1 :
日曜8時の名無しさん:
ドラマであるとは判っていても、
あまりにも史実とかけ離れている。
こんな大事な話端折っていいの?
それを語りたい方々のためのスレです。
2 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/27(水) 09:34:27 ID:iXjfeYAX
まずは、他スレで散々ガイシュツですが
常盤はあの時期に死んでいません。
1185年頃、義経の行方を聞くため都で捕らえられたとの記録が
「吾妻鏡」に出ています。
3 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/27(水) 09:34:42 ID:PR6YxVIs
4 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/27(水) 10:04:24 ID:re8Xmgq4
>>3 重複してないと思うよ。
他は質問スレや単発スレだから。
5 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/27(水) 13:41:32 ID:5jr0c69E
吾妻鏡=史実か
ははは
6 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/27(水) 13:49:28 ID:yk4JikvO
>>5 かならずしもイコールではないが、
「吾妻鏡」は色々な「文書」を集めて編纂したものである。
「切り貼りの誤謬」や「北条氏にとって都合の悪いことの削除」
はあるが、
比較的信頼できる文書である。
8 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/27(水) 16:51:00 ID:AjkR8V+m
吾妻鏡=ウソでもないっしょ。
少なくとも>2の内容については、わざわざ幕府が捏造する必要が感じられないから
信用していいと思うが。
史実厨収容スレですか
10 :
ヤフー掲示板よりコピペ:2005/07/27(水) 17:17:32 ID:nfCkC5rW
ちなみに義経は清盛に育てられてもないし父などと微塵も思っていないし 弁慶や伊勢三郎義盛などの郎党は平泉に下る時に仲間になっていない
義仲と新潟の山中で会ってないし 義仲もあんな風貌ではないし死に方でもない
静も11人の女の一人で長く付き添ったのは川越重頼の娘であるしうつぼなど存在しない 清盛の小舅 時忠の娘をめとった(傲慢) よっぽどの女好きだ また実際の義経はあんなにおとなしくなく荒れくれ者だよ 鞍馬の頃から女と不倫してその夫を殺してるからね(逆切れ)
のちに京で頼朝からさしむけられた刺客 土佐昌俊80人の手勢を6人で迎え
「この頃日本国にて義経が向こうに立つ者があろうか いわんや昌俊法師ずれが」と蹴散らしてる(捕らえ六条川原で斬首)
何度も寡をもって衆に勝った者は天才で傲慢で謙虚であるはずはないのである
ドラマだから誇張はしょうがないとしてもイメージ・史実が違いすぎるし省略が多いため誤解も多い
典型的な史実厨だな
>>10 いちいちつっこむのもバカらしいが、物語の記述がかなり入ってるな。
13 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/27(水) 19:57:36 ID:4GFzj/wZ
>>10で脚本したら面白かっただろうね…特に最初の頃を希望します
>>10 読んでるこっちの方が恥ずかしくなるような典型的な史実厨だ。
15 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/27(水) 20:05:35 ID:QkWYOviN
史実がうそなんだよ
16 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/27(水) 20:06:52 ID:VQBflz+D
>鞍馬の頃から女と不倫してその夫を殺してるからね(逆切れ)
これの元ネタってナに?興味ある。
>>14 物語を史実と思い込んでる時点で史実厨ですらないような
>>16 義経記かなんかの皆鶴姫の下りを勘違いしたんじゃない?
少なくとも史実ではない。
鞍馬時代の義経なんて正式な記録は何も残ってない。
全部、物語か伝承。
夏だなぁ
19 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/27(水) 21:22:52 ID:4GFzj/wZ
朝廷・平家サイド&鎌倉サイド以外の義経情報って殆ど何も無いし…
史実・フィクション云々以上に面白い義経物語が観たいだけだが…
史実と物語を混同してる人が一番問題だと思う。
歴史系の掲示板でも平気で小説をソースにするのが居るからな…
小説を史実だと思ってたりするから史実「厨」と呼ばれる
常盤の死んだ場所も本当のとこはよくわからないんだよね・・・
源平の世界は終了した時点で既に伝説化が始まっている。
とくに義経については顕著だ。
ドラマ絡みで史実云々を語られると笑ってしまう。
>>23 義経は確かに伝説っぽい部分が多いけど、
政治史、文化史に関わる部分まで捏造しまくるはまずいしょ。
一応大河は時代劇ではなく歴史劇のはずだし。
まああまり細かいことにメクジラ立てることもないんだけど、
あんまりアフォ視聴者におもねてやりたい放題やると。。。
重衡と三種の神器の交換を平家方が拒否した大きな理由が
「一の谷で一門の多くが討死したのに今更重衡一人助かっても
仕方がない」ということなのに、一の谷の戦死者をスルーしてるから
それが言えないじゃないか。
つーか、重衡←→三種の神器ってほんとなの?
全然バランスとれてねーじゃんw
>>27 何かの史料(「吾妻鏡」か「玉葉」)に書いてあったような気がする。
バランスも何も当時の朝廷は「三種の神器」を取り返したくて必死だった。
ちなみに、ドラマでは義経がその案を提案していたが、
「鎌倉方は重衡←→三種の神器」案にはノータッチ。
ここでも、史実捻じ曲げしていた。
つまりは朝廷が三種の神器を安く買いたたこうとしたわけだ
史実捻じ曲げ・・・って、
膨大な源平争乱時代の逸話から取材して創作した小説を、
さらに脚色したドラマ化したものに何を言うのだ。
未だに大河ドラマを史実だと思っているじじばばがいるみたいだな
32 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/30(土) 15:22:06 ID:aXSiZJdh
ご都合主義ってこったろ
糞主人公を美化するために史実を変えてるその動機が臭い
陳腐な理由で史実をいじるなということだろう
ドラマとしても薄いくせに史実まで無視してどうする
史実云々よりも最近の大河ドラマは余り面白くないのも事実だな。
>>32 現在起きていることですら捏造だらけなのに、テレビに対して期待しすぎだよ。
弁慶は矢に討たれても仁王立ちか?
37 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/30(土) 17:36:45 ID:qozrUSDt
ガセビアの泉
そう言えば、勧進帳を史実通りにやれと言ってた奴がいたな。
史実と言うより誰でも知っている定番の見せ場ってあるっしょ。
「宇治川の先陣争い」とか一の谷での諸々のエピ飛ばして、見え
透いた義経美化をしていることを>32は言ってんじゃないのかな。
いろいろな源平エピも捏造といえば捏造といえるかもしれない
けど、それを愛してきた日本人の心つーもんもあるわな。
40 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/30(土) 18:39:28 ID:GmMDa+Vl
次は屋島を捏造
義経ファンを満足してもらうために、ありとあらゆる場面を
義経の活躍の場にしたかったんじゃないかな。
義高助命の件も、義仲との対面の件や義経の人徳高い設定も。
あくまでも義経メインのストーリーだからね。
イメージをもっとアップさせる為に、がんばって脚本、演出
スタッフも現代風にアレンジしたんだと思う。
史実無視でも構わないよ。義経美化したっていいよ。
面白くしてくれたらね。
でも、個人的に面白くないな。
42 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/30(土) 19:16:37 ID:tlKJaKjp
少なくても善人=魅力的な人間と勘違いして美化しまくる傾向は最悪だよな。
かつて絵に書いたような善人だった大河ドラマの春日の局と、方や史実や残っている逸話などのイメージ通りの悪女だった大奥の春日の局。
どっちが素晴らしいキャラだったのかは言うまでもない。
義経も清盛の息の根必ず止めてやる!!みたいなキャラのほうがはるかによかったな。
ますらおの義経みたいな
43 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/30(土) 19:26:45 ID:7xMIAZHr
義経元服の際に父の義と読経の経で義経と言っていたが、司馬義経では経基の経だった。
史実ではどうなの?
>41
大河はいつもそんなもんだね。
創作として面白ければOK。ドラマだからな。
45 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/30(土) 19:34:36 ID:48bmlqC0
義経を美化善人って頼朝も平家もほとんどみんな美化善人化されてるが?
ほんと見てる?
>>42 同感。
人は、時に善人より悪に強く心を引かれる部分だってあるもの。
以前、どこかで同じ事書いたけど、風と共に去りぬだって、
善人で貴公子のアシュレより、ワルのバトラーの方がはるかに
キャラとしても人物としても魅力的だった。ヒロインのハート
を最後に射止めたのも、ファンの心を掴んだのもバトラーだった。
時に、善人=つまらない人物 になりうるということも制作する人
は分かって欲しい。
清盛と頼朝さえ、下手に善人にすることで翻って魅力に欠ける
面白くない人物になり下がっている。
>>43 史実は義経じゃないからな
義顕じゃなかったっけ?
>>47 それは義経逃亡中に朝廷・鎌倉が勝手に改名。
九条兼実の息・良経をはばかって。
49 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/30(土) 20:49:51 ID:GmMDa+Vl
アイドル板で出た最終回義経達がモンゴルに行くという話しは本当ですか?
>>43 史実っていうのが微妙なんだけど、玉葉や吾妻鏡では義経になってから登場しているからね。
義経記でも「義経」の名前の由来までは語っていない。
ちなみに義経記では、義経は義朝の八男としている。九郎と名乗ったのは、
叔父さんの鎮西八郎為朝に遠慮したから。
「義」は源氏の通字だからわかるけど、「読経三昧だったから『経』」
ってのはないと思う。
早世した義門を知らなかったんじゃないか<義経記の作者
ちなみに学問的には、義経は義朝の九男にほぼ確定してるよう
だが。
ちゅーか、義門って本当にいたのかギモーン。
義経が九郎と名乗っていたから尊卑文脈が適当にこさえたんじゃないの。
53 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/30(土) 22:04:57 ID:MIlnn9RV
義門って頼朝と稀義の間でしたっけ。なんかふしぎな存在だ・・・
54 :
ペクチョン:2005/07/30(土) 22:19:05 ID:fciIiG4H
オレは大河ドラマこそ『史実』だと思っている 教科書の歴史なんて信じない
大河の義経は史実だと思っていらっしゃるの?
>>54
56 :
ペクチョン:2005/07/30(土) 23:03:23 ID:fciIiG4H
>>55そう 大河ドラマは教科書では教えてくれない歴史だと思っている
私は大河の義経で学ぶのもなんて無かったよ。
58 :
ペクチョン:2005/07/30(土) 23:14:14 ID:fciIiG4H
このドラマのおかげで義経の苦悩がよくわかった 京都での法皇様とのやりとりとかね
じゃ、本スレで語ってください。
60 :
43:2005/07/31(日) 01:23:14 ID:3Tt/ZQar
色々サンクスです。司馬義経の命名の由来は納得できましたが、大河は流石に無理だろって思いました。
ホントは○経って烏帽子親がいたって可能性はないんでしょうかね?
61 :
50:2005/07/31(日) 03:07:27 ID:+PMfs/a0
俺が知ってる義経の元服話は、あと平治物語にあることしか知らんのさ。
そっちには烏帽子親は居ないからね。
今回の大河でスルーされた元服伝説地の滋賀県の鏡の宿も平治物語に拠ってる。
俺は司馬ファンじゃないけど、義経の名前の「経」の由来は経基から採った説を
支持するよ。
烏帽子親や名前の由来について、その他になにか伝承でもあれば別だけどね。
62 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/31(日) 07:58:40 ID:huYnm9oa
なんで義経なんて大河にしたのか
おもいっきり子供向きじゃん
幼稚杉
63 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/31(日) 08:20:46 ID:cPl58Nyr
ID:fciIiG4H在日はろくに日本の歴史も勉強していないんですか?
64 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/31(日) 08:37:51 ID:cPl58Nyr
つーかこのドラマの義経郎党ってろくに訓練もせずに合戦だといつも敵をバッタバッタ
倒してるけどそんなに強かったの?とか誰もつっこまないね
義経や弁慶はともかく喜三太や駿河次郎みたいな脇役キャラがケガの一つもしない不思議
そういう描写さえ入れればもっとリアリティあるのに
65 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/31(日) 09:54:11 ID:YIuzq3Bb
>>62 幼稚なのは脚本家の力量。
きちんとした脚本家がついていれば美味しいドラマになったはず。
そうでなければ1000年も判官贔屓なんてされないでしょう。
史実厨
振りかざすのは
遼太郎
>>63 在日は日本の歴史ではなくて半島の歴史を勉強しています。
従って日本の大学受験には不利です。(受験資格があるかどうかはともかく)
昨今は彼らに受験資格を与えようという話もあるようですが。
史実厨
見てきたように
語りだし
アンチスレが閑古鳥だな。
70 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/31(日) 15:03:11 ID:gyM3cCv3
義経の進軍ルートについて謎が多い一の谷合戦。
その真実を検証するために、このスレの住人でツアー現地組むべ。
71 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/31(日) 15:10:01 ID:CMFzvn2S
ドラマではマンガのような蛭子のオッサンが演じる義経の義父の一条長成こそが
実は義経と奥州を繋げた張本人で
義経自身この義父の援助に助けられていることがドラマで描かれないのがちと残念
>>70 いいね、いいねー。
あのルート、レンタカーでも借りないと行けないんだよな。
免許持ってないからタクシー代かさみそうで行けないんだよな。
ぜひ幹事で音頭とってくれ。土日なら行く。
73 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/31(日) 15:39:36 ID:6pXevVWB
>>70 やっぱり〆は鵯越の逆落としだな!
もちろん自転車で。
74 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/31(日) 15:40:24 ID:6pXevVWB
>>71 蛭子嫌いだけど、あの一条卿は好きなので、
あんな調子でさりげなく奥州に連絡したりして欲しかった。
細かいことだが
「公文所」は8月(義経の検非違使事件とほぼ同時期)に
「問注所」は10月に
開設されている。
76 :
日曜8時の名無しさん:2005/07/31(日) 22:19:36 ID:49GUM5r4
義経「肉親の縁に薄く、兄弟とも別々に育ち」
ウソ。
異父同母弟の一条能成とは鞍馬に入るまで一緒に育つ。
能成は義経が都落ちしてもとことん付き合い
流罪にまでなっている。(後に許されるが)
>>76 その場合の「兄弟」は義朝を父とする同父兄弟のことだろ。
義経が鞍馬に入った頃に能成はまだ年端もいかぬ幼児。
肉親の縁なんて感じる暇はなかったんでね。
78 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/01(月) 01:45:15 ID:mq3qQiFn
>>77 確か、弟は義経が2歳ぐらい時に生まれたんじゃないかな?
あまり離れてないよ。
79 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/01(月) 07:33:44 ID:liBSpQsW
>>77 当時は、父が同じでも母が違えば他人同然。
一方、父が違っても母が同じならば親しい。
当時は母の元で子は育つので上記のような状況だったらしい。
80 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/01(月) 07:35:51 ID:liBSpQsW
昨日の放送の中で
義経が夜盗一味と話をして自分と手を組んで
取り締まりに協力してほしいとの部分があった。
実は、平安時代では「放免」という
前科者やその筋の有力者を検非違使庁が既に召し使う
システムは既にあったのである。。
つまり義経が改めてその作戦を出すまでもないことだった。
また、その作戦をすでに使ってのに
平安時代の都の治安は悪かったのであるから
義経の作戦は功を奏さなかったであろう。
>>78 常盤はそのまえに清盛の子も産んでるから
もうちょっと離れてるはず
>>81 「公卿補任」に能成の生年が記されている。
それによると
1163年生まれで、1159年生まれの義経と4歳しか違わない。
7歳で義経が鞍馬に入ったとしても(11歳説あり)
2年くらいは兄弟として育った。
(少なくとも能成がしゃべり始めるくらいくまでは)
その後も一条長成の庇護を受けて義経が育ったらしいこと
能成が義経が落ちぶれてもとことん付き合ったことを考えると
兄弟としての交流があったと考えるべき。
私は兄弟としての交流を否定してませんよ
2歳ころって発言があったから
もうちょっと離れてないかって言っただけ
84 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/01(月) 09:02:37 ID:Ojv0Xv/d
82です。
はやとちりスマソ
夏
頼朝はいつ「勅勘」を解かれたの?
大事なことだと思うんだが。
87 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/01(月) 21:58:39 ID:p6LF5D3I
義朝&常盤、常盤&一条長成、一条と奥州、その辺のかかわりについては、
NHKブックス「義経の登場」で勉強しましたか? ちょっと難解ですが、
>>80 あの話は「放免」云々以前にかなり話としておかしい。
チンピラならともかく、「京の闇の世界を押さえ」ていた連中に
とっては、内乱中の混乱は、いわば「自分のショバが荒らされている」
状況なわけで。
自分のショバを自分で荒らしまくるヤクザなどいないでしょ?
普通の感覚をもった脚本家ならば、朱雀の翁の方から、
協力をもちかけてくる、という話にするはず。
>>86 1183年に出させた「10月宣旨」で勅勘が解かれて元の官位に復帰しました。
91 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/02(火) 08:57:05 ID:Ic0zxVzZ
>>87 その本はかなり難解ですね。
それに、保立氏の新解釈も入りまくりでこれから学界にて
検証される内容も多そうですね。
92 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/02(火) 09:05:08 ID:Ic0zxVzZ
連投申し訳ないが
個人的にお勧めな専門書(でないものもあるが)
超入門「再現 日本史 平安7-鎌倉・室町1」 講談社
入門 一連の永井路子の本「もののふたちの賦」「源頼朝の世界」「歴史を騒がせた女たち」など
中級「武家の棟梁源氏はなぜ滅んだか」野口実 新人物往来社
やや詳しい人向け
吉川弘文館「日本の時代史 7」
中央公論新社「日本の中世 8」
など
93 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/02(火) 09:09:08 ID:o6QFAll5
朱雀の翁撲滅運動!
史実よりも伝説の方が遥に親しまれている人物を
ドラマにするのって難しいよな。
日本の歴史上の人物で圧倒的な知名度を誇りながら
実際、義経の何が凄かったのかっていうのは
こういうドラマとか司馬本とかが入門書になって
初めて気づかされる人の方が多いのだろう。
95 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/02(火) 10:58:13 ID:G3sUjcg+
「義経」「義経」って、漢字が先行するが、
当時は「音」も重要。
親父の義朝の「義」=「よし」
母親の常盤の「常」=「つね」(同音の源氏伝来の「経」に変更)
96 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/02(火) 11:08:04 ID:G3sUjcg+
あ、上の説はうちの大学の先生の説です。
>>91 系図のオンパレードでしたな。
当時は婚姻対象の範囲が狭いんだから、
多かれ少なかれ縁続きではある。それをああも意味ありげに
解釈されたのでは、、
とうちの先生は講義で爆笑されておりました。
ところで同時代の山本義経の片諱の由来はどっからと考えられているの?
>>95 >親父の義朝の「義」=「よし」
>母親の常盤の「常」=「つね」(同音の源氏伝来の「経」に変更)
3人子供いたんだけど、上二人は坊主だから除外?
99 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/02(火) 20:17:58 ID:qxOTzSkV
>>83 マジレスするが常盤が清盛の娘産んだというのは史実ではない。
なぜなら廊の御方は実在してないという説もあり、また常盤の子ではないという説もある。
そして義経と能成は三歳違い。義経が二歳の時には常盤は再婚してた。
能成は生年もはっきりしていて、ゴマキ演ずる廊の御方は生年がわからず、能成と義経の年齢差を考慮して少なくても能成が生まれる一年前には生まれていたはずという逆算で生年が決まられたほど。
よって義経が7歳のとき鞍馬にいったとき能成は四歳なので、兄弟の情がわく年齢としてはギリギリOKだろう。
(三歳くらいならさすがに記憶ないだろうがな)
清盛的には2、3発やって「ぽいっ」てとこかな
103 :
ペクチョン:2005/08/03(水) 04:15:28 ID:07BpFIHn
>>101のスレの連中は歴史の知識ありすぎ 全然入り込めない
あそこは煮凝った歴史マニワのすくつだからな
史板には近づかない方が良い
ナニゲに研究所の受け売りばっかなので
そなたもネタ集めて自分なりの解釈を展開すればヨロシ
書
あ、言っちゃったw
筋が通った事書いてるヤシは単なる先学の受け売りだし、
独自の節を披陳してるヤシは根拠もない脳内妄想、というのが現状さねーw
ここが史実と違う、というと「ドラマだからいいじゃん」と
いう答えが返ってくるが、じゃドラマなら何をやってもいいのか、
と聞きたい。
それなら義経だって平泉で死ななくてもいいだろう。
「いや、それは変えられない」というのなら、「変えてもいい史実」
と「変えてはならない史実」の境界線はどこにあるのかと聞きたいね。
結局製作者が恣意的にその境界線を引いてるだけじゃないか。
110 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/03(水) 20:59:47 ID:JU6q7NAk
廊の御方って架空人物だったんだね。
自分もむかーしだけど、ある本で(名前忘れたけど)常盤が子供の命と引換えに愛人になったという説だが、廊の御方は実在しない可能性の高い人間なので信憑性がないというのを読んだ事がある。
まあ能子ってわかりやすくいえばうつぼ同様オリキャラって可能性高いってことだよね。
万が一実在してたとしても義経との間に全く兄妹の逸話がないキャラなんだからいらねー。
111 :
おぼろ月夜:2005/08/03(水) 21:47:09 ID:cuqLmC/P
阿野全成って頼朝の陣営に加わってから、ずっと鎌倉にいたようだな。
ところで、全成は義経がまだ京にいた頃でもいいし、その後頼朝が入京
した時でもいい。自分も京に行き、常盤御前と会ってみたいとは思わなかった
のかな?
112 :
おぼろ月夜:2005/08/03(水) 21:55:08 ID:2puCd6+a
源頼家の乳母さんは4人。
比企能員の妻
河越重頼の妻
梶原景時の妻
平賀義信の妻 さて、この人たちの夫君は最後はどうしたのだろうか?
ドラマに出ているのは今のところ、梶原だけだが・・・
そりゃいつの時代だってママにゃ会いたいだろうよ
河越は背中だけ、平賀は台詞で出演しとるw
比企枠は比企禅尼で終わりなので安達盛長が兼ねておる
114 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/03(水) 23:38:11 ID:hlymiREx
>>112 河越重頼の妻は、比企尼の娘で義経正妻の母のはずだがな。
義高殿と大姫様の守り役をおおせつかるより、
跡取りである頼家の乳兄弟を嫁にもらったってほうが凄いと思うが。
なので、重頼は死ぬような気がした。
んで、その妻が所領を引き継ぐんだっけ?
とにかく女が引き継いだような。
>>114 「はずだ」とか「ようだ」とか
もっとちゃんと認識してから書き込めや。
116 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/04(木) 08:48:36 ID:fSHX4CA4
>>109 激しく同意です!
私の言いたいこと巧く表現してくださってます。
>>112>>114 梶原景時 頼朝の死後他の御家人から弾劾をくらい、頼家が庇いきれずに失脚
その後謀反を企てたとれるが、駿河で一族全員討ち死に
比企能員 頼家の乳母夫、頼家の側室の父、頼家の継子の祖父として権勢を振るうが
北条をはじめとする多くの御家人の反発を食らい
頼家が病気になっている間に謀殺され、
一族は「比企の乱」で滅亡する。
なお、彼は比企家の当主となっているが
比企尼の甥で、比企尼の実子である三人の娘たちとは従弟にあたる。
河越重頼 妻は比企尼の次女
娘が義経の正妻であったため義経の舅として連座
蟄居の後殺されたものと思われる。
遺領はその母に引き継がれた。
その後一族は御家人として復帰。
平賀義信 妻は比企尼の三女
頼朝の信頼が厚く、また御門葉として一族扱いされる。
一の谷の恩賞で武蔵守となる
また、武蔵国守護ともなる
この国司、守護としての働きも頼朝の意に沿うものだったらしく
「吾妻鏡」で義信のことを非常に誉めていたとの記載がある。
しかし、頼家の乳母夫してはあまり目立たない
むしろ息子の朝雅が北条の婿になったので
北条ー実朝のラインに近い傾向があった可能性がある。
没年は不詳
>>111 全成の娘が都の公家に嫁入りしています。
もしかしたら、そのとき
娘に付き添って都に行ったのかなー
なんて空想したりもするのですが・・・
>>117 ×その後謀反を企てたとれるが
○その後謀反を企てたとされるが
120 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/04(木) 09:49:53 ID:d35kGiPK
>>117 昔の大河の「草燃える」に出てくるストーリー展開だな。
あれは頼朝死後の展開もずっとやっているから。
公家の日記いっぱいあるし読め
古文書も鎌倉遺文で活字になってるし読め
がんばれ史実さん
>>109 別に義経が平泉で死ななくてもいいよ。
ドラマだし。
123 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/04(木) 16:52:26 ID:0huzfLtu
大河ドラマが歴史ドラマじゃないのならきっと壮大なファンタジーですね
時宗はまさにSおだいなFァンタジーだったよね
>>122 ヒガシ主演「源義経」だと、平泉で死なないんじゃなかったか?
見たことないけど。
126 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/04(木) 18:15:53 ID:tq/eDXxM
>>125 あったなそれ。たしか死ななかったよ。
政子に逃がしてもらった静御前と途中合流して逃げ延びるような終わり方だったように記憶してる。
史実ヲタ、史実ヲタと馬鹿にしている人は、何が気に入らないのでしょう。
>>127 なぜ馬鹿にされてるのか、わかんないの?
私史実詳しくないのでわかりません。
130 :
おぼろ月夜:2005/08/04(木) 20:04:47 ID:NkBFG80C
全成出して、常盤をあんなに早く殺さない。後日談でふたりがあったと
する。こんな会話が。
常盤「おまえが頼朝殿の側にいたのに、何故義経との仲をどうにもできなかったのじゃ」
全成「私も今回娘を嫁がせに京にまえりました。もし私が鎌倉どのにアレ以上意見したら私も
どうなったかわかりませぬ。討て、と鎌倉どのに言われて断った蒲殿も叱責されました。
私も人の親、娘の為にも生きなければなりませぬ」
常盤「ただ子の為に生きたいというは、いいわけぞ。わらわが自分を犠牲にしてまで、お前や義経
を救ったものの、こんな末路とはな。お前は今回生き延びたが、名前が後世まで残るのは義経の
方じゃ。お前は忘れ去られるであろう」
常盤、全成からかって自分が義経からもらったものだ、といい形見の品を渡す。泣き崩れる常盤。屋敷を
去る全成。
重々しいナレーションで、阿野全成は持ち前の用心深さで頼朝時代は生き残ったが、その後政争に巻き込まれ
殺害された。
「祇園しょうじゃの時の声〜〜〜」大河ドラマ「義経」 完
とまあ、こんな終わりもおつなものだったのでは。
131 :
史実さん:2005/08/04(木) 20:58:37 ID:WpivTaXD
↑諸行無常の響有り
133 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/04(木) 23:26:46 ID:HEylOOZj
祇園精舎のときの声って、なんか勇ましくていいな。
エイ、エイ、オー!@祇園精舎
134 :
ペクチョン:2005/08/04(木) 23:29:22 ID:xGshVBCU
『義経の遺体 札幌で見つかる』などというニュースが流れたらドラマのスタッフは大慌てだな
義経の遺体は既に北京で見つかってますが
136 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/05(金) 17:39:41 ID:h8TQ95yR
???
北海道の各地でも見つかっているよ
138 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/05(金) 20:47:36 ID:tENsQiLQ
タッキーの腹切り、晒し首キボンヌ。
2chのオタの声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の如き煽り合い、盛者必衰の理を顕す。
奢れる人も久しからず。ただ夏休みの夜の夢の如し。
ヒマな厨房も遂には亡びぬ
一重に風の前の塵に同じ
かなりいまいち
諸行無常は言い得て妙なり
141 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/06(土) 00:43:35 ID:gcqVI6TH
新撰糞、糞経に続き来年は『功名が糞』が始まります
142 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/06(土) 07:13:31 ID:Aqd9iGii
143 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/06(土) 13:47:38 ID:luDxL78d
史実じゃなくてもいいけど、
平家物語の通りにやってほしい人は多そうだねー
144 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/06(土) 18:48:02 ID:nnRh1vAQ
これ見るくらいだったら図書館で平家物語を借りた方がイイとさえ思う。
うんや
>>144 おとっつぁん
それは言わない約束だよw
ヘイケガニのエピソードはやって欲しい物だ
最近思うこと。
義経人気って、実は梶原の最期が微妙に影響してるような。
他の御家人に嫌われて殺される→梶原はあんまりいい奴じゃなかった(と後世には思われる)
→義経に関してもあることないこと言ったんじゃないか
→義経可愛そう、梶原の言うこと鵜呑みにする頼朝もどうかと
という感じで。
仮に梶原が嫌われるような人物でなければ、義経にも問題があったかもで
少しは公平に評価されていたような気がする。
史実もこの話も、頼朝は政権構想はあったかも知れんが、人を見る目は「?」だなあ。
150 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/08(月) 06:59:11 ID:ZIe9dPD+
>>148 ていうか頼朝って何とか義経を失脚させるような口実を常に探してたんじゃないかな?これは他の異母兄弟たちにも同じで。梶原はそんな頼朝の気持ち知ってたからわざとイロイロ。。。
151 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/08(月) 07:43:58 ID:iK7xD/4O
梶原は弁舌鮮やか、学識があって優秀な人物だって書き残されてる。鎌倉武士の中では珍しいタイプで、それゆえ頼朝も重用したんだと思うが。
それから、頼朝が兄弟潰しをやったのは確かだが義経も鈍感すぎた。義経は幕府による武家政権の構想を理解できぬまま、貴族的価値観で破綻していった。
そういう意味では、義経のスタンスは平家に近かったのかもしれない。
景季が景時に逆らって義経についていきましたが、
史実的にはありえないでしょう。
当時は「親の力」が絶対的で子が親に逆らうということは
ありえない時代。
(政子が親父殿を追放したなどは非常に例外的な措置)
景季が景時にさからって義経についていったとしたら
景季は父の所領をもらうことができなくなってしまい、
「廃嫡」扱いになったと思う。
何かの本に、「梶原悪、義経善の判官贔屓の基を作ったのは『吾妻鏡』だ」って
書いてあったな。それまでは、「平家物語」なんかだと、梶原は義経を讒言
はするけど、風流で勇猛で武士の鏡のような男に書いてある。
それが一転して、「吾妻鏡」には、梶原がずいぶん悪辣な人間に、義経は
爽やかな戦の天才児、というふうに書いてある。まあ、頼朝死後に梶原は
北条氏を中心とする御家人たちに滅ぼされるから、よく書いてるはずないんだけど、
それにしても、同じく鎌倉幕府に滅ぼされた義経が良く書かれているのが、
何となく薄気味悪い、だから、あまり「吾妻鏡」の記述は信用していないのだ、
とその本の著者は書いていた。
多分、「吾妻鏡」の編纂者が、「平家物語」に書いてある景時像を参考にして
もっと人物を悪く書いたんだろう。
>>153 たしかに「吾妻鏡」は義経に同情的だと、よく言われているみたいですね。
>当時は「親の力」が絶対的で子が親に逆らうということは
>ありえない時代。
>(政子が親父殿を追放したなどは非常に例外的な措置)
説得力ないなあw
>>155 そうかな?
当時は自分の所領を子供たちにどう分割するかを決するのは親の胸三寸。
父の死後は母がその権限を代行。
子供が若い頃の官位を斡旋するのも親。
どうみても親の方が子供よりも大々的に権限がある。
政子の場合は政子のおかげで北条が大きくなったという点から
政子>>>>>>>>時政
という例外的に親子の力が逆転していた状況があったからだと思われる。
156補足
ちなみに当時の北条は
頼朝の姻戚、実朝の外戚という点が
他の御家人に伍する重大な立場だった。
つまり、政子抜きには幕府で重きをなせないといった点も
考慮すべきだと思う。
つまり、北条あっての政子ではなく、政子あっての北条だった。
>>153 ただ景時は吾妻鏡以外の史料でも悪く書かれてたりするからなあ。
まあ、あえて憎まれ役を買ってたのかもしれないけど。
>>152 ごく普通に、景時の立場になって考えればいい。
自分は義経に対する戦目付け。意見があわず、大将軍だけ少数の兵で
嵐の海に跳び出て行ったとして、もし、海難や、戦闘で彼らが全滅し、
自分が生き残ったとしたら・・・。
どう頼朝に申し開きする?
朋輩の「臆病にも大将軍をみすておったわ」というあざけりに
どう反論する?
逆に、彼らが大戦果をおさめれば?
って史実ではそうなったのだが、頼朝にどう申し開きする?
「臆病もの」「大将軍のすばらしい戦法も理解しないおろかもの」
という朋輩の罵りにどう対応する?
答えは簡単。
自分の長男をつけておけば、全滅すれば「わしは嫡男を失ったのだ」、
戦果をおさめれば、「景季もそれなりに働いた」
どっちにころんでも、いくらでも言い訳がきくのですよ。
「史実的に」十分ありえる話ですわ。むしろ、景時の方から景季に
命令して義経についていかせたっていうほうが、ドラマ的に深みが出ると思いますわ。
>>159追加。
実際の「史実」や平家物語で景季がどう行動したことになってるのかは
存じませんが。
平家物語は遊行の盲僧が語っていた仏教説話文学です。
>>160 存じない人が語るスレじゃありませんことよ。
163 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/08(月) 21:39:43 ID:bD3QqNnY
ところで、ごく少派である所の
義経と共に嵐の海に突入部隊の中に
何故与一がいたんでしょうかね?
○『延慶本』・『盛衰記』
景時・景季・景高・景茂と義経対立、義経に従った人物の交名に父子の名前無し
○『覚一本』、『鏡』
この前後、景季登場せず
あとはシラネ
つーか、屋島前の「逆櫓」談義は非合理であって、景時と義経の対立の
前フリたる創作!ってのが割と有力かと存じますが。
165 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/08(月) 22:51:53 ID:pFa2ytAI
>>150 失脚させるぐらいなら最初から登用しないよめんどくさいから。
自分でひっぱりあげ、身内同然の娘を嫁にまでやってるんだから、
義経が無断任官したり反逆の院宣をもらったりするまでは信頼してたんだろ。
166 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/08(月) 22:53:10 ID:pFa2ytAI
>>161 作ったのは貴族だったような。
名前忘れたけど。
>>166 信濃前司行長が有力だってだけで定説はないんだよ。
半年ROMっとれ。
>>165 頼朝追討の院宣は「頼朝に命を狙われたから、もう院宣をもらうしかない」といった内容のことが、
義経自身の言葉で語られてます(「玉葉」元暦2年10月17日)
>>149 ワロス
「音撃斬・雷電激震」で殺られたわけですね。
>>168 どうやら、壇の浦あたりが決裂の決定的な時期だったようですね。
無断任官した後も京都守護としての義経の権限は以前と変わらなかったようですし。
壇の浦の後、義経を追い詰めて挙兵に持ち込むという線もありかもしれません。
ただし、「吾妻鏡」は義経に同情的な部分もあるので
他の史料にどうかかれているかが非常にきになる部分です。
>>168 「玉葉」には
「さしたる咎がないのに頼朝追討の院宣を出すのは何事」とも
書かれていますね。
>>172 「玉葉」の著者、九条兼実さんは鎌倉寄りの公家なので、そういう書き方を
したのでしょう。
景時もかわいそうな奴だよ。
ただ義経の戦法が新しすぎるというか、あまりにも天才だったので当時のおかたい人間には受け入れられなかっただけだと思う。
小泉さんじゃないけど、ガリレオだって当時は周囲にボロクソにいわれてたし。
モーツァルトとサリエリの関係も思い起こさせる
小泉と静香の関係も思い起こさせる
長州力と佐々木健介の関係も思い起こさせる
178 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/10(水) 23:34:05 ID:drhql9z3
無断任官は「無断」ではなかったという説が近年は有力です。
また、景時も親京都派です。となると…。
やはり北条を中心とする東国田舎武者どもが、
本来、親京都&源氏の世を作ろうとしていた頼朝を束縛したの?
179 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/11(木) 00:18:15 ID:f0i5ut5Q
>>163 扇の船が出てきた時に義経がどうしようかと迷っていると
後藤兵衛なる人物が義経に「下野国の住人の奈須太郎助高
の子に余一という者がいてこれが弓を射るのが上手いです」と言ったので
おおそれならその与一という者をここへ呼べということになり与一が
義経の前に出てきたのが平家物語に書かれているので、
与一は誰かの家来として鎌倉軍に加わった。
↓
与一の従っている人が義経についていった。
↓
家来の与一もついていった。
こんな感じでは?いやよく知らないけれど。
いろんな意味で義経はスケープゴートにされたのだろうな。
義経追討を口実にして全国に守護を配置して幕府の基盤を
強くできるわけだから。
家康が豊臣家を滅ぼしたのと同じような感じがする。
もし仮に、三種の神器を完全な形で取り戻していたらさすがに
頼朝も許さざるを得なかったのだろうが・・。
>>172 しかし九条兼実は義経に対しても、「たいした過ちも犯していないのに頼朝に命を狙われることになった」とも書いてる。
義経と頼朝の決別は頼朝派の公家でさえも何が原因なのか、ハッキリ分かってなかったのかも。
>>180 私は頼朝は実は義経を泳がせていたような気がするんです。
義経を捜索するという名目で色々と権益を得てきましたから。
そして、最後は奥州に行くように一本だけ逃げ道を用意しておく、と。
その目的はもちろん奥州を手に入れる名目を得ること。
>よく知らないけれど
>感じがする
>かも
>気がするんです
┐(゚〜゚)┌
185 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/11(木) 23:40:54 ID:PehEUJXP
実際に見てきたけど、
>>182の言った通りだった。
自信持っていいよ。
三種の神器なんて実はどうでも良かったんだよ。
口実が必要だっただけ。
>>178 山本幸司さんは都的なものと東国的なものを持ち合わせていた頼朝と
東国的なものしか持たない東国武士があり、
最初頼朝的なものがリードしていたが
最終的には東国武士の気質の勝利といったようなことを
書いていらっしゃいました。
保守
ドラマでは平教経の存在自体がスルーされそうで萎えるんだが。
義経に八艘跳びさせるなら必要だろ。
192 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/14(日) 21:18:27 ID:xqx6rC6q
>>190 史実では教経は一ノ谷で死んだとか言ってるバカがいるよ
吾妻鏡に書いてあるだけなのにね
>>192 玉葉も教経の首を「疑わしい」とは書いてるけど
「死んでない」とは言ってない。
教経の首であった可能性もある。
194 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/14(日) 23:37:23 ID:fs4G7IKF
重衡リタイヤ、知盛不在、教経スルーの平家軍のショボイことorz
そもそも与一の扇の話って「平家物語」のエピだけど実話なの?
「平家物語」のエピ以外の何物でもない>扇
>>193 実録の「醍醐雑事記」では壇の浦らしいが、これも伝聞だから
教経がいつ死んだかは、結局不明。
ただ<<194の言うように昨日の屋島を見れば、教経ぬきでは
軍記ものの「平家物語」は非常につまらないものになることは
よくわかった。
つまらん物語を語ってはお金がもらえんのは、琵琶法師もNHKも
同じということ。
>>109 大河「ドラマ」だから(ドキュメンタリーじゃないんで)脚色は
ありだと思うよ。でも、良質な資料等でほぼ定説になってる史実は
曲げないで、解釈の余地が残されている部分をドラマにしてほしい。
独自の解釈をするとしても、ある程度歴史に詳しい人が見ても、
そういう解釈の余地もあり得るかもと納得できる範囲にとどめてほしい。
そしてドキュメンタリーでは味わえない、ドラマならではの感動とか
わかりやすさを演出してほしい。(無理矢理ご都合主義解釈でシラケさせる
のはもってのほか。それくらいならつまらなくても史実に忠実なほうがまし)。
オリキャラを出してもいいけど、時代の空気を伝えるとか、主人公の
行動の重要な動機付けの役目を果たすとか、ストーリーを補完するとか
創作キャラにはそれなりの必然性を持たせてほしい。
田口教能さんって
「捕虜」になったんじゃ。
その影響で父親の阿波民部が平家を裏切って内通したんじゃなかったっけ。
詳しい方よろしく。
200 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/17(水) 12:42:20 ID:Ah/0N5os
華麗に200げと
201 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/17(水) 16:37:55 ID:uJVRNjB9
史実とはチト違う話しなのかもだけれど、
謡とか舞とかの時代考証も微妙・・・
なぜその曲??なぜそんな笛??
みたいなことが数度あった。
天皇が敷居を踏んでいたし
禿概だけどやっぱスケ盛の継信射殺はやっちゃいかんかったろう
これからのエピソードは既存の平家俳優使い回しだ罠
>>203 教経と資盛は一人二役だったと思え
もしかしたら義経チンギスハーンへの無理なき伏線かもしれんぞ
いっそ富樫も梶原あたりで代用すんじゃねえか
hoshu
ところで、明日の熊野水軍を味方につける話
弁慶がらみだそうだが
大水軍を擁する総帥が個人がらみのかなりショボイ話で
味方になりそうなことが予告でかいてあったなあ。
209 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/20(土) 11:34:47 ID:FBY85SIP
>>208 その大水軍を擁する総帥が巌窟王のようだったのは
何だったんだろう。
原田の坊主姿を期待してる自分としては、あの予告は
幻覚ということにしているんだが・・・。
大水軍を擁する総帥熊野別当は弁慶のお父さんだから
超個人的だなぁw
211 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/20(土) 11:50:29 ID:CmYw8QZQ
>>210 そういう個人的な話ならともかく・・・・
予告は超orz
212 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/20(土) 11:52:41 ID:CmYw8QZQ
ついでに、行家叔父さんの母君は熊野の女性だったらしいし
為義の娘の一人が熊野別当家の妻になっている。
一方平家側も忠度の母が熊野の女性という説もあるらしい。
拙僧が気にしているのは実は湛増の服装です。
以前、取材を受けた「その時、歴史は動いた 源義経、大水軍を奪いとれ」の
ディレクターの方にくれぐれも申し上げたことは、もし湛増が登場するならば
その服装に気を遣ってくださいということでした。少なくとも、田辺の闘鶏神社の
中に設置された「湛増・弁慶父子」の像は参考にしないでくださいとお伝えしました。
ディレクターの立場からすれば何てことのないことだったでしょうが、歴史を学ぶ
立場からすると大変重要なことでした。若いディレクターの方は拙僧の
いわんとしたことをよく理解してくれたようでした。
平氏につこうか源氏につこうかと思い悩んでいる湛増の姿は正しく拙僧の思い描いていた
通りの姿で登場しました。
湛増は神官ではありません、僧侶です。正確にいえば熊野本宮の社僧です。
そのため、湛増は頭の髪の毛を綺麗に剃った姿で出てきました。しかも、
身には黒い衣を着ていました。
ああ、ディレクターさんは拙僧のいわんとしたことをある程度
理解してくれたのだなあ、と感激しました。
それに対して、田辺の闘鶏神社の中に置かれた
「湛増・弁慶父子」の像は湛増については服装が間違っているとしかいいようがありません。
これじゃ、湛増は貴族か神主じゃないか。湛増は僧侶ですよ。なぜ、こんな
格好をさせているんですか、と追求したくなります。参拝する人々に時代(神仏習合の時代)
に対する誤解を与えますよ、といいたいです。
では、丸坊主頭に黒衣で完璧か、といいますと、普段はこれで良いと思います。
しかし、湛増は法眼という僧位を持つ官僧ですので、正式には黒衣よりも白衣を
着せたいですね。丸坊主姿に白衣、これが正式の服装でしょう。
本当はこれに後少し付け加えるものがあるのですが、ここまではやらないことにしましょう。
さあ、皆さん、もし今後湛増が出てくるとすればその服装に注目してください。
担当ディレクターや考証された方々の見識がこれで理解できるはずです。こう、ご期待!!
果たせるかな、とw
214 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/20(土) 13:56:27 ID:ZnZY5rJH
むしろ普通の坊さんの格好の原田の方が想像できないw
ま〜、水軍の総帥→海賊の大親分というイメージの産物かと>キャスティングと衣装
215 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/20(土) 14:07:59 ID:3Qs0+7ND
佐藤アニが死んだとき弁慶が「南無阿弥陀仏」って念仏唱えていたんですが、念仏って浄土宗の法然が広めたんですよね。弁慶って浄土宗の坊さんなんですか?浄土宗じゃなくても当時の坊さん達は念仏唱えていたのでしょうか?
216 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/20(土) 14:19:04 ID:8Orzoh6l
215
阿弥陀仏を本尊とし、念仏のみで救われると説いたのが法然であって、
阿弥陀信仰や修行の一つとしての念仏はそれ以前からあります。
弁慶がいたとされる比叡山は天台宗で最澄が開祖だが、法然はそこで学んでいるし
時代的にも法然と弁慶は同じ時期に生きているので人気のあった法然に浄土宗に
なんらかの影響を受けていたとしても不思議はない。
218 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/21(日) 01:56:54 ID:6oab1LXT
ベンケーいくら僧兵崩れっていっても、もう少しお経読めなきゃおかしいよ。
史実ではないだろうけど、安宅が思いやられる。
それに、たしか誰かさんは読経三昧の生活をしていたはずでは。
219 :
。:2005/08/21(日) 11:25:17 ID:6K+wf3ax
220 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/21(日) 11:31:27 ID:RVkFgCcS
ま、とりあえず義経の人生に明子、領子、能子、輔子、経子、能子はこれっぽっちも全く必要ない。
それだけは確定。
>>218 史実と言いながら安宅が思いやられるとはこれイカニ?
安宅に関所は実際なかったってのは本当なの?
>>215-218 それは生き残った側からみた発想だけど、
死んだ兄の立場からは平泉の毛越寺式に
葬ってあげた方が良かったんで内科医?
>>221 関所があったかなかったかというより、
関所があってもあえて見逃して通したと言う話。
理由は義経を囮として泳がすメリットがあったから。
安宅、富樫、やしまは当時の謡曲に謡われた物で創作色が強いとされている。
安宅関はなかったが、当時安宅の城はあったので、色んなソースを張り合わせて
創作されたと考えていいのではないかな。
>>221 説明不足スマソ。安宅エピに期待したのは、当時の僧兵とか悪僧といわれた
連中の理想的なシンボルとしてのベンケー。
エピ自体は創作だろうけど、東大寺の勧進帳は実際に出されたものだし、
それを上手く利用して危機を脱出するベンケーを見たい。
だから経も読めないんじゃあ、期待できんかなと思ったわけ。
>>224の人のいうようにいろいろなソースを張り合わせた創作も
そのソースの一つくらいに史実が混じってることもあるよね。
226 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/21(日) 18:32:09 ID:ih2LVyOT
加賀守護家富樫氏は富樫介の後裔な件
227 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/21(日) 21:19:34 ID:ks3E/Alm
湛増のあの格好はありえない。
最後の歴史探訪みたいなところに出てきた石像は最悪のようです
10人くらい子どもいる湛増が、弁慶のけこーんを
非難したときゃ、涙でるくらいワロタ。
それに湛増はまだ熊野権別当だよ。
平家寄りの行命が逃亡中で熊野別当位は空位だった。
>NHKの大河ドラマ「義経」のディレクターそしてプロデューサーさん
熊野別当湛増への原田芳雄の起用。これは貫禄、その個性豊かな野性味から
いってはまり役であると思う。しかし、問題はその格好である。
あなた方は、熊野別当湛増を山賊の親分とでも考えているのであろうか。
あの格好は如何にも熊野別当を「馬鹿」にしている。「熊野別当」といえば
熊野本宮・熊野新宮・熊野那智に代表される熊野三山の、在地における
最高統率者・管掌者である。しかも,湛増は「法眼」という朝廷から与えられた
僧位を持つ官僧なのである。当然、その格好は、あんな白髪のむさ苦しい頭ではなく、
頭の髪の毛をきれいに剃った、いわゆる「坊主」の姿で登場すべきであるし、
ましてやその身には白衣と袈裟を纏った社僧の姿で登場するべきである。
社僧とは、神仏習合された神社につかえる僧侶なのである。インターネットの
ウェブ・サイト「風俗博物館」に僧位を持つ当時の官僧の理想的な姿(あれは、
あくまでも正装ですが)が描かれているので是非とも見てほしい。
当時は、僧侶の格好で熊野権現社の拝殿にたたずんでも何の違和感も感ぜられ
なかった時代である。神と仏が分離された現在とは全く違うのである。
熊野三山における最高統率者・管掌者である「熊野別当」を、山賊のボス
同様に決して貶めてはいけない。
しかも、ドラマの舞台となった田辺市の説明に登場する「闘鶏神社」という
記載は初歩的な間違いをおかしています。「闘■(奚に隹)神社」と書くのが正しいんです。
さらに、書状・起請文についてもいいたいことがあるのですが、これはその道の
専門家に任せます。
いずれにしても、拙僧の、湛増の格好にたいする期待は見事に裏切られたといえます。
いくらフィクションとはいえ、これはひどすぎる。もっと勉強してドラマをつくって
もらいたいものである。
>>219 否。
出家した清盛と同じような格好していればちょうど良いくらいだよね。
史実ではないが
「平家物語」では
白い鶏と赤い鶏を戦わせて白の方が勝ったから
源氏に味方することにしたんですけどね・・・・
234 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/22(月) 17:24:17 ID:J1ltuY8Q
>>230 最後の紀行でしっかりフォローですよ。
あの像姿見てドラマとの違いに視聴者ポカーン。
>>234 いや、あれはフォローどころか、間違いのダメ押しの最悪の映像。
>>213 を良く読みなさい。
弁慶は湛増の親戚という件。従兄弟の子供に当たる説。
ついでに湛増は義経や平家とも婚姻関係ありは何故触れない?
237 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/22(月) 18:27:07 ID:jOwljm7D
弁慶が湛増の子って話はけっこう有名かと思ってたのにな。
>>237 弁慶が湛増の子って話は義経記からだね。出自は諸説ある。
それと湛増の格好だが、原田芳雄もアイディアを出したと聞いてるよ。
熊野とは縁があるのでこの役も何かの縁と思って引き受けたそうな。
>神仏習合された神社につかえる僧侶
素朴な疑問だが神主とはちゃうの
>>238 義景気なの?
御伽草紙とかそれこそ地方の伝説とかの類かと思ったよ
>>240 義経記はほとんどフィクションで史実性はほとんどないからなあ。
どうせ史実じゃないんだったらさ
北行伝説までちゃんと演り切ってくれ
>>239 昔からある神道と外来の仏教が混ぜ混ぜになった時代だから
神主も坊主も巫女もいる。特に熊野三山はこれが激しい。
熊野本宮の祭神からして、ある時は阿弥陀如来、ある時は須佐之男命・・・
しかしてその実態は
熊野家津美御子大神よん? っていう
元祖キューティーハニー。
>>240 せいかーい。
弁慶、湛増の息子設定はお伽草子。
義経記や弁慶物語は実在しない別当が親父になってる。
244 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/23(火) 22:04:25 ID:JRRaGOT9
湛増の配下が本宮に客人がどうのこうの言ってたので
なんで行家がそんなとこにいるんだとおもたら千鳥ねーさんだったyo・・・
義経が卑怯者
俺はてっきり客人=平家方の使者で美味しんぼみたいな展開になるかと思ってた
まさか千鳥が来てるとは・・・
247 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/24(水) 01:12:48 ID:3y6eDVkW
女の機動性が凄いからな。
しかも、千鳥、いつもの格好で来るし。
248 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/24(水) 01:23:07 ID:T97s3SMl
一条長成はドラマでは蛭子のオッサンがマンガみたいな頼りない公家で描かれているが
実は義理の息子の義経を陸奥守に繋いだ義経にとってはかなり恩のある義父である。
という説がある。
結果的に平泉で最後を遂げるんだから良かったのかどうか・・・
むしろ最初から平泉へ行かなければ鞍馬で僧になってたんだろうか。
251 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/24(水) 08:26:03 ID:vfGsIg96
>>247 だな。親父が来てなかったようだから、「またコイツも一人か」と思った。
252 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/24(水) 10:37:59 ID:mk1RO3y7
義経は…
屋島奇襲の際に周辺の民家を焼いている。
壇ノ浦では捕らえた平家方の女をレイープしたとの疑惑あり。
残虐非道。
あと、ブサイク説もある。
253 :
↑:2005/08/24(水) 10:42:51 ID:L3coKdO4
煽りでしゅか?
違うなら情報ソース元も一緒に書いてね。
254 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/24(水) 12:56:41 ID:sgLO02QA
>>250 同じく寺に入った兄二人も、頼朝の元に義経より先に来てるので関係なし。
どうでもいいが、情報「ソース元」って白い白馬みたいな。
255 :
↑:2005/08/24(水) 13:03:44 ID:L3coKdO4
ほんとだ!
ほんとにどうでもイイが。
史実を騙るスレらしいから
↑上記のようなどうでもよいと言う立ち認識の理解では頭痛が痛いな
257 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/24(水) 15:19:40 ID:u4Txy6Qb
枝葉末節な時代考証はさておき
そもそも論で言えば、源氏には義経は2人居りまして、
実際に戦争の立案をしたのは山本義経。この男この辺の出身で土地勘があります。
弁慶もこいつの家来と歴史学の見地から言われています。
源義経が美形で戦争の天才という話は、後の時代民衆が現政権に対する生き辛さを紛らわすために創った御伽話です
真田幸村がまた英雄視されるように。でもこっちは軍事の天才。ただし真田十勇士は御伽話。
>>257 まずソースを出してくれなきゃ。
弁慶なんて吾妻鏡に2回、義経都落ちと義経自害の場面にしか登場しない。
具体的にどういう経歴の持ち主だったかも分かってない訳で。
義経が土地勘のない土地や、慣れない海戦で活躍できたのは、
地元の西国武将や水軍をことごとく仲間に引き入れたからだといわれとります。
実際、吾妻鏡には義経が熊野水軍を味方に引き入れた等々の記述があります。
(またそれが当初から戦に参加してた東国武士には気に入らなかった。
義経が平家討伐後、追討されたのもこのことが一つの原因だったと考える学者もいます)
義経の活躍は平家物語等でだいぶ誇張された感はありますが、
玉葉や左記など、同時代の史料にも(ついでに吾妻鏡にも)「一ノ谷の陣を落としたのは義経」とあったり、
「屋島の一番手柄は義経」「義経は尋常ならざる勇士」とあったりしますので、
全くの作り話をでっち上げなくても、当時から物語の主人公になりうる素質をすでに持っていたのでしょう。
259 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/24(水) 21:14:29 ID:RoOpC2QB
>259
その番組は番組自体がトホホだといわれてて、
歴史ヲタからはどーしょーもない番組として相手にもされてません。
山本義経と九郎義経は歳が離れていてすり替えは無理だし、
山本義経が源氏軍にもぐりこんで九郎義経に戦術を教えるにしても、
源氏とはいえ遠い親戚で頼朝とはほぼ赤の他人に、源氏軍内ででかい顔をされたら他の東国武将が黙っていないでしょう。
九郎義経がこっそり山本義経に戦術を請うには、戦場に連れて行かねばならず、
他の東国武士にばれずに山本義経を連れて行くにはやはり無理があるでしょう。
山本義経が歴史から消えたと同時に九郎義経が現れたのは、
山本義経が木曽義仲の軍勢にいたからです。
木曽軍が敗れて死んだのか、生きていても寝返りを許さない頼朝のこと、
歴史の表舞台に再び現れるのはほぼ不可能だったのでしょう。
後世、我々日本人の琴線にふれるのは散り際の美しさ哀れさにあり
頼朝殿の評価もこれに同じ
史実からFOしてしまう蒲殿は問題外
けだし暴言
,.∩ `ヽ
〃∪'´ ̄`二二人\ ヽ
| ツ´ ̄ ̄ ̄ ̄´ ヾ ヽ. ',
|ハ ,ニ、 ,. - 、 | | | l |
| ハ ィハ ,二ヽ. | | | | | 同じ板にコピペするとそのままだけど、
| | | じ' |トJ〉 /)} l | 違う板にコピペすると鬼のような怖い顔
| ハ 、'_,  ̄,, 厶イ川| に変わる摩訶不思議な佳子様コピペ。
l l /\ .. イV\川 |
,' l l ,イ `l ̄´ / /ヽl l
l | l ハ `メ、 〃 ヽヽ、__ノ
l ∨ └‐イ「ト--ァ'´ ハヽ__ノ
ヽ/ } l」」 / / }`ー
〈_n| 八 / / /ノ
〈二二人 c /\/ / , イ
/ /厂 /\__>< {_
>>259 その「トホホ伝」での話は日本史板でも訳知り顔で書き込んだ奴が
釣りではなくマジだったので笑い者にされていたわけだが。
hoshu
かばどんどん
じゅーしー
268 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/27(土) 15:20:29 ID:AuTHRaL4
実は、史実、というか最新の研究成果で有力に主張されている話をきちんと描いているよ。
・京都に人脈を作っておいて、文の往来で的確に情報収集をしていた頼朝
・京都における頼朝代官として、決して低くない「行政能力」を発揮していた義経
・水軍や土地の豪族との提携など、屋島や壇ノ浦合戦の鍵となった事前準備
269 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/27(土) 15:23:59 ID:n7GdTyR/
>京都における頼朝代官として、決して低くない「行政能力」を発揮していた義経
????行政能力???発揮してたっけ???
270 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/27(土) 15:29:42 ID:WUVgZluE
昔の仲間の盗賊連中を懐柔して治安維持に手腕を発揮した描写のこと?
271 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/27(土) 15:33:17 ID:n7GdTyR/
確かに「決して低くない行政能力」を誇示するようなシーンあったけど
、あれってホントに「決して低くない行政能力」と言えるの?
272 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/27(土) 15:35:26 ID:WUVgZluE
検非違使の任務が京の治安維持なら、まあ、そうなるんでしょうね。
273 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/27(土) 15:39:02 ID:n7GdTyR/
・・・・・・・その治安維持のやり方がどうも軽率すぎる場面もあったような
気もするんですがね・・。
検非違使の任務として。
274 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/27(土) 15:58:24 ID:AuTHRaL4
ドラマでは象徴的に270氏の言うシーンを描いていたわけで、
そういう治安維持活動、朝廷との折衝など、確かな記録として残っているようですね。
>その治安維持のやり方
あんなの、義経がやる前から、既に行われてたことじゃん。
治安維持に協力する前科者のことを放免っていうんだっけ?
描こうとする努力を認めるが描き方がなっちゃいない
と言うことか?
277 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/27(土) 21:50:59 ID:ZnwkA8nW
相対でやりあってる訴人と論人の前で
ただ腕組んで頭抱えてたアレの事じゃん?w
>>275 放免ごときで治安が回復するなら、源氏軍が来る前の京があんなに荒れてない(玉葉参照)
その荒れまくってた京の治安を回復させたということと、また京の治安維持だけでなく、
地方の武士狼藉問題や土地の裁定なんかも義経は仕事としていて、在京期の義経の政治能力が再評価されているのは事実。
屋島に出陣した義経を「京の治安が保てない」として後白河の使者が義経に戻って来るよう言いに来ているし、
実際、義経出陣後の京で武士狼藉問題が多発したことから、頼朝は別の武士を京に派遣している。
ドラマでその在京期の義経の再評価が描かれているかというと・・・
まあ、そんな地味なシーン詳しく描いてもしょうがないけどな。
279 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/28(日) 00:39:12 ID:egkO416z
壇ノ浦の平家をホントに滅ぼしたのは対岸から矢を放つよう命じた梶原景時
>>278 いや、治安回復した、しないじゃなくて、あたかもあのドラマの
描き方だと、義経がああいうことを最初にやった、みたいな印象を受けるんじゃない
かなあ、と思ったから。
確かに、義経は都の治安維持にだいぶ貢献したのかもしれないけど、
大河じゃそれを上手く表現しているとは、ちょっと思えない。
>>278 都の治安維持って描き方によっては上手い演出になったんじゃないか。
義経のいくさだけではない、官僚としての能力も都の人々の判官人気や
朝廷からの信頼とか描ける。
少なくとも鎌倉へ行って懇切丁寧に頼朝からいろいろ説明されても
理解でない頭脳とか義高見殺しで大姫に罵倒される情けない義経を
見せられるよりは、よほどましだった。
研究の成果を中途半端に取り入れても、みょーなオリエピで粉砕してりゃ
世話ない www
282 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/28(日) 12:31:37 ID:WladUePx
ま、王朝時代の理想的な武士ということではあるな。
ただ、時代は王朝時代の終焉なんだから、
かえって邪魔な存在ということか。
義経にとっては、頼朝の言うことは言いがかり以外の何ものでもなかったであろうが。
>義経の政治能力が再評価されているのは事実。
政治的能力がある割には、あっさり任官を受けたりする
んだね。任官は、軍事的能力も政治的能力もある義経が、頼朝からの
独立を図ったからなのかな、とも思ったりしたけど、でも腰越状を
送ってるところを見るとそう言うワケじゃなさそうだし。
>義経にとっては、頼朝の言うことは言いがかり以外の何ものでもなかったであろうが。
頼朝から見たら、義経は、戦況報告は怠る、頼朝の軍目付を尊重しない、
御家人の働きは認めようとしない、まさに「困ったちゃん」だって書いてあった
な、何かの本に。
284 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/28(日) 15:04:18 ID:WladUePx
>>283 >政治的能力がある割には、あっさり任官を受けたりする
政治的能力はゼロに近いだろうな。
ただ、優秀な行政能力を持った官僚というところかな。
それが、朝廷のほうに目が向いているんだが。
それまでの武士のあり方としては、当たり前のことなんだけどな。
>頼朝から見たら、義経は、戦況報告は怠る、頼朝の軍目付を尊重しない、
>御家人の働きは認めようとしない、まさに「困ったちゃん」だって書いてあった
>な、何かの本に。
坂東の豪族なんて、源氏一門にとっては家来筋だろうという、
ちと時代遅れな感覚かな。
これは義経に限らず、他の源氏一門も同様に感じていたようで、
甲斐源氏の板垣何とかが、土肥実平に口出しされて困ると苦情の書状を出している。
しかし、頼朝にとって、こんな考えほど危険なものはないんだが。
義経が政治能力ゼロってのも、無断任官が原因で言われてたことだけど、
近年の研究では無断任官は実はたいした問題ではなかったんじゃないかと言われてる。
吾妻鏡では義経の任官に頼朝は怒って、それで義経は平家追討軍を外されたとされてるけど、
義経の任官以前に頼朝は義経に別の仕事を与えていて、そもそも無断任官に怒ったのなら、
その後も重要な仕事である京での頼朝の代官をさせはしないだろうということで、
頼朝は無断任官については、まあ今回はしょうがないかな、くらいの気持ちだったのではないかと。
つまり頼朝は最初から、平家討伐は範頼に、京での仕事は義経にさせるつもりだったらしいのではないかと言われている。
無断任官が頼朝・義経両人にとってたいした問題でなかったのなら、
それを根拠に義経の政治センスを疑うことも出来ないのではないか、ということも
在京期の義経の仕事ぶりと合わせて、義経の政治能力が見直されている根拠の一つ。
ちなみに、吾妻鏡が頼朝が怒って義経を平家討伐軍から外したと書いたのは、
幕府の立場から、義経が頼朝を怒らせて討伐されたということを正当化するために書かれたのではないかと言われている。
でも、義経は後白河にいいように利用されたじゃないか、という言う分もあろうと思うが、
後白河陰謀説も疑問視されてる。
後白河が義経に官位を与えた時期は、まだまだ平家の勢力が強く、
源氏は勝てるかどうか微妙な、どちらかといえば厳しい時期だった。
平家討伐の院宣を出した以上、後白河は源氏に勝ってもらわねばならず、
そんな時期に頼朝・義経の仲を引き裂き、源氏の力をそぐのは得策ではない。
玉葉を読むと、後白河は意外と近臣の者の言いなりになっている節があり、
九条兼実も何度も後白河を暗君と書いている。
結局、後白河はその時々で一番勢力のある者についてるだけの、ただの人だったのかもしれない。
頼朝に日本一の大天狗呼ばわりされたことで権謀術数に長けた人物という印象があるが、
この日本一の大天狗というのも(名前は忘れたが)別の人物を指していたという説もある。
範頼の活躍が、全くといっていいほど無いな。壇ノ浦で平家が滅亡したのは、範頼軍が九州に上陸して
平家方の太宰少弐の軍を大破し、北九州を制圧したのが一因なんだが。源氏に九州を制圧されてなかったら、
九州に退却すればいいだけの事。
288 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/28(日) 21:12:17 ID:mJo6YFs5
>>286 河内氏の「頼朝の時代 1180年の内乱史」ですね大天狗と言った相手は高階泰経だったとか。
289 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/28(日) 21:20:43 ID:AC9h43Rd
>>287 結局範頼の活躍って
来週の「平家を上陸させるな」でおしまいなんでしょうかね。
>>286 大天狗ってのは、嫌味というか皮肉っぽく書いただけで
言葉だけが一人歩きして、大天狗=すごい権謀家という
イメージになっちゃっただけなんじゃなかったっけ。
後白河は、右往左往してただけだというのは
自分もそう思ってる。
ドラマでそこを「実は…」と、彼の計算だったとして
書くのは、自分は好きだけどね。
>ちなみに、吾妻鏡が頼朝が怒って義経を平家討伐軍から外したと書いたのは、
幕府の立場から、義経が頼朝を怒らせて討伐されたということを正当化するために書かれたのではないかと言われている。
「吾妻鏡」は頼朝に厳しく、義経に優しいところがあるから、義経に
落ち度がないなら、そう記すはずでは?「吾妻鏡」は幕府のというより、北条氏
の立場で書いた歴史書だしね。
それに、義経が任官した後も京都を任せてたのは、彼が後白河院に
気に入られていたから、罷免して院との関係が悪化するのを恐れた
からなんじゃ、とも思いました。
まあ、私は、
>>285ほどの知識はないから的はずれな推察だろうけど。
ところで、
>>285は義経が頼朝から追われるようになった原因は何だ
と考えてるの?従来言われてた「勝手に任官説」が違うっていうんなら。
義経の郎党の中には実はあの
吉次が姿を変えて加わっていた、
とする説があるようだ。
常陸坊海尊、やる時はやるけどいざという時逃げる
という面白キャラ。何故、今回出さない?
義経郎党は全員主君に忠実、という設定を徹底させるためか。
義経に惚れない男は出さないんだよ、きっと・・・
>>288 高階泰経でしたか。
サンクス。
>>291 吾妻鏡は確かに義経に同情的な部分が多々あるけれど、
やはり義経が幕府の謀反人として死んだということは正当化しなくてはならない。
だから、腰越状の切々とした文章を載せる一方、
梶原景時の義経批判文も載せるし、義経が「関東に恨みのある者は俺について来い!」と言ったという記述も載せている
(でもこれも本当に言ったのなら、その後半年も放置されないだろうと言うことで、疑問視されてるけどね)。
義経は確かに京の治安維持に貢献して、後白河に信頼されていたようだけど、
鎌倉には朝廷とつながりの深い公家もいたから、本当に義経を解任したいのなら、他に義経の代わりとなる候補もいたと思う。
一ノ谷後、朝廷から出された宣旨は「武士狼藉停止」と「兵粮米停止」
言ってしまえば後白河としては、これを順守してくれれば誰でも良かった訳で、義経を罷免したら院との関係が悪化するというほど、当時義経の存在が京と鎌倉の架け橋として大きなものだったとは思えない。
>義経が頼朝から追われるようになった原因は何だ
正直、今自分なりに勉強中で明確な答えが出せない。
色々説があって、今一番旬なのは「壇ノ浦義経独断説」らしいけど、
これも疑問の残る部分もあって、この件についてはもっと詳しい人にご教授いただきたい。
個人的には、何か一つの大きな原因があったというより、
様々な要因が重なった結果だと思うのだけど。
腰越状自体が吾妻鏡の捏造なんですよ
>>295 捏造かどうかはこの際問題じゃなくて、
吾妻鏡に登場する義経には、矛盾する二つの顔があるということだ。
297 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/28(日) 22:59:07 ID:4C0G601Y
結局、御家人代表・北条家が頼朝一門&側近の義経も梶原一族も滅ぼしたわけですよ。
299 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/28(日) 23:20:01 ID:KQLImHM6
範頼来週は最初で最大の活躍をしそうだな
>298
なら頼朝に逆らったから滅ぼされたという部分こそ捏造かもよ
腰越状が捏造だって証拠はないし、頼朝派の九条兼実ですら義経の人格は誉めてる
301 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/29(月) 00:41:10 ID:bS3hq4EV
>>297 比企一族もね。
義経だって正妻がらみで比企一族みたいなもんだったし。
302 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/29(月) 01:06:31 ID:Q4572u5t
>>300 問題は人格じゃないと思うんだがな。
ま、人格の問題としても、
上(法皇、貴族等)には、好かれるが、
下(鎌倉御家人)にはあまり好かれない(生きている間はな)
となれば、
鎌倉にとって望ましい人格ではなかったのではないか?
>>302 いや吾妻鏡には義経追討に名乗り出た御家人がほとんどいなかったり、
義経の首を見た御家人が泣いたりと、幕府内には義経に同情的な御家人も多くいたのではないかと思われる記述があるけれど、
それも玉葉の記述と照らし合わせれば、単なる捏造ともいえないのではないかということで人格云々言った訳だが
304 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/29(月) 12:49:04 ID:e57PPfBu
大天狗というのは
要するに、あそこが馬鹿でかいという意味だ。
あっそ
>>294 レスありがd。勉強になったよ。
やっぱり、何故頼朝が義経を追討することになったのか、
はっきりとしたことはわからないんだね。
>個人的には、何か一つの大きな原因があったというより、
様々な要因が重なった結果だと思うのだけど。
ここ胴衣。いろいろな政治的要因があるんでしょう。
少なくとも、頼朝が義経を妬んだとか、梶原の讒言とかそんな
みみっちいレベルの話ではないとオモ。
>>303 そのかわり、義経が鎌倉の武士の中で、不満がある者は付いてこい、
と言ったとき、誰もついて行かなかったし、また、義経は
御家人の戦功を認めようとしないので、御家人から
嫌われてた、梶原景時だけじゃなく、みんな義経に不満を
持っていたそうな。
奥州藤原氏を滅ぼすための口実、という説もあるようだが・・・
一町一歩の土地も持っていなかった義経は、東国武士も頼朝の立場も
まーったく理解していなかったと思われ。
東国武士は「一所懸命」のとおり土地がすべて。個人的な感情は別として
土地なしの義経についていく奴はいない。義経の郎等らのような社会的に
落ちこぼれた連中とは違う。
頼朝は若干の私兵以外は持たない神輿でしかない以上、自分にとって
替わる可能性のある弟らは、生かしてはおけなかったのだと思う。
すでに、頼家という跡継ぎも生まれていれば尚更のこと。
排除追討する理由は何でもかまわない。落ち度のない人間なんていないの
だから、大義名分は後からどうとでもなる。
>>307 >不満がある者は付いてこいと言ったとき、誰もついて行かなかった
これも本当に言ったのならすぐに処罰の対象で、その後半年も放置された挙句、
頼朝の命令で景季が義経に謀反の意思があるか聞きに来たりはしないだろうということで、
「義経は鎌倉殿に逆らったので滅ぼされました」とするための、吾妻鏡の創作じゃないかという説もある。
まあ実際言ってなかったとしても、義経が挙兵した際ついてきた手勢はわずかだった訳だが、
これは義経の人格がどうのという問題ではなく、義経が手柄を立てた者に与える恩賞を持っていなかったから。
みんな恩賞目当てに戦ってたわけだからね。
「御家人の功績を認めず手柄を独り占めした」と景時の書状には書かれているけれど、
具体的に誰のどの手柄を奪ったのかは記述されていない。
また合戦後は恩賞を少しでも多くもらおうと、御家人は幕府に訴えるもので、
義経に手柄を奪われたとするなら、それを堂々と訴えればいいだけの話だがその記録もない。
この景時の言い分は、義経が平家討伐において西国の武将や水軍を多く重用したせいで、
活躍の場を奪われた東国武将の不満が爆発したものではなかったかという見方がある。
義経としては勝つために必要だと思ってやったことだろうが、
事実、景時の軍勢は屋島に参加できず、壇ノ浦でも範頼軍は陸上から矢を射ることくらいしか出来なかった。
恩賞をもらうため必死で戦っていた東国武将からすれば、後から来たよそ者に手柄を持っていかれたとあってそりゃあ頭にもくる。
まあ義経も頼朝の了解も得ず、西国の兵を味方に引き入れたり、
勝手に御家人を処罰したりしているので、全く非がなかったわけではないだろうが。
ついでに景時も処刑しておかなかったのが義経の詰めの甘さ
312 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/29(月) 21:12:14 ID:Hycf+e+p
県令もんインをレイープしたのはまじですか?
>>311 兄の重臣を勝手に処刑できないだろ。
>>308-310 ありがとう。大変参考になったよ。やっぱ、義経は所領を持ってなかった
のが痛かったんだな。本人が書いたか知らないけど、「腰越状」には
「暮らしが貧しいときは百姓の雇い人になっていた」
って書いてあったほどだしね。
314 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/29(月) 22:26:37 ID:sadddkN8
ま、一言で言えば、時代と自分の立場を理解せず、
気配りのできない人であった、ということだな。
それでも、何の取り柄もなければ、かえって長生きできたかもしれない。
>勝手に御家人を処罰したりしているので
これって彦島の伝説の暴力事件を起こした者を処罰したのかな。
伝説の暴力事件て建礼門院レイープ?
>>316 うざい。ここや日本史板でもさんざん概出だ。
江戸時代の庶民に受けた稗史小説で流布しただけだ。
平家物語の中でも仏教説話として後付創作されたという説の多い
大原御幸で徳子が後白河に語った六道地獄のなかの畜生道をこじつけて
江戸時代の戯作者が興味本位で面白おかしく脚色した庶民向けの娯楽本の話。
覚えとけ。
318 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/30(火) 11:22:05 ID:WTyaKdgs
いくら義経が純粋な人でもやっても良い事と悪い事もあるってワケか。
義経に関しては、あまり深く勉強していなかったから、ただ彼はとても
純粋で人の良い一途な人なんだと思ったけど、なんだかその人柄が仇に
なってしまったんだね。ある意味可哀想な人だな・・。
>>310 >「御家人の功績を認めず手柄を独り占めした」と景時の書状には書かれているけれど、
具体的に誰のどの手柄を奪ったのかは記述されていない。
また合戦後は恩賞を少しでも多くもらおうと、御家人は幕府に訴えるもので、
義経に手柄を奪われたとするなら、それを堂々と訴えればいいだけの話だがその記録もない。
そんな「義経が手柄を横領した」なんて記録が残ってたら、
梶原が義経を讒言したって言う「吾妻鏡」の記録と矛盾しちゃうじゃんw
景時が正しいこと言ってたことになるから、そういう「記録」は抹消した
んじゃない?「吾妻鏡」編纂する時点で。
>>307>>319 そういえば、一の谷の頃義経の与力として多田行綱がいたり
屋島に後藤実基親子がいたり
と義経軍の中には西国系が目立ちますよね。
これがどういう意味かというのは色々な見解があるでしょうが。
>319
既出だけど吾妻鏡は義経が討伐された件に関しては、
義経のほうが悪かったってスタンスなんだってば。
幕府の立場としては幕府に非があったとするわけにはいかないから。
仮に景時の讒言が原因とすると、じゃあ幕府はそんな御家人の嘘を信じて無実の義経を殺したのかということで、
やっぱり幕府に非があったとなってしまう。
まあ景時も結局は(たぶん)北条氏に滅ぼされたわけだから、
吾妻鏡でそんなに良くは書かれてないけど(つっても他の史料でも景時は良くは書かれてないけど)、
義経が失脚したのは景時の讒言が原因という「悪役景時」が出来上がったのは、
もっと時代が下って、判官贔屓の心情が生まれた後の話だよ。
合戦後の論功行賞に関しては、誰が手柄を立てた立てないでもめた様子が吾妻鏡にも色々記録されてるから、
義経の件に関しても訴えがあれば吾妻鏡に載ったと思う。
その方がより「義経が悪かったから、幕府に滅ぼされました」というのを強調できるしね。
とっても亀で恐縮だすが腰越付近に駿河清重終焉伝説が色々あるらしいね
>>318 純粋ないい人が軍規違反なのに、船の漕ぎ手をねらい打ちするかな。
この義経のやり方ってよく言うと合理的、悪く言うと卑怯者だよな。
>>321 ゴメン、ゴメン。「義経、横領す」なんて記事があったらかえって都合が悪いんじゃない
かとパっと考えついて書き込んじゃったんだよ。確かにそのとおり。
しかし、「吾妻鏡」って義経像が中途半端だね。義経に非があるって書きたければ
徹底的に悪く書きゃいいのに。これは「吾妻鏡」を編纂した時点で「平家物語」
の義経像が広く流布されていたから、今更改竄できなかったのと、
義経を追討したかったのは頼朝であって、北条氏じゃないから、
そんなに悪辣な人物にする必要がなかったからなのかな。
ついでに、義経をある程度優れた人物にしておけば、彼を排除した頼朝、
それに協力した景時を暗に非難できるしね。
逆に、北条氏が中心になって追討した梶原は「平家物語」より格段に悪くなってる。
>>323 鵯越の奇襲も卑怯
屋島の奇襲も卑怯
もともとこのひとは卑怯者なんだよ
いまさら壇ノ浦で卑怯なことやっても
誰も驚かんと思うが
325 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/30(火) 21:43:29 ID:/vmhNt5Y
>>321>>322 五味文彦さんあたりが良く言っているのであるが
「吾妻鏡」自体が義経びいきで
それが判官びいきを醸し出す一員になっていた
と言われている。
どうも吾妻鏡でも色々とえこ贔屓があって
政子、泰時は無条件で褒めあげて
外の人は多少辛口
頼朝に関してもやや冷ややか に書いてある。
326 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/30(火) 21:57:47 ID:JyCjlUHD
>>320 >そういえば、一の谷の頃義経の与力として多田行綱がいたり
このひとも、面白い人だな。
勝ち組につこうとして、裏目裏目に出るんだな。
>>325 しかし政子が亀の前の家をぶっこわしたことまで書かれてるのがなんか不思議だな。
政子を褒め上げるならこの部分は削除してそうなのになんでわざわざ書いてあるんだろう?
もっともこれは正当な妻の権力だと言ってる人もいるが・・・
個人的にはすごく不思議。
328 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/30(火) 22:09:45 ID:007RK5KM
>>327 逆に頼朝の生存中からそれなりに妻としての権力を政子が行使できたということの強調なのでは?
と思う。
政子の権限で伏見広綱が追放されるし(妻の権利の強調)
時政が伊豆に帰って困ってしまった頼朝というのがあって
「北条がいないと頼朝がこんなに困っていたんだぞ」の強調だと思う。
実際にはこの頃北条の力はどの程度なのか疑問視されているのだが。
それに、うわなりうちは当時の妻の当然の権利だから
政子がそれをやっても彼女の不名誉にけっしてならない。
ハッキリとした文献でもない限り、どこが捏造かはわからんのではないのか。
>>324 当時の武士にとって奇襲は卑怯じゃないよ。
水夫を射るのはルール違反で卑怯者呼ばわりは仕方がないといえるが。
>>323 本当に純粋な人ならそもそも人殺しなんてしないと思うが、
その理屈でいくと歴史上の武将はみんな不純になってしまう罠。
というのは置いといて、
水夫梶取を射ったのは平家物語に書かれた事で、史料にはなかったんじゃないか?
他に義経が卑怯と言われている奇襲についても、最近の研究じゃ義経以前から、特に東国ではよく使われていた戦術だとかいう話。
よく、義経が卑怯な戦術を使うから味方からすら嫌われて、
義経が追われたのもそれが原因の一つとか本に書いてあるけど、
景時の義経批判分にはいろいろ義経を批判しつつ、義経の戦い方に対する批判はない。
「英雄義経」を作り上げたのも平家物語なら、
「卑怯者義経」を作り上げたのも平家物語なのかなと思う。
あと、水夫梶取を討ったというのが事実だとしても、
見方を変えれば、敵の弱点をつくという兵法の基本に乗っ取ったやり方で戦術としては間違っていないと思う。
この時はまだ日本に本格的な兵法は伝わってなかったと思うから、
兵法が伝わる前にやったから「英雄」なのか、
兵法が伝わる前にやったから「卑怯」なのかといえば、
やっぱ平和主義教育を受けた人間は、卑怯って思っちゃうんだろうなあ。
自分が、自分の仲間が生きるか死ぬかの場面で、卑怯もクソもない気がするんだけどな。
当然、戦において卑怯なんて存在しないという意見は成り立つが、
そんなことを言い出したら人質も暗殺もありということになるが。
>333
人質は当時は政治的な交渉の正当な手段だったのでは?
暗殺はどうだろう。
生きるか死ぬかの戦場と違い、政治的に邪魔だから消えてもらうとか
そういうやっぱり政治的な思惑の方が大きかったんじゃないかな。
少なくとも、相手を殺さなきゃ自分が殺されるってとこまで追い詰められて暗殺に及ぶって例の方が
少ないんじゃないか?(暗殺の歴史なんて詳しくないけど)
[てすつ]
>>334 いや、人生は全て弱肉強食ってことで、
卑怯なんてものはない、勝てば官軍ってことでもそれはそれで正しいと思うんだけど、
卑怯な行為というのは相手や仲間が卑怯と思えば卑怯ということじゃないですかね。
当時人が義経を卑怯と思ったかどうか定かではないですが。
>>332 六韜三略は伝わってるって。大江家は兵法研究の大家。
まあ、田舎武士がどこまで知っていたかは別の話になるが
ソースとなる史料を聞いてもいい?
六韜三略が源平期に伝わったってのが、そもそも義経記とかの後世の創作じゃないの?
あと本当に伝わってたなら、都武士(田舎武士に対してはそうなるのか?)の平家はその兵法書に乗っ取った戦術をとっていたの?
平家物語では相変わらず、やあやあ我こそはの名乗りあいから始まる
旧時代的な戦をやってるんだけど(まあ物語だけど)
339 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/31(水) 01:42:23 ID:neJJHJIt
>>338 物語だけじゃなくて、名乗りを上げて戦をやっている。
元寇のときにも、名乗りを上げているぐらいだ。
水夫に矢を放ったことが、反則かどうかだが、
反則だったろうと思う。
当時、武士の乗っている馬に矢を射かけたり、切りかかるのは
不文律で禁じられている(流れ矢があたったりするのは仕方ないが)。
それと同様に考えれば、水夫に矢を射かけるのはいかんだろう。
で、卑怯かどうかといえば卑怯だろう。
戦というのはルールに基づいてするものだからな。
ただ、勝ってしまえば、そんなことはどうでもよくなる。
まけた側が、卑怯と罵ろうが、負け犬の遠吠え。
一方、掟破りで負けてしまえば、末代までの恥辱。
だから、どこでルールを破るかの見極めが大事だな。
真珠湾攻撃が、ぬぐいようのない汚点であるのに対し、
原爆投下は、国際法違反であるにもかかわらず、
そこまでの汚点ではないどころか、英雄的な行為だと考えるものもいる。
すべて「やあやあ」なんて名乗りをあげてから戦をするわけじゃない。
それだと兵の数の違いで勝負は決まってしまう。
奇襲が卑怯だなんて平和ボケした現代の考え方。
>>338 スマソ ソースはない
三略は吉備真備と大江維時が伝えたことになっているが、よーわからん。
基本的に関東と西国のいくさは違うモヨ。
当時の東国は、自力救済の論理がまかり通ってた。
夜襲をかけて屋敷を包囲して、火をかけ、出てきた敵を次々に射殺。
この戦術を義経の父、義朝が保元・平治の乱でやっている。
それに対し、西国の武士は夜討ちや放火を嫌ったとか。
「平家物語」も「源平盛衰記」も扇の的や巴の描かれ方などから
見て「古の兵」が無視された戦いには批判的。
舵
344 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/31(水) 05:40:29 ID:tgkK5VEN
この時代、突然の寝返りとか味方を装うとかは無くって
敵対関係になって、戦闘状態での奇襲・夜襲だよね。
戦国時代とは違うわな
屋島は平家の陣の近くに火を付けて大勢で攻めてきたと見せかけて数十騎程度で
平家の大軍の陣地に突っ込んでいってその時に名乗りを上げてるでしょ。
一ノ谷だって伏兵として馬で突っ込んで名乗りを上げる。
別に卑怯でも変でもない。
ちなみに平家の戦い方。
1180年に平知盛、資盛軍が山本義経の山本山城を攻撃した時に
放火して山本義経の屋敷や郎党の居住区などを全部焼き払った。
すべて火をかけられたので山本義経それ以上戦えずに落ち延びるしかなかった。
その戦で二百人余りが梟首になり、四十余りが捕縛された。
似たようなもの。
>>344 田口教能は壇ノ浦で平家方についていながら
源氏に内通、御座舟に天皇や三種がいないと言うことを源氏にバラしましたが。
むしろ戦争だから何をしても可という方が現代思想な気がするが。
>>347 いや今はジュネーブ条約とか人権意識とかあるし、
戦争をするにしても国際的に決めたルールにのっとってやりましょうってのが現代。
(それが現場で実践されてるかどうかは別にして)
大将は戦争に負けても絶対殺されるって訳じゃないしね。
800年前は当然、国際法も人権意識もないし、
飢饉になれば人が人を食ってた時代だよ。
やっぱ状況が全然違う。
現代人の感覚でのみ当時の戦を考えればそりゃ無理が出てくる。
>>347 そうではなくて2chとかで書き込む人がそういう思想ではないかと思ったのでね。
実際に戦争をする立場の人はそんな考えではないと思う。
どの時代にもある程度の戦争のルールはあるはず。
なにかで読んだ気がするんだけど、一ノ谷の奇襲は実際は奇襲として成立してなかった、
みたいなこと書いてあった気がする。平家も一の谷背後の山はちゃんと警備しててね。
そこに後白河が謀略で和平の話持っていって交渉はじめて、なかば成立しかけていた。
平家はこれで戦争おわったと思って油断した。
そこをついて不意打ちをかけたなんて話があったような…あいまいでスマソ
でもこんな話でも本当だったら、義経はまじに卑怯者ですね
以前誰かが言っていたが、能登守教経が出ていないのは本当に納得がいきません
>>349 実際に戦争をする人のほうが、勝つためには何でもやるって考えになると思うが。
だって負ければ殺されるんだよ?
運よく自分は助かっても、自分の仲間が死ぬかもしれないんだよ?
でも今は国際法があるし、戦争に負けても上層部の人間は生け捕られて裁判を受けさせられるって方が多いだろうから、
勝つために何でもやるって戦い方は出来ないし、やれば国際的に非難を受けるが、
当時はそういう状況ではない。
当時の人間がどの行為を卑怯と思ったかは専門家の研究にゆだねるしかない。
政治的な駆け引きがあるなら勝つよりも和睦の方がいい時だってあるし、それだって死なずに済む。
>>351 大河じゃ、後白河が和平の話を持ち込んでいたって話は
源氏方には全く伝わってないことになってたな。
明らかに嘘くさかったけど。
>>331 確かに、義経が本当に「いい人」だったら、大人しく坊主にでも
なってたと思う。で、たぶん、鎌倉にも行かずに戦と無縁な生活を
送ってたでしょう。だから、義経の心にも邪悪・・・というか荒廃した部分は
あったでしょうね。まともな精神で戦に出られるわけないし。
中世の説話集には、「武士は地獄に堕ちて当然の人間だ」
と説かれています。
朝廷内で和平案が出たのは源氏軍が都を出てからという説もある。
知らないうちに方針が変わってしまったんだから、
>>351のように
「義経だけ」を卑怯者扱いするのは適当ではない。
356 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/31(水) 22:23:14 ID:3jNDHo8m
鵯越や屋島の奇襲は、もういいだろう。
すでに戦争状態に入ってからの奇襲だからな。
保元の乱の天皇方の奇襲と同じようなもの。
戦争状態にもないのに、いきなり奇襲をかけたり
(たとえば、義平が義賢を攻めた場合のように)、
突然寝返って、味方を攻めたり
(たとえば、関が原の戦いでの小早川秀秋のように)、
したわけじゃないからな。
フェアなナイト精神には程遠いが、非難には当たらんだろう。
357 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/31(水) 22:27:06 ID:fBX81OUX
ああ・・そうだね・・そういうのは別に非難はしない。
というより、どうでも良い。
>>351さんが卑怯と言ったのは奇襲に対して?
だったら既出だけど当時奇襲は東国ではポピュラーな戦術で、
特別卑怯と言われることではないけど。
偽の和議に対してなら、これに義経が絡んでいたというのは間違い。
玉葉には法皇が平家と和議を結ぶといったん決めておきながら、
合戦の直前になって「近臣の者の強い反対に合い」和議が取り消され、
源氏に平家討伐の院宣が下った様子が書かれている。
当時まだ無名で源氏軍の大将でもない義経に、法皇に院宣を出させる権限はないし、
意見を言うことも許されるはずがない。
後白河法皇暗君説ってのもあって、
法皇も本当に平家を騙すつもりだったのか疑問視する見方もある。
ただ院宣が源氏には届いたが、平家に届く前に合戦が始まってしまっただけという説。
しかし平家も一ノ谷合戦の直前で、三草山で義経軍と衝突しておいて本気で和議なんて信じたのか自分には疑問。
確かに吾妻鏡には、和議を信じたのに〜という宗盛の書状が載っているけど、
源氏軍も戦のマナーに乗っ取って、戦の開始日と時刻を平家に伝えているんだよね。
当時、院宣は絶対だから平家も法皇の言うことは一応信じて、自分たちからは攻撃を仕掛けないようにはしていたと思う。
けど三草山で勝って勢いづいた源氏が簡単に引く保障はないから、一応警戒はしていたと思う。
でも中には院宣を信じきってる兵もいて、結局負けてしまったって感じじゃないだろうか。
平家が一ノ谷合戦でどういう陣を組んでいたかは、合戦の記録自体が少ないことから分からなかったんじゃないかな。
ただ、一ノ谷合戦の平家の陣は平家の居住区も兼ねているけど、
基本は戦を想定した要塞だから、あらゆる攻撃に対して警戒していた可能性はあると思う。
だからこそ自分はたとえ後白河法皇の和議を平家が信じていたとしても、
一ノ谷攻略は簡単じゃなかったと思うんだが。
逆茂木や掻楯が辺りには備えられていただろうし、
空堀も掘られていただろう。
宗盛の書状は負けた側の言い訳くさい気もする。
最近の研究だと平家側にも陸戦に強い武士が多く、
逆に源氏は馬に乗りながら弓を射るのがヘタだったという見方もある
(頼朝が流鏑馬を奨励したのもこの不得手部分を何とかしたかったからだとか)。
一ノ谷では不意をつかれながら平家もそれなりに戦ったんじゃないだろうか。
359 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/31(水) 22:57:42 ID:J0xN25HV
最近の研究に目を配っているように見えて
その実、まるで要領を得ないレスだな。
最近、よく長文を書き込んで義経の弁護を延々とする人がいるけど
全部同じ人かな?
>>359 どこが気に食わなかった?
自分としても一ノ谷の源氏軍の勝因は、和議を信じた平家の油断だは思ってる。
でも玉葉によれば源氏2、3千に対して、平家2万。
要塞である陣に対して、平家の油断があっても簡単に勝てる数じゃない。
>>360 弁護してるのは自分だけじゃないにせよ、長文はうざかったかなと思った。
歴史語りは長くなりがちだからこのくらいは日本史板では普通なんだけどね。
ここは大河板でした。
362 :
日曜8時の名無しさん:2005/08/31(水) 23:39:29 ID:fBX81OUX
つまり
>>361さんは平家軍が能無しだったって言いたいんだね。
>>362 言いたいことは、
源氏の勝因が平家の油断だったってことは、油断がなければ平家が勝っていたかもということだよ。
むしろこの兵力差なら勝っていたと思う。
歴史にifを言ってもしょうがないけどね。
364 :
敦盛:2005/09/01(木) 00:12:20 ID:Jwibjpm3
一度此の世に生を受け
滅せぬ者のあるべきか
滅せぬ者のあるべきか
義経を卑怯という人はあんまり史料を読んでないって印象だなあ。
卑怯というのは感情の問題だろ。
感情を別にすると判官贔屓もなくなるけど。
367 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/01(木) 06:44:22 ID:23QSsgrv
感想を並べただけの長文は
単なるウザい駄レスだろ
史板でモナー
感想を並べただけの長文ってどれ?
史料を元にして可能性を思考するのが史学でそ。
史料がよほど揃ってないと当てずっぽうに過ぎない。
源平の時代に史料がどうの言うのもだいたいどうなんだ
奇襲っていやあ、信長の桶狭間なんかがすごいよね。
黒沢さんも感心するくらい。
>>303 亀で申し訳ないが、義経の追討に名乗りを上げた御家人が
少なかったのは、義経に同情的だったっていうより、彼が
ほとんど領地を持ってないのが原因だと思うんだけど。
例え、義経を討伐しても、この人領地持ってないんだから、当然恩賞として
手に入る土地がないってことだよね?これじゃ、ただ働きも同然で
この人相手に戦うとなると、誰も行かない罠。
>>358 それじゃ、一体、何のためにわざわざあんな急勾配の崖を駆け下りて
奇襲したんだ?それと、義経の奇襲部隊の人数って「吾妻鏡」によると
七十騎くらいだよね。こんな小勢で平家の大軍に
本当に打撃を加えられたの?「平家物語」の誇張じゃないかとも思うんだけどね。
「平家」って、義経みたいにどんどん攻める戦法を好んで褒めたたたえる傾向
があるみたいだから。
>>368 なんか、長文で義経弁護に必死に成ってる人って「吾妻鏡」で
義経に好意的な部分はなんの疑問を挟まずに手放しで受け入れて、
批判的な部分は色々と難癖を付けて自分の中でつじつまを合わせようと
してるだけに見えるんだよね。まあ、豊富な知識を持ってることは
認めますけど。(でも、義経に都合がいい知識だけを取捨選択で取り入れてるカンジ)
373 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/01(木) 20:01:09 ID:/jlwl8Ot
>>372 奥州藤原氏の膨大な土地が入手出来ますが何か。
まあ、もしも義経は悪くない、かわいそうってな話だったら、
頼朝の方も政治上の理由だからってことで悪くないんで、どうでもいいけどな。
375 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/01(木) 20:47:35 ID:fZJQ5Uhf
>義経に好意的な部分はなんの疑問を挟まずに手放しで受け入れて、
批判的な部分は色々と難癖を付けて自分の中でつじつまを合わせようと
してるだけに見えるんだよね
ぶっちゃけそれはどの歴史ヲタも一緒。
都合のいい部分は物語でも史実、都合の悪い部分は史料でも創作。
つか、ねらーに限らず史学者もそんなとこあるけどな。
でも、あらゆる文献、当時の政治状況や風俗等々を考慮しつつ検討した結果そう思うのであれば、
それも一つの説なんだろうと思う。
単に好きな人物だから都合の良い部分は史実!それ以外は創作!と言ってるだけなら論外。
工夫してより少ない犠牲で大軍をけちらすなんて卑怯ではなく単なる戦術
真正面から戦うことだけが卑怯じゃないなんて、それは数が多いほうが有利。
その方がよっぽど卑怯に思えるが。
ここは私見で卑怯かどうかを決めるスレですか?
378 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/01(木) 23:05:04 ID:/jlwl8Ot
数が多いだけで勝つのは卑怯だと漏れも思う
>>373 義経追討の兵を頼朝が募ったときはまだ奥州に逃げてませんが。
数が多い方が有利なのは単なる戦略ってのに繋がるのか?
銀河英雄伝説みたいだな。
>>379 >>373が言いたいのは義経が奥州に逃げたと分かった後でも
頼朝が2年以上も奥州征伐を引き伸ばした点を指摘してるんじゃ?
そのうち1年は母親の供養のため殺生を禁止してるから、だったと思うが
2年以上も待つ必要はないよなあ。
義経が死んだと分かったとたん、嬉々として奥州征伐に乗り出してるし。
ただ、義経が死んだ後も義経生存説に鎌倉が踊らされたりしてる所を見ると
義経に同情的だから兵が集まらなかったというより、
平家討伐での義経の戦い方を間近で見ていた鎌倉武士は、やっぱ義経と戦うのが怖かったって部分もあんじゃないの?
でなきゃ死んだはずの人間の影に(怨霊という意味ではなく)怯えるか?
あと吾妻鏡を見ると頼朝は御家人への恩賞にあげる没官領がない場合
けっこう自分の財産をやってるよ。
義経暗殺も頼朝の命令でやらせる以上、成功しても何の恩賞もなしってわけにいかないでしょ。
恩賞がなければ兵が集まらないことは、関東の御家人を知る頼朝自身がよく分かっていることだし。
>>381 論点がずれてる。そもそも私は、
>>303の
>いや吾妻鏡には義経追討に名乗り出た御家人がほとんどいなかったり、
義経の首を見た御家人が泣いたりと、幕府内には義経に同情的な御家人も多くいたのではないかと思われる記述があるけれど、
のここを受けて、
「この時、義経は所領を持ってないから、彼を討っても恩賞にあずかれない。
つまり、ただ働きも同然だからみんな積極的じゃなかったんだろう」
と書いた。文治元年の状況を踏まえて書いているのであって、
奥州に逃げた後とは、また話が別。
>平家討伐での義経の戦い方を間近で見ていた鎌倉武士は、やっぱ義経と戦うのが怖かったって部分もあんじゃないの?
禿同。それも怖じ気づいた一因かなあとは思った。
384 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/01(木) 23:52:24 ID:Q0bJJbaj
実はきめ細かいところで、史実(又は最新の説)に近い描き方をしている。
例えば、木曽義仲の最期。
東へ落ちる義仲は後ろ、つまり京都方面から追ってきた兵に捕捉された。
範頼率いる源氏の本隊は、勢多付近に留まっていた。
で、京都を制圧したのは宇治を突破した義経軍で、後白河院の御座所を保護した後、
義仲追撃に転じたと考えられているので、描き方として正解!
>>383 そう?
同じことだと思うが。
ようは義経討伐に兵が集まらなかったのも、
奥州の土地が手に入るのに討伐がなぜか引き伸ばされたのも、
義経と戦いたくないという御家人が多く、兵が集まらず士気も上がらなかったからって可能性が考えられるってことでしょ。
まあ吾妻鏡の義経の首見て御家人号泣が事実だったら、の話だが。
386 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/02(金) 00:24:10 ID:I7wLIqrO
387 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/02(金) 07:10:15 ID:GyGIH2Rm
義経は平泉で死んでいません。
中国に逃れてジンギスカンを食べました。
>>372>>358 本屋の立ち読みなので詳しく書けないが
何かの専門書で
義経の奇襲は「三種の神器奪還特別チーム」ではないのか
という説を読んだことがある。
確かに戦線が広い所の一部分を少数の兵力で奇襲しても
戦略的効果は薄いと思う。
桶狭間のように大将のみのターゲットをしぼるとか
この説のように重要なものの奪取というならば
戦略的に意味があると思うのだが。
もしそうなら三種の神器を奪還し損ねた義経は負け戦だろ
>>388 特攻野郎Aチームみたいでかっこいいなw
Aチームのコピペ↓
391 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/02(金) 21:23:50 ID:5zr8nJhj
>>388 >本屋の立ち読みなので詳しく書けないが
>何かの専門書で
>義経の奇襲は「三種の神器奪還特別チーム」ではないのか
>という説を読んだことがある。
なるほどな。
俺は、今まで逆だと思っていた。
「三種の神器奪還」が圧倒的な優越目的であるにもかかわらず、
眼先の勝利と、平家を滅ぼすことを優先してしまい、
奇襲につぐ奇襲、
それに水夫を狙い撃ちするという反則技(少なくとも西国では)を
やったのかなと思っていた。
「三種の神器奪還」なら、奇襲よりは
じわじわと平家を追い込みながら、
政治的駆け引きで、「三種の神器」を取り戻そうとするのが、
よりすぐれていると思うからな。
>>372 鵯越の逆落としを史実と考える研究家のほうが今は少ないでしょ。
一の谷での義経の進軍コースは、具体性には欠けるが信憑性は高い「玉葉」や
その後ほぼ同じ場所で行われた合戦(湊川の合戦)等を検証した結果、
山陽道を東に抜け一の谷の木戸を攻め落としたもの、と自分が読んだ本にはあったな。
(これが史学会で支持されてる説かは知らんよ)
ただ逆落としはなかったとすると、すぐ義経は実際には何も手柄を立てていないと思われがちだけど、
義経が一の谷の陣を落としたことは玉葉にも記されているので、方法は違えど結果的には平家物語どおりやることはやってるんだよね。
(もちろん平家物語の活躍は誇張されてるけど)
個人的には、自軍も犠牲にしかねない無謀な戦術をとったとするより、
現実的で合理的な戦術をとり、ちゃんと頭で考えて合戦してたって方が義経の再評価になると思うが。
頼朝は「三種の神器」を後白河との駆け引き材料にしようとしてたんだから
それを台無しにした義経と倦厭になっても仕方ない罠
景時は無実
と言いつつ、
>>388の説もありうるかなと思う。
頼朝が目指したのは東国の独立で、
その政治交渉のため三種の神器を取り戻す方が平家を滅ぼすことよりむしろ大切だったっぽいし。
手柄を立てたにもかかわらず、一の谷後義経が恩賞をもらえなかったのは
三種の神器を取り戻すという最優先事項を達成できなかった罰という説もある。
>>394 東国の独立ってのは言いすぎだったかな。
東国の自治権くらいだろうか、当時は。
>>395 「東国の自治権」とやらについて
詳 し く
能子は本当は義経の妹じゃないってよく聞くけど平家物語のオリキャラなのか?
だとしたら千年以上オリキャラとしてでしゃばっているのでうつぼよりはるかにタチ悪いな。
>396
今まで東国の豪族は、多額の税金を逃れるため自分の土地を公家や寺に(名目上)預けなければならなかった。
でも、御家人は自分の土地は自分のものとして所有地の権利を認め、保護してくれるシステムを望んだ。
朝廷の言いなりになっていてはそれは出来ない。
それをやるには朝廷はあくまで今まで通り頂点に置きながら、
東国の自治に関してはある程度は好きにやらせてもらうよ、という政治が必要だった。
御家人に与える恩賞については、まず朝廷が決めるけど頼朝の許可が必要とか、
国司も置いていいけど守護も置かせてもらうよ。
というのが、朝廷を立てつつ朝廷から一歩距離を置いた政治かな。
「朝廷の言いなりにならず、朝廷から一歩距離を置いた政治」が東国の自治ってことでどう?
このスレには自分よりよっぽど詳しい人が多そうだから、
補足反論お願い。
>>397 廊の御方は平家物語には出てこないよ。
自分が初めて廊の御方を知ったのは角田文衛の
著書だった。
原作者はこの人について歴史の勉強をしたらしい。
清盛と常磐の娘という設定はドラマチックで小説家の
創作意欲をかき立てるってのは、わかるんだけど
出典の「尊卑分脈」が資料として確実とはいえないから
存在が疑われているんだろう。
>>399 巻第一、吾身栄花に
其外九条院の雑仕常葉が腹に一人、是は花山院殿に
上臈女房にて、廊の御方とぞ申ける
とあるようですが?
>>400 速攻ツッコミありがとう。
そでした、出てましたね。
すんませんでした。ペコリ。
>>398 「東国の豪族」だの「御家人」てな言葉で十把ひとからげにして
鎌倉幕府に結集した勢力を語るのってものすごく説得力低いと思うですが?
個別に語ったら凄い量の文と専門的な考察が必要なんじゃないのか?
>>403 その通り。
「東国の豪族」の代表的存在(でしょ?)たる上総介広常を見てみても、
朝廷に対する態度は「東国の自治」なんてな安易なフレーズで拘れる程
単純なもんではないでそ。
であるのに鎌倉幕府を中央に搾取され続けて来た東国の豪族達の希望の結晶w
みたいな語り方をしちゃうのって
…最近の本読んだ事ある?
ってカンヂだな、実際。
>>394-398>>402-404 最近のこの辺りの議論は首をつっこむとややこしいが、
今までの見かたと違ってきてますね。
幕府の解釈の仕方
武士というものの定義
貴族vs武士という図式の見直し
荘園公領制の見直し
などなど
大きな流れとしては
従来の「唯物史論」から脱皮しつつあるというところでしょうかね。
で、結局頼朝は幕府で何をしたかったのさ
てかなんで幕府をつくったのさ
よく頼朝は幕府を作って「武士の武士による武士のための政治」をしようとしたとか言われるけど
(これもあいまい過ぎてよー分からんけど)
こういう考えも最近はしないってこと?
まず、今までの前提として
武士=開発領主という図式が否定されています。
また、俗に「武士」と呼ばれる人々も
「官位を有したり(中央系)、地方の国衙の役人だったり(地方豪族系)
荘園の管理人だったり(地方豪族系+京くだり系)」
という風で「公家社会の一員」だったと言われています。
頼朝に望まれた事はは坂東で勢力争いを続ける豪族の調停役
坂東の武士の土地の所有権の保証とさらなる拡大
(今までは、荘園領主や国衙に握られていた任免権の確保
それによって御家人の土地の所有が中央の政情に左右されなくなる。
それまでは、中央の政治地図の変化で在地の管理権や力関係がすぐ変わった)
この辺が基本線だったと思いますが
これ以上は色々説が分かれていますので突っ込めませんし
私自身も消化不良なので
もっと詳しい方補足訂正等お願いします。
あなた歴史学者ですか?
子供でもそれくらい知ってる
ちょうどいま本屋に並んでいるであろう
歴史読本別冊『歴史の争点 武士と天皇』あたりを
読んでみるのはどーよ?
いま考えてみれば自分が子供の頃は酷い歴史教育を受けたものだ
413 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/03(土) 12:59:19 ID:0NMKiQSK
>>399 角田文衛さんは、色々なことを精密に調べて
膨大な書物を発行した凄い人だが
時として、思い込み先行や論拠が希薄な場合もある。(一部分だが)
例の廊の御方についても
「清盛と常盤との間に男女の関係を 否定する史料がない」
ので存在した
という物凄い論理で存在を主張していた。
事実がもし無かったとしたら否定する史料があるはずはないのですが・・・
415 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/03(土) 13:56:24 ID:eYT1rKHE
398さんの場合は
>今まで東国の豪族は、多額の税金を逃れるため自分の土地を公家や寺に(名目上)預けなければならなかった。
の部分が最近の学説と少し違うかな?
といったところです。
408でもあるように
武士=開発領主という図式が当てはまっていません。
開発領主が新たに荘園を開発するには
大貴族や国司の保護や援助なしには成立しなかったようです。
独力で開発した在地領主がいやいや税逃れの為
貴族や寺社に名目を預けたという図式のみでは
説明がつかなくなっています。
それどころか、寄進が貴族とのお近づきのチャンスだったという
見方すらもできます。
398
>でも、御家人は自分の土地は自分のものとして所有地の権利を認め、保護してくれるシステムを望んだ。
この辺りは
408
坂東の武士の土地の所有権の保証とさらなる拡大
は似ていますが
398
>朝廷の言いなりになっていてはそれは出来ない。
というニュアンスと
408
>それまでは、中央の政治地図の変化で在地の管理権や力関係がすぐ変わった
が少し違います。
408の場合は
地方豪族は独自社会を築いていたわけではなく
中央の権力者にかなり密接にちかづいてその力を背景に
在地に居ついたり、勢力を伸ばしたりしました。
しかし、平安末期は権力の所在がコロコロ変化したので
自分の親分の政敵がコケたら自分もコケ
自分の親分のライバルの手下が大きい顔をする
という状況だったようです。
つまり、398の場合は
「朝廷」とひとくくりにしたものからの影響力排除というニュアンスにとれますが
408の場合は
「朝廷内の勢力争い」からの影響力排除といった点で
微妙に違います。
労働組合と中間管理職グループくらいの違いかな
ある程度大雑把じゃないと長文ばかりになるし、
どうせ詳しい人が読めば各人で意見の微妙に違う点は多々出てくると思うが。
しかし、小難しい事、長々と書いていらっしゃるなぁ・・・。
初心者の私には、よう分かりませんわ・・。
やや、乱暴な比較をすると
398は武士が団結して貴族政治を打ち破ったという
従来の歴史の見方が入っていて
408は
武士と貴族はお互いに依存しあっていて本来対立するものではなかった
という見方に基づいているのではないだろうか?
420 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/03(土) 15:15:50 ID:WY98uMwf
後世、「武士」が確立した身分であり、日本の支配階層であるのと異なり、
平安時代末期には、「武士」という身分が確立していないからな。
「兵の家」とかいうものはあったが、職種というか、技芸の継承者という感じだな。
貴族社会の末端に連ならなければ、それこそ「庶民」だったろうな。
>>385 亀でスマンが・・・。
やっぱ、頼朝が、義経が奥州へ逃げ込んだ後、二年も放置しておいたのは
義経の軍事的才能と巨万の富を持ち、十七万騎の軍勢を持つと
言われた奥州を敵に回して戦うのは不都合だと考えたからだろうね。
奥州の風聞は「玉葉」に色々書いてあるな。
「秀衡が攻め込んでくる」だの「秀衡と頼朝が手を組んだ」だの・・・。
それぐらい奥州の軍事力が注目もされ恐れられてもいたんだろうが・・・。
>まあ吾妻鏡の義経の首見て御家人号泣が事実だったら、の話だが。
号泣っていうか・・・。義経の首って真夏の暑い時期に
長い時間をかけて鎌倉に運びこまれたんでしょ?
さぞかし腐敗が進んでひどい状態だったろうから、号泣より
「オエッ!!」って感じだと思うんだけど・・・。ま、あんまり首の
状態がヒドイからみんな思わず涙を流したのかも。
>>391 >「三種の神器奪還」なら、奇襲よりは
じわじわと平家を追い込みながら、
政治的駆け引きで、「三種の神器」を取り戻そうとするのが、
よりすぐれていると思うからな。
歴史小説家の永井路子は、そういう攻め方をせずに、
御門も三種の神器も海に沈める結果になってしまったのが、
「義経第二の失敗」だと言ってたな。ちなみに、「第一の失敗」は
「無断任官」だそうだ。
神門は清盛の孫だから死んだことで結果的に頼朝は得したと思う
>>422 いやいや、後白河院には無傷で天皇を帰したほうが強気に出れる。
後ろ盾をなくした上皇は無力でいてもいなくても関係ない。
江戸時代以降の史観と、戦前の皇国史観と、
さらにまずいことに戦後のマルクス主義wがごっちゃになったのが
一昔前の歴史観だからねえw
やっぱり難しいなあ。
簡単に言えば土地を安堵してやるし、新恩も保護保障してやるから俺について来い!
つって出来たのが鎌倉幕府だったってこと?
でも挙兵した頃の頼朝って、官位も剥奪されたままだし所領も持ってなかったよね。
それでも東国の人間にこの人についていけば大丈夫だと思わせられたのはなんでだろう。
よく言われるのは源氏の貴種だったからだって話だけど、
源氏の貴種だと例えば朝廷に御家人に恩賞を与えるかどうかは、幕府が決めますからと言って認めさせることが出来たの?
と思ったけど、
>武士と貴族はお互いに依存しあっていて本来対立するものではなかった
お互い持ちつ持たれつなら、ある程度は東国のやり方も認めなければ貴族も迷惑をこうむることになるってことか?
>>425 >それでも東国の人間にこの人についていけば大丈夫だと思わせられたのはなんでだろう。
平家が東国の人間の所領や既得権を奪う動きを示していたから。
ちなみに平家は治承三年クーデターの結果、十数か国の知行国を獲得、そこの目代を
一斉に自らの家人に変更する動きをしていた、といわれてる。
その結果、頼朝だけでなく、全国で内乱の動きが起こっている。
さらにいえば、後白河を幽閉することで、高倉=安徳=平家の王権の正統性に疑念が生じたのも
大きい。(頼朝は後白河院の姉の近臣だったから、後白河院の近臣に準ずる存在でもあったわけだし)
興味が出てきたので
鎌倉幕府成立について最新の研究が載ってる本とかご存知の方いましたら教えてください。
いろいろお願い事ばっかでスイマセン。
>>426 レスサンクスです。
自分がガキの頃読んだ本には、一族で栄華を独占する平家に東国の武士が反発して
源平合戦が起こりました、なんて書いてあったけど。
さすがにそこまで単純でチャチな理由ではないにしろ、
平家のやり方への反発ってのもあったんでしょうかね。
北条も平氏だ死ね
430 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/03(土) 23:50:06 ID:uIempJDI
義経の画像テレビでやってたぞ
不細工と評判でした 美形とか妄想だって
>429
北条も梶原も千葉も三浦も畠山も幕府の有力御家人はみんな平氏系。
そんなことわかってるでしょ。
>426>428がいってる平家は都の清盛一派のことでしょ。
ホントか嘘か知らんが、平家の本流を平家、それ以外を平氏と呼んだと聞いたことがあるな。
でもNHKのサイトでは最近の学会は全部ひっくるめて「平氏」呼びが主流だとあった。
>430
その番組は見てないけど、公式サイトを見る限りじゃ不細工説の根拠は
平家物語よりも史実性の怪しい源平盛衰記と、室町時代以降の作といわれる中尊寺の肖像画か・・・。
(わざわざ「物語」とついていない源平盛衰記を持ってくるあたりに、どうせし素人にゃ物語と史料の区別なんてつかねえだろ的やらしさを感じる)
日本一受けたい授業の先生、変えたほうが日本の歴史教育のためだと思うよ。
つーかあの頃の美男と今の美男は一致するのか?
一致しないでしょう。
原節子から山田優まで60年で変わっているように。
435 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/04(日) 01:34:06 ID:cPfvQ31X
>>426 >平家が東国の人間の所領や既得権を奪う動きを示していたから。
>ちなみに平家は治承三年クーデターの結果、十数か国の知行国を獲得、そこの目代を
>一斉に自らの家人に変更する動きをしていた、といわれてる。
>その結果、頼朝だけでなく、全国で内乱の動きが起こっている。
伊豆は頼政の知行国であったから、
伊豆一国に限っては、この考えは当てはまらないんじゃないか?
もっとも、東国全体の動きのなかで、伊豆も無縁で入られなかったかもしれんし、
頼政挙兵の失敗の後は、おくればせながら同じ状況になったといえようが。
>後白河を幽閉することで、高倉=安徳=平家の王権の正統性に疑念が生じたのも
>大きい。(頼朝は後白河院の姉の近臣だったから、後白河院の近臣に準ずる存在でもあったわけだし)
それは、叛乱を後押しする理由になったとは思う。
しかし、特に括弧内は、頼朝を担ぎ上げる理由になるのかなという疑問がある。
そもそも、頼朝が流人やっているのは、
平家と私戦をやって敗れたからではなくて、
平治の乱に首謀者に準ずる地位で参加したからだな。子供ながらも。
治承三年クーデター同様の事をやっているんだが、
担ぎ上げる段階では、勅勘がとけるかどうかわからないというより、
後白河院との関係は最悪になっていると坂東武者は考えるんじゃないかな。
だから、初期の段階では、後白河院との関係は、度外視していたと思う。
436 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/04(日) 07:30:31 ID:lchU8cgL
美男だという証拠見せろよ
437 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/04(日) 08:27:22 ID:5ERJcdwR
>>435 >伊豆は頼政の知行国であったから、
伊豆一国に限っては、この考えは当てはまらないんじゃないか?
でもないですよ。
頼政が死んだ直後伊豆の知行国主は平時忠に変更。
国司は平信兼、その目代が山木兼隆に変更。*
すると、いままで実権を握っていた狩野介などが勢力後退を余儀なくされ
平家家人の伊東氏が勢力を拡大してきた。
伊豆でも平家系が力をつけてきたという状況もある。
その中で頼朝と北条氏はかなり危機感を感じていたと思う。
*ちなみに、よく政子との結婚話に出てくる山木からの脱走話。
山木は頼朝と政子の結婚の時点では目代ではない。
山木が目代になったのは、上記の通り頼政の死後のことで
このころ既に大姫は生まれている。
着任から死まで山木が目代でいたのは半年くらいのこと。
438 :
437:2005/09/04(日) 08:31:08 ID:5ERJcdwR
上記の状況で
>頼政挙兵の失敗の後は、おくればせながら同じ状況になったといえようが。
でしょうね。
以仁王からの令旨をもらってから半年以上たってからの
挙兵というのはこういう背景もあると思うのです。
439 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/04(日) 08:36:02 ID:5ERJcdwR
>>427 わりと一般向けでわかりやすいのが
野口実「武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか」(新人物往来社)
かな
本当は木曾義仲が嫡流だったのを
平家物語編纂時に歴史が捏造された
>>427 わりと一般向けでなくてわかりにくく
かといって業界向けでもないのが
保立道久『義経の登場 王権論の視座から』(NHKブックス)
かな
>>441 それに、系図ばっかり、遠い親戚を無理やり関係者にするし
さらにソースは弱い。
何のために書いたんだろ?
>>440 実際に為義の嫡子は義賢だったという説もありますね。
ただし、義仲の兄には貴族の娘を母とする兄がいましたから
義賢が生存していたとしてもそっちが嫡流になったでしょう。
兄の上にさらに兄がいたんですね
>>425 >武士と貴族はお互いに依存しあっていて本来対立するものではなかった
>お互い持ちつ持たれつなら、ある程度は東国のやり方も認めなければ貴族も迷惑をこうむることになるってことか?
荘園制度を維持するには「軍事力」が必要だったようです。
幕府が成立以前荘園の管理でも武力が必要だったらしいこと(元木氏)
幕府が成立して各国への守護の設置により軍事力警察力が安定してはじめて
荘園支配が安定したとのこと(勝山氏)
だそうです。
>>443 義朝:母が白河院近臣藤原忠清ゆえ、為義の忠実・頼長接近に際し廃嫡、関東下向
義賢:殺人犯を匿ったかどで東宮帯刀長を罷免、廃嫡され上野下向
で、保元の乱段階では三男の頼賢が為義の嫡子、ってのがわりと通説でない?
この頃の流れ見ると源氏と平家の合戦っていうよりも
源氏の嫡流争いのどさくさの間に平家まで
とばっちりを受けて滅ぼされた感がありますね
知盛の辞世の句
原文は
「みるべきものはみつ」
「べき」は「可能」の意味だから
どうせ現代語に吹き替えするなら
「みられるものはすべてみた」
という台詞にすべきだった。
451 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/05(月) 01:48:51 ID:+okE7Hyj
べしには可能の他に推量意志当然適当命令の意味があるから、一概に可能とも言えないよ。
お徳が平家の栄華を清盛一代で築き上げ・・・と言ってますが、
瀬戸内の制海権を得て、貿易を始め、公卿寸前までいった親父の忠盛も
白河院の寵姫に荘園を寄進して、六波羅に平家の基礎を築いたじいさんの
正盛もスルーですか。
平安時代って、一代で成り上がれるシステムにはなってないよ。
清盛の栄達も本来は白河院の子だってことだろ。
>>452 >清盛の栄達も本来は白河院の子だってことだろ
それは「(天皇の遠い子孫だとしても)田舎武士なんかに栄達を極められたなんて信じたくない」っていう京の貴族たちの妄想
454 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/05(月) 02:46:25 ID:u1JK23eF
>>452 >平家の基礎を築いたじいさんの
>正盛もスルーですか。
六代の名のいわれのところで、解説するという技もあるな。
「清盛様のお父上の代から」見てきたお徳ナレに期待だな
でもそれ以前に六代被斬はやりそうもない気がする
史実のお徳は、壇の浦の頃には死んでいるんだけどね。
入水した平家女官が浮いてくると上から小便かけて笑っていた。
459 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/05(月) 08:25:24 ID:FjpcyTam
>>452 院近臣からのし上がった人物は「大納言」どまりが普通なので
院近臣家出身の清盛が「内大臣」→「太政大臣」になったのは
白河院の子だというのが公然の秘密となっていたからだ
という説(元木泰雄)がある。
西の研究者ほど白河落胤説を支持する印象があるなァ。
ゴミ氏の人物叢書『平清盛』は落胤説を退けてるよね。
>>450 時に手持ちの『平家』(覚一本と延慶本)では知盛の台詞は
「見るべき程の事は見つ、」なんだが、
「みるべきものはみつ」
ってのは何本?
462 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/05(月) 09:58:52 ID:SVkjQN2g
>>460 そういえばこの時代の見解って東日本の学者と西日本の学者では
かなり見解に違いがあるとよく言われていますよね。
五味さんは東で元木さんは西。
他に代表的な人って誰でしょうか?
463 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/05(月) 10:04:28 ID:XanDSo2h
平田あったね!
安徳天皇が徳子に抱えられて入水したはずが、
身代わりが入水し、本物は生き残ったという説はホントかな。
>>459 そういや、後白河の寵臣藤原成親は、鹿ヶ谷の時は権大納言、
その父親で鳥羽院の寵臣だった藤原家成は極官が中納言
だったよな。
467 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/05(月) 13:51:20 ID:npJ3GU8o
守貞親王って後高倉院だよね?
壇ノ浦に連れて行かれてたってマジ?
>>467 連れて行かれましたよ。
ただし、ドラマのように身代わりにされることは無かったでしょうが。
ちなみに、平家は
安徳天皇以外の高倉院の皇子を囲い込んでいたようで
このドラマでも知盛の妻が守貞親王の乳母。
後鳥羽天皇の乳母は時子の異父弟の妻だったようです。
その弟は一緒に都落ちしましたが、妻は都に残って源通親の後妻になります。
後鳥羽天皇(即位前)も平家と一緒に連れて行くつもりだったのかも
知れませんが、上記の状況もありなんらかの事情で連れて行けなかったのかも
しれません。
>>468 >後鳥羽天皇の乳母は時子の異父弟の妻だったようです。
その弟は一緒に都落ちしましたが、妻は都に残って源通親の後妻になります
それが後に後鳥羽の乳母として宮中で権力をふるう、卿二位の
姉ですね。
話題のヒトは高倉範兼の娘で法勝寺執行能円に嫁すも、能円の西行ののち
通親に再嫁した範子タンですな。
『平家』巻第八、山門御幸には、先に西国に落ちていた能円が
「宮(のちの後鳥羽ね)も連れて落ちて来い」と言って来たのを兄弟の範光が
「此宮の御運は只今ひらけさせ給はんずる物を」と言って止めて、
結果即位する事になったとあるね。
471 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/05(月) 18:50:11 ID:ef9Q+WQd
>>459 >院近臣からのし上がった人物は「大納言」どまりが普通なので
普通じゃない保元・平治の乱があったから、違った結論もあるだろう。
院の寵愛頼りの昇進と異なり、
時を得て、清盛の実力とカリスマで己にふさわしい地位を得たと考える
方がいいんじゃないかなと思う。
時を得たというのは、慈円によれば「武者の世の始まり」だし、
実力・カリスマについては、平治の乱後、清盛なくして、
天下はおさまらないと公家を承服させ、頼もしく思われるだけの
優れた人間だったということだろうな。
実際には女船はもっとオロオロのワナワナ動揺しまくりで
「誰々しぼん!」「キャー」「誰々しぼん!」「キャーキャー」
もうだめ!涙ぼろぼろ!そこへ知盛りカミン「もはやこれまで・・・」
半パニック状態で決意ドボーン
なんじゃないの?
473 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/05(月) 19:10:38 ID:TaJjWAoN
実史では、一の谷の戦いも、壇ノ浦の戦いは無かった様です
なぜかと言えば12〜3キロもある鎧兜を着装して、浜辺とか船の上で
チャンチャンばらばらと切り結ぶ事は無理です
あの鎧兜はこけ脅しの飾り物です。源平の戦いは、暗殺と裏切りそして
スパイとゲリラの戦いでした。
>>470 範子は後鳥羽の後宮に入内して、第一皇子を生んだ
在子の母親でもあるね。在子は通親の養女になって入内したんだよね。
守貞親王は承久の乱で仲恭天皇が廃位された際、息子が即位して
後堀河天皇となり自らは後高倉院として院政を執り行った。
その際知盛の妻、治部卿局、つまり夏川結衣は親王の乳母だったので
四位に叙されそこそこ良い思いをした模様。ちなみに享年八十。
そろそろ甲陽軍艦を語るスレの方が面白そうだ
477 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/05(月) 21:34:37 ID:b20G04dE
478 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/05(月) 21:39:29 ID:+DnAZVQd
宣伝乙
479 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/05(月) 21:41:22 ID:b20G04dE
480 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/05(月) 21:43:52 ID:Rm9QH6Me
安徳天皇は死んだってことでいいじゃん
481 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/05(月) 22:44:34 ID:oC0riH86
あ〜あ、とうとう能登守教経出てこなかったね。
再来年は
甲陽軍鑑が史実? プッ バカジャネーノ
というレスが舞い踊ると予言しておく。
>>472 これからは東男が相手をしてくれるだろうと知盛が女達に
ブラックジョークを飛ばしたので女達は「敵にレイプされるっ」
ガタガタ(((;゚д゚)))ブルブルとパニックになりました。
東男が云々っていうのを負け戦のときにこんな
ブラックジョーク飛ばせるんだから知盛は大物だね
後高倉院のヨメの北白河院藤原陳子って
池殿の孫娘じゃーん?
てーとアレだ、大河の中では後堀河ってのは
清盛と頼盛の曾孫なんだな。
>>471 >普通じゃない保元・平治の乱
普通じゃない頼朝ですら、権大納言どまりなことはどう説明する?
頼朝も、余人なくして天下はおさまらない、と公家を承服させ、
頼もしく思わせていたんじゃないの?
この時点での大臣任官をそんな簡単にみるべきではない。
あ、ちなみに実朝の右大臣就任は、公卿の人数が前代にくらべ三倍になった
後鳥羽院政期だから、比較の対象にはなりませんからね。
>>486 それに高倉帝はまだ即位していないから、清盛は天皇の外戚でも
ないよね。滋子が女御になったのも翌年のこと。
ただ、清盛内大臣就任は憲仁親王(後の高倉帝)の立太子後なので
東宮の後見とも見れるかも。
488 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/07(水) 00:38:38 ID:i95nY7aJ
>>486 >普通じゃない頼朝ですら、権大納言どまりなことはどう説明する?
>頼朝も、余人なくして天下はおさまらない、と公家を承服させ、
>頼もしく思わせていたんじゃないの?
頼朝の場合は、そもそも、そんなの目指してなかったということで説明できないか?
権大納言・右近衛大将だって、
断りまくって無理やり押し付けられたんだから(上辺だけというかもしれないが)、
望めば大臣就任も可能だっただろう(在京を条件にだろうが)。
>あ、ちなみに実朝の右大臣就任は、公卿の人数が前代にくらべ三倍になった
>後鳥羽院政期だから、比較の対象にはなりませんからね。
昇進のスピードが摂関家の子弟並なんだが、
別に、摂関や院の御落胤と言うこともないな。
ついでに、清盛の昇進のスピードを考えれば、
平治の乱の時点で、40越えているんだが、いまだ公卿じゃないんだな。
ご落胤だから大臣になれたというなら、この時点で、
もっと昇進していそうなものだろう。
左右を経ずして太政大臣より、よほど無理がないと思う。
確かに、先祖に比べれば、目覚しい昇進だろうが、
それは、頼盛も似たようなものだろうし、家盛が生きていたら、
追い越されかねなかったほどだろう。
>>487>>488 面白そうなので参加させてください。
清盛が太政大臣に就任したのは、まだ二条天皇が在世中で
後白河院と天皇との間で冷戦状態だった頃ですよね。
この頃の太政大臣就任をどのように解釈なさいますか?
また、
>左右を経ずして太政大臣
とありますが、太政大臣は実権の伴わない名誉職という解釈もあります。
このへんもどうご解釈されますでしょうか?
>平治の乱の時点で、40越えているんだが、いまだ公卿じゃないんだな。
ご落胤だから大臣になれたというなら、この時点で、
もっと昇進していそうなものだろう。
平治の乱以前は信頼や信西一族、天皇側近の経宗などがいて
清盛の競争者となりうる人物がたくさんいたという事情もあったのではないでしょうか?
平治の乱以降は、これらの人物の死去、政界追放、
また、前摂政忠通の死去などもあって
清盛以外の実力者がすべていなくなったという事情もあったと思いますが。
実朝については、
頼朝によって家格が上昇していたという事実も関係したかもしれませんし
(ちなみに、北条などの有力御家人も諸大夫家に上昇)
「官打ち」という説もありますね。
>>488 >頼朝の場合は、そもそも、そんなの目指してなかったということで説明できないか?
頼朝が「自らの官位上昇を目指していなかった」理由について、
どう説明なさるお考えですか?
>>489 二条帝は清盛、太政大臣就任の二年前に亡くなっている。
また、平治の乱後に清盛の競争相手がすべていなくなったということはないよ。
藤原経宗は配流先から戻ってきて左大臣になっているし、清盛と年齢がそう離れて
いない一階上の藤原忠雅や源雅通なんかもいたからね。
そういう連中をごぼう抜きできた理由は、清盛が御落胤だからっていうより当時の
宮廷の事情によると思う。
もちろん清盛は、御落胤の噂を大いに利用したんだろうけど。
維盛じゃなく宗盛が跡目を継いだのは何故?
元々嫡子は重盛ではなく宗盛で必然的に維盛も嫡孫ではなかった?
富士川の件で廃嫡された?
維盛が出陣するたびに負けて周囲の信頼を失い宗盛が立てられ宗盛もその気になった?
宗盛が嫡妻(時子)所生だからでそ。
清盛シボン→後家の時子が家長代行→愛息?の宗盛に肩入れ、小松さんちは爪弾き
てなカンジ?
>>491 >そういう連中をごぼう抜きできた理由は、清盛が御落胤だからっていうより当時の
>宮廷の事情によると思う。
もちろんそう。
そもそも、「清盛御落胤説」は、諸大夫層の一人でしかない
清盛がスムースに内大臣に任官でき、かつ貴族社会からの
反発もほとんどみられなかったことについての説明にすぎない。
言ってみれば「なぜ清盛が大臣になれたか」の説明であって、
平氏政権の成立やらなんやらを
「落胤」で説明しようとしている人間はまともな学者の中にはいないので
そのへんは混同のなきように。
そういう意味で、
>>488氏がきにしておられる昇進スピードと、
任大臣の可否とは多少次元の違う問題なんですよ。無関係ではないけど。
>>493 うーん、やっぱりそうなのかねぇ?
重盛のブルードメアサイアもそこそこ名のある人だったみたいし
官位の上がり方からすると庶子扱いではなかった気もするんだけど・・・
>>492 重盛はかつて清盛が任じられた官位を与えられてるし、
史料を見ても正式に嫡子扱いだったと思う。
ただ、鹿ヶ谷で平家討伐に荷担した藤原成親と二重にも三重にも
縁戚関係を結んでいたので、陰謀が発覚し成親が遠流→処刑
となった後は、重盛の政治勢力は後退したらしい(参照「人物叢書 平清盛」)
で、代わりに勢力を伸ばし始めたのが、異母弟の宗盛。
重盛も清盛も死んだ後は完全に主流は小松家→宗盛のところに
移ったらしい。「平家」によると、壇ノ浦で小松さんちの坊ちゃんたちは従兄弟の行盛と
手と手を取って入水したんだそうな。行盛って言う人は
重盛の同母弟・基盛(早世)の息子で、この話は、
時子とは血のつながってない彼らは平家では疎外されてた
んだなあ、ということを想像させる。
498 :
493:2005/09/08(木) 22:04:58 ID:R/Hj2LW1
>>495 俺も小松の親分さんこそが清盛の嫡子だったと思うよ。少なくとも生前においてはね。
庶出・嫡出って意味ではちょうど清←→家・頼と重←→宗・知が対応するカンジ?
で、親父と違ったのは重さんが若死にしちった点で、結果小松さんちは非主流になってくって事でどぉ?
>>494 じゃあじゃあ、いわゆる治承三年のクーデターについて
後白河の王権の不安定さ、逆に清盛の皇胤という権威、それを背景として王権を我が物にしようという意識なくして、この改変はありえなかったであろう。(『院政と平氏、鎌倉幕府』109頁)
なんてな事を宣う元木泰雄も、まともな学者じゃあないんでつね?
>>499 ほう、その記述は見逃していましたな。
元木泰雄がまともでない、とはとてもいえないので、
>>494は勉強不足をお詫びして、撤回いたします。
501 :
499:2005/09/09(金) 00:33:20 ID:gMiy1HUv
>>500 まぁなんだ、揚げ足取りでスマソ。
でも、前にも書いたが、西の研究者様は割と王胤てのを前提に話をするよね。程度の差はあれ。
>>501 まぁ、「周りからご落胤扱いされてたとみられる」っていうことがきちんと論証されてる分には
問題ないと思う。
>>499で引用なさった部分も、清盛が王権を絶対視してなかったっていってるだけだし。
これが「清盛は自らが皇位につくことを狙ったのだ」とか言い出したら問題だけど。
>>502 んー、
「清盛が王権を絶対視してなかった」ってのにはややギモンヌ。
あくまで元木氏が言う所は
清盛は自身が「皇胤」たるとの認識を前提とする事で、
ただでさえその正統性が疑問視されるところの「後白河の王権」を
相対化し得た
って事でそ?
↑、元木はもうどうでもいいよ。大事なのは、おまいがどう考えるか?だよ
>>503 ポイントを
>ただでさえその正統性が疑問視されるところの「後白河の王権」
ここにおくのなら同意。
王権の(内心、あるいは行動における)相対化は義朝も、
はなはだしくは、為朝・義平も行ってるからね。
実際に王権を改編までしちゃったのは、清盛以降は
承久の乱まで待つ必要があるわけで。
>>505 いゃ、言いたかったのはさ、
あげておられる義朝たちが相対化したのは王権「そのもの」なのに対し、
清盛のそれはあくまで「後白河の」王権であって、
高倉や安徳の存在をあげるまでもなく、王権というもの自体を相対化したわけではない。
この差は大きいんでない?って事なんよ。
禿しくスレ違いな気がするのでもぅやめますね。
よかったら史板の「元木」でヒットする某スレあたりでやりますか?w
元木どうでもいいよ元木
509 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/10(土) 08:13:40 ID:4+rBP6La
∧_∧ *、/
___ ( ´∀`)(''''') age
\ ⊂ つ⊥
 ̄ ̄ゝヽ(⌒)⌒) ゝ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧  ̄ ̄ ̄ ヽ
>>507 そのスレ全然回っていないので是非行ってあげてください。
本放送が見られず、再放送で平家滅亡をさっき見たのですが……。
嘘だらけでなんか嫌。もう少しうまく描けなかったのかなあ、という印象です。
せっかくのクライマックスなのに、もったいないというか。
また色々知りたいので保守
hoshu
514 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/12(月) 12:30:43 ID:J2Lzm++b
義経と建礼門院との対面おかしすぎ。
高貴な女性は男性とは御簾越しに対面。
直接声をかけず、側近の女房が言葉を伝える。
しかも義経が「直垂」で対面。
いくら敗軍にいたといっても気遣いなさすぎ。
>>514 まあ、それいったらあんな痴話喧嘩のような会話するはずもないし
516 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/12(月) 15:44:29 ID:ldIBF/Vp
時代考証がちがちでやったら全然面白くないよ
>>514 負けた側にそこまで配慮しないだろう。
その場しのぎの陣営内だし。
義経と建礼門院の船上でのセックスを期待していたんだが・・・。
>511
>本放送が見られず、再放送で平家滅亡をさっき見たのですが……。
>嘘だらけでなんか嫌。もう少しうまく描けなかったのかなあ、という印象です。
>せっかくのクライマックスなのに、もったいないというか。
うまく描けなかった一番の理由は『予算が足りなかった』からでしょうw
予算以前に
演者・スタッフ以下の才能が不足してる罠
まあ、そもそも義経って人がさ、大河ドラマで主役張れる程に立派な人間じゃないからねえ。
想像と妄想を膨らませて捏造でもしないと、とても放送に耐えられないからねえ。
>>521 立派な人間ってなんだよ。聖人君子か?
聖人君子なんて歴代の大河ドラマにそんな主人公は一人もいなかった事実をおまいは知らないのか?
日本人が義経を千年間愛し続けていたのは英雄の条件満たしていたからであって聖人君子だったからじゃない。
そのくらい理解しろよ
>>522 521は漫画のヒーローしか見たことないんじゃねの?
一番有名な漫画のヒーローの義経っていったら火の鳥のブラック義経だったりして。
526 :
オムツ幹部、略してオムカン:2005/09/13(火) 00:24:05 ID:c2sXfAis
/⌒⌒γ⌒ ヽ
/ γ ヽ
/ i"´  ̄`^´ ̄`゛i |
| | | |
ヽ / ,⌒ ,⌒ヽ./
!、/ ヽ ノ V
|6| | .|
ヽl ノ( 、, )ヽ ) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ヽ ヽ二フ ) / < ♪幼女レイプ♪幼女レイプ♪やっほー♪やっほー♪
丶 .ノ \
| \ ヽ、_,ノ \幼女も失神する平手打ち食らわすぞ!
. | ー-イ \___________
少しブラックだが、平家の生き残りのだれかの直衣を借りて
建礼門院と対面ってできなかったのかな?
女院と対面するのに直垂というのは
結婚式にTシャツ・ジーンズに出席するようなものだから。
これからレイープしようってぇ時に、礼服で出て行く奴はいないと思うが、(ww
>>528 おまいに似合う名前をあげよう
つ「ちんこ」
意味は脳味噌までチンコになってるから。
コテハンにするといい。
531 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/15(木) 07:32:33 ID:IOysomOo
>>528 レイープ話を延々と続ける野郎、頭があるなら陵辱とか言葉を工夫しろや。
俺様は伝頼山陽さまの原典訳本を持ってる、裏山しいだろ?
533 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/15(木) 11:44:21 ID:OtNNDbOu
>>532 陵辱は間違い。正しくは→凌辱
恥ずかしいなー。
伝頼山陽さまの原典訳本を持ってるけど、読んだことないんだろ。
>>532 家にもあったぞ。今は市が管理して展示されているが
武家の流れで絶えてなければ持ってるところは珍しくないぞ。
原作の宮尾さんの「義経」に常盤は一条との間に出来た娘と歩いている時に
「義経の行方を尋ねられた」とあるのに、平家滅亡よりも先に大河で死んでるってどういうことよ?
>>535 吾妻鏡の原文に
「文治二年 六月小十三日、己未、当番雜色宗廉、自京都参着、去六日、
於一條河崎観音堂辺、尋出与州母并妹等、生虜可召進関東歟由云々」とある。
一条河崎にある観音堂の辺りで、源義経殿の母上と妹君を見つけ出しました。
捕縛して関東に連れて行きましょうか。というような内容だが
尊卑分脈に記されていないことから、これは常盤と一条長成の子、能成とその嫁
を指しているのではないかといわれている。
義経と能成は三つ違いで、その間に女子が生まれていたとの記載はないんじゃ
なかったかな。
それと常盤の生没年は不明なので小説ならいくらでも創作できるんじゃないかな。
>>536 実際には常盤ではなかったかもしれないってこと?
>>538 常磐御前とその娘と思われる捕縛については事実だったと思われるが
娘が能子ではなく、能成嫁ではなかったかということ。
>>539 なるほどー。自分は娘というのは、能子以外に常盤御前には娘がいるのかと
思っていました。父が清盛ではなく一条さんなのかなと。
541 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/15(木) 17:39:22 ID:hf8bJBJO
範頼って壇ノ浦の前に豊後で平家軍に包囲されてたのに、何でいつの間に壇ノ浦に
参戦してたんですか。包囲してた平家軍はどこに行ったんですか
>>540 一条長成との間に娘がいたなら尊卑分脈に載っているはずだから
やはり嫁とみて間違いないと思う。
>>541 壇ノ浦に参戦というより、平家方の退路を絶つため
九州沿岸を守っていた。
544 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/15(木) 19:01:45 ID:hf8bJBJO
範頼豊後で包囲されてたのに、どうやって壇ノ浦付近まで行ったんだろうか。大河じゃ
報告で範頼が豊後で苦戦していることしか分からないのに、いつのまに、九州の平家軍を
撃破してたのかなあ。
それくらいのことはググれ
546 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/15(木) 20:07:42 ID:OpnUcQiw
そういや平幹二郎って平氏の子孫?
548 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/15(木) 20:25:55 ID:Jy69c+83
大河では北九州しか出てこないが
当時の南九州ってどうだったのだろうか?
平家みちよ っていたな
>>542 >尊卑分脈に載っているはずだから
・・・・・へえぇ
>>533 532じゃないけど「陵辱」が間違いってどういう意味?
漢字が違ってるってこと?
「陵辱」も「凌辱」も間違いじゃないよ、意味は同じだよ。
>>551 辞書ひいて味噌
陵=天皇・皇后の墓
凌=すごい すさまじい
辱=はずかしめ
凌辱=すさまじいはずかしめ→暴力で女を犯すこと
陵辱=天皇皇后の墓をはずかしめるのか?・・・そんな言葉はない。
>>552 「凌」は常用外字表にはない字だから「陵」が一般的じゃない?
間違えた。
誤)常用外字 → 正)常用漢字
>>555 陵=天皇・皇后の墓
という字義から考えれば、その辞書は間違っていると断定せざるを得ない
辞書が間違ってるって・・・・・。
>>556は何者?
横レス失礼。
>>558 辞書がまちがっているときは良くある。
字の解釈が時代によって変わってくることもあるので
辞書もまちまち。
「お言葉ですが」の高島のじいさんも辞書を編纂した人間を
名指しで批判していたりするからな。
561 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/17(土) 01:00:22 ID:KxWYkDxg
ここは日本だから、日本で「陵辱」で通じるなら、それでいいんじゃないの。
ま、漢字ではなく、カタカナでレイプというのが普通だろうがな。
こうこういう風に、漢字をなくしていけば、わが国独自の文字で読み書きすることになり、
つまらん問題でもめなくていいな。
それに、「陵」はもともと丘という意味だから、
天皇・皇后に無礼ということもあるまい。
凌辱 = 無理矢理入れる
陵辱 = 墓をあばく
レイープさせたい人には残念だけど
「壇の浦夜合戦記」では女院さまも喜んで義経と交わっているので
無理やりレイープでは無いようだな。
庶民の好奇心が生み出したものだから。
高貴な方と戦で連戦連勝の若き司令官との恋愛物語。
壇ノ浦夜合戦記はエロ系のフィクションなんで、参考にはならんがな。
>>536 普通に一条と常盤の娘と思ってたんですけど違うんですか?
義理の妹なら、義経の妹なんて書かれる無いと思うし、すぐに釈放されそうだし。
能成生んだ後に出来た娘だと思ってるんですけど。
むしろ生んでないのは能子のほうだと思う(こいつは架空人物か、もしくは清盛が名もない愛人に生ませて母親がわからないのをいいことに常盤の娘ということにされたと昔何かの本でみたので)
>>566 捕縛しましょうか?と鎌倉にお伺いを立てたとの記述があっただけで
実際は捕縛されたわけではないよ。
能子は常盤の子ではない見方が強いが、一条長成と常盤の間に娘が
生まれていたのなら尊卑分脈なりに能成の後に女子某との記載があるはずだが。
尊卑分脈自体、けっこう後(南北朝くらい)にできたもんじゃなかったっけ?
>>568 洞院公定(1340〜99)によって書き始められたものらしいけど
源平の有名どころは史料が残っているので結構正確ではないかと
言われているらしいと聴いたが。
それより枝分かれした物については誤謬もあるだろうが。
>>567 女子某との記載>>
そうそう、それなんですよ。
大抵の系図って女は余程名のある人間じゃないとどんなに高貴な家柄の娘でも女としか記されないんですよね。
(例えば天皇に嫁いだとか)
だから一条と常盤の娘も女に生まれたばかりに尊卑分脈に記載されずにはぶかれてしまったんじゃなかろうかと思ったんですが、そういう可能性はないですか?
男子はともかく女子はかなりいい加減な扱いでしたから。
色々と昔の系図とか見てると女でも某に嫁いだことがあるひとなら『○○室』みたいな感じで残っているけど、独身したり早世した女子はぞんざいな扱いですし。
>>569 確かにある程度は正確かもしれんが、同時代に作成された
ものでないので、やはり同時代の人が書いた日記など
に比べれば信憑性は落ちると思う。
正確性でいえば同時代に作成されたものでも
時の権力者寄りに書かれていたりするからあまりあてにはならない。
>正確性でいえば同時代に作成されたものでも
>時の権力者寄りに書かれていたりするからあまりあてにはならない。
今の議論は視点や主観の問題ではなく、記録として正確かどうかの問題だと思うが。
574 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/18(日) 03:43:35 ID:y6NpsbQA
記録としての正確性を議論するなら、公卿や朝廷や豪族が書いた日記の
天気を照らし合わせて合ってるかどうかを基準にしたとかじゃないのか。
575 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/18(日) 09:11:11 ID:kAGce3eS
どなたか9/11放送の義経ビデオに撮ってらっしゃいませんか?
昨日の再放送も撮り忘れちゃって・・・最悪(涙)
撮ってらっしゃる方、お譲りいただけませんか?
[email protected]までご連絡お待ちしてます。
576 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/18(日) 10:21:31 ID:JnmOxRnh
>>570 確かに、女性の場合結婚したり宮仕えした場合はきちんと
系図に載せてもらえますが
公的活動が一切無いと系図からこぼれおちる可能性大ですね。
清盛の娘たちに関しても再調査の結果
今まで次女とされていた徳子は実は「四女」なのではないか
とも言われていますし。
中流貴族の長成の娘の場合は編纂の時点で零れ落ちた
可能性は大きいと思います。
以下余談。
系図に「女子」としか残っていないのは男尊女卑の結果ではなく
当時は本名で相手を呼ぶのが忌避されていた時代。
特に女性は本名を知られるというのは
「裸を見られる」のと同じ感覚だったということで
余程のことが無い限り本名を知られないようにしていたという
文化があったという背景があったからだと思います。
宮仕えする際も、「女房名」を使っていたくらいですから。
577 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/18(日) 11:18:25 ID:tBcxBkJt
義経の首は実検されたあと海に打ち捨てられ、浜辺に打ち上げられていたっていう
記述を読んだが、いくらなんでもこれは信じられない。埋葬くらいはされたはず。
義経の墓ってどこにあるの? もちろん当時、埋葬されたとされる墓のことですが。
>>577 埋葬された墓というのは吾妻鏡や義経記にも記されていなかったと思うが
藤沢市の白旗神社に埋葬されているという伝えはある。
牛若時代の義経の師、聖弘上人が首を貰い受け藤沢に埋葬したという説と
浜に打ち捨てられた首が潮流の関係で川を遡り、亀の背中に乗って現れ
子供の口を通して義経と名乗り、それを聞いた集落の人が手厚く葬った説。
どちらも伝えだが、藤沢市には首洗い井戸と首塚の碑が残っている。
579 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/18(日) 15:50:16 ID:tBcxBkJt
>>578 なるほど。自分としては聖弘上人かどうかは確認できないまでも、寺社で供養された
という説を信じたいですね。
謀反人扱いとはいえ弟ですし、頼朝は首実検には参加しなかったらしい。内心、罪悪
感はあったと思う。政治を優先すれば義経は殺すべき邪魔者だったにしても。
首を打ち捨てるのでは寝覚めが悪いでしょう。
表向き打ち捨てたという事にしたのではないかと思いたいですね。
平泉では義経の身代わりになったという武士の話も残ってますし
4月(6月)に43日間もかけて奥州から首を運んできて正視に耐えない
状態だったと思うから本人かどうかもわからない。
岩手の宮古市には生きて3年3ヵ月篭ったと言われる森もあるので
伝説の中だけでも生き延びていて欲しいものです。
581 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/18(日) 17:01:00 ID:mhjxSKPZ
無断任官自体を頼朝は怒っていたのか、
以後、義経に倣って、無断任官する御家人に怒り、
その原因をつくった義経に怒っていたのか?
「怒り」という言葉は不適当かもしれないが。
単に、御家人が無断任官しなければ、頼朝としても、
「まあ、仕方ないか」ぐらいでおさめていたのではないかなとも思う。
ここの過去スレってどこかで見られますか?
ドラマ、ビデオにとってたのをやっとざっと見たんですが、
義経が義仲を説得に行く場面って何か元になった資料があるのでしょうか。
>>581 あの義経に習って無断任官した御家人たちに対する
頼朝の怒りは凄まじかったね。相手の身体的特徴も織り交ぜて、
ネチネチとイヤミ、あてこすりを言ってやったとか。
無断任官リストの最初にのってる梶原景季が
義経に「あんた嫌われてますぜ」って言いに来るあたりが笑える。
墨俣からこっちに来るとぶっ殺すとかどうとか、
石坂浩二と岸田森のときは面白かったな。
景季も無断任官してたのか・・・。
588 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/18(日) 21:06:32 ID:Awh3v/lZ
589 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/18(日) 21:12:37 ID:A4YmeVp/
佐藤忠信も無断任官者だったことが
見事にスルーされていましたね。
>>585 景季ではなく梶原友景の間違いじゃないか
神器2種を頼朝に知らせず法皇に返還したことが
頼朝の不興を買った・・・というのは史料にあるの?
591 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/18(日) 21:31:29 ID:XnrGMeR6
ドラマでは(天皇との)すり替えからして滑稽なのであるが、
史実上の守貞親王について書いてみる。
平家滅亡直後、上西門院の庇護下に入る。
その年、「親王宣下」を受ける(それまで親王ではなかったらしい)
平知盛妻の他に、乳母がいて(平頼盛の娘で持明院基家の妻)その娘陳子を娶る。
二人の間に何人かの子供が生まれ
承久の乱の後皇子が即位、後堀河天皇となる。
そして、親王は「後高倉院」となり即位することなく院政を敷くことになる。
>>585 >>589 右衛門尉季重(平山季重)の次の「左衛門尉景季」が梶原景季だな
残念乍ら?悪口は書いてないけど
>>591 >>その娘陳子を娶る
読みは「チンコ」でいい?
594 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/19(月) 06:38:35 ID:Mwnt5y2m
時忠の美人の娘にうつつをぬかし、大事な書類を燃やして
頼朝の怒りに油を注ぐシーンはないのかな
やだなあ、娶った相手がチンコだったら
>539
「のぶこ」じゃないかね。
597 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/19(月) 18:54:25 ID:ZF+/5BNs
そうだろうが、有職読みするじゃない。
式子内親王も「のりこ」だろうが、
「しょくし」または「しきし」というのが普通だな。
正確な読み方がわからないからかもしれないが。
音読みだったら「チンシ」じゃん
今一般に通用している高貴な女性の名前の訓みのほとんどは
某角田翁が「命名」した、というのが定説
「見目麗しい女子よのう。して、そなたの名前は?」
「チンコでございます。」
いやだあああああああああ!!!!
>>599 komattatokiniwa
yoshiko
tteyatsudesuna
護良=モリナガもそいつのせい?
603 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/20(火) 09:15:46 ID:pV3OKhQp
良をナガと読むのはよくあるの?
昭和天皇の皇后良子ナガコ
最近じゃモリヨシと読むようになったらしい。
606 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/20(火) 11:00:07 ID:Eflk4dEG
「良」を「なが」と読むのが認められているのは皇族だけ。
608 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/20(火) 11:53:27 ID:pV3OKhQp
無知・身の程知らずとして失笑を買うだけじゃない?
今でも子供に「〜仁(ひと)」ってつける奴はいないし。
610 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/20(火) 14:18:08 ID:pV3OKhQp
>>609 おれの知り合いにいた。しかも某宮様と同名。
身の程って何?
612 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/20(火) 15:00:54 ID:FTGWjtDG
女体の陵を辱めるっていう意味で陵辱
「殿・・殿・・・あぁん・・・」
「チンコ・・・チンコ・・・うっ(どぴゅ)」
いやだあああああああああ!!!!
615 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/21(水) 03:27:43 ID:GJ+MSn9i
>>610 あやかりたいとかで、皇族の名前をつける馬鹿はいるな。
特に何かに秀でたということもない人の名前を付けて、
何をあやかるのかよくわからんが。
立派過ぎる名前をつけると名前負けしてウルトラバカになるという。
一昔前には皇族の名前つけると不敬罪になるんじゃなかったか?
618 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/21(水) 11:37:01 ID:OH6/KKFb
皇族名前は、現代だとミーハーな皇室オタかと思われて痛い
愛子だとかつけてる馬鹿は大勢いそうだ。
この間、読んだ漫画の主人公の名前が「秋仁」だった。
ま、マンガだから別にいいかw
愛子は昔からある名前じゃないか。
>>619 うちの大叔母は愛子。
今年70歳。
先取りだ。
623 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/21(水) 22:07:42 ID:2LcwSD90
皇族ではないが、皇族に近い人に柳原愛子というのがいたな。
大正天皇の生母だな。
「あいこ」ではなく、「なるこ」と読むんだが。
ゆずの北川悠仁とかは…?
けっこう「〜仁」はもう今は普通に使われてるもんだと思うけど。
625 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/21(水) 22:54:33 ID:OH6/KKFb
>>604 護良親王がモリヨシだったら、弟の義良親王がヨシヨシ親王になっちゃうから
まずいと思ってナガにしたんじゃない?
626 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/21(水) 22:59:11 ID:2LcwSD90
>>625 「のりよし」で問題なかろう。
西行法師の俗名も、佐藤(藤原)義清(のりきよ)だな。
もっとも、憲清とかとかかれることがあったから、
義は(よし)ではなく(のり)だろうとされているだけかな?
ここ、いつの間にか名前スレと化してるなw
591がきっかけか。ほのぼのしてていいなw
>>624 仁を「ひと」とは読まないがな
北川の場合、音読み。
結局、宮様って御用学者がすんごいマニアックで由緒正しい
名前をつけるから「読み」も一般人とかぶらないんだろうな。
大体 仁 なんて普通「ひとし」だし(里見八犬伝では「まさし」)。
後、〜宮の 〜を下々の者があやかるのはアリみたい。
浩宮の生まれた年には浩がつく名前がはやったようだよ。
愛子様(やはり宮が付かないと呼び捨ては抵抗あるな)の場合
色々考えて1周してよくある名前になったのか?(皇太子(浩宮)が
分かりやすい名前を希望したみたいだけど。)でも、今時の親は娘が
70・80の婆さんになったら困るような得体の知れない名前を
付けるから、かえって同年代ではかぶらない名前かも。
あと 浩宮の生まれた年→浩宮幼少時 ね。可愛らしい姿に
あやかった親が多い。まあそんな世代ももう30代後半だけどね。
631 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/22(木) 13:11:41 ID:PegxrDJX
>>622 うちの婆ちゃんも愛子。御年83。あの頃流行ってたのか、この名前?
> 愛子様(やはり宮が付かないと呼び捨ては抵抗あるな)
・・・・。
〜仁はダメで〜子はいいの?
歌手のaikoも本名愛子だよ
635 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/22(木) 16:44:15 ID:nvplbJEH
平安時代から貴族の女子の名前にはほとんど「〜子」がついてるからいんじゃね?
636 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/22(木) 18:41:06 ID:/a8uBTS1
「明仁」で検索してみろよ。結構いるから。
昔であれば、改名させられているだろうがな。
大伴親王の即位で、いにしえからの名族「大伴」は
「伴」に氏を改めねばならなくなったほどだな。
そういう問題じゃないだろw
なんというか…生きてきて「〜仁」で「〜ひと」と読む人に
何人も出会ってるから、この論争そのものが理解できない。
いまどきそんなん気にすんのじいちゃんばあちゃんくらいなんじゃないの?
「子のつく名前は頭がいい」とか「いい家の娘っぽい」とかいうイメージで滅びないんだよな。
640 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/23(金) 16:35:26 ID:5SnUI0SU
>>639 >「子のつく名前は頭がいい」とか「いい家の娘っぽい」とかいうイメージで滅びないんだよな。
直接的な意味では、間違ったイメージといわざるを得ないが、
間接的な意味では、真理であるな。
いい家かどうかは、価値判断だからおくとして、
頭がいいというのは、ある程度評価は可能(頭のよさにもいろいろあるが)。
で、「子のつく名前」をつける親というのは、
少なくとも、流行だからといって得体の知れない名前をつける親ではない。
その多くは、頭がいい部類に属するだろう。
で、そういう親に育てられた子どもは、例外はあるとしても、
頭がいい部類の子になるだろうと思われる。
なぜなら、馬鹿は遺伝しないが伝染はするところ、少なくとも
馬鹿に接することは少なく、馬鹿になることはないからである。
↑縦読み
就職、受験などの際にもし
「めるも」と「紀子」が同学歴・同能力ならば、
「親が常識的だろう」という判断で「紀子」を採用するって話。
終わり!
めるもなんているのか?
信じられん。
最近はなんでもありだからね。
近所のヤンキーのガキが軒並み「エリカ」だの
「みあ」だのだったのには笑った。納得したよ。
えりか子
とか
みあ子
とかでいいんじゃないか?
646 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/24(土) 01:27:27 ID:nl1o02Yv
おいおい、スレタイとあまりにもかけ離れすぎているぞ。
名前スレもいいが、せめて「義経」の登場人物に絞ろうや。
義経とか子どもにつける親が居るがそれこそ史実を理解してないというか。
さぞかし暴れん坊で迷惑で頭が良くなくてしかも早死になのではと・・・。
あと、出っ歯の女好きになったりしてな。
一番悲惨なのは自分もそうだから思うんだが運痴な。
学校の体育・職場のレクで名前負けで失笑を買い続ける。
保守ついでの話題。
前回、北条義時が鎌倉にいたが
「吾妻鏡」によると範頼にしたがって九州に出陣していたらしい。
あの時期に鎌倉にいることが可能だったんだろうか?
「出っ歯の女」 「好きになったりしてな」
「出っ歯の」 「女好きになったりしてな」
すげー
653 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/25(日) 23:14:34 ID:Kvn6Dzcd
あげとこうかな。
654 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/25(日) 23:57:10 ID:6wW+TQmS
院政期だというのに何故、男色シーンが全然
登場せぬのか?
奇怪千万ぢゃて!
はいはい。
久々に史実ばなし。
今回平頼盛が伊豆にいる重衡を訪ねてきたが、
頼盛は壇ノ浦の前に都に帰っている。
しかも、5月には出家している。
(重衡が南都に向かったのは6月頃)
鎌倉にものすごい勢いで戻ってカツラをかぶって重衡に会ったに違いない<よりもり
658 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/26(月) 15:33:37 ID:fE8+NglU
>>654 あるじゃないか。ミキティの不気味な笑みはどうみても男色だよな。
義経もやられちゃったんだろうか。
重衡と宗盛って会ったっけ?
会ってないよな・・・?
660 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/26(月) 22:45:40 ID:izAZBvL4
史実よりも地図上おかしいこと
伊豆に居た重衛がなぜ酒匂川で宗盛と出会ったのか
酒匂川は小田原の東にあるので京都に行くには通りません
661 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/27(火) 00:19:41 ID:K2xM3CMy
だって清盛と常盤がデキていたのが史実だと言い切る平家ヲタが原作だぞ?
>>661 >清盛と常盤がデキていたのが史実だと言い切る平家ヲタ
それはまだ想定内ってーか、許容範囲内でそ。一応傍証史料もあるんだし。
663 :
:2005/09/27(火) 01:02:37 ID:zMCFZF3r
古の時代から権力者が取って代わったとき、取って代わられた権力者の女も
次の権力者の女になる法則(見目麗しい場合は)
伊豆って精確にはどこのことだろうな。
東側ならば身内が来たんだからわざわざ酒匂まで出張って
兄と会ってもおかしくは無い。
660がどこまで静岡と神奈川の地理に詳しいのか知らんけど。
665 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/27(火) 02:46:47 ID:luxAUAgn
>>664 狩野氏に預けられたであれば中伊豆のはず
京都に行くには三島経由で行くので酒匂川は通らないよ
わざわざ箱根を越えて酒匂川を通り更に足柄を越えるような
ルートは有り得ないよ
666 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/27(火) 07:56:05 ID:bG1EGLG5
院政期だというのに何故、男色シーンが全然
登場せぬのか?
奇怪千万ぢゃて!
667 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/27(火) 10:56:28 ID:3+7szkkY
はいはい。
668 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/27(火) 13:19:07 ID:DcavfFFc
今年の大河ドラマ「義経」の最終回
義経は命からがら大陸に渡りジンギス・カンと名乗る。
そして、その子孫のフビライは、御先祖ジンギス・カン=義経の恨みを晴らすべく、
鎌倉政権下の日本を襲撃する。
よって、来年度の大河ドラマは2001年度の再放送。
ジンギス説は昔の人の妄想だから
つ登録商標
672 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/27(火) 17:56:17 ID:DcavfFFc
>>670 2001年度の大河は、「北条時宗」(鎌倉幕府第八代執権)
つまり、蒙古襲来の話。
673 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/27(火) 18:05:25 ID:WlHJt1r4
義経を生かしておきたいという気持ちはわからんでもないが、
ジンギス・カン=義経説とは、とてつもないことを考えたな。
せめてアイヌの酋長ぐらいにしておこうぜ。
ま、これもアイヌの人々には失礼だろうがな。
ひょっとしたら、こんな珍説もあったりするかな。
674 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/27(火) 18:33:24 ID:DcavfFFc
アイヌの酋長ではインパクトに欠ける。
ジンギス・カンではまずければ、
更に北上してロシア皇帝になった、というのはどうだろうか。
675 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/27(火) 18:39:40 ID:WlHJt1r4
>>674 ロシア皇帝というのが、この時代存在しないからな。
で、キエフ・ロシアは多くの酋長(後世の公爵に該当する言葉だから公と訳されるが)
がいて、しかもモンゴルには恭順の意を表している体たらくだから、
それに該当するといってもあまりかっこよくなかったりする。
676 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/27(火) 20:32:12 ID:h2XIkEwe0
歴史知らないからって馬鹿にスンナ くやしー!!!
江戸時代頃は義経が蝦夷に行ってオキクルミ神になったとか言われてたんだよね。
江戸の初めに、系図屋さんがでっち上げた中国の史書では、金朝(モンゴルの天敵)の
武将の先祖が義経って書いてあった。後でこの系図屋は自分のでっち上げを認めてる。
明治になって、大陸に進出するようになってからジンギスカン説が盛んに言われるようになった。
似たような例に、源為朝琉球王朝始祖説話がある。どっちもその地域の英雄をひっぱりだして、
日本人(大和民族)でしたと主張する政治的な与太話。まともに信じてる奴はアホ。
日本は古代から征伐した一族を神として祭り上げる習慣があるけど、
恨まれないように鎮護の意味を込めているわけだな。
義経はさすがに作りすぎ。
高木彬光だったか、推理小説にしてたね、義経=ジンギスカン説
あのー。
もし、お尋ねしてよければ教えてほしいんですけど・・・。
「平重衡」って、清盛の実の息子ですよね?
なのにどうして「平○盛」ではないのでしょうか?
名付けのいわれなど、おわかりになったら、
教えてください。
681 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/28(水) 01:19:45 ID:iPuX1hcP
>高木彬光だったか、推理小説にしてたね、義経=ジンギスカン説
あの名作を・・・
682 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/28(水) 02:35:58 ID:UAeqdgmn
「重」は、長男「重盛」からとったのだろう。
「衡」は平氏には結構多い。
「盛」は平家の嫡流に与えられる字、
嫡男に万が一のことがあった場場合を考えて(実際、長男・重盛は早世した)、
三男までは「盛」を付け、重衡は四男、家督を継ぐ可能性が低いので、
外されたのではないだろうか。
源氏の嫡男は「義」だが、頼朝が「義○」でなかったも、このような理由だろう。
683 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/28(水) 03:12:44 ID:IPxCCAPb
>>682 >源氏の嫡男は「義」だが、頼朝が「義○」でなかったも、このような理由だろう。
頼朝はそもそも嫡男だから、この部分は蛇足だろう。
源氏にも「頼」がつくひとはいるな、義家の父、祖父もそうだな。
頼朝の「頼」は直接的には、烏帽子親の藤原信頼の「頼」だが。
平家にも頼盛っていなかったっけ
686 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/28(水) 08:01:59 ID:0afv9wZ4
院政期だというのに何故、男色シーンが全然
登場せぬのか?
奇怪千万ぢゃて!
「ハイ、ハイ」と言うておくぞよ!
687 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/28(水) 09:09:40 ID:XcQC+J13
>>682 重衡は五男。重盛の同母弟で早世した基盛が次男。
>>677 源為朝って義経の叔父さん?お祖父さん?
私も名前について疑問が・・・
義経の「経」はどこから来たんでしょう?
鞍馬寺で修行してたときにお経を唱えてたからそこから?
>>688 叔父さん。弓の名手。少年の頃から乱暴だったのでその父為義により九州にやられたが
暴れ回った。そこで鎮西と呼ばれる。八番目だったので八郎。つまり鎮西八郎
保元の乱では夜討ちを主張するが却下され負けた。その後島流し。
ところで、ここから私の質問
1.島流し先は、たしか八丈島とかじゃなかった?
2.平治の乱の時は生きてた?死んでた?
3.生きていたら、平治の乱の時に何をしていたの?
690 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/28(水) 11:11:24 ID:UAeqdgmn
>>683 >頼朝はそもそも嫡男だから、
頼朝は結果的には嫡男になったが、元々長男ではないので「義」でなかったのだろう。
「義」の付く兄たちは平治の乱の折に死去しているので。
確かに源氏には頼朝以前にも「頼」は何人かいる。
例えば、頼義(義家の父)の「頼」は公家からもらったらしい。
他はわからないが、源氏にとって「義」ほどの由緒はなかったと考えて良いだろうか。
>>688 為朝は、為義の子で義朝の弟。
義経は、義朝の子。
よって、為朝は義経の叔父にあたる。
691 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/28(水) 11:53:03 ID:YNRCNAdV
>>688 >1.島流し先は、たしか八丈島とかじゃなかった?
伊豆大島です。
八丈島は流刑先で大暴れしていたときに
「八郎為朝」が発見したしまだったから
はちろう島→八丈島となったとの説があります。
>2.平治の乱の時は生きてた?死んでた?
生きてます。
>3.生きていたら、平治の乱の時に何をしていたの?
流人してます。
ちなみに、為朝は流刑地で大暴れしたため
伊豆の国人たちによって討ち取られています。
一般的には1170年死亡説がおおいようですが
貴族達の日記によると1176年になっていますので
こちらのほうが正しいようです。
692 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/28(水) 11:59:31 ID:YNRCNAdV
以下余談
この頃の伊豆への流刑者
保元の乱 為朝、藤原頼長の三男
平治の乱 頼朝、藤原信頼の嫡男
その他にも伊豆への流刑者が記録に散見されます。
>>690 母親の身分が一番高いのが嫡男になると聞いたんだが。
で頼朝の兄弟の中では、頼朝が一番。だから嫡男と。
聞き違いかなあ?
>>683 >頼朝の「頼」は直接的には、烏帽子親の藤原信頼の「頼」だが。
藤原信頼って、平治の乱を起こした、あの信頼?
義朝の息子の烏帽子親を引き受けるほど、義朝と
親しかったのか・・・。
695 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/28(水) 14:52:14 ID:UAeqdgmn
>>693 なるほど、嫡流の中では頼朝が長男ということか。
「義」の付く兄達の母は側室だったのか。
余談
・そういえば、頼朝の息子の中には「義」はいませんな。
・足利将軍二代以降すべて「義」が付くのは、源氏本家を強調したかったからだとか。
696 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/28(水) 15:11:11 ID:gtdEK+eL
>>694 元木泰雄「保元・平治の乱を読み直す」(NHKブックス)によると
義平の大蔵館襲撃事件の際の武蔵守が信頼で彼の黙認のもと
義平の出撃がおこなわれたらしいこと、
信頼は奥州に縁が深く、馬などの軍備の調達は奥州に頼る面の多かった
「武」の家にとっては重要な人だったこと
などを考慮して、信頼と義朝の関係はかなり以前からあったものと
考察されている。
697 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/28(水) 15:16:29 ID:gtdEK+eL
>>695 これは川合康氏の受け売りなのですが
頼朝期の頃の「源氏の全盛期」の認識は頼義のようなのです。
そして、頼朝はすべて「頼義」の先例を踏襲したようなのです。
(義家は「衰退期」と認識されていたとのこと)
一方足利氏は自らの正統を名乗るために
「義家」をいろいろな意味で持ち出したとの事です。
以下個人的な意見。
足利氏の始祖は「義康」二代目は「義兼」
と以下暫く名前に「義」文字が続きます。
この辺りの影響もあったのではないでしょうか?
698 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/28(水) 15:20:08 ID:2oqNRwr3
通字はひとつの家系に複数あっておかしくないからね。
毛利には元と広の二つがある。大江広元にちなんで
だけどw
頼と義でどっちが上かというのは微妙だな。
頼信-頼義-義家ときている。「義」の字はこの家系では頼義が
初めてだと思う。おそらくその後「義」が源氏で好まれたのは、
武神八幡太郎「義家」にちなんでじゃないかな。
家康も天下を取った後に生まれた子には源氏の嫡流らしく
義直、頼宣、頼房、と義と頼を使っているね。
699 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/28(水) 16:09:31 ID:BDx6+vfA
家康が源氏の嫡流というのは
家康自身の希望でしょ?
徳川家が源氏の嫡流なんて証拠はどこにも存在しません。
ただウソも長いことつき通して、ほんとのようになったという現象の典型。
戦国大名の出自は、おおかたがそんなところ。
現に出自の怪しい連中は、絶対といっていいほど、鎌倉幕府や室町初期の関係の人名を
自分の先祖に出してこない。それは時代が近すぎるということ。うっかり足利だの
いうと、現役で生きてる子孫からクレームをつけられる恐れがあるなどの理由。
だから藤原のなんたらとか源のなんたらとか橘のなんたらとか菅原のなんたらとか
平安時代以前みたいな名前を先祖に持ってくる。
もちろん血筋自体は無関係でどっかから系図を
買ったんだろうけど、朝廷から源氏長者に
任命されてっからは当時の権威が源氏の嫡流と
認定してる。
だから吉良とか旧家の血筋を高家などで手厚く
遇したのも中に取り込んでいちゃもんをつけさせない
ためではなかろーか。
701 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/28(水) 17:33:30 ID:UAeqdgmn
平安以前、身分の高い人に多いのは、確かに「義」よりも「頼」のほうだ。
足利が源義家の子孫だというのは本当なのかな?
義家の八代後の子孫・足利家時は、義家の遺言のお陰で切腹する羽目になった、
というエピソードは有名だが。
>「義」の付く兄たち
>以下暫く名前に「義」文字が続きます
┐(゚〜゚)┌
>>701 頼朝の頃に源氏一族と認められているんだから、
家康とは訳が違うよ。
偽造は不可能だと思うが。
704 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/28(水) 19:07:27 ID:IPxCCAPb
>>696 >元木泰雄「保元・平治の乱を読み直す」(NHKブックス)によると
面白い本だよな。
この本読むと、結構、信頼って立派ジャンと思ってしまうな。
どんな立派な人でも、負けるとボロカスに言われるのは、
石田三成を見てもわかるから、世のならいなんだろうが、
「平治物語」に描かれる信頼は、ここまで、、、と思うほどだな。
このイメージが今日に至るまで残る、といったところかな。
>>682 >「盛」は平家の嫡流に与えられる字
傍流にも「盛」の字があるのだが・・。
業盛、通盛、※国盛※(教盛の子)、敦盛(経盛の子)らは、これはどう説明
するんだ?
※教経の本名らしい
>>692 すると、、、為朝と頼朝が、会うなんてことは、あったのでしょうか?
>>700 出羽の半分しか領土でなかった秋田の佐竹氏が国持ち大名格だったのもそのためと聞きました。
れっきとした源氏ですものね。
708 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/28(水) 19:56:44 ID:2oqNRwr3
>>707 ただ、佐竹って途中で山内上杉の血統になっているんで
すよね。まあ家としては清和源氏だけど血統は違う。
で、本物のの清和源氏の血統で江戸時代の大名というと、
細川くらいでしょうかねえ。幽斉は足利義晴の落胤説が
ありますけど清和源氏には違いない。
南部も可能性はあるけど、細川ほどはっきりしてないな。
709 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/28(水) 19:58:33 ID:2oqNRwr3
小笠原が清和源氏ですな。
710 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/28(水) 20:02:03 ID:2oqNRwr3
あと、綱憲以後の上杉家が血統では清和源氏が入りますな。
吉良上野介の血が入りましたからね。
こういう旗本からの養子をこまめにみていくと結構増えるかも。
>>704 可哀想だよね、信頼は・・・。
「平治物語」には「武もなく文もなく、芸もなく才もない、肥りせめたる大男」
とか書いてあるし・・・。
>>705 なんで本名が「国盛」なのに、「教経」っていう名前が定着したんだろう?
712 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/28(水) 20:19:41 ID:sCi6Zy2a
なんか義経は強いとかいわれてるけど卑怯なやつだから
713 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/28(水) 20:31:57 ID:UAeqdgmn
>>705 説明できん(笑)。
恐らく、本家からもらったのではなかろうか?
714 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/28(水) 22:08:30 ID:XcQC+J13
>>695 頼朝の兄は義平と朝長の二人しかいないのだが
>>693 そもそも、この時代は後世ほど単独相続が確立しているわけではないので嫡流というものが重い意味をもたんからな
兄弟それぞれが親の勢力の一部を受け継いだり、自分で摂関や院に近づいて勢力を伸ばしたりだから
その時に母方の勢力のおかげで他の兄弟より優位に立てるという面が強い
716 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/28(水) 22:44:00 ID:g9+ZH99K
範頼って九州統治に失敗したんですか
どっかの本で解任されたと書いてあったんですが
>>716 そのどっかの本て井沢元彦さんの本じゃありませんでしたか?
井沢氏は範頼に関しては低評価です。
義経の屋島攻略の際、「範頼を解任して義経に指揮官変更」と書いてますが
実際には範頼は中国地方から九州へ上陸作戦の途中で
範頼は範頼で重大な任務の遂行中でした。
(つまり、範頼と義経二将の並立)
九州の統治は失敗していません。
あえて、齟齬があるとすれば九州は範頼、四国は義経という分担があったのに
義経が越権して九州の方まで口出しをした為、指揮系統が混乱したというのが
一部の学者に言われている程度のことです。
>>715 幕府開くまでは身内で敵味方に分かれて勝った方が
生き残って嫡流になったわけだしね。だから
鎌倉幕府も源氏の嫡流が3代で滅んだというより、
義朝系のめぼしい男子がいなくなったというのが
正しい言い方か。出家組はもちろん義朝・義経は
生き延びた隠し子がいそうだ。
719 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/29(木) 12:35:20 ID:XL11ix0G
草薙の剣壇ノ浦に今も沈んでるんですか?
>>718 ああ、そして今。皇室もめぼしい男子が居なくなりつつあるわけだ。
>>719 沈んだのはレプリカだったらしい。
レプリカでも、当時はそれなりに意味があった。
その沈んだものは未だに発見されていない。
>沈んだのはレプリカだったらしい。
もし嘘だったら宮尾レベルのでっち上げだ罠
>>719 諸説あるのだが、
本物はずーっと熱田神宮にある。
魂入れをして分祀されたものが宮中にあった。
しかし、こと皇室のことなのでベールに包まれている部分が多い。
724 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/29(木) 19:37:06 ID:Jx4z6IBF
範頼が九州での狼藉を抑えられなくて寺に訴えられて、後白河法皇が頼朝に範頼の
交代を頼む記事を見たんですが、これは本当でしょうか
>>716-717 井沢みたいな半可通のいうこと真に受けなくていいよ。
常盤を遊女なんて言う程度の認識しかないし。
>>716-717 「吾妻鏡」元暦二年七月十二日条
鎮西の事、且つは武士の自由の狼藉を止め、且つは顛倒の庄園旧の如く国司領家に附
け、乃具を全うせんが為、早く院宣を申し下し、行き向かい巡検を遂ぐべきの由、久
経・国平等に仰せらると。また平家追討の後、厳命に任せ、廷尉は則ち帰洛す。参州
は今に鎮西に在り。而るに以て管国等狼藉有るの由、所々よりその訴え有り。早く件
の範頼を召し上すべきの旨、これを仰せ下さると雖も、菊池・原田以下、平氏に同意
するの輩掠領の事、彼の朝臣をして尋ね究めしむの由、二品覆奏せしめ給うの間、範
頼の事、神社仏寺以下の領妨げを成さずんば、上洛せずと雖も何事か有らんや。上洛
を企てば後悔有るべしてえり。相計らうべきの趣、重ねて院宣を下さるるの間、平家
没官領、種直・種遠・秀遠等が所領、原田・板井・山鹿以下所々の事、地頭を定補せ
らるの程は、沙汰人を差し置き、心静かに帰洛せらるべきの由、今日参州の許に仰せ
遣わさるる所なり。
井沢氏がどう書いているかはしらんが、後白河法皇の要求によって帰還命令が出されて
いるので、事実上の解任といってよいのではないか。
727 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/29(木) 23:01:59 ID:Jx4z6IBF
ただ、義経の復権を目指す後白河の陰謀という見方もあるみたいだ。京都にいた鎌倉
からの派遣者二人をそのまま九州に行ってるし。
728 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/29(木) 23:08:01 ID:YxqbBgbb
>>727 多分そうだろう。公家らしいやり口だ。
法皇の手は、武家は必ず対立させて力を削ぐこと。
頼朝へ対立させる武将としては御しやすい義経が
最適と考えた。となると頼朝に忠実な範頼が邪魔。
となると範頼を除く手を考えるだろうからね。
孫の後鳥羽が幕府をゆさぶる時に公家領の地頭の
更迭を幕府に求めたけど、同じ手口だね。
後白河が権謀家と思うのがまず間違いだ。
じゃ何だ
>>728 ドラマの法皇はどう考えているのかは知らないが、
史実では頼朝と義経を対立させようとは考えていなかったようだよ。
むしろ余計な争いをやめさせようとしていた。
732 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/30(金) 02:14:20 ID:AdqvepeN
>>731 人、特に政治家の意図は、何を書いたり話したかということ
ではなくて、何をしたか、どういう結果をもたらしたかで判断
する他ない。口ではなんとでも言えるからね。
後白河法皇の天皇即位後の行為は、対立勢力を叩くためにある
武家を動かす、その武家が対等してきたら別の武家を対抗させ
て潰す、そして今度はその武家に新たな武家を対抗させて潰さ
せ、そしてその武家に、、、という結果をもたらしている。
こういう法皇が、義仲を倒して台頭してきた頼朝勢力を
そのまま放置すると考えるのはとても不自然。余計な争い
をやめさせようとした言動は自分に火の粉がかからない
ようにするためのものにすぎないとみるのが自然と思うが。
733 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/30(金) 02:34:14 ID:58aehcju
>>731 人の表のみを見るな。裏も見よ(常盤の遺言より)
734 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/30(金) 02:49:46 ID:w/Vui2Ay
結果としては、最大のトラブルメーカーだよな。
ただ、それが権謀術数によるものか、気まぐれか、
そのときの近臣の意見に簡単に左右されるせいか、
そこが問題だろうな。
>>732 いや、だって奥州藤原氏がいるから頼朝に義経をぶつける意味なんてないよ。
奥州藤原氏と頼朝をにらみ合わせておけばいい。
奥州攻めにも最後まで反対していたし(無視して勝手に頼朝は攻めてしまったけど)
後白河にはパワーバランスという発想は無かったんだろうか?
一方を滅ぼしちゃったらもう一方が台頭するのは分かりきったこと。
>>735 の言うように、平家鎌倉平泉がほどほどに牽制し合っている
関係がちょうどよかったんだよ。
737 :
干し柿吾郎:2005/09/30(金) 05:16:49 ID:Is6cVd6h
あれぇ、みんなこんな朝書いて早起きなんだねえ。
>人の表のみを見るな。裏も見よ
ほんとだよねえ。ボク2ちゃんれき長いけど、最初はどのスレもみんなでワイワイガヤガヤ
大勢の人で話しているんだと思った。けど、ずっとやってゆくと自作自演で一人で何人もの役して
書いているんじゃないか、ってスレがえらく多いことに気がついたんだ。一人で書いているから、たまに
他人が書き込んで自分の意にそわない意見だと、何人かのふりして、すぐそのスレから追い出そうとする。
まーったく、この2ちゃんって自閉的な人間がもっと自閉的になるのに便利なところだよねえ。ボクもやめられなくなって
いるけどさ〜あ。
後の承久の乱の結果や武家政権の確立という歴史から遡及して
「武家の力が伸びるときにその相互対立を煽ることによる公家・院勢力を保持しようとした後白河」
という階級史観・発展史観と大衆的な陰謀歴史観の結合である後白河像に最近変化があるのは確かだな
まあ、後白河はもともと武家に限らず朝廷内部や寺社との政治闘争にもずっと関わってきてるし
元は頼朝の勢力下であったろう義経を除けば、
平家、義仲、頼朝、奥州藤原と煽らずとも対立する勢力が動く渦中にいたわけだしな
自分に都合のいいように個別勢力へのリアクションを繰り返してただけで
手のひらで対立を煽ろうとしてたなんて長大な計略ではなかったかもしれないな
義朝の次男:朝長は名前に「義」が付かないから
次男なのに嫡流の可能性無しとされてたの?
それとも悪源太に「義」が付いてたから次男には「朝」を使ったのかな?
740 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/30(金) 18:23:33 ID:sqphImoT
>>737 自分がそうだからと言って他人もそうだと思うのはイクナイ
>>740 まぁまぁ、
>>737は2ちゃんの書き込みですら
他人に共感してもらったことのない可愛そうな人なんだよ。
742 :
千田ツヤ子:2005/09/30(金) 19:58:54 ID:vpA4b+xr
\_WW|WWWWWWWWWWWWWWWWWWW/
≫ あ──っと ≪
≫ ウォーズマンのマスクが剥がされた! ≪
≫ ≪
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743 :
日曜8時の名無しさん:2005/09/30(金) 20:26:45 ID:J6YQx/Lq
ところで範頼って敗戦が一度もないって本当ですか
>>739 どうなんだろうか。
この頃名前をころころ変えることもあったので深い意味はないかも知れないが
烏帽子親が「○長」だったためそれにあわせたという可能性もあるかな?
>>743 大きな戦いでは見当たらないですよね。
中国筋の攻防でなにか敗戦情報ありましたら
私も知りたいので教えてください。
>>744 >烏帽子親が「○長」だったためそれにあわせたという可能性もあるかな?
まさか、烏帽子親は悪左府じゃないだろうな?と思ってしまった・・。
いや、よく考えたらありえないんだけどね。「長」つく人物が
この人しか思いつかなかったもんで。
>>743 >ところで範頼って敗戦が一度もないって本当ですか
すごいな。
織田信長も徳川家康も敗戦経験あるのにな。
にも関わらず今まで馬鹿扱いされてたんだ<範頼
そういう意味で言えば
頼家も実朝も一度も敗戦がないんじゃまいかw
それは実戦経験がないといった方がw
そして奇襲(暗殺)には弱いと。
749 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/01(土) 01:22:48 ID:OMfd383R
>>739 源氏は義・頼を多用するが、それを嫡流には限定してないんじゃないか。
行家なんて十男なのに以前は義盛を名乗ってたし、
範頼・義円・義経にしても似たようなもんだ。
750 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/01(土) 11:35:49 ID:Eo3D9Fgs
751 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/01(土) 12:48:40 ID:Fdix6AI2
ソースはあるの
ちゅうか、頼信のあたりですでに嫡流じゃないだろ。
頼信三男で頼光が長男だし。
753 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/01(土) 13:27:04 ID:ee8W/XiH
>>752 当時は長子相続じゃないよ。
親が棟梁と認めた後継者が棟梁だ。
それにそもそも河内源氏と摂津源氏は別の一門で、棟梁も別との
認識だと思うけどね。
754 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/01(土) 14:56:16 ID:zWOXbmlC
そもそも源氏の氏長者は公家の村上源氏だしね
755 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/01(土) 15:23:16 ID:Fdix6AI2
範頼が小競り合いして負けたなんて記事を見たことないんだがな
756 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/01(土) 19:06:35 ID:KyyhFnci
清和源氏の中では、摂津源氏が嫡流だろう。
757 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/01(土) 20:35:04 ID:0qGww41M
もともとは、摂津源氏が嫡流といえなくも無い、
いわゆるチャキチャキだな。
ただ、頼政の子孫が、鎌倉の御家人になっているんだから、
その時点で、嫡流ではなくなっているんじゃないか?
また、多田行綱は、行方不明になっているし、
その家来たちが、やはり、鎌倉の御家人になっている(多田院御家人)から、
同様に考えられるんじゃないかな。
ま、嫡流とか何とか言うのも、頼朝が源氏神話を作るうえで、
もともとあったものを、針小棒大に言って、権威付けをしているんだろうな。
当時嫡流という考えはあったろうが、構成ほど絶対的なものではなかったんだろうな。
頼朝の代で自分の家系が嫡流であると認めさせ、それを絶対的なものにしたのかな。
奥州征伐と似たようなものだろう。
頼義・義家の代に、奥州藤原氏ほどの勢力を築いていたかのように触れ回り、
それを回復するすべく、前九年の役の日程に合わせた行動をとったりする。
まったく嘘ではないから、信じる奴が出るんだな。
758 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/01(土) 20:40:12 ID:ee8W/XiH
>>757 多分、もともとは河内と摂津と本拠地を別れた時点で
どっちが上も下もなかったと思う。その後同一行動も
していないし。
ただ、義家の存在は大きい。そしてその末裔の頼朝が
天下を取ったことで遡及的に河内源氏が嫡流のように
後づけしたことは当然考えられるね。
分家の本家はどっちって話は不毛だと思うけどなあ。
総本家は天皇家なんだから源氏長者以下は
官位ランキング順じゃダメ?
親が棟梁と認めれば朝廷に一筆書いて知らせるだろうし。
760 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/01(土) 20:53:50 ID:ee8W/XiH
>>759 上で誰かも書いてたけど、源氏の長者は久我家だから、それ以外
は基本的に上も下もないのが当時の実情では?
で、あとは武士団ごとに棟梁がいると。
そして河内源氏と摂津源氏は武士団として別個で、同一行動
していないから、それぞれの棟梁は同格ということになるん
じゃないのかな。
武家の棟梁という概念が何時生まれたか知らんけど、征夷大将軍
即ち武家の棟梁という感覚が確立したのって義仲か頼朝のあたり
だと思われるしね。
761 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/01(土) 21:01:01 ID:0qGww41M
>>759 >分家の本家はどっちって話は不毛だと思うけどなあ。
確かに、実際にどちらが嫡流であるかを論ずるのは不毛だろう。
基準が無いんだし、あったにしても絶対的なものではない。
本家・分家がそのこと自体で争っても、水掛け論のような気もするな。
ただ、その時代に嫡流とみなされる家があったこと(後世の付会かもしれないが)、
なぜそうみなされるようになったかは、論じられてもいいと思うがな。
まあ源氏長者も清和源氏に逝ったり、疑惑の徳川氏にも逝ったりしてるわけだがら。
763 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/01(土) 22:17:28 ID:ee8W/XiH
>>762 いや、源氏長者は一貫して久我家が基本だよ。
皇位すらうかがった義満が久我家から無理矢理
源氏長者の地位を奪い取って以後、将軍とセット
のようになっただけみたい。
それで家康も源氏を詐称したので、将軍と源氏長者
をセットでもらってそのまま幕末へ。
で、大政奉還後すぐに久我家に源氏長者の地位が戻った
んだよ。随分気の長い話で500年ぶりくらいになるのかなw
>>713 亀で申し訳ないが、平家の「*盛」はもともと伊勢平氏=平家の祖先が
平貞盛(平将門のいとこ・将門を討った)だから、それにちなんでいるんジャマイカ?
「*衡」は清盛のひい爺さんが「正衡」だから、それなりに由緒はある。
>>762-763 ところで、「源氏の長者」なんて存在するのか?
だいいち「久我家」って村上源氏だろ?
一口に「源氏」といっても武家の源氏と公家の源氏は意味合いがまったく違う。
もともと「氏の長者」って使うのは「藤原摂関家」だろう。
765 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/01(土) 23:36:37 ID:ee8W/XiH
766 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/02(日) 00:41:38 ID:zHVr1s/C
>>764 >一口に「源氏」といっても武家の源氏と公家の源氏は意味合いがまったく違う。
疑問はもっともだがな。
本来なら、皇別の子孫はそれぞれ別の氏(中国式に言えば「姓(せい)」だろう)を
与えるべきところだから、源氏といってもそれぞれの始祖によって
別の氏と考えるのが、中国式というか本来のあり方からは自然。
しかし、同じく「源」「平」と名乗っているという外観を考えれば、
その外観に従って、同じ氏と考えることもできなくはない。
で、外観に従ったんだろうな。
昔から、日本人は上辺のほうを重んじていたんだろうし、
同じく天皇家から分かれたんだから、
同じと考えても大差あるまいと考えたのかもしれない。
>>763 762は嫡流云々がいい加減なものであるかどうかの例えなんだから
そこまで知識をひけらかさなくてもよろしい。
最終的に久我に戻っていることは、講談社現代新書レベルでもわかる話。
768 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/02(日) 02:11:51 ID:zHVr1s/C
>>767 わかっている人には、そう思えるのかもしれないが
わからない人もいるだろうから、
敷衍して説明してもらうというのはいいんじゃないか?
それに、ここは大河スレだから、一般人を基準に考えるべきだろう。
で、一般人は、徳川氏の家系については、そもそも関心が無いんだが、
少し歴史を知っているレヴェルでは、
新田の子孫だろうと本気だろう、と本気で言うからな。
769 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/02(日) 02:14:44 ID:zHVr1s/C
>>768 >新田の子孫だろうと本気だろう、と本気で言うからな。
訂正
新田の子孫だろう、と本気で言うからな。
眠気と酔いが入って、間違えてすまん。
もう寝ます。
770 :
764:2005/10/02(日) 10:43:05 ID:aOR061zA
>>766 なるほど。ちょっとググってみたけどいろいろとあるみたいだね。
もう少し、自分なりに調べてみるよ。
レスありがとう。
771 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/02(日) 15:51:01 ID:51yGN9+s
源氏氏の長者と淳和院別当は征夷大将軍に付属する称号だったな
義満からか家康からか知らないけど
単に氏の長者といえば藤原氏の摂関家のことなのかな、5つもあるけど
平氏や橘氏や菅原、伴などには氏の長者はないのか?
>>771 岡野友彦『源氏と日本国王』(講談社現代新書) を見れ
わりとアレでナニな部分も少なくないガナー
773 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/02(日) 19:15:08 ID:pbNyz0jB
範頼が九州の小競り合いで負けてると言った人がいたけど、何のソースも出して
くれなかったから、結局嘘だったようだなあ
>>773 なあんだ。うそだったんだ。
でもさ。勝ったって話、あるの?
775 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/02(日) 19:58:48 ID:pbNyz0jB
かなり勝ってるよ。義経と共に、木曾義仲を撃破し、一の谷で平家を撃破した
後、苦戦しながら、山陽道を制圧し、豊後に渡り、現地の平家軍を破り、先鋒
部隊に別軍を与えて、筑前も制圧させて、平家を追い詰めて壇ノ浦でも陸上か
ら平家の船団に打撃を与えて滅亡に貢献してるんだよ。
776 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/02(日) 20:01:51 ID:aduPU8dH
ま、範頼は有能な将軍だよね。
義経が天才だから割を食って目立たないだけで。
範頼がAクラスだとしたら、義経はSSクラスくらいになるから
そら比べたら気の毒だよな。
777 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/02(日) 20:08:16 ID:Yg4AKNlY
範頼も義経も仲良く頼朝に殺害される
>>776 >ま、範頼は有能な将軍だよね。
>
>義経が天才だから割を食って目立たないだけで。
確かに。
で義経が将軍として有能かどうかというと・・・
779 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/02(日) 21:18:55 ID:aduPU8dH
>>778 「将軍」となるとかなり微妙だな。
戦場の現場指揮官としてなら日本史上最高の1人で
あることは間違いないと思うが。
780 :
ペクチョン ◆kaZQHU/uZ2 :2005/10/02(日) 21:51:45 ID:Ea62uxsZ
俺がもしあの時代のもののふだったら範頼より義経についていくな 義経のほうが戦争を楽しめそう
範頼について行くと我慢と辛抱の毎日になりそう
781 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/02(日) 22:07:32 ID:zHVr1s/C
>>780 でも、範頼についていったほうが、恩賞にありつけそうだから、
範頼についていくな。俺が、あの時代のもののふだったなら。
>>780 同意。一緒に一の谷を駆け下りたり、暴風雨の中を航海してみたい。
義経ってかっこよかったんだろうなあ〜。
>>781 義経の方が部下の死亡率めっちゃ高そうだしな
ペクチョンは「もののけ」の方が似合うと思う
>>783 どうかなあ。
範頼は長期戦だからこっちの方が消耗激しいかも。
食糧難で飢えるし「もうやだ家に帰りたい」とダダをこねた御家人もいたからなあ。
>>785 それは結果論なのでは?
義経の勝ち方が凄すぎただけで、本来は範頼の消耗戦の方が常識だったと思う。
義経の戦い方に
梶原景時が「猪武者」とののしったが
嵐で死んでは「恩賞」が出ない。
命かけて戦っているんだから、恩賞がでないと困る。
特に残される家族は。
長期戦になれば脱走する兵もいるだろうし、
それを押えるのが司令官の器量だからなあ。
それでもいきなり前線に送られて、無茶な戦術使われるよりは
マシだと思う。
788 :
ペクチョン ◆kaZQHU/uZ2 :2005/10/03(月) 13:02:27 ID:b+kncp0O
たしかに範頼のやり方のほうが戦争のやり方としては正解だと思う。この当時の戦争は選挙みたいなものだから、範頼のように中国九州などの各地をまわって御家人や領主を従わせたり味方にしたりというやり方のほうが後々の政治のことを考えても有利であるように思う。
しかし今の自分としてはノリヨリのようなドブ板戦争よりは義経の落下傘戦争のほうに魅力を感じる。
ムダなものは省きスピードと勢いで敵を倒してしまう 平家はこの刺客になすすべもなく敗れてしまう。義経は戦のあとは凱旋するだけだが、範頼は各地の支持者たちへの公約実現のためにまた飛び回らなくてはならない(かな?)ように思う。
俺の想像する義経とノリヨリのイメージはこんなもんなんだけど間違ってないと思う。ノリヨリはこの戦争で人間関係を全国につくり義経は孤独に帰る。
だけどなんの利益誘導もしない義経のほうがやっぱカッコイイな。
100%俺の妄想だけどね
789 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/03(月) 13:17:30 ID:CbIrQ3CW
>>780 いや、妄想でなくて、当たっているかと。
義経は戦闘指揮官としては最高レベル(世界標準で見ても)の
天才と思う。だから戦闘が物凄く鮮やかで魅力的なんだよね。
ただ、戦闘指揮官と将軍はちょっと違う。将軍は軍を束ねて
軍の政治的目的の達成まで任務とする。範頼、義経は将軍と
して頼朝の代行として鎌倉政権の政治的目的の達成も追求す
る立場だった。その立場としては戦闘に勝てばいいというも
のでもなくなるのが難しい所。その将軍としての立場に立つ
なら、単に平家を軍事的に打倒するだけでなくて、西国の武士
の支持を取り付けること、義経の場合は三種類の神器の取り戻し
をもしなくてはならなかった。そういう面では義経のやり方
は問題が有りそうなんだよね。
そういえば、長篠の戦いの後、信長は壊滅した武田軍の深追い
をせず、7年くらい武田侵攻をしなかった。このへんが純軍事
的なことだけでなく、複雑な政治的思惑をも考慮に入れた将軍
としての判断みたいな感じがするな。
頼朝は宗盛の死罪を朝廷に求めて許可されている。
今回のように場合によっては生かすなんてことはなかった筈だが。
義経みたいなのがかっこいいと思う人が多ければ多いほど、大軍で攻める方は楽に勝つね。
792 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/04(火) 04:37:22 ID:ddQQea+j
>>791 あんなことできるのは義経だけ。
大軍でじんわり攻めるのが王道。ただ、大軍は士気が緩みがち
なのと兵糧の補給が大変。そこをどう統制するかが将の腕の
見せ所だね。
793 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/04(火) 06:17:21 ID:GQdbObKQ
旧プロイセンで大モルトケが常勝だったのは、ビスマルクの政治手腕で二正面作戦
をやらずにすんだことが大きいわけだが、その意味では義経の勝利も、義仲にせよ
対平家の一連の勝利にせよ、常に一正面の敵だけを相手にすればよかったわけで、
その意味で、頼朝の戦略あるいは政略に助けられた面は無視できないと思ふ。
いや、源氏の背後は平泉だろ。
義経が平泉にいたから頼朝が助けられたんだよ。
ところで
宗盛を助命したかもしれない
とはなんじゃありゃ。
宗盛の死罪はその頃すでに朝議で決定したのにorz.
796 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/04(火) 20:35:14 ID:zVDipTEz
範頼って食糧不足にも関わらず、戦果は上げてるし、部下の討ち死にはほとんど無く、
敗戦もなかったって、凄い名将だな
>>606 えっ、うちの旦那「良=なが」って読むけどええんかいな?
もちろん皇族でもなんでもありまへんw
798 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/04(火) 23:08:17 ID:K09HIyIB
現陛下の名を使っても誰からも文句が出ないから、
「良=なが」と読んでもノープロだろ。
ところで、「良=ろう」と読む人を知っているんだが、
こっちのほうがいいのかという気になる。
確かに、「郎」「朗」の偏だから、ろう偏というのがあるんかもしれん。
ありがとうございました
あーびっくりしたw
まんこ?
801 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/05(水) 07:49:24 ID:n4QH3oap
>>794 別にマジれすというわけじゃないが、戦術に及ぼす戦略・政略の影響ってことを
いいたかったわけで、もし鎌倉VS平泉という構図で捉えるなら、実線部隊長レベ
ルの義経を超えた、頼朝VS秀衡という両者の駆け引きがメインになると思ふ。
スレ違いになるが、義経没後、奥州征伐で(←差別的かもわからんが)征討軍を
三分割して、それぞれが今のJR東北本線沿い、常磐線沿い、上越・羽越線沿いで進
軍してるのって、地図といったって例の行基図みたいなオソマツなものしかない時
代を考えると、どうみてもずっと以前から極秘に侵攻計画立てていたとしか思えん。
802 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/05(水) 08:29:42 ID:17oCdAOJ
>>801 頼朝(鎌倉方)からしたら奥州侵攻は既定路線でしょ。
義経がいようがいまいが口実を設けてするつもりだったのだよ。
そうじゃなきゃいつ攻めてこられるかわからんから安全保障上
邪魔だし、また新たに領土にもできるしね。
秀衡はそのことが良くわかっていた。だから義経を大将にして
鎌倉に備えよと言い残して死んだんでしょ。
頼朝がいようがいまいが口実を設けてするつもりだったのだよ。
それなのに泰衡は・・・だねw
805 :
ペクチョン ◆kaZQHU/uZ2 :2005/10/05(水) 20:36:37 ID:A9Vdq5DG
>>802そっそうだったのか すると義経は楽天イーグルスの岩隈みたいなもんで藤原社長は即戦力が欲しかったのかもしれないね。
全然違うw
義経はダルビッシュだ
???
けど、義経がいても奥州軍は鎌倉軍に勝てたかな?
義経は奇襲や搦め手が得意だけど、
大部隊を率いて正攻法で攻めて勝ったことはない。
範頼的な役割をする人物がいないと勝てなかったと思う。
また、「御恩と奉公」制度ができつつあった鎌倉の制度に比べて
奥州藤原氏のの在地勢力への影響力は鎌倉殿ー御家人に比べると弱かったと思うが。
810 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/07(金) 10:29:35 ID:qxwIHvLd
>>809 局地戦では勝てても、大局的には負けるだろうね。
秀衡が生きていれば求心力があるだろうけどいずれ
死んだら裏切り者が必ず出るだろうしね。
仮に勝って武家政権を取ったとしてもそのうちに腐敗し、
朝廷は健在だからやがては南北朝時代に。
元寇をどう乗り切るかが鍵だな。
義経が勝ってれば元寇はないw
あ。そうかw
814 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/07(金) 16:24:44 ID:jSWS1Aap
義経=ジンギスカンだったら,フビライは日本を攻めた時,その孫
を名乗るくらいのことはしただろう
とレスしてみる
名乗ったけどモンゴル語だったから誰にもわからなかったんだよ!
816 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/07(金) 20:22:10 ID:5lOuHoAd
フビライが親征したわけじゃないし。
マジレス
一応使者が来て漢字で書いた国書も持ってきたんだけどね。
そこに義経関係の事がかいてあったら、当時相当大騒ぎになったはず。
江戸時代になってからじゃなくてね。
そうなってたら義経=ジンギスカン説が今みたいに、トンでも説とか歴史ロマン的にじゃなく、
もっと普通に語られてたはずなんだが。
義経≠ジンギスカンの証明にはなっていない
単にフビライがじいさん嫌いだったから名乗らなかったのかもしれないし。
おまえらここは史実厨の集まりじゃないのかw
ソースだ信憑性だと争いを続けるより
他愛ないネタを楽しむ方がイイじゃないすか。
行き過ぎた所でその道の人が手心を加えた
ツッコミを入れてくれるし。
まあ元々「史実では」とか頭につけるものほど信用ならないレスはないわけだし。
義経が生きてたら元寇がない
↓
欧州の歴史も相当変わってただろうねw
義経=ジンギスカンを最初に吹聴したのは
あのシーボルトだったらしい。親交の深かったオランダ語通訳の吉雄
忠次郎が「義経は蝦夷からダッタンにわたりそこの王朝の礎になった」
という言い伝えを,ダッタン=蒙古,蒙古=ジンギスカンと勝手に飛躍的
こじつけつーか勘違いをやらかして,大著『日本』の中で紹介したという。
当時は義経が中国の清王朝(清和源氏=清)の先祖になってというトンデモ
説の全盛期だったが,シーボルトは更に上を行ったわけだ。オチャメな先生
である。
満州族の辮髪と日本の武士の剃り込みは似ている
剃る部分が逆じゃん。
辮髪はてっぺん付近の毛だけ残す。
ちょんまげはてっぺんの毛は剃って周りを残す。
むしろザビエルの髪型のほうが似てないか?
827 :
ペクチョン ◆kaZQHU/uZ2 :2005/10/08(土) 07:51:44 ID:DwIyr+2e
剃る部分は逆だけど、髷を作る部分は大体同じじゃん。どちらも後頭部あたりの髪の毛を伸ばして髷をつくるんでしょ。
ジンギスカンの漢字が、我(われ)水干(静)を思う
水干→汗
で、あとから自分が自分で付けた名前だから意思あり。
ジンギスカンが出始めた頃と義経が歴史から名を消す頃が
重なる。
ジンギスカンが用いた色が源氏の白。
義経ほどのいくさの天才が簡単に死ぬわけない。の日本人の
思い込みというか願望。
鎌倉に届いた義経の首が腐っていて判別不能。
奥州に義経の身代わりになって死んだ御家人の言い伝えあり。
などが重なってどんどん伝説化した。
普通に考えたら、確かに大陸に辿り着いたかどうか、
その後ジンギスカンになったかどうか、定期的に知らせでも来ない限り日本人が知るわけない。
北海道行くと、あっちこっちの海に義経に棄てられた女が
変化した岩があって面白いぞ。
義経ほどの知名度があれば本人じゃなくても
本人であると偽って悪さする輩がいても不思議じゃないよな。
今のように情報が正確に伝わるか疑問だし、さらに北海道だったら・・・。
つか当時の北海道の人が義経そのものを知っているかどうか・・・
833 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/08(土) 16:06:28 ID:X2HWjKYw
>>830 元になる話しがあったのかもしれないな。
それが、すべて義経伝説につながっていく。
世間一般に通用しない者の話よりは、
義経ということにしておくほうがいいからな。
平家の落人伝説みたいなものかな。
彼らの先祖も何らかの落人だったのかもしれないが、
聞いたことの無い武将の話にするよりは、
平家ということにしておくほうがいい。
冷静な分析ありがとう
実は本物のジンギスカンは居たんだが、
義経が討ち取って本人になりすましたのだよ。
836 :
ペクチョン ◆kaZQHU/uZ2 :2005/10/09(日) 00:47:43 ID:xMg3O4cy
!
>>835それはもしや『戦国自衛隊1549』のハナシでは!
ここで義経=ジンギスカン説をどうでも主張してる人は、
全ての日本文化は某国起源だと言い張るある国家の人々に似てる事に気づいてるか?
実際
義経も弁慶も実はわが国の血を引いてたとか主張してきそうな気がするのだが、
得意の奇襲やらも実はアッチの兵法書に書いてあった、とかな。
>実はアッチの兵法書
ってのは彼の国の方々が主張するまでもなく(ry
840 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/09(日) 20:09:11 ID:1LQYRNW4
>>838 「虎の巻」だったかな。
それを手に入れるために、持ち主の娘をたぶらかして云々、、、
ま、創作だろうが、わが国で作った創作だな。
>>837 >ここで義経=ジンギスカン説をどうでも主張してる人は、
>全ての日本文化は某国起源だと言い張るある国家の人々に似てる事に気づいてるか?
同じようなメンタリティを持っているんだろうよ。
だから、嫌悪感も感じるというわけだな。
841 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/09(日) 20:56:13 ID:1LB0RyTZ
源氏は伝説多い!義家、為朝!為朝伝説はあまり有名じゃない?保元の乱みるべし!
842 :
ペクチョン ◆kaZQHU/uZ2 :2005/10/09(日) 21:17:08 ID:xMg3O4cy
頼光はゲームにもなってたような 酒呑童子を倒したヒト
>>841
なんだか変な人が来てすっかりスレの雰囲気悪くなりましたね
844 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/10(月) 01:00:54 ID:l0Bd2c+a
>>842 その人こそ源 金時、幼名金太郎、有名な話だよね
こんな夜中に釣りですか?
頼光は金太郎=坂田金時の雇い主でしょ。
>>844 坂田金時じゃなかったっけ?
頼光四天王の。
義経は北海道に渡って後
源氏に嫌気がさして、反発をこめて平泉から性を取って名乗った
その子孫が 平井けん
義経は自分の運命から、ある悟りを開いていたんだな・・・
清盛に教えられた理想の都、福原は
当時、海を前にして 福 源 と書いた。
そして、自分が一番心落ち着く場所が 平 泉
そんな複雑な思いが、時を経て 平井堅
に「楽園」というデビュー曲を歌わせたのであろう・・・
「Ah-あの楽園はもう消えたけど 今もここに朝は来る」
朝とは頼朝のことを、かけているらしいのだ。
お前ら
民明書房刊
が抜けてますよ
850 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/11(火) 00:04:47 ID:dGRgZorZ
義経は美化されすぎている。
戦にかけては天才だった。
だけどただそれだけで、政治オンチだった。
武家社会を築きあげていこうとしている兄頼朝の気持ちを
理解できていなかった。大切な三種の神器も沈めてしまった。
スタンドプレーが過ぎたのだ。頼朝の怒りが理解できず、
「朝廷から位をもらって何が悪い」と言っている時点でアウト。
はいはい。
お疲れ
853 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/11(火) 01:34:59 ID:BJDkyB0r
愛媛県の神社に奉納されたという義経の赤糸鎧というのは、
本物なのでしょうか。ご存知の方教えてください。
ずっと前にどこかのサイトで、時代考証的に違うような情報をみたことがあるような
気がするのですが、ずっと気になっています。よろしくお願いいたします。
義経の鎧はそこらじゅうに奉納されてるよ
855 :
ペクチョン ◆kaZQHU/uZ2 :2005/10/11(火) 03:46:00 ID:6fW5CByX
王貞治のサインボールみたいなものか
856 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/11(火) 03:49:53 ID:hLpBB0ln
弁慶はヨリトモの一人二役だったはず。
857 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/11(火) 08:57:18 ID:K/Y113CF
>>854 奉納者「俺が奉納した具足を、勝手に義経のものにするんじゃねえ」
858 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/11(火) 15:08:41 ID:HPPoOyeA
俺の家に王貞治のホームランボールとビートルズの直筆サインと
東郷平八郎の双眼鏡と本物の十手と小判と名刀村雨があるよ
父が集めたらしい。すごいだろう
俺の家に草薙の剣と髭切の太刀と今剣と抜丸があるよ
先祖が集めたらしい。すごいだろう
俺の家なんか婆ちゃんの金歯溶かして作った金印が出土したし
俺が小学校の時夏休みの課題で作った埴輪が庭に埋まってるし
おかんが作った七宝焼きの生焼け勾玉があるぞ
どうだ羨ましいだろ
七宝焼きで作ったのは「勾玉」とは言わんがな。
なんだこの流れはw
七宝焼きを失敗してコテコテになると勾玉みたいにはなる
とマジレスしてみる。
>>853 史実スレで語るなら赤糸縅胴丸鎧って言ってよw
>>858 本物十手だけかよ!!いや、先祖が同心とか岡ッ引なら
ちょっとすごいけどね。なんか修学旅行の土産とかの悪寒。
十手と思ってよくみたら実は電動コケシという可能性もある 電池のフタがあるかないか確認したほうがいい
「御用だ!」と言った途端、十手の先っちょがぴくぴく動く恐怖
868 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/12(水) 19:00:37 ID:+CyRJKmj
常陸坊がいないので、現在の大河では奥州に落ちる郎党は
弁慶と鷲尾三郎だけか?船が難破した際に死ぬのがうじき?
吉野山で死に別れるのが伊勢三郎と忠信?
それぞれのキャラの死に様だけは飾って欲しい。
>868
喜三太は?
871 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/13(木) 00:45:21 ID:0EbPqa6W
戦い方は乱暴で常に奇策を用いるので当時は「卑怯」と言われてたらしいね。
本人曰く「まともに戦ったら負けるだろーが」と言いたいと思う。
872 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/13(木) 01:17:38 ID:OBfumbFC
腰越状も偽作説があるな。
>>871 当時っていつの当時?
言われてたってどこで?
はいはい
大河がつまらない理由。
主人公=善人にすることが第一で、後は全てご都合主義。
King of Zipangを最後に碌なものが無い。この作品の時、講談話に塗り固められた石頭達の批判が大きくてNHKは堕ちてしまった。
あと、歴史ものを描ける脚本家が居なくなってしまったのも、残念。まあ、小説家もいないしなあ。
それとこのスレに何の関係が?
878 :
日曜8時の名無しさん:2005/10/14(金) 23:03:21 ID:ItqvuSfK
>>877 史実を曲げてまで、ご都合主義にしなければ、けっこうおもしろくなるのでは、
ということだろうか。
しかしなあ、
頼朝が法皇に宗盛の処遇をどうするか丸投げするという設定も
おかしいよなあ。
内大臣にまでなった宗盛の処分決定権は頼朝にないわけだし、
朝廷の会議ですでに宗盛の処刑は決定事項だったんだよね。