||| ゜▽ ゜川<保守しよ〜。
話題を振る上でもう一度「流れの定義」を読み返してみました。
1、流れの定義
麻雀で言う流れとは、麻雀に関る事象のうち、
自分が論理で考慮していない全ての事象である。
無駄を省いてこう表記してみます。
流れ={自分が論理で考慮していない全ての事象}・・・(1)
自分が論理で考慮していない事象の集合が、「流れ」であると
再定義できます。数学的にはこうも言い換えられます
NOT(流れ)=NOT{自分が論理で考慮していない全ての事象}
∴流れではない={自分が論理で考慮している全ての事象}・・・(2)
事象のうち論理で考慮しているか否かで麻雀の事象における全体集合は
構成されるので、同様に「流れ集合」か「流れではない集合」かで
麻雀の事象における全体集合が構成されています。
背理法を用いれば(1)の否定か(2)の否定が偽であるとき
定義は真であると証明できます。
・・・・まずこれからやっていこうと思ったのですが。(^^;
実はすでに矛盾があります。
||| ̄▽ ̄川<保守や〜。
着目してほしいのは注意点の上2つ。
(a)半荘ごとの順位羅列の偏りとは無関係。
(b)「牌山の偏り(確率上のゆらぎ)=流れ」ではない。
(a)は半荘ごとの順位羅列の偏りとは無関係であるということは
半荘ごとの順位羅列の偏り=流れではない
(2)より
半荘ごとの順位羅列の偏り={自分が論理で考慮している全ての事象}の要素
うそをつけと。(^^;順位の偏りが論理的に考慮できる事象なもんか。
(b)は等式になっているので即(2)を代入。
「牌山の偏り(確率上のゆらぎ)={自分が論理で考慮している全ての事象}の要素
これはイカサマや。牌山を論理的に偏らしたらあかん。
ということで注意点(a)(b)はすでに定義に矛盾しているやん。
というか定義自体が矛盾しているのか・・・?
ちなみに、うちは面白そうなので流れ肯定派として論陣を張ろう
と思ってましたが・・・。う〜ん、どうしよう。前途多難やなぁ・・・。
( ・∀・)つ〃∩ ヘェー
孤独だね・・・なんか哀れ・・・
>>869 マジレスしてやると、
>>2と
>>3は別の人物が、独立して定義しているので、
一緒くたにする必要はない
一緒くたにすれば、矛盾して当然
せめて、前スレぐらい読め
>>897 ||| ̄▽ ̄川<1へぇ〜だぁ♪わ〜い。
>>898 ||| ゜▽ ゜川<うちは次スレも立てる気やで!
>>899 ||| ゜▽ ゜川<何が真で何が偽かを仮定の段階でも曖昧にしてしまうと、ダメや。
矛盾した定義で話をしても肯定も否定も曖昧になってまうで。
こいつには読解力【ドッカイリョク】が無いのか?
>>900 あんさんは集合をよー分かっとるよーやさかい、
kcの
>>2だけじゃ定義になっとらへんことが分かるんやろな。
でも、
>>3は
>>2じゃ定義になっとらへんから、
08Kがkcを鹿十して作った定義や。
>>3を使うなら、
>>2は忘れてんか。
>>2を使うなら、電波以外に分かるように説明してんか。
大阪氏は頑張る姿勢みたいですね。
>>899や
>>902の言うように一緒くたに考えては駄目です。
過去スレ読んでもう一度問題提起してくれるとありがたいっす。
自演うぜー
>>901 ||| ̄▽ ̄川<まぁ、ある方ではないわなぁ。でも頑張るで。
>>902 ||| ゜▽ ゜川<確かに
>>2の記述は抽象的な定義やなぁ。
論理的ではない部分が多いので評価が難しいけど、
まぁ、せっかくの提言やし「保留」っていう位置付けでいいやろ?
>>903 ||| ̄▽ ̄川<KCはんとうちは同一視されてるみたいやで〜。
>>904 ||| ̄▽ ̄川<違うゆ〜てんのにもう・・・。
>>905 抽象的なのは定義ではない
ていぎ 【定義】
(名)スル
(1)ある概念の内容やある言葉の意味を他の概念や言葉と区別できるように明確に限定すること。また、その限定。
評価はいたって簡単。「不可」
せっかくの提言かもしれないが、大阪自身の考察により
>>3の定義と矛盾する
>>3の定義のほうが間違っていると示さない限り、
>>2を元に話すことは何もない
>>906 ||| ゜▽ ゜川<確かにあんさんの言う通りやなぁ・・・。
>>907 納得すな。
3が正しいとも限らん。
3に矛盾するが確かに「流れ」と呼ばれているものを持ってくればすむ話や。
以前の流れ派は、そこでよー持ってこんかったさかい、
なし崩し的に逃げたよーに見えとる。
ちなみに2は定義やないさかい、フォローすんのはしんどいで。
流れ派やのうて流れ利用可能派やね
>>905 まぁ、ほっときましょ。
>>2は特徴と注意点程度であり
嘘でも定義と呼ばれるのは小恥ずかしいです。
キモ━━━━━━(´Д`|||)━━━━━━!!!
キモ━━━━━━(´Д`|||)━━━━━━!!!
>>22 もう半年も経とうとしているが、ようやく2は定義ではなく戯言であることを認めたか。
出てくる前に何か言う事があるだろ
「私の電波に長い間つき合わせてしまって、申し訳ございませんでした」
>>908 ||| ̄▽ ̄川<にゃるほど。あんさんの話には説得力があるな〜。
>>909 ||| ゜▽ ゜川<流れが利用可能かどうかは、正直わからん・・・。
なんせ、うちは流れを利用したことがないさかいな。
>>910 ||| ̄▽ ̄川<KCはん・・・。うちも一応この一連のスレは読んでるで。
>>913-914 ||| ̄▽ ̄川<やっぱり言われとる・・・。
犯罪者と違い
こいつには時効は無い
一生アホ
小恥ずかしい程度ではすまないほど恥ずかしいことに気付いていない
>>910さらしあげ
メール欄にage書くのが恥ずかしい事に気付いてない
>>917さらしあげ
=3
||| ̄▽ ̄川<このスレageんといて・・・。荒れるから。
麻雀以外のギャンブルにも
流れを利用することができるのですか?
922 :
バリ:03/09/05 10:18 ID:???
すごいなぁ、初めて見たけどやっとここまでたどり着いた、長かった。
申し訳無いがこのスレだけで過去レスは読んでいない者です。
みんな熱心に書かれてるのに、いまいち不毛なまま終わってるみたいなので
すこしだけ、あくまで個人的な主観による”麻雀における流れ”についての
考えを書く。
まず有る無し論からいくと、勝利への意思を持った人間が行う勝負事である
という前提において麻雀に”流れ”は確実にある。
ただこう書くと、どういう時にどういうことが起きる、という恒久的な因果関係
の実証に話が終始する傾向にあるようだが、否定派の求めるような科学的かつ
再現性確実な”流れ”などは存在しない。
もしそんなものが存在したとしたら、それは昨今麻雀界でオカルトと称される
”流れ”ではなく、すでに一つのセオリーになってしまう。
だって、そうだろ?
例えば、”3回連続ツモあがりをした親をノミ手で蹴ると次局満貫以上の配牌に
恵まれます。”なんてことが絶対普遍化されると思ってるなら、
それこそ本来の意味でのオカルトだ。
では何をもってして”流れはある”といい、有益な概念足り得るのか?
基本的には”流れ”とはあくまで科学的には結果事象にすぎない。
一口に流れと言っても、ツモの流れから半荘の流れまで多岐にわたるが
そのどれもが科学的には意味を持たない過去の事象への評価である。
麻雀が決してランダムで同等の機会を与えられたゲームではない以上、
あるスパンで一つの事象を捉えた場合に何らかの偏りが見出される。
その偏りこそが流れだし、そこに科学的要素は何も無い。
この先にも続きを長々と書いたのだが長文は入らんのね、、
出勤時間がきたのでまたの機会にチャンと書きたい
923 :
バリ:03/09/05 10:39 ID:???
続き
わかりやすく説明すると、ある半荘を振り返って、
東場は聴牌がやっとだったAさんが南場に入って、
それまでトップだったBさんが駄目押しとも言える親満を聴牌しているところで、
食い仕掛てではあるが何とか上がった。
それからBさんは東場とはうってかわり上がり続け最後はダントツのトップだった。
これがひとつの事象だとすると、
○Aさんは東場には一度も上がれなかった。
○南場はAさんだけが上がった。
これらが偏りすなわち流れ。
そして、”南場に入ってのBさんの親でAさんが上がったのをきっかけに
流れが変わった。”などと評価、意味付けする。
実際にはもっと複雑だが例えていえばこういうことだ。
そこで、勘違いして欲しくないのはこの”流れ”と称される偏りが
慄然として存在しているわけではなく、打ち手の打牌選択という行為の
介在も含めて形成されている点だ。
ここを勘違いして、さも大気の流れのように実在的な物を想像するから
いつまでたっても建設的な議論にならない。
924 :
バリ:03/09/05 10:44 ID:???
さらに続き、
話を元に戻そう。
科学的には意味を持たない事象の偏りに対する評価=”流れ”だが、
麻雀に限らず不確定要素を含んだ勝負事においては、その勝負に関わる
人々の意識レベルに応じて必ず流れは”ある”
流れの無いものはそもそも勝負事ではない、と言ってもいい.
たぶん、否定派と呼ばれる人も過去の出来事への評価としてなら、”流れ”
と言う言葉にもそんなに拒否反応を抱かないのではなかろうか?
半荘の”流れ”で言えば、東場はあの人がツいていたなぁ〜とか、南場は早い手
が多かったな〜とか、その程度の意識ならしたことがあるはずだ。
問題は事象の結果としてある偏り=”流れ”を意識することの有益性についてだが、
出勤時間がきたのでまた次の機会に
ここまでをまとめると、
”流れ”とは恒久不変にある形を持って存在するものではなく、
事象の偏りに対する評価として”ある”ということ。
次の機会にはその”流れ”を意識することの有益性と決して確立論やデータ
だけでは勝ち切れない麻雀の本質まで。
925 :
バリ:03/09/05 11:00 ID:???
訂正
×確立
○確率
あと一度書いたのを切ったり貼ったりしたから読みずらくなっちゃった
勘弁ね
ごめん、間違えた×926 ○925
929 :
バリ:03/09/06 04:02 ID:???
さてさて、924からの続きです。
上手く伝わったかどうか分かりませんが、事象の偏りに対する評価として
不確定要素を含んだ勝負事には必ず”ある”、”流れ”ですが、あくまで
評価として”ある”以上、その内容は意識レベルに応じざるを得ない。
極言すると、評価者の感性にゆだねられる、という側面を持つことになる。
ある事象があって、それについての評価を求める時個人個人によってその
反応は様々です。ましてや麻雀における事象の偏りとなると自らの手牌と
河以外伏せられているため、ある人が意識する偏りをある人は意識できな
かったりする。逆に、本人は偏り(流れ)だとの意識の無いままその偏り
に左右されている場合もある。
さらに麻雀の場合、機会均等の確率ゲームであるかのような幻想を抱かせる
部分を持っているために偏りへの意識を排除することを思考してしまったり
もする。
デジタル&オカルト論や流れのある・なし論が噛み合わないのはその前提と
なる共通認識に事実と大きな違いがあるからにすぎない。
”流れ”とは打ち手の意識レベルによって大きく変わるものです。
そして”流れ”に対する認識は勝負への技術的知識と経験を要素として個人
の感性によってのみ構成されます。
( ・∀・)つ〃∩ フーン
>>922 あなたの「流れ」についての説明は冒頭で間違いを含んでいるために、
まったく読む価値がありません。
> 麻雀が決してランダムで同等の機会を与えられたゲームではない以上、
> あるスパンで一つの事象を捉えた場合に何らかの偏りが見出される。
> その偏りこそが流れ
麻雀はランダムで同等の機会を与えられています。
東1局0本場の配牌をとる前は、皆平等のはずです。
あなたが配牌以降について平等でないという理由で、
上記の主張をしているのでしたら、
ポーカーで札が悪いから勝てないとぼやいているのと同じです。
まったく意味はありません。
また、ランダムで同等の機会を与えられたゲームであっても、
あるスパンで1つの事象を捉えた場合に何らかの偏りは見出されます。
凄く簡単な例を出すと、
6人の人がそれぞれサイコロの目の1〜6に張っているとします。
1〜6の目が出る機会は、ランダムで同等です。
6回というスパンで、出目という事象を捉えた場合に、偏らずにそれぞれが1回ずつ出る確率は、
1 * 5/6 * 4/6 * 3/6 * 2/6 * 1/6 = 約1.5%
偏りが見出されない場合のほうが、圧倒的に少ないです。
そもそも、6の倍数以外のスパンにすれば、偏らないことはありえません
その偏りが流れだといわれても、「ランダムで同等の機会を与えられたゲームではない」
という前提に意味がありませんので、説明になっていません。
>>931 ||| ̄▽ ̄川<それはうちも気になった点や。麻雀の確率上の事象が
「同様で確か」ではないのは、大発見や。
出来れば、その理由を証明してくれるとええんやが・・・。
933 :
焼き鳥名無しさん:03/09/06 11:58 ID:Z1K0TYhM
>>931 バリの意見をマジかつ好意的で俺なりに解釈すると
起家に天和をはじめとした
順目の早さの利があるという事ではないだろうか。
つまりは最初の状態で起家>南家>西家>北家
の流れがあると。
まぁ、起家決めの過程が全くランダムなら問題ないのかも
>>933 確かに、配牌をとる前というのは、説明として間違っていました。
席につく前とでも言いましょうか。
何かをランダムに決める前は皆が平等で、
決まった後で結果を見て平等ではないというのは、意味がないということです。
ここでは、種銭が極端に少ないとか、他3人がグルであるとか、
麻雀というゲームから少し離れたことについては、考慮していません。
935 :
バリ:03/09/06 13:55 ID:???
>>931 休み時間に覗いてみたらレスがついていたので詳しい説明にまで至りませんが、、
>麻雀はランダムで同等の機会を与えられています。
ここが大きな勘違いをさせてしまう元になります。
麻雀においてまったく同等の機会というのはほぼ与えられない中で
争わざるを得ません。麻雀においてランダムで同等の機会とは、無作為に
積まれるものと仮定して、その築山がどのように完成するかは確かにランダム
です。そして自分の配牌・ツモ筋が決まってしまっていてもそこまではランダム
と考えることが出来ます。
このスレの序盤で鷲巣麻雀に例えた話が出てきましたが、次のツモは何か?といった
確率思考をする場合に、あらかじめ順番に並べておこうと、毎回抽選しようと、
感覚的に違うだけで、確率的にはまったく差異を生みません。これが勘違いの元です。
しかし、麻雀においての勝負づけとはその確率思考とまったく違った部分での争いと
なるためランダムで同様の機会を与えられないゲームということができる。
上のサイコロの例え話でいうと、
確かにサイコロの出目は1〜6までランダムで同等の確立を持っています。
しかし、そのサイコロの目を用いて6人で出目を予想しその能力を競う
ゲームを考えた場合に各人が重複した予想を許す場合は機会均等のゲームと
言えますが、一つの目に対する予想は一人と限定した場合にはその予想能力
を競うという意味において同等の条件は作れない。
そして、麻雀というゲームの本質も後者の例えに近い。むしろ始めに各人出目
を与えられ、次のサイコロの目に該当する人は対価を得られるというのに近い。
もしも麻雀というゲームが全く同じ築山を用いて、同じ配牌を取りツモ筋に応じて
どれだけ高い点数の役を作れるか?というゲームであった時に初めて機会同等の
ゲームというのに近づきますが、麻雀はそういうゲームではありません。
936 :
バリ:03/09/06 14:20 ID:???
少しだけ続き、
仮に百歩譲って、麻雀において一つのスパンでの勝ち負けを同様の試行に対する
結果の比較としたとしても(同じ面子3人と同回数打った場合の結果比較とか)
同等の条件を満たすには膨大な(実際には不可能な)回数の試行を要します。
積まれる山はあくまでランダムです。
しかし、麻雀はそのランダムの部分を勝負材料にしていない。
そして、どんなに頑張っても同じ築山に出会う確率はほぼ皆無に近い。
”流れ”への認識が有益なのはそんなところにも理由がありますが、、、
時間なので仕事に戻ります。
>>935 私のレスをよく読んでからレスしてください。
分からなければ何がわからないのかを聞いてください。
> 麻雀においてまったく同等の機会というのはほぼ与えられない中で
> 争わざるを得ません。
それは、麻雀のゲーム以外の要素ですか?
それとも、ランダムによって決定されたものを見てからですか?
> 麻雀においての勝負づけとはその確率思考とまったく違った部分での争いと
なる
の説明がぜんぜん足りていないため、まったく理解不能です。
> もしも麻雀というゲームが全く同じ築山を用いて、同じ配牌を取りツモ筋に応じて
> どれだけ高い点数の役を作れるか?というゲームであった時に初めて機会同等の
> ゲームというのに近づきますが、麻雀はそういうゲームではありません。
機会が同等であると言う解釈が間違っています。
機会を得るのが偶然である以上、全員が平等です。
もし、あなたが「流れ」とやらを使って他人よりも多く機会を得ることができるのでしたら、
平等ではないゲームなのでしょう。
939 :
焼き鳥名無しさん:03/09/06 15:39 ID:Z1K0TYhM
>>934 スマン、>935->936を読んで
俺が好意的に解釈しすぎた事が分かったよ。
>931に全面同意する。
>しかし、麻雀においての勝負づけとはその確率思考とまったく違った部分での争いと
>なるためランダムで同様の機会を与えられないゲームということができる。
一番肝心なトコを流して書かないで。なんで麻雀においての勝負づけは確率思考とまったく違うとこの争いになるの?
俺には麻雀のほとんどは確率的思考だよ。あとは卓上のから情報をなるべく多く得てそれをいかに確率的思考に絡ませるかってことだけど、
それはその人のセンスの問題だから、流れ論者のひとはここで流れってのを考慮するんだろうけどそれが論理的なものじゃない限りは万人に利用できるものじゃないし、利用してる人が流れを利用する事によって何かしらのアドバンテージを得るって事は無いと思うよ。
9HQ降臨
9HQ降臨ってなに?
943 :
バリ:03/09/07 04:22 ID:???
>>938 ×機会が同等であると言う解釈が間違っています。
○機会が同等であるという解釈に相違があるようです。
これでは、ガキんちょと一緒なので説明しよう。
931に自分で書かれているように、偏りに対する理解はあるものと思った。
そこで、サイコロの例でわかると思って持って回った書き方をしたのが
いけなかったようだ。
くだけた言葉でもう一度書く。
サイコロの目がランダムに同等の機会をもって出ることは
麻雀において山がランダムに積まれることに相当する。
この点に関して自分は何ら異議を唱えていない。
ただ、サイコロの目がランダムであることとそのサイコロを用いた
ゲームが機会同等のゲームであることは全く結びつきません。
あなたが書いてるような6人が1〜6までの目に張っているゲームなどを
考察する場合、例えば6回のスパンで結果に偏りが生まれることは自分で
書いている通り。しかしその場合でもあくまでサイコロは毎回ランダムに
1/6の確率で何らかの目を出し続けています。
問題はそこで行われるゲームがどのようなゲームであるか?が機会同等、
かつ確率思考が有効なゲームかの分かれ目になる。
例えば、6人で各自自由に出目を予想し、その正解率を争うゲームの場合、
これは当たり前ですが機会均等だと認めることが出来、その試行回数に応じて
確率思考が有効となります。
おう、俺にも一言言わせてくれ!
麻雀に流れはあるぞ!
流れ派のみんな、がんばれ!