【肉体美】三島由紀夫の前衛ヌード写真集「薔薇刑」が復刻

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952名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:01:07 ID:PpYI31ET0
三島は自分を庇護してくれる母を他のいかなる人間よりも愛していた。
猪瀬本には、友人の見聞として、20代の三島に関わるこんな話が載っている。
ある時、友人が三島を訪ねていったら、倭文重が「ちょっと足が痛くて」と言った。
すると、三島が「お母ちゃま、どこ、どこ?」と人目もはばからず、一心に母の足をさすり始めたので、目のやり場に困ったというのである。

同じ頃に、三島は二人の女性に求婚したが、実らなかった。
その理由を娘の一人は、「あれほど濃密な母と息子の関係を見せられると、とても入り込んでいけないと思われたから」と語っている。

三島を庇護してくれたのは、祖母や母ばかりではなかった。
学習院中等科に通うようになった三島は、同学年の友人よりも年長の先輩や教師との交渉を深め、彼らの手厚い庇護を受けている。

最初につきあった年長の先輩は、8歳年長の坊城という上級生だった。
当時高等科3年だった坊城は、中等科1年の三島が校友会誌に発表した作品を読んで感心し、彼の方から交際を求めてきたのだ。
そして二人は毎日のように長い手紙を交換するようになった。
坊城の次に親しくなった東文彦も、5歳年長の先輩である。
953名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:03:32 ID:yqKjF/CBO
三島由紀夫
「僕はいつも思うのは、自分がほんとうに恥ずかしいことだと思うのは、自分は戦後の社会を否定してきた、
否定してきて本を書いて、お金をもらって暮らしてきたということは、もうほんとうに僕のギルティ・コンシャスだな。」

武田泰淳
「いや、それだけは言っちゃいけないよ。あなたがそんなこと言ったらガタガタになっちゃう。」

三島
「でもこのごろ言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうことを言わなかった。」

武田
「それはやっぱり、強気でいてもらわないと…」

三島
「そうかな。おれはいままでそういうことは言わなかったけれども、よく考えてみるといやだよ。(略)」

私は三島さんを懸命にナダめにナダめる武田氏に、つよい共感で(感傷的にも)涙ぐみたくなる。
しかし同時に、三島さんがもの書きとしての恥部をここまで口にする激しい自己意識に心をうたれずにいられない。
それはまたそっくり三島さんの社会への批判でもある。

田久保英夫
954名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:04:16 ID:fErsEjfVO
禁色
955名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:04:44 ID:PpYI31ET0
三島の早熟の才能に目をつけたのは、先輩ばかりではなかった。
国語教師の清水文雄と、その後任の蓮田善明は、三島を高く評価し、その作品を自分たちの関係している同人誌に紹介する労を取っている。
高等科に入ってからはドイツ語教師新関良三にも目をかけられた。

清水と蓮田は「日本浪漫派」系の教師だったから、三島もその影響下に保田与重郎などの作品を耽読するようになった。
日本浪漫派系の詩人や作家たちは、あの破滅的な太平洋戦争のさなかに、競うようにして死と滅びの美しさを歌い上げていた。
(中略)
戦争末期の青年たちは、日本浪漫派を読むことによって間近に迫った死を一種の恍惚状態のうちに待ち望んでいた。
それは蛇を前にした蛙が、麻痺したようになって赤い口の中に呑み込まれて行くのに似ていた。

あれだけ聡明な三島が、さほど優れているとも思われない国語教師に惹かれ、その導きのままに日本浪漫派に傾倒ししていったのは、庇護してくれるものに随順するという物心ついた頃からの習性による。

三島は学習院高等科を首席で卒業し、天皇から恩賜の銀時計を貰っている。
後年の天皇主義は、こんな所に根を持っているのかも知れない。
天皇主義者になってから、彼は天皇みずから自衛隊の各部隊に連隊旗を手渡せ、と提言している。
そうすれば、天皇と隊員を結ぶ感情的な靱帯は、一層強くなるというのだ。

彼が学習院を首席で卒業したことは、彼がペン習字の手本のような文字を書いていることと並んで興味深い。
祖母や母を喜ばせ、目をかけてくれる教師たちの期待に応えようとすれば、どうしても世俗の側に立ち優等生という勲章を目指して努力しなければならない。
すれっからしに見える三島の内部には、庇護者に純情を捧げる熱いロイヤリティーが潜んでいた。
三島には、目をかけてくれる上長の人間への臣従癖があるのだ。

彼は川端康成の紹介で文壇に登場し、「盗賊」を出版したときに川端康成から序文を書いて貰った。
この序文を保管する封筒に、三島は「川端康成氏から賜はりたる序文」と記している。
956名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:06:58 ID:yqKjF/CBO
息つくひまなき刻苦勉励の一生が、ここに完結しました。
疾走する長距離ランナーの孤独な肉体と精神が蹴たてていた土埃、その息づかいが、私たちの頭上に舞い上がり、そして舞い下りています。
あなたの忍耐と、あなたの決断。あなたの憎悪と、あなたの愛情が。そしてあなたの哄笑と、あなたの沈黙が、私たちのあいだにただよい、私たちをおさえつけています。
それは美的というよりは、何かしら道徳的なものです。あなたが「不道徳教室講座」を発表したとき、私は「こんなに生真じめな努力家が、
不道徳になぞなれるわけがないではないか」と直感したものですが、あなたには生まれながらにして、道徳ぬきにして生きて行く生は、生ではないと信じる素質がそなわっていたのではないでしょうか。

武田泰淳
957名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:09:20 ID:HMfTka4S0
つうか、三島由紀夫があまりにもホモ過ぎて意味のわからないアホな奇行に出たことを擁護したいが余り
後の日本へ警鐘を鳴らす捨石になったのだとか喚いてるホモがいるけどさあ

アメリカに養われ、アメリカの文化と思想で育った若者たちがやれ朝鮮だやれ中国だと勇ましくネットで喚き散らし
結局愛国烈士を気取っている本人たちは兵隊になるつもりもないのに戦争しろだの殺せだの主戦派気取りのチキンホークで
アメリカに国を切り売りしている自民党をミンスヨリマシミンスヨリマシミンスヨリマシと拝み倒して創価学会すら肯定しはじめるという体たらく

腹に刃を突き立てて何回も首をガツガツ刃で叩かれて七転八倒苦しんで絶叫した挙句に死んだ意味なんて毛ほどもなかったな(笑)
本人が今2ちゃんなんかで口ばっかり達者で愛国烈士気取りのネトウヨみたいな売国奴の先駆けだって言われてるけど本当だな(笑)

口だけ勇ましいチキンホーク、結局戦争になっても上にいて自分は戦争にも行かずに口だけで勇ましいこと言いたかったんだろう
何が国防だ、何が大和魂だ、オカマのチンケな軍隊ゴッコの変態マゾプレイをクーデターなんて呼ぶべきじゃないわw
958名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:11:55 ID:PpYI31ET0
>>950
遺書に関する真相は以下の通り。
------------------------------------
臆病者

壮烈な死を遂げた三島は、日頃「尚武の精神」とか「文武両道」を強調していたが、さほど勇気のある男ではなかった。
彼が金箔付きの臆病者だったという証言がたくさんあるのである。

三島由紀夫は、林房雄との対談で学生時代に書いた遺書について大いに弁じている。
昭和20年2月15日、軍隊への入隊命令を受けた時に彼が書き残した遺書は、以下のような文面になっている。    
(遺書本文、省略)

末尾を「天皇陛下萬歳」で結んだこの遺書に関連して、三島は次のように語るのだ。

「それにしても、『天皇陛下万歳』と遺書に書いておかしくない時代が、またくるでしょうかね。
もう二度と来るにしろ、来ないにしろ、僕はそう書いておかしくない時代に、一度は生きていたのだ、ということを、何だか、おそろしい幸福感で思い出すんです。
いったいあの経験は何だったんでしょうね。あの幸福感はいったい何だったんだろうか。
僕は少なくとも、戦争時代ほど自由だったことは、その後一度もありません」

三島のこの言葉に嘘はないかもしれない。
実際、戦争中の彼は天皇のため、皇国のために、命を捨てる覚悟でいたのである。
しかし、三島は入隊前の身体検査で軍医が「この中に肺の既往症がある者は手を挙げろ」と言ったときに、サッと手を挙げるのだ。
彼は嘘をついて兵役を逃れた「入隊拒否者」だったのである。
959名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:14:33 ID:yqKjF/CBO
>>957
三島貶しのブサヨクさんお疲れ様。

三島と敵対していた共産党でさえこう言ってました。

インチキな平和的・民主的秩序なるものの面皮をひっぱがそうとしたのではないか。
ムダ死にだったことにより、逆に象徴的行為としては完全に成功した。

いいだもも
三島自決直後のコメント
960名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:15:33 ID:UOfirqIX0
わからんでもない、奴隷の自由だな
マゾヒズムがそこにはある
考えないで絶対者に従うってのは恍惚感があるんだよ
天皇が美形だともっといいんだろうなぁ

自分で考えて生きるってのは
苦しいことでもある
961名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:17:49 ID:PpYI31ET0
以下、遺書本文。
--------------------

遺書  平岡公威


一、御父上様
  御母上様
  恩師清水先生ハジメ
  學習院並二東京帝國大學
  在學中薫陶ヲ受ケタル
  諸先生方ノ
  御鴻恩ヲ謝シ奉ル
一、學習院同級及諸先輩ノ
  友情マタ忘ジ難キモノ有リ
  諸子ノ光榮アル前途ヲ祈ルー
一、妹美津子、弟千之ハ兄ニ代リ
  御父上、御母上二孝養ヲ尽シ
  殊二千之ハ兄二続キ一日モ早ク
  皇軍ノ貔貅(ひきゅう)トナリ
  皇恩ノ万一二報ゼヨ
天皇陛下萬歳
962名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:21:33 ID:PpYI31ET0
芸術至上主義の裏側

市民的な幸福や常識的なモラルをシニックな目で描いた三島は、登場以来、芸術至上主義者と目されていた。
だが、彼の実生活は芸術至上主義とは程遠いものだった。
というより、彼は自分が作品の中で軽蔑して見せた常識的・世俗的な幸福の中にぬくぬくと安住していたのである。

職業作家になったばかりの頃に、二人の女に求婚して両方から断られるという苦い経験をした三島も、今や、「上流社会」の女性たちからから競って秋波を送られる身になった。

彼は夏には軽井沢に出かけ、ホテルに泊まって原稿を書くほどの身分になったが、執筆のかたわらスタンドプレーも忘れなかった。
彼は乗馬クラブに通い、馬を馬場から一般道に進め、避暑にやってくる人々に颯爽たる乗馬姿を披露して見せた。
三島の乗馬姿は大いに注目され、その年の新聞・雑誌は彼の英姿で飾られることになった。

軽井沢では、上流の令嬢や夫人によるパーティーが開かれていた。
三島はそれらに顔を出して、岸田今日子・兼高かおる・鹿島三枝子・「鏡子の家」のモデルになった人妻などと親しくなった。

やがて彼は歌舞伎の楽屋を訪ねた折りに一緒になった料亭の娘と親しくなり、三日にあげず旅館で逢瀬を重ねるようになる。
肉体交渉を伴うこの関係は、数年間続いている。

彼の「世俗的生活」を象徴するのが、ビクトリア朝風の白亜の邸宅だった。
「鏡子の家」の印税を前借りして建てられたというこの家は、欧米人の目には異様に映り、日本人にはグロテスクに見える金ぴか趣味の邸宅だった。
家の中には、骨董品を寄せ集めたような得体の知れぬ家具がごたごた並び、ソファには三島が少年時代から大事にしていたお気に入りの人形が置いてあった。

さほど広くない庭の真ん中に「理性に対する軽蔑の象徴」として大理石のアポロ像が据え置かれて、訪問客の目を驚かせた。
客の応対に出る女中は、西洋風の白いキャップに白エプロンという格好をしており、食後には客にブランデーと葉巻が出された。
三島邸を訪ねた外人記者は、「これほど西洋式を徹底する日本のインテリを見たことがない」と語っている。

:三島邸−中央にアポロ像が立っている
ttp://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/misima2.gif
963名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:22:38 ID:yqKjF/CBO
>>958
だって三島由紀夫は本当に幼児のとき、死にそうな病気になって、自家中毒の持病だったんだから、嘘でもないじゃん。
第一、その、手を上げたって、誰が見てた証言ですか?書いてないじゃん。
あやふやなネットの人の個人サイトからのパクリから言っても意味ないでしょう。
964名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:26:09 ID:yqKjF/CBO
>>962
それ他人の作ったサイトの引用だから、サイト者を明記しないと著作権侵害になるよ。
965名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:26:37 ID:PpYI31ET0
三島の所有する「外車」も人目を引いた。彼はアメリカ製の大きな青い自動車を買い込んでいた。
とにかく彼は他人と違うことをしていなければ気が済まなかった。
「三島由紀夫 死と真実」の著者によると、彼にとっての日常とは、やたらに自分を飾り立て、派手な演技をする舞台に他ならなかった。

三島は、約束の時間を違えず、原稿の締切も厳守するという市民的な美徳の持ち主だったが、同時に金の貸借にも合理的で、友人に貸した金などを厳しく取り立てた。

こうした作品と実生活の乖離はどこから来るのだろうか。

三島由紀夫の基層にあるのは紛うことなき俗物性だった。
彼には祖母直伝の貴族趣味と、両親から受け継いだ小市民主義があり、また、自身で育てたエリート意識があった。
三島は、祖母・母・先輩・教師の庇護を離れて自立するようになってからも、自分を支えてくれるものを求めた。
それが、世評であり、他から抜きんでることであり、たえず周囲から注目されることだった。

彼は世俗的なもので身を包んでいないと安心出来なかった。
それは、自分には何か大事なものが欠けているという強い不全感があったためと思われる。
祖母や母から行き過ぎた庇護を与えられているうちに、彼はそれは自分に何か欠けているものがあるからだと感じるようになったのだ。

俗物的な生活を送りながら、反俗的な作品を書くという二重の構図は、祖母に守られて安全第一の日々を送りながら、頭では流血の死にあこがれた少年期の二重生活を引き継ぐものだった。
彼はこの二重性の故に、頭では世俗を否定し、大衆社会現象を軽蔑していながら、その世俗から受容され賞賛されることを渇望したのである。

三島は自らの性格的なひ弱さを克服しようと、いろいろ努力している。
だが、その努力も、結局は自分の世俗的価値を高める方向に向かってしまう。
966名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:26:39 ID:DG+g3PHV0
>>959
いいだももは共産党じゃねえよww
左翼ではあるが。
967名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:27:52 ID:mN9tUN/IO
三島由紀夫って
大蔵省の役人もやってたんだっけか。
968名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:32:52 ID:PpYI31ET0
小学生だった頃に、彼は省線電車の中で、大人の乗客をにらみつけ相手が目を逸らすまで凝視を続けるという「自己訓練」を行っている。
最初、相手はいぶかしそうに彼を見返すが、やがてうるさくなって視線を逸らす。
すると、幼い三島は「勝った」と思うのだ。

三島を知る誰もが口にする彼特有の高笑いを、ラジオで聞いたことがある。
私は病気療養中、安静時間にはラジオを聴いて過ごしていたが、ある日、「高校生の作家訪問」という番組を聞いていて、あの有名な高笑いを聞いたのである。
それは、相手の感情を無視した傍若無人の哄笑で、聞く者を脅かして不安にさせるような耳障りな笑い方だった。
この高笑いを彼は新進作家時代に身につけたと言われる。

話をするとき、相手を真っ正面から見据え、続けさまに相手の心を脅かすような哄笑を浴びせかける対話術は、相手より優位に立っていないと崩れてしまう三島の幼児的な弱さから来ていた。

世俗的な生き方をしながら、反俗的な作品を書き続けるという矛盾は、何時かは馬脚を現さずにはいない。
それは彼が、「大体において、私は少年時代に夢見たことをみんなやってしまった」と誇らかに記してから4年後に起こった。

「大体において、私は少年時代に夢見たことをみんなやってしまった。
少年時代の空想を、何ものかの恵みと劫罰とによって、全部成就してしまった。
唯一つ、英雄たらんと夢みたことを除いて」
969名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:34:21 ID:yqKjF/CBO
自己の作品化をするのが、私小説作家だとすれば、三島由紀夫は逆に作品に、自己を転位させようとしたのかもしれない。
むろんそんなことは不可能だ。作者と作品とは、もともとポジとネガの関係にあり、両方を完全に一致させてしまえば、相互に打ち消しあって、無がのこるだけである。
そんなことを三島由紀夫が知らないわけがない。知っていながらあえてその不可能に挑戦したのだろう。
なんという傲慢な、そして逆説的な挑戦であることか。ぼくに、羨望に近い共感を感じさせたのも、恐らくその不敵な野望のせいだったに違いない。

安部公房
970名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:35:45 ID:PpYI31ET0
三島は昭和34年(34歳の時)に満を持して「鏡子の家」を発表した。
「金閣寺」の成功の後に、渾身の力を込めて発表した自信作だった。
しかし、この作品は批評家から全く評価されず、冷たい黙殺をもって迎えられた。

「鏡子の家」には、三島の分身とされる4人の青年が登場する。
ボクサーの俊吉は、全日本チャンピオンになるが、ちんぴらに襲われて拳をつぶされ、右翼団体に加入する。
美貌の新劇俳優の収は、醜貌の女高利貸しに金で買われ、最後にこの女と心中してしまう。
日本画家の夏雄は、自分を天使だと信じている。
商社マンの清一郎は、世界の崩壊を信じている。

この小説について、例えばヘンリー・スコット=ストークスは次のように解説している。

三島のこういう四つの顔を配した『鏡子の家』は、一九五〇年代の三島文学の中では最も雄弁に著者自身を語るものといえるだろう。
四人が代表する三島の四側面は、いずれもこのころまでは目立たなかったが、やがて六〇年代に入ってはっきり現われてくる。
峻吉に代表される右翼的偏向は、一九六五年以降はとくに顕著になるし、人間は肉体が美しいうちに自殺しなければならないという信念も、六〇年代後半には明確になる。
同じことは、流血によって存在の保証をつかもうとする収の欲望や「完全な芝居」への夢についてもいえる。
だが『鏡子の家』の最大の特徴は、四人の登場人物のうち三人までが世界の,崩壊を必至と考えていることだろう。
この意味で、三島のニヒリズムは浪曼派のそれと非常に近い。
江藤淳は、三島を指して、挫折した日本浪曼派の最後のスポークスマンだと言い、戦後の三島作品に繰り返し現われる世界崩壊への期待は、浪曼派最大の特色の一つだったと書いている。
971 ◆C.Hou68... :2008/10/26(日) 13:38:13 ID:g97Fz0i/0
>>967
兼業作家で過労気味になって、専業作家になったんじゃなかったっけ。
若いうちからデビューしてても、ちゃんと学校行って就職したのはえらいと思う。
・・・と現代の俗っぽい庶民感で語ってみる。
972名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:39:21 ID:PpYI31ET0
「鏡子の家」が評価されなかった理由はいろいろあるけれど、一言でいえばこの4人の登場人物のどれにもリアリティーがなかったことだろう。
三島は4人の人物に自分を分け与えるに当たって、彼の持つ二つの側面のうち、市民的幸福を唾棄するニヒルな面だけを投入した。

「僕は俗気があります」と自分から認めていながら、彼は自分の世俗性とその背後に潜む不全感を作品の中に書き込むことを避けた。
 これでは登場人物が一面的な作り物に堕してしまうのも当然といえる。

ここまで順風満帆、やることなすことすべてが思う壺にはまってきた三島にとって、「鏡子の家」の失敗は大変な打撃だったらしい。
彼は大島渚との対談で、「鏡子の家」発表後の文壇の反応について「その時の文壇の冷たさってなかったですよ」と語り、「それから狂っちゃったんでしょうね、きっと」とうち明けている。
事実、この頃から三島由紀夫狂乱がはじまるのである。

年譜によると、三島は「鏡子の家」を発表した翌年に大映映画「からっ風野郎」に出演している。
この時、彼は大映と専属俳優契約を結んでいるから、この後も続けて映画に出る積もりだったに違いない。

「からっ風野郎」での三島の役はちんぴらヤクザだった。
この映画に出たことで三島は、彼を愛する読者たちに幻滅をもたらすこととなった。
それまで、三島には天才作家というイメージがあったけれど、映画で見る彼は短躯短足、気の毒なほどに貧相な人物だったのだ。
ラッキョウ頭だけが目に付くその体には、未成熟で病的な印象があった。
致命的だったのは、役柄の関係もあって、彼が精神的にも深みに欠けた薄っぺらな男に見えたことだった。
973名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:42:24 ID:ndeh4yKbO

♪まいべいびぃべいびぃ薔薇薔薇


974名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:42:32 ID:8j5LYQeq0
オレは薔薇族の勇者サブ!
975名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:43:18 ID:PpYI31ET0
三島はこの悪評にもめげず、やたらに週刊誌や新聞の三面記事に登場するようになった。

町内会の一員として、はっぴ姿で御輿を担ぐところを写真に撮られるかと思うと、ゲイバーに出かけて自分で作詞したシャンソンを歌い、衆人環視の中で丸山明宏(三輪明宏)と抱き合ってキスをした。

彼が最も熱中したのは、肉体の改造だった。
三島は夜中に執筆し、夜明けから正午まで就寝するのを例としたが、午後からボディービルや剣道の道場に通うようになった。
その熱心さは異常な程で、間もなく彼の身体には「隆々たる筋肉」がつき始めた。

不全感の所有者がやることには、限度というものがない。
自分の体に自信を持ち始めた彼は、機会あるごとに肉体を誇示するようになった。
三島は、「男というものは、うぬぼれと闘争本能以外に何もないのだ」と弁解しながら、機会あるごとに裸になった。

彼は「三島由紀夫展」のカタログに次のように書いている。

「私はようやくこれ(鍛え上げた肉体)を手に入れると、新しい玩具を手に入れた子供のように、みんなに見せ、みんなに誇り、みんなの前で動かしてみたくてたまらなくなった。
  私の肉体はいわば私のマイ・力ーだった。
・・・・・しかし肉体には、機械と同じように、衰亡という宿命がある。
私はこの宿命を容認しない。
  それは自然を容認しないのと同じことで、私の肉体はもっとも危険な道を歩かされているのである」

かくて「薔薇刑」と題する自らのヌード写真集を出版し、「わが肉体は美の神殿」と自称するにいたる。
ここまで来ると、もう狂気の沙汰としか思えない。
彼は書斎に等身大の鏡を据え付け、自分の姿を鏡に映しながら執筆しているという噂がたった。
976名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:44:04 ID:yqKjF/CBO
>>970
鏡子の家は三島の最高傑作だと、奥野健男は書いてるし、橋川文三も評価してるよ。
977名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:46:25 ID:PpYI31ET0
三島がしきりに愚行を重ねるのは、自分を評価しなくなった知識人に当てつけるためだった。
すると、その度に、彼に対する評価は落ちていった。
三島文学は本質的に青春文学だから、若かった頃に三島の作品を愛読した読者も、年を取ると次第に彼の逆説や反語、装飾過多の文章をうるさく感じるようになる。
そこへ三島の露出趣味である。
年輩の読者の三島離れは、急速に進行し始め、その結果、新作を出すと20万部は売れていた彼の著書が、1960年代(35歳以後)には2〜3万部しか売れないことが多くなった。
彼が苦々しげに「作家殺すに刃物はいらぬ、旧作ばかりをほめればよい」と書いたのもこの頃である。
(以下略)

転載元
「三島由紀夫」ttp://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/misima.html
978名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:51:45 ID:TRJcJOer0
肉体美っていうカテゴリがあったのか。
979名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:51:59 ID:yqKjF/CBO
>>975
それ、時系列が全くめちゃめちゃで違いますよ。
三島由紀夫がゲイバーに出入りしていたのは、禁色を書いていた頃でそれより10年前くらいだよ。
ボクシングもボディービルも鏡子の家を書く前から、やってます。
鏡子の家を読んだことない人が知ったかぶって論じても、ボロが出てるよ(笑)
980名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:56:48 ID:yqKjF/CBO
>>977
三島由紀夫の最高傑作と言われてる戯曲、サド侯爵夫人も、よく売れた春の雪も、鏡子の家の後に書いたものだけどね。
時系列のめちゃめちゃな、恣意的な工作サイトの引用、お疲れ様でした。
981名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 13:58:12 ID:PL/dYX2A0
>>938
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/5215/sintyou.htm

成年男子平均身長推移
1898年 156.6cm
1902 157.2
1907  157.9
1912 158.1
1917 158.5
1922 159.1
1927 159.7
1932 160.0
1937 160.3
1948 158.2 ←

1925年生まれの成年男子の身長としては164(162あるいは163という説もある)は平均以上。
982名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 14:02:20 ID:yqKjF/CBO
983名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 14:19:49 ID:XJ15GubV0
もし生きてたら、
どんくらい時代に対してうまく乗りこなせてただろうね
仮に、今の筒井康隆を10とすると(これも90くらいまでだと思うけど)
984名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 14:44:47 ID:Oi0pUu2w0
ここまで細江英公の話が殆ど出て来ない。
これは写真家細江の作品のひとつであって、被写体の三島にはゴッホが描写した枯れたひまわりの価値しかない。
この本を買うのは三島ファンではなく写真関係の人が多いと思う。
985名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 15:00:02 ID:1wzPIIQv0
おもしろいのは、ネトウヨの敵の小田実とか井上ひさしとかが、
三島作品を評価していることなんだよね。
だからあまり三島の政治性ってステロタイプに理解しない方が本当はいい。

井上「サド侯爵夫人は、その完璧なまでに空虚な構造、噴飯もの寸前のみごとな台詞修辞法によって
20世紀の世界劇文学を代表するにたる一作である」

小田「文にあっても、いまや商あっての文。私は三島の文と武にかけた純情をなつかしくおもう。」
986名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 15:05:11 ID:PL/dYX2A0
>>985
って言うか、政治的イデオロギーが自分と違うからと言って相手の作品を評価しないとすればそんな低次元な奴は文学者でも何でもないだろう。
とはいえ、ネトウヨにはそういうレベルの低い輩が多いのだが。
987名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 15:09:28 ID:LqqXuuBp0
彼が良くも悪くも常人でない事は分った
988名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 15:22:22 ID:1wzPIIQv0
西郷隆盛と蓮田善明と三島由紀夫と、この三者をつなぐものこそ、蓮田の歌碑にきざまれた
三十一文字の調べなのではないか。西郷の挙兵も、蓮田や三島の自裁も、みないくばくかは、
「ふるさとの駅」の「かの薄紅葉」のためだったのではないだろうか。
滅亡を知るものの調べとは、もとより勇壮な調べではなく、悲壮な調べですらない。
それはかそけく、軽く、優にやさしい調べでなければならない。なぜならそういう調べだけが、
滅亡を知りつつ亡びて行くものたちのこころを歌いうるからだ。


江藤淳「南州残影」より。
989名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 15:25:00 ID:0LK2WI04O
岸信介曰く
政治に美を持ち込んではならない
990名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 15:27:18 ID:ndeh4yKbO

今年の憂国忌には、ねらーが殺到♪ヽ( =^-゚)ノ


991名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 15:29:35 ID:0LK2WI04O
自衛隊は吉田茂の息子だから三島に合わないのも当然
992名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 15:31:29 ID:1wzPIIQv0
>>989
岸と三島の親父が、農商務省の官僚の同期なんだよな。
993名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 15:32:15 ID:yqKjF/CBO
>>986
ネットサヨもそうだよ。三島作品も読んでないくせに作品まで貶してるのいるから。
994名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 15:35:06 ID:d1op/pIE0
>>898
治ってなど、いない。

>>915-916
良いこと言うな!
俺も彼のひたむきさを買うぞ。
勘違いが激しいとか、ホモだとか、そんなことは問題じゃない。
995名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 15:36:02 ID:awKIfRtS0
>>985
ネトサヨもいいものはいいと評価せざるを得ないだけでは?
996名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 15:38:29 ID:0LK2WI04O
吉田茂の防衛大学校への訓示
武とは矛を納めると書くのである

三島の武にこの意識があったか
997名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 15:39:03 ID:rSLXzVTC0
アッー!
998名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 15:43:01 ID:yqKjF/CBO
日米共同コミュニケによって、現憲法の維持は、国際的国内的に新たなメリットを得たのである。
すなわち国内的には、今後も穏和な左翼勢力に平和現憲法の飴玉をしゃぶらせつづけて面子を立ててやる一方、過激派には現憲法にもこれだけの危機収集能力のあることを思い知らせ、
国際的には、無制限にアメリカの全アジア軍事戦略体制にコミットさせられる危険に対して、平和憲法を格好の歯止めに使い、一方では安保体制堅持を謳いながら、一方では平和憲法護持を受け身のナショナリズムの根拠にするというメリットが生じたのである。
これはいわば吉田茂方式の継承であり、早急な改憲は、現憲法がアメリカによって強いられた憲法であるより以上に、さらにアメリカの軍事的要請に沿うた憲法を招来するにすぎないという恫喝ほど、効き目のあるものはあるまい。
改憲サボタージュは、完全に自民党の体質になった。

三島由紀夫
「道理の実現――『変革の思想』とは」より
999名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 15:44:06 ID:1wzPIIQv0
ああ、もうこのスレもおわりか。
ニュー速らしからぬスレでしたね。
最後に>>997は愛嬌だけど。
1000名無しさん@九周年:2008/10/26(日) 15:44:28 ID:5JHyqNuH0
>>996
写真で見る限り矛を皮に収めてあるから、答えは肯である。
10011001
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。