【書籍】 「韓国、日本に5年先立つ1900年に独島領有権確認」〜保坂祐二教授『大韓民国、独島』出版[09/16]
51 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん :2010/09/17(金) 22:34:35 ID:nxjoVo/q
韓国は日本より五年はやく竹島の領有権を確認していたという事実を2010年に発表した。 もうなんでもありの理屈だね。 日本もその五年前にも確認していたとこれから発表すればよい。
";ヾ*;;@;ヾ;;"/"*;";^"i";ヾ ヾ*;";"i";*;ヾ;"i";*;ヾ;"i" |i;;ii ;iiメソ"i";*;;,* |l!|| ll|リ/i;^* l;l!ll |l| |:l||| |l| ∧_∧ |;l!l| ||l. 曰 ( ´Д`) < まぁ〜飲めや。 |ill|| ll|. | | / \ 平和についてじっくり語ろうぜ l|il|l l!| ノ__ヽ | | | | 馬鹿と朝鮮人につけるクスリはねーな。 |::l|| !!|,,,,,||大||,,,,,,,| | 。 | |,,,,,,, ノ;;;i!! !!ヽ||吟|| ⊂_/\ ヽ \> ,, ,,, ||醸||" ▼ ,, \ / ̄) ̄) ,, ゙゙゙゙""" ,,,┻ 丶 ノ、ノ
だーかーらー、もう何度言ったか分からんが、現在の領土は『最新の』条約で決まるの。 今はアジア一帯がモンゴルの領土じゃないだろ、ヨーロッパはイタリアやドイツやフランスが全域支配してないだろ。 事実かどうかはこの際おいとくが、1900年でも紀元前でも、韓国領土だったとしてもなんの意味も無いんだっつうの。
>「公文録」を読みにくい草書体で筆写して偽原本を作った後、 目ぼしい新論拠がないからって、最早いちゃもんやがな・・・・
Yahoo!掲示板 - 大韓民国 - 竹島
鬱陵島検察日記 -1882年ー李奎遠
ttp://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=9761 そしてその違いは1882年6月5日、鬱陵島から戻った鬱陵島検察使・李奎遠の帰還によって一層明確となる。
李奎遠はその啓文で、「晴明の日、高きに登りて遠眺すれば、即ち千里を窮(きわ)むべくして、
更に一挙の石一撮の土なし」とし、鬱陵島検察日記には「四望して海中にうかぶに一点の島嶼(とうしょ)
の見形無し」と記している。これは鬱陵島の最高峰である聖人峰(984m)の頂上に立ち、四方を望見した結果を
述べた部分で、そこからは島影らしきものは何も発見できなかった。これは、李奎遠の地理的正確さを
改めて実証しただけでなく、1880年代の朝鮮の人々には、現在の竹島がその視野の中に入っていなかった事実
を証明するものである。
1694年以降、もう一つ別の”見える、見えない"の話。
https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/visible-from-ulluengdo-to-liancourtrocks そう、この時代の朝鮮王朝の鬱陵島圖には、于山島が記載されている。しかしながら、東南300余里にあり、
二つの岩島から成り立つ現竹島は記載されていない。この事を考えると、朝鮮王朝は、現竹島を朝鮮領土とは
認識しておらず、日本山と認識していたが、このいくつか現竹島をみているが、情報は正確に伝承されなかった事や、
その他鬱陵島調査官、1882年の李奎遠や1899-1900年の禹用鼎をはじめとした捜討官の記録に現竹島が
記載されていない事から、朝鮮は現竹島を朝鮮領土と認識していなかった事がわかる。
朝鮮の東限は、鬱陵島(+竹嶼)なのであった。
朝鮮半島東岸から、一島であるはずの鬱陵島が二島であるように見える?
ttps://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/ulleungdo-can-be-seen-as-two-island-from-eastkorea > すると、いくつかの条件において、本来一島であるはずの鬱陵島が二島に見える場所があることが確認された。
> また、地図によっては、鬱陵島-三陟の東 于山島-平海の東との説明がなされているので、ひょっとすると三陟から
> 見える鬱陵島と平海から見える鬱陵島の大きさ、姿が違っていて是を別々の二島と勘違いして認識していた可能性
> もありうる。
> つまり134m附近で標高が高い部分の鬱陵島の山峰はみえるが、下部が見えない
> しかし500m附近に上げてシミュレーションしてみると、鬱陵島の下部が見えるようになる。
> この下部は、海東総圖にも書かれているような、別の小さい島が有るかのようにも見える
> 鬱陵島116Km北の海上から鬱陵島をみた場合のシミュレーション
> 鬱陵島の北116Km地点の海上から鬱陵島を眺めると、大きな鬱陵島が、北からみて左側即ち東にみえ、
> 小さい小島が北から見て右側即ち西側に見える。
> Kangnung江陵からUlleungdo鬱陵島を眺めた場合のシミュレーション
> (左)標高300m附近あたりで一島であるはずの鬱陵島が双子の島であるように見える。
> (下)標高400m附近で南(右)に小島、左に大きい島二島といった形に見える。
> 次に、いかに、特徴的ないくつかの地図を見てみる。朝鮮の古地図で、主に1694年以前の認識に基づいた、
> つまり于山島が鬱陵島の西側にある島、もしくは一島二名を示すものについては、以下のような地圖がある。
> 之を考慮して考えてみた。
鬱陵検察使の地図
ttp://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/1.html ソウル大学奎章閣 鬱陵島圖形 1711年 朴錫昌作
ttp://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/2086429772_c59068652f.gif ttp://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/img1.png この地図は一七一一年、鬱陵島検察使の朴錫昌らが鬱陵島に渡った際に作成した地図です。
この地図は鬱陵島の東側に『海長竹田所謂(いわゆる)于山島』と書かれた島が存在することに特長があります。
ほとんどの鬱陵島の古地図には鬱陵島の東側に于山島が描かれていますが、この地図には『海長竹田』と于山島
がどのような状態の島なのか判断できる記述があるのが目を引きます。これによって私たちは于山島が竹島(独島)
なのか竹嶼なのかをはっきりと見分けることが出来ます。『海長竹』とは日本では女竹と呼ばれる竹の一種で、
一般的には海蔵竹と表記します。『田』とはここでは草木が密集して生えている状態を指します。したがって、
『海長竹田』とは『海長竹が密集して生えている場所』もしくは『海長竹の竹林』といった意味です。竹嶼が竹嶼と
呼ばれるようになったのは竹嶼に竹が生えているからであるというのが韓国の専門家の一致した見解であり、
江戸時代に日本人が描いた鬱陵島の地図である『小谷兵衛より差出候竹嶋之絵図』にも現在の竹嶼にあたる
「まの嶋」には竹林が絵で描かれています。実際今でも竹嶼にには竹が密集して生えています。
一方1876年の『日本海内竹島他一島地籍編纂方伺』に「樹竹稀なり」とあるように竹島(独島)に竹が生えていない
とする記録が複数存在し、なおかつ現在の竹島(独島)に竹が生えていないことは韓国人も認めています。
したがってこの地図に描かれている于山島が竹嶼であることに疑いの余地はありません。
【竹島問題】「于山島=鬱陵島」と認識の韓国史料 [02/22]
竹島(韓国名・独島)をめぐり日韓両国が領有権を主張する中、戦後間もない一九四七年に韓国
の調査団が、同国側が竹島の古い名前だと主張する「于山島」を鬱陵島と同一視していたことを示
す史料が見つかった。二十二日の「竹島の日」を迎え、韓国側の主張の矛盾を裏付けるものとして
注目を集めそうだ。
史料は、島根県の竹島資料室が見つけた。
米軍政下の暫定政府の要請に基づき、竹島などの領有権を固めるため、朝鮮山岳会が四七年
八月に学術調査した内容を、民俗学者の同会の宋錫夏会長が翌四八年にまとめた。竹島の北西
九十二キロに位置する鬱陵島について、歴史や朝鮮本土からの位置関係など島の概要を紹介し
ている。
この中に于山島そのものの表記はないが、「太宗十七年(一四一七年)」の年号や「按撫使の金
麟雨が鬱陵島で大きな竹や水牛皮、綿子、検樸木などを献上した」など、一四三一年編さんの韓国
の歴史書「太宗実録」で初めて登場した于山島に類似する記述を、鬱陵島のこととしている。
また、于山島と関連があるとされる于山国が、歴史書「三国史記」に登場する年号「新羅智証王十
三年(五一二年)」も記されている。
竹島資料室の錦織希衣さんは「韓国側が調査当時、于山島を鬱陵島と認識していたとみられる」
と指摘。「于山島が竹島という韓国側の主張が、成り立たないことを補強できる史料」とした。
于山島をめぐっては、韓国在住の米国人研究家ゲーリー・ビーバーズ氏が、韓国の古地図や文
献を基に、于山島は竹島ではなく、鬱陵島の北東に隣接する竹嶼(ちくしょ)を指している、とする研
究成果を発表。島根県の竹島問題研究会も同様の見解を示している。
実効支配しているのは韓国なんだから、いちいち証拠を示して騒がなくてもいいのに 現状維持をしていけばいいだけのこと そのうち日本人は忘れるだろう
09.「1900年大韓帝国勅令第41号,現竹島を韓国領土と世界に公表」というのは歪曲
ttps://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/koreanpropagandapdfdistorture/9-1900nen-taikan-teikoku-mikotonori-rei-dai-41gou--gen-takeshima-wo-kankoku-ryoudo-to-sekai-ni-kouhyou---toiu-no-ha-waikyoku この時に報告にあった禹用鼎の報告は、大韓勅令41号の請願書にも引用されるが、その範囲は東西? 六十里?
南北? 四十里?, 合 二百餘里、であった。つまり現竹島は全く含まれて居ないし、記述も報告もない。
かつ、1906年06月13日の 皇城新聞中の記事、「鬱島郡? 配置顛末」では、鬱島郡の管轄範囲は、竹島石島を含めて
東西60里南北40里合二百余里であり、やはり200餘里と言う同じ範囲が認識されている。
まず、古地図に関して鬱陵島の大きさを見てみる。古地図には、最も著者な付属島である于山島竹嶼と存在しない南の
小5島を含んだ範囲を記載しているが、・・・
また、竹島石島が「竹島と石島」なのか、竹島石島、つまり、「竹島である石島」という一島二名であるのかも判明して
いないので此のあたりは今後の課題でもある。 China PilotやChina Sea directory,朝鮮水路誌などで、最大の付属島
が竹嶼=Boussole Rockと併記で記載されている。これらの記述からかんがみると、竹島石島は、
「竹島であるBoussole Rock(石島)」であるという説も成り立つわけである
さらに、鬱陵島の調査員の地図に記載された観音島-島項が石仏島と呼ばれていた、そして観音島が小于島として、
二番目に著者な付属島として認識されていた事から、此の島を石島と推測する事もできる
また、存在しないのに、歴代の鬱陵島詳細図に1900年の大韓與地図まで記述され続けた「南の小五島」が石島である
説もありうるのである。
韓国側は、全羅道方言の変改によって、石島が独島になったと主張するが、これはあくまでも仮説に過ぎない。
前述しているとおり、現竹島の緯度経度が記載されている文章や、現竹島を石島としるし、形状がきちんと認識できる
古地図は存在しないので、石島が現竹島を示すと言う直接的な証拠は全くない。
★大韓帝国勅令41号の「石島」の正体は・・・
ttp://ameblo.jp/nidanosuke/entry-10113508151.html 1928年の9月、東亜日報が鬱陵島の特集を組み、12回(11回だったかな?)連続で鬱陵島紹介記事を連載して
いたのですが、この特集記事で「観音島」の語源について書かれていたのです。
可能性のレベルの資料ですが、以下の文献を見ると、当時やはり「石島」と呼ばれていたのではないかと思われます。
1928年9月8日東亜日報
ttp://ameblo.jp/nidanosuke/image-10113508151-10075387044.html ttp://stat001.ameba.jp/user_images/ab/0a/10075387044.jpg 漢字交じりで「石柱優恵(?)観音島」という小見出しの後、赤線部分には
その中には石仏形状の岩が幾つかあるとのことで、この島を観音島という
という記述が見られます。
つまり「観音島」はかつて「石仏の島」だったわけですね。
ようするに観音島は、「石仏」という「石」を含む言葉が由来の島だったわけです。となれば、今まで「石」という言葉と
なんら関係が見られない、という従来の主張は間違いだったということになるわけです。
「石仏」が語源であれば、かつてこの島は「観音島」ではなく、むしろ「石仏島」に近い韓国語の固有語表現で呼ばれて
いた可能性が出てきます。
「石仏島」→「石島」となった・・・と推測するのは無理があるでしょうか?
恐らく、韓国側からは「何故、なんの前触れも無く、”仏”の文字が無くなって石仏島が石島になったのか、
根拠を示せ!」と反論してくるかも知れません。
ここで、「大韓帝国勅令四十一号」の第一条をもう一度、読み直してみます。
第一条
鬱陵島を鬱島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制に編入し、郡等級は5等にすること
最初の条文から、何の前触れも無く、漢字の一字を削除して鬱陵島を鬱島にすることが記載されています。
となれば、その附属島嶼の石仏島(?)も漢字一字を削除して石島になったとしても、可笑しくはありませんな。
これ、全く根拠の無い話でもないわけです。
実際に1905年の「鬱陵島見取図」で”観音崎”と呼ばれていた島が、1909年の鬱陵島全図(韓国水産誌)では
”鼠項(ソコウ)島”と記載されてるのですから。
まあ、勅令四十一号が1900年に発令された勅令なのに、なぜ1905年の記録が「観音崎」で、1909年の記録で
「鼠項島」なのか、少し根拠が薄い気もしますが、それは「1905年ではまだ勅令の呼び方が浸透していなかったので、
古くからの名前(石仏島が”訳されて”観音崎)で記載されたが、1909年には石島の名前が現地でも浸透し、
その”Seok-Do”という発音を鼠項島と記録した」と、これまた大胆な仮説で反論することとします。
>>57 残念ながら韓国人が何かとつけて騒ぐので嫌でも思い出させてくれます
ところで、波浪島は何処? (・∀・ )っ/凵⌒☆チンチン
62 :
バキユーン大統領くん ◆BcJ9crR542 :2010/09/17(金) 23:04:15 ID:KCSXMRVX
尖閣で韓国を味方につけよう・・・
63 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん :2010/09/17(金) 23:08:40 ID:6gK2ww2N
出版に当たって、以下の注意書きを付けましょう。 ※あくまでも個人的感想文です。
64 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん :2010/09/17(金) 23:10:09 ID:pvhVh0Vw
よくもコレだけ新事実が出てくるね? ノルマであるの?
>>57 なじぇ半島の韓国人は、日本に強制連行されて居つかざるをえなくなった在日の存在を忘れているんだ?
韓国人がやるべきは、一日も早くすべての在日韓国人・朝鮮人の半島への帰還だろ、同胞を見捨てるんじゃネーヨ
竹島云々はその次だろ、韓国人ってホントにバカだな
Occidentalism
http://www.occidentalism.org/ Lies, Half-truths, & Dokdo Video, Part 1
http://www.occidentalism.org/?p=319 Lies, Half-truths, & Dokdo Video, Part 2
http://www.occidentalism.org/?p=325 Lies, Half-truths, & Dokdo Video, Part 3
http://www.occidentalism.org/?p=346 Lies, Half-truths, & Dokdo Video, Part 4
http://www.occidentalism.org/?p=361 Lies, Half-truths, & Dokdo Video, Part 4 Supplement
http://www.occidentalism.org/?p=367 Lies, Half-truths, & Dokdo Video, Part 5
http://www.occidentalism.org/?p=373 Lies, Half-truths, & Dokdo Video, Part 6
http://www.occidentalism.org/?p=377 Lies, Half-truths, & Dokdo Video, Part 7
http://www.occidentalism.org/?p=445 Lies, Half-truths, & Dokdo Video, Maps 1
http://www.occidentalism.org/?p=328 Lies, Half-truths, & Dokdo Video, Maps 2
http://www.occidentalism.org/?p=333 Lies, Half-truths, & Dokdo Video, Maps 3
http://www.occidentalism.org/?p=335 Occidentalism
Lies, Half-truths, & Dokdo Video, Part 6
Why didn’t Gwaneumdo appear on old Korean maps?
http://www.occidentalism.org/?p=377 観音島は何故韓国の古地図に描かれなかったのか?
これら二つの日本の地図と、1882年に李奎遠が現在の観音島を“項島”ではなく“島項”と記載したこと
からすると、当時の韓国人が今日の観音島を単独の島ではなく、本島の一部だと一般的に考えていた
ために、地図には一島しか描写されなかったのだ、と私は思います。つまり、韓国の古地図にある于山島は、
今日の観音島と言うよりは竹島(Chukudo/Jukdo)のことを示していることになります。さらにいうと、“于山島”
とは竹島(Chukudo/Jukdo)の別名にすぎない、ということになります。
1899年の韓国の皇城新聞の記事は、鬱陵島には“于山島”と“竹島(Chukudo)”という二つの主要な付属島
がある、と記述しています。そのことから、1899年には“于山島”と言う名称は今日の観音島を指している
とも考えられます。でもそうであるなら、何故わずか一年後の1900年に韓国政府は鬱陵島とその付属島2島
を江原道に編入する際に“于山島”と言う名称を使用しなかったのでしょうか。1900年に発効された勅令第41号
の中で、大韓帝国政府は鬱陵島の付属2島を“竹島(Chukudo/Jukdo)”と“石島(ソクト)”と呼んでいます。
では一体“于山島” “観音ア”はどうなってしまったのでしょう?それに一体、“石島(ソクト)”は何処から
やってきたのでしょうか?
私は、“于山島”と言う名称が“竹島(Chukudo/Jukdo)”の別名にすぎないことが判明したために、使用され
なくなったと考えています。また “観音ア”については、地形学的には島に向かって伸びる岬ではなく一つ
の島である、と判断されたために使用されなくなったのだと思います。1886年の日本の地図が示すように、
現在の観音島を指して伸びている本島の伸長部分は、引き続き“観音ア”、“島項”と呼ばれていたのかもしれません。
1900年の大韓帝国勅令第41号の中で言及された“石島(ソクト)”が、この“鼠項島”の日本語の発音
(ソコウトウ)に酷似しているのは、偶然だとは思えません。また、1882年に李奎遠が現在の観音島を
示すために使用した“島項”の漢字2文字が、“鼠項島”と共通していることも、偶然だとは考えにくいのです。
さらに言えば、鬱陵島に生息するたった3種類の固有動物のうちの一つである“鼠”の文字が、“鼠項島”
と言う名前に含まれていることも、偶然とは言い難いのです。言い換えれば、“鼠項島”は、今日の観音島
を示すのにぴったりな名称と言えるのです。
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1147700374/212-215 http://p2.chbox.jp/read.php?host=kamome.2ch.net&bbs=kokusai&key=1147700374&ls=212-215
南朝鮮はシナだったんだから関係ないだろ。 シナが主張するなら分かるが。
☆石島
大韓帝国時代の「皇城新聞」1906年05月19日付の記事に、「本郡所属の独島は外洋百余里の外に在るが、
本月四日に、日本官人一行が官舎に来到し、自ら云うには、独島が今、日本の領地になった故、視察の
ついでに来到し、・・・(中略)(日本官人一行は)戸数人口と土地の生産の多少と人員及び経費幾許、
諸般の事務を調査して録去した」と記載がある。 しかし、「皇城新聞」の1906年07月13日付の記事には、
鬱陵島の配置顛末との題で、「郡所管の島は鬱陵島と竹島(チクトウ=現在の竹嶼)と石島。東西六十里、
南北四十里、」と記載されており、郡所管の地域は東西六十里(約24km)、南北四十里(約16km)としている。
5月19日付で独島は外洋百余里(約40km余り)としていることから、石島と独島は別の島と言える。
(参考:鬱陵島は東西南北とも10km程度の島。現在の竹島は鬱陵島より東南東に約92km離れている。)
日本では、鬱陵島の古地図に記されている鬱陵島近傍の島の位置関係から、勅令の「竹島」が現在の竹嶼で、
「石島」が現在の観音島であると言う見方が強い。竹嶼は鬱陵島近傍にある島の中で一番大きく、観音島が
これに次いで大きい。共に鬱陵島の北東近傍にあり観音島は竹嶼の北西に位置する。
石島はどこか(4) - 日韓近代史資料集 -
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/49689944.html 1900年勅令41号の石島 | 国際法からみる竹島問題
http://takeshima.cafe.coocan.jp/wp/?page_id=267 2.3 「石島」→「独島」→そして再び「石島」
ここに2つの報道記事がある。1906年の5月と7月の共に皇城新聞の記事である。
1906年5月9日皇城新聞
「本郡所属の獨島は外洋百余里の外に在るが、本月四日に日本官人一行が官舎に来到し、自ら云うには、
獨島が今日本の領地になった故、視察のついでに来到し。。。。」
1906年7月13日皇城新聞
「鬱島郡の配置顛末 統監府から内部に公照された江原道三陟郡管下に所在する鬱陵島の所属島嶼と
郡廳設始月を示明せよとの故に答酬され、光武二年五月二十日に鬱陵島統監として設證され、
光武四年十月二十五日に政府会議を経由して郡守を配置したが、郡廳は台霞洞に置き、該郡所管島は
チュク島と石島。東西が六十里で南北が四十里なので、合せて二百余里だという。」
韓国の主張する「訛による変化説」を適用すると5月には「独島」、2ヶ月後には再び「石島」に戻ったことになる。
これでは文字の役割さえ果たせないだろう。なお、全羅道沿岸にも「石島」と表記される島が沢山あるとの
情報もある。「石島」から「独島」に漢字表記が変更された事例の1つでも提示いただきたいものである。
猛の竹島日記 | 護郡所管島はチュク島と石島
http://take8591.blog82.fc2.com/blog-entry-70.html 1906年5月9日の皇城新聞では、竹島を「獨島」と呼称してます。
ttp://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/rensa.html それにも関わらず、1906年7月13日の皇城新聞は「石島」と呼称していることです。
即ち、皇城新聞の考える勅令の石島と獨島とは別の島だったということになります。
Re: 護郡所管島はチュク島と石島 2008/ 2/ 3 22:55 [ No.16252 / 16495 ]
投稿者 :
chaamiey
>日本はすでに1877年太政官指令 >文を通じて独島を「日本領土の外側」に規定していた事実も新たに確認された。 独島=竹嶼島なので『「日本領土の外側」に規定』は正解です。 竹嶼島≠竹島で、つまり竹島≠独島。
>>50 ・・・いや、君がこの本を読んでいないのに空想でけなしているばかりか、
nayukiの事も知らない新参者なのに古参ぶっていることはよく分かった。
外務省: 3.鬱陵島への渡海禁止
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/g_kinshi.html 【いわゆる「竹島一件」】
5.その一方で、竹島への渡航は禁止されませんでした。このことからも、当時から、我が国が竹島を自国の領土
だと考えていたことは明らかです。
★竹島一件
松島(現竹島)について
日本から竹島に渡る途上に松島がある。松島が記述された日本の最も古い文献は、1667年(寛文7年)に編纂された
松江藩士斎藤豊仙の『隠州視聴合記』があり、また江戸元禄時代には、日本から竹島の行き帰りに松島をある程度
利用していた記録もある。天候などの条件がよければ松島から竹島が見えることもあって、日本にとっては竹島に
渡る為の航海の指標や暴風時などに一時避難ができる重要な島であったことは確かである。幕府の渡航許可の
公文書は見つかっていないが、大谷家の記録によると、竹島一件以前に幕府から竹島とは別に松島への渡海免許
が出され、同家は松島での漁労も行っていたようだ。
明治時代に「竹島外一島之義本邦関係無」といった「竹島外一島」が鬱陵島と松島であるように捉えられる公文書
もあるため、「日本は『竹島一件』において松島を竹島の属島と見なし同時に自ら放棄した。」とする考えが韓国側を
中心にある。しかし、竹島一件の当時、朝鮮との交渉において松島の名は一切出てきておらず、朝鮮側の地図を
見ても朝鮮政府は松島を全く認識していない事がわかるほか、その後の竹島事件において幕府の筆頭老中だった
浜田藩主松平周防守康任が「竹島は日の出の土地とは定め難いが松島なら良い」としたことや、「松島へ渡航の名目
をもって竹島にわたり」との判決文の一節を見ると、竹島への渡航は禁止したが松島への渡航は禁止されていなかった
事もわかる。また、1820年に浜田藩儒の中川顕允が編纂した石見外記に高田屋嘉兵衛の北前船が竹島と松島の間
を航路として使用していることも書かれており、幕府が竹島の領有争いにわざわざ松島を含めたとするのはかなり
無理があると考えるべきである。
【竹島問題】竹島問題で韓国側の論拠崩す公文書発見 [02/23]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1266886341/ 竹島問題で韓国側の論拠崩す公文書発見
日本と韓国が互いに領有権を主張する竹島問題で、韓国側が論拠としている「竹島はわが国と関係ない」
とする明治政府の文書「太政官指令」の内容は、現在の竹島(韓国名・独島)を示すのではなく、
朝鮮半島沖にある「鬱陵島(うつりようとう)」と判断できる島根県の行政文書が見つかったことが22日、
竹島問題研究会への取材で分かった。研究者は「韓国側の主張が崩れる貴重な資料」と注目している。
太政官指令は明治10年に作成され、「竹島ともう一つの島はわが国と関係がない」と記述しているため、
韓国側は「日本が領有権を放棄した」と主張。しかし、明治政府発行の当時の地図では現在の竹島の位置に
何もなく、朝鮮半島沖にある鬱陵島が「竹島」「松島」の2つの名前で書かれていることから、太政官指令での
竹島はこれまでも鬱陵島を指すとみられていた。
今回見つかった行政文書は島根県が所蔵し、太政官指令の5年後に作成された明治15年1月31日付
の「県治要領」。杉原隆・県竹島研究顧問(71)が当時の外務省関連文書などを調べる過程で見つけた。
この県治要領では、地元の士族が島根県に出した鬱陵島とみられる「松島」の開拓願いについて、
内務省が「松島は朝鮮領」として不許可にした経緯を記述。そのなかに「前に指示した通りわが国に関係ない」
という趣旨の記述があった。
太政官指令と重なり合う内容であることから、太政官指令で表記された竹島は、県治要領で示す松島、
つまり現在の鬱陵島とみられる可能性が一層強まったという。
この問題では現在の竹島が日本領であることを示す19世紀のドイツ製の地図も複数見つかっている。
同研究会座長を務める下條正男・拓殖大教授は「韓国側が太政官指令を頼りにしてきた論拠が崩れた」
と評価している。
ttp://sankei.jp.msn.com/life/education/100223/edc1002230654001-n1.htm
何故、竹島問題が生じたのか(1)
ttp://blog.goo.ne.jp/charotm/e/132db4b15159e77377e9ed20d7e0f84d 敗戦の翌年(1946)9月に、日本の周囲に形成された「マッカーサー・ライン」では、竹島は日本の領土に
含まれていなかった。このラインは、当初旧日本軍の軍管区を参考にして作られた制限漁獲水域である。
60年を経過した只今の混乱は、当初マッカーサー・ラインを設置したGHQの考えに遠因がある。歴史的にも
竹島の日本帰属が正当である事を証明出来る資料は、当時も充分に揃っていた。日本政府が筋道を立てて
米国へ申し立てを行った結果、1949年に竹島は改訂マッカーサー・ラインの内側に入り、日本領土に戻った。
米国は、ハワイにいた反日運動家老人李承晩を連れ戻し、1948年2月(大韓民国成立)に初代韓国大統領とした。
竹島の日本復帰に不満な李承晩(当時73才)は、1952年1月18日に海洋主権宣言を行い、
マッカーサー・ラインの日本海側に変更を加え、竹島を含む形で自国に都合の良い「平和線」(日本名:李承晩ライン)
を設置した。日本には未だ占領軍がおり、朝鮮戦争(1950.6−1953.7)の戦闘が38度線で膠着していた頃である。
時の首相は吉田茂、彼は3ヵ月後に発効するサンフランシスコ講和条約においては竹島が韓国の帰属になって
いないと言う訳で、安心していただろう。
李ラインは、設定後から米国、英国、中華民国により国際法違反と批判されたが、・・・
実に悪名高い国際法違反の李ラインであるが、韓国側はこれを今もなおも正当化している。
日本人が忘れてはいけない歴史
李承晩ライン 〜侵略、殺戮行為を正当化する韓国の思考〜
ttp://blog.livedoor.jp/lancer1/archives/50327395.html これは国際法無視もはなはだしい韓国の暗黒の歴史の一ページです。この結果、多くの日本漁船が韓国に
不当に武力攻撃され、328隻が拿捕され、漁民44人が死傷しました。しかも、拿捕された日本の漁民を解放
する条件として韓国が出してきた要求は、収監されている凶悪犯を多数含む、大量の在日韓国人犯罪者を
無条件に釈放することと、在日韓国人全体に在留特別許可を与えることでした。
サンフランシスコ平和条約中における竹島の取り扱い
ttp://www.bl.mmtr.or.jp/~k-hideya/takeshima.htm
>著者は一歩進んで日本はこの太政官指令文が収録された「公文録」を読みにくい草書体で筆写し >て偽原本を作った後、これを閲覧しようとする人々に本物の原本のように提示する手法で世人を >だましていると批判した。 通訳頼む
77 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん :2010/09/18(土) 00:11:04 ID:zxLYeuZl
日本人が韓国に帰化できるんだ。 帰化したあとに竹島っていったら監獄行きになるん? 日本は大丈夫どころか国会議員にでもなれるけどね。
AERA 2005年4月4日増大号 ・・・・・・ ・・・元和4(1618)年に米子(島根県)の町人村川市兵衛、大谷甚吉に対し、徳川幕府は「竹島」への渡海免許を出して いるが、当時の「竹島」は無人化していた鬱陵島[ウルルンド]を指し、日本漁民が鮑を採取していた。 江戸時代に今日の竹島は「松島」と呼ばれ、「竹島」への渡海の途中に船が立ち寄っていた。元禄5(1692)年に朝鮮 人漁民が「竹島」に出漁を始め、翌6年に日本船は朝鮮漁民2人を捕らえて連れ帰り、鳥取の藩庁に訴えたことから 日朝間の外交問題となった。幕府は元禄9年、「無用の小島の故をもって好みを隣国に失する。計の得たるに非ず」 として「竹島」への渡航を禁止した。だが、「松島」は宝暦年間(1751〜64年)の「竹島図説」に「隠岐国松島」から40里 に「竹島」がある、と書いているなど日本では隠岐の国に属すと認識されていた。天保7(1836)年に「竹島」での交易 が発覚した浜田藩(島根県)ぐるみの密輸事件(家老2人など多数が切腹)では浜田の廻船問屋、会津屋八右衛門の 大阪奉行所の死罪申し渡し書に、 「松島への渡海の名目を以って竹島へ渡り・・・・・・」 とし、「松島」へ行くなら鎖国令に触れないとの認識を示している。 明治になって「松島」が竹島となった原因は、長崎のオランダ商館付の医師シーボルトが1840年に刊行した日本 地図で鬱陵島を「松島」と誤記したためらしい。 一方、韓国側は15世紀以降の文献に出る「于山島[ウサンド]」「三峯島[サンボンド]」が竹島(独島)に当たる、とする。 たとえば「新増東国輿地勝覧」に「于山島 鬱陵島」の項目があり「二島は県の真東の海中にあり」とするから、これ だけ読めば、于山島は今日の竹島に思える。だがその少し後に「一説に于山鬱陵本一島」との記述があり、地味が 豊かで竹もネズミも大きいなどと書く一方、不毛の岩だけの竹島に関する記述は全くなく、鬱陵島しか見ていない ことが分かる。 太宗実録の1417年の部分にも、「按撫使金麟雨[あんぶしキムリンウ]が于山島より還り土産の大竹、水牛皮を 献じた。島の戸数15戸、男女86人」というから于山島は人の住めない竹島のことではないようだ。 三峯島についても「賦役を逃れ三峯島に潜む者が多い」など鬱陵島と考えられる記述が少なくない。竹島を独島 と呼び始めたのも20世紀になってからだ。
82 :
81 :2010/09/18(土) 00:55:03 ID:tMm1wTJx
日本は1905年1月28日の閣議でこの無人島を竹島と命名して本邦所属とすることを決めた。その2年前から隠岐 島民の中井養三郎らが漁舎を建ててアシカ漁をしていたが、どの国からも抗議はなく、国際法上、無主の地を 占有したと認められたためで、同年2月22日、島根県は隠岐島司に竹島を所管するよう告示した。 今日の韓国は「日本に外交権を奪われており、抗議できなかった」 として「日本の侵略」とする声が高いが、中井らが漁舎を当てた1903年は日露戦争の前年でロシアの勢いが強く、 韓国皇帝は親露的で日本は影響力を失っていたから、島を韓国が支配していれば当然抗議したはずだ。 韓国が外交権を全く失ったのは日露戦争後の1905年11月の第2次日韓協約で、1904年8月の第1次日韓協約 では、韓国は日本人の財務顧問と外国人外交顧問(日本外務省に雇われていたアメリカ人)を受け入れ、外国 との条約締結など重要外交案件は日本政府と協議することが決まっていた。だが、もし韓国領の島を日本が 領土に組み込めば異議を唱えることはできたはずだが、記録はない。 帰属関係を決める最終的文書であるサンフランシスコ平和条約を見ても、日本に分があるように思われる。 1951年の同条約は「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島[チェジュ]島、巨文島[コムンド]、鬱陵島を含む 朝鮮に対するすべての権利、権原および請求権を放棄する」と定めている。韓国は独島も入れるよう米国に 求めたが、拒否された。 終戦直後の46年1月29日の連合国軍総司令部の訓令で竹島は日本の行政権から外されたが、これは後に 日本に返還された奄美諸島、小笠原諸島、沖縄と同様で潜在主権は日本にあり、52年4月の対日平和条約 発効後、米国は日本に対して米国の射爆撃場として竹島の提供を求め、翌年3月まで使用した。 韓国は52年1月、周辺の公海上に「李承晩ライン」を設定して竹島をその中に入れ、65年6月の日韓基本条約 の調印までに日本漁船328隻が拿捕され、抑留された漁民3929人、死傷者44人が出た。韓国は54年8月、 竹島に灯台を設置し、警備隊を置いたため、日本は9月に竹島問題を国際司法裁判所(ICJ)に付託しようとした が、これには双方の同意が必要で、韓国は提訴を拒絶した。 ・・・・・・ 竹島問題は時折噴火する火山のような危険をはらむ。双方が友好関係を保ちつつ、問題を解決する公明正大 な方法はICJに決めてもらうことだろう。訴訟に敗れた側も「裁定」に従って「潔い国」との名誉を得ることができる。 提訴に応じない側は法的に弱みがあることを内外に示す結果となる。 ・・・・・・
いちいち全文張るなよ ここにいる奴はサンフランシスコ条約とか分かってて韓国が馬鹿言ってるのをニヨニヨしてんだからw
>>699 「物は言いよう」をこれ程までに体現している連中も珍しい。呪われてくれないかなぁ。
>>705 あまりの軸のブレなさにワロタ。確か民主サポーターをアホ呼ばわりしてた気がw
誤爆した。スレ汚し失礼。
87 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん :2010/09/18(土) 01:16:19 ID:4dyAGl+b
事前に報告しおけば韓国から金でも出るのか
独島≠竹島だから意味ないし
Retriever Legend's blog: 竹島 その1
http://pub.ne.jp/dogyamat/?entry_id=1532896 明治三八年(1905年)10月17日発官報『第384号』
英国公使は、韓国外部大臣より公文を以て、英韓両国間には積年の深厚なる友誼存続するに関はらず、
此次英国政府が日本との間に訂立せる同盟條約中、韓国の地位に関して規定する所は、
従前の約旨に違反する不当の條約なりとの旨意の照会を受けたる(原文未確認、孫引き)
第二次日英同盟第三条の条文について、大韓帝国の朴斉純外相がこれを非難し、
駐韓イギリス公使と日本公使に抗議している内容が書かれています。
1905年02月22日の竹島の編入決定時には、韓半島は異議申し立ての外交権の行使が可能であったと言えます。
韓半島が主張することには、根拠がないことになります。
朴斉純の抗議
http://ameblo.jp/dreamtale/entry-10005290481.html (1905年8月12日の第二次日英同盟第三条の条文について、大韓帝国の朴斉純外相がこれを非難し、
駐韓イギリス公使と日本公使に抗議している。つまり、竹島編入についても、この時期韓国は抗議可能であった。)
91 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん :2010/09/18(土) 03:29:46 ID:bot+jB2b
またこいつか!
92 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん :2010/09/18(土) 03:32:40 ID:mKiLX7vS
またこいつか いい加減、日本人じゃないのに日本人名名乗るのやめろよ
95 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん :2010/09/18(土) 04:05:38 ID:mKiLX7vS
>>93 調べたが本名出てきやガラねえ。
帰化人は出てくるが。
保坂儲かってんのかな
97 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん :2010/09/18(土) 05:27:21 ID:gDfO/gkg
>>1 >著者は一歩進んで日本はこの太政官指令文が収録された「公文録」を読みにくい草書体で筆写し
>て偽原本を作った後、これを閲覧しようとする人々に本物の原本のように提示する手法で世人を
>だましていると批判した。
日本汚ねえw
>>95 こいつは元日本人で、韓国に帰化しているやつだよ
99 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん :
2010/09/19(日) 09:45:30 ID:fnUqpbl6