621 :
白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :
>>612 夫婦別姓の方が日本の伝統じゃけぇ保守政党になっとらんのう。
明治九年、太政官の「婦女人ニ嫁スルモナホ所生ノ氏ヲ可キ事」
と夫婦別姓の習俗は認められておったが、明治三十二年の民法で
「妻ハ婚姻ニ因リ夫ノ家ニ入ル」と規定しただけのこと。
西洋の猿真似で夫婦別姓を排除しただけよ。北条政子や日野富子も
別姓そのものじゃないか。
民主党や左翼が別姓を進めとるけぇ反対だけじゃあ、過去自民党の
やる事は何でも反対の、某現在連立政権に参加しとる左翼政党と
大して違わんのう。
623 :
奇矯屋onぷらっと ◆LV.e123456 :2010/01/11(月) 18:30:14
自民の掲げる保守を信じるのは、新自由主義を隠しているのが分かるのでいかにも芸がないんだよな。
牛氏の言うとおり日本の夫婦別姓は西洋の猿真似。
オレは奴隷商として中国籍の夫婦を2組使っている。
Cさんち(純粋な中国人)男×女(中国人父日本人母・中国籍)と
Fさんち(純粋な中国人)男×女(純粋な日本人・日本国籍)。
こいつら今月末に旧正月で中国に帰るんだけど、あくまで苗字違うだけで
>>622の「毒づく」みたいなことはないって言ってたよ。
特異な家庭をサンプルに挙げてるだけだと思うがね。
日本と西欧が違うのは、日本は家父長制に根ざした家族制度を理想としているため
子供はすべて父の苗字を名乗る(ファミリーネームが連記されない)ところだけ。
家の成り立ちは日本と中国、似たようなもんだと思うよ。韓国やモンゴルはまた別物だけどさ。
いずれにしてもこれで戸籍ロンダリングビジネスが横行すんのは間違いないわな
伝統や慣習に染められやすくまた重視する国民性が望んだものとはとても思えんからな
日本人の誰がわざわざ夫婦別姓を望み、またそれを行使しようと思うものか
日本の民主主義ってが、日本を離れてどんどん遠くなって気がしてしょうがない
大方解同あたりが率先して立案したもんなんだろうと思うが
この国はどこに向かっているのかね
保守(的)というなら民主の方が保守的な気がするんだよなあ。
多少貧しくともみんなで助け合ってというか・・・
自民は、(今後どういう風になるかはしらないが)明治以降の富国強兵思想
というか、西欧に肩を並べる列強になることが原点にあるというか。
なんというか日本は、狩猟民族の思想と農耕民族の思想がせめぎ合っている
みたいな気がする。
戯言だけどなあ。
626 :
奇矯屋onぷらっと ◆LV.e123456 :2010/01/11(月) 20:33:07
日本には民主主義が不向きなんだろな。
「和をもって尊しする」の国だからねえ。
多数決によって少数を切り捨てること、負け組をドライに切り捨てることにも慣れていないわな。
628 :
奇矯屋onぷらっと ◆LV.e123456 :2010/01/11(月) 20:50:41
ムラ社会で負け組をウェットに切り捨てることには長けていた。
かつて「狂人」をそうして隔離して事なきを得ていたものが、そのハードルが徐々に押し下げられ
人権思想の普及と相俟ってそれはもうソドムの一歩前(精神状態的に)。
そうかもねー
なんにも切り捨てられなくなってる・・・切り捨てることに罪悪感を覚える。
または、世間がそれを許さない。
自分もだがなあw
日本人のジレンマというか、「いい人」「空気が読めない人」でないと社会に弾かれるw
2ちゃんねるを見ていると、まさに日本の縮図だと思うわ。
「空気が読める人」 だな。
631 :
奇矯屋onぷらっと ◆LV.e123456 :2010/01/11(月) 21:29:41
オレはかつて三戦随一の「空気が読めない固定」だったけどな。
そうか?w
一番空気を読んでる気もするけどなw
633 :
奇矯屋onぷらっと ◆LV.e123456 :2010/01/11(月) 21:34:47
今は「自分の空気を押し付ける固定」を通り越した隠居ですじゃゲフンゲフン
ぷらっとは戦国板と三戦板じゃ別人みたいにキャラ違うよね
遅くなりましたが、本年も何卒宜しくお願い致します。
636 :
奇矯屋onぷらっと ◆LV.e123456 :2010/01/12(火) 21:52:46
>>634 酔っぱらいにキャラの使い分けなどできん。ましてやオレには絶対無理。
>>635 今年もよろしくお願い申し上げ奉り(ry (表向きコメント)
小沢が逮捕されれば何かが動きそうな気がするのは俺だけか
638 :
白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2010/01/12(火) 23:31:21
これは久々に興味深い話題だな
640 :
奇矯屋onぷらっと ◆LV.e123456 :2010/01/13(水) 21:33:13
>>638 上のリンク
>ラーメンも関東地区発売はカツヲをダシにしたごってり味で、関西地区発売はニボシをダシにしたあっさり味だそうで、
>ポテトチップスも東西で味が違うそうだ。
>この味の分岐線は愛知県蒲郡から岐阜県高山を経て富山市に至る国道【二四八号線と四一号線】だそうである。
食品業が長く、ド地元のオレに言わせりゃふざけんなオイ、と言っておこう。そんな区切りはない。
というのはさておき。
鎌倉の武士団は東北から九州に至るまで分割相続だった(系図的にそういうことになっている)。
その中で同時期にあって北条氏や足利氏などは嫡子相続を形成していったと言える。
牛氏の言う「列島東西の差異」ってのは、時代ごとのトレンドの違いでしかないんじゃないか。
モンゴルは末子相続といっていいくらい年長者が独立していく。
中国と日本は母方を考慮しつつ嫡子を立てる。朝鮮は年長者を立てる・・・というのが仮想イメージ。
江戸時代の白川郷の例を書いておく。
・合掌造りの家で兄弟姉妹は雑魚寝で育つが、家を継ぐのはまず長男に限られる。
・次男以下は婚姻を結ばない。仮に野合で子を成してもすぐに他所に売られてしまう。
・娘も雑魚寝で育つ。通常は他家の嫁に収まるが、余った場合は妾に収まる。
└(庶子・分家という観念がなく、大叔父だろうと従弟だろうとすべて当主の支配下に位置づけられる)
641 :
白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2010/01/13(水) 23:36:30
>>640 愛知、岐阜は東西文化圏の中間じゃしね。じゃけど広島人のわし
からすると東日本は文化的に異民族意識があるよ。食文化でも。
http://waga.nikkei.co.jp/play/kiko.aspx?=MMWAa1004006032009 http://www.yu-cho-f.jp/research/old/pri/reserch/survey/finace/2003/03302-08.pdf 上の方のせんべい 西日本は麦系、東日本は米系?のように、
西日本人は米より麦を好み、東日本人は米好きの傾向にあるん
じゃない。
下の方の主食(2)パン・・・近畿、山陽と、たんぱく質(2)肉類・・・
広島では近畿と同様牛肉を好む。
広島県出身の池田首相が「貧乏人は麦を食え」と誤解されたけど、
わしゃあ米より麦の方が好みじゃね。関東人が海外で米は日本人の
主食じゃ云うた時腹が立ったね。そりゃあ関東の習慣で日本人全体に
押し付けるなと。西日本は米食い民族じゃないのに。
ほいで、鎌倉武士団の相続はやっぱし長男の取り分が多く、分家は
被官扱いじゃし、東西の差異は時代的には古代の西の君姓と
東の直姓の違いからあったし、社会的基盤が西日本は漁撈社会的で
東日本は農耕社会的云う違いが大きいと思う。西日本でも沿岸部は
間引きが無いれど、内陸部は東日本と同じように赤子を間引い
とる。モンゴルは年長者が外へ出て、幼い末子が親と暮らすけぇ、
西日本の漁撈的社会に近いけど、農民は土地に労働投資しとるけぇ、
早く成長した長子を主人とする集団となる。韓国は長子相続でも
年長者は大切にするね。まあ、モンゴル人でもチベット人でも
遊牧民は年長者は大切にするけど。年齢階梯的なものは、
牧畜社会からもたらされたもんじゃないかね。
642 :
白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2010/01/14(木) 00:01:41
分かる、とても分かる
関東の風習って明らかに一般的なものじゃない、一地方の「田舎」のもの
アメリカ人の田舎者が自分を国際的だと言っちゃうのと同じものを感じる
>>641 概ね同意だが、池田勇人の地元竹原は酒造で有名な米所だぞ
池田の実家も裕福な造り酒屋だし、誤解ではなく普通に失言だろ
645 :
白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2010/01/14(木) 18:29:03
>>643 関東人は、自分らの習慣が日本で普遍的じゃと勘違いしとる
けんね。地方のもんから見たら押し付けがましい。
>>644 http://www.jrt.gr.jp/yaki_imo/70-73.pdf http://www.chugoku-np.co.jp/setouti/newsto/980608/980608.html 上のブログに「竹原市吉名は、「貧乏人は麦を食え」と、いった
池田勇人元総理大臣の出身地であります。戦前たくさんのサツマイモ
を栽培して、これが大事な食料でした。また、麦も主食として
いました。池田元総理の失言は、当地のものからすると違和感が
なく、暴言とはとらえられていません。」と。
広島の米産地は中部地域で、その中部穀倉地域ですら麦七割の麦飯が
主食じゃった。竹原は芸南沿岸部じゃし、裕福な家でも米を
主食にする家は少なかったわい。米を食い過ぎたら馬鹿タレに
なる云われてのう。
下の方は島嶼部じゃが、◆サツマイモが主食に、「わしらの体は芋で
できとる」「朝が芋、昼と夜は麦飯が普通。米はめったに
食べなんだ」「干し芋と豆を炊いたのが、かんころ飯。芋粉はうどん
や団子にした。」と。昔は正月の餅でも、芋で作ったり、麦で作った
りしたもんじゃ。沿岸、島嶼部は芋、麦と魚が主食じゃったんよ。
さて、夕食でも喰うか。今日も芋、麦類は食うけど、米は食わんよ。
646 :
奇矯屋onぷらっと ◆LV.e123456 :2010/01/14(木) 19:59:36
時代の軸を固定しないと語れない話題ではあるな。
エコを謳うご時勢に核家族とか、悪い冗談ではある。
647 :
白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2010/01/14(木) 22:33:02
>>645の下の方が出とらんのう。
http://www.chugoku-np.co.jp/setouti/newseto/980608/980608.html じゃったと思う。夕食はサツマ芋とジャガ芋や玉葱と牛筋で煮込む
シチュウを食うたよ。シチュウの残りをパンで掃除して食いよった
が、米は食わんけど、米は日本酒の熱燗で飲んだよ。やっぱし、
米は酒にするに限る。
>>646 日本の歴史時代を通じて東西の差異はあったんじゃない。
家系にしても国家形成期から、西国の豪族は君姓が多く、皇別よりも
先祖不明が多く天皇家との繋がりを強調して無い。東日本は
直姓が多く天皇の子孫を強調しとる。まあ家系なんか後の
源平藤橘の姓を名乗る大名家のように出鱈目で、関東最大の豪族
上毛野氏も河内の渡来人田辺史の同族なのに、天皇家の子孫を
名乗っている。
そのことを直木孝次郎氏は、西国は開けていたので独立的なのが
多くて、東国は天皇家との結びつきを強調することで権威を維持して
いたと云われるけど。一般に云われとるような東国の貴種流離譚伝説
は、平安期からでは無いね。
独立性が強いのが西日本で、権威への隷属性が強いのが東日本の
構図は歴史時代を通じて継続され、列島東西社会構造の違いに影響を
与えたと考えるんじゃけどね。
東北じゃ先祖が名家っていうだけでチヤホヤされるからなあ
南部家なんて無能藩主揃いだったのにやたら持ち上げられてるし
中央から遠いからこそ中央との繋がり・権威が尊ばれたというあたりかな?
650 :
白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2010/01/15(金) 22:45:25
>>648 東北は、戦前でも身分意識が強い土地柄じゃったけんのう。
西日本でも広島県と比べ山口県はそういう意識があるよ。
>>649 中央から遠い東日本の方は、支配層が西日本や渡来系じゃったけぇ、
余所者支配者層は、中央の権威で在地民に威張ったじゃないかね。
何度かあった民族移動が奈良時代くらいまであったあとで
貴種のばら撒きがじっくりと行われて、鎌倉期に東国勢がまた全国に散らばって。
南北朝で東西がまたゴチャったあとで戦国が集結して江戸幕府で、
血としてはかなり攪拌されているにも関わらず支配層の上っ面に限られていたせいなのか、
「お土地柄」ってのは物凄く多様なんだよなあ。
652 :
白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2010/01/17(日) 02:05:19
>>651 広島県も奈良期は東西佐伯部の軍事奴隷の蝦夷、阿智系や新羅系
渡来人、平安期は新羅でおそらく本国では賤視された者が海人と
なり、鎌倉末期には東国武士の大量移住があった。
江戸初期には、浅野氏が紀州の連中を連れて来たし、重複とも
取れるけど、血は混雑しとるね。
文化的には地元の風土文化を反映しとると思うけど、外来種が
来ると活性化した面もあるかも知れんね。
牛は相変わらず妄想がひどいな
このスレの中の話題を妄想だと指摘するなら、その根拠をキッチリ説明してくれよな。
他スレの流れは持ち込まれてもわかんねえしさ。
もともとの話に根拠が説明されてないのになにいってんだか
>>652 確かクーロン氏が詳しかったと思うけれど、5世紀前後に出雲天孫系と高麗系がほぼ同時期に東方に下っていき
コシ・ケ・ムサ(こう表記していいのかは置いといて)が侵食されたのか同化していったのか。このあと源平の入植まで
東国は植民地であり、文化的にも血統的にも安定しない。
山陰山陽はモンゴルに近い客人文化があったのかヤマトと良好な関係だったのかわからんが
同じ話題を出しても九州や東国にくらべて血腥さが少ないな。
メモ:外来種が来ないと美人が生まれない。
エミシの末裔としては、エミシ≠古アイヌ説を打ち立てた高橋富雄先生を支持したいです><
658 :
白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2010/01/17(日) 22:42:59
659 :
白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2010/01/17(日) 23:28:40
>>651 お国柄ってのは江戸の幕藩制でかなり色濃くなった気がする
もともと土着の文化に新たに来た大名とその家臣団が持ち込んだ習俗や言葉が混ざりあったり並立したり
同じ文化圏でも違いがくっきり出るようになった
文化ってのは血と違って完全に混ざって上書きされるものじゃないからな
それが生活に根付いた「お土地柄」なら尚更だろう
まあ血でお土地柄の説明は付かんわね。
三河武士が多かったはずの江戸で八丁味噌が流行ったとか聞いたことないし。
>>858 なるほど、オレの脳ROM(16KB)には出雲天孫=出雲族+高句麗と設定するとしよう。
ソバ食文化は気付かなかった(アレルギー持ちのしぶいっちょんにはちょっと意外)
山陽は麦文化、東海は豆文化。挽いて粗いものを食う土地ほど促音が強くヅーヅーになるのかもね。
狭い国土の多様性は盆地文化とでも名付ければいいかな。
懐かしい話題が繰り広げられておりますので、知識はありませんが、
私も参加させて頂きます。
まぁ、しかしながら皆様に比べ非常に浅い知識でありますので、色
々と初歩的かつ致命的なミス等もあるでしょうが、そこは苦笑い程
度にして頂ければ幸いです。
まず、出雲系(出雲臣族)の分布で御座いますが、これに関しまし
ては、関東の相模や武蔵といった国々において国造の存在が見られ
まして、ほぼ同時期に公認(封建)?されております。
なお、中でも、武蔵国に関しましては、三国分立時代において秩父
(知々夫)国造以外の2国、そして統合後の武蔵国造の地位に関し
ましても、出雲系の一族が国造家となっており、かなり強大な勢力
であったと考えられ、この一族は平将門の乱にて武蔵武芝が連座し
国造の地位を失うまでの間、800年ほど武蔵国造を継承しており、
ある程度の力を持っていたと考えられます。
また、これら出雲系の展開に関しましても、出雲と関東との間の地
域において伝承があるなど、移動を匂わす点は幾つか残っており、
その点を考慮しますと、東山道経由が考えられます。
続いて、高麗人ですが、彼らは関東や東海地方などに居た人々を国
が植民させるために集め移動させた土地として、高麗郡が立てられ
ており、同じ様な流れで新羅郡(後の新座郡)も立てられ、ともに
武蔵国内です。
また、蝦夷に関しましては、俘囚を纏める(纏めていたであろう)
俘囚直か何かの職位を持つ人物が相模か武蔵に居た記録が日本書紀
か何かにあった(うる覚えで申し訳御座いません)と思います。
663 :
奇矯屋onぷらっと ◆LV.e123456 :2010/01/18(月) 20:36:15
よっしゃ来てくれた。誤字誤謬ガン無視でageて歓迎じゃ。
まぁ、関東におきましては、武蔵国造家であった笠原氏の内乱の際
に、上毛野国造(毛野王国)が介入し、結果的に朝廷側に破れ、こ
れにより、武蔵では4つの屯倉が設置され、また中心地も南部より
北部へと移る等の変化が起こり、上毛野に関しては巨大古墳が造営
されなくなる等、権力・支配力の変化を表す点が幾つかあり、これが
一つの古代におけるターニングポイントになっているかと思います
ね。
なお、上毛野君(国造)は元々毛野国造であり、その先祖は豊城入
彦命にあたり、東国支配の為に東征し、その後子孫が土着して成立
したと言われる関東最大級の単一勢力ですし、その中でも、上毛野
君は上毛野(上野)国を支配していた巨大国造でしたが、この騒乱
にて大分勢力を減退させ結果的に朝廷の力が関東においても強大に
なった形になります。
因みに、四隅突出墓は北陸の海沿いの地域や出雲地域に見られる墳
墓ですが、2世紀から3世紀の間流行する物の、その後忽然と消えて
しまう墳墓形態ですね。
この内、出雲地域においては、前方後円墳や後方墳といった古墳が
作られるようになっており、結果的としては飲み込まれた形となり
ますね。
なお、墳墓という意味では、4〜5世紀になりますと、東西で後円墳
と後方墳が住み分けされていた時代が終わり、全体的に後円墳が作
られる様になり、その一方で畿内地方において後方墳が作られる等
東西が古墳というモノサシにおいてはかった場合、ある程度の統合
がなされた形になったように記憶しております。
なお、漢の帰化族である田邊史の末裔も上毛野公姓を下賜されてい
ますが(称徳孝謙皇帝天平勝宝二年、宝亀八年等)、彼らは上毛野
君国造家と主従関係(部曲)であったとされ、その為に主人と同じ
姓を与えられた形ですね。
666 :
奇矯屋onぷらっと ◆LV.e123456 :2010/01/18(月) 21:28:23
崇仁天皇─豊城入彦命─八綱田命─彦狭島命─御諸別命─大荒田別命─
↑
┬上毛野多奇波世─島名 名前が全く無意味
└下毛野田道──奈良別
はい参考資料。
して、この後何を展開すればいいんでしょうかね・・・
まぁ、強いて言えば、私が書き込みますと、スレが低調になりますね・・・
スレが立ってから11ヶ月目にして俺のようなクソコテでも参加できる考察が展開されてて感動した><
>>659 実際にはエミシと言ってもかなり混血が進んでたらしいね
民族的にはやまと民族と大差ない、というかほぼ同一で、要は文化が違うだけだったとか
ただ、悪路王の首像とか見ると、日本人よりは中国の豪傑っぽい顔立ちかなとも思う
いやまあ完全なイメージだけど
あと奥州藤原氏は本人たちの言うとおり藤原氏の支流だったろうから京都系なのは間違いないだろうけど、
二度にわたってエミシである安倍氏の血が入ってるのが断ずるには難しいところかな
或いは安倍氏は純粋な意味でのエミシでは無かったのかもしれないけど
669 :
白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2010/01/19(火) 01:08:25
>>660 安芸に入る前の紀州におった浅野氏は慶長期に山岳民狩りしとるね。
広島では揉めんかったけど。土佐はその構図が山内の上士と
長宗我部の郷士の関係で。じゃが薩摩の場合城下士と郷士の差が
激しいけど、島津氏は外部から入植したわけで無いし。
郷士制が強い地域は差別が激しいんかね。まあ風土と云うか、
お国柄に関連するとも云えるけど。
>>661 山陰から北陸、東北と関東は、ソバ食文化圏じゃね。北陸〜東北
日本海側の漬物・貝焼文化圏もあるけど。瀬戸内・畿内はうどん食
文化圏となる。大雑把な区分じゃけど、地域的傾向として。
>>662-664及び
>>665高句麗人は関東だけで無く、信州や甲斐の方に
多かったでしょう。戦国大名の信濃村上氏は高句麗前方黒麻呂系
ですし、武田信玄の母方の大井氏も高句麗の鞠部でしょう。
漢と云うより鮮卑系の田辺史は豊城入彦の五世の孫タカハセの君の
後と、名乗ってます。まあ家系んなんか司馬遼太郎氏の先祖が
宇多天皇御裔の佐々木氏になっていることに、「セルバンテスが
聞けば爆笑してドン・ササキという滑稽日本騎士物語を書いたろう。
江戸初期にいたっては家系を創作した。源平藤橘選りど見どりで
ある。佐々木源氏ならば氏神は沙々貴神社である。その祭神
小名彦名命は、海を渡って大国主命の国造に協力したという。
この論法でゆけば少名彦名命を氏神とする日本国の佐々木源氏も
旧新羅人ということになる。」と、まあ徳川氏のように、
賤民出身の徳阿弥の子孫も賀茂氏、藤原氏、源氏と姓を好きに
変えるものが多いけど。やっぱし、今来の渡来系の田辺史や
上毛野氏は偽りの天皇の子孫を名乗ることで帰化と云う手段か
圧力が外部からあったんでしょう。
>>668 藤原氏の支流であるかは別問題で、左大臣藤原魚名系の奥州藤原氏も
関東に土着した勢力じゃけえ、蝦夷の原型であるアイヌ人の血統が
濃く出ても不思議じゃないよ。奥州藤原氏の頭骨が現代東北人より
現代京都人に近いのも、京都並みに渡来形質が濃厚であること
以外に無い云うことですよ。阿倍氏も蝦夷遠征した阿倍比羅夫と
関りがあるんなら、渡来系となりますし。まあ蝦夷は政治的、
文化的概念ですね。
670 :
奇矯屋onぷらっと ◆LV.e123456 :2010/01/19(火) 23:28:06
嘴を挟めなくても何かコメントしないと進まんのかこのスレは。
京の面構えをミイラにしたっていいじゃない。
泰衡の遺体を持ち帰りわざわざ燻煙をかけた奇特な人は絶対歴史に名を留めるべきだ。
671 :
白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2010/01/20(水) 00:19:32
>>670 じゃけどミイラにして水銀で保存する技術はどっから来たんじゃ
ろうかね。
ほいで埴原和郎氏は、奥州藤原氏について「藤原氏の三人が
現代の京都人に最も近く現代の東北人とも違うことは、
藤原氏がもともと東北土着の家系でなかったことを暗示している
ように思える。既知の集団としてアイヌ人と東北人のデータを
使うと、藤原家の三人はいずれも東北人と判別される。そこで
一歩進め、東北人と京都人のデータを既知集団として分析すると、
今度は三人とも京都人の方に分類される。」
埴原氏は遺体直接観察で清衡、基衡、秀衡共に鼻が高く、秀衡は
ギリシャ鼻のようにみえると、される。問題の首級(判明出来ん
けど、おそらく泰衡である可能性は高い)も鼻が高かった点は
他の遺体と共通している。と、云われるね。
>>669 まぁ、個人的には偽りの天皇の子孫を名乗る、というよりも、そも
そも、古代氏族において天皇ないし皇統に類(子孫であると)する
豪族らが非常に多すぎると感じますし、これは単に支配領域が拡大
していった過程において、天皇をはじめとする皇族の子を婿や嫁と
して受け入れたり、まるまる豪族自体が主従関係を結び、後に各豪
族がそれぞれ所有する部曲的なものを天皇家ないしは皇族の個人と
築き、後に主従関係を築いた当時の主人に当たる個人が、そのまま
一族の祖となる皇族出身者ないしは、皇統との枝分かれの始めにな
ったと思いますね。
まぁ、強いて言えば、僭称というよりも義兄弟や皇族の子孫である
という証明といいますか、そう名乗ることを認められ、その繋がり
を下賜された、という様な形が近いかと思います。
なお、田邊史の様な例に関しては、偽り以前に主人と同じ姓である
という点が、それこそ転じて、後に主家の先祖を自分たちの同族と
しての先祖扱いにした形になるかと思います。
まぁ、元々、従者という事で主人と同じ姓が与えられただけですし
与えられる姓に関しましては、古来よりその姓(というよりも氏)
を持っていた氏族との血縁的な繋がりや、その祖先との繋がりとい
うのは殆ど加味されていないかと思います。
まぁ、しかし、関東や倒壊といった地域に半島系の人が多いのは、
ある種の先進的な技術・知識を持った民族を用いた植民活動ととも
に中央に仕える朝鮮系氏族の周囲に集まりすぎる事を避けたように
も感じますね。
因みに、高麗郡が出来た頃には、相模国に高麗王の姓を持つ高句麗
の王族出身者(といわれる人物)がおりましたし、東北の長官にな
った人物の中にも、百済王家に連なる人物(百済王氏)が居たかと
思います。
>>670 まぁ、反応は誰しも欲しいでしょうし、反応が無ければ、ある意味で
完全に個人の世界であり、同時にコミュニティを侵害・妨害する形に
なりますから、その点は誰しも避けたいと考えていると思いますよ。
674 :
白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2010/01/20(水) 02:03:02
>>672 天皇家と主従関係とかは、直姓が多かった東日本の現象で
天皇家の直系に見せたい東日本豪族の願望でしょう。
主従親方子方制自体が関東的で西日本人には馴染まんのですよ。
偽血統を名乗るのは政治運動ですし、徳川氏も正親町天皇は、
「氏素性の明確でない者に官位は与えられぬ」と拒否された為近衛家
や吉田兼右に頼んで改姓したようなもんです。
関東に満洲や朝鮮の渡来系が西日本に比べて多いわけでも無いで
しょう。形質人類学的にも渡来系と在来縄文系の割合は近畿地方で
渡来系9対縄文系1、中国地方で渡来系8対縄文系2、関東地方で
渡来系7対縄文系3の割合ですから、本土日本人の主流自体が
満洲や朝鮮からの移民ですよ。耳垢の分布でも本土日本人は
北方系の乾型が圧倒的ですし、特に西日本人は北方系です。
長崎の高校生が他県の高校生に呼びかけた結果では、
耳垢乾型の割合は全国平均90%、最も高いのが京都府98%、
低いのが栃木県の79%でした。まあ、西日本に比べ縄文系が
多い程度ですが主流は渡来系の乾型でしょう。
http://www.geocities.jp/k_saito_site/bunkn22.html にも出ております。
675 :
奇矯屋onぷらっと ◆LV.e123456 :2010/01/20(水) 21:34:36
偽系図史の始まりと言ってしまってもいいところながら。
皇室の血を母系でもいいから望んだ時期があるのは確かに東国の豪族に顕著だな。
出雲大社の千家氏・住吉大社の津守氏・宇佐神宮の到津氏は決して皇室に系図で擦り寄らなかった。
諏訪大社の諏訪氏はキッチリ源氏に収まった。このあたりなんじゃないかな。
>>674-675 まぁ、私の投稿(
>>672)は、お二方の様に資料的・文献的といった
学問的な見地による考察というより、素人による安易な想像といった
面が強いものでありますので、大して根拠となる資料等はありません。
また、東国武士団や東国の豪族のDNA的な分布、血脈と思考の
リンクといった科学的要素や、後代(武士団が出現し活躍する時代)
からの視点というものでは無く、あくまでも古代ベースである点は、先に
申し上げさせて頂きます。
まぁ、単純に、豪族の部曲(部)と、その部に属し支配下にある民(部
民)との関連性(特に現代で言うところの苗字に当たる部分)に視点
をおき、その応用として考えた程度のものです。
簡単に言えば、とある皇族(A主命)という人物が居て、彼が遠征なり
派遣された土地の豪族と主従関係を結び、その後、主従関係は国
と豪族(豪族の支配領域=地方国)の関係に継承されつつも、その
豪族の一族内の伝承において長い間口伝されるにつれ、最終的に主
従関係を結んだ人物から、一族の祖となり、この地に国(朝廷)より封
じられた人物に転じたんじゃないかと、いうようなものです。
まぁ、強いて言えば、主従関係を結んだ際に、主側の人物(皇族・A主
命)が自身や自身の祖先の一族として認める、名乗ることを許可する
一族に豪族の一族ごと受け入れる、というような事を行い、吸収したと
いうパターンも考えれるんではないかと思った、という感じですね。
まぁ、祖先神に当たる伝説上の人物ないしは神様において、非常に多
くの家(氏族・一族)の祖となっているヒトが存在する事を考えれば、中
国における周の姫氏の封建と支配の方法(封建諸国の大半が姫氏)
や、日本の部民と支配豪族の氏(今で言う苗字の部分)が一緒な点
、ローマでの新規に支配下に収めた地域における氏族名の下賜?に
近いものがあったように感じる、という個人的な想像ですね。
677 :
奇矯屋onぷらっと ◆LV.e123456 :2010/01/20(水) 23:11:21
おいちょっと待って。オレのどこに文献的考察があると言うんだ?
宣言しておく。オレは通説通史レベルの事項の矛盾点にツッコミを入れる程度の知識しかないということを。
そしてその知識はあくまで個人的感覚以外に裏打ちされていないことを。
まぁ、少なくとも、
>>675の投稿において挙げられている、4つの神社
の系図に対する理解と、それを含め系統図全般に対する幅広い知
識、そしてそれを踏まえた上での論説、というのが、簡素ながらしっか
りと築かれているかと思いますよ。
まぁ、個人的には系図、血脈といった要素に関しましては、奇矯屋
さんは非常に知識がある方と認識しておりますしね。
お邪魔します
クーロンさんって「まぁ」が口癖なんですね
はじめてしりました
680 :
白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2010/01/21(木) 00:55:27
>>675 偽系図師なんか江戸の文化・文政期に活躍して「平家落人村」を
創設しとるね。ほいで母系云うんも創作家系を造ることになったね。
相模の波多野氏も奥州藤原氏同様、藤原秀郷を祖として、蝦夷系
佐伯氏を母としとるけど、前九年の役で戦死した佐伯経範を系図の
先祖に入れたことからバレたね。石井進氏が「それまでの佐伯氏を
ある時期から藤原氏に改め、そうした系図をつくり上げたもので
あろう。」と、云われるよう、母系の方が元来父系の系統に
他ならんのんじゃない。
>>676 あなたの云われる下の方の下賜はあったでしょう。それが後に誰でも
改姓出来るとなって多くの者が源平藤橘の子孫と自称したんで
しょうね。まあ平安期の武士団なら、渡来系の確立が高いけど。
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/154.html http://yumiki.cocolog-nifty.com/nautica/cat21314075/index.html 上の方の渡来形質は、下の文にあるよう「関東・東北地方に渡来形質
はおよんでいることは、文献に登場する近畿勢力の進出や渡来人の
関東移住で興味深い。」と、ですが図のように、佐伯部が置かれた
広島県のように瀬戸内中部では縄文系の人たちも多かったですしね。
下の方のHLA遺伝子では、図にあるよう東西渡来集団の違いが
あるようです。まあ、列島の主流人種となった渡来系は、
列島東西とも北方系ですけど、西日本がより多かった云うだけの
ことです。西日本の渡来系で鮮卑系北朝系かも知れん、西漢氏が
婚家出産しとる処も西日本の習俗で面白い処です。
まぁじゃなくてマラです
682 :
奇矯屋onぷらっと ◆LV.e123456 :2010/01/21(木) 22:11:14
やかましい。
今日は体調悪くて気の利いた書き込みできんからイラついてんだオレはよ。
ただね。
>>680 平家落人は飛騨に室町初期からいると主張している。
北条横井の関連で複数の仮冒なのは分かっているんだけど、下地は雑系でいくらかあると思うよ。
佐伯経範についてはオレに救う手立ては今んとこ雑系でさえ皆無だけど、頑張って探してみる。
>>679 まぁ、「まぁ」は昔からの癖ですね。
特に、日常会話や比較的に自由に書ける文章においては顕著ですね。
しかし、白馬青牛さんの論は浅く対象も歴史学程度の私には難し
すぎますね・・・
まぁ、確かに、遺伝子的にその要素が強い=混血が進まなかった
ないしは、集団において支配的な数を占めていた遺伝子グループ
がある、という点に繋がるのでしょうし、それは転じて、それら集団な
いし、それらが主体となっている地方の儀式や文字、相続など習
慣等の文化的要素を決め、それが継承され続ける事により、稲作
の導入やら中央(朝廷)の支配下に組み込まれるなどといった、様
々な変化を経た上でも、遺伝子よりみた人間グループの分類(縄
文系や渡来系等)にまで遡る文化や習慣と、そのグループごと、地
域ごとの差異・特色へと繋がる、といった所なんでしょうが、個人的
には、やはり、縄文系や弥生系と言われるようなグループというのは
数千年の時を経て一体化し、それらのグループの違いが即ち中世
や近世の習慣等にまで影響を与え続けている、というのは納得し
がたいといいますか、理解するのが難しく感じる点ではありますね。
まぁ、しかしながら、私の生まれ育った実家も、60年ほど前までは
静岡市ではなく、独立した村でしたし、その村も明治期に周辺の
村落と合併して誕生した新しい村でしたが、それ以前の村々では
今でこそ自転車で1時間や30分程度の位置にあるような村であっ
ても、風習や言葉遣いが若干異なり、隣村やその奥の村より嫁を
貰うと、食事や方言などで若干の変化があったと聞いた事がありま
すね。
まぁ、結局の所、数十分程度の距離しか離れておらず、しかも、
分け隔てるのは田畑に川に沼程度の静岡市平野部において、そ
のような状況が昭和期まで僅かながらも残り続けた事を考えますと
それの遥かにスケールの大きいものが、古代より脈々と残っていた
事は想像できない事ではないですが。
もっとも、それに遺伝子的側面や統計学的な要素が混ざると、一
気に理解しがたくなる物なのは不思議な事ですがね。
685 :
白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2010/01/22(金) 00:11:13
>>682 宮本常一氏は対談で「平家落人の話は、大半がウソだ(笑)と思えば
いいんでね。すぐ考えられるのは高野聖との関係です。真宗地帯には
ほとんどなく、例外として、能登のさきのほうの時国家、越中の
五箇山、飛騨の白川とかにもありますけど、これは真宗といっても
毛坊主(髪を伸ばした坊主)のおったところで、真宗でも、変わった
特殊なところなんです。山口県の萩の近くの川上というところに、
やっぱり平家谷の伝説があって、調べてほしいと頼まれたものです
から、文献を探したんです。そのへんの旧家に系図が残っているのを
見て、愉快に思ったのは、その家は清和天皇から出てる源氏なん
です。それがのちに平家になってる。そういう記録をもっているん
です。室町へはいったころから、平家になっちゃうんです。」
松永伍一氏は「幕末ぐらいに、平家の末裔だよって言い出したやつが
いる。つまり、伝説をつくって喜ばせるプロがいた、系図師などが、
ずいぶんたくさん山の中に入ってますからね。彼らは山持ちの家へ
行って、ご馳走になって、何日の逗留してるんです。山の方では
近親結婚でいろいろ弊害が出てくるので、胤おろしを求める風潮が
あります。遊芸人とかが来ますと、彼らは別の土地の人ですから、
この人たちの胤を娘におろしてもらえば、血が新しくなるっていう
願いがあるわけです。大事にされて、適当に相手の家を賞めて、
いまは山住まいだけど、昔おたくは京都の公家さんで、『平家物語』
を暗誦をちょっとやって、系図をつくって、なにがしかのお礼を
貰って立ち去っていく。旅の恥はかき捨てと同じで、嘘をついて、
人々を喜ばせていく」と、云う程度のもんじゃろうね。
686 :
白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2010/01/22(金) 01:16:11
>>682 続き。波多野氏系図では、藤原秀郷のひ孫の孫が前九年役で
戦死した佐伯経範になっとる。藤原氏なら佐伯氏を名乗る必要も
無いのにねえ。
>>684 渡来集団の違いによる習俗は戦前まで影響を与えたと思いますよ。
河内の渡来系で田辺史の娘は天皇家の騎馬護衛の西史氏に嫁となり、
婚家出産しとります。神話においても海神の娘トヨタマヒメは、
山幸彦を海中で生まず、夫の住む陸上で産みました。
一方平安貴族は、藤原道長の娘彰子は一条天皇の子を道長の土
御門邸に戻っての実家出産です。第一子の今婚家出産と実家出産は
病院で産む現代と違い、戦前まで明瞭な分布領域があって、
中国地方、四国地方、近畿西部は婚家出産地域で、近畿東部から
北陸、東海、関東、南奥羽と西では九州が実家出産地域でした。
アジア北部では、モンゴル人や満洲族は婚家出産で朝鮮半島では
実家出産が多いらしい(まだ朝鮮半島の地域別の違いが明確で無い)。
他に北陸や東北、一部の東海や関東に分布する初夜の忌の習俗も、
大国主命が高志(コシ、越、北陸のツチグモ、縄文系蝦夷)の沼河比売
によばひした時も、初日はセックスを拒否され次の日に結ばれ
ました。縄文系の習俗か、新羅人の渡来者が作った三河の設楽郡にも
初夜の忌があるので、渡来集団の習俗かも知れず判断出来ん処も
ありますね。
歴史とは多元的、複合的解釈から実像を考察することじゃと
思います。十九世紀の文献主義の「実証史学」や左翼マルクス史観
の「科学的唯物論」は、過去の遺物ですが、日本のアカデミズムでは
両者の影響が未だに強いですからね。総合的に歴史学、民族、
民俗学の文化人類学、考古学、自然人類学からの視点で
多元的に、総合的に考察するんが現代の学問じゃと思いますね。
それと統計学ではありません。統計は初期数値によって誤差が
違いますし。埴原和郎氏は複数のモデルケースで語られるので
良心的な学者でしたが、多くの学者は一方的な数値から、
電波飛ばす、お方も多いですからねえ。
マラというのは三戦板故事成語ウィキでみたことがあります
ありがとうございます
口癖って性格がでると聞いたもので興味を持ちました
688 :
奇矯屋onぷらっと ◆LV.e123456 :2010/01/22(金) 23:17:32
草壁・大津両皇子は天智天皇の下で生まれただろうか。
689 :
白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2010/01/23(土) 00:06:45
>>688 天武天皇が本当に天智天皇の弟かどうかすら解らんね。
坂口安吾氏が云われるよう蘇我氏が天皇じゃったかも知れん。
記紀はその時代の権力者の取り巻きが書いたけぇ、それ以前の
系統は記紀の編纂者の創作しだいじゃし。
690 :
奇矯屋onぷらっと ◆LV.e123456 :2010/01/23(土) 10:41:06
記紀については武烈以前と継体以後が全く別の物語だと思っている。
推古没後から壬申の乱までの継承が混乱しすぎ。姻戚は蘇我だけでなく尾張や息長も記録の裏に隠れていたり。
勝者が歴史を紡ぐのはいいんだが、勝ち続けてくれないものだから「万世一系」が断続になってしまう滑稽な時期。
まぁ、そもそも、継体天皇自体が即位された時点での立場が、皇族
とは言い難い状況でしたし、万世一系である事も、更に踏み込んで
血筋の断絶(女子の地でのつながりすらない継承)を含む、王朝の
交代等も、別に対しt事ではないと思うんですよね。
結果的に、天皇という地位と名称が、今迄少なくとも千数百年は維
持され、その期間においてその地位を継承し国家の名目上のトップ
であった人物達が存在した事実は変わりませんし、その現状の上に
今があるわけですから、不明確な古代の成立云々と、現代における
それを必ずしも合致させ一つのものとして評価せねばならない、また、
そうでなければ正当性も存在価値もなく、廃止しなければならない、
という様な状況ではないですしね。
692 :
奇矯屋onぷらっと ◆LV.e123456 :2010/01/24(日) 00:18:51
私記や日記を史料として紡ぐことができる歴史は奈良時代が限界。
で、天武系の奈良時代に天智系の光仁に皇位が返る理由が「婿だから」
これでは5代目(孝謙称徳)まで紡いだ天武系皇族の反発がなくてはおかしい。
少なくとも一度は傍系の淡路廃帝が皇位を持っていたのだし、いくらでも候補はいたはず。
(臣籍の氷上塩焼が候補にあがるくらいだしね)
さて、天武天皇って何者でしょう。
693 :
白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2010/01/24(日) 01:07:36
>>690 武烈天皇は記紀に悪辣な愚王として描いとるね。記紀編纂者は、
継体天皇の方を支持しとったようで。継体王朝は北陸の新羅系・
伽耶系の都怒我阿羅斯等(ツヌカアラシト)牛角人の勢力。
角杯は西洋〜アジア遊牧地域に多く分布するけど、角杯土器は新羅や
伽耶にも多く出土し、北陸地方や岐阜県関市等新羅系の渡来が
多かった地域に出土する。福井県の二本松古墳には伽耶様式の
角状の金銅製冠帽が出土したので、牛角ツヌカアラシト、つまり
角がある人であったろうね。その越前から出た継体王朝は、
出雲、高句麗勢力と絡め、日本海側から渡来した勢力が基盤に
あったんじゃないかと思うよ。
>>691 天皇制は維持された伝統から廃止する必要が無いことには同意します
よ。
>>692 天武天皇ねえ。百済系が多い近江朝から政権を奪取した新羅人説も
あるけど、確かに美濃や尾張の新羅系が多い地域から兵を集めとる
し、親唐的でもあったね。天武天皇崩御以降旧近江朝勢力の巻き返し
があったけん、権力闘争に擁立された面があったんじゃないかね。
694 :
奇矯屋onぷらっと ◆LV.e123456 :2010/01/24(日) 01:24:48
奈良までだと当時の皇室ってのは、習合の集大成だと考えるわけよ。男系女系関係なく。
当時の有力氏族の血がどれだけ引けているか、その上でどれだけ母の身分が高いか。
妙なことを書いているように見えるだろうなコレ。
695 :
白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2010/01/25(月) 00:14:10
>>694 母方の身分で息子の身分まで左右するんは、ユダヤ人やイスラム社会で
典型じゃね。父親が自由民でも母が奴隷であれば、その子供は奴隷身分に
属すると見なされた例なんか。まあ、母方の勢力が強かったんは、
モンゴル帝国のフビライ政権が実際は母方のオンギラト族政権であった
んと同様、日本でも皇室に娘を嫁がせた藤原氏が実質上権力者で
あったんと同様。高句麗の王族を出す桂婁部と婚姻氏族後方部も
同じで母方が有力氏族じゃと強いね。
自己部族の力は母方の部族の強さに関連するけぇ、妙なことでも無いと
思うよ。
696 :
奇矯屋onぷらっと ◆LV.e123456 :2010/01/25(月) 21:17:26
神話というものは歴史を物語として紡いでしまうので、時代背景をできるかぎり自分たちの時代の感覚に近づけたがる。
奈良時代に皇室の肝煎りで編纂された神話はどういう性格を持つだろう、という視点から忘備録を。
1.
・直近の天武天皇を舒明天皇の子とする。
・同じく天智天皇だが、これは大兄の称号を持っている。
・これらの父とされる「舒明」とは「欽明」と同等の輝かしい諡号を贈られている(奈良時代だけど)。
・つまりオレが言いたいのは「大兄」は祭君である「大王」の跡継候補ではなく、名目上の皇族次長説。
・上宮王家という蘇我氏出張所を蘇我氏が滅ぼした。
・どう見ても傍流の上宮王家から出た「大兄」。
・蘇我入鹿は天智天皇の叔従父。
2.
・欽明朝の正統(現皇室・当時の平城皇室)の大王で初めて蘇我氏の血を引いた男帝は天智。
・大兄は上宮王家の山背王を除けば息長氏と尾張氏の姻戚しかいない。
・上記から宣化の血は母系で皇室に残った。安閑宣化は「万一」に非常に怪しい大王。
仮結論:もうね、皇祖が誰かなんてどうでもいい。桓武の血引いてりゃ充分だろ。
697 :
白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2010/01/25(月) 23:14:08
>>696 まあね、桓武以降も疑えばきりがないけど、血統よりも、
天皇家が存続しとることに意味があるけぇ。