【在日】京都・伝統工芸「京友禅」、原油高で工場の閉鎖続く[02/15]
1 :
すばる岩φ ★:
(
>>1の続きです。)
業界大手で京都友禅蒸水洗協同組合の理事長も務める金政器さん(55)は昨年11月、燃料を原油
から天然ガスボイラーに替えた。設備投資に2000万円ほどかかったものの、月間3〜400万円かかっ
ていた燃料代を200万円ほどに抑えることができたという。
しかし、零細が多い同胞蒸し工場にとって多額な設備投資ができるのは少数だ。協同組合事務局
のある関係者は「企業経営が困難なことを行政に訴えていくためにも、組合員の声が大きいことが大
切なのです。京都の伝統工芸、地場産業は組合員が2ケタあって辛うじて守られているのです」と話
す。金永哲さんは「これからは協力工場システムに替えていくしかない。1社がリーダー役を担い、受
注したら傘下の企業に仕事を分散していく。利益は分散するが、組合が生き残るにはこれしかない。
京都の地場産業をなくさないよう国や行政による法的な保護も求められる」という。
蒸し工場はお互い技術を競い合いながら伝統産業を支えてきたが、これからは相互扶助も欠かせ
ないようだ。
3K産業の典型
蒸し加工は京友禅を色鮮やかに仕上げる最終工程だ。ボイラーで蒸気を出しながら染料を発色、定
着させ、最後に製作工程で使った染料や糊を洗い流すまでを担う。70年代後半までは鴨川や桂川で水
洗いをしてきた。これが有名な友禅流しだ。その後、環境汚染が問題になって工場に水洗機械を備える
ようになった。「汚い」「臭い」「きつい」と三拍子そろった典型的な3K産業でもある。解放前から在日同
胞が業界の大部分を占め、支えてきた。
3 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/02/17(金) 04:44:06 ID:s3V+mTMC
3ゲット
意外と呉服屋も在日が多いらしいね
5 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/02/17(金) 04:48:38 ID:Qu6/BR2Q
京友禅がホロン部
6 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/02/17(金) 04:56:13 ID:hERp58Ca
これでは日本の伝統工芸ではないことになる。
消滅しても問題なし
7 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/02/17(金) 05:03:11 ID:u00q31I1
>>4 なんだよ、在日在日って。おまえこそ在日じゃないのか? まあ日本に在るんだから
在日には違いないが。昔、よほど在日にひどい目に遭わされたのか? 肛門に足の親
指入れられたとか、チンコに輪ゴムはめられたとか。なんかあるんだろうな。
なにファビョってんの
京友禅の蒸し工場の9割が同胞
↓
京友禅は韓国起源ニダ
ってなりそう
>>7 いやいや前に「ユーミンの実家は呉服屋だから日本人」と言い張る馬鹿がいたから
この手の業界にも朝鮮蛆虫が多いと言いたかったのさ
11 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/02/17(金) 05:13:05 ID:ZQi8AfUX
在日が経営する会社への就職は、個々の様々な理由や動機において拒否したい
という日本人も多いはずだ。日本国民保護の観点に立ち、在日の通名使用は廃止
すべきである!!
在が他を締め出してたからな。業界からも土地からも。衰退して当然。
京友禅の名前でダサい反物作って客もいなくなってきたし、
京都の文化的な貯金もそろそろ尽きそうだし、
北野のあの辺も1000年の年月を経てもとの河原者の土地に戻るか。
まあそれもいいかもしれない。
いつから在日産業になったんだろうね?
14 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/02/17(金) 05:20:26 ID:qAZ5Ns33
>13
というか京都はなぜあんなに在日の巣になったんだ?
ウトロはじめ在日部落が跋扈しすぎ
挙句日本の伝統工芸のっとり日本人締め出しで自爆か
なんで一刻も早く死に絶えないんだろうね
15 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/02/17(金) 09:31:36 ID:g99uoi/V
16 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/02/17(金) 09:34:03 ID:ZJX5TmVm
「京友禅」を見る目が変わるな。
17 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/02/17(金) 09:34:04 ID:2tskjUFO
野中が権力を持って日本の古都は
BとKの巣窟となりました
つか歴代知事の支持政党を調べてもらえれば良く分かるかと……
19 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/02/17(金) 11:17:33 ID:JgYkx6CF
この記事に出てる在日の「京都友禅蒸水洗協同組合」とは別に
「京都友禅蒸水洗工業協同組合」てのがあるんだが(代表・宮本富夫)。
在日の組合よりも設立年は古い(昭和23年)。同じ組合か?
京都の地場産業が在日に支配されたと思いたくないんだが。
ttp://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~mizna/kyoto-zainichi.html 三〇年代の京都市による調査報告書(京都市社会課「市内在住朝鮮出身者に関する調査」一九三七年)も、
「本市特殊産業部門」である繊維工業のうち染色業とそれに付随する蒸業・水洗業に朝鮮人が多く働いていることを指摘した上で、
「斯かる現象は本市における染織工業の規模が何れも極めて小さく、従って最も低廉なる労働力を基礎としてのみ
他の大工業と対抗し得而も朝鮮出身同胞労働は斯かる業者の希望を実現するものとして歓迎され出したものといふべきである」と記しています。
小規模の工場で肉体を酷使する重労働に低賃金で従事する労働者として、伝統産業を支えていたのです。
5 生活状況
京都在住朝鮮人の人口の推移を統計数字で見ておきましょう。
統計というのは、必ずしも正確なものではありません。
特に在日朝鮮人の人口統計は、調査機関の違いなどがあって、
時期による変化を正確に反映していない点に注意すべきですが、おおまかな傾向はわかりますので、簡単に見ておくことにします。
一九一三年に京都府で八七人だった朝鮮人人口は、
上で見たように一九二〇年には千人を超えました。
二〇年代から三〇年代にはさらに増加のスピードが速くなります。
一九二三年に四千人、二七年に一万一千人、三三年に三万二千人、
三七年に五万人、四一年には八万人にまで増えました。
これが戦前の京都府においては朝鮮人人口のピークです。
朝鮮人在住者が増加するにともなって、そのあり方も変わっていきます。
最初は、男にせよ女にせよ、単身の出稼ぎ労働者だったのが、
次第に家族を呼び寄せたり、家族を連れてやって来たりする人が増えます。
だいたい一九三〇年前後にこのような変化があったと見られます。
というのは、その前後で男女の比率が大きく変わっているからです。
一九二八年には京都在住朝鮮人の男女比率は五対一だったのですが、
三四年にはほぼ二対一にまで男女の差が縮まっています。
この数字からも、家族の形態で生活するようになった朝鮮人が増えたことが推測できます。
ttp://www.ut-mmrc.jp/DP/PDF/MMRC23_2004.pdf 別稿で明らかにしたように、京阪神における在日が所有・経営する企業は、歴史的に、幾
つかの特定産業に集中している
この集中は、在日が戦前労働者として携わっていた土木
工事業(いわゆる土建業)、金属加工業、ゴム製品製造業、繊維産業などと、戦後在日が本
格的に参入するパチンコ産業、金融業、不動産業、飲食業などにおいて特に顕著であり、日
本経済一般に比べると製造業の占める比率が高い
このような特定産業への集中は長期的に強固であり、しかも土木工事業とパチンコ産業の産業特化度の上昇に現われるように、二
産業への集中が強化されてきた。ただし、1975 年・97 年の 2 時点に注目すると、在日の産
業構造は、二産業への集中を含みながらも、各府県の産業構造の変化一般に比して製造業か
らの急激な退出とサービス部門への参入とによって非製造業化が進んだことから、日本経済
全体のサービス化に柔軟に対応したということもできる
後の 1975 年時
点で在日の所有と認知された京都企業のなかで、戦前に設立されたものは 14 社ある
事業内容は、染色 2、蒸業 3、西陣織 3、絞染加工 1、その他 3(金属加工、屑鉄業等)であ
り、殆んどが繊維関係であった
中でも、すでに戦前期に在日がなかば独占的な地位を確立したのが、友禅の蒸業、水洗業であった。例えば、1940 年の京都商工会議所の調査には、
二つの工程の重要さと分業化の過程、そして「半島出身者」がそれらを担っていく様子につ
いて、以下のような記述がみられる
「友禅染生産工程中の蒸熱工程は現在に於ては其の殆んどを蒸業者に委ねてゐる有様であ
る…が、これは生産工程に於ても最も重要な工程であり、型付と密接不可分の関係にある為
従来は友禅業者に於て行ったものである。これが分業化するに至ったのは大正初期である。
…世界大戦後の財界の一変動に因り友禅業者も苦境に喘ぎ、採算上自家蒸熱を捨て、安価に
して便利な専門業者を利用することが次第に多きを加ふるに至った。之れより前明治三十九
年地色捺染機を発明する者あり、大正十年はじめて本機を用ひてしごき蒸業を開始するに至
り昭和に入りて益々重寶なる存在となり、昭和四、五年頃より半島出身の業者次第に増加す
るに至った。業者は昭和九年京都蒸業組合を組織し、昭和十三年五月内容を一新して京染蒸
業組合と改称し現在組合員七十四名を算してゐる。…水洗(水元)も蒸熱工程と同じく友禅
染加工々程中重要な過程であって、友禅業者自ら之を行ってゐたのであるが、現在では蒸熱
を同じく殆んど専門業者に一任してゐる。水洗工程の分業化は明治四十四年…。現在の如く
業者九十名に近く、半島出身者の独占事業の如き観を呈するに至ったのは、蒸業者の勢力増
大に前後し昭和初期以後のことである。」
在日企業がそのなかでどのような位置にあり、どのように成長したかを、調査企業 6
社の事業内容の変遷を中心に具体的にみていくことにしよう。
まず、京都の繊維工業、染色業に関連する企業の規模を概観しておくと、分業による生産
組織に規定されて小規模性が目立つ
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。和装繊維工業では、京友禅に携わる型友禅工場、蒸・
水洗業、整理業の企業規模は機械や設備が必要であるため、他工程の企業より規模が大きく
なっている。調査企業を含む在日企業は、整理工程には殆んど存在せず、引き染、絞り染め
など初期投資が小規模な分野に携わっている。戦前在日が独占的な地位を占めていた蒸・水
洗業は、水洗の設備投資が必要となるのが 1971 年の環境規制の導入以降である。このこと
から、創業年度を考慮すれば、在日は、概してとりわけ産業発展の局面で、初期投資、追加
的設備投資の規模が小さい分野に参入したといえよう
京都の代表的な和装の繊維産業は、先染めの西陣織生産と後染めの京友禅に分けられる。
製造、分業体制においてそれぞれ独立したこれらの二分野では、在日企業の進出の違いが見
出される。京友禅においては工程別に専門化した在日企業が発見されるのに比べ、西陣織に
おいては殆んど織元であった。西陣織の織元は、大まかに「原料糸の調達→図案発案・作成
(外注)→糸染→製織(内機・出機)→問屋に卸」までをコーディネートする。このような
西陣織に、在日企業は復興期から多くの参入があった。その後、長期にわたって退出が続き、
2003 年現在殆んど存在しない。そのなかで現在も営業しているのが SH 社である。
京友禅に関係する染色工業における在日企業については、図 1 が示すように在日企業が集
中している幾つかの分野が見出される。KB 社のような型友禅の本工程を行う業者は、製造
問屋から生地と基本的デザインを受け取り、染色・製造に関して準備工程、下職の染屋、
蒸・水洗、整理の下請先の選定から仕上げの検反まで、全工程をコーディネートする。この
型友禅に、在日企業がどのくらい存在したのか、その歴史的傾向は明らかではないが、1990
年代後半において、残存している在日企業は少ない。KB 社の証言によるといわゆる下織の
友禅に在日が存在する。これらは問屋との直接取引がなく、友禅業者からさらに下請で型友
禅を行うが、これらに携わる在日は定量的な意味を持つほど多くはなかった。MO 社のよう
な絞染は、殆どの工程が家内手工業的に自社内で行われるが、どの程度の在日が関わってい
るか、明らかでない
MY 社のような友禅工程の後に行う表地の地染めの分野でも、在日は
製品を室町問屋、地方問屋に卸したり、直接小売業への販売網をもっている。
MM 社のように裏地の引染には表地よりは、在日企業が多数携わっている
以上とは異なって、在日によってほぼ独占的に担われているのが、NY 社が携わる京友禅
の蒸・水洗業である。2003 年現在、19 社ほどが存在するが
業界関係者の証言によると同
業種のほぼ 8 割が在日であるから、戦前から一貫した傾向といえよう。NY 社は、その意味
において、典型的な在日企業である。
そこで、在日が繊維産業に進出した際に重要な役割を果たした民族コミュニティが、在日
企業成長においてはどのように関わったかを推察してみよう。この点に関して、民団という
民族団体内の在日韓国人商工会京都支部(以下、在日商工会と略称する)が各企業活動にど
うかかわったかに注目しよう。調査企業のなかでは先代を含めて 5 社が加入しているが、在
日商工会から得られるビジネス情報も、実際の活動には殆ど影響するものではなかったと異
口同音に証言している。在日商工会の会長を勤めた KB 社の先代も、他業種に携わる民族同
士の親睦以上の関連はなかったと証言した。民族商工会が提供する納税コンサルタントのサ
ービスに関しては、それを受けていた MM、MO 社の評価はそれほど高くなかった。繊維産業
の在日企業は、在日商工会ではなく、日本人を含む一般の産業組合の活動を重視していた。
このように、民族組織が個別企業成長において重要な役割を果たしたとは考えにくい。
もっとも、経済活動、企業が成長する上では特に金融問題が重要であり、民族コミュニテ
ィでも積極的な取り組みが見られた。その具体的な表れが民族金融機関として商工信用組合
(1953 年)と信用組合京都商銀(1954 年)の結成であった
すでに明らかにしてきたように、在日企業は複雑な分業関係のなかにおいて、取引先との関
係を最も重視していた。このことは、後述のように取引が基本的に現金決済であったこと、
取引先からの信頼を得て取引が継続すれば、さしあたり運転資金面での心配がなくなってい
たと考えられること、に基づいている。従って、投資規模が限定的であった在日企業にとっ
て、資金問題が最優先課題とはいえないだろう。
そこで、調査企業の現在までの主要な取引先金融機関をみてみると(表 7)、MO 社を除い
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京都繊維産業における在日韓国朝鮮人企業のダイナミズム
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て
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、殆んどが民族金融機関ではなく一般金融機関となっている。その取引においては KB、
SH 社を除いて、積極的な融資の需要はなく、手形割引などの商業的必要性に起因するもの
でもない。NY、SH、KB 社のように先代の世代においては民族金融機関の信用組合との取引
があり、取引先の一般金融機関への移行という歴史的な傾向もみられたが、そこでも民族金
融機関との取引内容は預金のみ(NY、KB 社)であった。
生き残った調査企業は一般金融機関との取引も、信用力もあった。しか
し、これが繊維産業の在日企業の一般的な状況とみるのは早急な結論であろう。筆者の集計
分析によると、1975 年時点において繊維工業の在日の企業金融は、一般金融機関との取引
がなく、民族金融機関のみの取引の形態が、土木工事業やパチンコホールなどの他の産業に
比べて多かった
「担保以外にある程度、日本の銀行
やったら、稟議がどうのうこうのとか、うるさいから、同族やったらそこまでうるさくない。
金は金で先につこうて、書類は後で作成する」(MO 社の社長)というように、民族金融機関
では便宜を図ってくれるメリットがあった
何れにせよ、この事例から、民族金融機関は、
繊維産業関連の企業のなかでも調査企業のように同民族という非経済的理由で預金口座を
設ける企業から資金を調達し、MO 社のように一般金融機関との取引のない企業に対して融
資を行なうなど事業立ち上げにおいて重要な役割を果たしてきたと推察できる。
このような既存産業の再編の一方で、在日は新規産業への参入(多角化や事業転換を含む)
に関わるビジネスチャンスの可能性を在日コミュニティの個人的なネットワークを通して
認識することができた。例えば、染色に先行して不況に晒された西陣織の場合、この民族コ
ミュニティ内の情報交流によるパチンコ業への集団的参入が観察された。その具体例が SH
社のパチンコホールへの進出であるが、西陣織からパチンコ業に転換した友人からのアドバ
イス、情報提供が基盤になっている。
ビロードを織っていた AI 社の創業者も、西陣織からパチンコホールに転業していた友人、
TY のアドバイスが直接のきっかけとなって、パチンコホールに参入するようになった。「織
物はもうあかんで。S 氏が三条京阪前に土地をこうて、資金不足で始められないでいる。一
緒にどうや?」との勧誘に対して、「西陣は、私は、単なるビロードをやっていて、本業た
るお召しとか、帯とかにタッチしてないんでね、いえるほどの営業してないですよね。単調
な織物だけで、わり方先が自分で読めたと、繊維の時代は終わりつつあるという感も自分で
も感じたし、もう一つは、当時は、土地をこうてやれば自然と高金利がついてまわるような
思いで、簡単に織屋を諦めて、転業ができたということですわ。」と証言しており、西陣織
を整理した手持ちの現金で共同出資のかたちで参入した。また、1959 年にパチンコホール
を創業した KM1 社の創業者は、既述した西陣織の中心地区の柏野に在住していた。西陣織を
止めた在日のその後の様子について彼は、「良い質問です。西陣織やめて、西陣織整理して
パチンコやって、そのほとんどが成功してますね。織物が斜陽産業だと見切って、パチンコ
に切り換えて。だから一概に全部パチンコになったわけじゃなしに、パチンコやった人が、
転業した人が多い。」とし、他の業種については、「所謂不動産業にも出ましたが、不動産や
った人もおるし、土木、土木多かったですね。いろいろ事業替えしましたけど、一番目立っ
て成功したのは、パチンコに切り替えた人です」と回想した。この創業者は「パチンコに入
ろうとしたのは、ちょうどパチンコやっている人が、羽振りが良かったですよ」として、「兄
貴が人に頼んで、兄貴の友だちのところに、幹部として採用してもらったんです。…勿論韓
国人のパチンコ屋、兄さんは織屋やって、その人はパチンコやってましたから、頼んで、そ
この店の責任者になった」。パチンコ産業についての情報が得易い同人の証言から、西陣織
からパチンコ産業への転換のみを強調しようとしているわけではない。この事業認識と参入
までの一連の流れに在日コミュニティの役割があったのである
そういうわけで、残っている繊維関係の在日は意外と
職人気質の 比較的真っ当な在日ではないかと。
どれぐらい真っ当かというと
民団の税金相談とか民族系金融がなんの役にも立たなかった と
言い切るぐらいに(w >1 mindan.org
31 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/02/17(金) 14:08:32 ID:JgYkx6CF
で、なんで組合が二つあるのよ?
何だ、まだこの工程はベトナムに移管してなかったのか。