【義経】高橋英樹の藤原秀衡スレ【奥州の覇者】

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1名無しさん@お腹いっぱい。
ハマり役の予感が
2名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/01 17:51:19 ID:knGYs1Ew
3名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/01 22:38:34 ID:3lOqebtJ
重要人物ではあるけど出てくるのは3話以降でしょ?
4名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/02 13:46:09 ID:GGvkZJ9P
炎立つではミタチと呼ばれてたが今回果たして
5名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 11:22:49 ID:g6cCxdPF
渡瀬のはよかった
6名無しでいいかも!:05/01/03 11:33:07 ID:hwtv75lv
俺のイメージでは西田敏行

国衡は宇梶剛士
泰衡は村上弘明
忠衡は野々村真(?)

みんなもう少し若ければな
泰衡、苦悩タイプなら杉本哲太もいいな
7名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 11:44:46 ID:ESdta4Wk
村上の泰衡は聡明過ぎないか?
泰衡はもっと小心者っぽいやつの方が・・
8名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 11:55:48 ID:wEaNQ4O/
>>7
それでは 泰衡−佐野史郎ではどうでしょうか?
9名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 15:42:24 ID:7taiau3I
それほど秀衡が重要人物なのかよ
だれがやってもたいしてかわらんだろ
むしろ泰衡達兄弟が義経とどう少年期を
過ごしたのかということが大事だろが
10名無しでいいかも!:05/01/04 00:08:41 ID:tEksRo7D
泰衡が死んだという秋田の比内に
奥さんが後から追ってきて夫の死を知り
子供を家来に託して自害した
(泰衡と奥方は現在別々の神社に祀られてる)
とか、
また別の奥さんが
月山神社の奥の院に泰衡を祀ったとか
泰衡には奥方関連のエピソードが実は多く、
義経にひけをとらないニクイ色男だった
可能性が高いのです。
ただのトンズラ大将というわけではなさそうです。
11名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/04 00:35:12 ID:2u70MrfB
院宣が下らないのにまさか頼朝が攻めて来るとは思わなかった
んだろうな。
炎でもこの辺、強調してれば(頼義、義家も朝廷には逆らえなかった)
面白かったのに。
12名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/04 00:36:14 ID:aBGK2Jnc
泰衡の妻の出自がわかればまた評価がかわるね

国衡の母は佐藤庄司の姉か妹という説があるし
義経の妻はその佐藤庄司の女という説もある
さらに泰衡の母が秀衡の死後国衡の妻となってる
この説が正しければ奥州藤原氏と義経、佐藤一族の関係が
かなり強いことになる
だとしたら泰衡が義経を襲撃した理由がはっきりしなくなる
13名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/04 00:51:37 ID:aBGK2Jnc
>>11
鎌倉と戦争になることは予見していたでしょう
でなければ厚樫山に大規模な要害を築かないし
しかも義経を殺害したとされる4月頃には工事着工を
始めないと間に合わないわけで
これから戦争だという時に義経を殺しても意味がないだろ
14名無しでいいかも!:05/01/04 02:11:58 ID:UuX2P+Xh
泰衡なりの考えがあったと思う。
平泉は初代・清衡が二度と奥羽に戦がないように、
敵味方関係なく、虫や草木まで供養するために
作った都だった。
泰衡としては可能な限り戦を防ぐのが、
大将としての自分の責務と考えたと思う。

奥羽の軍・17万騎のうち2万騎しかださなかった
のも、一応の防衛はしても、すぐに折れてみせなければ
鎌倉は奥羽を一層脅威とみなし、徹底的に滅ぼしにかかる。

ずっと後世の戊辰戦争の時と同じで、相手は武士集団だから、
とりあえず戦いの相手をしてやらないと(勝った気にさせないと)
危険なのだ・・・

もっと言えば、泰衡は無血開城のつもりだったが
「戦うべき」とする強硬派がいた可能性もある。
国衡が強硬派自身だったか、それともそういう人々の上に
立つ事を選んだか

因みに泰衡は義経を襲ってはいないだろう、と思う。
襲って死なせる必要はない。捕らえればいいのだから。

15名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/04 02:16:31 ID:/f+wJqRf
そういえば・・・・
藤原秀衡も岡田中臣鎌足の子孫ですな
16名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/04 08:53:40 ID:aBGK2Jnc
藤原氏も義経も反平家で考えは一致していたと思う
しかし源氏との100年前の因縁もあるから鎌倉との戦いは避けたかった
だから協調路線も有り得たとおもう

義経が襲撃を受けたとき藤原基成は一体何をしていたのか
自分の邸宅で異変が起きているに本人は無事なわけで

さらに不可解なのが義経の首が50日もかけて鎌倉に到着している点
すぐに届ければいいのに何故50日もかかったのか
時間稼ぎしているようにしかみえない



17名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/04 08:53:40 ID:aBGK2Jnc
藤原氏も義経も反平家で考えは一致していたと思う
しかし源氏との100年前の因縁もあるから鎌倉との戦いは避けたかった
だから協調路線も有り得たとおもう

義経が襲撃を受けたとき藤原基成は一体何をしていたのか
自分の邸宅で異変が起きているに本人は無事なわけで

さらに不可解なのが義経の首が50日もかけて鎌倉に到着している点
すぐに届ければいいのに何故50日もかかったのか
時間稼ぎしているようにしかみえない



18名無しでいいかも!:05/01/04 11:34:08 ID:m/nvSnHc
奥羽には、古くはアテルイ、そして祖先である安倍氏の対朝廷戦の
過去があった。
彼らは戦力において朝廷を圧倒し、途中までは善戦したが、
何らかの事情により、最後には惨敗となった。

特に安倍の厨川での敗北は、幼い藤原清衡にとって
地獄に匹敵する記憶となったはず。

奥羽17万騎も、はじめのうちは鎌倉勢を
圧倒したかもしれない。
しかし奥羽以南は全て源氏の支配下。
時間がたてば情勢はわからない。

だからこそ、泰衡は今まで誰も
とった事の無い
「敗北演技」という作戦に出た
とはいえまいか。

軍隊を出せるだけ出して
全滅するまで戦わせるぐらいの事は
ダメ大将だってできる事なのだから。
そのほうが自分だけ逃げやすいだろうし。

いかん、全然秀衡の話じゃなくなってる
19名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/04 11:45:10 ID:whY66GvG
この辺読んでると炎立つを思い出す、あれにこの辺の事情をとりこめば
謙の泰衡がさらに凄みを見せたはずだろうに・・・
20名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/04 13:33:07 ID:aBGK2Jnc
うむ
たしかに炎立つ第三部は原作にそってもう一度
リメイクしてほしいと思うことはある

秀衡、義経マンセー泰衡ヘタレという解釈で進めていくと疑問点もでてくるのに
何故かそういう部分にふみこんでこないんだよな
研究者、作家さん達は
21名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/06 06:59:47 ID:XZy8WwYN
 (・∀・)ノ
22名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/07 18:51:06 ID:eD4deZCb
俺は大河で高橋見るの久しぶりだ
23名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/07 19:39:43 ID:6rkiDCLa
age
24名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/07 20:36:44 ID:UZzxMk7b
>>22
「北条時宗」で初回だけゲスト出演していたよ。あれ以来かな?
25名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/08 00:32:40 ID:8Cwbcqgu
東山の義経でも高橋秀衡だったよ
26名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/08 00:52:02 ID:n7n1qh1S
予告見たけど、やっぱり、凄い風格だね。
27名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/08 01:28:30 ID:Kg9eFmZ/
誰が演じてもおんなじ

秀衡自体それほど重要人物じゃない
28名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/08 08:16:16 ID:bvrSp1Ql
>>27
理由をお聞かせください。
29鞍馬寺僧侶:05/01/08 14:54:48 ID:4pJfRt+T
さあみなさん! 2月3日は鞍馬寺へ!
参詣者には、もれなく「芦の矢」と「福の年豆」がもらえるよ! 「義経/降魔必勝の小太刀」もお授け中!
みんな揃って鞍馬寺へ!
京都・鞍馬寺に着いて教えてください
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1024412023/
30名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/08 18:55:43 ID:bvrSp1Ql
ポンポンポンポンポンポン!
31名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/08 20:02:29 ID:Gh7QK3bX
ひとーつ!
ふたーつ!
みっーつ!
32名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/08 21:42:02 ID:Kg9eFmZ/
>>27
炎立つをみればわかりやす
33名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/09 23:41:33 ID:5NeRlNqh
千石とたこは?
34名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/10 10:50:49 ID:QUUzoj7P
age
35名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/10 14:45:21 ID:9F86baZN
未だに英樹の長男役=長島一茂ってのが納得いかん
36名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/10 18:11:24 ID:MPKf0GNf
>>35秀衡役がシゲオだったら?
37名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/11 14:01:39 ID:qtb7eExz
【発掘調査と保存運動】
 昭和二四年に文化財保護法が制定され、金色堂の保存運動が高まり
翌二五年、朝日新聞社の協力により藤原四代の遺体総合学術調査が
行われた。
金色堂に安置されている藤原四代のミイラは、その骨格と血液型から
都人とほとんど同じで、従来の奥州藤原氏祖藤原経清の妻安倍氏=
蝦夷=アイヌ説が揺らぐほどの発見であった。

ttp://www2.neweb.ne.jp/wc/Otomisan/japanese/histry_j/histry_hozon.html
38名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/11 16:08:08 ID:cq7wLHdu
早く出て来い桃太郎♪
39名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/12 23:35:59 ID:g9mwveH+
AGE
40名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/14 01:17:21 ID:0M17rHDC
age
41名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/14 03:51:48 ID:Ier9vV8s
>>32
小説がソースかよ。
燃えよ剣や新選組血風禄の創作部分を史実と混同してる新選組ヲタと同レベルだな。
42名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/14 14:28:06 ID:0M17rHDC
>>41
ちょっと書き方が悪かったです
マジで考証すると秀衡よりも奥州の実力者は藤原基成なんです
いままでの研究では秀衡は義経を養育し対鎌倉の切り札として匿った人物
と解釈されていますが
すべてこれは秀衡の岳父である基成が仕組んだことなんです
ようするに秀衡自体が過大評価されているんです
大河炎立つの二人の対等だが微妙な力関係という描き方のほうが史実に近いと思うんです
43名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/14 21:54:08 ID:qJsyBlGJ
奥州政権は、保元の乱以降、基成の血縁の力により、後白河院にすり寄ることに
神経を使っていることは明白である。しかも後白河法皇が院政を敷いた保元3年
以降関白となったのは、基成の甥の基実である。様々な問題があろうと、どうに
でもなる位の自信を持ち、海千山千の政治家になった基成の姿は想像に難くない。
それと共に奥州における鎮守府将軍と陸奥守の地位は、徐々に有名無実化してい
った。その結果、まず鎮守府将軍の地位が、奥州の御館である秀衡に嘉応2年
(1170年)授けられることとなり、宿願であった陸奥守はそれから11年後
の養和元年(1181年)、ついに秀衡の手に渡ったのであった。

基成は、こうして平泉政権と中央を結びつける要の役割を果たし、奥州政治の
基礎を構築したのである。

義経の奥州入りにもちらつく基成の影

さて基成の血縁によるネットワークの成果と思われる源義経の奥州入りについ
て触れておこう。周知のように義経の母常磐御前は、平治の乱で夫源義朝が殺
されると、今若(全成)乙若(円成)牛若(義経)という三人の幼子を連れて
雪の山道を落ち延びていったが、実母が囚われているとの噂を知って、勝者
清盛の前に自首をする。その後彼女の美貌と決死の覚悟が幸いしたのか、清盛
の寵愛を受け、後に大蔵卿藤原長成の妻となり、藤原能成(鷹司三位侍従)を
生むこととなる。この夫長成は、基成の父の従兄弟に当たる人間で、妻常磐の
意を汲んた夫長成が、基成経由で、奥州に義経引き受けてくれるように打診し
たのではという説がある。ともかく源義経の奥州行に関しても、少なからず、
基成の血縁ネットワークの影がちらつくことは確かである。
44名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/15 03:02:49 ID:jS7maPTR
>さらに不可解なのが義経の首が50日もかけて鎌倉に到着している点
>すぐに届ければいいのに何故50日もかかったのか
>時間稼ぎしているようにしかみえない

頼朝が母親の慰霊祭?をする計画を進めていて、
その日取りより前に義経の首が届くと不吉だからとかなんとかで
慰霊祭後に届くように命令したから。
45名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/15 03:41:38 ID:9E945et5
泰衡と国衡との間には争いが無かったようだから秀衡の遺言は一応守られてると思う
問題は基成
自分の女が国衡の妻となったことで泰衡とのラインが途切れてしまってことで孤立化してまった
可能性があると思う
遺言を守り義経を擁して対鎌倉戦を推し進めようと画策する泰衡と国衡
それを知った基成は院と協調しながら鎌倉を懐柔しようとして邪魔になった義経を殺害したと
俺は推理してる

とはいっても義経の奥州での生活が全くみえてこないので
義経がどこまで鎌倉戦を意識していたかよくわからないけど

46名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/15 07:15:55 ID:SK9nr/oa
義経が衣川で討たれる4ヶ月前に義経は京へ戻るようなことを
京の協力者に伝えていて、京の公卿や西国の武士宛に
書簡を送っているから(しかし途中で密使が捕まっている)、
泰衝が自分を始末するかもしれないと奥州での自分の身の
危険をヒシヒシと感じていたか、このまま奥州に自分が
いれば藤原家が頼朝に滅ぼされかねず秀衝に申し訳ないと考えていたか…
47名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/15 11:11:38 ID:9E945et5
義経が京に戻ろうとしたのも奥州藤原氏の協力があったからと思う
頼朝からの詮索をかわせるし味方も増やす可能性もあるからね
義経の謎としては平泉に落ち延びてから挙兵しようと思えばできたのに
それをしていないことだね
たとえ泰衡が協力しなかったとしても佐藤一族や僧兵など親義経派は
まだ奥州にはいたわけだし
48名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/16 04:25:29 ID:yZhELHYB
age
49名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/16 07:56:24 ID:isYb2j1W
独立国として自分の土地さえ守れればいいんだから相手が攻めてこない限り奥州の人は進んで挙兵しようなんて思わないと思うよ。
50名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/17 16:55:46 ID:sbuDXUoG
ひとーつ!
51名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/17 18:25:39 ID:4hRdPi76
平泉の地に義経をかくまい、

ふたーつ!
52名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/19 01:30:29 ID:5edE/QC5
age
53日曜8時の名無しさん:05/01/20 23:31:44 ID:zV8vVGy6
ふたつめは思いつかないがとりあえず

みーっつ!
54名無しでいいかも!:05/01/21 20:53:37 ID:7Nv48DjQ
四代泰衡の魂を祀る神社、あまり知られていないが
実は4つはあるのだ
ひとつが泰衡の首のない遺体を出羽比内の地元民が
錦に包んで葬ったといわれる錦神社。
ふたつめが何故か泰衡が死んだはずの地点から数十キロ
西の二ツ井町にある兜神社、
みっつめが同町の鎧神社。ともに、泰衡が脱いでいった
兜と鎧、それぞれを祀っているという。
(兜は現存するものとしては出羽最古と認定された)
そしてよっつめが、月山神社奥の院で、泰衡の未亡人が
ここに亡き夫の魂を祀ったとされている。
55日曜8時の名無しさん :05/01/22 17:30:46 ID:fIPvK5+6
あげ
56日曜8時の名無しさん:05/01/23 07:14:20 ID:1AM+1IKf
二つ御堂
57日曜8時の名無しさん:05/01/23 21:07:42 ID:hKTO4YLU
みたちぃー
58日曜8時の名無しさん:05/01/24 00:07:15 ID:sOQObOgi
御曹司、みたちぃ

この二つの言葉を聞くと悪夢が甦る・・・
59日曜8時の名無しさん
age