空気読まずに割り込み失礼、
まず昨日観に行った「太陽」の感想から書かせて貰います。
ソクーロフ監督の手腕云々よりも、
「太陽」はイッセー尾形の演技に負う所が多かった映画だと思う。
その印象に残ったシーンに触れて置きたい。
始めに日本国内の大規模空襲と2度の原爆投下で日本敗戦が濃厚となり、
その機に応じて来日したマッカーサーが昭和天皇に謁見するシーン。
通訳として日系人秘書官(フランクサットンらしい)がマッカーサー側に
用意されていた。だが昭和天皇に対し敬虔に振舞うよう求める秘書官に
対し、マッカーサーは勝利国としての威厳を崩したくないせいもあり
彼の言葉に素直に応じたがらない。却って昭和天皇に接する態度が
目に見えて硬くなる。この辺りはどうも史実と異なるようだ。作品中で
堂々とした威厳を漂わせた天皇に対し、
「私は従者を持たない」という言葉を
殊更に強調して向けていた辺りに両者の立場の違いが
浮き彫りになっていた。実はこれで却ってリアリティが醸し出されていた
のだと思う。
昭和天皇も敗戦国の元首である事を感じさせない堂々とした姿勢で
マッカーサーの謁見に臨んだ。マッカーサーが昭和天皇の煙草(映画で
はハバナ製葉巻)に火をつけた時、昭和天皇の手が震えていたのは史実に
忠実な再現だったようだ。
また史実ではマッカーサーは昭和天皇に複数回謁見したが、映画では2回だった。
沖縄戦や東京大空襲については映画の中で触れられていたが、ポツダム宣言
受諾前後については特に描かれていなかったので、情勢の推移の描写が
不明瞭な箇所もあった。だが2回目のマッカーサーの謁見後に昭和天皇が
人間宣言を決意したのは理解出来た。
もう一つのシーンに触れておきたい。
それは昭和天皇が身を置く退避先の建物の前で、カメラを携えた
米兵らの撮影に応じるシーン。多分先に登場したマッカーサーの
日系人秘書官なのだろうが、佐野史郎扮する従者と共に、必死に
撮影時間の規制や、隔てるべき距離について声を上げている。
だが昭和天皇はそれをモノともせず、庭園の花を手に取ったり、
被っていたシルクハットを手に取ったりして、米兵の写真撮影に
応じている。これが史実かどうかは申し訳ないが把握していない。
だがこのシーン、どこか滑稽で悲しい感情を呼び起こすシーン
だったのは疑い様もなかった。仮に歴史上同じ事態が再発した
場合、それは民族として死の宣告を受けるも同然とは
言えまいか?
# 日本人ならそう考えないとおかしいだろう。
これは個人的意見などではない。
このシーンを見て確信したのは、西部邁センセではないがやはり
「皇室は閉じられていなければならない」と言う事。
それも伝統的な神格の権威を無くす事無しに。
そういう意味で既述(
>>5)の「皇室バチカン化論」には賛成。
但し徹底したクローズ化を伴ってという条件付き。
時代に逆行している?いやこの方が時代の最先端だと換言する事だって、
決して誤りではない。
象徴天皇制は継続以外ない。「国柄」を喪失した国の存在意義に
替わるアイデンティティなど、今の日本にはどこにも見当たらない。
進歩史観の行き着く果てに、日本が解体国家になるのはハッキリ
言って見るに耐えない話。だいたい国柄解体後、天皇制に取って
替わるアイコンなんてあるのだろうか。海外で焼かれたり汚され
たりするたりする日の丸自体が適当とは思えない。所詮は白い旗に赤く丸を描けばできるモノだし、クニへの忠誠を誓う決定的対象
とはならない。聖書やコーランのような国民全体の道徳を包括する
典範も日本には存在しないのでこれもダメ。田畑森林等の自然だって、
結局のところ土地開発や資源獲得の為には簡単に消されるモノに
過ぎないだろう。白神山地等の自然遺産・オオサンショウウオ等の
天然記念物があるという意見があるかも知れないが、私はできれば
他の生物には必要以上の敬意を払いたくない。民族全体が無条件で
畏怖と敬意の対象とするには、人間でありそれ以上の存在が最適だ。
結論を繰り返すと、
象徴天皇制を国柄として厳格に保守する為にも、
皇室は閉じられた存在である事が望ましいのだと思う。
・・・それにしても銀座シネパトス1には、日曜昼間とは言え想像もして
いなかった人数が集まっていた。その中には若いのもいればやや年を
取った方々も、ほぼ同じ程度の比率で劇場に詰め掛けていた事を、
ここで付け加えておきましょうか......。
反論・異論等に対しては又明日。