1 :
通りすがり:
ここは大河ドラマ「風林火山」で放送された、
あるいはこれから起こるであろう戦術・軍略について
専門的、かつ深く語り合うスレです。
本スレはあくまでも「ドラマの放送内容、感想」について語られるもので、
「それじゃ物足りない!」といったい軍事ヲタ、ゲーヲタ
その他の方々はこちらをご利用下さい。
ほにゃっ!ほにゃっっ!ほにゃ!
おお、本当に立ったか。
誠の体毛がなければ、乙は言わぬぞ。
スレ立っても結局
顕示欲の塊ゆえに本スレで延々とベラベラやってるからここ意味ナッシングw
俺を顕示欲の塊と幾らでも罵っていい
それが一銭の得にもならんことは自分がよく知ってる
俺もまた俺の道具にすぎん
それをうまく使いこなすことだ
戦国版では「ありえねえ」の連発だが
ひょっとしてここは俺がドイツの電撃戦を出したから故の隔離スレか?
そんなら責任を取ってこちらへ移動するかな
軍略だってドラマの一部なんだから本スレで語らなきゃダメだ。
ドイツの電撃戦とかはこっちでいい。
信長関連とかもこっちでいいだろうな。
あとは勘助死後の三方ヶ原とか。
川越夜戦なんかは、夜戦であることを除けばアレシアに似てないこともないよな
違うのはカエサルは内と外から大軍に攻められても勝ったが
氏康は逆に内外で呼応して大軍に勝ったつう、真逆な結果だがな
孫子では城を囲むなんてのは下の下だと言ってるが
上杉憲正には当て嵌まるがカエサルなんかは楽しんでやってるみたいだな
そのアレシアを発掘したナポレオン三世も面白いよな
有名どころではこんなもんかね
武田信玄 → 啄木鳥の戦法
上杉謙信 → 車懸りの陣
真田幸村 → 影武者攪乱戦法
豊臣秀吉 → 水攻め/干し殺し
鈴木重秀 → 組撃ち鉄砲
島津義久・義弘→ 釣り野伏せ
伊達政宗 → 騎馬鉄砲隊
織田信長 → 三段構え
>>12 なんか 信長の野望に出てくる武将が持っている技能一覧みたいだなw
光栄オタにも餌やろうかなとw
妻女山って上杉軍1万が布陣できるほど広いんですか?
山のてっぺんに城つくりゃイイのに
上杉軍の車懸かりだが、後世想像された上杉軍の移動コースとか
「甲陽軍鑑」の記述を見ると、
1.霧にまぎれて海津城から見えない位置を下山
2.そのまま海津城に背を向けて離れる
3.雨宮の渡しを超えて千曲川を渡河、八幡原へ
4.八幡原では川の支流伝いに北上
5.夜明けとともに犀川の渡し場に突進
6.武田の陣に塞がれては横へ横へとそれていく
と記録されているようなのだけど…。
↓ すると、どうしてもこう考えてしまうのだが…。
>ところが妻女山と海津城は目と鼻の先。大きな声なら会話も出来たという至近距離。
鎧兜や鍋釜をガチャガチャやっていればすぐばれる。武田軍はたちまち臨戦態勢。
まっすぐ北を目指すであろう上杉軍の前に立ちふさがるべく、横一列の鶴翼の陣を
敷けとの命令に海津城から兵が繰り出される。しかし30センチ先も見えない霧で
上杉軍はウロウロ下山の道を誤り、武田軍もどこを守っていいものかわからず、
お互い川の水音だけを頼りに手探りの暗闇布陣劇になった。
かくして夜が明けてみると、両軍は犀川沿いにおいて、陣構えもろくに出来ていない
状態でまともに顔を合わせてしまった。かくして上杉勢は川を越えて越後を目指す
ために渡し場に殺到し、うっかりその近くに移動してしまっていた諸角虎定、山本勘助、
典厩信繁といった、本来なら下っ端兵など寄せ付けないはずの重臣の陣地がいきなり
バーゲンコーナーのように人が殺到する場になってしまい、気の毒に彼らはその気も
なかった越後の「復員軍団」にひき逃げ同然に押し潰され殺されてしまう。
ハッキリ言ってそのまま放って置けばよかったのに、ここで政虎に恥をかかせて
新管領にミソをつけておきたい信玄は無駄にやる気満々。様子を見てきた斥候が
「越後勢は戦う気がありません。わが軍の陣地をよけるように走り抜けていきます」
と報告しても、ここで兵達が傍観しちゃたまらんと「バカモノ、それは相手が大きな
車輪のようにグルングルン回りながらわれらを皆殺しにしようとする車懸かりの陣と
いう必殺技だ。殺られる前にやらないとおめーら死ぬぞ。行けぇーッ」と、その場
しのぎの口からデマカセで兵を鼓舞して無理やり迎撃させる。
しかし、そもそもなぜ妻女山に陣取るわけ。
19 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/21(水) 14:02:54.77 ID:iH7qDLCg
妻女山に陣取った上杉軍を包囲して
水くみ場をおさえて、水枯れを待ち
『高きより低きを見るは勢いすでに破竹なり』と言って
山を降りてくる上杉軍に
『来たか愚か者…火!!』と言って妻女山を火攻めにするのは無理ですか?
たぶん海津城から王平・魏延・高翔が来援するとは思いますが…
まぁ、なんだ。
とにかくお前らは、この俺サマの意見だけ拝聴していればいいんだよ。
↓ んじゃ念のために張っておく。これが今のところ俗世間で「川中島
第四回合戦の史実」といわれている展開。添削というか叩き台にドゾ。
新たに関東管領となってブイブイ言わせたい上杉政虎、ここらで信濃の所領を
武田から分捕って旧領主たちにばらまき、大いに名を上げたい。かつて第2回
川中島合戦、通称「二百日の対陣」のにらめっこで粘り勝ちし、和平合意の際に
武田から土地を奪うことに成功した経験に味をしめていたので夢よもう一度と
武田の領地の奥深く深〜く入り込んで、妻女山にたてこもる。これで信玄が
真ん中あたりの境界線で手を打ちましょうと申し出てくれれば万々歳。
軽い気持ちで和議の使者を待っていた。
しかし管領になった政虎を警戒し、義元亡きいま南に矛先を向けるためにも
川中島の小競り合いに決着をつけておきたい信玄はいつもの慎重居士とは
違っていた!「土地なんか一カケラもやらんずぉおおお」と気合いをほとばしらせ、
逆に越後国境戦近くの茶臼山に入り込んで越後勢の退路を断つ意地の張り合い。
和議を申し込んでくる気配なんててんで無いことに気づいた政虎はさあ大慌て。
功成り名を遂げたいま、生きるか死ぬかの大決戦なんてする気はこの新人
管領にはサラサラない。とはいえいまや事実上包囲された銀行強盗状態で
逃げるに逃げられない。
22 :
21:2007/02/21(水) 14:28:42.66 ID:BPRok3HX
信玄は「寝起きに不便で困る」と海津城に移動してくれたものの、まだ上杉軍は
糞尿処理もままならない山の上で立ち往生。下から丸見えなのでうかつに下山
しようとすると袋叩きに遭う。困っていたところへありがたいことにこの季節特有の
猛烈な濃霧が発生!帰国命令にやれうれしやと上杉軍はいっせいに帰り支度。
まっすぐ北の越後を目指し、山を降りたら一気に川越えを狙ってやる気満々。
ところが妻女山と海津城は目と鼻の先。大きな声なら会話も出来たという至近距離。
鎧兜や鍋釜をガチャガチャやっていればすぐばれる。武田軍はたちまち臨戦態勢。
まっすぐ北を目指すであろう上杉軍の前に立ちふさがるべく、横一列の鶴翼の陣を
敷けとの命令に海津城から兵が繰り出される。しかし30センチ先も見えない霧で
上杉軍はウロウロ下山の道を誤り、武田軍もどこを守っていいものかわからず、
お互い川の水音だけを頼りに手探りの暗闇布陣劇になった。
23 :
21:2007/02/21(水) 14:29:24.73 ID:BPRok3HX
かくして夜が明けてみると、両軍は犀川沿いにおいて、陣構えもろくに出来ていない
状態でまともに顔を合わせてしまった。かくして上杉勢は川を越えて越後を目指す
ために渡し場に殺到し、うっかりその近くに移動してしまっていた諸角虎定、山本勘助、
典厩信繁といった、本来なら下っ端兵など寄せ付けないはずの重臣の陣地がいきなり
バーゲンコーナーのように人が殺到する場になってしまい、気の毒に彼らはその気も
なかった越後の「復員軍団」にひき逃げ同然に押し潰され殺されてしまう。
ハッキリ言ってそのまま放って置けばよかったのに、ここで政虎に恥をかかせて
新管領にミソをつけておきたい信玄は無駄にやる気満々。様子を見てきた斥候が
「越後勢は戦う気がありません。わが軍の陣地をよけるように走り抜けていきます」
と報告しても、ここで兵達が傍観しちゃたまらんと「バカモノ、それは相手が大きな
車輪のようにグルングルン回りながらわれらを皆殺しにしようとする車懸かりの陣と
いう必殺技だ。殺られる前にやらないとおめーら死ぬぞ。行けぇーッ」と、その場
しのぎの口からデマカセで兵を鼓舞して無理やり迎撃させる。
24 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/21(水) 14:31:02.23 ID:BPRok3HX
しかし天罰テキメン、そう言っていた信玄もバーゲンセール軍団の通過コースに
乗ってしまい、通り過ぎたいだけの乱入軍団に行きがけの駄賃と切りつけられる
ブザマな醜態。一方の政虎も敵中突破、いつの間にやら護衛とも離れてしまい
管領ともあろう者が自分で武器を振り回さなければならない惨めな逃避行。
かくしてこの全然関係ない二つの場面が合体して「三太刀七太刀」の名場面が
デッチ上げられる事になった。
ついでに言うと諸事情から遠方待機を命ぜられ、霧の中で救援に駆けつける
こともできずにいた小山田郡内勢が昼過ぎになってようやく現場に駆けつけ、
半日近くもカバディのように通すの通さないのとせめぎあい疲れきっていた
上杉勢に襲いかかり、オヤジ狩りのように大活躍。これが何をどうしたのか
「啄木鳥戦法」と語り継がれることになる。
25 :
21:2007/02/21(水) 14:31:59.05 ID:BPRok3HX
かくして越後勢は指揮官クラスはまんまと渡河に成功して全員脱出。しかし
兵はかなり無駄死に。ほとんどインパール作戦のごときアホらしい顛末。
いっぽうの武田軍は当時の戦争の常識では考えられないほど指揮官クラスが
バタバタ無駄死に。だもので「はぁーとてつもない激戦だったんだねえ」と
誤解が誤解を呼んで伝説の闘いになってしまった。
政虎は結局タダ働き。だもので頑張った部下にも「よくやった。あげられる
土地は全くないが、俺の気持ちを受け取れ」と感状だけ押し付け、信玄は
「まったく高い買い物になったわいトホホ」と言いつつちゃんと土地を分配。
以後上杉勢は川中島に近寄らなくなったので実質的に武田の完勝。
ま、現実なんてこんなものでしょ。
>>15>>18 千曲川の川筋は当時妻女山ギリギリをえぐっていて天然の堀も同然。
流水なんで障害強度は堀より高いくらい。
退却に難ありまくりだが、高防御力、海津城側背に圧力を加えるポジションなんで
布陣自体はキチガイ沙汰というわけでもない。
多くの人の目に晒される事を意識して文章をかいてください
妻女山はマウントポジション
>ここらで信濃の所領を武田から分捕って旧領主たちにばらまき
今までの戦況から言って、そんな余裕で勝てると考えていたはずはない。
兵力的に劣勢なのは采配で何とかするとしても、キツイのは承知の上で出陣したはずだ。
武田の拠点を攻略して、今後の作戦のための楔を打ち込むのが主目的だったと考えた方が自然。
キツツキがないのなら勘助は要らないわけで
討ち死にした勘助はただの野垂れ死になわけで
ドラマにならないじゃまいか
ドラマ的には勘助の叩上げの軍略が、天才謙信に敗れるラストがイインダヨ
んだね、たぶん見破られて絶望の中で討ち死にするんだね
33 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/22(木) 09:14:59.53 ID:N1DMxzDs
勘助の最期…お決まりの走馬灯はやめて、ワイルドに散って欲しい
あの世 (ドライアイス演出) で父上兄上と再会
残念ながらミツが手を引いて葛笠村まで連れて行きます
諸葛孔明の霊が勘助に乗り移り、キツツキ戦法を成功させる最終回
「大逆転! 川中島」にご期待ください。
37 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/22(木) 10:10:29.07 ID:N1DMxzDs
志茂田、乙
38 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/22(木) 13:26:35.68 ID:XRxYjy3k
キツツキ戦法って、しっかり布陣している相手に攻撃を仕掛けると
なぜか相手が反対方向へ退却するというおよそ戦理にそぐわない作戦なので、
どういう状況を想定したら「妙案」として機能するのか皆目見当がつかない。
いや、喩えの通り本当に相手が「虫」に過ぎないなら有効なんだけど、
上杉勢は虫なんてレベルじゃないんだし…
>>36 でもその後、武田は信長と長嶋巨人軍に負けるんだよ。
残念だったな。
かなり前の歴史モノの月刊誌での記事だが、
武田軍別働隊が進撃したとされている山道を歩いてみたら、
せいぜい二列ぐらいで歩ける幅しかなく、
通説通りの数の軍勢が移動したとすると、先頭が上杉軍の背後に到達したとき、
最後尾は海津城の城門前、ぐらいに隊列が伸びきってしまうのだそうだ。
妻女山に一万だか一万五千くらい入るんじゃね?そのへんの小さいスタジアムでさえ5,6万入るから。
戦国時代の山の植生ってどうなってるんだろ
道以外の林の中とか歩けるのだろうか
あの長篠の戦でも織田徳川連合軍は別働隊四千で迂回して武田の砦を攻撃している
キツツキみたいなもんだろう?
44 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/22(木) 16:53:40.79 ID:N1DMxzDs
妻女山布陣のメリットは、単純に高所から川中島全域が見渡せる事、山頂から勢い良く攻め降れる事、くらいか。
そんな要衝をあっさり占拠されるかね。山城か砦を造るだろ。普通…
45 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/22(木) 18:12:52.11 ID:EqopSTAB
別に妻女山取られることなんてどうってことないでしょ。
海津城に篭ってりゃいいんだし。
わざわざ布陣したのがミスなだけだと思う。
>>40 実際は善光寺にいる食糧隊急襲を狙ったんだよ。
ああそうか、だから布陣して牽制する必要があるのか。
食糧隊急襲が成功して謙信が撤退したら、1万二千の本隊で追激戦に移れる
もんな。そうなったら快勝だったかもな。
駆け引きを考えてみよう
謙信が善光寺から海津城の前を横切って妻女山へ陣どったのが8/16
信玄が来て一時妻女山の下に陣を敷いて、二日くらいで海津城へ入ったのが28日
合戦が9月初め
47 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/22(木) 19:21:42.28 ID:M4ShK6C+
「死中に活あり!」といわんばかりに、妻女山みたいな奥深くに
陣取った謙信もこの時点でミスしている。
信玄本体へ突撃出来ても、結局別働隊に背後急襲されちゃ世話な
いな
妻女山布陣自体が奇策。
49 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/22(木) 19:43:28.02 ID:GbleocUa
武田の主力が海津城に入るのは既定方針通りとして、
上杉側が陣取る場所としては他にどこがあったろう。
双方とも四度目の川中島とあっては
いい加減決着つけたいと思っていたはずだが。
海津城と妻女山じゃ双方の補給戦が脅かされるよな
だが謙信は最初から躊躇なく妻女山へ登ってる
信玄は最初は下に陣を張って降りてきたら挟撃するのを待ったが
その気配がなかったんだろうなぁ…それとも意図が解らなかったので
いったん城へ入ったのか?
謙信が最初から川中島に陣を敷いたら挟み撃ちだよな
かと言って犀川を渡らなければ犀川を挟んでにらみ合いだ
松本の方からと海津からと二面作戦でやられてしまうだろうな
だからいきなり妻女山だな、信玄が川中島なら善光寺の五千で挟撃できるしな
前にイラク戦争の司令官の本を読んでいたら
行軍しながらの隊の入れ替えは同士討ちの危険があるから難しいとあった
謙信の車かがりの戦法も、そうしてみると隊の入れ替えじゃないのじゃないの?
信玄は鶴翼の陣を敷いたらしいから(包囲殲滅戦)どこかが破れて
そこを謙信が突いて乱戦になったのじゃまいか?
そのれを学習したのかどうかは判らないが
三方ヶ原じゃ鶴翼の陣を敷いた家康を木っ端微塵にしたよな
謙信に車かがりの戦法があったとするなら
信玄がパクった可能性もあるよなw
55 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/22(木) 22:30:52.75 ID:GbleocUa
結局のところ史実としては川中島のキツツキはナンセンス?
信玄本体よりも多くの数で奇襲するという、前代未聞の作戦で
考えた奴も凄いが、認めた信玄も凄いと思う
動かない謙信、だから動かそうとしたのはいいが、動かない意図をどう読んだのかな
結果として負けたのかも知れないが、素晴らしい作戦じゃないのかな・・・
犠牲を考えれば結果的には失敗だろうな
信玄側の犠牲者を見ると、武田本隊は壊滅してたんじゃないの?
59 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/22(木) 23:07:40.95 ID:WF3L2LOh
キツツキ戦法って、いうけれども
三十六計の『調虎離山』とか『声東撃西』のエッセンスを利用しただけじゃないの?
ようは山本勘しゅけは兵力分散の愚をおかしただけ?
ただ、この時代の兵法の常識ってどうなんだろね?
兵力の集中とか・各個撃破とかの認識はあったのかな?
どなたか詳しい方教えてくれたら嬉しいです。
アレキサンダーはご存知の通り、自ら右翼を率いて敵の左翼を突き破り
左へ回り込んで敵の本隊を包囲殲滅、この一手
ハンニバルも敵正面に弱兵を置いて守らせ、両翼から包囲殲滅の作戦
戦いはいつも同じ、敵の主力を無力化してこちらの主力を有力化するのみ
敵の主力を撃破していたのではこちらの犠牲も堪らんぞ
兵力の集中と言っても、こちらが分散すれば相手も分散せざるを得ない
こちらが集中して相手を分散させようとするなら作戦が必要だ
>>59 そもそも戦国大名の戦法からいって野戦軍殲滅を試みる意義はうすいからねぇ
桶狭間や関ヶ原のように結果的に野戦で敵の指揮系統が壊滅した例はあるけど
アレクサンダーやハンニバル、カエサルにしても騎兵の機動力による包囲殲滅戦だよね?
ドイツの電撃戦もね
馬に未だ鐙がない時代なんで、騎兵なんて伝令だろう?
アレキサンダーにはマケドニアの長槍、ハンニバルには象?w
カエサルの第10軍団なんて一日の行軍数キロだww
ハドリアヌスか誰か、皇帝の騎馬像を写真で見たが
馬が大きいのか跨っている人間が大きいのか、つうような具合だったぞ
65 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/22(木) 23:44:15.34 ID:FGNfFZlB
冬なんだから河を凍らせるか雪を降らせるかしかないだろ
66 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/22(木) 23:54:27.45 ID:WF3L2LOh
>>60〜63
みなさんいろいろ教えて下さりありがとうございます。
アレクサンダー〜ハンニバル〜カエサルなどによる、
『右翼or左翼に騎兵団を配置しての包囲殲滅』に比べて
日本で古代地中海世界の戦法を駆使した武将っているんでしょうか?
『武田騎馬隊』って言葉が有名ですが、武田は騎兵団を使っていたわけではないんですよね?
騎馬も足軽もちゃんぽん状態ですよね?
包囲殲滅ということであれば「鶴翼の陣」が近いのかもしれませんが
日本の武将が駆使する鶴翼の陣って、どうなんですか?
右翼or左翼に騎兵団みたいな組み方してたんでしょうか?
67 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/23(金) 00:00:09.11 ID:vqWQRwAe
妻女山の山上に布陣する上杉勢約12000を
ほぼ同数の武田の別働隊で下から襲って
上杉を山の上から追い落とすことが可能だったのか、
という点について意見を。
三方が原の家康の鶴翼だけは知ってる
信玄が一つしかない隘路を三方が原から降りていると知って
家康はその下り口を囲むように陣を敷いたのだが
信玄は待ってましたとばかりに坂を駆け上り縦従陣を構えて突撃して撃破
家康を嵌めたんだよ
>>67 追い落とすなんてしなくていいんだよ
負けて川中島の方へ逃げて誘い出せばいいのさ
70 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/23(金) 00:16:57.89 ID:Li5wqNbQ
関ヶ原の西軍の布陣は、形だけ見れば理想的な
「アンヴィル&ハンマー」型だったようだが。
三成の本陣が鉄床として東軍を誘引・拘束し、側背から小早川とか長宗我部とかの
槌となる部隊が襲い掛かるという。
上杉方に多大な出血を強いる事にはなるでしょうが、此方も随分とハイリスク過ぎる策になりますね
>>67 妻女山ってのは山っていっても周りが全て低いわけではなく山系の端っこにあるから別働隊は下からではなく裏の尾根伝いにせめる形になる
1万以上の軍勢がこもる陣地を半日程度でおいおとして退路を本隊が待つという余裕ぶっこいた作戦がありえたかはともかくとして
でも夜襲だよね? じゃなきゃ下で陣を敷いてる信玄が見えちゃうもの
一万二千で夜襲なんて、これまた奇想天外だよね
倶利伽羅峠で牛の角に松明つけて夜襲してるけど、何かアイテムでも用意してたのかな
74 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/23(金) 01:26:34.60 ID:Li5wqNbQ
夜間に陣替え、夜明けとともに襲撃、じゃないの。
行軍隊形でそのまま突っ込むわけにも行くまい。
一旦集結して隊伍を整えるのだろうとは思う。
>>66 その3人一緒にするの無理あるぞ。
騎兵を脇に配置して〜てのはファンランクスやレギオン前提のものもあるし。
(衝撃力は高いが横撃に弱いので、主目的はその防御)
戦場の華はあくまで重装密集歩兵。
>>73 火を着けても煙るだけだが、振ると明るくなる秘伝の松明 @北越軍記だったか?
隠密行動に最適w
まあ江戸期の眉唾話だ。
この前テレビでさ、本能寺で就寝中の信長の耳に、
行軍中の明智軍の武具や馬具の騒音はどう聞こえていたか、
という検証を いまさら やっていたけど、
川中島のケースも素っ裸で移動しない限り、必ず察知されるケースだよな。
上杉軍も、武田軍も。
78 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/23(金) 05:45:49.51 ID:SknBLFZj
>77
少なくとも長々列を組んで山登り(下り)はじめたら、全軍停止して耳をそばだてないかぎり、敵か味方かを音では見分けられない。
いまさらでもなんでも実験するのはよいことだ。
武田が背後に回ろうとしたら、上杉軍は気づくだろう、
というか、気づかれることに頭が回らない勘助ってなに?
大軍が目の前に移動してきたら、普通、物見を走らせて確認するだろ。
霧が晴れて始めて気づいた武田ってなに?
81 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/23(金) 11:25:49.43 ID:njh6we8L
啄木鳥作戦は馬場民部の立案ですが、なにか?
と、責任逃れしてみるテスト
去年の「そのとき歴史は動いた」?の視聴者投票型の企画であった説に近
>>21-25がいい腺を言っているのでは。
83 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/23(金) 12:08:40.96 ID:iV1MHMHr
関が原の戦いでは西軍全体が鶴翼の陣を敷いたわけですが、
軍団単位(石田隊とか宇喜多隊とか…)では陣形は敷いてないんでしょうか?
宇喜多隊なんて17000人?も率いてたわけだから
宇喜多隊だけで魚鱗の陣とか敷けたと思うんですが、どうなんでしょうか?
宇喜多隊としては魚鱗の陣だけども、西軍全体で鳥瞰で見ると鶴翼の陣!!
みたいな感じだとロシアのマトリョーシカ人形みたいで面白いだけどな(笑)
84 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/23(金) 12:17:18.11 ID:FXlkDNLK
一応コピペ。
276 :日曜8時の名無しさん :2007/02/20(火) 16:41:39.22 ID:K6Y7/Myx
「歴史への招待」のゲストは新田、軍事史会理事の浅野祐吾、国文学の
安井久善教授。1980年の番組なんだが、すでに「三間の槍を持って
妻女山を行軍したら間違いなく遭難する」という結論が出されていて
笑える。だから新田氏は小説にも書いているように「軍勢を広げて、
山沿いに攻め上がると見せて包囲殲滅する作戦」じゃないかと推測し、
浅野氏は「上杉軍はいつ衝突するか分からないけど基本的には帰国する
ための戦備行軍。お互い死にたくないから決戦を避けるために相抜け
を図ったが霧のために失敗した」と言ってる。もう四半世紀も前から
「啄木鳥の戦法」は事実上おおっぴらに否定されているのだな。二人の
一騎討ちもゲストの新田氏が簡単に「ありえない」と却下しているし。
85 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/23(金) 12:47:22.57 ID:FXlkDNLK
歴史への招待「決戦川中島」より
信州大学ワンダーフォーゲル部の学生十数人に三間の竹ざおを
携行して妻女さん攻撃隊がたどったといわれるルートを日中に
踏破してもらう。気象庁松代観測所を経て山道を登り稲葉集落
を越えると馬の背のような山々の尾根。学生たちの結論は
「不可能」の一語であった。これが闇と霧の中の行軍だったら?
「まず遭難するでしょうね」
北村建信少佐「甲越川中島戦史」より
妻女山攻撃隊12000、武田軍全体のうち騎馬武者は12%なので
徒歩1万1千、騎馬千名としてして、妻女山の山道をもし一列縦隊で
行軍した場合、徒歩1.3メートル・騎馬3メートル間隔で進んでも
隊列の長さは17.3キロメートル。先頭が妻女山に到着する頃でも
最後尾はまだ海津城内。また1時間辺りの行軍速度を4キロとすると
海津城を出た兵が妻女山に到着できるのが4時間30分後、最後尾が
到着するのがさらに4時間後。この頃の川中島の月没時刻が零時半。
闇夜を待って海津城を出たら全軍が攻撃にかかれるのは午前9時半。
結論は「必ず失敗する無謀な作戦である。」
86 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/23(金) 14:46:22.36 ID:u9H1SnUK
>>83 東軍は鋼鉄のリ・マージョンとか向日葵のリ・マージョンとかやってました
相手が不可能だと油断しているから奇襲なんだろうが
鵯越だって屋島だって不可能を可能にしたから凄いんじゃないのか?
たかが標高五十メートルくらいの山へ登るのが不可能なのか?
長篠の戦での酒井はもっと迂回して攻撃してるぞ
「不可能だと信じられていたが可能だった」と「不可能」は
まったく別のモノ
>>84 そこで軍事の先生の言ってたことは「意地になって生きるか死ぬかの
決戦態勢」を作ってしまった信玄と謙信、このままじゃ双方の被害が
大きくなるからと、まず信玄が海津城に入って謙信の「退路」を作り、
謙信もそれに応えて陣を構えての対戦にならぬよう霧にまぎれて下山
北上して戦うことなく信濃へ撤退、血気にはやる配下の者にも分からぬ
ように、すれ違いを装って互いに損害を出さぬように引き退く…という
解説だったね。
子供の頃は何を言ってるのか理解できなかった。
でもいま考えてもやっぱり無理があると思うなあ。そりゃ啄木鳥の戦法
なんかよりは説得力はあるけど、これだと武田軍が犀川を越えさせまいと
バリケードを張るように鶴翼の陣を引く必然性が感じられない。
善光寺は力があったので戦に巻き込まれないように両国とも配慮したって聞いたが。
>>88 鵯越と妻女山の裏から攻撃するのと、どっちが不可能だと思う?
>>91 実際に現地を見に行ったり、歩いたりしたことがあるのかよ
93 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/24(土) 00:15:26.04 ID:lyLImeGo
上杉勢が山を下るのが前提になっている点に注目したいね。
川中島の戦闘は、上杉方が撤退を決意したのが発端だったのだと思う。
武田の作戦はそれを察知して対応して行われたもの。
武田の戦略目標は第一に善光寺平の保持であるから、そのまま撤退してもらっても勝ちの訳だが、
だからと言ってみすみす見逃す手はない。追い討ちを掛けるのは至極当然だ。
ここで武田側の作戦は、信玄の本隊で上杉の進路を塞ぎ、防御に専念して上杉軍の疲労、混乱、統率の乱れを待ち、
そこを背後から回らせた別働隊で一気に叩き潰すというもの。
正にカンネー式の、教科書通りの包囲殲滅戦で、理に適った作戦と言える。
しかしながら、妻女山付近の地形が、わかっていたこととはいえ急峻で、加えて霧の影響もあって体勢不十分となり、
さらに上杉軍の移動が予想以上に機敏で攻撃力も高かったため、
危うく鉄床の役を果たすべき本隊が崩れそうになった、というのが真相じゃないかと思う。
これならかなり合理的に説明がつく。
一応、謙信は妻女山の別働隊の本隊合流を遅らせるために
伏兵千人を配置しておいたと言うことなので
初めから決戦を目論んでいたのじゃないの?
95 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/24(土) 00:22:53.62 ID:lyLImeGo
>>93 つうかそれなら、八幡原の本隊を手薄にして別働隊を増強する合理性はないけどな
特に数が多い方が戦場に遅れたんではマヌケもいいとこだ
>>95 海津城との地理関係からいって武田軍は追激戦の場合妻女山は無視できるわけで
98 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/24(土) 00:27:41.54 ID:lyLImeGo
そんなことはない。
一部の兵力で敵を拘束し疲労させることに意味がある。
一連の戦闘によって統率が乱れたところへ、戦闘をまだ行っていない別働隊を、
しかも背後からぶつけることによって大きな衝撃力を発揮することができる。
遅れたのは計算が狂った部分。
>>95 信玄相手に千人のしんがりでは嬲殺しで役に立たんと思うが?
こうようぐんかん の ないよう は さいしょから デタラメです
101 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/24(土) 00:31:18.70 ID:lyLImeGo
>>97 背後を取るための進路だ。
敵が残置している部隊は排除する必要もあるので、妻女山制圧は必要。
102 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/24(土) 00:32:41.86 ID:lyLImeGo
>>99 しんがりが敵の全軍を跳ね返すのは元々不可能だし。
だからドラマを面白く観るためのスレなんだから
キツツキはなしとか言ったら議論が成り立たないぞ
多分ドラマではキツツキするしかんしゅけが参謀なんだから
>>102 だから殿ならば名のある武将がつとめるよ
千人ばかしの武将が殿をつとめられる?
ここは戦術・軍略ヲタが戦術・軍略を語る隔離スレだから。
ドラマに即した話題をしたいのなら本スレへドゾー
106 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/24(土) 00:38:15.99 ID:lyLImeGo
>>104 じゃあ「しんがり」でなくてもいいよ。
「撤退援護のための伏兵」で。
名前はどうでもいい。
しんがりが役に立つのか立たないのか、などという議論を
こんなフィクション大合戦で論議してもムダずら。
もっと経過がきちんと記録されている合戦で論議しないとダメでごいす。
>>106 だから撤退ならば伏兵なんぞ置かんわな
ちゃんとした殿を決めて撤退するぞ
109 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/24(土) 00:51:55.83 ID:lyLImeGo
>>108 ケースバイケースだろ。
ちょっと思い込みで断言し過ぎじゃないかと思うんだ。
>>98 拘束ってのは敵に戦闘を強要することから動くわけで
背面攻撃部隊が先に接触するような行動してたら変だべや
結果的に敵の機動で本隊にぶつかったけど
>>101 海津城からは妻女山は越後勢の退却路からは異方向にあたるわけで
追撃を邪魔する殿は意味をなさない
謙信が最初からきつつきの動きに乗じて撤退するという変な想定していることになる
論理的に説明してるだろう?
未だ戦ってもいないのに千人を棄てるか?
伏兵を残したつうことは謙信が決戦をするつうことだろう?
戦う前から捨石をしてるんだぞ?
いや、謙信が考えた作戦ではなく、
あくまでも紅葉の作者が脳内で妄想した作戦ですからね・・
113 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/24(土) 01:00:54.24 ID:lyLImeGo
>>110 背面攻撃部隊は先に接触しない。
上杉勢の撤退の動きに呼応して、という前提だよ(
>>93)。
山を降り始めの段階で武田の襲撃があるかもしれない。
いつどこから来るかわからない以上、後退路に部隊を残して背後を固めるのがおかしいとは思えない。
あるいは妻女山に別働隊が近づいているのを察知して即応したものかもしれない。
114 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/24(土) 01:04:04.14 ID:lyLImeGo
>>111 援護部隊だよ。
それと、戦闘ってのは一瞬で全員が交戦状態に陥るわけじゃない。
特に撤退戦は。
残置した部隊が少数だからといって瞬時に溶けてなくなるわけじゃない。
妻女山の篝火を灯しつづけるにも人員は要っただろうし
伏兵に千人も残して、撤退するのか? 負けたわけでもないのに
どんな謙信だよ
言っとくけど
荷駄隊ってのは一番の精鋭部隊だから
最強部隊だから
あれ奪われたら終わりだから
甘粕隊って妻女山の降り口に置いたの?雨宮の渡しに置いたの?
何箇所かの渡しに置けば武田別働隊渡れないじゃん?
謙信は妻女山に陣を張らなかったとか撤退する気だったとかの説があるが違うだろう
謙信が犀川を渡って陣を張ったから甲府から信玄がおっとり刀で駆けつけて来たのだろうし
その信玄をまんまと釣りだした謙信が何もしないで撤退したら意味がないだろう?
そのうえ信玄軍の分散まで成功したのに何で撤退するかよ
謙信の一番の誤算は負け戦にも関わらず一歩も動かなかったそれこそ
不動如山の信玄だったのじゃないの?
119 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/24(土) 16:58:20.03 ID:oVQzHTo0
このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20)
◆陰嚢湿疹に悩まされています◆part14 [アトピー]
◆陰嚢湿疹に悩まされています◆part14 [アトピー]
◆陰嚢湿疹に悩まされています◆part14 [アトピー]
◆陰嚢湿疹に悩まされています◆part14 [アトピー]
陰茎湿疹ってインキンじゃないの
大原雪斎が言ってたね「南京に行ったのです」って
この頃の動員兵力って凄いね。
上杉軍が10万で小田原城を包囲したとか・・・
関が原の西軍より多いじゃん。
関東の諸勢力を一時的に糾合しただけで、上杉氏が独力で養ってた兵力ではないよ。
それでも10万はちと多いな…
でも北条氏康ってひどいよな
はるばる越後から大軍つれてきたってのに篭城放置かよ
あそこは、北条も全戦力で野外決戦するのが礼儀だと思う
あんな応対されりゃ謙信も野戦付き合ってくれる武田のほうに行くわな
篭城は援軍が来るのを前提にしてするんですこれは常識ですって松平アナが言ってた。
命がけなのに、礼儀もなにも無いだろう
>>123 代わりに越後軍は一時的な占領地を散々荒らして帰りました
まあ、122のいうように越後からつれてきてるのは反北条軍の中じゃすくなかったけど
お宅訪問かなにかかよwワロタw
>>123 出るわけないって。
関東管領の肩書き通りの実力付けられたら、信玄にとっても「こりゃえらいこっちゃ」
→甲相同盟を律儀に守って出兵、第三次川中島の協定破り。
空き巣ドロどころか喉元に海津城まで作りやがるし
→すぐ帰るの見え見え
129 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/26(月) 09:35:29.97 ID:s/gTwKAp
保守
今回の金堀衆の描写とかはこのスレの住人的にはどうやった?
金堀衆って罪人とか奴隷とかだったんじゃないの?鉱夫とは違うのかな。
>>130 墨攻パク…とは思ったが馬場絡めてたし、金堀衆の紹介みたいなもんだろう。
穴掘るのにフルサイズ風呂鋤?てか兵送る用にしても穴デカ過ぎだろ!とは思ったが。
>>132 それを生業とする専門職能集団
はるか昔からサンカ(山窩、山家)と呼ばれる社会層があったからおかしな話ではない。
サンカについても一段低く見られるニュアンスは近代以後。
罪人や奴隷なんてことはないよ。
信玄って城攻めが下手だったって本当ですか?
つーか穴掘って城攻め・・・ってやりかたは古今東西どこの国でも見かけるわけだが
孔明が数人のグループに太鼓や銅鑼を持たせて城の周りに配置して自軍の本陣を離れたところに設置して
城兵を寝かせないようにすればいいって言ってたけど日本ではやらないの?
信玄はよく言えば慎重、悪く言えば臆病
結局そのとおりの結果となったわけだな
138 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/28(水) 22:53:20.55 ID:broalG77
現在の地理地形状況を見て、400年前の戦場を検証してるのってどう
考えてもおかしいでしょ?400年前とは全く違うだろうしね、森林が
茂ってるから縦一列じゃないと行軍は無理だとか言ってるけどどうなの?
それから武田軍の馬って山間を自在に行き来出来る甲斐産の特殊な馬でしょ?
現在の軟弱な馬で検証して、やれあそこをかけ上げって行軍するのは不可能
だとか言ってる連中いない?
139 :
日曜8時の名無しさん:2007/02/28(水) 22:56:02.55 ID:broalG77
>>137 それは家康にこそ当てはまると思う
一方謙信は良く言えば豪胆、悪く言えば先走り過ぎる
>>138 あなたが馬を連れていって、実際に走らせてみたのかね
昔の馬って足が短くてロバみたな奴だったんでしょ?みんな競馬の見すぎw
残念ながらそれは間違い
言いだしっぺが間違えてるんだよ
「言いだしっぺ」って、紅葉を書いた不詳の作者のことか?
今の地形から当時を推測するのは基本中の基本。
それを否定したら何もできないよ。
地形が「全く違う」なんてのは実を言うと稀なケースだし、
戦国時代のような近い時代であれば、どのように工事をおこなったのか記録が残っていることは多い。
地形だが、桶狭間なんてもっと海の近くだったろうし
川も流れが違っているのじゃないの?
海ノ口も湖があったのじゃないの?
だから川中島だって妻女山だって今とは違うだろう。
桶狭間がどう変わっていようと、川中島の地形が変わってるかどうかとは全く関係ないと思うが。
老人に聞くと、昔は裏山でマツタケが沢山取れたとか言うぞ
つまり松ノ木ばかりの山だったわけだ、今じゃ竹薮、落葉照葉樹の山だがな
川だって新川とか古川つうのもあるぞ? `単位で離れてたりするぞ
148 :
日曜8時の名無しさん:2007/03/02(金) 18:33:53.00 ID:txeRxlJV
なぜ鉄砲伝来で山城不利になったのでしょうか?
厚い木なら貫通しないし、城から撃てば勝てるのでは?
149 :
日曜8時の名無しさん:2007/03/02(金) 18:51:28.21 ID:AOFtLM2Y
>>148 矢と違って、遮蔽物の陰から撃てるから、攻撃側が物陰に隠れたままでも攻撃できる。
矢での戦いの場合、城方は物陰から射れるが、攻める側は全身を曝さねばならなかった。
鉄砲のおかげで攻守の防御力が拮抗し、結果、数多くの鉄砲を集めたほうが
火力で圧倒できるようになった。
>>148 つうより同時代の土木技術の発達で山城の自然地形の利用というメリットが薄れ
地形に構造物や収容規模の面で制約されるという不利が大きくなったからだがね
鉄砲と関係なく、全体的に戦争の規模が大きくなったので、
収容人数の限られる山城ではメリットが薄くなったというのもある。
規模拡大の改修を受けた城も少なくないが、いくら工夫しても地形の制限を受けざるを得ない。
多少地形が有利でも、圧倒的物量で押されたら抗す術はない。
と言って、防御側がそれに対抗して大兵力を立てこもらせても、
小規模な山城では適切な位置に配置しきれないということになる。
また、鉄砲は物量の差をストレートに反映しやすい兵器と言うのもあるね。
長篠の戦の時の長篠城はどうだろう?
殆んど山城と言っていいし、勝頼の大群を引き付けて
小兵でもって持ちこたえて決戦に持ち込んだぞ?
徳川の援軍を釣り出すためにわざと落とさなかったと言う説がある。
確かに、最初激しく攻めた後一休みしている様子ではある。
いずれにせよ長篠城が独力で持ちこたえた期間ってほんの数日間でしかない。
武田軍の攻撃開始が五月十一日で、五月十五日には織田・徳川軍が動き出すので
それへの対応が優先となり、城攻めは全力ではなくなる。
城攻めと言って普通想像するような長期に渡る持久戦では全然ないのよ。
両軍の配置を見ると長篠城は武田軍の背後になり
見張りの軍を残して織田、徳川軍と対峙しなければならなくなり
とても城をわざと落さなかったなどと言える状況ではないのだが…
それに長篠城を見張る砦を徳川迂回軍により攻撃されて落とされ
武田軍の撤退路が塞がれ、結局、武田軍は敵に横腹を見せて撤退しなければならず
被害を大きくしたのは明白なんだけれどもな
>>155 織田の戦意が予想外に高かったのが勝頼の誤算、という論理だった。
それと、最初から長篠城を背後にしていたわけではない。
武田軍は誘い出された可能性がある。
長篠城の奥平は武田を裏切ったので懲罰的な意味で勝頼は出陣しており
それで城を落さずに奥平を生かしておいたのでは意味をなさない
だから武田軍は全力で城攻めをした筈であり、別に織田を撃つ為ではない筈
>>157 つり出す餌ってだけで、別に後で助けてやるわけじゃないんだが。
勿論勝頼は勝つ気満々でいる。
確か軍議で主だった将は撤退が主流だったのだが勝頼ひとり戦う気満々で
結局、破れて武田滅亡になったのでは?
後ろに敵、前に敵、んな戦いをするのが武田流なのか?
撤退論が大勢であったという証拠はない。
本来なら長篠の敵勢は取るに足らない戦力だったが、
徳川軍の予想外の機動によって強化されたことに注意。
最初から死地とわかりきっている戦場に飛び込んだわけではない。
馬防柵の織田軍(秀吉ら)の裏手は山
武田の騎馬が活躍できるのは左翼のみ、そこには徳川軍(野戦得意)
たとえ左翼が優勢になって回りこんでもそこには織田の本隊が山に本陣を構えている
しかも柵の前の右翼も突撃し続けている
そこが死地とわからないようでは武田も終わってるぞ、つか、終わったのだが
そりゃその時点まで至ればマズイ状況に陥ったのも気付いたろうさ。
何より相手の方が数が多いしな。
まあ長篠の合戦の戦闘経過はどうでもいいじゃないか。
要するに長篠城はたいして持ちこたえていたわけじゃなかったってこと。
数までは判らないだろう? でも馬防柵と長篠城と砦を取られたのは事実だ
この時点で俺が参謀なら撤退を進言するぞ、でも、この場合でも
殿になってしまう左翼の損害は相当なものになるのは予想できるな
勝頼はそれを恐れたのかも知れない
武田軍一万五千に五百の兵で一ヶ月も持てば立派なもんさ
その間に鉄砲を集めて柵まで拵えられたんだ、殊勲賞ものだ
それをたいしたことはないって?
いや、だから武田が本気で攻撃したのはほんの数日だけだって。
あれだ、柵と言えばカエサルとポンペイウスの戦いだな
カエサルは海岸の柵の切れ目から侵入して勝ったのだが
勝頼は左翼で徳川に負けているんだよな、もっとも、迂回軍の四千が挟撃したかも知れないがな…
それに右翼の突撃も勝頼の本隊を逃がすための突撃だったのかもな
じゃあ勝頼は織田・徳川を誘い出して負けたと言うのか?
まじ馬鹿じゃん
人間、判断を誤る時ってのはそんなもんだよ。
戦と言うのは相手のあるものだから…
でもな、長篠城の囲いを見ると凄いぞ、カエサルのアレシアの防備みたいに
二重三重の仕掛けがわんさかだぞ
まさか信長が宣教師から話を聞いて真似をしたのじゃないかと疑うくらいだ
>>159 俗説で勝頼の無能が強調され滅亡の序曲にされたけど
実際は長篠の敗退は武田滅亡の直接的原因ではないんだけどね
172 :
日曜8時の名無しさん:2007/03/03(土) 15:01:19.60 ID:XAeotCl0
>>138 残念ながら「400年前」ではなく、江戸時代前期にすでに
現地の代官たちが検証して「ありえない」と断定しています。
すくなくとも「昔は地形が違っていたからこのムチャな作戦も
可能だったはずだ」という妄想よりは確実に説得力がありますね。
173 :
日曜8時の名無しさん:2007/03/03(土) 15:46:34.97 ID:RJLDcKTk
k
174 :
日曜8時の名無しさん:2007/03/03(土) 22:45:44.72 ID:SKyPz0aM
勘介の馬と鎧は真田が貸したのでしょうか?
討ち死にしたら平賀は返してくれるのでしょうか?
すこし袖の大きい古風な鎧でしたが、馬と鎧でどっちが高いのでしょうか?
>>172 いや、馬で山登ったわけじゃないので十分有り得ます
一応、海ノ口城を放棄したのは板垣に能力を認めてもらいたかっただけなので
つうこと? それが信虎追放の際、板垣に味方してもらいたいが為のこと?
ってわけ? 孫子を教えてもらった父上のお叱りは嬉しいと? わからんぞ
誰か説明してくれよ
178 :
日曜8時の名無しさん:2007/03/04(日) 23:34:26.54 ID:ogsOX9NJ
>>177んなことどうでもいいでしょうに(笑)
信玄が当主として最初に攻略にかかったのは諏訪地方なんだし
>>172 上杉軍が布陣した妻女山の部分の内、別働隊が行動しやすく上杉の陣
までたどりつけるようなルート(道)は全くなかったってこと?
上杉軍も妻女山のどの辺りに布陣してたかっていう確証も無いんでしょ?
川原で板垣に二者択一を迫って切れと言うのは戦略ではないと?
海ノ口放棄、板垣こそ我が父、謀反を認めないなら切れ
諏訪姫をたらし込む前に板垣をたらし込んだような…
善光寺を信玄本隊で狙って妻女山に抑えをおいただけじゃないの?
>>149 なんか分かんないけどこういうの好きだなーw
魚とかいたんだろうか。
182 :
日曜8時の名無しさん:2007/03/06(火) 00:43:45.39 ID:BQZ0T8bJ
平賀源心をぶっ殺しただけでもある程度の戦果なんだけどな。
示威としての効き目もあるし。
本隊は10里以上も離れて引き上げており、城を落としたとは言え晴信隊は小勢に過ぎない。
糧食は城に残されていたものを使えばいいだろうが…
まあ敵中に孤立して壊滅するくらいなら撤退すべきという判断もあり得るだろ。
183 :
日曜8時の名無しさん:2007/03/06(火) 00:48:10.06 ID:1EpsWjxp
晴信の300人に襲われた時の海ノ口城ってどれくらいの兵力がいたんだろうか?
>>182 それはアリ。
旧日本軍が負けたのはそれができなかったせい。
局地的に大勝利したのだから、サッと兵を引いて対外的に勝利宣言すれば良い。
占領地にこだわって、占領統治やゲリラ戦で出血を続けるのが一番イクナイ
イラク戦争に勝利しながら敗北しつつあるアメリカも同じ。
晴信は正しい。
185 :
日曜8時の名無しさん:2007/03/06(火) 01:43:10.77 ID:6/ZnNN2m
アメさんは慰撫政策が為ってないだけ。
あの辺りは古代ローマの時代からグダグダなんだから
大国アメリカでも一朝一夕に片付くはずがないわな
なるほどローマはヒットアンドアウェーの政策だったが
今じゃ出来ない相談だわな
187 :
日曜8時の名無しさん:2007/03/09(金) 20:34:24.21 ID:t0/WbRhE
晴信が寡兵で城を落としたと聞けば、「海ノ口の城兵もたいしたことなかったんじゃ
ない?数も少なかっただろうし」っていうアホって必ずいるんだよねえ、まあ
信玄アンチならではの醜い態度ではあるが。
敵が完全に油断しきってるところを突いて落とすようなやり方こそ城攻めの極意と言
うものなんだが、アンチ武田にはそこまでの理解力がないからね
ナポレオンの三帝会戦に匹敵する日本の合戦は何ですか?
日本海海戦と奉天会戦と、あとはマレー電撃戦かなぁ
アウステルリッツ、布陣に弱点を見せて罠に嵌めるのを重点にするなら
島津の釣りぶせの戦い方とかがあるけど
五万と八万とか、大軍でするとなると匹敵するのはないだろう
川中島の謙信がキツツキを誘ったと考えても、八千とかの戦いだからな
「匹敵する」って、何を比較するのか漠然とし過ぎ。
単純な規模(兵員数)だったら奉天会戦なら3倍以上だからはるかに越えているが…
奉天は包囲殲滅戦でしかも日本軍の右翼は機動していない
アウステルリッツはナポレオンの本隊が敵のど真ん中に突撃している
まあ、鶴翼を魚燐で打ち砕いたに近いのか? なら三方が原だが…
アウステルリッツは中央突破、奉天会戦は片翼包囲か。
でも
>>188は別に「展開が類似した会戦で」などの条件つけてないし。
敵大同盟を瓦解させたという政治戦略的位置づけを比較するなら
河越夜戦がそれに該当するとも言える。
ボナパルトは内戦防衛の達人だから
元亀ごろの信長がソレにあたるんじゃないの
信長は信玄が死んで楽になった感じだから…
軍事的には信玄が死んだ年の浅井・朝倉殲滅戦で一気に展望が開けたけど、
あの戦いの浅井・朝倉連合軍はもうグダグダで、アウステルリッツの墺露連合軍に比べるべくもない。
信玄の死による信長の僥倖は西洋で言うなら7年戦争の時にロシアで政変がおきたのが近いかな
アウステルリッツではナポレオンは自陣右翼にわざと隙を作って
敵左翼が包囲殲滅を狙って来たタイミングで手薄になった中央に突撃
逆に回りこんで敵左翼を包囲殲滅、敵左翼は瓦解、退却、氷が割れて溺死多数
あの有名な結果に…まあ、わざとかどうかはナポレオンのみが知っているのだが
そんな戦いは日本にはないよな、中国はどうだろう
ガダルカナル一木支隊奇襲、インパール電撃戦、マリアナ沖長距離戦。
世界に誇る日本ならではの合戦。
太平洋戦争での日本の作戦の白眉は真珠湾とレイテだよ
レイテはハルゼーの空母艦隊を囮で北へおびき出し
その隙に武蔵以下の艦隊をレイテ湾に並べて艦砲射撃しようとの作戦で
殆んど成功したのに艦隊が謎の回頭をしておじゃんになったつう…
でも、米空母艦隊を北へ誘い出すなんて戦国時代の作戦のようだよw
奇襲だの陽動だの迂回戦術だのというのは、
江戸時代に軍学者たちが机上の空論ででっち上げた
「華麗でカッコいい創作」だったりするのだが、
どうも、旧軍の作戦参謀たちは、江戸時代の軍学者たちの影響を受け、
華麗でカッコいい一網打尽作戦に固執していたように思われてならない。
んなこと言ったってしょうがないじゃん
奉天では日本軍二十万でロシア軍三十万を包囲殲滅しようとしたんだぜ?
少数でもって多数を包囲殲滅って、バカだよ、それをしちゃうんだから
クロパトキンは日本軍の左翼の包囲戦に気づいて倍する兵を出したんだが
負けちゃうんだよ、だから諦めて退却をした。
>>200 それは先入観が激しすぎるような気がするが。
第二次大戦でも奇襲・陽動・迂回は大活躍している。
>>199 連携が取れない部隊機動の典型的な失敗例でもあるけどね・・比島沖海戦
204 :
日曜8時の名無しさん:2007/03/11(日) 20:58:11.42 ID:CrujqgJ2
やっぱ家康軍を打ち破った魚燐の陣なんかは凄いと思うが。
本来は大軍の鶴翼の陣を打ち破る為のような陣形なんだが、
三方ヶ原では兵力逆だったんだよなあ(笑)
205 :
日曜8時の名無しさん:2007/03/11(日) 22:06:07.71 ID:DkjMzNZK
鋒矢の真田
>>188 あるわけないだろ。
ナポレオンがなぜ軍事的な天才と呼ばれるかは真似できないから。
けど最後に笑うのは芸術的な勝者より堅実で犠牲を払いながら戦略のツボを押さえた側。
つまり武田信玄対上杉謙信ということさ。
韓信の背水の陣ってわざと変な布陣しいて敵をおびき寄せならがら別働隊を趙の背後に回らせてとりでを奪って
挟撃らしいけどよく川に落ちなかったなぁ。必死な抵抗って言っても押し込まれたら
川に逃げるだろw
>>207 あっちの河はでかいからな
河に追い落とされてん万人溺死という戦闘も出てくる
(万人ってのは多少誇張ある記述なんだろうけど)
ナポレオンは確かに強かったけど別に「真似できない」ような特殊なことをやってたわけじゃないぞ。
ナポレオンの軍が特殊だったのは、当事としては特例である「国民兵」を
率いていたからだろう
信長の兵農分離ってすごくない?信秀が金集め上手かったから財産あったって言うけど
それだけじゃ足りないでしょ?商人から金借りてたのかね?
別にすごくないよ。
兵農分離なんてやってないし。
但し財力はあったよ。津島湊持ってたし。
その金で浪人雇えたろうしね。
>>212 最近、信長の躍進の根拠として「港持ってただけでしょ?」みたいなこと言う奴を見かけるんだが、
そんなもん他の大名だって港は所領してたろうに・・・といつも思う。
いや、
>>212がそういう意図で言ったのかどうかはわからんが。
まあ領地の生産力自体が尾張美濃などはリッチだったからね
対して甲斐信濃などは地域面積の割にあまりたかくない
信長が港持ってたからとか、津島をおさえた信長云々というのは本来、尾張統一過程における信秀及び信長の優位性の根拠として説明されたものだな
拡大解釈というか、混同してるヤツがいるのは確かだが
知多半島がこれまた凄いんだよ
知多木綿の産地、当時の木綿は戦略物資だわな
それに味噌醤油味醂、これも現代にまで続く産地だよ
区分としては尾張だ、知多
信州味噌の信玄、仙台味噌の政宗、八丁味噌の家康
天下を取ったのは八丁味噌
朝鮮出兵の時、日本から持ち込んだ味噌の中で唯一腐らなかったのが
片倉小十郎(二代目)率いる伊達軍の仙台味噌だったそうな。
しょっぱいんだろう
こうしてみると木綿だけじゃなく、味噌も醤油も酒も
みんな戦略物資だよな、謙信じゃないが塩だって…
しょっぱいのは今時流行らんな
流行りと言えば、どうも兵農分離はなかったとかいう流行りの言説にすぐに飛びつく単細胞な香具師が多くて困るな
誰も最初から、織田軍は全て常備軍からなり、農民は一切徴発してないなんて言ってない(額面通りに受け取って、勘違いしてるヤツはいるけど)
織田軍が、相対的に極めて大規模の旗本鉄砲組を編成してたのは、確かだろ
長篠の戦では近畿の諸大名に鉄砲を借りているよな
ありったけ集めたつう感じだな
信長に鉄砲貸した近畿の大名って誰よ?
おさえの部隊(家臣)から鉄砲を抽出したのは確かだが・・・敵である信長に鉄砲貸すバカはいないよw
そうだよな、家臣だよな、はは 大名は潰しちゃってるわな
>>221 まあ、かつての信長だけ軍事編成が特異で先進的だったように言われてた事への異論が発端だな
鉄砲隊にしろ兵農分離にしろ
長篠の戦の信長軍って段々畑に柵を作って山城みたいな要塞にしたってほんと?
学校の教科書の絵だと平地に柵作ってるだけだから。
>>221 要するに親衛隊的な部隊が他の大名より比較的発達していたという話であって、
「兵農分離」というマスの話に持っていくのは正確さを欠くと言わざるを得ない。
応仁の乱あたりから京近辺で戦っていた武将たちの軍勢と同じように
兵農分離というより一旗上げに来た傭兵足軽が軍の大きな割合を占めてたってことでしょ
ただ信長の場合、傭兵足軽の雇われる規模が大きくて、
期間も戦がある時の季節労働者的なものというより
長期、または継続してやとわれることが多かったから常備軍のようだったというだけで
大名行列のほとんどがフリーターだったって偉い人が言ってた。
よそでも言われていたが、一体何が「信長だけが突出して先進的だった」
っていうヨタ話を流布させたんだろうな。
誰かの捏造だとかいうより、マスヒステリー気味にそれを「信じたがった」
国民がいた時代があった、っていうことだと思うのだが。
兵農分離に関しては、誰かが「文民統制なんていう生ぬるいことをやってないで
独自の判断で動ける軍隊を持つべきだ」という流れを期待する向きが関わって
いるとしたら50年前後に信長神話を生む何かがあったはずだ、と書いてたな。
信長は先進的
光秀は守旧派のインテリ
竜馬は改革者
前田慶次郎はカブキ者の豪傑
これらのイメージはすべて、大ヒットした歴史小説の設定
232 :
日曜8時の名無しさん:2007/03/18(日) 00:16:12.87 ID:1kqVfBwU
馬上一騎討ち期待age
233 :
日曜8時の名無しさん:2007/03/18(日) 00:55:32.12 ID:eEDl9Ef9
魚鱗の陣・・・パンツァーカイルみたいなもんか
> 長篠の戦の信長軍って段々畑に柵を作って山城みたいな要塞にしたってほんと?
最近の研究ではそういう説もある。
ボロ負けした後の勝頼が昌幸(?)に宛てた手紙に「陣城に攻めかかり、負けた」てな表現があったとか。
だとしたら1万の軍勢で3万を相手に城攻めしたわけか。
そりゃ負けるわw
単なる野戦築城(=馬防柵)だろ。
従来の説から一歩も新しくない。
なんか別のスレで読んだんだけど
欧州では野戦築城や防御の技術が優れていて、
攻撃側<<<(超えられないカピパラ)<<<防御側という状態になり、
攻撃するほうが必ず負けるもんで、積極的に攻撃はしなくなったと聞いた
長篠の戦で防御側の織田が勝ったのは、
ようやく日本でもマトモな野戦築城がはじまった証拠だと
なんか信長が他国との交易でその辺の予備知識を得ていたのかね
つか、日本の戦いは基本的に死傷者数が少なすぎで
真面目に殺し合いをしていなかったとも言っていたが、合ってるのかね?
添削お願いしますエロイ人
長篠の戦の後にも日本で馬防柵の野戦なんてないぞ
長篠の戦は織田にとっては持久戦でも引き分けでも何でもよかったんだよ
武田が引下れば勝ちに等しい戦いだったんだよ
>>237 中世のヨーロッパでも合戦での死傷者は少なかったよ。
なんかの記録だとある合戦で死んだのは1人だけで、それは進軍の途中で落馬した際に打ち所が悪かった人
ってのがある。
>>236 馬防柵と陣城は全然違うぞ。
長篠の場合は織田・徳川方は従来の馬防柵程度の防御ではなく、
実は小高い丘を中心に馬出しや空掘まで備えた完全な野戦用陣地(陣城)を一晩で建設して
武田を迎え撃った……という研究がなされている。
その説と他の記録を合わせて考えると、従来の三段撃ちなんて単純な戦法ではなく、
・ 野戦部隊で武田の騎馬隊を陣城前まで引きずり込む。
・ 釣られた騎馬隊を焦点を合わせた組織火力でなぎ倒す。
・ 武田の増援・救援部隊を引きずり込む
・ 以下、繰り返し
現在、この陣地跡も発掘されてきているそうだ。
241 :
日曜8時の名無しさん:2007/03/20(火) 23:57:52.11 ID:u8y++FC6
空掘まで含めて「馬防柵」って言ってるんじゃなかったっけ。
まあ名前なんてどうでもいいけど。
野戦築城そのものは別に珍しいものじゃない。
小牧の戦いとか有名だよね。
>>237 >日本の戦いは基本的に死傷者数が少なすぎで
戦闘中に10人中2〜3人が怪我でもしたら怯みまくって総崩れは当たり前。
1割近くやられたら大壊滅。
川中島でも戦死した指揮官率いる兵士も戦死者としてカウントされているから
両軍死傷者合わせて八千以上の信憑性は激しく低い。
まともな学者で「日本の戦いは基本的に死傷者数が少なすぎで 真面目に殺し合いをしていなかった」
なんていってる人、聞いたことないんだが。
一般に第二次世界大戦でも死傷率が3-4割を超えると部隊は壊滅(組織的抵抗力を失う)とされていたんだから、連携(通信等)が貧弱な戦国時代では死傷率が2-3割で部隊崩壊(モラル崩壊→潰走)が起こっても不思議じゃないね
>242
実際のトコロはともかく、一般的な話しでは
川中島の死傷率は他の合戦のそれよりも遥かに凌駕して、八割を越えているって聞いたことがある。
242の言うとおり信憑性はどうか不明だけど、この数字はすげえ。
一般の合戦では死傷率一割を超えるような話しは、ほとんど無いハズなんだけどねぇ。
関ヶ原の死傷率も合戦の中では比較的高い方だと聞いたことがあったけど
それでも一割は超えてなかったはずだが……どこかに検証データ無いかな?
……でも「死傷率が少ない」「真面目に殺し合いしていない」ってコトはないよな。
誰だ、こんなこと言ったヤツぁ……。
>>239 ヨーロッパの場合、敵をぶっ殺すより捕虜にして身代金取った方が
儲かったみたいだからね。
第4回川中島合戦の後も武田上杉両軍ともすぐに軍事行動おこしてるから
それぞれ数千人もの損害うけてる説は怪しいのは昔から言われてるわな
248 :
日曜8時の名無しさん:2007/03/22(木) 00:20:40.08 ID:nUzto4nr
死傷者がどのくらいで士気崩壊するかというのも状況によるから、
交戦がエスカレートして激戦になった場合は通常よりも死傷者が高くなるのは十分ありうるけどね。
三割が傷ついたら必ず壊滅状態になるわけでもない。
逆に富士川の合戦みたいに一兵も失わないまま敗走してしまう場合もあったり。
(尤もこれについては秩序を保った撤退という説もあるみたいだけど)
ま、近代戦の部隊3割全滅5割壊滅論はそれで壊走するかってより常態で想定している部隊の機能がほぼ働かなくなるって意味だしな。
第二次大戦であれば、
数百人いた中隊が、残り数名まで減少するも依然戦闘中、なんて話もよく聞く。
フリードリヒ大王の時代みたいに横隊を組んで一斉射撃するような戦いでは絶対無理だけど、
個人壕を掘って拠点を守るような戦いなら数名でも戦闘単位になり得るし。
>>250 つうても、それは数名の残存兵士が敢闘してたことは賞賛されるにしても
その状態で中隊レベルの軍事行動が行えたかとは別の話ですな。
議論のすりかえを見た!
残り数人となるともはや部隊とは言えないのでは・・・・。
俺的長篠の戦いイメージの変遷
「マンガ日本の歴史」 和歌森太郎
↓
「影武者」 黒澤明
↓
「武田勝頼」 新田次郎
新田のでは既に
>>240に近い感じだったよね?
最初は、部隊の一割から三割が死傷すると戦意を喪失するかしないかの議論をしていたんじゃないのか。
数人に減っても戦い続ける実例を見て
「それは部隊とはいえない」とは、なんぞや。
最初から、二三割が死傷すると部隊としての統制が取れなくなるかどうかの議論だったのかよ。
そんなふうだからお前らは「ネット軍師」とバカにされるんだよ。
「数名」まで減るとさすがに「組織的抵抗」とは言えないが、
90%近い損害をこうむるまで部隊として戦線を維持するのもそんなに珍しい話じゃない。
『独ソ戦全史』から、スターリングラード守備部隊の損害の例――
第95狙撃師団:1942年9月末に7000人で到着、10月8日時点で3075人、10月14日に約500人になって交代
第193狙撃師団:9月27-28日に5000人で到着、10月8日時点で350人
第112狙撃師団:約7000人の戦力で最初(9月)から参加、9月29日時点で250人となりある混成部隊に編入、10月14日に交代
第37親衛狙撃師団:10月1-3日に7000人で到着、250人になって10月15日に交代
第13親衛狙撃師団:9月15-16日に10000人以上で到着、10月15日には数百人となる
これらの部隊はいずれも、ボロボロに傷つき後退しながらも、
スターリングラードを完全に明け渡すことなく、部隊の体裁を保ったまま交代している。
>>255 WWU時の3割壊滅の話を持ち出した奴がいるけど、それは戦意が喪失するかとか戦闘が継続するかどうかの基準じゃないって話だべや
そこに数人になって戦った事例を持ち出してもかみあってないよ
名前や住所が知られているワケでもない
誰が何を書いたのか、突き止められるワケじゃない
なのにどうしてそんなに必死なんだ。
長篠の合戦のときって馬場が殿を勤めて食い止めたから織田軍が引き返したの?
なんでそのまま甲斐まで攻め取らなかったんだろう。浅井朝倉なんて後回しでいいのに。
浅井朝倉?何言ってんだ?
261 :
日曜8時の名無しさん:2007/03/25(日) 22:33:59.10 ID:j0BFNPRD
戦術というんとは違いますが
具足姿の時に頬当てしないのはドラマの場合仕方ないんですかねえ?
切り込み隊みたいな連中が顔丸々晒してるのは奇妙といえば奇妙。
具足の意匠が武将ごとに独特なものならば
顔見えなくともとりあえず識別はできますわな。
でもやっぱ役者はTVに出る以上顔が見えなきゃ意味が無い?
ラストサムライの武士は頬当てしてましたよね。
角川の「天と地と」を所望と申すか
>>261 言っておくがNHKの所有する面頬のストックは少ない。
俺の記憶では大河では余り見たこと無いな。「政宗」で富田将監辺りが頬当てを当てていた程度で。
顔見せがメインだからだろう。
平蔵が頬当てしてたよ。
265 :
日曜8時の名無しさん:2007/03/28(水) 01:42:26.55 ID:Dl7uYWd3
>>263 大谷義継は定番でしょ。
半頬なら顔の露出度高いが、総面は眼以外は隠れちゃうからな。
面具って下に垂が付いてて首を護るから、合戦シーンなのに着用してないと、
顔面から胸元まで無防備で凄いマヌケに見えることがある。
機能的にも具足の意匠的にも重要アイテムだとは思うんだが・・・
うまく行かないかなあ
「あいつとララバイ」がノーヘルだったみたいなもんか。
鉄砲伝来はまだか?
通説どおり武田家は「使えんわ、こんなもん」
って言ってくれるんだろうな?
武田は川中島に鉄砲300丁を用意したが
>>230 濃尾平野の経済力だろうな。金は掘り尽くせば終わりだが
大河川が山の栄養を運ぶ地域では、稲作は尽きることなく、
同じ田で収穫が得られる。
そういえばフィギュアスケートの女子選手が名古屋に集中
しているのも、子供に習わせる資力があるからだろうしな。
他の地域じゃリンクすら維持できないのに。
名古屋は三世代同居が多くて住居費のコストが低く
トヨタがあるから経済的にも安定してて…とかいう理由だろうな
名古屋の三世代同居と言えば美宝堂だな、… 。
>フィギュアスケートの女子選手が名古屋に集中
これに関しては、伊藤みどりに銀メダルを取らせたコーチが名古屋にいるからでは。
浅田真央も中野友加里も同じコーチにジャンプを指導されてる。
大須のあんな狭いリンクで育つんだものな
コーチ力なんだろうなぁ…才能を見つける力だな
>>267 信玄は東国大名としては積極的に鉄砲を導入した方だよ。
>>275 だから「通説どおり」って書いてるんじゃないかしら?
もはやそれは通説とは言えない、と言いたいわけで。
>>275 当時の資料からは信虎の代に中国産の鉄砲が数丁あったという記録がある。
武田での導入エピでは
「これは唐物と違い存分に使える」
みたな台詞を入れてくれればな。
279 :
日曜8時の名無しさん:2007/03/30(金) 00:38:56.24 ID:2JCVDsoI
>>278 じゃあ「信虎が鉄砲伝来以前なのに領民を鉄砲で撃っていた」は
あながち捏造とは言えないんだな!
種子島以前に鉄砲が伝来していという説はあるもんな
>>279 ポルトガルからの伝来物以前の物は暴発しやすく安全性及び命中率の低いことから、
狙撃用には全く使えない代物。
使われるにしても嚇しや号令に使われたと思われる。
ちなみに記録では応仁の乱当時に石火矢なる物の存在が確認されている。
長篠の後って上杉が武田の援軍に行ったん?そのまま武田滅ぼせばええやん。
長篠後も別にいきなり激しく衰退したわけじゃないからな。
そんな簡単にはいかない。
なんで日本では盾使わないの?城攻めだと竹に藁巻いたのを盾代わりに使って
突っ込んでるけど白兵戦だと使わないのはなぜ?使ったら笑われるとか?
ヒント:長槍と盾を同時に効率的に使えるか考えてみよう
287 :
日曜8時の名無しさん:2007/03/31(土) 17:59:59.67 ID:LEugkzAw
鎧兜でもなぜワラジ?
足元狙われたらアウトでは?
288 :
日曜8時の名無しさん:2007/03/31(土) 19:07:50.90 ID:HRpa246u
まあ合戦なんてのはお互い脅し合いみたいなもんだからな。
ビビッて先に逃げ出した方が負け。残った方が勝ちみたいなもんだろ。
剣だって人を切りまくってたら刃こぼれしたり、折れたり。
槍だって同じでしょう。だったら盾で防御しつつ相手を叩いたりできるんだから盾最強。
たぶん
弓(鎌倉時代)には鎧の大袖で防ぐ
槍(戦国時代)は集団戦だから、盾が使いにくい
日本には槍の一騎討ち時代が無い(たぶん古代だけ?)
291 :
日曜8時の名無しさん:2007/04/01(日) 20:43:01.32 ID:PecuJjYj
ヨーロッパの長槍兵も盾は持ってないな。
まあ両手持ちだから当たり前だけど。
いくら盾持ってても、槍を使った集団戦でリーチが短いのは致命的だと思う。
戦国時代より少し前(13から16世紀ぐらい)の日本の以外の地域では、ほぼ盾かそれに準じるものが使われている。
欧州で盾を使わなかったのは甲冑を着た重装騎兵、パイク兵(地域によってはバックラーを装備。特にスコットランド)、一部弓兵ぐらい。軽装になればなるほど盾の使用率は高い。だけど、甲冑と火器の普及以後は廃れてくる。
秀吉が長槍より短い槍の方が強いって言って信長の家臣と勝負して短い槍で勝った
ってのは作り話?
多分作り話だけど、俺の知ってる話では
秀吉は長い槍の方が強いと言って長い槍で勝ってたぞ。
俺の知ってる話ではその決着のつき方が
短い槍を薦めるやつは兵士の調練を厳しくやりすぎて反感を買い
配下からそっぽくらってまともに戦ってもらえなかったのに対し
秀吉はみなに優しくして兵士から「こんないい人のためには一生懸命
やらねばなるまい!」とちゃんと戦ったせいで勝ったという
長槍と短槍の優劣には微塵も関係のない決着のつき方だった
なんか偉人伝シリーズ:対象年齢低学年みたいな本だったけどなw
人たらしでならした秀吉らしい逸話じゃ
実際のところ、リーチの長いほうが有利ではあろうが
一方で学園紛争のときには短いゲバ棒をふりまわしていた民青が最強で
長い材木を使っていた全共闘諸派を蹴散らしていた、なんて話もあるが
これは棍棒だから槍とは関係ないな
って戦国とは関係なさすぎるな
全共闘は、実際には、学校の椅子や机でキャンプファイヤーやって、
フォークソング歌って、セックスして、というだけの連中だったりするからな。
読んでた本もカムイ伝だけだったりするし。
ま、そんなもんだろうな。
革命ごっこが面白かったんだろうよ
実際ソ連とか中国はそれで政権奪取して
国がめちゃくちゃになっちまったんだがな・・・
まあ、それはそれで面白いのかも知れないが
のろしって雨のときも見えるの?
>>299 雨の日は無理。
風の強いときも無理っぽい。
矢って竹の矢しか使わなかったの?鉄の矢とかも使ってたの?
鉄じゃ重たくて飛ばないだろうが
第一、重心が先になくなっちまって・・・orz
映画「HERO」に出てくるみたいな鉄の矢は、弩じゃないと撃てない。
なんで日本では弩級が発達しなかったん?連弩とか使わなかったの?
あんまり風林火山と関係ないな…
そういう話をするならもっとふさわしい板があるだろう。
なんで長篠の勝頼は雨のときまでまたずに攻撃開始したの?重臣がいるんだから
だれかしら意見言うでしょ。ずっとにらみ合ってたら兵農分離できない武田が不利だから?
当日は晴れだったらしいぞ、それもピーカン
長篠の戦は武田が織田徳川連合軍を一挙に殲滅しようと
おびき出した戦いだった、、こう考えると突撃の意味が解ると思うよ
三方が原とそれ以後の信玄の行動と同じ目的だ。
>>306 鳶の巣山砦が落とされては長篠城と設楽ヶ原の間に居座っても孤立するだけでしょ
>>304 英仏の戦争をかんがみるに、
ボウガンより弓のほうが短時間で発射できるので有利なようだな。
武田が北条攻めて小田原城囲んだとき周りの町とか村、港とか全部焼き払ったり
略奪したりしたの?小田原落とせないのわかったなら全部燃やしちゃえば
北条が町の再興するのに時間かかるので有利かなって。
武田は囲んだってほど囲んでないけどな。
ほとんど眺めて帰ったに近い。
ある程度の破壊工作はしたかもしれないが大したことはできてないんじゃないか。
それになんと言っても総構えだし。
そもそも昔の町並みやインフラは今の目でみればお粗末そのものなので
破壊されても直ぐに復旧できるし。
江戸時代などの場合、大火があっても復興景気で逆に盛り上がるくらいだし。
そもそも小田原城は広すぎる
314 :
日曜8時の名無しさん:2007/04/11(水) 07:48:15.25 ID:u+/u6MaH
ほしゅ
315 :
日曜8時の名無しさん:2007/04/11(水) 08:06:30.42 ID:nfgz+oSc
当時の山城は曲輪が狭すぎる上に、各曲輪の側面が丸だしの構造であることが多いから
籠城と言っても大部分の兵力は麓にいて、それをなんらかの防御構造で囲ったのだろうな。
小田原城は広いからすべて城内に入れたかも知れんのう。
316 :
日曜8時の名無しさん:2007/04/11(水) 08:35:48.92 ID:3qgb4Fs/
>>316 すまぬが、腐女子がオダってる風のレスはニガ手でのう。
生理的に寒気がするのじゃwすまぬのうw
某、御館様は素敵ドS攻様と思っておったが、NYでの
「バァァーカ(そんな口説きじゃ落ちないぞ☆)」の可愛さに身悶えしておりまする。
攻慣れしていない缶と女王様受な御館様で一戦行った後、
小悪魔ドS御館様とビッチ乙女な缶でリバってくれると良い〜実に良い〜
教来石や勘助が間者うんぬん言ってましたが、当時関所とかはなかったのですか?
誰でも自由に他国に侵入できたのでしょうか?信虎追放の時は関所っぽいところで
信虎が戻ってこないように固めてた気がするんですが。
>>319 関所はあっただろうけど、流通など交通量もバカにならないから
スパイを遮断するのは最初から無理。
関所は通過する人から通行料金をとる目的もあるので、
人が通ってくれないと土木工事までして関所を作った大名等も困る。
ゆえに関所があるから人が通過できないということはない。
>>319 もちろん間者が侵入するのが簡単かっていうとそうでもない
謙信なぞは留守中に「国内に怪しい者を見掛けたら面倒起こす前に成敗致せ」(斬ってしまえ)
なんて書状を春日山に送ってるから、疑われただけで場合によってはアウト、侵入するにも命のかかったリスクはある。
入国はぜんぜん難しくない。
そのあと軍事機密を探る過程が危険かつ困難。
今の軍事独裁政権国家だって同じで、
商社マンなどに化ければ簡単に入国できる。
しかし、安易にスパイすれば直ぐにばれて殺される。
スパイってのはそういうもんだ。
大抵「軍師」たるものがいる国の君主は凡庸って聞きますが、切れ者の君主で
軍師がいたという国はありますか?伊達政宗の片倉景綱
だって軍師ってほどでもないしたいしたことないでしょ?
上杉景勝の直江兼続だって戦は下手だったらしいし。
>>324 中国の劉邦とか劉備のイメージが強いだけじゃね
日本の戦国大名って軍師がいても大名は神格化されてるよ
秀吉と半兵衛・官兵衛
信玄と勘助
謙信と宇佐美駿河守
ただし、大抵軍師の活躍は後世の軍学者があとから付け足したものだけどな
軍師なんて小説の中だけの存在だよ
>>324 釣りにしか見えねえぞ。
お前の言う軍師とは、一体どういう人間なのよ。
軍師とはそもそもどういう立場の人をいうのか。
安能務の春秋戦国史と中華帝国史を読むと理解できるよ。
若い晴信を差し置いて武田家を仕切って
結局変死することになったリアル板垣なんかがわりと近い。
占いや儀式を執り行う人
そういえば孔明も星を読んでたね。
____
/ \ /\ キリッ
. / (ー) (ー)\
/ ⌒(__人__)⌒ \ <上は天文に通じ、下は民情に悟し、六韜三略を諳んじ、
| |r┬-| | 弁で人を動かし、欲を持たず仁義忠義を思いやる。
\ `ー'´ / あまり目立たない人間のほうが良い。
ノ \ 張良より蕭荷、陳平のように。
/´ ヽ
| l \
ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、.
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
____
/_ノ ヽ、_\
ミ ミ ミ o゚((●)) ((●))゚o ミ ミ ミ
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\ /⌒)⌒)⌒)
| / / / |r┬-| | (⌒)/ / / // < 張良 だっておwwwwwwwwwwwwwwwwwww
| :::::::::::(⌒) | | | / ゝ :::::::::::/ ここ日本wwww
| ノ | | | \ / ) /
ヽ / `ー'´ ヽ / / バ
| | l||l 从人 l||l l||l 从人 l||l バ ン
ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、 ン
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
黒田なんて農民出身の猿を操ってただけ。
とても軍師なんていう大層な者ではありません。
333 :
日曜8時の名無しさん:2007/04/14(土) 10:08:54.85 ID:n+dnX0uo
厳密な定義があるわけじゃないし、
「ある勢力の最高権力者の配下で主に軍事関連の助言を行う者で、
集団ではなく一人でそれを行う重要な地位を占めるケース」
って辺りが軍師の大雑把なイメージだと思う。
で、封建制度下では、一軍の指揮官を兼任しても範疇に含まざるを得ない。
となると、要は他の家臣団より頭一つ抜きでた「ナンバー2」的立場の者は
自動的に「軍師」でもあると言っていい。
たとえ猪武者タイプであっても。
つか、無理矢理中国の軍師ポジション作ろうとしてデッチ上げたのが甲陽軍鑑以下の軍記だろうに
>>324 キャスティングと権限委譲を的確に行うのが有能なトップ。
有能な怠け者でググってみれ
戦に走ろうとする吉川元春を止めて忠実に毛利元就の遺言を守った小早川隆景。
336 :
日曜8時の名無しさん:2007/04/21(土) 20:27:06.66 ID:21ZlcuCq
age
337 :
日曜8時の名無しさん:2007/04/28(土) 12:15:04.97 ID:xzwfmncF
保守
わろす。。これが現実になってるじゃん。 次々回と大河だっけか?直江・・・・がんがれ!!
324 名前:日曜8時の名無しさん[sage] 投稿日:2007/04/12(木) 08:10:34.86 ID:zA6AR1/K
大抵「軍師」たるものがいる国の君主は凡庸って聞きますが、切れ者の君主で
軍師がいたという国はありますか?伊達政宗の片倉景綱
だって軍師ってほどでもないしたいしたことないでしょ?
上杉景勝の直江兼続だって戦は下手だったらしいし。
339 :
日曜8時の名無しさん:2007/04/29(日) 16:20:39.68 ID:Yar5u0Hk
>>338 謙信亡き後、越後上杉が対外戦で勝った戦はない。
全て、降伏だからな、局地戦の勝利は勝ったうちにはいらないからな。
川中島で氏政相手に完璧な夜襲で勝ってるだろ。
小田原征伐で南下しながら諸城落としていったのは勝ちとは言わんのか?
341 :
日曜8時の名無しさん:2007/04/30(月) 01:59:12.93 ID:l7MR+S3z
時代とともに勝利の形も変わる。
339の言う「勝利」は、基本的に群雄割拠時代でしか成立しないだろ。
戦略的な勝利を収めたり敗北を喫したりするのは秀吉や家康であって、
上杉家はそもそも局地戦しかできない立場なんだから。
初期条件は作戦能力と関係ないだろ。
大軍を擁しながら長谷堂で勝利できなかった山城愛
退却戦が上手だぁ?
戦略目的を達成できなかったんだろ。ぜんぜん自慢になんねーよ。
志村を評価する戦であって直江のそれを上下するものではないと存じます
玉砕しないで家康に謝罪に行ったのは評価できると思いまーす。
345 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/08(火) 07:55:19.05 ID:pUCcJ4me
age
346 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/17(木) 20:15:23.22 ID:0RusSbI0
保守
>>342 まぁでも最上義光だったかの兜に銃痕が残ってんだよね
当時の銃って射程が驚くほど短い
なのに総大将の兜にぶち当てる退却戦はなかなかのもんかと
5センチ下にズレてたら義光死んでたもんな
348 :
日曜8時の名無しさん:2007/08/03(金) 04:20:22.95 ID:miJvgwcV
age
349 :
名無し募集中:2007/08/21(火) 21:06:01.29 ID:ddjB5WRl
・川越夜戦の回、「足利・上杉連合軍あわせて8万」
とナレーションで説明していたけど8万というの
は兵糧部隊も含めて8万なの?
それとも、兵糧部隊を省いて8万なの?
・あと、上杉憲正の家臣が「北条氏康は、菅谷や小田氏(古河公方
方にいる)にも降伏する書状を送った」と言っていたけど関東に
北条と同盟を結んでいた豪族はいなかったの?
350 :
日曜8時の名無しさん:2007/08/22(水) 04:20:57.03 ID:FYDTkRTv
河越夜戦の直前まで北条氏康と同盟してたのが古河公方・足利晴氏(2人は義兄弟)
それが関東管領・上杉憲政側に寝返ったからこそ河越夜戦は起こった。
河越夜戦で関東方に付かなかったのは千葉氏だけ。