神秘主義的映画のスレ

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フー。
漏れ相当頭悪いのでここでちょっと整理させてもらいます。
簡単に言えば、今ここで明らかになりつつある問題は、「何を描くかではなく、どう描くかだ」
というテーゼに集約される気がします。
なんかこれって文学も美術も皆が揃って陥っている袋小路のような気もしなくもないけど。
で、漏れの個人的な考えなんかここでは全くどうでもいいことだが、敢えて自分の浅い映画体験の中から
確かなことを言わせていただければ、漏れはやはり一個の作品の中から作者の主義主張を読み取ることに、
映画を見るという行為の意義や快楽を感じていると言う気がする。
勿論コレは極端な言い方で、ゴダールにはゴダールなりの主題や思惟があると思うし、
それは歴然と作品に反映されていると思うが、作品が主題に隷属する、という事は彼の場合ありえないんじゃないかな。
逆説的に言えば主題そのものが”映画”という創作行為のための方便である、というような。

ところが、限りない映像美を誇るタルコフスキーは言わずもがな、「せせこましい」「舞台中継」
と非難される(涙)ベルイマンにあっても、やはり主題を語る方法論に、怖いくらいの愉楽があると漏れは思うわけです。
その画面に映し出されるシャープで異国風で不条理な、どこか異常な感覚が漏れの興奮と謎を呼び、
謎を解読していく過程で初めて彼の主題が見えてくる、というべきか。
人間関係の断絶や人間が持つ残酷性を、目を逸らさず真っ直ぐに見詰めた視線、”神の視線”とでも称せそうな、
冷たく純化された眼差しが彼の映画の特徴であり、また個人的に惹かれる部分。
だから、漏れ個人においては、決して主題ありきでその魅力に溺れていく訳ではない。
そもそもはその”視線”であり、視線を表現する映画技術(方法論)も当然魅力になる。
そういった視線を生み出した作品主題の魅力への到達はずっと後。
やや話は走るけど、そうなると、ベルイマン映画の主題は本当に鑑賞者に積極的に読まれているのか?
という問いが出てくる。
例えばキリスト教圏の人間や、或いはハスミ氏のような純然たるインテリならば、彼の描く主題は、
まさに「予定調和的に」分かり易すぎると言えるのだろうか?
「どう描くか」を先行させる人の意見の根底にあるのは、
要は「文学が扱ってきた主題や手垢のついた形而上的な主題は映画にはいらん」ということだと思う。
しかし、「崩壊や失墜を意識の問題として主題化し、墜落や救済といった退屈な物語を生真面目に語りかねない」
という言葉はベルイマン映画の一側面を捉えて鋭いが、漏れや彼のファンにとっては全く退屈ではない。
鑑賞者の感性如何、なんて決着は面白くないのでもう少し突っ込んで考えてみたい。
果たしてベルイマン映画の主題は誰にも分かりやすく、また退屈なものであるか否か。

…だってさ、少なくとも漏れには当初、全然分からなかったんだもん。
「分かり易すぎる」というのは悔しいよ。(ボソッ

>>48
その意見は凄く興味深いけど、もう少し詳細に解説してくれるとありがたいです。