213 :
212:2007/02/22(木) 04:45:12 ID:oy2h0WOu
李の地図に描かれた竹島(Jukdo)は、ほぼ確実に今日の竹島(Jukdo=Chukudo)を表しています。
そして“島項”の位置はほぼ確実に今日の観音島を示しています。それでは一体、それまでの地図
に描かれてきた于山島はどうなってしまったのでしょう?
私は、于山島とは単に竹島(Jukdo)の別名だったのだと思います。高宗でさえ、1882年に“于山島”、”松竹島”、
“松島”、“竹島”は全て鬱陵島の付属島を示している、と発言しているのです。高宗は鬱陵島には二つの付属島
があると信じていましたが、その彼が検察吏に選んだ李奎遠は、一島しかないと信じていたのです。
李は、その後の検察で実際には鬱陵島に二つの付属島があることを確認したのですが、何故検察前に李が
一つしかないと信じていたのか、大変興味深いです。私は、今日の観音島が100mしか本島とはなれていない
ために、当時殆どの朝鮮人は島と言うよりは単なる島の突端だと考えていたのではないか、と思うのです。
言い換えれば、朝鮮王朝時代の人々は、観音島を“岬”と認識していたと思うのです。
1882年に李奎遠は“島項”を島、と言っているのですが、それは高宗が二島を探すように命じたからかもしれ
ません。彼は、“島項”が高宗が話していた第二の付属島だとしておいたのかもしれません。しかし、“島項”
が普通とは異なっているのは、“島の首”という意味を持つその名称です。韓国人は通常、島には〜島と言う
ように、最後に島の漢字をあてます。つまり、島の名称としては、“島項”ではなく“項島”とすべきなのです。
しかし、実際には、“島項”は島という漢字が最後についていないことから、この時代の鬱陵島の住民は観音島
を島だとは認識していなかったと考えられるのです。
次にあげるのは、1886年に作成された日本の鬱陵島の地図です。地図には“竹島(Jukdo)”と“島項”が
描かれていますが、面白いことに、観音崎と言う名の場所が記載されています。さらに興味深いことには、
“島項”と言う名称が島の横ではなく、観音崎と言う名称の隣に記載されている事実です。それは、“島項”
が島の名前と言うより、観音崎の別名である、ということを示唆していると思われます。1886年の地図の
関連箇所は下の通りです。
地図7:日本古地図(1886)
214 :
212:2007/02/22(木) 04:46:12 ID:oy2h0WOu
上掲の地図は私が見てきた日韓両国の地図のうち、始めて“観音”と言う現在の鬱陵島の付属島の名称が
使用されたものです。ただし、“観音”は、島ではなく今日の観音島の近くの岬の名称だったのです。
次の1905年の日本の鬱陵島の地図は、現在の観音島を島ではなく、観音ア(岬)と記載しています。
それはおそらく、この島が鬱陵島とは100mしか離れていないからだと思われます。下にこの地図の
当該箇所を表示します。
地図8:鬱陵島見取図(1905)北東部拡大図
これら二つの日本の地図と、1882年に李奎遠が現在の観音島を“項島”ではなく“島項”と記載したこと
からすると、当時の韓国人が今日の観音島を単独の島ではなく、本島の一部だと一般的に考えていた
ために、地図には一島しか描写されなかったのだ、と私は思います。つまり、韓国の古地図にある于山島は、
今日の観音島と言うよりは竹島(Chukudo/Jukdo)のことを示していることになります。さらにいうと、“于山島”
とは竹島(Chukudo/Jukdo)の別名にすぎない、ということになります。
1899年の韓国の皇城新聞の記事は、鬱陵島には“于山島”と“竹島(Chukudo)”という二つの主要な付属島
がある、と記述しています。そのことから、1899年には“于山島”と言う名称は今日の観音島を指している
とも考えられます。でもそうであるなら、何故わずか一年後の1900年に韓国政府は鬱陵島とその付属島2島
を江原道に編入する際に“于山島”と言う名称を使用しなかったのでしょうか。1900年に発効された勅令第41号
の中で、大韓帝国政府は鬱陵島の付属2島を“竹島(Chukudo/Jukdo)”と“石島(ソクト)”と呼んでいます。
では一体“于山島” “観音ア”はどうなってしまったのでしょう?それに一体、“石島(ソクト)”は何処から
やってきたのでしょうか?
私は、“于山島”と言う名称が“竹島(Chukudo/Jukdo)”の別名にすぎないことが判明したために、使用され
なくなったと考えています。また “観音ア”については、地形学的には島に向かって伸びる岬ではなく一つ
の島である、と判断されたために使用されなくなったのだと思います。1886年の日本の地図が示すように、
現在の観音島を指して伸びている本島の伸長部分は、引き続き“観音ア”、“島項”と呼ばれていたのかも
しれません。
215 :
212:2007/02/22(木) 04:47:26 ID:oy2h0WOu
さあ、それでは“石島(ソクト)”と言う名前が一体何処から現れたのでしょう?私は、次の1909年の日本の
航路図が“石島(ソクト)”が何処からやって来たのかを解明する鍵になると考えています。
地図9:韓国水産誌「鬱陵島全図」(1909)
上掲の1909年の日本の地図では、現在の観音島が“鼠項島”(鼠の首の島の意味)と標記されています。
“項島”という、1882年の李奎遠の地図に観音島を指すのに使われたものと同じ漢字が、順序は逆ですが、
使用されていることに注目して下さい。このことが“石島(ソクト)”と言う名称が何処から現れたか、
という問題をどう説明しているのでしょうか?そうなのです、“鼠項島”の日本語の発音は、“ソコウトウ”で、
”ソクト”と大変よく似ているのです。
1900年の大韓帝国勅令第41号の中で言及された“石島(ソクト)”が、この“鼠項島”の日本語の発音
(ソコウトウ)に酷似しているのは、偶然だとは思えません。また、1882年に李奎遠が現在の観音島を
示すために使用した“島項”の漢字2文字が、“鼠項島”と共通していることも、偶然だとは考えにくいのです。
さらに言えば、鬱陵島に生息するたった3種類の固有動物のうちの一つである“鼠”の文字が、“鼠項島”
と言う名前に含まれていることも、偶然とは言い難いのです。言い換えれば、“鼠項島”は、今日の観音島
を示すのにぴったりな名称と言えるのです。
韓国人は1900年の大韓帝国勅令第41号の中の“石島(ソクト)”が、現在の“独島”(Liancourt Rocks)である、
と主張しますが、そうした主張を裏付ける証拠は何もありません。それに、“独島”が含まれているのに
“観音島”に言及されていない理由も説明できないのです。一方で、日本側の“石島(ソクト)”は単に鬱陵島
の付属島である観音島を指していると言う主張には、それを裏付ける証拠が存在するのです。