【竹島問題】神戸市立博物館 竹島問題・韓国の主張根拠を成り得無いものであると改めて明らかにする古地図発見[08/23]
鬱陵検察使の地図
http://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/1.html ソウル大学奎章閣 鬱陵島圖形 1711年 朴錫昌作
http://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/2086429772_c59068652f.gif http://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/img1.png この地図は一七一一年、鬱陵島検察使の朴錫昌らが鬱陵島に渡った際に作成した地図です。
この地図は鬱陵島の東側に『海長竹田所謂(いわゆる)于山島』と書かれた島が存在することに特長があります。
ほとんどの鬱陵島の古地図には鬱陵島の東側に于山島が描かれていますが、この地図には『海長竹田』と于山島
がどのような状態の島なのか判断できる記述があるのが目を引きます。これによって私たちは于山島が竹島(独島)
なのか竹嶼なのかをはっきりと見分けることが出来ます。『海長竹』とは日本では女竹と呼ばれる竹の一種で、
一般的には海蔵竹と表記します。『田』とはここでは草木が密集して生えている状態を指します。したがって、
『海長竹田』とは『海長竹が密集して生えている場所』もしくは『海長竹の竹林』といった意味です。竹嶼が竹嶼と
呼ばれるようになったのは竹嶼に竹が生えているからであるというのが韓国の専門家の一致した見解であり、
江戸時代に日本人が描いた鬱陵島の地図である『小谷兵衛より差出候竹嶋之絵図』にも現在の竹嶼にあたる
「まの嶋」には竹林が絵で描かれています。実際今でも竹嶼にには竹が密集して生えています。
一方1876年の『日本海内竹島他一島地籍編纂方伺』に「樹竹稀なり」とあるように竹島(独島)に竹が生えていない
とする記録が複数存在し、なおかつ現在の竹島(独島)に竹が生えていないことは韓国人も認めています。
したがってこの地図に描かれている于山島が竹嶼であることに疑いの余地はありません。
Korean Language Notes
What is the history of Ulleungdo?(Ch.1)
ttp://koreanlanguagenotes.blogspot.com/2006/05/what-is-history-of-ulleungdo-ch-1.html http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1147700374/216-218 Usan-guk(于山國)に使用される漢字は、「大きな山国」 于(#50864)が「大きいこと」を意味する
のを文字通り意味します、そして、山(#49328)は「山」を意味します、そして、國(#44397)は「国」
Ulleungdo(鬱陵島)に使用される漢字が文字通り「ぜいたくで、大きい丘の島」を意味するのを
意味します。鬱(#50872)は「ぜいたくであること」を意味します、そして、陵(#47497)は「大きい丘」
を意味します、そして、島(#46020)は島を意味します; Usanが「山」について言及して、Ulleung
が「大きい丘」について言及するのに注意してください。Samgukyusaでは、Ulleungdoの鬱(#50872)
を于(#50864)、Usan-gukで使用される同じキャラクタに取り替えました。Moreover、したがって、
単にではなくSamguksagiが、Usan-gukとUlleungdoが同じ島であると明確に言うのに注意して
ください、と名前"Ulleung"はただ"Usan"の言語学の異形になるように思えます;
Occidentalism
Lies, Half-truths, & Dokdo Video, Part 6
Why didn’t Gwaneumdo appear on old Korean maps?
http://www.occidentalism.org/?p=377 http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1147700374/212-215 これら二つの日本の地図と、1882年に李奎遠が現在の観音島を“項島”ではなく“島項”と記載したこと
からすると、当時の韓国人が今日の観音島を単独の島ではなく、本島の一部だと一般的に考えていた
ために、地図には一島しか描写されなかったのだ、と私は思います。つまり、韓国の古地図にある于山島は、
今日の観音島と言うよりは竹島(Chukudo/Jukdo)のことを示していることになります。さらにいうと、“于山島”
とは竹島(Chukudo/Jukdo)の別名にすぎない、ということになります。
私は、“于山島”と言う名称が“竹島(Chukudo/Jukdo)”の別名にすぎないことが判明したために、使用され
なくなったと考えています。また “観音ア”については、地形学的には島に向かって伸びる岬ではなく一つ
の島である、と判断されたために使用されなくなったのだと思います。1886年の日本の地図が示すように、
現在の観音島を指して伸びている本島の伸長部分は、引き続き“観音ア”、“島項”と呼ばれていたのかも
しれません。
1900年の大韓帝国勅令第41号の中で言及された“石島(ソクト)”が、この“鼠項島”の日本語の発音
(ソコウトウ)に酷似しているのは、偶然だとは思えません。また、1882年に李奎遠が現在の観音島を
示すために使用した“島項”の漢字2文字が、“鼠項島”と共通していることも、偶然だとは考えにくいのです。
さらに言えば、鬱陵島に生息するたった3種類の固有動物のうちの一つである“鼠”の文字が、“鼠項島”
と言う名前に含まれていることも、偶然とは言い難いのです。言い換えれば、“鼠項島”は、今日の観音島
を示すのにぴったりな名称と言えるのです。