675 :
送り火(0/4) すう ◆VZpO0svMyk :
四辻に立つ電灯が青い稲田を足元だけ丸く切り取って浮かび上がらせていた。
小さな黄色い光は遠く神社まで続く道を照らすほどに強くない。不躾にチカチカと
またたくパチンコ店の明かりは夜中になっても消えることなく、家々の窓から光が
漏れているが、田舎のこの侘しさはどうしたことだろう。
由宇子は実家に戻るたびに夜の暗さを不思議に思う。向こうではどんなに都心
から離れていもこれほど暗く感じたことがない。
大気は湿気て暑かったが、夜ともなれば風も涼しく心地よかった。由宇子は昼の
間に掃き清めた玄関に防火用の水の入ったバケツを運んだ。それから乾いた
苧殻(おがら)を重ねてマッチを擦った。
由宇子が実家に帰ってきたのは昨日の遅くのことで、それから今日一日は
盆の準備をしていた。仏壇を清めて菊花を飾り、母の写真にいつの間にか
うっすらと付いた埃を払う。
その写真は姉の披露宴の最後に撮られたもので、笑みを浮かべているけれど、
泣きそうだったのを知っている。なので由宇子はその写真を見ると母が笑って
いるのか泣いているのか確かめようとしてしまう。見るたびに母の表情は変わり、
不甲斐ない自分を怒ったり泣いたりしているかに見えて由宇子は不安に駆られる。
遺影は墓よりも位牌よりも故人を感じられて、それが一年経った頃に色褪せ始め、
そして今は埃が付いていることを奇妙に思う。何とはなしにこの遺影には埃など
付かないと思い込んでいたからだ。
母が死んでから由宇子はいつの間にか一つの現実から抜け出て、別の現実に
入ってしまっていた。死後もう何年も経つのに由宇子はいまだその中にいる。
もしかすると母が病室にいたときからすでに由宇子の世界は変わり始めていた
かもしれない。迷信深い土地に育ち、思春期を過ぎても長く母に依存していた
由宇子は母を亡くしたことで、かえって現実感を失った。
最後に病室で母と会話を交わしたのは由宇子だ。
それは八月十三日のことで、広い一人部屋は奇妙に暑かった。母は暑いと訴え、
由宇子も落ち着かずに空調を下げたりナースステーションに頼みに行ったりしたが、
室内はじっとりと暑いままだった。
せめてもと雑誌でぱたぱたと母を扇いでいたが、どうにもならない流れを感じていた。
暑さは単なる肉体的なものではなく、空気は圧迫されるように重く、今まで表面上
だけでも静かに保っていた均衡が破られようとしていることに気付いていた。
午後も半ば、母が
「先生、呼んできて」
と言った。由宇子は慌てて人を呼び、看護士たちがばたばたと母のベッドを
取り囲むのを、母が自分の元を離れていくのをぼんやり突っ立って見ていた。
そのまま母は意識を失い、それが最期の言葉となった。
それからどうやって家族に連絡したのか由宇子は思い出せない。記憶は
ところどころ鮮明で一生忘れることもないと思われるのに、いざ一つ一つを
思い返していくと抜け落ちているところがある。
そして次の日の夕方に母は死んだ。少し休みなさい、と父に言われて家に戻り、
張り詰めていた肩の力をふっと抜いたそのとき病院から連絡があった。
あのとき力を抜かずに張り詰めたままだったら、母はまだ生きていただろうかと
あとになって罪悪感を覚えたことがあった。いや、母が死んだからこそ力が
抜けたのかもしれないと考え納得し、そんなふうに次第に次第に違う理のなかに
入っていった。
それは誰かと共有できるものでもなく、論じられるものでもなく、また由宇子も
望まなかったので、魂の存在はただ彼女が感じるままのものであり、そうあって
ほしいと思うままのものだった。
由宇子は祖母からひとだまを見たと聞いたことがある。
隣の家の老人が死んだ夜に、その家から出てちょうど電線のあたりにひとだまが
浮いているのを見たと。由宇子はその話を面白いと思ったが、ありふれた怪談の
類だとも内心思っていた。
乾いた苧殻はパチパチ弾けてまぶしく燃え始める。その音は松明よりも鋭く、炎の
激しさに驚かされるが、夏の生い茂る庭木の前では頼りない。
先祖の霊を導くという火は庭木や塀も通して、可視には関わらないのだろうかと
由宇子は思った。他にいくつもの火があっても、ただ一つだけ、その家の火だけを
頼りに帰るのだろうか、とも。
暗闇に目を凝らすと、炎の影がちろちろと残って人の魂のように思われる。
以上です。
暗い話ですが、どうぞよろしく。