【合理】rationalismの是非【主義】

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ごうりしゅぎ【合理主義】
(2)〔rationalism〕近世ヨーロッパの理性中心の認識論・哲学説。真なる知識の起源を感覚的
経験にではなく理性的思惟に求め,生得的・明証的な原理を基礎に導かれたもののみを確実な
認識であるとする。イギリス経験論に対して,デカルト・スピノザ・ライプニッツなどの大陸
合理論が代表的。合理論。理性論。唯理論。 (新辞林 三省堂)

クッツェー氏に文学賞 人種隔離批判の南ア作家
ノーベル文学賞の受賞が決まった作家ジョン・M・クッツェー氏(ロイター=共同)
【ストックホルム2日共同】スウェーデン・アカデミーは2日、2003年のノーベル文学賞を、アパルトヘイト
(人種隔離)を白人の立場から批判した南アフリカの作家ジョン・M・クッツェー氏(63)に授与する、と発表
した。授賞理由について同アカデミーは「西欧文明の残酷な合理主義と浅薄な倫理観を容赦なく批判した」と説明
した。クッツェー氏は1991年まで同国で続いたアパルトヘイトを背景とした人種差別の深層心理を描いた作品で
知られ、83年の「マイケル・K」でブッカー賞を受賞。他に「鉄の時代」(90年)、評論集「白人は書く」
(88年)などがある。現在はオーストラリア・アデレードに在住。
授賞式は12月10日、ストックホルムで開かれ、賞金1000万クローナ(約1億4500万円)が贈られる。(共同通信)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031002-00000261-kyodo-ent

依頼ありました
新規スレッド作製依頼スレ
http://news2.2ch.net/test/read.cgi/news2/1068483239/89
2朝まで名無しさん:03/12/12 18:35 ID:xxQdDBU3
<丶`∀´> ニダ
3朝まで名無しさん:03/12/12 18:41 ID:K9rabW7E
何だ、racismでは無く、rationalismか・・・。
4朝まで名無しさん:03/12/12 20:57 ID:J9KSiexq
まるかばつかの問題ではないだろうに
5critical rationalist:03/12/15 00:14 ID:aYOso09x
>居士氏
ありがとうございます。
うーむ、合理主義の定義から始めた方が良さそうでつな。

合理主義は>1さん(居士氏)が書いたように、
「近代」を形成するドグマであり合理主義自体も種々の思想に分かれる。

私は批判的合理主義の立場をとるが
批判的合理主義は
「人間の創作する一切のものは仮説に過ぎず、とある論理を正当化する事は不可能である。」
をドグマとする。

合理主義というドグマが形成する
統治体系が民主制であり、経済体系が資本主義であり、世界を説明する体系が科学である。
これらはキリスト教というドグマ下の
王制、封建制下経済、魔術からの「コペルニクス的転回」にて生じたものである。

と言ったところですか……。
6critical rationalist:03/12/15 00:15 ID:aYOso09x
雑談スレで居士氏は
近代合理主義はキリスト教の原罪告白に過ぎない。
というようなことを書かれたと思うが、
確かに、キリスト教の影響から出発した近代合理主義であるが
それぞれの思想は別の思想であるから、同一に論じることは間違いであろう。

第一、日本人である我々が
そのイデオロギー自体の他者への寛容を論じるに当たり、
その母体と同一とみるのは、ミスリードに過ぎない。

その理屈でいけば、小乗仏教から出発した仏教が
大乗仏教に派生し、中国で老荘思想を組み込み
日本に伝えられ、発生した浄土真宗も小乗仏教と同じ思想になってしまう。
即ち、小乗仏教=大乗仏教=老荘思想=浄土宗=浄土真宗と主張しているようなものだ。

故に、批判的合理主義とその他のイデオロギーとの他者の受容を
比較するに当たり、そのイデオロギーの真髄である原理主義にて
如何に他者と融和できるかを比較すべきであろう。
7唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/16 00:44 ID:y4xB0FVa
お疲れ様です。

>>5 定義立てして戴けると非常に助かります。

「人間の創作する一切のものは仮説に過ぎず、とある論理を正当化する事は不可能である。」
これはほぼ同意です。この教義は仏教に類似性があります、僕の自説は、
「万物は幻想に過ぎず存在一切は人間が作り出した物であり、全ての価値は「空」である。
 そして価値とは時や所、人により変わる物であるので、普遍的に正当化する論理はない。」
なので、僕自身はどの思想も価値を認める立場であり、ただそれを普遍化たらしめようとする
論に抵抗を感じている所存です。

なので一番引っ掛ったのは「普遍(universality)性」を持っている事です。
National=Judaism Hindism Sintouism Arab=Isramism
はあくまで普遍を説く訳でなく、以下の3つが普遍を説くものです。
universality=Buddhism Christianity Marxism

rationalismがChristianityのエトスを感じているかと申しますと、普及を望む資本主義や民主制、
近代科学なるもの全てはキリスト教圏で生まれ、プロテスタンティズムによるキリスト教の合理化の
中で培われ、彼らが外の世界に普及たらしめた物であり、Christianity布教もしくは彼らの意のままに
世界を動かそうとする深層心理においての潜在的な欲求のオプションではないかと睨んでいます。
8唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/16 00:55 ID:y4xB0FVa
>>6 即ち根本的な各宗教のエトスが何処にあるかという事でしょう。>>7で合理主義のエトスの
発露を挙げてみました。おって資本主義、民主制や近代科学が普遍的に世界に普及出来代物では
無いという論を展開したいのですが宜しいでしょうか?
9critical rationalist:03/12/16 21:49 ID:fDPfy6k/
>普遍化たらしめようとする論に抵抗を感じている所存です。
そりゃ、話にならんわ。
その数行前の文章に反するわ。
>万物は幻想に過ぎず存在一切は人間が作り出した物であり、全ての価値は「空」である。
「万物」「全て」と言う時点で、そのドグマは普遍化してますがな。
コーランでもアラーと言う神による普遍的な統治を否定してまへんがな。
寧ろ、アラーの統治が普遍じゃなかったらイスラム教は成立しまへんで。
そんなんジハードできまへんやん。
ヒンズーでも輪廻転生してまんがな。思いっきり普遍化ですやん。
「アートマン以外でも輪廻転生しいひん人間いるねん。」
ゆうたら、根本から崩壊しまっせ。

そもそもイデオロギーの世界の中で人間が生きるからイデオロギーなんでっせ。
普遍化しないと言うことは世界化しない即ち、その中で生きれまへんで。
「社会(個人を含む)」の価値観として成立してまへんがな。
社会=一人の人間ではない。と言う時点で「普遍化」せざるをえまへんやろ。
普遍化しないイデオロギーは原理的に存在できまへんで。
10朝まで名無しさん:03/12/16 21:51 ID:RDdH6iWW
合理主義ってのは

 魔術の否定
 情の否定
 老荘思想の否定

11critical rationalist:03/12/16 23:09 ID:fDPfy6k/
Ethosと言うのであれば
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教=唯一神
ヒンズー、仏教=輪廻転生→真理(悟り)
儒教=礼、道教=無
近代合理主義=理性

いづれも国家、地域とは無関係なものである。
それはイデオロギーが悉く普遍性を有するためである。

居士氏の言うNational、Arab、universalityとは
歴史的、地理的、国家的な政治的結果であり
Ideologieの普遍性と繋げるのは
反証不可能且恣意的な行為である。
12唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/17 00:10 ID:9M2FPgPV
>>9 僕個人のドグマですからこれを普遍化たらしめようという気概は全く無い(w
仏もまた塵。
法華経の一説「願わくばこの功徳を持って普く一切におもねし、我らと衆生と皆共に
仏道に成ぜん事を」とありこの一説は一見仏法を広める立場と捉えられますが、自らが
仏法に沿って生きる事のみとし、他の人間なりのドグマをより生かした方向に導く。
それが方便だと思っています。

>イスラム
勿論否定して無い。だが現在クルアーンは翻訳されたものがありますが、アラビア語で
書かれた物しか意味が無い。イスラム的には妙な言い方になるのですが、ムハンマドは
アラブの統一を意図していたという事です。イスラムに改宗すれば、当然アラビア語を
読む事が強要される。その他五信は当然の義務である。この義務を果たせるのは自らの
意志で改宗した者であって、イスラムにとっては意志が無いものはお呼びではない。
ただただ、一神教の論理としては合理性に富んでいるので、アラブ商人の手からインド
ネシア諸島に広がったり、キリスト教社会では家畜のままであるという憤慨からマルコム
Xやアリなどのブラックムスリムが生まれたという点はある。
13唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/17 00:22 ID:9M2FPgPV
><輪廻転生
確かに初期仏教においては、輪廻転生からの解脱を説いていますが、輪廻転生とは
古代インド大陸の死生観ですたい。これの否定を説いたのが釈迦で反インド思想と
いっていい。日本人にとっての輪廻転生とは単なる生まれ変わり信仰であり、解脱と
いうethosは見出せないし、はたまた徹底したリアリズムのインド思想の輪廻も見出せ
ない。イデオロギーの普遍は叶わぬ夢という証左だと思う。

追記 古代仏教も求める者「のみ」を対象とした。
14critical rationalist:03/12/17 00:29 ID:0YfH2wl+
同じなんですよ。イデオロギーから人間は逃れることは出来ない。

>自らが仏法に沿って生きる事のみとし、
>他の人間なりのドグマをより生かした方向に導く
と言うドグマにすぎない。
で、それを他者に薦めていることには変わりがない。
そこには普遍化が働いてます。

そもそも、「社会」の価値観として成立する時点で
普遍化を目指さざるをえない。と先ほども書いたはず。

普遍化を目指すキリスト教、近代合理主義に抵抗するなら
ます自分が自分のイデオロギーに抵抗せざるを得ない。
それこそ、自由主義的民主制の動機そのものですがな。
そして、その統治体系を支えるイデオロギーこそ批判的合理主義である。
15critical rationalist:03/12/17 00:38 ID:0YfH2wl+
>イスラム
それもやはり、民族対立する現状からより普遍的な論理として
イスラムを採用したと言う合理化の過程に他ならない。

一神教の割に合理的であるから、アラブ以外も採用したというのは
それは「イスラムの本質が一神教ではなく、合理主義だ」
と主張しているようにしか見えない。

合理主義の表象統治体系としてのイスラム教であれば
居士氏の論理そのものも
合理主義に基づく普遍化を目指しているとしか見えない。

それこそが居士氏が近代合理主義を批判したいところではないの?
16唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/17 00:43 ID:9M2FPgPV
>>9の後段は納得です。一つのイデオロギーの枠組みがあり、それが国家のテーゼとして
成り立つ。ただ僕の言う普遍universalityとは、Nationalなりcountryなりの枠組みを超えた
思想をさしますのでご了承を。

>>11 ヒンズーは別。かつて雑談スレで紹介したが、Hindismとは大英帝国が名付けたもので
インド人に共通したEthosを見出した事が発端。神道は日本人が見出したものであるが、一つの
習性を言葉にしたに過ぎない。だからその根本原理すらない。だから原理主義はありえない。

理性はおのおの個人に宿る物であり、それを普遍化たらしめるには「無理を通せば道理引っ込む」
類でしょう。理とはおのおのの信仰に基づくもので、例えばファンダメンダリストにとってはダーウィンの
進化論は理ではなく理に反する。僕は彼らの理は認める。しかし、この行動を逆におかしいとする者もいる。
合理が不合理を生み不合理が合理を生む証明でしょう。ダーウィン諸島の鳥達は身体を変化させて来たのだが、
それを動かした意志の証明までは至らない。
彼らにとって合理とするには力しか無いだろう、だから争いが絶えない。
これを六道では修羅界といいます。
17唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/17 01:00 ID:9M2FPgPV
>>14>イデオロギーから人間は逃れることは出来ない。
これ同意。←この言は仏教を否定している事となる。が同意。

自らの宗旨に沿って粛々と生きる、その互いの価値を認め合う。
それを求めている時点で普遍とも言えると思う。絶対化する気はないべ。
普遍性を帯びた物に対抗というか目先を変えるというか、彼らのドグマを
持ってして説得するという姿勢です。

>自由主義的民主制の動機そのものですがな。
それは違うでしょう。何故ならプロテスタンティズム(抵抗者)の端緒も教会批判と
捉われがちですが、キリスト教においての一神教としての合理化を目指したもの。
キリスト教そのものに抵抗したわけでは無い。カトリック社会においては、教会に権威に
反する人間の存在を許さなかった。それがピューリタンでありジャンヌダルクな訳です。
そして自由主義的民主制とは、抵抗者の存在を認める物であり、このキリスト教社会特有
の枠組みから生まれたものだ。

今日は寝ます。
18critical rationalist:03/12/19 23:54 ID:iv5uDgFe
>ただ僕の言う普遍universalityとは、Nationalなりcountryなりの枠組みを超えた
>思想をさしますのでご了承を。
この文章の意図をとり辛いのですが、今までの居士氏の流れからすると
イデオロギーの内容が有する普遍性ではなく、実際の世界において
世界的に拡散した信仰者を有するかどうかと言う点を主張したいと判断します。
その場合、イスラムは当然除外されるが……。それでいいのですか?

>12の様な理由でイスラムが世界に散らばったのは
イスラムのドグマとは無関係だと言うのであれば
キリスト教も同様に、ドグマとは無関係に拡散したと言い切れる。
何故なら、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」
と言う文章が有る。この意味は、「政治は政治、キリスト教はキリスト教」
であるからして、政治と関わった時点で、それは本来のキリスト教のドグマから外れる。
即ち、ローマ帝国に国教として採用された時点で
それ以降の政治と関わったキリスト教はキリスト教ではない。
それ以降のキリスト教の活動はローマ帝国及び教皇統治の
政治的な理由に基づくものであり、キリスト教のドグマとは関係ない。
19critical rationalist:03/12/19 23:55 ID:iv5uDgFe
後、>6にも書いたように、実際の信仰地域に大小に影響するのは
地勢的、経済的事情による国家的な政治結果ではないのか。
宣教師による布教活動は世界的に行われるがそれも
ヨーロッパにおけるプロテスタント国家の増大に対して、
既存ヨーロッパでの新たな支持基盤の確立が不可能であるがために行われた
政治目的であるのは常識であろう。
そして、その過程で植民地化され、今度はプロテスタントが対抗するために
覇権に乗りだす。
十字軍にしても東西ローマ帝国の統一というローマ教会の思惑、
王族、士族にとっての利権拡大が圧力となり、
それが農民等の信仰心を煽ったに過ぎない。
エルサレムを死守せよなどと言う文章が聖書にあるだろうか?
にも拘らず、エルサレムを奪還する根拠をキリスト教自体に求めるのは無理があろう。
そこにはキリスト教のドグマが関与する余地は全くない。
20critical rationalist:03/12/19 23:55 ID:iv5uDgFe
と散々書いたが、上記のような事は、キリスト教自体が普遍化を有さない
という主張をするつもりで書いたのではない。
飽く迄、キリスト教以外は信仰地域の国家地域を越える傾向を有さない等という
居士氏の主張が恣意的でしかないと指摘しているに過ぎない。
Nationに依拠するならただ単に国家主義であろう。
地域に依拠するならヨーロッパ、アジア、アラブ主義で十分であろう。
そこに神、理性、礼だの出す必要はない。歴史、人種等をethosとすればよい。
私は人種や歴史に依拠する思想なら居士氏の言うように
地域、国家限定とする思想と言うのに同意します。
但し、それは「宗教」ではないですが。

現実としてイデオロギーが初期の目的が如何あれ、
Ethosを形而上学的なものに求めた時、そのイデオロギーの(居士氏の言うような)
普遍化が生じる。故に、アラビア語の…、政治に関与した時点で…等と言う制限を軽く越える。
普遍化に抵抗感があると言いながら、その普遍化が何に持って齎されたのかと言う点の
認識が全く異なるとしかいえない。
21critical rationalist:03/12/19 23:57 ID:iv5uDgFe
>普遍とも言えると思う。絶対化する気はないべ
近代合理主義への抵抗感に普遍化は理由足りえない、と理解してもらえたと
解釈していいのですか?
そして、イデオロギー間の融和を目指すことはキリスト教等とは比較にならない
普遍化への意志であると理解して頂けましたか?

続きは明日以降に書きます。
どちらかと言うとそちらが本題ですが……。
あ、反論はご自由になさってください。
最後まで待たれる必要はないです。
22唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/22 20:34 ID:RPVdUfTM
いやー、田舎に帰っておりましたー、すいません。

ざっと見た所、宗教の定義について誤差があると感じました。

しゅうきょう【宗教】
(1)神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また,神仏の教え。
(2)〔religion〕経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や
存在に対し,積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。
アニミズム・トーテミズム・シャーマニズムから,民族宗教,世界宗教にいたる
種々の形態がある。 (新辞林 三省堂)

辞書を索引してみた所、語彙としては私の方が間違いだと感じました。
あと、私の悪い癖で論点をばらけさせてしまっているので、まず何処を論じるか
提案して貰えれば有り難いです。細かい所のレスは後日おってさせて頂きます。

御免。
23まいっちんぐマチ先生:03/12/23 02:37 ID:zo0pat8f
「合理」の「理」って、21世紀にいきるわれわれにとって
は、やはり物理法則なんじゃないの?
生化学をふくめあらゆる現象は物理法則にしたがう。すなわ
ち、すべてはあらかじめきまってる。ってことでは?
すべてはアッラーのおぼしめし、といってもおなじことだけ
ど。
24唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/23 23:35 ID:xtclwNS5
>>18 いくない(w、というか私の説明不足かー
>イスラム
とは、一言で言えば寛容の一神教。自主的に契約する事においてムスリムとなり、
クルアーンが言語を超えアメリカ、チェチェン、アフリカ大陸と拡大している現状は
普遍そのもの。何故かと言えば、宗教として合理に富んでいるからであり、普遍する
理由はクルアーンにある。

>キリスト教
これも教義にある。マタイ伝 7の12章
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

これはキリスト教徒の基本的エトスであり、アメリカのデモクラシーや自由の輸出(押し付け)
行為はこれで説明できる。あと、田嶋陽子がかつてテレビで語っていたが、彼(彼女)がヨーロッパに
留学していた際、車椅子の男性が段差を越えれずに立ち往生していた所、通りすがりの数人が車椅子を
抱え段差に上げてやったそうな。

根本的に政治と民衆を切り離して宗教を語る事に無理があるだろう。為政者もキリスト教を奉ずる
立場であるからして、エトスの多くはキリスト教に影響があるだろう。
25critical rationalist:03/12/23 23:54 ID:bfDcaDjj
論点が更にずれていますな。
そもそも、近代合理主義と宗教の比較であると
>6から述べているように
イスラムとキリスト教の比較ではない。

キリスト教=近代合理主義と認識する事自体が間違いであると指摘している。
それに、16以降の話は
決して、キリスト教が普遍化を持っていない等と言う主張をしているのではない
と>18で書いているはず
24の理屈なら、イスラム原理主義もイスラム教の曲解ではないでしょう

近代合理=キリスト教で進めている時点で恣意的な指摘でしかない。
それが罷り通るならイスラム原理主義も十分イスラム教である。

後、24の主張はどこまで見ても
イスラム教はキリスト教よりも合理的であり、
採用理由はイスラムは合理的判断からキリスト教はそのドグマの不寛容から
と主張したいとしか見えない。
そんな論理は最初から恣意的であると繰り返し主張している。

なぜなら、そんな論理は反証不可能な理屈だから
>根本的に政治と民衆を切り離して宗教を語る事に無理があるだろう
将にその通り、それ故、イスラムが一神教を寛容し、多神教を圧殺したことも
今のイスラム原理主義も十分イスラム教のエトスが導き出したものである。
26唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/23 23:56 ID:xtclwNS5
>>19 イエスズ会やフランシスコ会が生まれた背景はプロテスタントに触発され拡大を目的と
した訳だが、それらの宣教師に齎されたヨーロッパ外での役割は、植民地の先兵であり、
他教信者を彷徨える子羊(家畜)と規定し人とならぬ(転向せぬ)者(家畜)は人では無いと
いった人間観はカト、プロ厭わずキリスト教徒特有のものだ。この発露がインディアンや
インカやフィリピン、そして十字軍の悲劇につながる。正しく、バイブルか死か・・・であり、
彼らの普遍化への意志は相手を選ばず適用されるものであり、地球上においてこれを超える
モノはないだろう。

>>21 宗教=エトスであるという事。批判的合理主義を普遍的に最小限の宗教とするのであれば、
エトスを変える事であり上記に挙げたかつてのキリスト教徒の侵略行為そのものであり、合理主義の
エトスはキリスト教に由来するものではなかろうか?という問いかけがあります。
27唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/24 00:05 ID:w+NXWhAR
>>23 それが全体への適用とならんと思う。僕も厨房の頃は物理的原理原則が
真理であると思っていて、特に宗教なんぞは無知蒙昧な輩を救う極めて非合理
的な手法だと思っていたべ。だが、宗教の違いから人それぞれ合理とする所は
別であり、所により変わる。確かにファンダメンダリストの排他性は僕も糾し
たい所だが、それも彼らの考えであり極端な行為に及ばなければ問題は無いと
考えるし、彼らの内心(宗教)がそれを律するものであるでしょう。
28critical rationalist:03/12/24 00:09 ID:RI0zApHI
後24の主張はイスラムはキリスト教より合理であるから世界で受け入れられている。
そして、居士氏の文章から、それは否定すべきことと言う意図は見受けられない。

即ち、居士氏も合理的な判断に伴う普遍化を肯定しており
合理主義に伴う普遍化に抵抗を感じていると言う心情の発露
から矛盾しているとしか思えない。

宗教と合理主義はそもそも対立する
何故なら、近代合理は
繰り返される現実から人間が仮説を自然に押し付ける事によって形成され体系化される。
これが、イギリス経験論と大陸合理主義を統合したカントの構築した
「近代合理主義」なのだから。

一方宗教は
神による統治、輪廻という先に「真理」が規定され
その後、現実が説明され体系化される。
アッラーによる統治が仮説であろうか。クルアーンでそのことを認めるようなことが有ろうか。
宗教にドグマを仮説と認める寛容は存在しない。
故に原理主義が存在できる。

近代合理主義の表象体系である科学はそのドグマが時代と共に変化する
それは近代合理主義がドグマ自体の寛容性を有するが為である。
これこそが宗教との寛容性の違いである。
29critical rationalist:03/12/24 00:24 ID:RI0zApHI
批判的合理主義は古典的自由主義国家のドグマではありません。
ヘーゲルの止揚という論理学を虚仮にするような歴史信仰と
唯物論によって形成された共産主義及び社会主義国家に対抗する
現代自由主義陣営のドグマとして登場したものであり
20世紀になって登場したドグマですから。

プロテスタント=寛容だなんて誰も思っていないです。
居士氏の言うように不寛容運動でしかない。
イスラム原理主義のように。
30唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/24 00:30 ID:w+NXWhAR
反キリスト教であるのであしからず(w 論旨を誤解していました、すいまそん。
>今のイスラム原理主義も十分イスラム教のエトスが導き出したものである。
これはミロのヴィーナスの発掘の経緯やギリシャ神殿群と、ガンダーラ仏とバーミヤン
大仏の比較文化学で反証出来るべ。ついでに近代が齎した国民国家という国家形態と
帝国主義というキリスト教発のテーゼ前は、パレスティナの地においてユダヤ人とアラブ
人が平和的に共存していた。

>キリスト教=近代合理主義と認識する事自体が間違いであると指摘している。
間違いでは無いでしょう。プロテスタンティズムは、教会の行為の非倫理性を糾して
いるのではなく、カトリックが抱える福音や一神教としての論理矛盾を糾す事が目的だ。
即ち福音の「合理」を目指した訳です。

この精神からイギリスで産業革命が生まれ、資本の流用を倫理的に是とする事が可能になり、
資本主義が生まれます。キリスト教世界では正に「革命」なのです。
日本が如く、お上が商人に頭を下げ金を工面する世界では「革命」ではないですね。
逆に農民のエトスを引き継ぐ者は、今でも借財は悪であり価値の混沌とした倫理曖昧さは
ありますが。
31唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/24 00:41 ID:w+NXWhAR
>>28 残念ながら、イスラムにおいては近代科学はイスラム教に反しない限り肯定されますが、
民主主義、資本主義は明らかに反する。何故ならば、当然近代法はイスラム法と抵触し、資本の
流用(借金、貸金)はクルアーンに反する。アラブにも銀行は存在するが、ザカートの様な
救済を目的とした物であり、利子は0%です。資本主義はイスラム内部では興りえない。
キリスト教の様に究極内的規範のみを倫理と用いるのであれば倫理の転換は可能であるが、
クルアーンの適用範囲はイスラム法と書いた様に外的規範にも適用される。

最後の時代と共に移り変わるといった論理も究極の一神教、次元も時も空間も超えた存在で
あるアッラーの否定であり、イスラムにおいて適用されるはずが無い。
32critical rationalist:03/12/24 00:49 ID:RI0zApHI
>最後の時代と共に移り変わるといった論理も究極の一神教、次元も時も空間も超えた存在で
>あるアッラーの否定であり、イスラムにおいて適用されるはずが無い
だから、最初から書いてるのですよ。
宗教と合理主義は対立すると
そして、科学(学問)、民主制、資本主義がその表象体系であり
その本質はドグマ自体に誤りがあるかもしれないと「許容」する体系であり
宗教はそのドグマが真理と定義されるが故に不寛容な体系であると。

そして、各イデオロギー間の対立、断絶ではなく、融和、対話を指向する意志は
「何を」根拠に行うか。
というそもそも、居士氏も指向する意図に「何を」採用するか。
と言う問題においての「合理主義の是非」ではないのですか?
33critical rationalist:03/12/24 00:51 ID:RI0zApHI
居士氏の言う談合とは対話のことであり
その根拠に何に依拠するかと言うことである。
お互いのドグマの主張合戦では意味がない
談合するための共通の話題として何を用いるか。
という意図が居士氏の場合「合理」を採用しているとしか見えないが……
34唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/24 00:53 ID:w+NXWhAR
久し振りに議論が出来ている・・・ 嬉しい(泣
ここんところ、変なのばかり相手にしてきた(主張を狭めるレトリックを駆使していた・・・)ので、
当初のレスはリハビリの様相を呈したのは深くお詫びしたい。

根本的に福音のファンダメンダリストが原理主義であるのであれば、ムスリムの全ては
原理主義者でありますよ。だが、何が違うかといえば福音は暗喩として内的規範を説いて
いるのに対し、クルアーンは外的規範を重視している。福音が日本人にとっての仏典であると
考えれば、クルアーンは近代法(社会法)そのものです。政教一致の政治形態を説いています。

カントは正直言ってよく知らないっす。少しばかり時間を頂きたい。
35critical rationalist:03/12/24 01:01 ID:RI0zApHI
イスラムがキリスト教より寛容なのは認めます。
最初からそんな主張をしたいのではないし。
そもそも始まった時代が違う。
イスラムが不寛容な宗教であると言うのは多くはキリスト教徒による
喧伝なのですな。
それを否定する意図はない。

要は、イデオロギー間の融和、より具体的に言えば、
多種多様なイデオロギーを採用した「人間」間の断絶ではなく
対話を目指すことこそがポパーの楽天的と呼ばれる性格ですな。
そして、ポパーよって始まった批判的合理主義ですな。
36唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/24 01:07 ID:w+NXWhAR
談合する行為そのものが、日本人にとって依拠するものである。
談合論の適用範囲は日本のみです。その外は日本版モンロー主義というか、
緩やかな鎖国論者です(w

あと、僕個人はそれぞれ理に対しその中において合理を求めている者ですので、
ある意味不寛容ですね。それはクリさんの指摘通りです(w 個人的に採用して
いるのは、一人の指導者の方便であり、方便と用いるのはイデオロギーや宗教を
用いればいいと、これにより各局面において一時的な融和を量ればいいだろうと
思っています。
ただ日本社会なら日本社会なりの合理があると考えています。これが僕思う所の
日本国の真実です。

>>32の反論は後日にて・・・今日はこれで失礼します。
37死(略) ◆CtG./SISYA :03/12/24 01:09 ID:BoSVsX63
面白そうなスレですが、暇が無い。
真理と合理についてでているので一つだけ意見させていただこう。
真理は、原理的に知りえない。
そして、重要性に関して、真理は、合理よりも重要ではない。
合理は真理よりも重要である。
其の根拠は、真理の正当性は、其の合理的観点からのみ主張されるからである。
では。
38まいっちんぐマチ先生:03/12/25 00:09 ID:pn4ZwY/w
>>27
うひゃ〜。丁寧なレスをいただきましたが、>>23はよっぱら
いカキコでした。すみません。舌たらずてゆーかろれつがま
わってないのはそのせーです。が、わが所信からはずれては
いません。

世界を支配してるのが、アッラーの意志だろーと自然法則だ
ろーと、われわれ人間がそれらの核心に到達できないかぎり、
われわれができるのはそれらを「信じる」ことだけであって、
その意味で両者は等価だとおもうんですよ。

で、どちらの立場においても、素朴にかんがえれば、世界は
決定的であって自由意志は否定されるはず。
自由意志の存在証明は、一神教の枠組でも努力されてきたこ
とや、一部科学者が精神のよりどころを量子効果にもとめた
りしてるのは存じてますが、僭越ながら、なんだかな〜とお
もっちゃうんですよね。

もちろんそれは無力な人間の認識の外ことであって、われわ
れは、一見非決定的な世界をいきていかなくちゃならない。
実際おれはアナキストととして「自由」の至上を主張してま
す。が、そーいいつつ「そんなものはないんだけどな」と心
のなかでつぶやいてるのです。
39critical rationalist:03/12/25 14:42 ID:oEh9CrO8
>まち先生
先生と絡むのは倫理問題以来ですかな。
さて、決定論ですが、
>その意味で両者は等価だとおもうんですよ。
両者は何れも形而上学的決定論ですな。
しかし、アナーキストとしてのまち先生のレベルなら決定論で悩む必要はないでしょう。
「決定論者は非決定論者を非難できない。 何故なら非決定論が登場する事は予め決定されていたからである。」

例えこの世が形而上学的決定論下に有るとして「我々」には問題がない。
我々が行動が決定されているなら
罪を犯すことも、戦争する事も、愛する事も、議論する事も決定されている。
決定論者はそれら全てを非難できない。
国家が個人の行動を規制出来る根拠に決定論は使用できない。

第一、決定論は全ての物理法則を備えた「永遠の現在」を有する存在(神)=全知全能のアッラー
でなければその結果を「知る」事はできない。それは人間ではない。
物理法則は新たなパラダイムによって置換されうる。
そして、新たな物理法則、定理は次々と発見される。
何故なら、我々は真理を知ることはない。(ある論理を正当化できないのだから)
それは「我々」は我々の知らない物理法則を用いて未来を予測する事は出来ない。
我々は永遠に未来を正確に予測する事は出来ない。

ポパーは形而上学的非決定論、科学的非決定論を「Open Universe」で展開していますが
私個人としてはポパーの科学理解に於いて誤謬が感じられる為、肯定できません。
しかし、決定論に興味があれば読んでみても良いのでは?
40critical rationalist:03/12/26 02:17 ID:+FU5DkZ/
>何が違うかといえば福音は暗喩として内的規範を説いて
>いるのに対し、クルアーンは外的規範を重視している。

近代合理主義は内的規範を極限まで制限する。
表象体系である民主制では「思想信条の自由」「信仰の自由」が謳われ
「価値自由のテーゼ」が謳われる。
その一方で刑法により「行動に対する規範、罰則」を規程する。

イスラムの外的規範の重視はキリスト教との比較問題であり、
近代合理主義とは比較にもならない。
41critical rationalist:03/12/26 02:28 ID:+FU5DkZ/
>談合する行為そのものが、日本人にとって依拠するものである。
これはちょっと理解できません。
対話が成立する前提「共約可能性」は必要な筈です。

>一時的な融和を量ればいいだろうと思っています。
一時的であれ、融和する為には共約可能性が必要です。
対話自体(談合)はあくまで手段です。目的の為の手段で存在するのです。
談合の目的は存在しないのですか?
目的が一時的な融和であるとしいう意図があるように思えるのですが
誤解でしょうか。

その場合の日本人にとっての依拠は談合ではなく、
相互理解を可能と信じる「共約可能性」ではないのですか。
42critical rationalist:03/12/26 02:53 ID:+FU5DkZ/
内的規範として道徳の存在が挙げられるが
批判的合理主義に則れば、これらでさえも人間の形成したものに過ぎず、
真理ではない。それ故、これらも現実にテストされなければならない。

外的規範に到っては刑法は「司法」「立法府」によって変更可能である。

何度も言うようであるが
居士氏はキリスト教=近代合理主義と認識されているが
本質に於いてはイスラム教もキリスト教も同じ「宗教」であって
近代合理主義とは対極に位置する。
43critical rationalist:03/12/26 21:08 ID:AP4HjtUz
議論の齟齬が何に起因するのか。少し考えました。

居士氏のスレの流れから
「近代合理主義=キリスト教」「イスラムは一神教としては合理的である」「普遍化に抵抗」
後、雑談スレで「合理主義は宗教と矛盾しない」と書いておられました。
と言うキーワードから
居士氏は一つの前提を有していると推察されます。
それは「合理主義は宗教間を超えたものではなく、その内部で留まるものに過ぎない」です。
近代合理主義はキリスト教内の合理であり、イスラムにはイスラムの合理がありその両者の合理は異なる。
と言う事です。

この仮説を前提に話を続けます。(違っていれば無意味ですが)
しかし、私は近代合理主義はあらゆる宗教と対立し、ただ単に内部に留まるものではない事を
提示しつづけています。
反証可能性、信教の自由、ドグマの可謬性、いずれも外部宗教だけに対立するものではないでしょう。
ドグマ自体が(図らずも居士氏が抵抗性を感じているように)「普遍性」を有するが為です。
この普遍性には、当然キリスト教、歴史信仰(とMarxism)も含まれる。

これに対して、居士氏は内部に留まる原因を現出した政治、歴史に求めている。
しかし、今迄西欧の政治、歴史でキリスト教のドグマが完全に影響しなかった事があろうか。
完全には近代合理主義がキリスト教を駆逐した訳ではない。
即ち、政教不分離な状態で行われた状態を指して、
キリスト教=近代合理主義と指摘しているに過ぎないのではないか。

自由主義的民主制下において政教分離を謳うのは何故か。
キリスト教は影響を受けないと言うなら、私が
「政治と関与したキリスト教はキリスト教ではない」と書いた事を
居士氏が承認することにはならないのだろうか。
(私はその文章をその様なつもりで書いたのではない事を既に告白している。)
44critical rationalist:03/12/26 21:09 ID:AP4HjtUz
>近代科学はイスラム教に反しない限り肯定されますが
にしてもそうである。科学、学問がイスラムに反しないなどと言う根拠がどこにあろうか。
科学は(これまた皮肉にも居士氏が抵抗感を有する)「誰が」「何時」(=普遍的な)やろうとも「再現性」が要求される。
居士氏が言うようなイスラム合理が存在するなら、
その表象体系である(便宜的にイスラム科学と呼称する)科学は
アラブ内でしか再現されないといけない代物ではないのだろうか。
そんなイスラム科学は存在するだろうか。

そして、科学は(クーンの指摘するように)パラダイム転換を行っている。
イスラム科学(即ち、イスラム世界を説明する体系)がコロコロ代わってよいのだろうか。
それは取りも直さず、アッラーの統治がコロコロ代わる事を意味する。
その様な事をクルアーンが認めるだろうか。
はっきりといえば、キリスト教における世界の説明体系は神学である。
イスラムでも同じくイスラム神学である。それは科学ではない。

科学、民主制、資本主義は何度も言って申し訳ないが近代合理主義の表象体系に過ぎない。
他の現存する宗教、イデオロギー内に包括できるような代物ではない。
都合の良いところだけを取り出すことなど出来ないのだ。

長文スマソ。
45まいっちんぐマチ先生:03/12/27 02:23 ID:9FK46CSv
>>39
医療倫理スレではどーもでした。

> 両者は何れも形而上学的決定論ですな。

そう。前者は唯一神の意志。後者は因果律によるものです。

> 例えこの世が形而上学的決定論下に有るとして「我々」には問題がない。

とゆーのはわかります。が、逃避だともかんじるんですよ。
ムスリム(千一夜物語によくでてくるじーさんを想起)の
「すべてはアッラーのおぼしめしのままに」とゆーいさぎ
よさにくらべれば。まぁたんなる感想にすぎないんですが。

> ポパーは形而上学的非決定論、科学的非決定論を「Open Universe」で展開していますが

ポパーはあんまりしらないんで、勉強したいとおもいます
が、「科学的決定論」に対する多体問題などをもちいた批
判は、まぁ納得できるとおもわれます。しかし「形而上学
的非決定論」てゆーのは端的に「合理」的ではないのでは?

ところで
「科学、民主制、資本主義は近代合理主義の表象体系」
↑これもポパーの主張なんですか?
前者はまあ理解できますし。次もわからなくもない。3番
目は?って感じですね。おれは社会主義のほーが合理的だ
とおもってます(w
46死(略) ◆CtG./SISYA :03/12/27 03:40 ID:4dd9zZxw
まぁ、此処で行われている試みそのものが合理主義の本質なのだ。
合理主義の本質とは、「合理化【する】」ことである。
合理が何であるか、を求めているのではない。
合理化することそのものに、其の本質はある。
合理化する事とは、其の一貫性を維持する事だ。
其れは、主観的な認識領域に於ける合理の一貫性を維持する事である。
それ故に、「納得する」ことの欲する其の極限が、合理主義を生む。
そして、何故に、人が
「合理が何があるか」を求めているのではなく、
「合理化すること」に本質を置いているのかといえば、
その動機が、知ることによって、世界を己のいのままに操る事、
世界を己の意と同化する事を欲するが為である。
>>7
>「万物は幻想に過ぎず存在一切は人間が作り出した物であり、全ての価値は「空」である。
> そして価値とは時や所、人により変わる物であるので、普遍的に正当化する論理はない。」
とある。
そもそも、「価値」とは、目的に対する手段の有効性のことである。
つまり、手段の価値が時勢によって違うと言う事は、
つまり此処ではあらゆる事象を、目的に対する手段として見なし、「有効」か、「有効でないか」の尺度を以って
其の手段の価値(有効性)を測ろうとしているわけであるが、
当たり前の話であるが、一般に認識に上る目的は、時勢によって、違う。
それ故に、手段の其の目的に対する有効性も変わって行く。
だが、はたして本当にそうなのか。
つまり、認識上の目的は、確かに時勢によって違うし、個人によっても違う、
それ故に人によって、価値観は違う、と言うことが言われるわけであるが、
人の、真に意図する事は、生命体の、意図することを、全て総括し、一般化することができるのであれば、
其の目的のために、全ての事象の価値は固定されるのではないか。
つづくが、、、いつ帰ってこれるかは不明。
47死(略) ◆CtG./SISYA :03/12/27 03:47 ID:4dd9zZxw
>>23
>「合理」の「理」って、21世紀にいきるわれわれにとって
>は、やはり物理法則なんじゃないの?
>生化学をふくめあらゆる現象は物理法則にしたがう。すなわ
>ち、すべてはあらかじめきまってる。ってことでは?
現象は、物理現象にしたがっているわけではありません。
どれだけの一貫した反復する形質を取り出して、積み上げたとしても、其れが正しい証明には、
ならない事は、論理学「でさえ」保証しています。
そうではなくて、「事象が、物理法則にしたがって動いている」と考える事=そのように合理化する態度、
が、其の目的に対する手段の有効性故に重要なのです。
物理学は、真理を追究する物ではありません。
物理学で追求しているものは、手段としての使い勝手の良さ、なのです。
ニュートン力学は正しくないと言う事はご存知でしょうか?
でも、つかえます。
そして、其れでよろしいのです。
「何か正しい事がある」のが真なのではなくて、
「何か正しい事がある」と考える事が、有効なのです。
48まいっちんぐマチ先生:03/12/28 01:55 ID:R2NskM7c
>>47
> 現象は、物理現象にしたがっているわけではありません。

「物理法則」とよみかえて・・・
おっしゃりたいことはわかります。現代物理学者が共有する
「物理法則」に世界が支配されてるわけではもちろんない。
しかし、われわれ人間の認識や言語がおよばない法則(のよー
ななにか)に世界は支配されている。とおれは信じているわけ
です。「物理法則」はその「法則」のモデル。ニュートン力学
はわれわれの常識によく適合するモデルだが、より一般的に適
合するモデルが相対論。とゆーふーにおれはかんがえてます。

> どれだけの一貫した反復する形質を取り出して、積み上げたとしても、其れが正しい証明には、
> ならない事は、論理学「でさえ」保証しています。

?なんで論理学がでてくるのかな?全称命題≠存在命題の連言
とかゆーことですか?
49critical rationalist:03/12/28 18:53 ID:zc0fECBj
>45 
>「科学、民主制、資本主義は近代合理主義の表象体系」
>↑これもポパーの主張なんですか?
これは特にポパーが主張した事ではありません。

全てのイデオロギーは価値観であると同時に世界観を形成し、
ドグマに則り「統治」を齎す。統治とは「政治」です。
そして、政経不可分と言う言葉がるように、政治と経済を分離する事は不可能です。
政治体系は経済体系と密接な関係が有ります。
一方が独立して成立することなど不可能なのです。

そして、近代合理主義下の「資本主義」とは単に「古典的資本主義」をさして
資本主義と言っているのでは有りません。
貨幣経済による「誰が見ても分かる」富の「評価」と「移動」を可能にし、
誰が使おうとも「平等」な貨幣という価値観を形成した「資本主義」です。

社会主義は資本主義の一亜型に過ぎません。
資本主義は古典的資本主義と統制経済に分かれます。
社会主義では資本を国家が独占している状態に過ぎず、
古典的資本主義国家は個人、企業が独占している状態、
帝国主義では少数の大企業が独占した状態です。
決して社会主義は資本主義と対立するものではない。

社会主義国家は単に経済体系が自由主義国家と異なるだけではなく、政治体系も異なる。
社会主義とは単に経済体系に留まるものではないからでしょう。

社会主義(要はマルクス経済学)の方が合理的というのは肯定できませんな。
Hayekの「隷従への道」には、如何に不合理な経済体系か力説されてます。
50まいっちんぐマチ先生:03/12/29 02:49 ID:gUtINL8V
>>49
> 誰が使おうとも「平等」な貨幣という価値観を形成した「資本主義」です。

貨幣使用=資本主義ではないとおもいますが。カエサルの時代から
貨幣はありますよ。貨幣換算による富の無制限な所有こそが資本主
義の本質でしょう。決して平等でも自然でもないとおもいますよ。

> 社会主義は資本主義の一亜型に過ぎません。

ここは定義の問題ですね。同意しかねますが。

> 社会主義では資本を国家が独占している状態に過ぎず、

それは社会主義の特殊な例でしかありませんね。
生産手段の私的所有を否定すれば、それは社会主義なのです。特に
国家が独占する必要はありません。「無政府」をかかげるアナキズ
ムも社会主義の一種です。

> 社会主義(要はマルクス経済学)の方が合理的というのは肯定できませんな。

おれは形而上では決定論を信じてますが、形而下では人権思想を信
じてるのです。
あらゆる人は等しく基本的人権をそなえる。ゆえに共同体の意志決
定にはすべての人が等しく関与する権利がある(主権在民)。
共同体の運営における最重要項目は生産関係で、それについても同
様。特定の個人がその能力以上の影響力をもつことはゆるされない。
したがって、生産手段の私的所有は禁止されるべき。

いかがですか?前提(人権)に対して合理的でしょう?
51唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/29 10:41 ID:6X4wh0us
>>37 お久し振りです。私も忙しいので、ゆっくりと相手のレスを咀嚼しながら、やって
行こうと思っています。さて・・・、あっちのおばちゃんへのレスをどう切り上げたらいいものか・・・

>>38 僕の心境と同じものを持っておられるますね。僕は内心では仏法を奉じながらも、仏の存在は否定
している。仏とは人間が垣間見せる善性であって、人間が仏とは成り得ないと考えているべ。釈尊も
然り、ただの人間でありニュートンの万有引力が如く仏法という自然摂理を発見した人間であると
思っています。そして社会における法(外的規範)には、仏法は適用出来るはずも無い。
52critical rationalist:03/12/29 20:43 ID:XFD6gSm4
>前提(人権)に対して合理的でしょう?
批判的合理主義の概念をもう一回述べた方が良いですか?
「どのような論理であれ正当化することはできない。」

「合理」とは真理を決定する事ではなく、現実から真理へと「近づいていく」事です。

まち先生も近代合理主義に対して誤解していませんか。
人権に対して合理的なら近代合理主義というなら
ヤーウェやアッラーや現人神に対して合理的な政教一致した社会も
近代合理主義の統治体系なのですか?

政治思想はそのドグマが形而上学的にならざるを得ない。
最初に反証不可能な真理を掲げ、そこから現実を規定するのでは
宗教と何ら変わらず、近代合理主義に反します。

では政治思想における「合理的」とは何でしょう。
社会主義を例題に使いましょう。
最初に人権を規定し、そこから規定された経済体系=社会主義説はいいでしょう。
しかし、それだけなら仮説内で無矛盾で有ると言う事に過ぎない。
それが合理的かどうかは別です。
合理化とは、より良き仮説を採用していく「過程」です。
53critical rationalist:03/12/29 20:44 ID:XFD6gSm4

「良き仮説」かどうかの判定はどうするのでしょうか。
「仮説自体は正当化されない」のですから、無矛盾である事は何の保障にもならない。
となれば、現実と照らし合わせて、仮説を「テスト」する事が必要です。
批判的合理主義、そして現代自由主義社会のドグマです。
「我々は誤る権利を有する。そして判定される義務を有する。」
判定された結果、より良き社会を齎したイデオロギーが良きイデオロギーであり
その良きイデオロギーを採用する事が「合理的」なのです。
無矛盾=合理的ではありません。

居士氏に書いた事をもう一回書いたほうが良い様ですね。
近代合理主義は、他の現存する宗教、イデオロギー内に包括されるような代物ではない。
一イデオロギーに過ぎない社会主義もまた近代合理主義を超越する事はできないのです。

ここまでいけば、民主制について語っておいた方が良いでしょう。
民主制の本質とはとはポパーによれば、「自同性」ではなく
「独裁の否定」であり、具体的には「失政からの回復」となります。
「否定されない政体」は多数統治、少数統治に拘わらず「独裁」なのです。

現実は何らかの形で変化(「進歩」では無い事に注意)します。
その変化する状況に応じて、「よきものを継続させ、悪しき物を改める」事を可能にする統治体系が
「民主制」です。

54critical rationalist:03/12/29 20:45 ID:XFD6gSm4
人権はその独裁を否定する為の「手段」です。
人権は国家が保障するものであり、神が与えたものではない。
これが超越主義を放棄し近代合理主義に立つ人権解釈です。
人権の乱用により悪しき社会となるならばこれを制限する。(累進課税、公共の福祉、犯罪者の人権制限)

近代合理主義は
自然(現実)に人間の論理(仮説)を押し付けそれがテストされる事によって
より合理的になりうるのです。
物理学、生物学、ありとあらゆる学問でも同じです。
テストされない論理などトンデモでしかない。

それを政治、経済に於いても行いうる体系こそが近代合理主義の表象体系です。
近代合理主義に則る経済とは、常に変化し、現実に富を齎す経済でなければならない。
変化する社会を肯定する経済とはどんな経済ですか。
変化すれば富は移動しませんか?富の移動する経済は?
この富の移動の為に「貨幣」が必要なのです。

共産主義、アナーキズムが実現した社会と言うのは動かない社会ではないのですか。
そんな経済(そして現実の社会主義)が現実に良き社会を齎したかどうか考えてみればよいでしょう。
良き社会を齎さない経済は悪しき経済である。
その様な経済を採用する事は「不合理」である。

Hayekの隷従への道には、社会主義は「現実」に如何に不合理か書いてあるのです。
決して論理矛盾が有るか無いか「だけ」では無いのです。

故に現代自由主義社会は共産主義も帝国主義も古典的資本主義も無政府主義も採用していません。
自由主義社会国家には立憲君主制国家さえある。何故か。
「修正資本主義」と社会主義者は罵ったが「修正」していく事こそが「近代合理」的なのです。
55唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/29 20:53 ID:6X4wh0us
>>40 スカーフ着用禁止に数千人が抗議デモ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031222-00000637-reu-int
この辺の政策は、近代合理主義の発露と言っていいのだろうか?

>>41 日本文化、神道と言っていいと思いますが、お盆、正月という物があります。
この前に親しい間柄の人間(親意を相手に示す為という物もある)に贈る贈答品を
お歳暮、お中元といいます。
この贈る風習は、昭和三十年代にデパートが企画した事が発端です。かつては日本の
各「ムラ」において、「ハレ」の日に食べ物を持ち寄り共に食す風習をお中元、お歳暮
としてきた。お盆、正月とは、地域により誤差はありますが、迎え火(ぼんぼりなど)を
焚いたりして、「カミ」(祖先)を家に向い入れてもてなす行事である訳です。
狙いとしては集まる事で一族の結束を高めるといった所だろうか、これには出雲の神在月にも
類似性が見られる。即ち集まり談話するという事に目的が在り、今の日本人を見てもそういう
習性がある。例えば、北朝鮮問題における六ヶ国協議には参加できなかった事で批判が挙がる。
日本国家の本来の目的としては、拉致被害者奪還と安全保障。如何なる形であれこれが実現す
れば良かったのであるが、マスコミの批判は席に着けなかった事に終始して、北と談合を持て
なかった事そのものが批判の対象。これは左右一貫していると思う。
56唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/29 21:00 ID:6X4wh0us
>>41 ただその結論が難しい、一つ言えるのは支社を持つ様々な会社による営業会議。
ただ集まる事を目的として其処で会社内の相互理解を深めようとしている。
どっちが真実かは結論が付けづらい・・・。

一つの例として、うちの親父は営業会議(談合の場)は否定派だが、「話せば分る」を
モットーにしていて「共約可能性」主義者と言えますわ。
57唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/29 21:06 ID:6X4wh0us
>>42 それはどうかと思う。英語にキリスト「教」を言い表す言葉が無い。
と言えば語弊があるが、他の宗教とは明らかに一線を画していてChristianityが
用いられる。即ち、風習や自然法的扱いといった所か。であるから、キリスト教
圏の人間のごく自然に発する言葉にはキリスト教のエトスがあり本人も自覚の無い
まま発している可能性がある。なお、民主制に不可欠の近代法には、キリスト教的
価値観は随所に見られる。日本国憲法の教育の「義務」など。
58唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/29 21:23 ID:6X4wh0us
>>43 そう、僕の前提は「合理主義は宗教間を超えたものではなく、その内部で
留まるものに過ぎない」であります。

>完全には近代合理主義がキリスト教を駆逐した訳ではない。
推測で物を言いますが、キリスト教社会においてその倫理に反しないからこそ、近代
合理主義が定着したと考えています。合理の先がThe Godであれば受け容れられる。

>キリスト教=近代合理主義と指摘しているに過ぎないのではないか。
社会的エトスがあって其処に立する人間からは当然そのエトスの支配下にある。大きいか
小さいかは別であるが。マルクスもその理論の下敷きには、旧約の支配下にあるというは
よく言われる。であるからこそ、彼は自ら否定しながらもユダヤ人である訳である。
59critical rationalist:03/12/29 21:27 ID:XFD6gSm4
>55
自己レスから引用
>これに対して、居士氏は内部に留まる原因を現出した政治、歴史に求めている。
>しかし、今迄西欧の政治、歴史でキリスト教のドグマが完全に影響しなかった事があろうか。
>完全には近代合理主義がキリスト教を駆逐した訳ではない。
>即ち、政教不分離な状態で行われた状態を指して、
>キリスト教=近代合理主義と指摘しているに過ぎないのではないか。

居士氏との話はイデオロギーの本質ではなく
他の事象の影響を多分に受けたものを恣意的に引用しているようにしか思われない。

居士氏のイデオロギー論はあまり明示されないままではないだろうか。
空にしてもそう。その形而上学的定義が全く無い。
それでは、直接民主制のスレの如く、互いに都合にいいところを引っ張ってくるだけに終始する。
形而上学的な定義立ての上に、それぞれを比較しなければ「純粋なイデオロギーの比較」足りえない。

>キリスト教圏の人間のごく自然に発する言葉にはキリスト教のエトスがあり本人も自覚の無いまま発している可能性がある
第一、科学者には仏教徒も無神論者も居ますがな。
量子力学者は東洋思想を好む傾向があるのは良く知られていますがな。
キリスト教のエトスを感じて近代合理主義を採用するなら、
学者、官僚ほど敬虔なクリスチャンで無ければならない。
東洋人やイスラム人の科学者は居ないのですか?幾らでも反証できませんか?

事実をどれだけ重ねようとも「普遍言明」になりえない事を指摘した事こそ
20世紀初頭に「批判的合理主義」が「帰納法」「実証時合理主義」を崩壊させたのです。

社会学では統計処理を施されなければ、その様な多種多様な要因から傾向を見出す事は出来ない。
単一の事象を幾ら取り上げても「普遍言明」を抽出する事は出来ない。
ただ単に恣意的な事象を引用しているに過ぎないのではないのでしょうか。
居士氏の指摘はconfounding factorはどのように除外された上での指摘なのでしょうか。
60唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/29 21:37 ID:6X4wh0us
僕は東洋思想の権化なので、西洋の思想史は全く無知であります。其処で西洋を
語る時はキリスト教を用いて語る事しばしばであり、非常にこのスレで無知蒙昧な
レスを揮っている様に感じます。改めて、ヘレニズムなどを勉強したいと思っている
所存です。
ポパーの批判的合理主義について分り易いHPなどあれば、リンクを貼って頂きたい。
あと、何故それが採用する物が「近代科学」「民主主義」「資本主義」であるのか、
その説明を欲します。何となしに3つ全てが結論が出ない仕組みであり、時代が移り行くに
従って刷新されていくやり方であるという所の様な気がしています。真理を追求するが
これらの答えが出ないという有様はThe Godの存在を容認していると思いますよ。前提と
してThe Godを真理において此処を目指す。しかし須らくの人間は此処に辿り着けないと
すればキリスト教の倫理に反しないだろう。

不躾ですが、採用理由の方、よろしくお願いします。
61critical rationalist:03/12/29 22:15 ID:XFD6gSm4
>60
その三つを採用する理由については
>52以降にに書いてあります。ご不明な点があればどうぞ御指摘を。

>何となしに3つ全てが結論が出ない仕組みであり、時代が移り行くに
>従って刷新されていくやり方であるという所の様な気がしています。
概ね合っているのではないですか。
結論が出ないではなく暫定的な仮説の体系と言うのが正解でしょう。
結論を出さないのではなく「全ての論理を真理と正当化することは出来ない」のですから。

>The Godの存在を容認していると思いますよ。前提としてThe Godを真理において此処を目指す。
人間には「物自体」を認識する事は出来ない。
これはカントの純粋理性批判の最初のテーゼですよ。
居士氏の理論で容認されるのは、アッラーであれ、ヤーウェであれ、仏陀であれ、エホバであれ
永遠の現在と「真理」のはずです。キリスト教の神などと限定しない。

形而上学的世界をもって内部に留まると主張されるのであれば、それは否定しません。
それほど当たり前な事は無いでしょう。何故なら形而「上」なのですから。
もはや、言葉遊びの世界でしかないと思いますが……。

しかし、形而下(人間が存在する「現実世界」)に於いてはそれらのイデオロギーを超克するのです。
人間は形而下に存在しているのです。
そして、「人間にとっての」互いのイデオロギーが超克しうるかどうかは「形而下」の事象の筈です。
イデオロギー間の融和は形而下の事象です。

寧ろ私は居士氏の東洋思想の真髄こそを知りたいのです。
スッパニーダ、ダンマパダや四書五経、武芸七書や老子荘子などは読みましたが
体系だった知識など有りませんから。
62唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/29 22:17 ID:6X4wh0us
>>59 いやーお恥ずかしいー、あちらを見られていたとは・・・
僕個人が「空」を採用したのは、経験主義といえばいいか、自己に根ざすあらゆる
知識、経験から「空」の一言はあらゆる事象を片付けられると言った所です。
恐らく、僕の親父も自覚のない仏教者であり、そこからの影響が濃い為知らぬ間に
強く影響を及ぼされていてそれに共鳴したのだろうと思っているべ。つまり僕個人は
自覚を持ったからこそ仏教者を名乗る訳であり、それが至って無為自然な行為かと
思っているべ。あと、「空」の自らの形而上学的定義の紹介というのが非常に難しい・・・
言葉でも文章でも言い表されない部分です。
ただ誤解して欲しくないのは、仏法においてこの世を統べるといった欲は全く無い(w

で、日本で政治に採用すべしと自論を唱えているのが「談合」や「ムラ」、「和」といった
概念です。自らの信仰とは別の所であり、欲する者に欲する者を与えれば水を得た魚が如く
日本人は泳ぎ回ると思っている。資本主義にしても、マチ先生が指摘する所の資本の流用と
いう観念で言えば、日本人で言えば「ムラ」社会に根ざした価値観においては、借金を悪と
する、逆に商人的発想をする者は是としていたり価値の混沌が見られる。是か非かは置いて
おいて、この点で導入初期、役人主導で銀行をおったてたのは正しい判断であるし、近代化を
採用した究極の目的「富国による帝国主義社会への対抗」という事は達成できた。
しかし、その後は世間の倫理とは反しながらも、銀行も資産の運用という資本主義に根ざした
活動を行えれば良かったのであろうが、株の保有=運命共同体と化して「ムラ」社会化し、
現在もそれから抜け出せない、日本総百姓化といえば良いか、この「ムラ」の掟からは資本
主義をよく知っている銀行マンですら逆らえない。
であるので、日本にとって資本主義は合理的でないと感じている次第です。
63critical rationalist:03/12/29 22:35 ID:XFD6gSm4
つーか、物自体を見れないと言うことは
「真理」「神」を認識できねーつー事にほかならんのだなー。

でも、私は神の実在を認識できる、それは神が悟性をも超越した存在だと……。
いいかげんにせいよ、カント。

人間は幾らでも矛盾した事ができるんだなー。

シラク、フランスの件も同様だなー。
自由主義的民主制下においては公共の福祉に反しない限り「自由」であるべきなのだなー。
何故なら、内的規範など極限まで否定するからなー。
スカーフが何の害を齎すのか明示しろって感じだなー。
キリスト教や保守層の支持を得る為にやったのかなー。
そんなの近代合理でもなんでもないなー。唯の利己主義だなー。
あんなもんを指して、合理主義の発露とか言われても知らんって感じだなー。
そんな事いってると、維新前の尊王攘夷運動の殺し合いも
戦前の国家神道も神道の発露とか言っちゃうんだなー。

何度も言うが、そんなの恣意的行為だなー。最初から言ってるなー。

合理主義はイデオロギー内の留まるなら、合理主義的行為はイデオロギーの発露足りえないなー。
その時点で近代合理主義=キリスト教のエトスの発露と言うのは無理があるなー。

そのドグマ内に留まるならイスラム科学やキリスト科学、神道科学を明示すべきだと思うなー。
当然、各科学間で成立する法則は違わなければならないなー。
64唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/29 22:43 ID:6X4wh0us
>居士氏の理論で容認されるのは、アッラーであれ、ヤーウェであれ、仏陀であれ、エホバであれ
>永遠の現在と「真理」のはずです。キリスト教の神などと限定しない。
これは訂正させて戴く。

アッラー→その通り
ヤハウェ→ほぼその通り
The God→やや違う
仏陀→ぜんぜん違う
だから採用している(w 仏陀というのはダンパマダを奉じる小乗においては人間であり、大乗の
殆どでは神格化された面は否めない。が、法華経のいう通り諸行無常という自然の摂理において仏法も
1000年立てば末法となり仏法をもその蚊帳の外には置いていない。つまり釈尊の教えは時を経るごとに
日本の如く歪められたり、インドの様に塵と化したりする(w 仏法は仏法を以ってその
理論の確かさを証明している(w
そして仏法の真理とは「空」であり、何も無い。何も無い事が「空」であり真理であるとしている。
65唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/29 22:45 ID:6X4wh0us
>>63 色即是空。空即是色。
66critical rationalist:03/12/29 22:49 ID:XFD6gSm4
>大乗の 殆どでは神格化された面は否めない
居士氏の指摘を借りれば、それもまた仏教のエトスの発露と言う事になるのだなー。

>仏法は仏法を以ってその理論の確かさを証明している(w
その証明こそが知りたいのだなー。
もし、それが可能ならば、批判的合理主義は崩壊するのだからなー。
何度も言うようだが、その証明もまた摂理に於いては変化しないといけないなー。
でも、証明可能な仏法が「不変」ということになるなー。
変化するならそれは証明足りえないなー。
67唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/29 22:59 ID:6X4wh0us
そのカントの指摘は一神教というかキリスト教を理解していると思う。
我々のあらゆる意識、五感を超えた所にThe Godが居るとするのが一神教ですから。
我々人間からは神の意志へは関与する事が出来ない、想像出来ない存在です。
我々から見たら無神論にかなり近いと思う。

そのニュースに対する僕の感想を一つ。
外的行動を差し控えさす事により、宗教的差異を学校で感じさせない事があると思った。
特にフランスでは多民族化しながらも宗教による社会的差別が根強いでしょう。
今の日本の学校での制服着用による均一化、むしろ社会主義的ですが、外的発露を
差し控える事により表立った宗教観の対立を回避しようと考えたのでは無いか。
その事が合理的であると判断したのではないかという仮説を持ったんですわ(w
68唯法院釈奇知碍蓮華居士:03/12/29 23:14 ID:6X4wh0us
>>66 どうかにゃ? 各地域に伝播された仏教はそのエトスに従うと見ている。
例えば、日本の究極の先が真宗でしょう。確かに親鸞は仏法の理解者で
あり、エトスも見られる。恐らく親鸞は信仰において何もするなと説いたのでは
なかろうか。しかしながら布教が思う様にいかず、方便を用いたのであろう、ただ
ひたすら「南無阿弥陀仏」と。これは日本人にとって受け容れやすかった、「言霊」を
唱える事により阿弥陀仏の救済を約束されるのですから。

仏法が変わるからこそ証明となり不変の真理となる(w
不変の真理が無い事が不変の「空」であり自分で書いていても
よく分らなくなってくる(w 
69まいっちんぐマチ先生:03/12/30 02:25 ID:A8kM16ia
>>52-54
批判的合理主義が、反証によって、その対象を「より良き」
ものにしていくとゆープロセスそのものに至上の価値をおい
てることは理解してます。
が、「よい良き」とゆーからには、あるべき理想とゆーか目
的があることが含意されている。
「合理的活動にはなんらかの目的がなければならない」とゆー
のは当のポパーの言です。
自然科学にしろ社会科学にしろ、かならず「目的」はありま
す。それをもたない、たんに変化しうる、いいかえれば不安
定なだけの理論は、反証する価値もないしそもそも反証可能
性さえ期待できません。
ただ「目的」が変化することはありえますが。

で、おれの目的は、基本的人権がかぎりなく尊重される社会
の実現なわけです。
人権を抑圧するから独裁は忌避され、人権を擁護するために
(必要なら)国家をつくり、人権が侵害されないために人権
を制限するのです。>>54

> 共産主義、アナーキズムが実現した社会と言うのは動かない社会ではないのですか。

おれにとってアナキズムの実現とは、上の目的の実現ですか
ら動く必要はないです。
しかしそれ(アナキズム)は、実現不可能です。てゆーかか
たちさえハッキリしていません。それに批判的にちかづいて
いくプロセスをアナキズムといってもよいかもしれませんね。
70critical rationalist:03/12/30 13:31 ID:HO/6Uvy5
>、「よい良き」とゆーからには、あるべき理想とゆーか目的があることが含意されている。
論点がずれていくような気がします。
あくまで、近代合理主義の表象体系が「科学」「民主制」「資本主義」である。
と言うのに対して、まち先生は
「資本主義」は合理主義の表象体系として不適であり、「社会主義」の方が合理的と主張されているので
それに対して、何故、資本主義が近代合理主義の表象体系か説明したのです。

>69の話では
近代合理主義の表象体系か否かではなく
近代合理主義の目的といい、近代合理主義自体が何か超越主義を採用しているかのように見えます。
その超越主義としてのアナーキズムを主張しているに過ぎない。
それは近代合理主義の表象体系ではなく、Popperが批判したユートピア社会工学です。

ポパー自体は合理主義は最小限度の信仰と主張しましたが
その弟子達によってその主張は厳しく批判されています。
現代哲学でも批判的合理主義が最小限度の信仰を含んでいるか否かの結論は出ていません。


>不安定なだけの理論は、反証する価値もないしそもそも反証可能性さえ期待できません。
これはアナーキズムにこそ該当し、資本主義には該当しませんね。
何故なら、資本主義は今「現実」に行われている政治そのものだからです。
今行われている経済体系は何ですか?
それに対して、アナーキズムはまち先生自体が書かれたように「実現不可能」なのです。
実現不可能な論理こそ反証不可能であり、現実に行われている政治は反証可能なものです。

物理、生物学、化学も同じです。
目的は「人間にとって使いやすい、役に立つ」事を発見し作り出す事です。
そこに、各法則自体が相克していく事を否定しません。
しかし、現実に背馳するイデオロギー、トンデモ理論は厳しく批判されるべきです。
そこには政治、経済、科学の差異は無い。
71critical rationalist:03/12/30 17:24 ID:2ipWbSEX
居士氏の文章を抽出するなー。
>政治と民衆を切り離して宗教を語る事に無理があるだろう。
その後に統治者がその信者である場合、その宗教のエトスだ政治に反映されると言うことだなー。

しかし下方では
>各地域に伝播された仏教はそのエトスに従うと見ている。
>仏法においてこの世を統べるといった欲は全く無い。
これらの文章が指し示すものは「仏教が伝播した地域での政治には仏教は関係ない」

「仏教だけは特別だから、他と同じ基準は許さない」と言ってるんだなー。
凄い恣意的だとしか言いようがないなー。

じゃあ、仏教が特別は他とは異なると言うためには、
私みたいにその形而上学的義付けをなさねば無理だなー。
しかし、一方で、形而上学的定義づけはなされていないなー。
一方、上記の如く、現実にそういった論拠を持つことも出来ないなー。
その前にも、居士氏自身がエトスの発露に現実、外部規範はないと書いてるからなー。

そんなの根拠はないけど仏教は特別だっていってるようなものだなー。

そもそも議論でも会話でもねーな。
72critical rationalist:03/12/30 17:32 ID:2ipWbSEX
悪意の文章を書くなー。

仏教はその地域のエトスに従うと言うことは
仏教自体が各地域の宗教、イデオロギーの内部にとどまるものでしかない。
と言ってるんだなー。

それは何を意味するかと言えば、
各地域の宗教、イデオロギーはその仏教のエトスを組み込んだ上位概念のほかならず、
彼らのエトスを民衆に理解させるために「仏教」という方便を用いれたから、
と言うことだなー。

寧ろ仏教、仏法、空自体が方便に過ぎないと居士氏は主張しているんだなー。

中国仏教、日本仏教、小乗仏教があり、それぞれは異なるなー。
即ち、仏教のエトスが他の概念の内部に組み込まれるものだからであり、
下位概念に過ぎないからだなー。

日本には日本の合理があると主張しているが、日本科学なんてものもないなー。
73まいっちんぐマチ先生:03/12/31 03:21 ID:9Xt+u3z5
>>70
> あくまで、近代合理主義の表象体系が「科学」「民主制」「資本主義」である。

そもそも、「近代合理主義(=批判的合理主義としていーです
か?)」が、表象をもつってのがヘンだとおもいます。(近代)合
理主義って、あくまで方法論でしょう?
「表象」をもつ(つかもたざるをえない)のは形而上のなにかで
しょう。ちと通俗的ですが般若心経の「五蘊皆空 」の「五蘊」が表
象で、「空」が形而上の思想なよーに。

> 「資本主義」は合理主義の表象体系として不適であり、「社会主義」の方が合理的と主張されているので

釈迦に説法かもしれせんが「合理主義」(とゆー日本語)をみなお
してみてください。

 合理=合目的的+論理的

おれが社会主義が合理的だとゆーのは、「人権」に対して上式を満
足するとかんがえるゆえです。

> 何故なら、資本主義は今「現実」に行われている政治そのものだからです。
> 今行われている経済体系は何ですか?

「「現実」に行われている政治そのもの」?カントですか?

> それに対して、アナーキズムはまち先生自体が書かれたように「実現不可能」なのです。
> 実現不可能な論理こそ反証不可能であり、現実に行われている政治は反証可能なものです。

あなた、本気ですか?それで "critical rationalist" を名乗って
はずかしくありませんか?現実は、「現実」でしかなく、資本主義
でもアナキズムでもありませんよ。
すこし冷静になりましょう。
74critical rationalist:04/01/02 20:25 ID:2z8wWDC6
後段についてはご指摘のとおり。私の誤りです。恥じます。
ご指摘のように、全てのイデオロギー自体は反証不可能であり、
引き出された単純言明でしか、判定する事は出来ない。
(加えて単純に「反証=単純言明の誤り」ではない)

>「合理=合目的的+論理的」
キリスト教下統治であっても
「神の教えを守る」という「目的」があり、それを論理的に構成した「政教一致」が存在するのです。
全ての統治論理が「ある目的」(ex自由、平等、秩序、伝統、神性)に基づき構成される。
統治体系、経済体系はドグマに基づき論理的に演繹される。
何度も言うように、ドグマに対して「論理的」な事は決して「合理的」ではない。

では、近代合理主義のテーゼは無いのか、答えは「否」です。
それは「価値自由」と言う事です。
価値とは価値観によって規定され、価値観こそがイデオロギーに他ならない。
思想の自由は基本権に属します。そして、上記の如く各種思想=各種価値観に他ならないのです。
「各種価値観」=「数多のイデオロギー」及び「それを支持する人間」に他なりません。
「数多のイデオロギー」の保障から「思想、信条の自由」が
「それを支持する人間」の保障から「生存権」が導き出されるのです。
いずれも自然権に含まれないのでしょうか。まち先生の人権とは何を指しているのでしょうか。
上記を否定して、何の人権を保障するつもりなのでしょうか。
人権自体が近代合理主義を実現する為に国家が保障する手段に過ぎない。

合理的とは何度も言うようにそれら幾多の価値観(近代合理主義すらも含めた、例外なき)の中から
より良きものを選択していく過程であり、それを保障するという事です。
75critical rationalist:04/01/02 20:26 ID:2z8wWDC6
トライアルアンドエラーが働かない以上、それは独裁なのです。前に書いたはずです。
独裁の本質とは「多数」「少数」統治とは無関係に「否定されない政体」だと。
無政府であっても同じです。

人権→社会主義をスレ違いと判断し無矛盾としましたが、実際には無矛盾ではない。
>富の無制限な所有こそが資本主義の本質でしょう。
>決して平等でも自然でもないとおもいますよ
上記の内容はマルクス経済学の「窮乏化」と何が違うのでしょう。
ハイエクによれば、窮乏化自体が神話に過ぎず、実際には資本主義下において
>産業革命によって、労働者の賃金、健康状態、生活水準は著しく向上したのであり、没落していったのは、
>むしろこの新しい生産様式の恩恵を一番受けなかった、家事使用人や農業労働者たちであった(1)。
>さらには「自由競争は必然的に独占資本の形成をもたらし、その独占資本が市場を意のままに操るようになる」
>という考え方も一種の神話である。事実はここでも逆であって、
>ほとんどの独占企業はむしろ国家の保護がなければ生き残れないのである。
ポパーも「ヒストリシズムとその貧困」にて「窮乏化は帰結しない。」としています。
但し、ポパー自身は経済学者ではない為、ハイエクの方が正確でしょうが。

そもそも、居士氏との対話の焦点は上記に他なりません。
他のイデオロギーの許容、融和を齎す為には「形而上学」を取り扱う論理で無ければなりません。
無論、その論理であっても所詮イデオロギーでしかない。
近代合理主義が他のイデオロギーとの対話を可能と判断するのは
「全ての政治思想、イデオロギー」を反証不可能な論理として、
現実の問題に対して「解決手段」として
暫進的な社会工学として「現実」のテストを可能なものにした上で選択するからです。
他のイデオロギーを方便ではなく、全ての政治思想は「反証不可能な体系」に他ならないとした上で
適者選択を行うのです。全てのイデオロギー自体に価値が無いとはしない。
そして、人間を強制的に矯正することなく、より良き社会へと目指す過程に他ならない。
76唯法院釈奇知碍蓮華居士:04/01/03 20:52 ID:s9ZYjlKq
べるとらん・賀正

>>71>仏法においてこの世を統べるといった欲は全く無い。
この辺は誤解ですよ、一仏教者として仏法を世界の法にする気は無い、もっと
言えば仏法を用いて世界を統べる欲望を持つ輩は断固として糾すという自らの
信念ですが。>>62の上記=私の宗旨 を書いていて、下記=日本の法 と自らの
形而上の事と自らの属する社会に関する事を切り離して書いております。
77唯法院釈奇知碍蓮華居士:04/01/03 21:09 ID:s9ZYjlKq
>各地域に伝播された仏教はそのエトスに従うと見ている。
この辺の論拠は先に示した浄土真宗の実体とインドで滅した仏法の話で理解して
戴けると思いますが。

そもそも自己にとって特別からであるからこそそれが信仰となるのであると思う。
一つ、仏法とは反社会的宗教であり、社会的規範としては導入は不可能であると
思っている。そして、廃仏毀釈運動でさえも当時の情勢において止むを得ない、
当然の処置であるなと解していますが。
78critical rationalist:04/01/03 22:48 ID:XEk0iVJm
居士氏への反論として全ての世界宗教のエトスは一神教、空、礼ではなく「合理化」である。
と、提示してみましょう。
何故なら、全ての世界宗教は先行する宗教による抑圧に対する改革から生じている。
キリスト教ならばユダヤ教の戒律が齎す社会の不合理から
イスラムでもゾロアスター教を国境とするペルシア帝国の抑圧に対して、
仏教もバラモン教が齎す階層社会とその抑圧への改革から始まっている。
即ち、世界宗教は、先行する支配的なイデオロギーが齎す「不合理」に対して、抵抗する為に生じ
大衆に受け入れられた「エトス=合理」に他ならない。

「空」「一神教」という事自体が方便に過ぎないと言う事です。
合理化へのツールとして社会情勢に併せてそれぞれ誕生し、受け入れられたに過ぎない。

居士氏の親鸞の例を借りれば、
釈尊は合理化を主張したかったが、社会情勢からやむを得ず仏教を創始せざるを得なかったと言う事です。
そのため、空等を用いざるを得なかった。
仏教自体が方便に過ぎず、目的、大衆に採用された「エトス」は「合理」以外に他ならない。

居士氏の「方便」とは「合理化への手段」をと言う事であり、
合理主義への反発どころか居士氏は積極的な合理主義信奉者ではないのでしょうか。
79critical rationalist:04/01/03 22:49 ID:XEk0iVJm
後書いておきますが、全ての宗教は反社会的な面を有しています。
何故なら、キリスト教でも異端者は地獄に落ち、信者のみが神の国へと入る。
財産を否定し(マタイの福音書19,16-30金持ちの青年)
「私が来たのは地上に平和を齎す為だと思ってはならない。平和ではなく剣を齎す為に来たのだ。」
「私よりも、父や母を愛するものは私には相応しくない。」
(マタイの福音書10,34-39平和ではなく剣を)
家族、氏族制度の否定であり、仏教と何ら変わらない。
寧ろ初期仏教は家族制を否定するバラモンより戒律は緩く、肯定的です。
イスラムでのジハードを肯定し、神の国での幸福な来世を肯定する。
これらにより、現実世界の過酷な抑圧、戦争を肯定する。

廃仏運動を例示されているが、隋、宋、唐では積極的に保護されており、
日本では国分寺運動で積極的に採用されている。
これらは仏教が社会的である事の証左ではないのでしょうか。
キリスト教はローマ帝国で国教化する前は弾圧されています。
キリスト自身は何故処刑されたのでしょうか。
何故なら、キリスト教が反社会的だからではないですか。
幾らでも反証は存在します。幾らでも、言い様が出来ます。
何度も言うようにその様な提示は恣意的であると前から指摘申し上げているとおりです。
80まいっちんぐマチ先生:04/01/04 02:17 ID:j+F7v/qC
>>74
いやいや。>>73は例のごとく酩調子なわけでして、おおげさなあげ
あしとりにすぎませんでした。ひらにご容赦を。

> 何度も言うように、ドグマに対して「論理的」な事は決して「合理的」ではない。

これは多分に用語の問題でしょうが、たんに「合理的」とするな
ら、ドグマに対して合目的的かつ論理的であれば、それはいえると
おもいます。無論宗教の教理に対しても。
しかし、「批判的合理主義」は、その対象に反証可能性をもとめる
ために、宗教は取扱範囲外となる。とゆーことですね。

>まち先生の人権とは何を指しているのでしょうか。
あなたとほぼおなじですね。自由権と社会権(生存権的基本権)で
す。それと参政権も。これら人権を保障するための共同体は必然的
(=合理的)に社会主義的体制をとる。と、おれはかんがえてるわ
けです。結論以外は、あなたとおなじことではありませんか?

> 上記を否定して、何の人権を保障するつもりなのでしょうか。
> 人権自体が近代合理主義を実現する為に国家が保障する手段に過ぎない。

人権に対する誤解があるよーですね。議論がかみあわないのはその
せーかも。
基本的人権(fundamental human rights)=人権(human rights)
=基本権(fundamental rights)は、「人間が人間であることにも
とづいて論理必然的に享有する権利」であり、国家や憲法以前に存
在するもので、すこし具体的には上にあげた諸権利をさします。
81まいっちんぐマチ先生:04/01/04 03:42 ID:j+F7v/qC
>>75
> トライアルアンドエラーが働かない以上、それは独裁なのです。前に書いたはずです。
> 独裁の本質とは「多数」「少数」統治とは無関係に「否定されない政体」だと。
> 無政府であっても同じです。

無政府なら最初から否定されてますが。それとも「政体」の「否
定」とは革命のことですか?

「窮乏化」云々については、労働者(無産者)は産業革命にともな
う「囲い込み」よってあらたにうみだされるとゆーこと。
あと「産業革命」とは単なる技術革新ではなく、エネルギー(石
炭)を投入してそれ以上のエネルギー(石炭)をえるとゆー擬似的
永久機関すなわち「無限」の生産力を人類が手にいれたことだと
ゆーことを指摘するのみにとどめておきましょう。
82まいっちんぐマチ先生:04/01/04 03:42 ID:j+F7v/qC
>>75
> 近代合理主義が他のイデオロギーとの対話を可能と判断するのは
> 「全ての政治思想、イデオロギー」を反証不可能な論理として、

これはちがうでしょう。反証不可能なら、そこには「批判的」合理
主義が介在する余地はないはずです。
ポパーの「反証可能性」には2つの意味があります。論理的なそれ
と、実際的なそれです。

たとえば(おれの)社会主義。これは完全に反証可能です。その政
策が、人権とゆー前提から論理的に導出されるものか?その政策が
実施され、実際に人権の保障につながったか?は検証されうるから。

つぎにイスラーム。これは部分的にのみ反証可能でしょう。論理的
な反証可能性については、クルアーンやスンナ・ハディースがそも
そもわれわれの論理とは違うよーなので、これは不可能です。しか
し実際面では、政策があきらかによきムスリムのさけるべき事態を
ひきおこしていないか?とゆーふーには検証可能な場合もあるで
しょう。

てなふーにいまのところおれはかんがえてます。
83critical rationalist:04/01/04 05:28 ID:amLrEX2A
物理法則での検証可能とは
確かにその法則から導き出された「単純言明」(即ち予想される現象)が検証可能だからです。

政治思想ではその政策からイデオロギーが判定可能ならば
社会主義、私的所有の否定は、社会主義国家でテストされたのではないですか。
社会主義国家はどうなりましたか?
何故、まち先生はそれでも社会主義が人権に合理的であると思うのですか?
どうすれば、社会主義が非合理であると認めますか?

まち先生は多分こういうでしょう。
「あれは本当の社会主義ではない、人権を抑圧しているから」と。
単純言明が否定されても幾らでも反証回避戦略をとる事が出来ます。
何故か。

まち先生の文章はいい文章です。
>人権とゆー前提から論理的に導出されるものか?その政策が
>実施され、実際に人権の保障につながったか?は検証されうるから
人権はどこでテストされていますか?
まち先生がいみじくも書かれたように、「人権」から導出されて、判断基準も「人権」です。
間違っているのは「政策」「国家」「人間(統治者)」で「イデオロギー」自体ではないからです。
イデオロギーの反証不可能とはそういうことです。
幾らでも反証回避戦略をとる事が可能です。
ポパーは「イデオロギーの内部に居る限り、イデオロギーの矛盾を見つける事は出来ない」
と言っています。
84critical rationalist:04/01/04 05:42 ID:amLrEX2A
>政策があきらかによきムスリムのさけるべき事態を
>ひきおこしていないか?とゆーふーには検証可能な場合もあるでしょう。
これを肯定してるんですよ。
>現実の問題に対して「解決手段」として
>暫進的な社会工学として「現実」のテストを可能なものにした上で選択するからです。
ドグマ自体には触れないのです。
85まいっちんぐマチ先生:04/01/04 14:53 ID:j+F7v/qC
>>83
> 物理法則での検証可能とは

ポパーの「反証」は、形式科学では別ですが、自然科学においても
行動科学においても決定的=それをもって体系全部を否定するもの
ではないはずです。とくに行動科学についてはそのことを強く言明
しています。

たしかにソ連においては、人権は抑圧され、経済は停滞し、結果的
に国家が崩壊しました。しかしこれをもって、社会主義が全否定さ
れるわけではない。それらの反証でもって社会主義をよりよきもの
にする。とゆーのがポパーの、特に行動科学における批判的合理主
義でしょう。
この場合、ボルシェビキへの権力集中と計画経済に根本的な問題が
あったとおれはかんがえます。

> ポパーは「イデオロギーの内部に居る限り、イデオロギーの矛盾を見つける事は出来ない」

これは上の例にはあてはまりませんね。この場合ポパーがいってる
のは人権を前提におくことの可否でしょう。

>>84
> >政策があきらかによきムスリムのさけるべき事態を
> >ひきおこしていないか?とゆーふーには検証可能な場合もあるでしょう。
> これを肯定してるんですよ。

なら上の例も肯定できますよね?
86critical rationalist:04/01/04 17:55 ID:7p36jy2Q
反証の意味違いと言う事ですか。
しかし、そもそも、反証は「論理学」的定義です。
厳密普遍言明に対する「反証」が可能であり、「実証」が不可能である。
純粋存在言明に対する「反証」は不可能であり、「実証」は可能である。
行動科学?(何これ)、形式科学で変わりますか?
第一、反証をダブルスタンダードにすると、「科学と非科学の境界設定問題」の意味がなくなってしまいます。
人間全ての行為の科学扱いをポパーはどこでしたのでしょうか?

ではまち先生に聞きましょう
「私的所有の否定」は社会主義にとって単純言明ですか?それとも普遍言明ですか?
社会主義が私的所有を肯定すれば、それは社会主義ではないはずです。
その場合、社会主義の普遍言明とは何ですか?
社会主義は「論理」ではないのですか?

人権はイデオロギー論の「例」にあげましたが、社会主義でも同じなのです。
>85の内容は
「ソ連の社会主義は反証足りえない。
 何故なら「ボルシェビキへの集中」が問題であり、
 完全な「私的所有の否定」はなされていないから」
と主張しているのです。それは反証回避戦略でしょう。
だから、聞いているのです。どうすれば「「社会主義」が「不合理」と認めますか?」と。

まあ、反証の言葉尻の問題で内容は同一であると思いますが。
ただ、ポパーは方法論的「反証」主義は「科学の境界設定問題」に対して
政治、社会問題に対しては「問題解決の社会工学」を提唱したのです。
それらを統括するのが「批判的合理主義」です。
反証=批判的合理主義ではないと思いますよ。
87まいっちんぐマチ先生:04/01/05 01:56 ID:Ku9sqED7
>>86
ここでは、経験性によって、「科学」を3つにおれは分類しています。
 形式科学: 論理学・数学など
 自然科学: 物理学など
 行動科学(人間の行動に関する科学): 経済学など
後者ほど経験的で、逆に反証の決定性は減じていきます。

経験性0の形式科学においては反証は論理のみによってなされ、そ
れはまさに決定的な意味をもちます。数学(プリンキピア=マテマ
ティカの体系)が不完全性定理によって致命的なダメージをうけた
よーに。

自然科学では、論理のほかに観察・実験による反証により、理論が
修正をせまられます。ときには「コペルニクス革命」が生じる場合
もあります。ただし観察・実験とゆー方法にはいくつかの限界があ
ります。
行動科学も同様ですが、自然科学ほどの厳密性(数理経済学は唯一
の例外か?)・再現性はありません。

さて、ポパーは、経験科学(経験的事実をその基礎におく。うえの
例では後二者)における究極的な確実性を否定していますね。と
ゆーことはその反証についても確実性・決定性を否定してるとゆー
ことです。つまり完璧な科学理論もなければ、科学理論そのものを
完璧に否定する反証もない。

じゃあポパーの「反証」とはなにか?ってことになりますが、とり
あえずここまでのおれの理解はよろしーですか?
88まいっちんぐマチ先生:04/01/08 02:09 ID:bce8oJMv
で、ポパーの「反証」ですが、そのまえに・・・

>>86
> 厳密普遍言明に対する「反証」が可能であり、「実証」が不可能
である。
> 純粋存在言明に対する「反証」は不可能であり、「実証」は可能
である。
> 行動科学?(何これ)、形式科学で変わりますか?

形式科学では上の全部が可能になる体系をつくるのは容易でしょ
う。議論領域を限定すればいーんですから。たとえば数学では両者
の区別は無意味です(背理法を想起されたし)。

ポパーの「反証可能性」はやはり、経験科学に対してこそ有用だと
いえるとおもいます。とゆーわけで、以下の「科学」は経験科学の
ことにします。
89まいっちんぐマチ先生:04/01/08 02:10 ID:bce8oJMv
科学の体系は経験的事実と仮説の連言としてあらわせるとおもいま
す。
S:体系 Ex:経験的事実 Hx:仮説 とすると

S=E1 and E2 and E3 and・・・H1 and H2 and H3 and ・・・

体系SからPとゆー結論がえられることがしられていましたが(S→
P)実験でPが否定されてしまいました((S→P)and 〜P)。つまり
体系Sは否定されたのです(〜S)。したがってさきの式の右辺全体
に否定がかかります。

〜(E1 and E2 and E3 and・・・H1 and H2 and H3 and ・・・)

これは論理的には一般にはつぎのよーに変形できます。

〜E1 or 〜E2 or 〜E3 or・・・〜H1 or 〜H2 or 〜H3 or ・・・

つまり経験的事実(とおもわれていたもの)か仮説のいずれか最低
1つ以上がまちがっていたとゆーことです。ここまでできる体系は
「反証可能」な体系(=科学)だとゆーことです。「反証」が「論
理学」的定義とされる所以ですね。
90まいっちんぐマチ先生:04/01/08 02:11 ID:bce8oJMv
対して、たとえば禅をこーゆーふーにとらえること自体がダメなん
でしょーが、たとえとして Z:禅の体系 K:公案の言明 とすると

Z=K1 and K2 and K3 and・・・

このなかからPが結論されました。でもおなじよーにして〜Pも結論
されてしまいました。じゃあさっきのよーに体系Zが否定されるかと
いえば、そんなことはないのです。
K24=「犬には仏性がある」で、K363=「犬には仏性はない」とゆー
端的な矛盾が体系にふくまれているからです。矛盾からはあらゆる
結論が導出されますからね。
非論理的体系である禅は「反証可能」ではなく科学ではないとゆー
ことです。

じゃあ論理的ならかならず「反証可能」かといえばそーでもないん
ですよね。

・・・とまた次回につづくわけですが、釈迦に説法もいーとこの最
近のおれですが、 ギャラリーを意識してるからです。板の性格上あ
る程度の説明はいれなきゃとおもいこんでのです。c.r. さんにはお
れのあやまった理解への指摘をおねがいしたい。なかなか話がすす
まずうっとーしーとは存じますが、よろしければ気長におつきあい
くださいませ。
91まいっちんぐマチ先生:04/01/09 00:33 ID:m0JliICt
>>90
やっぱこのたとえはマズイか・・・

 ∀x(Dx → Bx):犬には仏性がある
 ∀x(Dx → 〜Bx):犬には仏性はない

これは矛盾じゃないね。これらからは

 ∀x(〜Dx)すなわち 〜∃x(Dx):犬は存在しない

て結論がでる。うーむ「本来無一物」だ・・・

でもまぁたとえがわるかっただけで、禅は非論理的つーこと
にはかわりはないんで>>90の主旨はかわんないです(^^;
92まいっちんぐマチ先生:04/01/11 23:14 ID:CtDHQ9io
つづき・・・
>>90
> じゃあ論理的ならかならず「反証可能」かといえばそーでもないん
> ですよね。

「すべての人間の行動は利己主義的で、自己の関心から動機づけられている」
(『批判と挑戦―ポパー哲学の継承と発展にむけて』小河原誠編 p.120)

↑この文は論理的な全称言明で、反証するには、「利他的な行動」
をあげればよろしい。
しかしどんなに自己儀性的な行為であっても、結局は行為者自身が
そーしよーとおもったからなされたわけで、その意味では利己的で
ある。あらゆる心理テストで利己心が否定されたとしても、たんに
本人がきづいてないだけだ。てなふーにいいのがれられてしいます。
そーゆーいいのがれができるよーでは科学的言明とはいえません。

批判的合理主義の取扱対象として、論理的であることは、必要条件
だけど十分条件ではないってことですね。
93まいっちんぐマチ先生:04/01/12 02:49 ID:6ABw/ENa
すこしはなしをもどします。

>>89において、体系Sが否定されて

〜E1 or 〜E2 or 〜E3 or・・・〜H1 or 〜H2 or 〜H3 or ・・・

とゆー結論がでましたが、幸運と努力によって、仮説H2を修正すれ
ば矛盾がさけられることが発見されました。

S’=E1 and E2 and E3 and・・・H1 and H2’ and H3 and ・・・

つまり体系Sは反証により修正されてよりよい体系S’になったわけ
です。
これは科学の一般的な方法ですね。反証は、それで体系を葬りさる
ものではなく。よりよいものにうまれかわる契機となるわけです。
コペルニクス革命とは、修正すべき仮説が、その体系の主要部分
だったときにそーいわれるにすぎない。
ニュートン力学は過去の体系で、量子力学がまだ現役だとゆーのは
そーゆーことでしょう。
94まいっちんぐマチ先生:04/01/12 02:51 ID:6ABw/ENa
よーやくお膳だてがととのってきました(w

>>86
>だから、聞いているのです。どうすれば「「社会主義」が「不合理」と認めますか?」と。

ソ連の「社会主義」は否定されましたから、こーなりますね。

〜私的所有の否定 or 〜ボルシェビキへの権力集中 or 〜計画経済 or・・・

おれは、さしあたっての理由としてボルシェビキへの権力集中と計
画経済をあげましたが、まだ修正すべき部分があるかもしれない。
それらをふくめてすべて修正してもなおダメなら私的所有を肯定す
るしかありませんね。

>社会主義が私的所有を肯定すれば、それは社会主義ではないはずです。

おっしゃるとーりそのときこそ社会主義が不合理というべきです。
が、それだけではありません。もーひとつの道すじがあります。
95まいっちんぐマチ先生:04/01/14 20:45 ID:FL9a8Z35
つづき(w

さて、なんでおれが社会主義を支持しているのかといえば、
おれの信じる人権思想からの論理的必然だとかんがえるから
です。正確には、人権思想の帰結たるラジカルな民主制にお
ける経済体制は社会主義的たらざるをえない。と。

 人権思想├ 民主制
 民主制 → 社会主義

で、社会主義は>>94で例をあげたよーに複数の部分の連言と
してあらわせますが、生産手段の私有の禁止の部分こそが、
社会主義の社会主義たる所以です。
そこでもし、私有の禁止の論理的帰結として人権侵害がもた
らされるなら(下の証明の!がつく部分)、その反証によっ
てただちに私有の禁止ひいては社会主義は否定されなければ
ならない。

 社会主義 ≡ 私有の禁止 and その他の部分
 私有の禁止 → 〜人権思想 !
 〜私有の禁止 !
 〜社会主義 !

したがって(民主制 → 社会主義)が偽であるかあるいは
(人権思想├ 民主制)が偽であるかのどちらかにならざるを
えません。人権思想は無謬ですからね。まぁ前者とかんがえ
るのが無難でしょう。

ただしひとつ問題があります。 (まだつづく・・・)
96まいっちんぐマチ先生:04/01/18 02:49 ID:+Us9uYqZ
>>95のよーに、人権思想を前提におく場合、その反証は人権思想の
否定=人権侵害になります。
ではどーいったときに人権侵害とみなしうるか?。これははっきり
いって自明とはいえません。あえて問われれば、裁判所が判断する
とこたえますが、司法の権限もとーぜん人権思想に由来するので、
靴ひもをひっぱって自分をもちあげてるといわざるをえません。
すべては「人権思想」とゆー前提が不明瞭だからです。この点につ
いて反証不可能性を指摘されれば、容易には反論しがたい。
ただしこれは、「自由」についてもよりあてはまることです。て
ゆーか人権思想の中核は自由権ですしね。
97まいっちんぐマチ先生:04/01/18 03:12 ID:+Us9uYqZ
>>86
> ただ、ポパーは方法論的「反証」主義は「科学の境界設定問題」に対して
> 政治、社会問題に対しては「問題解決の社会工学」を提唱したのです。
> それらを統括するのが「批判的合理主義」です。

いわゆるピースミール(つぎはぎ)社会工学ですね。これは>>89,93
での体系Sから体系S’への移行を社会体制の改革にあてはめたもの
といえます。ユートピアを設定していきなりそーゆー社会体制にし
てしまう「革命」は、混乱とおおくの場合流血をもたらすからとら
ず、既存の体制を漸進的にトライ&エラーによって改革していこ
うってことですね。
おれは、ポパーの批判的合理主義はすなわち反証可能性の理論だと
理解してます。だから、彼の政治哲学には、みずからの批判的合理
主義からの飛躍がありおおくは支持できません。うえのピースミー
ル社会工学も、これはまぁ理解できるんですが、混乱と流血の回
避っつー別の価値規範がはいってきてますしね。
98critical rationalist:04/01/18 15:18 ID:gkKe2/bA
>まち先生
長文お疲れ様です。
しかし、結局まち先生の結論は
全ての政治思想が反証不可能と言う事を認めると言う事ですよ。
>82でのそれは違うとの書き込みからずれていませんか。
政治思想自体は反証不可能であるという事を
まち先生が認めたと言う事でしょうか。

>ユートピアを設定していきなりそーゆー社会体制にし
>てしまう「革命」は、混乱とおおくの場合流血をもたらすからとら
>ず、既存の体制を漸進的にトライ&エラーによって改革していこ
>うってことですね。
いいえ、武力行使をポパーは否定していません。
暴力を用いるナチスに対して共産党が暴力を行使せず抵抗しなかった事に対しても
批判しています。
ユートピアの問題は「政治思想、全てのイデオロギー」の本質的な問題なのです。
「革命」の問題ではありません。

政治思想の問題は「政治思想のドグマが「真理」」と規定されており
故に「現実」社会を「理想」に近づけるべく「矯正」すると言う点につきます。
この「社会」を矯正する時に「「人間」の矯正」が生じるのです。
(これはアナーキズムでも反アナーキズムな人間を抑圧すると言う点で逃れる事は出来ない)

そして批判的合理主義は全ての政治思想が「真理とは正当化できない」が故に
「人間への矯正」を自覚するのです。
政治思想が真理であると規定できれば
「真理を理解できない、適応できない落伍者、反社会的分子は抹殺、抑圧、啓蒙(洗脳)」
を可能にする。
99critical rationalist:04/01/18 15:23 ID:gkKe2/bA
政治思想に反証を用いても幾らでも回避できます。
それは居士氏に散々書いてきた事です。
如何に事実を積み重ねようとも、
仏法の「社会的」「反社会的」や「その地のエトスに従う」「統治者の行為の動機とはなりえない」
とかの証明にはならない。
政治思想、すべてのイデオロギーを「歴史の事実で証明しよう」と言うのは
「正当化」にすぎない。
それは「不可能である」と申し上げているのです。
居士氏はまだ見てられるのでしょうか?
100まいっちんぐマチ先生:04/01/19 00:24 ID:rL03acBd
>>98
> 長文お疲れ様です。

いえ、一気にかくのがしんどかったんで、やすみやすみかいてたら
こんなことになってしまいました。長いわりに内容にとぼしーで
しょ(^^;

> 全ての政治思想が反証不可能と言う事を認めると言う事ですよ。

うーん。だったらポパーの社会工学も砂上の楼閣ってことになりま
すよ。おれがいってきたのは

 絶対者├ 諸言明 (一神教の場合)
 ├ 諸言明 (仏教の場合)

これらと

 真理├ 諸言明 (自然科学の場合)
 価値規範├ 諸言明 (政治哲学の場合)

これらの反証可能性には天と地の差があるってことです。もちろん
政治哲学のそれは自然科学のそれほど明確なものではないけど。価
値規範をとりあえずみとめたうえでなら、反証しうる。とするのが
批判的合理主義を政治哲学に適用するってことでしょう。
101まいっちんぐマチ先生:04/01/19 00:27 ID:rL03acBd
>>98
> いいえ、武力行使をポパーは否定していません。

そのあたりがポパーの「飛躍」だといってるのです。そこには批判
的合理主義もピースミール社会工学もありません。フォークランド
紛争でも湾岸戦争でもバカみたいに好戦的だったポパーからは、共
産主義活動家からの転向者が必死で体制擁護にはげむ姿がみえるだ
けです。

> そして批判的合理主義は全ての政治思想が「真理とは正当化できない」が故に
> 「人間への矯正」を自覚するのです。

それもポパーの言葉ですか?
真理は正当化できないし、真理の具現たるユートピアなんか想定で
きない。しかし真理がないのではなく、真理にむかって批判的にち
かづいていくことはできるし、ちかづいていかねばならない。と
ゆーのが批判的合理主義であって、余分なものはいらないとおもい
ますけど?
102朝まで名無しさん