http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/army/1206375108/111-114 「エノク書」が書かれたのは、紀元前200年以後の事で、「死海文書」と同じクムランのエッセネ
派が書いたものである事はほぼ確実であるが、文字に書かれる以前の口承はそれよりもは
るかに古い。別名「エノクの秘密」と呼ばれるスウラヴ語版「エノク書」は、恐らくイエスと同時代
に、アレクサンドリアにいたユダヤ人著述家が編集したものである。
この章の冒頭に出てきた、二人の天使によりエノクが連れ去られる場面は、このスラヴ語版に収
録されている。ここで、目的地に到着したエノクは、次に恐ろしい場所に連れて行かれる。そ
れはキリスト教の地獄の原型となったものだ。
男達はそこから私を連れて、天の北方に上がらせ、そこで実に恐ろしい場所を見せた。そ
の場所にはあらゆる苦しみと呵責があり、またヤミと霧があって光は無く、暗黒の火がたえ
ず燃えていて、炎の川がその場所全体に押し寄せており、さらに寒さと氷があり、牢獄が
あり、残酷で無慈悲な天使達が武器を持って容赦なく苦しめていた。わたしは言った。
「これはなんと際立って恐ろしい場所であろうか」
かの男達が答えた。
「エノクよこの場所は神をたたえなかった者たちのために設けられている。地上で悪い行いに
手を染めたもの達である。
「地獄」とは――「悪魔」もそうなのだが――キリスト教に特有の観念であり、ユダヤ人
にはまったく知られていなかった。「冥土シェルオ」と言う言葉が「地獄」と訳されることもあ
るが、これは元来ゴミを始末する場所を意味する言葉である。
ダンテの「神曲・地獄編」を彷彿とさせるこの一説こそ、おそらく「エノク書」が「抹殺」され
た主要な理由なのだろう。「天」に拷問の場所があるなどと言う観念は、教会教父たちにと
って受け入れがたいものであったに違いないのだから。
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/occult/1178843043/552-558 死海文書
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%9B%B2 神曲
実は、ゴミの扱いも最も高度な領域に属する営みの一つであるのにお気づきの事だろうか、、?
81 :
,:2008/06/21(土) 20:11:13
この「地獄」を見学した後、エノクは今度は天使ラファエルに連れられ、天国、すなわち
「義人の園」を巡る。これはどうやらエデンの園のことであるらしい。というのも、彼はそ
こで例の「智慧の木」を目撃しているからである。かつてイヴがこの木の実を取って食べた
ことが知られているが、真に神――ここではヤハウェ・エロヒムと表記されている――を懸念させ
たのは、「生命の木」と呼ばれる。
それから、「エノク書」全体の中で最も興味深い一節がある。
「そのころ、あのみ使いたちが長い紐を与えられ、翼をつけて、北のほうに飛んでいくの
を見た。彼はみ使いに問うて言った、「何故あのものたちは長い紐をつかんでいったのです
か?」彼は私に言った、「測量に言ったのである」」
エジプトの神官たちもまた、結び目をつけた紐を神殿の計測に用いた。この紐は、まさに実
用的な測量具に他ならない。だがもしも、ここで言う天使が古代の科学者であり、地質学
的・地理学的測量に従事しているとしたらどうだろう。
さらに「エノク書」は、この測量の目的をこう述べる。
「これらの測量は、地の深みに隠されたすべての秘密を明らかにするであろう、、、」
何と、この測量は地質学的な意味を持つものであることが明記されているのだ。
1970年代、地質学者クリスティアン・オブライエンは、楔形文字で書かれた「ギルガメシュ叙事詩」を解読
した結果、この文書は実は「創造神話」などではなく、もっと現実的な内容が記されてい
るという確信を抱いた。彼によればこの文書は、ナヌンナキと呼ばれる集団が、山岳地帯の高原
に、カルサグと呼ばれる農業共同体を建設したことを述べたものである。この共同体はまたエー
ディンとも呼ばれ、これは旧約聖書のエデンに通ずる。
オブライエンの研究は、1986年に著書「少数の天才」としてまとめられた。彼によれば、中東の
文明は、多くの場所で同時多発的に発生した――スサ、ラガシュ、ウル、ウルク、アシュヌンナク、ニネヴェ、
そしてマリ。
「そしてついに、少数の天才たちのお陰で、錬金術の坩堝のように、莫大で多面的な芸術
が出現したのだ」
82 :
,:2008/06/21(土) 20:14:03
この同時多発的発生を引き起こしたものとは何か。オブライエンによれば、それはアヌンナキ、すな
わち「輝くものたち」である。オブライエンは問う。
聖書の冒頭に、「始めに神は天地を創造された」と書かれているのはなぜか?ここで言われ
ている神とは「エロヒムelohim」、すなわち複数形である。ゆえに本来なら、「初めに、神々は、、、」
と書かれねばならない。もしもこれが唯一神の意味なら、ここはエロヒムではなく「エルel」という神名が
用いられねばならない。この「エr」とは「輝き」の意味で、ヘブライ語だけではな
く、多くの古語に見られる。シュメール語では「明るさ」を意味し、バビロニア語ではelluと綴っ
て「輝く者たち」の意味となる。英語でもelfは輝く存在を表し、私の住むコーンウォールでは、
elは「天使を意味する。
そういうわけで、「聖書の語句を正しく解釈するなら、次のようになる――天と地を創造し
た「輝く者たち」は言った。「われわれの象って人間を作ろう」。
輝く者たちの頭目であるヤハウェは「エデンの園に植民し」、「神とともに歩んだ」預言者エノクは、
実際には輝くものたちと共に歩んでいたのだ。
さらにオブライエンによれば、聖書にある「天 ha‘shemin」と言う言葉は元来は「高地」を
意味し、「地 ha’ares」は「大地」もしくは「低地」を意味していた。ゆえに聖書の言葉
の真意は、これらの輝く者たち(すなわち天使)が高地と低地を作り、その高地にはエデン
の園があった、ということだ。そしてオブライエンによれば、この「輝く者たち」は多か
れ少なかれ「エノク書」の「見張りの天使」と同じものであるという。
ここで、「輝く者たち」だの「見張りの天使」だのというと話がややこしくなるので、私は
彼らのことを「文明提供者」と呼ぶことにしたい。つまり、文明を創造した「少数の天才
たち」だ。カルサグ叙事詩によって、彼らが天使ではないことは明らかとなった――エデンを襲
った災厄にやられたのだから。彼らはあくまでも血と肉を供えた存在であり、ただその
力と能力が当時の人間よりも遥かに優れていたというだけである。
83 :
,:2008/06/21(土) 20:15:34
この文明提供者の頭目はエルリンと呼ばれ、その際はニンリルと呼ばれていた。彼らは共同体を「エ
ーディン」となづけた。これはアッカド語で「高原」を意味する。その別名であるカルサグは、「高い塀で囲われた地」を意味する。つまりかがやくものたちは、人間がまだ原始的な狩猟民
であった世界で、最初の農業村落を作ったのだ。その場所は山々に囲まれたところで、オブ
ライエンによれば現在のレバノン、シリア、イスラエルに当たっている。その時期は紀元前8200年ごろで、
彼らはここに植林し、建物を建て、都市を築いたという。
エデンは7人の評議会を備えた民主政体であった。カルサグは2000年ほど存続し、その間に多
くのエンリルが登場した。つまりその名は「王」の称号となった。また、カルサグの女王ニンリルは蛇
の女神と呼ばれるが、「見張りの天使」が「毒蛇のような容貌」をしていたとする写本もあ
る。アンドルー・。コリンズはこれを、スリットのような目を備えた無表情で不気味な顔、と解釈して
いる。
このようなことを言い出すと、読者はとまどわれるかもしれない。なぜこんな御伽噺のよ
うな話を真剣に検討する必要があるのか、と。ギリシアの神話は、単なる神話でしかないか。
ゼウスが本当にオリンポスの山の上に居て、雄牛や白鳥に化けて女をたぶらかした、などと信じ
ているものは誰も居ないのだ。
これに対してはこうお答えしておこう――エノクや見張りの天使に関する多くの異なる写本
は、長期にわたって口承された末に、文字に書きとめられたものだ。「イリアス」に読めば、こ
れは吟遊詩人が勝って気ままに捻り出した作り話ではないということがたちどころに分か
る――それは実際の出来事に基づいたものだ。考古学も、それが実際の出来事であること
を裏づけている。現存する写本の数だけを見ても、エノクや見張りの天使に関する物語が数多
く存在したことは間違えない。「イリアス」がそうであるように、そこには民間伝承の記憶が存
在するのだ。
カルサグ叙事詩も、例外ではない。例えばこの話は、何百年も繁栄の後に、エデンが気候の変動
に見舞われ、嵐や洪水、極寒などに襲われたことを告げている。現在知られているところ
によれば、紀元前1万4000年ごろに最後の氷河期が終わると、大規模な気候の変動が起こ
り、温暖な土地が極寒となった。まさにカルサグの状況と一致するのである。
84 :
,:2008/06/21(土) 20:17:31
これはたんなる悪天候のものではない。オブライエンは「千年嵐」と呼んでいるが、これによっ
てエンリルの家は焼け落ち、長期的なヤミが覆い、終わりなき豪雨が洪水を引き起こした。ニンリ
ルの最後の言葉は、「学びの家は絶たれた、、、、、知識の創造は破壊された」である。明らか
に、カルサグの主要な目的の一つは知識の創造であった。オブライエンによれば、輝く者たちは人類に知識をもたらした存在だったのである。
カルサグの叙事詩はここで中断している。未発掘の碑文の中にさらに続きがあるのかもしれな
いが、彼らはその後も中東で文明の建設を続けた、とオブライエンは信じている。後に彼は、中
南米やアトランティスの文明にも彼らが関与していた。とまで述べている。そして彼によれば、「疑
いなく、エデンの園に関する最も価値ある記述は、「エノク書」に見出される」。つまり、エノクが
天使に連れられて7つの天を見たと言うのは、実際にはカルサグを訪れていた、というのであ
る。
先にも触れたが、「エノク書」には天使たちが紐を持って測量すると言う記述がある。オブライエン
はこれを、恐らく灌漑施設を作るための測量であると考えているが、フレマスの解釈はまた違
う。「天使たちは北へ飛んでいった」とあるが、南極から見ればあらゆる方角が北である。
フレマスによれば、天使たちが測量を行うのは全世界の遺跡の位置を決定するためである。す
でに見たように、ギザやラサなど、あらゆる遺跡は、「聖なる緯度」の格子に沿った形で整然
と配置されている。ハプグッドの古代地図もまた、同様のことを示している。氷のない南極
から中国までを描いたそれらの地図は、「文明以前」の古代人が、地球に関して驚くほど、
繊細な知識を持っていたことを示しているのだ。
フレマスによれば、この測量を行ったのは当時の最先端の文明であったアトランティスであり、それは
目的に迫った大規模な破局に対抗するためであった――恐らくその目的は、すでにどの程
度の地殻移動が生じているのかを明らかにすることだったのだろう。
85 :
,:2008/06/21(土) 20:22:14
86 :
,:2008/06/22(日) 19:35:05
クリストファーナイトとロバート・ロマスの「ウリエルの機会」もまた、フレマスとオブライエンの測量仮説を補強するも
のである。ウリエルは、「エノク書」に登場する見張りの天使のひとりで――といっても堕天使で
はなく、堕天使を罰するために地上に送り込まれたほうである。
「エノク書」の中で、特に「天の輝きの書」と呼ばれている部分は、基本的に天文学の論文で
ある。「かの男たちは私を天の西方に上がらせ、そこで6つの大きな門を見せた。―-太陽は
東方の門から昇る回数と日数に従って、この西方の門から沈むのである――けだし主がこ
れらの門をおつくりになって、太陽を1年の時刻盤として示されているからである」
ナイトとロマスはこの部分を見て、ストーンヘンジを連想した。ストーンヘンジの立石とまぐさ石は、まさし
く石の門である。
1960年代初頭から、英国の天文学者ジェラルド・ホーキンズは、ストーンヘンジが石器時代のコンピュー
ターであり、日の出と月の出の位置を計算するために用いられたのではないかと考え始めた。
彼の「ストーンヘンジ解読」(1965)はただちにベストセラーとなり、現在では彼の説はおおむね
定説とされている。
ホーキンズによれば、ストーンヘンジの中央に立つと、日の出や月の出と向かい合うことができ、そ
してどの季節にどの印の背後から日や月が出るかを計算することができる。ロマスとナイトは、
ヨークシャーの丘の上に、「ウリエルの機会」を建造してみることにした。彼らは何度もその中心に立
って繰り返し日の出や日の入りを観測し、印をつけていった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%98%E3%83%B3%E3%82%B8 ストーンヘンジ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E7%9F%B3%E8%A8%98%E5%BF%B5%E7%89%A9 こうして1年後、対面する二組の柱の円い列ができた。その結果、彼らは――古代のストーンヘ
ンジ建造者たちと同様――1年が正確に分点と至点によって4分割されるわけではない、と
いうことを知った。地球の公転軌道は長円形なので、冬至から夏至までは182日、夏至
から冬至までは183日となったのである。春分と秋分についても、同様の不均衡が見ら
れた。
87 :
,:2008/06/22(日) 19:45:59
考古学者アレクサンダー・トム教授は、巨石建造者たちが「メガリシック・ヤード」と呼ばれる単位を用い
ていたことを明らかにしている。その長さは32・64インチ(約82・9センチ)だが、
これは本来16・32インチ(約41・5センチ)であったものを、トムが現在のヤードに近づ
けるために意図的に2倍にしたものである。ロマスとナイトは、トムさえ不可能だったこの単位の
意味を解き明かすことに成功した。
ロマスとナイトによれば、この「機会」は1年の長さを366日としている。そのため、1日を
366分の一ずつ短くしているのだ。巨石の配置もそれに合わせた結果、ある星が一つの
柱から次に移るのに3・93分かかる。巨石の建造者たちは振り子を時計代わりに用いてい
たが、振り子の周期は紐の長さによって変わる。そして3・93分の間に3・66回振動さ
せるために必要な紐の長さは、ぴったり16・32インチなのだ。
「ウリエルの機会」は、単に日の出や月の出の計算機としてのみならず、水星観測のための天
文台としても用いられていた。つまり、彗星が地球に衝突するかどうかを判断することが
できたのである。言い換えれば、古代人は「ウリエルの機会」を災害予測機として用いていた
ということだ。
フレマスも彼らの意見に全面的に賛同するが、それに加えて、それは地球内部の動きを観測す
るために星の位置を用いたのではないか、と考えている。つまり、一種の古代の地震計の
ようなもので、地殻移動の予想に用いられていたのだ、と。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E6%AE%BB%E5%A4%89%E5%8B%95 地殻
88 :
,:2008/06/22(日) 20:05:32
フレマスによれば、「エノク書」の第65章において、大洪水の前に重要な地質学的イヴェントが起こ
ったという。
「そのころ、ノアは土地がへこんで、その滅亡が近くなったのを見た」
そこでエノクは、来るべき世界的な破滅をノアに伝えるよう、天子に命じた。
「行ってノアに報せよ、終わりが近づきつつあることを、全地は滅ぼされる。余地は大洪水
で覆われ、その上にあるすべてのものは滅ぼされる」
北半球に5度および10度の間隔で配置されている聖地の位置は、地球内部の地質学的変
化をモニターするのに理想的ではないだろうか。すでに見たように、大洪水の前、エノクは天使た
ちが紐を持って測量するために北へ飛んでいくのを観察している。北緯0度、15度、3
0度などの「天文台」で集められたかず多くのデーターを照合すれば、アトランティス人は地殻移動
の方向を査定することができただろう。また、もにも地球内部のマントルが移動し始めると、
星が出現する位置が変わり、「ウリエルの機会」はその変化を補足する。そして神官は、何か恐
ろしいことが起きつつあるのを知る、というわけだ。
私は、このフレマスの考えについて、ロマスに問い合わせてみた。ロマスもまたフレマスに賛同した。そ
して彼によれば、その目的のためには、12個の一等星を観測すれば事足りるという。ロマス
とナイトは、フリーメーソンリーの研究の結果、天文学と幾何学に並んで地質学もまた古の学であった
と考えている。ゆえに、アトランティス人が火の災厄を予知するために天界を観測したというフレマス
の考えは、彼らにとって同意できるものであった。そしてふたりは、この破局の原因は彗
星の衝突であったと考えている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC クレーター
89 :
,:2008/06/22(日) 20:23:32
カルサグ叙事詩には、巨大な災厄が「文明提供者」たちを散り散りにしたと書かれているが、
その災厄の原因は何だったのだろうか。先に述べたように、不意に氷河期が再来したのだ
ろうか。そうかもしれない。だが実際には、人類は10万年以上もの間、氷河期を生き抜
いてきたのである。アトランティス人ともあろうものが、「越冬」の技術を持たなかったというの
は、いかにも奇妙だ。
だがこの氷河期が、例えば彗星の衝突のような災厄によってもたらされたとしたらどうだ
ろう。もしそうなら、われわれはそれをプラトンのアトランティスに当てはめる必要がある。なぜな
ら、天文学者ビル・ネイピアの唱えたもっと最近の破局(紀元前2200年)は、古代シュメールよ
りもかなり後、カルサグ叙事詩が書かれたよりも後に起こったのだろうから。災厄が紀元前9
500年に起こったとすれば、「エデンの園」時代はそれよりも遥か以前に始まったというこ
とになる。
アンドルー・コリンズは、これについて面白いことを述べている。オブライエンは「エデンは現在のレバノン、
シリア、イスラエルの山岳地帯にあった」としているが、コリンズはこれに全面的に賛同しているわけ
ではない。オブライエンの論拠は、見張りの天使が天下った地点がダマスコの近くのヘルエン山である
という「エノク書」の記述だが、エデンの場所については決定的な記述はない。だがコリンズの発
見した紀元前3000年期のアッカドの文書によれば、聖なる山「カルサグ・クラ」はクルディスタンに
あったらしいという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%87%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%9C%92 エデンの園
90 :
,:2008/06/22(日) 20:38:42
91 :
,:2008/06/22(日) 20:40:12
だが果たしてこれだけのものを、キリスト教徒が、しまもイスラム教徒から身を隠すため
に造ったというのはどうだろうか。2万人もの人間のために食料はどうしていたのか。こ
んなところに身を隠すなんて、それこそ袋のねずみではないのか。
こんな地下に都市を築く理由はただ一つ、地上の温度から逃れるため以外にはないはずだ。
暑い夏も寒い冬も、地下の温度はほぼ摂氏8度で一定している。コリンズによれば、トルコ一帯
は紀元前9千年期に、500年ほど続く小氷期に見舞われたという。もしそうなら、地下
都市はその間の避難場所として最適だ。
地元の考古学者オメル・デミルによれば、この地下都市の最古の部分は、旧石器時代である紀元
前8500年に遡るという。というのも、古い部分は金属ではなく、石器によって堀削さ
れているからだ。しかもこれを造った人間は2種類おり、最古の部分を作ったものたちは
もう一方より遥かに背が高かったという――すなわち、天井を異常に高く造っているのだ。
【カッパドキアの地下構造。最大のもので2万人を収容できるというから、これはまさに地下
都市といってもいいだろう。
迷路のように造られた通路の一部。金網がかぶせてある部分は穴。
カッパドキアの地下都市の構造図。何層にも分かれた計画的な構造物であることが分かる。】
92 :
,:2008/06/22(日) 20:53:35
すでに見たように、カルサグ共同体の崩壊はオブライエンの考えているよりもかなり早かった――
すなわち紀元前1万年以前であった、という可能性がある。オブライエンはカルサグの創設を紀元
前8200年ごろとしているが、それはそのころその周りにヒマラヤスギがあったからである。
だがもし、カルサグの場所がレバノンではなかったとしたら、この年代推定は根拠を失う。もし
もカルサグが紀元前9000年の災厄に襲われていたのなら、そしてそれ以前に2000年も
の間繁栄したのなら、その創設の時期は紀元前1万1500年ごろとなるだろう。
地下都市の建設もこの頃に始まったというのは、ありえない話だろうか?コリンズが紹介して
いるペルシアの伝説によれば、イマという名の羊飼いが、「ヴァー」(地下都市、もしくは砦)の建
設を神から命じられる。悪霊のもたらす冷気から人や動物を守るためである。そして20
00人の人間がその都市に入れられる。
この伝説は、カッパドキアの地下都市のことだろうか?カッパドキアとクルディスタンには強い結びつき
があり、クルディスタンとペルシアもまたそうである。後者の場合、これらの地下都市と、先の氷河
期の終わりとの間の関係が論証できることになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3 クルディスタン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A2 ペルシア
それに続いて、当時の地球はもう一つの災厄に襲われた。彗星である。それは「7つの燃
える山々」に分裂し、未曾有の洪水、世界規模の火山活動を引き起こした。コリンズによれば、
「エノク書」の死海文書版には、この災厄が繁栄されている。そこでは、堕天した見張りの天
使たちは、最終的に「火、ナフサ、硫黄」によって滅ぼされることになっている。
93 :
,:2008/06/22(日) 21:12:39
94 :
,:2008/06/22(日) 21:30:59
このテキストが賢人について述べるときの文脈には、注目すべき点がある。文脈には「洪水」
のイメージが頻繁に出てくるが、この「最初の水」(そこから偉大なる原初の丘が姿を現した)
がゆっくりと引いていく姿が描かれているのだ。原初の洪水の中で、ノアの箱舟は山の頂に
停泊する。古代バビロニアの「7賢人」(Apkallu)は、伝承によると洪水の前の時代を生
きたとされ、聖なる都ウルクの壁を建設したといわれる。さらに、インドの伝承では「7賢人」
(Rishis)が洪水で生き残り、洪水以前の世界の知恵を後世の人々に残そうとしたとある。
これは偶然の一致なのだろうか?いずれの場合も、賢人たちは大洪水を生き抜いた高い文
明を持つ人々とされ、新しい時代の夜明けに、新たなる出発をしている。
ハンコックによれば、7賢人は洪水で滅びた島からやってきて、エジプトに行った。その島の住民
のほとんどはその洪水で死んだという。この島はディルムンと呼ばれ、シュメールやアッカドの神話に
登場する。これはエデンの園に極めてよく似たパラダイスである。
エドフ・テキストとピラミッド・テキストによれば、この7賢人は「ホルスに従う者Shemsu Hor」と呼ば
れている。そして彼らは、大災厄の後に世界を立て直したという。これらはいずれも中東
という狭い範囲内の話なので、エジプトの7賢人がカルサグの7評議会である可能性は低くはな
いだろう。オブライエンもコリンズも、中東のいくつかの聖地が「輝く者立ち」とのつながりを持
っていることを認識している――バールベック、レバノンのピュブロスとエーディン、イェルサレムの近くのイェリ
コ、トルコのチャタル・ヒュユク、エジプトのエドフ、そして古代シュメールのニップールである。これに関して、フレ
マスは次のように述べている――。
95 :
,:2008/06/22(日) 21:33:01
96 :
,:2008/06/22(日) 21:36:15