【歴史】 朴定和 氏「古代日本の主流階層は渡来人」「日本という国号は高句麗僧・道顕が創案」★2[06/21]

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851古き者 ◆h3.SQZdva. :2006/06/22(木) 02:47:10 ID:QSaOTUkB
さて、俺も余計(?)な知識を漁る元になってくれたID:3v9LycRU(本気か成りすましかはどうでもいい)に感謝しつつ就寝
おやすみ(挨拶不要)
852光 ◆OraMYUrmo2 :2006/06/22(木) 02:48:26 ID:oNHYhMB9
>>833

付け加えれば、

陸軍満州軍参謀長 児玉源太郎大将
海軍連合艦隊参謀長 加藤友三郎少将

ですね。

榎本はとっくに予備役のはずですが。
853<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 02:48:38 ID:KT4x0Qko
>>766
>そういえば、蘭学の始祖とされる杉田玄白の解体新書も、臓器の名を日本語に訳する作業から
>始まったとされているわね・・・

実は、杉田玄白は何もしてないんだよ。
翻訳したのは全部が前野良沢の業績。

前野良沢と解体新書を題材にした小説「冬の鷹」を読んだけど、
良沢は血の滲むような努力をしてオランダ語をマスターし
解体新書を翻訳したんだよね。
854東夷 ◆43eKv.KwIo :2006/06/22(木) 02:49:17 ID:eWSMPIyT
>>853
翻訳は積み重ねがものを言いますからね。
855古き者 ◆h3.SQZdva. :2006/06/22(木) 02:50:45 ID:QSaOTUkB
>>853
寝る前に一言
でも、前野良沢が蘭語に興味を持ったきっかけを作ったのは杉田玄白(とその仲間たち)と言うのも事実なんだけどね
856<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 02:51:10 ID:fs5IF3Bw
ぶはははははははww
ウリナラもここまで来ると笑うしかねえなwWww
だーから朝鮮人は馬鹿にされんだよwwwwwwwww
857<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 02:51:18 ID:tHOgHM1c
榎本武揚といえば、俳優の石黒賢は子孫らしいね。
858光 ◆OraMYUrmo2 :2006/06/22(木) 02:51:57 ID:oNHYhMB9
さて、私も寝ます。
859<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 02:52:50 ID:M8pVF4L+
>>833
概略
1836〜1908 幕臣。通称釜次郎。1855 長崎海軍伝習所に入り、1862 オランダに留学し兵制・法律を修め、1866 帰国、のち海軍奉行となる。 幕府倒壊と共に 1868 軍艦「開陽」以下6隻を率いて脱走して五稜郭で反抗。
    
 翌年官軍に降り下獄、のち 1872 開拓使四等出仕として新政府に登用、海軍中将、ついで 1874 駐露全権公使として千島・樺太交換条約を締結し、のち外務卿・逓信大臣等を歴任。

あれ?
おれ秋山真之と混同してるっぽ?
水軍古書を持ち上げたのって、榎本じゃなかったっけ?
860東夷 ◆43eKv.KwIo :2006/06/22(木) 02:52:56 ID:eWSMPIyT
>>858
お休みなさいませ。
861<丶`∀´>(`・ω・´)(`ハ´  ):2006/06/22(木) 02:53:01 ID:5h7K7XRl
http://www.kumanolife.com/History/dna.html
遺伝子・DNAから日本人のルーツを考える

↑こんなのがある。サンプル数は300人程度だったはずだから
どこまで信憑性があるか不安だが参考にすると面白い。
しかし、アイヌと沖縄は基本的に同じ系列と考えられているので、一括りにするべきだと思う。

韓国の場合は韓国人固有が40%中国系22%アイヌ&沖縄19%になる。
韓国の場合で面白いのが日本系のDNAが発見されなかったことで、もっと大規模に調査すれば
併合時に日本軍が韓国人をレイプしたというのが捏造だと照明できる可能性もある。
また、初期の李氏朝鮮の身分制度では両班と常民の婚姻や常民と奴婢との婚姻を認めておらず
奴婢の人口比率が40%前後だったことから考えると韓国固有のDNAとは奴婢のDNAだとも考えられる。

中国の場合は中国人固有60%韓国系10%日本系1,5%アイヌ沖縄系11%となっており
日本や韓国からの流入が少なかったことが分かる。
面白いのは韓国では発見されなかった日本系のDNAが少ないながらも見つかったことで
戦時中にレイプが行われたとするか残留日本人孤児の影響か戦争時以前に人的交流があったためか判断できない。

日本の場合は日本人固有5%韓国系24%中国系26%アイヌ沖縄系24%となっており
多民族のDNAがバランスよく混じっていることがわかる。
ここで疑問となるのが日本人固有のDNAがどこから来たものかが分からないという点で
韓国には存在せず中国にわずかに痕跡が残るだけの日本人固有のDNAの発祥の地が気になる。
日中韓でのサンプリング数を増やし東南アジアで同様の研究が進めば日本人固有のDNAのルーツが明らかになるかもしれない。

862<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 02:53:13 ID:KT4x0Qko
>>845
>同航戦の予定が、結果的に丁字戦法になったとは聞いていますが。

丁字戦法の予定だったのが、相手が面舵で逃げて行くので
結果として右回り気味の同航戦になったと。
863<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 02:57:11 ID:pHJcylV0
>>833
やはりそうでしたか。
どうにも榎本武揚が日露戦争に関係しているとは聞いたことが無かったもので、
腑に落ちなかったのです。
864<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 02:58:42 ID:KT4x0Qko
>>859

つーか、「参謀本部長」というポストは無いし、
「参謀本部」っていったら陸軍ですよ。w
865<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:00:08 ID:5TH5RlEx
つーかさぁ
先祖が誰だろうと現実問題
今の日本、日本人は優れてて
今の朝鮮人はドウシヨウモナイ

それでわかるでしょ?
866光 ◆OraMYUrmo2 :2006/06/22(木) 03:00:46 ID:oNHYhMB9
寝る前にもう一つ。

>>862

そうでしたか、トンクス。
何せ手もとの史料が歴史群像だけなので。

では、>>860やみなさん、ノシ。
867<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:01:22 ID:3GefQNB7
百済は倭に人質出してし、好太王碑文には、百済が倭に服属してたと明記している。
百済は倭の格下の子分であって、それゆえ

“七支刀は百済王から日王へ献上されたものだ”

下賜品だとか言ってるのはチョンの妄想。


*武寧王陵(宗山里古墳群)
ttp://inoues.net/korea/buneiou.html
玄室内には木棺が置かれ、その材質となった木材は細胞の分析結果から、日本の近畿地方南部に
しか見られない「コウヤマキ」であることが確認され、武寧王時代の百済と日本の関係、また、武寧王
自身の出自などを巡って論争が巻き起こった。
墓から、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、銅鏡、陶磁器など約3000
点近い遺物が出土したが、驚くべきことに百済製の土器は1点も出土していない。すべてが中国の
南朝からの舶来品であって、この王朝がいかに中国南朝に傾斜していたかを物語っている。

「日本書紀」の雄略天皇5年の条に、「百済の武寧王は、筑紫の各羅(かから)島で生まれたので
島君(せまきし)と言う。」という記事があり、武烈紀にも同様の記事があり、「武寧王の諱(いみな)は
斯麻王と言う。」とある。「三国史記」にも武寧王の名は斯摩となっている。島で生まれたから、斯麻王
という名前が付けられたという。各羅島は、現在の松浦半島の突端にある呼子島の真北にある
加唐島(かからじま)のこととされている。これは一体何であろうか?

武寧王の陵墓が発見されたことで、これらの記事の正しさが立証されたが、では斯麻王すなわち
武寧王は日本人なのか? どうして佐賀県で産まれたのか?

 五世紀の半ば、百済は高句麗の圧迫を防ぐため、日本と同盟を結び、日本に人質を送って
いた。ところが雄略天皇二年、人質であった池津媛は不義を犯したことをとがめられて処刑
された。このことによって日本との関係にひびが入るのを恐れた百済の蓋鹵王(こうろおう)
(加須利君かすりのきみ)は、その弟軍君(こにきし)(昆支こにき)を日本におくることにした。
そのとき、王は軍君の要望にこたえて側室の一人を与えたが、彼女はすでに懐妊し、
産み月も近かった。王は、途中で男の子が生まれたなら、ただちにその子を送り返すように
といった。軍君が筑紫の各羅島(かからのしま)に到着したとき、側室は男児を産み落とした。
島で生まれたので男児は「島君せまきし」と名づけられ、百済に送り返された。この男児は
成人ののち王位を継ぎ、武寧王となった。
http://www.yoyokaku.com/sub7-21.htm

雄略五年条は嶋君(武寧王)を蓋鹵王の子としていますが、百濟新撰は斯麻王(武寧王)を
昆支王の子としており、武烈紀の編纂者はこれを不審としているからです。どうやら
雄略五年紀は国内の所伝と百濟新撰を組合わせて記述されているようです。
 百濟新撰は、兄王の好を継続するため、蓋鹵王が昆支を倭国に遣わしたとしており、また、
嶋王(武寧王)を昆支の子としています。
http://www.d8.dion.ne.jp/~kouji-kd/hougen/konki.html

【高句麗】中国人研究者「好太王碑、新資料発見で改ざん説否定された」[06/23]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1119618672/
868ハニャーン・カーン ◆fX9YHx8ayc :2006/06/22(木) 03:02:37 ID:2QnY5USZ
>>851
古代史関係が致命的なまでに知識不足と解かっただけでも収穫だわ。
明日は本屋に行って来よう・・・
>>853
日蘭辞書なんて無かったのだから、どれほどの苦労だったか、まるで想像が付かないわね。
辞書と睨めっこしながら英語を読むのにすら苦労してる身には・・・


  ,'⌒⌒ヽ
 / λWλiヽ では、そろそろ寝ますね・・・
 くゝ ゚ヮ゚ノ,,ゝ   おやすみなさい。
 /  つ_ノ⌒⌒⌒`〜、_
 ( //⌒   ノ  ヽ)
ニニニニニニニニニニニニニニ⊃
869東夷 ◆43eKv.KwIo :2006/06/22(木) 03:03:33 ID:eWSMPIyT
>>868
よい夢を。
870<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:03:34 ID:I2uTaj53
英語版ウィキに腹が立った。
あー英語が喋れないのが悔しい。
誰でも主張できるって民主主義の利点であり弱点だな。
悪意ある人間が手当たり次第に数の力で押し切ったとして
反論する側は逐一資料を出して訂正を求めて大変。
871<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:04:00 ID:M8pVF4L+
榎本武明が関係しているとずっと信じ込んでた俺はどうしよう。

調べてみたらこんなん出てきた。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4569573436/249-6582921-2770715?v=glance&n=465392
海軍古書って榎本武明じゃないっぽい。

しかも作戦立案に関わってそうなのってコレだし。

http://www.c20.jp/p/01a.html
秋山 真之 愛媛県海軍軍務局長、連合艦隊作戦参謀

やべー、俺ヤベー・・・・・・




ごめんなさい。
872<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:05:20 ID:M8pVF4L+
うわーなんかショック。
俺やベー
うわー

ごめん、寝ます。
873<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:06:28 ID:M8pVF4L+
ちくしょー
俺馬鹿だーちくしょーorz
874<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:06:45 ID:r91eeQh1
>>870

その言葉をいただけただけで感謝です・・・。
引き続き英語版のWikiでVANKとやりあってきます・・・。

おやすみなさい
875ハニャーン・カーン ◆fX9YHx8ayc :2006/06/22(木) 03:08:35 ID:2QnY5USZ
  ,'⌒⌒ヽ  >>873
 / λWλiヽ 自分で間違いに気づいて、答えを受け入れられるのなら、それは恥じゃないわ。
 くゝ ゚ー゚ノ,,ゝ   気にすることは無いわよ。
 /  つ_ノ⌒⌒⌒`〜、_
 ( //⌒   ノ  ヽ)
ニニニニニニニニニニニニニニ⊃
876<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:09:25 ID:pHJcylV0
>>845
詳しくはPHP研究所の「日露戦争かく勝てり」等を読んで頂ければ把握していただけると
思いますが、実際の作戦構図を見ても、丁字になったのは出頭の所謂「東郷ターン」の
一瞬だけで、高速で移動する艦隊を敵艦隊に対して丁字を描くのは至難で、机上の
空論でした。日本海海戦前の黄海海戦に於いて実際に試用されてはいるのですが、
丁字戦法は敵艦対に明らかな戦闘意志がない限り、自艦隊の隊列尾より後方へ
逃げられてしまうという戦術的な欠陥を持っていました。実際に黄海海戦では逃げられて
しまい、追いつくのに二時間を要しています。が、幸運なことに、偶然に放った放談が
旗艦ツェザレウィッチの司令部に直撃し、以下ロシア艦隊は統制力を失います。東郷や
秋山が回想していることではありますが、黄海海戦の勝利はは将に偶然のたまもので
あり、同時に丁字戦法の弱点が明らかになった戦闘でした。その反省も含め、日本海海戦
においては「連携機雷」と呼ばれる軍秘扱いの戦術が提起され、丁字戦法は作戦の
主から除かれることになります。ロジェストウェンスキー率いるバルチック艦隊は、当初から
連合艦隊と戦闘を避け、ウラジオストクへ逃げ込み、その後ゲリラ的な通称破壊に出るように
命令されていましたから、結果的に作戦は功を奏したといえます。因みに「連携機雷」は
当の作戦で試用されず、やむ終えず併航戦を行い、その練度や技術的なものもあり、
連合艦隊は無傷で勝利したのはご存じの通りです。
877<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:09:42 ID:GrDiAfRM
人類学的なパースペクティブを簡単に説明。

縄文人はバイカル湖周辺に発生した旧モンゴロイドで、シベリア、サハリンを経て日本列島に渡来。
弥生人は長江の流域から渡来。民族的には楚、呉、越で江南系。しかし江北との地理的なせめぎ合いの中で北方系
民族との混血がある程度進んでいたものと見られる。
即ち弥生人は旧モンゴロイド(江南)と新モンゴロイド(江北)の混血。

朝鮮半島にもともと定住していたのは日本列島から渡った縄文人。
その後弥生人が、長江の流域から北九州一円(半島南部含む)へ渡来。
このことから、古代の北九州一円(半島南部含む)における定住者の間に、大きな人種的差異はなかったものと考えられる。

現在ある日本人と朝鮮人との間の人種的な差異は、その後の半島におけるツングース系民族の侵入、移入による混血が原因。

即ち、

日本人=縄文人+弥生人
朝鮮人=縄文人+弥生人+ツングース系
878<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:11:02 ID:GrDiAfRM
よく百済との関係を云々する人がいるが、新羅との関係の方が遥かに興味深い。
そもそも広義の「倭」という概念を適用すれば新羅は倭人国家。百済は王族以外は倭人だったが王族がツングース系のフヨ
だった。そして新羅の場合、なんと狭義の倭人が王になって王統をも伝え、述べ8代の王を輩出したとされている。

初代 赫居世居西干(朴氏)
*2代 南解次次雄(朴氏)
*3代 儒理尼叱今(朴氏)
*4代 脱解尼叱今(昔氏) ←倭人。丹波の国出身説が有力。
*5代 娑婆尼叱今(朴氏)
*6代 祗摩尼叱今(朴氏)
*7代 逸聖尼叱今(朴氏)
*8代 阿達羅尼叱今(朴氏)
*9代 伐休尼叱今(昔氏)
10代 奈解尼叱今(昔氏)
11代 助賁尼叱今(昔氏)
12代 沾解尼叱今(昔氏)
13代 味鄒尼叱今(金氏)
14代 儒礼尼叱今(昔氏)
15代 基臨尼叱今(昔氏)
16代 訖解尼叱今(昔氏)
17代 奈勿尼叱今(金氏)

そしてさらに、それ以上に重要なのが建国時に重臣となって影の王のように振る舞い活躍した瓢公という、瓢箪を腰に付けて
船で渡来したとされる倭人で、この人物は現代の朝鮮人のアイデンティティの根幹を揺るがしかねない問題をはらんでいる。
というのも、現代の朝鮮人の姓名は中華への服属意識を如実に表す、音読みで姓=漢字一字、名=漢字二字という漢族式で、
実際の姓自体も漢族が使用するもののパクリが殆どという有様だが、新羅の初代王の朴赫居世に始まる「朴」という姓だけは、
古代朝鮮語の「バク」という単語を借字で音写した独自の姓で、特殊な姓と言える。ではこの「バク」という古代朝鮮語が何を意
味するかと言うと、「瓢」。影の王のように振る舞った倭人の「瓢」公となんと同じ。
このことから、瓢公と朴赫居世は共に倭国から渡来した同族、あるいは同一人物であるとも言われている。
ちなみに金氏の祖は、件の、倭人である昔氏初代、脱解の治世時に、これまた件の倭人瓢公が拾って来たとされている。
瓢公(あるいは朴氏も)や昔氏一族といった倭人たちが新羅建国に深く関わり、王、宰相として支えたわけです。非常に興味深いですね。
879<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:11:04 ID:NrFs/Wfg
>>873
まあ間違いをみとめて謝ったら、ひとつ賢くなったと思えばいいさね。
あとは酒飲んで寝るだけだよ。
880<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:11:35 ID:GrDiAfRM
【広開土王碑】より
百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭(ロく)耒卯年来渡(海)破百殘■■新羅以爲臣民
<訳> そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯の年(391年)に■を渡り
    百残・■■新羅を破り、臣民となしてしまった。

*なお、「■を渡り」は残欠の研究から「海を渡り」とされているが異論もある。

【隋書】より
新羅百濟皆以イ妥為大國多珍物並敬仰之恒通使往來
<訳> 新羅・百濟は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。
881<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:12:33 ID:GrDiAfRM
【三国史記・新羅本記】より

紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。
*14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
*73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角千羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を侵した。
123年 春三年に倭国と講和した。
232年 夏四月に倭人が金城を攻める。
233年 五月 倭兵が東辺を侵した。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。
        私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。
        これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危
        険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、
        かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
393年 倭人が来て金城を包囲する。
882<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:13:05 ID:GrDiAfRM
【三国史記・新羅本記】より

402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質とした。
405年 倭兵が明活城を攻める。
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を侵す。
418年 王弟の未斯欣が倭国から逃げ帰った。
431年 倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。
440年 倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を侵した。
444年 夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。
459年 夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。
462年 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。
463年 倭人が歃良城(梁山)を侵して勝てずして去った。
476年 倭人が東辺を侵す。
477年 倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。
482年 五月に倭人が辺境を侵した。
486年 夏四月に倭人が辺境を侵した。
500年 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。
663年 倭国の水軍が来て、百済を助ける。
731年 日本国の兵船三百隻が海を越えて、東辺を襲う。
753年 秋八月に日本国使が来た。高慢無礼なので、王は接見を許さず、すぐ追い返した。
802年 冬十二月、均貞に大阿?の官を授けて、仮の王子にして、日本国への人質にしようとしたが、均貞がこれを断った。
883<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:13:40 ID:GrDiAfRM
■近肖古王 在位345〜375
姓は余。名は句。日本書紀では速古王。日本と手を結び新羅に対抗。謝礼に日本へ七支刀を献上。
■近仇首王 在位375〜384
姓は余。名は須。日本書紀には貴首王と表記される。近肖古王の息子。
■枕流王 在位384〜385
姓は余。近仇首王の息子。東晋から来た僧侶が仏教を伝えた。
■辰斯王 在位385〜392
姓は余。名は暉。しんしおう。近仇首王の息子。日本書紀には、「(辰斯王が)仁徳天皇に対し無礼な振る舞いが
あったので、紀角宿禰らを遣わし譴責した。百済国は、辰斯王を殺して謝罪した。紀角宿禰らは阿花(阿?王)を
王位につけて帰国した」とある。
■阿華王 在位392〜405
姓は余。名は阿芳。枕流王の息子。軍事的支援を乞うため日本へ息子(のちの腆支王)を人質として献上。
■腆支王 在位405〜420
姓は余。名は腆。阿華王の息子。直支王とも。人質として日本で生活。日本の援軍を得て高句麗との決戦中
阿華王が死去。帰国して即位。
■久爾辛王 在位420〜427
腆支王の息子。日本書紀によると幼少だったため権臣・木満致が権力をふるったという。
■斐有王 在位427〜455
姓は余。名は斐。久爾辛王の息子。眉目秀麗。弁が立つ王であったと言われる。
■蓋鹵王 在位455〜475
姓は余。名は慶。斐有王の息子。近蓋鹵王ともいう。人質として弟・昆支王を日本へ献上。高句麗により百
済は一時滅亡。
■文周王 在位475〜477
姓は余。名は牟?。あるいは?。蓋鹵王の息子。百済滅亡時、新羅へ援軍要請に出たが到着時には王は捕縛
殺害されていた。やむなく木満致らと共に逃亡して半島南部に新たな地盤を堅め、百済を再興した。重臣・昆
支王の死後、解仇により殺害された。
■三斤王 在位477〜479
姓は余。名は壬乞。文周王の息子。父を殺した解仇の傀儡として即位した。反乱をおこした解仇を倒す。
884<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:14:14 ID:GrDiAfRM
■東城王 在位479〜501
姓は余。名は牟大。昆支王の息子。日本生まれとされる。日本書紀では末多王と記述。幼少時より優秀で雄略
天皇に寵愛される。三斤王急死により、日本から帰国し即位。中国・南斉や新羅との同盟政策で安定をはかった。
臣下の恨みを買い、暗殺された。
■武寧王 在位501〜523
姓は余。名は隆。東城王の息子。日本生まれのため斯麻(しま)王とも呼ばれる。日本書紀では蓋鹵王の息子。
また「嶋王」と表記。東城王を殺した臣下を斬る。中国南朝・梁の武帝や日本・継体天皇と友好関係を維持。高
句麗と戦う。
■聖王 在位523〜554
姓は余。名は明。聖明王ともいう。武寧王の息子。日本の援軍を得て高句麗からの攻撃を新羅と共同で撃退。一
時は百済の旧領地・漢江流域を回復。日本に仏教教典を献上。
■威徳王 在位554〜598
姓は余。名は昌。聖王の息子。戦死した聖王のあとをうけ即位。王子(恵王)を日本に人質として献上。
■恵王 在位598〜599
姓は余。名は季。聖王の息子。554年、聖王が戦死。555年、援軍要請のため日本へ渡る。556年、帰国(562年日
本、高句麗へ出兵)。
■法王 在位599〜600
姓は余。名は宣。孝順ともいう。恵王の息子。
■武王 在位600〜641
姓は余。名は璋。法王の息子。隋・唐に対し高句麗征討の要請を続けた。
■義慈王 在位641〜660
武王の息子。唐の侵攻に備え非主流派の貴族や王族を追放。追放された貴族や王族は日本に亡命した。こ
の時代、新羅に金春秋や金捨信が現れ、新羅と盛んに戦う。最終的に唐と新羅に両面攻撃を受け滅亡。王族
のほとんどが唐に連れ去られた。
■豊璋王 在位***〜***
姓は余。名は豊璋。義慈王の子。唐の圧迫が強まる情勢の中、631年、人質として日本へ。以後30年間日本で
生活。660年、唐の攻撃により百済降伏。義慈王は捕虜となる。亡国の王子となった彼は亡命政府の主となるが、
白村江で戦い敗北。豊璋は高句麗に逃亡。百済は完全に消滅した。
※禅光王
義慈王の息子。20代豊璋王の弟。百済滅亡後日本に帰化。持統天皇より従五位下の下級貴族として「百済王
(クダラノコニキシ)」の姓を賜る。
885<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:14:47 ID:GrDiAfRM
■朝鮮半島南部にある前方後円墳群

現在までに全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている。
朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したものであり、
百済の国境沿いに近い伽耶の地のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている。

■関連する大和王権側人物

穂積臣押山 (ほづみのおみおしやま)

継体紀七年六月条に引く百済本紀には、委(やまと)の意斯移麻岐弥(おしやまきみ)とある。

継体六年十二月、百済は任那の上タリ、下タリ、娑陀、牟婁の四県を請うたが、タリの国守の押山は、
その与えることの可なることを奏し、大伴金村もその意見に同意して上奏した。よって、上表のままに四県を百済に賜った。
この後、流言があって、大伴金村と押山は百済の賄賂を受けたといわれたという。
継体七年六月、百済は姐弥文貴将軍らに押山を副えて、五経博士段楊爾を献じ、
伴跛に奪われたというコモンの地がもどるよう計らってくれるように願った。
継体二十三年三月、百済王は下タリの国守押山に、加羅の多沙津を朝貢の海路としたいことを乞うた。
押山は奏問し、加羅王の反対を排して津を百済に賜った。
このため、加羅は日本を恨み、新羅と結ぶようになったという。
886<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:17:30 ID:KT4x0Qko
>>870
>あー英語が喋れないのが悔しい

そんな貴方は前野良沢先生に関する本を読んで発奮しなさい。

勿論、オレもだが。w
887<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:17:30 ID:0LoaaMdU
百済と新羅は日本語話してたんだろ?
朝鮮族の先祖の高句麗と敵対同士だったし、交流はしてても属国関係ではなかったんじゃないの。
888<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:17:37 ID:M8pVF4L+
>>875
どうも。。。うわー。。。
>>876
あー、次、日露関係の発言するときまでには勉強させていただきます。
>>879
どうもです。。。寝ます。。マジで寝ます。
お騒がせしました。。。。
889<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:20:31 ID:ePreLoPt
結局何が言いたいんだ?
爺さんが趣味で文献集めてすごいですねと・・・


まぁがんばってくれや、この方々の研究は発掘された物から
過去のを推測するのではなく、すでに在る結論に近づけるため
発掘をするわけだがな
890エラ通信:2006/06/22(木) 03:23:10 ID:xn61Zua9
>>876
無傷ってのが、『主力艦に撃沈がない』というならそのとおり。

 でも、戦死者が出なかったわけじゃないし、主力艦以外の魚雷艇は、
結構沈んでる様子。
891<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:25:01 ID:KT4x0Qko
>>1
>2004 年、朴理事は米ニューヨークで『The Histo ric Long, Deep Korean Roots in Japan
>(歴史的に長くかつ深い日本における韓国の根)』を出版した。


例の「大朝鮮帝国史」と同じニオイがプンプンするなぁ。w
892朝鮮28号 ◆02JjgyjS.. :2006/06/22(木) 03:25:20 ID:0UulHDQc
>>890
そういや山本五十六も日本海海戦で指がいくつか無くなるほどの怪我をしたんだよな。
けして楽勝ではなかったんだな。
893<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:26:17 ID:KT4x0Qko
>>890

喪失艦艇は小艦艇が3隻じゃなかったか?

894東夷 ◆43eKv.KwIo :2006/06/22(木) 03:28:07 ID:eWSMPIyT
榎本武明から軍事スレになってしまいましたか…
では私ももう就眠します。
895<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:28:14 ID:KT4x0Qko
>>892

山本五十六が負傷したのは日没直後で、
もう日本の大勝利が決してからだよ。

896<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:28:43 ID:M8pVF4L+
>>894
gomennmajidogogem
897<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:31:36 ID:M0JCzLd9
この儒教的自動自尊心生成プログラムが隣国で動作し続けているのは強烈にウザい。
898<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:32:35 ID:a0cPIL2M
我々達の先祖が韓国と大いに関係ありますこと聞いて
大変驚きました。これからはお互いに一層の理解を
我邦が積極的にいていかなければいけませんと思います。
とても喜ばしいことです。
899<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/06/22(木) 03:33:26 ID:ZZOcly/c
まあなんにしても中国の話だからチョンには関係無いんだけどね!
900エラ通信
>>890
単独行動できる外洋艇以外に沈んでいる艇があるみたいな書き方が、
ロシアサイドの史観から提起されてる。

 日本側史観だと確かに三隻。