人や、肉親を殺された人が多く生存されています。特に、マレーシアは人口
の約3分の1が「華僑」です。当時満州を攻めていた日本軍は、満州の抗日運動に連動するマレーシアの「華僑」
の動きに敏感になっており、ほかの民族に比べ相当ひどい抑圧、弾圧、虐殺を「華僑」に対して行ってきました。
その犠牲となった人たち慰め、覚え、後世に伝えていこうという記念碑が、マレーシアの各地にあります。
また、博物館には必ずその歴史を伝えるコーナーがあります。学校ではかなりのページ数を割いて当時のことを学んでいます。 

  サラワクで、私が経験したことがあります。
  あるとき、イバンの民家で飲み会がありました。私が日本人だと分かるとそれまで楽しくお酒を飲んでいた
男の人が表情を変え、目を赤くしながら私に詰め寄ってきました。「自分のおじいさんが日本軍によって
惨殺された。おまえは日本軍がこの地でどんなことをしたのか知っているのか。日本人としてどう感じて
いるのか。」私は体を動かすこともできず、血の気が引き、ただその人の眼を見つめるしかできませんでした。

  日本の学校教育では、アジア太平洋戦争における軍事侵略について、その事実を薄いベールの
ようなものに包み込み、あいまいにしか伝えていません。受験勉強では、歴史的事実は単に暗記の
対象でしかなく、その背後にある人々の顔が見える授業ではありませんでした。事実を教えられないまま、
知らないまま、海外旅行、ボランティア、国際協力などでアジアへ出かけていく日本人が大半であるのが現実です。
673農NAME:2005/12/10(土) 14:55:47
http://lion.zero.ad.jp/~zav39473/war2.htm
◇3つの「ジプン(日本の)・・・」と名のつくもの
 アジア太平洋戦争当時、日本軍は満州の抗日運動に神経を尖らせており、サラワクの人口の約3割を占める
中国系住人(華人)の動きを恐れ、強硬に抑圧しました。その反面マレー人や先住民族に対しては懐柔政策を
取りました。このような背景から、現在でも華人の中には戦時中の悲惨な体験を持つ人も多く、日本に対して
激しい嫌悪感を持つ人もいます。
 このサラワクで、私と3つの「ジプン(日本の)・・・」と名のつくものとの出会いは、戦争体験のない私にとって
「時を超えた戦争体験」でした。

@「日本の水田」− 通常サラワクでは米は焼畑農法か低湿地に直接陸稲をまく方法で作られています。
ところが、ある地域では日本軍が灌漑技術を導入した水田が今でも残います。私が出会った先住民族の
老人は、日本軍が自分の村にやってきたことを覚えていました。特に水浴びをするときの
「ふんどし」が印象に残っているといっていました。

A「日本のお札(バナナ紙幣)」− 「日本のお札」とは日本軍がアジア各地を占領していた時期に発行した
紙幣(軍票)のことです。お札にバナナが描かれていたことから「バナナ紙幣」と呼ばれていました。
サラワクも例外ではなく、先住民族の村などで時々この紙幣を持ち出してきて「今のお金と変えてくれ」
と冗談交じりでいわれ、笑うに笑えない経験をしたことがあります。

B「日本のカタツムリ」− 日本では「アフリカマイマイ」といい小笠原などに生息しています。サラワクにも
生息しているのですが、名前を聞いて驚きました。なぜ「日本のカタツムリ」と呼ばれるのか、
いくつか由来があるようです。「占領している時期に大発生した」「日本軍人が食べ方を教えてくれた」
「日本軍に食べ物を取り上げられ、食べたことのないカタツムリを食べるようになった」。
いずれも日本軍占領と関係したものでした。
674農NAME:2005/12/10(土) 15:09:50
中国の武装警察、発砲で鎮圧 汕尾市村民の死亡者は33人に増加
---
広東省汕尾市の警察は、火曜の夜に武力をもって東洲村の村民を鎮圧し、
当局は通信の遮断に努めている。ある村民は、死者の数は既に33人に達したといい、
行方不明者も20人以上になるという。当局は、戦車および数千人の公安を村の入り口に
駐屯させ、村民が村を離れることを禁止している。

現地の村民によると、木曜の午後までに亡くなった人は33人で、行方不明者が22人。
大部分がその場で殴り殺されたという。

東洲村の村民:計算してみると、30人以上がその場で殴り殺された。
また何人かは怪我をして病院にいるが、何人かどこにいったのかもわからない人もいる。

武装警察が守っているため、村民は皆死体を確認して受け取ることすらできない。
しかし2体の死体だけが検査を受け戻ってきたが、一部の死体は既に当局の手によって
集団火葬されており、発砲された銃弾なども既に廃棄されている。
現在、数千人の武装警察と部隊がおり、戦車も出動され現地のあらゆる道を守っていて
村民たちは村を離れることができない。

675農NAME:2005/12/10(土) 15:14:15
村民:警察も部隊もみんなここにいる。
記者:何人くらい?
村民:数千人だ。自動小銃を構え、別の人によれば1台の戦車と催涙弾の類もあるという。
    もし出て行こうとしたらすぐに身分証を見せられ、この村の人間だとわかったら
    必ず人がやってきて、ここから出ることはできないだろう。

村民たちによると、この2日の間ずっと武装警察が村にやってきては連行していくという。
人々は皆震え上がっている。村のある70歳の老人は、今までこんな暴行は見たことがないという。

老人:今の共産党は平民に向かって機関銃を撃つ。
    昔の日本軍やここの強盗でもしないような手段をとる今の共産党は、天が許さない。
村民:今俺たちは何もしらない。ちくしょう俺たちがみんな頭が悪いからか。
    俺たちはみんなどうしたらいいかわからない。
    悪いことをした奴はみんな撃たれたが、俺ははどうしたらいいんだ?

彼らは外界とメディアへの関心を呼びかけている。しかし現在、発砲事件から3日たったが、
外交部は依然として説明を拒絶している。

「新唐人」記者:梁珍が香港から報道

★ ソースは、新唐人 [] とか。
http://www.ntdtv.com/xtr/gb/aReadArticle.jsp?id=37208

676農NAME:2005/12/10(土) 17:42:09
明治・その時代を考えてみよう(日本)
http://homepage2.nifty.com/kumando/
677農NAME:2005/12/10(土) 19:55:08
日本植民地教育史研究会
http://colonialeducation.web.infoseek.co.jp/
678農NAME:2005/12/10(土) 20:28:24
679農NAME:2005/12/11(日) 00:39:43
これに関連して、慰安婦ではないが、1943年ごろシンガポールで、泰緬鉄道建設のための労働者をかり集めるために
「軍のトラックが市中に現れて逃げ惑う市民を無差別に連れ去るというので恐慌状態を惹き起こした。
また映画館の中にまで若者狩りの手が伸びるという話まであった」。これに対して「市民の側から強い非難」があり、
「警察協助団区長からも改善を要望する意見が提出された」ので、昭南( シンガポール) 特別市の緒方信一警務部長から
軍政監部総務部長に対して、「軍の現在の労務者徴集方法が市民に対し極度の恐怖と不安を与えている実情を述べ、その即時中止と
労務者募集のための妥当な方法の確立を求めた」意見具申を行ったことがあったという3)。

>3) シンガポール市政会『昭南特別市史 戦時中のシンガポール』日本シンガポール協会、
1986年、106-107 ページ。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper09.htm
また、これは慰安婦に関するページだが、公文書によってシンガポールにおてトラックで市民を無差別に拉致するという
典型的な強制連行がシンガポール市政会『昭南特別市史 戦時中のシンガポール』日本シンガポール協会という公文書にて
あったことが確認されている。よって、http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5383/kotosisyougen2.htm における
アフマド・ハザムさんの証言は嘘ではない。 
680農NAME:2005/12/11(日) 23:13:43
広東省の暴動鎮圧で3人が死亡したという報道が流れたが、
しかし、だからといって 中国政府が軍事力で暴動を抑え込んだとはいえなし、
事の本質は中国政府が軍事力を行使して死傷者を出したという事ではない。
むしろ、中国政府を非民主的な国家という言葉はあまりに乱暴だ。

私達はアジア諸国の人々の声に耳を傾けなければならない。
アジア諸国の声は中国政府の積極的な民主化を支持している意見が多数見られる。
私達はアジアの一員として中国を支援するのが役割のはずだ。
小泉首相が対米追従アジア蔑視の政策を行っているが、ちょっと待って欲しい。
思い出してほしい、60年前我々はアジア蔑視のもとアジア諸国に侵略し多大な被害を与えた。
今こそ中国政府に支援してアジアの声に答えるのが日本の役割のはずだ。
小泉首相は高い志をもって中国を支援するという意見に謙虚に耳を傾けるべきではないか?
高い志を次々に放棄していく日本のいまの政治、外交の堕落は情けないの一語に尽きる。
681農NAME:2005/12/11(日) 23:53:36
赤井哲也のアンチ2ch右翼論破日記
この国のネット界にはびこる糞虫というべき2ちゃんねらーを地球市民的発想で論破するブログ。

http://blog.livedoor.jp/akaitetuya/
682農NAME:2005/12/12(月) 18:09:19
フクダユウイチは、すこぶる低調
http://d.hatena.ne.jp/yuichi_f/
右翼討伐
683農NAME:2005/12/13(火) 00:49:13
http://www1.doshisha.ac.jp/~kasano/FEATURES/2001/indonesia.html
それでも日本人はまだまだこの東南アジアの大国をよく知らない。「日本軍の占領はインドネシアの独立を助けた」
「親日派が多い」などという誤った歴史解釈がまかり通っている。戦時中に日本が行った侵略の傷跡がいまだに深刻で、
戦後も日本の政府開発援助(ODA)と民間投資がかならずしも人民のためには使われていないことを、私自身も
ジャカルタで三年半暮らして初めて知ったことだ。
 日本にとって非常に重要な国であるインドネシアの最新事情を知るには最適の本である。ジャワの社会史の
権威である倉沢愛子氏が一九九九年の総選挙と大統領選を、スハルト体制をラディカルに批判してきた
村井吉敬氏が、フィールドワークをもとに日本が支援してきたインドネシアの「開発」でいかに多くの人々が
傷つき倒れてきたかを論証。若手の研究者ディディ・クワルタナダ氏は最新の調査を駆使してインドネシアの
華人問題を論じている。後藤乾一氏は九九年八月の住民投票で独立が決まった東ティモールと日本のかかわり
を国際的な視野で検証している。
684農NAME:2005/12/13(火) 22:39:17
http://www.rakuten.co.jp/doaindonesia/458340/465235/
バタビア(今のジャカルタ)のあるジャワ島はもちろん、
セレベス島(今のスラウェシ)にも、スマトラ島にも、
日本軍の基地はあり、今でも、70を越えたお年寄りは日本語を話したり、
カタカナが書けたりします。

インドネシアは、当時400年にわたり、オランダの統治下にあり、
バタビアには東インド会社の中継地があり、歴史の時間に習ったあの、
シーボルト先生も、バタビアに日本から多くの書簡を送ったりしています。

日本軍がインドネシアに入ったのは、オランダの統治に苦しむ
インドネシア人を救い、開放するためでした。(これはもちろん表向き・・・)
大東亜共栄圏を作るためにどうしてもこの土地が欲しかったからです。

地下資源(特に石油)も豊富ですし、人口も多く人的資源も豊富ですし・・・

私の思いのままに書き始めると、偏ってしまうといけないので歴史的考察は
この辺りでストップといたしますが、
685農NAME:2005/12/13(火) 22:41:24
http://homepage3.nifty.com/a-yamada/kisoenshu06.html
「人的収奪」と軍事動員
1 人的な収奪・動員
  「労務者」への動員:16才以上の男女が組織的に徴用
  不十分な食事・医療のもとでの重労働(資源開発・占領地の土木工事など)
  徴用400万以上、犠牲者100万以上といわれる →【補足資料1】(略)
2 兵補・郷土防衛義勇軍
  数万といわれる兵補の動員……実態不明(49)
3 上は「奉公会」、下は隣組にいたる人的資源収奪の組織

皇民化政策と民族意識
1 占領前、オランダ植民地からの解放をうたう
  占領後、民族指導者を釈放、軍政への協力もとめる →【疑問点[1]】
2 民族運動の独自の政治集会や活動を禁止(旗・歌も禁止)
3 「宮城遥拝」「君が代」日本語使用の強制
  国民学校では日本語の授業がインドネシア語以上に配分、修身・体練も科目に
4 今日のインドネシア教科書における評価(50)
  「強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を越える、非人道的なものだった」

686農NAME:2005/12/13(火) 22:49:57
http://www.kurashiki.co.jp/sanno/kouen/ajia.PDF
*日本兵との親密さを描いた映画「ビルマの竪琴」で有名なミャンマー。名産のチーク材欲しさに英国はビルマ王国
に戦争を吹っかけ占領、王族を虐殺してしまう。その恨みは今も消えていない。だから、今もあの映画を観てミャ
ンマー人は泣く。また、敗戦で逃走中、イラワジ川に舟を出し渡れないでいた大勢の日本兵を救ってくれたのだ。
*欧米の殖民地支配は東インド会社に代表されるように、資源奪取が目的だったが、アジアでは日本だけが免れた。
オランダは「銀、絹」の日本を虎視眈々と狙っていたが、幕府によって長崎の出島に押し止められる。逆に、日本
は医学をはじめ洋学の知識を導入する。早大の大隈重信、慶大の福沢諭吉も少年時代、長崎の宣教師に学んでいる。
687農NAME:2005/12/13(火) 23:02:00
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=a4ja4bcffckdcbfma4oa1a27ya4oa4la4ka4na4aba1a9&sid=1835396&mid=3597
それに、彼らインドネシアジ人が逆らうことさえ思いもよらなかった300年間の支配者オランダ人をあっという間に追い出したのだから、
日本人を特別と思うのは当たり前ではないか。、それを特別扱いするなというほうがむしろ正常な精神ではないよ。インドネシア人
はオランダジンに奴隷並にあつかわれていたのだよ。

その女性車掌も強制されて頭をさげたわけではあるまい。自然にさがったのだよ。

日本軍が住民を虐待したというならべつだが。

すでに投稿済みのレスの一部。
スマトラ島での老人へのイナビュー(元日本軍の労務者)。
「日本軍の扱いはどうだったですか」
「日本軍は給料をはらってくれました。米も油も十分くれました。」

「日本軍の規律はどうでしたか」
「もちろん日本人のなかにも悪いことをする人もいました。しかし日本の憲兵は厳しかったから不正を許しませんでした。我々
がこそ泥をするとぶんなぐられましたが、日本兵が悪いことをしたときも許しませんでした。悪いことをした(多分現地人をいじめた)
日本兵が我々の目の前で憲兵にぶん殴られることもたびたびでした・・・」

688農NAME:2005/12/13(火) 23:18:45
107. インドネシア外務省、「日本は歴史を正視すべし」(05年4月19日)

今週末(4月23,24日)にアジア・アフリカ会議を主催するインドネシア政府は、最近の一連の日本ー中国の激しい対立に対して
コメントを発表し、外務省報道官のマルティ・ナタレガワ氏はあらまし次のように述べた。

「日本と中国は東アジアの最重要国であり、両国の関係に関心を持たざるを得ない。論争は日本の第2次世界大戦中の残虐行為
をめぐるものであり、日本を含む全ての国は歴史を直視しなければならない」

「また、中国の胡錦濤主席と小泉首相はジャカルタで今週末開かれるアジア・アフリカ会議を利用して話し合いの場を持つことは
可能である。最近の中国でのデモによる破壊行為は日本側の怒りを買っているかもしれないが、中国の民衆の怒りは20世紀前半に
日本が中国に対して行った残虐行為に対する反省の念が十分でないことに対するものである。」

「インドネシアも1942年に日本軍がオランダを追い払ってくれたことに最初は感謝していたが、何十万人の人々がロームシャ
(労務者)として徴用され(多くはビルマなどに連れて行かれ死亡した)、多くの女性が従軍慰安婦にさせられた。日本を
含む全ての国が歴史的事実を直視しなければならばい。」
http://fps01.plala.or.jp/~searevie/new_page_4.htm
689農NAME:2005/12/14(水) 13:45:11
http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM
大東亜戦争における主要戦域別日本人戦没者数一覧

   日 本 本 土      700,000
690農NAME:2005/12/14(水) 13:47:08
第二次世界大戦等の戦争犠牲者数
http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM
691農NAME:2005/12/15(木) 00:09:35
旧日本軍に依るマレーシアでの華僑虐殺話に付いて
http://web.archive.org/web/20040307095359/http://www2.justnet.ne.jp/~pigeon/maragyakusatu.htm
旧日本軍に依るシンガポールでの華僑虐殺話(1)
http://web.archive.org/web/20040307095806/http://www2.justnet.ne.jp/~pigeon/singa.htm
旧日本軍に依るシンガポールでの華僑虐殺話(2)
http://web.archive.org/web/20040307101214/http://www2.justnet.ne.jp/~pigeon/singa2.htm
シンガポールの日本軍占領時期死難人民記念碑
http://web.archive.org/web/20040307095356/http://www2.justnet.ne.jp/~pigeon/sinanzinmin.htm
マレーシア虐殺報道の奇々怪々(秦郁彦著)から抜粋
http://www.mikisystem.com/JForum/wfDisplay.aspx?pk=2998
なぜ南京をオープンシティにしなかったか。
http://www.mikisystem.com/JForum/wfDisplay.aspx?pk=3021
692農NAME:2005/12/15(木) 13:32:18
2004.2.27 ゴッドファーザー
 或るカポネの話 (日本軍)
http://www.geocities.jp/baytko/index13.html
693農NAME:2005/12/15(木) 22:39:47
だれかいる?
694農NAME:2005/12/15(木) 23:11:41
695農NAME:2005/12/17(土) 17:18:47
【香港】中国政府、インフルエンザ研究を妨害か
ウイルス研究家の管軼・香港大学生物学部助教授が英誌「ネイチャー」に寄稿した論文が、中国政府を
怒らせているようだ。論文は、今年5月に青海省で流行した鳥インフルエンザウイルスと、広東省などで
以前流行したウイルスの間の類似性を指摘、青海省の鳥インフルエンザウイルスも中国華南地区から
伝来したという見解を発表したためだ。

19日付蘋果日報はアジア・ウオールストリート・ジャーナルの記事を引用。今月9日に中国の国家農業部が
突如係官を汕頭大学構内で同大と香港大学が共同で運営する聯合インフルエンザ研究センターに派遣し、
関連する研究活動の中止とサンプルウイルスの廃棄または提出を要求する強行措置に出たと伝えた。
同センターの研究員は最終的にサンプルの廃棄に同意したという。

国家農業部はこれを「ウイルスのサンプル採集、研究、情報発表には農業部の事前の許可が必要なため」
としている。だが管助教授はアジア・ウオールストリート・ジャーナルに対して、「(中国政府は)政治的に独立した
科学者が妙な動きを見せることを好まない」と語り、政府が研究を中止させたのは政治的な意図であることを
示唆したという。WHO(世界保健機関)北京事務所スポークスマンはこの問題について「国家農業部の
新規定がインフルエンザの研究に悪影響を及ばさないことを望む」と述べた。
http://nna.asia.ne.jp/free/tokuhou/040123_tyo/111_120/b113.html

696農NAME:2005/12/18(日) 00:34:38
各種医学検査で医師をサポート
専門技術と責任感を持って医療の現場に貢献します。
 臨床検査技師は、患者さんの生体から得られる血液やウイルスなどの各種検査や分析を医師の指導・監督のもとで行い、
治療に役立てるためのデータを作成、提供するスペシャリストです。
 臨床検査技師が行う細かな作業は、決して派手なものではありません。しかし、医師が的確な診断・治療を行うためには、
各種検査結果や分析データが必要不可欠です。ミスの許されない厳しい仕事である反面、多くの人の助けとなるやりがい
の大きな仕事でもあります。
http://www.teikyo-u.ac.jp/vocational/license/rinsyo.html
697農NAME:2005/12/18(日) 01:25:59
『墓標なき島 ある受刑者の戦争』
http://m-take-web.hp.infoseek.co.jp/hoka4.html
698農NAME:2005/12/18(日) 23:10:26
インドネシア 慰安婦
http://www.han.org/a/half-moon/hm036.html
699農NAME:2005/12/19(月) 19:21:36
「世紀の遺書」を読む
二〇世紀と戦争の歴史
(日本軍)
http://www.246.ne.jp/~k-yosino/17114.htm
700農NAME:2005/12/20(火) 18:46:42
シンガポール経済発展のカラクリ(ヨーロッパ植民地構造)
http://www.yorozu.indosite.org/bbs_log/bbs_log04/main/18936.html
701農NAME:2005/12/21(水) 00:28:44
インドネシアにおける日本軍政の研究
http://www.fukkan.com/vote.php3?no=16222
702農NAME:2005/12/23(金) 18:09:20
− シンガポール植物園を守った日本人 −
http://washimo.web.infoseek.co.jp/Report/Mag-Botanic.htm
703農NAME:2005/12/23(金) 18:21:17
極東非公式条約機構
http://blog.livedoor.jp/godel21/
704農NAME:2005/12/23(金) 19:32:01
www.aozoranet-da.com/access/001

農業で儲けるには、何をしなければいけないか?
どんなことを考えないといけないか?

考えてみませんか?

参考URL
http://www.aozoranet-da.com/access/001
705農NAME:2005/12/23(金) 20:08:01
久保寺右京 著
 後に続く真の日本人へ
〜大東亜戦争の思い出〜
http://meisou.com/books_data/00110/00110.htm
706農NAME:2005/12/23(金) 22:46:19
第二回 バリ島:伝統舞踊と社会変化(日本軍)
http://koho.osaka-cu.ac.jp/vuniv2005/nakao2005/nakao2005-2.html

707農NAME:2005/12/23(金) 23:05:26
大東亜共栄圏の実態
http://war.log.thebbs.jp/1094368440.html
708農NAME:2005/12/23(金) 23:08:52
昨日、ウルルン滞在記を見ていて我が家にホームステイしたパプアニューギニアの外交官、ロモヒンさんのことを
思い出した。パプアニューギニアは第二次世界大戦当時日本軍が多く滞在しラバウルと親しまれていた。昨日の
ウルルンでは、75歳の老人が日本統治下で覚えた日本語やたくさんの日本の歌を唄っていた。まず、
私が驚いたのは、戦後60年近くにもなるのに1〜2年の日本人との暮らしの中で覚えた日本の歌を
覚えていることと,その歌が地元に根付いていることだった。メロディに乗せて覚えることで、記憶の中に
鮮明に残って行く歌の力の大きさを改めて感じた。実は、ロモヒンさんも我が家で「ラバウル小唄」を覚えて
何度も繰り返し唄いながら帰っていった。当時元気だった義父が、ラバウルと聞いて日本軍の話や
「ラバウル小唄」を教えたりするので、反日感情も考えて、私としてはハラハラしていたのだが、ロモヒンさんは、
この歌は聞いたことがあるといって熱心に教わった。飛行場に送る間中、手拍子で義父ともり
あがっていたらしい。昨日のウルルンは思わず涙ぐんでしまった。日本軍が教えてくれた農業方法と、
約束を守り、嘘をつかないことを言い伝えているパプアの人々には、けして反日感情だけではないこと
が分かり嬉しかった。だからロモヒンさんも喜んで「ラバウル小唄」覚えて行ったのだろう。丁度サッカーの
中国戦とオーバーラップして戦後の捉え方の複雑さを感じた。
http://www.houseesthe.co.jp/ddiary/arc/dd200408.html
709農NAME:2005/12/24(土) 00:43:38
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=1593;id=sikousakugo#1593
http://f25.aaa.livedoor.jp/~zflag/mirrors/kaizan/3.htm
敗敵毒ガス作戦 山西で防毒面多数押収

ベルギ−製250支那製1万その他約2万の防毒面をわが方において押収せるが支那軍がかかる大量の防毒面を
そなへていることは卑劣にも毒ガスによりわが精鋭無敵の皇軍に抗せんとする意図を明白にしてをり、さきにわが進撃を
阻むため黄河を決壊せしめ数十万の自国良民の生命財産を奪った敵はここにまた毒ガス使用
の戦術を持ちふるに至った−後略−


敵、毒ガス作戦 山西で防毒面多数押収
石家荘【廿八日】後藤(基)本社特派員発

徐州、帰徳、開封を逐はれ朧海線上を西へ西へと遁走した敵は今や西安を拠点として山西省内に大軍を潜入せしめ、
小癪にもわが占領地区の攪乱、同蒲線の奪還を企図しつつあるが如く、○○部隊発表によれば最近山西西方地区で
ベルギー製二百五十、支那製一万その他約二万の防毒面をわが方にて押収せるが、支那群がかかる大量の
防毒面を備へてゐることは卑劣にも毒ガスによりわが精鋭無敵の皇軍に抗せんとする意図を明白にしてをり、
さきにわが進撃を阻むがめ黄河を決潰せしめ数十万の自国良民の生命財産を奪つた敵はここにまた毒ガス使用の戦術を
用ふるに至つた>ことを示し、断末魔の支那群は明瞭に人道と国際道義を踏みにじつてゐる。<

><の部分が右翼サイトにて後略された部分ですが、ゆう氏によれば、
何とまあ、要するに、「中国軍は防毒面を大量に持っている。これは自分が毒ガス使用の戦術をやるために違いない。
けしからん」というだけの記事だったということ。これが右翼の印象操作の@です。

Aは信夫淳平氏の引用する同盟記事のプロパガンダ性で長いので省略しますが、リンクをみてください。
また勇気づけられました。右翼という連中は資料を恣意的にもちいて、みずからの日帝善行説プロパガンダを
でっちあげているのである。
>>1さまご参考に。右翼という連中を信用してはなりません。
710農NAME:2005/12/25(日) 13:38:07
「太平洋の戦場であった朝鮮人慰安婦はすべて、
志願者か、両親に売られた者ばかりである。もし、
女性たちを強制動員すれば、老若問わず朝鮮人
は憤怒して立ちあがり、どんな報復を受けようと
日本人を殺すだろう」
(テニアン島で捕虜になった朝鮮人軍属・リバクドの米軍尋問に対する証言)
711農NAME:2005/12/25(日) 18:51:56
書籍名  日本軍政と南方占領地林政−太平洋戦争下の実証
著者名  萩野 敏雄

http://www.mmjp.or.jp/jst/index/jst13670.htm
712農NAME:2005/12/25(日) 22:37:04
戦後補償の国際比較
                      清水正義
http://www.geocities.jp/dasheiligewasser/essay3/essay3-3.htm
713農NAME:2005/12/25(日) 22:39:56
崩れた国の「解決済み」の主張
戦後補償裁判の現在 香港軍票補償訴訟にかかわって
http://www.ashir.net/siis/koron/KORON-5.htm
 マレーシア、シンガポール、インドネシア、香港で被害調査に参加し、香港軍票補償裁判に参加しています。
アジアの戦争被害者の声を聞き、日本の侵略戦争の被害がいまだに放置されていることを痛感します。
日本政府の侵略戦争に対する認識、無責任さでありますが、同時にそれらは我々日本人の歴史認識や
人権意識がこれを支えてきたといえます。

世界の失笑かう日本

 「戦後補償」はアジアの人々も期待しましたが、みるべき成果が少ないままアジアの方々には失望と
不信を与え、21世紀に向かうことになりました。わずかに解決の方向が見えたのはサハリン残留韓国人
の援助などや台湾の軍事預金等の補償だけです。従軍慰安婦問題は政治妥協の結果、民間基金で
解決しようとしました。慰安婦の方々の批判と不信が起き、現在はカンパ額も少なく頓挫している
状況にあります。日本の戦争観の現状は衆議院の国会決議に象徴的にあらわれ、
その後村山首相や何人かの閣僚の発言による歴史認識の欠如や戦後補償に頬かむりする
態度に馬脚があらわれました。悲しいながら世界の失笑をかいました。

714農NAME:2005/12/26(月) 00:53:49
(8)強制労働と労務動員
日本軍は戦争遂行のために労働力の動員をはかった。特に人口が多く、かつての輸出産業が衰退して
仕事を失った労働者が多いジャワ島が労務者供出の重要なターゲットになった。ジャワからはマラヤ、
スマトラ、ボルネオ、タイなどに連行され、そのロウムシャの数は約30万人、うち7万人が犠牲になったと
言われている。ジャワ島内も含めるとロウムシャの数は400万にのぼるとも言われている。
(略)
当時、シンガポールの昭南博物館で働いていたコーナー氏はジャワからシンガポール経由で連行されてきた
インドネシアのロウムシャの模様を次のように書いている(E.J.H.コーナー『思い出の昭南博物館』中央公論社)。
「彼らはタイへ船で輸送されたが、その船は途中シンガポールに立ち寄った。航海は二週間であったが、
それに耐えられないような年寄り、障害者、病気のジャワ人たちは船から吐き出された。それで、
博物館と私たちの住んでいた旧セント・アンドリュー・スクールのあいだの空地に、彼らを収容するための
バラックが建てられた。彼らはよたよたと生気のない足どりで歩きながら、そのバラックにはいっていった。
航海中に死んだ者も少なくなかった。そういうときには、死体を米袋に入れ、生き残った仲間が海に
捨てた。米袋は穴だらけであったから、穴から手や足が突き出ていた。バラックのなかでもたくさん
死んだが、やはり死体を米袋に入れて、海へ投げ捨てていた。(中略)女性については、若くてきれいだと、
カトンの近くにある兵営に売春婦として送られた。そこで、彼女たちが『助けて、助けて』
(マレー語)と助けを求めて泣き叫ぶ声は、通行人の心を引き裂いた。」
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper41.htm

715農NAME:2005/12/26(月) 01:08:58
)「日本占領下・インドネシア・旅芸人の記録」(ヴォードヴィル三部作の1) 猪俣良樹著    (株)めこん 刊

ポルトガル、インド、オランダ、アメリカ、中国、イスラムなど、さまざまな文化が流れ込んできた近代の
インドネシアで、新たに誕生した大衆ヴォードヴィル・ショー「サンディワラ」。うっとりするようなクロンチョン・ギターの
調べに乗って、華やかな唄や踊りあるいは空中ショーが繰り広げられた、飛び切り楽しい舞台も、
30's後半にはハリウッド映画の勢いに押されて、気息奄奄。 その絶滅寸前のサンディワラを救ったのが、
1942年3月にインドネシアに進駐した日本軍。 禁止したアメリカ映画に代わって、大衆に
娯楽を提供すると同時に、日本軍の宣伝もできるメディアとして、彼らはこのヴォードヴィル・ショーに
目を付けた。 以来数年間に渡って、多くのサンディワラ劇団が日本軍の手厚い保護の下、
日本の宣伝にインドネシア中を駆け巡ることになる。
http://members.jcom.home.ne.jp/creojb/page5.html
716農NAME:2005/12/26(月) 01:14:18
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/asia/indonesia/news/p20050621org00m030023000c.html
「先生と再会したい」:60年前の日本海軍教師 庄司画伯の教え子が健在
 「中学生の時、日本語を教わった庄司先生です。間違いありません」─ジャカルタ都心部のマンションで、
悠々自適の日々を送っている会社役員、ウィリー・シウさん(75)は、日本芸術院会員の庄司栄吉画伯(88)
が出版したスケッチ集「セレベス追想」のページをめくりながら、そう叫んだ。日本占領下の北スラウェシ州
メナド近郊のトモホン中学校で、海軍派遣教師だった庄司さんが描いた生徒や風景のスケッチの数々は、
当時、中学生だったウィリーさんの60年前の記憶をよみがえらせた。「戦争は続いていたが、本当に楽しい
学園生活だった。広い世界を知り、国際ビジネスに挑戦できる強い精神を教わった」とウィリーさんは回想。
庄司先生と教え子たちとの再会をぜひ実現させたいと語った。
717農NAME:2005/12/26(月) 12:56:04
アジアの教科書に書かれた太平洋戦争
第13回「軍事大国化に反対し、平和を守る2・11松戸集会」について
岡野駿一
 今年の2・11松戸集会は、「アジアの教科書に書かれた太平洋戦争」と題して、石渡延男氏に講演していただき、
そのあと参加者による意見交流をおこないました。
 先生は、インドネシア、シンガポール、マレーシア、ブルネイ、フィリピン、台湾、中国、韓国の教科書の中の、日本軍
占領時代と原爆投下についての記述を、資料のプリントも配布し、詳しく具体的に話してくださいました。
 ほぼ共通している点は、憲兵隊が占領地でいかに冷酷な支配をおこなったかということと、原爆は残酷な無差別
大量破壊兵器ではあるが、日本を降伏させるには、これを使用する以外に方法がなかったという記述です。この原爆投下
についての記述は、私たち日本人にとってショックです。
 52年たっても、植民地時代、占領時代の苦しみと、そして日本人の戦争責任を、アジアの人々は、忘れていないし、
次の世代に伝えていこうとしていることがよく分かりました。

718農NAME:2005/12/26(月) 16:35:33
719農NAME:2005/12/26(月) 17:50:01
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sumire/8209/Baixing.htm
香港の博物館や歴史展示には、大概日本占領時代は食料事情が悪く大変な生活だったことが強調されています。しかし、
歴史の事実として、戦前イギリス占領下の香港で贅沢が出来たのはあくまで白人だけであり中国人は虐げられていたこと、
戦時下の香港の食糧事情が悪かったのは日本が香港人に食料を渡さなかったのではなく日本人も同様に苦しかったこと
(中国人にもきちんと配給制度がありました)、よって時代と環境が異なり同列に扱うことが困難乍ら少なくとも英国統治=善、
日本統治=悪という理解は明らかに誤りであることは、是非とも香港人に理解して欲しいものです。

720農NAME:2005/12/28(水) 16:13:41
何このスレ? (´A`)
721農NAME:2005/12/29(木) 01:06:44
ある涼しい夕方、漁師は海に出る前のひとときを過ごしていると、そこに軍服に身を包んだ日本軍の
小隊がやって来てそのコーヒーショップに佇み同じように海を見つめ始めた。彼らは行軍の途中、
寒さと眠気を散らす為にこのショップにたまたま立ち寄ったのだった。暖かいブラックコーヒーを飲み干すと、
たちまち彼らはそのテイストとアロマで元気になった。一人の兵士がつたないインドネシア語で、
これは何のコーヒーかと店主に尋ねると、マンデリン族のルーツを持つその店主は「これは
マンデリン・コーヒーだ」と答えた。これをきっかけとして、日本兵達はマンデリンコーヒーを追い求めることとなる。
http://www.coffee-network.jp/column/01.html
722農NAME:2005/12/29(木) 01:18:13
・白骨街道と言われるところだらけ

 本当に何万という遺体が、まだタイにはあるんです。白骨街道と言われる道がたくさんあります。ある兵が
やっとたどり着いて木にもたれて事切れてしまう。するとシロアリがザーッと襲い、雨に打たれてたちまち白骨が
銃を抱いた姿になるんです。そして現地の人たちが埋葬する。日本政府はそういうところでの戦後処理を何も
していないんです。何千体の遺体があるところで、ほんの数遺骨を持って帰る程度です。

 日本兵は世界に唯一弁当を持たないで戦争に行くんです。食べ物は現地調達。それは略奪です。抵抗するもの
を殺す。たくさんの悲劇が生まれました。戦陣訓で捕虜になるより死をということで死んでいった兵たちのこととともに、
日本の天皇制軍隊を悪くした元凶です。

 今の政治家たちはみんな当時を知らない人ばかりになってしまいました。泰緬鉄道だけでも、現地から調達した
労働者は、マレーシア、ビルマ、インドネシアで35万人にもなります。帰ったのは半分です。そうして戦争で大量の人を殺している。
http://kurashiki-9.hp.infoseek.co.jp/nagase.htm

723農NAME:2005/12/29(木) 01:20:10
アロール島探訪(2)
http://www.jakartashimbun.com/pages/alor02.html
この村も、第二次大戦中の日本軍とのかかわりがあった。「村に駐屯していた日本兵が持ち込んだ
コーヒーを植え始めた。いつしか、村人がコピ・ディル村と呼ぶようになった」と村の長老が説明してくれた。

724農NAME:2005/12/29(木) 19:01:49
フゥィマライはカレン語でクワイ川を意味する。フゥィマライは1945年以降ビルマからタイにやってきたカレン族の村である。
ここら辺は一般にフゥィマライと呼ばれている所だが、一部の地域は正確には、チョンロッといいカレン語でロケット砲
座設置場所のチョンマルが変化したものだという。フゥィマライには学校があり、タイ語で教育が行われている。そのため、
親の片方がタイ族の子供の中にはカレン語のできない子供もいるという。タイに住むかぎりタイ語は必須であるが、
その反面タイ族への同化のためのタイ語教育なのかもしれない。薄暗い中、セインミャと共に彼の親戚の家に
向かった。その家族はクリスチャンで、玄関先に星型の提灯がぶら下がっていた。親戚の家に
あがり主のピー・ムコティーさんに紹介された。彼女は60歳くらいの年齢でフゥィマライに来て
17年になるという。ビルマではセインミャの母親と共に看護婦をしていた。第二次対戦中、旧日本軍が
ビルマを占領した時に、ある日本軍将校は当時7歳だった彼女を見て家に残してきた娘を思い出したという。
http://www2.ocn.ne.jp/~jade/notes/huay_malay.html
725農NAME:2005/12/29(木) 19:15:40
第3章 老僧との語らい

 「あなたに見せたかったのはこれです」。自室に落ち着くと老僧は表情を和らげ、私の前に一冊の収集帳を差し出した。
そこには数十種類の紙幣が納められていた。「これは日本軍の軍票ではありませんか」と私が数枚の紙幣を指さす。
「そうです。私の子供の頃集めたものです。それではこの人物をご存知かな」。老僧は別のミャンマーの古い紙幣を
指さした。そこには軍服姿の一人の人物が印刷されていた。「はっきりはわかりませんが、スーチーさんの
お父さんではありませんか」と私があてずっぽうに答える。ミャンマー建国の英雄アウンサン将軍の名前だけ
は知っている。「よくご存じだ。ありがとう」。老僧は満足そうな笑顔をみせ、ゆっくりと語りだした。

 「私の知っている日本語は『アリガトウ』『メシ』『ミズ』の三つだけだ。子供の頃覚えたものだ。私がまだ子供の頃、
この寺にも多くの日本軍が駐屯しておった。いろいろあったが、今から考えると日本軍は優しく親切だった。
仕事をするとかならず『アリガトウ』とお礼も言ったし、賃金は必ず払ってくれた」。老僧は遠い昔を思い出すかのように語り続けた。

 「日本には今も感謝している。学校を造ったり、水道を造ったり、いろいろミャンマーの為に援助してくれている。
しかし、今この国の人々は苦しんでいる」。老僧はにわかに声を潜めた。


http://www7a.biglobe.ne.jp/~n-baba/myanmar1.html
726農NAME:2005/12/30(金) 11:41:12
「戦場の黄色いタンポポ」
 橋田信介 著
 新潮文庫 438円

今年、イラクで亡くなった橋田さん。テレビで見ていたかもしれませんが、知りませんでした。亡くなった時
の奥様の記者会見の、凛とされた姿が印象的で、橋田さんも、きっとすてきな方だったに違いないと思いました。
 この本は、十年ほど前に書かれた本を改題されたもので、舞台は、ベトナムやカンボジア、ミャンマーといった
アジアが中心。現地のガイドさん、運転手さん、残留日本兵さんなどとの交流記で、政治、宗教のからんだ、
現地にいないことには解らない農民や兵士、娼婦などの事情が、生々しさよりなんだかのんびりと描かれています。
 奥様の書かれたあとがきに、橋田さんは「いつも『攻められる側での取材』をしてきた」とあります。攻める側、
攻められる側、果たしてどちらが正しいのか。どちら側から見るか。ジャーナリストさんはすでにそれを
選択した上で取材に行くわけで、私たちは、その情報をどう見ればいいんだろうか。
 あとがきの最後のほうに、(橋田さんの世界的なスクープ映像がアメリカで流れて)「この映像を見て、
当時のシュワルコフ多国籍軍総司令官は湾岸戦争の改選を最終的に決断した、と言われている」と書かれています。
その映像がなければ、現在につながる世界情勢が変わっていたかもしれない。橋田さんも、
凶弾に倒れずに済んだかもしれない。どうなんでしょうか、橋田さん。('04.11.07)
727農NAME:2005/12/30(金) 16:50:21
日本軍政と
南方占領地林政
萩 野 敏 雄 著
http://www.j-fic.com/book/4-88965-093-8.htm
728農NAME:2005/12/31(土) 00:43:41
日本のインドネシア占領と独立運動
   講師;藤原 彰先生(歴史研究者・映画自由ネット代表委員)
http://www.netlaputa.ne.jp/~ei-en/frenet/kouen5.htm#top
(日本軍)
729農NAME:2005/12/31(土) 00:47:56
730農NAME:2005/12/31(土) 00:51:12
731農NAME:2005/12/31(土) 11:41:51
この鉄道の建設には、マラヤやスマトラ・ジャワで捕虜となったイギリス、オーストラリア、アメリカ、オランダなど
の連合軍兵士と、アジア人一般労働者(中国、インドネシア、ビルマ、マレーシア、インド、シンガポール、タイ)が
動員されました。文献によってその人数にはばらつきがあり、連合軍捕虜が3万人とも5万人ともいわれ、
また、アジア人一般労働者は10万人以上といわれています。

日本軍が持ち込んだというC56車両 泰緬鉄道の建設に要する時間は5年とも8年ともいわれていましたが、
日本軍は、戦況の逼迫にともなって当初の計画よりも工期の短縮をはかったので、泰緬鉄道は
約1年というはやさで開通しました。泰緬鉄道が「死の鉄道」などと言われるのは、そのような工事の
せいで多くの犠牲者が生まれたからであり、熱帯のジャングルの奥地での疫病や過酷な労働による
死者は、連合軍捕虜が1万とも1万6千とも、あるいは、アジア人労働者が3万とも10万とも、また、
日本人の死者も約1000人あったといわれています。
http://www.thai-square.com/special/vol40/sp40.htm
732農NAME:2005/12/31(土) 11:47:24
戦犯(戦争犯罪人)とは、A級とBC級の二種に大別される。A級戦犯とは、極東国際軍事裁判(東京裁判)に
おいて「平和に対する罪」「人道に対する罪」「通例の戦争犯罪」の3つを根拠に起訴されて有罪判決を受けた者で、
東条英機ら25名がこれにあたる。BC級戦犯とは、特定の地域で「通例の戦争犯罪」を犯した者として、
連合国による各地7カ国、49の法廷で実施された軍事裁判で有罪判決を受けた者である。しかし、通訳や弁護人
の不備、証拠や審理の不十分さなどに多くの問題が残された。この裁判で有罪とされた韓国朝鮮人軍属は148名。
うち23名が死刑を執行された。何故、こんなにも多くの韓国・朝鮮人軍属が戦犯として裁かれたのか。この疑問は、
戦犯として裁かれた「罪」の内訳をみると少しは解けてくる。
 
 戦犯148名のうち、129名が連合国俘虜(捕虜)の監視員であった。捕虜ないし抑留者の虐待がその「罪」で
ある。日本が受諾した「ポツダム宣言」には、日本の戦争犯罪の中でも捕虜虐待をとりわけ重視していることが
明記されているし、実際にも厳しく裁いている。命令に従っていたかどうかに関わりなく、個人の実行責任をも
厳しく裁いた。連合国の捕虜が収容されていた収容所には、軍属として多くの韓国・朝鮮人が徴用
されていたのである。とりわけ泰緬鉄道に関係した裁判は、BC級裁判の中でも規模が大きく120名が起訴されている。
(そのうち韓国・朝鮮人軍属の起訴は35名。うち33名が有罪、9名が死罪)

 泰緬鉄道とは、インド洋の制海権を失った日本軍が、ビルマ方面軍20万人の海上輸送路に代わる手段として建設
したものである。準備不足のままスタートし、医薬品も食料もない中で苛酷な労働に従事させられた連合国捕虜
1万3000人が死に追いやられた。捕虜の恨みは、天皇や東条英機にではなく、目の前の命令実行者である何の
権限も持たない軍属傭人の韓国・朝鮮人に向けられたのである。
http://www.gun-gun.jp/sub/bcsenpan.htm
733農NAME:2005/12/31(土) 12:41:51
http://www.legalbase.co.jp/hanrei/nengappi/10/1.htm
3 泰緬鉄道建設工事
昭和一七年六月のミッドウェー海戦の敗北によりインド洋への制海権の確保が困難となったことから、
大本営は、ビルマ方面への海上輸送路に代わる輸送手段を確保するため、南方軍に対し、
同月、泰緬鉄道建設の準備命令を発し、次いで、同年一一月、その実施命令を発した。泰緬鉄道建設工事は、
タイのノンブラドックを起点として、北西方向に進んでジャングルに分け入り、ビルマのタンビザヤを終点とする
全長約四一五キロメートルの間に鉄道を建設しようとするもので、完成期限を昭和一八年一二月とし、
連合国の俘虜等を使役することが予定されていた。右準備命令を受けた南方軍は、南方軍鉄道隊に対して
泰緬鉄道建設命令を発し、工事に着手したが、俘虜約五万五○○○人、現地人労働者約七万人を投入する大工事と
なった。しかし、もともとの建設計画の杜撰さ、無謀さに加え、食料や医薬品の不足、コレラの蔓延等により
悲惨な状況の下で工事が進められ、鉄道隊の要求により、病気の俘虜まで使役される状況であったが、さらに、
その後の戦局の悪化により、ビルマ方面への海上輸送がますます困難となったことから、大本営が同年
六月工期を四か月短縮して同年八月末までの完成を命じたため、長時間労働が強制されるなどして、多数の死者が出た。
なお、その後、同年八月末完成を目標として工事を強行することはいたずらに犠牲を大ならしめるものであること
が認識され、二か月間工期が延長され、同年一○月、泰緬鉄道は開通した。
4 アルボン島、ハルク島及びフロレス島における飛行場建設工事
オーストラリアへの反攻作戦のために計画された飛行場建設であるが、いずれも珊瑚礁の島で地面が固いの
にスコップ程度の道具しかなく、工事は重労働であった。しかも、昭和一八年には、周辺海域の制海権も
制空権も敵国に押さえられたため、食料の補給もままならず、使役された俘虜の多くが栄養失調、脚気など
に陥った。そして、熱帯のスコールと炎天下での重労働、マラリヤや赤痢などの伝染病の流行により、多数の死者が出た。
734農NAME:2005/12/31(土) 18:35:28
「マパニケの赤い屋敷」
http://star.ap.teacup.com/rarappina/46.html
さて、このどこにでもあるフィリピンの農村マパニケには、かつて「赤い屋敷(red mansion)」と
呼ばれる建物があった。1944年の11月23日、日本兵がこの村に侵入し、村のすべての家を
焼き払って見つけられる村の男の全員を虐殺した後、残った女性たちを連れ込み、
この屋敷で集団強姦を行ったという。その実際の数は不明であり、現在NGOの援助を得て、
日本政府とも補償交渉中であるという。
735農NAME:2006/01/01(日) 02:36:58
私的スクラップ帳
http://agata.ciao.jp/blog/
736農NAME:2006/01/01(日) 14:21:40
737農NAME:2006/01/01(日) 15:32:07
日本軍に占領された海南島からの問いかけ
はじめに
 
 「木の下は、そう暑くもなかったですねぇ」。今年の春、私は中国海南島にいました。海南島は、
ベトナムとの境界、トンキン湾の東に浮かんでいます。観光開発がすすむこの島は、かつて日本軍に
占領された歴史をもっています。私にとってこの旅は、島のなかに今も残された侵略の歴史の具体的
なかたちに自らの五感で触れ、アジアという空間から、日
本の侵略の歴史を見つめる旅だったと思います。

海南島の占領

 私が海南島へ行ったのは、これまで「紀州鉱山の真実を明らかにする会」がおこなってきた、日本軍による
海南島占領期間の歴史を調査する活動に同行するためでした。この会は、三重県の紀州鉱山への
朝鮮人強制連行・強制労働の事実を調査することから出発した市民団体ですが、その紀州鉱山の経営を
していた石原産業が、日本軍占領下の海南島で田独鉱山を経営し、その地でも朝鮮人や台湾人や
海南島の人びとを働かせ、多くの人を死なせていたことがわかり、海南島での調査をはじめ、これまで
海南島の各地で三度の調査をおこなっています。
 1939年2月、日本軍は海南島に奇襲上陸し、その後、海南島は、日本の敗戦まで日本軍による占領下
におかれます。占領下の海南島では、南方侵略のための軍事拠点化、鉱石や農産物などの資源収奪、
日本の植民地化がすすめられていきました。一方で海南島住民の抗日運動も持久的にたたかわれ、
それに対し、日本軍は「掃討作戦」をくりかえして、非武装の一般人を含む多くの民衆を殺しました。
日本軍の「保護」のもとに海南島に進出した石原産業、三菱、日本窒素、西松組などの企業によって、
多くの人が酷使されました。また、「慰安所」がつくられ、住民には「良民証」を持たせるなどの住民管理が
おこなわれていました。
http://members.ld.infoseek.co.jp/rituhyou/news53.htm#yuuzihousei
738農NAME:2006/01/01(日) 15:51:17
「私の中の日本軍」 作 Tak
「私の中の日本軍」感想  長谷川和彦

「なぜ、今、戦争映画、戦記ものなのか?」とは誰でも考える疑問だろう。
この企画の提案者Tak 氏は次のように考えているようだ。
「最も描きたいものは、組織の中で生きざるを得ない個人の悲惨と、栄光である。……
程度の差はあれ、それは、人間には共通して当てはまる問題ではないだろうか。一切の
組織に関わらず、逃げきること、生きることなんて人間はできるのだろうか。組織悪が
極限的に噴出した状況の下に追いやられ、そこで生きざるを得なかった一青年の諦念と
覚悟といったものを描き、今日の日本人へも、何らかのメッセージが伝えられれば良い
と思う」

とても真面目な視点だ。35歳だというTak 氏が、現在いかなる「組織」の中で生き
ていられるのかは知らないが、「軍隊」という組織を、自分が実際に生きる組織にWら
せての真摯な企画意図に、誰も反論する理由はあるまい。
山本七平氏の原作手記も、体験者だけが書ける極限下の人間の本音が、抑制と諦観で表
現された、万人の胸を打つ貴重なノンフィクションであるに違いない。
しかし、このシノプシスが私を「ぜひ映画化したい」という思いにさせてくれたかとい
うと、残念ながら「うーん……」である。
http://www.tcn.zaq.ne.jp/wonderbear/kannihongun.html
739農NAME:2006/01/02(月) 11:43:18
ピースフルラウンジ★フクダユウイチ
http://d.hatena.ne.jp/yuichi_rx7/
(靖国)
740農NAME:2006/01/03(火) 00:57:00
海軍基地(日本軍)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~nkgw/az-kichi.htm
741農NAME:2006/01/04(水) 01:43:35
歴史学者の秦郁彦は「もし東京裁判がなく、代わりに日本人の手による国民裁判か軍法会議が開かれた
と仮定した場合も、同じ理由で東條は決定的に不利な立場に置かれただろう。既定法の枠内だけでも
刑法、陸軍刑法、戦時刑事特別法、陸軍懲罰令など適用すべき法律に不足はなかった。
容疑対象としては、チャハル出兵、陽高の集団虐殺、中野正剛以下の虐待事件、内閣総辞職前の
策動などが並んだだろう。」 と著書『現代史の争点』中で推測している。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F

東條は陸軍刑法にある反乱、専権、辱職、抗命、逃亡すべてを犯していますよ。
ちなみに上記の罪は「死刑に処す」となっております。これは山本七平も述べていますね。
742農NAME:2006/01/04(水) 12:59:31
太平洋戦争犠牲者・死傷者 
http://www.asahi-net.or.jp/~pb6m-ogr/ans074.htm
人類史上最大級の民族虐殺である可能性

『世界大百科事典』(平凡社)では、『十五年戦争(太平洋戦争〔1941-1945〕、満州事変〔1931-1937〕、
日中戦争〔1937-1945〕の総称)の日本人犠牲者は,戦死または戦病死した軍人・軍属約230万名,外地で
死亡した民間人約30万名,内地の戦災死亡者約50万名,合計約310万名に達した。・・・・これに対し,
中国の犠牲者は軍人の死傷者約400万名,民間人の死傷者約2000万名にのぼり,フィリピンでは軍民約十数万名
が死亡したと言われているが,その他の地域の犠牲者数は不明であり,日本軍と戦ったアメリカ,イギリス,
オーストラリアなどの被害も物心両面にわたって甚大なものであった』とされています。
つまり、十五年戦争による中国人の犠牲者数は軍人と民間人を合計すると
実に2,400万人に達したことになります

日本人による戦時の大量虐殺のことを知らないのは日本人だけかも知れません

例えば、『イギリス発/日本人が知らないニッポン』(緑ゆうこ著、岩波アクティブ新書)、74ページの<人間性を
知らない日本人>によれば、「太平洋戦争に関するテレビ番組は、(イギリスでも)21世紀になっても毎年
必ず新しいシリーズが作られ、繰り返し放映されている。そのたびに新聞の番組欄に写真入りで紹介され、
放映後には番組評も載るので、番組そのものは見なかった人でも、新聞のテレビ欄の印象は残っているだろう」と述べられています。

例えば、『デイリー・エクスプレス紙』(2001年6月18日号)の、「地獄とは、日本帝国陸軍に捕えられることだ」
 「中国人を殺すのは犬を殺すのと同じだった」という番組評の一部を以下で引用させていただきます
(同書74-75ページ)。
743農NAME:2006/01/04(水) 13:01:42
http://www.kayakaya.net/books/bookdiary/200409.html
『太平洋戦争日本の敗因 (5)』NHK取材班
角川書店、1995年8月
ISBN:4041954169
Amazon.co.jpで購入
第5巻の副題は「レイテに沈んだ大東共栄圏」です。太平洋戦争の初めにおいて、日本軍は快進撃を続け、
当時アメリカの植民地であったフィリピンを占領しました。その時のフィリピン駐留米軍司令官であった
D.マッカーサーの"I shall return"はあまりにも有名な台詞ですね。さて、フィリピンはアメリカの植民地支配から、
日本の軍政下におかれました。日本は東南アジアを列強の支配から解放して、日本を中心とした
大東亜共栄圏という新秩序を建設しようとします。ベトナム、フィリピン、インドネシア、マレー、
シンガポール、ミャンマーなどが大東亜共栄圏の傘下に入りました。しかし、大東亜共栄圏とは
日本を中心とする新たな植民地支配に過ぎません。
744農NAME:2006/01/04(水) 17:56:10
汚職議事録
世界中からの汚職事件のサンプル

http://nvc.halsnet.com/jhattori/TI/documents/newsletter/2000.1/reports.html#ireland
745農NAME:2006/01/04(水) 18:08:12
ところで、東南アジアでは民主主義体制をはっきりとっていると認識される国はフィリピン、タイ、
インドネシアであるがタイのタクシン首相はどうもあまり民主主義はお好きでない様子が見られる。

しかし、タイは中国よりはるかにましである。タクシンは金の力で議会で圧倒的多数を維持していても、
次の選挙で負ければ政権を追われる。独裁政治国家にはそれが無い。

独裁政治は政権が安定しているようでいて実は不安定である。政権は必ず汚職と腐敗で最後に国民の反乱
にあって崩壊する。マルコス政権、スハルト政権しかりであった。中国も汚職高官がたまには捕まって
死刑になるものもいるが、共産党幹部の師弟の「太子党」は依然健在である。

「正義なきところに権威なし」とはナポレオンの言葉であるが、正義がなくとも権威だけ保たれているのが
どうもグローバルなスタンダードらしい。
http://fps01.plala.or.jp/~searevie/new_page_5.htm
746農NAME:2006/01/04(水) 19:37:00
7月15日 倉橋正直『日本の阿片王 二反長音蔵とその時代』2002年8月、共栄書房。【日中戦争期、占領下の中国で
日本が展開した阿片政策は、それ以前に満州国で施行した方策と原理的には同じものであった。すなわち、満州国
では阿片専売制をしいたが、それに必要とする原料阿片は、外部から持ち込むのではなく、満州国内で自給しようとした。
〔……〕満州国では、満州国の版図の絶対的な大きさを利用する。すなわち、国内の一部の地域(具体的には熱河省
および東満地区)に限って、日本側の厳しい管理下でケシを栽培させ、必要な量の阿片を確保する一方、その他の地域
ではケシ栽培を厳禁した。/ケシを栽培させる地域として、わざと辺鄙で交通運輸の便が悪い所を選んだ。
何本かの鉄道と主要道路を押さえておけば、まず密輸を防止でき、密輸の取締に当たる軍と警察の負担を軽減
できたからである。〔……〕/満州国内の阿片中毒者は、他から阿片を入手できないため、日本側が提供する阿片
を法外な値段で買わざるをえなかった。このように、日本側は、支配下の満州国の同じ住民を上手に使った。
すなわち、労働力(熱河省のケシ耕作農民)、および消費者(満州国全体の阿片中毒者)とに分離して、
その阿片専売制のシステムの中に組み込んだ。/このシステムの成立によって、日本側は、日本本土
から資源を何一つ持って来ることなく、経常的、かつ、安定的に利益を得ることができた。阿片専売制
からあがる利益は莫大なものであって、それは満州国の植民地財政の基幹部分を形成した。〔……〕/
http://www.linelabo.com/bk/2004/bk0407a.htm
747農NAME:2006/01/04(水) 19:40:23
(1)二反長半と音蔵

 もう28年ぐらい前のことです。私は暑い中を、水道橋のすばる書房へ歩いていました。当時、すばる書房は
「月刊絵本」等、新進的な児童書を出していましたが、残念ながらその後、鶴書房と一緒に倒産してしまいました
(そういえば当時、鶴書房で出していたスヌーピーのマンガ「ピーナツ・シリーズ」は、今どこで出しているのでしょう)。
 その日の目的は、二反長半・にたんおさなかば(本名二反長半二郎・にたんちょうはんじろう)の「戦争と日本阿片史」
を買うことでした。これは児童書ではありませんが、二反長半は日本児童ペンクラブ会長を務めた童話作家です。
千葉県立中央図書館児童室の開架書庫にも10冊以上あります。私の蔵書からも「忍者かげろうの風太」
(理論社)が出てきました。「戦争と日本阿片史」は副題に「阿片王二反長音蔵の生涯」とあります。
にたんちょうおとぞうは、半の父親で、今の大阪府茨木市でケシの栽培をしていて、その栽培普及に尽力した
ことから阿片王と呼ばれました。ケシは花が咲いたあとの未熟の果実(ケシ坊主)に切り傷を付けると乳液
(阿片汁)が取れ、これを乾燥させると生阿片・しょうあへん、になります。これから麻薬の阿片煙膏
やヘロイン、薬のモルヒネや燐酸コデインが作られます。戦前戦中と日本ではケシの栽培が盛んで、
和歌山県は全国一の生産量を誇り、乳液採取の時期には学校は「ケシ休み」になり、
子どもも手伝ったそうです。今も日本では厚生労働省の依頼で、20戸ほどの農家が
(採算は取れないそうですが)ケシを栽培しています。
http://www.elf-book.com/07-visitor/visitor.contents0504.html
748農NAME:2006/01/04(水) 19:42:23
コンパクトな啓蒙書 内田雅敏著「『戦後補償』を考える」他

 村山内閣の最大の懸案の一つは、戦後補償問題だろう。外交政策を引き継ぎ、日米安保も認めた以上、
平和・外交政策で自民党政権時代との違いを強調できるのは、ほぼこの一点に限られる。官僚は抵抗して
いるようだが、首相の真価が問われるところだ。
 内田雅敏著「『戦後補償』を考える」(講談社・六五〇円)は、アジア・太平洋戦争中の日本の行為をめぐる
戦後補償の問題を解説したコンパクトな啓蒙書。
 前半部では戦争中の、主にアジアでの日本の行為の数々が手際良くまとめられ、後半部では戦後補償に
関する各国の対応と、補償に消極的な日本の態度が論じられる。通読すれば、この問題について一通り
の基本知識を得ることができる。特に若い人に一読を勧めたい。
 注目されるのは、日本の戦後補償のあり方が日米関係によって規定されたという指摘である。米国は
極東政策への配慮から、昭和天皇の責任を不問とし、周辺諸国からの賠償要求をも抑え込んできた。
このため日本では戦争責任があいまいになり、しかも戦争がアジアとの戦争だったことも忘れられがちになった。
 日本は米国との戦争に負け、原爆の投下と平和憲法の制定を経て平和国家になり、こうして戦争責任
は免責された…。このような認識が、戦後補償問題を放置する結果につながったのではないか。著者はこう指摘する。
 倉橋正直著「従軍慰安婦問題の歴史的研究」(共栄書房・一八〇〇円)は、堅苦しい
題名だが明快で読みやすい歴史書である。
 著者によると従軍慰安婦は、伝統的に兵隊を消耗品扱いしてきた日本軍が、安上がりに兵士の
戦闘力を維持する手段として考え出したものである。そしてこの日本軍のあり方を、社員たちを
酷使する一方で、時には接待費で遊ばせる日本企業のあり方と対比し、「時代は変わっても本質は
変わらない」と指摘する。なるほど、「企業戦士」とはよく言ったものである。
http://www.asahi-net.or.jp/~fq3k-hsmt/trend110.htm
749農NAME:2006/01/04(水) 19:51:55
(6)倉橋正直と研究

  倉橋は「日本の阿片王」のあとがきで「たとえば、日本が、国際条約に背いて密輸し、領事裁判権を悪用して
中国の国民に売り込んだヘロインの中毒で、おそらく1,000万人単位の中国人が恨みを呑んで死んでいったことであろう。
だから、現在、中国の人々が心底、日本人を嫌うのは当たり前である。阿片政策が日本の中国侵略の中心
にあったのだから、それぬきで、近現代日中関係史を語ることは、およそ無意味である」と述べています。

 私たちは日本のアヘン政策をほとんど知りません。研究も大幅に遅れています。ただし、今後中国では、
この研究が進むことでしょう。これ以上、彼我の認識のギャップが広がるのは不幸なことです。私たちがこの
問題に関心を持つことが、厚生労働省の体質を変え、日本の研究を後押しすることになるのです。
それが私たちにできる第一歩なのです。
http://www.elf-book.com/07-visitor/visitor.frameset.html
750農NAME:2006/01/04(水) 20:04:49
http://soc.let.kumamoto-u.ac.jp/satoa/pdf/tolerance_drug.pdf
2−1.ドラッグ貿易国としてのオランダ オランダのドラッグ政策史を考える場合に、まず最初におさえておくべきとされることは、
ドラッグが欧州においては歴史的に国庫収入を増やす重要な貿易項目の一つであったということであり、
オランダの場合には特にそうであったということである。 19世紀、オランダは植民地であった旧オランダ領東
インド(インドネシア)において阿片の売買を認可制にしていた。これはリースシステムと呼ばれ、阿片はオランダの貿易船
によってトルコやベンガル(インド)からマレイ半島まで運ばれ、そこで中国人の認可業者に引き渡されるというルート
が確立していた。この認可による収益は重要な国庫収益をなしていたが、やがてこの認可制による利益
が減少すると、オランダは貿易システムを専売制(専売システム)に改めたのであった[de Kort, 1994a]。
そしてそれゆえに、後には密貿易に対しては厳しく望むことになる。とはいえ、オランダだけが特別だったわけではない。
この時期、各国もドラッグ貿易に力を入れていたからである。ドイツはコカインとコデイン(阿片系アルカロイド)を、
イングランドはモルヒネを生産し、ペルシャ(現イラン)はケシ(阿片の素)を栽培、ポルトガルはマカオで阿片を生産、
フランスはインドシナで阿片の売買を行っていた [Willoughby, 1925]。つまり、オランダだけがドラッグ貿易に
よって潤い、それが直接寛容な政策に結びついたというわけではない。
751農NAME:2006/01/04(水) 22:32:45
日本の阿片王
著者:倉橋正直、出版社:共栄書房
 戦前、ケシの栽培と普及に一生をかけ、日本だけでなく、中国・台湾・朝鮮にまで渡って指導していた
1人の日本人がいた。その名を二反長音藏(にたんちょう・おとぞう)という。この本は、日中戦争
と阿片の関係を見事に解明している。
 100万の大軍を8年もの間、中国大陸に派遣し続けることは、日本の歴史はじまって以来の未曾有
の大事業であった。それに要する費用は、当然、莫大なものとなり、日本にとって予\想外の負担であった。
日中戦争の本質は、まさに「片手に剣、片手に阿片」による侵略戦争であった。阿片政策がなければ、
8年もの長期間、100万の大軍を中国大陸に派遣し続けることなどとうてい不可能であった。
すなわち、日中戦争を裏方の財政面で支えていたのは阿片政策であった。阿片を吸う
という中国民族の弱点に食らいつき、骨までしゃぶり尽くす。これが日本の阿片政策の真髄だった。
1930年代、日本は、モルヒネ・ヘロイン・コカインの生産では、ダントツの世界第一位だった。
世の中、本当に知らないことだらけですね・・・。
http://www.fben.jp/bookcolumn/archives/2003/12/post_167.html

752農NAME:2006/01/04(水) 22:40:50
日中アヘン戦争
http://www1.vecceed.ne.jp/~swtamura/minaosu19.htm
日本は一八九四〜九五年の日清戦争の結果、台湾を獲得したが、台湾でのアヘンの流行を禁圧せず、
専売制をしいた。アヘン利益は巨額であったが、やがて対中国工作に用いられ、日本国内でもケシの栽培を拡大した。

アヘンをもっとも活用したのが関東軍である。関東軍はアヘン密貿易を通じてアヘン患者を増やし、
かれらを操作して一見親日派の中国人がいるかのように見せかけ、またこの利益を秘密工作資金に活用した。
とくに冀東・冀察工作は、ほとんど「満州国」内の熱河省のアヘン栽培による利益を活用したものであった。

関東軍は「満州国」西側の内蒙古地区(チャハル省、綏遠省)に蒙彊政権をつくり、アヘン栽培を大々的におこなった。
この蒙彊アヘン栽培が関東軍の財源であった。

参考……江口圭一『日中アヘン戦争』(一九八八年)

関東軍は、冀東地区にアヘンを密輸出していたが、万里の長城でパトロールしていた中国警察に追跡された
アヘン密売人が転落し、腰骨を骨折した事件がおこった。関東軍は中国側に賠償とパトロールの中止を要求した。
また海上から近づく密貿易船に対する海上警察のパトロールも中止させた。この事件を研究した
今井駿氏は「なんともさもしい事件」と述べている。参考……今井駿「いわゆる冀東密輸
についての一考察」(『歴史学研究』一九七六年十一月号)

753農NAME:2006/01/04(水) 23:24:12
754農NAME:2006/01/04(水) 23:51:56
イラン産アヘンを巡る三井vs三菱の死闘

 日本が、中国をはじめその他のアジア地域で、いかに汚い国家犯罪を犯したのかは、その占領地での「アヘン・麻薬政策」
を見れば一目瞭然だ。この国家犯罪は直接には『興亜院』(詳しくは次号で)と、日本が造り上げた中国の傀儡政権、
および日本軍の関係諸機関が主役であった。当然ながら、多くの日本の民間人がこれに関係した。麻薬に
フォーカスをあわせると、「帝国主義」時代の戦争と侵略戦争の実像が鮮明に浮かび上がる。

 イラン産アヘンの密輸取引では、三井物産と三菱商事とが激しい争奪戦を展開した。両社は1937年3月6日、
駐イラン代理公使・浅田俊介の立ち会いのもと、「向こう1年間は三菱の独占を認め、それ以後についてはあらためて
協議する」という協定を結んでその場はおさまった。

 しかし、38年に入ると、三井は期日以後の自由競争を主張し、三菱は引き続き独占することを主張してドロ沼の
争奪戦になった。困り果てた駐イラン公使の中山詳一郎が1月25日、広田弘毅外相に電報で報告した。内容は次の通り。

「右期日到来せば、両社の間に激烈な競争おこなわるべきは予想せらるるところ、しかもその相手は1個の専売会社
なるがゆえ、容易に先方のために操らるべく、かくのごときは…我が方に不利なることは両社とも理解は
しおるらしきも、アヘン取引は年600万円にのぼる大取引きなるうえ、これをおいて他に相当なる商売なきため、
両社とも出先にては本社にたいし自己の成績に執着し、大局的利害を顧みる余裕と権限なきがごとし」。


http://tanakanews.com/991214jimbo.htm
755農NAME:2006/01/05(木) 12:12:51
http://www.demeken.co.jp/tokiwa/meta/sougyo/index.html
日本の侵略と日本人の戦争観、江口圭一著、岩波ブックレット
米英同罪史論
日本が受諾したポツダム宣言は、日清戦争、義和団事件、日露戦争、韓国併合、第1次世界大戦、シベリア出兵、
山東出兵、満州事変、日中戦争、そしてアジア、太平洋戦争をトータルに否認したものです。列強は日清戦争後、
中国侵略を清算していたが、日本だけが侵略にしがみついていた。米英は侵略された中国側に立ち、
反ファッシズム戦争として、日本侵略に抗していた側にあり、すでに帝国主義征服者の立場を
清算していたことを忘れてはいけない。

自衛戦争史観

ABCD包囲網により、開戦はやもう得なかったという史観。イギリス、オランダ、中国は日本に脅威されこそすれ、
日本を脅威する立場ではなかった。アメリカは日本の武力侵略に対する経済制裁であり、包囲的行動ではなかった。

解放戦争史観

大東亜共栄圏を創ってアジアを欧米の支配から解放するというなら、何故朝鮮を独立させなかったのか。アメリカは
すでにフィリッピンに独立を与える約束をしていたし、日本によるビルマの独立は名ばかりで、圧政と収奪の
裏切りが事実であった。「大東亜共栄圏」とか「アジア解放」は本音ではなかった。一時的に日本への幻想は
有りましたが、すぐに失望は憎悪に変りました。

殉国史観

心情の問題ではあるが、それでは、貴方は、中国国民に、自分は聖戦をやっていたと言い切る自信はありますか。
日本人の国家意識、それは国土、集団、政治的統一体、国家機構の区分がなく渾然としており、
すべて国家という概念で同一視してしまう。国家意識を日本人は整理し、殉国とは政治的統一体、国家機構に
対しての行為であり、この視点に立つ国家とは、現在では日本国憲法で明確にされた平和をまもる国家が我々
の国家なのです。日本国憲法を獲得した歴史としての戦争を忘れず、殉国でなく、日本国憲法をきちんと
遵守させる行動、これが現在一番大切な国家に対する我々の姿勢ではないでしょうか。
756農NAME:2006/01/05(木) 12:46:41
木村肥佐生論(日本軍 モンゴル侵略)
http://homepage3.nifty.com/dabohaze/kibo/note/kimura/kimurahisao.htm
757農NAME:2006/01/05(木) 15:06:18
王力雄:西部大開発は「大躍進」の再来
2000/10/13(金) 13:13:44更新

  ≪多維新聞13日電≫現在、中国西部大開発が西部各省で怒涛の勢いで展開されつつあり、中央高層でも
国内外の投資家に、このプロジェクトを積極的に宣伝し、参加を呼びかけている。西部大開発は東西格差をなくし、
少数民族問題を解決し、国防にも役立つと喧伝されるが、「黄禍」や「天葬」の著者として知られる作家の
王力雄は西部大開発をよくはみていない。彼によれば、中国の西部大開発は「大躍進」の再来である、という。

  取材に応じた王力雄は開口一番、「西部開発はよくない」という。なぜならば、これはやはり
運動であり、以前と違うのは政治運動から経済運動になっただけで、このような「西部運動」は実際、
西部「大躍進」である、と語る。「大躍進」は今世紀60年代、先進国に追いつけ追い越せで行われた
大規模な全国民総動員の生産力向上のための運動だったが、その結果は惨憺たるもので、
1966年から始まる文化大革命の遠因ともなり、現在では「史上最悪の人災」ともいわれているもの。

  王力雄によれば、彼はこの10数年、新疆やチベットなどで、当地の経済や文化、社会の状況を調査し、
地方官僚とも接触、その感触から、現在、各地方政府は投資やプロジェクトを闇雲に行い、
階級闘争はすでに流行らないから金を稼ぐ、金がなければ権力も生まれない、このような状況で、中央から
の投資を得てもどれほど効果を上げれるものか、と疑問を呈す。

  西部大開発は、東西格差を解消できるとしている。しかし、王力雄によれば、中国の現在の上からの
押し付け的体制では、いくら莫大な経費を用いようとも、中間で搾取に遭い、一般民衆がこうむれる
恩恵は極わずかだ、という。また、民族問題にしても、西部大開発では、矛盾が激化しこそすれ、
問題を解決することはできないとしている。王力雄は新疆の漢族とウイグル族の差別問題を
詳細に紹介、この差別が根本的に解消されなければ、たとえ西部地区が裕福になったとしても、
民族矛盾が収まる可能性はない、としている
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2000&d=1013&f=politics_1013_002.shtml
758農NAME:2006/01/05(木) 19:28:48
「ワイルド グラス」カナダ人ジャーナリスト著、によれば北京で
住民退去(オリンピックと建物が古いという理由で立ち退きさせ、
実は業者と政府が土地利権を得て丸儲け)で、集団訴訟の動き
があるそうだが、集団を何より恐れる政府は受付けない。
しかし個人では全く無力で、どうしようもない。

759農NAME:2006/01/05(木) 23:43:49
人肉餃子は美味いか。(Re:日本軍の人肉食)
http://web.sfc.keio.ac.jp/~gaou/cgi-bin/mondou/html/029756.html
奥崎 謙三氏のゆきゆきて神軍
760農NAME:2006/01/05(木) 23:53:38
捕 虜 ・ 俘 虜
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/horyo.htm
こうした軍部の価値観はその後ますます昂揚し、32年2月、第1次上海事変の際、中国軍の捕虜に
なった空閑(くが)昇少佐が、停戦後に自決した事件を、「帝国軍人の鑑(かがみ)」と称え、美談として大々的に
宣伝され、以後、日本軍の中に捕虜になるよりも死を選ぶことを美徳とする思想が急速に拡大していった。

その総決算が、41年1月に東条陸軍大臣名で出された「戦陣訓」であるが、その思想は
「生きて虜囚の辱(はずかし)を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」という一節に凝縮されている。

そしてそれは、先の大戦中の多くの「玉砕」、民間人の集団自決などの悲劇を生み出す精神的要因となった。

軍部によるジュネーブ条約の批准阻止から明らかなように、軍隊内でも捕虜の取扱いに関する教育は全く行なわれにばかりか、
満州事変以降、捕虜になった中国兵をゲリラあるいは「匪賊」(ひぞく)として現地指揮官の独断で処断することが
日常茶飯事となっていた。731部隊による人体実験はその終着駅といえよう。

当然太平洋戦争でも、日本政府がジュネーブ条約の「準用」を約束したにもかかわらず、
軍部はこれを無視、連合軍捕虜に対する取扱いも極めて過酷なものとなった。

戦争中、日本軍の捕虜となった連合軍将兵は約35万人、うち英米人捕虜22万人余のうち3万5,000
人以上が虐待行為や食糧・医療品の不足から死亡したとされている。



連合軍捕虜の監視には多くの場合、朝鮮人・台湾人軍属があてられ、その結果、多くの朝鮮人・台湾人が
「捕虜虐待」の容疑でB・C級戦争犯罪人となるという悲劇も生み出し、いわゆる戦後保障問題を生んだ原因となった。



761農NAME:2006/01/06(金) 00:17:00
植民地主義と異民族問題の隠蔽
 〜アイヌ・琉球から日韓併合へ〜

http://nakazemi.hp.infoseek.co.jp/ainu.htm
762農NAME:2006/01/07(土) 16:52:29
つくる会教科書を斬る
http://www.tokakushin.org/undou/no_textbook/textbook.htm#e
第3回 2000万人の虐殺が「アジアの解放」?!
763農NAME:2006/01/08(日) 22:34:50
谷垣は昭和63年の訪中時、ホテルのディスコに
いた中共の美人工作員を自分の部屋に連れ込んで
中国公安に踏み込まれた(週刊新潮)

政府外交調査会と自民党外交部会が対中ODA
終了方針を打ち出したとき、当時の武大偉中国
大使は、ODA終了方針を阻止するために
行動を起こしたが、彼が最初に会った日本人は
外務省担当課でも政府調査会でも、自民党関係者
でもなく、谷垣財務大臣だった(週刊新潮)

対中ODA削減に反比例するように、アジア開発
銀行の対中融資が激増してきた。この転換の背景
には、黒田東彦のアジア開発銀行総裁就任と、
彼を強く推薦した谷垣財務大臣の意向があった。
アジア開発銀行への対中向け追加拠出も行われて
いる。(サピオ)
764農NAME:2006/01/08(日) 22:57:19
http://www.pald.jp/column/war.html
コラム:戦争と南の島



我々ダイバーはダイビング・パラダイスを求め、よく南の島を訪れますが、これらの地域は太平洋戦争中
(またはそれ以前)、日本軍が占領したり、激戦地となって多くの人が亡くなった地域とよく重なります。
現在のレジャー・ダイビングと戦争は直接には何の関係もありませんが、これらの地域を訪れる日本人と
して多少でも知識を持っていた方が良いのではと思い、まとめてみます。特に年配の方など、これらの
地名を聞いただけでもいまだに涙してしまうという方もいることでしょう。そういう人たちがいるということを
知らないというのも、何だか恥ずかしいものです。

断っておきますが、このページは詳しい歴史認識や時間、数値等に正確さを求め万全を期して書いたもの
ではありませんし、そういう目的ではありません。したがって不正確な点もあろうかと思いますがお許しください。
また言うまでもなく、戦争を美化するためのものではありません。

とはいえこのページは今後も追記・修正されることがあります。



765農NAME:2006/01/08(日) 23:08:41
http://www.asahi.ph/jbcp/dec-02koenkai.htm
<良くなった日本人のイメージ>

さて、フィリピン人は日本人または日本国に対して、非常にいいイメージをもってきておられるように私は思います。

私がフィリピンに初めて参りましたのは1957年、今から45年前です。当時は、「街の中を歩けば絶対に日本語は話さないでくれ」と、
こちらの政府のお役人から言われている時代でした。テレビや映画館で常に上映されているのは悪虐な日本人に
痛めつけられたフィリピン人といった紋切り型のストーリーがほとんどでした。その当時と比べますと、
今ではフィリピンは台湾に次ぐ親日国といえるほどになったのではないでしょうか。

その大きな原因の1つは、フィリピンの歴史教科書が日本軍または軍政の問題点を公平に取り上げていること
だと思います。もちろん、バターンやリパの虐殺事件など色々なものが描かれておりますが、誇大な評価
や悪意がなく、韓国や中国の教科書と比べると公平無比な表現で書かれています。ですから子供達が
いたずらに反日感情へ押しやられることのない教育が戦後30年、40年と続いて参りました。その影響は
非常に大きかったと思います。

 2番目にはやはり「ジャパゆき」さんの貢献です。彼女達が田舎に帰って近所の人たちに話すのは、日本人は
素晴らしかったということです。口コミに頼るフィリピンではこれがプラスに働いたと思います。

3番目には、日本のアニメーションの貢献。フィリピンのテレビで、日本のアニメが毎週29本も放映されております。
ほとんどが夕方の四時半から、日曜日朝8時という特殊な時間帯で、皆さんの目に触れることはない
と思いますが、こんなにも流されているのです。そして、子供達はこれらが日本製であるということを
良く知っております。日本でも流行った『クレヨンしんちゃん』。フィリピンでは『サムライX』となっている
『るろうに剣心』。年代を遡りますと『アルプスの少女ハイジ』などが放映されています。そんなこの
特殊な分野を通じて、日本の良いイメージを形成しているのではなかろうかと感じております。

766農NAME:2006/01/08(日) 23:12:39
http://star.ap.teacup.com/rarappina/43.html
8月の東南アジアは私の想像していたのよりも暑くない。8月のフィリピンで厄介なのはむしろ湿気やマラリアであり、
本当に暑いのは乾季の12月から5月ころまでである。私のように戦争を教科書でしか勉強していない世代にとって、
東南アジアでの戦闘はすべて真夏の出来事のように思うが、終戦のこの時期は暑さもピークを過ぎ、
雨が多く降る、熱帯地方にしては比較的涼しい季節だ。もちろん、原爆投下にいたる乾季の一番暑い時期、
アメリカは日本軍を蹴散らして、グアム、サイパン、ルソン、レイテ、マーシャルなどを次々と
制圧して行ったわけだが、私が終戦と聞いて思い描く乾いた甲子園のグランドと雨季の熱帯雨林は本当は重ならない。

そして、この国で日本兵は被害者ではなく侵略者だ。
「お母さん・・・」と言いながら死んでいったという玉砕の悲しいエピソードに喚起されるフィリピンのイメージとは裏腹に、
フィリピンにおいて日本軍は、残虐の象徴である。
近々フィリピンで公開されるハリウッド映画は、日本軍に虐待されるフィリピン人の窮状を背景に繰り広げられる、
アメリカ軍看護婦とアメリカ人兵士の恋愛物だ。
トレイラーを食い入るように見つめるフィリッピーナは、ラブストーリーに興味があるのか、その背景でただ
ひどい目に合うだけのかわいそうなフィリピン人に興味があるのか分からないが、「残虐な日本兵に
引き裂かれるアメリカ人カップル(とはいえ彼らもフィリピンにとっては侵略者であることに変わりない
のだが)の悲恋」というこの物語を最終的にどう見るのだろう。

チャイナタウンを流れるごみだらけの川辺には、立派な「華僑抗日烈士記念碑」が立つ。
誰かのおじいちゃんが若いころに死んでしまったのだと聞いていたルソン島。そのおじいちゃんは、中国人やら
フィリピン人やらを殺しまくった挙句、アメリカ人に殺された。

玉砕(honorable death)のあるところに虐殺(genocide)があり、虐殺あるところに玉砕がある。
http://star.ap.teacup.com/rarappina/43.html

767農NAME:2006/01/08(日) 23:15:33
768農NAME:2006/01/08(日) 23:39:16
マニラで暮らす フィリピン
http://www2.mozcom.com/~hoshino/
769農NAME:2006/01/09(月) 17:10:24
日本軍の占領
(3)華僑虐殺事件

 日本軍はマレー人が信仰しているイスラム教や伝統的なスルタンの制度を認め、協力させようとしました。
インド人に対しては、インドをイギリスから独立させるといって民族感情を利用し、インド兵捕虜を中心に
1万6千人におよぶインド国民軍をつくって日本軍に協力させました。しかし、華僑つまり中国系の人々
に対しては敵視、虐待しました。それは東南アジアの華僑が日本軍の戦争相手だった中国の蒋介石や毛沢東に
協力しているということと、ブキティマの義勇軍の激しい抵抗によって日本軍が大きな損害をうけたことへの報復でした。
 シンガポールでは、華僑義勇軍、共産党員、抗日団体に所属する者、抗日軍への資金援助者を取り調べる
という名目で華僑が集められました。そして多くの人々が少しのことでも疑わしいとされて捕らえられ、
殺されるという悲惨な事件が三度にわたっておこりました。その犠牲者は、6万人(日本側)とも
4万から5万(華僑側)とも発表されています。
 このような虐殺はマレー半島でもおこなわれていました。ペナン島とジョホールでそれぞれ約2千人、
マラッカで約3千人、さらにネグリセンビラン州ではそれぞれを上回る大勢の華僑の人々が日本軍によって
虐殺されたといわれており、今日でもときどき、このときの被害者の遺骨が発見されることがあります。
 日本軍は次に、華僑に献金を強制しました。シンガポール、セランゴール州、各1千万ドル、
ペラ州8百万ドル、マラッカ州5百万ドルなどで、その総額は5千万ドルにのぼりました。献金集めは
順調には進まず、集まらなかった州では責任者が何度も牢屋に入れられました。
http://www.jskl.edu.my/pages/introduce-Malaysia.f/pages/3-5-3.html
770農NAME:2006/01/09(月) 17:14:25
http://www2.aasa.ac.jp/people/hshimizu/grad.2-1.htm
3. 歴史民俗館
セントサ島の歴史民俗館ではシンガポールの始まりから現在までの歴史を蝋人形などを巧みに利用して紹介している。
この展示の中では当然、日本軍政期の様子も再現されている。展示は「戦争の時代一九四二―四五」というタイトル
から始まる。大英帝国にとってのシンガポールの重要性、日本が、少ない島に人口がひしめき産業経済を支える原料
が乏しいという本質的な問題をかかえていたことなどを指摘したうえで、1894-95年の日清戦争以来の朝鮮侵略、
満州事変からの中国侵略の歴史をふりかえり、軍需品と原材料を求めて南進をはかろうとした、と歴史的背景に
のっとった展示が続く。そのあとに日本軍のマレー侵攻作戦の経過がくわしく紹介されている。そこでは判断の誤りなど
英軍の批判的記述が多い。1942年2月15、英軍はついに降伏したが、この時の降伏調印式の模様が蝋人形で再現されている。

イギリスのパーシバル将軍、日本の山下将軍ともに写真から再現した蝋人形は本物に限りなく近い。
ついでSYONAN−TOと赤字大きく描かれた下に「シンガポールは昭南島と改名された」と記され、ここから
日本軍占領時代代の展示が始まる。この中では有名な華僑粛清=虐殺や5000万ドルの強制献金、捕虜や民間人
への虐待などの日本軍の圧政が紹介されている。同時に一三六部隊とその指導者リン・ボ−センによる抵抗運動が
大きくあつかわれ、ただ日本軍に抑圧されていただけではないことを強調している。そして、原爆によって焼け野原になった
広島の写真がパネルいっぱいに展示され、原爆が日本軍による支配を終わらせたかのような印象を与える構成になっている。
ここに日本軍の降伏調印式の模様がろう人形で展示されている。
771農NAME:2006/01/09(月) 17:17:14
戦争の加害・被害について
http://www.hiroshima-spirit.jp/ja/tayori/letter1/kahi.html
772農NAME:2006/01/09(月) 17:19:56
巻頭エッセイ
日本とイギリスの「苦い過去」 小 菅 信 子   (山梨学院大学法学部助教授) 
http://www.hozokan.co.jp/rekikon/kanto/kanto149.html
第二次世界大戦中の日本軍による連合軍捕虜処遇問題は、戦後イギリスやオランダ、さらにオーストラリアをはじめとする
英連邦諸国の対日観に陰鬱な影を落としてきた。このうち大戦中、日本軍が捕虜とした英軍兵士は約5万人、
このなかの約3万人が映画『戦場にかける橋』で知られる泰緬鉄道建設で労働を強いられ、うち20パーセントが死亡した。
終戦までに、5万人の英軍捕虜のうち約25パーセントが死亡した。第二次世界大戦におけるイギリス全軍の死亡率は
1945年6月までの段階で約5パーセント、同じく独伊軍に捕らえられた英軍捕虜の死亡率も5パーセント。
25パーセントという死亡率は、英軍が第二次世界大戦中に経験したあらゆる苛酷な戦い、たとえばノルマンディー上陸作戦や
ビルマ戦などと比較してもはるかに高い数値である。
 日本軍の収容所から解放された捕虜は、アメリカが原爆を投下してくれたおかげで自分たちは助かったのだと感じた。
実態が公表されていくにつれて、捕虜取扱いに関して日本人は「ナチよりも残虐」であるという心象が人々の間に広がっていった。
イギリスでは、サンフランシスコ講和条約の締結にあたり、日本軍の元捕虜を中心に対日補償請求キャンペーンが展開され、
パーシヴァル将軍らは十分な調査と議論がなされるまでイギリス政府は講和条約の署名を拒否すべきだと主張した。
講和条約発効後も、戦争犯罪人の早期釈放を求めて訪英した日本政府のミッションに対して、イギリス政府は国民の
対日感情の悪さを理由に慎重な姿勢をくずさなかった。1954年イギリスを訪問した吉田茂首相(当時)は、英議会に
招かれインターパーリアメンタリ―・ユニオンにおいて演説を行なった。吉田のスピーチは、日英同盟を想起しつつ、
反共・日英提携を呼びかける内容であったが、演説が終るや、「いつ英国人捕虜に対する補償問題を片づけるつもりか」
などと攻撃的で批判的な質問を矢継ぎ早に浴びせかけられた。
 
773農NAME:2006/01/09(月) 17:54:55
忘れられた戦争責任 カーニコバル島事件と台湾人軍属

木村宏一郎著

http://www.asiabunko.com/g_wasurerareta.htm
774農NAME:2006/01/09(月) 18:01:00
10月21日(金)(略)86歳になった青木平松さんから話を伺う。60年前のインド洋はカーニコバル島で起きた
住民「スパイ事件」。そこで悲劇は起きた。責任者が無罪で通訳たちが絞首刑という「謎」をどう解くか。
ほぼ核心が見えてきた。すごいなと思うのは、ここ数か月、何人かの戦争経験者に話を聞いていて、
記憶が確かなことだ。青木さんに聞いたところ、戦友会があると、つい昨日のように話がはずむという。
あと10年もすればおそらく聞き取りはできないだろう。「きけわだつみのこえ」の、ある真相も、
調べるならいましかない。私家版の単行本や、当時の師団副司令の自筆手記などの貴重な資料を
いただいた。戦争の体験は、日本全国にあまねく存在していることだろう。誰に見せるでもなく、
ともかく自分の経験したことを書き遺さざるを得なかった当時の若い世代。それがいまや80歳代
になっている。みなさん背筋がぴしっと真っすぐだ。明治、大正、昭和。すでに遠い世界なのか。このまま
戦争体験を風化させてはならないと痛感。

 取材が終わったところで青木さんの胸にあるバッジについて聞いた。「ああ、これは叙勲を受けたんですよ」という。
青木さんは東京地検の検事だったことをはじめて知った。場所を変えて生ジュースをご馳走になりながら聞いたのは、
死刑執行の話だ。死刑囚が絞首刑となるとき、そこに検事が立ち会うのだという。青木さんが同僚から聞いたところでは、
とても食事などができない気持ちになるそうだ。独房から「13階段」に向かうとき、最後まで抵抗し喚き通す者、
毅然として歩く者、腰が立たず両脇を抱えられながら刑場に向かう者などなど。「小泉首相の靖国参拝をどう
思いますか」と聞かれたので「反対です」と理由を述べた。「そうですね」と青木さん。戦没者や他国の
被害者の無念を遺された者はいまなおこころに重く抱いて生きている。「日本軍はとても酷いことを
しましたからね」と青木さんは顔を歪めた。歴史とは残酷なものだと思いながら東海道線で新橋。
(略)
http://www.web-arita.com/sui0510b.html
775農NAME:2006/01/09(月) 18:03:28
9月9日(金)12時33分東京発の「のぞみ77号」で大阪へ。木村宏一郎さんの『忘れられた戦争責任』(青木書店)を読みはじめる。
これは敗戦1か月前に起きたカーニコバル島(いまではインド領)で起きた住民虐待死に関わる歴史の謎に挑んだ研究書だ。
戦犯裁判で死刑となった安田宗治は台湾人軍属だった。はたして死刑は妥当だったのか、木村さんの現地調査がはじまる。
赤線を引きながら熟読していると50ページほど読んだところで新大阪に到着。大阪駅で降りてホテル阪急
インターナショナルへ。午後4時過ぎから道浦母都子さんと都はるみさんにインタビュー。「ザ・ワイド」で
来週の金曜日に放送される。6時半から「『道浦母都子全歌集』刊行と都はるみ新曲『枯木灘残照』完成を祝う会」
に出席。中村一好さんに突然に頼まれ、いちばん前のテーブルに座る。作曲家の弦哲也さんなどと四方山話。
数年前に弦さんから作詞をしてみたらどうかと言われたが、まったくの冗談だと思っていた。また言われたので
「本当ですか」と聞けば「そうですよ」という。事情を聞いてよくわかった。いまの歌謡曲の世界では「売れる」ことが
至上の課題だから、ひとがそこに生きるさまざまな生活が描かれていないことに不満があるというのだ。弦さん
から与えられた宿題だ。会の式次第には道浦さんが選んだ6首が紹介されていた。どれも素敵なのだが、
今回いいなと思ったのは『水憂』に掲載された歌だ。
http://www.web-arita.com/sui059.html
776農NAME:2006/01/09(月) 18:27:42
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/9003/books18.htm
みほとけ・ひと・いのち
    無実

 戦争中にオーストラリア兵を虐殺した日本兵と「似ている」というだけで戦犯とされ、ラバウルで死刑となった二十七歳の
海軍大尉片山日出男氏は、無実だった。
 戦後、ラバウルの戦争裁判所で伝令役を勤め、日本人戦犯と接触の多かったオーストラリア人ドン・ポールさんから
「死刑の判決は正しくないと思った。彼は、だれかが死ななければならないことを知って、その役を引き受けたのだと思う。
大尉がいかに立派だったか、彼の遺族に伝えたい」と、処刑後三十三年たった今になって、証言が届いたという。残酷な話だ。
 清らかな性格と純真な心情の大尉は、身に全く覚えのない罪に問われた。本人が幾ら無実を主張しても、
若妻が幾度助命嘆願書をだしても、それはとりあげられなかった。
 戦争にからまる不幸は、外からは知られないそれぞれの暮しに重層をなして、広く深く沈んでいる。五月、この記事
を読んだ時、わたくしはすぐ、塩尻公明著『或る遺書について』を思い出した。この遺書の主、木村久夫氏は
京都大学経済学部の学生であったが、応召、入隊。印度洋のカーニコバル島で、英語が上手なため島民との通訳を
担当した。それが不運の原因となった。
 敗戦直前にスパイとして多くのインド人が日本軍によって処刑された。命令を下した上官に「真実の陳述を厳禁され」た
彼は死刑。他の日本軍人のような残虐行為など一つもなかったにもかかわらず「年齢三十に至らず、且つ学半ばにして
既にこの世を去る運命」となってしまった。

101 「ルック・イースト」の原点は「礼儀正しい日本兵」にあった
http://ww52.tiki.ne.jp/~toku-no-yama/collectd050416-.htm#101
2005年の分類別記事
http://ww52.tiki.ne.jp/~toku-no-yama/sub05.htm
777農NAME:2006/01/09(月) 18:31:37
野生動物による最大の大量殺人
 1975年12月、セレベス島の Malili 川で約100人が乗ったボートが沈み、その近くに群がっていたイリエワニに襲われた。
そして42人がワニの餌食になった。
 もっと凄惨な事件は第2次大戦中に起こっている。1945年2月、ベンガル湾のラムリー島のマングローブが生い茂る沼地に
イギリス軍が1,000人を超える日本軍をおびき寄せていた。19日の夜から20日の未明にかけて恐ろしい叫び声が続いた。
負傷者の血の匂いに刺激された無数のイリエワニがこの沼地に集まり、動きのとれなくなっていた日本兵に
襲いかかったのだった。沼地の外側にいたイギリス軍は一晩中すさまじい悲鳴を聞かされた。
そして夜が明けてから彼らが発見した生存者はわずか20名だった。
http://big_game.at.infoseek.co.jp/crocodile/croco2.html
778農NAME:2006/01/09(月) 18:36:41
地域から平和を・メーリングリスト 

┏━━━━━━━■「地域から平和を」メーリングリスト■━━━━━━━┓
┃自治体の戦争協力を拒否し、地域から平和をつくっていくための、情報交┃
┃換と議論用メーリングリストです。趣旨に賛同する方は誰でも参加でき、┃
┃過去ログはウェブ上で公開されます。現在、240人近くが参加し、毎日┃
┃4〜5件の投稿があります。初めて発言される方は、簡単に自己紹介して┃
┃いただけると、うれしいです。                   ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
http://www5a.biglobe.ne.jp/~west-mt/9jopeaceml.htm
779農NAME:2006/01/09(月) 22:47:36
http://www.jrcl.net/web/frame04a6.html

インド領アンダマン諸島にも韓国人の日本軍「慰安婦」

発見された新しい関連資料
 日本軍の慰安婦として引っぱられていったハルモニ(おばあさん)たちの苦難に満ちた旅路はどこまで続いていたのか。
 「満州」からインドネシアまで東アジアの全域にわたっている慰安所の跡ごとに朝鮮の乙女たちのハン(恨)は
涙でにじんでいる。ここに、さらにもう一つインド領アンダマン諸島にも韓国人の軍慰安婦がいたという事実が最近、
文献から明らかになった。アンダマン諸島は太平洋戦争において日本が占領した地域のうち、最も
西方に位置している。当時、日本軍の最前方だったのだ。

軍属や商社員までもが利用

 「日本軍の慰安婦として連れてきた一団の韓国人女性たち(a batch of Korean women)が居住できるように
彼の事務所を貸すことを要求した」。
 インドのドキュメンタリー作家であるイクバル・シンが書いた『アンダマン・ストーリー』(1978)の245ページに出てくる
一文章だ。「彼」とは当時アンダマン諸島でインド独立運動をしていたティワン・シンを指している。1942年2月23日、
アンダマン島の中心地であるポートブレアに進駐した日本軍は、彼を排除するために反対派が作りあげた話に
乗せられて、彼をスパイ容疑で投獄しようとし、そのきっかけをつかむ方便として彼にこのような無理な要求をしたのだという。
 脈絡はともあれ、このひとことの言及はアンダマン島に韓国人の軍慰安婦がいたという事実を証言している。
この本は、83年にヘチョのインド巡礼の道を調査中にアンダマン諸島に立ち寄ったコ・ビョンイク元ソウル大総長が、
この諸島の歴史に関心を持ち購入、所蔵してきたものだ。コ元総長から、この本についての
話を聞いた在米の史学者パン・ソンジュ氏が韓国挺身隊研究所に連絡し、この新たな事実が
陽の目を見ることになった。

780農NAME:2006/01/09(月) 22:51:20
東方見聞録 アンダマン島
http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/19440630matukawa/2501matukawa-andaman.htm
戦後になってイギリスは,自由インド仮政府の首脳だったインドの人々を英国王に対する反逆罪で告訴しますが,
弁護側はアンダマンという領土を保有した自由インド仮政府は交戦権を持つれっきとした独立国と認められる
という反論を行います.民衆もまた被告を熱狂的に支持し,結局イギリスによる復讐裁判は被告たちを極刑に
処することに失敗するのです.詳しい経緯は紙面を改めて書きます.
マルコ・ポーロから650年後のアンダマン諸島は,西洋と東洋が熾烈な鍔迫り合いをせめぎあう文明衝突の
最前線となっていたのです.そして犬頭人が住んでいた島々は,飢えと戦闘と病に薨れた数多の日本軍将兵の
骨に埋め尽くされたのでした.(この項おわり)
781農NAME:2006/01/09(月) 23:00:10
http://72.14.203.104/search?q=cache:bG14T0js4OwJ:backno.mag2.com/reader/BackBody%3Fid%3D200311111400000000075601000+%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%80%80%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%81%95%E3%82%93&hl=en
★忘れられたアンダマン戦跡

(略)
第二次世界大戦における日本軍の東南アジア駐留の話しや連合軍との
戦闘などのはどこでも良く聞く話であるが、このような小さな島々で、しかも
インド領での話しはあまり聞いたことがない。「もう、老いぼれたこの私が、子
供のころになるが、日本人から剣道と数字を教わった。規律がしっかりしてい
て軍隊らしかった。」とヴィシャルさんは言った。当時、イギリスが統括していた
このアンダマン諸島は、植民地支配から独立を狙うレジスタンスの強制収容所
になっており、インド中から反政府ゲリラなどが流刑されていた。その中、戦争
から日本軍が上陸し、イギリス軍との激しく戦闘が展開されて、双方に大きな
犠牲が発生した。当然、お互いを支えた地元の人もである。

ヴァシャルさんは当時、荷物運びを手伝ったり、イギリス人捕虜に果物を手渡し
ていたりしていたらしい。剣道はいつも日課だったらしく、掛け声や点呼の数字は
今も頭に残っている。戦跡を思い出させる光景は、今も街角や桟橋にはみられ、
日本軍が建てて残したトーチカや機関銃の跡がさび付いて取り残されている。
トーチカは今では、もはや機能を果たしておらず。それよりむしろ遊覧船の切符
売り場になったり、高波の避難小屋に変身してしまっているが、何か日本人
に対して歴史を忘れないで欲しいと言うような訴えているようにも感じる。「町の
丘には日本軍の慰霊碑や村での虐殺現場での慰霊塔などが残っているけれど、日本
から訪ねてくる人は少ないね。でも私たちは、歴史を受け継ぐために、綺麗に
掃除したり、供養したりする」ヴァシャルさんは語る。
(略)
782農NAME:2006/01/09(月) 23:12:43
http://www2u.biglobe.ne.jp/~navy77/page019.html
アンダマン・ニコバル諸島といえば、インド洋の一部ベンガル湾海域のマラッカ海峡の北海上
にスマトラからビルマのヤンゴンの方に向けて連なる300以上の島嶼である。
 英国が管理している時代は、巨大な監獄が辺りを睥睨し、インド本国やビルマでの反英活動
家や凶悪犯人を連行投獄していた。住民は殆どが流刑囚人とその子孫家族で、道路工事や
ジャングルでの材木の伐採などの雑用があてがわれ、食料はビルマやインドから米や小麦な
どを運び込んで配給しており、ここでの農耕による生産活動などは皆無であった。
 太平洋戦争時には日本軍は英軍と戦いこの島嶼に進駐した。このような背景の中での島民
の統治、食料の供給は至難を極めたことは想像に難くない。英国統治時代は、何しろ労働は
酷だが何とか心配なく食えていたのであるから。
 チャーチルは声を大にしてアンダマン奪回を叫んだと聞く。占拠していた日本軍にして見れ
ば、英軍による海上封鎖と執拗な攻撃、スパイ・ゲリラの送りこみ、敵軍の来襲を避けての部
落民移動、食糧の供給(日本軍の食料も覚束ない中)、その内一部住民の餓死事故の発生、
どれをとっても何も分からない住民から見れば虐待と見えただろう。軍政方針としては一定の
自給自足の促進、日本語学校の創設、農耕指導など、日本軍側の親切心から出た配慮も虐
めとしか受け取られなかったであろう。
 やがて敗戦、英軍は人道的責任を問い、戦犯者の認定摘発、報復的裁判、それに原住民に
よる顔実験などにより被告96人を認定し、その内の43人がシンガポール チャンギー刑務所
にて刑死されたのである。
 当然、その中の筆頭として島崎大佐がおられたのである。最善を尽くしたと自負できる島民
に対する軍政のあり方、それも現地人にして見れば拉致・虐待となり、報復的裁判前後には言
語に絶する侮辱と憎悪の暴行なども繰り返されたと聞く。
 こうしてアンダマン・ニコバル諸島の戦後処理として一方的そして報復的裁判により刑死者は
無念の涙を飲んで憤死されたものと思う。本来試合が終われば英国流のノーサイド(ラグビー)
として紳士的判断を下しそうなものの英国軍の、思わぬ残虐なる仕打ちには憾み骨髄に徹す
るものがあったろう。
783農NAME:2006/01/09(月) 23:17:41


 更に本書が、他の調査研究書と趣を異にするのは、本書第2章の部分である。ここには本書で初めて対外公表されたという、
フランス在住であった著者の父親Pierre Ivanoffと、のF.N.Cholmeley氏(イギリス在住)との12通の往復書簡が掲載されている。
Pierre Ivanoffのモーケン族に関する論述文が、Geographical Magazine(1970年6月号)に掲載され、ビルマが
イギリスから独立する前の1946年から47年にかけてメルグイ諸島でモーケン族と一緒に仕事をしていたF.N.Cholmeley氏が、
出版社編集局経由Pierre Ivanoff氏宛てに1970年9月に最初に手紙を出したのがきっかけで、書簡のやりとりが
2人の間にはじまった。F.N.Cholmeley氏は民族の研究者ではなく、鉱山技師であったが、第2次大戦直後の
モーケン族に関する貴重な写真やいろんな見聞が、本書にも披露されている。当時のメルグイ諸島の様子
やモーケン族の暮らしの様子はもちろんのこと、第2次大戦中のモーケン族と日本軍の関わりなどの記述も、
見逃せない。また国や経歴も異なる2人のやりとり・交流が実にさわやかで感じが良い。
http://www.mekong.ne.jp/books/foreign/010601.htm

784農NAME:2006/01/09(月) 23:20:28
中共は着々と海洋に出てきている。
 東の海は、つとに承知している日本人は多いだろう。
 アメリカがベトナム戦争にこりごりしたころ、南シナ海の島々を領有した。アメリカがフィリピンのスービックとクラ−ク基地から
撤退した直後、南沙諸島を領有した。
 日本が、平和ボケして「日中友好」で北京ボケの時、しかも、女スパイに嵌った総理大臣をだしているとき、東シナ海に出てきた。
 だから、小生は尖閣諸島に国民の耳目を集める行動を取った。
 しかし、西方の状況を知っている日本人は少ない。
 中共は、インド洋アンダマン海に既に出てきているのだ。既に、ミャンマー政府はアンダマン海に中共のレイダー基地設置を
承諾している。
 さらに、中共はミャンマーの中部都市マンダレーまで国境から高速道路を設置する計画を進めている。中共の国境から
マンダレーまで高速道路を引けば、あとは、イラワジ河に大型船を浮かべれば、インド洋まで水の高速街道が貫通する。
 レーダー基地と高速街道により、中共はアセアンの西側のインド洋に海軍を遊弋させることができる。
 インド洋の東、アセアンの西、ここを中共が抑えれば、パキスタンとインドを挟み撃ちにできるとともにアセアン支配の圧力を加えることができる。
 アセアンの東西で中共は、着々とこのような戦略を実行して、帝国主義的・中華主義的支配圏を拡張しようとしてきたのだ。
 それも、「日中友好」の掛け声で、日本が多額の援助を出しているなかでだ。
 我が国の、対中・対印を含むアジア外交・アジア戦略にとって、ミャンマー(ビルマ)がいかに重要な国か、先の大戦における
ビルマ戦線の意義を振り返るだけでも明らかである(30万の日本軍がビルマ戦線に投入され、ビルマ独立とインド独立の
インパクトを与え、中国の蒋介石支援ルートの切断を期した)。
http://www.n-shingo.com/jijiback/p/p20020502.html
785農NAME:2006/01/09(月) 23:29:37
http://www.ido21.com/ido21/report/htm/matsuda/mynmar.htm
ビルマ メロメロ

 ビルマに惹かれ、何度となく訪れる、ビルマ大好き人間をビルマメロメロとかビルキチ(ビルマ狂い)とか云う。なんとも
奇妙な現象ではある。べつに気候風土が快適というわけでなし、果物は豊かだが、農耕中心のリッチとはいえぬ国である。
ただ同じ仏教国という共通点もあるにはあるが、それも理由ではなさそうだ。
 昨年3月81歳で亡くなられた作家の古山高麗雄氏、ラオスで終戦を迎え、サイゴンで戦犯として収監され復員。
一兵卒として東南アジアの戦場を見てきた体験を書いてこられた。戦犯刑務所の体験をまとめた「プレオ18の夜明け」
で芥川賞を受賞、当時50歳の新人作家として報道された。その後ビルマ戦線のことを書いた「フーコン戦記」ほか三部作で
平成12年に菊池寛賞を受けた。自他ともに許すビルマメロメロであった。
 「ビルマ以外の帰還者には見られない、なんかビルマと相性があう、というのでしょうか、それ以外には考えられない」と
書いている。(日本経済新聞2000年12月10日掲載)
 戦時中、ビルマで道案内をかってでてくれた現地の人たち、行き倒れになっているとき介抱してくれたり、こっそり衣食
をもらって生き延びた日本兵は多い。食糧調達で現地の人たちにはずいぶん迷惑をかけたと洩らす人もある。なのに
戦後捕虜生活を余儀なくされた日本人はビルマの人たちから米を世話してもらっている。それも英兵やゴルカ兵の目
を盗んで運び込んでくれたのである。日本人には好意以上のものをもっているとしか考えられないのである。また
立ち直って英軍をやっつけてくれ、とビルマ人から云われた人は多いはずだ。なにか心やさしいビルマのひとたちに
「深くのめりこむ」気持ちもわかると古山氏も語っている。
 戦友の慰霊祭のため今もビルマを訪れる人は、例外なくビルマのために何かしてあげたいという気持ちの人ばかりである。
戦争中日本軍の走り使いをしていた少年が、いまは村長になったりしており、ほほえましい交流がつづいている例もある。
文房具の寄付や小学校を建てたりするケースは枚挙にいとまがない。
 (略)
786農NAME:2006/01/10(火) 16:05:18
「あの年、両親と兄妹8人が家の中や路上で、飢えのため次々に死んだ。コメ一粒もなかった。両親が死ぬ前に、日本人
のせいだと嘆いていたのを覚えている。生き残ったのは私だけ」。ハノイまで南東150 キロメ−トルのタイビン省ティエン
ハイ県タイルオン村でブ・バン・ドゥアさん(64)はこう語った。今は水牛の世話やガラス切りなど、よそから頼まれた
仕事で生計を立てている。
 近所のブ・ティ・ガイさん(86)も「日本軍の通達によってコメを供出せよ」との命令が来たのを覚えている。「食べ物が
なくなり、ハノイまで歩いて行きました。こじきになりました。9人の子供のうち、幼かった3人の娘が死にました」
「あの年」とは、 1940年からフランス領インドシナに進駐していた日本軍が仏軍を武装解除して、ベトナムを占領下に
おいた1945年のことだ。
その前年、ベトナム北部は大冷害に見舞われた。日本軍が仏統治府に圧力をかけコメの強制調達に走り、準備米も
収奪したため翌年にかけて大飢饉が起こった。タイビン省では人口の三分の一の27万人、タイルオン村では3,900 人が
死亡。「都市・農村を問わず死体が道路の至る所に散乱する」(ベトナムの歴史教科書)惨状だった。 ホ−・チ・ミンは
45年9月の独立宣言で、「わが人民は仏と日本の二重のくびきのもとに置かれた。200 万人以上の同胞が飢え死にした」と
述べている。「死者200万人」は通説であり、裏付ける調査デ−タ−があるわけではない。独立後、ベトナム30年間戦火に包まれ、
調査が不可能だったことが大きい。しかし、少なくとも数十万人が餓死したことは否定できない。
 冷戦下、日本は59年、当時の南ベトナム政権と戦時賠償協定を結んだ。飢餓が起きた北ベトナムに対しては、73年の
国交樹立の際にもハノイの賠償要求を拒んだ。昨年8月に訪越した村山首相も、この問題には触れず、ベトナムの
ホ−・バン・キエト首相も「過去の扉を閉ざそう」と述べた。経済援助の必要性から賠償問題については「当面は
言及するつもりはない」(ベトナム外務省)とする同国の戦術もある。ベトナムは最近、日本の学者の協力も得て
飢餓の実態を調べ直し始めた。しかし、半世紀を経た今、関係者の記憶は薄れ、調査は困難を強いられている。
http://chot.catholic.ne.jp/chot_60.html
787農NAME:2006/01/10(火) 19:27:42
http://kyoukasyonet.fc2web.com/kiru7.html
11月21日,旅順占領
虐殺事件をおこす 婦女子・幼児を含む非戦闘員6万人の虐殺清国軍や現地民衆の抵抗に業を煮やした日本軍は、
占領後四日間にわたって無差別虐殺を行った。11月28日の『ニューヨークワールド』に、「日本は文明の皮膚を被り、
野蛮の筋骨を有する怪獣なり」と糾弾する記事が掲載される・・・福沢諭吉の『時事新報』も、非戦闘員の被害者とは
実は敗戦兵が軍服を捨て民間人を装っていた者だ、と強弁した。


虐殺の原因は
外国人新聞記者たちは、日本軍がそれまでの好感の持てる態度を一変させ、旅順で三日間、四日間、いや五日間にも
わたり無抵抗な人々を放逸に殺戮するのに驚き、そして悲しんだ。クリールマンは、「日本はそれまでつけていた
仮面をはずした」と「ワールド」(十二月二十日付) に書き、ヴィリアースは「殺戮の明らかな原因はない」と
「ノース・アメリカン・レヴュー」(一八九五年三月号)に書き、そしてコーウ エ ンは、「睡眠をとったあとにも、
大量虐殺は続けられた」と「タイムス」(一月八日付) に書いた。・・・何故このような事態に至ったのか、
どうにも腑に落ちないようであった。・・・結局は、仲間の生首を見たことが兵士の激昂を誘ったので
あろうという結論に達せざるを得なかった。


788農NAME:2006/01/10(火) 19:30:43
京城・西大門刑務所
日本植民地時代における朝鮮人弾圧の砦
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/seoulprison/1top/prison1top.htm
789農NAME:2006/01/10(火) 19:34:14
ナヌムの家 従軍慰安婦
http://www.nanum.org/jap/index.html
790農NAME:2006/01/10(火) 22:09:13
ここは一部地域を中国が領有を主張してて、中国とブータンの間で一番緊張度が高いところのようで、私達外人が入るのは難しいようです。
ティンプーからは4、5時間の距離のようで、途中のチェレラはブータンで一番高いところを走っている自動車道路(これはちょっと眉唾で、
ティンプーとプナカの間にある放送塔は4000m近い所にあり、こっちの方が自動車道としては高い所にあると思います。)で、
ブルーポピーをトレッキングすることなく見に行く事が出来る数少ない場所のようです。
http://www.geocities.jp/bhutanseikatu/Bhutan/mati.htm

791農NAME:2006/01/11(水) 22:43:53
731
著者/訳者名 : 青木富貴子/著
出版社名 : 新潮社 (ISBN:4-10-373205-9)
本の内容

初めて明らかになる細菌戦部隊731・石井四郎戦犯免責の真相。

目次



プロローグ 深い闇
第1部 加茂から満州へ(加茂
東郷部隊 ほか)
第2部 終戦そしてGHQ(「1945終戦当時メモ」
占領軍の進駐とサンダース中佐 ほか)
第3部 石井四郎ノートの解読(「終戦メモ1946」
鎌倉会議 ほか)
エピローグ 軍医たちのその後
http://7andy.yahoo.co.jp/books/detail?accd=31572874
792農NAME:2006/01/11(水) 23:32:19
故山崎軍太元マカッサル市特別市長のご家族(次女山崎悦子氏ほか2名)が8月中旬、マカッサル及びマナドを訪問され、
マカッサル市長、北スラウェシ州知事から歓待をうけられました。故山崎軍太氏は、明治27年生まれ、長崎高商卒業後、
南洋貿易(合併後、南洋興発)に入り、南洋地域で幅広い商社活動を行うとともに、戦前、マナドで日本人会会長を
つとめました。大戦中は、マナド、マカッサルで、海軍経済顧問、日本民政時代にはマカッサル市特別市長をつとめ、
昭和59年にご逝去されました(享年89歳)。今回の同氏家族の訪問のきっかけは、マカッサル市博物館より、
山崎元市長に関する史料入手の協力を求められた当館が、当時の関係者に連絡をとり山崎氏の写真を同博物館に
提供した話を、山崎家の方があるインターネット・サイト上で見つけたことに始まります。その後山崎家より、
故山崎軍太氏が、当時、北スラウェシ・ミナハサ族長から寄贈された刀剣を60年ぶりに返還するために
ミナハサを訪問したいとの希望が出されました。これを受け、6月のマカッサル市博物館長が訪日した際に、
同刀剣返還の具体的段取りが話し合われ、在京インドネシア大使館の好意的な配慮もあり、今回の訪問時に
返還式が行えるよう準備が進められました。今回の訪問中、マカッサルでは、マカッサル市博物館(元市庁舎)で
当時の山崎元市長の執務室を見学、イルハム市長公邸(山崎元市長当時も同じ公邸)に晩餐招待
されました。また、マナドでは、知事、文化関係者同席の返還式が行われ、同刀剣が、ミナハサ族に
古くから伝わる名刀で貴重なミナハサ文化財であるとの鑑定を受け、北スラウェシ州博物館に
保管されるようになりました。 更に、ご家族は、8月17日の独立記念日記念祝賀会にも公式招待されました。
http://www.id.emb-japan.go.jp/cons/mksr/mksrtyr05.html

793農NAME:2006/01/11(水) 23:44:37

 今回は日本の若者がほとんど知らない軍歌について書
いてみました。それでは本編をどうぞ。

----------「インドネシアに残る日本軍歌」----------

 インドネシアの田舎へ行くと、日本人がやってきたこ
とを聞き付けた老人がどこからともなく現れて、数十年
ぶりに使用するであろう日本語で、うれしそうに僕に語
りかけてくる。そして決まって日本軍政時代に覚えた日
本の軍歌を歌う。先日、スラウェシ島の田舎に行った時
もそうだった。スラウェシ島から大平洋横断の旅に出る
日本人冒険家や僕を前に、日本軍政時代を生きた老人た
ちは、うれしそうに日本の軍歌を歌った。

 その中には僕が知っている「軍艦マーチ」もあったけ
れど、そのほとんどは曲名も知らない聞いたこともない
軍歌ばかり。僕は半ば申し訳ない気持ちで老人たちの軍
歌に耳を傾けた。

 真白き富士の気高さを
 心の強い盾として
 御国に尽くす女(おみな)等は
 輝く御世の山桜
 地に咲き匂う国の花

 きっと僕のような現代の日本の若者には聞き覚えのな
い曲であろう。しかし、第2次世界大戦を体験した日本
人はこの曲を知っている。戦前からインドネシアに住む
石居日出雄さんから、ひょんなきっかけでこの歌とイン
ドネシアの関係について知ることになった。
http://www.melma.com/backnumber_13129_2037559
794農NAME:2006/01/12(木) 00:07:44
http://www.nindja.com/papua2002.pd
■ アマイ―おじいちゃんたちの軍歌で歓迎
 そこからまた車でデパプレへ向かった。途中、懐
中電灯と水などを買った。警察のアモスさんがデパ
プレで合流して、舟に乗ってアマイヘ。13:05 に出発。
10 分弱で到着。村の子たちがみんな海で泳いでいた。
長老たちがお出迎え。
 まず舟から降りたら、2 本の木の間を通って村に
入れと言われ、村井先生が先頭で歩いていったら、
おじいちゃんがナイフを持って飛び出してきて、本
当にびっくりした。それにつづき、槍と弓矢をもっ
たおじいちゃんたちも出てきた。村に初めてくる人
たちがやってきたとき、その人たちが何のためにき
たのか、たしかめるための儀式だそうだ。
 そこを抜けるとおじいちゃんたちが7 人ぐらいい
て、日本の歌を歌ってくれた。軍歌、君が代ともう
1 曲で3 曲。この地域に第2 次世界大戦時、日本軍が
来て、そのとき教えられたものを覚えていて練習し
てくれたということ。次に太鼓を男の人たちが叩き、
女の人たちが、両手に葉っぱを持ち、踊っていた。
795農NAME:2006/01/12(木) 00:15:10
赤道直下のセレベス島。その南西端にマカッサル(現インドネシア共和国、スラウエシ島ウジュンバンダン)の町がある。
この町は当時から、ボルネオとの間のマラッカ海峡に沈む紅く大きい夕陽で知られていた。

昭和十八年六月二十二日、マカッサルは敵B24爆撃機十六機の爆撃を受けて、多くの原住民が殺傷され、居住地区にも
甚大な被害を受けた。当時この町には、ジャワ島スラバヤにあった九三二空の派遣隊として、固定脚の九七式二号
艦上攻撃機(三人乗り)がただ一機配備されていた。任務は対潜哨戒である。

敵の爆撃にどうすることもできなかった派遣隊長、木野中尉(操縦員)は無線員の広田飛曹長、偵察員の真鍋二飛曹を
伴って被害状況を視察した。爆撃は原住民の家屋密集地区に集中していた。中尉は眼前に展開したすさまじい光景に
呆然と立ち尽くすが、同時に自分たちの町を爆撃したB24に対し、手をこまねいて何もしなかった自分達に向けられた、
住民の怒りと侮辱の視線を感じていた。

その翌日。木野機は前日と同じ時刻に現れたB24の十六機編隊を迎撃して、編隊長機に体当たりした。九七艦攻と
B24は一つの火の玉となって海に堕ちた。
http://www.kamikaze.ne.jp/sange/09.html
日本軍
796農NAME:2006/01/12(木) 00:19:00
地形は多少の起伏はあるものの急峻なところはなく、一望では300ha位の茶園開設は可能に見えた。
 試験栽培の開始当初、現地の住民から、第2次大戦中駐屯していた旧日本軍が植えた茶樹が残されているとの話を聞いた。
遠隔の山奥であったが行ってみたところ、明らかに人工植林で、胸高直径20cm前後、樹高は10m近くのものが
数十本も稙生していた。樹種はジャワ島在来種であった。試験栽培について成功するか一抹の不安を抱いていたが、
長期間放置しても良好な植生をしているこの状況を見て、確信がもてた。
http://www.jopp.or.jp/sss/amino.html
797農NAME:2006/01/12(木) 00:28:12
D・ゲンダーヌ
 ダーヒンニィーニェ・ゲンダーヌという名前を日本語訳すると〈北の川のほとりに住む者〉という意味である。北方少数民族の
呪者の家系に生まれたゲンダーヌは父ゴルゴロがそうであったように遊牧と狩りを生命の糧とする民族の末裔である。
ウィルタという名前も、トナカイを引率しトナカイの為の豊かな地を探し求めて移動する民族という意味で、呪者はいわば
トナカイの道先案内人ということであろう。少数民族に限らず多くの人々がそうであったように第二次大戦がゲンダーヌを
含めてダーヒンニィーニェ一族の運命を大きく変えてしまった。ウィルタ族のほとんどはその頃樺太を中心に住んでいたが
一部はロシアの奥地から南は北海道まで広く移動を繰りかえしていたという。第二次大戦。そしてポツダム宣言によって
ロシアによる北方領土の占領が決まった時ゲンダーヌ一族は北海道にとり残されることになってしまった。
彼等の故郷は樺太というよりも北方全域の国境のない国である。たまたま北海道にきていたウィルタ族を日本軍は戦争
の末期になり彼等まで兵士として徴兵し聖戦の名のもとに戦場へ送りだそうとしていた。「まったく、どうかしていると
思わないですか、ハマダさん。ウィルタに天皇の為とか大君に、という考えがあると思っていたのでしょうかまったく」。
まるで動物でも扱うように連れてこられた彼等の何人かは死に、生き残った者は土人として登録されたまま北海道
にとり残されてしまった。海峡は遠くなりかつてその海峡の氷の上を自由に渡り歩いた昔日は帰ってこない。
「ここ大曲という土地はネ。昔の樺太のオタスの森によく似ているんです。川が裏にあり唐松の林があり春には
苔桃の芽があちこちに出てネ。でも―似ているけどここはチチハルでもないしシベリアでもない…」。ゲンダーヌは
戦後十数年してから少数民族会議に出席するようになる。アイヌの友人にすすめられたからという。
http://www.m-bros.com/goji-hamada/J-html/gh-j022.html

798農NAME:2006/01/13(金) 18:55:43
799農NAME:2006/01/13(金) 18:58:35
三浦氏は明治20年(1888年)宮城県仙台に生まれ、20代でセレベス島マカッサル

(現在のスラウェシ島ウジュンバンダン)ニに渡り、雑貨商を営んだが、やがてバリ

島に新天地を求めて移り住み、自転車修理業をしながらデンパサールで暮らした。

日本の落下傘部隊がメナドに進駐した頃、三浦氏は引き揚げ船で帰国していたが、

バリ等攻略部隊の道案内兼通訳として請われ彼は再びバリの地を踏む。1942年三浦

氏53歳の時であった。

同年5月バリ島が日本海軍の軍政担当地域と決まり、堀内大佐率いる海軍部隊がメナ

ドから転進して軍政実施に着手後、全バリの治安は回復し島民は落ち着きを取り戻し

生業に就けるようになった。

これは、堀内大佐が日本の民間人三浦氏を信頼し、住民統治の仕事を彼に委ねたから

と記されている。
http://www.mars.dti.ne.jp/~sigeyuki/st-4.htm
800農NAME:2006/01/13(金) 19:05:29
http://72.14.203.104/search?q=cache:HSr5Of2JDWoJ:www.246.ne.jp/~k-yosino/17114.htm+%E7%94%B0%E7%95%91%E7%9B%9B%E9%A0%86%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%83%A1%E3%83%8A%E3%83%89&hl=en
「世紀の遺書」を読む
二〇世紀と戦争の歴史
大倉 忠夫(中里・横須賀市)
(略) 
 彼は一九二〇(大正九)年頃、一二歳で故郷を出て船乗りになっている。小学校を出たか出ないかの年齢である。
この年齢で島を出て船乗りの修業をするというのは当時の奄美の貧しさを考慮に 入れても相当に
貧しい生活環境にあったものと思われる。船乗りと言っても、おそらく掃除や物運びなどの下働きをして
いたのであろう。この年、朝鮮では三二独立運動が起こったが日本軍部に鎮
圧されている。田畑盛順は五年後、一七歳の時に新しい働き場所を求めてミナハサ島に渡ったという。地図を見ても
よく分からない。当時オランダ領であったインドネシアのスラウェシ(セレベス)島にミナハサ半島がある。この半島を
そう呼んだのかも知れない。その頃中国では日本軍の進出に抵抗し排日運動が高まりつつあったが、南の島で
働く彼には多くの日本人と同じく中国東北(満洲)で何が起こっているか余り関心もなかったであろう。彼はセレベス
周辺の島々を航海する船に乗り多忙な人生を送っていた。年は過ぎ二一歳で奄美を出て少年は三〇代半ばの壮年
になっていた。一人前の船乗りとして仕事にも脂が乗り切っていた頃の一九四一年二一月八日、祖国日本が米英
に宣戦を布告し続いてオランダにも宣戦布告した。緒戦の勢いに乗った日本軍が南アジアの島々にも殺到し、
田畑が現地住民と仲良く暮らしていた島も忽ち日本軍の占領するところとなり、現地語に精通する彼は海軍の
通訳として徴用された。.彼にとっては迷惑な話であったかも知れない。特警隊(海軍の憲兵か)の通訳として、
逮捕された現地の犯罪者やスパイ容疑者の取調べの際に特警隊員の言うことをそのまま伝えていた。
二、三年後には戦局は逆転し始め連合軍の優勢が南の島々でも明らかになってくる。スパイやゲリラ
の活動が活発化し、敗色濃い日本軍は神経質になり現地人に対する対応が厳しくなる。終に一九四五年
八月一五日、日本は連合軍に降伏した。
801農NAME:2006/01/13(金) 19:08:20
http://www.e-shodoshima.com/webmag/05_09_11.html
┃ 大東亜共栄圏の解放。(南太平洋の死闘)           ┃
┗━┛━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

   ◆ ジヤワ軍政の成功 ◆

   一

ジャワ攻略を予期以上の成功に導いた原因は、決して一、二にとどまらない。
第十六軍の作戦準備の周到さと、その指導の的確さに加えて所属部隊の冷静かつ果敢
な行動が、最大の原因だったことは云うまでもないが、さらに特筆すべきことは、上陸
作戦における陸海軍の緊密な協力と、軍司令官、今村均中将を中心とする人の和にあっ
たことであろう。
人の和は、その中心人物の持ち味によって、自然に形成されるものだけに、これだけ
は命令系統や軍律だけではいかんともなしがたい。もし、この作戦に見られるような渾
然とした融和が、太平洋戦域全体をつつんであったら、……と、今さらのように悔やま
れるのは筆者だけではあるまい。
敵は日本軍が三方からジャワ島に上陸し、東海林支隊の若林挺身隊がレンバンの町の
南高台に進出した頃から、すっかり足並みをみだしてしまった。
まさか七百という少人数で、八万もの大軍を擁する大要塞に挑みかかったものとは
判断できず、それがはしなくも敵の盲点を衝く結果となり、彼らを収拾できない大混乱
に陥れてしまったのだ。
当時のバンドン要塞陣地にあった敵の数は、蘭軍二万五千、英軍一万、米軍一千、
濠軍五千、土民兵約四万の合計八万一千あまりであったことはすでに書いた。
連合軍総司令官はイギリスのウェーベル大将だったが、彼はいち早くインドに飛び去
って、総指揮官にはオランダのポールテン中将を任命していたことも書いた。
これは任命というと、体裁はよいが、実際は無理に押しつけて、さっさと逃げていま
ったのだ。
802農NAME:2006/01/13(金) 19:11:20
http://balitriloka.com/miura.html
(日本軍)
<三浦 襄翁をご存じでしょうか?>
明治初期(1888年頃) 宮城県仙台にて生まれた三浦氏は、日本人未踏の島、ヒンズー教を崇拝し、伝統文化を尊重し続ける
バリ島に新天地を求め移り住みました。
謙虚で誠実で人情に篤いその人柄は、人々の間に敬愛と信頼を集めました。  
昭和6年の秋、東亜の戦風がバリ島の空を霞み始め、翌年、堀内豊秋大佐の指揮 する落下傘部隊がメナドに進駐した頃
(1942.01.11)、引揚船にて帰 国していた氏は、バリ島攻略部隊の道案内兼通訳として再びバリの地を踏む事となった。
日本軍は右も左も分からぬこの地でずいぶんと無理無体をしていた。
苦情や不満の声が殺到したのは言うまでもないが、この声に一つ一つ答えようと した三浦氏が、バパ・バリ(バリの親)という
最大の敬愛をあらわす呼び名で呼ばれるようになったのはこの時期からです。  
軍の要請により缶詰加工工場を新設し、その代表に氏が選ばれた。一般業務の運 営、経理を一切現地人に委ね、貧しい人達を
集め、工場から出る牛の骨で歯ブラ シを作り海軍軍需部に納めていた。表面的には三浦商会としていたが、代金は
そ のまま現地人に支払われ、氏は一文も受け取らなかった。  
また、氏には戦争によって日本人とバリ女性の夫婦が離ればなれになり、子供を 抱え困っている母親を見て、引き取った子が
10人以上いた。1ヶ月日本円にして200円の収入でしたが、この金額で10人以上の子を育てるは容易ではなかったはずです。

803農NAME:2006/01/13(金) 19:15:10
「メナドには最初に海軍の落下傘部隊が降下したとろであり、また占領以来、日本軍が善政をほどこしていた。
それにメナドには昔から伝説のようなものが語り伝えられていた。それは住民はオランダの圧政の下に長い歴史を
通じて苦しめられてきていたが、必ずそのうちに天から白いものを被った天使が降下してきて、われわれを
救ってくれるというのである。そういう伝説が信じられているところへ、わが落下傘部隊が、白い落下傘を被って
降りてきて、たちまちにして蘭印軍を駆逐してしまったので、住民の間にはこの伝説に対する信仰が一層燃え上がり、
飛行機乗りといえば、神様扱いだという。笹井中尉は得意になってその日のもてた話をするので、みんなは
「それなら、おれも飛行機を故障させて、メナドに不時着すればよかった」と大笑いした。」坂井三郎空戦記録」
http://www.fsinet.or.jp/~ishiya/hayao3.htm
804農NAME:2006/01/13(金) 23:07:21
キルギスタン、カザフスタン、ネパール、パキスタンといった隣国への避難を多くのウイグル人が選択している。
しかし、それでも安全ではなく、こうした庇護希望者を強制送還するよう、中国政府は隣国に圧力をかけている。
中国に送還された人びとには、拷問、不公正な裁判、更には処刑といった重大な人権侵害が待ち受けている。

 最近では、シャヘール・アリさんをネパールにある国連難民高等弁務官事務所が難民と認定していたにもかかわらず、
シャヘールさんはネパールから強制送還され、中国で処刑された。このウイグル人活動家がネパール入管に拘束された
のは、第三国への定住を待っている時であった。ある目撃者によると、その後シャヘールさんは、少なくとももうひとりの
勾留者とともに在ネパール・中国大使館職員に連行された。

 ネパール滞在中、シャヘールさんは、1994年に新疆ウイグル自治区の刑務所で8ヶ月にわたって拷問された時の
様子を述べていた。それによれば、枷[かせ]をかけられた状態で殴られ、電気ショックを加えられ、あるいは足の爪の
裏に釘を刺し込まれて、様々な犯罪を自白するよう強要されたという。

 アメリカ合衆国当局者は最近、グアンタナモ湾で拘束しているウイグル人22 人を、中国に送還することはできないと語った。
明らかにその理由は、送還すると拷問や処刑さえも受ける危険があるからだ。しかしアムネスティが入手した信頼すべき
情報によれば、中国の代表団がグアンタナモを訪れた際に、ウイグル人は威嚇や脅迫、および睡眠剥奪や長時間の着座
といった「ストレスや強要」に晒されていたという。これらの虐待の中には、中国代表団の指示で行なわれたものもあると
言われている。
http://www.incl.ne.jp/ktrs/aijapan/2004/0407070.htm
805農NAME:2006/01/14(土) 13:36:36
戦前、東大で植民政策を担当していた矢内原忠雄は、最もオーソドックスな
植民政策学の教科書とされる『植民及植民政策』(1926)で
「属領」(ここでいうところの「植民地」)を次のように定義している。
(矢内原は「植民地」を若干異なる意味で使っているのだが
それに言及すると話がややこしくなるのでここでは触れない)

@国際法上の一国の領土で、その領土権は完全に自国に属する。
A歴史的に見て固有の領土でなく、新たに編入された地域である。
B通常は社会的構成の面において特殊性を帯びることが多い。
C完全に国家の固有的構成部分として合体されきっておらず、
 国家内部にあって特殊の法域、特殊の行政区域とされている。
806農NAME:2006/01/14(土) 17:57:11
土佐高知の雑記帳
四国西南部から徒然なるままに、祖国の右傾化、田舎切りすてに異議申し立てほえる。靖国神社の戦争犠牲者冒涜に怒りの発信!
軍需産業=吸血鬼を暴き出すお気楽バンパイア・ハンター(^○^)
http://jcphata.blog26.fc2.com/
(反右翼)
807農NAME:2006/01/14(土) 20:00:26
インドネシア侵略と独立
戦争犠牲者を心に刻む会編

2000年8月刊 A5判 148頁 東方出版 1,600円
http://www.asiabunko.com/i_sinryakuto.htm
「刊行にあたって」より
私たちは、1999年の8月、「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」 に、インドネシアにおいて
日本軍による被害を受けた方々をお招きし、これまでほとんど知られることのなかった日本のインドネシア
侵略の一端を明らかにする集会を開きました。本書は、そのときはるか赤道を越えて、インドネシアから来日
してくださった元「ロームシヤ」、元日本軍「慰安婦」、元「兵補」、「シンガパルナ抗日蜂起事件」の関係者の証言
とともに、大阪集会でのシンポジウム「日本はインドネシアで何をしてきたのか」における研究報告、
また新たに寄稿していただいた論文を掲載したものです。
808農NAME:2006/01/14(土) 20:02:03
Style of Asian - 58
 スマトラの人々は非常に親切でした。どこに行ってもご馳走してくれるし、気にかけてくれる。そんな
インドネシア人と日本人の僕という間柄でしたが、過去に国同士では、暗い歴史があります。
ガライ・シアノッというインドネシアのグランドキャニオンと言われるところでは、巨大な防空壕があるのですが、
そこは旧日本軍がインドネシア人達に強制労働させ、作らせたところと言います。動けなくなった人間は
、刀で切捨て、大勢の人が崖から投げ捨てられたと言います。(*実際には現在のところ、その虐殺は
なかったとの説もある。インドネシア政府は虐殺があったという話は誤りだったとしている。)他の島々でも
日本軍による虐殺があったという話はごろごろあります。肉親が食われたという話も耳にしました。
しかし現在、日本ではそのような虐殺はなかったという事を訴えています。
これが真実かどうかは分かりません。
ただ僕にはこんなインドネシア人達がよく言う言葉が印象的でした。

オランダ統治の300年間よりも、日本の3年間の圧制の方がきつかった。
(こう語り告がれている)
http://shiryudoh.blog.ocn.ne.jp/ron/2006/01/style_of_asian__3.html

809農NAME:2006/01/14(土) 22:46:34
レスター・テニーさんからのメッセージ
日本企業はその責任を自覚せよ!
− 祖国と引き継ぎ負債、その発展の犠牲となった国家、国民へ −
レスター・テニー(博士)
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/nkhp/deny.htm
三井(世界第三の商社)、三菱、新日鉄を含む世界に名だたるこれらの日本企業は強制労働を強いられた捕虜に、
一連の残虐な行為(いじめ、暴行、拷問、辱め)を繰り返した。

日本軍が太平洋地域及びアジア全体やバターンを含むフィリピンで行った、残虐な行為や戦争下の悪行を容認
しがたいのは勿論である。しかしここでは、日本を国家としてその責任を問うのとは別に、収益を追求する私企業が
行った行為の責任についても決して許されるものではないことを強調したい。その行為とは強制労働であり、労働者の
非人道的処遇である。強制労働者が、野蛮な、サディスティックな行為から蒙った永年にわたる肉体的、精神的苦痛
については、今までは深刻に考えられなかったが、これからはもっと真剣に考慮されるべきものである。

過去において、強制労働者の不適切な対応をし、許しがたい罪を犯したにも拘わらずそれを率直に認めなかった
日本企業が、世界的な地位を回復したいと願うなら、下記の懸案を解決すべきである。

まず第一に、一番重要な事ではあるが、強制労働者を雇用した日本企業は、その名誉回復のために、わかりやすい
真実の言葉で、誤解の余地のないような謝罪を真摯な態度ですべきである。

第二に、私的収益企業のために強制労働者が行った労働の正当な賠償要求を受けとめるべきである。
賠償金額の正確な算定には、インフレーションや遅延利息についても考慮する必要がある。その計算は
強制労働が月間28日、一日24時間労働で行われてきた事実も考慮すべきである。

次に第三として、戦争捕虜はたは非戦闘員の被抑留者で残虐行為を受けた強制労働者には、長期間延滞している
代償が支払われるべきである。被害者が長期間にわたって蒙った残虐行為の被害は、決して忘れられるものではなく、
またこれにより生じた日本企業の不当利得は、もはや放置されるべきものではない。
810農NAME:2006/01/14(土) 23:23:34
1942年から1945年まで日本はインドネシアを占領していました。年配の方に日本語が話せる人がいたのも
そのせいでしょう。普通異国の人が日本語を話すのを聞くとうれしいものですが、あの先輩方の場合は別でした。
なぜなら彼等の覚えている日本語というのが「集合」「解散」「婦人会」「青年団」「天皇陛下に向かって敬礼」「万歳」
「バカ野郎」、最後には私が聞いたこともないような軍歌まで歌うのです。私はとてもショックを受け、悲しくなりました。
この人達には昔のことが鮮明に残っているのだと。

 時間に追われて暮らしている日本での生活からはとても想像ができないほど、インドネシア人全般の人々の暮しは
の〜んびりしています。日本ですと約束した時間に遅れることは大変失礼ですが、インドネシアでは30分遅れは当たり前、
という感じです。私ははじめ、何てルーズなんだろうって思いました。当時、時間に遅れることは悪いことだと思っていましたから、
とても理解できませんでした。このことで友達と口論したことがあります。「なぜ時間を大切にしないのか」「遅れることは失礼
だと思わないのか」などといって彼を責めたのですが、話合った結果、私は納得することができたのです。
インドネシアで時間に遅れるということは決して悪いことではなく、それは習慣化したものであることを。これを機に
私は価値観というものはその人それぞれであり、一概にこうだと決め付けることは出来ないこと、これが良くてこれが悪い、
とは言えないこと、違う価値観を持ったどうしでも話合えばある程度までお互を理解することが可能であることを
発見しました。あの口論以後、どっぷりとの〜んびりした生活につかってしまった私です。
http://www.afs.or.jp/s_program/taikendan/ina.html
811農NAME:2006/01/14(土) 23:24:56
南国での余暇はいくらでも楽しみがある。気候、風土、生活習慣の違う田舎を旅行すれば興味が尽きることがない。
 老人と話をしていると時間が流れるようである。特に軍歌などが出てくると一緒に歌ったりする。日本軍を悪く言う人にあったことがない。
 3,000mを超える山が35峰を数えるインドネシアでは活火山が多いので自然のなかで露天風呂も楽しめます。山の斜面一面
のきれいに耕された茶畑も見られる。
 海に向かえばイルカの群遊が楽しめるし、ダイビングも楽しめる。先日はBALIで妻と一緒にダイビングの初体験をした。12mの
深さでボンベ2本を潜った。最初は耳が痛くて怖かったが、慣れれば大丈夫。その際に2mほどのサメの子供と遭遇し、ダイビング
の先生も珍しいことだ幸運だといってくれた。GOLFも安いし週末は楽しめる。寒いところの苦手な私にとっては快適な生活ができる。
海外でのロング・ステイを楽しむ人たちが多くなってきた。
 豊かな生活を求めてがんばってきた日本人。もちろん、人によって価値観は違うが、先日、新たに着任した人の住居探しを手伝って
数件をご案内したあとで、その方が発した言葉が印象的で忘れられない。「今まで狭い家で何を必死にがんばってきたのだろう、
1日で価値観がガタガタ変わっていく。」
http://www.pref.nagano.jp/soumu/kokusai/seinen/senior/fukuzawa.htm
812農NAME:2006/01/14(土) 23:26:32
インドネシアでも、「基金」の活動は受け入れられず、「それにかわって高齢者社会福祉推進事業への援助、具体的には
既存の老人ホームの付属施設を整備する事業を十年間で五十カ所に『基金』の資金を提供して」(二〇〇〇年事業報告)
進めています。すでに十一カ所が完成し、今回その中の一つ、ジャカルタにある老人ホームを訪ねました。
 広大な福祉施設「ブディ・ダルマ」の敷地の一角、カラフルな長屋風の建物で、きれいな服装で迎えてくれた老婦人たち
と懇談し彼女たちが青春時代=日本占領時代に覚えた古い日本の歌謡曲や軍歌をうたったりしました。
しかしそこには元従軍慰安婦は居ません。スハルト政権時代から「元従軍慰安婦」の認定を一切行っていないからです。
http://www.haruko.gr.jp/josei/endindonesia.html
813農NAME:2006/01/14(土) 23:28:12
インドネシアでの経験についてもう少しお話すると、私はジャカルタに3ヶ月滞在した後、フィリピンに近い、
セレベス島のマナードで、8ヶ月間を過ごしまた。マナードでは毎週、土曜、日曜、一泊で近隣の山岳地帯にある
教会訪問が主要なプログラムでした。礼拝や集会の後、日本についてスピーチをし、日本の歌をよく歌わされました。
マナード周辺は第2次大戦中、日本の落下傘部隊が駐留したところで、年配の人たちの中には日本の軍歌を
覚えている人が多くいました。私の下手な歌の後に日本の軍歌の合唱が続くことに驚かされました。また、
インドネシアでは私の名前の発音が「味の素」(=山本)及び東芝(=俊正)に似ていることから、インドネシアに
進出していたこれらの企業名でよく声をかけられました。マナードは小さな田舎町ですので、誰もが私を知っていて、
道を歩いていると「東芝」!「味の素」!、と声をかけられたのです。日本がアジアに戦争中に残した傷痕は
癒されておらず、企業進出として登場した日本の姿を肌で感じる体験となりました。
http://subsite.icu.ac.jp/people/hsuzuki/christianity/yamamoto_200405.html
814農NAME:2006/01/14(土) 23:29:46
ボルネオのスコールは激しい。朝からものすごい雨が降っている。
 タンジュン・セロールのおばあさんは、俺が日本人だと分かると一生懸命に覚えている日本語を話してくれたり、
昔の日本の歌や軍歌を歌ってくれた。
 「おじいさんはもっと上手だった」と笑っていた。
 日本軍がここに来た時には、今よりももっとインフラが発達していなかっただろうから、大変だっただろうな。
http://www.yuzurand.com/travel_indonesia.html
815農NAME:2006/01/14(土) 23:33:36
http://hotwired.goo.ne.jp/speakout/nextcitizen/980921/body_03.html
 老人が僕に目をとめ、「ニッポン、シッテル、ニホンゴ」と言った。そして自分の横に坐るように僕を促し、急に日本語のうた
を歌い始めた。知らないうただったが、それは明らかに軍歌だった。
「ニホン、サイショ、イヤ。ワタシタチ、ビンボー」と彼は言った。「デモ、オランダ、モットイヤ。ニホン、イッショヤッツケタ」
 太平洋戦争中のごく短い期間、日本はインドネシアおよびバリを占領していた。そして日本が連合軍に降伏するどさくさに
紛れて、オランダが侵入しようとした。バリ島に残っていた軍部は、バリ人と一緒にそのオランダの攻撃を阻んだ。その時の
気持ちを、老人は僕に伝えたかったようだ。「あのう、すいません、私ビールと煙草を買ってきます」
 老人と話をしている僕のところに、編集者が来た。間の抜けたような、力のない顔をしていた。僕は彼女に聞いた。
「ビールと煙草って何?」「バリアンの奥さんに聞いたら、インドネシア語で神と交流するには相手がインドネシアの神
になるから、喜ばすためにインドネシア製のビールと煙草をお供えするんだそうです」
 バリアンが結婚しているというのも、ビールと煙草をねだるというのも、いかにも俗世的に思えた。僕が勝手に
抱いていた神秘性はぱりぱりと音を立てて剥がれ落ちていくようだった。まあもっとも、酒や煙草などの嗜好品を
備えるのは、日本の仏教でもやっていることだ。そういう決まりなんだから、従えばいいだろう。
 縁側の端には奥間のような部屋があり、そこはオレンジ色のカーテンがかけられていた。祈祷のために誰かが
入っている様子で、なかからは唸る声や嗚咽する音が洩れてきていた。何をしているところなのか、
と老人に日本語で聞くと、彼は何も解さなかった。彼のガラムがあまりにも短いので、僕は自分の持っているもの
を彼に一本進呈した。それを口にくわえさせて火を点けると、彼はお礼のつもりか軍歌をもういちど歌った。
816農NAME:2006/01/14(土) 23:36:41
ところでボクの隣にいた70歳を超えた老人の顧問はピントはずれな発言で会議を悩ませた。
しかしこの老人は休憩時間にいきなり「君が代」歌ったり、「軍歌」歌ったり、昔の教科書(教育勅語?)の文章
]を言い始めたり毎日「タイソー」してる!といって「イチ、ニ、サン・・・」なんて言いはじめたりで、日本語の通訳の
女性とボクは思わず50センチくらいのけぞってしまった。
「日本軍とインドネシア軍はオランダ相手に戦い独立を勝ち取った。私も戦った。日本兵はたくさん死んだ。」
「日本は長崎、広島に原爆落ちて何もなくなってしまったが、すごい速度で復興を遂げた。」
「日本は7時間労働のところ、2時間余分にただで働いたから復興できた。」と彼は言った。
思わすボクは「今も3時間ぐらいただで働いている」と答えたら握手を求められ感動していた。
時々涙を浮かべながら話すこの老人に会議の熱さとは別に妙に熱い感動を得た。

過激な論戦でいつもまとまらない両派が日本人を前にして呉越同舟でプロジェクトを進めることとなった。


この老人は、「いつも彼らは物別れなんだよ。しかし今日はまとまった。君ら日本人のおかげだ」と言い満足そうに帰っていった。
http://www.zofrex.co.jp/kawaraban/index2.html

817農NAME:2006/01/14(土) 23:38:06
テルナテ島に限りませんが、インドネシアでは本当にどんなに田舎へ行っても占領中に日本軍の下で
働いていたという人に会います。

左のおじさんも海の遠くの方から小舟を漕いでやってきました。
黒い砂浜に座ってずっと浜に上がってくるまで見ていました。

するとこのおじさん浜に上がるなり、どっから来たんだ?日本か?じゃあ、この歌を知ってるだろ?とでっかい声で軍歌を歌い始めました。

その歌知らないと言っても、このおじさんはガハガハ笑いながら、手際よく漁の成果を片づけ、話し続けます。

ついこの間まで、この浜のすぐ近くに漁業関係の日本人が住んでいたそうです。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/5336/ternate2.html
818農NAME:2006/01/14(土) 23:46:26
http://bangkok.gpa.jp/bangkoknews/9908/
アジアを歩いていて年輩の方と出会うと、ソニー、トヨタ、ホンダなど日本の物質文明の礼賛と戦争時代の話題が
必ずといって良いくらい出てきます。タイ、ビルマ国境の山岳民族の村で、お年寄り達にボロボロの「軍票」を見せられ、
オボロゲな「軍歌」を聞かされ、「突撃!」「気をつけ!」などの片言の「軍人用語」を反芻されるのは「戦争を知らない子供」
の私としては日本軍の亡霊に出会ったようなものです。正直いって逃げ出したくなる気分です。しかし、50数年たっても
日本といえば戦争の記憶と物質大国の印象しか彼らに残していないのは
我々の世代の情けなさでもあります
819農NAME:2006/01/14(土) 23:51:11
してしまいそうだった。
 自己紹介の時、アパカバール? カバル バイク? −バイクバイク− ナマ サヤ ワカ イノウチ. パンギラン サヤ 
ワカチャン. スラマブクナラン.と、みんなが言う真似をして適当に言っていた。マレーシア語ではナマテマカンだけど、
インドネシア語ではパンギランというらしい、というだけで別に何も考えないで言っていた音だった。でも、何かの状況が
起こった時、身体の中からよみがえってくるものだと我ながら感心してしまった。
 その上、不思議なことに、帰国してTapeをきいていると、マレーシア語のTapeの中にパンギランというのがアチコチに
あるのが聞こえてくるのです。同じTapeをいつものようにBGMで聞いているだけなのに‥‥‥
やっぱり、不思議だなあと思うのです。(これは私だけでなく沢山の人がいつも言っていることなんだけど‥‥)
 ホームステイ中、パパは忙しい中を会社から早く帰宅して、息子のビンビンの運転でタマンサファリ(動物園)
へ連れて行ってくれたり(そこではコキリが象に乗っていて、思わず“ウワー!ゾウが象に乗ってるゾー”と叫び、
私もサンガジャ(象)に乗っけてもらったけど、歩くたびに象の背中の皮が前後にズレてタープットスカリー!!(コワかった!!))、
プンチャックという峠までドライブしたり、その車の中では日本の軍歌を大声で唱って、自分は15才の時故郷のスラバヤで
オランダ兵として日本兵と戦い、日本が負けたあと、今度は日本兵から銃をもらい戦い方を教わって今度はオランダ兵に
銃をむけた(独立戦争のため)そして、自分の家族、親類、友人は沢山死んだ‥‥‥etc.‥‥‥まさしく、“オラン 歴史”のパパだった。
 でも、日本が好き、日本語も大好き、息子のビンビンをどうしても日本へ行かせたい。‥‥‥ビンビンはとっても
やさしいいい子で、パパの健康のことをいつも気づかってよくお手伝いをする子です‥‥‥
http://www2h.biglobe.ne.jp/~zou/indonesi/waka.htm
820農NAME:2006/01/15(日) 00:16:33
前に井筒監督が「アジアの人達から見れば
今の日本人の多くは犯罪者の家系だと
認識されていることを日本人は自覚しろ」
と言っていた。


821農NAME:2006/01/15(日) 00:52:13
つぐない〜人肉を食った元日本兵の戦後」
今年2月、ひとりの老医師が亡くなった。相野田啓86歳。戦争中フィリピン、ミンダナオ島で犯した罪を背負って戦後を生きてきた。その罪
とは「生き延びるために現地の人を殺し、人肉を喰った」ことだった。人の命を救う医者が、人の命を食ったのである。このおぞましい過去を償うため、
彼はフィリピンで無料の医療活動を10年以上続けた。だが罪を犯したその村にはいけなかった。しかし自分の死期を感じ、遂にその村へ贖罪
に行く決心をする。涙ながらに謝罪する彼の姿に、険しかった村人たちの表情が少し和らぐ。死の直前、彼は妻に「戦争を
語り継いでほしい」という遺書を残した。1993年から12年間、極限の戦場から生還した軍医の償いの日々を取材した全記録
である。戦争を始めるのは常に国家だが、戦争の責任や痛みを背負うのは個人であることを、ひとりの元軍医の苦悩を通じて
静かに訴える。テレビ朝日制作。 (朝日ニュースターの番組紹介より)

ミンダナオ島の残留日本兵の人肉食については、辺見庸が『もの食う人びと』で現地取材をし、書いている。また、小説では大岡昇平が『野火』
で、武田泰淳が『ひかりごけ』でこのテーマを扱い、原一男監督の映画『ゆきゆきて、神軍』でも、今は亡き奥崎謙三がニューギニアでの
人肉食を執拗なまでに追及していた。補給路を断たれた日本兵は、アジア各地で人肉を食ってきたのである。

http://blog.livedoor.jp/planet_knsd/archives/2005-09.html
822農NAME:2006/01/15(日) 01:01:05

 リロアンで訓練を受けた学徒兵は別の会を作り、独自の新聞『リロアン会報』を発行した。これは帰国後も引き続き発行されている。
 これらの新聞によれば、太平洋戦争でなくなった日本軍人・軍属は240万名で、フィリピン参戦した軍人・軍属63万1千名のうち
戦没したものは49万8千名で死亡率78・9パーセントだった。私の所属した暁第6142部隊の在籍総員数2,694名中生還したものは
809名だった。
 なお本土空襲による日本国民の死者は53万人で、当時の人口の0・7パーセントに当たり、フィリピン人で戦争に
巻き込まれて死んだものは百万人にのぼり、当時の人口の4パーセントに相当する。戦争は日比両国民に
深い傷跡を残したのであった。
http://www2.mozcom.com/~hoshino/gakutohei4.htm
823農NAME:2006/01/15(日) 11:16:05
バリでも・・・前述のヌガラのロスメンに滞在していた際、ロスメンのテラスで一服していたら、庭の草刈りをしていた
おじいさんが「1本貰ってもいいかい?」と一緒に一休みを始めました。おじいさんのインドネシア語は難しくてカタコト
がやっとの私には殆どわからなかったけれど、途中からやってきた従業員の子の英語まじりの通訳によれば
(私は英語もできないのだけど・・(^^;)、おじいさんは戦時中まだ小さくて、バリにやってきた日本軍の洗濯物を
洗ったりしていたそうです。話の最後に当時日本兵から習ったという「ミチユカバ〜♪」という歌詞で始まる歌を
歌ってくれて、「まだなんとか覚えてはいるけど、意味はもうわからないんだ。ミチユカバってどういう意味?」と
言いながら一人くるくる回って陽気に踊ってくれました。
おじいさんは「日本兵は優しかったよ」と陽気に話してくれたけれど、こういう時って笑ったらいいのか、
真面目に応えたらいいのか、私は迷ってしまいます。子供だったおじいさんに本当に優しいだけだった
のかもしれないけど、当時を遠く過ぎてしまった世代の私に避けてくれた話もあるのかもしれません。
http://sc.gaiax.com/user/sc/h/r/hori52/diary.html
824農NAME:2006/01/15(日) 11:55:01
沖ノ鳥島は「島」?それとも「岩」?
http://agata.ciao.jp/blog/archives/000095.html
825農NAME:2006/01/15(日) 12:25:26
海外メディア視点 反日
http://www.higashi-nagasaki.com/CE00z.html
826農NAME:2006/01/15(日) 12:27:55
この記事も、単にA級戦犯合祀の問題だけでなく、靖国神社の歴史認識
と遊就館を痛烈に批判している。

尚、この記事は、2005年6月30日に、カナダの地方紙『エドモン
トン・ジャーナル』に転載された。

また、以上は、海外英語メディアの代表的な記事を列挙しただけで、小
さい記事も含めれば、氷山の一角にすぎない。

そして、この後、フランスの有力紙『ル・モンド』も靖国神社批判を展
開した。
また、西欧諸国のメディアの大半が、同様の記事を掲載していると考え
るのが妥当だと思う。

メディアは、その国の国民感情を反映する。
 重要なことは、事態は、日本vs米国とか、日本vs英国とかの2国間
に留まらず、中国、韓国も含む大半の先進諸国の国民が、靖国神社の歴史
認識を批判しているということだ。

これは、『朝日新聞』の2005年7月6日付朝刊13面に掲載された、
米ハーバード大社会学者のエズラ・ボーゲル氏のインタビューにおける、
米国の対日観についての、「日本は過去に悪いことをしたのに、それを認
めようとしないと思われている」という回答を裏付けている。
つまり日本は現在、ABCD包囲網も真っ青の、四面楚歌に直面してい
るのだ。

にもかかわらず、元外交官の岡崎久彦氏は、『諸君!』2005年8月
号41ページで、「欧米のメディアなどをみても、中国の反日姿勢に対し
て、だいぶ厳しい論調に変わってきましたね」と述べている。
http://www.higashi-nagasaki.com/e_pub/EE2005_06_z02_08.html
 
827農NAME:2006/01/15(日) 15:40:21
メコン源流「ニッポン村」―ある日本兵たちの戦後史
奥田 鉱一郎 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4828404287/qid%3D1117305770/250-0571304-1906612
828農NAME:2006/01/15(日) 15:59:22
元日本兵へのインタビュー報告
http://blog.goo.ne.jp/naoko_j/e/8b7023c8be5693908207be8866b64fbb
〔経過報告〕 フィリピンと日本をむすぶビデオメッセージ・プロジェクト 
829農NAME:2006/01/15(日) 16:07:40
チェンマイの8月(2005)
今回は最初の4日間はNBC-TVの取材に同行、チェンマイと元日本兵との関係や歴史も知ることが出来た。
ホテルでは深夜熟睡しているところ賊が窓から入ってバッグを取らた(現金だけ取り、パスポートなど捨てて
あった) 元ホテルマンでバックパッカーやってる私として恥ずかしい限り、皆さん自己防衛しましょう。
いろんな事があったチェンマイの2週間でした
http://www.fsinet.or.jp/~aizome/oct2005.htm
830農NAME:2006/01/15(日) 16:18:09
1996年  中国 雲南省 昆明市
私が雲南大学外国語学部日本語科講師をしているところに、夫が雲南民族学院留学生としてやってきました。
運命の出逢いからは1年昆明に滞在しました。その間に雲南省各地、シルクロード、ラオス、ミャンマー、タイ
などを旅行しました。雲南省ではタイ族やチベット族、ペー族など23の少数民族が民族衣装を着て昔ながらの
生活を営んでいて、省都の昆明を離れるとドキュメンタリー番組の取材をしているようでした。 

1997年  台湾
夫と私2人で文化大学に半年間留学しました。夫の希望で、日本統治時代に元日本兵として戦地に赴いた台湾各地
の先住民族(台湾では原住民と呼んでいる)の古老やその家族を訪ね話を聞かせてもらいました。この経験が後に
私が修士論文「台湾先住民の日本統治教育に対する評価とその根拠について」を書くきっかけとなりました。
台湾での経験は多くの日本人に伝えなければいけないという使命感を感じながら、未だ形に
なっていません。今後の夫婦共通の課題です。
http://hsmth.jugem.jp/?pid=1
831農NAME:2006/01/15(日) 16:22:17
http://ichyamada.jugem.cc/?eid=188
対独終戦60周年に際して何か一文を書かねばと思いあぐねていたら、NHKの衛星で特集をやっていた。

 「私はドイツの強制収容所に 捕虜として入れられていました。
  補償など 1ユーロも1マルクも もらっていません!」

うかつにも忘れていた・・・もっとも残酷で、もっとも悲惨な運命を味わった「捕虜」が、ソ連兵だったことを。
ナチスはソ連軍捕虜を「下等人間」とみなし、苛烈な取り扱いをした。アウシュヴィッツでの最初のガス殺はソ連兵
に対してだった。英米軍など西側連合軍捕虜の死亡率が数パーセントだったのに対し、ソ連兵捕虜は半分以上が
死んだ。350万人とも言われる。
ドイツの降伏後も彼らは祖国に暖かく迎えられたわけではない。

 「ドイツ製食器を使っただろう、と言われ10年間の収容所送りになりました」

ブレスト要塞で1ヶ月以上もドイツ軍の包囲攻撃に耐えた兵士すら、そんな目にあっていたとは知らなかった・・・
旧ソ連では英雄的伝説になっていたあのブレストの戦闘で戦った兵士が!
ドイツ軍の戦線の背後で果敢に戦ったパルチザンですら、スターリンは疑いの目で見ていたと、他の
ドキュメンタリーで教えられてはいたが。
ソ連政府は自軍の捕虜の存在を、国民の目から隠した。
今もロシアには、彼ら捕虜を追悼する碑はない。
現在は元捕虜兵士が団体をつくり、ロシア政府に補償を求めているという。
832農NAME:2006/01/15(日) 16:26:55
山根良人「元日本兵の記録――ラオスに捧げたわが青春」(中央公論社、1984年)より

 一九四六年の四月末、フランス軍は首都ビエンチャンを占領した。王宮のある北部の都ルアンプラバーンもフランス軍の
手に陥ちていた。さらにフランス軍は余勢をかって北東のベトナムとの国境地帯にも勢力を伸ばしつつあった。
 その頃ようやく足の傷も癒え、私は再び前線に復帰していた。
 兵舎に戻った私に、のんびりするひまはなかった。フランス軍がサバナケットの攻略を目指してすでに南東六十キロ
の地点にまで迫っているとの情報がもたらされたのだ。兵力、武器装備に優れたフランス軍の攻撃を受ければ、
サバナケットは短時間のうちに陥落してしまうことは目に見えていた。しかし戦闘を交えずして市を放棄すること
は出来ない。迎撃、防禦戦の態勢をとるか、あるいは市の近郊で待ち伏せ転戦するか。選ぶ道はその二つに一つである。
http://www.mekong-publishing.com/colum.htm#moto
833農NAME:2006/01/15(日) 16:28:11
さて、ディエンビエン区の区長ホン・ニャ・クアンさんは48歳。彼の父は、日本人である。彼の父、杉原さんは、
敗戦の年、海軍軍人だったが、上官は日本の敗戦を受け入れず、「杉原よ、船でベトナムに渡り物資を手に入れて
海南島の我が軍に戻れ。」との指令を出した。杉原さんは、単身ベトナムに渡ったが帰れなくなった。やがて、
ベトナムではフランスとの祖国解放の闘いが始まり、ベトナムの人々曰く、「杉原は、日本海軍の軍人
だったのだから、我々にフランスとの闘い方を教えろ。」となり、彼は手旗信号などベトナム人に
いろいろと教えたのだそうだ。そして、杉原さんはベトナム女性と結婚し、子どもをもうけた。しかし、フランスの
支配から独立できる見通しがたち、国際的にみて、このフランスとの闘いに、元日本兵がかかわっていたとなる
と国際問題化するので、現地ベトナムの人々は、「杉原よ、子どものことは心配するな。われわれが立派に
育てるから、おまえは日本に帰国しなさい。」となったのだ。
http://www.cyberoz.net/city/sekine/VIETNAM.htm

834農NAME:2006/01/15(日) 16:59:21
孫たちへの証言 第17集
福山 琢磨 編
テーマ「許すまじ戦争・語り継ぐ私の体験」。 収録81編。平成16年初版。
http://www.shimpu.co.jp/shuppan/shuppantoshoannai/mago/mago17.htm
835農NAME:2006/01/15(日) 17:10:39
http://esashib.hp.infoseek.co.jp/fukasaku05.htm
ふもとのインタバス村にたどりついたら、村人が6、7人、私を取り囲み、
キタンランド山になぜ登ったかを問うてきた。私は訳を話した。
残留日本兵の「食」に少し触れた。
その時に村人が示した反応を、どのように形容すればいいのだろう。
疲労の果てに夢を見ているのかと私は思った。
村人たちは口々にいったのだ。
「母も娘も食われました」
「私の祖母も日本兵に食われてしまいました」
「棒に豚のようにくくりつけられて連れていかれ、食べられてしまいました」
「食われた」。 この受け身の動詞が、私のメモ帳にたちまち10個も並んだ。
村人たちは泣き叫んではいない。 声を荒げてもいない。押し殺した静かな声だった。
なのにメモ帳が「食われた」という激しい言葉で黒く埋まっていくのが不思議だった。
老人は、戸惑う私を無言でじっとみつめていた。
(辺見庸『もの食う人々』単行本P51より引用・1994年ベストセラー
836農NAME:2006/01/15(日) 17:40:08
村をまわり、太平洋戦争を体験した古老らに出会うと、生々しい歴史に触れることができる。『自分がまだ子供
だったころ、この家の、この軒に一人の日本兵が逆さに吊られ、それをアメリカ兵が滅多撃ちにしたんだ。
その遺体は自分の家族が、この地面の下に埋葬したんだ。でもねそれ以来誰も掘りだそうとする者はいないんだ。
まだこの下に眠っている。こういった遺骨はここゲニェムの周辺ではそこら中に散らばっているよ。家を建てたり
、道路を造ろうとすると、必ず出てくるよ。どうしたらいいものかね』

マルティヌスさんの父親も戦争を体験した。今でも君が代や日本軍の軍歌を上手に口ずさむことができる。
無理矢理戦争に巻き込まれ、多大な被害を被ったが、息子が旧日本兵の遺骨を収集し、慰霊碑まで建てよう
としていることに父親は反対しない。『自分は日本兵のことはちっとも憎んではいない。この村で、
彼らは道路を造り、農作物の育て方を教えてくれた。自分はあの時、センタニ空港の建設を手伝ったが、
彼らのおかげでここには立派な空港ができた。手伝うことによって少しの報酬ももらった』と。

マルティヌスさんと、ゲニェム地区の軍司令官であるマモリボさんは、ここでその昔多くの日本兵が
亡くなったという歴史の事実を記録にとどめ、そして戦争の事実を忘れないようにとの目的で、ゲニェム村に
慰霊碑を建設する計画を進めている。彼らとしてはその費用を日本政府に負担してもらいたいと考えている。
『遺骨の彼らだって、好んでこんな遠くまでやって来たんじゃないでしょう。みんな若くして亡くなったのでしょう。
可哀想です。このまま軒下や道路の下に埋もれたままでは』と、マルティヌスさん。現在、
日本政府へのアプローチにルートを探っているそうだ。建設費用は、セメント代金や輸送代金などで
およそ2500万ルピア(約37万円)ほどとか。『日本では人が死ぬと、そのまま草むらや空き地に
放置しておくのですか?』と、マルティヌスさん。慰霊碑の建設資金を寄付したいと考える方がいたら、
是非下記の住所まで連絡して欲しいと、マルティヌスさんは言う。
http://www.harapan.co.jp/Indonesia/GBI/laila20.htm

837農NAME:2006/01/15(日) 18:04:56
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/heiki2/senzu/senzu.html
泰緬鉄道
この鉄道の建設は大東亜戦争開戦時にはまったく計画にないものだった。
ところが日本軍の進撃はめざましく、ビルマ侵攻作戦が繰り上げられると、海上輸送への不安から
安全な鉄路が必要とされ、昭和17年に急遽、建設が下命された。

同盟国のタイ(泰)側から鉄道第九聯隊が、ビルマ(緬甸)側からは鉄道第五聯隊などが建設に従事、
日本軍約15000人、連合軍捕虜約55000人、現地人労働者約200000人が工事に携わり、17年7月の
工事開始からたった1年3ヶ月で全長415キロ(東京〜大垣くらい)の泰緬鉄道を開通させた。
しかし資材不足、2回の雨期、炎熱未開のジャングルでの労働のなか、事故と疫病で多くの犠牲者が出た。

工事は完成期限のみが厳命されており、日本人には当たり前の長時間労働やビンタなどが現地人や捕虜の恨みを
買った。そして完成を急ぐ現場指揮官には、それに気がつく余裕すらなかった。
特に黄色人種にこき使われた白人には深い復讐心が残った。日本の敗戦後、捕虜収容所や現場の責任者の多くが
B・C級戦犯となり処刑あるいは服役となった。

植民地の継続を目論む白人達には、白人に逆らった黄色人種がどういう目にあうか現地人に知らしめる必要があったのである。



 

838農NAME:2006/01/15(日) 18:14:32
KAMIHATA探検隊
http://www.kamihata.com/jp/explore/bor_1.html
カミハタは、通称「カミハタ探検隊」と呼ばれる調査活動をおこなっている。神畑会長を隊長に、
毎年世界的な冒険家や研究家、そしてカミハタの若手社員たちがチームを組んで秘境へと出かけていくのである。
839農NAME:2006/01/16(月) 01:04:39
新内の哀切極まりない節が、戦場でおかされていった慰安婦たちの慟哭を呼びさまし、あるいは現日本政府の対応の
無責任さを痛烈に皮肉り、そして「君が代」の歌詞を逆手にとって元慰安婦たちの無念さ口惜しさを、みごとなまでに
表現している。 「ぶんや・ありらん」必聴なり!

 被害者が自分の経験を「わが身の恥」と従え、戦後50年に渡って沈黙を強いられてきたという事実の背景には、
日韓両国における家父長制社会による女性差別(男権主義的道徳の内面化)があると上野千鶴子は指摘している。
http://www.ht-net21.ne.jp/~kumatome/inaba/daido3.html

840農NAME:2006/01/16(月) 09:59:26
スタンレー・フォーク著「Bataan : The March of Death」によれば,
ある米比軍少佐が率いる400名のアメリカ兵捕虜達は,
バランガから日本軍のトラックに乗せられ,
途中で停車することもなく,オードネル収容所まで運ばれたとあり,
他にトラックで移送されたフィリピン人捕虜達もいたと書かれている.

 バタアン「死の行進」経験者達に私が話を聞いたときにも,
「バランガからトラックに乗せられてオードネル収容所まで行った」
という人がいた.戦争中,古いタイヤや銃の弾丸などを集める仕事をしていた
フローレンティノ・デ・ギアさん(当時22歳)だ.

 彼は軍服を着ていたので,兵に間違えられ,マリベレスに近いラマオで捕まった.
 身体検査をされて,妻の写真と1000ペソの大金を入れていた財布を盗られた.
 ディナルピハンまで歩いて一夜を明かし,次の日にバランガに着いた.
 そこからトラックに乗せられて,オードネル収容所まで運ばれている.

 ギアさんによれば,トラック1台に60人ほどが乗せられ,同時に10台のトラックが出発したという.
 その後も引き続きトラック輸送が行われたかどうかは,彼の話だけでは定かではないが,
日本軍が最初に立てたトラック輸送案は,僅かな捕虜達にではあるが,実行されている.
 前出の「Bataan : The March of Death」(バターン:死の行進)によれば,
約1万名の捕虜達が移送されたとある.

6万の捕虜に対して10台のトラックしか無かったってのが実情なんだろうね
841農NAME:2006/01/16(月) 21:13:22
1.地震の爪痕(フローレス島マウメレ、9月22〜24日)
 ペルニ船は無事、フローレス東部の主要都市マウメレ(といっても田舎町)に着いた。 船の中では戦時中、
日本軍に見込まれてシンガポールの警察学校で勉強したことがあることが自慢の農家の御隠居さん、ラロンさん御一行のお世話になった。

 船を下りて、早速ラロンさんご推薦の宿Losmen Ben Goan[I](S16,500Rp)に直行してチェックインした。 港の
桟橋や町の中心にある市場が新しかったが気に留めなかった。 翌日、3つの色が違う火口湖があるクリムトゥ山
の麓にある村、モニに向かう道中で新しいお墓が至る所にあり、ヒビを補修した家が多いので気がついた。 
7年前の92年にこの一帯に地震が発生して5,000人が犠牲になったということを思い出した。 津波でマウメレ近くの
島の村が全て流されたということで日本でも報道されたので憶えていた。 表面上では復旧が完了したみたいだが、
実際はどうだろうか?

 フローレスの道はスラウェシよりもマシらしく、デコボコは少なかった。 バスの車内が狭いのは相変わらずだが・・・。
http://www.asahi-net.or.jp/~PT3S-HSGW/html/asia/indonesia/nusatun.html


842農NAME:2006/01/17(火) 00:07:02
:変態仮面φ ★[sage [email protected]] 投稿日:2006/01/15(日) 18:33:44 0
中国で「反日」を叫ぶ人たちの間で、英雄として語られる男がいる。
馮錦華(フォンチンホウ)さん(35)。反日的な若者らに影響力を持つ「中国愛国者同盟」の中心メンバーだ。
04年に魚釣島に上陸し、沖縄県警に出入国管理法違反容疑で逮捕された。
今は旧日本軍の遺棄化学兵器の被害者救済を訴え、寄付金集めに梵走する。
実は日本滞在が8年間に及ぶという。
94年に来日し、印刷工場で働きながら、大学で法律を学び、東京都内の国際電話会社に就職した。
同級生やバイト先で日本の友人ができた。日本の若者の多くが中国での旧日本軍による行為に無関心なことに違和感を感じたが、
友人関係がギクシャクすることを恐れ、戦争の話題をできるだけ避けるよう心がけた。
01年8月、小泉首相が靖国神社に参拝。中国からは反発の声が上がったが、
日本のネット上には正当化する発言があふれた。
「どうして中国人の気持ちが分からないのか」
怒りがこみ上げ、抗議の声を上げようと決めた。
靖国神社のこま犬の台座に 「死」 「ね」 とスプレー書きした。逮捕され、器物損壊罪で有罪判決を受けた。
祖国では勇気をたたえる声が相次いだ。年老いた戦争被害者からの支持も多かった。
「この被害者の思いを日本人に伝えなければ」と思った。
中国では今、市民も政府に対日強硬策を求める。「反日なら何でもよし」の雰囲気が広がる。
しかし彼自身は「青春時代を過ごした日本と日本人を私が嫌いになれるわけがない」
彼は今、愛国者同盟のサイトに「普通の日本人」を紹介したり、日本の若者らが交流したりするコーナーを計画している。
日中関係基礎には相互理解が不可欠であり、自分の反日行動もそのためのひとつの手段だと信じているようだ。

1月14日 朝日新聞より抜粋
843農NAME:2006/01/17(火) 00:53:02
英国の植民地だったビルマは、現地人と白人とは一定の距離をおき、絶対に同等の対話や、レストラン、
集会所などあらゆる処での同席は許されなかった。
  日本の兵隊が来てからは、ビルマ人大衆の中に溶け込んで、汚い家のなかまで入り込み、同じ釜の
飯を食べたり、手真似足まねで話をするなど信用され、あらゆるところで好感を持たれた。
  さて、道一つ隔てたところにビルマ酒を作っている家があって、そこの主人は大学を出たというインテリー
だった。彼は酒が強く、ある日小野塚兵治君(コヒマで戦死)と飲みくらべをやったが、さすが酒豪の小野塚君
も頭を下げたという。
  その妻がビルマ人には珍しく色白で綺麗な顔形をしていて、一目見ただけで気も遠くなるほどの美人だった。
その容姿を自負してか凄く気位の高い女だった。一人娘の「マッケンセ」は6才位で母親に似て器量もよいが、
なかなか気の強い女の子だった。
  我々設営隊は真っ先に便所の設置から取りかかった。衛生観念の乏しいこの国の農村部は、殆どの家には
便所がない。人が草薮に入って行くと犬が後から付いて行くという話にはうなずけるものがある。
  「マンポイユ」さんは大の親日家で、私達の作業の終わる頃を見計らって「ブランデーとおつまみ」
(そら豆とお茶の葉を油で炒めたもの)を毎日持って来てくれた。
  1週間後に来る予定だった本隊が大巾に遅れ、全員集結し終ったのが1ヶ月後だった。
  部隊が到着すると「タダウ」の小部落も俄然活気付いてきた。しかし今度はいままでの様なビルマ人との
家族的な生活が破られ、私達が1ヶ月間かかってやっと築き上げて来た部落民との「コミュニケーション」が
崩される様な事件が度々あった。その都度私が中に入り、たどたどしいビルマ語を駆使して部落民との調和をはかった。
http://www.geocities.jp/tondaseishun/senki04.html
844農NAME:2006/01/17(火) 13:17:59
封印された過去 −日本人慰安婦たち−
http://homepage3.nifty.com/net_fukuoka/kanpu_news/hirao_03.htm
845農NAME:2006/01/17(火) 13:23:00
インドネシア人の人柄

みんな人柄はいいです。親日的だからなのか,もともといい人なのかわかりません。たぶん,どちらも
当てはまるのではないかと思います。親切な人が多いです。

 スンバワ島で,街をぶらぶら歩いていると,寄って行けといわれコーヒーやお菓子をごちそう
になったこともありました。バリ島では,これはないと思いますが,観光客の珍しい地域だと,
こういうこともよくあります。いろいろ親切にしてくれて,雨がふって雨宿りしていたときも,家の中に
いれてくれて,ケーキを食べさせてくれたり,日本では考えられないこともしばしばです。

 インドネシアは,世界大戦中,日本軍が駐留していたところでもあるので,年輩の人で多少日本語の
分かる人がいました。といっても,「気を付け」「回れ右」などの軍隊用語だけでした。占領下に
置かれていても,日本人に対しては好意的でした。なぜかはよく分かりません。私には,ほんとに
親切にしてくれました。この人とは,街で道を聞いただけなのに,家に来いと言われて,
ついていって,お茶を出してくれました。その上,私が日本人だから,旧日本軍の軍人がその男性に
贈ったが本などを見せてくれました。今でも,旧日本軍の軍人と交流があるようで,何年か前に旧日本軍の
軍人が遊びに来てくれたと言っていました。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/bio/indonesia029.html
846農NAME:2006/01/17(火) 13:42:51
初めて見るビルマ人は、男も女も大人も子供もみんなロンジといって、ちょうど女性の腰巻きに似たもので
少し余裕のある筒状になっているものを、前の方で絞り大きく結んで腰に巻き付けている。別の紐(ひも)で
縛(しば)っているのではなく、ロンジの端で上手に結んでいるのだが、決して解けて落ちるようなことはない。
下には何もまとっていない。上半身にはエンジという、袖のついた薄手の上着を着ている。それだけである。
男のロンジは茶色等地味なものが多く、女のは赤や緑など派手なものが主で、エンジは白い布のものが
普通である。普段の作業着とお祭りで着るものとは色も物も違う。また、上流階級の人の身につけているものには、
絹地に金糸銀糸を刺繍(ししゅう)したあでやかなものもある。履物は普通、皮草履かサンダルのようなものを
履いているが、子供達は裸足(はだし)が多く、大人も農夫等は裸足で固い足の裏をしている。
ビルマ人の大部分は、我々日本人や中国人と同じ黄色人種で、しかも日本人と殆ど変わらないような
顔付きをしている。しいて言えば、我々が夏、日焼けしているぐらいの色で、中国系の人は美人も多く
スリムなスタイルの人が多い。ビルマ人にもいろいろな人種があり、印度系の人は色が濃くそれなりの顔立ちを
している。だが、多くの人は日本人と似ているのでまず親近感を覚える。
ビルマは長い間英国の支配下にあったのだが、それを駆逐した日本人だということで、敬意をもって
戦勝者を歓迎してくれているようでもある。日本軍もビルマ進駐当初より、軍規を守り決して現地人に対し
悪いことはしないで、良好な親善と宣撫(せんぶ)工作の結果信頼されていた。
一般的に貧しいが、仏教国で皆が仏心を持っていて、素朴で好感が持てる。後で分かったことだが、
民族の主流はビルマ族で、カレン族・シャン族・チン族など多くの部族、種族からなっているようである。

http://www.bea.hi-ho.ne.jp/odak/Chapter4.htm
847農NAME:2006/01/17(火) 14:52:20
http://blogs.yahoo.co.jp/k_omotani/2387064.html
海が好きな方はミクロネシアへ行きましょ。
ハワイやグアムやパリやニューヨークもそれなりに(?)いや目的があれば楽しいとこだと思いますが
日常から離れて自分や地球や自然を考えるには、ミクロネシアがよいですよ。マーシャル、コスラエ、
ポンペイ(ポナペ)、チューク(トラック諸島)、ヤップ、パラオなどは日本から非常に近い距離にありながら
一般的に言われる観光としてのキャパや目玉の観光地がないため(実はあるのですが・・・)
あまり知られていません。現地の人はとても親日的で(第二次世界大戦で日本が占領していたにもかかわらず)
かなり日本語が今も使われています。(ジドウシャ、デンシンバシラ、チチバンド、デンキ等々)
地元の人が生活しているので”手付かず”とは言えませんが、少なくとも観光客はダイバーぐらいしか
いないので私の知っている限り、もっとも日本に近くて日本人を見かけない地域だと思いますよ。
地元の人は(パラオを除く)政府の人以外は、ほとんど自給自足の生活に近い状態であまり金に固執して
いないため驚くほどおおらかな人たちです。おなかが空いたら家(お父さんが1ヵ月程度で建築)の庭のパンの実
やタロ芋、ココナッツを採ったり魚を槍で刺してくればよいのです。特筆すべき点は子どもが
本当に人懐っこくてかわいい過ぎるのです。あまりにもかわいい子がいたのでお母さんに”日本に持って帰りたい!”
って言ったら”いくらで?”と言われた時はびっくりしました。(けっこう本気でした!)
ガイドに聞いたら相場は$300程度だそうです。(これに関しては事実かどうかわかりません)
話しが変な方向に行ってしまいましたが、治安は大変良いし、アコモデーションも問題ないし、食事は
コメ中心に日本食はなんでも(?)あるしなんといっても海がめちゃくちゃきれい。とにかくハワイやグアムに
行き飽きた人や日本人を見ないで自然をまったり楽しみたい方は”ここしかない!”って思いますよ。but
 私のひつだけ不満なのはゴルフ場がないこと。当たり前ですね。
848農NAME:2006/01/18(水) 10:05:26
師匠はとても穏やかな人で、毎日私たちのためにチョコレートドリンクを作ってくれたり、私たちが日本人だからと、
日本の音楽をかけてくれたり、師匠が若いころ日本軍に教育を受けたらしく覚えている日本語や軍歌を披露してくれたりと、
一生懸命コミュニケーションを図ろうとしてくれた。
そんな師匠がたまらなく大好きになっていく2人だった。
http://blog.kunang-kunang.com/?day=20050208

うれしかった事を一つ。外国人がまず飲まないであろうヤシ酒を飲んでいて、日本語を戦時中に
覚えたおじいさんに会いました。日本時代は良かったととても懐かしそうに話してくれ、ちょっとだけ
幸せな気分に。西チモールでも同様な事がありました。たった3年間日本軍がいただけなのにね。
http://tabisite.com/kunijoho/timor.htm

849農NAME:2006/01/18(水) 18:20:16
850農NAME:2006/01/18(水) 22:38:28
次にニャンウーからパコックに入り、荒涼たる耕地を左右に眺め、でこぼこ道を走りミョキンター村寺院に到着。
300人程の歓迎を受け、寺院本堂に安置されている仏像の正面に、日本から持参した御社を設置し、
御供物を献じて、天理教式にて慰霊の祭儀を厳粛に勤めさせて頂きました。引き続き、ミョキンター村および
ベイジー村の僧侶又住民と懇談した折、80歳から 90歳位の村のお年寄り十数名が私共を待ち受けて、
当時の日本兵の様子等を語って下さったのであります。意外にも「日本兵はとても優しく、西瓜が
とても好物で何度となく食べてもらった。わしはお礼に手ぬぐいをいただいた。また日本兵の所に
行く度、いつまでも一緒にいるとおまえ達も攻撃されるから早く帰れと言って俺達を気遣ってくれた。」と
涙して真剣に真実を語る面持ちには私達も感涙し頭の下がる思いでありました。ベイジー村であろうか
日本兵の遺体を発見して埋葬してくださった場所に案内され、私共は各々に線香を手向け、
当時のご苦労を偲び、心からご冥福をお祈りしたのであります。
http://www.amda.or.jp/journal/asmp/0407-11.html

851農NAME:2006/01/18(水) 22:41:29
ミャンマーで育ったティンは二十歳ごろ、医師だった父の診療を受けた旧日本兵慰霊団の一人から贈られた
辞書で日本語を本格的に勉強し始めた。小学校の教師だった十五年前、日本人の文通相手を通じて、
小説「ビルマの竪琴」も知った。十二年前に来日すると、ビデオで映画を見た。日本人には、「『ビルマの竪琴の国』
から来ました」とあいさつするようになった。

 通訳の仕事で、数多くの旧日本兵と知り合った。そして、舞い込んだのが、「耳飾り」の翻訳だった。

 武者がビルマで捕虜になり、仲間と現地でコーラス隊を結成したことから、「ビルマの竪琴」の主人公・
水島上等兵のモデルとされていることを知った。異国の地で戦友を慰霊する旧日本兵の僧侶。「映画は本当だったんだ」。心が揺さぶられた。

     ◎

 武者の自叙伝は、四百字詰め原稿用紙で三百八十枚。締め切りまで二か月。不安もあったが、「水島(武者)の
願いをかなえたい」。徹夜が続いた。旧日本兵と子供たちとの交流の場面では、辞書に涙の跡が残った。翻訳本は
ミャンマーの国民文学賞に選ばれた。

 武者とティンは文通をしたり、家族で温泉旅行をしたり、交流を続けた。武者は日本の父親となった。

 一昨年暮れ、武者は脳こうそくで倒れ、体の自由がきかなくなった。戦友会の一員として、二十回近くミャンマーを訪れ、
かの地に慰霊碑を建設してきたが、戦友会は高齢化に伴い、二年前の秋、解散した。     ◎

 ティンは四年前、首都ヤンゴンに非営利の日本語学校を設立した。将来、日本語とビルマ語を普及させる
「言語交流センター」の建設も夢見ている。「両国の絆(きずな)を少しでも強めたい。それが現地に眠る旧日本兵
の慰霊に、そして、水島(武者)への恩返しにつながる」(敬称略)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/gunma/kikaku/033/3.htm

852農NAME:2006/01/18(水) 22:44:28
ミャンマーの人々は「ビルマの竪琴」をどう観たか(後編)
http://www.asahi-net.or.jp/~cr1h-ymnk/96-02-01.html
その理由は、インタビューの中でだんだんはっきりしていった。ここで各シーンに対する被験者の反応を紹介しておきたい。
 まず、シーン1では、「住民の話すことばがぜんぜん違う」という。私が、「日本人が扮しているからか」と聞くと、
「もちろん、それもあるが、おそらくこの村はヒルトライブ(山岳少数民族)の村だからかな」と答えた。それから、
「ビルマ人は、もっとにこにこしているよ」と登場するエキストラのタイ人たちを指していった。
 また、戦争を体験した世代は、映画の中の日本兵について、「日本兵はあんなに立派じゃなかったな。ガリガリに
痩せていたし、惨めな感じで背がもっと低かった。戦後の日本人は体格がよくなったもんだ」と感慨深げに
語った。また、「日本人兵より朝鮮人兵の方がきつかった」というようなこともいった。
853農NAME:2006/01/18(水) 22:51:53
「山崎中尉はたいへん親切でした」
戦時中、日本語学校で日本語を学んだという彼は、言葉を確かめながらゆっくりと語った。日本軍は戦時中
ミャンマーを三年間支配していたのに、非常に親日的なこの国の人たちを不思議に思い、戦争時代のことを彼に訊ねたのである。
「日本兵は皆親切だったのですか」
「悪い兵隊もいました。憲兵隊は大変怖かったです。スパイだと疑われて殺された人もいます」
「ミャンマーの人たちは恨んでいないのですか」
「私たちは仏教徒です。仏教では、憎しみは悪い心です。憎しみは憎しみを生むだけです」
孫娘が、何を話しているのかと不思議そうな顔をして私たちを見つめていた。
http://www.ayeyarwady.com/ph_essay/essay0.htm
854農NAME:2006/01/18(水) 22:55:01
「山崎中尉はたいへん親切でした」
 戦時中、日本語学校で日本語を学んだという彼は、言葉を確かめながらゆっくりと語った。日本軍は
戦時中ミャンマーを三年間支配していたのに、非常に親日的なこの国の人たちを不思議に思い、戦争時代のことを彼に訊ねたのである。
 「日本兵は皆親切だったのですか」
 「悪い兵隊もいました。憲兵隊は大変怖かったです。スパイだと疑われて殺された人もいます」
 「ミャンマーの人たちは恨んでいないのですか」
 「私たちは仏教徒です。仏教では、憎しみは悪い心です。憎しみは憎しみを生むだけです」
それは新鮮な驚きを私に与えた。日本はアジアを侵略しアジアの人たちから恨まれていると教えられてきた。
しかし、この国の人たちは親切にしてくれた日本兵の名前を懐かしそうに思い出したり、憎しみからは憎しみ
しか生まないと語る。かたわらに座っている孫娘が、何を話しているのかと不思議そうな顔をして私たちを見つめていた。

http://www.campur.com/jp/gallery/myasia/light.html
855農NAME:2006/01/18(水) 22:57:44
旧日本兵の記憶=タイ・バンコク
--------------------------------------------------------------------------------
 はるか中国、ラオス、タイとの国境に連なる山々を一望できる高台に真新しい校舎はあった。ミャンマー東部
シャン州の山村に日本の財団法人の援助で小学校が開校、村に住む少数民族パオ人約四百五十人が総出で祝った。
民族楽器を打ち鳴らす男たちから、「タナカ」と呼ばれる伝来のおしろいを塗った子守の少女までお祭り騒ぎ。その最中、
濃紺の民族衣装に身を包んだお年寄りの男性から英語で話しかけられた。
 「援助には本当に感謝している。でも敗戦国の日本がなぜ、ここまで豊かになったのか教えてほしい」。元教員の
男性は少年のころ、インパール作戦から敗走する旧日本兵の姿をたびたび目撃、鮮明な記憶として残っているの
だという。答えに窮していると、男性は「今もときおり、旧日本兵とみられる遺骨や遺品が見つかるそうだ」と眼前の山々を指さした。
 複数の少数民族が実効支配する辺境地域は、外国人の立ち入りが厳しく制限されている。このため終戦から
六十年近くたった今も、数万柱ともいわれる遺骨収集は遅々として進んでいない。
 国境の山々に向かい男性と二人、合掌した。
http://www.nishinippon.co.jp/news/World/ReportersEye/bang/bn01.html
856農NAME:2006/01/18(水) 23:09:54
農民ガバ-ビルマ人の戦争体験
英国の植民地だったビルマに、日本軍が侵攻してくる。善良なガバのようなビルマの農民たちは、
長い間の英国支配から同じアジアの国の日本軍が開放してくれるものと期待を寄せる。ところが、
実際にガバたちの前に現れたのは、非情な日本兵たちだった。純朴で、且つ強靭な精神を併せ持つ
農民が、戦争の波に翻弄されながらも逞しく生きる姿を描く。
http://www.daido-life-fd.or.jp/19.html
857農NAME:2006/01/18(水) 23:13:31
▼さらに森田氏を驚かせたのは、村人の中に日本語を話せる長老がいたことである。
『 村人はなぜか私のことをさんちょうと呼ぶ。初めは意味がわからなかったが、通訳兼世話役の
ニベロさんによると、日本人が上役を呼ぶのによく使っていたということがわかった。とすれば軍隊用語である。
彼らが使うさんちょうははんちょうの覚え間違いだろう。青少年時代にこの言葉を覚えた村の人たちは、
まるでミスターと同じように使っているのだ。
 「私は日本軍が作った学校に通ったので、日本語はまだ覚えています」
通訳のニベロさんは英語でいった。日本軍が駐留していた三十五年前は十六歳である。
 「コメありますか。モミありますか。ニワトリありますか。おはよう、ありがとう・・・・」
彼は笑いながら日本語を話す。そんちょう、ぶらくちょう、くつ、くつしたなどの日本語も覚えていた。文字のない
世界で育っているせいで記憶力がよいのか、記憶術があるのか、彼だけでなく村人の多くが、一つや二つ、
日本語の単語を覚えていた。なかには「さくら、さくら、やよい、やよい、・・・」と歌う人もいて、私はyれしさと驚きが
ごちゃまぜになって大声笑ってしまった。
 長くてもわずか数ヶ月の日本語学校だったはずである。いったいどんな日本人がどのようにして教え、彼らは
どうして今まで覚えているのだろう。
 私は帰国後、日本の外務省のアジア課にこのことを話し、いったい日本軍が南ナガ高地のペックやチザミに
何ヶ月間学校を開いたのか質問したが、知っている人はなく、資料もなかった。・・』
       (森田勇造著「秘境ナガ高地探検記」より)
http://shinyama.com/column/055.html
858農NAME:2006/01/18(水) 23:16:05
太平洋戦争中の日本軍の落し子もアジア各地にたくさんいる。 実数はわからないけどフィリピンなどでは
千人単位でいるらしい。 それとは別に、現地の女性と結婚して子供をもうけた人もけっこういるようだ。
やはり、戦争が終わったら現地の妻子は置いていってしまった例も多いと聞く。 五六年前に作られた幻のビルマ‐
日本合作映画『にっぽんむすめ』を見にいった時、 ビルマの女性と結婚していたと元日本兵が言っていた。
毎日新聞発行の「サン写真新聞」復刻版昭和二一年によると 「戦時下の国際結婚、負け戦の夫の祖国へ
来たインドネシアの女性たち」 のニュースで、復員船とともに日本に来たジャワ島からの戦争花嫁第一陣、
約九〇人のことが載っていた。 その後、日本にはどのくらいの戦争花嫁と呼ばれる人たちが来たのだろう。
そして、その人たちはいまどうしているのだろう。
http://page.freett.com/cinemajournal/bn/24/5tiff-b.html
859農NAME:2006/01/18(水) 23:20:00
旅の学校のまど 吉祥寺村立雑学大学 共同企画講座
7月の共同企画「ミヤンマーの正しい情報」
http://www.yume-ya.co.jp/tsn/2002/myanmar.htm
860農NAME:2006/01/19(木) 01:11:08
☆編集者へ=長崎市の長田泰治さん(自営業・47歳)から。

「宮本武蔵」「鳴門秘帖」などの作品で知られる国民作家・吉川英治に、「南方紀行](昭和十八年、全國書房)というルポ
があります。そこに次のような邦人に対するオランダの残虐行為が書かれています。 

 十二月八日。その日の朝だつたといふ。

 大詔渙發と共に、わが東條首相の獅子吼が全亞細亞を搖るがしたあの震駭の中で、狼狽に色あをざめたオランダ官憲は、
引揚に遲れてまだ殘つてゐたスラバヤ全市の日本人三百餘名を一齊に檢擧した。すでにリストは出來てゐたものらしく八方
からテンプル・ストラートの廣場へ續々と引つ立てられて來た。持物は何一つ持つことをゆるされず、履物すら滿足に
穿いてゐた者は少く、早朝だつたので男も女も老人も子供もみな着のみ着のままの姿だつたといふ。
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2000/reader/07-r1.html

861農NAME:2006/01/19(木) 11:12:24
対岸の土手を上がると、そこは次の便を待つ乗客が多勢たまっている。学校帰りの女学生、買い物に出かける主婦、
町に出かけるバイクの若者、とおよそ50人。午後2時はラッシュ時なのであった。そこにカメラや機材を抱えたわれわれ
撮影グループ一行が闖入したわけで、たちまち向こう岸に渡る予定をキャンセルして、半分ほどの老若男女が嬌声を
あげつつ一行の道案内を買ってくれるのであった。村に近づくにつれて野次馬が増えていき、先触れもあるらしく家々
から好奇のまなざしが迫ってくる。なかには急いでよそゆきの服に着替えて、一行の前に駆け寄る老婦人もいた。
開放的な住居だからその様子が見えるのである。老婦人は、「日本軍人はとても規律正しい人たちだった。」と、
あたかもそれを言うために出てきた様子でさえあった。突然のなりゆきに戸惑ったが、日本兵がいかに村のために
尽くしたかを述べ立てるのであった。その頃には100人ほどの子供たちが一行を取り巻いていたから、ご婦人たちは
歴史教育の一端を示そうとしたのかも知れない。当時のジャワ島の日本軍司令官は綱紀を徹底した人なの
であろう。西ジャワ州のバドゥイ族の長老からも日本軍は彼らの村には一切干渉しなかったと聞いた。
ご婦人には丁重に感謝を伝えて写真に収まっていただいた。
http://www.honya.co.jp/contents/yamamori/chaguan/backnumber/200111.html
862農NAME:2006/01/19(木) 11:24:41
南十字星 インドネシア 日本軍
http://www5f.biglobe.ne.jp/~morico/raku/syouwa/minami1.htm
863農NAME:2006/01/19(木) 11:31:25
西洋向けの作物を長年の間無理矢理に作らされていたため、水耕を忘れてしまったインドネシアの民たちに、
農村出身の日本兵たちが、水田の耕し方を教える。実際の舞台では分からなかったのだけれど(そこまで
注視していなかったので…)、プログラムに掲載された写真を見ていると、水耕を教える兵士のひとりがとても
柔和な表情で、胸があたたかくなりました。日本国内にいる軍のトップらは、確かにインドネシアをオランダから
奪い取り、我がものにしようと謀略をめぐらしていたのだろう。でも、実際にインドネシアに駐留して日々現地の人たちと
接している一般兵の多くは、この水耕を教える彼のように、きっと純粋な気持ちでインドネシアを応援していたんだろうなぁ…。
「侵略」したのは日本という国であって、決して最前線にいる個々の兵士たちではない。そんな当たり前のことを、彼の
表情が物語っているように思いました。
   水耕とともに日本がインドネシアにもたらしたものパート2(笑)、軍事教練。やっぱりどこにでもいるよね、
一生懸命頑張ってるのに何だかドン臭い人(笑)。多分私が軍事教練などの類に参加することになったら、ああなるわ…ちょっと親近感。
   日本がもたらしたものパート3、学校。このシーンで教室に掲げられている、右から書かれた「亜細亜の光・日本」と
いう文字を、私はついつい普段の癖で左から読んでしまったものだから、「本日・光の亜細亜」なんて思ってしまった^^;
何か、「本日のランチ」みたいでちょっと嫌だわ…。そして、そんな読み間違いをしてしまった自分が何より嫌だわ…。
http://xxxfuzukixxx.easter.ne.jp/2004_11_11minamijujiseim.html
864農NAME:2006/01/19(木) 11:35:22
http://www.awf.or.jp/fund/news/news_19/a_02.html
回の訪問で、一番印象に残ったことは何ですか。
大沼: もっとも印象に残ったのは、スラウェシ島の南東部にある施設で、ジャカルタから飛行機を乗り継いで行く
たいへん遠いところです。その施設は10名定員ですが、「日本軍の被害者」ということで、8名の方が入居していました。
元「慰安婦」と名乗られた方々のほかに、いわゆる日本軍の現地妻や日本軍の将校のお手伝いさんなど、何らかの形で
日本軍に関係していた方々です。

多くの被害者がいらしたのですね。
大沼: そうです。お一人おひとりに、当時の思い出や心境について尋ねてみると、みなさん昔のことを思い出しながら、
日本軍の所業についていろいろな話をしてくれました。話を聞いているだけで、こちらが辛くなる場面もありました。

865農NAME:2006/01/19(木) 11:40:57
http://www.kcnet.ne.jp/~mishina/newpage29.htm
この作戦で反植民地戦線は崩壊、アウン・サン将軍率いるタキン党は抗日に転じた。

 しかし日本軍は思わぬ戦果があったといえる。戦いの舞台となったのはビルマであるが、この地で戦っていた
日本兵はビルマの農民からみれば解放者であった。戦後ビルマは独立したわけだが、そのことに必要な民族魂の
再燃はこのときおこったといってよい。

 昭和30年代以降ビルマにきた遺骨収集団が、ビルマ政府から立ち入りを禁止されていたところの遺骨を、現地の人
が集めて待っていてくれたことがあったらしい。さらに元日本兵が戦友を弔うためにやってきたときも「申し訳
ないことをした」というに対し「マスター(日本兵に向けての愛称)なにを言うんです、日本は負けましたが
兵隊さんたちは文字や歌を教えてくれた、さらに民族魂を再燃させてくれたじゃないですか、こんど来るときは
もっと胸をはってきてください。」といわれたそうである。その元日本兵は戦友の死は少しは報われたもしれない
と思いながら異国の地を跡にしたそうである。

866農NAME:2006/01/19(木) 13:22:17
『作田啓一氏の『恥の文化再考』(筑摩書房、1967年)に収録されている、「われらの内なる戦争犯罪者―石垣島ケース―」、
「波濤と花火―離島の学徒兵―」、「死との和解―戦犯刑歿者の遺文に現れた責任の論理―」の3つの論文は、
戦争犯罪や戦犯裁判を日本人が心理的にどのように受け止めていたのかを考える上で、非常に興味深い内容だと思います。
既に読んでおられるかもしれませんが、ご参考になれば幸いです。』
867農NAME:2006/01/19(木) 15:39:35
佐藤 哲夫(歌人・元船橋市議会議長)
『インドネシア紀行』に寄せて
 先日、東京の九段会館で、「インドネシア紀行」中村燦編(展転社刊)の出版記念の会があり、誘いもあったので、
戦時中スマトラ、アチェ州に一年有半を生きたものとして参加した。
 話題の中心は、戦後、インドネシアの独立運動に参加した日本人の将校、兵士たちの物語が中心で
どちらかと言えば、ジャワ島方面が主なテーマであったが、スマトラ、ブキチンギの話が出て来たので、
知ってはいた話題でもあったが耳をそばたてた次第である。
 ブキチンギは、市川市の友好都市「メダン」の西にあたり標高が確か千米を越えた、いわば日本の軽井沢と
いった高原地帯にある、洗練された避暑地の趣を持ったまちである。筆者も終戦前一年ぐらいの時、此処で
約一ヶ月、いま思えば遊撃隊の訓練を受けた。遊撃隊長として。
 実は、戦後にこのブキチンギの「日本の穴」という話があり、日本軍のある部隊が「インドネシア人の人夫三千人
を殺害して秘密裡に埋葬した」として宣伝されて大問題になったことがあった。
 このデマを創作したのは慶応の倉沢愛子、早稲田の後藤乾一という左翼学者たちであった。―この話(デマ)は
終戦より半年ぐらいまで現地にいて、そこの現地人と日本軍の交流についてじかに体験して来た筆者から
考えても夢想だに出来ぬことである。
http://www.iiwanet.com/shimin/2001/0108/0108colm/sato0108.html
868農NAME:2006/01/19(木) 15:44:04
インドネシアの独立と日本人の心
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総山 孝雄 著(東京医科歯科大学名誉教授)
http://tendensha.co.jp/daitoa/dai78.html

この温泉に 似た感じは、マレーシアのサンダカンからコタキナバルに行く峠の町の温泉に似ている。
       あの温泉は、確か日本軍が作ったものらしい。
       似ているので、ここもひょっとすると、日本軍が作ったものではないかな?
       早速、パンツ1丁で温泉に入る。
       硫黄泉で少し白く濁っていて温度は暑くも無く、ぬるくも無く最高である。
       ゆっくりと風呂に入り、店でミーゴレン(ヤキソバ)を食べて、今度はバスに乗って帰る。
       バスといっても、バンで今回は前のドライバーの横に座る。
       ギアが調子が悪いらしく、時々自動的に抜ける。
       登り坂でギア−が抜けると、そのままずるずるとなすすべも無く坂道をバックで下がって行く。
       下がりきった所で、ドライバーはアクセルをふかし、今度は一気に登る。
       下り坂の底は、来る時バシャバシャと歩いてきた大きな水溜りである。
       乗客の、一人が”オオ、トバ湖”とうまいジョークを飛ばす。
       バスは、来る時に降りた所で、反対方向へ行くらしいのでここで乗り換えの為に降りる。
       茶店みたいなのが1軒ポツンと立っているので入ってお茶を注文する。
       店の主人が、
       ”日本人ですか?”
       と、日本語で話し掛けてくる。
       ”はい、そうです。おじいさんは今いくつですか?”
       ”76歳”
       ”他に、知っている日本語は何ですか?”
       ”アトニツイテ ツケ”
       ”ニダンニ ツケ”
       ”チョウカン カッカドノニ  ケイレイ”
       ”コレハナニカ?”
http://f53.aaa.livedoor.jp/~ufoboat/malasya/indonesia.htm
869農NAME:2006/01/19(木) 15:55:50
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[318] インドネシア・東ティモールにおける「反日左翼の謀略」3 投稿者:キヨシ 投稿日:2002/06/03(Mon) 07:54:45

天に代わりて不義を討つ!
とでも叫びたい心境です。
 この問題はあまりにひどい話です。単に、道義的にひどいだけでなく、日本国の名誉に関わる問題でもあるし、
さらに、日本の国家戦略の観点から見ても、全く由々しき問題であります。
 この問題の概要については、ここの掲示板の[288][290][291]にすでに掲載した関連記事に書かれてある通りですが、
現地の人々も、インドネシア政府までもが事実関係をはっきりと否定しているにも関わらず、日本の反日左翼
の方々(例えば、後藤乾一教授、倉沢愛子教授ら)はインドネシア・東ティモールでの「日本軍による虐殺、略奪、
強制労働、従軍慰安婦」を訴えて、それを日本で盛んに宣伝しておられる。一体これはどういうことなのか?
 もう一度、産経抄から一本だけ転載致します。
http://snsi-j.jp/boards/koli3814/7.html
870農NAME:2006/01/20(金) 14:33:47
この話は1943年から始まる。ところは当時ビルマ(現在はミャンマー)中部のカレン族の村タ・アオから始まる。
この村出身のタン青年は16歳で神学校に入ったが、ビルマに日本軍が侵攻し、神学校は休校になり、
村に帰っていた。 近くの町タングーには、日本軍が進駐し、首都ラングーン(現在はヤンゴン)とマンダレー
(第2の都市)を結ぶ高圧線の工事に携わっていた。タングーには教会があったが、そこに
日本軍の兵士が数人来て、そこのシスターに自分たちはカトリックの神学生であることを告げ、
危害を加えるようなことは一切しないから安心するように告げた。その後も数ヶ月滞在したびたびミサにも来たが、
町では日本軍による無法なことは一切行われなかったと当時を記憶している老人達は話している。

 その後日本軍は北方に移動していったが、1945年イギリス軍から地元の住民に、日本軍が敗走してくるので
攻撃するように指令があった。この年7月タ・アオ近くに日本軍が来ていることが分かり、タ・アオの村民は攻撃
に出かけたが、タン青年は神学生なので行くべきではないと言うことになった。村民は現在慰霊碑のある近くで
日本軍を攻撃し、日本軍兵士34名が犠牲になった。その後この事件はしばらく忘れられていた。
http://www.yangonow.com/jpn/magazine/essay/fukamizu/essay01.html

871農NAME:2006/01/20(金) 14:41:19
トラックは途中2回ほど荷物を降ろす為、停まったものの1時間ほどで「アマラプラ」に着いた。しかし
到着したのはいいのだが、自分のいる場所がさっぱり見当もつかない。(地図も持ってなく当然なのだが・・)
仕方なく、しばらく歩き回っていると線路沿いのスラム街のような所に出た。さすがに、「迷ってしまった!」と少し
不安になったのだが、別に「アマラプラ」の観光スポットに行かなくても、今日1日をこのスラム街で過ごしてみるのも
面白そうだと考え始めると急に気が楽になった。しばらく人々の生活を眺めながら歩いていると、小さな子供が、
そのまた小さな子供達の面倒を看ている。そんな風景を観ていると、俺がタイムスリップしてしまったような何故か
違う空間に迷い込んでしまったような錯覚すら覚えた。

 あても無くスラム街を歩き回っていると突然、英語表記のしてある通りに出たので、俺はここら辺が観光地に
なっているんだと思い、○△○パゴダという表記が目に付いたので行ってみると、1人の老人がパゴダの中から
声を掛けてきた。彼の元へ行ってみると、片言の「日本語」で話し始めた。戦時中、日本軍の通訳をしていた。
との事で「日本語」が話せるらしい。戦時中の日本とビルマの関係は俺には全く分からないが、彼の話を
聞いていて彼は日本人に対して好感を持っているような話し振りであった。
http://kobe.cool.ne.jp/ajifuri/ygn7.html
872農NAME:2006/01/20(金) 14:55:59
世界ウルルン滞在記

今回は俳優・江畑浩規(23)がパプアニューギニア
東部の島、ニューブリテ ン島のラバウルを訪ね、トーラ
イ族の生活を体験する。
 ホームステイ先は、ブナマミ村に暮らすトーライ族の
ヘンリーさん(75)の お宅。ヘンリーさんは、村の伝
統漁「カラマルミナトト」の仕掛け作りの名人 だ。戦争
中は日本軍のために戦闘機のフライトボックスの回収す
る仕事もしてい たというヘンリーさんは、当時覚えた日
本の歌を次々と歌って聞かせる。中でも 18番は「海ゆ
かば」。日本兵とは一緒に食事も作ったし、畑の作り方
も教わっ たというヘンリーさんにとって、当時のことは
「いい思い出しかない」という。
 だが、戦後60年を過ぎ、村には戦争の記憶のある人
が少なくなってきた。江 畑は漁や畑仕事を体験する島の
生活の中で、ヘンリーさんから戦争当時のトーラ イ族と
日本兵との交流の話を聞く。さらに江畑は、村のお年寄
りから当時の話を 聞き集め、戦争に巻き込まれたトーラ
イ族の歴史を芝居に仕立てることに…。
http://www.carlos.or.tv/today_jp/ururun20040808.pdf
873農NAME:2006/01/20(金) 17:48:23
keiと申します。
02’03’にかけてミャンマーのチャウンター村へ仕事の為、4ヶ月ほど滞在して下りました。チャウンター村は、
インド洋に面しミャンマーの人たちの、観光地らしいのですが無電化村で国営電力会社が、夕方から3時間ほど村へ
送電するだけの村でした。現地スタッフ、現地の村人、
仕事場横のゲストハウスのご夫婦達と仲良くなり特に毎食、昼食を食事していたゲストハウスのご夫婦とは、
私と同じ歳という事もあり大変好意にしてもらっていました。ある日、昼食時にゲストハウスの主人のラボが、
『私のお爺さんは、日本語がしゃべれる』って言うじゃないですか!?私は、『機会があればお爺さんに会わしてほしい』って
言ったら後日お爺さんが私達を訪ねて来てくれました。お爺さんは、『戦時中に、日本軍の金田先生に勉強を教えて
貰いました・・・・』と色々なお話を日本語で伺いました。また、ある日仕事を早くに終えた日にラボ夫婦と村から見える
山の上のパコダへ行く事がありました。その時にも住職に『その昔ここは、日本軍が駐留していた』と話を
伺ったりしました。学生時分は教科書に載って無かったのか?勉強不足だったのか?(大概が、後者だが!)
最近になり 何かにつけ'日本人'は?って思うようになり時間があればこの様に検索し過去の'日本'、'日本人'に
ついて再認識?勉強してます。今回、窪田さんのh.pを拝見さして戴き再度、日本の過去?歴史?(私は、現在、
過去なのか?歴史なのか? 模索中?うーん 勉強中です)勉強になりました。ありがとうございました。
http://6001.teacup.com/konosuke/bbs?OF=30&BD=11&CH=5
874農NAME:2006/01/20(金) 19:02:02
http://www.norari.net/hoshi/070705.php
去年、ミンダナオ島最西端サンボアンガに行った。山下将軍の財宝を探しに日本人がよく
やってくるのだと、タルクサンガイというムスリムの集落で住民が教えてくれた。マルコス元大統領の
政治資金は、探し当てた山下財宝によるものだと言われている。太平洋戦争で日本軍が侵攻した
ところには多くの伝説めいた話が残っている。たとえば、ビルマの奥地には旧日本兵の村があるとかそんな類
の。ミンダナオにもやはりそんな話はあった。

ミンダナオの旧日本兵の話は、仲介者の日本人の証言は信憑性が低いといういかにもフィリピンらしい
オチで終わった。だから、日本語をしゃべる人には要注意なのだ。この手の輩はフィリピンにごまんといる。
まんまと日本大使館もマスコミも踊らされてしまった。

875農NAME:2006/01/20(金) 19:44:17
とある大学生さんへ
http://rounin40.cocolog-nifty.com/attenborow/2005/07/post_2194.html
読売新聞の記事ではおそらく、当時の政治情勢については書いていないのではないでしょうか。タイ王国は
当時中立国として振る舞うことで政治的独立を保っていた国なのです。そこへ日本が軍隊を派遣して
東南アジア征服の拠点にしています。タイは好んで日本軍を受け入れたわけではありません。
 台湾についてもそうなのですが、日本が植民地にした当初沢山の抵抗闘争が行われ、多くの台湾人が
殺害されました。「台湾理藩」と言います。これについては日本軍の中からも数多くの戦死者が靖国神社に
祀られていますから、いかに激しい抵抗があったのかは分かっていただけると思います。

 台湾やタイ、パラオでも、どこの占領地、植民地でもそうなのですが、証言している人の社会的地位、
経済的立場、政治的立場をよく考察していただきたいのです。日本軍と結託して利権をむさぼった人々からすれば、
日本軍に好意的立場になってその様な証言をします。逆に日本軍によって家族を虐殺されたり苦しめられた人々
は日本の侵略を孫子の代まで語り継ぎます。どちらが多かったのか。それをふまえながらご自分の考えをまとめてください。

876農NAME:2006/01/20(金) 20:05:14
http://www12.plala.or.jp/uzankai/sub5.htm
三浦 襄は大正の末、セレベスを経てバリ島に住み着き、後には島民からパパ・バリ(バリの父)と呼ばれるほどに敬愛
と信頼を集めた実業家です。風雲急を告げた昭和11年の秋、一旦は郷里の仙台に引き上げたのですが、大東亜戦争が
始まるや、海軍軍令部の要請をうけて、通訳として部隊と共にバリ島に帰ってきました。島民は「トアン三浦」の姿を見て、
文句なしに日本軍を歓迎し、バリ島の無血占領が実現したというのですから、三浦さんは偉大な人ですね。
 三浦さんは島民に対して、インドネシアの独立を楽しみに、日本軍に協力するように激励し、島民も気を揃えて日本軍を
支援しました。そして昭和19年9月7日、小磯国昭内閣によって、待ちに待ったインドネシアの独立を許容するとの方針が
発表されました。独立決行は1年後、と三浦さんは解釈したのです。バリ島民も皆、そう思いました。
 ところが、昭和20年8月15日、独立予定の日を目前にして終戦になりましたので、三浦さんは天を仰いで慨嘆しました。
バリ島民の希望を一日にして打ち砕いた、悔恨と慙愧の情に堪えられず、それよりバリ島39郡を連日連夜かけめぐって、
声涙ともにくだる陳謝と熱誠を吐露し、「自分は日本国民に代わって陳謝し、自決して骨をバリ島に埋め、インドネシア
独立の人柱となって、諸君の希望達成を見守る。」と宣言し、記念すべき9月7日の未明に、拳銃で自らの生命を
断ちました。その従容たる振舞いは古武士も及ばぬ見事さであった、と伝えられています」(アジアに生きる大東亜戦争:
ASEANセンター編:p97〜p98)
877農NAME:2006/01/20(金) 22:22:58
http://web.archive.org/web/20030228112020/members.jcom.home.ne.jp/pwpng/jproject.html
プロジェクトについて
 パプアニューギニア人は日本のことをよく知っていますが、日本人は彼らのことをほとんど知りません。現在、
パプアニューギニアでは日本製品があふれ、日本商社が進出し、日本からのODA(政府開発援助)プロジェクトが
進行し、海外青年協力隊員が至るところに派遣され、パプアニューギニア人は日本という国を物と人からじかに観察
できるのですが、日本人とってパプアニューギニアは遠い南の未開の国というイメージぐらいしかないようです。
このギャップは、太平洋戦争観にもよく表れます。
 パプアニューギニア人の記憶は鮮烈です。日本軍の記憶は世代から世代へと語り継がれています。親切な日本兵の
記憶も、残忍な日本兵の記憶も同じように語り継がれているのですが、どちらも辛い時代の記憶として残っています。
中には今でも、日本軍から教わったというを歌ってくれる日本語の歌を歌う老人もいれば、片言の軍隊調の
日本を話す老人もいます。しかし、日本兵がスパイ容疑にかけた村人を公開処刑に科して日本刀で斬首する光景を、
身振り手ぶりで再現し、その時の恐怖心を懸命に訴える老人もいます。
 実際、パプアニューギニア人の受けた被害は壮絶です。 直接戦闘に巻き込まれて死傷した人も少なくないのですが、
それよりも日本軍と連合軍によって徴用された数万の成年男性に起因する被害が大きいといわれます。主要な働き手
を失った彼らの村では食料生産が低下し、残された婦女子の栄養状態が悪くなり、そのため栄養不足や病気等で
死亡する者が増加したというこです。労働者徴用が自給自足で成り立っていた村の生産システムを多く破壊したのでした。
それは、戦後5年あまりに渡って人口が減少し続けるという甚大な被害に如実に表れています。
 一方、戦後の日本人は、パプアニューギニアは悲惨な戦線であったことを知る人はいることはいても、パプアニューギニア人
が受けた壮絶な被害を知っている日本人は少ないようです。日本人が語る戦争とは、あまりにも悲惨すぎた戦いということに
力点が置かれ、その陰で苦しんだ現地の人々のことはほとんど眼中にありません。そして一般的には、
現地住民に対して加害者であったという認識は薄いようです。

878農NAME:2006/01/20(金) 22:48:15
ニッポン国古屋敷村
牧野より蔵王山中に入った戸数わずか八戸の古屋敷村。小川とそのスタッフは1980年の冷害をきっかけに
シロミナミと呼ばれる古屋敷村独特の冷気を立体地形図の実験で再現し、冷害の原因究明をはじめた。こうした
科学的な分析は、顕微鏡撮影による稲の開花や地質調査にまで及び、徐々に古屋敷村の冷害の歴史に移行しはじめる。
そして老人達の個人史が語られ、かつて盛んだった炭焼き、村と町をつなぐ一本道の近代化がもたらせた過疎、最後の
炭焼きとその母が語る戦死した息子たちの記憶と路傍の碑に込められた家の歴史、かつて植民地「満洲国」へと渡り
帰還した老人や、ニューギニアで戦争体験し今でも軍隊ラッパを高らかに吹く老人たちの語りとともに、歴史が昨日の
記憶であるかのように甦りはじめる。こうして昭和史へと至る古屋敷村の歴史はいつの間にか「ニッポン国」の歴史にまで
広がりをみせるのである。山形に移り住んだ小川が80年代になって発表した最初の成果であり、全フィルモグラフィー中
突出した傑作とも言われた。ベルリン国際映画祭国際映画批評家賞も受賞し、小川を改めて
世界的なドキュメンタリー映画作家の一人として認識させた。
http://www.city.yamagata.yamagata.jp/yidff/catalog/ja/97/jdoc95-1.html
879農NAME:2006/01/20(金) 22:54:08
西部ニューギニヤ戦記 著者 佐藤 耕太郎(ニューギニア)
http://www2.wind.ne.jp/sirakami/history/nyugini.htm
880農NAME:2006/01/21(土) 00:28:50
http://www.ne.jp/asahi/siesta/tsuboi/chikyu/chikyu_8.htm
翌日、小さな村に上陸すると長老が嬉しそうに出てきて「お前どこから来た」と一人ずつに聞いた。
僕が「日本だ」と答えると彼はひどくびっくりして「ありがとう」と日本語で言った。一瞬、何て答えようか
戸惑ったが「ありがとう」と言ってみると彼は顔をしゃわくちゃにして「本当に日本人だ」と言い、村人たち
を呼び集め「見ろ、これが日本人だ」と自慢そうにしゃべっている。なんと僕は戦後初めて会う
日本人だという。激戦地だったニューギニアで彼と日本兵の間にどんなドラマがあったのかは分からないが、
彼には悪い思い出ではなさそうなことが嬉しかった。
881農NAME:2006/01/21(土) 00:30:52
今日は、自分の担当の授業が6時間目で全て終了したので、その後校長に許可をとって退勤させてもらい
友人と一緒にラバウル観光に出かけた。ココポのマーケットで、客待ちしているPMVバス(公共バス)を見つけ、
貸切バスにしてくれるよう交渉。150キナ要求されたが、何とか値下げに成功、120キナで交渉成立。
Japanese tunnel, Barges tunnel, Hot spring, Yamamoto bunker, Japanese bomber, Volcanic Observation
など主なものすべて見てまわることができた。途中、地元のマンギー(若者)の椰子の木登りや変なおじさんの
日本の歌のサービスつき。しかし、本当に地元の人間は木登りが上手である。枝も何もないのにスルスルと
椰子の木を登ってしまう。さすがパプア?。どうして、昔日本兵は現地のパプア人に、「♪もしもし亀よ♪」を
教えたのだろうか?どこに行っても彼らが知っているのはこの歌と「♪さらばラバウルよ♪」ばかり。
歌詞もめちゃくちゃだが、一生懸命歌っていたので間違いは指摘しませんでした。
http://www12.ocn.ne.jp/~satoru/2004-8.html
882農NAME:2006/01/21(土) 00:34:37
23 犬死を結果した技術とシステム
http://www1.vecceed.ne.jp/~swtamura/minaosu23.htm
パプアニューギニア ガダルカナル
883農NAME:2006/01/21(土) 00:45:18
20世紀の大虐殺ワースト20

文藝春秋八月号/秦郁彦、佐瀬昌盛、常石敬一共著 「20世紀戦争犯罪ワースト20」から
http://www5.ocn.ne.jp/~kmatsu/kirinuki/051gyakusatujiken.htm
884農NAME:2006/01/21(土) 17:55:35
5 大東亜共栄圏の実態

 日本は東南アジア・西太平洋の広大な地域を占領するに際し,欧米による侵略からのアジアの解放・大東亜共栄圏
の建設を主唱したが,占領地では征服者として君臨し,軍政を実施して石油・錫・鉄鉱石など重要資源の確保と
現地軍の自活を優先させた。そのため,軍政担当者は軍票を乱発して物資を徴発したり,現地住民を軍用工事に
労務者として強制労働させ たりした。なかでも,タイとビルマをむすぶ軍用鉄道(泰緬鉄道)の建設工事には,労務者
だけでなく連合国軍の捕虜も動員された上に,劣悪な条件のなかで工事が強行されたため,多くの労務者・捕虜が死亡した。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tsuka/modern/05/017.html
885農NAME:2006/01/21(土) 17:56:53
インドネシアでは占領期を通してインドネシア人労働力を大量に動員し、飛行場や海運・兵たん根拠地を建設しました。

 ジャワ島では、「ロームシャ」(労務者)として約二百五十七万人が動員され、インドネシア全体では、四百万人が
動員されたと言われています。

 インドシナ半島ではタイとビルマ(現ミャンマー)を結ぶ「泰緬(たいめん)鉄道」建設工事が、連合軍捕虜六万人余、
東南アジア各地から集められた二十万―三十万人の「ロームシャ」を動員して行われました。ビルマ経由の中国・重慶の
国民党政権への連合軍補給ルートの切断とインド侵攻作戦の補給ルート確保を狙った鉄道建設でした。四二年七月から
十六カ月の突貫工事による強制労働で、捕虜一万二千人以上、「ロームシャ」の半数以上が死亡しました。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-12-08/26_01.html

886農NAME:2006/01/21(土) 19:06:51
一般公開された映画ムルデカを観て
http://yorozu.indosite.org/bbs_log/bbs_log03/main/761.html
インドネシア
887農NAME:2006/01/21(土) 19:24:32
スカルノとスハルト
http://www.geocities.jp/p_tokorozawa/crt/crt18b.htm
スカルノ・パート:

「自分が生まれたときには瑞兆があった」と語る,自我肥大した晩年のスカルノ.
 「倫理政策」という,オランダが植民地支配のためにしていた言い訳.
「私は事実や数字を上げるのではなく,物事を描写した.私は彼らの情念に訴えた」
等など,スカルノ自ら語る演説技術.
 オランダ植民地の秘密警察「検察庁一般調査部」の誕生.
 白人優位神話の崩壊を招いた,第2次大戦での,日本に対するオランダの敗北.
 東インド経済を崩壊させ,中央集権的国家機構を解体させた,日本軍の統治.
 譲歩を小出しにしてインドネシア人の対日協力を維持しようとする日本軍.
 パンチャシラ(国民主義,国際主義,民主主義,社会的正義,神への信仰,という5原則)を独立準備委員会でぶち上げるスカルノ.
 急進的青年活動家と,彼らが拉致したスカルノとハッタとの間をとりなす,海軍武官府の前田少将.
 結核を病みながらもゲリラ戦を指導し,独立達成直後に死亡するスディルマン.
 中央でも地方でも,様々の武装勢力,政治勢力に占拠され,中央政府の意のままにならない行政.
 日本軍と同じことをやって悪性インフレを進行させる,晩年のスカルノ.
888農NAME:2006/01/21(土) 21:42:38
ペリリュー神社
ペリリュー島は、現地住民の住んでいる島です。島民は白人の統治と日本時代を身をもって経験しているいて、大人も子供も
日本軍と一緒に戦う決意を持っていました。しかし日本軍としては、住民を戦火に巻き込んではならないという配慮から、
船舶の乏しい中、空襲を避けつつ夜間を利用して全員
をコロール島に退避させました。
この誠意が通じたのか、戦いが終わって帰島した彼らは、日本人の遺体を見て泣いたそうです。島民はこぞって日本軍の遺体を葬り、
墓地の清掃に心掛けました。
現在、島の中央部に近い「島民墓地」の一角に、高さ約四メートルの「みたま碑」が建っています。それを中心に、日本の各団体に
よって三十数基の慰霊碑が肩を寄せあるように建立されました。
ペリリューには、昭和九年に「南興神社」が建立されていました。現地人たちは昭和十九年の玉砕戦で神社が破壊されるまで、
同神社を「ペリリュー神社」と呼称して、島の安泰と繁栄を祈願してきました。
そして昭和五十七年には、「青年南洋群島慰霊巡拝団」二十名が、船坂弘氏の助力を得て、ペリリュー神社を再建しました。
すべて日本から運搬した材料を使い、島民の協力を得て、十日間費やして完成しました。御祭神は天照大神と戦死者一万余名
の「護国の英霊」です。
http://www.interq.or.jp/kyuushu/babacyan/aph.htm
889農NAME:2006/01/22(日) 11:18:32
韓国に引き続き、又々、日本の経済協力の最大の受け入れ国での在勤である。 IGGIと言う対インドネシア
援助国グループの世銀会議がヨーロッパ(オランダ)で開催されるのに大使館の次席の私が日本代表団の1員として
出席すると言う役目があって、ヨーロッパの空気を年に1度吸う事が出来た。

在勤中、経済協力関係の仕事でインドネシア国内もかなり出張した。スマトラばかりでなく、カリマンタンにも何度か出張があった。
休暇でバリ島にも、家族で、行った。高校時代の友人IとNが遊びに来たのも然ることながら、何よりも、2年目の夏、
80歳の母が、私の8才下の弟が用心棒となって、バリ、ジャカルタに旅行に来て呉れたのは、嬉しかった。

ここインドネシアには、終戦時に帰国せずに残留してインドネシアの独立を手伝った旧日本兵や、戦中、戦後に日本で
勉強したインドネシアの人達と結婚した日本の女性が多数いて、一つのグループを形成して活躍していた。娘が
通ったジャカルタの日本人学校にも音楽や英語の先生でそのような人達がいた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~bjorndl/nesia.html
890農NAME:2006/01/22(日) 11:31:12
軍歌は歌いたくないな、と思っていると、同行の有光さんが、「おばあさん達は、『シナの夜』なら知っているのでは・・」と
言うので、うろ覚えの歌詞を辿った。彼女たちも一緒に口ずさんだ。このとき時計の針は一瞬、日本の昭和10年代。
彼女たちにとっては苦しくも懐かしい青春時代に逆戻りしたのだろうか。
 日本は占領中インドネシアの学校で日本語も教えた。昭和10年代の日本の流行歌も口ずさんだのであろう。
入居の女性達は戦争中はいろんな仕事をしていたが従軍慰安婦だった人はいなかった。
 それもそのはずで、この老人ホームの入居資格は、従軍慰安婦かどうかは不問だった。でも日本占領で肉親や財産
を失ったり、日本兵にレイプされた親族や知人もいたかもしれない。
 日本政府は老人ホームの建設によって従軍慰安婦問題の道義的責任を果たしていると考えているとしたら
とんでもないことだ。(「インドネシアであった女性)終わり)
http://www.haruko.gr.jp/enews/enews2000/enews2000_18.html
891農NAME:2006/01/22(日) 12:44:14
報告1
報告者:望月雅彦(法政大学沖縄文化研究所)
題目:北ボルネオ軍政と南方進出企業―(有)皇道産業焼津践団の場合
出席者数:12名

1. はじめに
 当研究の発端:戦前の日本人移民の聞き取り調査は今がラストチャンスと考え,戦前ボルネオに渡った沖縄からの移民の話を
聞くことにした。移民が現地で初期軍政に組み込まれていったことから,移民研究の延長として軍政に興味を持ち始め,
特に軍政と南進企業との関係に着目した。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jssah/seminar/ktreport/kt011027.html
ポンティアナ事件
892農NAME:2006/01/22(日) 15:01:58
情報はでっちあげか?日本人が絡むと金になる、一般に、途上国ではそんな風に思われている。
今回の件では、マスコミや関係者が大挙して現地へ向かったらしいが、移動手段、ガイド、情報、飲食、
宿泊などに関連して、かなりのお金が動いているだろうし、日本人の感覚からしたら多額ではなくても、現地の
物価レベルと比較すると、この機会に一儲けなどと思う人がたくさん暗躍しても不思議ではない。終戦後
何らかの理由で現地を離れられず、その国の人間として、生活を積み上げてきた、ミンダナオ島山岳地帯では、
そういった運命の方々も多いに違いない。フィリピンではないが、インドネシア・スマトラで、同様の現地残留日本人に
私達も会ったことがある。その地に根ざして立派に活躍している人が多かった。「ニッポンはインドネシアの
兄である」と突然話し出す現地の古老もいて、戦時、兵補という身分で、日本陸軍に組み込まれていた人達
だろう、片言の日本語、うろ覚えの軍歌など、親近感を込めて披露してくれた。どれも東南アジアにおける戦争の爪痕である。
http://blog.livedoor.jp/edujapan/archives/2005-05.html

893農NAME:2006/01/22(日) 17:44:52
博士論文を書くため、再びジャワに行き、日本軍の占領政策がもたらしたジャワの農村社会の変容について調査しました。
オーラル・リサーチを続けましたが、歴史学の手法にのっとった論文に仕上げようと、文献調査にも念を入れ、インドネシア
のかつての宗主国オランダにも出かけて文献資料を探したものです。その後もたびたびジャワに出かけ、調査・研究を
続けました。私は農村に滞在し、そこで人々と暮らしながら話を聞きます。こうすることで、村の人間関係などバックグラウンドがわかるし、
親しくなって初めて話してくれることも聞けるのです。1年半のインドネシア滞在中には約400人の話をテープに録りました。
 ジャワの農村には、戦時中に生まれた組織である「青年団」や「隣組」が今なお機能し、労務者(ロームシャ)が強制労働者を表す
言葉として現地のことばに残っています。そういう占領統治の影を社会、経済、政治、文化などさまざまな観点から分析した結果を
数年前に本にまとめました。
 そして今は、現代のジャワ農村に起こりつつある変化を中心に研究しています。ジャワの農村ではテレビが普及し始めたところ。
また、都市部では日本食が人気になるなど、日本の食文化、ファッション、アニメ、漫画などが浸透してきています。これからは
日本の現代文化が現地社会に与える影響についても研究したいと思っています。
http://www.kawai-juku.ac.jp/prof/asia/asia-kurasawa.html
894農NAME:2006/01/22(日) 21:24:15
[email protected]

メールアドレス
895農NAME:2006/01/23(月) 12:06:51
9  大戦中のサマール駐屯日本兵の思い出―タフト
オラスからはエンジン付きトライシクルやジープを使い、東サマールのドロレス(Dolores)、州都ボロンガン(Borongan)などに
立ち寄ったあと、旅の最終目的地、タフト(Taft)へ向かった。タフトを訪れたのは、この町が1944年8月ごろ、サマール島の
日本軍の主力が配置されたところだったためだ(『フィリピン・幸せの島サマール』70ページ)。戦時中の被害を尋ねると、
タフトの住民に対する直接被害ではないが、西サマールの方から連行してきたフィリピン人に強制労働を
させていたとか、スパイの嫌疑をかけられたフィリピン人が殺害されたなどの話が出た。町の小学校には、駐屯部隊が
使っていたという木造の建物が残っていた。日本兵の宿舎や医療施設だったという民家もある。小さな町の各所に
日本軍の跡が残存しているだけでなく、お年寄りの語りからは非常に具体的な日本兵との思い出もあふれ出た。
「ここでハポン(日本人)はココナツの殻で焚き火をして我々とのダンスパーティを開いた」、「これはハポンが作った井戸、
日本語で書かれた教科書みたいな紙も家にあったんだ」、「ここからハポンが私を見ていたのよ。びっくりしたら、私が
日本に残してきた妻に似ていたんですって」「挨拶を忘れたとハポンに怒られたけれど、そのまま帰してくれた」

日本人の名前もしばしば会話に出てくる。87歳のセグンダさんは医者だった夫のところへ日本兵が来ては治療を
頼んだと言う。「なかでもカワバタのことはよく覚えています。よく缶詰を配ってくれましたもの」。また、日本兵の一人に
ワライ語と日本語の通訳をしていた人がいたらしい。カトバロガンで商売をしていた日本人と地元の女性との
間の子供で、名はパブリト・モモカワと言った。パブリトは当時まだ18歳だったが、地元民とワライ語を解さない
日本兵の間で地元民を助けていた人物として語られる。彼の現在を知る人には出会わなかったが、
パブリトの名は今でもタフト(おそらく他のサマールの町でも)の人たちの記憶の中では生きている。
http://kyoto-samar.hp.infoseek.co.jp/newpage109.htm
896農NAME:2006/01/23(月) 12:34:52
1941年には第二次世界大戦が始まり、そのあいだの、1942年3月9日から1945年8月15日までインドネシアは日本軍に
よって占領された。この時期には、原材料の不足、日本軍政監部の統制によってジャワ更紗の生産はほとんど
停止したが、例外的に、カイン・ベチャック(kain becak:泥まみれの布)と呼ばれる下級品がわずかにつくられていた。
また、その後にはジャワ更紗に代わる戦時下の特殊な衣料として、カイン・カレット(kain karet:ゴム製の腰巻)と
呼ばれるゴムに印刷用のインクでジャワ更紗の文様をプリントした製品までもつくられた。しかし、さらに例外的なことは、
この時期には本来ならばありえない、極めて華麗なジャワ更紗がプカロ(ン)ガンでつくられていたことである。それは、
日本軍政監部がジャワで組織した日本軍政への協力のための大衆組織である「ジャワ奉公会」と関係する
ジャワ更紗で、一般には「カイン・ホコカイ(kain Hokokai)」、あるいは、「カイン・ジャワ・ホコカイ
(kain Jawa Hokokai)」と呼ばれ、日本軍政に協力した一部の人びとたちに褒賞として贈られていた
<前ページの図4-2>[吉本(1996):187]。

一方、ジャワの各王宮は日本軍政下で異常な経済的苦境に陥り、そのため手持ちの貴重なジャワ更紗を庶民の
あいだに売りに出さざるを得ない状況に追い込まれた。王侯、貴族専用の伝統的な禁制文様の廃止となり、
ここにはじめて一般庶民にその使用が許されることになったのである。
http://www.mkc.zaq.ne.jp/indonesia/4syo.htm
897農NAME:2006/01/23(月) 12:37:49
 戦時中の日本人は過ちを犯したかも知れません。しかし我々の世代では、企業活動を通し、経営目標達成のため
努力してお互い助け合う関係であると胸を張って言えると思います。我々の会社は日系企業で日本の子会社の関係
ではありますが、マレイシア人社員によるマレイシアの会社なのです。
 私の祖父は戦時中マレイシアのペラ州に進駐していました。祖父は既に他界していますが、生前当時の記録を
自ら纏め『ペラ州の思い出』という自伝を自費出版しました。現在その本は私の手許にはありません。彼が
どのようなマレイシア滞在の日々を送り、どのようにマレイシアの人々と接したのか、今は知る術がありません。
祖父は警察官であったので、戦時中は治安維持のため駐在していたようです。また自伝の題名からも、
現地の人々のために努め、感謝される立場であったのではなかろうかと想像しています。先日出張で
ペラ州のイポーという都市を訪れました。そこは祖父が50年前に駐在していた土地です。イポーの青い空を眺め、
当時の祖父を想うと実に感慨深く、胸が締めつけられる思いがしました。
 50年後、今の私たちの生活の記録を残すものは何もないでしょう。工場も会社も無くなっているかも知れません。
しかし、私たちが過ごす毎日の積み重ねこそが日本とマレイシアの関係となって、次の世代に引継がれて行くでしょう。
きっと祖父がそうであったように、日本人とは素晴らしい国民であると評価されるように、現在のマレイシアの人々と
正面から向き合い、毎日を過ごして行きたいと思います。(編集部注・祖父田村秀行氏は当時ペラ州政庁警務部長として
駐在。また子息は田村秀昭参議院議員・空将元航空自衛隊幹部学校長、筆者の父)。
http://jmanet.com/kaiho/452.html
898農NAME:2006/01/23(月) 12:39:23
私たち五五師団の三人がマンダレーの師団司令部で落ち合って、一昼夜汽車にゆられて、ラングーンについたのは10月1日。
 兵たん宿舎で昼食をすませて外へ出てみると、街はまだ戦勝の慶びで沸き返っていた。
 ビルマ人もインド人も支那人もそして日本兵も、男も女も子供もみな一つになっていて何処かで楽しいお祭りが行われている感じ。
 でもあのごう慢な白人の姿は全くみられない。
 
 下町を歩き回って疲れた私は、スコット・マーケットの向かいのビルの軒下で休んでいると、近くで休んでいたインド人の老人が
こっちを見て、ビルマ語で「アーロン タクー」と言って大きく空を抱くような仕草をします。
 それを聞いて、私も思わずそれを英語にして「All is one?」と聞き返すと、彼はうなづき、顔をくしゃくしゃにして喜びました。
http://ww3.enjoy.ne.jp/~fukiko/j-b-1-7.html
899農NAME:2006/01/23(月) 21:13:37
戦争責任、戦後責任、未来責任を自分はどう考えるか

政策科学部 1回生 梅本美貴

 戦争責任、戦後責任として日本は何を果たさなければならないか。
http://www.ritsumei.ac.jp/ba/~kinukawa/ume.html
一つは戦争被害の徹底的調査を行い、その責任の所在を明らかにすることである。
二つめは被害者に対する真摯な謝罪をすることである。
三つめは後世のための歴史教育を行うことである。
 現在、日本で行われている歴史教育には、いくつかの問題点がある。一つは教科書検定である。
1952年、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が独立したことにより、各界で公職追放されていた人々が
追放を解除された。これ以降、教科書の国家的統制が強まった。1955年の保守党の合同以降、教科書検定審議会の
メンバーが一新され、戦時中、大東亜戦争を正当化する史観を展開していた高山岩男らが中心となったからである。
彼等は、「太平洋戦争については日本の悪口はあまり書かないで、それが真実であってもロマンチックに表現せよ。」
などという意見を述べた。そもそもいろいろな角度から論じられなければならない教科書の記述について、
国家が一定の見解、それも誤った見解を押し付けようとする検定制度にこそ問題がある。

http://www.ops.dti.ne.jp/~heiwa/peace/report/010re-m.html
戦争責任・戦後処理問題を考える
―日独比較の視点から−
http://www.mskj.or.jp/getsurei/yaita9910.html
戦争精算省構想

矢板明夫/松下政経塾第18期生

>私は戦後精算省は五年廃止とする臨時官庁として、財源は民間の寄付を中心とすれば、最小限のコストで最大限の
外交効果が得られ、これからの日本の最大の国益に繋がると考えている。
900農NAME:2006/01/23(月) 22:24:30
当時、植民地の住民にとって「共存共栄」等と言う言葉はとても信じられないものでした。なぜなら、
欧米列強にとっての植民地とは、「支配者」と「被支配者」の関係でしかなかったからです。ところが日本軍は開口一番、
「共存共栄」を唱えたのですから、住民が驚いたのも無理はありません。しかし、今村司令官の布告は終戦まで、
決して破られる事はなかったのです。更に、ジャワ軍政府の施政も住民の支持を得ました。例えば、



1. 農業改良指導
2. 小学校の建設と、児童教育の奨励
3. 新聞「インドネシア・ラヤ」の発刊
4. 英・蘭語の廃止と、公用語としてのインドネシア語採用
5. 5人以上の集会の自由
6. 多方面でのインドネシア人登用
7. インドネシア民族運動の容認
8. インドネシア人の政治参与を容認
9. 軍政府の下に「中央参議院」を設置
10. 各州・特別市に「参議会」を設置
11. ジャワ島全域に、住民による青年団・警防団を組織
12. 「インドネシア祖国義勇軍」(PETA)の前身を創設
http://www.seiken-do.com/tigermask/voice/2004/20040720.html
901農NAME:2006/01/23(月) 22:44:14
日本軍の東南アジア占領が人びとにあたえた衝撃が大きかったことは否定できない。日本軍が白人の軍隊を打ち破ったことは、
独立への自信につながった。と同時に日本軍の苛酷な統治は、彼らに独立への渇望を生みだし、自分たちのことは自分たちで
守るしかないということを学んだ。日本軍がアジア各 地で行なった残虐行為、強制労働、民族の主体性をうばう皇民化政策、
経済収奪などについてはここではふれない。
 いずれにせよ、日本の戦争目的をみても実際に行なったことをみても、日本がアジアの解放者だったというのは、アジアの
なかではけっしてうけいれられない議論だ。だから「親日」的といわれている人びとでも、日本の「軍国主義」の問題には
ひじょうに敏感だ。

ルック・イースト政策をとり日本に学ぼうといっているマレーシア のマハティ−ル首相も、教科書問題について
「(日本が)多くの人を殺し、多くの残虐行為について責任があるということを、日本人は理解しなくなる」ときびしく批判
しているのはそのあらわれだ(『朝 日新聞』一九八二年八月二七日)。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper16.htm
902農NAME:2006/01/23(月) 23:09:33
スマトラの司政官についてなにか資料がないかと思い、図書館に行ってみました。

インドネシア国立文書館編の「ふたつの紅白旗 インドネシア人が語る日本軍政時代」という本がありました。

庶民からの聞き取り集といった感じの本であります。自分の國を支配しに入ってきた外国人を、良く言うはずはありません。

その本に書かれている具体的な内容は、私たちが戦時中日本で経験したこととほぼ同様であります。

つまり、食糧不足、貧困な医療、精神主義を振り回して威張る軍人などが出てきます。

これらの話から私は、日本がインドネシアで、そう特別に悪いことをしていたわけじゃないなと、むしろ安堵の思いをしたのです。 

もう一つ「インドネシア 歴史と現在」というオーストラリアの大学教授が書いた本もありました。

こちらは、全体で370ページのうち、日本の軍政時代として、僅か5ぺーじを割いているだけです。

それに拠れば、オランダは1930年頃から行政の中間管理層までオランダ人を配し、強い締め付けを行っていました。
しかし、日本は基本的にインドネシアの行政組織を使い、自分たちはその上に立ってコントロールしようとしたのだそうです。
このような情勢の中で、行政機関の役職に抜擢される人もあって、インドネシア人たちはある種の自信を得たのだそうです。

また、日本はインドネシアを味方に付け、ともに戦わせようとして、武器を与え訓練して郷土防衛義勇軍を編成したのでした。
そのことがいろいろの面で独立に強い影響を与えたのだとしています。

なにせインドネシアは、1945年8月15日に日本が降伏した僅か2日後に独立を宣言したのでした。
http://otsubo.info/s_contents/clinch.html

903農NAME:2006/01/23(月) 23:29:50
記者会見で、「日本軍は東南アジア各地から25万人の労務者を泰緬に連行した。そのほとんどがまだ帰っていない。」と
詰問した。当初は職業紹介所を通じて募集したが、労働条件の悪さが伝わって激減、”ロームシャ狩り”になった。
地元の役人に命じて、地区ごとに一定の人数を割り当て、さらには街頭で通行人を呼び止めてつれていく強制連行までした。
ビルマでは18万人、マレーから8万人、インドネシアから4万5千人、それに地元のタイ人労働者を加えると、35万人を
超すものと見られる。この鉄道建設に動員された捕虜の数は6万5千人といわれているから(連合軍側資料)最大の犠牲者は
アジア人ロームシャであることになる。「捕虜に比べれば仕事は楽だったが、いろんな病気のため数多くのロームシャが
死んだ。あまりに多くて数は覚えていない。戦後マレーの兄の許に帰国しようとしたが金がなくて諦めた。
盾�ってタイ女性と結婚して、子供も出来た。インドへ帰ってみたいが、妻子のこともあるので・・。」とインド生まれの
マレー人トサミさんは証言する。
http://homepage.mac.com/hasse_54/showa/kokumin.html
904農NAME:2006/01/24(火) 10:49:38
http://www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/AA/JB/JavaBali037.html
「戦争中は、コクミンガッコーで日本語を覚えさせられましたよ。でも昔の
ことだから忘れました。」
 日本軍による占領時代を体験した彼にとって、日本人に対する悪感情は
残っていないのだろうか。さすがにそれは聞けなかった。
「オランダ時代は、最大4つの言葉を覚える必要がありました。フランス語、
ドイツ語、オランダ語、そして英語です。」
 彼はいろいろな時代を体験してきた生き証人であるわけだ。なかなか日本
人がこういう話を聞けるチャンスというのはないだろう。
「私の家族はバンドゥンに住んでいるんです。バンドゥンとボゴールに家
があるんです。」
「じゃあ、リッチマンですね!」
 彼は笑う。時計を見ると、もう9時半だ。ギターを片づけ、帰り支度をす
る。今晩は楽しいひとときをすごせた。ジャワ人たちの家族的なつき合いと
は、なかなか良いものだ。
【長老はアーティスト・完】
905農NAME:2006/01/24(火) 15:02:50
http://web.soshisha.com/archives/holland/2005_0721.php
街頭から蘭国のすべてが消え去ったからといって、現地民は自由になったわけではなく、彼らには貧困、空腹、
弾圧が待ち構えていた。日本軍政は1943年10月からジャワの農村で何百万人もの労務者徴集をして、
飛行場、道路、鉄道路線の敷設工事や採炭労働に動員した。労働環境は概して非常に悪く低賃金で、
日本人現場監督は容赦なかったから、何十万人もの労務者が栄養失調や病気で死亡した。また、軍用米政策が
現地民に悲惨さをもたらした。1943年からジャワの各地方行政は、軍政へ規定量の米を供出することが義務
づけられたので、規定供出量をこなすために、各地方行政は他地方へ米の出荷を禁止した結果、米取引市場がなくなり、
米を他者に依存する地方は飢饉を来たした。現地人口7000万人のうちの250万人が軍政の犠牲となったと見られている。
906農NAME:2006/01/24(火) 17:46:24
4、東ティモール報道の裏側

  東ティモール独立前から6年間に渡って現地に暮らしていた日本人に逢った。
彼の話は、ちょっと衝撃的でもある。たとえば2002年末のディリ暴動は、仕掛けら
れたものだったとか、実権を奪われたと言われた大統領シャナナのカリスマ的人
気による事実上の権力奪取(憲法無視?)。国連を始め支援NPOの薄汚い姿。
アフガン戦争を見て嘲う市民……。独立投票後の民兵騒乱で数万人が殺された
と報道されたが、実際はせいぜい千人単位であることも驚かされた。太平洋戦争
中の日本軍占領によって人口が4万人虐殺されたという主張が数字が合わない
ことは拙著でも指摘したが、インドネシアの占領中に殺された20数万人という数
字も極めて怪しいそうだ。
  マスコミのおかしさは言うまでもないが、巧妙争いをして現場を無視する排他的
な市民団体の話には、私も実体験しているだけに盛り上がった。とくに○○女史の
言動には怒り爆発! というところ。これほどの経験と情報を持っているのに(した
からこそ)、「もう東ティモールには関わりたくない」と思って帰国したという。
  とはいえ、少しずつ気持ちも静まり、改めてできることを模索しているよう。今後
に期待したい。
http://homepage2.nifty.com/tankenka/column-2.html
907農NAME:2006/01/24(火) 23:24:47
社会部 青柳光郎)

   映画を作ろうとしているのは、ジャカルタで独立プロを営むケマラ・アトモジョさん(36)。脚本は、一人の元日本兵が
主人公で、インドネシアで村の女性と結婚し、家族と暮らし始めた。子供も生まれたが、村では全員に受け入れられたわけ
ではなく、拒絶する人もいた……。

 敗戦後、多くの日本兵が東南アジアに残った。インドネシアの場合は、直後に始まったオランダからの独立戦争に加わったこと
が評価され、インドネシア国籍を取得できた人も多い。

 アトモジョさんは「社会の表舞台に加わっただけに、その過程に多くのドラマや歴史があり、製作者としてはぜひ描きたい
テーマです」と話す。

 元日本兵で組織している「福祉友の会」の理事の一人で、二世のヘル・サントソ・エトさん(38)は「私の父も80歳で、友の会
ができた19年前、仲間は200人近くいたのに、いまは47人に減っています。父親の世代のことが映画で描かれる
となれば、それはとてもありがたいと思います」と期待している。
http://www.ne.jp/asahi/aoyagi/sky/asiamedia11.htm
908農NAME:2006/01/25(水) 01:18:36
63年に英国より独立したアフリカのケニヤ。独立後も英軍は駐屯しているが、昨年、英軍が長年にわたってケニヤの
多くの女性をレイプしていたことがアムネスティにより明らかになった。

その数は過去35年間にわたり600件を超えている。被害を申し立てた女性は、身体的な傷とともに、心に負った傷にも
悩まされている。世間から烙印を押されることを恐れ、誰にも被害について話せなかった女性も数多くいる。これまで
ケニア政府も英国政府も、女性たちの申し立てを無視し、加害者は処罰されていない。

今回、アムネスティ日本は、ケニアで女性に対するレイプの問題に取り組み、被害者女性たちの支援活動を行なう医師、
エミリー・ロゲナさんを日本に招き、講演会を開催する。ロゲナさんには、事件が隠されてきた背景、被害女性を
「不名誉」として受け入れないコミュニティ、被害女性のトラウマ、また駐留外国軍の犯罪ゆえの取り組みの
困難などについて話してもらうそうだ。

11月9日(火)午後6時会場 6時半開演
http://ch.kitaguni.tv/u/5028/%A3%C5%A3%D5%B4%D8%CF%A2/0000140645.html
909農NAME:2006/01/25(水) 10:54:02
『戦争が遺したもの――鶴見俊輔に戦後世代が聞く』(新曜社)が話題だ。
ことし3月10日の発売以降、現在、書店の店頭では三刷の本が置かれている。
これは文字通り、哲学者の鶴見俊輔氏に、上野千鶴子氏と小熊英二氏がその
戦争体験、戦後体験を詳細に訊ねたインタビュー集である。80歳を超える鶴
見氏が語る自身の体験と思想は、インタビュー形式なのでずいぶんと読みや
すい。鶴見氏への二人のツッコミや、それに対する鶴見氏の抵抗ぶりなど、
三者のやりとりの息づかいも感じられて、語られる内容とともに、非常に刺
激的でおもしろく一気に読み通してしまった。

 内容については、例によってみなさんに読んでいただくとして、初版本で
いくつかの誤植(らしきもの)を見つけたので、謹んでご紹介させていただく。

 まず、本書61ページ。鶴見氏が海軍の軍属として赴任したジャカルタ(ジャ
ワ)で、どんなことがあったのか訊ねるくだりで、鶴見氏はそこでの慰安所
の様子を語る。上野氏と鶴見氏の対話のなかで、上野氏のこんな発言がある。
「上野 日本軍の将校が、白人女性を要求したというのも、やはりレイシズ
ム(人権主義)ですね。」
 きわめて明快な誤植である。レイシズムとは人権主義ではなく「人種主義」
だろう。
http://back.honmaga.net/?day=20040505

 
910農NAME:2006/01/25(水) 23:53:38
「潮」一九七一年七月号、百人の証言と告白より以下。
 妊娠している婦人を全裸にして刀で刃傷、木の間に女の両手両足をゆわえて子宮に手オ留弾をさして爆発。
興味本位で、得意気に。(元軍曹T)
 部落の女達が地下に隠れていた、兵達は我先に。終えると小屋に閉じ込めて放火、焼殺。(元軍曹A)
 蘇州では男女とも裸にして行列、男は水没させて射殺。(班長K夫人)
 女ひとりに兵十五から二十人、憲兵にばれると軍法会議にかけられるので、強姦したあと必ず殺す。ただし、
憲兵は不在。(従軍記者、小俣行男「侵掠」)
 強盗強姦は常識、五、六人はやった。(小平義雄、1971.8「新評」)
 1937.11/30、東京日々新聞朝刊「百人斬り競争! 両少尉、早くも八十人」無錫、常州間にて、向井、野田。
12/ 4で二報、12/ 6で三報。「百人斬り、大接戦、勇壮、向井、野田両少尉」 野田氏、故郷の小学校で内幕を披露。
 1937.12/13、日々朝刊「百人斬り、超記録、向井106-105野田、両少尉さらに延長戦」
 シ栗水、魔王小川による据え物十四人斬り。
 鵜野晋太郎元中尉、九人斬首、日本刀怨恨譜、本多勝一「ペンの陰謀」中。
 12/13 南京陥落、朝日、読売、「大殲滅戦展開さる」
 長勇チョウイサム中佐、逃げる民間人に機関銃を発射。
 中島師団長日記、上層からの指示による虐殺。

http://www.oct.zaq.ne.jp/poppo456/in/b_honda.htm
911農NAME:2006/01/26(木) 23:15:12
http://jinsan.atnifty.com/myhome/ibuki-papua.htm
日が暮れてホテル の裏庭でシンシンフアィアーダンスを見物する、ペニスキャップを装着し精霊の面を冠り椰子の
葉を身にまとった数人の屈強な男たちが直経3メートルぐらいの焚火の周囲を踊りまわり時々火の中 に入り焚火を足で
踏み消していく荒々しい踊りだった、多くの部族が点在しているパブアニューギニアでは古来より民族間の争い事が
常にあり他民族からの侵入を守る威嚇の表現が踊りにも取り 入れられていた。
 8月16日朝、ホテル前で咋日の老人が我々を迎えてくれた、
彼が子供の頃支配していた日本 軍の兵士たちに教えてもらったのだろう懐かしい日本の歌を唄い出したのである、
「さらばラバウルよ」「もしもしカメよ」「となりぐみ」等々、一行のみんなも一緒に唄う和やかなひと時を過ごす。
912農NAME:2006/01/26(木) 23:36:11
野山にはマンゴウ、パパイヤ、バナナ等の果実が豊富にあり、海や川では魚が捕れ、旧日本軍が残した豚や
ヤギの子孫が野性化しており自由に捕獲することができ、又家の中より外の方が過ごし易いという食住環境で
彼らには彼らの生活様式があり、生活のリズムがあります。彼らに言わせれば「お前達の文化とはお前達が
生活する為のもの、俺達には、俺達の文化がある、押し付けられるのは甚だ迷惑だ。」と言う事になる。
 PNGでは都市と都市を結ぶ幹線道路が無く、移動手段は飛行機か船になります。その為、何をするにも、
何処に行くにも不便で効率が悪い、反面素晴らしい自然環境が残っており、大変羨ましい限りであります。
http://www.rid2550.com/cdrom/3gatugou/gse/

現在の在モンゴル特命全権大使・久保田真司氏は誠実なお人柄とその物腰の低さ、識見のたしかさで
政府間だけではなく、現地住民からも大きな信頼がある。開発援助についても過去のソ連のような強圧的な
ものではないし、英米や中国のそれのように利権中心でもなく、モンゴルの均衡的発展と民衆生活の向上に
配慮したものである。くわえて日本の若者のあいだでもモンゴルは〈チンギス・ハーンが草原を馬で駆けた〉
〈ロマンあふれるの国〉として人気があり、昨(一九九七)年度、日本からの観光客も一万人を超えている。
今や通常のパック旅行が低迷するなかでその人気が急上昇中とはいえ、歴史の授業で「元寇」(蒙古来襲)について
習っただけの彼らの多くには〈放牧民と大平原の国〉のイメージはあっても、日本軍がノモンハン・ハルハ河戦争で
モンゴルを侵略したことは知らず、ゲル(天幕式可動住居)の老人から日本軍と戦争したときいてびっくりする。
http://www1.doshisha.ac.jp/~twatanab/watanabe/masukomi/9810.html
913農NAME:2006/01/27(金) 12:09:05
カレルおばさんの旦那は香港に水牛を輸出している。仕事でジャワ島のス
ラバヤに行っており留守だった。一番上の息子は20代の後半でアドリアヌ
スという。彼は学校で英語を習ったので、辞書を持っている。それを頼りに、
アドリアヌスにインドネシア語を教えてもらった。

 カレルおばさんとカタコトのインドネシア語で話していると、太平洋戦争
当時の話になることが多かった。戦争中は大勢の日本兵がこの島に来たとい
う。まだ小さかった彼女は日本兵にかわいがられ、「コーラン」という名前
をつけられたという。「コーラン」は日本名だという。カレルおばさんに、
「コーラン」はどんな意味なのかと聞かれて困ってしまった。

 スマトラ島からフローレス島に来るまでの間、何度となく太平洋戦争中の
話を聞いた。よく聞いたのは「日本兵はすぐに、オイ、コラといって怒る」
という話だった。カレルおばさんの「コーラン」が、日本兵たちが面白半分
でつけた「オイ、コラ」のたぐいでなければいいのだけどと、おばさんのた
めにも、祈るような気分でそう思った。

。°////     カレルおばさんはインドネシア人と中国人の混血。その
/)DD\/|  せいで、ほんのわずかだが、漢字も知っている。そこでぼ
)・)DD/\|  くは、「コーランって、日本語だとこう書くのですよ」と、
 ̄ ̄ν     紙きれに「香蘭」と書いた。「その意味はね、とってもい
い匂いのする花なんですよ」というと、おばさんは顔を崩
して喜んだ。
http://blog.mag2.com/m/log/0000037317/75396142
914農NAME:2006/01/27(金) 13:38:00
来年はインドネシア特集を検討
 さる10月4日、「心に刻む会」の全国実行委員会を開き、会計報告などを了承いただいたほか、来年の取り組みは
インドネシア特集とすることを検討することになりました。理由は、スハルト体制が崩壊し、多少発言がしやすく
なっていることと、来年の夏は戦後のアジアの独立がなぜ行われたのかーー「日本の侵略のおかげ」か
「アジアの独立運動の成果」かーーをめぐって大激論が予想されるため、後者の立場から来年の「心に刻む会」を
全国で開催し、その中心にインドネシアを置き、日本軍の支配の実態をあらわす「ロームシャ」(強制労働被害者)、
バハル島などの「虐殺」事件、「慰安婦」問題ほかを取りあげることを計画したいと思います。
 年内は具体的にどのような企画が可能か、識者と相談しつつ学習会を開き、来年初めには全国実行委員会を開き、
そこで最終確認を行なって正式な企画として発足させることになります。例年より時間をかけてじっくりといい
集会を準備したいと思います。多くの皆さんのご協力をお願いしたいと思います。
http://www2.osk.3web.ne.jp/~kizamu/archives/013/

915農NAME:2006/01/27(金) 21:54:06
アメリカ政府は1996年から1998年にかけて、遺骨の引き上げをフリーポート社の手を借りてインドネシア政府と
交渉した。しかし1997年末から1998年始めにかけてイリアンジャヤを長期の干ばつが襲い、その結果発生した
森林火災による煙霧が、その遺骨引き上げ作業を阻んだ。98年12月4日ハワイのアメリカ軍識別調査隊と
空軍が例のB25機の場所を訪れた。そして99年1月12日、遺骨と遺品などの引き上げが開始され、1月21日にジャヤプラへ
と運ばれた。戦後の出来事とはいえ、その存在が確認されるや、速やかに遺骨・遺品収集に乗り出すアメリカ。一方、
その存在は誰もが知っている事実なのに、遅々として進まない旧日本兵たちの膨大な数の遺骨そして遺品。国家・国民の
ためと信じて遠く、太平洋を下り、ニューギニアまでやってきた日本軍。しかし、今その国家と国民は何事もなかったかのように、
ここイリアンジャヤに眠る日本兵のことなど忘れ去っている。

マチヌスさんが尋ねた。『日本では人が死ぬと、そのまま草むらや空き地に放置しておくのですか?』。私は答えに窮した。
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/laila15.htm

916農NAME:2006/01/27(金) 21:55:25
GBIが5日入手した同書簡は、1942〜1945年の日本軍占領時代に、東ティモールの社会と住民が被った損害に
ついて詳述している。例えば、人的被害としては、およそ6万名の命が失われたこと、物的損害としては、ディリ市内に
あったカテドラルが艦砲射撃で全壊したこと、マナトゥトゥにあったカトリック修道女の宿舎が破壊されたこと、
ブコリ、バウカウ、レオトリにあったカトリック学校が爆撃を受けて全壊したこと、スイバダ、サメのカトリック教会が
破壊されたことなど。同書簡は、従軍慰安婦についても触れており、日本軍によって数百人の東ティモールの女性が
「強制的に慰安婦とされた」としている。また、東ティモール出身の元兵補数千名が「元兵補」としての権利を
日本政府が認めることを要求している。賠償額については、全東ティモール住民の名において、総額132,495,050,000
ルピアを日本政府が戦争賠償として支払うことを求めている。内訳としては、69,495,050,000ルピアは、公的物的
損害の修復費用として請求しており、残りは人的被害、住居被害、性的犠牲者、元兵補などの補償にあてるとしている。
また一つの町当たりの被害額をおよそ10億ルピアと概算し、それは町の集会所、保健所の建設、さらにカトリック教会が
未だない地域における教会建設費に向けるとしている。
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews981005.htm


917農NAME:2006/01/27(金) 22:00:15
この点については、岩手県の地元紙『河北新報』が平成11年9月27日付で掲載した「厚生省派遣遺骨収集団:
71体とともに帰国。西部ニューギニアいまだ2万柱眠る。県人も多数戦死」と題するリポートの中でも触れられている。
それによれば「イリアンジャヤ州の州都ジャヤプラの西60キロにある村ゲニムでは、現地人が遺骨の引き渡し
を拒否。収集団は二十柱の遺骨をめにしながらむなしく引き揚げた」ということだ。同紙は、拒否の理由として
「インドネシアからの独立を目指す現地人が遺骨を政治的交渉カードに使おうとしている筋もあり、収集は
進んでいない」と解説している。
で、拒否の当人であるマルティヌス氏の説明を手紙文から見てみると、大分話が違う。「なぜゲニェム村の村人たちが
遺骨の引き渡しを拒否したか説明しましょう。村人たちは(遺骨を引き渡す前に)まず私(マルティヌス)が
日本へ行き、日本の人々並びに日本政府との間で、(村人の)功績に対する報酬の支払いと、第二次大戦の
賠償の支払いについて話し合うべきだと望んでいるのです。なぜならば、戦中、日本政府並びに日本軍は住民
のものを破壊し、ここゲニェム村でも多くの村人を殺したからです。そこで、1999年8月29日、Mr.K.Y率いる
グループが私の家にやって来た際、私並びに住民らは彼らと遺骨の日本へ帰国について対話しました。
そして住民は拒否したのです。1999年3月9日、私はジャカルタの日本大使館の公使に対して、ゲニェム村に
あるすべての旧日本兵の遺骨を祖国へ帰すための話し合いを行うため、私が日本へと行けるように支援を要請しました」。
どちらの説明が正しいのかの判断は別として、マルティヌス氏の説明を聞く限り、「独立を目指すための
政治的交渉カード」というよりも、これまで戦後何十年もの間、旧日本兵の遺骨を収集し大事に祀ってきた
功に何らかの支払いで応えて欲しい、というのが本音のようだ。というのも『ライラのイリアンアジャだより』に
あるように、マルティヌス氏としては、ゲニェム村に旧日本軍兵士の慰霊碑を建設して、そこを公園化し、
やがては慰霊巡拝者のための"観光スポット"としたい希望があるようだ。
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews/gbinews991126.htm
918農NAME:2006/01/27(金) 22:16:27
日本に対する期待は?

先の住民会議を受けて、日本政府はインドネシアの姿勢を支持しましたね。我々パプア人は日本軍の支配時代に悲惨な経験
をしました。ひどい仕打ちを受けた住民も少なくありません。でもね、私たちには復讐という言葉はありません。
そればかりか、日本軍が残していった素晴らしいシステムさえあります。でもね、パプアのことはパプア人自身が決めます。
日本政府がどうのこうの口をはさまないでもらいたい。
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews/gbinews00830.htm
アチェ人はインドネシア国内において、一般的には「最も敬虔なイスラム教徒」、そして「反植民地闘争の先駆者」として
知られている。特にオランダ支配に抵抗したアチェ戦争(1873〜1912)では、多大な犠牲を余儀なくされたが、
住民によるゲリラ戦は40年間にもわたり、その「独立心」は、その後の日本軍進攻に際しても十分発揮された。
また、その精神はインドネシア共和国の独立後も、今日まで「独立アチェ(Ache Merdeka)」運動として続いている。
アルン天然ガス田を筆頭に、豊かな資源に恵まれていることも、共和国から“分離独立”しても経済的に
十分自立していけるとの自信の背景となっている。
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews990512.htm


919農NAME:2006/01/28(土) 10:37:37
http://members.jcom.home.ne.jp/shira-kiyo/indonesia/manado/manado.htm
 カスアンのサテイ・ハウス・レストランで昼食、食事をしながらマナド美人の「ミナハサの伝統的民族舞踊」観劇であったが、
フォークダンス調の何処にでもある踊り、それも練習不足のせいもあり幹事さんも立腹、ガイドを交え値引き交渉に奔走、
相手も値引き納得させられたようです。
 トンダノ(Tondano)は ミナハサの7民族144の村の中心だった所で緑のじゅうたんを敷きつめたような平野をバスの車窓
から眺めながら進むと巨大な湖に到着、カルデラのトンダノ湖はシンガポールと同じくらいの面積を持つ北スラウエシ州最大の湖です。
記念撮影後、第2次世界大戦時、日本軍落下傘部隊の降下地点に行ってみたが、今は一面水田と化していた。近所の
家族から歓迎を受け、年配のおばあさんからは当時の思い出話を聞くことが出来、軍歌まで歌ってくれた。我々グループ
からお礼にとお菓子、日本酒のお返し。ひと時ではあったが、昔を惜しみながらの日・イ友好交換会であった。
観光途中でも幾つか日本軍が掘った防空壕を見ることができた。[マナド」は落下傘部隊の降下とともに陸・海軍が上陸し、
連合軍の北上を喰い止め、海峡をにらむ重要な激戦地だったそうです。
920農NAME:2006/01/28(土) 10:57:36
太平洋戦争でダバオを飛び立った日本軍は、マナド・トンダノ飛行場に落下傘降下し激戦の後制圧し、空の神兵と
ゆう歌まで唄われた時代、兵士との混血児もスマトラアチェより多いのは、この地方の寛容さを物語るのではないでしょうか。
マナドぼけの日本人は多く、マナドはミナト、ミナハサは皆様、トンダノトンシェ トモホンの村名のトンは村人、東の
ゴロンタロは五郎太郎入植の地と日本との関連をなんとか結び付けたい気風がある程、大和撫子に見まがう
美女も希ではありません。
マナド人がオランダの犬でなかった証拠に、植民地時代の民族主義の知的指導者サムラトランギを生み、
統一国家実現に貢献しました。{2}
共和国の腫れ物の華僑同化問題でもこの地は昔から融和していて、マナドチナと呼ばれて
違和感がないのも土地柄でしょう。
http://homepage1.nifty.com/akatsu/lagu2/furu-kitasura.htm
北スラウェシ州にとっての日本
 州都マナドは太平洋戦争時、オランダ領東インド(現在のインドネシアに相当する地域)に日本軍が上陸した最初の地である。
1941年12月8日、日本軍がハワイの真珠湾に奇襲攻撃を加えた約4時間後に、オランダはオランダ領東インドのラジオ放送
を通じて日本に宣戦布告を行った。翌42年の1月11日、日本軍は蘭印作戦に踏み出し、セレベス(現スラウェシ)島の
マナドに上陸し占領したという。しかし、マナドでの占領政策が当時としてはかなり細心に行われたため、
地元民との関係は比較的良好であり、その後も親日的なイメージが保たれている。また、兵隊との混血児も多かったようで、
現在でも一定数の日系人が存在している。その日系人を中心に近年日本への出稼ぎ労働者が増加しており、
日本での労働に対する憧れ(両国の物価格差により、2,3年日本で単純労働に従事すれば、家や車が入手可能で
あるという事情がある)も日本語学習に対する強い動機付けになっているようである。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/gender/journal/no5/8_fukihara.htm

921農NAME:2006/01/28(土) 11:09:04
『いつまでたっても出発しないペテペテに少々腹立たしくなりながら、何気に外を覗くと、その老人がいた。
彼は、しゃんと背筋を伸ばし、最敬礼をしながら、遠巻きに私を見ていた。いきなりの敬礼におどろき茫然としている
私に向かって、彼は『ありがと』と、やたら『あ』を強く発音する
日本語を発した。インドネシアでは、日本軍の占領時代があったために、お年寄りで日本語を片言ながら話す人は、
そう珍しくない(略)『久しぶりに日本人をみた。おまえさんの階級はなんだい?』と老人。どうやら老人は、私を
日本軍人と間違えているようだった。おじいさん、僕は軍人ではないよ、この国に技術協力に来ているんだ、と説明する。
すると老人は、私の話が終らないうちに、『タケダ隊長は元気にしてるかね?』と尋ねてきた。タケダ隊長?誰だそれ?
だから、おじいさん、僕は軍人ではなくて…。『タケダ隊長はいい隊長だった』人の話を聞かず、遠くを見る老人。
早くペテペテ出発しないだろうかと、誰もいない運転席を恨めしく見ている私に、老人は話し続けた。『わしは、
戦争の時日本軍の手伝いをしていた。その時わしの上司だったのが、タケダ隊長だった。日本軍人は、
なにかあるとすぐにわしらを殴り倒したが、タケダ隊長は、そうではなかった』。少々興味深い話しだ。するとタケダ隊長は
現地人には手を出さなかったのかい?老人はまだ遠くを見ている。『いや、飯をくれなかった』ぼそりと言った。
何が言いたいのか解らず、老人を見つめる私。老人は話を続けた。『でも、タケダ隊長にもいいところがあった。
日本軍はならず者が多くて、多くの若い女性が日本軍にひどい事をされたと聞く。しかしタケダ隊長の隊はそんな事は
無かった』。従軍慰安婦の話だ。日本では、韓国や中国のケースが注目を浴びているが、インドネシアの片田舎でも、
その様な事があったのだった。飯はくれなかったみたいだが、タケダ隊長を少し見直した。タケダさんは
いい人だったんですね、と私。老人は、『いや、タケダ隊長は隊員には厳しく、女性にひどい事をさせなかったが、
タケダ隊長は毎晩のように女性を抱いていたよ。なんせわしがその女性を準備していたのだから』と、やはり
遠くを見ながらつぶやいた。
http://homepage2.nifty.com/tayat/allejjang/allejjang/13/
922農NAME:2006/01/28(土) 11:33:30
「私は1942年の一年間、軍属*1として日本人と働いていました」

"グンゾク"と日本語で徐さんは言う。このセリフにぼくはチョット緊張する。 「日本人はヒドイことをした」と
言われそうだったからだ。しかし徐さんは続けて、

「彼らはとても親切で礼儀正しかった。 アリマさんというひとにはたいへんお世話になった」 といわれ、ぼくはちょっとホッとしつつも、

「しかし香港の人は、当時の日本軍をずいぶん恨んでいるのではないですか?」、とぼくはあえて"火中の栗を拾って"みる。

「いいですか?当時の日本人は3種類いたんです」

「本土系日本人、朝鮮(韓国)系日本人、台湾系日本人の3種です」

"皇民化政策"だ。当時の日本は植民地としていた朝鮮半島や台湾に住む民衆を、日本人へと同化しようとした。
日本語を公用語とし、(強制ではないにせよ)創氏改名を進めた。台湾は1895年、朝鮮半島は1910年、以来彼らは
"日本人"として生まれ、育っていったのだ。好むと好まざるに関わらず。それは1945年の日本の敗戦まで続いた。

「本土系日本人はとても正義感が強く、りっぱでした。その点、朝鮮系日本人はとても恐ろしかった。 市民に
危害を加えていたのはほとんどが朝鮮系日本兵、または台湾系日本兵でした」

初めて耳にしたことなので、ぼくは何度か確かめる。

「その、本土系日本兵は、現地の人々に危害は加えなかったんですか?」

「私は日本海軍のドックで駆逐艦や巡洋艦の整備士として働いていました。私の上司は本土系だったので
幸運でしたが、仲間の上司は朝鮮系だったので、とても可愛そうでした」
http://d.hatena.ne.jp/naokin_hk/20050511
923農NAME:2006/01/28(土) 11:39:01
現在55才で妻と子供二人の四人家族です。10年前に家族でバリ島に行って以来、40年前の昔の日本にタイムスリップ
したようなバリ島の生活にはまり、6月と11月の年に2回ほど3週間の予定で毎年行っています。バリ島は少し田舎に行けば、
すぐに田園風景が広がり、ヤシの木を除けばすぐに40年前の日本の田園風景に変わります。それもそのはずで、
太平洋戦争時代に日本軍はバリ島に駐屯し本部をシガラジャの町に置いそうです。しかし、戦闘も無くひまを
もてあましていた日本兵はバリ島の農民に田んぼや畑の作り方を教え、特に山が多い為に日本式の段々畑の
作り方を教えたのです。ですから、バリ島には日本で作られる作物が多くあります。米、とうもろこし、ピーナツ、
みかん、ブドウ、豆、カボチャ、白菜、キャベツ、ネギ、たまねぎ等、日本の農家で作られている物が数多くあります。
もちろん、南国特有のバナナ、ココナツ、マンゴウ、パイナップル等はあたりまえのことではありますが。海外移住計画で
最も大事な事は現地の食事が自分にあっているかです。高級なレストランは世界各地のあり、そのレストランでは
確かに自分の味に合った料理を食べる事が出来るでしょう。しかし、移住しようとしている人が毎食レストランで
食事では金銭的にも苦しいものがあります。朝食のパン食位は我慢出来ますが、三度の食事が全てパン食では
身が持ちません。だからといってレストランで高いライス付きの料理を食べたのでは今度はお金が持ちません。
その点バリ島は米が主食で値段も安く、10Kgが日本円で250円位で買うことが出来ます。米はインデカ米ですが、
数年前の米不足の時に政府が輸入したインデカ米とは違いとても美味しく食べる事ができます。他の食材も
とても安く、鳥肉、豚肉が日本円で1Kgで150円位、牛肉は日本のスーパーで売っているのと同じ
オーストラリア産でサーロイン1Kg300円、ヒレ肉でも1Kg400円位です。鶏卵は4個で3円位と日本では
考えられない値段で売っているのです
http://www.rag-c.com/Bali.html
924農NAME:2006/01/29(日) 21:42:23
今国会でも小泉首相は、民主党ツルネン・マルティ議員、共産党志位委員長、市田共産党書記局長らの質問に対し、
「靖国参拝を批判するのは中韓だけ」と相変わらずの欺瞞答弁を繰り返している。
麻生外相他、自民党首脳も小泉首相と大同小異の発言を繰り返す。よく似た発言を繰り返すのは評論家・桜井よしこ氏も、
だ。いわく、「アジア諸国というのは中韓だけのことではありませんか」若作りおばさんのこの発言、小生だけかも
しれないが、むっちゃ寒気〜。
ところで「靖国参拝批判は中韓だけ」は果たして本当か。Webで調べてみると、
ブッシュ米大統領から靖国参拝で批判受けたことはない=小泉首相(ロイター)
http://www.worldtimes.co.jp/news/bus/kiji/2006-01-24T160905Z_01_NOOTR_RTRJONC_0_JAPAN-200776-1.html
とあるのに対して
米政権:「靖国」に懸念 アジア戦略「日本に見直し要求」(毎日)
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20060101k0000m010081000c.html
またマレーシアやシンガポール首脳からは
東南アジアでも反発と懸念 小泉首相の靖国参拝【バンコク25日共同】
http://www.sanin-chuo.co.jp/newspack/modules/news/284679013.html
豪のサミット参加に反発/マハティール前首相【クアラルンプール7日共同】
http://www.shikoku-np.co.jp/news/print.aspx?id=20051207000437
925農NAME:2006/01/29(日) 21:44:21
タイ紙では
アジアの視点欠けると批判 首相参拝でタイ紙【バンコク15日共同】
http://news.kyodo.co.jp/kyodonews/2001/yasukuni/news/20010815-164.html
ブログにも外国からの批判を紹介しているものが…。
代表的なものに「低気温のエクスタシーbyはなゆー」がある。以下列挙してみる。
英紙フィナンシャル・タイムズも小泉首相の靖国参拝を批判!
http://ch.kitaguni.tv/u/1023/%BB%FE%BB%F6%A1%F5%BC%D2%B2%F1%CC%E4%C2%EA/0000280198.html
ニューヨーク・タイムズ社説が小泉首相靖国参拝を痛烈に批判!
http://ch.kitaguni.tv/u/1023/%BB%FE%BB%F6%A1%F5%BC%D2%B2%F1%CC%E4%C2%EA/0000279861.html
インドネシア紙社説が小泉首相靖国参拝を猛烈に批判
http://ch.kitaguni.tv/u/1023/%bb%fe%bb%f6%a1%f5%bc%d2%b2%f1%cc%e4%c2%ea/0000286857.html
「低気温のエクスタシーbyはなゆー」とも関連づけて「壊れる前に…」というブログが
小泉首相の靖国参拝を批判するボストン・グローブ社説
http://eunheui.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_05f6.html
と言った風に、中韓以外からの批判がかなり多数、報道されている。問題なのは、こうした事実があるにもかかわらずマスコミに、小
泉、麻生をはじめとする自民党首脳の欺瞞発言をきっちり批判し報道する姿勢が欠けている、ことだ。
やはり、「読み朝る毎」の宣伝を強めるべきなのだ。
926農NAME:2006/01/31(火) 01:13:53
宣撫工作とは、占領地の住民が御目なことをしないためにする仕事だが、ビルマでは多少、重要な
意味があった。すなわち、中国の蒋介石軍が米英から援助物資を受け取る輸送路を封鎖しなくてはならなかったのである。

これらのルートは援蒋ルートと呼ばれていたが、当初は仏領印度支那経由であった。ところが、昭和15年から
翌年にかけて日本軍が仏印に進駐したため、これは使用不可能となった。また、タイを経由するルートも外交的に
解消されたため、次の補給路としてビルマ経由のルートに白羽の矢が立ったのであった。

この時期のビルマ・ルートは、「ふりだし」のマンダレーからラシオを通り、龍陵から大理、そして昆明で「あがり」と
なる。昭和12年頃から始まった工事は、それはそれは御目なもので、中国側から苦力50万人、ビルマ側から
現地人労働者30万人が参加し、10万人が犠牲になったという。ともかくこの上を2トントラックが1400台ほどいったり
来たりしていたのだが、マンダレー攻略によって一応物流をストップすることができたのであった。

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日ノ出村は、この重要な道の上にあったので、敵軍が忍び込んで現地住民にろくでもないことを吹き込んでいったり
するかもしれない。住民が敵に回ることは、56師の補給路が遮断されることを意味する(どのみち輸送するものがない
から関係ないという話も自嘲的にささやかれていたが)。

そこで、住民を味方につけておくための宣撫は、特に重要だったのである。

イラワジ大三角州付近では敵のスパイの暗躍が噂されていたが、日ノ出村の住民、とりわけソンナムという老人は
日本軍に対して友好的であった。すなわち、瀬方隊長の宣撫工作は少なくとも彼については成功していることになる。
http://homepage2.nifty.com/d100/getuan/CofC/elephant.htm
927農NAME:2006/01/31(火) 13:37:04
貴殿にはインドネシア関係で同じ「帰らなかった日本兵」であれば「インドネシア独立戦争に参加した『帰らなかった日本兵』、一千名の声」
(福祉友の会・200号「月報」抜粋集」)および鈴木政平氏の著書「日本占領下 バリ島からの報告」などを読まれる事を
お勧めする。「日本占領下 バリ島からの報告」というこの本は、この手の本が後年になって書かれたものが多い中、
これは当時の日本が大東亜戦争時に統治していたインドネシアに昭和17年7月より昭和19年12月に至る二年半、
民政部文教課長の職にあった時の状況を、鈴木氏が内地の学兄宛の報告として書き綴ったものを、後年、そのままの形
で本にしたものです。鈴木氏がいかに小さなことまで気を配り、教育者としてインドネシアの人々と接したかが書かれている
と同時に、卒業証書、教員の昇給辞令にまで税金をかけてたり、歴史という授業がなく、運動場もなく、消しゴムから
白墨にいたるまで学用品使用量を異常に低く押さえていたり、女子の就学率が異常に低く、学校の新設も少ない
という文盲政策をとったオランダによる愚民政策統治のひどさを学校数など具体的な数字で表しています。それに比べて、
我が国はどこの統治下でもやった事ですが、官民あげて就学を奨励し、初等教育の授業料は無料とし、多言語.多民族の
インドネシアにおいて当時の共通語になりつつあったムラユ語(マレー語)今はインドネシア語とよばれる言葉を教育用語と
して教えて、そのうえで日本語教育をしたという事が、オランダの統治時代とよく比較できます。

928農NAME:2006/02/01(水) 17:16:28
 ドイツはナチのおかした罪を、戦後「罪と責任に分けて償う」という政策で世界の信頼の回復に勤めました。
今でもドイツの学校では戦時中ナチのおかしたことを博物館や戦争資料館などに連れて行ってしっかり説明するそうです。
その資料を見て目を真っ赤にして涙を浮かべているドイツの子どもたちの写真を見たことがあります。2度とこういうことに
なってはいけないということが深く心に刻まれるでしょう。ところが日本は「大東亜共栄圏」といって侵略してきた地域での
数々の戦争犯罪、慰安婦問題、ネズミ狩り作戦による朝鮮人の「拉致」「強制労働」、インドネシアの島々では村ごと
焼いて虐殺したり、こういったことをひた隠しにしたり、うやむやにして世界から誠意のなさを指摘され続けてきたのです。
このような稚拙な政治でこれからの世界にどう対処するつもりでしょう。国内にいると気づかないことも、被害を受けた地域に
行くと多くの痕跡が残されており、彼らにとっては日の丸や君が代は今も恐怖のシンボルであり、憎しみの対象なのです。
一方日本国内では現場に立ったこともないアンポンタンが決めた学習指導要領で、式典では日の丸を中央に掲げて
君が代を斉唱すべしと改訂され、いつのまにかこれが法的根拠を持ち、守らない教職員は罰する、ということになって
きているのです。子どもたちの中には、かつて強制労働のために「日本に拉致」されて来た朝鮮の人たちの血筋の子もいるのですよ。
  私は単純に国の代表たちが侵略戦争だったと認めて正式に謝罪し、各補償をした上で国旗のデザインを新しいものにして、
国歌を新しく作曲するのが一番いいと思っていますが、いかがだろう。戦後60年でやっと清算され、
勇気が讃えられ、よっぽど国の価値が認められ、貿易も活性化して経済も復活してくると思うのですが。
この先、教育の現場でもスムーズになり、管理職と対立するくだらない職員会議も減り、いろんなことでいい方向に向くと思います。
http://www.h2.dion.ne.jp/~mixee/journal.html
929農NAME:2006/02/01(水) 17:22:53
http://shiryudoh.blog.ocn.ne.jp/ron/cat2119469/
Style of Asian - 58
 スマトラの人々は非常に親切でした。どこに行ってもご馳走してくれるし、気にかけてくれる。そんなインドネシア人と
日本人の僕という間柄でしたが、過去に国同士では、暗い歴史があります。
ガライ・シアノッというインドネシアのグランドキャニオンと言われるところでは、巨大な防空壕があるのですが、そこは
旧日本軍がインドネシア人達に強制労働させ、作らせたところと言います。動けなくなった人間は、刀で切捨て、
大勢の人が崖から投げ捨てられたと言います。(*実際には現在のところ、その虐殺はなかったとの説もある。
インドネシア政府は虐殺があったという話は誤りだったとしている。)他の島々でも日本軍による虐殺があったという話は
ごろごろあります。肉親が食われたという話も耳にしました。
しかし現在、日本ではそのような虐殺はなかったという事を訴えています。
これが真実かどうかは分かりません。
ただ僕にはこんなインドネシア人達がよく言う言葉が印象的でした。

オランダ統治の300年間よりも、日本の3年間の圧制の方がきつかった。
(こう語り告がれている)

これが歴史の全てを物語っているのではないでしょうか?

930農NAME:2006/02/06(月) 23:31:46
この百人斬り事件については、これまでの論争の経緯から見て3つの論点があります。
1 百人斬りという事件は本当にあったのか否か
2 百人斬りを行ったとして2人を処刑した、中国国民党政府の戦犯裁判は正当なものであったか否か
3 事件の報道は妥当なものであったか否か

 まぁ、「いわゆる南京大虐殺」に南京市外の「百人切りゲーム」が含まれるのかつうのもありますけど、黒田官兵衛は
関が原の戦いに参加したと言えるかといふような次元ですから、どうでもいいことです。

 で、原告応援団(なかった派)のサイトを見ていたら、おかしなことに気がついた。

 原告は、「中国の旅」(本多勝一;81年刊、元ネタは71年の朝日新聞記事)が、あらぬ噂を広めたといふてるのだが、
向井・野田と同じ連隊の将校が、それ以前にばらしてるのですなぁ。

<本多勝一がばらしたといふ原告の主張>
 朝日新聞は昭和46年本多勝一という国賊が、「中国の旅」という支那のいうがままに裏付けもとらずに「南京で捕虜・市民30万人が
日本軍に虐殺された」などと書くという、ジャーナリストにあるまじき行為をしてからです。まだこの捏造本は朝日文庫として売られています。
http://www.tamanegiya.com/hyakuninn.html

931農NAME:2006/02/06(月) 23:33:30
<ところが、それ以前に同じ連隊の将校がばらしている>
「鎮魂 第3集」(陸軍士官学校四十九期生会発行)「野田大凱の思い出」(1967年)より
北支に上陸してからは、別々の戦場で戦うことが多くほとんど顔を合わせることはなかったが、中支に転じて南京攻略を目前にした一日、
南京東部の句容鎮付近で珍しく一日だけ進撃の止まった日があった。聯隊本部へ命令受領に行くと野田君も来ていて、
出征以来三ヶ月振りに会った。この時まで私はいつも聯隊本部から離れた第一線にいたので、新聞など見たこともなく、
野田少尉と向井少尉との百人斬り競争の噂は知らなかった。戦斗の数は俺の方が多く、敵を斬った数も俺の方が多い
筈だがとひそかに思ったものであった。
※注
野田少尉と同じ大隊副官という任務についていたといふのも面白い。「百人切りゲーム」なかった論の論拠の一つに、
後方にいて忙しい副官が前線で敵を切るなんてのはありえないといふ説を唱えるミリタリオタクがいるのですな。
また、もし百人斬りが捏造だとしたら、どうして二人の少尉がその当時否定しなかったのか、という当然の疑問に対して、
原告側は「すでに日本で報道され大騒ぎになっており、当時は否定することができなかった」と説明していましたが、
実際には彼等は日本での報道に触れる以前から周囲に百人斬りの件を吹聴していたことが分かります。

 語るの落ちるつうことですが、ジパングの歴史修正主義者つうのは、これほどお粗末なのです。これで、中華人民共和国政府と
論争しようつう感覚がわかりませんな。
 そんな覇気はなく、国内のアフォ厨房右翼が翼賛すればよしと思っているのでしょうかね?
932農NAME:2006/02/12(日) 10:44:08
933農NAME:2006/02/12(日) 10:46:59
 ブギティンギはさほど広くないうえに見所が多い。有名なコック要塞はただの陸橋のようなものだが
戦争時には峡谷を守る要害やったんやろう。シアノック谷はなかなか見晴らしがええ、パノラマパークから
はのどかな水田風景と山々を一望できる。公園の中には旧日本軍の地下要塞がある。入り口には日本兵が
銃剣を手にインドネシア人を使役しているレリーフがあった。日本軍は現地の人を強制労働させてたんやな〜と
重い気分になりながらチケットを買って入場した。地下壕は碁盤目のような単純なつくりで幅は人二人分はあり、
高さも腰をかがめることなく歩ける意外に広い造りである。薄暗い坑道を一人で歩いてるうちに昔の日本人は
こんなとこまで来て戦ってたんやなとすこしセンチな気分になってきた。日差しがまぶしい外に上がると
公園の管理人がいて 「Japanese?」  と聞かれたんで、内心中国でさんざんやられた戦争中の日本軍の悪虐
ぶりをまた聞かされるんかと思ってシンガポール人だと言おうとしたが、ニコニコ笑ってそんな風でもない。
片言英語でこれは日本人がオランダと戦うため作ったんだよ、オランダが逃げてインドネシアは独立できたんだ、
日本軍は強かったよと言ってるようだ。なんだ、怒られるんかと思ったけどそうではなく日本に親近感を
もってくれてるようだった。中国に長くいるとどうも日本に否定的イメージが焼き付けられてしまう。いやいや
日本国内にいても過去の歴史を反省せよって言う偽善者が多いんでうっとーしくてたまらんわい。
http://kailas8.ld.infoseek.co.jp/column.htm

934農NAME:2006/02/13(月) 11:20:59
私が日本軍の「慰安婦」にさせられた頃の、本当の悪夢…。
私の名前はマルディエム
インドネシアのジョグジャカルタに住んでいました。
インドネシアに日本軍が来たのは一九四二年三月 その時私は十三歳。
舞台で歌うことを夢見る、無垢な少女でした。
「女優にならないか」「ボルネオで大きな舞台に出られるよ」
そんな言葉を聞かされて、浮き立つ気持ちで汽車と船でバンジャルマシンに
連れて行かれました。
デッキのすみに歌手になりたき少女らを乗せ船は行く青きボルネオ
十三歳は歌手になれると騙されて皇軍兵士の「慰安婦」とさる
同じような少女たちが私の他に四十七人いました。
着いたところは、舞台ではありませんでした。
大きな建物の二十くらい部屋がある中で、十一号室に入れられ、
まだ生理もない私に、六人の男たちが襲いかかってきたのです。
いったい何が起きているのか、恐怖と痛さで、夢中で叫びました。
痛い!やめて!お願い!
でもやめてくれませんでした……
そこは、「慰安所」だったのです。
初潮さえなき十三歳初めの日六人の兵にレイプされしと
慰安所の十一号室に入れられて「モモエ」と呼ばるる十三歳よ
三時間に十一回も…、それはその日だけではありませんでした。
慰安所の前に住んでいた日本人の「チカダ」は慰安所を経営していました。
ある日私は、チカダに怒鳴ったのです。「痛くて出血しているのよ!」
血が床に滴り落ちていました。
「だめだ!」チカダは怖い顔で言いました。私は血のついた下着を彼の顔に投げつけました。
あらゆることが時間で決められていました。
昼の十二時からずっと…、夜になるとまた七時から真夜中まで
毎晩二十人から三十人の兵士が来る、まだ幼い私なのに
あと何時間こうしていなければならないのか、
http://members.jcom.home.ne.jp/eumeda/tanka/05marudhiemu.htm
935農NAME:2006/02/13(月) 11:26:13
http://www7.ocn.ne.jp/~hagw/60-kandageniti.htm
 インド・インパール戦線救援へ

 インパール戦線の苦戦を救援するため志賀部隊が編成きれ、東部チモールから西部チモールのクーパン港に移動し、
四五年三月十二日の夕暮れ、三隻の駆潜艇に分乗し脱出した遠中爆雷を投下しスラバヤ港に上陸した。ジャカルタ郊外
のポゴールの兵舎に移動し、ビルマに向かう間の休養となった。

 夕方になると兵舎の周辺に張られた鉄条網の外に、インドネシヤの子女がむらがり、兵隊の残飯と物々交換が
おこなわれた。残飯と性の取引をしたと語る青もいた。ジャワは水田が広がり、お米が豊富に思えたが、
日本軍の徴発で住民は飢えていたのである日本兵専用の慰安所の集落もあった。
936農NAME:2006/02/13(月) 11:45:23
上陸一番乗り
 戦記にもはっきり残っているでしょうが、バンタム湾というところに今村均中将の中枢部隊がいました。それから
メラク海岸というのがありまして、岬の先ですがそちらにも上陸部隊がある。そちらに我々宣伝班の
グループがいたわけです。私の記憶では石本統吉、カメラマンは日活多摩川の糸田頼一、助手は僕、その他に
何人かいたような気がします。(略)上陸するとき(1942年3月1日)に「なぜ撮影しないのか」と僕が石本さんに言ったら、
「周ちゃん、君がやれよ」と。石本さんは記録映画の人ですから。それで僕は船の中をかけずりまわって
12ボルトのバッテリーを充電した。でも糸田さんが全然その気にならないのですよ。怖かった面もあるとは思いますが。
とにかく当時は徒弟制ですから、カメラマンがその気にならないのに、僕が勝手に撮るわけにはゆかなかったのです。
そのときに持っていた機材はパルヴォのシングル。下に弁当箱のようなものがついていて、撮ったネガが
そこに落ちるやつです。結局、カメラマンが動かなかったので、助手の方も動けなくて。だから上陸は撮影をしていません。
 ジャカルタに乗り込む前に、その手前のある集落で一泊しました。それはオランダ人の住宅、もうみんな
逃げていますから空っぽです。そこへ宿を割り当てられました。まず、そこでは冷蔵庫が動いていました。
開けると甘いものもあるし、市場に行くとキャラメルが山のようになって売られている。日本にはそのころ
砂糖がなかったですから、兵隊はそれだけで腰を抜かすわけです。翌朝、味方の戦闘部隊をとにかく追いかけた。
部隊の戦車とトラックは全部接収したものです。日本のトラックは、上陸のときすでに潮を
かぶっていてほとんど使えませんでした。上陸のとき、僕たちは富士のフィルムを梱包して持っていったのです。
大八車に載せて陸揚げするわけですが、僕が見ていたら、重いから、それを海の中へドボンと落としてしまう。それで
全部水に濡れてしまった。(略)僕は毎日新聞の記者と2人でインドネシアの運転手を雇った。占領軍ですから、
車なんか全部徴発ですよ。略奪ですからね。それでジャカルタまで一晩かけて帰った。
http://users.ejnet.ne.jp/~manuke/zatsu/eiga/kikuchi.html
937農NAME:2006/02/20(月) 12:41:35
日本に戦後補償は求めず 東ティモールのラモス外相 日本軍
http://tmp.2ch.net/asia/kako/1020/10203/1020312756.html
938農NAME:2006/02/20(月) 12:45:24
日本の東ティモールにおける戦争責任に関する申し入れ
2005年2月18日



日本の東ティモールにおける戦争責任に関する申し入れ

内閣総理大臣 小泉純一郎殿
外務大臣   町村信孝殿
http://www.asahi-net.or.jp/~gc9n-tkhs/050220.html
939農NAME:2006/02/22(水) 01:09:44
 
 インドネシアは日本軍の占領下に入る前に、数百年にわたってオランダの植民地であった。しかし、オランダの支配には
誇りを持って懐かしみ、オランダ語を使う老人達もいる反面、日本軍の侵攻に対しては、思い出したくない悪夢と
いう印象が強いという。この違いはどこから来るのだろうか。当時の日本軍が、相当残酷なことをしたと思わざるを得ない。
また現在でも、インドネシアでは欧米人は尊敬されるが、日本人は尊敬されないというのを聞いたことがある。
欧米人は仕事を離れても、インドネシア人に無償で教育を施したり、文化を教えてくれたりするそうであるが、
日本人は単に打算的で、仕事以外は全く閉鎖的で現地に溶け込もうともしないという。現地の人たちの最大の
不満は、インドネシアに進出している日本の企業に就職しても、日本人ではないという理由だけで
給料も安く、いくら優秀な人材でも高いポストに就けないことだという。これでは、現地の人たちに顰蹙を
買うだけである。こんなことをしているから、未だに日本は何をしでかすか分からないと、アジア諸国に根強く残る
日本軍国主義復活への不安感を拭い去ることができない。莫大な円借款のために日本に遠慮をしている
彼らの気持ちが分からないようでは、真の友人となるべきアジアとの精神的な距離を縮めることなどできない。
http://www.keicho.com/indonesia/garuda8.html
940農NAME:2006/02/25(土) 08:36:35
941農NAME:2006/02/25(土) 11:41:08
http://www.nikkei.co.jp/kansai/relief/28894.html
インドネシア独立の経緯を長々と書いたのは、次のような私の体験と関連するからである。

 インドネシアのスマトラ島の地図をひろげると、西海岸にそって高い山々が連なっている。南緯4度あたりに
デンポ山がある。標高3159メートル、広大な裾野(すその)をもつ、富士山に似た秀麗な山である。このデンポ山を望む地域をパセマ高原という。

 パセマ高原には巨石記念物が多く遺存している。ドルメン(大きな石を4個の石で支えた卓石)、メンヒル(立石)、壁画のある古墳、
人物や動物の石像など。1967年8月、私たちはパゲララムの軍隊のゲスト・ハウスに泊まって、これらの遺跡を自動車でめぐり、
調査をおこなった。

 ある日、私がタンジュンテバク村に行きたいというと、郡長の表情が一瞬かわった。後でわかったことだが、旧日本軍がこの村の
住民300人を虐殺したからである。すなわち、前述の敗戦後の混乱期に日本軍が武装解除されたとき、武器引き渡しをめぐる争いで、
多くの住民が殺されたのである。そういえば、この調査には数人の兵士が連日同行したが、これは対日感情の悪い地域なので
私たちを護衛するためであった。
942農NAME:2006/02/25(土) 12:44:57
◇インドネシア

 インドネシア・ジャワ島チマヒ出身のスハナさん(七〇)は一九四二年、無理やり慰安婦にされたとしている。
家の前で遊んでいると、日本の軍服を着た五、六人の男に車に乗せられた。両親は留守だった。男たちは刀を持っており、
抵抗できなかったという。

 連れて行かれたのはオランダ軍の旧兵舎だった。ほかにも多数の女性と通訳兼雑役係がいた。

 一週間は何もせず、八日目から兵士の相手をさせられた。

 「食事と衣料の支給はあった。現金をもらったことはない。いつも『お金は、あとで』と言われ続けた。一人の将校から二度、
軍票をもらったが、額は覚えてない」

 外出はいっさい許されなかった。二年半ほどたって、突然家に帰るように言われた。両親はすでに死んでいた。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/8536/slave.htm

943農NAME:2006/03/03(金) 13:12:14
水がもれなくて移植が出来れば可能だよ
944農NAME:2006/03/05(日) 17:19:01
尾澤 僕も後藤君と同じ平成14年度の前期隊で硫黄島に行かせてもらいました。その後は沖縄と東部ニューギニア、
あともう一回硫黄島に行って、また沖縄に行ってという感じです。
中村 全部で何回行った?
尾澤 五回です。大学のボランテイァ団体に入っていて、その紹介で日本青年遺骨収集団の方に来るようになりました。
硫黄島では前期隊だったので、やはり悔いを残したままでは終われないという思いでずっとやりはじめました。一番印象に
[残っているのは、硫黄島もそうですが、東部ニューギニアのウエワクという日本軍の大きな基地があった所に行った時のことです。
ホテルから現地まで行くのに車で一時間、山道を歩いて一時間、ニューギニア人が、途中にあった木の橋を見て
「これ誰が作った橋かわかるか」
「知りません」
「これは日本軍が作った橋だ」
  と教えてくれました。もう60年も前に作った橋なのに、いまだに一回も補修されないまま使われているというのです。また、ウエワク
東飛行場というのがあるのですが、その飛行場も「実をいうと旧日本軍のウエワク飛行場をそのものをほとんど補修しないままいまだに
使っている。でも、それに比べて韓国がODAで作ってくれた橋は三年に一回は補修しないと駄目だ。だから日本人というのは、
それだけ器用で丈夫なものを作るんだよ」と教えてもらいました。
  ニューギニアでは、ご遺骨を日本人に売って金にするというビジネスがあり、それが成り立っているところです。しかし僕らの
行ったところは凄い親日家の人で、お金はいらない、こっち側から人間も出すから一緒に掘ろうよということを言ってくれました。
  作業したところはちょうど野戦病院跡のちょっと上の方で、ニューギニア人は結構大雑把なのですが、ご遺骨が出てくると
細かくやってくれたりしました。そこで初めて僕は、完体という形で出てきたご遺骨を見ました。そして一つのご遺骨を掘って行くと、
そのご遺骨の胸のあたりのところに頭がもう一個あった。それを横にまた掘って行くと、横に寝ている人の腿のところに
頭が二つあって、2メートル四方のところに四人の人が重なるようになっていました。苦しんで死んだというより、
頭の後ろに手を組んでお昼寝をしている状態です。
http://www2.odn.ne.jp/~seinen/backnumber/05_01/top.htm
945農NAME:2006/03/05(日) 17:42:48
ニューギニアの慰安婦ぅ?何馬鹿な事を。ニューギニア戦線はガダルカナルと同等か、それ
以上に悲惨なのだよ。投入兵力14万人のうち生還出来たのは1万2千人、消耗率90%以上。
昭和18年1月ブナを失陥、9月にラエ・サラモアから撤退。以後、フィンシュハーフェン
マダン・アレキシス・ウエワク・アイタペ・ホーランジアと撤退する。制海権・制空権共に
無く、食料・弾薬の補給は途絶え防戦もままならない。結局ジャングルに逃げ込み、68・78
戦隊はサルミで解隊(全滅)ソロン・マノクワリ方面で細々と露命をつなぐ。それでも
何とか生き抜けたのは現地人が椰子の実から澱粉の取り方を教えてくれたからである。
それは日本兵が現地人に簡単な計算と英語を教えた【お返し】であり、今でもサラワケット
方面の遺骨収集では、現地人が暖かく迎えてくれる。当時は生きるか死ぬかの瀬戸際であり
また食料の窮乏激しく、そのような状態では性欲がわくはずがないとの兵士の証言である。
しかし慰安所はウエワクには存在していた。これはあくまで慰安所であり、ウエワク地区が
比較的平穏だった昭和18年末までである。従軍とは兵士・部隊と同行するカメラマン・新聞
記者を指すのであり、彼らはしばしば作戦に同行しており、命の危機に何度も遭っている。
日映カメラマン・吉田一氏のサムライ零戦記者、毎日新聞記者鈴木英二氏・サムライの翼に
詳しい。又、ラバウルにも慰安所があったが、これも同地区が比較的平穏だった時代である。
元252空所属・海軍中尉角田和夫氏、元343空海軍飛曹長中村佳雄氏の記述に詳しいが、いず
れも【従軍】慰安婦という記述はない。彼ら元搭乗員・陸上戦闘員いずれの回顧録にも
従軍カメラマン・記者というのはあっても、ついにぞ【従軍慰安婦】という記述は出てこな
い。事実そのようなものは存在していないんだから、記述のしようがないのだ。
*漫画家の水木しげる氏(二等兵)はラバウルで片腕をなくされています。
946農NAME:2006/03/05(日) 17:43:57
伊藤清氏(元海軍飛曹長/撃墜23機)の言葉を紹介する。
『今に日本人はあまりに自分のことだけ大切にして他人のことを省みないですね。自分が
好き勝手に生きるのが民主主義じゃない。責任を果たして初めて自由は手に入る。義務を
果たして初めて、平等の権利が生まれる。そういうことが置き去りにされてますよ。あの
戦争で、日本の繁栄を信じて戦った戦友たちも、まさかこんな国になるとは思わなかった
でしょう。現代の若者が、自分たちの父や祖父が国の為に働いたんだ、という意識を回復
しないと、日本なんて沈没してしまいます。自分の国を愛する気持ちがなければ、いくら
経済大国だ、なんて言ってもダメですよ』伊藤氏の言葉には、自分たちが命をかけて守ろう
としたこの国が、社会の内側から破綻してゆく歯痒さがにじみ出ていた。」零戦最期の証言
T・P200より抜粋。
*『伊藤氏大丈夫です。そのような不貞の輩は我々が撃墜します!』
http://www.katogi.com/history/seiichi03.htm
もう少し勉強したまい。

947農NAME
僕らは、日本がかつて、中国に対し「非人道的な無差別爆撃」を行ったという事実を、みんなが確認すべきだと思う。

ともすれば、国内的には、東京大空襲や、広島、長崎の悲劇だけがクローズアップされて、
日本はまるで、無差別爆撃の一方的な被害者のように思われているが、実はそうじゃないって事をだ。

規模はまるで違うが、日本も重慶無差別爆撃では加害者だったということを、絶対に忘れてはいけないと思う。
だからといって、別に中国に謝罪しろとか、補償すべしなんて言っているわけではない。
ただ、空襲や爆撃に関する話が、日本が被害者だったというシチュエーションでしか語られないことが、異常だと思うのだ。

アメリカのやった非人道的な無差別爆撃や、原爆投下に対して怒るなら(日本人なら怒るのが当たり前だ)、
そのときに、中国人も同じ思いを抱いているかもしれないという、可能性に思いを馳せるべきなのだ。
これは土下座しろ、と言ってるんじゃないし、自虐でもないから、誤解するなよ。

要は、知識と想像力の問題なのだ。
自国の歴史に無知で、かつ、他国の人の心情に対する想像力を欠くとき、日本人は国際社会で孤立してしまうだろう。