943 :
日曜8時の名無しさん:2012/05/26(土) 06:39:12.31 ID:4jjL7wJX
面白うないのぅ…>【´(●●)`】
944 :
日曜8時の名無しさん:2012/05/26(土) 07:56:51.38 ID:8CFNlxX1
桓武平氏でも、京洛にあって院の近臣だった業房のような人物を多く描いてほしい。たぶん狩衣を着ていたと思う。
ちなみに、子息は従三位宮内卿として、平家滅亡後も生き残ったんだな。
945 :
日曜8時の名無しさん:2012/05/26(土) 08:08:53.00 ID:8CFNlxX1
美福門院の発言から、国母になって、父も中納言であっても、六条流というだけで諸大夫の娘というレッテルは取れないのか。
家格を上げるということは並大抵なことではないのだな。
>>945 家格を上げられたら困る人(摂関家)が居るので、
家格を上げることはほとんど不可能。
一代限りの帝では不十分です。
>>937 一般書だとそういう説明になってるのか。
なるほど安全無害でいいけど、藤原氏の真似というのはキツいかな。
父 牛丸
兄 威徳
弟 菖蒲若
な、なんか、家族の中で共通点とかないのか??
お公家さんは、息子に自分と同じ幼名つけるとかしないのかなあ
頼長んとこは、息子も幼名 二千君 でこれも典雅系だな
>>945 内親王を母に持つ公季の子孫ですら中宮になったのは璋子が初
閑院流は鎌倉時代以降も何人もの中宮や国母を出しているが家格で摂家を上回ることはなかった
>>949 璋子が中宮になれたのも、閑院流だからというよりは
白河の養女という面が大きいからね。
でも鎌倉時代は中期以降ほとんどの后が閑院流の出だけど、
逆に五摂家は何やってたんだ、と思う。
>>950 ようやっと摂関家が外戚の立場を取り戻したのが何と仲恭帝のとき。
しかもこの帝は承久の乱のせいで即位後僅か3月で退位。この帝は順徳院の
子供だったから、その関係で摂関家は完全に排除されてしまった。
>>951 さらにいえば、この帝は即位式も行わないうちに廃されてしまったため、
正式に即位したとは認められず、諡号・追号もつけられなかった。
天皇として認められ、「仲恭」と追号されたのは実に明治になってから。
それまでは「半帝」「九条廃帝」などと呼ばれていたとか。カワイソス(´・ω・)
>>951 いや、その次の次の四条帝の時に九条家が再び外戚に返り咲いたけど、
四条帝の急死で本当に外戚の地位を失っている。
で、五摂家が外戚の地位に再びついたのはずっと後の後水尾帝の時で、
その頃にはもう政治的実権は五摂家から完全に失われてる。
>>953 四条天皇の死もなんかねえ…という感じだし、
五摂家には運がなかったんだろう。
その後の後嵯峨から鎌倉末期までは完全に閑院流が牛耳ってるし。
そうか。四条帝も摂家を外戚にしているんだ。
人の生き死には予見できないけど、四条帝も
中々味のある亡くなり方だったな。今風に言うとDQN・・・。
忠通さんが忘れられてなくてほっとした…
957 :
日曜8時の名無しさん:2012/05/28(月) 02:09:08.03 ID:kneF80+W
ちゃんとパパ麿は、忠通さんについても「優れた息子」だという認識があったようで何よりw
勝者の後白河側の顔ぶれを並べると、みんなそろって悪人顔でワロタ。
でもこのドラマ自体、悪人顔が普通に多すぎるからしょうがないか。
>>953 四条天皇から後水尾天皇までの間、摂関家には全く女の子がいなかったわけではないのに
南北朝なんか皇后中宮は西園寺や洞院出身ばっかだよね。
入内すらしてないのは、鎌倉幕府に睨まれてたからとか理由あるのかね。(一条実経が
将軍九条頼経問題で摂政を罷免された件など)
それとも頼通教通兄弟みたいに、五摂家間で互いに入内立后させまじと足の引っ張り合いを
延々としてたの?
そういう習慣が根付いてしまったからだと思う。極端な前例踏襲主義だから。
後は西園寺の娘にコンスタントに男の子が生まれたのが大きい。
すいません、諸太夫っていうと、どれくらいの家柄なんですかね?
今回清盛見るまで、諸太夫〜頑張っても公卿になれない人たち、の認識だったんだが、
頼長のセリフとか見てると、院の近臣とかで、正三位とかでも、諸太夫(ナリコ父)?
摂関家から見ると自分ら以外はすべて諸太夫? 閑院流も?
>>961 摂関家以外は諸太夫という理解でいいよ。摂関家にとって
「摂関家とそれ以外」という区分しかないから。
どうしてこうなったかと言うと、白河院の時、鳥羽帝の外舅
(鳥羽帝の生母の兄。生母の父は死去)だった藤原公実が
血縁の近さから摂政の地位を望んだが院に却下されたことがあった。
このとき、摂関は帝の血縁の遠近で決まるものではなく、
特定の家(摂関家)の世襲するものと決まった。
だから摂関家とそれ以外しか区分が無い。
>>962 摂関家以外はみな諸太夫という括りは乱暴すぎやしないか。
雅仁が母待賢門院との対比で得子のことを「諸太夫の娘」と呼んで蔑んでいたし、
「最高位まで昇りつめても大臣にはなれない家柄」ぐらいの感覚じゃないかと。
すなわち、「摂家・清華家(含閑院流)・大臣家」より下の家柄=諸太夫、というところでは。
得子の出身・末茂流は上記3つには入らないから。
>>961 院政期以前の家柄ガチガチ時代の家格じゃないの?
院政期は院にシリ出した者勝ちの時代だから、家格とかカウントされない。
院に嫌われたらおしまいだもんね。
ガイド後編読んだ。
清盛美化でむかついた。
特に、忠通が死んで弱った摂関家に漬け込んで
近衛基実に娘を嫁がせて摂関家領を横領っていうのを
どうやって描くのかと思ったら、
父の忠通が死ぬ前に清盛に「基実に清盛の娘をください。
お願いします。」とか嘆願する設定だった。
最低だな。忠通は23話でも清盛に頭を下げさせられるし。
ここまで摂関家を落ちぶれたように書いて清盛は「結婚してやった」
とか描くのかね。摂関家領横領は清盛が批判された理由の一つだからって。
マルチポスト乙
>>963 スレ違いになるけど、
平滋子がいっかいの上西門院女房の小弁局という身分から
女御になり国母となり皇太后と呼ばれ、女院宣旨まで受けたことって
すごい出世なんだよなー。
社会の大転換期に後白河という奇矯な人物の寵をたまわって男児を産み
異母姉の婚家の隆盛を背景にってこともあるのだろうけど、。
それなのに天パーの大酒飲み設定で御所の宴に宋風衣装で登場って・・・
961デス
みなさんどうもありがとうございます。
そっか結局のところ、「下々の貴族」みたいな感じで、範囲をどうとらえるかは
定義はないのですね
摂関家以外といわれるとそんな気もするし、でもナリコ対比でタマコ上げだったこととか
頼長の奥さんの家とか考えると、清華家は一応クリアされてるような気もしますね
精華家や大臣家もそうだけど、
道長の子孫の庶流は、摂関家的に下々扱いではない感じがする。
やっぱり道長という存在が大きいから。
このあたりは明らかに諸大夫ではない。
道長子孫の分家たち
・花山院家
・大炊御門家
・中山家
・飛鳥井家
・難波家
・持明院家
・御子左家
その他
忠通の奥さんや、呈子は、道長二男の子孫の中御門流藤原氏の家系。
このあたりもかなり上扱い。ちなみに、平治の乱の時に
「殺した数が多ければ官位を高くするなら、井戸に官位をやれ」と
嫌味をいったのは、中御門流の人。
代々だいたい公卿になれる家柄の人は諸大夫ではない
この大河の摂関家は標準語だけど、ドラマや映画に
よく出てくる麻呂たちは京ことばの場合が多いね。
テレビの大奥だと、摂関家(?)出身の御台所は京ことばを
話してる。清盛の時代はまだ京ことばじゃないのかな。
江戸自体あたりから麻呂たちが京ことばになっていったのだろうか。
忠通が「〜おじゃります」言ってたけど。
>>973 それ以前に古語なんでないの?
ありおりはべりいまそかり
武家が中途半端に現代語を食っちゃべり(ex.「俺」「お前」)
公家が御所言葉どころか武家以上に武家らしい武家言葉と言う世界観だからな。
すなわち、大乱♪、には笑ったから許す。
この大河で貴族がみな京言葉を喋ってたら、ドラマの雰囲気的にそぐわない気がするので
これでいいと思うけどね。
それ以前に普通の視聴者は理解できないと思う
字幕が必要
帝を前にしての評定の場面で、「きっと重罰に」とか発言したツルツル頭は誰?
字幕では源雅定と書いてある
>>980 ありがとう。調べてみたら王者議定にも出ているし、仁平4年(1154)に出家しているし、
細かいところまでよくつくっているなと思った。出家前の極官は右大臣だった。
忠通が急激に老け込んだような…
そういや実際には60歳くらいだったっけ
史実では忠実は鳥羽院と一緒に出家してるんだよね。
源某を坊主頭にする手間の掛け方をするなら、何故
忠実がドラマで俗体を通したのか気になる。
984 :
日曜8時の名無しさん:2012/06/05(火) 10:27:02.21 ID:/ZQUAcCq
図書允俊成のその後が気になる。それと甲冑を着けた武士がひとりいたけど、あれは誰だろう。それと、京洛から南都まであの格好で走ってきたのか?
師光は信西のことを殿と呼んでいたが、秘書官の着る狩衣にしては、派手で豪華過ぎるな。
それともうひとつ、忠正やダメ義が斬首される時、綺麗な狩衣を着ていたが、平安時代は罪人が処刑される時、あのような衣装だったのか?
最後まで一緒にいたのが図書允(宮中の文書を管理する役人)だったと
いうのが頼長らしいな
986 :
日曜8時の名無しさん:2012/06/05(火) 15:25:33.04 ID:W0ViCT8+
>>984 そもそも平安時代は処刑がないだろう
朝廷として死刑マニュアルが無いので源氏平家で斬らせたのかも
>>986 いや、死刑が無かったのは平安京内だけで、
将門の乱や前九年・後三年の役等の地方戦乱の際には、
首謀者達が処刑されてる。
>>987 京内かどうかじゃなくて、公式命令があったかどうか、じゃないの?
公式死刑がなかったからマニュアルがない、というのは
普通の解釈で通用すると思うけど。
989 :
日曜8時の名無しさん:2012/06/05(火) 22:23:57.38 ID:iXVwAvYt
清原家衡やその部下達は処刑というよりなぶり殺し
そういえば炎たつでも源氏は残虐だったな
>>982 実際には忠通はダメ義や忠盛の1歳年下なんだけど、
今までは2人に比べるとずいぶん若く見えたよね。
逆に忠盛は随分はやく逝ったんだな。
>>989 潰した刀で首を刎ねる場面とかな
基本的に源氏はえげつない話が多い。