【国内】朝鮮総督府時代の史料出版〜牧野博士の標本用新聞から…「京城日報」の未発見の部分も含む[2/16]
1 :
ポリリーナφ ★:
韓国はこっち見るなw
3 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/02/16(木) 20:08:51 ID:IiACpnc1
2
4 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/02/16(木) 20:09:04 ID:7kT9mt2G
2ゲッチュ〜!!
5 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/02/16(木) 20:10:33 ID:GMcbr5Kj
>>1 京城日報は 日本人が作ったんだよな
なぜか 白は 朝鮮日報が朝鮮で最初の新聞だと言ってたが
6 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/02/16(木) 20:12:37 ID:y0xEd7jG
インターネットで見たニダ!
∧_∧
<丶`∀´> ∧_∧
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.__| | .| |_ / ヽ そうだったのか!
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||. ( ) ~\_____ノ| ∧_∧
/ ヽ お前頭いいな!\ ( ) そこには気づかなかった!
| ヽ \/ ヽ.
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/asia/column/seoul/news/20060131org00m030068000c.html 鄭晋錫著「言論・朝鮮総督府」は昨年5月に出版され、本文が349ページ。付録まで入れると473ページもある大著だ。
日本の植民地統治時代に、ソウルで発行されていた「京城日報」(日本語)、「毎日申報」(朝鮮語)、「ソウル・プレス」(英語)
という3つの新聞に関する研究書である。いずれも朝鮮総督府の機関紙だった。
京城日報の初代社長・伊東祐侃は、朝日新聞編集局長を務めた人なのだが、
彼と一緒にソウルに来た若手記者に丸山幹治という人物がいた。
日本の著名な政治学者・故丸山真男氏の実父なのである
丸山幹治は京城日報時代、たくさんの記事を書いていた。
日本に帰国後は、朝日新聞や毎日新聞で活躍した。知る人ぞ知る大ジャーナリストなのある。
「丸山は当時27歳。(中略)主幹の服部暢は31、2歳だったが、
すでにはげ頭だった。朝日新聞に勤めていたことから、
朝鮮に特派された朝日新聞の記者たちは、服部の家を根城にして活動した。
1907年、李儁らのヘーグ密使事件によって高宗が退位した時には、
大阪朝日新聞から特派された記者たちが、服部の家で取材活動を行った」
(「言論・朝鮮総督府」第2章から引用)
牧野植物園は遠足で何度も行ったなあ。現地集合現地解散の不思議な遠足でした(´・ω・ `)
9 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/02/16(木) 22:04:50 ID:A33lV2K+
>8
おうちに かえる までが えんそく ですよ
10 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/02/16(木) 23:03:25 ID:scw2SIyV
>>7 100万人が虐殺され840万人が強制連行され20万人が慰安婦にされたから、そんなことは日帝はやっていないニダ(金正日
朝鮮人は読めなかっただろうなー
普通なら標本にするまで10回は紙を変えて2週間はかかる
半島で問題なく作っていたって状況を考えるべきだろ
韓国って歴史資料を自分で保存する能力がないのか。
当時の朝鮮人って白痴なのか。